衆議院

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第5号 平成16年4月8日(木曜日)

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平成十六年四月八日(木曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 小野 晋也君 幹事 近藤 基彦君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 保岡 興治君 幹事 鈴木 克昌君

   幹事 仙谷 由人君 幹事 山花 郁夫君

   幹事 赤松 正雄君

      伊藤 公介君    岩永 峯一君

      大村 秀章君    倉田 雅年君

      河野 太郎君    下村 博文君

      杉浦 正健君    棚橋 泰文君

      渡海紀三朗君    中谷  元君

      永岡 洋治君    平井 卓也君

      平沼 赳夫君    二田 孝治君

      松野 博一君    森岡 正宏君

      森山 眞弓君    綿貫 民輔君

      伊藤 忠治君    大出  彰君

      鹿野 道彦君    楠田 大蔵君

      玄葉光一郎君    園田 康博君

      田中眞紀子君    武正 公一君

      辻   惠君    計屋 圭宏君

      古本伸一郎君    増子 輝彦君

      村越 祐民君    笠  浩史君

      太田 昭宏君    山口 富男君

      土井たか子君

    …………………………………

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

三月二十五日

 辞任         補欠選任

  武正 公一君     松本 剛明君

  土井たか子君     東門美津子君

同日

 辞任         補欠選任

  松本 剛明君     武正 公一君

  東門美津子君     土井たか子君

四月一日

 辞任         補欠選任

  木下  厚君     津村 啓介君

同日

 辞任         補欠選任

  津村 啓介君     木下  厚君

同月八日

 辞任         補欠選任

  古川 元久君     古本伸一郎君

同日

 辞任         補欠選任

  古本伸一郎君     古川 元久君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 参考人出頭要求に関する件

 日本国憲法に関する件

 小委員長からの報告聴取


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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 この際、参考人出頭要求に関する件についてお諮りいたします。

 日本国憲法に関する件、特に科学技術の進歩と憲法について調査のため、来る十五日、参考人として元早稲田大学教授、早稲田大学国際バイオエシックス・バイオ法研究所元所長木村利人君の出席を求め、意見を聴取いたしたいと存じますが、御異議ございませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

     ――――◇―――――

中山会長 日本国憲法に関する件について調査を進めます。

 本日は、各小委員会において調査されたテーマについて、小委員長からの報告を聴取し、委員間の討議に付したいと存じます。

 議事の進め方でありますが、小委員会ごとに、まず小委員長の報告を聴取し、その後、そのテーマについて自由討議を行います。

 なお、各テーマごとの自由討議における最初の発言者については、幹事会の協議決定に基づき、会長より指名させていただきます。

 自由討議の際の一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

    ―――――――――――――

中山会長 それでは、まず、憲法保障について、最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員長から、去る三月二十五日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員長保岡興治君。

保岡委員 最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。

 本小委員会は、三月二十五日に会議を開き、最高裁判所当局の出席を求め、また、参考人として、北海道大学大学院法学研究科教授笹田栄司君をお呼びし、憲法保障、特に、憲法裁判制度及び最高裁判所の役割について、最高裁判所当局の説明及び参考人の御意見を聴取いたしました。

 会議における最高裁判所当局の説明及び参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、

 最高裁判所当局からは、

 まず、最高裁判所の事件処理体制について説明があり、その中で、最高裁判所の裁判官は、一人当たり年間約二千件の事件に関与していることから、多忙であることは否めないが、平成十年の民事訴訟法の改正による上告制度の整備が最高裁判所の裁判官の負担軽減に寄与しており、また、憲法問題については、事柄の重大性からして、多忙であるがゆえに必要な判断ができないことはないと言ってよいであろうとの見解が示されました。

 次いで、最高裁判所の裁判官の選任、裁判所の人的、物的態勢及び裁判官の独立の保障についての説明がなされ、司法制度を予算面から諸外国と対比して見ることは、制度が大きく異なる等の理由から、必ずしも有効な方法とは言えないと思われ、むしろ、司法制度の機能については、一つ一つの法の要請が十分に果たされているか否かといった分析、検討が不可欠であること、二割司法という議論は極めて実証性の乏しい議論であり、この用語にとらわれることは必ずしも適当ではないが、司法制度を国民がより利用しやすく、頼りがいのあるものとするため、充実強化を図らなければならないということは、今回の司法制度改革を支える大きな思想であり、この観点から、真に国民のためになる改革を実現していく必要があることなどが述べられました。

 続いて、笹田参考人からは、

 最高裁判所に対する現状認識として、多くの上告事件を抱えていること、大法廷への回付が少ないこと、これまでに出された法令違憲判決は五種六件のみであること、憲法規定を正面に押し出すことなく、法律レベルで解決を図るケースがあること、憲法裁判の前提となる裁判を受ける権利の保障に関しては、判例理論のレベルが昭和三十五年以降停滞していることが示された後、我が国の最高裁判所判事の任用資格について比較法的に見た特徴及び違憲審査制が活性化しない原因が述べられました。

 その上で、最高裁判所への上告制限、憲法裁判所設置論、カナダの参照意見制度などの違憲審査制活性化のためのさまざまな試みについての評価及び最高裁判所の上告審機能と違憲審査機能とを分離するという独自の機構改革案についての説明がなされました。

 また、違憲審査制が停滞している現状については、立法による最高裁判所の改革を図ることが必要であり、最高裁判所の機構改革による大幅な負担軽減を前提とした最高裁判所裁判官任命諮問委員会の設置及び最高裁判所裁判官国民審査制の改革など、複合的なプランが考えられるべきであるとの意見が述べられました。

 このような最高裁判所当局の説明及び参考人の御意見を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われ、委員、最高裁判所当局及び参考人の間で活発な意見の交換が行われました。

 そこにおいて表明された意見を小委員長として総括すれば、

 憲法保障の最も有効な手段とされる違憲審査制を活性化させるためには、司法を健全に機能させることが不可欠であることについては、各会派に共通の認識であったと思われます。ただし、司法制度をどのように改革していくのか、特に憲法裁判所を設置すべきか否かについては、なお議論が必要であると考えられます。

 自由討議においては、人権保障の充実のためにはオンブズマンなどの準司法機関の設置も検討すべきことなどが述べられましたが、今後は、このような意見を踏まえつつ、より一層人権保障の充実に向けた議論を行ってまいりたいと感じた次第です。

 以上、御報告申し上げます。

中山会長 これより、憲法保障、特に、憲法裁判制度及び最高裁判所の役割について自由討議を行います。

 それでは、まず、計屋圭宏君。

計屋委員 私は、民主党の計屋圭宏でございます。

 最高裁判所の問題点と憲法裁判所について述べたいと思います。

 先般、笹田参考人から、最高裁の機構改革によって違憲審査の活性化を図る方が我が国は望ましいというふうな発言があったわけでございますけれども、私は、機構改革だけで違憲審査というものが憲法判断できるというふうには考えておりません。具体的争訟事件が存在しないときは、憲法判断はできないのが今の最高裁の特徴であります。

 昨日、小泉首相の靖国参拝違憲判決が出たわけでございますけれども、靖国神社に参拝して、それで訴訟が起きて、そして判決が出る、そういったふうな後手というか消極的な判決じゃなくて、やはり憲法に関して判断するところがしっかりとあって、そしてその判断に基づいて行動すれば、こういったふうなことは起きない、こういうふうに考えております。

 現行憲法下では、憲法の番人としての積極的な役割を期待することは機構として無理な面があり、具体的事件が起きない限り、積極的に合憲、違憲の判断をする機関としての役割を果たす機構がないというところに問題があるわけだと思います。

 それから、二つ目でございますけれども、国会、内閣による憲法のなし崩し的な拡大解釈であります。

 例えば、憲法九条でございますけれども、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」というふうにあるわけでございますけれども、現実に自衛隊が存在しているという問題だとか、あるいはまた、選挙においても一票の格差というのが選挙が終わった後に判断されて、それが効果を発していかないという現状があるわけです。ですから、このように、最高裁は、違憲判断が出てもその法律が世間一般に無効となるものではない点があり、限界があると思います。

 以上のように、最高裁は、憲法判断は機構として無理があると思います。

 したがって、日本もドイツやアメリカのように憲法裁判所を設け、憲法裁判所による判決によって事前に具体的争訟事件がなくても合憲か違憲であるか確認することができる、もし違憲判決の場合、違憲状況を解消させるため、国会が当該憲法自体の改正を必要としたならば、その改正作業を進めることができるわけでございます。

 以上です。

中山会長 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 最高裁判所の役割には、いわゆる最終の上告審としての役割と憲法に違反する法令あるいは判決を審査する、そういう二つの役割を担っているわけでありますが、先日の委員会におきましても、最高裁判所の当局からもおいでをいただき現状を御報告いただきましたが、やはりどうしても上告審の役割の方に偏ってしまう。たしか平成十年に民事訴訟法の改正が行われ、いわゆる上告制限というものが一部実施されることとなりました。このことで上告審の処理案件はやや減少したと数字にはあらわれておりますけれども、根本的な解決にはなっていない。これがやはり違憲審査の少ない、あるいは違憲審査に最高裁が割く時間が足りないという大きな理由であると私は考えております。

 したがって、今後やはり、違憲審査をきちんとした形で行っていくために、何らかの機構改革は私は必至であると思います。ただ、機構改革といいましても、これまでもさまざまな議論がなされ、また、先日の委員会におきましても幾つかの提案がございました。

 一つは、憲法裁判所。最高裁とは別に憲法裁判所をつくり、そこで専ら違憲審査を行うということではいかがだろうか、こういう議論であります。

 これも極めて有力な考えだと思うんですけれども、違憲審査というものを独立させる、あるいはそれを専ら議論する場所をつくるということは、確かに違憲審査の案件がふえることにもつながるかもしれませんが、個々の事件とのかかわりが薄くなる、つまり、事件との乖離が起こってしまう、抽象論に陥ってしまうという危険があるのかないのか。あるいは、憲法裁判所における裁判が、これはもう当然のことなのかもしれませんが、政治的な要素を当然含んでしまうのではないか、あるいは裁判自体が長期化をするのではないか。憲法裁判所を設置するにおいても、私は、幾つかの解決すべき課題あるいは障害があるなというふうに率直に感じた次第でございます。

 また、より現実的な機構改革としては、現在の最高裁判所の中に、憲法を専ら扱う、違憲審査を専ら行う部門、憲法部というふうに言っている場合もありますけれども、そういう部門をつくるか、あるいは最高裁判所の一つ手前に特別高等裁判所というものを設置して、一般の上告事件についてはこの特別高等裁判所でまず審議をし、憲法違反あるいは違憲問題、こういうことについては特別高裁から最高裁に上げていく、こういうことで実質的に最高裁判所を、違憲審査のみを行う、このような形にしてはどうか、このような現実的な解決策も示されたところでございます。

 私は、いろいろ議論を聞いておりまして、この特別高裁制度というようなものが非常に現状に即したものではないか、あるいは違憲審査というそのやり方においても、個々の事件とのかかわりの上においてそれができる、保障がそこへできるのではないかな、このように考えております。

 私自身、明確な結論を出したつもりではございませんけれども、一つの有力な機構改革の一アイデアとして大事なものではないかなというふうに感じております。

 以上でございます。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 先日の小委員会で、私、発言しましたけれども、今の日本の司法の最大の問題点は司法の独立の弱さにあると思います。この点については、当日の自由討論でも詳しく述べたところです。きょうは、憲法裁判所が問題になっておりますので、少し憲法裁判所について述べてみたいと思うんです。

 調査会でも、この問題はテーマとしてかなり論じられてきた問題だと思います。そして、参考人の多くが、日本における憲法裁判所の導入については基本的に消極的な姿勢が多数だったということも間違いない事実だと思うんです。私も、憲法裁判所の導入については消極的あるいは否定的立場に立つんですけれども、そこには大きく二つの問題を背景にそういう立場をとっております。

 第一は、日本国憲法が定める違憲審査制の問題なんですけれども、これが十分に動いていないじゃないかという批判は、私は、司法の独立の弱さとのかかわりで当然出てくる批判だと思うんです。この違憲審査制を考えますと、世界では一九七〇年代以降、違憲審査制革命と呼ばれるように、各国で、法体系やいろいろ起きてくる問題が憲法とのかかわりで本当に大丈夫かという議論が非常に盛んになりました。それにはやはり、人権の保障ですとかさまざまな各国ごとの背景があったとは思いますけれども、日本国憲法の場合は、世界と比べても比較的早い時期に、アメリカの違憲審査制に倣ってその制度を憲法上設けたわけです。

 これは、結局、人権の保障という問題が具体的な問題の中で衝突があらわれてまいりますから、それについての判断というのを個別の具体的な事例の中で裁判所が一つ一つ行っていくということがありますし、何よりも憲法七十六条が、「裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」というふうになっておりますように、下級審から始まりまして、裁判官自身が憲法をよく勉強して解釈し現実を見る、そういう力を持つこと、やはりそういう志の高い裁判官と、いわば司法官僚制と言われるような現状があるわけですけれども、そういうものに対して独立して憲法の立場で判断する力を持つ、そういう裁判官が日本の場合は求められていると思います。

 昨日、福岡の地裁で、小泉首相の靖国参拝については、これは憲法二十条に違反するという明確な違憲判断が出たわけですけれども、私は、引き続きこの違憲審査制の活性化という方向こそ探求されるべきだというふうに考えております。

 もう一つの角度は、アメリカの場合は、連邦レベルでは憲法裁判所はありません、ドイツはあるわけですけれども。しかし、各国ごとに憲法裁判所についても導入の経過がやはり違う。

 私は、ドイツへの調査には参加しておりませんが、文献で読む限り、ドイツで憲法裁判所が導入された経過というのは、ナチスの時代にいわば立法府は解体されちゃいますけれども、悪法によってワイマール憲法の憲法秩序が壊されてしまうわけですね。それを司法自身が担ってしまうという経過があって、司法の戦争責任が非常に問われて、基本的にナチス時代の司法関係者は一掃される。そういうもとで、たとえ法の分野から憲法の破壊が起こったとしても、きちんと憲法裁判所として憲法秩序を守り抜くという歴史的な背景があって、ドイツの場合はあえて憲法裁判所という独自の制度を導入してきたという歴史的経過があります。

