衆議院

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第1号 平成17年2月3日(木曜日)

会議録本文へ
本国会召集日(平成十七年一月二十一日)(金曜日)(午前零時現在)における本委員は、次のとおりである。

   会長 中山 太郎君

   幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君

   幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君

   幹事 赤松 正雄君

      伊藤 公介君    大村 秀章君

      加藤 勝信君    河野 太郎君

      左藤  章君    坂本 剛二君

      柴山 昌彦君    渡海紀三朗君

      中谷  元君    永岡 洋治君

      野田  毅君    葉梨 康弘君

      平井 卓也君    平沼 赳夫君

      二田 孝治君    松野 博一君

      松宮  勲君    三原 朝彦君

      森山 眞弓君    渡辺 博道君

      青木  愛君    稲見 哲男君

      大出  彰君    鹿野 道彦君

      鈴木 克昌君    園田 康博君

      田中眞紀子君    辻   惠君

      中根 康浩君    計屋 圭宏君

      古川 元久君    馬淵 澄夫君

      笠  浩史君    和田 隆志君

      渡部 恒三君    太田 昭宏君

      高木 陽介君    福島  豊君

      山口 富男君    土井たか子君

平成十七年二月三日(木曜日)

    午前九時七分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君

   幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君

   幹事 赤松 正雄君

      大村 秀章君    加藤 勝信君

      城内  実君    柴山 昌彦君

      谷川 弥一君    中谷  元君

      永岡 洋治君    野田  毅君

      葉梨 康弘君    早川 忠孝君

      平井 卓也君    松野 博一君

      松宮  勲君    三原 朝彦君

      森山 眞弓君    渡辺 博道君

      市村浩一郎君    稲見 哲男君

      内山  晃君    大出  彰君

      岡本 充功君    鹿野 道彦君

      神風 英男君    園田 康博君

      田中眞紀子君    田村 謙治君

      高山 智司君    中根 康浩君

      計屋 圭宏君    橋本 清仁君

      古川 元久君    馬淵 澄夫君

      松木 謙公君    松野 信夫君

      吉田  泉君    笠  浩史君

      和田 隆志君    若泉 征三君

      渡部 恒三君    池坊 保子君

      太田 昭宏君    斉藤 鉄夫君

      高木 陽介君    福島  豊君

      山口 富男君    土井たか子君

    …………………………………

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

一月二十八日

 辞任         補欠選任

  左藤  章君     早川 忠孝君

二月三日

 辞任         補欠選任

  坂本 剛二君     城内  実君

  青木  愛君     松木 謙公君

  鈴木 克昌君     岡本 充功君

  辻   惠君     神風 英男君

  馬淵 澄夫君     内山  晃君

  笠  浩史君     市村浩一郎君

  太田 昭宏君     斉藤 鉄夫君

  福島  豊君     池坊 保子君

同日

 辞任         補欠選任

  城内  実君     谷川 弥一君

  市村浩一郎君     笠  浩史君

  内山  晃君     田村 謙治君

  岡本 充功君     橋本 清仁君

  神風 英男君     高山 智司君

  松木 謙公君     青木  愛君

  池坊 保子君     福島  豊君

  斉藤 鉄夫君     太田 昭宏君

同日

 辞任         補欠選任

  谷川 弥一君     坂本 剛二君

  田村 謙治君     馬淵 澄夫君

  高山 智司君     辻   惠君

  橋本 清仁君     吉田  泉君

同日

 辞任         補欠選任

  吉田  泉君     松野 信夫君

同日

 辞任         補欠選任

  松野 信夫君     若泉 征三君

同日

 辞任         補欠選任

  若泉 征三君     鈴木 克昌君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法に関する件


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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 調査に先立ち、発言を許します。船田元君。

船田委員 本日の議題は天皇制ということでありますが、その前に、ちょっと皆様方にお聞きをいただきたいことがございました。それを少しお話をし、会長の御判断をいただきたいと思っております。

 それは、けさの読売新聞の朝刊の一面に出た記事でございますが、ちょっと読み上げます。「衆院憲法調査会は二日、今国会中にまとめる最終報告で、焦点の憲法九条について、「改正すべきだとする意見が多数だった」と明記する方向となった。自民、民主、公明の三党が、報告書は論点整理にとどめず、多数意見と少数意見を区別して盛り込むことで大筋合意したためだ。」というくだりの記事がございました。

 一々の記事について取り上げるということについては必ずしも是といたしませんけれども、しかしながら、現在、この憲法調査会におきましても大変な議論がございまして、また、これから最終報告に向けての大変重要な討論が行われるということでございます。

 そういう中で、この記事における、自民、民主、公明の三党でこの取りまとめの方法について合意をした、あるいはその内容について大筋合意をしたという事実は全くございません。したがいまして、この記事につきましては、事実ではないということで私は処理をしていただきたいというふうに考えております。

 憲法調査会といたしましても、今後このようなことがないように、ぜひ、会長からしかるべき対応をとっていただきたいとお願いを申し上げたいと思います。

 以上でございます。

中山会長 枝野幸男君。

枝野委員 私からも、ただいま船田筆頭からお話ありました件について一言申し上げさせていただきたいと思います。

 もちろん、報道には報道の自由がございますから、いろいろな御意見を書いていただくことは結構でありますけれども、事実関係にきちっと基づいて書いていただきませんと、この調査会の運営自体、ここまで、いろいろな御意見ありますけれども、各党円満に物事を進めてきている、会長の御努力によっていただいているというふうに認識をしております。

 そうした中で、例えば、会長と会長代理という立場の中で、取りまとめの仕方についていろいろな、皆さんに御提起をするための準備は進めておりますが、具体的な各論点についてどういう方向で取りまとめるとか、そういった議論自体を全くしておりません。

 にもかかわらず、この新聞記事を見れば、そうしたことについて、与野党間で、各党間で協議をし、なおかつ合意がされているかというふうに受け取るのが当然としか読めない記事になっておりまして、こういう事実と異なる報道が出されてそれが放置をされますと、せっかく信頼関係の上で成り立って、いい議論がなされている憲法調査会の議論にも悪い影響を与えかねないというふうに危惧するところでございまして、ぜひ会長から、調査会を代表して、この読売新聞の記事については、訂正とそして抗議をしていただきたいと、よろしくお願い申し上げます。

 以上です。

中山会長 ただいま、船田、枝野両幹事から御発言がございました。御発言の趣旨を踏まえて、当調査会の会長として公式に、読売新聞に対してこの記事の訂正及び今後に対する注意を申し伝えたい、このように思っております。それで御了承願いたいと思います。

     ――――◇―――――

中山会長 日本国憲法に関する件について調査を進めます。

 本日の午前は、天皇について自由討議を行います。

 議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で御発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、船田元君。

船田委員 私たちが現在議論をしております衆議院憲法調査会も、平成十二年の一月の設置以来、五年間の真摯な議論を重ねてまいりました。かねて衆議院の議運委員会で申し合わされました、おおむね五年程度を目途に最終報告書をまとめるということでありますが、いよいよその重要な時期に差しかかっていると思います。我々は、これまでの議論を振り返りながら、あるべき憲法の姿を模索する役割を大変強く認識しています。

 今後、きょうを含めまして四回の自由討議によりまして、五年間の立法府における、特に衆議院における憲法議論を締めくくり、次のステージへの足がかりをしっかりと築いていきたいと考えております。

 今回のテーマの天皇制でございますが、さまざまな議論がこれまでもございました。幾つか論点の整理を私なりにしてみたいと思います。

 まず、天皇が元首であるかどうかということであります。

 これにつきましては、なお我が党の中でも議論が残っていることでございます。確かに、国際的には元首であると事実上認知をされている状況ですが、やはり元首という言葉は、一般的に言って、統治権の全部あるいは一部を所有している存在である、このように解されるのが一般的であります。したがって、国政に関する一切の権能を有しない、日本国憲法四条一項に規定されておりますが、そういう現在の天皇のお立場、地位からすると、私は、元首と規定することには慎重を期したいと考えておる次第でございます。

 次に、象徴天皇制であります。

 象徴天皇のあり方について大方の異論はないと思っておりますが、ただ、私は、象徴について現行憲法の記述はやや簡単過ぎるのではないかと考えております。象徴の中身をもう少し具体的に記述しておくべきではないか。例えば、日本国の象徴あるいは日本国民統合の象徴に加えまして、日本の歴史、伝統、文化など日本の国柄を代表する存在とか、我が国の平和と繁栄、国民の幸福を願う存在というような記述をつけ加えることが望ましいと考えています。

 次に、女性天皇についてであります。

 皇位の継承順位や宮家の創設などは皇室典範に規定すべき問題でありますが、これだけ国民世論が盛り上がっている現状でありまして、かつ、総理大臣の諮問機関である皇室典範に関する有識者会議が先般スタートしたことでもあり、憲法論議とあわせて議論しておくべきであると思っております。

 まず、皇室の将来にわたっての継承の安定性を確保するという観点、そして、男女共同参画社会の進展を反映し、さらに発展させるべきである、このような観点から、女性皇族の皇位継承は認める方向で議論するべきであると思っています。過去にも女性天皇容認論は、明治初期に宮内庁が立案した皇室制規や、戦後の、吉田内閣に設置された臨時法制調査会で提案された実績もございます。

 その際、皇位継承を男系に限って万世一系を守り、女性天皇は一代限りとして、その後は男系に戻る、そういう方法も考えられますけれども、また、過去にもそういうことを行いましたけれども、この方法は、将来の皇位継承の安定性を確保することはできず、根本的な解決にはならないと考えております。現行憲法に規定する世襲を幅広く解釈すれば、この際、女系による世襲も認めるべきであると思っております。

 また、女性天皇に配偶者が来ないのではないか、このような懸念は現代社会においては無用であると思っております。配偶者の立場は、例えばイギリスのエディンバラ公など、欧州の王室の例に倣うことでよろしいのではないかと考えています。

 継承順位は長子優先で、男子優先より早くお世継ぎが決められて安定性もあると思っております。男子優先ということでは、何のために女性天皇を容認するのか、理由がよくわからなくなると思っております。

 なお、この制度を採用すると、女性皇族に皇位継承の可能性が生じ、宮家を創設する必要が出てまいります。このことが皇室財政を圧迫するのではないか、このような意見もありますが、何らかの一定の基準を設けて宮家の数の制限をするということも方法としては考えられると思います。

 最後の項目でございますが、天皇の公的行為についてであります。

 従来から、天皇の国事行為と私的行為以外、天皇の行為は何も規定しておりません。また、何もできないという解釈もあります。しかし、私は、天皇の象徴としての地位をより強固なものにするために、内閣の助言と承認に基づき、また、その責任は内閣が負う、行うという条件のもとで公的行為を新たに設けるのがよろしいのではないかと思っております。

 その際、公的行為には二つの種類があると考えております。

 一つは、天皇の象徴としての行為であります。例えば、国会開会式でのおことば、認証官の任命式への御臨席、国民体育大会や全国植樹祭など国民的行事への御臨席、また、外国訪問、さらには災害お見舞いなどがその例であると思っております。このことで、先ほども申し上げましたような天皇の象徴の役割をさらに強化することができると思っております。

 もう一つが、皇室行為とも言えるものであります。これは、皇室内部の諸行事の実施あるいは宮中祭祀などでありまして、天皇制という伝統を支える役割を持つものと考えております。

 国事行為、公的行為、そして私的行為、この三つのカテゴリーによりまして天皇の地位をさらに明確なものとし、国民統合の象徴である天皇の立場がさらに明らかになっていくのではないか、このように理解をしております。

 最後になりますけれども、我が国独自のこの象徴天皇制ということについて、国民の間で基本的には定着をしているわけでありますが、さらに、先ほど申し上げましたように、象徴の意義と役割を明らかにするために、また、今大変大きな話題となり問題となっております女性天皇についても、はっきりした道筋をつけるために、この衆議院憲法調査会でも今後大いに議論をし、そして国民に広く問う必要があると思っております。

 以上でございます。

中山会長 次に、大出彰君。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 きょうは、天皇制ということで、天皇制をめぐる問題について、一部でございますが発言をいたします。

 初めに、「第一章 天皇」についてでございます。

 日本国憲法は、「第一章 天皇」と書いてあります。そして第一条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定し、その主体は天皇であって、主権者である国民は「主権の存する日本国民」という表現で間接的に書かれております。しかし、主権概念が必要であり、また、国民が主権者であるならば、ここは、「第一章 国民」、第一条の出だしは「日本国民」であるべきだと考えております。

 もっとも、この点について、主権概念は必要ないという考えもありますが、賛成できません。なぜなら、過去にヨーロッパにおいて、絶対君主制を正当化するためにジャン・ボーダンたちが主権論争を行い、それに対抗する形で国民主権概念が提起された経緯を考えた場合、現憲法でも、過去に主権者であられた天皇が象徴天皇として存在する状況ですので、国民が主人公なのだということを強調するためには、主権概念が重要だからでございます。

 書き方に問題はありますが、日本国憲法は、第一条で国民主権を採用し、天皇制は象徴天皇制をとることをあらわしたと解釈できます。当然、立憲主義でございますので、象徴天皇制を大切にすることは言うまでもないことです。ただ、この象徴天皇制を創設されたものと考えるか、そうでないかということによってそのほかの今後の解釈に影響があるか、あるかといいますか、重点が変わるということは当然あると思います。

 二番目に、明治憲法と現行憲法とのつながりの話でございますが、現憲法の象徴天皇制との関係で、憲法第二条の世襲を根拠に過去との連続性を強調する考えがありますが、賛成できません。日本国憲法は、明治憲法の天皇主権国家をやめて国民主権国家をつくったと解釈されるからです。明治憲法と法的に断絶していると考えます。

 三番目に、象徴天皇制と日本国憲法の基本原則との関係でございます。

 象徴天皇制と日本国憲法の基本原則、特に、国民主権主義、基本的人権尊重主義との関係がどういう関係にあるかという考察が、天皇制をめぐる解釈を行う上で重要性を持ちます。

 国民主権主義との関係では、確かに、天皇は主権者ではなく、また国政に関する権能を持ちませんから、直ちに矛盾してはおりません。しかし、世襲の天皇制度の存在が国民の主権意識を希薄化する機能を有するという点は指摘されるところでございます。一方、基本的人権尊重主義との関係では、世襲による象徴天皇制は生まれによる差別に当たり、法のもとの平等にぶつかります。したがって、解釈する際には、以上のような点に留意しながら、基本原則に則して解釈することが重要だと考えております。

 四番目に、天皇は元首であるかという議論でございます。

 天皇は元首かという問題がございます。いかに定義するかという側面があるかと思いますが、元首は、内においては行政権の長であり、外に対しては、国を代表する、具体的には条約締結権を持つ者をいいます。この定義からいたしますと、日本国の元首は内閣ないし内閣総理大臣ということになると解されるのではないかと思っております。

 五番目に、この国が君主国であるのか共和国であるのかという論点がございます。

 日本は君主国と解するのか、あるいは共和国と解するのかという問題点でございますけれども、ここも実は定義が問題となりますが、君主とは、第一に世襲制であること、第二に統治権を持つこと、第三に対外的に国を代表することと言われております。そのような定義で考えますと、天皇は、世襲という要件は満たしますが、統治権、代表という要件は満たしませんから、君主ではないということになります。しかし、世襲の象徴天皇制を持っているので純粋な共和国というわけにもいきません。したがいまして、両概念で分類できない制度だというのが正確ではないかと考えております。

 六番目に、女性天皇についてです。

 女性天皇については、これを認めるべきだと考えております。一月二十九日、三十日に朝日新聞が実施した全国世論調査では、女性も天皇になれるようにした方がよいと思う人が八六%に達していると報じられています。この点から見れば、既に国民的合意が図られていると言えると思います。

 憲法第二条は、「皇位は、世襲のものであつて、」とのみ規定し、日常用語的には、世襲とは代々受け継ぐことを意味し、特段男女の区別はありません。この点、皇男子孫による世襲を意味していると解する見解がありますが、過去に女性天皇も存在したのであり、世襲をこのように狭く解釈することには合理的理由はないと考えます。したがって、女性天皇を認めるために憲法改正は必要ないと考えます。

 しかし、皇室典範では、一条、皇位は皇統に属する男系の男子が継承すると規定し、皇位継承を皇族男子に限定しているため、女性天皇を認めるためには、皇室典範の改正は必要です。

 もっとも、このように皇位継承を皇族男子に限定している皇室典範第一条が、男女平等原則、憲法十四条に違反していないかが問題となりますが、この点は、天皇制自体が、法のもとの平等、十四条の例外であり、合憲と考えております。しかし、原則に対する例外は最小限度でなければなりませんから、できる限り原則に基づいて立法、解釈を行うべきだと考えております。

 さて、女性天皇を認めた場合の解決すべき問題を検討します。

 まず、皇族女子が天皇及び皇族以外の者と結婚した場合に皇族の身分を離れる規定、皇室典範第十二条は削除すべきです。皇位継承の可能性が男子と同じになるからです。つまり、結婚後も皇室に残って宮家を設立できるようにしなければなりません。しかし、無制限に宮家設立を認めると、多過ぎ、皇室費が増大しますので、内親王の皇位継承範囲が問題となります。

 この点については、皇太子家と秋篠宮家だけの子孫を皇族とする、いわゆる直宮家永世皇族案、あるいは二番目に、血縁の遠近で一定の線を引く案、三番目に、長子だけに宮家設立を認める長子限定案、四つ目に、昭和天皇陛下系に認める案などが考えられますが、これからの議論にしたいと思って、今ここでは結論を出しません。

 次に、女性天皇後の皇位継承順位が問題になります。

 この点については、欧州の王室で見られるような、兄弟姉妹の中で男子を優先している英国型、二番目には、男女にかかわらず長子を優先しているスウェーデン型があります。私は、男女平等原則にのっとり、第一子、つまり長子を優先するスウェーデン型がよいと考えます。

 ここで、女性天皇を認めるとしても、それはつなぎにすぎず、例外的で、しかも男系女子の天皇しか認めないという考え方がありまして、それに立つとどのようになるか考えます。

 この場合、つなぎである男系女子の天皇にまず結婚を認めないか、あるいは皇族男子と結婚させるか、さらにその子供に皇位継承権を認めないか、いずれかになります。しかし、結婚を認めないはとり得ませんし、また、皇族男子との結婚は近親結婚になりますし、さらに、その子供に皇位継承権を認めないと、皇族男子不存在の場合にはここで皇位継承が絶えることを意味しますので、得策ではなく、やはり女性天皇を認めるべきだと考えております。

 さらに、女性天皇の配偶者をどういう立場にするかという問題もあります。

 この点については、イギリスのエリザベス女王にはエディンバラ公がおられ、プリンスコンソート、日本語で訳すと皇配殿下と呼ばれていますが、その例に倣えばよいと考えます。

 以上です。

中山会長 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。

 公明党として、党内に憲法調査会を設置し、現憲法に対する議論を重ねてまいりました。昨年六月に、今後のさらなる議論における参考とするために、党内の憲法調査会における意見や論点整理を行いました。その後、半年を経過しておりますが、党内の論議に基本的に大きな変化はありませんので、本日はまず、この論点整理の中における天皇制についてどのように述べているか、まず紹介をしたいと思います。

 これを読みますと、「象徴天皇とは、権力なき権威としての存在を示し、象徴天皇制は定着しているし、的確であり、維持していくべきだ。」「あくまで象徴天皇であるとしたうえで、それを表現として「元首」と呼んでもいいという意見もあるが、国政に関する権能を与えるなどの強いものにしない方がいいという意見が強い。象徴天皇における国事行為については現行に異論はほとんどない。」「象徴天皇制と国民主権をよりクリアにした方がよいとの意見もあり、今後の検討課題といえる。」「女性天皇については、皇室典範の改正論議に委ねるが、方向性としては認める方向で検討したい。」こういう文章になっております。

 我が党は、憲法改正の方法として加憲方式を提案しておりますが、この天皇の条項について言えば、先ほど申し上げました論点整理にありますように、現行憲法に特に加えるものはない、現行のままでいいというのが現段階での結論であると言ってもいいかと思います。

 このように考える論拠についてですが、四点申し述べます。

 まず、象徴天皇制についてですが、衆議院の憲法調査会における参考人質疑の中で横田耕一参考人が、天皇は、それ自体によって、またその行動によって国民を統合するという社会的機能を果たしており、その意味では高度に政治的な機能を果たしてきたと言い得ると述べておりますように、現行の象徴天皇制については、広く国民に浸透し定着しているものであると考えます。日本国の象徴であり日本国民統合の象徴という憲法の規定に現状は的確であり、今後も、主権者たる国民の総意に基づく象徴天皇制を維持していくべきである、このように考えます。

 次に、元首という呼び方についてですが、昭和六十三年十一月の参議院内閣委員会における、当時の大出内閣法制局第一部長の答弁によれば、天皇が元首であるかどうかは「元首の定義いかんに帰する問題」とし、「元首とは内治、外交のすべてを通じて国を代表し行政権を掌握をしている、そういう存在であるという定義によりますならば、現行憲法のもとにおきましては天皇は元首ではないということになろう」と思うとの見解を示し、一方、「さらにごく一部ではございますが外交関係において国を代表する面を持っておられるわけでありますから、現行憲法のもとにおきましてもそういうような考え方をもとにして元首であるというふうに言っても差し支えない」というふうに考えると答弁しております。

 要は、元首をどのように定義するかによるわけでありますが、さまざまな見解がある中、私どもも、今の天皇の地位に元首という側面があることは否定はいたしません。しかし、元首という呼称に執着する余り、象徴天皇制から一歩踏み込んだ、元首の名にふさわしい権能を新たに規定するなどの措置は慎まなければならないと考えます。

 その上で、国事行為については、内閣の助言と承認に基づいて行われている以上、受動的、儀礼的なものであると考えますので、現行制度を維持していくことが妥当ではないかと考えます。

 次に、象徴天皇制と国民主権との関係ですが、この点については、より深い議論と明確さが必要とされるのではないかと思います。

 かつて、横田耕一参考人が、象徴天皇制は国民主権の原則と直ちに矛盾するものとは考えないが、国民の主権者意識を希薄にする働きを有しているとの指摘がある一方、小林武参考人は、象徴天皇制は、近代憲法の普遍的原理としての国民主権と調和させる形で現行憲法に残されたものであるとの見解もございます。

 象徴天皇制と国民主権の関係性においては、あいまいさが残り、一つの明確な見解を導き出すにはさらなる精査と議論を積み重ねていくべきと考え、我が党としても今後の検討課題としているところでございます。

 最後に、女性天皇制ですが、この問題は、ある意味、天皇制そのものの存続を決定づける議論であろうかと思います。皇位継承は男系男子の伝統を重視すべきとの意見もありますが、その伝統継承は天皇制の消滅という事態に耐えられるのであろうかと横田耕一参考人も指摘しているように、否めない事態であろうと思います。

 歴史的に見て十代八人の女性天皇が存在していましたが、いずれも寡婦か独身の女性で、男系の天皇でありました。しかしながら、今は、女性天皇の可否とともに、女系女子、女系男子に対しての皇位継承をも検討していかなければなりません。皇室典範の改正論議をしっかりと行っていく必要がありますが、二十一世紀を迎え、伝統の尊重とともに、新しい視点、柔軟な対応が求められてくるのではないかと思います。

 その意味でも、我が党としては、女性天皇を認める方向性を持ってさらに検討を重ねていきたいと考えております。

 以上でございます。

中山会長 次に、山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 初めにきょうは新聞報道をめぐる発言がありましたので、私は冒頭に、今国会での調査について述べておきたいと思います。

 憲法調査会は、調査会規程で定められているように、「憲法について広範かつ総合的に調査を行う」という調査会であって、憲法改定に向けた検討とかそのための論点整理などをやるところではありません。しかし、先日の幹事懇談会に提案されました最終報告書作成へ向けての調査(案)、これは、事実上、憲法改定に向けた論点整理になっているものです。この点については、幹事懇談会の席上でも私は指摘をいたしました。

 例えば、天皇につきましては、象徴天皇制に関する規定を見直す必要があるか。九条にかかわっては、国際協力についての規定のあり方。国民の権利及び義務、三章にかかわっては、さらに新設すべきものあるいは削除するものはないか。こういう形で提議されました。これは字句上の直しで、この部分については、国際協力についての規定のあり方は残っておりますが、字句上の直しが行われました。

 同時に、あくまで論点の例示だという話もあったわけですけれども、これは、実際には調査会規程からの逸脱にほかならない。これについては、先日の幹事懇談会でも指摘した点です。

 もう一点は、最終報告書の問題なんですけれども、調査会規程は、「調査を終えたときは、調査の経過及び結果を記載した報告書を作成し、」「議長に提出する」としております。このように、調査の経過及び結果の記載だけであって、議案提出権がない本調査会が改憲の方向性とか結論めいたものをここに記載できないことは自明のことです。本調査会の設置の趣旨や調査会規程に反するような検討は許されないことをはっきり指摘しておきたいと思います。

 さて、天皇ですが、現行憲法のもとでの天皇は、法規範上、天皇主権を定めた明治憲法下の天皇とは全く異なるものです。この点から言っても、憲法と天皇については、問題を歴史的に見ていくことが重要になります。

 先ほど、民主党の大出委員からこの点での発言がありました。明治憲法は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とし、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とうたいました。神の子孫としての天皇が主権者として統治権を総攬するという、ここに神権的天皇制と言われるゆえんがありました。天皇は、立法、行政、司法の全体にわたって国を統治する権限を持ち、軍隊への指揮と命令、宣戦、講和の権限を握りました。特に戦争と軍隊の問題は、天皇の固有の権利、天皇の大権とされました。

 一方、国民は、臣民という名前で天皇の家来とされ、軍人勅諭や教育勅語で天皇絶対の教えを強制されました。信教の自由、言論、集会、結社の自由などの権利は法律の範囲内という制限つきで認めましたが、女性には人格権はなく、政治の実態としては、国民の人権は著しく抑圧されました。これらが、専制的とか絶対主義的とか呼ばれたものです。この体制のもとで日本が二十世紀に起こした侵略戦争は、アジアで二千万人、国内でも、少なく見ても三百十万人のおびただしい犠牲をもたらしました。

