衆議院

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第3号 平成17年2月17日(木曜日)

会議録本文へ
平成十七年二月十七日(木曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君

   幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君

   幹事 赤松 正雄君

      大村 秀章君    加藤 勝信君

      河野 太郎君    坂本 剛二君

      柴山 昌彦君    中谷  元君

      永岡 洋治君    野田  毅君

      葉梨 康弘君    早川 忠孝君

      平井 卓也君    平沼 赳夫君

      松野 博一君    松宮  勲君

      三原 朝彦君    森山 眞弓君

      渡辺 博道君    青木  愛君

      稲見 哲男君    大出  彰君

      岡本 充功君    鹿野 道彦君

      楠田 大蔵君    近藤 洋介君

      鈴木 克昌君    園田 康博君

      田中眞紀子君    辻   惠君

      中根 康浩君    長島 昭久君

      西村智奈美君    計屋 圭宏君

      古川 元久君    馬淵 澄夫君

      笠  浩史君    渡部 恒三君

      大口 善徳君    高木 陽介君

      長沢 広明君    福島  豊君

      桝屋 敬悟君    山名 靖英君

      塩川 鉄也君    吉井 英勝君

      土井たか子君

    …………………………………

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

二月十七日

 辞任         補欠選任

  園田 康博君     西村智奈美君

  馬淵 澄夫君     楠田 大蔵君

  和田 隆志君     近藤 洋介君

  太田 昭宏君     桝屋 敬悟君

  高木 陽介君     長沢 広明君

  福島  豊君     山名 靖英君

  山口 富男君     吉井 英勝君

同日

 辞任         補欠選任

  楠田 大蔵君     長島 昭久君

  近藤 洋介君     和田 隆志君

  西村智奈美君     園田 康博君

  長沢 広明君     高木 陽介君

  桝屋 敬悟君     大口 善徳君

  山名 靖英君     福島  豊君

  吉井 英勝君     塩川 鉄也君

同日

 辞任         補欠選任

  長島 昭久君     岡本 充功君

  大口 善徳君     太田 昭宏君

  塩川 鉄也君     山口 富男君

同日

 辞任         補欠選任

  岡本 充功君     馬淵 澄夫君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法に関する件


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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を進めます。

 本日の午前は、財政・地方自治について自由討議を行います。

 議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。

 発言時間の経過につきましては、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、早川忠孝君。

早川委員 自由民主党の早川忠孝であります。

 財政及び地方自治に関する規定について申し述べたいと思います。

 私は、八十九条を除いては、基本的に改正の必要がないと考えております。

 そこで、まず、財政の点について申し上げます。

 現在の憲法を策定するに当たって立案者の念頭にあったのは、いわゆる財政民主主義の確立だったと思います。財政運営は行政権が帰属する内閣の専権事項でありますけれども、これを国権の最高機関と位置づけられている国会の議決によらなければならないとするところに大きな意義があったと考えております。憲法八十四条の租税法定主義や、八十五条、八十六条、八十七条、九十一条などが財政民主主義の大宗を示したものと理解しております。戦後六十年の節目を迎える今日においても十分これらの規定が通用するものであり、これを変更する事情がないと考えております。

 現在の憲法の制定時の状況を色濃く反映しているのが、第八十八条の皇室財産及び皇室費用に関する規定であります。大日本帝国憲法、明治憲法において日本国の統治者として位置づけられていた天皇を、国民主権制度のもとの象徴天皇と位置づけることによって戦後の日本の礎が築かれました。これに伴い、皇室や皇室に帰属する財産をどのように取り扱うべきかが大きな課題となりました。その解決として、第八十八条のとおり、皇室財産はすべて国に帰属するものとし、「皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。」ものとしたものであります。

 連合国軍の施政権のもとに置かれ、公職追放や極東軍事裁判、東京裁判が行われるといういびつな状況の中で戦後の国づくりを進めざるを得なかった当時の我が国にとって、憲法八十八条の規定は、象徴天皇制を実質化する極めて重要な規定であったと考えております。現時点においてこれを変更する必要はないと考えております。

 第九十条の会計検査に関する規定でありますけれども、これは戦後の新しい発明であると評価をしております。

 会計検査院が財政民主主義の確立にどのように機能するかについては、当時は明確な考え方は確立していなかったのではないかと思います。「会計検査院の組織及び権限は、法律でこれを定める。」ということにされたことによって、会計検査に関する制度設計については、すべて国会の審議にゆだねられることになったわけであります。

 しかしながら、これまでの経験にかんがみて、会計検査院制度が十分機能してきたか否かについては疑念を抱かざるを得ません。私は、国民主権主義をより実質化していくためには、現在のいわば官僚制をとっている会計検査院を、より開かれたものとして、専門家等を任期つき公務員として採用する等の方策をさらに進めていく必要があると考えております。

 いずれにしても、会計検査院制度は、現在の憲法秩序の中で、いわば国民主権を実質化するためのビルトインスタビライザー、制度安定装置として位置づけられているというふうに考えておりますので、その所期の機能を果たすことが求められていると考えております。

 財政の手法についてどうしても改正が必要なのは、第八十九条であります。

 第八十九条は、公の財産の公共性を確立し、宗教上の組織等のために公の財産を支出し、または利用に供してはならないという限りにおいては、大きな意義が認められます。これにより、戦前の国家神道との決別を憲法上明記したことになると考えております。

 しかしながら、「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業」に対しても同様に公の財産を支出等してはならないと規定したのは、明らかに立法ミスではないかと考えております。字義どおり解釈すれば、私学助成は憲法八十九条に抵触すると考えざるを得ません。NPOやNGO等の民間のボランティア活動等に対し公的助成をすることもできないという理屈になります。

 現在は、さまざまな迂回措置をとることによって、直接には八十九条に抵触しないような法形式をとっておりますが、これまでの運用の実態に即して、八十九条を全面的に改正すべきであると考えております。

 また、いわゆる玉ぐし料の公費支出について、これを違憲とする裁判等が起きております。

 私は、総理大臣と公務員のごく一般的な習俗的な行事への参加については、仮にそれが一部宗教的色彩を帯びたとしても、特に特定の宗教団体への支援と認められないような事情がある場合には、公共性のある行為として公費の支出は認められるべきであると考えており、そのように憲法の条項を改正することが相当であると考えております。

 国及び地方の財政は極めて逼迫し、いわば破綻寸前と言われる現時点において、私は、財政の規律を回復することが極めて重要であると考えております。その意味で、現時点において、いわゆる健全財政条項を憲法に設けることを検討することには大きな意義があると考えております。

 また、公の財産の支出の公共性を制度的に担保するために、それが真に公共性に合致するものであるか、あるいは支出の手続について公正な手続によってなされているか、あるいはその支出の手続のすべての過程が公開されているか、公共性、公正性、透明性等の原則を憲法に明記することが適当であるか等についても検討課題とされてよいと考えております。

 次に、地方自治について申し述べます。

 第九十二条は、「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」と規定しております。ここに言う「地方自治の本旨」とは何かという議論があり、また、極めてわかりにくいという批判があります。しかし私は、「地方自治の本旨」という表現は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という象徴天皇制のこの「象徴」という表現と同様に、現在の憲法の最も大事な要素を表現するものであり、これを変える必要はないと考えております。

 地方自治は民主主義の学校であると教えられてまいりました。ここで、地方とは、国あるいは中央政府に対する概念であり、自治とは、文字どおりみずから治める、オートノミーということであります。

 その具体的内容は、第九十三条二項、すなわち「地方公共団体の長、その議会の議員」「その他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。」ということにあり、また、第九十四条に述べるとおり、「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。」このことにあると考えております。官選知事等が選挙によって選ばれるようになったということに極めて大きな意義があると考えております。

 現在、地方分権の推進あるいは市町村合併の推進等の二つの流れが加速をしてまいっております。こういった流れの中で、廃県置藩あるいは道州制等の議論が出てまいっております。私としては、これらの議論については、憲法の改正なくしてはこのような制度改正をしてはならないというふうに考えております。

 全国で三千二百余りあった市町村の合併が進展し、すべての市町村が人口四十万人以上の規模となり、自立できる財政保障あるいは必要な人材の確保ができた場合には、都道府県はその役割を終えるものと考えておりますけれども、現時点では、現在の市町村はいまだ脆弱であり、都道府県を廃止するような制度設計は現実的ではないと考えております。

 自分たちのことは自分たちで決める、地方のことは地方で決めるということを徹底しますと、一つのコミュニティーとして成り立たぬような大きな規模の団体は自治団体としては適当ではないというふうに考えられます。現在の都道府県についてもそのような批判は当たりますが、これは、江戸幕府時代以来のさまざまな歴史的な経過、あるいは地理的な一体性を持っている、あるいは文化的な背景があるということの中で、これはそれなりの意味があると考えております。

 これからの問題は、地方分権が進む中で、地方と国とのかかわり方が大きく問題になろうかと思っております。すなわち、地方公共団体が国の規制基準より厳しいさまざまな規制基準を定めることを許すか、あるいは、地方公共団体が国とは独自の土地利用等の新たな規制条例を制定することができるようにするか、あるいは、地方公共団体に国とは独自の課税権あるいは税の徴収権を持つことができるようにするか、さらに引き続いて、地方公共団体に司法権、裁判権を認めることまで考えるかといった問題が出てまいります。私は、これらの問題はすべて国が最終的に責任を持つべきであり、現在の地方自治制度は特に変える必要はないと考えております。

 しかしながら、問題点としては、現在の法律では、条例等の法律適合性の審査権限が裁判所にしかないということであります。私は、立法府である国会に、条例や国の政省令あるいは通達についての法律あるいは憲法適合性を審査する権限を付与し、そのための常設機関を国会の中に置くことが望ましいのではないかと考えております。現在、二院制について議論が出ておりますけれども、参議院をどうしても残すという結論をとるのであれば、参議院をいわゆる憲法院的な構成にし、参議院にこれらの権能を付与するということがよいのではないかなと考えております。

 最後に、外国人の地方参政権の問題が……

中山会長 早川忠孝君に申し上げます。申し合わせの時間が過ぎておりますので、結論をおまとめください。

早川委員 ありがとうございます。地方参政権の問題がありますが、これについては、さまざまな観点から、国籍法の改正で対処すべきではないかというふうに考えております。

 以上であります。

中山会長 次に、古川元久君。

古川(元)委員 民主党の古川元久でございます。

 財政及び地方自治について若干のコメントを申し上げたいと思います。

 まず、財政についてでございますけれども、我が国の財政、そしてまた、国、地方を合わせまして大変な、膨大な借金を抱えているという状況にありまして、こうした状況を今後とも続けていくということは、政府に対する信頼を失うということにもつながりますし、そしてまた将来世代に過度な負担を負わせるということで、現在に生きる者として大変にこれは無責任だと思います。そういう意味で、憲法の中にそうした財政規律を何とか維持できるようなそういう仕組みの基本的な原則を織り込むということは、極めて大事なことだというふうに考えております。

 では、どのような形で財政的な面から財政規律を維持するそうした仕組みを持ち込むかということでございますが、そのためには、まずやはり、公会計の仕組みというものをきちんと整備する、その大原則を憲法上規定することが必要ではないかというふうに思います。

 公会計制度が透明性の高いルールと公正な第三者機関の監視の下に置かれる、そういう公会計のあり方に関する基本原則をやはり憲法の中に明記して、そのもとで、その公会計のルールに基づいて、現在負担あるいは将来負担、そうしたものを含めた財政状況がきちんと国民にも提示され、そして、そうした情報が提示された中で、実際に現在世代の負担、そして将来世代にどれだけの負担をお願いできるか、そうした議論も政府そしてこの国会の中で議論できるようなそういうシステムをつくるということが、財政規律を維持する上で極めて大事なことだというふうに思います。

 そういった意味では、これまでの予算単年度主義というものも、複数年度予算制、そうしたものも可能となるようなそういう仕組みというものも考えていくべきだというふうに思われますし、また、予算編成システムの途中の過程でも国会のチェックというものができるようなそういう仕組みというものも、その基本原則の中には入れていくべきではないかというふうに思います。同時に、予算執行、そして行政の執行、それに対しまして国会がきちんとチェックをできる、国民がきちんとその監視をできる、そういう仕組みというものを入れていくことも、財政規律を維持する上で極めて重要でございます。

 したがいまして、会計検査院の機能を強化するとともに、私どもが従来から主張しております、国会の中に新たに行政監視院という、行政の執行状況をチェックするそういう機関をつくって、そのもとで、行政の執行状況、そして予算の消化状況、そういうものについてきちんとした監察や調査を行って、そして必要な勧告を行うということも、これは一定限度のところで憲法に規定するということも十分に考えるべきではないかというふうに思います。

 そして、財政については、内閣総理大臣の、予算、決算の提出者として全責任を負うべきことと、そして、予算編成方針の決定段階から国会への説明責任を果たすべき、そうしたことも憲法の中に明記をすべきじゃないか。また、現行財政法上で規定されております基本原則についても、その一部分は憲法に書き入れることを検討してもいいのではないかというふうに思っております。

 さらに、決算報告につきましては、事実上、現在二年以上かかっておりますけれども、こうしたものにつきましても、本来は次年度予算の編成にその決算の結果が生かされる、そうした仕組みをつくることが必要でありますから、やはり、概数でも結構ですから、決算報告が翌年度の予算編成に利用できるようなそういう仕組みを確立して、それを義務づけるということも考えるべきではないかというふうに思っております。

 次に、地方自治について若干のコメントを申し上げたいと思います。

 我々民主党は、従来より分権国家の創造を目指してまいっておりますけれども、現行憲法、地方自治については四カ条の原則的規定を定めておりますけれども、しかし、それが十分に機能しているとは残念ながら言える状況にはありません。むしろ、こういう状況の地方自治の原則が定められているにもかかわらず、中央政府はみずからの事務や権限を一貫して肥大させ続けて、そしてその結果、むだな箱物ができたりとか、そしてまた、結果としての膨大な財政赤字というものを生み出したり、そしてまた、美しい自然や多様な地域文化が破壊される、そして地方が疲弊してしまうという結果が生まれてきたとも言えるのではないでしょうか。

