衆議院

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第2号 平成17年2月10日(木曜日)

会議録本文へ
平成十七年二月十日(木曜日)

    午前九時四分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君

   幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君

   幹事 赤松 正雄君

      伊藤 公介君    石崎  岳君

      大村 秀章君    加藤 勝信君

      河野 太郎君    坂本 剛二君

      柴山 昌彦君    渡海紀三朗君

      中谷  元君    永岡 洋治君

      野田  毅君    葉梨 康弘君

      早川 忠孝君    平井 卓也君

      平沼 赳夫君    二田 孝治君

      保利 耕輔君    松野 博一君

      松宮  勲君    三原 朝彦君

      御法川信英君    森山 眞弓君

      青木  愛君    稲見 哲男君

      大出  彰君    鹿野 道彦君

      小林千代美君    小宮山泰子君

      鈴木 克昌君    園田 康博君

      田中眞紀子君    高井 美穂君

      辻   惠君    中根 康浩君

      計屋 圭宏君    古川 元久君

      松木 謙公君    松本 大輔君

      笠  浩史君    和田 隆志君

      若井 康彦君    渡部 恒三君

      池坊 保子君    太田 昭宏君

      高木 陽介君    福島  豊君

      塩川 鉄也君    高橋千鶴子君

      土井たか子君

    …………………………………

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

二月十日

 辞任         補欠選任

  坂本 剛二君     御法川信英君

  柴山 昌彦君     石崎  岳君

  渡辺 博道君     保利 耕輔君

  園田 康博君     小林千代美君

  辻   惠君     松木 謙公君

  馬淵 澄夫君     若井 康彦君

  太田 昭宏君     池坊 保子君

  山口 富男君     高橋千鶴子君

同日

 辞任         補欠選任

  石崎  岳君     柴山 昌彦君

  保利 耕輔君     渡辺 博道君

  御法川信英君     坂本 剛二君

  小林千代美君     松本 大輔君

  松木 謙公君     小宮山泰子君

  若井 康彦君     馬淵 澄夫君

  池坊 保子君     太田 昭宏君

  高橋千鶴子君     塩川 鉄也君

同日

 辞任         補欠選任

  小宮山泰子君     辻   惠君

  松本 大輔君     高井 美穂君

  塩川 鉄也君     山口 富男君

同日

 辞任         補欠選任

  高井 美穂君     園田 康博君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法に関する件


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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を進めます。

 本日の午前は、国民の権利及び義務について自由討議を行います。

 議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、保利耕輔君。

保利委員 保利でございます。自由民主党の文教制度調査会長をやっております。

 きょうは、権威ある憲法調査会で発言の機会をいただきまして、会長を初め、幹事の皆様方に厚く御礼を申し上げるものであります。

 さて、きょうは、国民の権利及び義務ということでお話をさせていただくのでありますが、私は、立場上、きょうは教育の問題に限ってのお話をさせていただきたいと思います。時間が極めて限られておる十分という中でありますから、全部を語り尽くすことはできないと思いますけれども、一生懸命に努力をしたいと思います。

 まず、憲法をさっと見てみますと、教育の条項については、憲法十三条、個人として尊重されるという趣旨のもの、それから憲法十四条、法のもとの平等、それから憲法十九条、思想及び良心の自由、それから憲法二十条、信教の自由、それから憲法二十三条、学問の自由等がございますが、何はおいてもやはりこの憲法の中で教育に関しての重要な事項は、憲法二十六条であると思います。

 憲法二十六条は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」という旨の第二十六条というのが、非常に重い条項であると私は考えております。

 大日本帝国憲法は七十六条ありますが、この中には教育の条項は盛られていないというのが私の観察でありまして、この帝国憲法、明治二十二年二月の十一日、百余年前のあしたでございますが、に発布をされておるということであります。その中には教育の条項がない。

 しかし、明治二十三年十月三十日、一年ちょっとおくれて教育勅語というのが出ておりまして、その中には、教育の問題については、表現として、「学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ」という言葉が入っているのが教育に関する事項であると思っております。

 明治憲法下ではそういう状態であったわけでありますが、戦後、新憲法ができましたときにこの二十六条を入れた意味あるいは重みというのは非常に大きいと私は考えておりまして、今後もこの二十六条、若干の修正は考えられますけれども、存続をしていただきたいというのが私の念願であります。

 ただ、つぶさに見てまいりますと、いろいろな問題がこの二十六条については指摘がなされます。

 極めて素人の議論でありますけれども、子供には権利が与えられている、しかし親に義務がかけられている、こういう構成になっておりまして、子供には義務をかけていないわけであります。これは当然、法学上の問題として、子供に義務を課すということが妥当なのかどうかという問題があろうかと思いますが、これは学者の議論にまたなければならないかと思います。しかし、子供は学校へ行かなければいけないんだよということが易しく言えるようにするためには、子供にも義務をかける必要があるなと。

 しかし、この子供に対する義務というのは、罰則規定というのをつけるわけにはいきません。したがって、これはいわゆる訓示規定のようになるんではないかと思います。これはもう私限りの自分の独断でございますが、これがいいとは申しませんが、こういうことが考えられる。「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有し、義務を負う。」訓示規定としてそういう義務条項が入ればわかりやすいのかなという感じを私的に持っております。

 ただ、親に対しては義務が課せられておることは御承知のとおりでありますし、学校教育法の第九十一条には、親がこの義務に違反した場合には十万円以下の罰金を科するという条項がございまして、親に対する義務については、非常に厳しい規定が学校教育法の中にあることを申し述べたいと思います。

 さて、これを読んでまいりまして、今の権利義務のほかに、これは小さい問題かもしれませんが、子女という言葉が使われております。「国民は、その保護する子女に」ということでありますが、子女という言葉が現代的なのかどうかということについてはいろいろ議論のあるところでありまして、教育基本法を検討してまいります場合に、「その保護する子に」ということでいいのではないかという議論が非常に有力であります。しかしこれは、憲法に子女と使われておるので、子女という言葉をそのまま使った方がいいだろうというのが法制局の考え方のようであります。これは憲法のところでよく御議論をいただきたいと思う次第でございます。

 また、その中に普通教育という言葉が入っております。「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」ということを言っておりますが、この普通教育というのは一体何であろうかということを考察いたしてみますと、物の本で調べてみますと、国民として必要な基礎的教育というのを普通教育の定義にしている本がございますが、妥当な定義ではなかろうかと思うわけでございます。

 ところが、現行は普通教育というのを三段階に分けておりまして、小学校においては初等普通教育を授けるところ、それから、中学校においては中等普通教育を授けるところ、そして、高等学校では高等普通教育を授けるところということが学校教育法の中に規定をしてあるわけであります。したがいまして、これを見る限りにおいては、普通教育というのは義務教育段階では終了しないのかという疑念が出てくるわけであります。

 つまり、国民として必要な基礎的な教育というのは、義務教育の中で完結させるというのが一番わかりやすいのではないか。そうすると、高校段階での高等普通教育というのは一体何であるかということが疑問として出てくるわけでございまして、これは、教育基本法を検討してまいります中で非常に大きな議論になっております。

 当然、高等学校のあり方と関連をするわけでございますが、私どもとしては、やはり中学段階で普通教育は完結させるのが一番すっきりしているんではないか、国民として必要な素養それから基礎的な教育というのは義務教育段階で完結させるという方がいいのではないかと思うわけであります。この辺は、現行の高等学校の性格というのが一体何であるかということの議論に発展をしてまいりまして、今非常に複雑な議論をしております。

 それから、初等普通教育あるいは中等普通教育というのは一体何だ、どこにこの区分けがあるんだということも疑念として起こってくるわけであります。

 さらにもう一つ、義務教育につきましては、教育に対する国家の任務というのは一体何かという議論が出てまいりまして、教育に対する国家の干渉をできるだけ排除するという側面と、教育に対する国家の配慮を求めるという側面と、矛盾したことが国家には要請をされているというふうに考えられるわけでありまして、この辺は非常に難しい議論であります。教育基本法の中での議論ということになりますが、憲法についてもどこへはね返ってくるのか、私どもとしても研究をしてまいりたいと思っております。

 なお、中教審が言っております、国を愛する心あるいは公共の精神というのが提言されておりますけれども、それにつきましては、憲法の前文の中でどういう考え方が示されるのかということに大きな影響が出てくるものだと考えておりまして、憲法前文の検討状況というのを十分に考えていかなければならないと思います。

 時間が参りましたので、ここで一たん区切らせていただきます。

中山会長 次に、園田康博君。

園田(康)委員 民主党・無所属クラブの園田康博でございます。

 発言の機会をいただきまして、ありがとうございます。

 本日のテーマであります国民の権利及び義務につきまして、与えられた時間で民主党の考えとそして私の若干の考え方を申し上げまして、あわせて、幾つかの問題提起をさせていただきたいと思います。

 まず、民主党は、昨年の党の憲法調査会の中間報告の中で次のように指摘をさせていただいております。

 今日、人権の実現と保障は国際社会の共通の利益と認識されており、日本における人権もまた、憲法とともに国際法規範によって支えられています。国連憲章は、人権と基本的自由を尊重するよう助長奨励することを国際連合の目的として掲げています。また、この目的の実現のために加盟国が国連と協力して共同及び個別の行動をとることを義務づけています。また、その下に人権委員会を設置して、世界人権宣言を起草し、国際人権規約を作成いたしました。これらは、今日では確立された国際法規範の一つに数えられています。

 憲法九十七条は、憲法の最高法規性の根拠が、個人の尊厳を中核とする基本的人権を現在及び将来に及ぶ侵すことのできない永久の権利として継承することにあることを示しています。また、続く九十八条の二項で、国際法の誠実な遵守を明記しています。この条項は、条約及び確立された国際法に対する遵守義務を課すことによって、憲法前文の国際協調主義を具体化するものであり、国際法として確立された国際人権もこの最高法規性に基づいて保障されることがここに明示されていると理解をされます。

 しかし、日本におきましては、国際人権法を詳細な検討なしに、国内法の条文解釈で十分だとする根強い法意識が存在していて、総じて国際人権法の活用について消極的な傾向が少なくありません。この現状を克服するために次の点に取り組むといたしております。

 第一に、司法の項に国際人権法の尊重を記述するべきであります。

 第二に、国際人権保障に係る動向を追跡し、必要な事項について国に対し勧告する権能を有する国内機関の設置を検討するべきであります。

 第三に、憲法第九十八条二項に、国際条約の尊重・遵守義務に加えて、そのための適切な措置を講ずることを記述する必要があります。

 第四に、憲法第九十七条に国際人権法の支配を認める表現を書き入れるべきであります。

 以上述べましたことは、昨年、民主党憲法調査会が発表いたしました、創憲に向けて、中間提言の、人権保障における民主党の基本的な考え方でございます。

 すなわち、社会の国際化や時代の変化に対応し得る、いわば生きた憲法を確立する、しなければいけないという姿勢で、もう一度現憲法を見詰め直し、二十一世紀の新しい時代にこたえる創造的な憲法論議を行う必要性を改めてここに提起したいと思います。

 そこで、私の指針といたしまして、次の三点につきまして述べさせていただきたいと思います。

 人間がその人生の目的であります幸福に暮らすため、心身の健康が不可欠でありますが、良好な自然環境、その健康の不可欠な前提であります。したがって、より便利な生活を実現するために、科学技術の進歩を無限に追求し続けてきた現代文明は、いわばその副作用として今環境破壊に直面しつつあります。そこで、その流れをせきとめるために、環境権、これを憲法典の中に明記しておくことが必要だと考えます。

 とりわけ、環境権というものは、その環境侵害の被害者と加害者がともに同一の環境の中に住み、かつ、実際に問題が生じた場合には、その対象となります環境の範囲が特定しにくいものであるだけに、きちんと国民的な議論をした上で、その権利の主体、内容、そして範囲について決めておく必要があると思います。

 また、その内容と関連して、その救済も、単なる妨害の予防あるいは排除で済む場合もあれば、さらに積極的な原状回復措置までをも必要とする場合があります。

 それだけに、この環境権につきましては、これまでのように、条文上の根拠があいまいなままに解釈論を展開しているだけではその保障は不十分でありまして、まず何よりも憲法典の中に明文上の根拠を与えて、その上で、より具体的にその行使の条件を詰めて、できる限りそれらの点も明確に条文化しておく必要があるのではないでしょうか。

 さらに、現代の高度科学技術社会におきましては、各人の私生活上の秘密といえども、極めて容易に暴露されやすいわけであります。すなわち、現在では、私事を探知する技術、盗聴技術でありますとか、また、それを瞬時に広範囲に伝達する技術、マスメディア、インターネットなど、高度に発達をしております。

 しかし、だからといいまして私事の暴露を放任しておいたのでは、私たちの人格的生存、すなわち各人の名誉感情が保護された生活が不可能になってしまいます。これがプライバシー権の問題でありますが、すなわち、私事に関する情報をみずから排他的に管理する権利も私たちの幸福追求には不可欠であります。それだけに、このプライバシーの権利も、これまでのように、条文上の根拠がないままにしておいてよいはずがありません。

 特に、このプライバシーの権利は、その性質上、他者の表現の自由と衝突するために、両者の合理的な調整が必要となってまいります。したがいまして、プライバシーの権利を条文に明記する場合には、その一環として、公人のプライバシーは原則として保護されないということも同時に明記すべきであると考えております。

 つまり、一般には必ずしも正確に理解されていないようでありますが、公人、つまり、狭くは公権力を担当している者だけを指しまして、広くはそれに加えていわゆる有名人をも含みますが、それは世間一般に対して大きな影響力を有しているために、たとえ私事といっても、それは公衆の正当な関心事となります。

 つまり、まず権力担当者は、権力の行使により自分の他の多数の国民の幸福と不幸に直接かかわることになりますので、その権力者の人格の判断材料となるその私事は有権者に対して開示されてしかるべきであると考えます。また、芸能人などのいわゆる有名人は、そのイメージが、世間、とりわけ青少年に多大に影響力を持つために、その人格を判断する材料である私事も公正に大衆に知らされるべきものと考えます。

 このように、現代社会において極めて重要であると同時に、その取り扱いが微妙なプライバシーの権利も、これまでのように条文上の根拠があいまいな解釈論で処理し続けるのではなくて、その内容と限界については、ある程度具体的に憲法の中に明記しておく必要があると考えております。

 また、国民の知る権利も憲法典の中に明文化しておくべきだと考えております。

 まず、現代社会は福祉国家という名の行政国家でありますが、それだけに、多くの任務を担わされている行政府が国家権力の中で最も優位に立つようになっています。しかしながら、それに対して、国民の代表であります国会による行政権に対する統制は、皆さんも承知のように、必ずしも十分には機能しておりません。そこで、主権者国民が、私たち国民がそれぞれの立場で個人として行政権力に対して統制というものを直接試みることが考えられてきました。これが国民のいわゆる知る権利と言われるものでありますが、これを具体的に保障する情報公開法制がございます。

 すなわち、行政機関が有する情報は、結局は国家の持ち主であります主権者国民自身のものであるという原理のもとに、行政機関の保有する情報を個々の国民の要求に応じて自由に開示させようとする制度であります。そして、このような考え方は、行政国家化現象のもとで議会や司法部による行政部に対する統制が必ずしも有効に機能していないと思われる現在におきましては、正当かつ有益なものであるというふうに言えるでしょう。

 しかし、そのような発想そのものは正当であるといたしましても、実際にそれを実現させるためにはさまざまな難点がございます。

 つまり、この知る権利を自由権、つまり、自分のしたいことを国家に邪魔されない権利という形として位置づけた場合、国民ならだれでも自由に行政庁に立ち入って情報を閲覧できることになります。その結果、行政庁は事実上機能し得なくなってしまうということで、そこで、知る権利は受益権、つまり、特定のサービスを国から与えてもらう権利という形として位置づけられることになります。

 しかし、まず、条文上このことをはっきりさせておく必要があります。つまりそれは、国家に対する知る権利は、立法裁量に服し、法律が定めた一定の条件のもとで国民が享受できるものだということを明確にするということであります。

 また、知る権利が無制限に行使された場合には、それは、行政庁が保有している多数の国民のプライバシーや知的所有権などを不当に流出させてしまうことにもなりかねず、かえって国内の不幸と混乱を招きかねません。したがいまして、この知る権利には、他の人権以上に合理的な制約が必要となります。

 現代国家におきましては、極めて正当かつ重要であると同時に、他の利害との調整が不可避で、その取り扱いに慎重を要する知る権利も、これまでのように、条文上根拠があいまいな解釈論で処理し続けるのではなく、その意義と本質、限界について明確に規定し、正しく用いるべきだと考えております。

 以上、代表的な新しい人権につきまして述べてまいりましたけれども、このほかにも、外国人、障害者、在監者、そして公務員、そして、論点といたしましては、政教分離原則、大学の自治など、人権分野においては幅広い議論がございます。

 この憲法の理念が個人の尊厳であり、そして、中心的な原理が基本的人権の尊重であるということをもう一度再確認いたしまして、さらに憲法論議を進めていくことを期待いたしまして、発言を終わりたいと思います。

 ありがとうございました。

中山会長 次に、福島豊君。

福島委員 国民の権利及び義務に関してさまざまな論点が存在をいたしますが、簡潔に意見を申し上げたいと思います。

 まず初めに、新しい人権についてでありますが、二十一世紀の日本のあり方、また人間文明の方向性というものを考えて、環境立国を明確にすべきであるというふうに考えております。諸外国でも、一九八〇年代以降、複数の国で憲法に環境権が規定されております。既に、十三条や二十五条を根拠にこれを認めることができるという考え方もありますけれども、憲法に規定するという政治的な意義を考えた場合、解釈ではなく、明確に規定すべきではないかと思います。もちろん、何をどのように規定するのか、その概念の外延と内包を明確にすることが必要であります。

 知る権利、またプライバシー権といった情報に関する権利については、現在のIT社会の急速な進行、そしてまた国家行政システムの巨大化、複雑化を踏まえた場合に、やはり、十三条や二十五条に根拠を求めることができても、より明確な規定を置くべきであると思います。ただいまも園田委員から種々御指摘がありましたように、これをどのように定めるのかということは、さまざまな議論があることは当然であります。環境権と同様に、何をどのように規定するのか、その概念の外延と内包についてより充実した議論を行うべきであると考えております。

 二番目は、平等についてであります。

 十四条の規定について、私は障害者をここに入れるべきではないかと考えております。障害者の差別禁止の規定を盛り込むべきである。平等の概念には、個人をその事実上の違いにかかわらず一律に同等に扱うべきことを求める形式的平等と、事実上の劣位者をより有利に扱うことにより、結果を平等なものに近づけようとする実質的な平等がありますが、十四条において障害者の差別禁止の条項を求め、そしてまた、その下位法として障害者差別禁止法等の法整備により、実質的な平等を確保する方向を目指すべきではないかと考えております。

 三番目に、生命倫理の問題について触れたいと思います。

 生命倫理につきましては、当調査会におきましてもさまざまな形で議論がなされました。憲法の制定当時、今日のように生命を操作する技術は開発されておりませんでした。また、個人の遺伝的情報についてこれをつまびらかにする技術も存在していなかったわけであります。クローン人間のような存在をどのように考えるのか、我が国では個別にこれを禁止する法律が制定されましたけれども、より普遍的な生命の尊厳と、尊厳を侵害する生命の操作の禁止、また、遺伝情報へのアクセスの規制などを導く根拠となる条文を設けるべきではないかというふうに考えております。

 個別法による規制で十分であるという見解もありますけれども、個別法は、変化する科学技術への対応で適宜適切な規制を行うべきであって、一貫して、変化する技術に対応し、いかなる原則にのっとりこの規制を行うのか、その立場を明らかにするための規定を置くべきではないかと考えております。

 二十五条の生存権について申し上げたいと思います。

 この点については過去に調査会でも私も発言をさせていただきまして、議論の取りまとめにも収載をしていただきました。二十五条の一項については、ナショナルミニマムとしての公的扶助制度の根拠規定としてとらえ、二項を、共助による社会保障制度としての年金、医療、介護制度の根拠規定として整理をすべきと考えております。

 そしてまた、社会福祉また公衆衛生、これは、憲法制定当時のこの言葉の持つ意味と現在の意味と私はやはり変わってきているのではないかという思いがいたします。そういう意味からは、別の規定としてその内容について見直しを行ってもいいのではないかと考えております。

 次に、定住外国人の地方参政権の問題についても当調査会でも議論が行われました。

 住民自治の観点から、外国人も地域の住民として権利と義務を行使することは国際社会の慣例になりつつあるのではないかと考えております。国政への関与とは明確に区別をして、その上でこれを認めるべきであると考えております。また、将来において日本がグローバル社会の中で今日の活力を維持するためには、私は、第三の開国ともいうべき開かれた社会を構築する必要がある、そのように考えております。人口減少社会の中でいかに我が国の活力を引き出していくのか、中期的に明確な戦略が必要であります。

 そうしたグローバル化を進めるためにも、地方参政権の問題について、国政への参画とどのように区別するのかという概念の整理も当然あるわけでありますけれども、その是非を含め、率直な議論をさらに進めるべきではないかと私は考えております。

 次に、義務規定の強化。例えば、家族や共同体、伝統、文化の尊重などさまざまなことを規定すべきではないかという御指摘もありました。

 憲法が、本来、国家権力の乱用から国民の基本的人権を守るということをその目的とするという自然権思想、社会契約論に端を発する近代立憲主義思想に基づいた場合、人権保障については、国家からの自由というものを基調とすべきであると考えております。我が国が西欧社会と異なる社会学的な構造を有してきたとしても、その変化は急速であり、かつての共同体的社会は既に過去のものとなっているというような指摘もあるわけであります。

 そうした意味で、我が国による歴史的、文化的独自性を踏まえたとしても、このような国家からの自由を基調とする憲法であるべきである、そういうとらえ方は妥当なものではないかと思います。

 そして、家族や共同体、伝統や文化の尊重などの道徳的な規定を置くこと、また義務規定を増設すること、これは、近代立憲主義の流れから外れ、人権を変質させるという観点から適切ではない、こういう指摘に耳を傾けるべきだと私は思っております。

 そしてまた、次に、これは余りまとまって論じられておりませんが、次世代育成の規定ということを考えるべきではないかというふうに考えております。

 社会が持つ重要な役割は、次世代を健全にはぐくみ、社会の継続性を維持することであります。今日、日本が人口減少社会に突入したことは、そうした社会の基本的な機能に変化を来していることの一つのあらわれではないかと私は思っております。こうした次世代の育成に対する規定、子供のための憲法の規定を設けることも、今日の人口減少社会の中では必要ではないかと考えております。

 家族や共同体、また伝統や文化、こういったものは、次世代をいかに健全にはぐくむのか、そういう概念の中に包摂されて規定をされるということであれば、賛同したいというふうに私は思っております。

 そして次に、教育についてでありますが、二十六条の規定は妥当なもので、変更を要しないと考えております。

 今日の日本の教育が抱える諸問題についていかに対処するのかということは、このような根拠規定をどのように改変するのかという点ではなく、システムとしての日本社会また日本の教育が、さまざまな可能性を持つとともに、一定の規範を与えることが必要であるところの子供に対して何をどのように与えているのか、これを体系的な評価をする、総合的な評価をするというところから始めるべきではないかと私は思っております。

 これほどの物質的または情報において過剰な社会システム、これは人類が初めて経験するところのものであると思います。そうした過剰に包まれた中で子供の健全な成長というものはどのように確保されるのか、全く違った視点で改めて考えるべきではないか、そのような思いがあるわけであります。

 伝統または文化の協調も大変大切であります。しかしながら、情報量として圧倒的に違った情報がある中で伝統や文化というものをどのように根づかせるのかということを考えるときには、この過剰をコントロールするというところから始めるべきではないか、そのように私は個人的に思っております。そういう意味では、単に根拠規定ということではなくて、総合的な教育システムの評価そしてまた改革が必要である、そのように思います。

 そのほかにも、精神的自由、表現の自由、経済的自由など多くの論点がありますが、以上の八項目について簡単に申し上げさせていただきました。

 残余の点については、同僚委員からまた発言があると思います。

 以上であります。

中山会長 次に、高橋千鶴子君。

高橋委員 日本共産党の高橋千鶴子です。

 国民の権利及び義務に関する規定を定めているのは、具体的には、日本国憲法の第三章、十条から四十条であります。

 その特徴は、第十三条の幸福追求権や十四条の法のもとの平等の原則など総則規定を設けた上で、精神的自由、経済的自由、人身の自由、さらには、国家の行為を請求し国家を形成していく国務請求権や参政権、そして第二十五条など、社会的、経済的弱者を保護して、福祉国家の理想を積極的に実現することを国家の義務とする社会権を定めていることです。

 これは、明治憲法下において国民は天皇の臣民とされ、信教の自由、言論、著作、印行、集会及び結社の自由などの権利は法律の範囲内という制限がつけられるなど人権が厳しく抑圧されたことへの反省と、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言などの自由権とともに、ワイマール憲法など、二十世紀の社会権の広がりを憲法上に反映させた、現代の立憲主義の流れをくむものであります。憲法第九十七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と述べているのもこのためであります。日本国憲法が保障する基本的人権は、諸外国の憲法と比べても豊かな内容があることは、本調査会の参考人などからも多くの指摘のあったところではなかったでしょうか。

 戦後、日本国憲法が定めた基本的人権を保障するために、生活保護法、教育基本法、労働基準法など一連の法整備がされました。ところが、日米安保条約によって日本国憲法に基づく法体系とは異なる一連の法体系がつくられてきたこと、また、企業活動最優先の政治のもとで人権が軽んじられる、あるいは侵害される実態がつくられてきました。これに対し国民は、憲法に依拠して要求を挙げ、運動に取り組んできました。

 まず、憲法二十五条の生存権についてでありますが、この問題で有名なのは、一九五六年の朝日訴訟です。低過ぎる生活保護費は憲法違反として国を相手に争ったものでありますが、人間の尊厳の価値を問う裁判でもあったことから人間裁判とも言われ、これを支援する運動は大きく盛り上がりました。第一審の判決は、憲法二十五条にある健康で文化的な生活水準とは、単に辛うじて生物として生存できる程度のものであってはならない、その基準は裁判で争うことができると判示しました。この訴訟を通じて生活保護費が実質的に引き上げられ、労働者の賃金にも影響を与えました。

 今、一部に、憲法の生存権の規定は戦後直後の国民生活を反映したもの、これからは、自立と共生の時代という言い方で社会目的としての権利及び義務といった中に憲法二十五条の生存権を集約し、国民への社会保障その他の費用負担の義務を憲法に明記すべきとの議論があります。費用を負担して初めて権利が生ずるということになり、現在、例えば、国保税を払えないために二十五万人もが国保証をとめられ、命にかかわる問題が全国に起こっているように、生存権保障のための国の責任を放棄するものと言わなければなりません。

 いわゆる環境権についてはどうでしょうか。

 六〇年代から七〇年代初頭、深刻となった公害問題に対して当時の運動家や弁護士が、憲法十三条の幸福追求権、二十五条の生存権に依拠して国民には良好な環境のもとで生きる権利があると主張し、一連の裁判闘争に取り組み、勝利しました。これに国連が注目し、一九七二年六月には国連人間環境会議で、環境は人間の福祉と基本的人権享受のために必要不可欠なものと宣言されました。今日、環境権と呼ばれる権利は、日本国憲法とそれに根差した国民の運動が生み出した権利であり、世界に通用する普遍的な権利になりました。

 先ほども議論がありましたように、環境権、プライバシー権など、憲法制定時には想定できなかった新しい人権を憲法に明記すべきなどの主張がありますが、今では、現行憲法上も環境権は保障されるものであることは、本調査会の参考人なども共通して述べていたとおりだと思われます。