 一九四五年八月、日本が受け入れたポツダム宣言は、日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出るの過誤を犯さしめたる者の権力と勢力を取り除くこと、日本軍の武装解除と家庭への復帰、戦争犯罪人の処罰、民主主義の復活強化を阻むすべての障害の除去、言論、宗教、思想の自由と基本的人権の確立、再軍備を可能とする産業の制限など、軍国主義の一掃と平和的、民主的な日本の建設を要求しました。そして、その実現は日本の国際公約となりました。

 こうして、第二次世界大戦後の日本が国際社会の中で再出発することは、明治憲法と天皇絶対の体制を否定し、国民主権と戦争放棄、平和の国づくりの道を打ち立てることと一体のものとなったわけです。だからこそ、日本国憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること」、「主権が国民に存すること」を宣言して、これに反する憲法、法令、詔勅を排除したわけです。

 さて、現行憲法と天皇ですが、現行憲法の規定は、こうした歴史の経過を踏まえて生まれたものにほかなりません。

 憲法第一条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と定めています。これは国民主権の原理を確認したものですけれども、これによって天皇は、主権在民下の国民の意思に基づいて設けられた機関だという位置づけを与えられました。

 さらに第三条は、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要」とすると定め、第四条で天皇は、「憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」とされました。このように天皇は、憲法上、四条二項、六条、七条に定める十三の国事行為のみを行いますが、これは内閣の助言と承認を必要とする形式的、儀礼的なものとされ、憲法は、国政に実質的な影響を与えるような権限、機能は一切天皇に認めておりません。

 このように、現行憲法の定める天皇は、主権在民下に置かれ、国事行為には内閣の助言と承認が必要であり、かつ、国政に関する権能を有しないという厳しい制限規定を受けております。これらの規定の法規範としての意味とこれが生まれた歴史を明確にとらえて、厳格に運用していかなければなりません。

 天皇の制度をめぐりましては、天皇を元首と見立てたり、その明記を求める意見があります。一般に元首とは、行政上の長であり、対外的には国家を代表する者です。憲法には明文の規定はありませんが、日本では内閣総理大臣が事実上これに当たります。これとは別に、天皇を元首と見立てたりその方向を明記することは、国民主権原理との矛盾を広げ、憲法が天皇の制度を法規範上に位置づけた歴史にも反するものになります。こうした試みには反対であります。

 さて、国民主権の原則の首尾一貫した展開を展望したときに、一人の個人が世襲で国民統合の象徴になることは、本来的には、民主主義、人間の平等の原則と両立するものではありません。この制度の存廃は将来の国民の選択の問題ですけれども、これも、憲法の規定に則して、国民の総意によって歴史の中で解決されていくものと考えております。

 以上です。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 きょうは、当調査会が始まります冒頭に会長の方からの御発言もございました。したがって、けさの読売新聞の記事に対しての対応というのは会長にお預けするという形にただいまなっているんですけれども、実は、この問題をめぐりまして、きょうここで憲法調査会が行われるということも大いに記事の上では意識されたいきさつがあったんじゃないかということが憶測されます。ただしかし、これが初めてではございませんで、今までにも、当調査会の報告書というのがどういうことに相なるかという記事というのはちらほらちらほら出ておりました。したがって、そういうことからいたしますと、私は、本題に入ります前に、冒頭、一言それに対して申し上げさせていただきたいと思うんです。

 この憲法調査会が設置されまして、五年余りに及んだ議論の内容について最終報告書を取りまとめるということが既に予定されております。憲法調査会は、第百四十五回通常国会での国会法の改正によって設置が決められたわけですが、この調査会については、憲法調査会が改憲を目的にした機関になることには強い危惧を持つという私どもの意見に対して、それを踏まえた形で、国会法の改正に先立ちまして、衆議院では議院運営委員会の理事会で、憲法調査会は議案提出権がないということを確認するということが申し合わせとしてなされて、そして、憲法調査会が事実上憲法改憲の発議権も法案提出権も持たないということを確認された上でのこの調査会でございます。

 また、付言すれば、国会法の改正では、憲法調査会の設置目的を「日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行う」ということに限定をされておりまして、このことが、ただいまの憲法調査会規程の第一条にはっきりと定められているところです。

 ところが、どうも最近、報道によりますと、与党の中から、この憲法調査会が最終報告書を提出した後も憲法調査会を存続させて、国会法を改正して調査会に法案提案権を付与して、実際に憲法改正手続を定めた国民投票法について審議するということが取りざたされ始めているんですね。これが本当に事実ならば、この憲法調査会設置時の趣旨に合致しないばかりか、政治が主導する形で改憲の機運だけをいたずらにあおるということになりかねないと私は危惧するんです。

 言うまでもなく憲法は、国の最高規範として戦後日本社会の平和と民主主義の礎となってきたことは言うまでもございませんが、憲法尊重擁護義務を最も強く負わなければならないはずの首相みずからが、昨日の予算委員会の場所における御答弁を承っていても、どうも、この改憲に対しての意思表示をなさるということでありまして、まさにこれは憲法の危機だと私は思います、そういう点を勘案すれば。

 したがいまして、今申し上げたことは、けさの、抗議をしていただくということに相なりました読売の記事オンリーではございませんで、いろいろ最近報道を通じて流されておりますこういう問題に対しても、どうか会長、誤解のないように、また、危惧が本当だと当たらないように、この憲法調査会の今非常に大事な時期だと思います。大変大事な時期であるがゆえに、こういうことに対して毅然たるやはり対応というのをぜひともお願いしたいと思いますが、よろしゅうございますか。

中山会長 土井委員から私に確認の御発言がございました。

 私は、当憲法調査会は、五年にわたって各党の御意見を十分踏まえながら公正に運営してきたものと信じておりますし、憲法調査会設置の目的を掲げながら今日までやってまいりました。今後とも、そのような方向で私はこの調査会の最終まで努力をいたしたいと考えております。

土井委員 それでは、天皇制についてということに触れたいと思いますが、象徴天皇制と元首の問題、そして、皇位継承の中に女性をという問題についてここで申し述べさせていただきたいと思います。

 憲法は、第一条で国民主権制を定めております。それによって天皇象徴制を定めております。つまり、まず前段で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるべきだと定めております。つまりそれは、後段の規定に基づいて天皇象徴制を創設した憲法である、そして、帝国憲法が決めておりました天皇制を明らかに変更したものだ、このことははっきり認識できると存じます。つまり、国民の主権的総意に基づいて天皇象徴制を新しく定めたものであるということを理解できると思うんですが、ゆえにそれは、天皇制に内在している象徴性を取り上げて問題にしているという問題ではないということをはっきり認識することが大変に私は大事だと思うんです。この点は、第一条を見れば特に認識を必要とするところなんではないんでしょうか。

 天皇制は、旧帝国憲法のように、天皇を国の主権者とする一種の君主主権制なんです、本来は。もちろん、天皇制においても、主権者である天皇は、そのゆえに国家と国民の象徴であるべきだと言われてまいっておりましたけれども、しかし、旧帝国憲法の規定する天皇制の天皇は主権者である、または国権者である、または統治者である、またあるいは統治権の総攬者である、これが中心的な問題として認識をされていたわけでございまして、当然にしたがって、国家と国民の象徴であるという意味もあったというふうに考えねばならないと思うんです。

 したがって、主権者たる点に旧憲法の場合には天皇に対してはその本質があったわけで、とりたてて象徴と呼ぶことはいたしません。それは、主権者であり総攬者である、君主である天皇に対して、したがって象徴という性格もあったということだと思うんですね。

 したがって、今の象徴天皇制と言われております、日本国憲法の第一章で問題にされている象徴天皇は、まるで大日本帝国憲法に言う天皇とは違うということをしっかり認識する必要があると思うのでございます。

 日本国憲法の第一条が今申し上げたように決めておりますように、国民を主権者と、主権者であるのは国民だということをはっきりいたしておりまして、主権者ではない、また、主権の総攬者でもない天皇を国家と国民統合の象徴であるというふうに決めておりますのは、一種のこれは共和制だというふうに考えることもできると思います。天皇象徴制というこの天皇は、それゆえに主権者ではないわけです。また、主権の総攬者でもないわけです。そういう意味では、象徴天皇は元首ではないわけです。

 今、天皇を元首に位置づけるべきだという主張も、そう多い意見とは私は思いませんけれども、世上ございます。しかし私たちは、天皇に対して、今申し上げておりますとおり、統治権の総攬者でもない、したがってその意味の元首ではあり得ない、君主ではない、その意味での元首ではあり得ない、その天皇を元首とすることは国民主権の原理に反するものであって、これは認めるわけにはいかない。したがって、現行の象徴天皇制というのを堅持するべきであるというふうに私は考えております。

 さて、その皇位継承の問題について申し上げさせていただきます。

 第二条は、皇位継承について世襲制を定めております。そして、世襲制の中、それすなわち血統制でございますけれども、その中で、この皇位継承に対して定めるべきは皇室典範だということを定めているわけですが、しかし、旧帝国憲法の第二条の規定とは全くこれは異なりまして、皇位継承の資格を男系の男子に限定をいたしておりません。女子天皇及び女系の男子の継承資格を否定いたしておりません。したがって、これを皇室典範の定めるところにゆだねているわけですから、皇室典範で明記すれば、女性天皇を認めるということにしたがってなるわけでございます。

 天皇制についてこの問題を取り上げて、十四条の法のもとの平等とか、それから貴族制度を否定しているという点であるとか、その点を考えたら主権在民に反するのではないかという指摘もなされておりますけれども、第一章の天皇に関する規定は、現行の象徴天皇制は、近代憲法の普遍的な原理としての国民主権と調和させる形で現行憲法に残されたものであって、そして、あらゆる権限が集中した戦前の絶対君主天皇を復活させない、それはあくまでも国民主権制ということをしっかりと憲法の中心に据えているという点において、この第一章の点は国民の間に随分浸透していると思うんです。約八割の皆さんが今のままでいいということを調査の結果では答えられているというのも、そのことを物語っているというふうに思います。

 ありがとうございました。

中山会長 これにて各会派一名ずつの発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 まず冒頭に、けさの一部新聞報道につきまして各党からコメントというか抗議の御発言がございましたので、公明党につきましても、見出しに「自公民合意」、こういうふうな形になっておりました。そういうことに至るような事実は全くないということを申し上げさせていただいておきます。どうしてそういうふうな報道になったのか、極めて疑問に思うところでございます。

 それから、先ほど来各党から表明のありました天皇制の問題につきまして、若干二点ほど申し上げさせていただきたいと思います。

 まず、基本的な物の考え方は先ほど私どもの同僚委員が述べたとおりでございまして、憲法の明文上の規定におけるこの天皇制にかかわる部分について私も、新たにつけ加えるあるいは変えるというふうなところはない、こんなふうに考えておるところでございますけれども、その基本に立った上で、二点ほど感じるところがあります。

 一つは、先ほど船田幹事から御指摘があったこととも関連をするわけですけれども、象徴天皇という存在についての意義と役割ということについて若干感じていることがございます。

 例えば、一九九九年ですから、今の平成天皇が即位をされて十年たった時点で非常に印象に残る記者会見をなさっております。その中にこうあります。これは皇后陛下の御発言です。

  この十年間、陛下は常に御自身のお立場の象徴性に留意をなさりつつ、その上で、人々の喜びや悲しみを少しでも身近で分け持とうと、お心を砕いていらっしゃいました。社会に生きる人々には、それぞれの立場に応じて役割が求められており、皇室の私どもには、行政に求められるものに比べ、より精神的な支援としての献身が求められているように感じます。役割は常に制約を伴い、私どもの社会との接触も、どうしても限られたものにはなりますが、その制約の中で、少しでも社会の諸問題への理解を深め、大切なことを継続的に見守り、心を寄せ続けていかなければならないのではないかと考えております。

こういう発言があるわけですけれども、この文面の中から、皇后陛下の、現在の象徴天皇制というものに対する、極めて制約の多い状況に対する何か言いしれぬ、おっしゃりたい発言の真意というものが感じられるように思います。いま少し、具体的なありようとしての象徴の意義、役割というものについて、どこかの場面で何らかの検討がなされていいんじゃないか、そんなふうな感じが一点いたします。

 もう一点は、皇位継承の問題につきまして、現在、皇室典範をめぐる、学識者を中心とする議論が進められておりますけれども、皇室典範の改正を求める声が多いということは私もそのとおりだろうと思います。

 第一義的には、女性天皇は認められていいと考えます。それが常識であると思います。しかし同時に、その前にとるべき措置があるのではないかとの指摘、つまり、「天皇及び皇族は、養子をすることができない。」との現行の皇室典範第九条の規定を改めることが、最も伝統にかなった、皇室断絶回避の手法をとることだということを考えよとの主張にも耳を傾ける必要があるのではないかと考えます。

 ともあれ、この問題に拙速は禁物で、あらゆる角度から議論、検討が加えられていいテーマであろう、こんなふうに思う次第でございます。

 以上です。

早川委員 自由民主党の早川忠孝であります。

 今国会において憲法調査会のこれまでの議論の総括をするに当たって、これは、昭和三十九年にまとめられた内閣に置かれた憲法調査会と、衆議院、参議院に置かれたそれぞれの憲法調査会の役割が大きく異なるということを一応強調しておきたいと思います。国会というのは、国民の代表者としてさまざまな憲法調査を行うということでありますので、私は、その調査の過程であらわれたさまざまな国民の意見、議論というのはやはりしっかりと踏まえなければならないだろうと思います。

 私自身、弁護士として三十年に及ぶ法律専門家としての立場で憲法問題に当たっておりましたけれども、現実には憲法問題に触れることがタブーでありました。一つは天皇制の問題であり、二つ目が戦争放棄の問題であります。

 結果的には、天皇制についての議論をしないということで現実に現在まで至っておりました。憲法九条の問題については、自衛隊の存在について、憲法の明文等の規定について、いわゆる統治行為論を採用することによってこれは判断を回避するということでやってまいりました。そういう意味では、これまでの憲法論議というのが非常にあいまいなまま今日に至ったということを認めざるを得ないと思います。

 それで、平成十二年に開会をされましたこの憲法調査会の議論によって、ようやく国民の間に憲法が抱えるさまざまな問題について広く議論が展開をされた、そういう意味では画期的なことであると私は評価しています。

 その上で、改めて憲法を考える視点は二つあると思います。

 一つは、これまでの憲法をいわゆる読み解くというこの観点から、もう一つの観点は、憲法を新しく書いてみる、つくるという観点から。現在、私どもは、憲法を新しくつくるという観点でどういうふうに憲法が読めるだろうか、こういうふうな検討をしてまいりました。

 結果的には、これまでの憲法の制定の過程についての検証作業を経ることによって問題点が幾つかわかりました。というのは、白紙には全く新しい憲法はつくれない、何らかの歴史、伝統、そういったものを踏まえなければ、国家像が明らかにならなければ国の基本原理を明らかにする憲法というのはつくれない、そういう観点から改めて憲法の制定過程を検証いたしますと、実は、現在の憲法の象徴天皇制、国民主権制というのが極めて重要な基本原理であり、これは何としても維持をしなければならない、私はそのように思っております。

 それはどういうことかといいますと、例えば、アフガニスタンやイラクのような圧制の国家が民主化に行く過程を考えた場合に、新しい憲法をつくるという作業をどうしてもしなければなりません。日本の場合は、天皇が存在をし、天皇がポツダム宣言を受諾し、あるいは、天皇が帝国憲法の改正についてこれを勅令によって命令し、あるいは、天皇が枢密顧問の諮詢及び帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し公布した、こういう法形式をとることによって円滑に新しい戦後の政治体制を構築することになった、こういう経過を考えた場合に、結果的には、憲法上の天皇の存在についての決断というのが非常に大きかったわけであります。

 そういう意味では、象徴天皇制が現在の日本の最も重要な原理であると私は考えております。

 以上です。

葉梨委員 自民党の葉梨康弘です。

 本日は、天皇について、従来の調査経過等を踏まえ、概括的に意見を申し上げたいと思います。

 第一は、天皇の元首としての地位です。

 私は、現行憲法の制定経緯や条文の立て方から、天皇が、少なくとも我が国を代表する存在、国家及び国民のオーソリティーの中心という意味での元首の地位を有することは明らかだと考えています。

 まず、制定経緯について。

 米国、すなわちGHQ側の考え方を見ても、マッカーサー・ノートにおいてエンペラー・アット・ヘッド・オブ・ステートとされていたことなどからも、対外的に我が国の代表者と見ていたことは明らかだと思います。

 また、日本側の考え方も、終戦から憲法制定にかけて指導者の間に認識されていた護持すべき国体とは、天皇に実質的統治権限を持たせるということではなく、天皇を中心として統合される日本という国柄であったと考えられます。

 確かに、日本側担当者は、内閣の助言と承認でなく輔弼にこだわった部分もありますが、これは、天皇から指示を仰ぐことを想定したものでなく、内閣のコンセントということが、恐れ多いという意識が強かったものと思います。

 このように、制定経緯の上から、日本、米国双方とも、天皇に国の代表として元首的地位を与えていたように思われます。

 次に、現行憲法の立て方です。確かに現行憲法は、明治憲法のように天皇を元首と明定しておりません。しかし、第一条の冒頭に天皇という国家の機関を規定する憲法は、諸外国と比べて極めて異例です。諸外国の憲法では、主権は国民に存すること、民主主義あるいは国家の不可分といった原則が第一条において規定されているのが通例です。その意味で、我が国の憲法の立て方の天皇重視が極めてうかがわれます。

 さらに、国民主権についても、前文に主語を国民とした一般的宣言はあるものの、法学的には、具体的規範の方はそれぞれの条項に求められます。その意味で、国民主権が規定されているのは、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定する第一条のみです。天皇の地位の確定という行為を介して国民に主権が存することを宣言する書きぶりは、天皇が国家及び国民の代表者であることを明らかにしていると思います。

 ちなみに、王権が強いと言われるタイ王国ですら、国王が元首であること及び主権は国民に存することを併記しています。我が国の定めぶりは、その併記を第一条の中に溶け込ませているというふうに思われます。

 このように現行憲法は、国家権力ということでなく、国を代表し国民統合の中心となる天皇の元首的性格を色濃くにじませています。その意味で、憲法の改正を論ずる場合、天皇を元首と明記することに私は異を唱えるものではありませんが、これはあくまで確認的な意味であると思います。

 ただし、もしも現行第一章の立て方を変えて、例えば今のような条立てでなく、国民が主権を有することについて新条項を起こし、これを第一条とする、そういうような立て方をする場合は、天皇に関する規定が第二条以降ということになります。この場合、天皇の権威としての元首性を明記しなければならないだろう、そのように思われます。

 次に、国事行為でございます。

 国事行為の一つは、大喪の礼のときも問題となった、天皇家の一定の祭祀を準国事行為として認めるべきではないかという議論です。

 私は、これについては、第七条の問題でなく、第二十条の問題と考えます。もとより、原則として国は特定の宗教に肩入れすべきではありません。しかし、その一事をもって我が国固有の習俗、文化を壊すことも考え物です。二十条の議論が適正になされれば、国事行為としての儀式で読み得る範囲もおのずから広がってくるものと思われます。

 ちなみに、もしも天皇家の私的な祭祀が、準国事行為的なものとしてはしの上げ下げまでも内閣の助言と承認に係らしめることは、ちょっと間尺に合わないんじゃないか、そういうような考えを持っています。

 二つは、ただ、国事行為の範囲が今のままでよいとは私は考えておりません。

 さきに、現行憲法でも天皇が対外的に国を代表する存在であることは申し上げました。いわゆる皇室外交が国事行為のらち外に置かれるのは極めて不自然です。今、現実に内閣が最も慎重な配意を必要としているのは、外国訪問時あるいは国賓接遇時のおことばです。私は、天皇が国民統合の象徴であることはもちろん、対外的に我が国と国民を代表する存在であることを明記する上からも、天皇の行為について具体的な内閣のコントロールを行う上からも、例えば、外交儀礼として国賓を接遇することぐらいは憲法上国事行為として明定すべきものではないか、そのように思っております。

 第三点は、女性天皇について。

 これは皇室典範の議論と思われますが、いわゆる一般家庭においても、先祖のお墓を守るという行為は男系、緊急避難的に女系というような家も多いかと思われます。一般家庭においてすらこのような行為が行われているのが通例でございます。ですから、女帝を認めた場合も、男女全く同じということではなくてもよろしいんじゃないかというふうに私は考えております。

 以上です。

柴山委員 本日議題となっております天皇制についてですけれども、私は、今、国民と皇室の関係というものは大変親密な関係である、そして、皇室を、権威の対象としてよりは、むしろ親しみの対象として考える関係になっているということを大変喜ばしく思っております。

 そして、先ほど早川委員からお話があったとおり、オープンに皇室の問題について議論をするということはとてもよいことだと思っておりますし、あわせて、ともすると権威の陰に隠れてなかなか改革の対象になっていない宮内庁のあり方というものについても、真剣に議論を進めていくことが必要ではないかと思っております。

 以下、各論点について申し上げます。

 まず、元首論についてでございます。

 私は、天皇を象徴と規定している、正確には象徴にすぎないと規定している現在と、あるいは元首としての性格を併有すると明定する場合に、現実の運用面としてどの程度の違いが出てくるのかということについては、若干疑問を持っております。先ほど葉梨委員からお話のあったとおり、対外的、また歴史的、また現行憲法の条文立てに照らして、天皇を元首と定めることに格段の障害があるとは思えません。

 ただ、元首とすることによりまして、イメージ的に、天皇の政治に対する関与を否定しているというところに抵触するのではないかというあらぬ混乱、そうしたイメージの問題というものが出てくるのではないかなというように思っておりますので、この点については慎重に考えていくべきではないかなというように思っております。

 さて次に、皇位継承の問題について大変最近議論になっております。

 私は、女帝を認めることには賛成でございます。しかし、先ほど来、これを全くの長子の承継ということに改めてよいのかということについては、若干議論の必要があるのではないかなというように思っております。

 よく男女平等論がその背景として言われるわけですけれども、先ほど大出委員から御指摘があったとおり、現行の天皇制自体、世襲制を導入し、また長子を優先としているという、現行憲法の平等原則上看過できない例外的な存在であることは言うまでもありません。葉梨委員からもありましたとおり、皇室の存在自体、憲法二十条からはなかなか説明の難しいような部分もありまして、私は、現行の天皇制というものは、むしろ憲法原理とは異なって、日本の伝統あるいは文化を体現したそういう存在であるものだというように考えております。

 そのような観点からは、やはり皇位の継承ということを考えるに当たっては、一足飛びの改革というものはもう少し議論が必要ではないか。また、先ほど大出議員の方からあったように、女性の宮家を創設した場合の財政の影響、これを最小限にするためにさまざまな複雑な議論が必要になってくる。また、女帝の配偶者の問題もあります。長女を皇太子とする場合、摂政を、女帝の配偶者である御主人とするのか、あるいは女帝の皇太子である長女とするのか。長子承継とした場合には、こういった難しい問題が生じてくることもしっかりと考えていかなければならないと思っております。

 また、先ほど御指摘のありました、養子を認めるべきではないかというところについてもきちんと議論を進めていかなければなりません。

 いずれにしましても、男系の女子に例外的に認めるのか、あるいは長系相続とするのかということは世論の動向をしっかりと見きわめて考えていくべき問題であり、そういう意味からすれば、この問題は、憲法事項というよりは、やはり皇室典範の改正によって対応するのが望ましい事柄ではないかなというように思っております。

 最後に、時間がなくなりましたが、天皇の国事行為について若干触れさせていただきます。

 私は、国事行為は現行憲法のものよりもふやす必要はないと思っておりますが、必ずしも私的行為と違うものがある。先ほど、植樹祭ですとか被災地の見舞いですとか、あるいは国会の開会式のおことば等がありましたが、このようなものについて、やはり私は、公的行為として、しっかりと内閣の助言と承認を得た上で認めていくべきではないかと思っております。ただ、これを儀礼的行為として正面から憲法上認めていくということについては、さらに検討が必要かと思います。

 以上です。

保岡委員 冒頭に我が党の船田幹事から、数点、憲法の中での天皇の問題点が指摘されまして、また、それに関して各委員からも、特に我が党の若い先生方から御発言もございました。

 私は、その中でおおむね船田委員の考え方と同じような考え方を持っておりますが、ただ一つ、元首の問題については、私はやはり、今度の憲法改正で天皇の元首性を明らかにしておいた方がいいと思っております。

 それは、山口委員から、天皇の地位というものは将来の国民の総意に基づいて定めていけばいいというお話もございましたが、私も、天皇の地位というのは、国民全体の長い歴史の中でつくられてきた権威というものを基本に、この国がどういう国の形であるかということのやはり一番基本にかかわるところではないかと。やはり、国民がみんなで仲よく力を合わせて発展していく、そういうための何か中心的存在、権威というものが、もしそれが平和や国民の幸せにつながる意義を歴史的に果たしてきたという事実が重くあれば、それをやはり国の基本として憲法に明確にすることが必要だと考えるからでございます。

 先ほど早川委員から御指摘もございましたけれども、終戦のときに、天皇の玉音放送によって軍部が混乱せずに終戦を整えた、そしてまた、イラクのようなテロも起こらず、混乱せず、新しい時代の日本の繁栄を築くことに国民が一致して努力した。そのことは、何も明治憲法で与えられたいわゆる統治権の総攬者としての権力、あるいは神聖天皇というようなものでそういう事態が起こったのではない。やはり、長い歴史の民族としての積み重ねの経緯の中に国民が自然にそれを受け入れたものであるというようなことではないか、私自身はそう思うのでございます。

 したがって、国の形として、私自身は、むしろ第一章とか第一条とかいうことの形式は別として、まず最初に国の形として天皇の地位というものはやはり明確にすべきであって、我が国が天皇を象徴とする自由で民主的な国家なんだということ、その主権は国民に存し、すべての国家権力は国民に由来することを確認すること、そういった意味で、天皇は日本国の元首であり、日本国の歴史、伝統、文化及び日本国民統合の象徴として我が国の平和と繁栄及び国民の幸せを願う存在であって、その地位は、主権の存する国民、日本国民の総意に基づくものを確認するというしっかりした国の形を明確にする必要があると。

 そういった意味で、既にこの憲法でも認められている元首性というものがあるわけでございますから、特に外国から見て、権威としての日本の天皇が元首として外交上扱われる、遇されるということは、極めて日本の将来にとって、日本国にとって有用なことだ。また、それは現に行われていることでありますから、やはりこの憲法にある元首性をむしろ明確にした方が、私はすぐれた憲法の規定になるのではないかと思います。