 しかも、ドイツの場合は、裁判官はデモもストライキもやりますし、大変独立がきちんとしているところですから、日本の場合、今の最高裁の現状から見ても、では、憲法改正までして憲法裁判所を設けてそれで機能するかというと、とてもそうは考えられないというのがこの間の参考人が繰り返し述べられた消極姿勢の大きな背景にあったんじゃないかというふうに思います。

 以上、憲法裁判所をめぐっては、違憲審査制の日本での活性化の問題、それから、各国ごとの導入の経過が違いますから、憲法裁判所の導入については否定的であるということを申し述べて発言にしたいと思います。

棚橋委員 自由民主党の棚橋泰文でございます。

 私は、憲法裁判所の議論あるいは憲法裁判機能ないし制度の議論と、現行の最高裁あるいは我が国の司法制度のあり方については、個別性の原則、事件解決という観点からの司法の役割、それから、今これだけ憲法施行時と変わりまして、特に立法のあり方等についてもいろいろと議論が問われる中で、事件性とはかかわらない中での立法機能等の憲法に対する適合性の判断、こういったものがなされるべきだという二つの要請に関して、このように議論を整理したらどうかと思っております。

 ある意味では統治機構のあり方の部分にも絡むわけでございますが、今の日本の司法制度は、もちろんいろいろと議論がございますし、現在の司法制度改革の中でさらによりよいものにしていくという方向で進んでいることは事実でございますが、しかし、世界的に見ても非常に高い機能を持っていると私は思っております。

 そういった中で、特に最高裁判所を頂点とする司法制度が、事件性の原則の前提の中で憲法を裁判する。そしてまた、原則として、司法機能は民主的な確定で選ばれたものではないがゆえに、事件性の解決以上にはこの部分について踏み込まないというような基本的な今までの司法のあり方というのは正しかったし、また正しいと私は思っています。

 しかし、一方で、特に法律の憲法適合性の議論あるいは行政行為の憲法適合性の議論、これに関して、事件性の原則とは必ずしもマッチしなくても判断がなされるべきではないかという要請がなされていることも事実でございます。

 その要請に関しては、三権分立ではあるけれども、非民主的な現在の司法機能に担ってもらうのよりも、むしろ、本来、後ほどの統治機構のあり方に関する小委員会の議論かもしれませんが、我が国の二院制の中で、衆議院と参議院がほぼ同じような権限を有しているという、比較的世界でも必ずしも多くない形のこの二院制のあり方を考えながら、一方の院を立法院に、そしてもう一方の院を立法行為の憲法適合性等の判断をする機能に、それを憲法裁判所と呼ぶかどうかは別にして、そういう形で整理していった方が適切ではないかという意見を持っておりますので、申し上げさせていただきたいと思います。

杉浦委員 この憲法裁判所の件につきましては、我が党に今設置されております憲法改正プロジェクトチームでも議論をしておるところでございます。

 我が党は、先回の選挙の公約で、自民党としての憲法改正草案を、立党五十周年、明年の十一月十五日までに準備するということを公約しておりますので、その趣旨に沿って党の憲法調査会の中に憲法改正PTが設置されておるわけであります。現時点では、参議院選挙までに論点整理を行おうということで、先週までに、前文から始まって百三条の全条章にわたる一応の議論を終えたところでございます。非常に活発に議論されております。

 その中で、憲法裁判所については多くの方が発言しておられますが、多数意見が設置すべきだという意見でございます。このことは、憲法全体の基本法としての構成に関連しておりまして、憲法改正条項ありますが、これについてはほとんど全員一致して改正すべきだと。今の硬性憲法を、改正しやすい内容に改正すべきだという点で一致しております。憲法裁判所の件はそのことと絡んでおりまして、憲法改正が国家、社会の変化に即応して柔軟に国会の手で発議され、国民投票によって改正されるということがない状態で憲法裁判所をつくるのは意味があるかどうかという議論と並行して出されております。

 今の状況で、現行憲法のままで憲法裁判所をつくるということは現実的に無理があり、つくった場合に、さまざまな問題を起こすだろうと思います。違憲判決が乱発される、しかし憲法は変えられない。社会の実態といいますか、どんどん変化しておるわけですから、そちらの方が変えられなければ、いや、憲法裁判所の判断が間違っておる、現実に即さないという場合に、では、憲法を変えるかということが当然起こってまいります。それが今の状況で非常に困難だという状況の中で、憲法裁判所を機構改革その他によってつくることは意味がないんじゃないかと私個人としても思っております。

 したがって、この問題は、今各党とも憲法改正の議論がなされておるようでありますが、その中で、今の憲法を、国家、社会の現実に沿って改正しやすい改正条項にするということと並行して、やっぱり憲法裁判所を、もう先進国の中の幾つかは採用しておりますが、導入することは非常に意味があるんじゃないかというふうに私も思いますし、今の我が党の論議を見ておりますと、そういう感じでございます。

 したがって、各党の憲法論議におかれまして、ぜひともこの憲法裁判所の設置については、我が党の中でもどこへどういう形で設置するかについては意見が分かれておるわけでありますが、十分に御検討をいただければありがたいというふうに思っている次第でございます。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 今も、自由民主党の杉浦委員から、自由民主党の中における、きょうのこの場でも一番最大の焦点になっております憲法裁判所の話について、党内論議が進められているというお話がございました。また、今憲法調査会における小委員会での議論は、先ほど船田筆頭幹事から整理をしていただきましたけれども、そういうふうな整理状況にあって、議論がこれから進められていくんだろうと思います。公明党におきましても、実は、毎週各条ごとの現行憲法についての審査を急ぎ進めているところでありますが、まさにきょう話題になっておりますこのテーマは、昨日の課題でもございました。

 私並びに私の党の中の多数意見は、先般の小委員会でも申し上げましたけれども、やはり憲法裁判所を、現行憲法あるいは憲法を改正してから、いずれにしても設けるという段階の前に、その議論の前に、やはり現状における最高裁判所のありようというものをしっかりと改革していくということが大事じゃないかという意見が多数でございます。

 中でも、先般参考人として出られた笹田参考人は、先ほど船田委員から話がありました特別高等裁判所の設置という案を出されておりましたけれども、私は、それよりもさらに前に、現在における最高裁判所の中に、いわゆる憲法部という名前で提案をされた立場の方がおりますけれども、いわゆる上告審としての役割と、それから違憲立法審査をやる部門とに分けて、まずそういう機構改革をやる。そんな中で、現実に余り十分な活動をされているとは思えない現在の最高裁判所の調査官の体制をしっかり充実させるといったふうなことをやって、そういう現行の仕組みの中での最高裁判所における違憲立法審査としての役割を主に担う憲法部のようなものを設けて、もちろんそれにも幾つかの課題というものがあるんでしょうけれども、そういう中から現実に問題に取り組んでいくということがより現状ではふさわしいのではないのかと。

 憲法裁判所を設けることによってのプラスマイナスはあるんでしょうけれども、やはり政争の具になってしまう。この憲法裁判所を設けることに伴うマイナスを考えた場合に、当面、現状の機構改革というものをしっかりやることが大事ではないのか、そういうふうな意見が我が党の中で多数でありますし、私自身も、先ほど申し上げたように、憲法部なら憲法部という格好でそういう当面する課題の対応をしていったらいい、そんなふうに思っているところでございます。

 以上です。

仙谷委員 仙谷でございます。

 昨日の福岡地方裁判所の小泉総理の靖国神社参拝に関する違憲判決というのは、非常に多岐にわたる問題を含んでいるというふうに思います。当然のことながら、小泉総理は、憲法九十九条によりまして、憲法尊重擁護の義務を負っていることは疑いもない事実でございます。一地方裁判所であろうといえども、裁判所が小泉総理の靖国参拝は憲法違反であると堂々たる判決を下したわけであります。

 私は、ある種、憲法裁判が、法律、制度あるいは政省令、条例、それに基づく政府、公務員の行為そのものを、それによって被害を受けたとか、具体的な被害ではなくて、本件のように抽象的な、いわば精神的な被害と構成をした裁判であるわけですが、ある種の具体的な事件という意味では、無理やりつくり上げた事件とも言えないわけではありません。しかし、日本の場合、こういう事件の、つまり訴訟物のつくり方をする以外に裁判所の判断を求められない、法的テクニックでこういう裁判を求めているわけであります。

 そういうある種の変形の裁判の中で、一地方裁判所が、請求は棄却しながら違憲判決を下す。そのことについて、違憲判決を下された政府は、多分控訴審でそれを訴える機会はないのでありましょう。そうだとすると、この地方裁判所の違憲判決が、政府の憲法尊重義務との関係において、どういう法律的な拘束力、効果をもたらすのか。考えてみれば、甚だ奇妙な結果になるはずであります。つまり、小泉総理は、一地方裁判所の一裁判官の判決だとして歯牙にもかけないで、これから靖国神社に参拝をし続けるのではないんでしょうか。

 ところが、ある種、一地方裁判所の判決といえども、違憲という極めて重い結論を下しているわけであります。当然のことながら、これは、政治問題としては、違憲、合憲論争が果てしなく続く。つまり、憲法を変えるか、小泉さんが靖国参拝をやめるか、どちらかの選択しか本来はないわけでありますが、これが、違憲説と、つまり、裁判所の違憲判断というのはある意味で残りますので、違憲という見解と、いや、そんなものはたかだか一裁判所の裁判官がやったことだからわしは関係ないというので、堂々とおやりになるんじゃないでしょうか。

 そうだとしますと、こういう法の支配の現状というのは、国民から見ればどうなるんでしょうか。いや、憲法は自分で解釈して自分で勝手に、裁判所が、一地方裁判所ごときが違憲と言おうと何しようと、踏みにじってもいいんだということを意味することにならないんでしょうか。私は、日本の相当多くの部面でこのような傾向があることを大変憂えておりまして、やはりどこかで決着をつけていく。

 先ほど杉浦先生のお話で、硬性憲法だから変えるんだとおっしゃるけれども、法律よりも最高法規性を持たせる憲法がそう軽々に変えられていいとも思いません。しかし、全く憲法を変えてはならないなどという態度もとりません。憲法裁判所なるものをしっかりとつくって、ここで判断をして決着をつけて、変えるべきは憲法も変える、あるいは、こういう憲法違反と目されるような行為についてはやめる、法律も廃止するというふうな、けじめのある法の支配をこれからつくっていかなければならないのではないか、そういうふうに考えております。

山花委員 民主党の山花郁夫でございます。

 二点ほど申し上げたいと思います。

 今仙谷委員からもお話がございましたが、我が国の付随的違憲審査制のもとでは、その違憲判決の効力というのは、個別の事案に関する限りで効力を持つものだと言われているわけで、そういった意味で、今まで違憲判決、法令違憲の判決もありましたけれども、実際は、適用の局面あるいは法令そのものの判断ではなくて、昨日のケースで申しますと、国家機関のある行為を縛る、そういう意味があったのかなと思います。

 ただ、そういった、つまり国家機関の行為を縛るということに対する例えば判決の効力というものを考えてみますと、あくまでもその具体的当該事件限りということであるとすると、一般の受けとめとは違って、実は効力としては非常に弱いのではないかと思いますし、また、そのことと関連をいたしまして、今仙谷委員からも昨日の訴えの訴訟物の構成の仕方についてのお話がありました。

 例えば今までも、私も議会に来て少し気になっているケースというのはありまして、去年のことですが、法務省入管局が読売新聞社に対して、その掲載した記事が憶測に基づくものであるので、もうこういう憶測に基づくものは二度と掲載しないよう厳重に抗議する、そういった抗議をしたケースがありました。委員会でもそれについていろいろな意見がありましたけれども、事前抑制の禁止の法理に触れるのではないかということであります。ただ、そのケースでも、憲法問題ではないかということで訴えを提起しようとしたときに、訴訟物をどう構成するのか。恐らく、これは相当難しいことだと思います。つまりは、疑いがある事実であったとしても、これは現行のもとでは提起することが極めて困難なケースだと思います。

 また、ことしに入りましてからも、ある新聞社が少し先行した記事を書いたということで、東京高検が二つの新聞社を出入り禁止にしました。このことによってその新聞社が、具体的に言いますと、遺伝子スパイ事件について高検の取材ができなかったということでその記事が書けなかったという事件、事件と申しましょうか、そういった案件がありました。このケースでも、国家機関のある行為が、これは憲法上やや問題があるのではないかと思いますが、それに対して、例えば、おかしいじゃないかと言って憲法問題として提起をすることは極めて困難ではないかと思います。

 そういったことからいたしましても、現行の司法権の系統に属するものではなく、あるいは具体的事件・争訟性ということを前提としないで憲法判断をするというシステムというものが必要なのではないかと思います。

 二点目ですが、そういったことではなくて、機構改革の方をという御意見も出ておりますけれども、それは実際なかなか容易なことではなくて、例えば、機構改革をすると言っても、それを企画立案する、法案提出というのは、これは法務省という役所になるのかなと思いますが、これは人事も改めろという話なのかもしれませんけれども、現在の法務省の中にも裁判官出身の方が随分たくさんいらっしゃって、民事局なんというのはほとんど、ほとんどと言うと言い過ぎかもしれませんけれども、裁判所出身のメンバーとなっております。

 結局、役所の人事からいっても、そういった出身の方で占められていたり、あるいは法案をつくる際には恐らく最高裁とも調整をするということをやるんでしょう。そういたしますと、なかなか抜本改革、機構改革をしようとしても、これは容易なことではなくて、もちろん不可能とは申しませんけれども、容易なことではありませんので、そういったことよりもやはり制度設計そのものを改めるということをしないことには、今の閉塞状況といいましょうか、そういったものは打開できないのではないか、このように考えております。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 私は、仙谷委員が提起されたこととの関係で発言したいんですが、先ほど、法の支配という問題を提起されました。私もその点は全く同じ考えを持っておりまして、昨日の福岡地裁の判決というのは、国を相手とした訴訟としては初めて、明確に、靖国への首相の参拝は違憲だというのを判断した非常に重い判決で、これはやはり、これを受けて小泉首相はきっぱり参拝をやめるべきだというふうに思うんです。