 そうしたこれまでの行き方を根本的に転換させる、地域のことは地域で決める、自分たちのことは自分たちで決めるという民主主義の原点に立ち返った分権国家への転換、そのことを高らかに憲法の中でうたうべきであるというふうに私どもは考えております。

 そして、この分権国家、それを担保するための規定といたしまして、行政権限配分は憲法上明確にすべきではないかというふうに考えております。地域でできることは地域にゆだねるという補完性の原理に立脚して、住民に身近な行政は優先的に基礎自治体に配分し、また、都道府県は広域的に再編して道州を設け、司法、外交、出入国管理など、国家主権にかかわる行政を除く大半の広域的行政は道州に移管するということを規定してはいかがかというふうに考えます。

 さらに、自治体の立法権限も強化する、そのことも明記をしていかないと、憲法上保障していかないといけないと思います。これまでのような法律の範囲内での条例制定権限ではなく、地方自治体と中央政府の権限配分に対応して、地方自治体に専属的あるいは優先的な立法権限を憲法上保障する必要があるというふうに思っております。

 さらにまた、住民自治に根差す多様な自治体のあり方を認めていかなければなりません。自治体の組織運営のあり方は住民自身が決めることを原則とし、これまでのような首長と議会の二元代表制だけでなく、例えば執行委員会制や支配人制など、それぞれの地域で自分たちがその組織形態を決めて、その地域コミュニティーに合った地方自治体のあり方というものを考える、そういうことができるようにするべきではないか。そしてまた、住民投票なども可能にするような住民発案住民投票制度など、そういうものも自治体の中で採用ができるようなそういう権限を自治体に与えるべきだというふうに思っております。

 そして、そうした中で、地方自治体がみずからの事務事業を適切に遂行できるよう、課税自主権、財政自治権を憲法上保障して、必要な財源をみずからの責任と判断で調達できるようにするということが極めて重要だと思っております。課税自主権は、各自治体がみずからにふさわしいと考える税目、税率の決定権も含まれなければなりません。

 そして、これらを補完するものといたしまして、当然地方によって格差が出てくるわけでありますから、その格差を調整するものとして、現行の地方交付税制度にかえて、新たな水平的財政調整制度を創設することが必要だというふうに考えております。

 財政の規律を保ち、そして地域のそれぞれの特色を生かしていく、これは全く別物のようであって、実は、私は表裏一体をなすものだというふうに思っております。それぞれの地域が自立的に、それぞれの地域での予算の編成のあり方、そして税の集め方、そういうものも含めて運用されていく、そういう中で効率的な政府の運営、そしてむだのない税金の使われ方ということもされるのではないでしょうか。そうした国家をつくっていくということが今後我が国に求められることだというふうに私は考えております。

 以上です。

中山会長 次に、山名靖英君。

山名委員 公明党の山名靖英でございます。

 今日まで五年、憲法調査会の皆さんには大変な論議を続けてこられまして、心から敬意を表する次第です。また、きょうは発言の機会を与えていただきまして、御礼を申し上げます。

 それではまず、第七章の「財政」の問題から端的に申し上げたいと思います。

 まず、八十四条の課税につきましては、現行法におきましては「租税」、こういう言葉を使っております。租税となれば、すべての税目を網羅するという意味になるわけでありますが、これからの地方公共団体の自主課税、課税の自主権ということを考えていく際には、やはりここは、その税目と区別をするという意味から国税、こういう言葉を使った方がいいのではないか、まず一点そのように考えております。

 さらに、八十六条の予算につきましては、私も、現行の単年度主義の予算編成につきましては、やはり、駆け込み執行、こういう弊害等も出ておりますし、かなり硬直的な予算編成システムになっている、こういう意味合いから、複数年度予算、こういったシステムを導入すべきではないか、このように思う次第でございます。

 九十一条の財政状況の報告等につきましては、国の財政運営に企業会計を導入いたしまして、一層国民にわかりやすく、明確な国の財政運営についての情報公開、これに資する、こういうことでの企業会計導入をしてはどうかと考えております。

 九十条の会計検査院につきましては、会計検査院をむしろ国会に帰属をさせまして、内閣、内閣総理大臣にその改善措置を勧告することができる、こういったシステムの導入を図ってはどうか、このように思っております。

 次に、第八章の「地方自治」の観点でございますが、御承知のように、戦後六十年近くたちまして、地方自治をめぐるこういう実態も状況も大きく変化をしてきております。今、地方分権一括法の制定の中で、まさに地方分権は着実に実行段階に入っておりまして、目下、いわば市町村合併の推進、こういったことが喫緊の最重要テーマでございます。合併による市町村の行財政基盤の充実、これは、分権時代にふさわしい地方自治体をつくる上で極めて重要であり、また望ましいものではないか、こういうふうに思っております。

 しかし一方、地方自治の実体論からいいますと、それぞれの地域社会における連帯感、あるいは協働、ともに働こう、協力し合って働こうという精神、さらには地域の文化、芸術、伝統、こういったものに対する住民の意識というのが極めて薄くなってきている、こういった懸念も一方であるところでございまして、そういった意味では、今、この憲法論議を通じて地方自治をいま一度見直していく、大転換を図っていくという意味からも、私は意義あることではないかと思っております。

 そこで、特に憲法のこの第八章、ここでは、九十二条で基本的な原則をうたい、九十三条で住民自治をうたい、九十四条で団体自治をうたい、九十五条で国との関係、こういった四条五項目、こういったことで規定をしているわけでありますが、基本的原則というこの観点、すなわち地方自治の本旨、この意味、内容というものがいま一つ明確ではないのではないか。

 当初、この憲法草案のときには、地方自治の基本精神を的確に表現するという言葉がなかなか見つからなかったというふうにも聞いていますけれども、当時のいわゆる市町村、町村というあり方のそういう時代から、今はまさに、近代都市、広域地方自治体等に当たる府県の現在の状況を見ても、こういった地方自治の本旨という、意味がもう一つ明確ではない言葉というのは余りなじまないのではないかというふうに思っております。

 当然、団体自治あるいは住民自治、これを根幹にしているということは、自明の理として当初制定されたとは思いますけれども、であるならば、いま少し、地方分権的要素なりあるいは民主主義的要素を含めたこういった表現については、明確な表現にすべきではないか、こういうふうに思います。

 それとともに、先ほど申しましたように、地方分権をさらに進めていく上において、やはり、憲法上もこういった地方分権の規定というものをさらに明確に設けるべきではないかというふうに思っております。現行地方分権推進法あるいは地方自治法等の改正によりまして、それぞれの地方の自立性あるいは自主性というものは極めてハイレベルな形で規定はされているわけでありますが、憲法上、地方分権の理念というものを明確にしていく、さらには国と地方の役割、こういうことに関してもやはりいま一歩強化していくべきではないかというふうに思う次第でございます。

 さらに、国と地方の関係の観点から申し上げますと、共通の目的である国民、住民福祉の増進、これに向かって相互に協力する関係、こういう表現、こういったことが私は大事じゃないかというふうに思っている次第でございます。さらには、地方の税財政のあり方につきまして、国の責務として、地方自治体の健全な運営を支援して地方の自立性を高めていく、地方に負担を転嫁することを禁ずる、ここまでやはりうたうべきではないかというふうに思っております。

 そういう意味では、国と地方の役割分担に応じた地方税財源の確保を図る規定というものをやはり設けるべきではないかと思う次第であります。

 さらに、課税自主権の問題でありますけれども、地方自治法なり地方税法におきましては、この課税自主権という問題からいろいろと取り組みをしているわけでありますが、ここには「法律の定めるところによつて、」こういう表現を使っておりまして、これは、言いかえれば、地方の自由度あるいは自立性というものを一定制限をしている、こういうことにもなるわけであります。

 私は、現在の地方財政の実態からいっても、今後、この課税自主権を憲法上も明記をした上で地方の税財源の確保というものを図っていかなきゃならないわけでありますが、ある意味では、全国知事会等でも論議があったようでありますが、既に地方においては主要な税源はもう法定化されている、財源をこの課税自主権の活用で生み出すということは極めて困難であるというような論議もあったようでございまして、ある意味で否定的でもございます。

 しかしながら、これからの地方の自主性、自立性、そして国と地方の役割、そういう観点、そして受益と負担、こういう観点から考えても、それぞれ地域住民がみずからの責任において税目を決め、税率を決め、そして、住民と行政が向かい合って新たな福祉行政のさらなる増進に力を相互に発揮していく、こういう観点から課税自主権の保障というものはある意味で必要ではないかというふうに思っている次第でございます。

 さらには、現行の交付税制度につきましては、これからの地方自治体のあり方として、やはり一定の保障機能、調整機能、こういった意味では必要ではありますけれども、いま一歩進めて、財政調整制度というものを新たに設けてはどうか、こういうふうに思っている次第でございます。

 羅列的に申し上げましたけれども、今後の取り組みをよろしくお願いしたいと思います。

 以上でございます。

中山会長 次に、吉井英勝君。

吉井委員 日本共産党の吉井英勝です。

 財政、地方自治について発言いたします。

 日本国憲法の財政条項を見ていく上では、憲法の国民主権、恒久平和主義、基本的人権の尊重という基本的原則に照らして見るということが大事だと思います。

 日本国憲法は、「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。」と八十三条でうたい、財政国会中心主義の規定を置いています。具体的基本原則として、八十四条で収入の面における租税法律主義、八十五条で支出の面における国会議決主義、八十七条、八十八条で予備費や皇室費に対する国会の権能、九十条で決算の国会への提出、九十一条は財政状況の国会、国民への報告の義務、そしてさらに、財政処理の原則として宗教団体等への公金の支出を禁じ、国家の中立性を保つとともに、財政民主主義の見地から公費乱用の防止を図っているのが八十九条の規定であります。

 日本国憲法が八十三条の総則的規定を初め詳細な財政条項を定めたのは、これは、明治憲法下で財政に対する議会の関与が厳しく制限されるもとで、天皇制政府が起こした侵略戦争遂行のために国債を乱発し国の財政を破綻させたことへの反省があり、また、一二一五年のマグナカルタ以来の財政立憲主義、財政議会主義をさらに発展させた財政民主主義の思想を取り込んだものと言わなければならないと思います。

 こうした憲法の原則に照らして、日本の財政状況は今どうなっているか。まず、財政規律、財政健全化の問題について述べたいと思います。

 憲法に基づいて制定された財政法では、「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。」としています。公共事業費などに限って公債の発行等は認めるものの、国の歳出は租税等をもって財源とするという原則を定めています。

 ところが、歴代の政府はこの原則をないがしろにして、一九六五年に戦後初めて国債を発行し、均衡財政システムの一端を崩してきました。七五年度からは、公債発行特例法を制定して特例公債、赤字国債を発行し、バブルの一時期を除いてそれが常態化しています。その結果、国の長期債務残高は五百兆円を超え、国と地方を合わせた債務残高は対GDP比で一六一%と、先進主要国の中でトップという事態になってしまいました。

 自民党などの一部から、国の財政を悪化させた原因が、憲法に財政健全化の規定がないからだとする主張がありますが、これは、みずからが所属する政党の政権がこれまで行ってきた行為を省みない主張であり、これは無責任だと言わなければならないと思います。

 次に、税金の集め方の問題について述べたいと思います。

 憲法の租税法律主義に基づいて、戦後の日本は、直接税中心主義、生計費非課税と、負担能力に応じた累進課税、申告納税制度という原則は一応確立してきました。これらの原則は、経済所得格差の縮小、緩和を図り、所得再配分機能を果たすものでありました。

 ところが、この点でも歴代政府はこの原則を踏みにじって、累進性の緩和、消費税の導入などによって所得再配分機能を著しく低下させ、富める者はますます富み、貧しい者からも厳しく取り立てる制度へと変えられてきました。定率減税の縮小、廃止、消費税の税率アップは、さらに税制における貧富の格差を大きくするもので、許されないものであります。

 次に、会計検査院について述べたいと思います。

 憲法第九十条二項に基づいて会計検査院が設置されていますが、これがふさわしく機能してきたのかどうか。特に、最近では警察の裏金づくりの問題が国民の大きな批判の的になっていますが、会計検査院は戦後一度も警察の不正経理について告発したことがありません。機密費の検査も含め、会計検査院が憲法の規定にふさわしくその役割を果たすように、体制と機能を強化していくということが今重要な課題になっていると思います。

 財政問題の最後に、私学助成の問題について触れたいと思いますが、本調査会でも一部の委員から、私学助成は憲法第八十九条に違反するとの主張がなされておりましたが、私学助成は憲法上も是認され、かつ確立しているというのが政府の一貫した見解でありました。このもとで私学振興助成法が制定され、厳に運用されています。教育を受ける権利を定めている憲法二十六条の立場からも、私学助成というのは憲法上当然の措置であるというふうに考えるものであります。

 次に、地方自治についても述べたいと思います。

 日本国憲法は第八章に地方自治を規定していますが、これを見るときも、憲法の基本原則を踏まえることが重要です。憲法の地方自治の原則は、「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」と、九十二条で総則的規定を置いています。この地方自治の本旨の内容というのは、団体自治と住民自治であります。住民自治の上に立つ団体自治、これが大事なところであります。

 以下、住民自治の具体化として、議会の設置、地方公共団体の長、議会の議員等についての住民の直接選挙制を九十三条で定めており、団体自治の具体化として地方公共団体の行政的機能と立法的機能を定め、これは九十四条、さらに九十五条で、住民自治の保障として、地方自治特別法に関する住民投票を定めております。

 明治憲法のもとでは、知事が官選であったことを初め、地方公共団体に自治が認められていなかったもとで、天皇制政府が起こした侵略戦争に国民を駆り立てていく道具とされてしまったという経過があります。日本国憲法の地方自治の原則というのは、こうした戦前の反省と、地方自治は民主主義の源泉であり民主主義の学校であるというブライスの言葉に象徴される地方自治の原理を取り込んでいったものであります。