 そういった意味で、明治憲法が男系男子に限ったこと、あるいは神格性を付与したこと、いわゆる統治権の総攬者にしてしまったこと、やはり長い歴史からいえば例外的なことだということなどを、それのトラウマだけじゃなくて、私はやはり、長い歴史の中にある天皇制というものをはっきりさせてこれを国民のものにしっかり位置づけるということが、今度の憲法の改正に、将来の国民にとっても国家にとっても基本的な大事なことではないだろうか、そういうふうに考えております。

池坊委員 公明党の池坊保子でございます。

 私は三点申し上げたいと思います。

 まず、象徴天皇です。

 象徴天皇か元首かというお話ですけれども、これは、現憲法制定下においても議論をし尽くされたのではないかと思います。

 当時の金森国務大臣は、元首という言葉は、常識的に国の主権者であるとか行政の長である。そういう意味を持たなければこれは意味がないのであって、そうでないのに元首とすることは、国民は、言葉の魔術というもので憲法自体を見ないで元首というイメージをつくってしまうことになる。そうなれば、国民は、憲法に書かれている天皇のイメージを必要以上に権力的に考えてしまう。そういうことを考えると、象徴という言葉にはそういう悪いイメージがない。

 私は、天皇の存在は国民の心のよりどころであり、安心、安定の中核をなしていくものではないかと思います。そういうことを考えますと、天皇は、力の対象ではなくて、国民の敬愛の対象でなくてはならないと思います。

 即位のときに天皇がおっしゃった、国民とともに国民の幸福を願い、憲法を遵守する。これは、長い歴史を見ますと、ある時期を除きましてずうっと天皇はこういう志を貫かれてこられたと思います。戦争の経験などを踏まえて、日本の国民にとって一番いい姿が私は象徴天皇であると思っておりますので、それを変えることはする必要はないと思っております。慈愛の心で公平に国民と接し、祭祀を行い、学問と教養を高められる。

 そして私は、国事行為については、憲法で定められております国事行為だけでなく、どこにも書かれておりませんが、皇室典範などに私は公的行為、私的行為もちゃんと明記すべきであると考えております。なぜならば、公的行為の災害等のお見舞いなどとともに、この日本の伝統文化を継承していらっしゃる歌会始あるいは新嘗祭等々、これが天皇の存在にとって国民の敬愛の対象でもあると私は思います。そして、天皇の存在の価値と意義がそこにもおありになるというふうに私は考えております。

 ですから、必ず、私的である皇室行為というものは、半ば私的ではありますけれども、継承されなければいけないと思います。一見大変むだに見えますけれども、本当は意義があるということを認識し、大きな役割があるということを国民もやはり受けとめていくべきと思っておりますので、これは何らかの形で皇室典範に書いたらどうかというふうに考えております。

 それから、女系で構わないと私は思っております。象徴天皇が女系であることに何ら支障を来すものはございません。また、不都合なことはないと思います。

 そして、長子が優先されるべきであって、男性が優先されるとするならば、女性は補完でしかあり得ないと思います。平安時代の通い婚にも見られるように、長い歴史の中で家を守ってきたのは女性だったのでありますから、これは何ら不都合がないというふうに考えております。

 ただ私は、三点目、宮家の創設については、これは必要ではありますけれども、慎重に議論する必要があると私は思っております。

 昭和二十二年、貴族制度の廃止が、皇室典範に基づいて開かれました皇族会議において行われました。私も元華族でございますし、私の親戚の中には旧皇族たちもたくさんございました。百八十度の、生活を変えることによる大きな辛酸をなめましたし、痛みを伴いましたけれども、これは、国民に負担をかけてはならない、それから、階級制度というものはいけないんだということによって決断されたのだと思います。そして、その決断は私は正しかったというふうに考えております。

 象徴天皇とその御兄弟だけを認めるというその承認が大変よかったというふうに私は考えておりますので、宮家の数をどうするか、宮家をどのようにしていくかということは、これからよほど慎重に、繊細に決めていただきたいというふうに私は考えております。

古屋(圭)委員 自民党の古屋圭司でございます。

 私は、皇位継承、すなわち女性天皇の是非について意見を述べさせていただきたいと思います。

 かつては、国民の中に堂々と女性天皇の容認を主張しづらい雰囲気というのがあったのは否定できないと思います。やはりそれは憲法議論とも同じでございまして、憲法議論を堂々と正面から向いて改正も含めた議論をするということはタブー視されていたということ。しかし、最近は大きく情勢が変わってきました。この憲法調査会がことしで五年を迎えて、こういった広範な議論をしている、そしてそれがメディアに乗っているということも、国民世論の形成にも大きな影響があったと私は思います。

 そういう中で、最近の世論調査で、例えば女性天皇を認めるべきかというアンケートでは、朝日が八六%、読売七九%、これはことしですね。それから、昨年には毎日が八六%ということでありまして、いわば権威という意識ではなくて、まさしく象徴天皇、国民の象徴としての天皇という意識が名実ともに国民に定着をしているという証左だと思います。

 一方、現実問題として、これはかつてのこの委員会で、委員からの発言でも、お世継ぎ問題で早急に結論を出すことが精神的な重圧から解放されることになるのではないかという趣旨の発言もございました。私は、大変この発言は勇気のある発言だったというふうに評価しておるわけでございます。そういう環境の中にあって、内閣の中に皇室典範有識者会議が設立をされたということは、私は評価をしたいと思います。

 船田委員の方から発言がございましたように、確かに、女性天皇を認めるということになると、財政負担、女性による宮家の設立に伴う皇室財政への影響、これはやはり、皇室そのものを財政論で議論していいのかという問題もございますけれども、確かに一定の歯どめは私は必要だと思います。

 そういう中にあって、船田委員から、長子を優先すべきという発言については、私は一つの考え方として評価をいたしたいというふうに思っております。

 ただ、やはり、女性の天皇の配偶者の取り扱いをどうすべきかという問題もございまして、これはぜひ、この皇室典範の改正に向けての有識者会議の中でしっかり議論をしていただいて、一つの歯どめをつくっていくべきだ、こう思います。

 以上であります。

枝野委員 民主党の枝野でございます。

 まず、天皇の元首論についてお話ししたいと思いますが、これは、元首という言葉をどう定義するのかということで、法律的な意味というのは人によって多種多様であるということで、まず法律論としてははっきりしていることだと思います。その上で、元首というような言葉を天皇制のあらわし方として憲法に書くことがいいのかどうかということですが、私は、ちょっと違った視点からこのことについて論じたいと思っております。

 というのは、いずれにしても元首という言葉は、横並び、つまり国際的な横並びの言葉だと思います。他国の代表者、例えば大統領とか国王とかを元首と呼ぶのか呼ばないのかという意味では、外国との横並びだと思います。

 日本の天皇制が各国のいわゆる王室などと比較して圧倒的に長期にわたって継続をしていることの意味は、あるいは根拠はどこにあるのかといえば、やはり違うものだ。つまり、ヨーロッパの王制であったり、あるいは中国の皇帝であったり、あるいは朝鮮半島において幾つかあった王制であったりというものと明らかに違う天皇という存在で日本は位置づけてきたということが、たくさんの王室、王族が各国において変わっていった中で日本の天皇制だけは継続をしてきたということなのではないだろうかと思います。

 そうした中で、各国のトップと横並びに天皇の意味づけをしてしまう表現の仕方をするということは、私は、かえって天皇制の安定あるいは天皇制の特殊性というものをふさいでしまうことにならないかということを危惧いたします。

 実は、象徴という言葉がよかったのかどうかわかりませんけれども、日本の天皇はヨーロッパの王制や中国の皇帝とは違うんだということで別の言葉で日本国憲法に書いたということは、私は、結果的に非常によかったし、そのことは国民的にも定着をしているんだというふうに思いますので、あえて、天皇の地位を他国の大統領や他国の国王と横並びに扱うような元首という言葉を使うべきではない、そういうふうに思います。

 それからもう一点、国事行為についてお話をしたいと思います。

 ちょっと全く別の視点なんですが、実は、七条の国事行為を見ていったときに、異色の号があります。それは三号と九号と十号です。ほかの国事行為については根拠となる憲法上の規定あるいは法律上の規定がありますが、衆議院の解散はいつどういうときにできるのかということは全く何も書いてありませんし、九号の大使、公使の接受は、ぎりぎり国際法上の根拠があるというか、国際法上の法的効果があるという意味はあるかもしれませんが、儀式を行うことについては全く法的効果を生じない項目であります。

 そこで、そこから二つのことを申し上げたいと思いますが、私は、今の憲法あるいは憲法に基づく法体系の中で、七条三号の具体化が法の欠缺だと思います。つまり、天皇の国事行為として衆議院の解散というものがある以上、それをどういう要件でできるのかということについては、本来、国会法なり内閣法なりで書く必要があった。解釈であいまいにやってきた。今さら、これだけ憲法慣習として定着をしている解散という制度を現行憲法上変えるというのは困難だというふうに思いますが、もし国事行為について整理をするというようなことがあるのであれば、衆議院の解散の要件はきちっと書く必要がある。

 その際には、私は前にもここで述べたことがあるかと思いますが、いわゆる従来の七条解散、内閣が自分勝手に解散できるという仕組みは私は余り望ましいものではないのではないかというふうに思っています。

 それから、もう一つの視点は、法的効果を持たない国事行為である九号、十号の問題というのは、先ほど来お話のあった皇室外交などの話とあわせて、ちょっと国事行為とは別に位置づけた方が整理としてはわかりやすいのではないだろうかというふうに思っております。

 以上が私からの意見であります。

永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。

 私は、天皇制に関しまして、特に皇位継承の問題について意見を述べたいと思います。

 現在、今までも幾つか意見が出されましたが、皇位の継承につきましては、憲法が第二条で世襲と定め、これを受けて制定されている皇室典範におきましては、「男系の男子が、これを継承する。」と規定しております。この男系の男子による皇位継承は、古来より例外なく受け継がれてきた伝統であり、旧憲法及び皇室典範においてもそのように規定されていたところであります。

 私は、従来、この男系の男子による皇位の継承という伝統は可能な限りこれを守っていくべきであり、たとえ女性に皇位継承権を認めるとしても、推古天皇など過去十代八人事例がありますが、そうであったように、それは一代限りの例外とすべきであると考えてまいりましたが、しかしながら、今日私は、皇位の継承を将来にわたって安定させていくためには、男系の男子という伝統に固執することなく、男系の女子はもちろん、女系の男子や女系の女子に対しても皇位継承権を認め、かつ皇位の継承順序も、男女の別なく長子優先とするよう皇室典範を改正すべきと考えます。

 かつて、旧皇室典範は、統治の大権を有していた天皇の発意により、議会の議決を経ることなくその改正は可能でありました。しかし、現行の皇室典範は、憲法の附属法規として国会の議決を要することとなっており、天皇による改正の発案も認められておりません。それは、言うまでもなく、天皇の現在の存在が、主権者である我々国民の総意を基礎に成り立っているからにほかなりません。そしてこのことは、国民の総意が天皇制の廃止を望むのでない限り、皇室典範について改正の権限を有する国会には天皇制の安定を図る責務があるということでもあります。

 最近の新聞社による世論調査におきましても、先ほどもありましたが、八割近くの賛成があったことが報じられております。女性の皇位継承を認めるということについて、世論はおおむねこの方向に来ているのではないかと考えるところであります。

 したがいまして、私は、皇室典範については、女系の女子による皇位継承までをも視野に入れた改正によって皇位の安定的な将来の継承を図る必要があると考えます。

 もちろん、このような大幅なルール改正を行えば、配偶者の処遇や女性による宮家の設立など、これまでとは異なる新たな課題が浮上してくるものと思われますけれども、先ほど来ありますが、こうした点につきましては、天皇制の長い歴史を踏まえつつ、現に女性による王位継承を認めている諸外国の事例などにも学びながら、将来を展望した骨太の議論を展開していくことによって解決を図っていくべきと考えます。

 以上、私からの皇位継承問題に関する意見表明とさせていただきます。

 ありがとうございました。

山花委員 民主党・無所属クラブの山花郁夫でございます。

 きょうは、メーンの論点が天皇ということですので、ちょっと、今から申し上げることはその派生論点のような話になってしまうかもしれませんけれども、女性天皇制ということがいろいろ御発言出ておりますので、意見を申し上げておきたいと思います。

 先ほど、皇室典範というのは国法形式の上では法律ということになるのだからというような御発言もありましたけれども、講学上、世襲という概念は男系男子を意味するということで、女性天皇を認めるということになると憲法改正が必要だという学説もあるようでありますけれども、おおむね、そういう見解の方は極めて少数なのかなと思っております。

 その上で、ただ、皇室典範ということであれば、必ずしも憲法上の議論ということではなくて、例えば内閣委員会などで法律的な議論をしていればよいということなのかもしれません。ただ、憲法に附属する法律で、実質的意味の、憲法を構成するような国会法、内閣法、裁判所法と並ぶ皇室典範という法律、法形式でありますので、例えば宮家をどうするとかいう、技術的と言うとおしかりを受けるかもしれませんけれども、そういった事柄はともかくといたしまして、およそ女帝を認めるか認めないかということについては、憲法に準じるものとして、私は、個人的には、例えば国民投票のような形で国民に意見を問うということがあってもいいのではないか、このように思っております。

 かつて、当調査会でも、国民の直接参加の方式ということで、例えば法律であるとかについての国民投票ができるのかできないのか、あるいは住民投票の意義、もっと言えば、レファレンダムであるとかリコールであるとかイニシアチブであるとか、そういった形についても、今後、直接参加の形態としてどういうものがあるか考えていこうではないかというような議論もなされたところでありますけれども、現行の憲法を前提とする限り、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」と始まります憲法の前文でも、「その権力は国民の代表者がこれを行使し、」とうたって、「この憲法は、かかる原理に基くものである。」と宣言をした上で、例えば憲法の四十一条では、国会が「唯一の立法機関である。」つまりは、直接国民がこういったことにかかわり合うのは、国民審査あるいは憲法改正の国民投票、そして地方特別法の三種に限定されているのであって、法律案について国民投票を行うというのは憲法違反であるというのが通説的な理解ではなかろうかと認識をいたしております。

 まさに、でも、そういった既存の憲法解釈ということではなくて、当調査会では、あるべき姿ということを論じる場でございますので、こういったテーマについても、例えば国民投票に付して広く国民の意見を聞いた上で、あるべき皇室の姿というものを提起するということもあってもよいのではないか、このように考えているところでございます。

 以上です。

高木(陽)委員 公明党の高木陽介でございます。

 冒頭に、各会派の意見ということで、我が党の意見として斉藤委員が述べていただきましたけれども、基本的に私ども公明党としても、加憲という形をとっておりますので、その中において、今回、第一章の天皇については加憲しなくてもいいという、これが基本的な考え方であります。

 その上で、まず象徴天皇について、これは、過去の日本の歴史においてこの象徴天皇制というのは伝統的であろうということで、これはこれまでの憲法調査会での議論の中でもおおむね御理解をいただいている、または認識をしているという考え方だと思います。

 その上で、先ほどから議論にもなっております元首の問題でございますが、先ほど葉梨委員が、制定経緯に触れまして、国の代表であるという認識のもとで元首というふうに規定した方がいいんではないか、こういうような御提案もございました。しかしながら、その一方で、この制定経緯の中においては、国民主権という普遍的な原理をこの憲法でしっかりと明記する上において、その調和をする形ででき上がったということも考えられると思います。

 その上から考えますと、今の象徴天皇制というのが、元首というふうに規定するよりも、やはり国民の、先ほど池坊委員も言っておりましたけれども、精神的な支え、支柱、または象徴としての存在であるということもあり得るのではないかと。そう考えますと、逆にこの元首論というのが先行してしまうと、これも斉藤委員の意見でも出ておりましたけれども、国民の中に定着している象徴制というのが、逆に、元首論が先行してしまって崩れかねない、こういうような危惧もございます。

 そういった観点から、この元首の問題については、ある意味で言うと、規定をするというよりも、現状、国民の認識の中でしっかりと持っているということでいいのではないか、このように考えております。

 もう一つ、皇位の継承の問題でございますが、この女性天皇問題については、これもこれまでの議論の中で、皇統の途絶える危機感、または男女平等、男女共同参画社会の問題、さらには、ヨーロッパ各国の王室を有する国においての女帝の問題ということでおおむねいいのではないかという意見も出てまいりました。

 しかしながら、ここでもう一度考えたいのは、これまでの伝統であると言われている、男系男子でなければいけない、それで、なぜ男系男子でなければいけないのかという理由が、多くの国民の納得するような形ではないと思うんです。

 逆に、今、世論調査等を行った場合に、女帝を認めるというのが過半数を超える、もっと言えば大半を占めるというような時代状況にあって、この問題については、憲法で規定するということではないですけれども、皇室典範の中の議論ですが、女帝をしっかりと認めていくべきではないか。また、これも皇室典範議論の中でその具体的な技術の問題はまだまだ議論の余地はございますが、女帝をしっかりと認めていくというようなことを私自身も強く思っております。

 そういった中で、この天皇制については、冒頭に申し上げましたように、おおむね象徴天皇ということでの理解を深めている中で、この条文、また第一章については、現行をしっかりと維持していくというような考えを主張したいと思います。

 以上でございます。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 きょうの発言で幾つか議論の総括という指摘がありましたけれども、きょうのこの調査の位置づけはあくまで自由討議ですから、そこのところはお間違いのないようにしていただきたいと思うんです。

 それで、私、きょう冒頭のお話で、日本国憲法における天皇について見る場合に、これが誕生した歴史的な背景の問題と、国政に関する権能を有しないという法規範上の最大の特徴を明確にとらえて、厳格に運用することが大切だというふうに述べました。

 その点でいきますと、天皇の日本の歴史の中における長期的な存在という問題から問題を立てるというやり方は、法規範上は正しくありません。あくまで、日本国憲法は主権在民のもとに一つの国家規範として天皇を置いたわけで、これは、明治憲法ともそれ以前とも全く違う新しい天皇のあり方だと、そういうものとして法規範上は見ていくことが大事であって、何らかの権威とか中心という形で見るのは、そういう見方はできません。

 それから、象徴と代表性というのは、これはずっと長く議論がありまして、全く違うカテゴリーだというのは明らかになっていると思います。

 それからもう一点、元首性の問題で、外国とのかかわりで元首性が現にあるじゃないかという指摘がありました。これは恐らく、第七条、国事行為の九号、「外国の大使及び公使を接受すること。」ということにかかわると思うんですけれども、これは第七条自身が明確に示していますように、こういう外国の大使、公使の接受についても、既に内閣という別の国家機関が実質的に決定したことをいわば天皇が形式的、儀礼的に確認するというのが憲法上の規定ですから、このことによって天皇に元首性なり代表性を見るというのは、憲法からいって正しくありません。

 問題は、外国とのかかわりであたかも天皇が日本を代表するかのような扱いをする、運用をする、そういう政府の慣行の方にあるわけで、問題はそこを変えることだというふうに指摘しておきたいと思います。

野田(毅)委員 二点申し上げたいと思うんですが、第一点は、天皇の地位という問題と皇位継承の問題は別問題だと思います。したがって、憲法論議、これは、天皇の地位なりということを国の形としてどうするかということでありますから、この問題と皇位継承のお話とをごっちゃに同時に論ずるということは、少し違うんじゃないか。そういう点で、現行憲法が継承については別途皇室典範ということで論議をそちらに譲っていることでありますから、ここはやはり天皇の地位ということに限定をすべきじゃないかと思っています。

 それはなぜかというと、二点目に関係するんですが、天皇の地位ということは、一にかかって私は権威そのものであると。まさに歴史的に、今山口委員がお話しになったが、天皇制というのは日本の文化と歴史の大事な構成要素の一つなんですね。そういう意味で、特に政治にかかわる文化の中で、赤裸々な武力による権力闘争が起きないように、あるいはそれをどう乗り越えるかという中でまさににしきの御旗を与える役割を果たしてきたということが大事な日本の政治文化の柱だったと思います。

 まさに権力と権威を分離する、むしろ権力に正統性を与える側、にしきの御旗を与える側が、その役割を、天皇というまさにシンボルであり権威が与えてきた。そういう意味で、日本国を代表する権威はまさに天皇ということにあったわけで、そういう形の中で日本の政治文化がつくられてきたと思っております。

 そういう点で、戦後、お話がありましたように、全くそういうようなことは横へ置いて、日本の歴史と伝統をどう守っていくかということは横へ置いて、どういうふうに主権在民を生かしていくかという発想で、そういう切り口でこの現行憲法が、まさに、だからこそ、日本人がつくったのではなくて、そういう憲法の制定経過ということの背景がうかがえるところだと思います。

 そういう点で、その中で大変うまく今のところも調整されていると思うんですが、権力の正統性を、一つは主権在民という形で与えているんですが、同時に天皇の権威がそれを裏打ちする、そういう形で天皇の国事行為ということがある。そういう意味で、権力の正統性を二重の意味で、主権在民という形とそれから天皇のにしきの御旗、こういう形で与えられているのが私は今の日本の姿ではないか。

 そういうことを思いますと、象徴という言葉は非常にそれなりの意味深長なところがあるんですが、そういうものが元首なんだということを認識するということは一つの発想ではないか、私はそう考えております。

 以上です。

中川(正)委員 基本的に私も、この一条、二条、象徴という言葉で表現される先ほどの天皇の地位というものと、それから世襲であるということ、この基本はこれで正しかったんだろうというふうに思いますし、また、天皇もそして宮家も、私たちの国民の思いそれから期待に対して非常に真摯に、すばらしい役割を果たしてきていただいたというふうに思うんです。

 それは、各国の今の皇室のあり方と比べると、そういう意味では日本の天皇制というのは本当に評価されるべきものであると思いますし、その努力が恐らく天皇みずからあるいは宮家の方々の中にあるんだということ、これをしっかり私たち国民も認識をしていって、その上でこれからの制度というのを議論していくべきだろうというふうに思っております。

 そうした考え方に立つと、ちょっと違った切り口でもう一つ、特に皇室典範の中でいろいろな規定をしていく、あるいは、先ほどお話の出ました国事行為、公的な行為あるいは私的行為等々を議論していく中で考えていかなければならないことがあるんだと思うんです。

 それは、人間天皇としての意思というか、もっと言いかえれば、天皇の立場に立って考えたときに、新しい時代を見詰めて国民がどう配慮していかなきゃいけないかという、そこの視点が欠けているんじゃないかなというふうに思うんです。

 最近、皇太子様あるいはその周辺でいろいろな議論が出てきておるのも、それは神から人間になったわけですから、人間はそれぞれ自分の意思も持っているし、やりたいこともある、あるいは自分の世界観というのも当然持っておられるということであります。それをどこまで表現できるのか、あるいは、どこまで人間としての生活を我々国民として期待をするのかということがあると思うんですが、それは明らかに、国民の側から見ればもっと自由であっていいんじゃないか、あるいは、もっと人間的なものが表に出てきていいんじゃないかという、そんな期待感も国民のサイドにもあるんだろうというふうに思うんです。そこのところを、今般この機会をもって、しっかり議論をしていくということが大事なんじゃないかというふうに思います。

 それが今全般として欠けているということと、それからもう一方で言えば、新しい世代が育ってくる。教育のあり方も、イギリスや何かを中心にして、子供のころから留学をして世界を見て歩く、あるいは世界の皇室との交流があるということでありますから。それを見ていくと、恐らくますますそうした流れというのは世代間で変わってきて、もっと自分の意思を持った天皇というのがあらわれてくるんだろう、そういう前提があるんだろうと思うんです。そういう意味で、欠けている議論というのをもう一つ深めてやっていきたい。

 どこで具体的にそれをコントロールすればいいかというのは、私自身もまだ議論をまとめているわけではありませんし、あるいは、皇室典範を今議論している審議会の中でもそうした観点というのがもし欠けているとすれば、ぜひ、それを見て切り込んでいって、実のあるものにしていくべきだというふうに思っております。

加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。

 まず、天皇の地位という関係で、私の非常に感覚的な議論で恐縮でありますけれども、今の象徴天皇という制度そのものは大変国民の中に定着をし、また安定した状況になっているんじゃないかな。そういう意味で、あえてそこへ元首という冠を掲げることが、逆に、国民に違う意味での誤解を与えてしまうんではないかなという危惧もするわけであります。

 今、実際の運営上において、諸外国とのバランス上、元首として活動していただく場面も当然あるわけでありますし、そういう部分は当然追認していくとしながらも、文言上そういう言葉をあえて入れていく必要があるのかどうか、もう少し議論をしていかなければいけないなという気が一点しております。

 それから、皇位継承の関係でありますけれども、先ほどからの御議論もありましたように、かなりいろいろな議論ができるようになってきた。いろいろな状況があると思いますけれども、またそうした中に、私は、やはり今、皇室の状況というのも大変大きく影響をしているんではないか。もちろん、男女平等の定着あるいは共同参画社会、こういう流れも一方であるわけでありますが、同時に、多くの国民から見た中で、我が国の文化と伝統をある意味では表現しているこの天皇制度の安定というものに対するやはり心配、不安といったものがそこにあるんではないか、これからどう継承していくのかということがいま一つ見切れなくなってきたんではないか、こういうことが私は背景にあるんではないかなと。

 そういう意味からも、国民の安心というものをそういう意味で確保していくためにも、やはりこの世襲という議論を、今まさにそうされているように、現実、状況に即した形で議論をしていきながら、一方、政府で今有識者会議をしていただいておりますけれども、もちろん慎重な議論をしていくと同時に、一定の段階で結論を出していただく。また、そのことが、我が国におけるこの天皇制の安定的な定着、あるいはそこに対する国民の不安の解消、こういったことにつながっていくんではないかというふうに思います。

 そういう意味では、いろいろな状況を考えれば、女系女子といったことも含めて、先ほどの議論でいえば、長子相続といったことも当然私は議論の中心になっていくんではないかというふうに思います。

 また、そういう議論の中で、宮家をどうしていくかという議論がある中で、やはり財政的な議論は当然必要でありますが、同時に、今、宮家の果たしている役割というものをやはりしっかりと確認をしておかなければいけないんではないかな。今、宮家の方々が国内外においてそれぞれ相当活躍をしていただいているわけでありますから、そういったことの現状もしっかり踏まえてこの議論はしていかなければいけないというふうに思います。