 それで、法の支配との関係でいいますと、我が国がとっている違憲審査制、いわばその源流になっておりますアメリカ憲法史の中で、一八〇三年にマーシャル判決というのがあって、そこで初めて、アメリカの場合、憲法に反するという事例を裁判所が判断したわけです。アメリカの憲法史上、法の支配というのがそこで初めて確立したと言われているんですね。やはり、それが一地方裁判所であっても、行政に対して、あなた方のやっていることは、これは憲法に反するんだということをきちんと判断した以上、それを受けとめるのが、法の支配の貫徹という点からいって非常に重要な問題だというふうに私も思います。

 それからもう一点は、憲法裁判所の問題で、私は、これは人権保障の問題ですから、硬性憲法、軟性憲法という憲法改正論の角度からこの問題に接近すると、やはり違憲審査制や憲法裁判所を各国が設けている意味が、把握という点ではきちんと把握できないのではないか、そういう接近はすべきじゃないというふうに考えています。

小野委員 先ほど来の議論について、私の方からも一言申し上げさせていただきたいと思います。

 福岡地裁の小泉総理の靖国参拝に対する違憲判決の件でございますが、これは、判決文を読んでいないものですから、どの点がどう違憲と判断されたか十分承知しておりませんけれども、ただ、今までの議論をお伺いしている限り、まだまだこの議論は未成熟の議論であると言わざるを得ないと思っております。

 例えば、先ほど来、仙谷委員を初めとしまして、地裁といえどもこういう違憲判決が出たんだから、すぐに小泉総理は靖国参拝を取りやめるべきであるというふうなことを言われておりますけれども、ならば、この地裁の判断が逆であったらどうなんだろう。これを違憲としないというふうな判断をしたときに、原告団に対して、地裁といえどもこういう判断が出されたのだから、原告団はもう上告をすることをあきらめて、もうあっさりと裁判をやめるべきである、こういうふうに皆さん方が言われるのかというと、恐らくそういう言い方はされない。

 ということになりますならば、政府のみに対して憲法を厳しく当てはめて、そして、そうでない原告団に対しては憲法の解釈を違う解釈をしようとする、こういうダブルスタンダードが許されては憲法というものの権威が損なわれてくるわけでありますから、そのあたりは、裁判制度のもとに基づいてこの問題が提起をされ裁判が行われているわけでありますから、きちんとした手続を尊重する立場から我々は見守るべき問題であるということを、まず一点、提起しておきたいと思います。

 それから二点目は、この種のあいまいな解釈が現実にあるという問題に対して、我々国会は何をなすべきかという問題でございます。

 憲法そのものに非常に、その個別の問題に対してあいまいなものを残しているとするならば、一つの方法は憲法改正の問題、今杉浦先生からも提起をされましたが、そのような両面の解釈を許すような憲法を国家の基本的な法として置いておくこと自身を改める努力をするというのが、一つの方法として当然の国会の責務だと私は思います。

 それからもう一つは、前回の会合でもお話を申し上げましたが、これが違憲であるということを言われるのならば、なぜそれを主張される皆さん方が堂々と、総理は靖国神社に参拝してはならないという法律を皆さん方から出されて、法律の形でそれを規定する努力を国会として行わないのか。そこできちんとした議論を行って、それでその解釈を確定していくという努力を国会として行うことも一つの責任ではないかと私は考えている次第でございまして、このあたりに、憲法というものを自分の都合のいいように解釈をして、そうでなければおかしいと論ずるような形で憲法の権威を損なってきたこれまでの日本の政治の歴史を改めて振り返りながら、憲法改正の議論をきちんと行うべきだと私は考えている次第であります。

中山会長 委員の皆様に申し上げます。

 予定の時間もございますので、御発言は、現在プレートをお立ていただいている杉浦君、永岡君、森岡君、仙谷君までとさせていただきたいと存じます。

杉浦委員 仙谷委員がおっしゃった違憲判断について、事件性を排除して、国民のだれもが法令とか国家の行為が違憲だということを申し立てられる場所が必要だ、そういう意味で憲法裁判所が必要だという点では同意見であります。今の最高裁、司法のあり方は、事件性を要件としておりますから、国民が、だれもが違憲だといって申し立てられたら、判断を回避するということになると思うんです。

 その上で、この靖国問題に触れられたので言うんですが、今の憲法が、総理、閣僚等が宗教施設に参拝すること自体を違憲だとしているかどうか、私はしていないと思うんですね。宗教行為、参拝というのは宗教行為になるのか。例えば教会だとかお寺だとか、神道といっても氏神様もありますね。私が閣僚になれば、ふるさとへ帰れば、自分の部落にある氏神様に参拝しますよ。だんな寺に行きます。そういう参拝する行為そのものを憲法が宗教行為として禁止しておるというのであれば、私は、憲法を改正すべきだと思うんです。そういうあいまいな判断がされるような憲法であってはならないと思っております。

 そういう趣旨で、私は、今の憲法を変えるためには、もうほとんど改正不可能な硬性憲法ですから、総理の行為が妥当だということであれば、妥当なように憲法を変える、これは国会が発議するわけですから、発議しやすいように、国民が判断しやすいように変えるべきだというのが私の考えでございます。

永岡委員 自民党の永岡洋治でございます。

 重複を避けながら御意見を申し上げたいと思うんですが、小泉首相の靖国参拝の問題についていろいろ今議論がされておりますけれども、要するに、日本の今の政治の体制が三権分立になっていて、国権の最高機関の国会があり、行政があり、そして裁判所があるという関係の中で、司法の判断が、行政の継続性あるいは国益に関する高度な判断、そういうところに踏み込んできた場合に、それで行政の継続性が損なわれる、あるいは国益に絡む高度な判断が損なわれるということについて今の憲法は予定をしていないと私は考えております。もちろん、三権分立の中での司法の役割は大きいわけでありますけれども、一裁判官の判断が国益とのバランスの中でどういう効果を持つかということは慎重に考えていくべき事柄であると思っております。

 それから、憲法裁判所を設置する問題について、私は、前向きに検討すべきだと思います。それはやはりいろいろな意味でチェック・アンド・バランスの仕組みというものを設けていった方がいいという意味でありますけれども、ただ、憲法裁判所を設ける場合にも、その判断にどういう効果を与えるかということについてはかなり深く検討しなければならないと思います。高度に政治的な問題に踏み込んで、抽象的な違憲判決をどんどんやっていくというようなことになりますと、これは大きな問題があるわけでありますから、機構としてのあり方の問題と、それからその判断についての効果をどう持たせるかという問題は、やはり分けて考えていくべきではないかと思っております。

 それから、重要な問題、先ほど杉浦先生もおっしゃっておりましたけれども、憲法の改正を硬直的にしておいて、憲法改正ができないままで、違憲立法についての権限を裁判所に強力に付与していくという考え方はやはり避けるべきではないかと思います。憲法を経済社会あるいはそこの国際情勢等に合わせまして変更できるという前提があって初めて、違憲立法というものの権限を強化していく、司法の判断を強化していくということが意味を持ってくるわけでありますから、憲法改正手続の問題を含めてこれは議論していくべき問題だと考えております。

 以上でございます。

森岡委員 自民党の森岡正宏でございます。

 先ほど来、仙谷幹事を初め、法の支配ということについて、昨日の福岡地裁の判決をめぐりましていろいろな御意見を開陳していただいておるわけでございますが、私も、いろいろな思いを持って少し発言をさせていただきたいと思うわけでございます。

 私は、法律家でもございませんし、難しい法律用語を使えるような人間ではないわけでございますが、きのうの判決を見まして、国民の一人といたしまして、なぜ、国家を代表する総理大臣が、国家のために命を落とした人に対して、それをお祭りしている神社に参ったらどうしていけないのか。一地方裁判所の判事が自分の私的な気持ちを判決という名をかりて真情を吐露した、そしてそれが判決になってあらわれた、それに対して控訴もできないというような仕組み自体が私はおかしいと思います。

 やはりこの問題は、マスコミでも報道されておりますように、国の内外に非常に大きな影響が及ぶ問題でございます。伊勢神宮に総理大臣が参拝される問題については、だれも何もおっしゃらない。しかし、国家のために命を落とした人たちのところへお参りすることだけが問題にされる。私は、これは、日本が占領下に置かれておったときに、占領軍が神道指令というものを出しまして、国家、政治と宗教というものをかたくなに切り離そうとした、その残像がまだ残っている状態が今の状態ではないかな、そんなふうに思っているわけでございまして、裁判官にもそういう影響がまだ残っているんだなというふうに思います。

 素朴な気持ちとして、国家を代表する機関の長たる者が、国家のために命を落とした人たちのところへ慰霊の誠をささげる、これは当然のことじゃないかな。外国でも、伝統的な宗教に基づいて国家のために命を落とした人たちをお祭りしている、そこへ大統領や総理大臣がお参りになる、当たり前のことでございます。それがどうして日本では許されないのか。それを一地方裁判所の判事の判断で、これはオーソライズされた、これは日本国の法が定めた、これによって総理大臣も従わなければならないのだ、これが法の支配なんだ、それはおかしいと思うわけでございます。

 そういう意味で、私は、先ほど来議論が出ております違憲判決について、やはり統合的に憲法判断というものをしっかりとできるような機構をつくるべきじゃないかな。それが、先ほど来お話が出ております憲法裁判所という形がいいのか、それとも最高裁に憲法部というものを設けるような形がいいのか、それは私にはわかりません。しかし、一地方裁判所の判事の私的な気持ちが判決というものに名をかりて吐露された、それが全部この日本国を支配してしまうんだ、これはおかしいじゃないか、私はそう思えてならないわけでございます。

 以上でございます。

仙谷委員 簡単に申し上げます。

 森岡先生のような御意見が出るから、例えば、小泉総理の靖国参拝について、合憲、違憲論争なり、あるいは考え方なり、政府が一見、あるいは一見でなくても、相当多数の国民から見れば、憲法を踏みにじった行為をへっちゃらで行うというふうな事態が生まれるのではないか。だから、一つ一つ決着をつけていく制度をつくったらどうでしょうかということが私の言いたかったことなんですよ。そこは御理解いただきたい。

 もう一つ申し上げておきたいのは、小野先生のお話でダブルスタンダードと。これは極めてゆゆしい発言だと私は思います。憲法九十九条になぜ国民と書いてないか。これはもう極めて明快なんじゃないんでしょうか。つまり、憲法は国家権力に対する猜疑の体系である。権力行使についての統制手段として憲法というものがつくられてきたという歴史的な経緯からして、平板に、あなた方が憲法を守らせるような法律をつくればいいんだ。そんな問題ではない。ダブルスタンダードというふうな言い方は全く当たらないと申し上げておきたいと存じます。

中山会長 それでは、これにて憲法保障、特に、憲法裁判制度及び最高裁判所の役割についての自由討議を終了いたします。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、非常事態と憲法について、安全保障及び国際協力等に関する調査小委員長から、去る三月二十五日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。安全保障及び国際協力等に関する調査小委員長近藤基彦君。

近藤(基)委員 安全保障及び国際協力等に関する調査小委員会における調査の経過及び概要について御報告申し上げます。

 本小委員会は、三月二十五日に会議を開き、参考人として、岩手県立大学総合政策学部教授小針司君及び防衛大学校助教授松浦一夫君をお呼びし、非常事態と憲法について、国民保護法制を含めて御意見を聴取いたしました。

 会議における両参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を御参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、

 小針参考人からは、

 非常事態への対処に関して現行憲法は極めて謙抑的であるとの見解が述べられた後、非常事態に対処する権限と憲法の関係は、第一に、憲法典の効力の停止、第二に、憲法典に列挙された条文の停止、第三に、憲法典上の条文の効力は停止されないが、憲法上に規定された非常措置権により変容をこうむる場合、第四に、憲法典上に非常事態対処規定を欠くにもかかわらず非常事態に対処する必要がある場合の四つに類型化できること、我が国の現行憲法は第四の類型であり、人権制約の法理は公共の福祉に見出すしかないことについて指摘がなされました。

 その上で、非常事態法制の構築に当たっては人権保障のあり方が多様かつ複雑になっている点を考慮しなければならず、また、現行憲法における個人主義的世界観からは、国家は個人の生命、身体及び財産を保護してこそその支配を正当化できるとの説明がありました。

 最後に、国から地方公共団体へ、地方公共団体から国民へという防衛観の視座から、国民から地方公共団体へ、地方公共団体から国へという防衛観の視座への転換が必要であり、また、有事にあってこそ有事法制が効果を発揮し、国民の生命、身体及び財産を守り、国家の安全を確保することから、非常事態の対処規定は憲法典に明記されるべきとの見解が示されました。

 松浦参考人からは、

 諸外国においては、民間防衛が軍事的防衛と平時の災害救助を結びつける分野として考えられているとの指摘があり、欧州各国等の国民保護法制の概略について説明がありました。

 特に、ドイツでは、憲法である基本法において、防衛を市民の保護を含む防衛と位置づけ、軍事的防衛と国民保護を含む非軍事的防衛を合わせた総合防衛がドイツの緊急事態法制の基礎にあり、両者がセットで考えられているとの説明がなされました。

 また、ドイツにおける市民保護再編法において、自己防護を市民保護の基本とし、公的機関はそれを補完するものとされている点、ボランティア組織が防災組織として国の災害救助体制を支えるほか、有事においても国民保護に当たることとされているなど重要な存在と位置づけられている点は、我が国においても参考になるとの意見が述べられました。

 最近は、二〇〇二年に決定された市民保護の新戦略に基づき連邦市民保護・災害救助庁の設置等の措置がとられ、また、民間航空機を使ったテロへの対処を内容とする航空保安法が議会で審議されているとの説明がなされました。

 その後、参考人の意見陳述を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われました。

 そこで表明された意見を小委員長として総括すれば、

 非常事態に関する規定を憲法上明記することの是非について、

 大量破壊兵器の拡散やテロ等、我が国の安全にとっての脅威が顕在化する現在、国民の生命財産を守るという観点から、これを憲法上明記すべきであるとの発言や、憲法上、非常事態に関する規定を欠くことは適当でなく、これを明記した上で、その規定に基づき法整備を行うべきであるとの発言、憲法上に非常措置規定を設けた上で、その規定と人権規定との法益のバランスを図る方法をとるべきであるとの発言、非常事態に関する規定の憲法上への明記に当たっては、国の責務や国民の権利の保護といった理念を明らかにすることが必要であるとの発言があった一方で、