 こうした憲法の地方自治の原則に照らして、日本の地方自治の現状は今どうなっているか。地方分権改革、三位一体改革は叫ばれておりますが、分権にはほど遠く、逆に、国の地方に対する統制が強まっているというのが現状ではないでしょうか。

 九九年に制定された地方分権一括法は、それまでの機関委任事務は廃止したんですが、その四割強が法定受託事務として残りました。しかも、それまで憲法の規定から権力的関与は認められてこなかった自治事務に対しても、法的義務を負う是正の要求を明示し、それを出すのも、内閣総理大臣一人からすべての大臣に拡大しました。また、個別法で代執行できる旨の規定が初めて地方自治法に盛り込まれてきました。

 昨年五月の統治機構小委員会で辻山幸宣参考人からも、一括法施行五年が経過しても、国の行政統制は表紙を取りかえただけとの指摘があったところであります。これは、団体自治をないがしろにするものだと言わなければなりません。

 また、地方分権の名で米軍用地特措法の改悪を盛り込み、地方自治体、住民をアメリカの戦争に動員する仕掛けをつくったことも、団体自治への侵害であり、憲法の平和原則に背くものであるということを言わなければなりません。

 地方議員の定数削減は、憲法九十三条が保障する住民自治を切り縮めるものであります。

 また、市町村合併が今強制的に進められておりますが、これについては、辻山参考人からも、地方自治体が住民自治の拡充の努力を呼びかけてもいわば地上げ状態で、そのことに大変憤りを感じているとの指摘がありました。合併した地方自治体では、負担はより高い自治体にならされ、住民サービスはより低い自治体にならされているということが起こって、住民生活を圧迫しているのが実態です。実際、合併によって、例えば乳幼児医療は就学前まで無料制度をしいていた自治体が、合併によって三歳以下までに引き下げられたという例などを見ることができます。

 市町村合併の先に道州制を導入すべきという議論がありますが、日本経団連を初めとした経済団体は、そろって将来の道州制の導入を提言しています。

 ことし一月に発表された日本経団連の「わが国の基本問題を考える」では、これからの中央政府は、外交、安全保障など、国全体としての整合的、一体的に取り組むべき課題に集中して政策資源を投入すべきとし、国民生活や企業活動に密着したインフラ整備や住民サービスについては地方の所管とすべきとして、官と民の役割分担という言い方で、地方レベルでの行政サービスの整理削減や効率化をうたっています。これは、国の役割を国防や外交などに特定し、国が対外政策上の国益に専念できるようにする、それ以外を道州自治体の役割としていくというものであります。

 今日、財界が進めようとしている新自由主義的改革の受け皿として道州制を位置づけているものでありますが、しかし、地方自治の本旨が住民自治を含み徹底した民意による政治を求めていることからすれば、道州制はそれに反する方向への変革にほかならないと指摘があるように、道州制の導入は、憲法が定める地方自治の原則にも地方自治の発展の歴史にも逆行するものと言わなければなりません。

 以上で、私の発言を終わります。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 社民党の土井たか子でございます。

 私は、財政問題について、そして私学への国庫助成の問題について、さらに道州制について、多くをきょうは問題にすることができませんが、そのある視点からこの問題について述べさせていただきます。

 内閣は予算の作成権を持っております。そしてまた、内閣が作成した予算について最終的な決定権は国会にございます。このことは、憲法の八十六条という条文の中で明らかに定められているところでございます。財政民主主義の一環だというふうにこれを理解しなければならないと思います。

 また、会計年度独立の原則、予算の単年度主義ですね、会計統一の原則、総計予算主義の原則、予算事前議決の原則ということも勢い論じられて今日に及んでいるわけですけれども、まず予算の単年度主義については、完成までに数年もかかるというような大きな事業が行われる場合には、やはり、厳格に単年度主義を守ろうということになると、予算を執行する立場からどうも不都合だというようなことが大いに論じられて例外規定が出てまいった中に、いわゆる継続費制度、それから国庫債務負担行為制度等々がございます。きょう私は、ここでは継続費制度について申し上げたいと思っているんです。

 財政法の十四条の二にこのことが定められているわけですが、完成に年度を要する事業にこれは充てられるわけですね。実は、旧憲法、大日本帝国憲法の場合には、憲法の六十八条でこの継続費問題が定められていたんですけれども、現行憲法にはこの規定がございません。制定当初の財政法にもこれは定められておりません。そこで政府は、ダムやトンネル工事などの大型公共事業を持ち出しまして、一九五二年、財政法を改正して継続費制度が設けられたわけです。しかしそのときに、憲法上疑義があるというので、随分これ論議になっております。

 議事録をたどってみますと、この問題に対しての討議の焦点というのは、大きく言って二つあったように思います。

 一つは、旧憲法に規定があって新憲法にこの規定がないということは、この日本国憲法が継続費制度を認めないという立場に立った取り扱いではないか、したがって、継続費というのを問題にするというのは憲法の趣旨に反するという論点が一つなんですね。

 そしてあと一つは、複数会計年度を前提にしている継続費というのは、先ほど申し上げました日本国憲法の八六条の単年度原則ということを鮮明にしている規定に対して反するんじゃないか、この疑義が出まして、憲法上大きな問題になったんです。

 この背景には、継続費制度を認めるということが財政規律の維持や健全化を損なうのではないかという意見であるとか、かつてのように、大日本帝国憲法当時、戦費のためにこれが使用された、わけても軍艦建造に大変にこれが活用された、そして、戦争遂行のための財源づくりということになったという経緯があると。現に、財政法五条の公債の日銀引き受け禁止という条項も、こういう過去のいろいろな反省の上に立ってなされた趣旨がその条文の中には生きているということが問題視されております。

 実際、大日本帝国憲法の六十八条は明文で継続費を認めておりましたけれども、事実、これが戦費に乱用されまして、議会の審議権というのが非常に弱められる結果になっていったという経緯がございます。このことなどを取り上げて随分その当時論陣を張られていたのが、木村禧八郎さんなんかを初めといたしまして、そして政府側は、大蔵大臣が池田勇人さんであり、後に、総理大臣としても、予算委員会の席ではこのことがよく論議の対象になったといういきさつがございます。

 ところが、その後、導入の理由とされた公共事業については、景気に左右されるということで継続費は余り活用されておりません。しかし、現在継続費が組まれている事業を見ますと、防衛庁のイージス艦や潜水艦の建造ということにこの経費の総額と年割額というのが決められているわけでして、軍艦建造に乱用されたという過去のその経緯にかんがみて、非常にこのことに対して危惧を持っておられた木村さんのやはり質問を通じての御発言というのが、何だか当たっているというふうにもこれは考えなきゃならないなと、私は読んでいてつくづく思うんです。

 そもそも憲法というのは、主権者国民による権力者への授権を決めているわけなんですから、制度として旧憲法にあった継続費がわざわざ削除されたということからいたしますと、憲法から考えて、これは、主権者国民は権力者に対して授権を行っていないじゃないかということを、やはりこの問題に対しても認識することが非常に大事なのではないかと思うんです。

 予算の単年度主義について会計年度を一年とすることを前提としたのが、憲法、財政法の決めております財政システムなんですから、そういうことからすると、単年度予算についても、予算の透明性というのが十分確保されていなければならない。現実はそうではないというところが実は問題だと思うんです。多年度予算になればさらに透明性が確保されにくいというふうな問題もこれは生じます。

 したがって、単年度が問題だ、したがって継続主義ということを考えてもいいのではないか、継続費制度というのを考えてもいいのではないかと言われる問題は、実はその行い方にあるのであって、中身からすると、継続費制度というのは、そういう経緯があるということについてやはり苦い経験を忘れてはならないとまず思うんですね。

 しかし、ここで申し上げたいんです。そもそも憲法と財政について論議する以前の問題として、十分に、国会に対する予算、財政の透明化が図られて、国会がコントロール可能な状況に置かれているかどうかという問題です。議決のあり方をどのようにするのかといったことも、これは大事な観点だと私は思うんですね。

 例えば、ここに私は平成十七年度特別会計予算の表紙の次の部分をコピーして持ってまいりましたけれども、一会計、そして三十一特別会計、九つの機関の会計、これを審議して、予算委員会では、みんなこれは毎年そうなんですからよく覚えておりますけれども、三案一括して議題として採決するというやり方をとっているんですね。現にここには三十一特別会計というのがずらずらずらっと並んでいるわけですから、これは一つ一つをきちっと審議する必要があるんじゃないでしょうか。

 「国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。」について、単に国会は質問するだけに終わっちゃっている。しかも、国権の最高機関としての国会による修正という例がほとんど今までにはないということも顧みますと、この中身に対して審議のあり方というのが、三案一括審議、採決というのは、おかしなやり方だというふうに思います。

 したがって、いずれにせよ、国民の血税をどう使われるかということを、為政者の立場からすると、国民の代表者として国会が決めるというところにこの議会制民主主義のあり方というのを生かそうということになっているわけですから、それに対してやはりこたえた審議でなければならぬと思うんですよね。

 まず隗より始めよということをそこで私は申し上げたいのは、当憲法調査会におきましていよいよ最終報告書をつくらなければならないということが近づいておりますけれども、これに対して既に予算が組まれております。議運の方で問題にされたという経緯もございますが、ここでの庶務小委員会を通じて具体的に出されている額もございます。しかし、中身をどのように、予算に対してこの報告書を作成することに使うかというのは、この調査会がやはり問題にして、ある意味における審議をして決めるということが必要なんじゃないんでしょうか。

 隗より始めよという言葉もございますから、この最終報告書作成の予算についてぜひともお取り上げいただいて、その問題に対して私たちも意見を申し述べる機会がつくられますように、会長に特にそのことを希望したいというふうに思います。

 あと、私学助成の問題や、それからさらには道州制の事柄について、もう時間が来ましたから、後の五分間の自由討論のときを使わせていただくことにいたしまして、ひとまず終えたいと思います。

 ありがとうございました。

中山会長 土井委員の御提言は、後刻、幹事会において協議をさせていただきます。

 これにて各会派一名ずつの発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと思います。御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

大村委員 自由民主党の大村秀章でございます。

 それでは、まず、財政の点につきまして発言をさせていただきたいと存じます。

 この財政の点は、今、各委員の先生方からの御意見も拝聴いたしました。その中で私は、この財政のいろいろな制度、こうしたものにつきまして、例えば複数年度にまたがる財政計画でありますとか、また、いろいろな財政情報の開示またはバランスシートの作成、こうしたことは大変重要なことだと思いますが、これはやはり、国会にゆだねて法律で対応すれば十分ではないかというふうに思います。

 ただ、これから、現在の国の財政状況を考えますと、また、国、地方を合わせて七百兆円を超える大きな借金、そうしたものを考えると、この憲法を今後改正する機会に、やはりプログラム規定としても、財政の健全性を回復してそして維持していくということを国家としての大目標に掲げていくということから、やはりこの健全財政主義をプログラム規定として書き込むべきだ、こういうふうに思います。その点をまず第一点で申し上げたいというふうに思っております。

 それから次に、地方自治につきまして申し上げたいというふうに思っております。

 地方自治につきまして、これも、基本的には国会の裁量、法律にゆだねられているというふうに思うわけでありますが、その際、地方自治の本旨という言葉、これだけでも、もちろん本旨は本旨でありますから、これまでのいろいろな学説、判例の積み重ねで、大方といいますか、方向性はもう決まっているということかもしれませんけれども、改めて、やはり地方分権を、この国の形を、やはり身近な仕事は身近な行政体である地方自治体でしっかりやっていくんだということを、方向性を示していく上でも、地方自治の本旨というところの具体的な内容といいますか、方向性、考え方をこの憲法に書き込んでいく必要があるのではないか。それは、身近な仕事は身近な自治体でやっていく、そのために必要な組織、権限、財源、そういったものは確保されてしかるべきだということをやはり明定していく必要があるというふうに思っております。

 その点をした上で、あと具体的な、私は道州制も賛成でありますし、また、市町村の形態にしても、地方自治法で一律的に日本全国三千の自治体をこうなきゃいけないということにするのはややこれは行き過ぎだと思いますので、例えば、自治体によってはもっともっと簡素な形態を選択できる、そういった道もあっていいと思います。

 また、そういう自治体の中でも、いろいろな行政委員会、例えば教育委員会とかそういったものも全部必置でやっておるわけでありますが、例えば、この憲法の議論とはちょっと外れるかもしれませんが、教育委員会というやり方をずっと戦後五十年、六十年やってきた。もう明らかに失敗したところも幾つかある、全部とは言いませんけれども。

 日本の教育行政の中で教育委員会が本当にまだ要るのか、何で選挙で選ばれた首長さんがその地域の子供たちの教育に責任が持てないのか、市長さんが何で小学校、中学校の先生の人事権もないんだ、何で県の教育委員会がそんなものを偉そうに持っておるんだというようなことを、地元からもそういう怨嗟の声をいっぱい私も聞くわけでございます。そういう意味で、そういったところはもう教育委員会なんかやめちゃっていいんじゃないか。何か知らないけれども、管理教育の、誤った文教行政の何か下げ渡し機関を、何でこんなものを維持しなきゃいかぬのかなというような感じもしておるものですから。それは別のところで追及をしたいと思いますけれども。

 いずれにしても、地方の行政機関及び議会も含めて、もっと弾力的な組織形態ができるようなそんなことも、これは、憲法ではなくて、やはり立法の範囲だと思いますが、そういったことも議論をしていきたいというふうに思っております。

 以上です。

枝野委員 民主党・無所属クラブの枝野でございます。

 私は、私学助成等に関して、憲法八十九条の話をさせていただきたいと思います。

 私は、あの八十九条の文言をどう読んでも、現行の私学助成は違憲としか読めないと思っております。私が不思議でありますのは、憲法の文言を狭く厳格に解釈する立場から憲法九条で自衛隊が違憲という主張をされるのであれば、より一層、八十九条と私学助成の関係は違憲だという主張にならないと、どう考えても筋は通らないと思います。