 労働者の権利をめぐっても、結婚、出産退職の強要や賃金、昇格の差別など、企業の横暴に対して多くの女性労働者が裁判で闘ってきました。そして、司法を動かし、職場を変えてきました。過労死を労働災害として認定させてきたことも、労働者の、人間らしく働く権利を求める運動によるものであります。

 こうして見てくると、憲法第十二条が「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と定めているように、まさに、戦後の国民の自由と権利をめぐる歴史は、それを侵害する公権力あるいは大企業などと国民との不断の闘いの歴史であったと言えるのではないでしょうか。

 今日、企業のリストラや、正社員から派遣、パート労働への置きかえが進んでいます。多くの青年が雇用の調整弁として安易に首を切られ、フリーターなど不安定な状態に追いやられています。

 小泉総理は、先日の衆議院予算委員会において、企業が利益をふやしているのに家計所得は減っているという我が党の指摘に対して、企業が過剰雇用と債務を抱えており、今ようやく足かせの部分が軽くなってきたと答弁をしました。企業が身軽になり利益を上げるためには労働者や中小企業が犠牲になってもよしとする考え方には、強い憤りを覚えます。今日の憲法改定をめぐる主張は、まさにこの構造改革路線と深く結びついたものであります。

 例えば、自民党の言う、ひとりよがりの人権主張ではなく、国家と国民が協力して共生するのだとして国民には自己努力を要求する一方、企業その他の経済活動の自由は明記されるべきだと言われております。今の憲法のもとでも大企業は自由勝手に振る舞っているのに、その上憲法に経済活動の自由を明記すれば、一層企業優先の社会になるのではないかと懸念されます。

 環境権においても、自民党の改憲大綱原案の中では、個人が権利請求できないプログラム規定として明記するとされています。これでは、行政に環境保護の努力義務を課すだけで、国民は憲法に依拠した環境権保障の裁判を闘えなくなるとの指摘もあります。現憲法は、個人の尊厳を最大の価値とし、国民一人一人の生存権を保障するために、ルールある経済社会づくりをこそ要請しているものです。

 さらに、国家の安全という公共の価値によって国民の自由と権利を制限する、国民に国防の責務を課すという主張は、国民の自由と権利よりも軍事を優先するものであり、現憲法の基本的人権の考え方とは相入れないものと考えます。

 今日の日本社会は、なお解決しなければならない人権侵害の実態があります。昨年一月の立川での防衛庁宿舎へのビラ配布に対する不当逮捕、起訴、昨年十二月、葛飾区でのビラ配布への不当逮捕、起訴などは、憲法が保障する表現の自由、政治活動の自由を侵害するものであります。立川の事件は十二月に東京地裁が無罪と判決したにもかかわらず、その直後に葛飾の事件が起こされました。憲法調査会は、本来、こうした日本の人権状況がどうなっているのか、憲法に反する状況はないのか、基本的人権の保障を妨げている原因は何かなどを調査するべきであると考えます。

 日本国憲法の豊かな人権規定を再確認し、立法、行政、司法など日本社会の各分野でこれを生かしていくことこそ今日求められます。憲法九十七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、」中略「過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と、将来に向けて発展させていくことも見通しています。

 日本国憲法の人権規定は、現在だけでなく、将来生起する人権についても対応し得る懐の深い構造を持ち、国民はそれをさらに生かし、豊かに発展させていくものと考えます。

 以上です。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 日本国憲法は、第十一条で「基本的人権は、侵すことのできない永久の権利」というふうに定めておりまして、さらに、第十二条で「自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と言った上で、さらに第九十七条で、基本的人権は「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と繰り返しているわけです。今申し上げたのは十一条、十二条、九十七条という条文ですが、基本的人権の尊重は、もう申し上げるまでもございませんが、日本国憲法の三大原理の一つでございます。

 憲法は、見てまいりますと、条文の約三分の一を人権規定に充てております。人権を最大限重視していると申し上げていいでしょう。

 この基本的人権について、この憲法が保障するから初めて問題になっているのである、与えられたものであるということをおっしゃる方も中にあるんですけれども、しかし、この日本国憲法について言うならば、既に憲法以前に成立しているもの、前国家的権利というふうに申し上げていいと思うんですが、その内容を承認して、尊重して、それが不当に侵害されることのないように保障するという考え方をとっているというふうに思います。

 基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果で、過去幾多の試練にたえたものであるということを九十七条は規定しておりますけれども、これは、フランス革命などの市民革命を出発点として、その後の専制支配さらには軍国主義、ファシズムなどへの抵抗の闘いを指して、我が国では、自由民権運動や大正デモクラシーや、さらには戦前の治安維持法下での闘いというのも、当然のことながら、人権を具体的に憲法に保障するまでの歴史の流れとしてしっかり受けとめて、これを知らなければならないと思うのでございます。

 憲法は、人権獲得のための人類の長い間の闘いとその成果を評価して、十一条で「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」ということを宣言するとともに、その保持は現在及び将来の国民に信託されたものであって、ここから大事なんです、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」ということを十二条が規定いたしております。

 このような基本的人権に対する考え方、歴史認識は、憲法前文とともに、日本国憲法のヒューマニズム、人間の英知に対する信頼を示しているものと考えなければならないと思うのです。

 憲法の前文を見ますと、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と宣言しております。私は、「平和のうちに生存する権利」、これはよく平和的生存権と呼称されておりますけれども、この平和的生存権こそ最も根源的な権利であるということを力説したいと思います。

 二十世紀以降の戦争において、一般の市民こそが最大の被害者でありました。戦闘要員よりも非戦闘要員の方に犠牲者が多大であります。事実に照らして、あらゆる戦争を否定して、平和を維持することが何よりも大切だという認識から憲法の第九条が規定されているのであって、したがって、日本国憲法の規定している人権のありようというのが、他国の憲法それぞれが、主権制の主張と同時に、国民に対して人権を保障するというのが憲法の本質でございますけれども、しかし、日本国憲法は、その中身に対してまず平和的生存権というのを人権としてしっかり保障するというところは、一大特徴だということを私は強く主張したいと思うのでございます。

 そして、もう一つの特徴を申します。それは、憲法第十三条の個人の尊重、幸福追求権ということを重視しているという点です。

 最近の改憲論議の中で、個人よりは国家、個よりも公というその認識というのが非常に強調される嫌いがございます。しかしこれは、憲法が保障しているところとはまるで違うと申し上げねばなりません。これは逆さまの論理ですね。むしろ主客転倒ということもそこで申せましょう。すべての国民が個人として尊重されること、人間としてのよさを認め合って生きていけるような社会の実現というのを十三条の条文自身は目指しているということを言わなければならないと思うんです。

 そこで、最近、特にこのことがよく取りざたをされております新しい人権に対して申し上げたいと思います。

 新しい人権ということに対して対応する新しい権利、環境権、プライバシー権、生命倫理に関する規定、犯罪被害者の権利、名誉権、知る権利、自己決定権、子供の権利などを憲法に盛り込むべきだという議論がございます。果たしてこれは、具体的な条文として憲法に盛り込むことがどうしても大事なんでしょうか。また、そうでなければ保障され得ないというふうに考えられるんでしょうか。

 社会の進展につれて、憲法が制定された当時には思いがそこまで及ばなかった、例えば児童虐待やストーカーなんかを見ておりましても、新しい形での人権の侵害や保護に値する新しい利益について、憲法上の権利擁護の内容にすべきであるというふうに主張されている面がだんだん強いんです。社会の変遷に伴う基本的な権利、自由として保護するに値するというふうに考えられるということがその見解のようであります。

 まず、新しい人権にとって憲法上明文規定がなかったことが障害になっているのかどうか検証する必要が大いにあるだろうと思うんですが、むしろ新しい人権の実現にとっては、これを実現させようとするとき、必ず私たちの経験からしてもすぐさまこのことに対して気がつくのは、官僚がこれに対して旧態依然たる認識と、しかも取り扱いの上での抵抗があるということですよ。官僚の抵抗、これは、立法をする場合にも経験することは頻々とありますし、新しい政策を具体的に実行しようというときにも、この問題がまとわりついてくるという経験を私たちは少なからず持っております。

 しかし、それと同時に、やはり政治家、議員の方の態度も消極的であるということも障害をつくる大きなもとになっているわけで、例えば、大規模公共事業を推し進めて環境破壊を引き起こしてきた人が環境権を口にするというときには、余りこれは支持を得るということにはなりません。情報公開法に知る権利を盛り込むのに反対した人が憲法に知る権利を盛り込めというふうにおっしゃっていたり、個人情報の保護を言う人がいわゆる盗聴法を推進する先頭に立つということがあったりするわけでございまして、そういうことから考えると、これはやはり、具体的な事情に対して、実定法上の立法に対する努力の積み重ねというのをまず着実にやっていくことが先決問題ではないかと私は思います。

 それで、権利が保障されるというのは、憲法に権利を書けばそれでできると考えるのは、これはやはり浅はかな考え方でございまして、まずは、具体的にこの法的権利を認めるという立場からすれば、実定法上のそれに対する保障ということを、立法の上で、法律を立法していく上で努力を積み重ねることこそ先決ではないか、それこそ先決だというふうに思います。

 最後に一つだけ、もう時間が来たようでございますけれども。

 今私たちがここで討議している中身というのは、少なくとも、最終報告書をつくる場合の中身になってまいります。私は、この憲法調査会が最終報告書を、約五年余りの間討議した結果、議長に対して提出するというこの持っている意味というのは、非常に重大だというふうに思うのです。したがって、この最終報告書に対しての編集をどのようにするかという案は既に提示をされておりますけれども、その案のままでいくのか、それとも、中身に対してどのように編集されることがより望ましいかという討議の機会を、ぜひとも当調査会において全員が参加する中で持っていただくことを求めたいということをしつこく今まで提案してまいりました。

 私は、このことをこの場所を通じても提案すると同時に、最近、予算がこの最終報告書に対してつけられております。残念ながら、私どもの党は人数が少ないので、庶務小委員会に出席することが認められておりません。したがって、この最終報告書につけられている予算の内容についても、これは、公開を非常に大事にお考えになる会長でございますから、会長の方で、ひとつ私どもに対してわかるようにお取り計らいをぜひお願いしたいと思うのでございます。

 その際、一つには、翻訳をして……

中山会長 土井たか子君に申し上げます。申し合わせの時間が過ぎておりますので、結論をおまとめいただくようにお願いします。

土井委員 はい。それでは一言結論を申しますが、あと、翻訳をして、英文でもこの問題に対して最終報告書を用意してそれを配布するということが予定されているようでございます。少しその点も、どう考えていくべきかということも討議の俎上にのっけていただいて、ひとつ、お互いの検討の中でこの問題が、少しでも最終報告書ということに各議員が参加したという形を保証していただけますことを心から望んで、終わりにします。

 ありがとうございました。

中山会長 これにて各会派一名ずつの発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

枝野委員 私は、この権利と義務に関して、三点、基本的なところについてお話をしたいと思います。

 まず、憲法にもっと義務を書くべきではないかという議論がよくなされておりますが、これはもう憲法そのものを基本的に理解していない議論であると私は思います。

 そもそも憲法は公権力行使の限界を定めた法でありまして、憲法で制約されていない義務については法律で自由に課すことができる。逆に言えば、法律でも課すことのできない義務は何なのか、あるいは、法律でこれ以上の義務を課してはいけないということを規定するのが憲法典の意味で、義務を課す必要があるんだったら、憲法に書き込むのではなくて、立法によって義務を課せばいいだけの話であって、しょせんは、もし書いたとしても確認的規定にすぎず、法的意味は全く持たない。法的意味を全く持たないことについての議論を一生懸命やっていることは全く無意味であるということをまず申し上げておきたい。

 二点目。それでも、憲法典に書けば訓示的な意味を持つではないかという議論がありますが、そういう方の多くが、実は憲法九条について、憲法九条があったから戦争に巻き込まれなかったという議論を否定している方にそういう発言が多いように思います。

 私もそう思います。日本の戦後、平和が安定されてきたのは、憲法九条は一要素ではあったかもしれませんが、基本は、日本の外交、安全保障の努力、その結果として戦争に巻き込まれないできた、そういうふうに私も思っていまして、訓示規定を書いたからといってそうなるというわけではない。

 例えば、人を殺しちゃいけないというのは、訓示どころか罰則までつけて義務を課していますが、それでも人を殺す人がいる。したがって、具体的にその訓示規定で実現をしたい価値をどういう手段で実現するのかということこそが政治に求められていることだと思います。

 よく教育のことが問われていますけれども、教育について憲法や基本法に何を書くかということ以上に、今現に求められている価値、例えば人を殺してはいけないということを、学校教育の現場で子供たちにしっかりとそうした意識をはぐくむことができていないという教育現場の問題、つまり、教師の能力と、あるいは、人を殺してはいけないとか親を大事にするとか、そうした意識をはぐくむためのカリキュラムができていない。こうした教師の能力やカリキュラムについての具体的な解決策を持っていない人に限って、抽象的なところで議論をして目をそらそうとしていると私は受けとめております。

 三つ目。戦後民主主義あるいは戦後の人権規定が個人の勝手、利己主義に走らせたというような批判をする人がいます。これこそまさに憲法を、あるいは基本的人権を全く理解しないで、ひとりよがりの発言だと思います。

 そもそも憲法典が規定している基本的人権の概念、個人の尊重というのは、自分のことを尊重するという個人の尊重ではなくて、あなたを尊重するから私のことも尊重してください、お互いに個人として尊重し合いましょう、そもそも基本的人権というのはそういうものであって、利己主義とは全く百八十度違うものであります。これは、ある程度憲法を理解している者からすれば当然のことであるし、また、そうした価値、つまり、自分さえよければいいではなくて、あなたも尊重するから私も尊重してください、こういう基本的な価値こそはまさに大事にしなければならないものであって、それを、十分な理解もなしに、この人権の規定を利己主義のことだと勝手に間違った理解をしておきながら、その間違った誤解をもとにそのことを批判しているのは、まさにひとりよがり、まさに利己主義そのものでありまして、全く議論に値しない、混乱した議論であると言わざるを得ない。

 こうした基本的な三つの点が混乱したまま議論が進んでいくことは非常に私は危惧するところでありまして、基本的な人権あるいは憲法典というものに対する共通の理解のもとに議論を進めていただきたいと強く訴えたいと思います。

 以上です。

池坊委員 公明党の池坊保子でございます。

 この場でもさまざまな議論がなされました生命倫理と憲法について、私はちょっと意見を述べたいと思います。

 憲法が制定されて六十年、最も変わったことの一つは、先端生命科学技術ではないかと思っております。

 言うまでもなく、二十一世紀は知の世紀と言われております。島国で地下資源のない日本がこれからよって立つところは、言うまでもなく科学技術創造立国としての存在だと思います。そのときに、憲法十三条の個人の尊重だけでいいのだろうか。また、二十三条には、学問の自由は保障されるとございます。学問の自由の保障は、学問の自由な研究の保障ではないかと思うわけです。そのときに、私はやはり、十三条に人間の尊厳、生命の尊厳というものを書くべきではないかというふうに考えております。

 なぜならば、それを書くということが、この国が人間の生命をどのように考えているかということでもあり、これから、ES細胞の使用、クローン胚、さまざまな再生医療が出てまいりますときの法令、指針の判断基準になるのだと私は思います。憲法というのはすべての判断基準であるのではないかと私は思っております。

 ドイツでは、言うまでもなく、人間の尊厳がドイツの基本法にはございます。これが私は、ある意味で科学技術の自由な研究に歯どめをかけ、他国におくれをとっているのではないか。フランスにも、やはり人間の尊厳ということは書かれておりませんけれども、これが大きな理念となっております。アメリカは、保守派の意見も反映はしておりますけれども、何でも世界一が好きな国ですから、これは、国民の後押しがあって自由な研究がされております。

 では、日本はどういうようなスタンスでいくかといいますと、私は、日本人の精神生活を支えているのは倫理観とバランス感覚だと思っております。でも、倫理観やバランス感覚というのは時代とともに変化してまいります。例えば、その時代の人の英知に再生医療等々科学技術の発展の規範を任せるべきだという意見もございます。ただ、私は、その時代の人の英知というのは時代時代によっても変わってくると思っておりますので、やはり、日本はどう考えているかという理念が必要であるのではないかと思っております。

 また一方では、人間の尊厳というのを書くと自由な研究を阻むのではないかという意見もございます。医学の発展は、苦しんでいる人、病んでいる人に光を与えます。ただ、人間の尊厳と書いたならば、それは、医学、人類の貢献に即しているというものに関しては、やはりこれは、尊厳の中に入るから何も自由な研究を阻むものではないというふうに考えております。

 それらのことを考えてまいりますときに、これから世界の再生医療は、思いもかけない、今私たちの想像の域をはるかに超えた領域に進んでいくと思っておりますから、このときに、きちんと日本の憲法の中にも、日本人の理念として、やはり私は、人間の尊厳、生命の尊厳というものを書くべきだというふうに考えております。

 先ほど枝野さんがおっしゃったように、憲法に書いてもそれが実行されなければ何の意味もございませんが、憲法は、すべての人間がさまざまな法令や指針や行動を起こしていくときの判断基準になる重要なものであることは言うまでもないと思っております。

早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。

 まず、国際人権法と憲法の関係について申し上げます。

 死刑制度とかあるいは難民保護等の問題を考えますと、諸外国の制度をそのまま日本の国が採用できるかどうかについては、やはり国民の代表者である国会で十分議論をしなければならない。そういう意味では、国際的に成立をした国際人権法というものがあったとしても、それは一つの検討材料でしかない。当然に、憲法の秩序の中に取り込めるかどうかについては、改めて判断をしなければならないと思っております。

 そこで、今なぜ憲法かということであります。

 私は、これまで憲法が施行されて五十八年間、この基本的人権条項によって特に日本の社会が大きく危険な状態になったというふうには思っておりませんでした。そういう意味では、国民の権利義務に関する条項については改めて直さなければならないというふうには思っておりませんでしたが、最近、極めて日本が危機的な状況にあるということを痛感するに至っております。

 それは第一に、生命の尊重ということに対して非常に国民の意識が希薄になってきたということであります。

 例えば、愛知県の安城市において、仮出獄した受刑者が生後十カ月か十一カ月の幼児を殺傷したという事件が発生しました。一つは、自分を含めて人の生命に対して、全くその重さに対しての意識が希薄化しているということ。さらには、いわゆる社会からの落ちこぼれになった方々に対して、今の日本の社会がこれを受け入れない、不寛容になっていること。この二つの問題であります。こういった事象を検討いたしますと、やはり、国民の意識を変えていかなければならない、そのための憲法の議論をしていかなければならない。

 もう一つは、少子化ということであります。これまた、多くの若者が結婚をしない、あるいは子供を産まないという状態になっております。

 これは、一つには、現在の守られた生活状況を悪くするということに対しての恐怖感あるいは忌避感、ある意味で自己中心的、せつな主義、あるいは享楽主義的な傾向が顕著になってきているのではないか。親が子供を虐待する、こういった事象に対して何らかの警鐘を打ち鳴らす、そのための見直しを社会全体としてしていかなければならない。

 さらには、この二月十六日から京都議定書が発効いたします。地球規模で環境破壊が進んでしまっている新しい時代に今入りました。何としても、世界の国が互いに、地球全体の、持続可能な地球を確立するための努力をしていかなければならない、そのためのスタートとして憲法を見直すということが極めて重要だろうと思います。

 これまでは個人の権利というのが非常に尊重されました。しかしながら、新しい国、新しい憲法をつくるという作業の中で、みずから、どの範囲での権利主張が認められるかということについて、その権利相互間の相克あるいは対立をどのように調整するかというその原理を確定する必要があるというふうに思っております。これまでのように、公共の福祉論だけでは十分に対処できないような時代を迎えてきているのではないかというふうに思います。

 こういったさまざまなことを考えますと、憲法というのが極めて歴史的な存在であり、この現憲法が成立した当時は、いわゆる社会の民主化ということが大前提でありました。これからは、共生できる持続可能な国を、地球をつくっていく、そういう観点での新しい憲法づくりが必要ではないかと思います。

 以上であります。

保岡委員 先ほどから委員の皆様が、大きな基本的なテーマとして、憲法は国家からの自由、要するに、国家権力から基本的人権を守る、それを絶対的な価値と考えるべきであるという御意見がございますが、私はやはり、別な立場からの、今、早川委員初めいろいろな皆様からお話もありましたが、国家と国民を対立的にとらえるというのはやはり歴史的な所産であって、確かに、近代憲法の歴史からすれば重要な決定的な憲法原理かもしれません。

 それが依然として今日大きな意味を持っていることは否定いたしませんが、やはり私は、憲法というものは、個人の尊厳を究極の価値とする、先ほどから述べられているとおり、人間の侵すべからざる生来の権利あるいは人格の自由な発展の尊重というものを大切にするならば、人間が社会的な存在であるということの基本をとらえて、他人の権利を尊重するという趣旨で、みんなが幸せになるという意味で、その権利関係の調整のルールというもの、それを具体化する法というものの遵守、そういったことで政治的な秩序や社会的な秩序あるいは社会の平穏や平和が築かれるのであって、憲法はこの個人の尊厳を最高価値とする価値規範を体系化したものだ、そういうものがあって初めて立法やお互いの人間の関係の基本をどうとらえて律していくかということ、先ほど池坊先生からもそのような趣旨の御発言がありましたが、そういうものが新しい時代の立憲主義の大原則ということを確認することが今度の憲法改正では極めて重要なものだと私は思います。

 そういうことで、この憲法が保障する基本的な権利、自由はすべての公権力を拘束するものであることは当然でございますが、これらの基本的な権利、自由の行使は、他人の基本的な権利、自由との調整を図る必要がある場合、あるいは国家の安全や社会の健全な発展を図る公共の価値がある場合に限って、法律の定めるところによってのみ制限されるという原則、これは明確にすると同時に、そういう制限する場合であっても、その権利、自由の本質的内容は尊重されなければならないということを明確にするということが大事だと思っております。

 なお、もう一つ基本的なことを申し上げたいと思うのでございますが、やはり同じように、国家からの自由というだけじゃなくて、この憲法、もう既に社会的な目的として、大事な権利として、プログラム規定とよく言われますが、先ほどお述べになった十三条の幸福の追求権あるいは前文の平和に生存する権利というものを背景に、二十五条のように、いわゆる生存権という規定をこの憲法自体が置いておるということを考えるときに、私は、人間が健康でそして幸せに暮らしていくためには、やはり健康を守ることをもう少し憲法原則で国家の義務として明確にするということや、あるいは、先ほど保利委員からも指摘があったように、教育の基本理論を憲法に明示して、やはりこれも大切なプログラム規定として位置づける必要があるのではないかということ、あるいは家庭の保護にしても、単に両性の婚姻における相互の協力を規定するだけじゃなくて、もっと家族全体について協力、あるいはそれを国が保護、支えるというような規定などを置くことも非常に重要な憲法の改正のテーマではないかと思っております。

葉梨委員 自民党の葉梨康弘です。

 国民の権利及び義務について意見を申し上げます。

 私は、明治憲法下、法律の定めるところにより天皇から臣民に対して与えられていた基本的人権を、不可侵の永久の権利、すなわち普遍的なものと規定した現行憲法を高く評価いたします。ただ、我が国が二十一世紀において人権大国としての地位を占めるためには、現実に今我が国において発生し、または発生する可能性のある人権侵害の問題を極小化していかなければなりません。

 もとより、この論点のほかにも、現行憲法には、二十五条が権利と公助だけを規定し、二十四条にあるような相互の協力を規定していない点、あるいは財産権について、勤労、教育との並びで財産権行使の義務が規定されていない点等、法の欠缺とも思える論点があります。しかし、ここでは、現行憲法が基本的人権の保障や人権侵害抑止の上から十分かどうか、以下、国家による人権侵害、私人による権利の乱用の二つの面から意見を申し上げます。

 まず、国家による人権侵害あるいはその可能性についてです。

 現行憲法は、刑事司法や私有財産への正当な補償に関する定めのほか、国民の権利としての公務員の選任、請願、損害賠償等の規定を置き、国家による人権侵害の防止やその救済のため、国民が一定の行動をとる権利を確保しています。

 しかし、戦後六十年、行政は極めて複雑化しています。損害の救済や法令の制定のために請願を行えるといっても、国民には損害の存在や法令制定の必要性が極めて見えにくいものになっています。さらに、よく言われるように、電磁的情報処理技術の進歩により、汎用の個人情報データベースが出現しています。これにより、個人情報の内容や情報の管理が誤って行われた場合、重大な人権侵害を惹起いたします。しかし、誤った情報がひとり歩きし不適切な管理が行われても、当該個人には知るすべもありません。

 このように考えてくると、現行憲法が個人に保障している、国家からの人権侵害を防止し救済を求める権利を適切に行使するための前提として、何らかの形で国民が行政に対してアクセスする権利を明定し、法律事項かもしれませんが、オンブズマン制度等の導入の必要性も検討していくことが必要と考えます。

 次に、私人による権利の乱用についてです。

 私は、警察庁少年課に在籍当時、児童の人権問題に携わってきました。その経験から、例えば児童買春の問題、児童ポルノの問題、女性のトラフィッキングの問題等、我が国が諸外国から児童や女性の人権侵害に鈍感な人権小国であると見られている事実を指摘しなければなりません。

 戦後、児童や女性に対する性的搾取を容認する大人の自分勝手主義が横行し、共同社会も児童虐待や小児性愛に甘い事なかれ主義に変容する中、権利の乱用による人権侵害が日常茶飯のものとなってきました。そして、より深刻な問題は、権利の乱用をしている当人やあるいは一部の進歩的な学者は、このような人権侵害は個人の自由であり、権利の乱用には当たらないとまじめに考えているらしいことです。このような誤った考え方が横行している以上、憲法の法文上しっかりと措置しなければ、二十一世紀の我が国が、現在の人権小国どころか、人権侵害大国という存在に転落してしまうことを真剣に恐れています。

 実は、人権行使の制約原理となる公共の福祉について、当初のGHQ原案は現在と異なっていました。

 権利の乱用を禁止した現行十二条の公共の福祉は、GHQ原案では共同の福祉とされ、コモンセンスを持ち、私人同士が迷惑をかけない、共同体を大切にするニュアンスがより明確でした。さらに、居住、移転、職業選択の自由の制約原理である公共の福祉も、一般の福祉とされ、一般常識を持ち、社会生活の中で迷惑をかけない、一般社会を大切にするというニュアンスがありました。そして、現行憲法は、財産権の内容は公共の福祉に適合するように法律で定めるとなっていますが、これも、財産権の使用は公共の利益のためなるべしとされ、財産権の公共利益適合性がより明確でした。

 しかし、イメージとしてはわかるものの、人権の制約原理を何種類もの言葉で表現するのは法制局的には明らかに稚拙です。このため、日本側で検討し、人権の制約原理を公共の福祉と安寧秩序という文言に整理し、さらに、人権の制約を一部法律に委任する案を作成しました。

 しかし、安寧秩序と法律への委任はGHQの入れるところとはならず、極めてあいまいな公共の福祉という文言のみが残り、ある意味で時間切れ、見切り発車をしてしまいました。だからこそ宮沢俊義教授らも、公共の福祉を、素直な字義どおりでない、他人の人権を侵害せず、共同社会に迷惑をかけないことという意味に解釈し、定着への努力をしてきました。

 しかし、現在までこのような考えは多くの国民に認識されるところとはなっておらず、自分勝手の人権侵害はますます横行しています。その意味で、憲法解釈の限界を呈しているのは、第九条よりも、むしろこの国民の権利義務の章についてかもしれません。

 私は、今の解釈で限界を露呈している公共の福祉という文言を、権利の類型等に応じて、共同の福祉、公共の利益などの明確な文言に整理し、改めて利他主義、共同体の大切さを明定すべきと考えます。そして、現在特にその侵害状況が深刻な、プライバシーの権利、環境権、被害者の権利等については憲法に明定すべきということを訴えて、意見表明を終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