 平和憲法がなかったことから起きた戦時の悲惨な体験にかんがみ、憲法を変えるべきではないとの発言や、現行憲法が非常事態対処について明文規定を持たないことの意義に言及する発言がありました。

 また、今国会に提出された国民保護法案については、諸外国と比較して抑制的であるとの両参考人による指摘に関連して、その実効性について検討する必要があるとする発言や、法案上の措置について憲法が歯どめをかけており、そこに憲法の意義が見出されるとの発言、国民に戦争協力を強いるものであるとする発言等がありました。

 その他、自衛隊に対する国会による監視・規制の必要性や、我が国の外交・安全保障のあり方と国連との関係に言及する発言等がありました。

 今回の小委員会は、非常事態に関する規定を憲法上明記することの是非、非常事態の際にとられる措置と人権との関係といった、非常事態をめぐる憲法上の重要な論点について議論が行われたと思います。国民の生命財産を守ることが政治の責務であることを踏まえ、我が国の安全保障や国際協力等のあり方について、引き続き小委員会において議論を深めてまいりたいと考えます。

 以上、御報告申し上げます。

中山会長 これより、非常事態と憲法について、国民保護法制についても含め、自由討議を行います。

 それでは、まず、大出彰君。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 小針参考人、松浦参考人の御意見を伺いまして、それで、私は、今、小委員長の方から報告がありました、読み上げられたところの、同じことを申し上げるんですが、小針参考人の物の考え方といいますか、視点といいますか視座といいますか、この辺、四つぐらいあるわけですが、この視座からやはり今の提出されております国民保護法制等を見ていくべきなのではないか、そういうふうに思っております。

 一つには、非常事態に対する権限と現憲法の関係ということについて、小針参考人は日本は第四の類型だと。つまりは、憲法典上に非常事態対処規定を欠くにもかかわらず非常事態に対処する必要がある場合に当たると。この場合には、人権制約の法理はといえば公共の福祉に見出すしかない、こう指摘しているわけですね。これが一点目の判断基準だと思いますね。

 二つ目に、その上で、非常事態法制の構築に当たっては人権保障のあり方が多様かつ複雑になっている点を考慮しなければならず、また、ここが基本的に重要なんですが、現行憲法における個人主義的世界観からは、国家は個人の生命、身体及び財産を保護してこそその支配を正当化できる、こういう説明をしているわけで、まさにこれが二つ目の視点だと思うんですね。

 さらに今度は、防衛観の視座として、これも小委員長から報告、先ほど読み上げられたところでございますが、国民そして地方公共団体、地方公共団体から国、国から下がってくるのではなくて、そういう視座ですね。そういう防衛視座について、防衛観の視座の転換が必要だということをおっしゃられたのがこの三つ目の判断基準だと思うんですね。

 そして、最後にここなんですが、有事にあってこそ有事法制が効果を発揮する、こういう言い方をしているんですね。国民の生命、身体及び財産を守り、国家の安全を確保することから、非常事態の対処規定は憲法典に明記されるべきということをおっしゃっているわけですね。

 この辺は私も同感なんですが、基本的に日本国憲法典には明記をされていない。その場合に、考え方としてはいろいろあって、例えば、非常事態措置が憲法典に書いていない、これは、国家権限、国権発動の根拠が憲法にないからこういう法制はできないんだという考え方もできますし、何にも書いていないから何でもできるんだという考え方もあるでしょう。しかし、むしろ逆に、この方の考え方は、有事法制という法制は国民を守るための法制なんだから、しっかり憲法典に明記していないといけませんよ、こういう観点で言っておられるんですね。そして、国から下へ来るのではなくて、国民から上へ上がっていくという考え方、まさに国民主権を基本にして考えている。

 この視点で、やはり今回の国民保護法制等もそのようにつくられていなければ、立法化されていなければいけない。言いかえれば、日本国憲法の枠内で立法化されていなければいけない。それは、なぜならば、憲法典に規定されていないけれども、現在、有事法制と言われるものをつくっているからこそ、なおさらそのような立法をされなければならないし、解釈をしなければならないんだ、これが基本的な考え方なのではないかと思います。

 この点から今回の国民保護法案を見た場合に、小針参考人がおっしゃっているような、同じような視点の観点が「目的」に、一条目に書いてあります。しかしながら、中身を見てくると必ずしもそうではなくて、前回にも私が御指摘したように、いい部分はちゃんとあるんですね。

 例えば、非常に抑制的であると申し上げた点は、まずは一つは、従事命令違反に罰則をつけていないんですね。これは、罰則をもって強制しても命令の効果は期待できない、だから、これは個人の意思を尊重せざるを得ないからつけないということですね。そしてまた、逆に、物資の保管命令違反には罰則がついている。しかし、よく見てみますと、これは、隠匿、毀棄、搬出といった積極的な妨害行為を罰しているんですね。そういう意味では、非常に両方とも抑制的になっている。

 ここを私は評価して、なぜ抑制的なのかというのは、前回も申し上げたように、今の憲法がそうなっているからそれ以上のことはできないんだ、こういうふうに申し上げているところでもございます。

 本当はまだいろいろ検証を言いたいのですが、時間が過ぎておりますので、発言をやめます。ありがとうございました。

中山会長 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

武正委員 民主党の武正公一でございます。

 非常事態と憲法ということでの小委員会の委員長報告がございました。

 私も外務委員会の理事もしておりまして、当調査会にもその理事の方もいらっしゃいます。先般、尖閣諸島への中国人活動家による不法上陸に関しまして、私、民主党として、安保委員会の決議はあったれども、やはり、強制送還遺憾ということで外務委員会でも決議をすべし、こういった主張を理事会でもさせていただきましたが、残念ながら、与党の御理解を得られず、外務委員会では決議ができなかったわけであります。

 その外務委員会での、今回の強制送還の判断、外務大臣に、関係各省庁あるいは沖縄県警等、相談はありましたかという質問に対して、一切相談はなかった、こういった答弁がされております。あるいは、外務副大臣を初め、これは沖縄県警が決めたことなんだ、こういった答弁が繰り返されております。

 私はやはり、今回のこの緊急権、非常事態について憲法に記載をすべきかどうか、こういった議論が二人の参考人からあったわけなんですが、実は、現行憲法においてもやればできるということがやられていないというふうに思うわけでございます。

 いわゆる危機管理、緊急事態において、すなわち、現場に行政機関は判断を任せる、現場で判断ができなくなってようやく上部の機関の判断を求める。これが阪神大震災以来繰り返されてきた我が国の危機管理体制の脆弱性でございます。今般の尖閣諸島の問題も、沖縄県警が決めたことだと。すなわち、判断は現場、責任は現場、こういった形では、日本の危機管理、憲法を改正して、あるいはさまざまな形でという前に、現行憲法下でできることが多々ある、それがやられていないということを指摘したいと思います。

 既に中央省庁の改革等で、内閣府に関係各省庁の調整権と、ある面、首一つ上に内閣府を置いたんですが、それも実態としてまだまだ機能していないのが現状でございます。私はやはり、今のこの行政の仕組みの中でも、ある面、首相官邸が、首相がリーダーシップをとって、内閣官房からしっかりとそうした危機管理、緊急事態に対する対応、現行憲法でもできると。そのときに問題なのは責任の明確ということでありまして、やはり内閣総理大臣の責任において、内閣官房の責任において緊急事態、危機管理への対応をする。これは現行憲法下でも十分できることであって、それをしていくべきだというふうに考えております。

 以上でございます。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 非常事態と憲法ということについて一言申し上げたいと思うんですが、結論から申し上げまして、非常事態に的確に対処するためには、非常事態をどう扱っていくのか、これをやはり憲法に明確な規定を設けるべきだというのが私の考えであります。

 理由は、大きくは二つあります。

 一つは、為政者、行政であり政府であると思いますが、非常事態が生じたときに、当然それは国民の生命財産を守り切るというのがその政府なり為政者としての最大の責務である、これは言うまでもないことですが、もしこの非常事態への対処が憲法上規定されていないのであれば、どうしても超法規的にならざるを得ない。つまり、為政者の乱用を引き起こす可能性が高まると考えております。したがって、非常事態に的確に対処するには、やはり憲法典にきちんと明記をする、これが大事である。

 もう一つの理由としては、やはり非常時においては、一定のあるいは一部の私権の制限、あるいは、自由権あるいは基本的人権の制限というものをどうしてもある程度加えざるを得ない状況になるわけであります。現状におきまして憲法上何も規定がない、しかし、非常事態にはそういった制限を加えなければいけない。その根拠として、どうも、公共の福祉というそれだけの理由、それだけの根拠ということでは、なかなかこれは根拠が乏しいというふうに考えております。したがって、自由権あるいは基本的人権を一部制限せざるを得ない、そういう根拠としても、憲法に非常事態の規定を書いておくことはとても大事だというふうに思っております。

 どの程度まで書き込むかということについては、ちょっと意見が分かれる。私自身もまだ認識を固めていないわけですが、例えば、明治憲法においては極めて包括的な記述をしております。しかし、非常に抽象的で包括的な記述というのは、これまた解釈のあり方がいろいろ分かれる。そこにやはりまた最初に申し上げたような為政者側の乱用を招く、こういう危険性もございますので、私は、ドイツの例にありますように、ある程度細かく規定を書くということが必要ではないかということも考えております。

 最後に一つだけ指摘をしておきたいのは、やはり過去の非常事態における対応が各国においていろいろな問題となった一つの大きなものとしては、停止条項が十分ではなかった。つまり、平時から有事になったときにこの非常事態に対処する法体制が動き出した、しかし、有事から幸いにして平時に戻ったときにその非常事態のシステムがなかなかとまらない、継続をしてしまう、こういうところに過去の経験が、問題がいろいろあったのではないか、このように感じております。

 したがって、当然、非常事態の対処のための憲法上の明記と同時に、平時に戻ったときにはそれがすべて解消される、すべて戻るんだよ、こういう停止条項もあわせてきちんと書いておく必要が当然あるというふうに考えております。

 以上です。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 日本の憲法学では、九条がありますから、軍事的な事態というのは遮断をしておりますので、いわゆる非常事態の立法や制度をつくる必要がなかったわけですけれども、参考人が述べられた、これはかぎ括弧をつけた方がいいと思いますが、いわば軍事的公共性にかかわるような事態の場合に、十三条に基づいて、公共の福祉論を根拠にして人権の制約の法理を導き出せるんだという議論は、憲法学界の中では極めて少数であるということも紹介したいと思うんです。

 歴史上でいいますと、例えば、アメリカは南北戦争のときに、たしか不文の緊急事態であの事態に対応したというふうに思います。

 それで、私は、先ほど大出委員から指摘がありましたけれども、有事法制についてはそれぞれの委員会で議論されるんでしょうが、憲法論として考えたときは、やはり、これは一体だれのため、何のための法制なのかというところが入り口になると思うんです。

 今度の場合は、結局、アメリカなどの起こす戦争に自衛隊も参加していくというときに、アメリカや自衛隊が円滑に動きやすいように法整備を図るというのが主眼になっている。そういう点で、例えば米軍支援法案の中身を見ますと、これまで周辺事態法のもとでは後方地域でしか米軍に物品及び役務の提供というのはできなかったわけですけれども、こういう制約が外れてくる。しかも、その中には、周辺事態法で認められていなかった物品としての弾薬まで含まれてくるということになってきますと、これはやはり憲法上許されないというふうに私は考えております。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄です。

 二つ目のテーマとしての、安全保障にかかわる小委員会の委員長の報告を踏まえての問題につきましては、私どもの方でまだ基本的に考え方がまとまったわけじゃございませんけれども、私は基本的に、個人的に、緊急事態に対応するための規定というものは現在憲法にないというのを、やはりここはきちっと設けるべきであるという考え方に立っております。

 一般的によく言われることですけれども、日本の防衛というありようを考えた場合に、基礎部分が憲法で、一階部分が安全保障に関する基本的な法律で、二階部分が武力攻撃事態にどう対応するかという有事法制部分で、三階が手続としての自衛隊法、四階部分が実際の展開する部隊としての三自衛隊、防衛庁、こういうふうな基礎を踏まえた四階構造という指摘をされる論者がおり、そして、防衛のありようというものを考えた場合に、そういうとらえ方というのは至って適切だろうと思うんですが、日本の防衛のあり方は、四階から順番に四、三、二と、こう進んできている。

 こういう流れの中で、今やはり政治がやるべき、取り組むべき課題として迫られているのは、緊急事態にどう対応する基本法案をつくるか、あるいはまた安全保障としての基本的な取り組みをどうするかというのを考える段階に来ているんだろうと思います。そしてその次に、実際に憲法をどう規定していくかということなので、今、与野党の間で緊急事態対処基本法案というものが、とりわけ民主党の提案もあり、進められているというふうに認識をしておりますけれども、そういう緊急事態にどう対処するかという基本法案と同時に、同時にというか、さらに次の段階として、現状の中でどう安全保障の基本的なあり方というものを考えていくかというものをつくる必要があるだろう。

 そういう流れでして、一つの、順序的には逆になるわけですけれども、将来、近い未来において日本の憲法のありようをきちっと、さらに新しい時代に対応すべく足らざるを補っていくという観点の中で、憲法の中に明確に、緊急事態にどう対処するかという部分についてのくだりをどこかに加憲をしていく必要があるだろう、そんなふうに私は考えておる次第でございます。

 以上です。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 先ほど山口さんの方からお話がありましたので。

 小針さんの意見に全面的にすべて賛成しているわけではございませんで、先ほどおっしゃったように、人権制約の法理として公共の福祉ということは言ったわけでございますが、これは政府解釈の、百歩譲って政府解釈のという意味の公共の福祉のことでございまして、私も基本的には、通説の公共の福祉から考えると、調整原理にはならないなと実は思っております。

 それと同時に、政府における考え方の中に、高度な公共の福祉とおっしゃいますよね。だから、あれもちょっとよくわからないなと思いながら、余り意味がないんだったら、何も最初からつけなければいいのにと思っているんですが、政府の公共の福祉論というのは余りよく理解ができないというところを前提に話をしているということをお含みおきいただきたいと思います。