 また、逆に、どちらも緩やかに文言を解釈してということであるならば、つまり、自衛隊も私学助成も合憲だということならば一定の合理性はあるかと思いますが、この場合にも、とはいっても、自衛隊を九条で明確に位置づけるべきだという主張をされるのであるならば、それ以上に、文言からわかりにくい八十九条の改正の方がより優先順位が高くならないとおかしいのではないか、そういうふうに思っております。

 ちなみに私は、自衛隊は芦田修正などもありまして合憲だと思いますが、私学助成は違憲だというふうに思います。公の支配に属する私学という言葉自体が、そもそも日本語として矛盾をしているというふうに思っております。しかも、この趣旨からすれば、私学であるとか社会福祉事業等が政治や行政からある程度距離を置く必要があるのではないかという趣旨だとよく言われておりますが、まさにそうなっていない弊害が出ているのではないだろうか。

 もちろん、私学助成を受けている私学にも立派な私学はありますけれども、よく見られるのは、そうした現行の学校教育法などの支配に置かれていない、例えば予備校であるとか、それこそまさに私塾的なところが実は非常にいいレベルの教育をしている。そういったところがむしろ、経済的、財政的な側面で私学助成を受けているところとの差別を受けてしまっている、あるいは、現状のNPOなどと、それから、八十九条に反した助成等を受けているいろいろな事業との格差などが出てきてしまっているというような意味で、本来、この八十九条が意図した趣旨に反する現象が私はむしろ出てきているというふうに思っております。

 私は、八十九条の趣旨をしっかりと徹底して、税金を使って行う事業は公がしっかりと管理する、それ以外、民間でできるところはまさに民間でやって、せいぜいやるとすれば、税制上の措置などによって処遇をする、優遇をするというようなやり方で、民間は民間で、公の支配を受けずに、公からコントロールを受けずに自由に行うという役割分担を明確にすべきだというふうに考えます。

 こうした意見に対しては、憲法の二十六条との兼ね合いを主張される方がおられますが、私はここは簡単な話だと思っておりまして、私学に助成をすることは憲法八十九条で禁止をされている、私立学校に通っている子供あるいはその保護者に対して助成を行えばいい。

 つまり、公立学校の生徒児童あるいは学生一人当たりに支出をしている公金の平均値、あるいはその最低値の幅の間のどこかだと思います、それは法律上の立法の裁量があるかと思いますが。その範囲の一人当たりの、つまり公金支出額をきちっと子供に教育をさせている保護者に対して直接支払って、その金をどこの学校に払うかというのはまさに保護者の判断、それは学校教育法上の教育機関であろうがなかろうが、きちっと子供に保護者としての責任に基づいて教育を与えている、あるいは、高等教育であれば自分の責任、判断で教育を受けている、そういう人にお支払いをして、その人が直接学校等に授業料という形で支払えば、しっかりとした、レベルの高い教育サービスとしてすぐれたサービスを提供している私学には従来と同じように財政的には裏づけがつけられるし、しかし、子供たちあるいは保護者から評価を受けない私学は淘汰されていくという私学本来の姿に戻っていくというふうに思っております。

 この八十九条、私学助成の問題、憲法の、自衛隊と九条以上に、少なくとも一般の人が読む文言と実態がずれている。もしこの規定の私学助成を現行どおり続けるべきという主張に立つのであれば、まずこの条文を変えるというところから入らないとおかしいということを強く申し上げておきたいというふうに思います。

 以上です。

葉梨委員 自民党の葉梨康弘です。

 財政について、財政均衡の問題、予算案否決等の非常事態における措置等の論点がありますけれども、憲法八十九条と私学助成の問題について申し上げます。

 私は、そもそもこのような論点が問題となること自体、現行憲法のできの悪さだと考えています。この条項は、GHQ原案では、ノット・アンダー・ザ・コントロール・オブ・ステートの教育機関への助成を禁止していますけれども、このコントロールを支配と訳すのは余り一般的ではありません。この英文を素直に訳せば、私の理解では、公的監督のもとにない教育ということになって、公的に設立認可を受けている私学には公的助成ができるという趣旨になります。そして、この条項は、例えば、明らかなカルト宗教の教育施設あるいは朝鮮学校などの公的監督下にない教育機関への助成を排除するものと考えられます。ところが、この議論の発端は、このGHQ原案を仮訳して閣僚に配付するとき、このコントロールを監督でなく支配と訳してしまい、これが余り議論されることなく成案になってしまったことにあるように思われます。

 このように、戦後六十年も経過して、翻訳調云々の文体の議論はおくとしても、我が国の最高法規の中で用語の正確性にかかわる和訳の稚拙さを引きずることが本当にいいことかどうか、もっと明確にすべきじゃないかというようなことを申し上げたいと思います。

 次に、地方自治について。

 地方自治は、現行憲法について新たに設けられた章で、私は、現行憲法が、地方自治の原則を打ち出して、今、地方にできることは地方にという改革を行い得るまで地方の地力をはぐくんできたことを高く評価します。ただ、基礎的自治体、地方公共団体である市町村において首長の直接選挙が行われ、一定の直接民主制的な制度がとられることは、世界の民主主義国家に共通する原理で、発展させることが必要と考えます。しかし、この考え方が道州制に適用できるかどうか、およそすべての地方公共団体の首長を直接選挙によるとしている現行憲法で本当によいのかどうか、慎重な配慮が必要です。

 現在、おぼろげながら多くの国民が、将来の趨勢として道州制の導入を歓迎しているように思いますし、私もそういう方向は大切だと思います。しかし、その具体的な姿は必ずしも見えてきません。我が国を例えば十程度の道州に分けるとすると、その規模からしても権限からしても、連邦制に近くなります。連邦制とまでいかなくても、州は多くの権限を有し、自治州的な性格が強くなります。となると、確かに中央集権の性格は薄まりますけれども、今度は国家の分裂の危機を考えなければなりません。

 ちなみに米国は、確かに州知事を直接選挙で選んでいますけれども、強大な権力を持つ大統領もまた直接選挙で選ばれます。ところが、連邦国家であり、かつ中央政府が議院内閣制をとるドイツ、オーストリア、オーストラリア、カナダ、マレーシアなどは、州政府は、州議会により負託される一種の議院内閣制をとっています。連合王国であり議院内閣制をとるイギリスも、スコットランド、北アイルランドなどは議院内閣制をとっています。最近、州の権限を拡大して中央政府を議院内閣制としているスペイン、イタリアでは、スペインの自治州はやはり一種の議院内閣制をとっています。イタリアについては、二十州に分けて州知事を直接選挙としていますけれども、特に最近では、北イタリアの知事の間から国家の分離主義の動きも出ているということも聞いています。

 このように、市町村単位の基礎的自治体とは別に連邦的な道州制の導入を考える場合には、その政治体制について、少なくとも諸外国では、中央政府の政治体制との均衡に極めて配慮しています。ですから議院内閣制的な政体を導入している国が多いということになります。これも一種の歴史の知恵だと思います。私は、地方自治あるいは地方の多様な発展は大いに結構だと考えます。発展させなければなりません。

 ただ、今回の三位一体の改革の議論の中でも、たった四十七の都道府県知事の権限の強大化が言われています。我々は、評論家ではなく政治家です。国家百年の計を考えた場合、思いつきで道州制を論じるんじゃなくて、国を十程度の領域に分けて大統領的な首長を置き、例えば、それぞれが治安維持、災害対策のための州兵的な組織を持つことの国としての危険性に改めて思いをはせるべきではないか。そういうことから、道州制についても今後議論を深めていく必要があるんじゃないかと考えております。

 以上でございます。

桝屋委員 公明党の桝屋敬悟でございます。

 私は、地方自治、第八章について意見を申し上げたいと思います。三位一体の改革がただいま進められておりまして、その作業で大変苦労している立場から発言をしたいと思っております。

 私は、先ほど、我が党の山名委員から発言がありましたように、地方分権一括法ができまして、そして今回、ただいま三位一体の改革を進めている、こういう状況からいたしまして、大変混乱をしながら、苦労しながら進めているわけでありますので、その地方分権一括法のまさに出口部分としては、今議論しております憲法の改正ということで、この第八章「地方自治」、とりわけ九十二条の地方自治の本旨ということについて、私は、出口の形として改正があってしかるべきだ、このように考えております。それを目指さなければならないという立場でいるわけであります。

 先ほどから出ておりますように、地方自治の本旨というのは、本旨は本旨で象徴天皇と同じような相当の深い意味があるという話はありましたが、今日までの議論の中で相当整理されておりますし、ここを整理することについて合意は得られるというふうに私は思っております。

 その際に、とりわけやはり、先ほどお話がありましたように、国と地方の関係ももちろんこの中で整理される必要があると思っておりますし、地方分権一括法や、そして地方自治法の中に言われております国と地方の関係でのさまざまな配慮規定、配慮規定で実はとまっているわけでありますが、こうした部分についてはやはり地方自治の本旨という中で整理をしなければならない、このように思っております。これをしない限り、これからの分権型社会は前に進めることはできない、そこまで我が国は来ているのではないか、こう私は思っております。

 とりわけ、この四条の中で地方の税財政に関する基本原則は全くないわけでありまして、何人かの方が言われておりますように、ここもやはり新たに規定をしなければならぬ、こう思っているわけであります。

 道州制についてでありますが、結論から言いますと、私は、道州制については、憲法改正の中で地方団体の二層構造ということを、基礎的自治体とそして広域自治体、この二つの自治体を規定できるものであれば、あるいは規定できなければ道州制はできない、憲法の中で明確に整理をしなければならない、このように考えております。

 今、葉梨委員からいろいろ御意見もありましたけれども、私も、立法権や司法権まで与えるような道州制は賛成ではありませんけれども、しかし、基礎的自治体と広域自治体、これを憲法上規定していくということは時代の要請であろう、このように考えております。

 いずれにしても、そこも含めて憲法で、この第八章の中で、第八章ができたということはすばらしいことでありますが、この八章を発展させる意味で整理ができなければならない、このように思っておりまして、今回の議論にぜひとも期待をしたい、こういう立場でございます。

 以上でございます。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 まず、財政健全化あるいは財政規律の問題でございますが、現在のこの国家財政の状況を考えますと、憲法は、やはり財政の健全性ということについてきちんと規定をしなければいけないと思っております。

 ただ、これにつきましては、例えば単年度ごとのプライマリーバランスを保てとか、そういう義務規定ということは、やはりその時々の財政出動あるいは景気対策というものができないということにもなりかねません。そこはある程度柔軟であるべきでありますが、中長期的に見て、財政の健全化を図ることは極めて大事でございます。したがって、これをプログラム規定として、政府、場合によっては国民の責務として書き加えるべきであるというふうに思っております。

 また、予算の単年度主義がどうか、こういう話も出ておりますが、私は、これについてはやや抑制的だと思っております。やはり、この予算単年度主義というものが財政の規律を辛うじて保っている、これが崩れるとますます健全化から離れる方向に行ってしまうというふうに考えます。

 しかしながら、全く厳格な単年度主義ということでは、年度末の予算の消化のことであるとか、あるいは、その予算が本当に効率的に使われたかどうかということのその検証ができません。したがって、限定的に緩和していくということが必要であると思っております。

 それは例えば、国庫債務負担行為などの財政的な裏打ちのある場合、あるいは五カ年計画などが国会において認められた場合、それを一年ごとに計上していく、このような場合には予算単年度主義を一部緩和するということは有益であるというふうに思っております。

 それから、地方自治の方に話が行きますけれども、地方自治の本旨、先ほど来多くの議員からも指摘をされております。一方では、憲法は住民自治というものを明確に規定をし、同時に、地方公共団体による団体自治も認めるということでございまして、私は、この地方自治の本旨というのは両方存在をする、両方の意味があると思っております。

 ただ、昨今の世論あるいは地方自治をめぐるさまざまな情勢を考えますと、住民自治の方にややバランスが移りつつあるのかなと考えておりますが、団体自治の重要性も、やはりきちんと憲法の中で把握しておく必要があると思っています。

 特に、住民投票の扱いということでいろいろ議論が出ております。確かに、住民投票は即時性があり、また、テーマごとに住民の意思を知るという点では非常に大きな効用があると思っております。しかしながら、この住民投票制度が頻繁に行われる、あるいはいろいろなテーマで何でもできる、こういう状態が常套化しますと、やはり住民自治の要素が強くなり過ぎるというふうに思います。

 それから、住民投票の結果と議会における意思が異なった場合、それは、従来から知事や市町村長がそれを調整するということで何とか乗り切ってきたわけでありますが、この問題につきましても今後さまざまな議論がなされるかと思っております。

 私が言えることは、この住民投票というものを万能のものとして考え、そして議会の意思を無視するということになりますと、首長による議会の否定ということにつながりかねません。要はバランスが大事だ、このように考えております。そういったことも含めた地方自治の本旨ということを憲法上明確にする必要はあると思っております。

 以上でございます。

中川(正)委員 民主党の中川正春です。

 まず、八十九条の問題でありますが、大まかな点、多くの点について枝野幹事のお話と私も同調するわけでありますが、その中で、特に「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業」というその具体的な中身ということになると、今、いわゆる公益法人の改革論議が進んでおりますが、これをどのように位置づけるかということにも密接に絡んでくるんだろうというふうに思うんです。

 恐らく、私は、八十九条を想定したときの社会観というか世界観といいますか、そういうものは、この公益法人でなされるパブリックサービスを、補助金といういわゆる国に一たん通したお金を国の意思によって、権力の意思によってその公的サービスの質を順位づけながら資金を配分する、そういうシステムではなくて、国民の中から出てくる価値観に基づいた寄附金とかあるいは会費とかいうものが、いわゆる国に対する税と、それからこうしたものと選択的に拠出ができて、国民の意思に基づいた、それぞれの個人の意思に基づいた形で公益法人が運営をされていく形態、これを想定した世界観の中でできているものではないかというふうに思うんです。その実態が日本の今の法制度の中でもあるいは我々の頭の中でも整理ができていないということが問題ではないかというふうに思います。