野田(毅)委員 二つの視点から申し上げたいと思うんです。

 第一点は、先ほども御指摘がありましたけれども、この憲法制定の背景、いろいろな背景があると思うんですが、やはり、公権力をもってしても侵し得ない基本的人権、そういう公権力対個人という対立概念の中でかなりきちんとしたことが書かれているけれども、一方で、いわば人権対人権といいますか、公権力ではない中での調整が今非常に必要になってきているということが端的にあらわれていると思います。

 そのうちの一つで、これはなかなか難しいことではあるんですが、特に報道の自由に関連して、これはいろいろな形で、どこまでいけるのかわかりませんが、表現の自由とプライバシーの権利というものをどう調整するのか、あるいは、例えば子供たちへのいろいろな性に関する報道、これは、常識的に見れば余りにもひど過ぎるじゃないかということはあるわけですよ。そういう意味で、知る権利とプライバシーというものをどうするのか。

 そういった点で、少なくとも表現の自由というのは当然のこととしてあるんですけれども、一方で、やはりそれを報道する立場の者が、何らかのことをみずから、公序良俗と言うとちょっと古過ぎますけれども、そういった良心なりなんなり、そういったものの調整をしっかりとわきまえるべき配慮義務みたいなことが一方ではあってもいいのではないか。これを法律で権力的に規制するのはなかなか難しいと思いますが、そういった報道に携わる側のそういう配慮ということを、責務という形で入れてもいいのではないかというのが一点であります。

 いま一つは、この憲法を日本に持ってこようとした背景の中に、日本の戦前における家族制度が余りにも封建主義に凝り固まっているという先入観が進駐軍にあったと思います。そういう意味で、徹底的に家族を個々人に分断してしまっているのではないか。

 そういう意味で、昔に戻せ、家督相続に戻せと言うんじゃないんですが、少なくとも、親が子供を教育する義務だけじゃなくて、養育する義務が、それくらいは当然のこととしてあっていいのではないか。あるいは、家族間の、お互いがいたわり合い扶養し合うようなことも当然あっていいのではないか。そういった、家族制度を破壊するために余りにも個の立場が強く強調され過ぎている嫌いはないかということも私は感ずるのであります。

 いま一つ申し上げれば、新しい権利で環境権ということがよく言われるんですが、なかなか環境権ということは難しいと思うんです。権利のサイドで規定するよりも、むしろ、環境に対する配慮が国民全体の責務としてもあっていいのではないか。

 そして、いま一つ申し上げれば、刑事被告人のことはしっかり書いてあるんですが、犯罪被害者の立場について、あるいは、民事上においても刑事訴訟の手続の中においても何らかの形でもう少し反映できるようなことを憲法上の裏づけができないのかということも一つ指摘しておきたいと思います。

 最後に、やはりこの憲法は、国家権力、公権力が守るだけではなくて、日本人一人一人がお互いの人権を尊重し合うということぐらいは最低限入れておくべき当然のことではないかということを申し上げて、私の意見陳述を終わります。

 ありがとうございました。

    〔会長退席、枝野会長代理着席〕

船田委員 私は、国民の権利及び義務に関しまして、幾つかの点でお話をしたいと思います。

 まず、今までも出ておりましたけれども、公共の福祉という概念が非常にあいまいであるということは以前から指摘をされております。十二条、十三条、その他のところに出ておりますけれども、やはりこれは、個人の権利と権利が相互にぶつかり合う、そういうときに、それを調整する概念、あるいは国家の安全、社会秩序を維持する、そういう概念として私は明確にもう一度規定し直す必要があると思っております。言葉としても、公共の福祉というよりも、公共の利益とか公共の価値という言葉の方がふさわしいと思っております。

 次に、権利、自由あるいは義務規定、非常に細かく現憲法は規定をしております。そのほとんどにおいてはこれはそのまま踏襲すべきであると思っておりますが、その中で一部、権利の規定の中で修正すべきものがあるのではないかということも考えております。

 例えば、二十条の信教の自由であります。

 戦後の日本社会においては、政教分離という原則はかなり徹底をしてきたというふうに思っております。ただ一方で、国や地方自治体が行う地鎮祭であるとか、あるいは公金による玉ぐし料の支出など、これまでの社会的儀礼や習俗的な行事、そういったものまで否定されるような状況があると、なかなか私たちの地域社会を維持していくということは難しいことになっていくと思います。もちろん、特定の宗教を援助、助長するということではいけないと思いますが、そういう目的、効果を伴わない行政的な対応ということは、社会的儀礼、習俗的行事の範囲内であるということでこれは許されるべきであるということもつけ加えるべきであると思います。

 表現の自由、二十一条にありますが、これは、心の内面の自由を保障するという大事な自由であります。しかしながら、最近の出版関係あるいはさまざまな情報メディア関係において、青少年の健全育成に悪影響を与える可能性のある、確実に与えるおそれのある有害情報などが出ております。これはやはりきちんと制限すべきである。表現の自由は当然守りつつも、このような分野においては、法律によって制限、禁止できる規定もつけ加えるべきであると思っております。

 それから、財産権というものが二十九条に出ておりますが、これは、公共の福祉に適合するように制限することができるとなっております。これに加えまして、最近やはり、良好な環境、あるいはこの中には景観ということも含むわけでありますが、良好な環境や景観を保護するために財産権が一部制限されるという考え方も大事だと思っております。

 また、追加すべき新しい権利としては、例えば国民の知る権利があります。

 国の行政、地方自治体もそうでありますが、非常に多様化し複雑化しております。その中で個人の権利を守るということはなかなか難しくなってきております。そういう状況の中で個人の権利をさらに守っていくためには、やはり、国民の情報開示請求権というものも明記すべきではないかというふうに考えております。

 また、先ほど来お話が出ておりますように、犯罪被害者の権利ということもあります。現行憲法は、余りにも犯罪加害者の権利擁護、これは三十三条から四十条まで列記されておりますけれども、やや偏り過ぎていると思っております。犯罪被害者及びその家族や遺族は、現代社会において、マスコミ等のさまざまな取材あるいは世間の中でのさまざまな問題が発生をしている。このような人々に対しての個人の尊厳が重んじられ、その尊厳にふさわしい処遇が保障されなければいけない、このような犯罪被害者の権利はやはり殊さらに書き加えておくべきである、このように考えております。

 以上でございます。

高木(陽)委員 公明党の高木陽介でございます。

 本日は、国民の権利及び義務に関する討議でございますが、私は、表現の自由とプライバシー権について絞って意見を述べたいと思います。

 まず、表現の自由でございますが、言論活動によって国民が政治意思の決定に関与するという、これは民主政治の原則から大変重要な自由である。特に、表現の自由の中核を占める言論、出版の自由のうち、報道の自由というものは、国民の知る権利に奉仕している、また、国家権力から国民を守るためのものとして重要な意義を持っていると考えております。

 ただ、これまでも議論がございましたように、知る権利というものを憲法上規定して書き込んでいくのかどうかという問題に関しては、二十一条を根拠として認めて、その保障は立法作業で。私もこの方の意見にくみしている者でございますが、ただ、その中にあって、マスメディアが巨大化をしている、また影響が増大化している、さらに、マスメディアの商業主義に流されがちな傾向というものも指摘されている中で、今特に問題になっている表現の自由とプライバシーの権利が衝突する場面というのが多々あると思います。

 その上で、まず公権力に対する報道の自由というのは、国家権力から国民を守るためにはぜひとも必要なものである、その一方、私人または一市民対メディアの場合というのは、もう既にマスメディアの方が強者で一個人というものは弱者という形となっている中で、個人のプライバシー、その権利を守るために配慮が必要であるというのは論をまたないと思います。

 ただ、この表現の自由は、精神の自由としての二十条、信教の自由、それを担保する、またはそれをあらわしていくものとして対置しているこの二十一条でございますので、そう考えると、報道への法律的な規制というものに対しましては、私は反対をしたいと思います。

 では、どうしていったらいいのか。表現の自由とプライバシー権、これを調和させるために、表現の自由を守り、また同時にプライバシーを守るために、これはあくまでも、やはりメディアの側の自主規制または第三者機関のチェックというものが有効であろうかと考えております。

 ただ、自主規制といいながら、結局メディアの方はやらないではないか、こういう御意見も多々ございますけれども、やはりここは、北欧などのオンブズマン制度など、こういったことを検討しながら導入していくべきではないかと考えます。

 もう一つ、メディアの側は、事前規制でなく事後規制でいいじゃないか、こういう言い方をしておりますけれども、裁判によって、損害賠償請求等によりましてこれを担保しているということ、そういう意見もございますけれども、ただ、現在の裁判制度上、損害賠償請求をした場合に、個人の侵害された人権が回復されているかどうか、これはかなり論議が必要だと思いますし、そう考えますと、欧米で、特にアメリカであります懲罰的損害賠償の導入というものも重要な問題ではないかなと思います。

 この懲罰的損害賠償の問題を論議しますと、メディアの方々はそれによってかなりプレッシャーがかかる、圧力がかかっているという言い方もございますけれども、逆に、真実の報道をしているのであれば、堂々とその後の裁判でも主張をすればいい問題でございますので、そういうふうに、圧力となるというふうな考え方は、逆に、真実の報道がなされていない、こういった懸念がなされるのではないか、このようにも考えます。

 いずれにしても、表現の自由というものをしっかりと守る中でプライバシーとの調和というものをしっかりと図る、これをさらに議論を進めていかなければならないというのが私の意見でございます。

 以上です。

永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。

 私は、国民の権利及び義務の規定に関しまして、憲法とは何か、その根本理念にさかのぼって意見を申し述べたいと思います。

 憲法は、国家権力の乱用から国民の基本的人権を守ることをその目的とするものであるといういわゆる近代立憲主義は、西欧の近代市民革命を通じて人々がかち取り、確立されてきたものであります。日本国憲法もこの近代立憲主義の系譜の中にあると言えます。

 しかし、戦後六十年を経た現在、凶悪犯罪の多発あるいは教育現場の混乱、企業倫理の欠如、さらには一般社会道徳の混乱など、数々の社会問題が目につくようになってまいりました。いかにしてそのような社会問題を解決すればよいのか。それは、果たして人は個人の力のみで、個人単位で生きていけるのか、人と人とのかかわり合い、つまり、社会とのかかわりなくして生きていけるのかという哲学的問いに答えていくことにつながっていくのではないかと思います。

 私は何を言いたいかと申しますと、家族というものこそ社会の最小単位ではないかと考えております。健全な家族のもとでこそ、個人が自立し幸福追求ができるのではないかということであります。

 かつて、英国のサッチャー首相は、当時、低迷しさまざまな社会問題を抱えていた英国を救うために、家庭政策を彼女の政策の中心に据えまして大胆に実行していきました。我々は、七九年、彼女が政権を奪取したコンサーバティブ・マニフェストに、ヘルピング・ザ・ファミリーとしてその具体的な政策を見ることができるわけであります。

 私はまず、家族や共同体の大切さという観点、及び、その家族や共同体が国によって保護されるべきであるとの観点を憲法に盛り込むことが必要であると考えます。さらに、権利には義務が伴うとの観点から、義務規定をふやすべきであるとも考えます。

 再びサッチャー首相の政策を引きますと、八三年総選挙のコンサーバティブ・マニフェストにおいて打ち出された政策の中に、フリーダム・アンド・レスポンシビリティー・ゴー・トゥゲザーというフレーズがあります。つまり、自由と責任は相伴うという意味でありますが、この考えに基づいてさまざまな強力な政策が遂行され、いわゆる英国病とやゆされていた英国は力強く立ち直ったわけであります。

 とりわけ私が強く要望することとして、投票の義務があります。選挙制度が十分に機能することが民主制の生命線であるはずであります。選挙は民主主義のぜんまいであると言われております。しかし、現在の投票率の低さに見られるように、この機能が十分に果たされているとは言いがたい状況にあります。健全な民主制の発展のために、私は、投票は選挙権の裏返しとしての国民の義務であるとの規定を憲法に明記することを主張したいと思います。実際にイタリア憲法四十八条二項などが投票の義務を定めており、諸外国との比較においても、決して特殊な規定ではないと考えます。

 以上のような主張に対しては、特にリベラリズムの立場から、道徳的な規定を置くことや義務規定の増設、これは近代立憲主義の流れから外れ、人権を変質させる危険性があるとの批判が予想されるところであります。また、米国におきますリベラル―コミュニタリアニズム論争においても、家族や義務を強調するコミュニタリアンたちでさえ、それを法制化することまでは主張していないという意見もあると承知しております。

 確かに、私の主張は、近代立憲主義から一歩踏み出し、国民と国家の共に働く共働を規定するものとして憲法を再構築しようとするものであります。それは、近代国家の原理を根本的に変える壮大な仕事になるかもしれません。新しい文明を構想するような遠大な試みとなるかもしれません。しかし、今こそ、国家と国民の二項対立関係を克服して、新しい時代における権利関係、人権関係を考える果敢な試みを行う時期が来たと私は確信するものであります。

 憲法に家族の尊重、必要な義務規定を設けた上で、そのような憲法の指し示す指針に従い、特に、家庭こそ社会の基礎という考えに立った具体的施策を展開していくことが必要であるものと考えます。

 以上で私の発言を終わらせていただきます。ありがとうございました。

鹿野委員 基本的人権というのは近代憲法におけるところのまさに根幹である、これは言うまでもありません。そこで、一つの流れとして、人権そのものはできるだけ明記した方がいいのではないか、こういうふうな流れになっておるようであります。EU憲法においてもそのとおりであります。

 そこで一つは、やはり二十一世紀というものは環境憲法の性格を持つ、こういうふうなことからいたしまして、やはり環境について規定した方がいいのではないか、こういう考えであります。特に、平和と環境があって初めて生存権が成り立つ、こういうふうなことにもなるわけでありますから、国民のいわゆる環境に関する権利、そして同時に、国民も、また国そのものも、ドイツの国のように環境保全の義務を持つ、こういう流れをやはり日本の国といたしましてもつくっていくという意味からも、明確に規定した方がいいのではないか、こういう考え方であります。

 もう一つは、知る権利であります。これは、国民の側からの規定というふうなことであります。いわゆる法律のレベルという規定だけではなしに、憲法上に明記をする、こういう考え方であります。特に今日、政治、行政への信頼というものをより確かなものにしていかなきゃならない、こういうことからいたしましても、まさしく、できるだけ情報公開のシステムというものを確立もしていかなきゃならないわけであります。

 そして同時に、情報というものは、まさに行政のものでも政府のものでもありません、主権者である国民のものである、こういうふうな考え方に立って、できるだけ国民に情報を提供するというふうなことは、また、国民が知るというふうなことは、国民に対して選択肢を提示する、こういうふうなことになります。そして、提示されたものを国民が選択する、これがこれからの我が国の社会のあるべき姿ということからいたしましても、透明性そして公開性というふうなものを明確にしていくため、知る権利というふうなものを明記した方がよろしいのではないか、こういう考え方であります。

 それからもう一点は、知的財産権であります。財産権の一般の保護とは別途に規定をしたらいいのではないかという考え方であります。

 これから、ますます科学技術の分野においては競争が激しくなってまいります。科学技術の重要性というものを国民がお互いに認識し合う、科学技術立国というものを目指していくんだというふうなことを、きちっとそこに国民ともにお互いが、重ねて申し上げますけれども、認識し合うということからいたしまして、特別規定として設けていく必要があるのではないか、こういう考え方であります。

 以上です。

高橋委員 本日の各委員の発言を興味深く聞きました。新しい人権についてそれぞれの角度から規定すべきであるという意見が多かったと思いますけれども、私は改めて、現憲法がこれを包括していること、憲法の精神を豊かに生かし発展させる努力こそが求められていると考えております。

 憲法第十三条は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は国政上最大の尊重を必要とすると定めています。この幸福追求権が新しい人権をまず含んでいるというのが、憲法学者の一般的な議論であります。この幸福追求権では、限界論があるということもよく言われることは承知をしております。しかし、幸福追求権によって基礎づけられる個々の権利は、裁判上の救済を受けることができる具体的権利であると解されるようになったという指摘もあります。

 例えば、夜間飛行差しとめを求めた大阪空港公害訴訟で、大阪高裁判決、一九七五年は、十三条と二十五条を根拠に、平穏、自由で、人間たるにふさわしい生活を営むことも最大限尊重されるべきものとして、住民の訴えを認めました。プライバシー権は、十三条を根拠に、私生活をみだりに公開されない権利として判例上定着しています。一九六四年、東京地裁の判決などがあります。また、知る権利は、二十一条の表現の自由を国民の側から支えるものとして広く認められるようになっており、このように、憲法は新しい人権に十分対応できるものと考えています。

 また、環境権が叫ばれている一方、例えば九三年制定の環境基本法も、自民党あるいは官庁の抵抗で環境権という言葉が盛り込まれませんでした。先般の障害者の権利という問題でも、基本法に盛り込まれなかったことは記憶に新しいことかと思われます。

 家族の尊重ということも言われました。しかし、そのためにも、働く皆さんが一方的な出向、単身赴任を命じられる、長時間労働などで家庭に帰ることができないような実態がある中で、労働基準法を改悪するのではなく、しっかり守り拡充することこそが求められていると思います。

 これまで指摘されてきた新しい人権については、憲法が本来持っている本当の力をしっかり私たち自身が深め、それをまた、不足するというのであれば、立法、行政、司法、あらゆる努力によってしっかりと担保することが求められていると考えております。

 以上です。

三原委員 自民党の三原です。

 大きな人権の成り立ちとか、そういうたぐいのことはもう既に多くの方がおっしゃったので、私はむしろ、今我々がよく議論しています犯罪の被害者の人たちに関することについて一言だけ申し上げたいと思うんです。

 それは、野田委員や船田委員も言及されましたけれども、明らかに常識的な市民が、加害者が得ると同等の権利というものを被害者が持っておるだろうか、すごくそれは疑問になるわけでございます。であるからこそ、このところ、実際に被害を受けられた法律の専門家の方あたりが中心になって、犯罪被害者はもっと法律によってプロテクトされるべきだという動きが大いに起こっていて、これは私は大賛成なのであります。

 その犯罪被害者の権利に関しても、マスメディアからの保護とか、または、その人たちが物的、心的に前と同じような救済を受けられるのか。そんなことはあり得ないわけで、亡くなってしまった方をもとに戻すなんということは、これはもう当然できない。ならば、そこでなくなった穴を、では、どうやって我々がその残された人たちにより多くの権利を与えて、できる限りの現況復旧みたいなことをさせることができるのか、こういうことなのであります。つまりは、目には目をではないでしょうけれども、彼らのつらい気持ちというものを相手にぶつけるというわけにもいかないでしょう。では、そうなったときにはどうすればいいのかということなのであります。

 そうなると、やはり少なくともこの犯罪被害者の人たちには、加害者という人たちが国あたりから得られるいろいろな意味での権利を、形を変えてそれと同じだけ重いものを我々は真剣に考えていく、そのことが大切なのではないかと私はしみじみと思います。

 特に、犯罪を犯した加害者というのは、少なくとも反社会的行為を行ったのであるという厳然たる事実があるわけでありまして、そのことを我々が認識すれば、それと同じぐらいの重さの形のプロテクションというものを、これから先は、被害者、残された側にも与えるべきことを新しい我々の議論の中で提起すべきであると私は思っております。

鈴木(克)委員 民主党の鈴木でございます。

 きょうは、国民の権利及び義務ということでございますので、私もぜひ一言申し上げておきたいというふうに思うんです。

 言うまでもありません、戦後六十年有余経過をして、憲法を制定した当時に想定されなかったいろいろな権利が発生をし、そしてまたそれが今社会の中で求められておる、認められておるというような、時代が変わってきておることは間違いないというふうに思います。新しい人権を憲法に書き込んでいくということは国民の人権の確保に有益でありまして、私は、憲法が国家権力を制限し国民の権利を守る基本法という意味からも、新しい人権というものを書き込んでいくのはその趣旨に合ったものだというふうに思っております。

 一方、憲法が抽象性の高い最高規範であるということで、新しい条文を加えたり変えたりする必要はないという御意見もあるようでありますが、私は、そうではなくて、やはり新しいものを加えていかざるを得ないというふうに思っております。

 具体的にどういうことかといいますと、例えば、先ほど鹿野委員もおっしゃったわけでありますが、環境権のようなものであります。日本国憲法は世界に冠たる平和憲法である、これは事実、私も認めます。しかし、平和だけではなくて、例えば世界に冠たる環境憲法であるというような、国民が誇れるような憲法にしていくということも私は必要だというふうに思っております。自然をたっとび、自然と協調して生きてきた日本人の環境主義というものの理念をやはりきちっとうたっていくべきではないかなというふうに思っております。

 それからもう一つ、戦後の日本社会の各方面で、権利の裏にある義務というのが非常に希薄になってきたというふうに思っております。国家、社会、家族への責任や義務が軽視をされてきておるというふうに思います。

 言うまでもありません、毎日のように、子供同士が殺し合うとか、親が子供をとか、子供が親をとかいうような状況が出ておるわけでありまして、やはりここで、個人の尊厳とか生命の尊厳とか人間の尊厳ということをもう一度きちっと憲法にうたって、そして国民共通の規範とすべきではないのかな、こんなふうに私は思っております。むしろそれは、義務ということではなくて、やはり権利という意味できちっと明記すべきではないかなというふうに私は思っております。

 国民と政府が協力し合ってお互いに権利を守り合っていく、そういう国家をつくっていく、そのための基本的な契約といいますか、そういうものが憲法であるべきではないのかな、このように思っております。したがって、そういう意味で、新しい人権、そして権利というものをきちっと明記をしていく、そういう時代が今来ておるのではないのかな、このように思っております。

 以上です。

    〔枝野会長代理退席、会長着席〕

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 私の方から、先ほど来お話が出ておるテーマですが、重ねて申し上げたいと思います。それは環境権の話でございます。

 私は、一九四六年に制定された今のこの憲法というのは、すばらしいものを持った憲法である、非常に重要な役割を果たしてきた、こう思いますけれども、今、二十一世紀劈頭に当たって改めてこの憲法を見た場合に、一点、一点というかいろいろな意味で、きょうも、多少というか基本的な部分で見解がこの問題についても分かれておりますけれども、より国民的合意が得やすいと私が考えるテーマがこの環境権ではないか、こんなふうに思います。

 それで、この環境権については、先ほど野田委員からの発言がありましたけれども、いわゆる新しい人権という格好で環境権を数えるというのは若干の誤解を呼ぶのではないかと思います。この調査会でもさまざまな学者の皆さんが参考意見を述べられる中で、いわゆる人権のインフレというふうなことを申された方がいらっしゃいますけれども、そういうことではなくて、むしろ、あえて誤解を恐れずに言うと、環境権は古い人権ではないのかという感じさえいたします。

 つまり、忘れられている側面、かねて自然と共存してきた人間社会、とりわけ日本にはそういう側面が強いと思うんですけれども、今ここで新しく出てきたというよりも、もともとある、日本人が守ってきたそういう古い人権としての環境権といいますか、そういう側面。

 それが、今、地球温暖化という大変な、地球全体が大きく直面している課題、これは人間だけではなくて、動物も含めた生きとし生けるものすべてに大きな挑戦として起こってきているこの地球温暖化という問題についてどう対応するかといったときに、先ほど来、環境権のことを憲法に入れるのはいかがかという御意見、よくわかります。

 つまり、行政、立法、司法、こういう現行の法体系の中で、憲法にまで行く前の段階でいろいろやることは幾らでもあるじゃないかというふうな御意見もわかりますし、当然それはやっていかなければならないことだと思いますけれども、今、二十一世紀の冒頭で、こういう地球温暖化ということ、そして、地球全体が地球環境というものをしっかり守ろうという格好で機運が高まっている状況の中で、もし仮に一つだけ私たち日本国民が合意できる可能性がある、いろいろ意見が分かれている、なかなか大論争にこれからさまざまなテーマがなっていくと思いますけれども、一番急いで合意を得る必要があるし、また、それを得られやすいのがこの環境権の問題ではないかと思います。

 例えば、一例具体例を申し上げますと、昨年は、極めて日本人にとって、私たちが住む日本国のこの環境について大きなる異変が起きた年、挑戦を受けた年、こんなふうな言い方ができるんじゃないかと思います。

 それは台風の襲来というものに端を発したわけですけれども、簡単に言うと、川の異変、そして森の異変。川の異変と森の異変というのは、いろいろな意見が分かれるところですけれども、やはりここは、奥底に非常に深いものをはらんでいるというふうに私は思います。川の水位が下がってきている。かつて、奥山を大事にしてきた私たちの先達たちは、奥山を聖域として人間の手を入れるのを拒んできた。それが今どんどん破壊されている。

 兵庫県と鳥取県の県境にある、大変に有名な氷ノ山のブナ林というのがあるわけですけれども、残念ながら鳥取県側はかなり破壊されてきた。兵庫の方もそんなに褒められた状況ではありませんけれども、かなりその辺の意識の違いというもので破壊の状況が違ってきているという、これは一例ですけれども、そういったことから川の水位が下がってきている。

 つまり、杉やヒノキを植えている山が多い、森が多いということによって水の保有力は弱まってきているというふうなことから川に異変が起こり、森から哺乳類の大型動物が出てきているという現象も、単なる一時的な現象ではなくて、自然の大いなる警告である、こんなふうにとらえる見方が、少数でありますけれども厳然とあるといったふうなことも含めて、環境権という問題を、きちっと国民的合意を得られやすいテーマとして真剣に考えていく必要があるんじゃないか、そんなふうに思う次第でございます。

 以上です。

保岡委員 私は、小泉総理が、靖国神社に行かれて英霊に対して哀悼の意を表されたり、二度と戦争をしない決意を日本のリーダーとして示される、これはやはり、どの国でも行っている当然のことだと思います。

 この靖国神社に行くということについていろいろ議論もあるわけでございますけれども、私は、やはりその辺は、総理が行う、国家のトップが行うそういう行為について違憲だとか合憲だとか解釈が分かれるような憲法であってはならない、そういった意味で、この政教分離についてはもう少し明確な規定を置くべきだと。

 例えば、国、地方自治体、その他の公共団体及びその機関は、我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、社会的儀礼あるいは習俗的行事とされる範囲を超えて、宗教的意義を持って特定の宗教を助長、援助もしくは促進、圧迫、あるいは干渉するような宗教活動をしてはならないと。また、そのような目的に基づいて宗教的活動を行う組織または団体の使用、便益、維持のために公金その他の公の財産を支出し、または利用させてはならない。八十九条の私学助成についての規定に疑義があるところを、この八十九条を廃止することとあわせて、宗教的な目的で公の財産を使用してはならないことをあわせ規定するようなきちっとした条文を憲法に入れるのは、非常に根幹的な大事な問題だ、そう思います。

 それと、先ほど鹿野議員初め数人の先生からお話があった知的財産とか科学技術のことでございますが、日本がこれから活力を持って生きていくためには、やはり何といっても知的財産の保護あるいは創造、活用ということが決定的に重要だということを考えると、私は、世界一の知財立国という意味で、日本が世界にあるいは国民に強いメッセージを持ってこの知的財産の保護に関する規定の整備を憲法に置くことによって、これをめぐる施策の推進に国家を挙げて全力を尽くすという姿勢を示すということが大事だと思わざるを得ないところでございます。

 それからもう一つ、先ほども述べましたが、多少敷衍させていただいて、教育の憲法上の規定でございますが、二十六条の権利や義務を決めるだけじゃなくて、私は、先ほど保利先生が言われた、前文にそれを書くのか、あるいは、別個、プログラム規定として教育の重要性や向かう必要性の基本を条文として起こすのか。

 私は、やはり教育基本法、憲法というのは一体であると。なぜならば、平和主義、基本的人権主義、国民主権主義、こういった基本権を、我が国のシステムとして、そしてそのシステムを支える日本人のあり方として、いい秩序やいい状況をつくり出して幸せ、平和、平穏を確保していくということは、やはり、これはもうひとえに教育にかかっていると私は思います。