 ただ、いずれにいたしましても、この皇位継承の問題そのものは、今も議論がありましたように、憲法改正そのものをしなくても皇室典範という中で議論をしていける問題であり、もちろん、憲法そのものの考え方と密接に絡むところは確かにあるわけでありますけれども、それはそれとして処理をしていくということも必要ではないかなというふうに私は思っております。

 以上でございます。

園田(康)委員 民主党・無所属クラブの園田康博でございます。

 私も、今回のこの議論の中で私見を述べさせていただきたいと思っております。

 まず、元首という言葉に、さまざまな議論が今までございましたけれども、少しマイナスイメージがどうしてもつきまとっているという印象はぬぐえなかったわけでございます。

 といいますのは、大日本帝国憲法下における元首という位置づけで、どうしても統治権総攬でありますとか統帥権というものを持っているんじゃないかというような御意見がまだまだどこかにあるのかなという、私自身にとりましては少し残念なところがあります。

 すなわち、先ほども少し議論に出ておりましたけれども、要は、天皇家の存続のために日本国民、日本国が歴史的にさまざまな部分で知恵をその都度その都度絞ってきたというところからすれば、この現段階において、私たちの中でそういうものを歴史の中でやはり変えていくということも考えていかなければいけないと思うわけでございます。

 したがって、従来どおりの元首という考え方でそのままやっていけばいいということではなくて、やはり、一条に書いてありますように、対外的には日本国、あるいは対内的には日本国民の統合という形での象徴をシンボライズされた上でずっとこの五十年間確立されてきたわけでございますので、私としては、この象徴というものを用いて元首というものを幅広く申し上げていけばいいのかなという気がいたしているところでございます。

 いずれにしても、先ほど保岡委員からもお話がありましたように、天皇の地位というのは、この一条にあります、我々国民、日本国民の主権に基づいて、総意に基づいて決められているということをもう一度ここで確認をさせていただければ大変いいのではないのかなという気がいたしました。

 それから、旧憲法とこの日本国憲法との天皇に関して大きな違いの中で最大は、やはり「国政に関する権能を有しない。」この第四条に私はあるというふうに考えているところでございます。したがって、この四条の、国事行為のみ行うというところをもう少しきちっと厳密に解釈をしていけばいい。

 ただ、そのほかにおけるいわゆる公的行為であるとか、あるいは私的行為という話もありましたけれども、私自身は、もう一つ、もう一つといいますか、一つのカテゴリーとして象徴行為というものをこの中で明確に位置づけていけばいいんではないかというふうに考えています。

 すなわち、第一条でもう明確に象徴制というものを我々この日本国憲法においては踏襲、踏襲といいますかつくり上げてきたということからすれば、その一条に基づいて天皇という地位が認められている。であるならば、その象徴としての天皇の行為というものは、国事行為、六条、七条に関する行為以外のものであるならば象徴行為という形で位置づけられるんではないかなという気がいたしております。

 それからあと、皇室典範のお話でさまざまな議論がございましたけれども、一つには、皇室経済法というのもございます。したがいまして、これからの議論の中では、皇室経済法も含めて、この皇室典範と皇室経済法、こういったものも統合するような形で一つの皇室法というものを考えていけばいいのではないのかなという気がいたしておりまして、私見でありますけれども、一つの御提案という形で述べさせていただきました。

 以上でございます。

鹿野委員 基本的に、我が国の象徴天皇制は今のままでいいのではないか、こういう考え方であります。

 いわゆる象徴天皇の象徴というふうな意味は、芦部教授も言われておりますけれども、もともとは、例えば、白ユリは純潔の象徴、ハトは平和の象徴というようなことからして、文学的な、心理的な意味、言葉である、こういうふうなことにもなるわけでありますけれども、しかし、諸外国の例を見ましても、イギリスのウエストミンスター法とか、あるいはスペインの憲法そのものにも象徴というふうな文言が使われておると。こういうことからしても、この象徴という日本の国の象徴天皇というのは、国政に関する権能を持たないという原則に結びついた場合の象徴性、こういう意味での象徴天皇という認識でいいのではないかということであります。

 それから、元首であるのかどうかということでありますけれども、私は、元首の要件としては、その一つとして、対外的に国家を代表する権能、こういうふうなことにもなるわけでありますけれども、我が国においては、もう御承知のとおりに、いわゆる認証、接受という形式的な、儀礼的な行為きり認められておらないというようなことからしても、そしてまた、今日の諸外国の元首というふうな地位も名目化されつつあるということからしても、そしてまた、自主的に対外的にも元首の役割を立派に果たしていただいておるということからして、元首ということを明記する意味があるんだろうか、こういうふうに考えます。

 むしろ、我が国の象徴天皇制というふうなものは、元首と明記しないというところに我が国の象徴天皇制があるのではないか、こういうふうな考え方に立ったときに、元首として明記する必要はないのではないか、こういう認識、考え方であります。

 それから、皇室典範の問題でありますけれども、女性天皇制につきましては、もういろいろと御議論あるとおりに、時代の潮流なり、あるいはかつて我が国にも女性天皇制が誕生した、こういうふうなことからいたしましても、また、国民世論というふうなものの動向からしても、総合的に判断した場合に、女性天皇制を認めるということを前提として今後皇室典範についていろいろ議論をしていったらいいのではないか、検討していったらいいのではないか、こういう考え方であります。

松野(博)委員 自由民主党の松野博一であります。

 現在の象徴天皇制度は、日本国憲法の基本原則との調和を目指して存在をしているとの指摘がありますけれども、もちろんそういった側面もあると思いますし、私自身も、象徴天皇制の形が日本にとって望まれる天皇制のあり方であるというふうに認識をしておりますが、その一方で、憲法における天皇の地位というのは、極めて特殊な地位として規定をされている、特例であるとされているわけであります。

 先ほど来議論がありましたとおり、世襲による天皇制度といいますのは、生まれによる差別を認めない、それとは相入れないものでありますし、一般国民に認められております基本的人権も天皇には認められていないという点が挙げられると思います。

 また、憲法に規定されている天皇とはという問題、天皇制の意味、地位の問題でありますけれども、日本の皇室が長くその皇統を保ち、権力でなく権威で日本国民の中にあったということの本質には、宗教的要素と言うと言い過ぎかもしれませんが、宗教的情緒ということがその天皇制を構成する一つにあったということは否定できないことであろうかというふうに思います。

 そういった考えからも、憲法に規定をされている天皇の地位というのが、天皇陛下お一人の地位というよりも、天皇制にまつわるさまざまな宮中行事、伝統的な行事や慣習、行為と結びついて存在をしている、これを切り離しては考えられないものではないかというふうに思いますし、現状の憲法の天皇に関する規定も、当然、それらの伝統的宮中行事等々も含めて、パッケージで特例として認めているものだというふうに私は理解をしております。

 そこで、例えば皇室祭祀に関して、公あるいは公務員が関与をするということが政教分離の原則に反する疑いがあるということも挙げられておりますけれども、こういった天皇制にまつわるさまざまな憲法上の特例から考えますと、これはもっと広範囲に認められてもいいのではないかなというふうに個人的には考えております。

 また、皇位継承の問題でありますけれども、皇室典範の問題でありますが、結論的には、皇位継承の安定性から女系天皇を認めるべきだという考えであります。しかし、女性天皇、女系天皇を認めた上で、第一子相続とするか男子優先とするか、直系、また他の宮家との皇位継承権の問題等々は、さらに検討の余地があろうというふうに考えております。

 ここで、女性天皇の議論で、よく、男女平等の原則であるとか男女共同参画社会の時代的な流れであるとかというようなことが挙げられますけれども、先ほど来申し上げ、また先生方からも議論がありましたとおり、天皇制というのは、現行憲法の基本原則から離れて、極めて特殊な例として規定されているものでありますから、この継承権の議論に関しましても、男女平等議論とは離れて、他のさまざまな要素を踏まえた上で議論を詰めていくべきであろうというふうに考えております。

 以上です。

松宮委員 自由民主党の松宮勲でございます。

 私は、本日は自由討議だということで、私論の若干を開陳させていただきたいと存じます。

 まず、天皇の地位につきましては、現行憲法全体があのGHQの特殊な雰囲気のもとでつくられたものであるということで、いろいろと論議すべき点がございますし、また、そういう認識のもとでこの憲法調査会、いろいろな立場の方がそれぞれの御意見をこれまで積み重ねてこられたことと存じますけれども、事天皇制に関する限りは、個人的に私は、現行の憲法規定というのは結果として非常によくまとまっているものだというふうに感じ取っておりまして、基本的には、現行憲法の一条、二条、四条あるいは六条、七条等を継承して差し支えないというふうに考えております。

 昭和天皇そして今上平成天皇が、この憲法規定のもとで、懸命に文字どおり国民統合の象徴として主権在民のもとで機能してこられたという現実的な積み重ねの重み、そして、その天皇を中心とする皇室のあり方、日常的な行動を国民が慈悲深く眺め、そしてあがめてきたというこの現実の戦後の六十年近くの営みの重みということをしんしゃくいたしますと、私は、基本的に、繰り返しでございますけれども、現行規定をそのまま継承してよろしいのではないかというふうに考えているところでございます。

 象徴天皇制、そういうことでございまして、元首論について、元首を明記すべきだということが大きな流れとして我が党にあることも私は承知をしているわけでございますけれども、先ほど来の何人かの委員の御意見にもございましたように、憲法七条の八号、九号という外交との絡みでの天皇のあり方というのは、形式的にもう既に元首的な機能を有しているという見方も可能でありますし、また、そういう学説が戦後、憲法学界においても展開されていることも事実でございます。

 私は、それ以上でもなければそれ以下でもないということで、元首的性格を持ち合わせた象徴天皇制というのがまさに現行規定であるということをしっかりと受けとめて、現在の象徴天皇制というのを我々は今後とも継続して守っていくべきものというふうに考えております。

 以上が、憲法論としての天皇制についての私の議論でございます。

 天皇家の世襲の問題につきましては皇室典範で具体的に規定されているところでございますが、今、目下話題になっているのは、皇室の断絶の可能性、その危機にどう対応すべきかということでございますから、これは、既にもう設けられております政府の検討会でしっかりとした議論がなされ、そして、国民世論の実態というのを踏まえた上で、断絶のないように、その場合、やむを得ない場合には女系天皇というのが出ることもこれは当然想定されるわけでございますから、そこもしっかりと踏まえた上で、建設的なそして前向きの結論が出ることを期待しております。

 結論的に申し上げますと、私は、女系天皇であって、かつ長子が天皇の地位を継承するということも、やむを得ないというよりは、むしろ、今日の世論の流れに照らしてみますと至当であるというふうに考えております。

 以上でございます。

保岡委員 天皇の元首性について、先ほどの私の発言の後にも幾つか御意見が先生方、委員から述べられましたけれども、私は、外国で元首というものがどういう取り扱いを受けるかということは非常に重要なことだと思っております。これは、いわゆる外国において元首といった場合、どういう元首が一般的かということについて法的にどうだということの検証をきちっとして、それに並べられるようなものはいかがかという趣旨かと思える、ちょうど枝野先生の御意見や、あるいは鹿野先生から、既に形式的な権能を持つ君主が一般的になってきている現実というのもあるという御指摘もございました。

 私はやはり、外国に行った場合に、天皇がどのような立場で扱われるか。決して外国の君主も、実質的な国を代表する外交その他の首脳会議等の場に列席して何かを行うということは、これは一般的に国際的にもそういうことは行われていないのが現実でありますし、やはり、元首というのが集まって何か儀式的な、形式的なことを行うときの立場というものをよく私たちは考える必要があるんじゃないかということで、枝野先生から、象徴というのは、もっと歴史的に考えても、日本国独特の象徴、権威としての存在からいっても、他の国の元首とは違った重さがあるという御指摘もありましたけれども、そういう重さがあるにもかかわらず、外国でいろいろ元首などが列席して行う際に、元首として扱われない立場で一歩置かれたような立場に立たされるということは私は適当じゃない、その辺はやはり国の外交のあり方としてきちっと位置づけていく必要があると。

 したがって、我が国の憲法は既に形式的に元首であることを認めており、諸外国にも同じような例はあることであるから、私は、そういった意味での元首の性格を憲法上明確にすることは、決して復古的でもなければ、特にそれをもって、憲法が定める大原則であり、長い歴史の中で確立された、先ほど野田先生が言われたような、権力と権威を分けたこの伝統というものが変わるわけでもない。

 やはり、憲法に国政の権能は有しないということが明言されている以上、それと天皇制の正しいあり方とを位置づけていくということが必要であり、そういった意味では、国事行為のみ行うと書いてありますが、私はやはり、象徴としての行為とか皇室としての行為とか、天皇の公的行為についてさらに明確にした上、これを、国民の主権、すなわち国会が選んだ、そこに根拠を持つ総理大臣ないし内閣の助言と承認のもとにきちっと位置づけるということなど、きちっとした法的な整理と実質とをかみ合わせた、日本の伝統、文化をしっかり踏まえた憲法に天皇の位置づけもしていく工夫が必要なんじゃないだろうか、そういうことを思っておりますので、重ねて申し上げたいと思います。

三原委員 自民党の三原でございます。

 ちょうど私も、保岡先生がおっしゃったようなことを自分自身の個人的意見で申し上げようと思ったんですが、そこのところはちょっと先生と私の意見は異にするような感じがするわけであります。

 今を去ること六十年前に我が国は敗戦というものを経験したわけでありまして、そのときに、やはりその当時の天皇の責任論というものもあったわけでありますけれども、しかし、それを乗り越えて新しい憲法ができて、今日我々は、天皇というものの存在と国民との距離みたいなことを考えたときに、やはりあの未曾有の体験をしたにもかかわらず、我々が天皇制というものに対して尊敬もし尊重もし、そしてまた、天皇という個人的な存在に対しても親愛の念を持って今日まで続いてきているということから考えますと、そこはなぜなんだろうか、こうしみじみと考えるわけであります。

 そうなったときには、やはり結論として言えることは、私は、より憲法に明確にその存在理由みたいなことが書いてあるとか国事行為があるからとかいうことよりも、もっと何か感情的な面が我々国民の中に大いにあるんじゃないかという気がしてならないのでありまして、そういうことを敷衍していけば、結論として私は、より厳格、明確なことを書いていくよりも、今のようなままでいい、あいまいと言われようとも、今のようなままの方が私はいいというふうに個人的には考えております。

 対外的な問題を考えたときに、では、天皇の立場というのはもっと対外的には明確であった方がいいじゃないか、こう言われますけれども、私自身は、天皇に、外へ向かってある意味で日本国を代表してもらうようなときに、よりそこでも非政治的な場面では大いに活躍してもらうという、一つの国家としての矜持を保つような、働いていただくような、そういう国民としての意識があればそれでいいのであって、それを一から十まで具体的に書き込んでいくような形は、私はむしろいいことにはならないと。

 同じことを繰り返しますが、厳しい敗戦という経験をしたにもかかわらず、我が国がこうして天皇制というものを維持してきたというのは、国民の心の大いなる問題が重大なところにあるのであって、文言で書くことによってということは私はより少ない方がいい、そんな感じはします。

早川委員 自由民主党の早川でございます。

 今、天皇制についての、これをどうやって位置づけるか、あるいは元首という表現をとるかとらないかの議論がありました。

 私は、もし天皇のあり方、地位について国民的に議論が非常に巻き起こって、これを解決しなきゃならないという事態がある場合には、保岡委員が言われたような表現は非常に適当であると思っています。

 ただ、国民の八〇%は現在の象徴天皇制について特に異議を述べていないという状況の中で、それでは、現在の規定の仕方にどんなふぐあいがあるか、その具体的な不都合な事例がどの程度明確に調査されているか、これによって決定をすべきではないかというふうに思います。

 これは、葉梨委員からの議論にもありましたけれども、国民主権が大前提の中で天皇という位置が決定されている。現在の規定ぶりからすると、実は、前文に国民主権ということが明示された上で「第一章 天皇」、こういう位置づけになっております。そういう意味では、非常に巧みな規定のしぶりを現在しているがために、結果的には妥当な状況になってきたのではないだろうかなと思います。

 そこで、制度としての天皇制を持続可能な形でどうやって今後考えていくか、その場合の女性天皇の問題、あるいは、民主党の委員からもお話がありましたけれども、天皇がみずから天皇であることを望む、望まないという状態が将来出るかもしれないということに対してどう制度的に設計をするかということの検討も、やはり、皇室典範の議論の中ではクリアしておかないと将来的には大変な問題も出てくるかもしれないというふうに思っております。

 いずれにしても、私は、現時点において特に元首ということで明示をしなきゃならないような社会的な事象というのは余りないのではないかなというふうに思っておりますので、その辺については諸委員のお話を承りたいと思います。

 ありがとうございます。

枝野委員 若干蛇足になるかもしれませんが、先ほどの保岡幹事の御発言というのはちょっと問題かなというふうに思いまして。

 天皇が国際社会の中でどういうふうに見られ、あるいはどういうふうに例えば海外を御訪問されたときに扱われているのか。私の理解する限りでは、そういう狭い意味でのある種の元首的な扱いは既にきちっと受けているものというふうに信じておりましたし、もしそうされていないのだとしたら、従来の政府と外務省の責任は大変重大であるということになるわけで、もしそういう扱いをされていないと与党の中の方が思っていらっしゃるんだとしたら、それは、内閣のみずからの責任をみずから認めているような話で、大変な問題発言だと思います。

 私は、現状でもきちっと陛下は国際社会の中で陛下の地位にふさわしい位置を、外務省、会長も元大臣をされていますが、の御尽力もあったと思いますけれども、されているというふうに思いますので、実態、立法事実に基づかないような議論をすると議論は混乱をするというふうに思っております。

 それから、もう一点だけ保岡幹事の議論の中で、若干私の発言を誤解されたのかもしれないので補足いたしておきますが、私は、天皇制が、千五百年、二千年、いろいろな言い方があるかもしれませんが、長い歴史の中で、あえて言えば、一番危機があったとすれば、それは六十年前だっただろうと思います。なぜそこで天皇制の危機があったのかといえば、それは、明治憲法が天皇の位置づけを、ヨーロッパの王制、特にプロイセンの王制というものを、横並びで横に引っ張ってきて同じような存在にしてしまったということが、結果的に、第二次世界大戦の終わった時点で、国際社会から、プロイセンの皇帝と同じような日本の天皇というのは存在なんですねと。それは、言葉の使い方から憲法典の書き方から、欧米の当時の君主制の憲法と同じような位置づけと書き方をしていた以上は、国際社会がそういう認知をするのは当然のことだろうと思います。

 結果的に、日本に対する十分な理解のある人たちが当時のGHQの中にかなりの数いたというようなことなどもあわせて天皇制は存続することができたわけでありますが、やはり、国際社会に対する発信ということでは、少なくとも、従来のヨーロッパあるいはアジアにおける君主制、他の国の君主とは日本の天皇制は歴史的に意味づけが違うんですよというメッセージの方が、むしろ国際社会に対して発信をしておく意味としては大事なのではないか。言葉自体も、あえて私たち日本人は、中国の皇帝とかローマ皇帝、イギリス国王とかという言葉と天皇という言葉を分けて使ってきているということの中で、あえて他の国の君主と同じように元首という言葉を使うということは、むしろ天皇制の将来にわたっての国民の統合シンボルとしての安定性に反するのではないか、そういうことを申し上げたつもりでございます。

 以上です。

中山会長 私の立場を今枝野さんはお述べになりましたが、私は、天皇、皇后両陛下のフランス、スペインへの公式訪問の際に首席随員を命ぜられて、同行させていただきました。その際の相手国の代表者、スペインにおいてはスペイン国王御夫妻、また王室の御一家、あるいは、フランスにおいてはミッテラン大統領御自身が、長い千数百年に及ぶ伝統を持つ日本の天皇をお迎えしたことは我が国にとって光栄であります、こういうお話をあいさつでされました。

 私は、そういう意味で、海外において天皇が公式訪問される場合には我々の期待するとおりの処遇を受けておられるということを、その場におった人間としてここで確認をさせておいていただきたいと思います。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 発言してきたことが重なってくるんですけれども、どういう処遇を受けたのかというのは私は知りませんが、日本国憲法とのかかわりでいきますと、元首性を見ることは全くできないということは明確だと思います。それは、元首というものが、行政の長、あるいは何らかの統治権を持ち、そして対外的にも代表するということになるわけですから、このどの内容を見ましても、天皇が元首性を持つということは言えないと思います。

 それで、外国とのかかわりでいきますと、「国政に関する権能を有しない。」というように定められているこういう国家機関はないというふうに私は思います。

 それから、もう一点なんですが、第一条は、明治憲法の改正という形をとった関係で「第一章 天皇」になっているわけですけれども、第一条自身は、国民主権原理を確認した非常に大事な条文です。そして、そのもとに国民の総意ということで天皇を置いたわけです。ですから、その点でいきますと、国民主権原理に基づいてつくられているものであって、先ほどから出ております権力と権威の区別だとか、そういう議論とは全く法規範上は関係がありません。そのことも申し上げておきたいと思います。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 先ほど発言をいたしまして、元首の問題があるのでお話をするんですが、前にも井上毅さんと伊藤博文さんの論争みたいなことを挙げてお話をしたことがありまして、あのとき、井上毅さんの治す(しらす)、領く(うしはく)論というのがあるのに対して、伊藤博文さんたちは、そうではなくて、憲法に天皇をちゃんと位置づけて立憲主義、立憲君主制を行いたいということで、ここにも、明治憲法の中に伊藤さんから始まって榎本さんまで載っておりますけれども、その議論をやったんですね。

 というのは、当時の井上毅さんは、ヨーロッパの統治機構ではなくて、日本には治す(しらす)、領く(うしはく)というような日本独自の統治機構というものがあるんだと言いたかったんだと思うんですね。それをずっと押していくとどうなるかというと、天皇が憲法より上になるということが起こり得る発想であったので、伊藤博文さんたちは、明治憲法でいけば四条の、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と、こういうふうに明確に抑制をしているわけですね。憲法の中に規定をしているという、これが明治憲法でございます。

 ところが、現憲法はそうではなくて、元首という言葉を入れないで象徴天皇制をつくっておりますので、今の憲法の中で元首ということ、先ほど私は、元首というのは定義からいけば違いますということを申しましたが、元首にすべきだという考え方というのは、どちらかというと、この明治憲法のときの抑えようという考え方に対して、天皇の権能を抑制的に考えようというのに対して、むしろ逆の方向で物を考えていることになるのではないかということで、現憲法上は、国内で行政権とあるいは具体的な意味での条約締結権がないんだとすれば元首と言わない方がいいのではないか、こういうことを先ほど申し上げたということでございます。

 そして、権威の問題も出ておるんですが、権威の問題も、日本国憲法は、前文のところに「その権威は国民に由来し、」ということで、「その権力は国民の代表者がこれを行使」ということでありまして、何らかの天皇制に権威がないというわけではございませんけれども、やはりそこを明確にしておくことが重要なのではないか、だからこそ政治的な行為を行わないということになっているのではないか、そういうふうに考えております。

 以上です。

中山会長 他に御発言はございませんか。

 それでは、発言も尽きたようでございますので、これにて天皇についての自由討議を終了いたします。

 午後二時から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十一時三十九分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時二分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を続行いたします。

 本日の午後は、安全保障・国際協力・非常事態についての自由討議を行います。

 議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、近藤基彦君。

近藤(基)委員 自由民主党の近藤基彦でございます。

 本調査会が設置されて早くも五年が経過しました。その間、憲法調査会は精力的に調査を行い、いずれの委員も、我が国の今後のあり方を見据えつつ、憲法のありよう、そして、憲法のあるべき姿について真摯に調査を重ねてきたところであります。

 私自身は、平成十二年六月の初当選以来、一貫して本調査会の委員として調査に参画させていただいており、また、安全保障及び国際協力等に関する小委員会の小委員長も務めさせていただきました。この間、本日のテーマである安全保障、国際協力、非常事態については、特に大きな関心を持ちながら討議の詳細を間近に見てきました。本日は、そうした議論を踏まえつつ、私の意見を述べてみたいと思います。

 憲法は、制定以来、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三原則のもとで我が国の戦後の復興、繁栄を支えてきました。このことの意義は高く評価されるべきだと思います。しかし同時に、冷戦終結後の国際環境の急激な変化に十分対応できていないといった問題点も多く、多くの論者から指摘されているところであり、このような国際環境の変化に応じた安全保障のあり方、すなわち憲法のあるべき姿が活発に論議されるようになってきました。つい最近まで、このような憲法のあるべき姿についてタブーなく議論すること自体が遠慮されるような異常な事態が続いてきたように思われますが、本調査会が中山会長を初め各会派の方々の御尽力で設置され、これが契機となって、現在では、憲法について自由に議論するという当たり前のことが現実のものとなりました。本調査会の果たした役割は、この一つをとっても大変意義深いものがあったと思います。

 さて、本日は、安全保障、国際協力、そして非常事態に関する締めくくりの自由討議でありますから、少しまとまった形で意見を申し述べたいと思います。まず平和主義、次いで憲法九条について意見を述べたいと思います。

 私は、現行憲法の掲げる平和主義の原則は不変のものであり、今後も堅持すべきものであると考えます。しかし、この原則のもとで、我が国がどのようにして国家の独立と国民の安全を確保し、さらには国際の平和と安全のために貢献していくのかについては、本調査会においてもさまざまな意見がありました。この論点に関して、私は次の二つの点を指摘しておきたいと思います。

 一つは、前文の、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我が国の安全を保持しようとすることは、理想としては理解できても、現在の国際情勢、国際常識から見て、果たしてこのような安全保障観で国や国民の安全を守ることができるのだろうかという疑問であります。

 そして、もう一つは、我が国の国力に応じて国際社会から期待されているような国際貢献を行おうとした場合、憲法上の制約によって必ずしも十分な人的貢献を行えない場合があるということであります。これは、自分の国さえ平和であればよいという一国平和主義の問題と言うこともできます。

 つまり、安全保障と国際貢献の両面において、これまでの平和主義は必ずしも十分でない部分があったのではないかと考えます。これを打開し、現在の国際情勢の中で真の平和主義を構築していくための方策として、私自身は次のように考えます。

 まず、現実の脅威を目の前に、万が一の場合に備えておくことは、国民の生命、身体、財産の安全の確保を第一義とする政治家の責務であり、また多くの国民の望むところであると考えます。もちろん、日ごろから周辺諸国を初めとする諸外国と信頼関係を築き、紛争の未然防止のために外交努力をすることは当然でありますが、他国から武力行使を受けるという万が一の不測の事態が生じたときには、武力をもってしてでも国と国民の安全を守るべきであり、そのための体制整備をしておくことは必要不可欠なことではないでしょうか。