 そういう意味で、私学も含めて、先ほどの議論の整理が必要なんだろうというふうに思っております。

 それから、もう一つは分権の話なんですが、分権というのは、いわゆる権力をどう分権していくか、権力の行使だと思うんです。それを類型化していくと三つほどになるんじゃないかと私は思っております。

 一つは、いわゆる法律というものを媒体にして社会の規範を制定していく、この機能というのが一つあるんだろうというふうに思います。二番目には、具体的な、それを実行していく中で許認可権というのをどこに付与していくかという議論があります。これは事務事業と言われるものだと思うんです。三番目に、公的サービスを供給していく機能。これは、課税権と予算権というのを組み合わせてこの公的サービスを供給していくということであります。

 今進んでいる分権議論というのは、実はこの二番目と三番目、許認可権とそれから公的サービスの供給機能をどのように国と地方が分担していくかという議論は、やっと今、本当に第一歩でありますが、進んできたんだろうと思うんですが、一番大事な規範制定機能、法律をどう組み立てていくかという機能について、これは全く整理ができていない、あるいはこの議論が進んでいないということに一つの混乱の基本があるんじゃないかというふうに思っております。

 そうした意味で、もっと具体的に言えば、法律の枠組みの中で、例えば公害という問題についての規範を決めなきゃいけない、あるいは道路交通法なんかのルールを決めていかなきゃいけない、こういうものをつくるんですが、その中身というのは政令、省令で具体的に国が全部一括してコントロールしているわけですね。この政令、省令の部分をいかに条例化していくかということ、この議論をもう一つすることによって、日本の場合、具体的にどこまでパワーの配分、権力の配分というのが地方へ向いてなされるのかというのがもっとはっきりしてくるんじゃないかなというふうに思っております。

 続きは、また後ほど、五分ほどいただいてさせていただきたいというふうに思います。

鹿野委員 財政でありますけれども、財政は、言うまでもなくそのときの経済あるいは国際情勢で動いていく、こういうふうなことになるわけでありますけれども、今日の我が国のこの財政状況からするならば、財政健全主義の基本的な考え方を憲法上規定した方がいいのではないか、こういう考えであります。

 本来、国会が予算の出も入りも決めるわけであります。しっかりとチェックしなきゃならないわけでありますけれども、実態は、今日のような状況からするならば、今、財政法にいわゆる健全財政への考え方は書いてありますけれども、この際は、これだけ膨大な借金を残しておる、こういう実態を考えたときには、健全なる、規律ある国の運営のあり方くらいは精神論としても憲法上規定した方がいい、こういうふうな考え方に立ちます。

 それから、もう一点大事なことは、財政情報の重要性ということであります。非常に、この財政に関しての情報は複雑でわかりにくい。特に、特別会計とか財投とかということになってくると、本当に、わからないというよりは、むしろわかりにくくしているのではないか、こんなふうに思わざるを得ないくらいのいわゆる今日の状況であります。ましてや、隠れ借金なんという言葉があることそのものが問題だ。

 このことを考えたときに、憲法の九十一条に対して、国会、国民に対して報告義務ということになっているわけでありますけれども、国民に対しての報告義務ということも含まれるということからするならば、少なくとももっとわかりやすい仕組み、すなわち、実質化されていないようなことでは本来の報告ということにならないわけでありますから、情報提供というものは具体的にもっとわかりやすくする、そういう言葉、文言を明記して、そして、国民の人たちが今日の状況というものに痛みをもっと感ずるようにし、国民みずからが判断できるようにしていくというふうなことが大事なことではないか、こういうふうに考えます。

 会計検査院については、言うまでもなく、これは国会、内閣からも独立をした第四の権限、こんなふうにも言われておるわけでありますけれども、実質的に、そのようなことを考えたときに、いわゆる人事権も予算の査定も独立をしていかなきゃならない、切り離された状況でなきゃならない、こう思います。

 そのときに、憲法の九十条、内閣を経由して報告が国会に出される、こういうふうな規定でありますけれども、この検査の結果というふうなものは、内閣を経由ということでなしに、国会にダイレクトに出される、すなわち、国会とリンクの状況をつくるというふうなことがこの会計検査院のあり方ではないか、こういうふうに考えます。

 それから、地方自治のことでありますけれども、九十二条。これはもういろいろ今日までも議論がありましたけれども、この九十二条のいわゆる地方自治の本旨というものはいかにもあいまいであります。

 ですから、例えば、そのときそのときの都合で中央のやり方は変わってくる。中央と地方は、政府と地方政府は対等ですよ、こういうふうに言いながらも、昨年のあの予算編成時においても、地方交付税をいわゆる地方公共団体に何の相談もなしにカットするなんというふうなことは、全くこれはもう対等でないわけでありますから、このようなあいまいな地方自治の本旨というふうなことでは、本来の地方分権、いわゆる分権の形をつくることができない、そういう意味では、国と地方の役割を明確に規定した方がいい、こういうふうな考え方であります。

 連邦国家でないイタリアとかスペインにおいても、あるいはそれぞれの連邦国家も、当然のことながら、憲法問題について視察調査をした段階でも、ほとんどの国々が国と地方の役割を明確にしておるというふうなことからいたしまして、これは基本的に、地域が、国民みずからが自分たちで判断する、自分たちで自立をする、そういうふうないわゆる民主主義の根幹にかかわる問題でありまして、国と地方の役割を明確にするというふうなことがまさしく民主化につながっていくということからするならば、この九十二条を改めていく必要があるもの、このように考えます。

鈴木(克)委員 民主党の鈴木克昌でございます。

 私も、地方自治のあり方、特に地方分権の必要性ということ、みずからの体験を含めてぜひ発言をさせていただきたいというふうに思うわけであります。

 戦後、我が国は、官僚主導の体制で来たことは事実であると思います。ある一定時期まではそれが功をなしたということかもしれませんけれども、これからの国のありようを考えていったときには、やはり官僚主導の政治体制を改める必要は絶対にある、このように思っております。もう少し国民の近いところで政治が行われていくような形に変えていく必要がある。

 そこで、従来の中央集権体制というのが、やはり中央に期待する依存心というのを国民の中に根づかせてきてしまった、そして、地域の自立性とか自己責任というのを失わせてきたのではないのかな、このように思っております。したがって、地方分権をこの際やはりきちっと推進するような形に持っていくべきだ、このように思っております。

 具体的には、例えば地方の立場で申し上げるならば、事務権限がどこまであるのかとか、財源をどこまで地方に任せてもらえるのかとか、それから、事務をやっていく上において国がどこまで規制というか統制を及ぼしてくるのかとか、地方公務員の人事はどこまで与えられておるのかというようなところが非常にあいまいでありまして、その辺が、私は地方のやはり率直な悩みになってきておるのではないのかなというふうに思っております。

 もう一つ、道州制の問題にも入っていくわけでありますけれども、私は、行政改革を今大胆に進めていかなきゃいけないという状況の中で、やはり道州制というのは非常に大きな選択権だというふうに思っておりまして、先ほど、道州制の権限だとか首長の選出方法とか、考えなきゃならないことは確かにあるわけでありますけれども、私はやはり、先ほど申し上げたように、大胆な行政改革を行っていく上においての道州制の導入というのは避けて通れないというふうに思っております。現実に、例えば富山県ではもう十五の市町村になっておるということでありますから、現在の形の都道府県という体制で本当にいいのかというのは、大いに議論をしなくてはならないというふうに思っております。

 そして、最後に地方自治についてもどうしても申し上げておきたいと思うんですが、先ほど来、鹿野委員からもお話がありましたけれども、私は九十二条について、「地方自治の本旨」という表現が本当にこれは抽象的過ぎるというふうに思っております。例えば、地方自治の第八章も四カ条しかないということで、私は非常に簡素過ぎるというふうに思っていまして、例えば、九十二条では「法律でこれを定める」、九十三条では「法律の定めるところにより」、九十四条では「法律の範囲内で」、九十五条では「法律の定めるところにより」ということで、結局何も地方には決定権がないということになってくるわけでありまして、余りにも法律に授権する部分が多過ぎる、このように思っております。

 ということで、第八章の「地方自治」については、ここをやはりきちっと直していく、そして地方分権を進めていく、そしてその先に道州制という体制をきちっと明記する、こういうような、憲法を改正していくという、まさに時代がそれを求めておるのではないかなと、みずからの経験に基づいても私はそう思って発言をさせていただきました。

 以上であります。

    〔会長退席、枝野会長代理着席〕

柴山委員 自由民主党の柴山昌彦でございます。

 先ほど来御指摘がある健全財政主義についてのプログラム規定化ですけれども、私も、現在の深刻な財政状況を見るにつけ、こうした規定の創設が必要だと思っております。

 先ほど、土井委員から御指摘がございました、予算の審議をもう少しきちんと実質化すべきではないか、私も同様に感じておりますけれども、そのためには、やはり国会の審議の中身の充実というものをしっかり図っていかなければいけないと思っておりますし、また、そのためには、決算についての情報をしっかりと国会でそしゃくすることが必要なのではないか。会計検査院の機能の強化、それと、新しく設けられました決算行政監視委員会、それとの連携を図っていく、あるいはこうした国会の決算行政監視委員会の調査の外部委託等についても、しっかりと行っていくことによって、予算というものを、きちんと中身のある審議を確保していくということが必要ではないかと考えております。

 先ほど来、単年度主義についての御発言がございました。私は、この単年度主義は、もちろん規律という点から望ましいものであるとは考えますが、ともすると、前年の前例の踏襲、また、船田幹事から御指摘のあったように、年度末の無理な予算の執行などの弊害があることも事実ですので、しっかりと、五カ年計画など計画を持った形での積み上げ方式による、真に必要な予算の検討ということも私は部分的に進めていかなければいけないのではないかなというように思っております。

 八十九条の問題については、いろいろ価値観の対立もあったところではあると思います。私の意見を申し上げると、やはりここは、支配の意味というものを緩やかに考えていくべきではないかなという考えに立っております。もちろん、公益あるいは教育の中立性ということを厳格に考えるという解釈も成立し得るわけですけれども、葉梨委員からお話があったとおり、やはり、国として必ずしも容認できないような内容の団体あるいは教育というものについては、緩やかな事業の報告等を徴求するというような形で、その公費については、一定程度の支出をしてこれを助成するというような形で運用をしていくというのが私は一番望ましいのではないかなというように思っております。

 公費の乱用の防止のためにこの八十九条というものは設けられたものと解するべきでありまして、そういった趣旨がしっかりとわかるようにするために八十九条の規定を改正するべきだというように私は考えております。

 地方自治の分野についてでありますけれども、先ほど来、分権についてのさまざまな御発言がありました。私は、現在の日本の実情というものを考えると、連邦制に移行するということはいささか難しいのではないかなというように思っております。地方は、やはり自治体が自治の固有権を有するというよりは、国の主権から伝来をする、ただし、その地方自治の本旨となる部分、いわゆる住民自治、団体自治となるような部分については侵せないというような制度的保障説に立つのが私は最も穏当ではないかなというように考えております。

 そのような観点から考えるときに、道州制というものは、私は採用することもしないことも現行憲法上は可能であると考えておりますが、現行の自治体の統廃合を行うには、しっかりともちろん憲法上明記した方が明確化するのではないかな。二層性というものを維持して、そして行財政改革というものを行っていく、そして、地方のより一層の権限というものを確保するという観点から、もし道州制を採用する場合には、やはり憲法上明記する方が望ましいのであるというようには考えております。そして、地方自治の本旨についても、憲法上、先ほど言った団体自治、住民自治のほか、そういった形での補完性の原則などについても書き込む余地があるのではないかなというように思っております。

 法律の範囲内でしかさまざまな規制あるいは課税等について認められないのはやはり問題であるというようなお話がありました。私は、徳島公安条例判決に見られるように、法律の範囲内ということを一定程度緩和して解釈するということが可能である以上、現在のシステム自体をいじる必要はないのではないかなというように考えております。

 地方交付税を水平的な交付制度に改めるということについては私も検討の余地があると考えておりますが、これは、憲法ではなくて法律のレベルで考えるべき問題だと思っております。

 以上です。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 先ほどから、先輩議員あるいは同僚議員からあいまいであるという話が出ておりまして、確かにそうなんですが、ただ、解釈の余地があるというふうにも思っておりまして、その余地があることが学者の方々の学説を立てるところのもうけ話になるわけですが、そういったことも含めまして、今の場合でも許容範囲の中にあるのではないかなと実は思っておりまして、そして、現実に、今の解釈をしながら余り不都合はないのではないかというようなことも実は思っております。しかし、明確にしろということで、直すということがやぶさかでないというのは、その思いもあります。

 そこで、八十九条のことが言われておりまして、私は、どちらかというとこの私学助成については、公の支配に私学が属するはずはない、あってもいけないわけなんですが、解釈で認めていくということは許容しておりました。というのは、何らかの、例えば人事だとか監督だとか、あるいは財政的なところでかかわりがあれば補助金を出してもいい、そういう話でございますけれども、先ほど葉梨さんは、いなくなりましたけれども、コントロールという話がありましたが、ここで言うのはサポート・バット・ノーコントロール、こういう形の解釈でできるのではないか、そういうふうに思ってまいりました。

 そこで、今はお金の話でございますけれども、かなり解釈によって余地があるというところで、もっと強調して解釈すべきだというような条文はかなりあると思うんですね。

 その中で一つ、納税のところなんですが、三十条で国民の納税の義務というのがありまして、それを受けた形といいますか、別の方で、八十三条の財政の民主主義ということと、八十四条で課税法律主義というのがございます。このときに、私は、納税という言葉自体が受動的だというふうに思いまして、もう少し国民主権に即して能動的に解釈をしていくべきではないかと思っております。