 世界平和を求める、国がすぐれた国家として世界から信頼され、あるいはみずからも誇りに思えるような国家をもし日本が求めるならば、それもまた教育が決定的に重要な意味を持って、教育がしっかりしているからすべての制度が信頼される。どんなに国民主権主義を信奉しても、政府は信用できないという前提で国民がいろいろな施策を議論するというようなことは極めて不幸なことであって、私は、何に一番基本的な価値を置いてこのすばらしい国家や世界をつくっていくかといえば、それはやはり何といっても教育であると。

 したがって、教育に関する前文あるいは条項を起こしてその重要性を憲法に位置づけるということは、非常に憲法改正において重要なテーマだと重ねて強調させていただきたいと思います。

園田(康)委員 再度の御発言の御許可をいただきまして、大変恐縮しております。

 先ほど来私も発言をさせていただきましたし、各委員からもさまざまな御意見をいただいたわけでございますが、やはり総じて、新しい人権、先ほど環境権に関しましては、これは自然権的な、生来人間が持って生まれているものであるという御発言もありましたし、大方の合意といいますか、大方の話は私は合意を得られているのかなという印象を持った次第でございます。

 しかし、自由討議という場でございますので、別に反論ということではありませんで、そうではない、いわゆる実定法上の積み重ね的な部分あるいは包括論という部分がございましたので、少し私なりの解釈といいますか、考えをさらに述べさせていただきたいと思います。

 まず、実定法上の積み重ねていくという考えでございますが、当然私も、学者的な、学者という立場におりましたし今でもそうでございますけれども、そういう部分に関しては当然やっていかなければいけないというふうに思っておりますが、さはさりとて、それが時の権力によって実際の法律がねじ曲げられてしまう、そういう危険性もかなり含んでいるということを危険性としてはあるんではないか。

 すなわち、土井委員もいつも御指摘されておられますけれども、憲法九条に対するさまざまな法制定があるわけでありますけれども、それもすべて反対という御意見が表明されておられる部分を私はつぶさに見ておりましたけれども、それが、すなわち時の権力によってねじ曲げたというふうに主張される方も中にはいらっしゃるという部分でございます。

 したがって、実定法だけではどうしても限界があるということからすれば、もっともっと、この実定法だけではなくて、いわゆる国民的な合意が得られているものであるならば、きちっとそれを憲法上明記しておく。そうすれば、それに基づいて法規範が一つ出てくるわけですから、下位法であります法律もそれによって縛られるということがありますから、時の権力による恣意的な運用というものはかなりこれは私は制限できるというふうに考えております。

 それから、十三条の幸福追求権による包括論でございますけれども、これは一つの学説的な話の中に行けば、逆の意見を申し上げれば、では、二十一条による表現の自由、あるいは先ほど来出ております二十条の信教の自由というようなさまざまな人権のカタログが、この憲法条文上になぜ書いてあるのかということをまず考えていただきたいのでございます。すなわち、十三条の幸福追求権ですべて包括するという、それを根拠に持っていくということであるならば、ほかの人権のメニューは要らないという形まで、究極論でございますけれども、なる可能性が出てくるというわけであります。

 すなわち、表現の自由、言いたいことを言いたいときに言いたい相手に言いたい場所で言い伝える自由という形になれば、それがすなわち、それを行うことに、人権を行使することによって自分自身が幸せ、幸福だという形になってしまいます。すなわち、二十一条の表現の自由も幸福追求権の一包括的な人権の中に入ってしまうということになるわけなんですね。

 したがって、包括的な人権で十三条すべてにおいて求めるというのは、やはり危険があると同時に、個別的な人権を歴史的な中で国家権力、公権力によって制約されてきたという歴史的な事実があるということを考えれば、しっかりとした国民的な合意が、コンセンサスができたものについては、やはり憲法典の中にきちっと明記をしていく必要が私はあるというふうに考えているわけでございます。

 少し自然権というものをもう一度喚起するといいますか、もう一度、私たちの生まれながらにして有している権利というものを見詰め直すということにおいて、一つ一つそれによって国家権力の介入を排除していくという強い規定を設けるというのが、私は憲法典に盛り込む最大の意義であるというふうに考えているところでございます。

 以上でございます。

枝野委員 私も二度目になりますが、ありがとうございます。

 先ほどはネガティブ的な観点からだけお話ししましたが、皆さんの御議論を伺わせていただくのを踏まえながら、若干ポジティブな側面からお話をしたいと思います。

 私も、公権力と国民が二項対立的な立憲主義という時代から前へ進んでいるというふうに思っております。それは既に、国家と国民が共働するとかという言い方で永岡委員はおっしゃられましたけれども、私は、まさに公権力というものは、国民からの委任を受けて公権力を行使しているのであると。つまり、我々が権力を持っているのは、あくまでも国民から憲法を通じ、選挙を通じて委任されているから権力を行使しているわけでありまして、しょせん国民という手のひらの上で我々は踊っているという意味で、二項対立ではなくて一体であるというふうに思っています。そうした観点から、憲法典は、まさに国民が公権力に対して授権する、委任をする法であります。

 したがいまして、先ほど、義務の規定の話をしましたけれども、私は、その憲法典の中で国民が自分たちの意思を宣言し、公権力行使に当たっての指針を示すという意味での宣言的な規定というのは、これは非常に意味があるだろうというふうに思っておりまして、先ほど、池坊委員から生命倫理のお話などがありました。こうしたことは、私も、今言ったような意味で、つまり、国民がそれを価値として共有しているという宣言をし、公権力行使に当たってそれを大事にすべきであるということを憲法典に示して、公権力を縛るというか公権力に対して命じる、こういうような位置づけをすれば、憲法の意味と、それから生命倫理などを大事にしなきゃならないということが両立するというか、まさに一番すっきりすとんといくんではないだろうか、こんなふうに思っております。

 ただ、国民が公権力行使の指針を示すということについて余り具体的に細かく書き過ぎますと、公権力を行使する側でいろいろな意味で自己撞着に陥るのではないかというふうに思いますので、生命倫理あるいは自然環境など、本当に根本的な重要な側面に限って、憲法典の中にこうした規定をふやすということはあっていいんじゃないかと思います。

 それからもう一点、先ほど、公共の福祉論が幾つも出てきました。私もまさに、義務規定とかそういう話ではなくて、必要なのは、この公共の福祉という概念をもうちょっと具体化し、なおかつ共有することが一番大事であると。つまり、人権というものを自分勝手と誤解をすることのないように、公共の福祉という規定を、私は、言葉をかえるということよりも、もっと可能な限り具体的に書いてしまうということの方が大事なんではないだろうかというふうに思っています。

 そして、他者の人権との調整原理でありますから、新しい人権について言えば、今の園田委員からの視点とともに、他の人権との調整という意味で、憲法典に明記をしておかないとなかなか難しい人権がある。

 例えば犯罪被害者の権利ということについて言えば、犯罪を犯したと疑われる者の権利について大変詳細な規定があるだけに、バランス上、犯罪被害者の権利について明定をしておかないと、この公共の福祉による人権衝突の調整という原理が働きにくいだろう。

 あるいは、表現の自由という大変強力な人権との調整原理になるプライバシーということについても、しっかりと憲法典に書いた上で、表現の自由との調整原理について一定の方針を、公共の福祉という一言ではなくて、書いておくということが意味があるんではないだろうかというふうに思っています。

 そういう観点から、あと二点、教育のことやあるいは家族のことについてもいろいろ書かれていますが、私は、今のような現代的憲法典の意味からすると、例えば、家族について我々が、特に公権力を与えられている側からやらなければならないことは、家族的価値を享受できるような国民の権利、あるいは家族的価値を享受できるように公権力がその権能を行使する、こういうことについての公権力の側の責務、こういうことこそが一番大事なのではないかと。

 現実に、先ほど、高橋委員などからも御指摘がありましたけれども、今の法律、制度のもとでは、単身赴任を余儀なくされたり、あるいは家族で夕食を食べることもできない、我々国会議員もそうかもしれませんが、希望してもそれができない、こういうことを改めることの権限を我々立法機関として持っているわけでありまして、そういうことについて努力をする、あるいは、そうした家族的な価値を共有できるような、享受できるようなシステムを要求するプログラム、権利を持つ、こういうような位置づけで家族あるいは教育の質を高めるということについても、国民的な権利ないしは国民が公権力に対して命ずる責務として規定をする、こういうことであれば私はあり得るのかな、こんなふうに思っています。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 国民の権利義務ということで考えた場合に、権利、つまりは人権をいかに守るかということでありますし、それは、いわゆる自由をいかに守るかという観点で考えたときに、まずやはり、憲法成り立ちの歴史等を考えていかなければいけないだろうと思っております。

 それは、いわゆる第二次世界大戦の話ですけれども、神勅天皇制を支柱といたしまして、外に向かっては侵略戦争を行い、内においては人権弾圧を行ったと国際的に評価されるような事態が起こっていたのを受けて、日本国憲法は九条で戦争を放棄し、そして人権規定を厚く規定し、特に、信教の自由の中では政教分離ということを解釈で導いているわけでございまして、そういう意味からいきますと、まず最初に、戦争の放棄をするということが、戦争というのは一番の人権侵害でございますし一番の環境破壊でございますから、まず、戦争を放棄するんだということが人権を守るということでは一番重要になってくるんではないかと思っているところなんでございます。

 そして、新しい人権ということがありますが、これは、環境権から始まって、知る権利やプライバシー権とかアクセス権とか犯罪被害者の権利、さまざまあるんですが、とりあえず憲法の今までの解釈の中では、解釈で十三条あるいは二十五条で導き出してきている権利であることも事実なんです。

 しかし、憲法典に書いていないから、それに、裁判規範性という意味で、裁判所がそれを利用して環境権と銘打って訴訟するかというと、そうではないという意味では、あった方が環境権という権利として裁判がされるということはあるのだろうと思います。しかし、現実に即困っているのかというとそうでもないのではないかというのが、一つ新しい人権でございます。

 逆に、古い人権という言い方は変ですが、憲法典にありながら、規定されていることが十分に全うされているのかというと、必ずしもそうではない規定も多々あるわけでして、例えば労働基本権なんかもそうでございます。その中で、新しい人権というときに、ここに参考人をお呼びしたときにも、新しい人権は要らないという参考人もおられましたから、そういう意味では、この部分を本当に効果があるのかということを考えなければいけないんだろうと思っております。

 それと、問題となっているのは、人権を考えた場合に、国家からの自由ですから、国家は国民の自由行為に対しては介入しないという意味の義務があるという意味では国家に対する義務づけなんですけれども、国家対国民ではなくて、民間の会社対従業員との人権の問題だとか、あるいは団体対その中の構成員の人権の問題。つまりは、今の憲法の解釈では、第三者効力というか私人間効力という形で、例えば民法九十条を媒介にして人権を救済するというようなことが起こっていますけれども、そういった部分も、公権力対個人ではなくて、民間の中での個人同士のぶつかりということにもなるのかもしれませんけれども、そこでの人権調整ということ、人権の擁護ということ、保護ということも特に考えていかなければいけないんではないかと思っております。

 そのことの端的な例が、この間のNHKなんかの問題が報じられておりますけれども、NHK自身の報道の編集の自由と、その下請会社あるいは教養部門の報道人たちの報道の自由とのぶつかり合いといったこういったのが、多分、私人間の話なんだろうと思っております。

 そして、これを担保する前に、そうかといって自由だけを規定しているのが憲法でないのも事実でして、それは、スイスなどは動物愛護についての憲法規定があったりしますから、そういう意味では、ワン権といいますかニャン権といいますか、そういうものまで認めている憲法もございますので、そういう広がりも当然あるんだろうと思います。

 しかし、究極的に何とか人権を守ろうというときに、やはり憲法裁判所のようなものがあった方がいいだろうという、今の憲法の解釈の中でも出てくるかもしれませんが、そういうことの要請が一つあるんだろうと。

 さらには、これは私個人の考えでございますが、刑法に対する刑事訴訟法と同じように憲法訴訟法というようなものをやはり考えるべきで、このときのメルクマールは、裁判で長い時間かからないでも、手続の最初のときに人権を守られたい側の利益に、すぐ却下をするというような、そういった意味も含めた手続法が必要なのではないか、そんなふうに考えております。

 以上でございます。

中川(正)委員 民主党の中川です。

 二点、指摘といいますか意見を申したいと思うんですが、一つは、最近、三位一体の議論を中心に地方分権の話が進んでいますが、そのときに必ず出てくるのが、社会権についてのナショナルミニマムをだれが保障していくのかということだと思うんです。

 それで、相当議論がそこで混乱をしておりまして、二十六条なりあるいは教育を受ける権利、あるいは社会福祉の意味でのナショナルミニマムを保障するということ、これが、国の責任において保障をしなければならないというふうに解釈をするのか、それとも、これは国だけではなくて、それぞれ地方自治体はもちろんのことですが、コミュニティーも含めてこのことを保障していくという枠組みで考えるのかということだと思うんです。

 そこの整理をこの社会権の中ではもう少し進めて、はっきりとした国柄、これで国柄があらわれてくるんだと思うんですが、を示していくということが、今の地方分権の流れをはっきり整理ができることではなかろうかというふうに思っております。

 そういう意味では、私は、この社会権の保障も、国だけではなくて、コミュニティーも含めた地方自治体すべてが仕組みとして成り立っていくということ、これを保障していくんだという形で整理をしていくべきだというふうに思っております。

 それからもう一点、これは法律的な意味合いとはずれると思うんですが、ずれるというか、また違った観点の議論が必要だと思うんですけれども、さっき申し上げた国柄なんです。自由と平等、あるいは社会規範で生きていく国なのか、それとも契約的にすべてを裁判で律していくような国であるのか、あるいは、国際的に見て私たちの価値観を外に向かって広げていこうとする積極的な国なのか、それとも、我々は我々の中でのみ完結をしていこうとする国なのか。

 これは、今、アメリカンスタンダードと言われますけれども、あらゆる面で国際的な規範というのが日本の中に押し寄せてきておりまして、日本の場合は、中産階級が非常に厚くて貧富の差が少ない、どちらかというと平等的な価値観というのが社会規範の中にあって、それが法律以上に我々の価値観の中で生きていきながらつくってきた国なんだろうというふうに思うんです。

 そこが今、アメリカ的なといいますか、そういう競争を重んじていくような社会規範で侵食をされてきているというか、混乱の中にあって、それで、それをどういうふうに我々は描いていくのかという議論がもう少ししっかりとしたものとしてここにないと、その部分はまた違った力で押し流されていって、私たちの意思、いわゆるこの憲法の中で示されていく意思とは関係のない方向へ向いて国自体が流れていって、法律論だけがここであらわれていくというふうな結果に憲法がなってはだめなんだろうというふうに思うんです。

 そういう意味で、さっきのいわゆる自由と平等ということであるとか、あるいは法律でどこまでこの国を制御していこうとしているのかという話であるとか、さっきの公共の福祉の定義の中で、我々の言う公共の福祉というのは、世界規範と比べて、世界規範というかアメリカ規範と比べてどうなのかというふうなこと、そんな話を、私自身もまだ頭の中でしっかり整理できていない分野なんですが、やはり、この憲法議論とともにしっかり私たちはもっと深めていく必要があるんだろうということ、このことを指摘させていただきたいというふうに思います。

平井委員 きょうの皆様方のお話を聞いていて、国民の権利と義務、公共の福祉、また国家権力と個人の権利の対立等々、いろいろなお話がありました。

 それで私、昨年の小委員会の話を少し思い出したんですが、参考人にお話を聞いたときに、ドイツ基本法二十のa条というのが私にとって大変興味深いものだったことが思い出されます。憲法を国家権力の制限とする考えから相反するといいますか、一歩踏み出した考え方はドイツでも大いに議論されたというふうにそのとき聞いております。

 ここで、憲法を、お互いに権利を付与し合い、義務を果たし合うことによって国家を構成していくということについて国民の基本的な合意があるととらえ直す見解に私は大変注目したと思います。この見解だと、憲法に国家目標とか国民の義務と責任を盛り込むことの意義というものがありますし、今後、日本の憲法を考えていく上でも非常に参考になると思いました。

 国家と個人を対立するモードとしてとらえる憲法観は、やはり何となく日本人にはなじまないような気が私はします。日本の歴史とか文化、伝統、日本人の思想に深い影響を与えているアジア的な価値観などと比較した場合、この国家と個人の対立というのは国民性に合ったものとは言いがたいような気がします。

 権利と義務を表裏一体のものとして認識するというのは非常に重要なことで、そこには当然、他者に対する配慮というものもありますし、共生の精神もありますし、そうした上で国民一人一人が幸福追求をする、自己実現をして幸福になるようにする、そのために国家が存在するというふうにとらえるべきではないかなと私自身は思っています。その上で、国家はそのための国民各人の活動を最大限に尊重すべきである、そのように思います。

 この公共の福祉というものの定義に関して、もうこれは皆さんいろいろな御議論はありましたが、定義は非常にあいまいですが、私の印象ですと、公共の福祉という一方、権力の介入というような感じがして、いわば非常に抑制的に今まで考え、使われていたのではないかなというふうに思います。

 国民の権利を尊重するということは非常に重要ではありますが、その権利もいろいろなケースがありまして、権利をみずからの利益のみに行使するケース、社会の利益のために行使するケース、その場合は、当然、社会の利益のために行使する方が優先されるべきだと私は考えています。ですから、その場合は、国民の安全とか生活環境を守るとか、国民全体の利益になるようなことのためには私権は制限すべきだというふうにも思います。

 それで、個別の私権と全体の私権というものの比較考量というものはこれから議論していかなきゃいけない問題であるし、このことに関して言えば、法律だけでやっていいものかどうかということは当然あると思いますが、例えば、以前思い出しますと、私権を余りにも優先したために不特定多数の利益になるようなインフラ整備ができずに、国際的にも不便の象徴となった空港がありますよね。

 そのようなことを考えた場合、私権を公共の福祉のもと制限しようとする場合、権力による介入と反権力側による反対が常に歴史の中で繰り返されてきたと思います。この権力対私権という単純な二項対立では、この私権の制限による不特定の主権者の利益は今度は具体的に見えてこないと思います。

 そういう意味を考えた場合に、私権の尊重で主権者の多くの利益が失われるということを認識しながら、その辺の全体の私権の比較考量のシステムというものを考えていく必要があるのではないか、そのように思います。

 以上です。

大村委員 自由民主党の大村秀章でございます。

 今回、今議論になっております国民の権利及び義務、特に基本的人権の部分は、まさに日本憲法が高らかにうたい上げた、大変大事な、一番中心的な部分だというふうに認識をいたしております。

 そういうことで、憲法九十七条には、基本的人権の由来、特質、人類の多年にわたる努力なんだということ、そしてまた、憲法の十一条、十二条にそれについての考え方も規定をされております。十一条には、侵すことのできない永久の権利として与えられるということを高らかにうたい上げ、また十二条では、それがやはり引き続き与えられるためには不断の努力を国民みずからがしなければならないということ、まさにここのところが、一番大きな基本的な部分だと思います。

 そういう意味で私は、この基本的人権は、国民すべてに与えられる、侵すことのできない、まさに普遍的なすばらしい部分だというふうに思いますけれども、そこでやはり出てくるのが、自分の権利と、そして他者、そしてまた社会全体でのそういったものとの調整ということは、これはやはり当然出てくるところだと思います。

 そういう意味で、この調査会でもこれまでもずっと御議論になってきたわけでありますが、公共の福祉とどういうふうに調整をしていくのか。これは、従来は、基本的人権といわゆる全体のといいますか、公共の福祉ということで、そことの何といいますか、人権を制限する、そういった意味でとらえられてきたものが、今はまさに他者の人権との調整ということにも少し様子が変わってきたというふうに思います。

 そういう意味で、これこそやはり時代の流れでもあると思うので、私は、先ほど枝野委員も言われたと思うんですが、やはりここのところをもう少し具体的に書き込んだらどうかというふうに思うわけでございます。

 公共の福祉という抽象的な概念だけでそれがどんどん解釈が広がっていくということではなくて、まさに、自己の基本的人権、そして他者の人権、そして、公共の福祉というよりも、今まさに日本社会が問われているのは、公というのをどういうふうにとらえたらいいのかということが問われていると思うんです。それは、家庭でもそうだと思いますし、社会でもそうだと思いますし、地域でもそうだと思いますし、学校でもそうだと思います。

 そういった意味での、みんながそこで共通ルールを持って暮らし、活動する、公とそれぞれの人の権利をどういうふうに調整していったらいいのか。基本的人権を制限するということではなくて、そういう調和のとれた家庭であり地域であり社会であり学校、そういったコミュニティーをどういうふうにつくっていくか。そういうことを考える上においても、この公共の福祉というのを憲法においてさらにより具体的に、むしろ公共の福祉ということを振りかざして基本的人権を抑圧する、制限するということにならないように、具体化して書き込んで、そしてそれをみんなで共通認識をして、そしてそれぞれみんなが自立して参加できる、そういう日本の社会、コミュニティーをつくっていく、そのためのきっかけにしたらどうかというふうに思うわけでございます。その点が一つ。

 それから、この調査会でも私、前からたびたびと申し上げてまいりましたが、時代の流れに沿って、新たな基本的人権、新たな権利概念はやはりつけ加えていく必要があるだろうというふうに思います。

 その一つがやはり環境権だろうと思います。日本が日本のこの国のありようを高らかにうたい上げるという意味で、この環境権は書き込んでいくべきだと思います。

 それからもう一つ、やはり知る権利との関係でプライバシー権、これも書き込んでいく必要があるのではないかと思います。

 もちろん、マスコミ、報道の自由を侵すことは絶対あってはならないわけでありますから、具体的な規制とかそんなことではなくて、そうではなくて、憲法に、プライバシーを守る、プライバシーの権利があるということをうたい上げて、そして後は、もちろん報道の自由との関係は、それはもう報道機関の自主規制によっていただければいいと思いますから、その点は、それは原理原則でもちろん守らなきゃいけませんけれども、プライバシー権というものをこの憲法に書き込むということは、私は、今の時代の流れからしてあっていいというふうに思います。

 以上でございます。

加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。

 きょう、各委員のお話を聞かせていただき、今回の基本的人権の議論を通じて、ある意味では、憲法というのは何であるのかということを改めて考えさせていただいた。

 今までも議論がありましたように、権力、国家権力を制限して国民の自由を守るというところに近代憲法としての原点があったということは、確かにそうだと思うわけでありますけれども、先ほど、平井委員のお話にもありますように、戦後も六十年たったわけでありますし、また、これからの時代の中で、それをどう乗り越えて新しい時代に即応したものを、憲法を求めていくのか、そういう議論に私はつながっていくのではないかという気がするわけであります。

 そういう意味では、憲法というものを通じて、これからの日本というこの国自体を、また、世界の中での日本というものをどういうことにしていくのかという、我が国国民が共通した意識を共有していく、そういう側面が私は憲法というものにあっていいのではないか、また、それがそれぞれに向けてのメッセージということにつながっていくというふうに思うわけであります。

 それからもう一点、今までの議論の中で、条文の中でこう読める、あるいは読み込める、解釈できるという議論があるわけであります。確かに、学問的なといいますか、そういう専門的な意味からはそういう議論があるかと思いますが、やはり憲法そのものが、さっき申し上げたこれからの時代に向けての国民の共通の理解というところに立脚するのであるならば、一般の国民の方が理解して、同時にその上で共有していくということが私は大変重要ではないかな、そういう視点からも議論をしていく必要があるというふうに思います。

 そういう意味で、きょうの議論の中で、まず義務の問題、あるいは権利と公共福祉との調整という問題があるわけであります。これについても、私自身は、お互いの権利を認め合う、そして、今生きている人間だけではなくて、将来世代と今の個々の人間の権利をどう調整していくかということも含めて、そこに適正な行使というものを求めていく意味からも、先ほど、インフラの整備等々でいろいろ指摘されている問題、こういうことを克服していくためにも、義務あるいは公共の福祉と権利との調整、こういったものをしっかりと書き込んでいきながら、それを通じて、最初に申し上げた我が国のありようというものを明示していくということが当然求められていくべきだというふうに思うわけでありますし、また、新しい権利についても同様であります。

 特に私は、環境権あるいは環境保全義務といった問題、こういった問題については、これからの我が国の大きな柱の一つでもあるわけでありますし、今いろいろな意味で問題が大きく提起されている。ある個人の行為が、その他の個人だけではなくて、地域全体あるいは将来世代にも大変大きな問題を引き起こすということもあるわけであります。そういう意味からも、こうした環境権等これから我が国として重視していこうとする権利、また、新しい権利についてはしっかりと明記をしていかなければならないというふうに思うわけであります。

 それから、家族、共同体の議論がございました。こういう問題についても、どういう形で書き込むかということはありますけれども、そうした中間的組織の重要性ということ、そして、そこにやはり立脚しながら我が国をこれからつくっていくという考え方に立つならば、そうした点についてもしっかりと書き込んでいくということが必要ではないかなというふうに思っております。

 以上であります。

松野(博)委員 自由民主党の松野博一でございます。

 私も、人権と、それを制限する公共の福祉についてお話をさせていただきたいと思いますが、今まで議論の中にありましたとおり、この公共の福祉の概念に関しては、より具体的、個別的に挙げられていくべきだろうというふうに思いますし、この公共の福祉を、時代時代の価値観によって変遷をしていきますから、それをつくっていくシステムというものを確立していくことが大事であろうというふうに思います。

 現状においては、公共の福祉による人権の制約というのは議会による立法によってなされているわけでありますが、議会による立法によってといっても、現実的には、司法による判断によってなされているということであろうかというふうに思います。

 わかりやすい例で言えば、例えば、表現の自由という基本的な人権に関して、過去、チャタレー夫人事件もありましたし、近年においては写真等の性的表現に関して、これも非常に短期間のうちに、この公共の福祉、守るべき範囲といいますのが大きく変わってきております。

 憲法に制定されているような基本的な人権が、非常な短期間な世論の変化、社会的価値観の変化によってその制限の範囲が変化するということが果たしていかがなものかなという考え方も私持っておりますし、文学的なもの、芸術的なものに関してはこれは回復が可能なわけでありますけれども、例えば、今後、表現の自由ではありませんけれども、プライバシー権等の問題の中で今話題になっております、子供たちに対する性的常習犯罪者の姓名の公表等の、アメリカのミーガン法なんかを日本に何らかの形で導入する必要があるのかないのかという議論もあります。

 こういった問題、プライバシー権という、一度犯罪を犯してしまった方々の人権擁護、この公共の福祉の人権と、また、それによって将来引き起こされる可能性がある犯罪被害者の人権、こういったものの調整等も含めて、非常にこれから複雑な、立法に対してこの公共の福祉がどこまで人権を制限できるかという議論が多くなってくると思いますので、今までの議論の中にありましたとおり、この公共の福祉のより個別的、具体的な内容の決定と、その決定するシステムというのをもう一度見直して、確立をしていくべきであろうというふうに考えております。

 以上です。

保利委員 きょう、この会議に列席をさせていただきまして、いろいろな御意見を拝聴いたしまして大変勉強になりました。ありがとうございました。

 気がついた点を五点ほど申し上げさせていただきたいと思います。簡単に申し上げなければならないと思います。

 まず、私が申しました、子供に対して就学の義務を課したらどうだというようなことを申し上げたんですが、これは私の本当に個人的な気持ちでございまして、先ほど、法律の専門家の見地から、それは、訓示規定というようなものはいかがなものかというようなお話がございましたが、それはそれで私はわかります。そのとおりかもしれません。ですから私は、このことについてこだわるつもりはありません。