 また、我が国の安全や繁栄は、国際の平和と安全から大きな恩恵を受けております。グローバル化が進む現代においては、とりわけ国際的な相互依存関係が強まり、我が国から遠く離れた地域における紛争が我が国の安全を脅かし、経済的な活動にも大きな影響を及ぼすことになります。我が国は、経済大国にふさわしい国際貢献をする責任を負っており、また、こうした貢献は我が国の安全と繁栄のためにも不可欠であるということを認識すべきであります。

 このような相応の実力に支えられた国際貢献というテーマについて、以前、私は本調査会において、人道上の人間の安全保障に基づく国際貢献という形で述べたことがあります。これは、一人一人の人間の豊かな可能性を引き出し、意義ある生活を送ることができるよう、政府、NGO、国際機関等が連携して基本的支援を行うというヒューマンエンパワーメントの側面とともに、その支援が実施される地域での社会秩序の維持に関し、第一義的な責任を負う国家がその機能を発揮する十分な能力と意思を有しない場合であって、その支援について正当性が担保される場合においては、軍事力の提供をも含む支援を行うことによりこのヒューマンエンパワーメントを実現するというプロテクションの側面も有するものであります。人間の安全保障とは、このような実力行使をも伴ったものであることをまず御理解いただきたいと思います。

 残念ながら、こうした考え方は、国際法上いまだ十分に確立されているとは言えませんが、その必要性にかんがみて、今後、我が国は、このような考え方を未来志向のよりしなやかで強靱な平和主義の形として提示し、国際の平和及び安全の維持に向けた取り組みに積極的に関与すべきであると考えます。

 こうした考え方を踏まえて、次に憲法九条について、やや具体的な意見を申し述べたいと思います。

 憲法九条は、戦後我が国の繁栄と発展に大きな役割を果たしてまいりました。このこと自体については、幾ら評価しても評価し過ぎるということはないと思います。しかし、国際環境の急激な変化に応じた解釈の積み重ねにより対応することはもはや限界が来ていることも、多くの委員の共通認識であるかと思います。

 このような解釈を放置しておくことは、憲法と現実が乖離しているとの印象を国民に与え、ひいては国民の憲法軽視にもつながりかねない状況を招いてしまうと危惧します。これは、法の支配の観点からも問題であり、憲法九条を国際社会の現状に沿った明確な規定にする必要があると思います。

 第一に、九条一項の国際紛争を解決する手段としての戦争、これは侵略戦争と解するのが国際法上の定説であることをまず確認しておき、そのような侵略戦争の放棄の理念は今後とも堅持する必要があります。

 その上で、第二に、国際社会の現状に沿わない戦力不保持と交戦権の否認を定める同条二項は、これは削除あるいは改正すべきと考えます。

 国連憲章は、武力行使を原則として禁止しつつも、例外として個別的及び集団的自衛権の行使が許される場合についても規定しております。したがって、二項の削除あるいは改正により、必要な場合には集団的自衛権も含めた自衛権の行使が認められることを明確にすべきと考えます。

 もちろん、個別的であろうと集団的であろうと、武力行使を伴う自衛権の行使は抑制的であるべきです。こうしたことを明らかにするために、特に集団的自衛権を発動する場合は、あくまでも我が国の死活的な利益に重大な影響がある場合などに限定するとともに、その手続として国会の関与などを明文で規定するのが適当ではないかと考えます。

 このように集団的自衛権の行使を容認することは、米国と共同して行う我が国の防衛及び我が国周辺における国際貢献をより円滑、効果的に行う意味でも、また、アジア地域における地域安全保障の枠組みの構築を見据えた場合にも重要なことであろうかと思います。

 第三に、国連決議に基づく多国籍軍を初めとする国際的な合意に基づく国際の平和と安全の維持や、人道的支援のために行う国際的共同活動に積極的に参加する旨を憲法に規定すべきであると考えます。国際的共同活動を行う際には、他国とリスクを共有できるようにすることがより一層の国際貢献を行うために必要であり、抑制的に行うことはもちろんですが、一定の武力の行使が必要な場合もあり得ると考えます。その際には、先ほど述べましたように、人間の安全保障の考え方についても言及することが有益かと思います。

 第四は、自衛隊の憲法上の位置づけを明確にすることです。

 自衛隊は国の防衛を担う組織ですが、これに加えて最近では、国際貢献活動や国内外における災害救援活動について、国際的にも国民の間からも高い評価を受けております。このことを踏まえて、自衛隊を国の防衛と国際貢献を担う主体として憲法に明確に位置づけるとともに、同時に、その最高指揮権が内閣総理大臣にあることや、武力行使を伴うような自衛隊の活動に対する国会の関与などのいわゆるシビリアンコントロールの原則をもあわせて規定すべきであると考えます。

 最後に、非常事態についてでありますが、現行憲法が国家緊急権を認めているか否かについては論争があります。しかし、現行憲法上、非常事態あるいは緊急事態について言及している規定は、わずか参議院の緊急集会の規定しかありません。しかし、テロや大規模自然災害など、非常事態はいつどこで起きるかわからないものです。これに的確に対処するためには、一時的な権限の集中や一定の人権制約などが必要であり、このような場合に関する規定が憲法上明確にされていないと、かえって超法規的な運用を招く事態となりかねません。

 したがって、ドイツの基本法のように、我が国有事のような場合だけでなく、大規模テロや大規模自然災害などの場合も含めて、非常事態全般に関する規定を整備すべきであると考えます。

 憲法調査会の活動期間は五年を経過し、いよいよ最終報告書を取りまとめていく段階に来ました。これまでの議論を踏まえ、国民の信託にこたえるためにも、より明確な形で報告書が取りまとめられることを希望いたします。

 また、最終報告書の提出後には、議案提出権を有する機関において、憲法改正の発議や国民投票法制定に向けてさらに議論が深まることを切にお願いをして、私の意見とさせていただきます。

中山会長 次に、中川正春君。

中川(正)委員 民主党の中川正春でございます。

 憲法九条をめぐって、なるべく現実的な議論をしていきたいというふうに思っています。

 平和憲法、憲法の三原則の中で平和を求めていく、守っていくということについて、これからもそれを基本にしていくということについては、これは国民全体のコンセンサスがあるんだろうと思いますし、そこのところはしっかりと位置づけていくということだと思っております。

 その上で、現実的に、どこまでのことができて、どこからはやってはいけないのかという、我々の意思というか基本をこの憲法九条の議論を通じてはっきりさせていくということ、これが一番大事なところだろうと思うんです。それがないから、外から見ていて、日本の国家の意思、日本人は何考えているんだかわからない、こういうことになっていくのでありまして、そこをどれだけこの憲法議論で我々がコンセンサスの中で詰められるかということだと思っています。

 その上で、きょうは四つのカテゴリーをつくって議論をしてみたいと思います。

 まず第一は、国際貢献という分野。それから第二は、自衛権でありますが、これは、今の憲法でいく、あるいはこれまでの規定概念でいくと、国家間の紛争、これを前提にした自衛権という議論があろうかと思います。それから三つ目は、国連あるいはまた地域の安全保障に対して、そういう機構、構築に対してどう関与していくかということがあろうかと思います。それから最後に、国際テロ活動や、あるいは民族、宗教間の対立など、紛争事態が国家を超えて違った形の形態をとってきている、それに対してどう対応していくのかということ。この四つのカテゴリーに分けて考えてみたいと思うんです。

 一と二、国際貢献とそれから自衛権という問題は、これまで我々が既に直面をしてきて、どちらかというと、憲法に真っ向から向かっていくというんじゃなくて、解釈の改憲、解釈を変えていくということによって柔軟に対応してきた。それが今限界に来ているというところがこの一つ、二つじゃないかと思うんです。特に国際貢献は、国連憲章に基づいて、いわゆる六・五章から七章と言われる部分でありますが、これは、破綻国家に対して国連が主体となって派遣する人道支援からあるいはネーションビルディングに至るまで、いわゆるPKOから多国籍軍への選択でありますが、これについてどのように整理をするかということがあろうかと思うんです。

 私は、率直に言って、これは日本はフルフレッジで、その派遣自体が武力の行使が必要となる、そういう可能性、そういう前提があったとしても、これは参加をしていくべきだというふうに思っております。

 ただし、いわゆる武力行使というのは抑制的でなければならない、いわゆる先制攻撃的なものには参加をしない。どちらかというと、治安維持あるいはピースキーピングの意味での攻撃に対する最小限の装備を持ってというその部分をはっきりさせることによって、ここの理解というのはもっと深まった議論ができるのではないかというふうに思っております。

 それから、二番目の国家間の紛争を前提にした自衛権でありますが、これは専守防衛を堅持していくということであろうかと思うんです。

 具体的には、個別的自衛権というのは当たり前のことなんですが、集団的自衛権と言われる場合に、当面直面しているのは日米同盟なんですね。一国と一国の間の同盟関係をどう整理していくかということだと思うんです。具体的に言えば、それこそイコールパートナーになっていくべきだという議論もあるんですが、日本が核武装をしないという意思を持っている限りは、これはイコールパートナーにはならない、なり得ない、あるいはなってはだめなんだというふうに思うんです。そこのところを踏まえながら、私は、日本の国益とそれから日本という国柄の中で生きていくという意思をここではっきりと示していく、そのことが専守防衛を基本にしていくということであろうかというふうに思います。

 ただし、現在のように、いわゆる第三者に対する核の抑止力を依存していくということに対して、これも整理をした上で、それでいいんだということ、これも再確認をしていくことが大切なんだろうと思うんです。

 その上で、今のイラク紛争を見てみますと、日本の自衛隊派遣が、自衛権、いわゆる日米同盟を主体にして理論づけがなされております。小泉政権はアメリカとの同盟関係を大切にしているということ、これは間違っているんだろうというふうに思うんです。憲法的にも間違っているんだろうと思います。これはもう一回、いわゆる国際貢献、国連という旗のもとで、あるいは国際貢献の中で日本が何をすべきかということに基づいた判断をしなければならないんだろうと思うんです。

 その上で、国連に対する、あるいは今回の先制攻撃に対する大義が崩れているということ、ここでそもそも間違っているんですが、それを省いても、自衛隊が行って人道支援に特化しなければならないという、その理屈のところがねじれている。本来は、自衛隊あるいは国際貢献の中で求められている軍隊の派遣というのは、これは治安維持なんだろうと思うんですが、それが、日本の場合そこがねじれていて、人道支援ということに限定をされて、しかもそれが日米同盟で説明されているというこの矛盾と、それから取ってつけたようなその理屈づけの中の自衛隊派遣というのは、これは国家として非常に不健全であるし、真っ当な議論になっていないということがあるんだろうと思うんです。

 それだけに、原点に返って、このイラク問題というのは、もう一回、撤退をして、その中で日本の国内の議論というのを整理してからこうした国際貢献についてのコミットというのをしていくということにしていくべきだというふうに思っております。

 次に、地域の安全保障の枠組みですが、これは、私は、日本にとっては具体的には北朝鮮なんだろうというふうに思っております。最終的には、この朝鮮半島の位置づけを日本としてどのように持っていくか、その中でどんな役割を果たしていくかという議論がなされなければ、これは北朝鮮の問題自体も解決の糸口になっていかないんだろうというふうに思うんです。

 その上で、恐らく韓国がそれを今自分のこととして感じているんだろうと思うんですが、朝鮮半島をいわゆる韓国化するということについては、例えばそれは中国ががえんじ得ない、それに対しては賛成をしないところだろうと思いますし、イラクのように、中国が朝鮮半島に占領統治をしていって治安維持をするというような構図に対しては、逆にアメリカの方がこれは賛成をしない、がえんじ得ないところであります。

 そういうことからいくと、今方々で提案あるいは提議が出てきております北東アジア安全保障機構構想、こうしたいわゆる集団的安全保障、この地域、いわゆる北東アジアということを前提にしたそうした集団安全機構というのが恐らく我々の構想の中に出てきて、そうしたことの中で、アメリカも含めて全体のアジアの安全保障戦略というのが話し合われていく、そしてそれが何らかの形で構築されてきて、初めて北朝鮮というのがそれなりの位置づけになってくるんではなかろうかというふうに思うんです。

 そういう前提で考えていくと、それに対して日本がどのようにコミットしていくかというのが、これは国内、私たちの意識を整理していく上でどれだけ大切なことになっていくのかということだと思うんです。私は、この地域安全保障、あるいは国連による安全保障もそうでありますが、これは、日本の軍事的参加ということを前提にしないと、日本がそれに対してイニシアチブをとって戦略構想をつくり上げていこう、あるいはそれをアジアでリードしていこうという立場にはなり得ないというふうに思っております。その上で考えていけば、早いところここは日本の国内で整理をして、そうした枠組みがつくれるような体制というのをつくり上げていくということが大切なんだろうというふうに思うんです。

 ただし、この際にも武力行使というものについては抑制的である。それは、さっき申し上げた先制攻撃的なものということは、これはコミットしないということをどこかで規範として持っていて、それを極力抑制的なものにするという日本の意思をその中に明記をしていくべきだというふうに思っております。

 時間がちょっと延びましたが、最後に、済みません、この国際的なテロや民族、宗教間の対立でありますが、国連が今ネーションステート、これは民族国家というんですか、国家ということを中心に成り立っている組織なんでありますが、私は、最終的には、国家を超えた問題、いわゆる民族、宗教等々あるいはテロ活動は、今の国連ではなかなか解決ができないんじゃないかなという思いがしております。それを踏み台にして、もう一つ汎グローバル的な形の組織体の中でこうした問題に対応していくという世界の中の潮流というのをつくり上げるということ、そんなことも含めて日本の憲法論議の中に入れ込んでいければという思いでおります。

 以上です。

中山会長 次に、太田昭宏君。

太田委員 公明党は、現憲法はすぐれた憲法であり、この五十年余、社会のあり方においても、経済におきましても、平和という問題におきましても、国の根本法として大きな役割を果たしてきた、このように考えます。

 憲法について我が党は、何度も申し上げてきましたが、憲法三原則を不変のものとして堅持し、九条を堅持し、そして、時代の進展とともに提起されてきた環境権あるいはプライバシー権等について憲法に加えて補強するという、加憲という立場をとっております。

 憲法九条と日本の安全保障の問題であります。

 極めて大きい、ある意味では一番大事な問題かと思いますが、私は、特にこの九条のみならず、どうしても九条のみに憲法改正の論議が集約をされておりますが、基本的人権あるいは憲法十三条あるいは地方分権、統治機構のあり方、そうした幅広い論議というものを常にしていかなくてはいけない、こういうふうに思ってきましたが、きょうは九条並びに安全保障について発言をさせていただきます。

 この特に十年余、検討しなければならないことはさまざま惹起したと思います。イラクへの人道復興支援の問題あるいは九・一一、テロ、そして大量破壊兵器の拡散、さらに我が国周辺の領域警備等の問題あるいはPKOを初めとするいわゆる国連の集団安全保障問題、そうした数々の問題が提起をされております。

 九条の精神は、軍事力や武力の行使に対して極めて抑制的である、そして専守防衛である、侵略戦争はしない、そして海外での武力行使はしない、そしてそうした戦力は持たないというのが基本的な九条の精神だと思います。

 九条は、平和を発信した、あるいは、戦後、戦争責任などの諸問題の中でアジアへの安心感を与えた、あるいは経済という点におきましても、戦後、GDP一人百ドルの日本でありましたが、今、三万ドルを超えるというところまで来た、貧富の差もない、そうした国家を築いたということの根源には、この平和憲法の象徴たる九条が厳然としてあり、その役割は極めて大きいというふうに認識をしております。

 論ずべき問題は多々ありますが、基本的に、九条は一項、二項を堅持する、そして九条の精神は堅持したいと私は強く思っております。

 党内の論議もさまざまありまして、私自身の問題点も一緒なんですが、一つは、自衛隊の存在をどう考え、そしてこれを憲法上明記するかどうかという一点であります。第二には国際貢献の問題、そして、その国際貢献の問題は、国連の集団安全保障というものをどう考えるかという問題であります。第三には集団的自衛権の行使の問題、我が党においては、行使できないとする今の政府解釈というもの、それは支持したいというのが党の大勢であるというのが現状でございます。

 まず、自衛隊をどう位置づけるかという問題であります。

 自衛隊は合憲であるということを我が党は主張し、そして憲法九条は、当然、自衛権は否定しておりません。国際紛争を解決する手段としての戦争、武力による威嚇、武力の行使は否定はしているわけですが、自衛のための必要最小限度の武力の行使は認められているわけです。自衛のための必要最小限の実力を保持することは認められており、その個別的自衛権の担保としての自衛隊というものの存在があるというふうに思います。専守防衛でありますから、だめなものは、他国を壊滅的にするという、特に具体的には、攻撃的兵器を初めとする問題は禁じられているというのが政府の見解であり、私はこれを支持します。

 この範囲の実力部隊を認める、明示するかどうか、これが憲法上の第一の問題であります。我が党には、この点も第三項として自衛隊の存在を加憲した方がいい、合憲であるからという意見もあり、同時にまた、合憲であるからあえてこれを提示するという必要が、もう既に自衛隊は認められているのではないか、新しい表現をすれば必ず新しい解釈というものが生まれるという慎重論も一方ではございますが、この自衛隊というものを加憲論議の対象としていきたいというのが現在の我が党の姿勢でございます。

 次に、国際貢献のあり方でございます。

 貧困、テロ、感染症、大量破壊兵器の拡散、そして大災害など、直面する脅威の問題はさまざま多いと思います。

 日本が国際貢献をよりするというのは、私は、当然のことで、異論はないと思います。災害復旧等は、コントリビューションという、そうした貢献というよりも、日本の経済的な地位や今までの行動ぶりということからいきますと、むしろ、コントリビューションというよりはオブリゲーションというような位置づけになろうかというふうに思っております。人類の災禍を除く、このことは極めて大事な、日本として貢献をしていかなくてはならない働きであり、国連との連動のもとでやるということが大事だと思います。

 憲法論的には、前文に「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」という有名な一文がありますが、この国際協力の理念というものを、ここにしか国際貢献がうたわれていないというわけですが、理念自体の中にもより人間の安全保障というものを強く表現するという主張というものは、私は、かなりうなずけるものであろうというふうに思っております。

 しかし、憲法上は、ほかには国際貢献にかかわることがございません。明確化をした方がいいという指摘は、かなり納得できる指摘であります。ただ、安全保障にかかわるものは九条でありましょうし、その他にかかわるものもありましょうから、この明確化ということについては相当慎重に考えていかなくてはいけないということで、我が党は、この国際貢献ということについては、加憲論議の対象にこれも一項目加えて、慎重にこれから論議をしっかりしていこう、こういうふうに考えております。その場合に、九条に加えるというような形なのか、前文に加えるという形なのか、別の条を立てていくのか、あるいは別の章を立ててやるのか、あるいはそれを法律にゆだねるかというようなさまざまなことも含めまして、論議をし続けていきたいと思っております。

 まず、九条に限らない国際貢献ということについては、特にきょうは強調しておきたいと思っております。今のままでできるPKO、そして同時に、PKOプラスODA、さらにはNGOを加えるというような形で、行動する平和主義というものをさらに強めていくということが大事だと思います。

 国際テロ根絶への努力ということは必ずしも憲法論争ではありませんが、これからの安全保障や、世界のあるいは人類の災禍を除くという観点からいきまして、テロ防止に対する国際的枠組みの強化、現在十二条約ありますけれども、こうしたものの枠組みをさらに強化していく。NBCテロ対策、サイバーテロ対策、ハイジャック防止対策等々についてさまざまやる必要があると思います。

 災害についてもそうです。さらに、警察や海上保安庁とも連携をとり、国際機関との連動のもとで、ポリシングという観点、未然防止システムの確立ということにもっと努力をしていかなくてはいけないと思います。

 国連中心の平和協力活動でありますが、国連の集団安全保障につきましては、我々は、我々はと言っていいか、私はと言っていいかわかりませんが、国連は自己目的追求、侵略戦争ではない、質も違うしという、そうした国連の集団安全保障の質の違いというものは認める。しかし、武力行使という観点では、国連が決めたということですべて武力行使も可能ということには、私は、極めて危険性を感じます。国連が決めればという言葉と、国連の旗のもとという言葉と、国連決議のもとということでは一つ一つ状況が違いますから、そうしたことの我が国の主体的意思を留保する、そして、それを、主体的意思を表現していくということが大事だというふうに思っております。

 最後に、集団的自衛権の問題であります。

 集団的自衛権があるが行使できないというのはおかしいという話がありますが、本来、みずから有している権利を使わない、行使しないということをみずからに位置づけることは当然あると思います。おかしいとかおかしくないというよりも、私は、政治的に賢明であるかどうかということを考えるべきであるというふうに思います。

 その意味から、私は、最近の集団的自衛権の行使論議はいいことばかりを言っているようなところがありますが、問題点やリスクというものも含めてしっかり論議をすることが大事だというふうに思っておりまして、九条がアジアに発信した意義、あるいは集団的自衛権の名のもとに戦われた戦後の戦争、そうしたことやさまざまなことの広がりというものを考え、私は、集団的自衛権の行使は認めないという今の政府見解を支持いたします。

 以上、申し上げまして、私の主張とさせていただきます。

中山会長 次に、山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 ことしは、第二次世界大戦が終結して六十周年に当たります。世界でもさまざまな記念の取り組みが行われておりますが、日本国憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するという積極的な平和主義の立場に立っています。私たちは、日本を含めた侵略戦争の惨禍とその反省の上に憲法と今日の世界が生まれていることを改めて銘記すべきだと思います。

 国際連合は、一月二十四日、アウシュビッツ強制収容所解放六十周年を記念して特別総会を開きました。アナン事務総長ほか四十カ国余りの代表がこの総会で演説しています。ドイツはフィッシャー外相が、「ナチスによる恐怖政治の被害者に謙虚に接し、深い哀悼の意を表する」と演説しました。

 その同じ総会で、アジア諸国は、名指しを避けつつも、かつての日本軍国主義の侵略を厳しく批判し、歴史に学び、歴史を歪曲するなと訴えました。

 例えば、韓国の国連大使は次のように述べています。「第二次世界大戦中の残虐行為は欧州に限ったことでなく、大規模な人権侵害をこうむり、蛮行を強制された地域がある。歴史に学び、教育と寛容を促すことでそうした悲劇が二度と繰り返されないようにすることは、人類全体が共同で果たすべき責務だ」。中国の国連大使は、南京大虐殺で三十万人が殺されたと指摘し、次のように述べました。「六十年後の今、ナチズムと軍国主義の幽霊はなくなっていない。いまなお一部の極右勢力が歴史をわい曲して罪悪の歴史を否定し、人類の良心に挑戦しようとしている」としています。

 これに対して、日本の国連大使が、「こうした発言は残念である」と述べたと伝わっておりますけれども、アジアからの批判と危惧の背景には、小泉総理の靖国参拝や歴史の事実を歪曲する歴史教科書問題などがあることは、容易に見てとることができます。

 二十一世紀を迎えた今日、日本とアジア諸国、諸国民との関係を友好と信頼、恒久平和へと前進させるために、日本軍国主義の侵略戦争と植民地支配の反省を踏まえ、歴史認識を互いに共有し、ともに平和な未来を目指す関係へと発展させることが求められています。

 さて、九条です。

 侵略戦争によるおびただしい犠牲の上につくられた憲法第二章「戦争の放棄」、その内容をなす九条は、日本が二度と戦争をする国にはならないと誓った国際的な公約であり、そこには、戦争のない新しい世界を展望し、その先駆けになるという決意が込められています。九条は、国連憲章に実った平和のルールを受け継ぎ、戦力の不保持と交戦権の否認という形でそれをさらに一歩進めたものです。この理想と精神は、日本だけでなく、日本軍国主義の侵略を受けたアジア共有の財産とも言えます。

 私は、憲法九条を守り、生かすことの意義について、日本の現実、世界の現実という二つの角度から考えてみたいと思います。

 戦後の日本政治では、憲法九条をめぐって激しいせめぎ合いが続いてきました。一九五〇年代、講和条約によって占領が終結したもとで、日本国憲法とその平和主義は最高法規としての力を発揮するはずでした。ところが、講和条約とともに結ばれた日米安保条約、この条約については事前に国会には何らの相談もなかったわけですけれども、によって、憲法の平和主義とは別建ての一連の法体系と実態が生まれました。日本全土に広がる米軍基地、駐留米軍への特権とその拡大、再軍備と自衛隊の創設、増強、事実上の米軍支援となる自衛隊の海外派兵など、憲法九条に反する日米安保優先の現実がつくり出されてきました。

 憲法の平和主義と現実との乖離の中心点は、まさにここにあります。九条改定が戦後アメリカの早くからの強い要求であったことは、昨年五月の中央公聴会でも指摘されたことです。本調査会は、本来、こうした経過と事実を調査すべきであります。

 同時に直視すべきは、九条があるからこそ、自衛隊の海外での武力行使、また、武力行使を伴う米軍との共同行動は、歴代の政権とも、合憲とはできず、その道はふさがれてきました。九条は、海外での武力行使の容認、集団的自衛権の行使に対して、法規範として明確な歯どめの役割を果たしてきたのであります。だからこそ、今日の改憲構想において、以下、引用しますが、「集団的自衛権が行使できないということは、わが国として同盟国への支援活動が否定されることになり、国際社会から信頼・尊敬される国家の実現に向けた足枷となっている」、以上、引用ですけれども、などとして、九条の改憲に中心的なねらいを定める主張が繰り出されてくるのであります。

 九条をめぐるせめぎ合いは、国連憲章の平和のルールを日本で具体化し、発展させた九条でいくのか、それとも、日米軍事同盟優先で海外での武力行使に道を開くか、この対決となっています。今日の米軍再編問題、政府が進めようとしている自衛隊の海外活動の本来任務化という事態も、こうしたせめぎ合いの文脈の中で見なければなりません。

 次に、世界の現実はどうでしょうか。

 今、世界は、イラク戦争の深刻な体験を経て、改めて国連憲章に盛り込まれた平和のルール、その内容は、国際紛争を平和的手段によって解決すること、個別国家の武力による威嚇、武力の行使を禁止すること、これを守らせることを切実に求めています。