 というのは、言えば、この納税という言葉はちょっとほかに思い当たりませんけれども、払う人、つまりペイヤーの権利というような感じの権利を考えていいのではないかと実は思っております。というのは、納税の義務がある、一定額を納税しなさいというときに、納税者が納税をしようとしたときに国が拒否できるかというと、これはできないだろうと思っておりまして、そういった意味の権利性というものがあるんだろうと思っております。

 そこで、これを権利性みたいなもので考えるとどういうメリットがあるかといいますと、これは一つには、サラリーマンが源泉徴収というのをされておりますが、それはまずい、申告納税が基本でなければならぬ、こんなような解釈ができるのではないかと思っておりまして、強調した国民主権というか、民主主義を強めるような形での解釈をする余地があるのではないかと思っております。

 そして、同じようにお金で、財政のところでございますけれども、国民あるいは国会における財政統制というのが必ずしもうまくいっていないだろうというふうに思って、もう少し財政の情報というものを、国民の皆さんにも明確なものをあるいはわかりやすいものを与えることが必要なのではないかと思っております。先ほど特別会計の話も出ておりましたが、ここもチェックができていないだろうと私は思っておりまして、これはもう少し、今の段階でも、今の憲法のままでも改善の余地があるだろうと思っております。

 そのためにも、外国で言うような議会予算局、CBOというような制度を取り込んでくるというのは一つの方法ではないかと思いますし、決算の方でいきますと、決算が予算の審議にフィードバックするような使い方というのがあるはずなんですが、そこもちょっと弱いのではないかと思っております。

 会計検査院については、GAOのようなものを考えて、もう少し強めないといけないのではないかと今の現憲法でも思っております。

 最後に、地方自治でございますけれども、これは先ほどから、本旨の言うところで、確かにあいまいなんですが、団体自治と住民自治がありまして、団体自治の方は、やはり、国家からの自由という地方政府対政府という形の対立する概念でのとらえ方が当然ありますので、そしてもう一つ、住民自治という民主主義というのもありまして、これは、同レベルでやはり意識して法律等に具体化していくべきなんだろうと思います。

 そのときにやはり重要なのは、三位一体の改革の中での課税自主権というところが重要でありますし、その主体はやはり住民ですので、そこも意識したような解釈をする必要があるだろう、このように考えているわけでございます。

 以上です。

山花委員 民主党・無所属クラブの山花郁夫でございます。

 地方自治のことについて発言をさせていただきたいと思います。

 先ほど来、補完性の原理などということについても論じられておりますが、ここのところ、多くの国で、中央集権的な国だった国は地方分権の方に、また、連邦型とか分権型の国が割と、もうちょっと集権的でいいんじゃないかというような議論がなされているように感じております。

 ところで、我が国の場合は非常に中央集権的であるという指摘もあり、またそのとおりだと思いますけれども、中国、アメリカが賛成をしておりませんので条約化はされておりませんが、ヨーロッパ自治憲章であるとかEU憲法などにうたわれておりますような、家族でできないことはコミュニティーで、コミュニティーでできないことを自治体で、自治体でできなければ広域自治体で、それでもできないことを国でという、こういった補完性の原理というものについては、我が国のこの地方自治の条項の中にも取り入れられる価値があるのではないかと思っております。

 先ほど、葉梨委員から、余りそういうことをやり過ぎると国の力が弱まってしまうのではないかという趣旨の懸念の表明があったように感じましたけれども、国の持っている、つまりは、外交戦略として国の力が余り弱まるのがいいかどうかという議論はあり得るんだと思いますけれども、ただ、そういったことではなくて、今、本当にはしの上げ下げまで自治体に指導をしたりとか、誤解を恐れずに言えば、本当にこんなのを国がやらなければいけないのというようなことまで中央の役人が、地方の、まあ面倒を見ているという言い方がいいのか、口出しをしているという話なのか。もっとそういうことは地方にできることはやってもらう、そういう中で、本当に国がやらなければいけない、例えば外交だとか安全保障だとか、そういったことにもっと国としての力を集約していく、そういったことが必要なのではないかと思います。

 また、そのように補完性の原理という観点からいきますと、先ほど鈴木委員からも御指摘がございましたように、現行の憲法の書きぶりですと、法律の範囲内で、範囲内でというような形になっております。

 条例と法律との関係ということで申しますと、国法秩序の体系というものもございますので、合衆国であっても、州法と連邦法との関係で、連邦法の方が禁止をしているケースですと州法が下の方になるということですから、条例の方を上位にという話にもなりづらいのかもしれません。ただ、あくまでも補完性の原理にのっとって考えるということであるとすると、法律の授権がなくても、つまりは法律が禁止さえしていなければ、基本的には条例で、その枠内で自由に定め得るという発想で、つまりは、法律と条例との関係でいうと、授権規範というよりも禁止規範という関係で考えるのが適切ではないかと思っております。

 ただ、そうした場合に、基礎自治体と広域自治体との条例間の関係というものも考えなければなりません。また、現行憲法上は法律の範囲内で条例が定められるとなっておりますけれども、地方自治法で、その条例の実効性を担保する罰則につきましては法令の範囲内でとなっておりまして、条例は政省令よりも下位の規範と位置づけられております。私は、これは、本来は政省令と同格、あるいは条例の方が上であっても構わないのではないかと考えております。

 その上で、ただ、罰則につきましては、罪刑法定主義との関係もあるということでございますので、現行憲法は、非常に刑事手続上の人権については詳細に定めている割には、犯罪なければ刑罰なし、法律なければ刑罰なしという原則については明示的には規定をしておりません。法律または条例なければ刑罰なしというような形での罪刑法定主義の条項も入れることによって条例の実効性を担保するというやり方も一つではないかと考えております。

 以上です。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 この憲法調査会は、言わずもがなのことでございますが、設置の趣旨が、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うという観点で今日まで議論が進められてきたわけです。私の理解するところでは、この憲法調査会でもって憲法をいろいろな角度から議論をして、現行の憲法の適用されている状況をきちっと認識をする、そして、では、どこをどう変えるかということの議論は改めて違う場で行われる、そうなるのか、あるいはそうならないのかもしれませんけれども、いずれにしても、いろいろな角度から憲法の規定に対する運用状況というものを調査する、そういう場であろうと思うわけです。

 その観点からしますと、しばしばいろいろな角度から申し上げておりますけれども、今直ちに変えなくちゃいけないというぐらい実態と乖離していて問題があるというふうに見るのか、あるいは、優先順位はもう少し後、現行のさまざまな法律の規定でも十分やっていける、こういうふうな仕分けというか見方というものをしっかりと確認していく必要があるのじゃないのかなという感じがいたします。

 そういう点で、きょうのこの朝のテーマでは、一点、私学助成のことに関して、考え方というか感ずることを申し上げたいと思います。

 先ほど、枝野委員の方からなかなか示唆に富んだお話がございましたけれども、憲法九条と八十九条を対比させるというか、かねてよく例に出されるケースとして、憲法九条と八十九条、いずれも現実と憲法の規定との乖離が激しいじゃないかという、差が激しいという例でしばしば出された、そういう経緯があるわけです。

 私どもも、憲法九条については、かつて、九条の規定と自衛隊のありようというのは憲法違反であるというふうなことを言い、また、憲法の違反の疑義があると言い、そして今、合憲という解釈を下すに至っているわけでございますけれども、おのずと、憲法違反の自衛隊というものとそうでない自衛隊というものには、自衛に徹する自衛隊と、それから、侵略という、軍事大国という側面を色濃く持った自衛隊というものとのそういうきちっとした見方、規定の仕方というものが背景にあって、そういうふうな位置づけをしてきたわけであります。

 私学助成の問題につきましては、この現行の規定というものについて、やはり私は、そう余りしゃくし定規に見ていく必要はないんじゃないかというふうに思います。といいますのは、私学助成という問題について、私立学校は公の支配外である、公の支配、コントロールに属しない、では、逆に言うと、公立学校は公の支配に属するものなのかというと、そういうふうな視点というものは余りふさわしくない。おのずとそこには解釈の余地があるというか、ゆとりがある見方をしていかなくちゃいけないだろうと思います。

 そういった点で、結論的に言いますと、八十九条を改正して、私学助成ができるんだということを憲法上明確にするという必要はないのではないか。現状のこの規定によって、あるいはまた、現状についての不備があるならば私学助成法という法律で対応するということでいいのであって、優先順位という観点、今の憲法の規定をどうするのかという観点から見たときに、そう余り熱くならなくてもいいところではないのかな、そんなふうな感じがいたします。

 以上です。

保岡委員 保岡興治でございます。

 私は、せんだっての国の統治のシステムのあり方のところでも申し上げましたが、やはり、現在、この憲法改正を考えるに当たって、将来の日本の国の形の基本をどうしてもきちっと政治家は議論しておかなきゃならない、整理しておかなきゃならない、そう思うものでございます。

 私は、道州制の導入というのは、それはもう間違いなく大事なキーポイントだと思っております。やはり、キャッチアップ時代と言われる明治以来の中央集権化を進めて、官僚主導でこの国を立派な国にしてきた、これは一時代の使命を終わったと。日本の国柄というか歴史を考えても、江戸時代という三百年の地方分権のすばらしい歴史を持っているし、その以前の歴史をたずねても、私は、これからやはり地方主権とか分権とかいう、道州制を基本にする国の統治機構のあり方を考える、これは、逆に国の統治のあり方を、例えば内閣のあり方、首相の強いリーダーシップ、あるいは一院制か二院制かという問題にも直接かかわってくる、そういうことにつながると思います。

 私は、やはり国の役割というのは大事だと思います。これは、中国や、あるいは北朝鮮ないし韓半島という安定を欠いた地域をある程度長いスパンでどうおさめていくかという立場を、日本は、非常に世界の平和からいっても日本の独立と安全からいっても当然大事なことで、こういった安全保障、外交ということを考えると、やはりこういったことに対して国の強いリーダーシップが必要であるし、また同時に、これを支える経済あるいは教育、その他基本的な施策の国家戦略的な対応を確保する仕組みというものが絶対必要だということも言える一方、やはり、もう一つ道州の役割について、単なる基礎自治体、身近なところのものを身近な住民の立場で行う、こういう基礎自治体の広域調整というような位置づけがされていますが、私は、経済単位としてこれはすばらしい単位じゃないかと思っております。

 例えば、九州は韓国と大体同じGDP、面積を持っておりますが、韓国は非常にフレキシブルに時代に対応して急伸を続けております。中国の沿岸部も同様であります。こういったことを考えると、ポテンシャルの強い、いいものを持っている九州が、やはり世界の経済の中で日本の力を発揮して、各地域の道州が競って日本の国力を最大化する、このことは、非常に意義あることとしてやはり道州の重要なポイントではないかと私は思っております。

 それともう一つ、コミュニティーというのが大事です。

 先ほど御発言もありましたが、家庭でできないところをコミュニティー、コミュニティーでできないところを地方の基礎自治体、こういう補完性の原則を述べられましたが、そういった公共というか公というか、社会の単位を一つ一つ大事にしてこの憲法を構成していく。そのことが非常に大事であって、そういった意味では、基礎自治体も大事だが、小さな地域で文化や伝統や教育やその他一番身近なところで担って日本のよきものを伝えていかなきゃならない、そして、生活そのものの幸せを実現していかなきゃならない、コミュニティーというものも、やはり憲法上重要な位置づけをしておく必要があるんじゃないか。

 家族、コミュニティー、基礎自治体、道州、国、こういった国の形をしっかり議論することが非常に重要だと思う次第でございます。

辻委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。

 地方分権ということはどの政治家も前提として掲げていることでありますが、問題は、道州制なり基礎自治体なりを論ずるに当たって、形式より実質をどのように実現していくのかという観点がより重要なのかなというふうに思います。道州制、基礎自治体の役割等についてはまた別途論じる機会をいただければいいと思いますので、きょうは、形式よりも実質、どのようなものを目指さなければいけないのかという点について少し申し述べたいと思います。

 やはり、地方分権というときに、地方自治が基本であって、それは、まさに保岡先生が今おっしゃったように、歴史、伝統、文化、各地域に根づいたものがあって、その地域の人々が本当に幸せにともに生きられるという、基礎自治体のもっともとになるコミュニティーをしっかりさせていくということが重要であろう。

 ともに生きるというそのときに、憲法十四条の言う人種、信条、性別、社会的身分または門地によって差別されてはならないという、だから、まさにともに生きるということは、その地域に生きる、住まう、それは国籍の違いも含めた人々がともに生きられるようなコミュニティー、社会システムをつくっていくということがやはり原則でないといけないのではないか。在日外国人の地方参政権の問題も、そういう観点から、地方自治を考えたときに、ともに生きるということを原理原則と考えたときに、当然実現されなければならない問題だというふうに思いますし、かつ、議論がしっかりなされるということが重要だと思います。

 旧来型のコミュニティー、町内会が一般的に悪いということではありませんけれども、地域ごとにそれは歴史、伝統、文化、いろいろな特殊性がある、それに根づいて考えられるべきだというふうに思いますけれども、やはり、しっかりした各立場に立った人たちの議論が成立するということが基本になければならない。そういう意味で、情報公開がなされなければいけないし、直接民主主義的な契機、リコール制とか住民投票制度とか、そういうものがやはり活用されてしかるべきだ。

 そういう意味で、憲法九十二条の言っている団体自治と住民自治のうちの住民自治、そういう契機は、ともに生きる前提としてしっかり議論をして、お互い多様性のある協調した地域をつくっていくための必須不可欠の前提であろう。そして、同時にそれを調整していかなければいけない。政治というものは、いろいろな利害の対立を調整する役割を持ったものが政治ですから、それを制度として調整するための団体自治というものが一方でしっかり位置づけられなければいけない。

 前にも少し述べましたけれども、自民党の中の憲法改正論議の中で、住民自治に偏重するべきではなくて団体自治なんだというような議論が割合強く言われているというふうに私は感じたものでありますけれども、そうではない、住民自治のそういう直接民主主義的な契機をしっかりと位置づけて、それを調整する意味での団体自治の同等の重要性ということをやはり考えるべきなのではないか、このように思います。