 それと、この国民法制を、罰則の問題、従事命令違反の問題、あるいは物資保管命令の話をしましたけれども、この法案の抑制的でいいところを申し上げたのであって、さまざまなこれから委員会等で検討をしていかなければならないし、前回のときも私も少し申し上げましたけれども、るる見てくると、必ずしも、先ほどの四つの視点から考えたときに、そのとおりにでき上がっているのかどうか疑問を呈するような部分もあるな、こういうふうには実は思っているんです。

 それはなぜかというと、もともとの有事法制研究というのが一九七〇年代から行われてきていて、どうしても当時は対ソ連についての防衛ということを考えていたことがあって、三海峡封鎖だとか北海道上陸だと考えていたわけですね。そんな意味では、結構古典的な着上陸攻撃を想定しているようなものから始まったわけなものですから、どうも若干そういうところを引きずっているのかなということ。

 それから、私は戦争経験ありませんけれども、昔の戦争というもので日本で行われたことの中に、国民を総動員してしまうようなとか、そういう暗いイメージがあるのと同時に、戦争というのはそういうものだという面もあるということから、現代で本当に国民の多くの方が理解をして行うべきだというような有事に対する法制のあり方というのは、全然違う観点から、国民を視点にした観点からつくらなければ多くの国民の方が納得はしないだろう。そんな意味合いを込めながら、今回の国民法制を見ていかなければいけないのではないかと思っているところでございます。

 長くなりますから、ここで一たん切ります。

    〔会長退席、仙谷会長代理着席〕

中谷委員 これまでの御意見の中に、武力攻撃事態法などをめぐって、だれのため、何のための法律かという御議論もありました。これはやはり、当然ながら、日本の国のため、そして国民のためということで、国を守るために必要な法律であるということでございます。

 そこで、国を守るという手段においては、自衛隊や国際社会の協力、そして愛国心などがあるわけでありますが、やはり日本の憲法の中に、きょうの議論においても、国を守らなくてもいいというようなことが考えられ、発言すること自体がおかしいと思います。というのは、国家というものがなければ基本的人権も言論の自由も集会の自由もあり得ないわけでありまして、やはり国家があるという上において基本的人権も自由も成り立っているわけでございます。

 そこで、この憲法には義務ということで、現行憲法には、納税や教育を受けさせる義務、そして勤労の義務などが書かれておりますが、国を守るという義務が書かれておりません。あくまでも自発的というような概念でいるわけでありますが、やはり国民一人一人がこの国を守るという意識と努力がなくして国家というものは成り立たないわけであると私は考えますので、今後、この義務の中に、国を守るという義務を私は明記すべきだと思いますし、また、自由と人権の中で、やはり国を守り国を愛するということも、国民一人一人が当然のこととして考えるようなことが行われるように、何らかの形で憲法で明記する必要があるんじゃないかと思います。

武正委員 民主党の武正です。

 今回、今、国会に提出をされた国民保護法制についても、参考人からの意見もあったわけでございます。当然この国民保護法制は、現憲法下で、これから審議を行い、そしてまた採決になっていくわけでありますが、この国民保護法案では、やはり内閣総理大臣が関係大臣を指揮するというような形で、きょうも内閣官房から私ども民主党の部門会議で説明を受けたところでございます。

 昨年、自民、民主両党間で合意がされた緊急事態基本法、あるいはまた危機管理庁的なものを設置する、こういった中においても、これが必ず実現をしていくべきだ、こういうふうに考えるわけでございますが、最後にはどこが責任をとるのか、だれが責任をとるのか、これがやはり現憲法下でもはっきりと明示をしていかないと、責任の所在が不明なまま、結局、素早い、適切な対応ができないまま時間を労し、そしてまた判断がおくれ対処がおくれるということが繰り返されておりますので、私は、現憲法下にあって、特に今この国民保護法制、これからの審議の中で、緊急事態基本法の制定あるいは危機管理庁の設置、こういったものを通じてでも、やはり責任の明確化、特に、首相の責任においてというようなことがしっかりと明記をされていかないと、結局は責任の所在がたらい回しになって危機管理も働かないというふうに考える次第でございます。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 私は、中谷委員から発言がありましたけれども、日本国憲法に対するとらえ方がやはり根本的に立脚点が違うというふうに思います。

 それは、日本国憲法の場合は、日本国家はという言葉は一回もありません。先ほど仙谷委員が指摘されたように、もともと近代的立憲憲法というのは、国家権力に対して人権を保障するというのが基本の立場ですから、主語は全部、日本国民はなんです。

 この憲法は、前文から始まりまして、ほかの国に劣らないようにこの日本という国と風土を愛して、この日本で平和的に他の諸国民と共存して暮らしたいというそういう決意のもとでつくられたものであって、ここに国を守るというものが入っていないというとらえ方というのは、やはり近代立憲主義の伝統の上に立つ、流れの上に立つ日本国憲法の基本的な理解として、私は間違っていると思います。

辻委員 民主党の辻惠でございます。

 先ほどから、国を守り国を愛するということとか、素朴な気持ちで云々というようなことが発言として出ております。

 私は先日、ある会合で、中曽根康弘さんの講演を聞く会合に出たことがありますけれども、明治憲法が五十年前後の命脈を保ったと。今、日本国憲法が五十年。今憲法を論ずるに当たって、五十年先を考えて憲法を論ずるべきだというような御指摘をされていたように思います。

 その観点に立てば、二〇五〇年の時点に立って憲法問題をどう考えるべきなのか、そのときにも通用する憲法の条項、憲法の基本原理、憲法の基本思想をどのように、制度についてもどのように考えていくのか、こういう観点が重要ではないかと思います。

 国民国家を前提として国家主権を唱えるということは、これはやはり歴史的なある段階における思想であり、理念であり、制度であるというふうに思います。やはり世界的な歴史の流れを考えたときに、将来に向かって、二十一世紀、二〇五〇年、そして二十二世紀の先を見たときに、国民国家を前提とした人々の生活のありよう、社会の仕組み、政治のありようがその時点で本当に通用するものかどうか、極めて疑わしいと私は思わざるを得ません。

 現に、一九六〇年代から、ヨーロッパ諸国においてはEUという地域共同体が、経済的な共同体から今や政治的な共同体、統合体というふうに発展してきておるわけであります。これは、歴史の流れである、世界連邦的な、そういう理想とされてきた、論じられてきたことが即座に五十年先に実現するというふうには言えないかもしれませんけれども、具体的に地域の共同体がやはり醸成されていっているというのがこれは世界の流れであり、日本においても、朝鮮問題等々をやはり克服して、東アジアの地域の共同体で社会のありようや政治のありようなりを考えていく時代が、二〇五〇年を想定した場合に当然考えられる事態であろうと。そのときに、国民国家を前提として国を守るとか国を愛するということにとらわれて憲法を論議すべき時代ではなくなっているはずである。このような視点が、やはり未来を見通した、二十一世紀を見通した政治家の立場としての発言であるべきだ、私はこのように思います。

 以上です。

中谷委員 先ほどの山口委員の御意見に対して、当然、憲法では国民主権ということを言っておりますが、これは国家があって初めてこういった主権とか人権が確保できるわけでありまして、国防を否定する、国家を明確に言わないということは、人権を守ることはできないと私は思います。

 というのは、この憲法自体が占領時代につくられたものでありまして、米軍とか占領軍が統治をしていた中で国民の権利を守るということが言われておりますが、やはり日本が自立、独立をした上において、国家というものを日本自身がしっかり守っていく、こういう規定がなければ、この権利の確保というものは成り得ないわけでありますので、改めて、国を守ることの必要性、そして国民の義務ということを明記すべきだと思います。

増子委員 憲法はまさに国の基本を決めるものでありますから、この国が平和で独立して自由であることは当然のことであります。そういう意味で、今日、戦後日本がこのようなよき国家になったことは、まさにこの第一回目の会合でも申し上げましたけれども、戦争をしなかったということ、戦争がなかったということが私は最も重要な要素であったものだと思います。

 そういう中で、憲法九条、私は、やはりこの戦争の放棄というものが、何よりもこの国の基本のあり方という形では最も重要な憲法でありまして、これは堅持をするということが当然のことだと考えております。しかし、万が一、国に有事が起きた際にどうするかということ、これは当然法律の中で、有事法制というものは私は認められるべきだと思います。しかし、それはあくまでも、この国を守り、国民を守るという点でしっかりとしていかなければならないということに尽きるものだと私は考えているところでございます。その中で、国民の保護というものに、しっかりと有事法制の中で今後していかなければならないと思っております。

 自衛隊のあり方ということにつきましては、あくまでも私は専守防衛というものに徹するべきであって、外国に行って武力行使をするものではない。それが有事法制の中で、万が一、治安維持という形の中で、自衛隊が治安維持のために使われるというようなことがあったのでは、私は有事そのものが間違いであろうというふうに思っておりますので、この自衛隊のあり方というものについてしっかりと考えていく必要があるだろうと。

 と同時に、今回のイラクへの自衛隊派遣の問題でありますが、五月一日に戦争終結が宣言されましたけれども、依然として戦争状態が続いているということは否定のできない事実でありまして、先ほども、中谷委員からの情報でありますと、サマワに何か砲弾が撃ち込まれたというふうな情報も入ってまいりましたけれども、安全な地帯に自衛隊を派遣するというイラク特措法の観点からすれば、サマワは安全な地帯だから自衛隊を派遣する、人道復興支援という大義のもとに自衛隊を派遣するということ、私は根本的に間違っているのではないだろうかと。イラク全体が戦闘地域であり、サマワだけが何かぽっと空間として安全だというような地域ではないはずでありますから、私は、やはり大義のないこの自衛隊派遣あるいはイラク戦争というものについて、私どもはもっともっと厳しく検証をしていかなければならないのではないだろうかと。

 そういう観点から、安全保障及び国際協力ということについて私たちはもっともっと慎重であるべきだというふうに思っておりますし、やはり自衛隊のあり方というものについて憲法の中でしっかりと、憲法九条を守りながら、我が国は集団的自衛権は認められているけれども、他国への武力行使をするということについてはあってはならないということを改めて申し上げておきたいと思っております。

保岡委員 きょうは、非常事態と憲法というか、緊急事態と憲法というか、いずれにしても、天災、自然災であると、また人災、それは戦争であったり犯罪であったりする場合であれ、やはりどう対処するかということの本質を、議論を深めていく必要があると思います。

 例えば、有事の例でいえば、チャーチルが、さきの戦争の際に、ある町が攻撃されるということがドイツの暗号解読でわかっていた。しかし、その暗号解読がわかっていたことがドイツに知れると戦争遂行上もっと大きな損害をこうむる、あるいは、国家という、あるいは民族という共同体の存続にも重大な結果になりかねないという場合に相手に暗号解読をしているということが知られると困るということで、その攻撃をあえて受けた。事実、そこの町は大変な壊滅的な戦災を受けたという例があるように、やはり天災であれ人災であれ、その究極の人権保障というのか、あるいは、それを守るための人間の社会性、共同体的な価値を守るための原理というものをしっかり本質的に考えておかなければいけないのじゃないか。

 天災でも、一カ所の人を救うために多くの人たちのもっと大きな被害が発生するというケースだってありますし、それから、天災にしろ人災にしろ、あえて犠牲を恐れてほっておけば、犯罪にしろ戦争にしろ拡大して、もっと大きな人命を失う、あるいはもっと人間の大事にしなきゃならない共同体を失うというようなこともあり得るわけですから、そういう場合に、戦争の経験が本当に強烈で、戦争はもう嫌だという日本国民の平和を愛するDNAというか、そういう経験から得た貴重な教訓というのもありますが、一方で、社会あるいは国家あるいは世界の平和機構、こういったものや人間そのものの尊厳との関係というものの本質をしっかり議論して、そういうリスク管理のできる物の考え方を確立しておかないと、これは、我が国が世界から尊敬され、また信頼されるという根幹のことに答えを出せないまま流れていく。

 さきの大戦の貴重な経験、教訓も大事だけれども、もっと人間として、人間社会として、人類社会として大切にしなきゃならない基本的価値をよく考えて、そういった価値を守るための原理としてのあり方についても、制度を設計するにしても、制度を運用するときの基準にしても、明快な答えを求めていかなきゃならない。そういう答えを求めつつ、今度の日本国の憲法改正も、世界から一番すぐれている憲法であるということが言われるようなものにしなければならないのではないかということを感じましたので、一言感想を申し上げたいと思います。

    〔仙谷会長代理退席、会長着席〕

武正委員 民主党、武正公一です。

 先日の小委員会でも松浦参考人から、FEMAのような機関を設置したらどうかという提案については、他省庁と横並びでもう一つつくるというような機関であってはいけない、やはり多くの省庁に国民保護に関してのいろいろなことがまたがっているので、その調整が難しいと。

 今考えられているのは、その調整とか連携とか、そういった言葉は出てくるのでありますし、また先ほど御紹介したように、内閣総理大臣の指揮というのは説明も受けているわけなんですが、やはり責任をしっかりと、総理大臣あるいは内閣官房、明記した上でのそうした指揮に必要があるというふうに思うわけでございます。

 そしてまた、先ほど中谷委員から、国があっての国民である、あるいは国があって初めて国民主権であると。これは、国民保護法制が国民の主権の侵害あるいは裁判権の制限というようなことが想定される中で、我が国にあって人権の保護という観点の取り組みが非常におくれているのがやはり現行憲法下においても危惧されるところでございます。

 調査局がおつくりいただいた資料の三十九ページでも、国際刑事裁判所条約に日本が未批准であるということも記載されております。先般、サイバー条約のときに討論の中でも、日本国内において人権に関しての条約の批准が実はおくれている点を指摘しておりますが、こうした現行憲法下での人権に関する諸条約の批准、今、日本は二百六十以上、条約の批准がされておりませんが、こうした人権を守るという条約の批准がおくれている中で、捜査や、あるいは取り締まりという、そうしたサイバー条約や日米刑事共助条約のようなものを急ぐというのも、やはりおかしなことというふうに考えるところであります。

中山会長 他に御発言はありませんか。

 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて非常事態と憲法について、国民保護法制についてを含めての自由討議を終了いたします。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、公共の福祉について、基本的人権の保障に関する調査小委員長から、去る一日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。基本的人権の保障に関する調査小委員長山花郁夫君。