 しかし、気持ちを率直に申し上げれば、なぜ学校に行かなきゃいけないの、あんた、行かなきゃだめよということが言えるような規定がいいのではないかと思ったものですから、そう申し上げました。法律的には問題があるであろうということは私も想像がつきますので、そこはこだわるつもりはありません。

 二番目、八十九条についてのお話がございました。

 これもいろいろ議論をしたのでありますが、「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業」、一体何だろう、これは随分議論をいたしました。そしてまた、予算委員会の中でも、「公の支配」ということを一つの軸にしましていろいろな御答弁がされておることも承知をいたしております。ここのところはどうもわかりにくいし、ここの「公の支配」ということについての定義あるいは言いかえということが求められるのではないかなと思っております。

 それから、地方分権の問題がございまして、その中で、教育基本法では、地方公共団体という言葉が、実は第四条「義務教育」の項に出ておりますが、その程度の書きぶりでございまして、幹事が御指摘になったような細かい規定はございません。ただ、ここで申し上げなきゃいけないのは、地方分権と教育における国の関与、これの調整の問題というのはやはり残ると思います。

 それで、最高裁判所もここのところの調整の問題は随分苦労をしておりまして、旭川学力テストの最高裁判決でも、国は、適切な教育政策を実施するために、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容について決定権を有するという最高裁判所判決が出ておるということで、これは、国の権能と、それから地方にお任せをする形になった場合の地方とのバランスの関係というのをどうするかという、非常に大事な点があると思います。

 それから、前文の問題でありますけれども、これは、教育基本法の方の前文に、憲法の精神にのっとって教育を進めるということが書いてある。しからば、憲法の精神というのは何であろうか。それを私どもは、先ほども申しましたように、きちんと見て、そして教育基本法を検討していかなければならないと思っております。教育の、教育といいますか、憲法の精神の示すところ、これをこの調査会でまたお教えをいただく必要があるのではないかなと私は思っております。

 それから、細かいことで大変恐縮でございますが、先ほど、子女という言葉がどうなのか、現代に合うのかどうかということを御指摘いたしました。

 もう一点問題になっておりましたのは、門地という言葉であります。門地という言葉が現代にそぐうものかそぐわないものか。外そうと思ったんですが、実は、法制局は、憲法にあるからだめじゃ、こういう御判断でございますので現在は残しておりますけれども、しかしこれは、基本的に憲法の中にも門地という言葉がありますので、そこをどうお扱いになるかということを私どもも注目をしておきたいと思います。

 以上、五点について簡単に申し上げさせていただきました。

 ありがとうございました。

稲見委員 民主党の稲見哲男でございます。

 外国人の人権について、直近の具体の事例を少し引用しながら発言をさせていただきたいと思います。

 この一月に、国連難民高等弁務官、UNHCRが認定をしましたいわゆるマンデート難民について、本国に強制送還されるということがございました。マンデート難民というのは余り聞きなれない言葉でございますが、これは、国連が認定をする難民、しかも、難民条約の締結国、先進国ではマンデートされた事例はございません、日本だけでございます。

 なぜかといいますと、国際的な難民認定基準、これが締約国と国連の間で一致をしておれば、当然認定の主権者である主権国が認定をしていっているということでありますが、日本の場合は、この認定基準が国連と政府の考え方に大きな開きがあるということで、これまで百四十六人の方がマンデート難民とされておりまして、そのうち政府が保護を与えたのが七十九人、したがって、六十七人の方がまだ日本政府として難民として認定をされていない。そこに格差、誤差があるということでございます。

 また、先ほど申し上げましたように、難民認定は主権国の権利でありますから、日本政府が認定を行う以前に国連がマンデートすることはございませんので、そういうことからいいますと、UNHCR自身が言っておりますように、まだ二百件以上、国際認定基準の判断をされずに収容や送還をされる危機がある人がおられる、こういうようなことになっております。

 本国を追われ、あるいは脱出をし、迫害あるいは迫害のおそれがあるという難民の方は人権の最たる問題ではないかというふうに思いますし、内なる国際化という言葉がございますが、これは、個別法やあるいはお役所の問題だけではなしに、国内に排外主義的な意識がまだ強く残っているとするならば、これを克服して、国際協調、世界に信頼される国、こういうことになるためにも、憲法の中でこの外国人の人権、生存権、生活権、こういうものを高らかにうたう必要があるのではないか、そして、そこに向けて国民一人一人が努力をしていくことが必要ではないか、こんなふうに考えているところでございます。

 以上です。

中山会長 他に御発言はございませんか。

 それでは、発言も尽きたようでございますので、これにて国民の権利及び義務についての自由討議を終了いたします。

 午後二時から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十一時五十二分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時二分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を続行いたします。

 本日の午後は、国会・内閣等についての自由討議を行います。

 議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと思います。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、古屋圭司君。

古屋(圭)委員 自由民主党の古屋圭司でございます。

 本日は、国会、内閣をテーマとした自由討議ですので、まず私は、自民党を代表して、このテーマについて意見を申し上げたいと思います。

 まず、二院制を維持すべきか一院制を導入すべきかについてでございますが、私は二院制を維持すべきと考えます。参議院は衆議院のカーボンコピーなどとやゆされ、不要であるとの議論がなされ、一院制を実現する会などができておりますが、私は、それについては慎重であるべきだというふうに考えます。

 参議院には、議会の行動をより慎重にする役割があること、あるいは衆議院に比べて任期が長く、半数改選で解散もありません。急激な政治的変革を避けることができるなどの役割があります。私は、本来あるべき役割を果たしていけば二院制の機能は十分に果たせるものと考えます。

 二院制を前提とした上での二院制の機能を果たすための改革として、まず衆参両院の役割分担の明確化を図ることが必要だというふうに考えます。もちろん、その際には、構成面だけではなくて、具体的な役割や権限の面での、参議院がその独自性、正当性を十分に発揮できるような制度改革を行うということであります。

 そのために、まず選挙制度につきましては、地方分権をより実態の伴ったものにするために、道州制の導入を前提に、参議院の選挙区を道州単位とすることを検討すべきです。憲法上、道州制を規定するか否かにつきましては論の分かれるところでありますが、明治維新の廃藩置県以来の大改革であり、その姿勢を明確にするため、憲法上も明記をするのが望ましいと考えます。道州代表としての参議院の独自性、正当性の具体化を図ることも可能であります。

 衆参両院の具体的な権限ですが、現在、内閣の総辞職を求める不信任決議案の権能は、憲法上衆議院にしか与えられていませんが、現実には参議院において、憲法上の規定がないにもかかわらず問責決議を行っております。そして、仮に参議院が重要法案を否決した場合には、事実上、閣僚の責任を問い、辞職に追い込むことが可能であります。内閣としても、安定した政権運営をするために、現実問題として、参議院の政党化をせざるを得ないという状況にあります。

 そうしますと、参議院には、権限行使を自主的に抑制するようなシステムがあってもよいというふうに考えます。

 具体的には、例えば、問責決議によって閣僚を事実上辞任に追い込むといった行為は避けるべきだと思いますし、良識の府と呼ばれていることからも、そのような自制があってしかるべきではないかというふうに考えます。

 次に、政党ですが、政党は議会制民主主義において国民の政治的意思を国政に媒介する重要かつ不可欠な存在であることから、憲法上に、国民の政治的意思形成に協力するという趣旨の、政党の本質に関する政党事項を明記すべきと考えます。もちろん、政党の結成や活動の自由を明記することは申し上げるまでもないことであります。また、政党の概念や政党の要件あるいは政党の成立など、政党に関する具体的な事項については、別途政党法を制定し、そこに規定をすべきというふうに考えます。

 次に、国会の運営あるいは手続についてでございますが、現行憲法の五十六条一項は、両議院は、それぞれ総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決を行うことができないと議事の定足数について規定をいたしております。

 問題は、数ではなく、いかに中身のある議論をしていくかということでもあり、私は、憲法上、この規定を削除してもよいのではないかというふうに考えます。

 また、国会の会期が規定をされている中で、予算や重要法案は衆議院が先議であるため、参議院には十分な審議時間がなく、結果として、かなり粗々しく処理をしているというケースもあるわけでございまして、これは会期制がとられているためでありまして、参議院でしっかりと議論をして独自性を発揮するという視点からも、会期制の廃止ということも提案をしたいと思います。

 また、法案の提案権については、国務大臣を含めた国会議員に限定する方向で憲法の改正をすべきというふうに考えます。

 次に、議院内閣制あるいは首相公選制についてでございます。

 現行の議院内閣制については、これを維持するべきものと考える点で異論はございません。ただ、その際、英国流の議院内閣制的運用という形で、政権政党の主たるメンバーが内閣に入って共同責任をとっていくという与党、内閣の一体化を図っていく必要があると考えます。議院内閣制のもとでは政府・与党は実際一体であるのに、時として与党内での議論を見守る云々といった奇妙な答弁が間々あるわけでございまして、政策決定と執行の責任を明確にするためにも、与党、内閣の一元化が必要でございます。

 既に述べましたが、この視点からも、憲法上の政党条項あるいは政党法の制定というのが必要だというふうに考えます。その上で、閣議における内閣総理大臣のリーダーシップや、衆議院の解散権の行使主体としての内閣総理大臣など、現行憲法では必ずしも明確ではない事項について、やはり首相のリーダーシップに関する明確な憲法規定を置くべきであるというふうに考えます。

 こういったことによりまして、首相のリーダーシップの強化は十分に図り得るというふうに考えておりますので、私は、首相公選制についての導入は消極的に考えます。

 また、これに関連をいたしまして、現行憲法六十八条一項については、内閣総理大臣が国務大臣を任命するに当たっては、国務大臣はすべて国会議員の中から選ばなければならないという形に、今の半数の規定から、すべて国会議員というふうに規定を改めていくべきではないかというふうに考えます。

 また、憲法六十三条に関しまして、議院内閣制のシステムからは、現状では、国務大臣の国会への出席義務自体を排除するわけにはいかないわけでございますけれども、しかし、出席が困難な場合あるいはやむを得ない事情がある場合は、副大臣あるいは政務官が出席を条件といたしまして国務大臣の国会への出席義務を緩和するということは、必ずしも議院内閣制に反するものとは考えておりません。これも、国会、内閣という権力相互間の重要な事項であると思いますので、こういったことも憲法事項として規定すべきであるというふうに考えます。

 さて、本調査会は、百四十七回国会の設置以来、六十五回開催されております。広く意見を聴取するため、公聴会ほか小委員会も設置されて、個別の論点、テーマについて議論がなされております。累計しますと、五年間で四百時間であります。きょうの国会、内閣をテーマにした議事も延べ十回やっております。その中では、やはり多くの委員から、現行憲法が現在の社会情勢に合わなくなっているという指摘が多くなされたところでございます。

 ことしは五年間にわたる憲法調査会の締めくくりでありまして、最終報告書を世に問うときが来ています。最終報告書を取りまとめるに当たっては、しっかりと議会の多数意見を反映させ、将来の憲法改正というものを視野に入れたものが読み取れる、そういう内容をぜひ盛り込んでいくべきだろうというふうに私は考えます。

 世界の例を見ても、時代の変遷に応じて憲法改正を行ってきたというのが厳然たる事実です。我が国においても、戦後六十年を経た現在、最高法規たる憲法を時代のニーズ、時代の流れに合致するために変えていこうという柔軟な姿勢を持って、憲法についての議論が幅広くなされております。

 国民の皆様にとっても、国民の代表から構成される国会においてどのような意見が多数を占めたかということをしっかり御理解いただけるような形で提示をしていく、情報をクリアに提示をしていく、まさにこのことが立法府の果たすべき責任ではないでしょうか。そして、立法府の責任として、憲法調査会の五年間にわたる議論の積み重ねを次のフェーズに移していくためには、議案提案権を有する機関を早急に設置することを最終報告書にも盛り込んでいただければと思います。

 また、折に触れて指摘していることでございますが、憲法改正について定める九十六条の規定を具体的に実施するための法整備がなされていないということは、いわば立法府の不作為と言えますので、憲法改正のための国民投票法案の関連法案を直ちに整備する必要があると考えます。

 最後に、我が党におきましても、結党五十周年を迎え、憲法改正試案を発表いたします。現在、党内で活発な議論を進めております。各党においても、ぜひ具体的な改正案について議論を進めていくことを期待したいと思います。二十一世紀という新しい時代にふさわしい、世界に誇るべき国民の憲法、この制定に向けての議論を早急に進めて、合意形成を図っていくべきであるということを申し上げて、私の発言といたします。

 ありがとうございました。

中山会長 次に、鹿野道彦君。

鹿野委員 きょうのテーマは議会と内閣のあり方、すなわち統治機構はどうあるべきか、こういうテーマであります。言うまでもなく、近代憲法の基本は基本的人権と統治機構と言われております。統治機構をさらに明確にしていくことが民主主義の基本である、このような考え方をいたしますならば、憲法ということになりますと、どうしても九条に焦点が絞られているようでございますけれども、もっとこの統治制度、統治機構に対して関心が寄せられるべきではないか、こう考えるところであります。

 そこで、我が国のこの統治システムをどうするかということに対しましては、まず一つは、国民主権の徹底をするということだと思います。あらゆる場面で国民の意思が自由に反映される仕組みを追求することが必要だということであります。

 二つ目は、政治主導の内閣、首相主導の政府の確立であります。激動する世界に対応する、迅速で指導力のある政府をどうやって実現していくか、統治の基本問題であります。まさに、だれがどこで意思決定をしているのかわからないような、また、だれも責任をとらない、こういうような状況があるわけでありますけれども、今日のような構造をそのまま続けていきますならば、まさしく改革は望めないというふうなことであります。

 そこで、まず第一点は、首相主導の議院内閣制度の確立であります。

 日本国憲法の国民主権の原理は、国民によって選ばれた議員から成る国会が内閣総理大臣を指名し、その内閣総理大臣が内閣を組織し運営するという仕組みを定着させてきました。そうした日本国憲法の基本原理と規定にもかかわらず、我が国の内閣運営及び内閣と議会との関係については、制度的あいまい性を多く残しながら、専ら政府の一機関たる内閣法制局の解釈と戦前からの通念によって推進されてきたという問題を抱えてきたわけであります。

 そもそも内閣総理大臣は、選挙によって国民の多数の支持を得た政党のリーダーが国会で選任されたものでありまして、その選任された首相が国務大臣を指名し内閣を組織するという首相主導型システムが議院内閣制の姿であります。こうした解釈は、議院内閣制の母国イギリスは当然のことでありますけれども、ヨーロッパ大陸における議院内閣制の国ドイツでもとられているのは御承知のとおりであります。

 そこで、首相主導の政府運営の実現ということになるわけでありますけれども、首相主導の政府運営の実現を目指す、このためには、首長たる内閣総理大臣、憲法六十六条でありますけれども、その実質を阻害する憲法及び内閣法等の規定を見直し、首相の責任と指導性が明確となる法的枠組みを確立することであります。内閣が遂行するのは、行政ではなく、政治による執行権の行使であるということを明らかにしていくことであります。

 憲法六十五条は、「行政権は、内閣に属する。」としてありますが、ここに言う行政権とは、本来、例えばカナダの一八六七年憲法第二章に言われておる執行権に相当するものであります。我が国の行政組織法に規定される行政とは全く性質の異なるものである。すなわち、執行権とは、行政をコントロールし、政治目的に向けてそれを指揮監督する権限を指すものであります。

 次に、政府・与党の一体化と責任の明確化を目指していかなきゃなりません。戦後、日本の政府運営は、自民党一党支配が長く続いたことも要因となっており、与党と内閣の二元体制がとられてきました。その典型が与党の税制調査会でありますけれども、いわゆる政府の責任があいまいとなり、首相によって任命された国務大臣が党と省庁の利害代表として行動するケースもしばしば見られる要因となってきました。昨年のいわゆる三位一体改革のいろいろな議論のときに、首相の言うことと違うことを平然と閣僚が発言をするというふうなことも見られたことがこれをあらわしておるわけであります。

 また、内閣と議会との関係についても、専ら与党が野党との駆け引きに対処し、内閣としての議会対応は二の次にされるという状態が続いてまいりました。このことが、国会に責任を負うべき内閣の姿勢をますますあいまいにする背景となってきたことは否めない事実であります。

 そこで、この政府運営の二元構造を排し、内閣の一体的運営と責任を明確化するというふうなことが大事なところだと思います。

 次に、それでは国会の役割はどうかということになります。

 内閣機能の強化あるいは政策決定を官から政、いわゆる政に取り戻すものであります。一方、強力なる首相、内閣のもとで統治が行われた場合に暴走の危険が生ずる、その場合どうするか。それを避けるためには、国会は政に取り戻された政策決定を強力にコントロールすることが重要となってきます。

 次に、現代社会では、国民が国会を通じて国政をコントロールする前提として、国民に対してさまざまな政策についての争点が提示されていることが必要になってきております。この中にあって、審議を通じて国民に論点を提示していくという国会の争点提供機能というのがますます重要になってまいります。

 そういう意味で、立法府に審議会をなぜ置かないのかというようなことも指摘されてまいりましたが、調査会等あるいは予算局を置く等、行政を監視するなら行政を上回る情報をとることも必要だ、このようなことをやはり具体的な形で検討していくべきだと思います。立法府も変わっていかなければなりません。

 次に、政党のあり方でありますが、現代政治は政党を無視して成り立ち得ないわけであります。現在のドイツやフランスでは、憲法上の機関として政党を位置づけしております。現行憲法は、政党に関する規定を持ちません。一般的には二十一条の結社に含まれるものと考えられています。しかし、議会制民主主義における政党の重要な地位と役割にかんがみ、政党に憲法上の地位を与えるべきであると考えます。その際は、政党の活動力ができるだけ自由にあるべきことは当然でありますことから、憲法に設ける規定は必要最小限度のものにとどめるべきであると考えます。

 次に、国民投票制度の問題であります。

 我が国の憲法は、国政に関しましては代表民主制を基本に設計されておりまして、例外的に採用している国民投票制度は、一つは最高裁判所裁判官の国民審査、七十九条、地方自治特別立法に対する住民投票、九十五条、及び憲法改正手続における国民投票、九十六条の三つが規定されるにすぎません。世界の相当数の国々で国民投票が実施されております。そして、国家の政策を決める重要な案件も含まれております。特に、欧州各国でEUへの加盟や統一貨幣について行われたことは広く知られておるところであります。

 そこで、我が国においても、主権の移譲を伴う国際機構への参加や、一つの公共団体に限定されない特定地域の将来を大きく左右する特別立法などの場合については、国民の意思を直接問うことができる国民投票制度の拡充を図るべきだと考えております。そのため、手続や効力については詳細な検討を行い、細かく規定していることが重要であります。とりわけ、憲法改正に関する国民投票についての具体的な手続規定の制度化に着手する必要があるものと考えます。

 また、我が国では、憲法解釈の権威を内閣法制局に求めるという奇妙な現象が長く続いてまいりました。こうした背景には、日本における裁判所の司法消極主義があることは言うまでもありません。

 そこで、まず第一に、憲法解釈の機関として立法府たる議会にある衆参両院の法制局を強化し、執行機関の一部局たる内閣法制局を縮小することが必要だと考えます。衆参両院の法制局を、議会における立法作業の強力なる支援機関とすると同時に、立法に際しての憲法審査を保障する仕組みの検討も必要と考えます。

 日本における司法消極主義の制約を超えて、国民の人権保障と憲法に基づく統治のあり方を確保するために、ヨーロッパ等々で取り入れられています憲法裁判所もしくは憲法院など、違憲立法審査のできる司法機関を新たに設置することを検討すべきであると考えます。

中山会長 次に、高木陽介君。

高木(陽)委員 公明党の高木陽介でございます。

 本日は、国会、内閣等に対する議論でございますので、我が党のこれまでの憲法調査会の議論を踏まえながら意見を申し上げたいと思います。

 まず国会の問題でございますが、二院制の堅持について議論が重ねられてまいりました。この二院制を維持すべきか、また一院制を導入するべきかという問題でございますが、私は、二院制を堅持するべきである、このように考えます。

 その理由については、第一に、第一院の多数派のみによって国政が専断されることを防ぎ、議会の行動をより慎重にする抑制と均衡の機能を果たすことができる、二つ目に、議事が二つの議院によって審議されることにより、先議院での審議過程で取り上げられず、または明確にならなかった問題点を後議院が審議することにより、他院の審議を補完し、または再考を促すことができるなどといった長所が考えられるからであります。

 党内の議論の中には、衆議院と参議院とを合わせて一院とすべきであるという意見もありましたが、二院制を堅持すべきであるということでほぼ意見が一致を見ました。その上、両議院の役割分担を明確にし、特に参議院の良識の府、再考の府としての位置づけを明らかにする必要があると考えております。

 その上で、衆議院と参議院、この議院間の役割分担として、一、参議院の行政監視機能を強化するため、衆議院は予算審査に重点を置き、参議院は決算審査に重点を置く、二、参議院議員は、衆議院議員と比べ任期が長く、長期的展望に立った審議が期待されるため、いわゆる基本法については参議院先議とする、三、参議院の行政監視機能を強化する一環として、国会同意人事を参議院の専権事項または衆議院の議決に優越するものとするなどといった改革案も議論されてまいりました。

 また、解散制度が衆議院にしかないことなどから、原理的には、内閣総理大臣の指名や不信任の議決は専ら衆議院にゆだね、参議院の内閣総理大臣指名権や問責決議権は本来なくす方が整合性があると考えます。また、衆議院で可決され参議院で否決された法律案に対し、衆議院で再可決するためには出席議員の三分の二の賛成が必要であると定める五十九条二項の規定については、要件が厳し過ぎるので、再議決権の一定期間の行使を禁ずるとともに、その場合の再議決は過半数で足りることとするという意見もあり、こういった問題を今後もしっかりと議論を進めていきたいと考えております。ただし、いずれにせよ我が党としては、参議院の影響力を弱めることがあってはならないと考えております。

 さらに、選挙制度につきまして、現実には一回の選挙で民意を集約することは不可能であると考えますので、多様な意見が国会の場に反映されることを可能にすべきであり、そのような観点から考えますと、これまで三度行われました小選挙区制度、これは疑問があると言えると思います。その上、小選挙区比例代表並立制という衆議院の選挙制度には民意の反映という点で大きな欠陥があるとも考えられ、再考の余地があると思います。さらに、参議院の選挙区選挙は、一人区もあれば四人区もあり、原理原則がないような気もいたしますので、この点もしっかりと議論を重ねてまいらなければならないと思います。

 我が党はこれまでも、衆議院の選挙制度については定数三で百五十選挙区の中選挙区制を提案しておりまして、定数削減及び一票の格差是正の両方、これをしっかりと視野に入れながら今後も検討を重ねてまいらなければならないと考えております。

 続いて、内閣についてということで、議院内閣制について、我が国では、国民が議員を選挙で選出し、その議員から構成される議会によって政府、内閣を選出させ、議会と政府とを一応分離した上で、政府に対して議会による民主的統制を及ぼすという議院内閣制を採用しています。そこで、今日のような連立政権のもとでは、与党と内閣が一体化をし、与党の政策をより実現するように議院内閣制を運用しなければなりません。

 イギリスの議院内閣制は政府・与党が一体化するものですけれども、連立政権と議院内閣制のあり方は、今後さらに研究課題の一つと考えております。

 参議院が実質的に内閣に対する不信任権を有しているのに対し、内閣は参議院に対する解散権を有しておりません。参議院議員の身分が六年間の長期安定保障であることとあわせて考えると、このような状況は内閣と国会との緊張関係の点でバランスを欠いているようにも考えられます。統治を行う内閣の選出の過程に国会が位置する内閣統治論ではなく、むしろモンテスキュー的な三権分立の考え方に基づいた国会と内閣の緊張関係が必要ではないかと考えます。

 一方、内閣機能の強化につきまして、議院内閣制をより実効的に機能させるためには、内閣機能のさらなる強化を図り、内閣の政策統合能力をより高め、また、官僚主導の政治システムから政治主導の政治システムへと転換することが求められております。また、ここで、内閣総理大臣個人のリーダーシップというよりも、合議体としての内閣の機能強化、この点をしっかりと図るべきであろうと考えております。

 また、首相公選制につきまして、この首相公選制を導入した場合、一つ、政治的能力とは関係なく国民に人気のある者が選出されてしまうおそれ、二つ、議会とは無関係に選出された場合や、議会多数派と異なる政党に所属する者が選出された場合には、議会の意思と公選首相の意思が衝突をし、政治システムの機能停止状態に陥る可能性がある、三、公選首相が国民の支持を背景に暴走するなどといった危険性も指摘されております。そういった観点から、首相公選制を導入しなくても、議院内閣制を実効的に機能させれば内閣の政策決定能力を高めることができると考えております。

 また、職業的政治家には政治家の、役人には役人の役割があります。政治家の役割は、大局的な判断をし、また、国民の要望を聞き、国民に対してその結果を伝えることであります。どこまでが政治家が決めるべきなのか、この点をしっかりと整理した上で今後この問題を論議していかなければなりません。

 三権分立の原則との関係で、議院内閣制は立法府に、大統領制は行政府に軸足があると感じておりますので、首相公選制の導入に当たっては、三権分立との関係をしっかりと整理し、先ほど申し上げましたように、この点は導入する必要はないと考えております。

 さらに、国民主権を実質的に深めていく観点から、住民投票等の直接民主主義のあり方、これも議論をすべきであると党内では論議を進めてまいりました。

 以上、国会と内閣等についての論点を整理しながら意見を申し上げさせていただきました。

中山会長 次に、塩川鉄也君。

塩川委員 日本共産党の塩川鉄也です。

 本日の調査テーマであります国会、内閣について発言をいたします。

 まず、この問題で、日本国憲法がどのような原則に立っているのかということです。日本国憲法は、前文の冒頭で「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」と述べ、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」としているように、国民主権の原理を国の統治機構の根本としております。国民が平等な選挙による方法で政治に参加をし、国の政治の基本方向を決めていくという議会制民主主義に基づく民主政治を基本に置いております。この原則に立って、国会を国権の最高機関、国の唯一の立法機関と位置づけ、この国会を構成する衆参両院は「全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」としています。そして、国会が国会議員の中から首相、内閣総理大臣を選び、首相が大臣を任命して内閣を組織し、内閣は連帯して国会に責任を負うというように、いわゆる議院内閣制を採用しています。

 このような日本国憲法の国民主権の原理、議会制民主主義の制度は、歴史的に見ると、明治憲法下で、天皇が統治権を総攬する翼賛政治体制のもとで国民を侵略戦争に駆り立てていった歴史への反省によるものであること、同時に、こうした国民主権の原理は、基本的人権を保障するために国家が存在し、憲法によって国家権力を制限するという近代立憲主義の思想を取り込んだものであります。この原理は今後とも重要な役割を果たし続けるものであり、その内容を豊かにしていくことが憲法を考える際の基本であると考えます。

 その点からいいますと、今国会の焦点ともなっています政治と金の問題、政官財、政官業の癒着構造、民意から大きく乖離をした国会の現状など、今日の日本の政治が抱える問題は、国民主権と議会制民主主義の原則が徹底されていないところに主要な原因があると考えます。

 まず、国民の政治参加の問題として、選挙制度について、憲法第四十三条第一項は「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と定めていますが、国民の代表を選ぶ選挙制度は、多様な国民の意思、民意をできるだけ正確、公正に国会に反映するものでなければなりません。公正な選挙によって国会内の政党配置が民意の縮図となるようにし、民主的な議事手続に従ったオープンで徹底した議論を通じて、多様な民意を調整し、立法などの国政に関する決定を行い、国会の信任を得た内閣が法律を執行し、政策を実施していくという議会制民主主義の土台となるのが選挙制度であります。

 一九九四年、政治改革の名のもとに小選挙区制と政党助成制度が導入をされ、十年を経過しました。小選挙区制が大量の死票を生み出し、比較第一党に得票率以上に過大に議席を与えるものとなり、少数政党が議席を得ることが極めて困難な選挙制度であること、また、選挙を重ねるたびに現職優位、比較第一党優位に作用をしていくことは、小選挙区制下の三回の総選挙が実証しています。