 以上です。

稲見委員 民主党・無所属クラブの稲見哲男でございます。

 地方自治について発言をさせていただきます。

 自治体には二つの側面があると思います。一つは、国法の実施、執行という側面、それからもう一方では、住民に密着をした事業について、国法の基本的な方向性に基づきながら、地方自治体が地域の特性を生かして地域の住民の参画を得ながら自主的に実施をしていく、こういう側面であろうかと思います。

 これまでは、前者、国法の執行の面が強かった。今日の歴史的な局面は、地方主権の国の形づくりであろうかというふうに思います。地方分権推進法からの流れで、機関委任事務の廃止、国地方係争委員会の設置、国、地方の対等、平等を担保する制度的な整備がなされてまいりましたけれども、第三の改革として、自治体において、この後者の面について飛躍的に確立をし発展をさせることが今求められているのではないかというふうに思います。

 このために何が必要か。やはり、憲法第九十二条の地方自治の基本原則についてこの地方自治の本旨というもの、これを明確にし、憲法基準において新たな地方自治確立を促進すべきではないか、こういうふうに思います。

 公述人の意見の中で、地方自治の発展を阻害してきたのは憲法規定の不備によるものではなく、法令の規律密度や行政統制あるいは税財政制度が長期間集権的であったことによるというふうな御意見がございました。まことに納得できる意見でありますが、であるからして九十二条をいらわなくてもいいという問題ではないんではないか、こういうふうに思います。

 そして、九十二条を明確にするということになりますと、先ほどからも出ておりますように、憲法上において国と地方の行政権限の配分を明確にする、福祉や環境、教育、まちづくりなど住民に密着した事業については、国法の基本的な方向性に基づきながら、地方自治体が実施主体であること、地域の特性を生かして地域の住民の参画を得ながら実施をしていくということを明確にすることが必要ではないかというふうに思います。

 それに加えて、今、国法の執行であれば国にお伺いを立てれば済むわけですが、そうではない場合、自治体固有の基本的なスタンスが必要になってまいります。住民の意思により必要な公共的な業務を自治体制度として行うというために、先進的な自治体においては、自治体の憲法ともいうべき自治基本条例の制定を進めております。また、各行政分野において、例えば、住民の健康と福祉を守る基本条例であったり、環境基本条例であったり、まちづくり基本条例であったり、そういうものが制定をされております。この自治基本条例並びに各行政分野における基本条例の制定の方向づけを憲法の中でも行うべきではないか、こういうふうに思っております。

 それから、課税自主権の問題であります。今、三位一体の改革ということで、主要には補助金の廃止と税財源の移譲、こういうものが進められつつございます。

 次は、交付税改革。これは三位一体の中での問題ではなしに、交付税制度そのものの抜本改革がやはり求められてくる、こういうふうに思っております。分権が進めば財政保障機能はおのずから小さくなるというふうに思いますけれども、財政調整機能については残っていくといいますか、必要なものだというふうに思います。

 その場合、今は交付税の中で、単位費用掛ける測定単位掛けるさまざまな補正というふうな、総務省が握っている基準に従って莫大な算定のための作業時間が費やされております。算定基準を簡素にしていくという見直しもあるかもしれませんけれども、むしろ、自治体間での水平的な財政調整、こういうものに基本的に変更していくべきではないかというふうに私は考えております。例えば地方税としての共同税的なものをつくって、それを地方間で水平的な財政調整をしていく、こういうふうなことになりますと、やはり、課税自主権についてこの地方自治のところで明記をしていく必要も強まってくるのではないか、こういうふうに思っているところでございます。

 以上です。

中川(正)委員 二回目で済みません。さっきの議論の続きをしていきたいというふうに思うんです。

 ここでは具体的には、国と、それから、私も道州制に賛成なんですが、道州と基礎自治体、それからコミュニティー、さっきお話出ましたけれども、この整理をどうしていくかということがあるんだろうというふうに思うんです。

 それで、道州というのは、県と違って、この道州の議論が出てくるというのは、さっき申し上げた規範制定機能、法律をつくっていく、そのいわゆる権力機能というのをどう整理していくかという中で、やはり道州が、そこのところ、立法権というのを相当の形でしっかりと分権をしていくということが前提になっていかないとだめなんだろうというふうに思うんです。中には、道州が基礎自治体の集まった調整機能だけでいいんじゃないかという議論もあるかと思うんですが、これをやってしまうと、この規範制定機能、いわゆる立法権というのは、もうやはり、国が持ち続ける形で、本来の意味での分権というのが達成できないんだろうということを考えております。

 しかしもう一方で、では、連邦制というような形で司法権も含めて道州に持っていくというのが日本にふさわしいのかというと、そこのところも、もう一つその国柄ということから考えていくと一考を要するんじゃないか。だから、私自身のイメージは、その中間ぐらいのところで一度この法律等の整理を道州の単位でしてみるということ、これを具体的に作業としてやっていく必要があるんだろう。

 そのときに、一つの今やってみるきっかけとしてできるのは、先ほど申し上げた政令、省令というのを具体的に条例に書きかえてみる、条例でどこまでその地方自治体ができるのかということ、特に、県レベルで一度やれるところをしっかりやってみる、そういう第一歩というのが必要なんじゃないかというふうに思っております。

 補完性の原理は、どちらかというと、基礎自治体それからコミュニティー、これを中心にした考え方であると思っていまして、公的サービスの分野で、この公的サービスを自分たちができるところは自分たちでやっていくんだ、それができないところは上位の団体へ向いて移行していくというこの考え方だと思うのです。

 しかし、これをやるときに、基本的には、先ほど出ましたいわゆる課税権と予算権なんですが、そのうちの、課税権の課税自主権というのをしっかり認めていくということになると思います。

 団体自治の場合はしっかり議論がしていけると思うんですが、もう一つ、さっき出ましたコミュニティー、いわゆる住民自治をどう提起していくかということ。これが法律の中でも今しっかりとしたものがありませんし、特に課税権、課税自主権みたいなものを考えていくと、まだ我々の意識の中にしっかり定着化していないんだろうというふうに思うんです。

 そんな意味で、先ほどの、いわゆる慈善事業だとか教育の話のところでも少し発想の転換として出しましたが、基本的には、住民自治と団体自治というのは、課税自主権からいくと両方が競争していく立場にあるんじゃないかと。だから、地域は団体自治が今は独占していますけれども、しかしそれを、例えば住民自治で課税自主権みたいな形でそれへ向いて出していく、いわゆるNPO化していって、NPOに出していく会費だとかそれから寄附金だとかというのを、税額控除をやることによって住民自治と団体自治がしっかり補完していく、競争しながら補完をしていくというふうな構成ができるんじゃないかというふうに思います。

 そんなような整理も含めて私たちの発想自体を転換していかないと、本来の意味でのコミュニティーというのは育ってこない。どちらかというと、現状では、コミュニティーというのは分解をしていく、あるいは、ここが一番大事なんだけれどもなかなか育っていかないというのが現状だと思いますので、そういうことも含めて提案をさせていただいて、そんな前提の中で憲法の整理というのが必要なんだろうというふうに思っております。

    〔枝野会長代理退席、会長着席〕

加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。

 まず冒頭、財政健全化の話を憲法に盛り込むかどうかということについては、私も、これまでのさまざまな委員と同様に、今の現状を考えても、単に今の世代だけではなくて、次の世代を考慮した中で国を運営していく、そういう立場から、次の世代へツケを残さない、そういう視点から、やはり財政健全化の原則というものをしっかりと憲法の中に盛り込むべきではないかというふうに思っております。

 それからもう一つ、予算の修正の議論がありまして、御承知のように、内閣法制局のいろいろな議論もある中で、いわゆる政府の提案権を阻害しない範囲での修正というような見解も打ち出されているわけでありますけれども、私はやはり、国会における予算の修正というものを、しっかりできるんだということを明らかにしていく必要があるのではないかというふうに思っております。

 そういう意味で、八十三条と八十六条のバランスをどうとるかということにもつながるわけでありますけれども、そうした部分を、国会における予算の修正という問題についても明らかにしていくことが必要ではないかというふうに思っております。

 三点目でありますけれども、今、地方分権の流れそのものを否定するというか、むしろそれは積極的に進めていくべきだというふうに思うわけでありますし、国と地方のそれぞれの役割分担、課税の問題も含めてそれをはっきりさせていくということは当然に必要だと思いますが、しかし同時に、こうした分権を進めていく中でどうしても残る地域間の格差というもの、場合によっては拡大というものも今指摘をされているわけであります。それをしっかり是正していく、その必要性を明示するとともに、そうしたものはやはり国の責任で行っていくということも同時にはっきりとしておかなければいけないというふうに思います。

 今の地方交付税の議論等、これは憲法の問題とは思いませんけれども、そうした財政調整機能というのは大変重要である。ただ一方で、そうした財政調整機能を通じて、結果として地方がコントロールされてしまう、こういうことは十分懸念をしなければいけないわけでありますので、そういう意味では、どういう考え方に基づいてそうした財政調整がなされていくのか、そうしたものを透明化していくというこうした作業も同時にしていかなければならないというふうに思っております。

 それから、道州制の議論、先ほど保岡委員からもお話がありました。まさに、我が国の形につながる大変大きな議論だと私も思っております。しかし同時に、こうした道州というもののとらえ方、あるいは基礎的自治体というものをどう考えていくのかということについては、相当イメージにおいては個々に格差があるように思います。

 私は、基本的には、基礎的自治体を中心とした中で、一方、国と基礎的自治体という関係の中でとらえていくべきではないかというふうに考えるわけでありますけれども、そういう意味では、基礎的自治体というものに逆にどういう役割を期待するのかということを明らかにしていくことが必要ではないか。そして同時に、先ほどからもお話がありました、今の市町村合併が進んでいく中で、それぞれの町村において培われていたコミュニティーという機能が相当喪失されていってしまうのではないかということを大変危惧するわけであります。

 そういう意味では、基礎的自治体の中でのやり方、特に、これまでの旧でいえば、例えば町村あるいはコミュニティーといったものを温存していくというか、その機能というものをさらに活用していく、こういう意味でも、基礎的自治体の中での運営等々についてはある程度の自由度というものを確保して、その地域の特性あるいは状況に応じた対応がとれるようなそういう仕組みをしっかりとつくっておく必要があるというふうに思っております。

 それから、私学助成については、今までも議論がありますように、今の憲法を国民の視線で見れば、到底できないのではないか、こういう疑念を持つわけでありますから、そういう意味では、私学助成については、堂々と行えるような形での憲法の修正というものが必要ではないかというふうに思っております。

 以上です。

柴山委員 柴山でございます。二回目の発言となっておりますが、失礼いたします。

 先ほどの補足で少し申し上げたいことがございます。

 まず一点は、コミュニティーの重視ということでございます。

 先ほど来お話をさせていただいたとおり、補完性の原則、そして身近なコミュニティーの尊重ということが私は極めて重要になってくるというように思っております。そして、コミュニティーあるいはその地域の習俗というもののやはり尊重ということなくしては、例えば、先ほど早川委員から御指摘がありました、八十九条前段の宗教的な行事に対して公金を支出すること、これについても、例えば目的効果基準を明確にした形で憲法上落としていったとしても、現在の判例のように、全く同じ基準を用いながら合憲と違憲が分かれてしまうというような事態を回避するのに役立つのではないかというように私は考えております。

 もう一点は、道州制に絡みまして、その道州の長となる新しい、知事と言うのかどうかわかりませんけれども、その首長についてはやはりかなりの権限を持つということが想定をされます。もちろんこれは、団体自治の観点からは想定をされるわけですけれども、例えば事業の硬直化あるいは健全性という観点から、その多選制を制限することの必要性が、現在の首長の議論よりもやはり深刻に議論の対象となってくるのではないかなというように考えております。

 現在の憲法上の恐らく議論としては、職業選択の自由ですとか、あるいは選挙権、被選挙権の絡みの問題ですとか、いろいろと難しい問題で、この制限を設けるということについては、恐らく学者等は消極説が多数だと思っております。

 これについて私は、きちんと議論を深め、どちらかといえば、余りにも多数回の選出をするということについては弊害が大きいので、これを憲法上定めるかどうかはともかく、制限していく方向というものも考えていかなければいけないのではないかなというように考えております。

 以上です。

保岡委員 先ほど地方自治のことを発言させていただいたので、今度は財政について一点だけお話をさせていただきたいと存じます。

 この憲法が、財政について、歳出歳入とも国会の議決を通じてのコントロールや、それを担保するための会計検査制度、情報公開というものを定めておりますが、私は、やはり一番重要なのは情報公開をよくするということじゃないかと思います。情報公開制度が財政に果たす役割というのもあるでしょうが、特に、やはり国会あるいは国民の財政統制というものを十分機能させるためには、財政情報の提供が決定的に重要だと私は思います。

 我が国の予算というのは非常に複雑で、各省から要求して、そして財務省が査定をして、国会で審議をして議決していくという形で、毎年、予算あるいは財政投融資計画という形で積み上げていきますが、一体、これがどういう形で資産として残り、そして、生産的というか経済的効果を上げてそれが蓄積されたりしていくのか。こういった毎年の予算や財政投融資計画等の公的な会計、こういったものを、やはりトータルで、かつ、財政に対する適正あるいは将来負担の適正、こういったことについて判断できるに足る資料として提供されなきゃいけない。

 そういった意味で、やはり公会計というものの工夫というのが非常に重要で、その公会計の工夫を前提としてそれを、九十一条の国の財政についての報告の内容として具体的に憲法に規定する必要があるんじゃないかということを強く思うものでございます。国ナビゲーションと言っていいんでしょうか、財政を総理があるいは内閣が判断していくためにも、国会がそれをチェックするためにも、あるいは国民がその適正についてきちっとしたチェックができるためにも、これが非常に重要だと私は思う次第です。