山花委員 基本的人権の保障のあり方に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。

 本小委員会は、四月一日に会議を開き、参考人として、大阪大学大学院高等司法研究科教授松本和彦君をお呼びし、公共の福祉、特に、表現の自由や学問の自由との調整について御意見を聴取いたしました。

 会議における参考人の意見陳述の詳細につきましては小委員会の会議録を参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、

 参考人からは、

 まず、人権と公共の福祉をめぐる争いは問いの立て方をめぐる争いであり、通説的見解では、人権対公共の福祉という二項対立図式により問題設定をするとの紹介がありました。その上で、参考人は、人権は公共の福祉によって制限できるのか、及び、人権を制限する公共の福祉とは何かという二つの命題を設定し、それに沿って意見陳述が行われました。

 人権は公共の福祉によって制限できるのかとの命題に対し、最高裁は、チャタレー事件において、基本的人権といえども無制限ではなく、公共の福祉によって制限されると判示し、学説もおおむねこれを肯定的に受けとめたという説明がありました。

 また、人権を制限する公共の福祉とは何かという命題に対しては、近年はこのような問いの立て方自体なされなくなっていること、すなわち、公共の福祉と人権との調整は微妙な作業であって、公共の福祉とは何かを問うだけでは済まず、公共の福祉と人権との相互調整の方法はいかにあるべきかへと問いが転換しつつあるとの説明がありました。これについては、二項対立図式の問いを正当な目的を達成するための正当な手段による規制の問いへと立て直し、人権制限の目的と手段を細やかに検討することにより、公共の福祉を重視しつつ人権を尊重することが可能になるとの意見が示されました。

 最後に、こうした命題にだれが答えるのかとの点に関し、人権と公共の福祉との調整は議会の定める法律の形式で行われるべきであるとして、議会が人権と公共の福祉の調整を法律の形式で行うことの意義が強調されました。

 このような参考人の御意見を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われ、委員及び参考人の間で活発な意見の交換が行われました。

 そこにおいて表明された意見を小委員長として総括すれば、

 公共の福祉による人権制限の目的については、他者の人権の保護のみならず人権には還元できない公共の利益の保護という目的も存在するとの参考人の意見に対して、現代的な問題に対処するためには公共の福祉を広く実効的に認めていくべきであるとの意見が出される一方、公共の福祉はあくまでも人権が衝突した場合の調整原理であるとの意見が出されました。

 また、公共の福祉による人権制限に議会が重要な役割を果たすべきであるとの参考人の意見に対し、これに賛成する意見が見られるとともに、議会が公共の福祉に関する判断を行うに当たり、権利の内容が憲法に明記されている方が判断しやすいことにかんがみ、プライバシー権や環境権といった新しい人権を積極的に明記すべきではないかとの意見も見られました。

 今回議論がなされました公共の福祉の問題は、基本的人権は不可侵だが無制約ではないという相反する命題から出発したものであり、この点で、人権制限をいかに理論づけるかということは、翻っては基本的人権のあり方にも及ぶ最重要課題の一つと言えます。特に表現の自由は、基本的人権の中でも中核をなし、民主主義において不可欠の前提をなす大変重要な意味を持つ自由であって、その制限は慎重に行われなければなりません。

 最後に、参考人の意見陳述における、人権と公共の福祉との調整は議会の定める法律の形式で行われるべきであるとの指摘は、大変示唆に富むものであったと考えます。そもそも、普遍的な価値を持つ人権が制限されるためには、行政の裁量などにゆだねるのではなく、まさに唯一の立法機関であり民主主義の基盤に立脚する国会が本質的な部分を立法によって定めてこそ、初めて正当化されると考えるからであります。このように考えれば、国会への期待は大きく、国会が基本的人権の保障に対していかに重大な責任を負っているかを改めて認識しなければなりません。

 以上の点を踏まえまして、引き続き、基本的人権に関する議論を深めてまいりたいと考える次第です。

 以上、御報告申し上げます。

中山会長 これより、公共の福祉、特に、表現の自由や学問の自由との調整について自由討議を行います。

 それでは、まず、小野晋也君。

小野委員 先ほど仙谷幹事から、私の行いました発言に対しまして、ダブルスタンダードという言い方はゆゆしき発言であるということがございましたので、この問題を基本的人権の観点から論じさせていただきたいと思います。

 御存じのとおり、憲法十九条には思想信条の自由ということが保障されておりまして、小泉総理は、私の信念においてこれを行っているのだということを言われておりますから、この思想信条の自由の一端を担うものだろうと思います。さらに、憲法二十条において、信教においては、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」ということが書かれているわけでありまして、じゃ、総理に一度なれば、この国民としての「何人」というところから外れることになるのかどうかというような論点もあるわけであります。

 先ほど私は、こういうふうな問題に関しては、もしもこれを違憲ということを論ずるという立場があるのならば、堂々と法律を出して議論すべきであるということを申し上げたのは、先ほど小委員長報告の中にもありましたけれども、松本参考人も、この権利という問題と公共の福祉との問題の調整は非常に難しい問題をはらんでいるものであるけれども、それらの問題は議会の定める法律の形式でその調整を行うべきであるというふうな論点を出しているわけでございまして、違憲であるという議論をされる方々がおられるならば、むしろ、国会の場において、これは違憲なのだから総理は靖国神社に参拝すべきではないというふうな法律を出されるべきだろうと思います。

 私は、そういうふうな法律が出てまいりました場合には、逆に、そういう信教の自由を侵すような法律を制定しようとするのは違憲行為であるというふうな判断が出されることは、十分にあり得る、大いにあり得る、こういうふうに考えている者でありまして、この点は、ぜひ国会の場において法律というような一つのものをもとにしながら議論する舞台を持つということが国政としての大きな務めである、こんな認識を持っておりますことを一点述べさせていただきたいと思います。

 それから二点目は、やはり仙谷幹事の発言中に、九十九条の公務員の憲法尊重擁護義務に照らし合わせて、その公務員の立場である総理と一般国民を一緒に論ずるのはおかしい、こういうふうな発言がございましたので、その点、一言付言させていただきます。

 第八十一条は、御存じのとおり、最高裁こそが終審裁判所であると書いてあるわけでありまして、地方裁の判断に従わねばならないということは、どこにも憲法上書いていないわけであります。加えまして、この憲法尊重擁護義務の規定は、司法判断において国民と公務員を差別するものとは私は考えておりません。

 憲法三十二条におきまして「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」とあるわけでありますから、総理大臣の立場になったら、この「何人も、」「裁判を受ける権利を奪はれない。」というふうな項目が除外されるのかということでございまして、司法判断において、行政側に立つ人間の方が一般国民に対して不利な立場で裁判が行われるというようなことを認めるとするならば、これは司法判断の公正、公平というのは根底から揺るがされる話になるわけでございます。

 こういうような論が出てくるというのは、私は非常に不本意なことであったと思っている次第でございます。ですから、この問題も、一つの基本的人権の問題として議論を重ねていく必要のある問題であるということをまず指摘させていただきたいと思います。

 少しまだ時間があるようでございますから、もう一点触れさせていただきます。

 先ほど来の小委員長の報告の中におきましても、公共の福祉の概念というのが非常に多岐にわたるようになってきている。また、個人の権利の方も、プライバシー権ですとか環境権ですとか新しい権利が生まれ、さらに、外形的なものだけでなくて、個人の心のありようというようなものまでもその権利として認めようというような状況が生まれてくるとなりますと、これは二元対立ではなかなか解答が得られない。非常に多くのものを調整しつつ、そこに一つの判断を得なければならないということに対して、今の裁判制度が本当にその任を担い得るものであるか。これだけ多岐にわたる多様な複雑な状況を判断するためには、裁判以外の調整機関を社会的にきちんと確立する必要があるのではないか。

 この点だけ指摘をしておいて、意見表明とさせていただきます。

中山会長 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

中谷委員 人権と表現の自由について、これは出版をめぐりまして司法の判断もまちまちになっておりますが、やはり私は、人権を尊重するということにおいては、国家として優先的に基本的人権ということは守っていかなければならないと思います。

 プライバシーということでいいますと、プライバシーの侵害とは何かというと、やはり現に人の心が痛むことでありまして、このような人の心というものを傷つけることをしてはならないというのは当然のことでございます。

 そこで、自由とか表現の自由の名において、暴力的な出版等によって非常に人権を侵害し、人の心を傷つけるという部分が現実に起こっておりますので、ぜひこの憲法において、何らかの制約をかけて、表現の自由なり言論の自由なり出版の自由なり、良識を持ってこれが行使できるように、今のように規定するのではなくて、やみくもに認めるものではないような規定をすべきだと私は思います。

倉田委員 先ほど来、小野委員が仙谷委員の御発言とも絡めておっしゃっておられることがあるわけで、少し、表現の自由という、基本的人権の方ではない、もとのところへと戻ってしまうような気もしますけれども。

 お二人のおっしゃることの中で、小野委員は、ダブルスタンダードはけしからぬ、つまり、公務員は、総理大臣も含めてですが、憲法九十九条によって下級審の憲法判断でも守らなきゃならない、これはちょっとひどいじゃないか、こんなようなことをおっしゃっておられる。一方で、仙谷委員が、いや、憲法の成り立ちはそもそも法の支配だ、法の支配とは国家権力が勝手なことをするのを抑えるところにあるんだからというぐあいな対立があったと思うんです。

 私が思いますのに、どうも小野委員のを聞いていますと、要するに、一方で小泉総理は行政権の最高峰にある、ところが一方では、今回の福岡地裁の判決は地方審だ、つまり一下級裁判官の判断にすぎない。この辺の対比の問題が現実にそぐわない違和感を持つんじゃないか、そこに問題点があるんじゃないかということで、結局のところ、憲法裁判所をどうするかというような問題へと行ってしまうんですが。

 私が思いますのは、では、下級審の判断じゃなくて、下級審が憲法についての判断を示したときには、必要に応じて、上告とか上訴がなくても、つまり、事件性を離れたところで、最高裁が、八十一条の言うところの、憲法についての最終的な判断裁判所として意見を表明できるということが必要なんじゃないか。それによって、今言ったようなことは解決できるんじゃないかなと思うんです。

 つまり、私は詳しくはありませんが、アメリカでは、たしか要請によって上告とみなすとか、何かそんな制度があるはずなんです。日本でも、事件性と離すためには、例えば、原告なり被告なり、それからもう一つ、最高裁自身なりが要請をしたときには、高裁は飛ばしてもいいです、いきなり上訴があったものとみなす。原告か被告かあるいは最高裁がこれは憲法判断が必要だと考えたときには、最高裁自身がみなし上告という形で判断ができるというような制度を法律で設けたらば解決する問題ではないかと実は思います。

 憲法裁判所を別につくればいいじゃないかという御意見もあるかもしれぬけれども、そうなると、裁判の政治化あるいは政治の裁判化といいますか、そういう問題が起こって議会制民主主義という原則が軽んぜられる危険があるので、私はそちらの方は反対ですが、現行の憲法下でも今言ったような違憲問題についての解決ができるんじゃないかと考えます。もしそれでできないなら、その部分は憲法を改正すればいい。

 ちょっと人権問題から離れましたけれども、意見を申し上げる次第でございます。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 私は先日の松本参考人の陳述と質疑を通じまして二点感じたんですが、一点はまず、基本的人権論なんです。

 たしか参考人は、日本国憲法における基本的人権のカタログは大変豊富であるという指摘をなさいました。その背景に、日本国憲法が、やはり明治憲法下での人権がなかった状態への反省とともに、二十世紀の社会権の広がりを憲法上反映したという近代立憲主義の流れの中にあるからなんだということを強調された点は、大変重要な点だったというふうに思うんです。

 そして、憲法は、十一条で「基本的人権の享有を妨げられない。」ということを定め、十二条では「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」そして、その場合も「これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」というふうに定めております。第十三条でも「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」というふうに規定されているわけです。

 ここでも明らかだと思うんですが、基本的人権を人権で制限することは絶対にできないわけですけれども、現実には、それぞれの基本的人権はぶつかる場面が出てまいります。それは、プライバシーを持っているのに、表現の自由というもとでそれを公表しようとする。そういうことに対して一体憲法はどういう要請を求めているかというと、やはり上手に基本的人権が実現するように、それを調整する原理として公共の福祉を設けてきた。

 ですから、小委員長の報告にありましたように、立法府がそれを法という形である程度の基準を示していくということがどうしても必要になってくるわけで、その点での私たちの責任というのは非常に重要で、問題は具体的に考えていくしかないというふうに私は思います。

 同時に、その際参考人が強調したように、国家権力のために人権制限することは絶対にできないということも、これもまた質疑の中で明確にお述べになりましたから、その点も憲法の理解として非常に大事だったというふうに思います。

 最後になりますが、小野委員から繰り返し出されるものですから一言だけ触れますけれども、私は、首相の靖国参拝についての違憲性については、前回の自由討論でもかなり詳しく述べましたのでその中身には触れませんが、これを基本的人権の制約とか公共の福祉との関係でとらえようとしたらとても憲法論としては成り立たない。

 なぜなら、今度地裁もはっきり述べましたように、第二十条の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」ということに反している。なぜなら、総理大臣というのは、憲法の第六条に「内閣総理大臣を任命する。」という形で、憲法に規定されたいわば国家機関なんですね。その機関の方が、繰り返し国会の答弁の中でも参拝するということを言い、その行為を続けている。それに対して裁判が、これは二十条の規定に反するじゃないかということを言っているわけであって、これを公共の福祉論であれこれ論じ始めましたら、これは憲法、めちゃくちゃになっちゃいます。そのことだけ申し上げて、発言にかえたいと思います。

辻委員 民主党の辻惠でございます。

 今、山口委員が触れられたもので、小野委員の先ほどの御発言について、前回も信教の自由をめぐったやりとりの中で議論をしておりますので、余り深入りはしないということの上で、一応コメントをさせていただきたいというふうに思っております。

 まず、憲法二十条の信教の自由の保障の、何人もということから小泉首相は外れることになる、憲法が保障されなくなるじゃないか、このような御発言がありました。また、八十一条の法令の解釈等については最高裁判所が最終的な判断権を持っているんだということをお引きになって、下級審の判例に従わなきゃいけないのかというような、それに何で拘束されなければいけないんだというような御発言もありました。