 小選挙区制は、政権交代可能な制度、民意を集約する制度として構想されましたが、制度によって多様な民意を排除し、人為的に政権交代、二大政党制を進めていくことは、民意の正確な反映を求める議会制民主主義の原則と相入れないものと考えます。また、さきの参議院選挙を見ても、国民の意思は実に多様であり、それを人為的に二大政党に押し込めることは、国民の政治選択の幅を狭め、選挙行動にも影響を及ぼすものであります。多様な民意をそのまま議席に反映させる比例代表制に改めるべきだと考えます。

 政治資金についても、政治腐敗を根絶するために抜本的な改革が必要です。

 十年前の政治改革も、その発端はリクルート事件であり、それは、政治腐敗の温床となってきた企業・団体献金の全面禁止に踏み出すことこそが当時期待されたものでありましたが、政治腐敗の原因を選挙制度の問題にすりかえて企業・団体献金を温存したところに、今日なお政治腐敗が横行する原因があると指摘をしたいと思います。

 政府の選挙制度審議会においてすら企業・団体献金禁止の方向を提起してきたことは公知のことであります。企業は見返りを求めて政治献金をするのであり、企業・団体献金は本質的にわいろ性を持つことは言をまちません。日本経団連の政党通信簿による政治献金の奨励もそのことを示しています。

 本来、政治に対する寄附は主権者国民の政治参加の重要な手段であり、主権者ではない企業の政治献金を認めることは、金の力で政治を動かすことを容認するものにほかなりません。また、政党助成は、政治腐敗を予防できないだけでなく、政党を国民から財政的に遠ざけてしまい、政党が国民に根差しているという政党の社会性を奪い取る一種の麻薬であるという専門家の批判もあり、この点は本質をついていると考えます。

 次に、国会については、審議の形骸化の問題を指摘したいと思います。

 国会改革の名のもとに、政府委員制度の廃止や副大臣、政務官の導入などとともに、首相と野党党首によるクエスチョンタイム、国家基本政策委員会が導入されました。

 問題は、クエスチョンタイム導入が、国会審議の充実の方向ではなくて、首相の国会出席を制限し、国会審議の場から遠ざける方向に向かってきたことであります。二〇〇〇年の自民、公明、民主などの各党の申し合わせによって、クエスチョンタイムは原則毎週水曜日に行うとしながら、本会議や予算委員会への出席と重複してやらないこととされ、このもとで、従来、総予算審議において行われてきた七日間程度の全閣僚出席の総括質疑は二、三日程度の基本的質疑に短縮され、法案審議における本会議への総理出席は一通常国会四件程度とされる重要広範議案に限られるなど、著しい国会審議の形骸化をもたらしています。

 同時に、審議の内容においても、イラク特措法審議では、自衛隊海外派兵法が憲法九条に抵触するものであるにもかかわらず、十分に審議を深めることなく成立をさせられ、例えば、イラク特措法案や派兵承認案件の審議では、国連安保理がイラク開戦を容認していないにもかかわらず、国連決議に沿ったものと強弁をし、米英のイラク攻撃の第一の理由であった大量破壊兵器の存在を断定した理由を聞かれると、フセインが見つからないからといって大量破壊兵器が存在しないとは言えないとはぐらかし、自衛隊が行くところが非戦闘地域という、多国籍軍参加に踏み切った一連の小泉首相の無責任な答弁は、国会軽視というにとどまらず、国会審議を空洞化するものとして重大であります。

 こうしたことは、昨年の年金法案の審議でもあらわれています。昨年十一月の本調査会公聴会でも、参議院厚生労働委員会での年金改革法案強行成立を目の当たりに、公述人からは「これが国権の最高機関、国の唯一の立法機関の姿なのかと情けなく、残念に思いました。」との意見が述べられました。

 国会にかかわる改憲論として、総理大臣の国会出席義務の緩和や参議院の権限縮小論が喧伝をされ、最終的に議会の同意を得るまでの間に余りにも多くの時間を要するシステムになっているなどと言われますが、これは、国権の最高機関である国会の役割を低め、国会を内閣の賛同機関に変えてしまおうとするものであり、国民主権の原理、議会制民主主義に反するものと言わなければなりません。

 内閣制度についても指摘をしておきたいと思います。

 この間出されております内閣制度に係る改憲論は、国会の最高機関としての地位と権能を低くすることと裏腹に、内閣総理大臣の権限の集中、強化による強い政治システムを構築することが自明の前提のように言われています。行政権の所在を内閣総理大臣に集中し、総理大臣が閣議の全員一致をとらなくても強力に構造改革を推進するねらいが込められているのではないかと懸念をします。強い政治システムのもと、権限を集中した首相に対する国会のチェック機能を後退させることになれば、国民の意思に基づく政治の実現はますます危うくなります。そして、行政権限強化によって、国民、とりわけ庶民に痛みを押しつける施策が次々と実行される危険が大であります。

 既にこの間、内閣機能強化のもとで進められている小泉政治、構造改革路線に端的に示されています。国民に痛みを押しつける弱肉強食の政策を一層強力に進めるねらいが込められていると言わざるを得ません。日本経団連の改憲構想もこうした方向を打ち出しています。

 しかも、こうした首相権限の強化の内容として、自衛権行使に関する内閣総理大臣の最高指揮権を盛り込むことや、非常事態における総理への権限集中をも強調しています。九条改憲とあわせて、軍事国家体制づくりを進めようとする危険についても指摘をし、発言といたします。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 私たちの今おりますこの国会は、日本において、主権者である国民を代表する代表機関であることは申し上げるまでもございません。

 まず、国会、議会は、国民の自由及び権利を守るための代表機関でございます。国民の意思はこの国会を通じて国政に反映されるという仕組みになっているわけでございまして、そのことは日本国憲法の前文の冒頭にはっきり定められているわけです。そこには、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」という文言で始まります。その意味において、国会、議会は常に国民とともに歩んできた、また歩んでいかねばならないということになると思うのです。

 議会制民主主義はまさに国民の信頼によって支えられているものであるということを思いますと、国民の代表機関である国会は、単に内閣が行おうとする政策について国民の立場に立って審議するということにとどまらないで、民意を直接に反映する場所、機関として、より積極的にみずからの政策を提案して決定していくという立法活動を通じて、国政における基本的かつ重要な政策のあり方と問題点について、国民の前に常に明らかにする権限と責務を持っていると言うべきだと思うのです。これこそが、国権の最高機関ということであり、かつ、憲法の四十一条で定めておりますとおり、国の唯一の立法機関としての国会に負託された本来的な責務であると考えます。

 こういう観点から、議院内閣制のもとで立法府と行政府とのあるべき調和と緊張関係を考えましたときに、国会が、議員立法や内閣提出法律案に対する積極的な議員側からの修正を通じて、その本来的な立法機関としての機能を十分に発揮する、そして、その審議の過程を余すところなく国民の前に開かれたものとするということが、国民に私たちの国会としてまず信頼される唯一の道だというふうに確信します。

 もっとこの問題はさらに進めまして、修正をする、法案に対して修正をするというのは、政府が提案をする法案、つまり閣法に対しての参加ですから、本来、四十一条という条文を見ますと、そこにあるのは、「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」とございます。学界では必ずしもこれは多数意見ではないんですけれども、しかし、言われている中身からすると、確実にこの数はふえない学説としてございますのが、四十一条の「唯一の立法機関」ということに対する解釈なんです。

 唯一の立法というその中身は、法に対して単に採決をするだけを指して言っていない。もちろん、審議過程も入る、審議の前段として提案過程も入る、提案するその前段過程として法案を作成するという段階からこれは入るという意見が立法と言っている中身として理解されているというのは、ずっとこれは、学界の中でも少数意見だけれども、確実な意見としてあるんですね。

 私は、厳密に、確かに見てみれば、その憲法四十一条の立法趣旨というのは、国会が二つとない唯一の立法機関だというところに大変大きな意味を持たせていると思います。主権者は国民であって、国民の代表機関であるのは国会以外にないわけですから、その国会が法律をつくるということに対して初めから終わりまで責任を負う場所だという意味において、四十一条を厳密に考えればそのように思います。

 しかし、戦後、これはそうでない時期も一時期ございましたけれども、大体のところ、毎年常会が終わりますと、通常会が終わって点検をしてみたところ、閣法が圧倒的に多数で議員立法の数が非常に少ない、こういう場面が長らく続きました。

 そこで、非力ですけれども、一九九三年から九六年までの間、議長というのを仰せつかりまして、鯨岡兵輔副議長と、こういう問題に対して国会をさらに活性化させようとすると議員立法の活性化こそ先決であるということで、学習をまずしましょうという勉強会を持ちまして、勉強の機会を重ねたんです。その結果、一九九六年の六月十四日に「議員立法の活性化について」、重点メモと同時に、これに対して、国会を改革していくことが必要であると議員立法の活性化についての改革案を提案いたしました。

 提案をいたしました中身について、きょうは事細かに説明をするわけにいきませんから、要点だけを申し上げさせていただきたいと思います。

 まず、国会の立法に対して議員一人で立法する場合、法案作成がどれほど大変なことかというのを初めて経験いたします。そのときに、その立法を補佐することのために機構が組まれておりまして、例えば常任委員会の調査室がそうです。衆議院の場合には法制局を初めとして、立法に対して補佐することのための特別の要員がそこに用意されております。それと同時に、国会図書館においても同じように、補佐するという方々が調査立法考査局という場所でございます。

 そういうふうに見てまいりますと、国会の立法補佐機構の人材というのは大変大事でございまして、調べてみてびっくりしたのは、その九六年当時、人材が大事であればあるほど、調べれば調べるほど、主要ポストの大半が行政府からの、行政庁からの出向という形の人たちが多かったんです。

 例えば、常任委員会の調査室の室長では、衆議院で十八人中十四人までが各省からの出向であるとか、そしてまた法制局の部長クラスでは、衆議院では六人中四人までが各省からの出向である。国会図書館の調査立法考査局の室長では十六人中八人までが出向者である。これに対して、待ちの姿勢ではだめですから、国会の自前の人材育成というのをどんどん努力して育てるべきだし、そういう人事計画を立てるべきだということを提言いたしまして、ただいまでは、法制局ではもうほとんど各省からの出向はなくなりまして、ございません。そして、それぞれの常任委員会の調査室の室長も、だんだん各省からの出向者というのがなくなっていきました。

 要は、これは余り大きいことでないとお思いになったら随分違うんですね。これは、唯一の立法機関である場所に行政サイドの内閣から出向している人たちが責任者として存在をしているということは、やはり国会が唯一の立法機関という立場でもって法律を制定していくことに対して、その立場を損なうということに当然なります。いささかの、これは改革がただいまはできたと思うんですね。

 そして、さらには、行政府に対して、憲法の六十二条からすると、国会に国政調査権がございます。国政調査権の根拠は言うまでもなく国権の最高機関性を決めている四十一条にあるわけですけれども、しかし、これを実際に動かしている中身を見ますと、国会では、国会の過半数が賛成をしないとこの情報開示の要求を行政府に対してすることができないという問題とか、また、いよいよ立法というときに、法案を提案するのに提出の要件というのがございまして、例えば衆議院では十人、それからまた予算を伴うものに対しては二十人と、ただいまの二十人、五十人を変えてはどうかという提言も出しました。

 今申し上げていることは、着実に進んでいる問題もあれば、まだある程度まで行って停滞している問題もあります。まだこれからだという問題もあります。けれども、要は、具体的に、国会が国権の最高機関性と唯一の立法機関性というのを発揮しようとすれば、みずからの努力こそ肝心だということを私は言いたいんです。

 少しその努力が、調べてみると、数の上でも明らかに出てまいっておりまして、これ、ちょっとお目通しいただきたいと言っても、遠く離れているところからでは見えないと思うんですけれども、昨年度だけ申します。

 平成十六年度では、衆議院の立法の立案件数というのが、閣法よりも議員立法の方がだんだんだんだん優勢になってきています。平成十五年は議員の方の立案の方が数が多いんです、百三十六。閣法が百二十七。昨年も、平成十六年度も、これは衆議院の方の、衆法の立案件数が百三十四、閣法が少しそれよりも多いです、百四十七。でも、大体互角で来ているというのは、国会が、国会の場所において、こういう立法の取り組みというのをみずからやはり努力をしていっているということが、いささかのこれは結果として出てきているのではないか。

中山会長 土井君に申し上げます。

 申し合わせの時間が相当過ぎておりますので、結論をおまとめくださるようお願いします。

土井委員 わかりました。

 さらに一言だけ付言すれば、やはり活性化というのには、論議が盛んでなければ活性化いたしません。ただいまの閣法に対する受けとめ方は、少なくとも与党の皆さんは、それが提案されるときには中身をよく御存じで、法案の中身についてもう審議は不必要で、賛成だから国会に提案をしているというお立場なんでしょう。野党の方はそうはいきません。

 イギリスの議会では、与党も野党も議会に提案されるまでは法案の中身に対してはわかっていない。出てきて初めてそれに対して中身を知る。したがって勉強する、したがって審議もそこから始まる。日本の場合といささか違いがあるように私は思います、同じ議院内閣制でも。

 したがって、日本の場合は、やはり与野党とも審議を尽くすという姿勢を国会で大事にしないと、活性化といっても、国民の皆さんからごらんになってわかりますとおっしゃるわけにはいくまいと思うんですね。その辺を特に私は強く申し上げて、終わります。

 ありがとうございました。

中山会長 これにて各会派一名ずつの発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 それでは、御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。

 まず、現行の議院内閣制に対しての議論でありますけれども、私は、基本的にこれは維持すべきもの、特に制度疲労を起こしているとまでは言えないというふうに思っております。ただし、改革は当然必要であります。国会と内閣の間の緊張関係をどのように保っていくかということが重要であると思います。そういう意味では、政党の側の立法能力を向上することはどうしても必要になります。そういう意味では、シンクタンクがそれぞれ必要になってくるであろうと思います。

 さらに、衆議院、参議院の法制局の機能を強化すべきという御意見がありました。私は、これはそうではない、むしろそれぞれの政党の中においての法制局機能を強化しなければならないのではないかと思います。さらに、現在危惧されているのは、行政の側での企画立案能力がかつてよりも落ちてきているということが問題ではないかというふうに思っております。

 国会の現在の慣行については、いわば古い惰性に陥っているような慣行が現在まだ見られるのではないだろうか、国会審議の本当の意味での審議というのを充実させることがどうしても不可欠であると思います。

 行政の改革について申し上げます。

 国務大臣について、これは国会議員のみから選任すべきであるという御意見がありました。私は、必ずしもそうではない、やはりさまざまな専門的な能力を任期を限って活用するという意味で、国務大臣に民間の有識者に一定程度入っていただくということは非常に有効に機能しているのではないだろうかと思います。一般的な行政の分野についてもそうでありますけれども、任期つき公務員を活用することによって、行政が極めて専門的能力が高い方々によって担われてくるようになってくる、さらには透明性が確保されるようになっている、こういう効用があると思います。

 行政の総合性という意味では、現在内閣府にさまざまな本部を設置されております。私は、省庁横断的な検討を進めるという意味では、こういった統合、総合性が必ず求められるというふうに思います。行政の安定性、総合性を確保するためには、総務省における行政評価制度、法制局における法制審査、財務省における財政面からのチェック、こういったことを活用していくということが必要であります。

 さらにあわせて、行政、法制度の改革というのを進めていかなければならない。司法制度改革推進本部が昨年の十一月三十日をもってその任務を終了いたしましたけれども、引き続いて、行政、立法全体についての制度改正というのを検討すべきであるというふうに思っております。

 新たな視点を申し上げます。

 国民が政治に参加する機会、あるいはその手段を広げていくことが必要であるというふうに考えております。しかしながら、これらの改革については必ずしも憲法上の手当ては必要ではないというふうに考えております。

 求められる国会、内閣についての憲法改革でありますけれども、私は、もし改正ができるとすれば、二院制から一院制に直すべきであるというふうに考えております。現実には、参議院の了解、理解が得られなければ憲法改正の発議ができませんので、不可能な状況であると思いますけれども、同じような選挙制度、しかも同じような政党関与の形で両院が構成をされているというその状況の中で、総理大臣の施政方針演説が衆議院と参議院で全く同じ内容で行われるといったようなことなどは、明らかに国民の理解を超えるものだと思っております。

 その他、さまざまな提案が各議員からなされておりますけれども、議案の提案権を議員のみに認めるということについては、私は、いささか行政府のさまざまな行政運営、法についてのさまざまな知見というものを活用しづらくするのではないかという意味からは、消極であります。

 それから、問題となるのは、都道府県や市町村の条例と法律との適合性審査について、国会におけるしかるべき審査機関が必要ではないだろうかなというふうに思っております。そういう意味で、国会に条例あるいは憲法との適合性を審査するような公設の機関を設ける必要があるのではないかというふうに考えます。

 以上であります。

葉梨委員 自民党の葉梨康弘です。

 さて、国会、内閣などの統治機構のあり方については、もとより、それぞれの国家の歴史、国民性などを踏まえ、適切なものを形づくっていく必要があります。ただ、私は、これに加え、特に民主主義国家における統治機構は次の三つの考え方を踏まえる必要があると考えます。

 第一は、主権在民の観点から、民主的コントロールをいかに確保するかということ。第二は、内閣、衆院、参院などの間で適切な抑制均衡、チェック・アンド・バランスを確保する必要があること。第三は、各機関における責任分担を明確にし、国政の戦略性、効率性を確保するという責任と効率の観点の必要性です。

 このような観点から、以下、今申し上げた三点について、現行憲法の仕組みの問題点を申し述べます。

 第一の民主的コントロールということに関し、私は、我が国が大統領制や首相公選制でなく議院内閣制をとる以上、国会議員が内閣を構成する原則を徹底すべきと考えます。

 私は、十七年間官僚生活を経験し、五年間衆院議員の地元秘書をした後、幸い、さきの選挙で当選することができました。苦しい選挙を通じ、国政を担うべきは官僚でなく、有権者に対して心からの感謝の念を持てる者でなければならないのではという観念を実感しています。これが民主主義だと考えます。

 そして、官僚主導から政治主導を求める平成期の政治改革により、既に副大臣、政務官などの制度が設けられています。ひとり憲法のみが、閣僚の半数以上は国会議員とし、理論上は衆院議員がだれ一人閣僚に入らない内閣も構成可能な状況で本当によいのでしょうか。

 現行制度は、戦前、天皇の大命降下で首相が決まり、殊に五・一五事件以降、超然、軍人内閣が常態化していた状況からは大きな変革でした。しかし、戦後六十年、議院内閣制は定着を見、さらに最近は政治主導への改革が進められています。

 私は、憲法の面においても、今こそ、すべての閣僚は国会議員または国会議員となろうとする者から選任するなどの政治改革が必要と考えます。

 第二のチェック・アンド・バランスということに関し、私は、現行憲法の欠点として、殊に参議院に対する抑制均衡が働いていないことを指摘します。

 内閣が暴走したとき、衆議院は内閣を不信任できます。また、参議院も国政運営に死活的影響を有する法案を否決することなどにより、事実上国政をストップさせることができます。そして、衆議院が国政をストップさせたり内閣を不信任したとき、内閣は衆議院を解散し、議員の首を切ることができます。しかし、参議院が法案否決などの手段により国政をストップさせたとき、衆議院には三分の二の多数による再議決という方法がありますが、内閣には何のなすすべもございません。

 戦後、たまたま自民党単独ないし連立政権が継続し、衆議院の意思と参議院の意思が食い違う場面が余りなかったため、この問題は認識されてきませんでした。しかし、政権交代の可能性もささやかれる今日、衆議院が新政権の意思を、参議院が前政権の意思を代弁することとなる可能性も否定できません。このことは、現行憲法のままでは、将来国政のストップが日常茶飯となり得ることを意味します。

 私は、参議院に対して衆議院を優越させるか否かなどの論点とは別に、たとえ衆参対等であったとしても、内閣から参議院に対する抑制が働いていないことの危険性を訴えます。そして、最低でも、例えば内閣の指定した案件に係る参議院の議決について、内閣総理大臣に米国大統領のような拒否権を与え、これを覆すためには参議院において三分の二の議決が必要といった規定を設けなければならないと考えます。

 現在の二院制を前提とした場合、憲法にこのような見直しを加えなければ、我が国に進歩をもたらす安定的な政権交代システムの構築は不可能ではないかと危惧いたします。

 第三の責任と効率ということに関し、現行の二院制の欠陥について申し述べます。

 私は、今後議員立法を促進する立場から、衆法について審議する参議院、参法について審議する衆議院という形が両院それぞれの役割を担う二院制を維持すべきと考えます。しかし、選挙制度は異なったとしても、一票の格差を均衡化していけば、さきに申し上げた政権交代直後の食い違い等を除き、両院の党派構成は似通ってこざるを得ません。そして、例えば、衆議院で各政党が合意し重要法案を通過させたとき、参議院の審議の意味は何なのかということが出てまいります。

 この問題を解決するため、憲法四十四条などを見直し、参議院を例えば各県一律二名の選出とするなど、米国上院のように地域選出でありかつ全国民の代表という概念を設け、両院の構成に違いを設ける仕組みを工夫していくことが必要です。現行憲法は、GHQ案の一院制案を急遽二院制に戻した急ごしらえの規定であり、両院の責任の分担等が非常に不明確で、大いに欠陥ありと考えます。

 私は、衆議院は個人を母体とした全国民の代表、参議院は地域を母体とした全国民の代表という理念を明確にしていくことが、さきの内閣による抑制と相まって、それぞれの責任分担を明確にし、我が国の統治機構に戦略性を付与することになると考えます。

 以上でございます。ありがとうございました。

辻委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。

 国会、内閣等に関する意見ということで、大きく、制度的にいえば、議院内閣制のいろんな形骸化した点というか、実質的に行政権がどんどん肥大化して、それがチェックできないような構造をどう行政統制していくのかということが大きな問題であろう。これは、これまでに、例えばオンブズマン制度を創設するとか、いろんな議論を多くの方々がされてきましたし、私も申し上げたことがあります。

 きょうは、その中で、とりわけ国会の権能、議会が本当に議会として機能していないのではないかという状況を非常に危機感を持っております。その点をどうすべきなのかということについて意見を申し述べたいというふうに思います。

 まず、議会が立法権能を十全に行使できないという状況にある。これについては、やはり政策スタッフをもっと数をふやして、議員立法が可能な制度的な担保というか、それを設けていくべきであろうし、本来、与党も野党もともに政策決定、法案の提出に切磋琢磨して努力するという意味においては、官僚に依存するような今の内閣の提案権を前提にしたやり方というのはやはり再考慮されてしかるべきなのではないか、このように思います。

 それと同時に、議会の審議のあり方を本当にもっと充実させていくための工夫をしなければいけない。

 国政調査権ということが認められていて、例えば、先日の予算委員会で、私は国会法百四条に基づく資料請求をした、証人喚問請求もしている。しかし、国政調査権というのは、結局、多数が決定しなければ、議院の権能とされているから、なかなか発動できないんですね。だから、そういう意味では、国政調査権は、少数野党にもその発動ができるように要件を考えていくべきなのではないか。

 すべての権能について、一律に少数、例えば三分の一なり五分の一と一律に認めるかどうかはともかくとして、その辺の議院の国政調査権の発動について、やはり少数野党として独自に行使できるようなことを保障していかない限り、活性化しないのではないかなというふうに強く思います。

 それと同時に、国会審議のあり方について、例えば、時間が限られていて、どんな答弁をしようが、議論が深まらなくても、時間が来ればそれで終わりなんですね。

 それで、余り個人の名前を出すと妥当ではないかもしれないけれども、例えば、南野法務大臣が歩いていると、もっとゆっくり歩けとか、杉浦正健さんが発言すると、もっといろいろゆっくりしゃべれとか、つまり、時間稼ぎをしているんですね。野党の質問権を封ずるために、時間さえそのまま通り過ぎればいいんだというような、そういうことが明らかに言われている。委員長がそれをチェックしないんですよ。だから、委員長の見識の問題でもあるわけですが、これは、与野党の、やはり国会議員なんですから、それぞれが見識に基づいて、しっかりしたルールの中で議会人としてやるということが、共通の土俵がどんどんどんどん崩れていっている。

 国会の審議の議論の仕方も、とにかく、議論を深めていくようなことを言わなくても、時間が来ればそれでいいというような、そこも前提が崩れていっている。本当に、議会主義の崩壊の入り口に来てしまっているんじゃないかと。ですから、やはり今の政権の議会運営の仕方というのは非常に問題だろうというふうに思います。

 私は、例えば集中審議について、一国会必ず一つか二つは義務的に、議題はそれぞれ与党が一つ、野党が一つでもいいですから、集中審議を一定の期間をちゃんととってやるとか、それから、先ほど塩川委員もおっしゃったけれども、やはり内閣総理大臣が出席する審議ということをもっとふやさないと、緊張感を持った議論にならないんですよね。とにかく時間を過ごせばいいというような形で終わってしまっている審議ということを、非常に危惧を持っております。この点の改善が不可欠だろう、それがこのような議論の大前提。そこをしっかりさせなければ、どんなきれいごとを言っても議院内閣制は機能しない、このように思います。

 以上です。

山花委員 民主党・無所属クラブの山花郁夫でございます。

 国会と内閣との関係ということについて、発言と、あと、先ほど古屋委員、高木委員からの御発言の中で少しおやっと思ったことがございますので、もし可能であればその点についてお話をいただければと思います。

 日本国憲法の国会と内閣との関係については、基本的に議院内閣制であると言われておりますので、与党側としては、政府提出法案に対して責任を持っているので、それをしっかりと通していきたいというお立場はお立場として理解できないわけではないんですけれども、先ほど議員立法の数がふえてきているという指摘もございましたが、政治主導でできるだけやっていこうじゃないかということは、これは与党、野党ということではなくて、恐らく認識は共有できるのではないかと思います。

 その上で、そういたしますと、内容的な賛否はともかくといたしまして、政府提出法案も議員提案のものも、そういうことで考えますと、議員提出の法案は、政治主導という観点からすれば、政府提出のものにまさるとも劣らないと思っております。

 ところが、なかなか出しても審議をしていただく機会が少のうございまして、私も幾つか出して、もう三年間そのままというものもございますし、言論の府なんですから、せめて審議のところは配慮をしていただきたいという思いが大変強くございます。現状ですと、野党側が提出した法案を単独でという機会というのはなかなか得られませんで、政府提出法案で何か関連するものがあるときに関連をして質疑というようなやり方が一般的ではなかろうかと思いますが、ぜひそういった運用の面でも配慮をしていただきたいというのが一つございます。

 また、現行憲法は確かに唯一の立法機関というふうに規定をされております。ただ、憲法全体の議論をするときに、直接民主的な諸制度を、例えば国民発案、イニシアチブのようなことを制度として考えようじゃないか、あるいは、先日も少し議論させていただきましたけれども、憲法ではなくて法律事項についても国民投票のようなことは考えられないだろうか、そういう議論になったとき、現行制度を前提とすると、むしろ四十一条があるのでそういうことはできないというような結論に落ちつくことがございますので、こういった、将来この国のあり方をどうしようかということを考えるときに、私は個人的には、余り現行の唯一の立法機関という書き方にはこだわるべきではないのではないか、このように思っております。

 最後に、先ほど古屋委員、高木委員から同じような趣旨の御発言があったんですけれども、二院制についてであります。参議院の問責決議はない方がいいんじゃないか、こういった趣旨のお話でありました。