 イラク戦争は、国連憲章にも反し、安保理決議にも根拠を持たず、さらに、攻め込む口実とされた大量破壊兵器も見つからないなど、ブッシュ政権による無法な戦争であったことが明らかになっています。ヨーロッパ、ラテンアメリカ、日本、そして米国の世論も、イラク戦争は間違っていたとの認識が今日多数になっています。イラク戦争に見られた米国の先制攻撃戦略、単独行動主義を前にして、国連憲章が構想した平和の秩序を確立することが、今、国際政治の重要課題になっているのです。

 こうした世界の現実を前に、今、国際社会は憲法九条に新たな注目を寄せています。

 二〇〇〇年の国連NGO会議では、すべての国が日本国憲法第九条に述べられる戦争放棄の原則を自国の憲法において採択することが提案され、議論されました。ことしは、アナン事務総長の呼びかけで、ニューヨークで大規模な国際NGO会議が開かれます。日本のNGOは、ここで東北アジアの紛争防止装置としての憲法九条の役割を取り上げる計画です。

 また、アジアを見ても、東南アジア諸国と関係国が加盟する東南アジア友好協力条約は、紛争の平和解決、武力行使の放棄を基本原則としています。これは、憲法九条や国連憲章の平和のルールと共通の流れにあるものです。今、この条約には、ASEAN各国のほか、日本、韓国、中国、インド、ロシア、パキスタン、パプアニューギニアなどが加わり、世界の人口の半数以上を結ぶ平和友好の条約となっています。この方向を実際に守ることが条約に参加した日本の責任です。

 憲法九条を変えて、集団的自衛権を持つとか、限定的とはいえ、海外での武力行使を容認するとか、こうした流れは国際政治の流れに照らしてみても逆向きの方向にあります。

 今日、憲法九条を守り、これを生かした世界への平和の貢献は、日本の恒久平和の進路を確保する上で重要であるだけではありません。これは、米国による先制攻撃戦略、一国覇権主義を許さない世界、国連憲章に基づく平和の国際秩序の確立と不可分に結びついた国際的意義を持っていると考えるものであります。

 以上です。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 私は、日本国憲法第九条は、ただいま変える必要がないばかりか、まだまだたくさんの政策や暮らしの中に生かされていくべきものがあると思っております。そして、それを生かしてこなかった政治の方にその責任があるというふうに思っております。

 以下、国際協力、安全保障という問題について述べたいと思うんですが、憲法第九条は、戦争の放棄と戦力の不保持及び交戦権の否認をそこにしっかり決めております。一方では、国連憲章を見ますと、国連憲章の第二条、これは国連の原則と申し上げていいと思うんですが、その条文の中には、その三項が、すべての加盟国に対して、国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならないと呼びかけています。そして、同じくその四項を見ますと、そこには、武力による威嚇または武力の行使を慎むべきだというふうに決めております。

 つまり、戦争放棄と紛争の平和的解決を原則としているという立場において、日本国憲法とそれから今の国連憲章は同一線上にあると考えて間違っていないんじゃないんでしょうか。その意味で、憲法第九条を一国平和主義だという意見が時々あるんですけれども、この御意見は当たらないということを冒頭述べさせていただきます。

 九条は、例外的に日本だけが採用しているというふうに考えるというのではなくて、少なくともこれを国際社会の規範としていくべきだ。そのためには、戦争を否定して軍隊を放棄した世界の構築に向けてみずからがまず努力していくということの決意を示さなければ、そうなっていかないと思うのです。

 それからいたしますと、核兵器をなくしていくという問題や、アジアでの平和保障をどうつくっていくか、災害や犯罪に対して国際的な協力でどう対処するか、そういう問題もあります。

 あらゆる紛争、対立を平和的に解決するという政策的な課題の中で最も重要なことは何かということになると、それは戦争を起こしてはならないということなんじゃないんでしょうか。

 武力でおどしたり、武力の行使をするということもあってはならない。日本だけではなくて、アジアのすべての国がそうなるように枠組みや働きかけをつくっていくことが日本のあり方として重要な課題ではないか。それがまさに憲法第九条を現実に生かしていくことであると私は思うのです。

 先ほど中川委員がお話しになったことと、そのあたりは私も同感なんです。全く同感。

 政府は、北東アジア非核地帯であるとか、多国間の平和保障システムをアジアにつくるとか、専門の災害救助隊を常設して、国の内外の、先ごろのあのスマトラ沖の大津波であるとか大地震であるとか、これは即刻、私たちはそれに対しての対応ということを深刻に思うわけでありますが、災害とか、それからさらに、難民救援ですね。この難民救援では、特に私たちの記憶に新しいのは、クルド難民の親子二人に対して強制送還をしたという、この問題です。

 既にこれはよく知られているとおりに、国連の難民高等弁務官、UNHCRの方が、マンデート難民というふうにきちっと認定したクルド人の親子二人をトルコへ強制送還しちゃったというこの姿勢というのは、日ごろから難民条約についても締結は随分日本はおくれましたけれども、しかし、それから今日に至るまではもっと私は問題だと思っているんです。

 実は、先進国の中で、難民に対してそれを認定して保護するということに力を尽くしている点が最もおくれているのが日本なんじゃないんでしょうか。けた外れですね。けた違いにこれは、日本はこの問題に対しての取り組みというのが、常に国際社会の中では問題にされている。

 そういうことを考えていくと、これは難民救援ということに対しても、もっと深刻に、人間としての権利、人権というのを尊重していれば取り扱いもおのずと違うんじゃないのと言われると、私はまことに耳が痛いわけでして、国際的に例えばアジアの近隣の議員なんかと交流する節、そういうことが話題になるたびごとに、身の縮む思いがするんです。

 そういう難民救援なんかについても力を尽くしていくとか、それからODAも、これはもっと透明化して、現地の住民の人たちの生活が自立に向けて住民の意思も反映できるように改革するということは、とても大事な問題だと私は思いますね。

 ODAについても、日本は、財政難の折柄、まず手をつけられるのがODAの削減ですから、これはちょっとやはり数字からいっても、国連で問題にしているODAのあり方からまたまた日本は随分おくれていっているというのが現状です。

 そして、国内においても、私はこれは整備する必要があると思っています。

 外務省にODAの中身を尋ねても、具体的に資料がすぐ出てきたためしがありません。しかも、実態について調べていきますと、所管は外務省であるにもかかわらず、外務省外の各省が具体的にODAの中身に対しては計画したり動かしたりしているわけで、それは、縦割り行政の中で、外務省自身が、外務省の所管であるということで、実際面を動かしているという部分がまだまだこれは頼りない、心もとない実態だということが、こういう問題を見てまいりますと、国内的にも一つございます。こういうことを挙げていきますと山ほどあります。

 ところが、最近声高に言われていることは何かというと、こういう問題ではありません。海外での武力行使ができるようにしようではないかという声であるとか、あるいは、いざ災害だ、いざお互いの間で紛争を解決しなければならない問題だということになると、自衛隊が出動することがいいか悪いか、これがもう何よりも先決問題として常に問題になるんですね。

 また、おっしゃったとおり、日米同盟というのも国際支援の中では大事である、しまいには、ブッシュ政権の国際法無視の単独行動主義ということに対して支持して、それに寄り添うような形というのがもう目立ち過ぎるぐらい目立って、外交といったらそれですねなんというふうなことが途端に日本の場合はクローズアップされるような昨今ですから、そういう点からすると、アメリカが考えていることに対して支援することが国際協力である、国際協調であると言わんばかりの物の言い方や認識というのもだんだん強まっている。

 そういうことを考えると、第九条をその中で改変して自衛隊を軍隊として認めるとか集団的自衛権の行使を憲法で認めるとかいうことには、賛成はできるはずがないと思っているのが私なんです。これはどうしても反対をせざるを得ません。

 その一方で、国民に国防の義務を課すということが現に出てきているわけですから、国民の基本的人権や自由を制限するという主張もこの問題と裏腹の問題として出てきています。

 これは、本来何のために憲法が存在するのかという根本的な憲法の理念を覆すことではありませんか。憲法の存在意義をないがしろにすることではありませんか。この問題こそ、私たちが憲法第九条の原則を生かして平和と共生のアジアと世界をつくっていく、それが、それこそ二十一世紀に課せられた私たちの最大の課題であるということを確信していますということを申し上げて、初めの発言は終わります。

 ありがとうございました。

中山会長 これにて各会派一名ずつの発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたしたいと思います。

 それでは、御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。

 五点ほど申し上げたいと思います。

 まず、今どうしても解決をしなければならない問題は、自衛隊の違憲性についてこれまで議論があったことを何としてもクリアしなきゃいけない。

 村山内閣当時に、既に合憲的存在であるということを確認されております。国民的な議論を一応乗り越えたと思っておりましたら、相変わらず議論が蒸し返しになっております。そういう意味では、憲法九条の解釈の射程範囲を決めるという意味での議論をしなければならない。

 第二点は、集団的自衛権についての議論が非常に憲法九条の議論の発展を阻害していると私は思います。

 というのは、国連憲章上、個別的、集団的自衛権の行使という言葉がありますけれども、私は、自衛権というのはそもそも一つのものである。国連憲章やあるいは日米安全保障条約上、集団的自衛という言葉があっただけであって、自衛権は一つである。ただ、問題は、その自衛権の行使の態様について、憲法上、一定の制約を課さなければ、これは際限がなくなってしまう。そういう意味では、平和主義に立つ我が国としての自衛権、これの態様については、国民的議論を十分しなければならないと思います。

 三番目は、国連中心主義ということが言われます。しかしながら、私は、日本そのものが、三たび国連に加盟申請をしてようやく国連に加盟をされた。それから、国連というものは、ザ・ユナイテッド・ネーションズという言葉にあらわれるように、もともとは連合国という立場であった。現在の国連憲章でも敵国条項があるということの中で、この国連中心主義、日本は多分第八十番目の加盟国になっていると思いますけれども、これに余りにも頼り過ぎることはできない。

 現実に、国連は、国際社会の平和あるいは安全確保ということについては十分有効な機能を果たしてはいない。それ以外の部分についての役割が拡大されてきているという歴史があるということから、これを考えなければならない。

 四番目は、非常事態に関する法制を整備しなければならない。そのためには、憲法上、一定の規定を設ける必要がある。専らこれは人権の制限規定という形でもっていろいろ議論をされておりますけれども、私は、国会の立法活動が非常時が発生した場合に適正にあらかじめ定めたルールに基づいて行われるかどうか、その観点から考えるべきである。

 例えば、かつて国会が広島に置かれたことがあります。同じように、万一の事態があったときに、立法活動はどこでやるのか、あるいは法律等の公布の手続は一体だれがどんな形でやるのか、国会の召集はだれがどうするのか、こういったことについて、非常事態が発生した場合にあらかじめ想定をしておくということが、法治主義をとる限りはどうしても必要である。

 むしろ、そういった規定がない場合に非常事態が発生した場合、非常に超法規的な運用になってしまうおそれがある。そういうことについて現実的な対応を検討するために、この非常事態に関する規定を憲法上設ける必要がどうしてもあるだろうと思います。

 さらに、これまでの、憲法九条の関係では、これは国家との間の紛争という観点でありましたけれども、新たな事態としては、国際的なテロに対しての対抗ということが出てまいります。国際的な平和協力について、一定の根拠を設けなければならない。そういう意味では、自衛隊による国際貢献活動というのが国際平和協力活動、こういう位置づけでもってさらに発展をさせなければならないではないだろうかと私は思っております。

 以上でございます。

大村委員 自由民主党の大村秀章でございます。

 きょうは自由討議ということで、この憲法調査会で、この国会で、いよいよこの憲法についての議論を集約していくということでございまして、大変意義深いところまで来たなという気がいたします。この点について、特に安全保障、国際協力について、簡潔に私の考え方を申し上げたいというふうに思っております。

 これは、この調査会におきましてもこれまでも申し上げてきたところでありますけれども、今回、憲法をどう考えるか、そして憲法改正についての、私は必要だと思っておりますが、そのときの考え方の視点というのは二つあると私は思います。一つは国際社会の中の日本、それから、自立と参加をしていく、そういう厚みのある市民社会をつくっていくという二点だろうというふうに思います。

 その前段の、国際社会の中の日本をどういうふうに考えていくか。それは、やはり平和と安全保障をどういうふうに守り、つくっていくかということだと思うわけでございます。

 そういう中で、この戦後六十年の日本をめぐる国際情勢が劇的に変化をしてきた。冷戦構造も変化をし、そして地政学的な脅威ということで、ソ連の脅威は消えたわけでありますが、朝鮮半島を含めて、そういった地政学的なリスクが顕在化をしてきた。また、日本にとっても、周辺事態の可能性もある、否定ができない。

 そういった状況の中で、日本の、この極東地域の平和と安全をどう守っていくかということ、そしてまた、冷戦構造がなくなって米ソ二極体制が崩壊したということは、むしろ逆に局地的な紛争が頻発をして、日本の国際貢献の一環として、お金だけではなくて、人の派遣、人的な貢献ということも求められている、そういったことをやはりこの際我々は真っ正面から見ていかなければいけないというふうに思うわけでございます。

 これは、我々日本の状況、国内事情は抜きにして、まさに既に起こってしまったもの、既に起こってしまった状況だというふうに思うわけでございます。その点について、やはりしっかりと認識をしていかなければいけないというふうに思っております。

 また、日本の国際社会の中での位置づけも飛躍的に大きくなった、そしてまた、日本の行動、一挙手一投足に国際社会が、世界が注目しているという中では、日本がこの平和と安全保障にどういうふうに貢献をし、どういうふうにつくっていく、どういうふうに行動していくかということをやはり明確に規定していく必要があるのだろうというふうに思うわけでございます。

 そういう意味で、国民の意識を見れば、九割が自衛隊を認め、そして災害復興支援、そして海外への救援支援、そしてPKOを評価しているということを十二分に踏まえれば、この際、自衛隊は憲法上しっかりと明確に位置づけて、そして自衛隊を日本の国土防衛を担う正規の組織であるということを明確に位置づけて、あわせて国際平和協力業務をしっかりと行うということを憲法上しっかりと明確に位置づけるということが避けて通れないと思うわけでございます。

 その都度その都度解釈でということではなくて、そういったことを明確に、日本の行動の原理原則であるということを位置づける、そして対外的にもメッセージを発していくということが、日本が国際社会の中で信頼をされるということにつながっていくというふうに思います。

 そういう意味で、この点を、私ども自民党の議員はほとんどそういう意見で集約をされていると思いますが、ぜひこの憲法調査会の意見の集約でもそういった形の集約をお願いしたいと思います。

 そして、自衛権のことについて最後に申し上げたいと思います。

 先ほど早川委員も言われましたが、これは本来あるものであるというふうに思います。国が国家として存立をしていく以上は本来あるものでありまして、これを憲法上改めて位置づけるということも意義があると思いますが、私は、今の考えは、それよりもむしろ、本来、個別的自衛権も集団的自衛権も、国連憲章第五十一条を見れば明らかなように、それはある。あるのであれば、それは安全保障に関する基本法というものを国会に、私ども、我々与党が提案して、国会の審議を経て成立をされるという過程の中でこれを認めていくということで、私は可能ではないかというふうに思います。

 そういった面での、この九条、そして平和と安全保障、明確に位置づけをしていくべきだということを改めて申し上げたいと思っております。

 以上です。

高木(陽)委員 公明党の高木陽介でございます。

 先ほど、党の見解として、太田委員の方から、これまでの党内の憲法調査会の状況ということで御報告がありました。特に、我が党は、九条、これを堅持し、さらにそれに加憲の考え方、これもさまざまな角度から意見があるという表明がありましたけれども、私は、その中でも、逆に党内ではちょっと少数意見で、きょうは自由討議でございますので、私個人の意見ということで申し上げたいと思います。

 まず、九条が戦後の日本の平和、また安定、発展に大きく寄与してきた、また、軍事大国に進まないということで歯どめの役割を果たしてきた、さらには、九条の平和主義というのがアジア諸国、近隣諸国に対しても安心感を与えてきたということ、これは大いに評価もしたいと思います。その一方で、これまでの議論の中で、そうではなくて、日米安保、自衛隊の存在というものが日本の平和というものを守ってきたんだという御意見、これも否定するものではございません。

 その上で、先ほど大村委員も述べておられましたけれども、国際社会の中の日本をどう考えるか。まさに憲法というのは、国のあり方、これを明確に記すものであると思いますので、そういった観点から、私は、きょうは、自衛隊の問題、自衛隊の明記の問題と集団的自衛権について申し上げたいと思います。

 まず、九条のもとでの自衛隊の存在というのは、我が党も合憲というふうに宣言をしてまいりましたし、この問題については大半の方々が合憲であるというふうに認めておられると思います。しかしながら、これまで明文規定がないということで、自衛隊の存在自体を否定する方々がいたのも確かでございますし、そういった観点からは、憲法というものは国民のだれもがそれを読んで明確にわかる、これが一番重要な問題。そういう観点から考えても、自衛隊というものをしっかりと憲法上に明記することが必要ではないかな、このように考えております。

 もう一つ、集団的自衛権の問題でございますが、これも、自衛権というのは、各国が持つ自然権である、また国連憲章でも容認されているということで、ただ、これまで政府解釈として、保有はするけれども集団的自衛権は行使できないというこのこと自体、これまでのさまざまな情勢の中においての政治の決断としては評価をしたいと思います。しかしながら、これも、今申し上げましたように、自然権としてあるこの集団的自衛権を行使するのかしないのか、まさにこれが政治の決断であると思います。

 その上で、国際情勢をかんがみてみますと、基本的には、最近における九・一一のテロ、アフガン、イラクの問題等々、または周辺事態の問題等をかんがみた場合に、日米同盟の関係、こういったものを総合的に勘案して考えると、集団的自衛権を行使できるとした上で、どこまでできるのか、どこまでやらないのか、これを安全保障基本法といった法規定の中で明確にしていった方が、これもまた多くの国民が理解をしやすい。逆に、解釈だけでやっていますと、人によってこの考え方が変わってくるという、そこがまた論争を呼んでしまいますので、ここのところは明確に規定をした方がいいというのが私個人の意見でございます。

 以上です。

船田委員 自民党の船田でございます。

 今回、憲法のさまざまな議論の中でも、九条をどう見るか、あるいは、直すべきところはどこであるか、こういう議論は極めて中心になる議論でありました。

 私は、これまで多くの皆様の御議論を聞き、また自分でも考えましたところ、結論から申し上げますと、第九条の一項、これは我が国の国是、平和主義という国是をそのまま示している、こう考えておりますので、これはシンボルとして残すべきであるというふうに思っております。

 第二項でございますが、これは確かに、いわゆる芦田修正なるもの、つまり、前項の目的を達成するためという留保条件はあるものの、やはり読み直してみると、戦力の不保持あるいは交戦権の否定ということがここにありますと、我が国の個別自衛、あるいは、先ほど来話の出ております集団自衛や集団安全保障という問題になかなか踏み込めない、こういう嫌いがありますので、やはり現行の第二項は削除すべきであるというふうに思っております。そして、そのかわりに、個別自衛権を全うたらしめるための自衛軍、防衛軍と言ってもいいのかもしれませんが、自衛軍の保持ということは第二項で明記をすべきだと思います。

 さらに、それに加えまして、第三項と言ってもいいと思いますが、武力行使も含めた国際協力を積極的に行うということについて第三項で規定してはどうかというふうに思っております。これは、言うまでもなく、集団的安全保障への我が国の関与、これを認めるということ。当面、国連軍というものが組織されればの話でありますが、それへの参加、あるいは、国連だけではなくて、アジア地域のいわゆる地域安保というものがもしシステムとして将来稼働するのであれば、その地域安保における国際協力ということも当然含まれていくものと思います。

 それから、集団的自衛権の行使ということについて、これは、第三項で今のように規定したとしても、明確にはなっておりません。しかし、集団的自衛権という言葉を憲法の中に書き込むというのは、余りふさわしくないであろうというふうに思っております。むしろ、この部分については、先ほど来話が出ておりますように、下位法である例えば安全保障基本法ができるのであれば、それに記載をするということで十分ではないかと思っています。

 なお、集団的自衛権は、これはやはり自国を守るためにも、部分的に集団的自衛権を行使しないと自国を守るということが全うできない、こういう事態は当然あると思っております。したがって、私は、集団的自衛権のフルサイズ、例えばアメリカ本土まで助けに行く、あるいは地球の裏側まで助けに行くということは、これは無理としても、周辺事態など地理的な限定をした上で一部認める、そういう形での集団的自衛権の行使は当然であるというふうに思っています。

 このような考え方で第九条を修正するということがよろしいのじゃないかと思います。

 なお、非常事態ということについて先ほど来お話がございました。私も、これはやはり、できれば憲法に記載しておくべきだというふうに思っております。

 なぜならば、この非常事態というときは、いわゆる国民の権利が一部ないしは全部制限される可能性がある、こういう重大な事態であるからでございます。また、同時に、何も規定しないということになりますと、日本ではありませんけれども、過去のいろいろな国で経験をしたように、政府のそのときそのときの恣意的な判断、そういったものが非常事態の名をかりて行われる、あるいは、一度非常事態が発せられた後、また原状に回復をする、もとに戻るということがなかなかできなくなる、こういう事態が過去にも多く発生をしたと認識をしております。

 ですから、非常事態のときの私権の制限のこと、それから、その非常事態が終了したときには速やかに原状に戻るべきことなどは、やはり憲法に明記をして、非常事態の歯どめをかけるということが必要であると思っております。

 以上でございます。

枝野委員 私は、憲法九条に込められた思い、理念は、今後とも変わらない、変えるべきではないものだと思っていますし、戦後六十年の日本の、ある意味での成功の一つの要素として憲法九条の存在があったと高く評価するものであります。

 しかしながら、現在の日本の状況、そして憲法の状況を考えたときに、現行の九条をこのまま維持するということには大変重大な問題があると思っています。それは、自衛隊あるいは自衛権というものについて、その存在を認めることについてはほぼ大方のコンセンサスがあるかと思いますが、そうした存在を認めておきながら、そうした最も強力な公権力行使についてのルールが憲法に規定されていないということであります。

 言うまでもなく、立憲主義というのは、近代憲法というのは、公権力行使のルールと限界を定めた法であります。そのときに、自衛権の行使という最も強力な公権力行使について、どこまでできるのか、何ができるのか、どういうルールで行うのかということがすべて解釈で規定をされているという現状は、余りにもリスクが大き過ぎると思っています。全くハードルになっていない。現実に、残念ながら、この間、無理な解釈の変更あるいは無理な解釈の継ぎはぎによって、事実上自衛隊の権限行使の限界を拡大してきているという現状も存在をしています。

 むしろ、憲法九条に込められた理念、つまり、侵略戦争を行わない、我が国が無用な戦争に巻き込まれないというような理念をしっかりと守っていくためには、憲法においてしっかりとこの自衛隊という大きな公権力行使のルールと限界を定めておくことが重要であると思っております。

 なお、単に自衛権を明記するとか自衛隊の存在を明記するということだけでは、全くそうした立憲主義の本来の意味からは無意味である、現行憲法でも解釈できているわけですから。どういうときに自衛権が発動でき、自衛権行使の限界はどこまでであるのか、あるいはシビリアンコントロールというこうした強力な公権力行使に当たっての基本原則、それから国際貢献のための自衛隊派遣の場合の要件や限界、こうした基本的なルールを憲法典にしっかりと書き込んでおいて、その限界を共通認識にさせ、明確にさせておくこと。もちろん、余り細かいことまで憲法典に書いてしまいますと、それは大変不自由であるという観点がありますから、安全保障基本法のような下位法をもってその詳細を決めるということはあってもいいかと思いますが、基本原則は、やはり憲法典に書いておかなければいけないだろうというふうに思っております。

 そして、こうした観点から、自衛権発動の要件ということとの絡みで、いわゆる先ほど来出ている個別的自衛権、集団的自衛権の区別論ですが、まさに憲法典に何のルールもなく解釈でどこかに限界を引こうと思えば、いわゆる一種の講学上の概念である個別か集団かというところで線を引かざるを得なかったというふうに思います。

 ちゃんと憲法典に、個別であれ集団であれ自衛権と称するもとで侵略戦争が行われたという歴史もあるわけですから、かなりきちんと自衛権の名のもとに侵略戦争が行われないような要件を定めていく。その場合に、個別か集団かということが実はその判断材料にとって重要なのかというと、私は、必ずしもそうではない、個別と称しても侵略戦争につながり得るようなおそれのある場合はあるし、集団の場合であってもまさに侵略戦争につながらない固有の自衛のためのものとして必要なものがある、そういうふうに思っておりますので、もう個別か集団かという不毛な議論は、少なくとも憲法典を変えるという議論の中ではやめるべきではないか、こういうふうに思っております。

 なお、残り一分のところで、非常事態について一点だけ触れておきたいと思いますが、非常事態のときにおいて、非常事態だから人権が制約されるというのは、人権概念についての誤解に基づくんではないかと私は思っています。

 基本的人権というのは、平時であれ非常事態であれ、他者の人権との調整のもとにおいて制約をされる。これは平時でもそうです。非常事態においては、まさに他者の生命という大変大きな他の人権との調整原理になりますから、平常時に比べて制約される要素が大きくなるというのは、現行憲法をもとにしても、そもそも基本的人権の概念のもとで当然にあることでありますから、あえて非常事態だから特に人権が制約されると書くということは全く意味がないことだと思っています。

 むしろ、先ほど早川委員などがおっしゃっておりましたとおり、非常事態のときに、人権制約のルールなどについて平常時と同じルールでいけるのかどうか、あるいは公権力行使、国会や内閣のあり方、手続の部分のところは、これは非常事態において通常の手続をある程度省略する、そして、事後的にそれを補完するという手続を決めておく。あくまでもこれは、人権分野のところではなくて、統治分野のところの問題なんだという共通認識を持っていただきたいと思います。

 以上です。

葉梨委員 自民党の葉梨康弘です。

 私は、この自由討議で、現行憲法のあいまいさの持つ危険性と平和主義からの修正の必要性について申し上げたいと思います。

 戦後、我が国は、短い一時期を除いて、その前身政党を含めて長く私たち自民党が政権を担ってきました。このことは、憲法解釈に連続性をもたらします。歴代自民党政権は、九条についても抑制的な解釈を受け継いでまいりました。しかし、今、政権交代、政権選択の可能性もささやかれています。そして、二十一世紀において、一つの政党が未来永劫政権を担い続ける保証はどこにもありません。このような事態下、憲法の持つあいまいさの危険性を私たちは認識する必要があると思います。我が国が平和国家として何をしたいのか、あるいは何をしないのか、その実態を明らかにして、しっかりとその限界を定めていくことが大切と思います。