 山口委員も今おっしゃられたように、「何人に対しても」というのは、要するに私人としての立場において差別があってはならないということでありますし、下級審の判断についても、これは今の三権分立制度のもとで、しかも司法権が具体的争訟に対する判断を加える機関として成立している以上は、システムの問題なわけですね。だから、そもそも論として憲法問題を論じる必要があるというのであれば、具体的争訟を離れた憲法裁判所を設置すべきかどうか、こういう問題だと思います。

 結局、私が言いたいことは、これは小野委員もおっしゃられたように、意見が多岐にわたっている、いろいろな意見が出るような状況に今の社会がある。だからこそ、ある結果について、感情的になるのではなくて、論理的にきちっとお互いが議論を闘わせる、詰めるべきだろう。今問題なのは、二十条の三項で何でわざわざこの政教分離原則が規定されるに至ったのか、この点なわけです。それぞれの立場なり利害なり思想なり考え方が違う人々が集まって社会が形成されている今の日本に我々は住んでいるわけですから、同じ土俵に立って議論をしなければいけない。そのときに憲法の明文をどう理解するのか、どう解釈するのか、そこに絞って議論すべきである。

 そうなると、二十条三項は、国家機関に対して、政教分離原則のもとに信教の自由をさらに強めるための制度的保障として二十条三項があるわけですから、そして、そのことは九十九条の憲法尊重擁護義務ということで、国家の機関は憲法を尊重しなければいけない。そうすると、論理的な整合性からいって、小泉首相の靖国参拝についてこれが二十条三項に違反するという議論が出てくるのは、ある意味では当然のことであり、支持する支持しないは議論の問題でありますけれども、私は支持すべきであろうというふうに考えております。

中山会長 山口君、辻君の御発言に対する御意見のようですので、小野晋也君を指名します。

小野委員 今の御意見に対して、私の方からまた反論をさせていただきたいと思うわけであります。

 まず、山口委員の方から問題提起がございましたが、この問題は二十条第三項の規定に基づくものであって、それにほかの憲法の規定を入れて議論をし始めたらもう憲法の議論がむちゃくちゃになってしまう、こういうお話がございましたが、それは現実に全く即していない議論だと、もう一言でお話をさせていただきたいと思っております。

 いろいろな憲法の議論の間で、それらのものを酌量していきながら、それぞれをどう判断するかということがなされているわけでありまして、一つの規定だけですべてのことの結論を出すということが今までの司法判断の中で果たして行われてきたかということになりますと、もういろいろな条項の中で、先ほど来の参考人の発言の中の、いろいろな対立の中に調和を求めるという議論もありましたけれども、いろいろな規定をその議論の俎上にのせていきながら何を妥当な判断とすべきかということを考えるのは、当然の話であると思います。

 なお、山口委員は、公共の福祉の観点において、それを入れるとという視点をおっしゃられましたが、私が発言したのは、あくまで基本的人権の視点において、総理の基本的人権というものが損なわれるということになるのかどうか、こういうことを論じたのでございますから、その点はちょっと勘違いされておられるところがあるようですので、訂正をお願い申し上げたいと思っている次第でございます。

 それから、この点はもう辻委員の御発言も同じでございますが、靖国神社だけが取り上げられてやっておりますが、既に我が党委員の中からも、前段の発言でございました。では、伊勢神宮に参ったらどうなんだ、自分自身の産土神様に参る場合はどうなんだ、お寺に行って参拝したらどうなんだ、こういうふうないろいろな問題があるわけでありますが、それならば、皆さん方がおっしゃられるのは、総理大臣ないしは各省庁の大臣、副大臣等々の役職についたら一切宗教的な施設に行くこともまかりならないのか、宗教的行事に絡むような何らかのものが織り込まれた行事に参加することもできなくなるのか。

 こういうところを明確に議論していかなければ、この話は非常に、憲法解釈というのを一部分だけ部分取りするような議論になってしまって、憲法というのが国家の基本的なものを支える法律であるということを考えた場合に、そういう解釈をみずからの都合によって自由に行うというのは好ましいことではないと私は思っております。

赤松(正)委員 先ほど来展開されている議論に私が割って入るという魅力も感じますけれども、ややこしくなるのであえてやめさせていただきまして、違う話をさせていただきます。

 私ども公明党としましては、今議論になっている分野におきましては、新しい時代に即応して新しい基本的人権という部分、人権の課題というかテーマというか、そういうものが幾つか俎上に上っているのではないかという観点から、現行憲法に対する加憲ということを考え出しているというか主張しているという側面がございます。

 そういう点で、今回の小委員会、私は直接参加しておりませんが、松本参考人と私どもの太田昭宏委員との議論を改めて読ませていただいて、この問題に対する言ってみれば集約的な、象徴的な議論がなされているなということを感じました。それを踏まえた上で、若干の考え方を申し上げたいと思います。

 新しい人権といった場合に、私どもはしばしば環境権とプライバシー権というのを二つ代表的なものとして取り上げるわけですけれども、前回の小委員会における議論というか、参考人の御意見は、やはり多くの憲法の専門家の中に根強くある意見として、先ほど山口委員からもありましたけれども、基本的人権に対する日本の現行憲法は非常に豊かな規定をしておる、いろいろな形で、もう既にある規定で新しい人権も読めるんだというふうな指摘があるわけですが、それにつきましては、プライバシー権というものについて憲法上に規定するかどうかという議論については、私も松本参考人の意見というものに賛同したいというふうな感じ方をいたします。

 既に日本国憲法にプライバシー権という権利は、明文規定にはないけれども、憲法上の保護を受けるということについては異論がない。そういう意味で、改めて規定することの実益がどれぐらいあるかということについて、余りないんじゃないかというのは、それなりに賛同できる側面があるなという感じは個人的にはいたします。

 ところで、一方、環境権という問題につきましては、先般の小委員会で、私どもの仲間の太田委員と松本参考人の間に若干の食い違いがあったかのように見受けられるわけですけれども、いわゆる国家がこの新しい権利としての環境権というものを、日本の国民に対してしっかりと国家としての義務としてどう取り組んでいくかということについて、私は、やはり環境権を憲法に新しくきちっと加憲していくことが必要だろうと思います。

 例えば、憲法第二十五条に、「生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務」という格好で一項、二項とあるわけですけれども、この中に、二項あるいはまた新たに三項でもよろしいんですけれども、環境権についての国家と国としての責任というものをきちっと書くことが望ましいのではないか、そんなふうなことを感じておる次第でございます。

 以上です。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 小野委員から指摘されたんですが、誤解だ、誤解だとおっしゃるんでしたら、誤解がないようにきちんと発言、論理的にしていただきたいと思います。

 というのは、先ほどの一回目の指摘は、どう聞いても基本的人権や公共の福祉論に絡めて今度の違憲判決を論じた発言としてしか私は聞こえませんでした。そういう意味では、訂正の必要はないと思います。

 それから、憲法の部分取りをしてはいけないという話がありましたけれども、それは当たり前の話であって、私たちは、今度の違憲判決は二十条にかかわる問題だという指摘をしたのであって、それを部分取りというふうにごらんになるようでは、それこそ憲法の部分取りだと私は思います。

中山会長 他に御発言はありませんか。

山花委員 民主党の山花郁夫でございます。

 先ほどの赤松委員の御発言に関連して、別に議論をしようというスタンスではありませんけれども。

 小委員会の報告というか、小委員会の中身の報告だったものですから、プライバシー権や環境権という言い方をさせていただきましたけれども、新しい人権と言うときに、どうも、メディアも含めて、プライバシー権ということと名誉権というのはやはり私は違うものだと認識をいたしておりますので、そこもあわせて議論をしないといけないのかなというふうに思っております。

 例えば、具体的なお話で申し上げますと、大概、プライバシー侵害イコール名誉権侵害になるケース、重なることもあるんですが、必ずしもイコールではなくて、例えば、孤児院の可憐な少女にお金を送っているおじさんがいたとしましょう。足長さんはあの人だと指摘をすると、名誉は上がるかもしれませんけれども、それを知られたくないと思っていたのであれば、これはプライバシー侵害に当たるわけです。逆に、政治家の公務に関して、あの男はこんな悪いことしているという指摘があったときは、プライバシーの侵害はないけれども名誉権の侵害になることもあり得るわけでして、つまり、人権と公共の福祉という観点からいいますと、表現の自由との関係でいいますと、具体的に効果も異なってまいります。

 名誉権であれば、その侵害に対する回復措置としては、基本的にはモアスピーチ、反論によって名誉は回復されるかもしれませんけれども、プライバシーの侵害の場合には、反論するというか、余計その被害が、二次的な被害が出るわけでして、合憲か違憲か多少議論があるところですけれども、例えば、名誉権侵害に対しては謝罪広告ということで名誉の回復措置がとれる。一方、プライバシーの侵害のケースだと、謝罪広告で、過日、これこれこんな記事を掲載してしまいましたけれども、迷惑をおかけしましたなんというのは、これは余計なプライバシー侵害にもなるわけでして、つまり、新しい人権という観点からしたときには、そのようなプライバシー権、名誉権は、やはりきっちり分けて議論しなければいけないのかなと思っております。

 最近、話題になった差しとめ請求事件があったものですから、あの先例となっておるのがよく北方ジャーナル事件であると。確かにそうなんですが、あれは名誉権に基づく差しとめ請求であったのに対して、今回はプライバシーに基づくものであります。プライバシーの場合は、一回出てしまうとその回復ということが、今申し上げましたように、名誉権以上に困難なものですから、具体的な個別の案件に対して、その裁判所の判断が適切であったかどうかは申し上げませんけれども、そういった異なったものがある。

 つまり、人権の調整という観点からすると、プライバシー権、名誉権については分けて考えるということと、後は、あくまでも、そこから先、どの程度であれば差しとめが認められるのかどうかということになりますと、これは議会で、法律で書くにも限界があって、最終的には裁判所の法創造機能にゆだねるしかない部分も出てくるわけで、したがって、憲法で書くところ、法律で決着をつけるところ、最終的には裁判所にゆだねるところ、この三つをきっちりと分けて議論をする必要があると考えております。

 以上です。

中山会長 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて公共の福祉、特に、表現の自由や学問の自由との調整についての自由討議を終了いたします。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、財政について、統治機構のあり方に関する調査小委員長から、去る一日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。統治機構のあり方に関する調査小委員長鈴木克昌君。

鈴木(克)委員 統治機構のあり方に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。

 本小委員会は、四月一日に会議を開き、参考人として、東京大学大学院法学政治学研究科教授碓井光明君及び千葉大学法経学部教授広井良典君をお呼びし、財政、特に、国民負担率の問題を含む社会保障の財源問題、国会による財政統制について御意見を聴取しました。

 会議における参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を御参照いただくこととし、その概要を簡単に申し上げますと、

 碓井参考人からは、

 国民主権の一環としての国民財政主義の実現のために、国民への財政情報の提供の必要性及びこれまでの痛みを伴わない仕組みから国民が痛みを実感できる仕組みへと転換する必要性が、また、財政と憲法、法律の関係について、財政に関する規定は、多くを立法府の裁量にゆだねてよいこと、健全財政主義は、憲法上の原則ではないために特例法さえ制定すれば赤字公債の発行が許容されるという脆弱なものであるが、憲法に規定することにより規制することは実際上困難であるとの見解が述べられました。

 次に、予算制度について、健全な財政確保のため、予算単年度主義を原則とする必要があること、歳出、歳入を対応させた財政統制ができなくなるような運用は許されないこと、複数年度予算を付加することは許されるばかりでなく望ましいこと、予算の繰り越しの弾力化を図ることにより、予算単年度主義の弊害を回避すべきこと、使途を緩やかに特定した予備費は憲法上問題であるとの見解が示されました。

 さらに、私学助成等との関連で八十九条後段の削除等の検討の必要性が述べられました。

 その上で、国会以外の機関による財政統制に関連して、行政自身による統制としては財務省の役割が大きいこと、会計検査院は、憲法上、国会の附属機関とすることは想定されていないこと、住民訴訟に相当する国レベルの国民訴訟が検討に値すること等が述べられ、また、国会自身も財政統制の制度的あり方を継続的に検討し、報告書を公表する等の努力を期待するとの意見が述べられました。

 広井参考人からは、

 まず、日本の社会保障の特徴として、規模が小さく、内容的には年金の比重が大きいのに対して福祉の比重が小さく、財源は社会保険中心だが、保険と税が混然一体となっているとの説明がなされた上で、社会保障給付が低くて済んだ理由として、会社と核家族によるインフォーマルな社会保障や公共事業型社会保障が存在していたからであると述べられました。加えて、国際比較を通じて、我が国社会保障制度の位置づけについて説明がなされました。

 そして、社会保障の基本理念は、憲法十三条が保障する自己実現の機会としての自由を制度的に保障するものであるとし、その方向として、医療、福祉が年金よりリスクの予測が困難であることなどから、医療、福祉は厚く、年金は私的なものを拡大するという、医療・福祉重点型が妥当であり、その財源として、消費税、相続税、環境税が検討されるべきであると述べられました。

 さらに、公、共、私の役割分担のあり方や環境との調和等も視野に入れつつ、持続可能な福祉国家、福祉社会の追求が社会保障の基本的な課題であるとの見解が示されました。

 このような参考人の御意見を踏まえて、質疑が行われ、委員及び参考人の間で活発な意見の交換が行われ、我が国のこれからの財政統制のあり方や社会保障制度のあり方等についてさまざまな意見が述べられました。

 そこで表明された発言を小委員長として総括すれば、

 財政統制に関しては、複数年度予算を考える必要があるとの見解、憲法に健全財政主義を明記すべきとの見解等が述べられ、社会保障に関しては、憲法二十五条は社会保障等について国の責任を規定した点を重視すべきとの見解等が示されたほか、社会保障に関する憲法規定のあり方、国民負担率の現状や将来許される水準、企業の税負担のあり方、義務教育費国庫負担のあり方、スウェーデンの年金制度改革の評価、我が国が目指すべき福祉国家モデル等をめぐり、多様な見解が示されました。