 国会、各ハウスはいろいろな決議あるいは議決をいたします。日常的には法律案についての賛否ということが一番多いんだと思いますけれども、それだけではなくて、例えば、災害が起きたとき、それに対してハウスとしてどういう姿勢でいくのか、あるいは、外国との条約を結んだ何周年かというときに議決をすることもございますし、つまり、法的効果を持たない議決というものはあるわけで、その中の一つとして問責決議というやり方があるんだと思います。参議院だけではなくて衆議院に関しても、内閣不信任決議については六十九条で法的効果が発生いたしますけれども、各大臣に対する問責決議、不信任決議、言い方はありますけれども、これについては法的効果を生じないものであります。

 ですので、憲法上の議論だというふうに受けとめると、つまり、参議院に対して、そういう決議はするなという禁止規範を置くという話なのか、まあ必ずしも憲法で書けということではなくて、国会法などでということかもしれませんけれども、そういうことだと、余り穏やかではないのではないかと思います。また、運用上そうすべきだという話であるとすると、それはまさにハウスの、院の自律にかかわることですので、あまり衆議院側から申し上げない方がいいのではないのかな、こういった印象を持ちました。

 以上です。

中川(正)委員 民主党の中川正春です。

 まず、国会についてでありますが、私は二院制でいいんだろうというふうに思っています。ただし、先ほどからさまざまに御指摘がありますように、それじゃ今の参議院の姿がこれでいいかということになると、それをどう機能として変えていくか。国民から見ても、その辺の機能があるというふうな形で、中身を変えていくかという議論に集中をしていくべきだというふうに思っています。

 それ以上に私は問題提起をしていかなければいけないと思うのは、地方公共団体だと思うんです。九十三条で、地方公共団体の長は直接選挙になって、大統領制になっているんです。しかも、大統領制であるにもかかわらず、予算権なんかがまた首長のサイドにありまして、とにかく、議会というのはただの承認機関というかお墨つき機関のような設定をされているということ、これ自体を見直していく必要があるんだろうというふうに思っています。

 そういう意味で、もっと基礎自治体というのは自由な形、中にはカウンシル制だとか、あるいは議院内閣制だとか、あるいはこういう大統領制だとか、それぞれの自治体で選べるような形態の、弾力性を持った規定ということと組み合わせて国のあり方というのを議論していくべきだろうというふうに思っております。

 それから最後に、議員立法、あるいは議案の審議のあり方なんです。

 議員立法がふえてきたというのは、これは民主党が頑張っているからであるんですが。先ほど話が出たように、野党から出したものがほとんど議論されないままで流されてしまうということなんですが、またそれ以上に私は問題があると思うのは、最近の閣法についても、欠陥商品が物すごく多いんです。

 それは、これだけ時代が複雑になってきて、今の、審議会のようなところで学者を中心にして議論したものを役人が立法化していくという、このルートだけでは、なかなか現実に合った、それにふさわしいものができ上がってこないということと同時に、そのプロセスが、アンダー・ザ・テーブルというか、それぞれの利益団体とそれから与党との間で、オープンにならずに、その中で取引をしながら完結をしてしまう。その完結したものがこの国会に上がってきて、結局国会がお墨つき機関のような形になってしまう。そのように実は国民に映るから、だから国会の審議というのがどうしても国民の意向に沿ったものになっていない、そういうことがあるんじゃないか。これは政治に対する信頼、あるいは国会にとっても危機だというふうに思っております。

 実は、これは日本だけの話じゃなくて、この間ちょっと勉強させていただいたんですが、最近になってスイスで三つほど国民投票がありました。スイスの国民投票というのは、国会の中で一たん結論を出して、それに対して、国民に対して賛成か反対かというのを聞くような形態の国民投票であるのですが、この三つとも国民投票で、国会が決めたことが全部ひっくり返ってしまったというふうな結果が出ております。

 だから、そういうことから考えていくと、立法あるいは議案というものについても、逐条審議で、オープンな形で国会に持っていって、その中で修正も行われて、なぜ修正されたかという議論のプロセスが国民に見える、そういう形で国会が運営をされるという、そんな枠組みをしっかりつくっていくということが大切なんだろうというふうに思っております。

 もう一つ、最後に政党なんですが、これも、政党というのは、ただ単に我々そう呼んでいますけれども、政党の定義というのはなかなか難しいんですね。日本の場合は議員政党なんだろうというふうに思っています。

 最近、首長といいますか総理大臣のイメージが変わってきました。それは、自民党の中も民主化が行われて、政党の中で投票が行われて、いわゆる直接選挙のような形の、党首を選んでいくというプロセスが入ってきたから変わってきたんだろうというふうに思うんです。我々の党もそういうことなんですが、それをさらに進めていって確かなものにしていけば、議員政党から国民政党に変わっていけば、これまでのさまざまな総理大臣の決め方に対する問題というのも解消されてくるんだろうというふうに思っております。

 いわゆる金と政党の問題、政治家の問題、そして政党のあり方の問題というのも、もう一つ新しい方向性というのが必要なんだろうというふうに思っております。

 以上です。

枝野委員 私、二院制などについてもいろいろ意見がありますが、まず一番大事なところとして、みんな忘れているんですが、憲法六十五条、「行政権は、内閣に属する。」以下の規定、私はこれは、自衛隊と九条の関係とかそれから私学助成に関する八十九条の話とか、これと同じぐらいかあるいはそれ以上に、現行憲法の条文のミスといいますか欠陥ではないかと思っています。

 というのは、「行政権は、内閣に属する。」と書き、内閣の構成は国務大臣で構成するとあります。では、何とか省の局長とかが許認可の判こを押しているのは何なんだという話なわけですね。もちろん、憲法を受けて国家行政組織法や内閣法などに基づいて内閣から委任を受けているという説明になるんだろうというふうに思いますが、憲法上、何らの規定もなければ、その関係についても何にも書いていないわけですね。これは明らかに憲法の欠陥だろうというふうに私は思います。

 先ほど鹿野先生から基本的な考え方をお述べいただきましたけれども、内閣として閣議で決めることは何なのか、そして閣議のもとでそれぞれの役所、選挙によって選ばれたのではない行政官庁が具体的に行うことは何なのか、このあたりのところが全く整理もされなければ、わけのわからないまま憲法典に規定をされているというのが今の実態ではないのかと私は思います。

 そういう意味からすれば、先ほどの話のとおり、内閣がやるのは、これは執政権と私どもは呼んでいますけれども、行政を行っていく上での基本的な意思決定は内閣合議体で行うということだろうと思います。しかし、それに基づいて、こういう組織がこういうルールに基づいて個々の行政運営を行うんだというような役割分担と権限の範囲というものを、やはり憲法上本来きちっと位置づけるべきではないのだろうか。もちろん、何とか省を置くとかかんとか省を置くとかということを言っているわけではありません。内閣のもとでの行政各部がこういう役割を担うというようなことを書いておくということが必要なのではないか。

 さらに言えば、今内閣は、国務大臣によって構成されるものを内閣と呼んでいます。内閣としての意思決定をするのは国務大臣、二十名弱ぐらいでいいのかなというふうに思いますが、国会と内閣の関係をしっかりしようと思ったときには、今ある副大臣とか政務官などという仕組み、つまり政治的に大臣をサポートし意思決定を行っていく政治家も憲法上にきちっと位置づけるべきではないのか。

 先ほども大臣のかわりに副大臣が出てくればいいじゃないかとかという話がありましたが、副大臣は憲法上、国会との関係は何の位置づけもされていないわけですね。私は、国会に対する責任ということを、例えば副大臣の答弁で大臣にかえようということであるならば、憲法上も副大臣や政務官をしっかり位置づけて、そして国会に対して内閣を代表して出席し、発言し、答弁する場合には、それは副大臣であろうと内閣を代表して、その発言は内閣全体で連帯して責任を負うなどという規定がなければ、やはりどうしてもできるだけ各省大臣、大臣が出てこい、内閣の構成員である大臣が出てこいとなりますし、あるいはトップである総理大臣が出てこい、こういう話にどうしてもなりがちではないだろうか。

 こういうことを考えますと、私は、現実の運用が決定的に変わらなければならないとは思いません、きちっとした政治主導にしていくという流れをつくっていくということですが、それをしていく上からも、しっかりと、内閣あるいは政治家によって構成される行政の意思決定部門とその執行部門というものを憲法上明確に位置づけていくという議論がきちっとなされる必要があるのではないかというふうに考えます。

 以上です。

    〔会長退席、船田会長代理着席〕

土井委員 国会の活性化というのがまことに大事で、きれいごとを言っていても、結局その活性化ということが具体的に動いていないと何を言ってもむだな発言だというふうなこと、私も同感です。数がすべてであると言わんばかりの昨今、しかもドント方式で決められたら時間を守るのが一番大事だという姿勢、そういう中では議論が活発になるはずはないですよね。私はそう思います、本当に。そういう改革が大事ですけれども、しかし、もっと大事な基本問題が私はあるんじゃないかと思う。

 それは何かというと、先ほども御発言の中にございましたけれども、最近、国民投票法案なるものを今まで国会が全然立法しないで来たのは不作為である、立法不作為の責任というのをやはり国会は知るべきだというふうな御発言というのはあちこちにあるんですね。果たしてそうなんだろうかと私は思います。

 この場合の立法不作為というのはそういうことを指して言うんじゃないのであって、むしろ国民から見れば、国民にとって生活や権利に必須の立法をサボタージュして多大の損失が国民の側に生ずるとかあるいは差しさわりが出るとかいうふうな場合に、立法不作為というのは歴然としてあると認めざるを得ないですけれども、憲法に対して、憲法を変えることのために必要な、手続上不可欠の国民投票法案というのを今までつくってこなかったことを指して不作為とおっしゃるのは、ちょっと違うと思う。むしろ国民の側からすれば、その投票法案があるなしの問題以前に、憲法の九十九条にある憲法に対しての尊重擁護の義務というのを国会議員や内閣の閣僚というのはどれほど意識して、具体的にそれをしっかり守ってきたかという問題について問いただされる方が先であろうと私は思いますよ。

 少なくとも、今まで当調査会はいろいろ専門家の参考人をお招きしました。そしていろいろ御意見を聞いているんですが、特に、午前中に関係をする、人権に関係のあった調査会の場所で、中央大学の内野教授は、初めに、改憲を主張するより現憲法下で諸施策を充実化させることが先決であるということをレジュメの冒頭に言われています。私、全く同感です。

 そういう点からすると、その辺を基軸に置いて、立法のときにも、その法律自身が許される法律か許されない法律か、また、正しい法律か正しくない法律か、また、それは法から考えれば認められるか認められないか、適切か適切でないかという、いろいろな判断基準として常に考えるべきは憲法だと私は思うんですね。

 だから、その辺が欠如していて、そして、議論も尽くされないで、強行採決で決められていく法案をどうして国民は期待しましょう。どうしてその法案が法律になったときにそれを遵守しなければならないと思うでしょう。私は、そういうことを考えれば、審議のやり方ももちろん問題だけれども、それと同時に、やっている審議の中身に何を判断基準として常にお互いは求めてやっているかということが非常に大事なポイントじゃないかと私は思います。

柴山委員 国会と内閣の関係でございますが、ガバナンスという観点から、株式会社の機関の問題と少しパラレルに考えてみたいと思っております。

 株式会社においては、業務執行、これを決定する取締役会は、全員、株主総会で選挙によって選ばれます。しかしながら、内閣におきましては、内閣総理大臣一人だけが国会から指名を受ける、そういう存在でございます。

 ただ、この場合、内閣におきましては、総理大臣が指名する国務大臣は、過半数は国会議員より選ばなければいけないという規定がございます。これによって民主的な正当性というものが、現行憲法上、制度的には保たれているわけですけれども、民主的統制というものをきちんと図っていくという観点からは、やはり、内閣総理大臣のリーダーシップというものを今よりもはるかにしっかりと図っていくべきである。

 現在の内閣法六条、これの閣議必要、この原則についても、場合によっては見直していくべきではないか。また、先ほど枝野委員から御指摘のあったとおり、行政権が内閣に属するという条文の仕方も、本来、内閣総理大臣に行政権が帰属すると解釈すべきでないか、そのような改正も一つ考えられると思っております。むしろ、積極国家の要請ということとともに、民主的統制の要請からも、私は、内閣総理大臣のリーダーシップというものが今よりも強く要求されるのだと思っております。

 そして、これに関連して、国務大臣は全員国会議員であるべきかという問題につきましても、私は、内閣総理大臣のリーダーシップがきちんと保たれるのであれば、やはり、株式会社における社外取締役の制度と同じように、民間からきちんとした資質を持った人物を総理大臣の責任と権限によって選ぶということも許容することが認められてしかるべきではないかなと思っております。

 現在、先ほど早川委員からもありましたとおり、任期つき公務員あるいは弁護士の裁判官への登用等、民の力の活用ということが積極的に行われています。こうした時流にもきちんと目を向けるべきではないかなというように思っております。

 さて、衆議院と参議院の関係でありますけれども、確かに、衆議院と参議院の意思の不一致ということは大変重大な問題となりつつあります。

 このような中で、果たして、不一致が生じた場合に、先ほど御提案のあったように、例えば参議院が衆議院と違う議決をした場合に、拒否権の発動があれば三分の二以上で賛成とするというような基準を設けるべきなのか、あるいは、衆議院で再議決を過半数という要件で行うべきなのか。その場合には、私は両院協議会を義務的なものとするべきだと考えておりますが、これは両院のチェック機能、参議院のチェック機能をどこまで考えるべきかというところで御検討いただければ幸いだと思っております。

 最後に、単独立法の関係で、国会が唯一の立法機関であるというところから、単独立法機関性というところから、内閣の法案提出権というものを否定するべきでないかという点について一言だけ申し上げますと、この件について、私は、現行憲法七十三条一号が、「国務を総理すること。」ということが内閣の一つの職務となっておりますこと、また、積極国家化の現状に照らしまして、やはり内閣にも法案提出権を認める、ただし、そのかわりに、しっかりと現在の国会の審議機能というものを高めていき、不当な法律というものをきちんと立法府の段階で修正していく、そういうシステムをつくっていくべきではないかなというように思っております。

 以上です。

太田委員 私は、四十一条と六十五条についてお話をさせていただきたいと思います。

 六十五条は時間の関係上できないかもしれませんが、「行政権は、内閣に属する。」ということについて、内閣総理大臣に属する、リーダーシップを発揮するということが大事だという話が相当論点として出ると思いますけれども、私は、内閣という全体のグループという形でやる、その機能を強めるということがいいという判断をしております。

 四十一条でありますが、きょうも論点がいろいろ出ましたが、「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」この国権の最高機関ということについては、政治的美称であるという美称説があるわけで、主権在民、主権者国民から直接選ばれることを形容したものであり、ここから直ちに何らかの権能が導き出されるものではないという、これが多数説であって政府見解であるわけですが、しかし、憲法三原則の国民主権に基づいて、少なくとも三権の中で最も大切な機関であるということだけは言えるというふうに思います。しかし、果たしてその役割を果たしているのかどうかということが、我々国会議員の論点の重要なところだというふうに思います。

 憲法調査会として、今まで、具体的案件については、国会では議運という場で論議をし、そして進めてきたわけですが、私は、五年間ここで調査をしてきたということからいきますと、具体的に憲法ということではないかもしれないけれども、そうした具体的な活性化への方法論、具体論も含めて、ある程度まとめてみるということは、憲法調査会の非常に大事な最終段階の役割ではないかというふうに思っておりまして、取りまとめの点では、若干そういうことに意義があるということを会長にむしろお願いしたいというふうに私は思っております。

 唯一の立法機関というときの立法の内容としましては、議員立法の話にかなり集約をされるようでありますが、やはり、これまでも言われてきました、提案ということとそして審議ということと議決、この三つを独占する形で、すべて議員立法という形に集約をするというのではなくて、国会は、内閣提案ということについては閣法もあり、衆法もある、そして、二と三の審議と議決というところの充実を図ることが大事なことだというふうに私は思っております。

 議員立法の問題と閣法の徹底審議、行政監視機能そして閣法の修正、そうしたことで四十一条を読んでいくということが私はいいのではないかと思っております。そのために、二、三という、今申し上げました審議や議決ということの充実を図る意味でも、国会そしてまた議員立法が重要であるという位置づけをしたいというふうに思っております。

 充実した論議というものが果たして行われているかどうかということで、きょういただいた資料の中にも、「二院制」の中に、「国会の行政監視機能は、一院では十分に発揮し得ない。」と。私もそう思っておりまして、そういう意味では二院制を支持するわけですが、しかし、この資料の中にも、解散がないことから、参議院は長期的視野による国政への取り組みが可能であると。

 しかし、衆議院が、長期的視野による国政への取り組みが不可能である、選挙活動に忙しい、解散があるということでは甚だ悲しいことで、私は、この憲法調査会、今、中山会長いらっしゃったけれども、少なくとも、予算委員会がとまろうがどうであろうが、きょうもここにあるように、ずっと五年間、しかも、国のあり方とかいうことについて落ちついて論議をした場が五年間少なくともあったということは大変大きな意義があったというふうに思っておりますし、そして、そういうような委員会の審議のあり方、この国の中で、この国のあり方とか方向性とかいうことを落ちついて話す場というものをこの衆議院の中に設定するということが極めて大事なことだというふうに思っております。

 そして、同時に、長期的視野による国政への取り組みが衆議院は可能でないというような意見があるということからいきますと、やはり時間の問題とか解散という問題もあるわけですが、やはり選挙制度の問題というのは非常に大きな問題でありますものですから、私は、この辺、選挙制度の問題ということについて大きく取り組んでいかなければ、これからますます国家の方向性とかそういうことの重大な問題というものをじっくりと論議する機関が非常に大事だということの中で、この五年間の憲法調査会の果たした、そういう議論の場を提供したという役割を踏まえて、次のポスト憲法調査会というだけでなく、予算委員会のあり方とかほかの委員会のあり方というものも含めて研究していく必要がある、このように思っております。

 以上です。

    〔船田会長代理退席、会長着席〕

松宮委員 自由民主党の松宮勲でございます。

 私は、二院制の問題、それから、先ほど来二、三の委員が御指摘になっております、唯一の立法機関としての国会における立法機能の問題等について、若干個人的な考えに触れさせていただきたいと思います。

 まず、二院制の問題でございますけれども、現行憲法における二院制のそもそもの制度の創設の趣旨につきましては、葉梨委員からも御指摘がございましたように、必ずしも意図は明確でございません。

 しかし、にもかかわらず、戦後六十年近くの推移の重みといたしまして、現に衆議院と参議院が存在し、それなりの機能を果たしているということも事実でございますけれども、創設当初の参議院に比べて今日の参議院は政党化が事実上衆議院と同じ形で進展してきていること、にもかかわらず選挙制度が違い、かつ、解散のない、任期六年、三年ごとに半数を改選するという制度であること、そして、先ほど来御指摘のように、内閣に対する不信任案権は付与されていないにもかかわらず、現実には、重要法案等の審議の結果として内閣が事実上不信任される、あるいはされるおそれのあるような事態を生起することもあり得る、こういうことになっているわけでございまして、私は、この戦後の六十年近くの推移を踏まえて、憲法改正の際には、ぜひ二院制のあり方、とりわけ参議院のあり方について抜本的に見直しをしていただくということが必要だと思っております。

 もとより、二院制はそれなりの、繰り返しでございますが、存在意義があったということでございますので、ストレートに一院制に走るということではなしに、参議院のあり方をもう一回検討し直して、例えば、解散がないのであるならば、これも、現時点で私の考えは固まっておりませんけれども、今参議院の方で相対的に力をお入れになっていらっしゃるような決算機能を重視していくとか、あるいは、長期的、高い、広い観点からの国政に関する調査研究機能というのを高めていただき、そして、具体的には行政府に対する監視機能を強化するような方向性を出していただく等々というのが考えられるのではないかという感じがいたしております。これが第一点でございます。

 それから、唯一の立法機関としての、国政における私ども議員立法の問題でございます。

 土井委員の方からも先ほど来御指摘がございましたように、私自身も、非常に大きなパラダイムの転換を伴うような今日の時代の激変下にあって、現在の各省庁、事実上の縦割りに近いような格好での行政が展開されているということでは、なかなかこの国家の大きな方向性を出すことは難しいような時代を迎えているということでありまして、できることなら、国政においてそれぞれの政党が、あるいはできることなら党派を超えて、志をともにする国会議員がそれぞれの課題について立法機能を強化し、そして、できることなら、結果として、成立した法律が、閣法よりは議員立法が凌駕する、こういう事態が一日も早く実現することを祈るものであります。

 これは必ずしも憲法マターではございませんが、これからの憲法改正のもとで議院内閣制のありようというのを名実ともに高めていくために不可欠であります。

 その意味で、一つ、多くの委員の方々が御案内かもわかりませんが、アメリカの例を申し上げさせていただきたいと思います。

 もちろん、アメリカの場合には、御承知のように一〇〇%議会が立法権を持っているということと裏の関係ではございますが、アメリカは、国家から、一下院議員当たり百万ドル相当の調査及び事務所維持費が国庫より出されている。上院の場合には、州の人口の多寡によりまして、少ない州で一上院議員当たり年間一千七百万ドル、大きい州の場合には年間三千四百万ドルが支出されております。

 民主主義のコストとしてこれが高いかどうかということはいろいろ議論があろうかと思いますけれども、トータルとしてアメリカの国益が増進され、そしてアメリカの国民のウエルフェアが増進されるならば、それほど高くない、恐らくそういうコンセンサスのもとで、今申しましたような助成がなされているんだろうと思っております。

 そこまでは求めませんけれども、本当に私どもが国政における議員立法権というのを文字どおり名実ともに実効あらしめるためには、もちろん、衆参両院における法制局、あるいは先ほども御指摘のありました各調査室の権能を高めると同時に、個々のスタッフに対する助成というのも、声を大にして、憶面することなく訴え、そして、名実ともに、国民から負託された業務にふさわしい立法機能というのを一人一人の個々人が、そして政党が発揮していくということが大事ではなかろうか。

 ぜひ、憲法の大きな見直しの際にも、そういうことも念頭に置きながら見直し作業というのをやっていただきたいと思う次第であります。

 以上でございます。

永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。

 私は、議院内閣制について申し述べたいと思います。

 現在の我が国が置かれている状況は、高度成長期のように官僚の敷いた路線に従って利益配分を専らにしていれば足りるという状況ではない、政治がリーダーシップを発揮して迅速に意思決定をしていかなければならないという状況であります。ここに言う政治のリーダーシップとは、すなわち内閣総理大臣のリーダーシップを意味するものと考えられます。

 議院内閣制は、議会の多数派に多くの権限を集中し、立法府と行政府との融合によって内閣総理大臣という明確な権力中枢をつくって、権力と責任を一体化する仕組みであり、本来、内閣総理大臣のリーダーシップが発揮できるようなシステムのはずであります。このように、議院内閣制に本来的に内在している内閣総理大臣のリーダーシップを健全に発揮するためには、次に述べるような幾つかの改革が必要であると考えております。

 まず第一には、やや反省も込めてでありますが、政府・与党の意思決定システムを一元化すべきであるということであります。

 現在とられている、政府と与党においてそれぞれ政策決定をして、それらを事後的に調整するというシステムは、官僚主義時代の名残と言うことができ、これからの政治主導の時代にはそぐわない嫌いがあります。これからは、イギリス型の議院内閣制に倣って、与党幹部が政府に入り、政治主導で一元的に政策決定をなすべきではないかと考えます。

 第二に、内閣総理大臣のリーダーシップが十分に発揮されるためには、国民の広範な支持が不可欠であります。

 そのためには、衆議院議員の総選挙に際して、首相候補と政策プログラムを一体のものとして提示することとした上で、国民が明確に政策選択をするようにする必要があります。

 この点、先日発表された中曽根試案においては、憲法上、総選挙を衆議院議員選出のためのみならず、内閣総理大臣推挙のためにも行うということを明確にしており、賛成することができます。首相公選制は、政策を離れた人気投票となるおそれや、首相と国会の対立による国政の停滞のおそれがありまして、その導入には賛成できませんが、衆議院議員の総選挙を通じて事実上首相を選ぶということであれば、これらの難点もクリアすることができるものと考えます。

 さらに、第三番目に、内閣総理大臣のリーダーシップを阻害する要因としての参議院の権限のあり方を見直す必要があります。

 参議院が法律の制定等において衆議院とほぼ同等の権限を有する現行制度においては、事実上、参議院の多数を握らずに政権を運営することは困難であります。今後、二大政党化の傾向が強まる中で、参議院において少数与党の状態とならないとは限らず、そのときに深刻な国政の停滞を招くおそれがあるわけであります。したがいまして、そのような状況を避けるために、最低限、参議院で否決された法律案の再可決要件を、三分の二の特別多数から単純多数決に引き下げる必要があると考えます。

 このような見直しに対しては、参議院を無意味にするものとの批判もあります。しかし、参議院における否決から衆議院の再議決までに一定の期間を置くということにすれば、参議院におけるリーズナブルな修正は衆議院においても受け入れられることになると思われます。このようなあり方こそ、衆議院のいわゆる数の政治に対する参議院の理の政治ということになり、参議院の独自性の発揮による健全な二院制のあり方と考えるところであります。

 現在の我が国には何よりも政治のリーダーシップが求められておりまして、その発揮のためにはこれまで述べてきた諸改革が不可欠であるということを改めて申し述べさせていただきたいと思います。

 以上でございます。

柴山委員 先ほどの発言に若干補足をさせていただきたいと思っております。

 内閣総理大臣のリーダーシップについてでありますけれども、やはり私は、与党と内閣総理大臣の一体性ということを憲法が想定している以上、真にその一体性というものが発揮されるように、例えば、内閣総理大臣の指名に当たって、総理大臣候補が明確に、そのみずから望む政策を全国会議員に対して、詳細な形でマニフェストとして提起をするというような事実上の運用が必要であるというように考えております。

 また、先ほど少し言葉が足りなかったかもしれませんが、私は、国会で選任されるのはあくまでも内閣の中で首相だけである、そして、それに対して、株式会社等においては、取締役は株主総会において選任される、そしてその取締役会で代表取締役が選任される、そういうところから、いわゆる民主制の担保、担保と申しますか、確保の基本的な発想が違うというようなことを申し上げたかったわけでございます。

 要は、内閣の場合は、やはり、総理大臣を通じて民主的コントロールがしっかりと閣僚全員に及ぶということが求められている、その意味からリーダーシップということが求められているということを先ほど申し上げたかったということを補足させていただきたいと思います。

 また、二院制について先ほど来いろいろ御発言があり、私も、選挙制度において衆議院と参議院を異ならせるべきではないか、特に、参議院においては、道州制の導入、そして比例制のあるいは大選挙区制の導入ということを積極的に考えていかなければいけないのではないかと思っております。

 以上です。

塩川委員 二院制についての御発言が複数の委員の方からありました。参議院のあり方について、参議院の役割を小さくするかのような御意見もあったかと思います。

 私は、二院制の意義ということでは、やはり、拙速を避けて審議の慎重を期すことであり、国民の多様な意思を多元的に反映させるという点にあると考えます。衆参の任期を異なったものにすることによって、この両院の違いを確保しようとしており、多様な民意を反映するものだと考えています。

 実際、法案の審議を通じて、その民意の反映の結果として、法案の修正ですとか参議院段階で法案が廃案になるようなこともありました。まさに、国会の法案審議、慎重審議を通じて、衆参の議論を通じて民意が形成されていく、その結果としての法案の修正や廃案が行われる、ここにも二院制の意義が大きくあると考えています。

 参議院の役割を軽視するかのような議論というのは、迅速な政策決定システムが必要だという議論と一緒に出されていることも多く、スピーディーにといって政府のやることを追認するのが国会の仕事だと認めるようなものであれば、それ自身がみずからの役割を否定するものではないかと考えます。