 あいまいで自由自在という理由を二つ申し上げたいと思います。

 一つは、憲法の解釈の指針となる立法者意思が資料として明確でないという点です。これは、GHQがもしもその資料を残してしまいますと、ハーグ陸戦法規に触れて、この憲法自体が無効になってしまう。ですから、解釈指針としての資料が極めて少ない憲法です。そして、もう一つは、法律の文言上も、英語を訳した、和訳した、そういった文言になっておりますから、これまた解釈の余地が非常にある。我が国の今の憲法は、その出自からして、二つの理由から非常に自由自在であいまいだという属性を有しているということを指摘しておきたいと思います。

 その上で、前回臨時国会で、九条一項が平和主義という意味では明確な歯どめとなっていないこと、さらに国際機関と憲法九条との関係については私申し上げましたので、今回は、自衛隊、集団的自衛権と国際貢献について意見を申し上げます。

 第一は、自衛隊です。

 第二項で禁止されている戦力が、先ほどのGHQの文書ではウオーポテンシャルとされています、これは侵略戦争を遂行する力ということになります。そのような理論下にいけば、我が国は自衛のための戦力は持てるという理論が成り立ちます。ただし、このように解しますと、自衛隊は必要最小限の軍備力しか持たないんだという解釈はどこからも出てこないということです。ですから、その意味では、これからは法文上明確に自衛隊の戦力の範囲が必要最小限であるということを明記しないと、どのような解釈によっても自衛隊の範囲が拡大してしまう、その危険性を指摘したいと思います。

 第二は、集団的自衛権です。

 この問題は、さきの中曽根公述人の、時の総理が集団的自衛権を行使できると言ってしまえばよいといったことにまさに尽きてしまうと思います。実は、集団的自衛権については、個別的自衛権の延長として、もともとでございますけれども、自国の死活的利益にかかわる範囲で許される、そういう考え方がございました。

 しかし、戦後六十年の間、米国がこの解釈を非常に広げてきております。すなわち、自国の死活的利益に関しなくても、友好国、特に国連の加盟国が困っていれば助けてあげる、これも集団的自衛権であるというような解釈を米国はずっととってまいりました。そして、我が国は、たまたま行使しないということを前提としているものですから、友好国であり同盟国であるその米国の国際法上の解釈をオーソライズして、これを承認してまいりました。もし、ここで我が国が集団的自衛権を認めるということを解釈上言ってしまったら、米国と同じ集団的自衛権の解釈に立つことになってまいります。友好国あるいは国連の加盟国、この国から助けが求められたら日本は出ていく、そういうことになってしまう、あるいは地球の裏側まで出ていくということになってしまう。

 そうなりますと、この集団的自衛権のもともとの出自、これに返りまして、自国の死活的利益にかかわる、あるいは我が国の独立、国民の安全にかかわる範囲において集団的自衛権が認められるんだということを明記しなければ、非常に、この限界というのがなくなってしまうということを指摘させていただきたいと思います。

 第三に、国際貢献です。

 九条一項で抑制される武力の行使は国権の発動であるということになると、これも解釈によってですけれども、現在の九条は国際貢献について何ら定めを求めていない、定めていないというような解釈も成り立ってまいります。ですから、今の九条の解釈のままで、専ら軍事的な行動を行う、そういったものにも日本が参加できるんだということにもまたなりかねないわけです。

 ただ、もちろん、国際貢献について私は、これは、武力の行使は究極かつ最後の手段、ウルティマラティオとして武力を行使しなければならない場合もあると思います。正当防衛の場合、あるいはコートジボワールの場合、そうです。ただし、その範囲というのは、まさに究極かつ最後の手段として許されることを明記しなければ、これは本当に歯どめとなっていかないんじゃないか。そのような危険性を三点指摘させていただきます。

 ありがとうございました。

古屋(圭)委員 自民党の古屋圭司でございます。

 昨年にも、九条の問題について意見を陳述させていただきましたが、改めて、かいつまんで私の意見を申し上げさせていただきたいと思います。

 まず、この九条というのは、国の主権や国民の生命財産を守るための国の基本的な責務を定めたものでありますけれども、しかし、九条の解釈をめぐっては、もう今まで何度も議論があったように、一体我が国は自衛権を保持しているのか、自衛権の行使として認められる範囲はどこまでなのかといった視点で永遠の議論が繰り返されてきたということであります。内閣法制局の、集団的自衛権の権利はあるが行使はできないという解釈があります。その上にPKO法あるいは特措法、イラク法などの国際協力に関する一連の法律が積み上げられてきたわけでございまして、その結果、九条をめぐる議論というのは、非常に国民にとってもわかりづらい、現実離れした国会答弁に終始しておりまして、いわば神学論争とやゆされているわけであります。そういった内閣法制局の解釈により決定されるという危うさというのは、私は否定できないというふうに思っております。

 その視点から、私は、九条については次のような提言をしたいと思います。

 まず第一点、九条一項の、他国に行って侵略のための戦争をしないというその侵略戦争放棄の理念、これはもう当然のことながら今後とも明記する。これが一点。

 第二点目は、やはり、国民の生命財産を守るという国の責務を果たす意味でも、いわゆる国際社会の実情にそぐわない二項、戦力の不保持及び交戦権の否認ですけれども、これを削除します。その上で、個別的であるか集団的であるかを問わず、自衛のための権利というものを保持することを認める。そして、これを行使できるということを明記する。そして、国の主権を守り、かつ国民の生命財産を守るための主体として、あるいは国際貢献を担う主体として、自衛隊の憲法上の位置づけを明確にする。と同時に、その自衛隊の行動原則というものも明記をする。これが第二点目であります。

 第三点目は、大規模な災害あるいは侵略等の非常事態において、まず首相への権限の集中、そして人権の保護、一方、主権の制約といった非常事態条項というものを新たに設ける。すなわち、国民保護法等々の法整備だけではなく、憲法上にも新たにそういった規定を設けるということであります。非常事態発生の際には、国会を初めとするいわばコントロール機能、これはソフト、ハード両面ございますけれども、そういったものを整備しておかなくてはならないわけでございまして、そういった点についても、憲法上明記をしていくべきだというふうに考えます。

 また、第四点目は、この九条をこういう形に書き直すということに当たっては、前文との整合性というものが問題になってくると思いますので、ぜひ、前文の見直しをするに当たっては、やはり国際貢献に積極的に取り組む姿勢というものを内外に示し、国際社会の平和と繁栄の実現に日本が積極的に貢献をするという趣旨のことを明記する、こういうことであります。

 以上四点について、提案をさせていただきます。

福島委員 当調査会におきまして、憲法九条をめぐってさまざまな意見が述べられてきたわけであります。大きく分けると、九条の存在を戦後の日本の平和国家としての礎石として位置づけ、これを堅持すべきであるという立場と、そして一方では、普通の国家のあり方というものを踏まえ、自衛隊の位置づけの明確化、集団的自衛権の明確化等に踏み込むべきである、こういう意見に分けることができると思います。こうした議論が現在でも行われているということは、私は、さきの大戦について、我が国の主体的な総括、これが国民レベルでコンセンサスがいまだ醸成されていない、こういったことの一つの帰結ではないかというふうに思っています。

 国家という存在は、歴史的な存在であります。歴史的な背景を無視して国家のあり方を考えることはできません。しかし、一方で、歴史にとらわれ、国益にのっとった未来への自由な選択を狭めることもまた適切ではないと私は考えております。

 憲法九条の存在が平和国家日本の礎石であり、一切この条文を改めるべきではない。この主張は理想論の立場であると思います。しかし、国際社会の現実を踏まえるとき、専ら自衛に努める、そしてまた戦力を放棄することのみで平和がもたらされるという判断は、理想論であると言わざるを得ないと思います。一方で、普通の国家のあり方を踏まえ、自衛隊の位置づけの明確化、自衛権、集団的自衛権の明確化を求める立場は現実論である、そのように思います。一方で、理想論は理想論であるから意味がないということにも私はつながらないと思っているわけであります。いまだこの理想論が戦後六十年を迎える今日も我が国民の中で根強い支持があるということ、ここにも思いをいたさなければならないと思います。

 不戦の誓いともいうべき理想、この理想を今日どのように実現するのか、そして日本はその理想を実現するためにどのような国のあり方を求めるのが最も現実的な選択となるのか、ここに現実論を徹底して議論しなければならない理由が存在いたします。理想論と現実論の融合、これこそが憲法の再検討に当たって我々が立脚すべき立場ではないかというふうに思います。

 解釈による見直し、これは理想論と現実論をつなぐ道筋として今まで行われてきたものでありますが、決して適切なものではないと私は思います。解釈は国民的な議論を経るものではないというのが最も問題であろうと思います。

 憲法の規定は、国民が直ちにその意味が理解できるような平易な規定であるのが妥当であろうと思います。憲法九条の規定をそのまま字句どおりに現実に適用すれば、非武装国家ということになってしまうと思います。しかし、これは現実の日本の姿ではありません。また、大多数の国民の選択もそのようなところにはないと私は思っております。

 現実と理想の乖離を解釈で、またレトリックで調整を行ってきた、そしてまたそこに精緻な論理を構築してきたというのが今までの経緯でありますけれども、そうしたことを改める必要があるというふうに思います。

 しかし、このように申し上げることは、決して第九条に込められた理想を放棄するということにはつながらないわけであります。第九条の第一項では、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と、まことに格調高い理想がうたわれております、宣言されております。二項は、これに引き続いて、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定をしております。

 二項の規定は論理的に一項から帰結するのかというと、私は決してそうではないというふうに思います。むしろ、二項の規定を前提とすると、まさに非武装国家となり、前段のように、一項のようなことにしかなりませんけれども、非武装国家でなければ一項の規定が実現されないということにはならない、そのように思います。

 日本は、国家として自衛権を当然保有し、そのための一定の実力を保有する、当然のことであると思います。そして、事実、自衛隊が存在するわけであります。こうした現実と第九条にうたわれた高い理想を両立する規定を構想するということ、これが今求められているわけであります。現実論のみでは足りませんけれども理想論のみでもない、幅広く国民に受け入れられる規定を構想すべきではないかと思います。

 集団的自衛権の問題は、その次に導き出されます。一項の理想を堅持する限りにおいては、無限定の集団的自衛権の容認はあり得ないと思います。あくまで個別的自衛権の延長としてどのような範疇の行動が前段の理想のもとに許容されるのか、こういう議論を土台として、集団的自衛権のもとに想定される行動の整理が必要であります。

 また、国際協力の規定をどのように考えるのかという問題提起もあります。これは、第一項に込められた理想、また前文に盛り込まれた理想を現実的に展開するという視点に立てば、当然新たな規定を設けるべきであると私は考えております。当然、前項の規定に基づき、武力の行使または武力による威嚇は否定されておりますから、どのような行動をもって国際紛争の解決に臨むのか、この点を明確にする必要があると思います。

 国民のコンセンサスが形成されていないのではないかという指摘もありました。私は、このコンセンサスが憲法の改正に当たっては最も大切なことであると思います。具体的な論点にわたって引き続き真摯な議論を重ねるべきではないかと思っております。

 以上です。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 憲法を考える場合に、憲法の規範上の問題と世界や日本の現実の両方から考えるというのは当然のことだと思うんです。それで、先ほど憲法はあいまいであるという話がありましたけれども、これは歴代の政府が憲法の条項に沿わない事態をつくってきたがために憲法との乖離が生まれたのであって、憲法自体にあいまいさはありません。例えば、憲法九条はどう読んでも、憲法学界でも多数説になっているように、自衛隊は現実に違憲の存在であるというのは多数の認識です。ですから、これが蒸し返されたという指摘もありましたけれども、そういうものじゃなくて、現実にそうなんだというところが私は基本だと思いまして、憲法に反する現実の方を変えていって憲法の方に戻してくるというのが、立憲主義の場合は基本の筋だと思うんです。

 それで、憲法の立法者趣旨が明確じゃないという話がありましたけれども、特に九条について言いますと、とにかく世界の歴史上初めてこういう中身を持った憲法を、案をつくりましたから、相当の突っ込んだ議論をやっているわけですね。ですから、立法者意思は極めて明確なんです。

 例えば、国連憲章とのかかわりでいきますと、集団安全保障の機構として強制措置があるわけですけれども、その軍事的な部分に憲法九条を持つ日本は参加できるのかという議論が繰り返し行われて、当時、幣原国務大臣を初めとして政府側からは、九条がある以上軍事的な活動には参加できないということをきちんと述べています。そして、それを裏づけるように、一九五二年に日本が国連加盟を申請したときに、九条という留保条件をつけて加盟を申請するという手続をとり、それを当時の条約局長が、これは九条のもとで軍事的な部分には一切参加できないということを内外に表明したものだということを述べておりますが、このように、私は、経過を見ましても、立法者趣旨というのは極めて明確だというふうに思います。

 それからもう一点、ハーグ陸戦条約との関係で、憲法制定過程に問題があるという指摘がありましたけれども、これは、政府自身が、一九八五年九月二十七日の政府答弁書で、そういう指摘は当たらないと明確に述べております。ハーグ陸戦法規は、本来、交戦国の一方が戦闘継続中、他方の領土を事実上占領した場合のことを想定したものであると。日本の場合は、戦争状態が終わり、降伏して一連の法的な措置をとられたわけですけれども、そのもとでのことであって、これをもって憲法制定に問題があるという立場をとらないというのが政府の正式な答弁書です。

 それからもう一点は、自衛隊の明記の問題なんです。

 私は、自衛隊は違憲状態であって、段階的な解消の措置をとりながら、長期的にかかるでしょうけれども、憲法に近づけるという立場ですが、しかし、今問題になっております、また提案されております自衛隊を憲法上位置づけるんだというのは、そこにとどまらないで海外での武力行使まで踏み込んでいく、そういう自衛隊なんですね。そこのところを議論としてはきちんと整理する必要があるし、それは九条の点からいって、これはどうやったって九条の精神とは合わないというふうに私は思うんです。

 最後になりますが、しばしば、午前中の発言でも言いましたけれども、きょうも議論の集約という話がありました。しかし、もともとここの委員会は、先ほどの幹事会でも確認いたしましたけれども、何らかの結論を出すような、そういうところではないわけですから、自由討議という形での討議であって、議論を集約するための討議ではないということを最後に申し上げておきたいと思います。

柴山委員 ただいま山口委員から御指摘がありました、規範と現実が一致しない場合には、むしろ現実を規範の方に合わせるべきではないか。一般論としてはそのとおりだと思います。しかし、私は何も理想がいけないと言っているわけではありません。規範と現実が乖離したときに、その現実に対してどのように対処すべきか、そうした枠組み、制度論として、今の九条では対応し切れなくなっているのではないか。余りにも解釈があいまいでこれに対応できていない。そこを我々の同僚の委員たちは指摘をしているのではないかと思っているのであって、決して理想を捨てるということを申し上げているのではないということを御理解賜れればと思っております。

 さて、自衛権の問題についていろいろ議論がございました。私は、自衛隊について、これが隊であるから、軍ではないから合憲であるといったような言い方は、これは国民を欺くものではないかというように思っております。その意味で、やはり私は自衛のための武力組織というものはしっかりと憲法上位置づけていくべきであると考えております。

 先ほど自衛権について、枝野委員から、その行使の要件等について明記すべきではないかという問題提起がございました。私も半ば賛成でございます。半ばと申しますのは、従来、やはり自衛という概念については、例えば刑法上の正当防衛にもありますとおり、急迫不正な侵害に対してやむを得ない範囲での反撃しか認められないという解釈が私は解釈上も可能ではないかというように考えております。仮に、集団的自衛権の概念を採用することによってこの伝統的な自衛権の概念を拡大するのであれば、私はやはりここの部分は明文上きちんと書いていくべきではないかなと思っております。ここの部分については、やはり米国とどこまで行動をともにするかという部分にもかかわってきますので、しっかりと考えていかなければいけない問題だと思っております。

 さて、国際協力の範囲についてでございます。

 私は、自衛権の問題と異なり、この国際協力の範疇につきましては、いわば我が国の主権がある程度制限されるというような話でございますから、項を改めて定めるべき問題ではないかなというように考えております。そして、やはり国民的なコンセンサスを得られるということで、まず第一弾の改正を考えるとすれば、やはり国連決議に基づき、非武力的な、いわゆる人道復興活動等の非武力範囲での活動というものに範囲を限定するということが現実的ではないかなというように思っております。

 ここで反論として、非武力的な活動とは何か、究極的には武力と一体化するのではないかという反論がありますけれども、例えば、犯罪においても、実行行為とこれに対するいわゆる幇助の行為、これも、幇助についても有形的な幇助行為とあるいは無形的、つまり技術的あるいは資金的な幇助行為ということが概念を区別できるわけでありまして、そういうような工夫をやはり私はしていくべきではないかなと考えております。

 また、NGO等の活動に期待をすべきだという反論もございますが、NGO等をこうした人道復興活動に派遣したときの危険性というのは、まさに今回のイラクにおける人質事件等が如実に物語っていると私は考えております。

 また、自衛隊と別組織の実力部隊を派遣すべきだという意見もございますが、思考としては確かに筋が通っているのかもしれませんが、現実的にどれほど経済的に合理的かということは問われ直さなくてはいけないと思っております。

 なお、この国際貢献に関連しまして、日本の安全保障理事会の常任理事国入りが検討されております。しかし、まず、常任理事国入り云々の前に、非常任理事国であれ、この安保理入りすること自体が実は法的に検討されなくてはいけない問題をはらんでおりまして、国連憲章でいえば四十二条の問題でございます。また、もちろん常任理事国に入った場合には四十七条のハードルもクリアしなければいけません。この点について、きちんと議論をしなければいけないというように思っております。

 最後に、国家緊急権の問題について申し上げます。

 この点について、憲法に明記すべきであるという意見はありますけれども、国民保護法あるいは激甚災害法等の下位法規である程度対応ができるのではないかという見解にも私はうなずけるものがあると思っております。また統治機構、例えば、総理大臣を含め大臣が全員死亡してしまった場合にどのような事態が生じるのか、そういったような問題もございますが、これについてもやはり下位法規で定めてもよいことではないかと思っております。

 今後の議論にまちたいと思います。以上です。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 我が党も基調発言があった後でございまして、自由な発言をさせていただきます。

 先ほどもお話がありますけれども、もともと日本の九条というのは、書いてあることは本当は明確なんですが、先ほど共産党の山口さんがおっしゃっているように、このとおりやってこなかったことにやはり原因があるというのも一つなんですね。運用がそのとおりになっていなかったということが一つあります。それと同時に、だからこそ、内閣法制局が歯どめ役になっていろいろな解釈の変遷があるというのも事実でございます。しかし、内閣の法制局だけが有権解釈の最高峰みたいなことになっているのはおかしいではないかと最近は言われてきておりまして、まさにそういうことだと思うんですね。

 その中で、私は、九条一項と二項はやはり置いておくべきだと実は考えておりまして、これは前からも申し上げているように、九条一項だけにしますと、この解釈はいろいろな解釈がございまして、一項で放棄しているのは侵略戦争だけであるという解釈が成り立つんですね。そうなってきますと、二項がないと、侵略戦争以外のものはいいということはどういうことかというと、自衛戦争はいいということになるんですね。

 ところが、この自衛戦争というのは、日本で言われている個別自衛権の行使の要件よりも広いわけでございます。三要件で行っているのでありまして、かなり限定的なのが日本の自衛隊の自衛権発動の要件でございます。そういう意味で、一項、二項ともに置いておくべきだと考えているんです。

 そして、一項の場合に、国際貢献が書いていないではないかという話もあるんですが、これは前文等を含めまして、もともと成り立ちが国連憲章を受けた形で日本の憲法というのはできておりまして、むしろ国連に協力する、これは厳密な意味の参加ではなく、国連に協力するということはできると本来一項で読むべきだったんだと考えているわけなんです。

 私は、先ほど個別自衛権ということを言いましたけれども、自衛行動については個別であるべきだと考えておりまして、集団自衛権の行使というのはすべきでないと実は考えております。

 そして、その集団自衛権の行使を憲法上にという話、新しい憲法とかいう話であれば、議論としては当然あるわけなんですが、やはり一番心配なのは、今までの九条の解釈の中でさえも、例えば警察予備隊だったとか保安隊だったとかだんだんだんだん変遷をしてきて歯どめがきかないできているのに、変えたらどうなるんだろうかということと同時に、今の日米関係の中で、特に五条、共同対処というところを見たときに、今までは後方支援で済んだものが、どうも今度、トランスフォーメーションの後には、後方支援ではなく本当の意味の共同対処になってしまうのではないかということを非常に危惧をしておりますので、これはやはり明確に、今の段階では集団的な行使はしないということがよろしいと思いますし、国際協力の場合には、厳密な意味の国連協力、参加ではなく協力ということで、非軍事でいくべきだと考えているところでございます。

 そして、非常事態の問題に関しても、現行憲法の中では、昔から言われているのは、緊急権のような規定は当然できませんので、しかし、国際的にも、自然災害だけしか緊急救助隊的なことができませんので、自然災害だけではなくて、そうでない場合にも、サンダーバードのように、ひとつ、医療機関や警察や訓練やさまざまな要素を持った別組織を派遣するようにすべきだと考えております。

 以上です。

永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。

 きょうのテーマに沿いまして、安全保障、国際協力、非常事態に関して意見を述べさせていただきます。

 九条の原点はマッカーサー・ノート第二原則にあり、当初は自衛のための戦争さえも日本に放棄させる内容でありました。その後、同原則から、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」との文言が削除され、帝国議会の審議の過程で、いわゆる芦田修正によりまして、自衛のための戦争や武力行使は放棄されないことが明らかにされました。さらに、その後、極東委員会の要請で文民条項が追加されたことは、我が国はいわゆる自衛権を保持し、そのための文民統制は必要であったということの証左であり、このことは本調査会の調査の過程でも明らかであります。

 このような九条の制定経緯はさることながら、刻々と変化する国際社会に的確に対応しまして、国民の生命、財産を守るための安全保障体制を整備することが政治家としての責務であります。私は、我が国を取り巻く現在の国際情勢と将来の我が国のあるべき姿を見据え、国民の価値判断に合致した安全保障のあり方を議論する必要があると考えます。

 まず、我が国の安全保障を最前線で担っている自衛隊を国軍として位置づけ、憲法に明記する必要があると考えます。テロやミサイル攻撃等の現実の脅威のもと、我が国の防衛体制を整備することが重要であるとともに、自衛隊が行うPKO活動や自然災害における救助活動は内外から高く評価されております。このような重要な任務に当たっている自衛隊についての憲法上の位置づけを明確にし、今後、合憲か違憲かという不毛な憲法論議が繰り返されないようにする必要があると考えます。

 そして、自衛隊は我が国における自衛権の行使主体としての役割を担いますが、自衛権に関しては、九条の制定経緯及び国家の自己保存権として、その保持と行使は憲法上当然認められていると考えます。

 ところで、ここで述べる自衛権には、個別的自衛権のみならず集団的自衛権も当然含まれると考えます。集団的自衛権は、国家が持つ自然権であり、その行使は国連憲章上においても認められているところであります。このことを明確にするためにも、我が国は、集団的自衛権を含む自衛権を保持していることを憲法上明記する必要があります。なお、集団的自衛権の行使は、日米安保条約における枠組みの中での行使など、一定の限定を付すべきであると考えます。

 また一方で、自衛隊は、国際貢献の役割を担います。現在、スマトラ沖の地震、津波被害での支援活動等に自衛隊が派遣されておりますが、こうした自衛隊の活動は国際的に高い評価を得ており、国民の理解も進んできております。自衛隊がより積極的に国際の平和と安全の維持や人道上の支援を行い、国連などの国際協調の枠組みでの活動に参加できるよう、国際貢献に関する規定を憲法に追加する必要があると考えます。

 最後に、非常事態規定についてでありますが、国家の第一の責務が国民の生命、財産を守ることである以上、有事、災害に対処するための非常措置権を憲法上明記することは当然であると考えます。その場合、我が国の中枢機能が集中している首都における大災害といった事態も想定しなければならないと考えております。

 以上をもって私の発言とさせていただきます。ありがとうございました。

    〔会長退席、枝野会長代理着席〕

園田(康)委員 憲法解釈という意味でいけば、私も、今何人かの委員の方からも御指摘があったように、集団的あるいは個別的自衛権というものは自然権の中にあって、正当防衛権の、刑法三十六条ですよね、その中の、人間が自然権として保有しているものと同等に、国家の自然権として保有しているものであるというふうには私も理解もできますし、解釈もしております。

 ただ、今までの歴史的な部分あるいはこの憲法制定下における憲法解釈を幾らしたところで、余り、ひょっとしたら、これからのことを私たちが語る上においては意味がないのかなという気はしております。

 確かに、過去の歴史をさかのぼってきちっとその制定過程をひもといていくということ、そして、それにおいて、その延長線上に将来を語る、見据えていくということも確かに大切なことであろうというふうに考えておりますけれども、今私たちが政治家としてこの先この国をどうしていくのかということに基づいてこの憲法論、解釈といいますか、憲法をどうしていくのかということに視点を置いていただきたいなという気がいたしております。

 そして、あと、先ほどでございますけれども、憲法学界の中で、そういう、自衛隊は違憲であるというような御発言もありましたけれども、私は憲法学会にも所属をしておりましたけれども、申しわけございませんが、公法学会の中でということで訂正をさせていただきたいと思うわけでございますが、憲法学会ということなら憲法学会というものが別個に実はございまして、その中ではまた別の議論がされていたという記憶がございます。

 その上で、憲法の解釈という上においては、なかなか国民の議論の中で、九条を含めて、難し過ぎてよくわからないという部分もあって、なかなかこれが平場の中で国民の合意というものが得られないということには私もちょっと残念に思えてなりません。

 そこで、先ほど申し上げた、政治がこれから先何をしていくのかということをこの日本国憲法に当てはめて考えていくならば、やはりもう一度、国際社会の中における日本の役割、これをきちっとまず考えて進めていこうではないでしょうかという御提案。それから、同時に、議論も出ておりますけれども、地域的な安全保障ということでいけば、このアジア圏というものの中での日本の果たす役割というものを、やはりもう一度この中で議論をしっかりとしていく必要があるのではないかということでございます。