 我が国において、国会による財政統制や社会保障の財源問題といった財政に係る問題は今後ますます重要性を増してくると考えられること等にかんがみれば、引き続き総合的見地から議論を深める必要があると感じました。

 今後も、本小委員会のこれまでの議論を踏まえた上で、今後の国の統治機構のあり方について、議論を深めてまいりたいと考えております。

 以上、御報告申し上げます。

中山会長 これより、財政、特に、国民負担率の問題を含む社会保障の財源問題、国会による財政統制について自由討議を行います。

 それでは、まず、古屋圭司君。

古屋(圭)委員 自民党の古屋圭司でございます。

 前回の統治小委員会におきましては、東大の碓井先生と千葉大の広井先生から意見を聴取したわけですけれども、そこで指摘されました財政統制と社会保障について、若干意見を述べさせていただきたいと思います。

 まず、碓井参考人から、国民主権主義としての国民財政主義の実現方法にはいろいろな方法があるけれども、やはり国会による財政統制が最も現実的な手段であって、そのためには、やはり国民に対する十分な、かつ真の財政情報の提供が不可欠であるという指摘がありましたけれども、これは私も全く同感でございます。

 御承知のように、我が国は現在、国債と借入金の残高が六百七十兆あります。対GDP比率では一三〇%前後ということで、世界最悪であります。ただ、これは対GDPグロス比でありまして、例えば、これを対GDP比のネット比で見ますと、大体五〇%前後でありまして、ドイツとかフランスとか米国とそう変わらない水準にあるということですね。この背景には、やはり我が国というのは、外貨準備であるとかあるいは海外に対する貸付金、現在では社会保障基金なんかも黒字でありますので、個人金融資産以外にもこういった多くの公的な金融資産を持っているということであるわけでありまして、これは一つの例でありますが。

 もちろん、無原則な借金を重ねて将来の世代に先送りするということは当然許されることではないわけですけれども、やはり、国民財政主義の観点から、その財政についての総合的な情報をできる限り国民に開示をするというのが必要だと思います。ややもすると、現在では、借金の多さのみが指摘をされておりまして、将来の希望というのが残念ながら喪失をされているということも事実でございます。

 したがいまして、財政について、私たち政治家の役割というのは極めて重要でございますけれども、一方では、国民がこうした真の情報を得るということによりまして、やはり国民自身もみずからの目で財政活動をチェックするということが可能になってくるわけでありまして、このことは、ひいては、政治が時には重要な決断を下すということもあるのかもしれませんけれども、そういうときにも国民が正しく理解していただける要因になるのではないかなというふうに考えております。

 それから、憲法八十九条関連で、公の支配に属さない教育のために公金を支出することは禁止をされておりますが、現実に、平成十六年度予算でも、私学助成はトータルで四千五百五十五億円を支出しております。この私学助成については、憲法解釈により私学助成は合憲であるという考え方ももちろん指摘をされているわけでございますけれども、やはり議論を誘発するということだと思いますので、私は、参考人が述べられましたように、やはりこの条項は削除または改正するというのがとるべき方法ではないかというふうに思っておりまして、実は、自民党にも憲法調査会がございまして、この八十九条問題についてはかなり議論をいたしましたけれども、この私学助成については改正もしくは削除すべきであるという意見が大体一致を見ているということをここに改めて報告をさせていただきたいと思います。

 それから、社会保障の方向についてでございますが、広井参考人は、やはり日本は社会保障の規模が小さいということ、国際的に見て小さいということを挙げましたけれども、これは会社とか家族の存在を挙げていたわけでございますけれども、しかし、こういったものが今弱体化していますので、社会保障の強化再編が必要である、こう指摘をされております。

 確かに、社会保障の強化再編が必要であるとは私も考えますけれども、我が国が長年培ってきた相互扶助の精神のような文化あるいは慣習をこの際もう一度見詰め直してみる必要もあると思います。北欧のように高福祉・高負担国家に進むということは、現役世代の過分の負担というものが避けられないわけでありまして、こうなりますと、経済の衰退という本末転倒にもなりかねない危険性もはらんでいるということであります。そこで、この視点から、やはりすべて税金で賄うという発想には限界があると思いまして、自助、公助、共助の適正な役割分担というのが私は必要だと思います。

 そして、忘れてならないのは、やはり家族の再生という視点であると思います。やはり、みんなで支え合うという共生の理念を築き上げることが大切だと思います。憲法の二十四条で、個人の尊厳と両性の本質的平等について規定されていますが、これが行き過ぎた個人主義という風潮を生んでいる側面も私は否定できないと思いますので、そこで、やはり憲法にも、家族のきずなの重要性であるとか家族の再生、家族が果たしてきた機能の回復、そういったものをサポートするような規定を加えるという考え方が私は必要ではないかと思います。

 以上で発言を終わらせていただきます。

中山会長 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

鹿野委員 碓井参考人から財政統制についてお話を伺ったわけでありますけれども、いわば、もっと財政統制について国会は関心を持て、こういうふうなことであったと思います。そして、納税者の立場と、いわゆる歳出圧力を加えるところの両方の立場に立って、十分なるところの財政情報というものを国民にやはり提供すべきだ、この指摘でありました。

 しかし、私は、では今の国会がそれだけの機能を果たし得るのかというふうなことを考えたときに、やはり問題があるという認識であります。今日の財政事情というのは、もう容易ならざる事態に陥っているというふうなことからいたしまして、鈴木小委員長の報告にありましたとおりに、いわゆる健全財政主義というものを憲法に明記すべきだ、こういうふうな指摘もありました。

 日本の場合は、予算については、いわゆる行政府が握っておる、その権限は行政府にある、こういうことから、御承知のとおりに、ほかの法案は法案ということでありますけれども、予算に関しては、予算案じゃなしに予算、こういうふうなもので提示されるわけであります。そして、国会においては、増額修正は認められない、こういうことであります。極端な言い方をするならば、国会においては、予算に関してはイエスかノーか、こういうような判断だけだというふうなことにもなるわけであります。

 かつて、昭和二十年代においては、予算を伴うところの法律についてはやはり厳しくしなきゃならない、こういうふうなことから、五十名以上の賛成者というふうなことにも改められたという経緯もあります。

 そこで、アメリカはどうか。統治制度の違いはあるわけでありますけれども、予算というふうなものは、議会の予算委員会において、予算のいわゆる大枠も含めたところの決議案が予算委員会で作成される、こういうふうなものであります。御承知のとおりです。

 これは、基本的には、予算というのは法律だというふうな考え方に立っております。これは、どちらの考え方をとるかどうかということは今後の議論をすべきところでございますけれども、いわゆる国会が、参考人の指摘のとおりに、本当に国民に十分なるところの財政状況というふうなものを提供するということになりますならば、やはりアメリカの予算委員会の果たしておる役目というふうなものが、なぜそれだけの役目を果たすことができるかということは、アメリカの議会予算局があるからだと思います。

 すなわち、行政府は行政府として、しかし議会は議会として、その予算局が、財政の状況なり、あるいは経済の状況なり、財政予測なり、経済予測なりというものをきちっと判断される、それを議会側に提供する、それを受けて予算委員会がいわゆる予算決議というものを作成する、こういうふうな仕組みになっておるわけでありますから、予算局の負うところが非常に大きいわけであります。

 ところが、日本の場合はどうかということになってきますと、日本においてはGAO、すなわち行政監視機関というものが注目されておるけれども、国会においては単なる調査室だけがあって、十人程度のスタッフであります。これでは、本当に国会がまさに財政の状況というものを十分に提供できるか。とてもできるものではありません。

 ゆえに私は、まさしく、国会において日本版CBO、日本版議会予算局を設置するというふうな問題について、真剣にもう検討すべきときに来ているのではないか、このことを申し上げ、このことがすなわち国民財政主義にも結びつくもの、こんなふうに思いますということを申し上げたいと思います。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 先ほど、鈴木小委員長の報告の末尾のところで次のように述べられました。「社会保障に関しては、憲法二十五条は社会保障等について国の責任を規定した点を重視すべきとの見解等が示された」、これを当日の意見として述べたのは私なんですが、私がこの点にあえて触れましたのは、憲法の中で社会保障という文言を含めまして明確に規定したのが二十五条だからです。

 それで、当日参考人は、十三条の個人の幸福追求権からこの問題に接近されたんですけれども、それは当然社会保障論としてできるわけですが、同時に、日本国憲法の場合は二十五条で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と一項で定めた上に、二項で、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」という規定があって、他国の憲法に比べても、社会保障での国の責務まで定めたという点では非常に豊かな内容を持つということで、指摘させていただいたわけです。

 同時に、その問題意識の背景には、先ほど古屋委員から自助、公助、共助という話がありましたけれども、いわば公助にかかわる問題なんですけれども、今、行政の方では、特に骨太方針が出ましてから、ほとんど公助という言葉が、文言から消えております。これは、私は、憲法二十五条の理解にかかわる、社会保障の原則にかかわる問題だと思うんです。年金についてはこれから当然徹底的な審議がなされるんでしょうけれども、やはり問題に接近する角度として、憲法二十五条が定めている社会保障の権利そして国の責務、このうたっている中身に基づく審議をしていく必要があるというふうに思います。

 最後になりますが、先ほど八十九条の問題が出されました。それで、参考人の方からも意見が表明されたわけですけれども、八十九条にあります「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」という部分については、判例上もまた憲法解釈上も非常に安定しておりますので、私はこれは改正する必要は全くないというふうに考えております。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 財政問題について議論をしているわけですが、私は、財政について、さらに憲法の中で加えるべきもの、あるいは変えるべき部分、幾つか申し上げたいと思います。

 一つは、健全財政ということをやはり憲法の中に書くべきではないか、この議論が参考人などからも出ましたけれども、これは入れるべきであろうというふうに思います。ただ、現在、五百兆、六百兆とも言われている累積の赤字を政府が抱えております。地方も含めてそのような状況であります。今さら、健全財政という言葉がやや軽くなっている感じがいたしますが、こういうときだからこそ、やはり憲法を改正する機会のときには健全財政というものをきちんと憲法上規定することは意味があると思います。

 それから、財政民主主義ということも議論をされました。これも当然、これは現憲法においてもきちんと規定があるわけでございますが、特に、一般会計に加えまして、特別会計その他各種会計部門が林立をしている、こう表現してもいいと思っております。議会がそのすべての会計に対しまして十分議論をし、統制し、コントロールする、そういう役割を果たしているかどうかというと必ずしもそうではない。つまり、財政民主主義というものが、予算制度あるいは会計制度の複雑化によってやや弱まっているという認識を持たざるを得ません。ここはやはり、もう一度、財政民主主義のしっかりした確立を、制度上の改正も含めて保障しておく必要があると思っております。

 三つ目には予算単年度主義、これも現憲法に規定をされているものでございます。この単年度主義につきましてはいろいろ弊害も指摘をされております。例えば年度末に予算を消化するために事業が非常に無理に行われる、このようなことなどが指摘をされております。

 しかしながら、私は、そういうことによって単年度主義を最初から全部崩しちゃう、根底から崩すということについては異論がございます。やはり、先ほど言いました健全財政あるいは財政民主主義、財政統制という考え方からして、やはり予算単年度主義は原則として守っていく。しかしながら、物によっては、もちろん、何カ年計画ということで、将来への財政支出をある程度許す部分がございますけれども、そのような形、あるいは予算の繰り越しということを、財源の繰り越しと同時に財源の裏打ちのある予算の繰り越しということは、これは健全財政の点からいって問題はないと思っておりますので、部分的に許すということは必要であると思います。

 最後に、決算の問題があります。決算につきましても、衆議院、参議院、両院におきまして、決算機能の強化ということで、それぞれ努力をし、工夫をしてきたわけでありますが、まだまだ不十分な点がございます。

 私は、先ほど鹿野委員からも若干御指摘ございましたように、国会における決算機能の強化、とりわけ私は二院制の問題とも絡むと思いますが、衆議院は主に予算、参議院は主に決算を審議する、このような二院制の衣がえをすることによって、議会における決算機能の強化、そしてフィードバックということを確実にするということは非常に大事な方向である、そのための憲法改正は私は大いにやるべきであると思っております。

 以上でございます。

永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。

 前回の小委員会でも私も両人に質問させていただきましたが、きょうは、ちょっと言い残したことがありますので、社会保障と家族の再生の問題について、一言意見を申させていただきます。

 社会保障の問題は、常に財源の問題から議論がされております。しかし、人間の幸福、その福利あるいは福祉という観点からいくと、では精神面の幸福というのはどういうふうに追求していったらいいのかという問題が半分あるわけでありまして、そのことを考えますと、一つの例を引かせてもらえば、スウェーデンという国が、最高に社会保障制度が完備されている国である。七〇%を超える国民負担のもとで公的な助成制度が整備をされておる。しかしながら、老人の自殺率が非常に高い。そしてまた、学校は極めて荒れているというのが現状であります。

 そう考えますと、財政的な支援政策についてのほかに、家族のきずなあるいは地域とのかかわりということについて、やはり、憲法上あるいは政治の価値判断として、何がしかの手当てをしていく必要があるのではないか、抽象的な議論で恐縮でございますが、そう考えるところであります。

 財源的に申し上げましても、国の富というのは、税金そして保険料という格好で公的な主体が再配分をするという部分と、それから民間、つまり個人の手元に置かれている部分と、二手に分かれるわけでありまして、ここは政治の価値の選択であろうと思います。これは、広井参考人もそう言っておりましたが。政治がどういう価値を選択していくのか。公の機関が税金や保険の格好でたくさん徴収をして、それを再配分するのがいいと考えるのか、あるいは、個人の手元に富をできるだけ残して、それを家族の再生、きずなを強化した上で使うというのがいいのか、ここの判断が実は分かれるところだろうと思います。

 両方とも重要な問題でございまして、一義的に申すことはできないわけでありますけれども、家族あるいは会社という機能、こういうものが低下をしていく中で、やはり、個人の幸福を追求する上で家族の果たす役割が大きい、これは疑いのないところであると思いますので、その役割をやはり憲法上位置づけをするということについても今後検討していくべきではないか、このように考える次第でございます。

 ありがとうございました。

中山会長 他に御発言はありませんか。

 それでは、討議も尽きたようですので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、来る十五日木曜日午前八時五十分幹事会、午前九時調査会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午前十一時五十四分散会


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