大村委員 自由民主党の大村秀章でございます。

 この国会、内閣につきまして、国会につきまして一言といいますか、自分の意見を申し上げたいというふうに思っております。

 これは、この調査会でも前にも申し上げさせていただきましたが、私は、この際、一院制を導入すべきだということを前にも申し上げさせていただきました。

 これはやはり、日本の今置かれている状況、国際社会の中で、これだけ進み、そしてまた時代の流れが速い、そういう国際社会の中で次々と決断を迫られるという状況の中で、常に常に迅速に国家意思を集約し、そして判断をしていかなければいけないということにおきまして、やはり一院制が望ましいというふうに思います。世界的な流れの中でも、ほぼ三分の二の国が一院制を導入しているということで、決してそれはおかしい部分ではないというふうに思いますし、その点は十分議論をし、その方向に進めていくべきではないかというふうに思います。

 それで、あえて誤解を恐れずに申し上げますと、昨年の夏、参議院選挙が行われました。その前の一昨年の十一月に衆議院選挙が行われました。一年に満たない期間で、二つも大きな国政選挙が行われる。一昨年の十一月は、まさに衆議院選挙、政権を選択する選挙、そして各党がマニフェストを掲げて、そして国民の皆さんに政権の選択、そして判断を仰ぐということの選挙が行われて、そして一年もたたない間にもう一度、参議院選挙が行われるということで、では、これは一体何を争点にしたらいいのか。政権がかわるわけでもない、大きな国政上の争点が、では、また逆に、その一年に満たない中で、マニフェストを掲げて、また何か別のことを掲げるというのは、それまたおかしな話でございます。そういう意味で、一体何を争点にするのか。

 私自身、日本全国いろいろなところを選挙応援に回らせていただきましたけれども、正直言って国民の関心もそう高くない。ということになると、一体どういうふうな選挙ということで位置づけたらいいのかということからして、私は、国民の皆様のお考えの中にも、何で二院制なのか、なぜ二院制でなければいけないのか、こういう声がやはりあるのではないのかという気がしてなりません。

 そういう意味で、またこれから、ちょっと話が別の視点かもしれませんけれども、国、地方を合わせて七百兆円を超える大きな借金を抱えて、やはり財政再建も含めて、国家そしてまた地方自治体も含めた行政機構のスリム化を図っていく中で、やはり国会だけが別なのかということには私はならないというふうに思います。

 そういう意味で、国会を、衆議院をやめて、そして参議院もやめて、そして新たな一院をつくって、国会議員の定数も大幅に削減をする、半減をする、ほぼ四百ぐらいで私はいいんじゃないかというふうに思っておりますけれども、そういったことを思い切って計算する中で意思決定を迅速に進めていくということが必要ではないのかなというふうに思います。

 それからまた、政党化がどんどん進んでいって、衆議院と参議院で同じ議論がずっとやられていく。限られた百五十日の会期の中で、もちろん延長はできるといいながら、国会の日数も足らないという中で、私は、そういうようなことを考えますと、やはり一院制にして十分議論をして、建設的な議論をしていく、そういう時間的な余裕を持って国民の皆様の負託にこたえるということも必要ではないか。そういうことからして、私は、御賛同していただく方は少ないのかもしれませんけれども、この際、思い切ってやはり一院制を導入すべきだというふうに思います。

 私がいろんなところでこういうお話をさせていただきますと、やはり、一院制で国会議員の定数は半分にするんだと言うと、非常に拍手喝采でございまして、その点は国民の皆さんも、いや、国会だけ別だということではない、思い切って踏み込めということが国民の皆様の大方の意思ではないのかなという気がいたします。

 そういう意味で、改めて一院制を申し上げたいというふうに思っております。

 以上です。

枝野委員 まず、今お話ありました二院制の話をしておきたいと思います。

 大村さんから御指摘あったような問題意識は私も共感をいたしますが、現実的に、早い時期に一院制の発議を国会ができるのかというようなリアリティーを考えますと、二院制の制度のもとでどういうふうに弊害を防ぐのかということになっていくんではないかと私は思います。

 そうした中で、私、持論で、前回も申し上げましたが、先ほどの、選挙が一年もたたないうちにあるというようなこととの絡みで、やはり私は、衆議院の解散を限定的にした上で、三年ごとに衆参ダブル選挙をやるというのが一番合理的ではないだろうかと。この場合、衆議院は政権選択の選挙ということで小選挙区制、そして参議院ではその小選挙区制ではすくい切れない少数意見をきちっと反映させるという意味で比例代表または大選挙区制ということで、それぞれ一票ずつであれば、衆参を同時にやったとしても有権者の混乱はそれほど大きくないのではないだろうかと。その上で、役割を分担させていったり、あるいは、先ほど葉梨先生でしょうか、ありましたとおり、内閣との関係を整理していくというようなことをやっていくのが合理的ではないかと考えます。

 それからもう一点、先ほど来、議員立法といいますか内閣の法律案提出権についてお話が出ております。

 これは、特に与党の皆さんに御検討いただきたい、つまり運用との絡みだと私は思っておりまして、小泉総理スタートのときに、与党の事前審査をどうするかという議論があったかと思いますけれども、私はこれと絡んでくるのかなというふうに思います。

 私は、どちらかといえば、もし内閣提出ということを認めるのならば、事前審査などやらないで、与党の議員の方も国会の場において政府に対して、内閣あるいは官僚に対して質問を行い、必要に応じて国会の場で修正をする、これが一つのやり方で、これならば内閣提出を認めないと都合が悪いなということになるかと思います。

 逆に、今のように与党の事前審査で、与党の内部では議論が終わっていて、与党はみんな賛成しているんだ、賛同しているんだということになりますと、今現実にそうですが、与党の議員さんは、こういう憲法調査会のような場は別として、国会審議でほとんど仕事がないわけですね、実質的な仕事が。だとすると、政府・与党一体なんですから、何も官僚に答弁をさせて、政府の提出である必要はない。

 例えば、外務省に関する法案であれば、筆頭提案者を外務大臣、これも国会議員でしょうから。そして、与党の外交部会の議員さんたちが共同提案者となって、政府なんかに答弁をさせないで答弁席に立つという形で、一体となった政府・与党側として野党と国会でやり合うということになれば、国会審議が実質化をするんじゃないか。

 つまり、与党の国会における役割をどちらをとるのか。政府に対して国会という立場から議論し、チェックし、場合によっては修正をさせるという立場での与党の国会議員という役割にするのか。それとも、政府・与党一体の提案者側のサイドに立って答弁をする側に回る、野党とやり合う側に回るのか。こういうところを運用上整理すれば、私は、形式的に内閣の法案提出権をどうするかということよりも、与党の皆さんが政府提出法案に国会という国民から見える場でどう議論に加わるのかという実質的な面が前に進むのではないか、こんなふうに思います。

 以上です。

三原委員 自民党の三原でございます。

 きょうの話を聞かせていただいておりまして、立法府の活性化の議論。今、枝野議員も言われましたけれども、私は、内閣及び内閣総理大臣のリーダーシップという議論もここの中でよくありましたが、それは一面では、選挙で勝って多数党を占めればその党がリーダーシップを持ち、そしてなおかつ、そこの長がリーダーシップを持つわけですから、よって、党内のディシプリンみたいなこと。今、では小泉総理大臣にリーダーシップがあるのか、では前の総理大臣にリーダーシップがあるのかなんということになれば、それによって党内のディシプリンの問題にかなりなるんじゃないかな、そんな気がしておるわけでありまして、すぐに立法府のいろんな制度とかシステムを変えるよりも、党内の中でお互いに、自民党が今政権を持っている間は我が党でそのディシプリンを持つだろうし、ついに民主党さんが政権をとられたら、民主党の中でそういうディシプリンを持ってやること、そのことがまず一義的なことだろうと。立法府の中で制度やシステムを変えるよりも、そういうことなんじゃないかなという気がしてなりません。

 というのは、すぐ我々は例に引きますけれども、議会制民主主義の一番古いイギリスあたりでやるのも、それは実は何か制度、システムを決めてあるのじゃなくて、イギリスの労働党が政権をとっても保守党がとっても、そのときの長をトップにしてかんかんがくがくやる、そういう訓練ができておるからやるような場面が大いにあるということを想定するわけであります。

 それと、議員立法の話になりますけれども、私の記憶が正しいとするならば、我々が政策秘書というのをもらったときに、それを国からちゃんとお金もやって、わずか各議員に一人ではありますけれども、それを認めてもらったときに、少なくとも、既に政策秘書と称する人がこの国会、永田町には七百人以上いるわけですね。我が党にだって議員の数だけ政策秘書がいるわけですから、例えば何か一つの問題について議論をさせるといいますか、このことを議員立法でもやってみようということになって、その人たちを本当に活用するということになったら、かなりの変化も起こると私は思うんですね。そのことがまだ何もやれていない状況の中で、やはりない物ねだりみたいなことではちょっと。

 私は、我が党のことを中心にして話しているんですけれども、それが民主党さんや社民党さんあたりはどうか、共産党さん、公明党さんはどうか、私は明確にはわかりませんが、そういう面では、いま一度、特に我が党に関しては政策秘書あたりの十二分な活用の方法あたりも、我々は国民の皆さんの税金で雇わせていただいておるんですから、考えるべきじゃなかろうか、そんな気がいたしております。

野田(毅)委員 二、三、申し上げたいと思うんですが、一つは二院制について。

 さっき枝野さんから、現実論からいえば二院制ということでやるしかないんじゃないかというお話があった。まさに、憲法の改正の発議をしようと本当にやろうと思えばそういうことかなという感じはします。ただ、その場合にでも、当面の弊害と言っちゃいけませんけれども、衆議院で議決された案件を、それを乗り越えるには、それが参議院で否決されるという、その場合の三分の二という特別多数というのは、私は少し問題があるのではないかと。それは、明らかに解散もないわけですね、参議院は。そういう中で、考えようによっては、衆議院よりもはるかに強い権限を持ってしまっているということが言えると思います。そういう意味では、せめて二分の一と。だから、再議決という程度にレベルダウンをするということが現実的な対処の仕方ではないかというふうにも思います。

 それからいま一つは、やはり政党の位置づけを憲法上やっておく必要があるのではないか、もう既にお話が出ていることだと思います。これが二つ目でございます。

 それから三つ目は、今まで選挙制度、憲法問題ではないのかもしれませんが、ただ、国政、特に衆議院の選挙制度を変えるときに、我々も携わっておりましたんですが、どうしても国政選挙だけ頭に置いてどうあるべきかということを論じてきた、私は反省をいたしております。

 結果において、地方選挙との整合性がとれなくなってしまって、現実には衆議院の選挙区よりか県会議員や市会議員の選挙区の方がはるかに広いということになって、やはり有権者の側からも非常に違和感がある。そして、その場合に、地方選挙の方は中選挙区のままであるということとの整合性をどうとっていくのか。

 しかも、これから、いろんなことが地方に権限が移れば移るほど、私は、その辺の国と地方の議員の役割分担というものをどのようにとらえていくのかというのは非常に難しいことになるのではないかと実は危惧をいたしております。

 それは、衆議院議員の資質の問題にかかわってくることになってしまうのではないか。これは有権者自身の受けとめ方、意識の問題とも連動するのでありますが、理想論だけで現実には動かないのではないか。有権者は必ずしも神様と同じ判断をするとは限らないと思っています。

 それから四点目。この有権者意識ということでいえば、大変暴論に聞こえるかもしれないんですが、いわば選挙権というのは基本的人権に実は近いような、国政への参画権ですから大事なテーマであるのですが、この法理は今やほぼ世界共通の法理だと思うんですが、しかし、同じ法理のもとでも、実は選挙権を登録制にしているという国もたくさんあるわけであります。

 今日本は、全く、そういうことを言うと頭からとんでもないという話になっていますが、現実問題、今までもそうなんですが、これから相当高齢化が進み、かなり、本当に正常なる判断能力がどうなのかというようなことをいろいろ考えておりますと、実践論からいって、現実に非常に問題があるのではないか。本当に本人がそれだけの判断能力を行った上で、そういう意味でのいろんな施設における投票をしているのかいないのかなどを含めて、我々は理想論だけでなくてもう一遍現実論をしっかり見据えておかないと、私は、ほんの無視できる程度のことであるのか、最近はどんどんどんどん高齢化も進んできているという現実を考えた場合に、この辺も考えるテーマの一つではないかということを指摘しておきたいと思います。

早川委員 自由民主党の早川忠孝であります。

 私は、国会議員の責務が極めて重くなっているということについてぜひ訴えたいと思います。これまでのように、国会議員、衆議院議員でありますけれども、いつ解散になって選挙にさらされるかもしれない、こういうことになると、なかなか腰が据わらないということになるかと思います。

 内閣については、行政の権限を行使するという意味では、継続性、安定性がこれは求められております。一年ごとに内閣総理大臣の顔がかわっている、あるいは大臣の顔がかわるということでは、残念ながら十分の責任を国民に対して果たすことはできないであろう、こういうような議論がありました。

 小泉内閣になって三年余り、私は、こういったこれまでの流れというのが大きく変わったと思います。それに合わせて、国会としてのいわゆる行政に対するチェック機能、あるいは行政を進めるについての根拠となる法律をつくるという一番大事な権限を行使する国会議員の役割はますます重くなっていると思います。

 いろいろ立案作業について御指摘がありました。私は、与党の内部においても実はそれほど十分の立法審査の機能を果たすことができないような時代に今なっている、余りにも多岐にわたり複雑になっている、こういうことの中で極めて専門性が求められている状況になっている。残念ながら、限られた時間ですべての法案について専門家的な監視の目を行き届かせることができない、そういう過程の中で、さまざまな立法上の不備あるいはふぐあい、あるいは整合性を欠く状況というのが一部見られるのではないだろうかと思います。

 そういうことからすると、チームとしての能力が問われる。結果的には、自分だけでは到底すべてのことについて責任を負うわけにはいかない、与党としてはやはり大勢の専門家の力を重ね合わせていかなければ本来的な国民に対する責任は果たせない、こういうことだと私は思います。

 そういうことの中で、問題なのは、衆議院の解散権であります。本来的には、私は、憲法六十九条による解散権しか認めるべきではないというふうに思っておりますが、現実には内閣が解散権を発動するということが認められてまいりました。こういう状況の中では、国会議員が、衆議院の議員が十分その職責を果たすことができない、いわゆる解散の恐怖というのを常に受けながら審議に臨まなければならないという弱さを持っているのではないかと思います。

 そこで、今度は二院制の問題であります。私は、憲法の改正ということは、これは、社会を根底から変えるだけの意味を持つものだと思います。もし、そういうふうな憲法改正を本当にやって統治システムの改革をするというのであれば、これは、衆議院の議員もあるいは参議院の議員も、みずからのあり方についてもう一度問い直しをしなければならない。むしろ、自分たちの職をなげうってでも日本の改革をする。

 そういう意味では、私は、国民の目線でもって考えるとすると、実は、衆議院と参議院の国会議員の数は余りにも多過ぎるという判断になるのではないかと。衆議院と参議院が同一の機会に一度選挙をやって、勝ち残った者だけで国会議員、国会を構成すればよろしい、こういう大改正を実現できるならばしてみたいものだと思っております。

 以上であります。

田中(眞)委員 きょう、午後からのこの議論でございますが、国会と内閣等に関する議論という中で、三十分ほど前に枝野委員が発言なさったことですけれども、内閣として閣議で決定されるというものは一体何なのかというような発言がございましたけれども、このことはまさしく重要なことを意味しているというふうに思います。

 現在、この憲法調査会に、今この時点で着席していらっしゃる議員さんの中で、閣僚経験者はざっと見ても四人ぐらいかというふうに思うんですが、閣議というものに参加いたしますと、週に二回ありますけれども、そこで閣議決定というものの書類が官房副長官から配付されまして、それに花押、すなわち、各大臣が署名をする、多いときには数十件もの案件が各省庁から出てきまして、それに署名をする、すなわち、出されたものを承認するという行為があるんです。

 これが一番主題になっている、国会をいかに活性化するかという大きなテーマに返った場合に、官僚主導、役人主導はけしからぬ、どうやって政治家の手に法案の決定についても取り戻すかということの原点なんですが、これは結局、閣議決定というものは、官報とか法令全集に掲載されるということはありませんので、閲覧することがなかなか容易ではないんですね。

 そして、その花押を書くという行為をしているときには大変忙しくて、閣僚同士の会話の中で、あれ、この法案短く一行しかないけれども詳しくは何なんだろうか、どこの役所の法案なんだろうということを言いながら、はい、どんどん書いてくださいといって、サイン会のようにペーパーがぐるぐるぐるぐる回っていくというのが実態であります。

 そういう実態を踏まえて、では、閣議決定というものがこれはどういうふうに決まっていっているかといいますと、現行憲法のもとでは六種類あるんですけれども、法令上の明文の規定は置かれておりませんけれども、一つは一般案件であります。国政に関する基本的事項であります。二つ目は、法律、条約の公布。三つ目が法律案。四つ、政令。五、議員提出の法律案の関係。六番目が人事案等でございます。

 閣議に付された紙というものは、閣議決定と閣議了解と閣議報告として処理されるわけですけれども、これがそもそもどうやって起案されているかといいますと、各省庁において文書を起案します。そして、大臣が決裁をして、内閣官房、そこでもってその紙を用意いたしまして、用紙で起案されて閣議の席上で、先ほど申し上げましたように、国務大臣全員が署名をする。

 署名を拒否するという閣僚はまずいないと思います。それほど中身について具体的な、特に自分の所掌する役所についてはある程度わかりますけれども、しかし、それも期限とか何かも詳しくは書かれていませんので、大体、官房長や局長が丁寧に説明に来てくれて、しっかりとそれについて省内で議論をする時間があればいいんですけれども、全閣僚がそうであるとも思えません。ましてや、ほかの省庁についてはなかなか掌握できないという実態の中で、これがどんどんとパスして閣議決定になっていくわけです。決定されたものは、先ほど言ったことの逆に、逆の階段をおりて、結局、各省に通知されて関係機関に通告されるという形ででき上がっていくんです。

 このことの重さ、行う行為の軽さ、これは、総理大臣が政治家主導で、内閣の責任においてと幾ら気張りはっても、それは、実態として行っていることは、非常に短時間で、予算委員会が始まるから、何があるからということで、時間内ですごいプレッシャーの中で行われているということが実態なんですね。それはもう閣僚経験者の皆さんはよく御存じのことだと思います。

 例えば、具体例で一つ申し上げますけれども、特殊法人の整理統合ということが随分ありました。これは不動産の売却に関することですが、与野党ともに、特殊法人の整理統合について反対はよほどのことがない限り余りないという風潮のときでした。一行の紙が回ってきて全員が花押を書いて、これが閣議決定として金科玉条のように今もまかり通っていることなんですが、実際は、これはKKR、共済組合連合会の問題なのでしたけれども、これは整理統合やるべしというのが天下の意見でした。

 実際、じゃ、KKRで、だれがこの問題を一番末端で、原点でこのペーパーをつくったかというと、運営委員会。十四、五人現在いまして、各省庁から二名が出ていて問題提起をする。それぞれの中で都合のいいものが出てくるんでしょう。

 それが結局は、これが不動産の売却の大きな問題であって、例えば、相続にまつわるような物納地であって、ちっちゃな話であるのと同じような法律で、これは大きな大規模開発にかかわるような土地についてもそこで決定されてしまったという事実が今あります。私は、これについて今一生懸命個人的に取り組んでおりますのですけれども、こういうことは取り返しがつかないようなことで、こういうものが、国有地等が堂々と学校に、私立学校に売却されたり不動産会社に売却されているという実態を幾つか私は知っております。

 したがって、こういうことを実際にとめないで、時間をかけて閣僚が、もっとしっかりと閣僚同士が内閣の責任において閣議をしない限り、幾ら国会を活性化するとか内閣の機能云々といっても、これは非常に噴飯物だなという思いが私はしておりますので、閣議決定というもののあり方からそもそも変えないと、新しい政権交代でもできた暁には、そこからしっかりと原点から見直さないと官僚主導は終わらないというふうに申し上げておきます。

 以上です。

保岡委員 私も、今、田中委員から指摘されたり、多くの先生方からお話もありましたが、今、日本の政治にとって一番決定的に重要なのは、官主導をどう乗り越えて政治主導にするかということに尽きる。二十一世紀の我々の統治機構といえば、国会、内閣、あるいは裁判所という司法もあれば、道州制を導入するかどうかも含めた新しい地方のあり方、これは決定的に国の形そのものでもあるわけです。こういう中で、すべて根幹になっているのがやはり官主導だと思います。

 明治以来、西洋に追いつき追い越せと、坂の上の雲を求めてひたすら優秀な官僚を非常に頼りにし、そこの優秀な政策の企画立案能力というのを生かし、そして、国民も政治家もそれを中心に目標を求めて国民のニーズを政策につなぎ、また、統合的な一つの目標に向かっての制度、仕組みというものを積み上げて完成させた。

 これが今、その目標が消えてしまったということになれば、当然、これからの時代を展望して、どういう変化が起こるか、起こっているかということを見る。それも、すさまじいスピードで大きな変化を呼んで新しいパラダイムが広がっている。こういう中で、日本のすぐれた資源を未来に生かすためにはどうしたらいいかということになりますと、これはやはり、縦割りの官僚というものが、いわゆるすさまじい勢いでスピード発展した、あの戦後の焼け野原からいわば世界の経済大国にあっという間にのし上がった、その時代に、年金もつくった、医療制度もつくった、いろいろな制度を西洋に追いつき追い越せという目標を設定して積み上げて完成させて、相互に関連させて一つの結果を手にした。

 しかし、これからは、それをむしろ壊して、どうやって、今までそこに向かって使ってきた、そのために効率がよかったかもしれないが、今の時代と変化とスピードに合わないという、これをどう資源の再配分をするか。それは当然、国家像とかあるべき国民生活とかいうものがどういうものかということを、変化を予想して考えなきゃいけない。これを役人に決めろといっても、縦割りの役人に論議する、決定する責任もあるわけでない。

 そういうことを考えますと、私は、何といっても政治が決定的に歴史的に重要なときを迎えている。だからこそ、内閣の強い政治のリーダーシップも必要だし、国会を一院制、二院制にするかは別として、効率のいい政治決定、意思決定というものができるようにするように変えなきゃならないし、まして、地方に道州制というような新しい姿を求めるならば、恐らく、今中央にあるいろいろな予算とか権限、こういったものの大多数は基礎自治体や道州に移すということになれば、当然これからの国会議員の役割というのが非常に限定されてくる。そうすると、数もそれによって適切な数にしなきゃならない。そして、地方の政治のあり方との関連もどうするかを、二院制の問題、参議院の問題もそういう中で答えが出てくる。

 要するに、全体としての絵をかかないと、なかなか新しい時代の日本の、本当の政治が必要な時代の統治機構というものがどうあるべきかを決めることができない。そういうことに対しては、やはり国会がしっかりしなきゃいけないのであって、やはりトータルで物を考えて方向性をしっかりつくり出すということが政治しかできませんし、国会の重要な役割だ。そういう基本的な歴史的な認識がないと、この憲法改正の統治機構の論議も総合的に全体としての絵がかけないのではないだろうか。

 先ほど枝野さんがおっしゃった、いわゆる意思決定の部門と執行の部門を分けるのだったら、それも新しい国と地方の関係をしっかり描いた上、そして、そこに政治任用なりきちっとした体制を憲法にも明記してつくり上げて、そういう意思決定の体制を憲法上機構として整備するというお考えを枝野さんがおっしゃいましたが、まさにそういうことが必要な時代になっていると私もそう思う次第でございます。

野田(毅)委員 再度済みません。

 今、保岡さんから官主導をどうやって政治主導にするかというようなお話もあったんですが、私は率直に言って、もう三十年余り国会活動をさせていただいて、官主導は制度のせいであるかどうかというと、私の実感では、むしろ政治家自身の資質の問題ではないかというふうに思えて仕方がありません。それは、今ちいちゃな問題に少し首を突っ込み過ぎて、大きな日本の進路をどうするかということ、そして役人を動かし切るかどうかというのは、やはり政治家自身の力量だと。

 私は、今の小泉さんだって、それなりに政治家主導でやっていると思いますよ。あの人、役人の言うとおりに動いている部分も確かにあるけれども、結構、反対を押し切って自分の我を通している部分も実はあるわけですね。

 我々、一年生のころは、田中角栄先生が総理をしておられた。あの人の生き方を見ると、とてもじゃないが、役人の路線を、その上で走った人とは思えません。だから日中国交もやっただろうし、あるいはいろいろな大きなことを、功罪はいろいろ言う人はあるけれども、そういう意味では、まさに政治家が役人を動かし切った人だと思います。

 それだけの大きな政治を、ちいちゃな政治じゃなくて大政治をやろうというならば、戦前も本来は、明治維新を起こした先達たちが健在な間は、大きな政治をやって、我慢するときは我慢もし切れたと思うんですよ。それが、いつの間にか、政治家が国民からの信頼をどんどんどんどん、お互いが泥仕合をして、結果的に信頼をみずから低下させてしまって、そして、国民世論に従うという言葉はいいんだが、結果的に世論に流されて戦争に突入していく、そういうことをつくってしまったのではないか。

 だから、私は、制度論ももちろんある。それはそれなりに、明治憲法下における統帥権の問題だってあったと思いますけれども、しかし、少なくとも、政治家がもっと大政治をやっておるならば、だから、山県有朋なりあるいは大久保利通なり、そういう明治の元勲たちが健在であったならば、第二次大戦は起きなかったのではないかという言葉さえあるわけであります。

 そのことを今、我々は肝に銘ずるのがあっていいのではないかということを最近しみじみ思っておりまして、国会におけるさまざまな議論が行われておりますが、ややもすれば、国民にこびを売るような感じの、そして、国会議員みずからの、大政治をできないようにサラリーマンと同じレベルで活動せよというたぐいの言論がかなり広がっているということについて、大変心配をいたしております。このことを申し添えたいと思います。

 以上です。

中山会長 委員の一人として、中山太郎でございますが、二院制の問題で皆様方にある問題を提議したいと思います。

 それは、二院制の場合、衆議院が解散される、そして参議院が同時選挙が行われる、こういった場合に、参議院議員はいわゆる任期中に選挙が行われるわけです。衆議院は、解散になると議席がなくなります。

 こういったときに、例えば、天皇に御不幸があった場合、あるいは内閣総理大臣が死亡される場合、あるいは外国からの侵略を受ける場合、国家の大災害が起こった場合、こういった場合に、参議院の場合は、参議院が議院運営委員長に連絡をして、議長が緊急集会を招集するわけです。そうして、選挙をやっている半数の参議院議員も任期中でありますから、これが選挙を中断して緊急集会に参加をして国家の大事件に対処する仕組みが、現行の国会法あるいは憲法で制定されております。

 だから、ここで一院制にするか二院制にするかという議論をなさる場合には、ぜひひとつ、この国家緊急事態の場合に衆議院が解散したときに、国民の代表者がいないところで内閣が行政を執行しますけれども、そのときの国会というものをどうするか、これを今後お互いに研究していただくことが必要ではないか。

 たまたま私が参議院の議院運営委員長をやっておりましたときに同時選挙になりまして、そのときに、事務総長であった方をお招きして、緊急集会をやる場合の事項を聞きました。先ほど申し上げたようなことが報告されました。皮肉なことに、その選挙中に大平正芳総理が亡くなられたわけです。そうなりますと、内閣の総理大臣がいないわけでありますから、一体だれが内閣を総理するか。こういったときに、伊東正義官房長官が、遺言で伊東さんということに決めてあった、こういうことで一応内閣の総理大臣の臨時代理が決まったわけであります。

 二院制を廃止する場合の一院制の持たなければならない国民に対する大きな責任をどの機関で果たすか、これがやはり大きな検討の議題の一つだろう、私の体験からそのようなことを感じておりますので、一言発言をさせていただきました。

 他に御発言はございませんか。

 それでは、発言も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、来る十七日木曜日午前八時五十分幹事会、午前九時調査会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時三十五分散会


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