 そして、先ほど我が党の委員からも御指摘がありましたけれども、自衛権を発動するという意味では、あるいは武力行使を発動するという意味では、抑制的な部分で物事を考えていくべきであるという御指摘がありました。無尽蔵にどんどんどんどん武力行使あるいは自衛権というものを際限なく認めていくということになれば、やはりそれは、これからの私たちの将来あるいは未来の子供たちのこの日本国の安全というものを考えたときに、取り返しのつかないことになってしまうおそれがあるのではないかということであります。

 そして同時に、その抑制的な部分の中でシビリアンコントロールということを考えれば、今の現状で果たしてシビリアンコントロールがしっかりと働いているのだろうかという自問を私は抱いているところでございます。であるならば、もう一歩先に進めるシビルコントロール、シビルコントロールというものをしっかりとこの先、明記、これは憲法上の明記をすべきなのかどうかはちょっとまだ私自身の中で固まってはおりませんけれども、シビルコントロールというものをしっかりと、アメリカあるいは諸外国の例に倣って、この日本の中でも行うべきであるというふうに考えております。

 具体的には、よくこれは防衛庁の昇格という形が出てくるわけでございますけれども、防衛庁を昇格すれば、これが軍国主義あるいは軍拡につながるのではないか、強権的な発動につながるのではないかという御意見もあるようでございますが、私は逆に、昇格をすることによって、行財政改革の一環としてこれは物事をとらえることができるんではないか。

 あるいは、今の三幕僚がいらっしゃいますけれども、それを実際に国会の中に、防衛庁という役人を通じてシビリアンコントロールをするんではなくて、直接この国会が介入をしていくということも、政治的な部分で介入をしていくということも、一つ私は意見として御指摘を、問題として投げかけをさせていただきたい、そのように考えているところでございます。

 以上でございます。

谷川委員 これが、四年間の日経新聞、朝日新聞、共同通信が配信した地元紙です。この中に、私どもの党の中曽根私案、保岡私案、それから山崎拓私案というのがあります。そういうのを考えながら、結論から先に言いまして、九条の一項はそのとおりにして、二項は、「日本国は、自らの平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つため、防衛軍をもつ。」三、「日本国は、国際の平和及び安全の維持、並びに人道上の支援のため、国際機関及び国際協調の枠組みの下での活動に、防衛軍を参加させる」、こういうことを提案します。

 それと、もう一つ、保岡私案ですが、権利と義務ということで、やはり公の秩序を守るためには果たすべき責務があるんだ、愛国心という言葉を使わなくてもそういうことをぜひ入れるべきだ、こういうふうに思っております。

 なぜならば、国の役割というのは、国民の生命と財産を守る、これは譲れません。これを満たすために日米安保条約があったわけです、今の憲法を補完するために。憲法で戦後の秩序が維持されたわけでは決してない、あくまでもこれは日米安保条約があったからなんだ。これが私どもの考え方です。

 ところが、戦後すぐのときと、明らかに違う点が二点。一点は、天皇制が守れるならば何もかも譲るよという考え方があった、当時。もう一つは、経済力が当時と今とは全然違う。アメリカが戦後すぐ日本を見る目と今とは全然違う。だから、当然、日米安保条約というのも、日本の責任という、果たすという部分が強くなきゃならぬのだ、そういうことがまずあります。

 もう一つは、世界の秩序を守るために、世界の法律ができて、世界の警察官、検察官、そういう司法制度ができて、それがうまく機能すれば、それはいいですよ、一条、二条、今のままでも。ところが、現実はそうはなっていない。どうしても自分の国は自分で守らなきゃならぬ、もしくは、それができなかったらどこかの国と組んでやらなきゃならぬという現実がある、これは否定しようがない。それならば、そういう理想的な国家になるまで、あくまでもやはり自分の国は自分で守り、なおかつ足らなかったらどこかと組むという方法をやらなきゃならない、そういうふうに僕は思います。

 現実的に起こっていることは、北方領土を返さない、ロシアが。二番目は、北朝鮮が拉致したという問題をきちっとすることができない。三番目は、中国の潜水艦が侵略してきても、侵略じゃないか、不法に入ってきても何とも、もう今から絶対来させない、そういうことを打てない。こういうことごとく起こっている問題について打つ手がないじゃないか。だから、そういう理想論を言う人は、日本の国に生まれ、ここで育ち、ずっと生きていかなければならない僕らの子供や孫も考えると、やはりこれはきちっと大人としてする責任があるよ、できなかったらどんなふうにするんですか、だれが責任とるんですか。だから、いろいろ言う人は、北朝鮮の拉致の問題、あれなど力で解決してください、そういうことを言いたいわけです。

 もう一つ困った問題は、無責任きわまりない一人一人の考え方というのかな、そのために起こってきた現状というのが財政破綻、次、少子高齢化、次、環境問題、次が若者の自立心のなさ。例えば、ニートが五十二万人、フリーターが四百十七万人、自殺者が三万人強、それから子殺し、親殺し、次から次に起こっている。こういう問題を解決するには、人間いかに生きるべきかということをぴしっとやはり打ち立てる必要があるんです。理想論を言うのは結構ですが、一億二千七百万人は理想論だけでは守れない、そういうことを強くわかっていただきたいなと思います。

 非常に次元が低い話になったかもしれませんが、朝起きて、御飯食べて、仕事をして、寝て、生活するにはこういう考え方が要るんだよということをわかっていただきたい。

 以上です。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 この問題につきまして、今までこの場所で何回か発言をしてきたのですが、改めまして若干の考え方を申し上げさせていただきます。

 憲法九条の問題を考えるときに、私には一つの常に思い出す出来事がございます。それは、防衛研究所にお招きをいただいて、公明党の安全保障政策をしゃべれということで、私がある意味で得々として、公明党の領域保全能力について、領土、領海、領空を守る、そういった領域保全能力というものを持って専守防御に取り組むんだというようなことを言っておりました。そうした議論をした最後に、自衛隊の将来の幹部候補生というか、四十代前半の自衛隊員の方から言われた言葉が印象に残っています。赤松さん、そういうことをいろいろ言われたけれども、自衛隊という存在をどうやって憲法の上に位置づけてくれるんですか、こういう質問をいただきました。このことが常に私の念頭にございます。

 一方で、先ほどもお話ございましたけれども、防衛庁という存在、御承知のように、昨今、自衛隊の皆さんに対するさまざまなニーズというか、いろいろな側面が、かつてと違って、いわゆる自然災害に対する救助から始まって、国際緊急援助隊における役割とか、あるいはPKOの活動であるとか、果ては鳥インフルエンザの始末に至るまで、ありとあらゆる役割、任務が起きてきている。

 そういう状況の中で、防衛庁は依然として内閣府の中に位置づけられている。閣議において防衛庁長官が何かを提議するという役割も、内閣府の長である内閣総理大臣を経ないと防衛庁長官にはそのことができないという、そういったいささか現実と乖離したような事態が起きている、こんなふうなことをまず頭に思い浮かべるわけでございます。

 私どもの物の考え方は、先ほど太田委員からありましたように、憲法の九条一項、二項については堅持をするということが多数の意見でありました。私も、近未来において、もし憲法について何かをする、現在の憲法を変えるというようなことがあった場合の優先順位として、憲法九条一項、二項について何らかの変更を加えるということについては、若干、最大の優先順位にはならないんではないか。

 つまり、その背景には、先ほど福島委員からもありましたように、国民のやはり合意という部分に、この場における議論とは若干違う側面がありますけれども、国民的な幅広い合意が得られるに至っているとは言いがたいものがある。そういった意味で、冒頭に申し上げた自衛隊の位置づけ、それから防衛庁と防衛省という、庁の省昇格といった問題に付随するさまざまな問題等、幾つかの具体的なそういう問題を抱えているにせよ、今急いでこのことについて、憲法の明文改正の中にそれを急いでやらなくちゃいけないという国民的合意は、今の時点で得られてないんではないかというふうに感じます。

 ただ、そうではあるものの、やはり一方で、近未来における憲法の改定といった場合に、現行憲法九条がさまざまな解釈の食い違いを生み出しているということについて整理をする必要は当然ある。その中身については、もう既にこの場で何回かしゃべってきておりますので、きょうはそれについては触れませんけれども、今申し上げたような、近未来、そしてそれから先の問題といったふうに分けた場合に、この憲法の九条について、やはり幅広い国民的合意を得るための努力が必要になってくる、そんなふうなことを申し上げさせていただいて、きょうの発言にさせていただきたいと思います。

鹿野委員 憲法九条につきましては、もう長い間いろいろと議論が積み重ねてこられました。そこで、この問題を考えるときに大事な点は二つあると思います。

 一つは、拡大解釈に歯どめをかけるという点であります。もう一つは、法の支配を担保するという、このことだと思います。ゆえに、考え方といたしましては、一つは、自衛権を明記するということであります。

 それは、当然、この自衛権というのは、個別的自衛権、集団的自衛権、この二つ、国連憲章上も、これは制約された形でうたわれているわけであります。ゆえに、自衛権があるから何をやってもいいということではなしに、まさしく国連憲章上のとおり、緊急やむを得ない場合、そして国連が作動するまでの間、そして報告義務、この三条件が満たされたものでなければならないということも明記をした方がよろしいのではないかと思います。そのことは、近隣諸国の人たちからも理解されることにつながると思います。そして、自衛隊はあくまでも自衛隊でよろしいのではないかと思います。

 もう一点は、国連の集団安全保障に関しては憲法上明記されておりません。これを明確に規定した方がよろしいと思います。

 考え方といたしましては、カンボジアにおきまして国際貢献が行われましたが、あのときに、自衛隊の文字を塗りつぶしてUNといたしました。このカンボジア方式というものは大変な評価を得たわけでありますけれども、この考え方でやっていくというふうなことだと思います。しかし、いずれにいたしましても、極めて抑制的なものでなければならない、こういうふうなことは当然のことになるわけでございます。

 すなわち、この九条というふうなものがあいまいであるかあいまいでないかというようなことについてのいろいろな考え方がありますけれども、少なくともこれだけ議論がなされてこられて結論が出てこないということは、いかにあいまいであるか。十年前のことを思い起こすならば、今の状況というものは当時は考えられないくらいの状況であった。このことを考えたときに、我が日本の国としても安全保障上きちっとした九条の形をつくるときではないか、こういうふうに思います。

 また、非常事態につきましては、これまでの予測できないようなことが次から次へと押し寄せてきているような状況を考えた場合に、別途、対処規定というものを憲法上設けるべきではないか、この考え方で検討していくことが必要ではないか、こう思います。

加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。

 今、いろいろ委員のお話を聞かせていただきながら、また我が国の安全保障の論議を聞くと、どうしても、我が国としてどうすべきかすべきでないかという議論以上に、できるかできないかということに非常に拘束されていた。特に、内閣法制局の解釈といったものに縛られてきた。また、そのことが、結果として安全保障論議そのものが、ある意味ではゆがめられてきてしまったのではないかな、そんな思いがするわけでありまして、やはり、基本として、これからの国際社会の中で、我が国がどういう役割を果たすべきかという基準の中で物事をとらえていかなければいけないというふうに思うわけであります。

 また、よく国連決議、国連という言葉が出てくるわけでありますが、あえて申し上げるまでもなく、国連そのものが各々国家によって形成されている、ある意味ではそれぞれの国の国益がぶつかり合う場であり、さまざまな事案が出てきた場合に、国連という意思が勝手に決定するわけではなくて、我が国を含めた各国家間で議論された結果が国連の決定ということになるわけでありますから、当然、そうした事態、事案に対して、我が国としてどう対応していくかということがまず基本になってくる。

 したがって、我が国の対応と結果とする国連の決定、その中にも当然何らかのつながりがどうしても出てくるわけでありまして、国連だけが別途の意思であるかのような議論というのはやはりいかがなものかな、そんな思いがしております。

 同時に、今の現状と憲法の整合性という議論も確かにあるわけであります。憲法というものが現行にある以上は、それを守っていくというのは当然でありますが、しかし、同時に、憲法に改正規定があるわけでありますから、状況が変わってくれば憲法を変えていくということは当然ではないかなというふうに私は思っております。

 そういう中で、自衛権の問題、先ほどから多くの方が御指摘されておられるように、私自身も、いわゆる個別、集団を問わず、自衛権は、当然保持し、また行使し得るという立場に立って、憲法上そのことを明確化していくことがまず必要ではないか。そして、行使については、もちろん無制限な行使ということにはつながらないわけであります。逆に、行使ができるということを前提に我が国としてどうあるべきなのか。文言で言えば、必要最小限という言葉になるのでありましょうけれども、そういう枠組みをかましていく。そして、その具体的中身は、もちろん、基本法等に、下部の法律に任していく、そういうスタイルをとっていくのが妥当ではないかというふうに思っております。

 それから二点目として、非常事態の議論であります。

 確かに、これまでもさまざまな事態について法律の整備は進んでいるわけでありますけれども、私は、基本的に、そうした緊急権、あるいは非常事態における措置をする権限といったものを憲法上明記しておく、そして、憲法上明記するということは、同時に、その行使についての枠組みをそれなりにかましていくといったことが当然に必要ではないか。そういう意味で、非常事態についても憲法上しっかりと盛り込むべきだというふうに思っております。

 以上です。

保岡委員 自民党の保岡です。

 日本国憲法は、もうたびたび言われているように、戦後六十年近く全く改正をいたしておりません。その制定されたときと現在とで内外の諸情勢が激変していることは事実であります。

 とにかく、あの敗戦で国家が破綻して占領下にあった日本が、この憲法をGHQの作成に基本を置いて半ば管理下で成立したものであること、それをもって別に憲法の価値を否定しようとは私は考えませんが、しかし、現に、国家として一番大事な自衛という言葉がこの憲法にはありません。

 もしあるとすれば、それは、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようとしたと。世界が平和愛好国であるから、日本さえ戦争をしなければ平和である。したがって、日本は、戦争を永久に放棄して、その担保として軍隊も持たない、そういう規定の仕方になっていて、実力をもって国をしっかり守るという観点が欠落しております。

 このことについては、今や日本国民全体がおかしいと。やはり自衛隊というものは合憲であると。少なくとも、自衛隊の存在そのものは、私は、認めているのは国民のコンセンサスではないかと。そして、各政党も、いろいろな経緯はあったけれども、自衛隊の合憲性は認めるに至っている、私はそう理解しております。

 そうであれば、やはり、専守防衛にしろ、一体どういうことが専守防衛で日本の安全保障になるのか。確かに、領土内、領空内のことは、個別的自衛権という概念で、政府の解釈で、まさに逆立ちするような解釈をして認めておりますが、しかし、周辺事態とか、領空、領海外であるけれども日本の安全や平和に重大な影響が出てくる部分における他国との共同行為というものについて、しっかりした議論をしなくていいのかということは、集団的自衛権の観念なのか、自衛のという視点において議論するのか、いずれにしても、現実の問題として国防という観点からきちっとしなきゃいけない。

 特に専守防衛というのは、前からお話が出たように、これは横綱相撲ですから、どこから攻められても決して負けない、最も強い体制を持たなければ専守防衛はかなわないわけですから、そういった観点からも、防衛にすきがあってはならない、すき間があってはならない、私はそう思います。

 それから、国際貢献においても、やはりリスクを管理する。さっき鹿野道彦委員からお話がありましたとおり、法の支配ということは、国内においても国外においても極めて重要な基本であります。それを侵害して、そして平和と安全というものを損なう行為に出たものに対して、単に平和を祈る、平和を外交だけで解決するというのは現実的でない。実力をもって担保し、抑止力を働かせ、一たん侵害があればそれをきちっと管理して回復するために、実力の措置の裏づけのない集団安全保障措置はあり得ないと私は思います。

 したがって、その場合の実力行使の原理をきちっとはっきりさせておく、これも、専守防衛の基本的な理念というものを国是として防衛的観点に立つ、武力行使の制限原理あるいは行使原理というものを、みんなでいろいろな場合を考えて議論するのが本当の平和論だ、平和管理論だと私は思うのでございます。

 そういった意味で、平和というものは確かに理想だけれども、それは実現すれば空気みたいな存在で、何のありがたみも感じない、しかし、そのプロセスが大事なのであって、プロセスを重視した現実論をしなければ本当の平和論ではない、平和愛好国民でもない、私はそう思います。

 したがって、やはり、この憲法の基本である国の防衛、あるいは国際貢献における法の支配を破る存在に対するきちっとしたリスク管理の考え方を憲法に明示するということは、民主主義を前提とする限り、その民主主義に立つ政府を信頼し、国家を信頼するという観点に立って現実的なルールを決めるということが基本でなければならないと思います。

    〔枝野会長代理退席、会長着席〕

土井委員 保岡先生は、基本的なルールを決めると最後に今おっしゃったわけですが、先ほど御発言のときに自衛権についておっしゃった。主権国家である限りは、自衛権というのはおのずとそれぞれの国にございまして、これを否定するわけにいかぬですね、やはり国家を維持していこうとするなら。その国とともに自衛権というのはある。ただ、その自衛権をどのような形でどのように行使するかというのは、それぞれの国のやり方があるわけで、それを決めているのが憲法の内容だというふうに私は理解をいたしております。

 そうしてくると、日本は軍事的手段によらないというのが大まかに言えば基本的姿勢なんですね。国権の発動たる戦争はしない、武力による行使や武力による威嚇というのも国際紛争解決の手段としてはとらないとはっきり言い切っているわけですから。そういうことからいたしますと、昨今は、最後におっしゃった確定的なルールをつくるということがいかに難しい状況になってきたかということを思い知らされます。

 それは、一昨年、昨年、有事法制関連法が次々と成立いたしましたが、日本への直接的な侵略の可能性というのは、冷戦が崩壊してから後はだんだん低下しておりますという認識で政府の方はお答えになるんです。しかし、他国からの侵略を想定した有事法制なんであって、その中では、果たせるかな、懸念していたとおりに、国民の保護よりも米軍との共同活動に主眼が置かれているんじゃないかというこの法規制でございます。だから、国民の主権や基本的人権というのはそのために制限を受けるという中身であって、果たしてこれを称して国民の保護をする法案であるということを法律が成立するまでにきっぱり言い切れたかといったら、そうじゃないと思うんですよ。

 そして、先ほどもトランスフォーメーションのお話が出ておりましたけれども、全世界的規模で米軍の再編成が進むということに呼応して、日本も今度は防衛大綱というのが向こう十年間をかけて中身が変わる。一体どこが一大特徴かといったら、専守防衛ではございませんで、今度は海外に向けてやはり軍事行動をとることができるという道を開くことに通ずる、そして自衛隊法をそのために変えると。

 こういう中身を見ておりますと、続々、憲法を認識して立法した法律はその限りにおいて意味をなくして消えていく、そして、憲法を実施するために、聞かれた質問に対して答える政府の統一見解も、見解を踏み越えてさらに新たに軍事体制とか軍事行動とか政策というのがどんどん動いていくわけですから。こういう現象を見ておりますと、やはり憲法に問題があるんじゃないんですね、憲法に対して背を向けた政府の政策なり、政府の姿勢や政府のやり方に問題があるんじゃないですか。

 しかし、今、きょうもそうでした、憲法第九条を変えなきゃならない、自衛隊を軍隊として認知するとか、また集団的自衛権というのを具体的に明文化すべきだとかいう意味を含めた御発言というのが後を絶たないわけです。しかし、今、憲法に背を向けた現実がかなり勢いよく動いていることに合わせて憲法を変えたとしましょう。その憲法がいつまでももつとお思いでしょうか。またこれはさらに歯どめを失って変えなければならない、現実に合わせて。歯どめが一たん消えますと、あとは堰を切って流れる洪水のようなものですよ。

 今まで六十年、この日本国憲法の第九条というのがもってきた、いろいろあったけれどももってきた。政府の憲法解釈というのがどんどん違ってきましたけれども、しかし、それは何のためにといったら、憲法第九条というのをないがしろにできない、ましてやこれを改憲するわけにはいかない、これがやはり基底にあったんじゃないんでしょうか。

 私は、そのことを思うと、今、現実が憲法からほど遠くなってしまった、それはつくられた現実であるにもかかわらず。その現実に合わせて憲法をつくりかえようということになると、百八十度、今まで、戦後一貫して頑張ってきたという基本線が崩れてなくなります。私はそのことを非常に危ないと思いますね、本当に。

 何とか、自衛隊についても、非軍事という形でそれこそ国際貢献ができる道ということを考えて、先ほども常備する緊急援助隊というのを言ったのは、自衛隊の人にも入ってもらって、そして、そういう役割というのを果たすことに対して従事していただくことができればという案を持っております。

 二十一世紀の平和構想というのは、アジア外交の中で、多国間で協調的安全保障体制というのをつくっていくというのが、迂遠しているようであって、実はこれが着実な、現実的な問題だというふうに私は思っているわけです。

 そういうことを申し上げて、きょうは、恐らくは最終報告書を用意されるときにはこれをまとめていかれるという形にならないことを一つはっきりお願い申し上げて、終わりたいと思います。これは、個々のフリーな意見ですから、フリーなトーキングとして、どうぞ、会長がおっしゃったとおりで取り扱いの方をまた再度お願い申し上げて、終わります。

 ありがとうございました。

早川委員 自民党の早川でございます。

 今、日本の平和がどのようにして確立されてきたのかということに関連してのお話だったと思いますが、私は、憲法の規定でもって現在の、要するに戦争がない状態で五十八年間来たわけではないというふうに思っております。やはり、日米安全保障条約、あるいは国連に加盟、あるいは国際的な協調関係の中で現在の日本の存在がある、こういうことをひとときも忘れてはならないというふうに思っております。

 そこで、先ほど専守防衛という言葉が何回か出ました。これがもし、他国から攻撃されて初めて防衛力が行使できる、こういう概念を含むものであるとすれば、いささか自衛の対応について余りにも制限的であるかもしれない、これは少し慎重でなければならないと思います。

 それから、国民の生命、財産を守るという言葉が何回かいろいろな委員から出されました。

 私は、国家としての独立と国民の生命、財産を守る、こういう責務が国にはあるんだと。要するに、独立、あるいは平和、そして国民の生命、財産、こういうふうな価値観をしっかり打ち立てる、そのためには自衛権の存在の根拠としてもこういった国家としての理念というのを明らかにしておく必要があるのではないかと思います。

 さらに、内閣法制局の憲法解釈の問題がありました。

 私は、内閣が憲法を解釈してそれでおしまいというのは、これは果たしてどうなんだろう。本来的に、国会が、国民のさまざまな意見を代表しながら審議を尽くし、憲法に抵触するかどうかを判断する機関でなければならないのではないか。本来は司法にその役割が担われていますけれども、その司法が十分役割を果たしていない場合には、国会においてこそ憲法の抵触性の有無の審議をする、そのための機関が恒常的に必要なんではないかというふうに思います。

 以上です。

平井委員 戦後六十年、日本国憲法を我々はうまく使いこなしてきたというのも、これは私も認めるところだと思います。

 これは、アメリカ製の洋服をもらって、それを日本人なりに着こなしながら、穴があいたところは継ぎはぎしながら、ぼろぼろになったものを何か取りかえながら今のこの六十年があったんではないか、そんなふうに思っています。

 ですから、これから五十年、そして百年先を考えたときに、やはり今度は日本製の生地で日本の国民が自分たちの洋服を自分でつくるというようなことに当然なってくるんではないかな、そういうふうに思います。

 日本国憲法のいいところ、平和主義というのを皆さんおっしゃると思います。これはもう当然のことだと思うんですが、一方で、国民の生命と財産を守るという国家の責務の観点からいうと、九条第二項の削除というのも、これはもう皆さん大体そのように考えられるんだと思います。

 そこで、いろいろ心配なさっているようなことに関していえば、つまり、平たく言えば、武力による対応でなく、紛争の未然防止のためには外交的努力に傾注するということがポイントで、場合によっては、そのことを憲法の中に明記してもいいんではないか、私はそう思います。

 それと同時に、国際貢献ということも、これもやはり安全保障の視点で、貧困や飢餓、紛争などの人類の安全を脅かすような諸問題を解決するために国際貢献を行う旨、これは、自分の国家の利益だけでなくて人類の共通利益増進のために日本は頑張るんだ、そういうようなことも入れておけば、多くの国民の方々が考えている現憲法のDNAというものが受け継がれていくのではないかなというふうに思います。

 いずれにせよ、解釈で、土井先生が心配なさっているような状況があるんであれば、なおさら、そのところはやはり明確に、日本の平和に対する考え方、国際貢献に関する考え方等々をうたった方が、私自身は、次の世代は自分たちで自分たちの幸せな生活ができるんではないかな、そんなふうに思います。

 以上です。

保岡委員 たびたびの発言で恐縮でございますが、私は、先ほど、安全保障というものに、それを平和や安全を侵害する違法なものに対して、実力をもって対応したり回復したり、そういう管理が必要ないかということなんですけれども、まるで、それはほかの国に任せて日本はそれに近づいてはならないというふうにとれるんですね。

 私は、日本の経済規模あるいは世界の中での国益という意味でも、非常に世界が平和で安全であることをもって、日本国が平和で安全である、そして繁栄の道を歩ける、すべての国の活動の基礎にあるということなどを考えたら、やはりリスク管理については、きちっとした国是は持たなきゃいけないが、それに対して対応する必要がある。

 例えば、午前中に中川委員からお話のあった北東アジア安全保障機構みたいなもので、将来の極東の、あるいはアジアの安全保障機構をつくろうとすれば、当然日本も、日本だけは実力行使には参加しませんというわけにいかない。やはり各国話し合って、実力の措置としての対応部隊みたいなものをつくらざるを得ない。これはEUも、EU緊急対応部隊というものをちゃんと構想して、地域の安全保障を確保しようとしている。これは当たり前の話です。

 私は、そういう場合に、海外派兵だから、北東アジアにおける安全保障措置に日本は実力部隊の領域外への派遣というものを一切否定するのか、そういうわけにいかないと思います。私は、やはり現実に、安全保障というものは、考えることによって、それを最高法規、法の支配として、権威あるルールとして持つためには、憲法の見直しは不断に行わなければ変化する現実に対応できない、私はそのように思います。

中山会長 他に御発言はございませんか。

 それでは、発言も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、来る十日木曜日午前八時五十分幹事会、午前九時調査会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時三十八分散会


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