 もう一点は、先ほどから何遍も委員から御指摘がありますが、こういう財政状況ですから、私は、将来、日本にとってやはり財政均衡は、これは決めない方がいい。これはもう間違ってはいけないと思いますが、財政健全化についてのプログラム規定はぜひ置いた方がいいし、地方の財政についても、そのことは規定をしておくことが地方の部分でも必要ではないか、そういうふうに思っております。

永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。

 私は、健全財政主義、予算単年度主義及び地方自治について意見を申し上げたいと思います。

 シュンペーターによりますと、国民の財政史はその国民の歴史一般の本質的部分であるとされているように、財政は国民にとって極めて重要な本質的部分であります。

 さて、平成十七年度予算において見ますと、我が国の公債残高は五百三十八兆円にも達しております。これは一般会計税収の、御承知のとおり約十二年分に相当するものであります。

 このような我が国財政の現状にかんがみれば、努力義務としてではあっても、健全財政主義を憲法上に明記する必要があると考えます。我が国が将来的にも持続可能な発展を遂げるためには、健全に財政を運営するという国としての強い意思をまず明らかにする必要があり、そのことは、我々現役世代の将来世代への責任ではないかと考えます。

 ただ、一会計年度単位で財政均衡を義務づけることは実際的でないこと、また、予算単年度主義は会計年度末に無理な予算執行が行われるなどの弊害も生じていることから、これを緩和して予算の複数年度管理を導入していく必要があると考えます。具体的には、五カ年程度の単位で計画を立て、単年度ごとにその予算を執行していくことが考えられます。

 このようにして、予算単年度主義の弊害を回避しつつ、中長期的な視野に立って財政政策の立案、財政運営を行い、その結果を分析、評価することによって財政規律の確立を図っていくことができます。さらに、財政の透明性や政府の説明責任を高めることもできると考えます。その際、第一に、複数年にわたる財政政策の目標とその達成方法の明示、第二に、既に定められている政策を継続した場合のコストの明示、第三に、現在の意思決定がもたらす後年度負担の明示が重要であると考えます。

 以上のような予算の複数年度管理が仮に難しいとしても、会計年度独立の原則を弾力的に運用して、予算の一定割合については翌年度への繰り越しを認めても、予算単年度主義の趣旨には反しないと考えます。

 また、いわゆる継続費は、実際上の必要が認められていることから、疑義が生じないよう、予算単年度主義の例外として憲法上明記しておく必要があると考えます。

 次に、地方自治に関連して申し上げます。

 第八章「地方自治」という章は、その規定がわずか四カ条にすぎません。規定ぶりも抽象的でありますことから、やや物足りない印象があるわけであります。

 そこでまず、九十二条の地方自治の本旨の内容として、住民自治、団体自治を明らかにする必要があると思います。さらに、地方自治が何よりもその地方の住民のために行われるということを明文上も明らかにする必要があると考えます。これは当然のことではありますが、これまでややもすると、住民の利益ではなく、地方自治体といいますか地方公共団体の長あるいは議員の利益を優先しているのではないかと思われる例も一部見受けられるからであります。

 また、公共サービスは、原則として最も住民に身近な公共団体が優先的に執行するという、皆さんもおっしゃっているように、補完性の原則を憲法上明記する必要があると考えます。これは、最も住民に身近な公共団体が行うことが、地方自治の本旨の一環である住民自治を体現することになると考えるからであります。

 他方、地方自治の本旨のもう一方の柱である団体自治を財政的に担保するものとして、地方公共団体の課税自主権を憲法上明記する必要があると考えます。また、恒常的に団体自治を確保するためには、地方公共団体も健全な財政規律を維持する必要があることから、地方財政の健全化ということも憲法上明記すべきであると考えます。

 以上であります。

吉井委員 日本共産党の吉井英勝です。

 私学助成が憲法に反するとの発言が幾つかありましたので、最初にこれについて述べたいと思います。

 一九四六年の憲法制定議会において、当時の金森国務大臣が、今日、国家は私立大学に対しては一般公法人に対するよりも特殊なる監督をしているということを挙げ、私立学校は公の支配に属しているので公金を支出してもよいという旨の答弁を行っております。

 最近でも、九八年の参議院文教委員会で、当時の町村文部大臣が、「現行の私立学校に対する助成は憲法上問題ない、こういう解釈を伝統的に文部省はとっている」と答弁しており、政府の見解の方は一貫したものであったと思います。

 学説におきましても、公の支配の理解をめぐって厳格説、柔軟説と分かれておりましたが、今日では、憲法十四条の法のもとの平等、第二十三条学問の自由、二十五条の生存権、二十六条の教育を受ける権利などの条項を総合的に見て公の支配を理解し、私立学校振興助成法等の監督の程度で公の支配の要件を満たしているため、私学助成は合憲と解するのが多数説となっています。

 さらに、判例においても、一九八六年、千葉地裁は、公の支配の意味は、憲法十九条、二十条、二十三条の諸規定のほか、教育の権利義務を定めた憲法二十六条との関連、私立学校の地位、役割、公的助成の目的、効果等を総合勘案して決すべきものと解されるとして、教育基本法、学校教育法等の教育関係法規による法的規制を受けている私立学校に対する助成は憲法八十九条に反しないと判断を示しております。

 以上、政府見解、学説、判例、いずれを見ても、私学助成は憲法に反しないばかりか、憲法上の要請であるということは明らかだと思います。八十九条の文言だけをとらえて違憲だと単純に主張する立場は、こうした憲法の営みを理解しようとしないものとなってしまいますし、みずからの構成する政党の政府の立場にも水をかけるようなものではないでしょうか。

 私学に学ぶ学生生徒のひとしく教育を受ける権利を尊重する立場でこれを充実させることこそ必要だと考えるものであります。国立大学授業料を引き上げじゃなくて引き下げ、私立大学、学校への助成で学費負担軽減を図ること、こうして格差是正を図ることは、憲法十四条、二十六条の期待する教育の機会均等の立場からも大事なことであるというふうに考えるものであります。

 なお、八十九条と九条を緩く解釈するという議論もありましたが、憲法の解釈については、憲法、これは授権規範、制限規範を特質とするものでありますから、公権力を縛り、国民の人権を保障するというところに大きな意義があります。公権力行使の条文は厳格に解釈し、国民の人権保障は拡大できるように解釈する、これは小林武参考人の発言にもありました。憲法九条の解釈と私学助成の問題は、これはおのずから異なるものだということを指摘しておきたいと思います。

 それから、地方自治について辻山参考人が、今日の地方自治にはいろいろな問題があるが、将来の課題も含めて、この問題は憲法の規定に原因があるのではないと述べていたとおりで、結局、財政にしても地方自治にしても、今日の憲法問題の核心は、憲法の規定に不備があるということではなく、それを保障しない、あるいはそれに反する政治を行ってきたことに起因しているというところが大事なところで、今日重要なことは、憲法の原則を生かした改革を行っていくことである、このことを申し上げて、発言を終わりたいと思います。

枝野委員 今、吉井委員から私の発言に対してございましたので、まず一点、吉井先生ともあろうお方が政府の見解を引用されるというのは、ほかの論点の場合とちょっと違うのではないか。ほかの二つの主張についてはそういう御意見があることはよくわかりますが、政府の見解をそれで認めてしまうと、共産党さん、いろいろな主張が成り立たなくなるのではないかと心配を申し上げたいというふうに思います。

 それから、その上で私は、確かに教育を受ける権利とかという観点は重要だと思います。しかしそれは、私学助成をしなくても、私学に通っている子供あるいは保護者に対する助成を行えば同じ効果を与えられるというふうに思っています。

 そして、八十九条はやはり公権力行使の限界を定めている。つまり、公権力が金を出すということを口実にして本来公の支配に属するべきではないところにまで過剰に介入をしていくということを防ぐという趣旨は、私は一定程度合理性があるのではないかというふうに思っていますし、また、私自身、私学助成は全部だめだと申し上げているわけではなくて、もしどうしても必要だということであるならば、八十九条を変える方が素直であるということを申し上げております。

 札を立てた一番のテーマは、分権について申し上げたかったんですが、先ほど来出ている議論とちょっと逆方向からも一つ考えておかなきゃならないことがあるということです。それは、地方政府が中央政府の下請化をさせられているという歴史的な経緯、これは、歴史的にはやむを得なかった、戦前以来の流れとしてやむを得ない部分があるんですが、ここにもしっかりメスを入れないと、本当の意味での分権はできないのではないだろうかと思います。

 私はいつも申し上げるんですが、なぜパスポートが県の仕事なのか、なぜ戸籍が市町村の仕事なのか。言うまでもなく、パスポートは外務大臣が発行するまさに国の仕事でありますし、戸籍は、住民基本台帳とは別に、法務省の業務であります。どうしてこうした、しかも、地域によってパスポートや戸籍について、地域の事情に合わせて違った扱いをするということの必要性、合理性が全くない分野について地方自治体に下請をさせるのか。こういうところで、何となく昔ながらの、国の下が県、県の下は市という誤った概念が定着をし、それが地方分権を阻害している一つの要因になっているのではないかと思っております。

 私は、郵政事業の民営化論には一定の理解を示すものでありますが、逆に、郵便貯金や簡易保険など金融面での郵便局の機能を縮小するかわりに、これは国の機関ですから、パスポートであるとか戸籍であるとか、本来地方に下請をさせる必要のない国の業務というものを国の機関である郵便局が行う、取り扱うということの方がずっと合理性があるのではないか、そういうふうに考えております。

 また、こうした役割分担の議論こそが一番重要な話でありまして、先ほど来、若干議論を聞いておりますと、例えば道州制などについてのさまざまな意見が、道州にどういう権限を与えるのか、道州制をとることにどういう目的を持たせるのかということについて、それぞれの皆さんに若干、あるいはかなりの違いを持ちながらそれぞれについての論評が加えられているのかなというふうに思っておりまして、ここは、名前の呼び方よりも、広域自治体にどういう役割を担わせるのが一番妥当であるのか、基礎自治体にはどういう役割を担わせるのが一番妥当であるのかという役割の話が先にあって、名前は後からついてくるという話でいいのではないだろうかというふうに思っております。

 なお、道州制を導入する場合には憲法典に規定をした方が望ましいと思いますけれども、ただ、この場合にも、その道州の規模その他などまでは憲法典に書くべきではないだろうと思っています。もうちょっとフレキシブルに考えておきませんと、道州境を越えた町村合併のようなことは、今後も道州制をとった場合でもあってしかるべきだろうと思いますし、そのために憲法典の改正を要するというようなことではおかしいのではないだろうか。逆に、権限、役割を憲法典には明確に規定した上で、あと、それぞれの規模をどうするかというのは、それぞれの自治体がまさに住民自治に基づいて決定をしていく事項ではないだろうかというふうに思っております。

 最後に短く。私は、道州制は導入すべきであると考えておりますが、過剰な期待を道州制に持たせるべきではないだろうと思っております。特に、経済政策的なところについては、特にマクロで、さすがに道州に通貨や金融の権限を持たせようという論者はいらっしゃらないと思いますけれども、通貨政策と金融政策を持たずにマクロ経済運営をするということはほとんど両手両足を縛られているようなものでありますから、もちろん、地域の個性を生かした産業振興策などという側面はありますけれども、道州制にすればそれぞれの地域が飛躍的に成長するというような過剰な期待は与えない方がいいのではないかというふうに申し上げておきたいと思います。

 以上です。

土井委員 私は、先ほどからの御意見を聞いておりまして、自治体の、特に条例に対して持っている意義ということは非常に大きいということの御発言がございました。道州制をとるかとか、それから連邦制の方がいいんじゃないかとか、そういう論議をする以前に、やはり自治体のありようとして、自治ということを考えてまいりますと、この条例の果たす役割というのは大きい、これからますます大きくなるだろうということは言えると私はまず申し上げた上で、ただしかし、一つ、これに対してはわきまえがないといけないんじゃないかなと思うんですね。

 条例にいたしましても規則にいたしましても、憲法上は、法律の定める範囲内においてというのが前提となっております。しかし、その法律に対しての認識も、憲法自身は、憲法に違反している法律というのは無効だということを書いている条文があるわけですから。したがって、それからすると、憲法の大原則に基づいて条例というのは考えられるというのを基本にやはり認識をしっかり持っているというふうに理解がされなければいけないんじゃないかなと私は思うんですね。

 しかし、一つだけはっきり明記されているのは、例の、条文でいうと七十三条の六号です。これは、内閣が政令を制定する場合、この憲法並びに法律を実施するということのために政令をつくるということがここに規定されているわけで、言ってみれば、憲法政令と言ったっていいと思うんですね、憲法に基づく法律政令と言ったっていいと思うんですね。憲法を実施するために政令をつくる、憲法に基づく法律を実施するために政令をつくる、これはもう特定的に七十三条が規定しているわけですから。だから、ちょっとこれは意味が違って、全部法令を一般化して考えたらちょっと違うと思うんですね。この場合、法令という広い意味で言う中に政令も入りますから。

 したがって、私は、いろいろその根拠ということを翻って考えてみれば、憲法にそれがすべてあるというふうに申し上げた上で、先ほどの、条例の果たす役割というのはこれからますます大きくなるだろうと。それも、法律に基づくということを原則にいたしますと、法律自身がまだ不存在だとか、法律自身があるけれどもそこのところが欠けている、つまり欠缺しているという場合に、それではそのままでいいかといったら、自治体としては、それはそのままでは間に合わない、そして待っておられないと。では、どうしたらいいか。やはり条例制定を具体的にする以外にないわけですね。したがって、法律の欠缺している場合とか法律の中身が不十分である場合、それを補完するという意味においての条例というのもあり得ると私は現在も思っているんです。

 したがって、そういうことを考えていくと、おっしゃっている自治体の中での役割というのは大きいということを申し上げさせていただいて、さてしかし、今の政令を制定するのは内閣ですから、内閣が正しい認識を持っていないとこれはどうにもなりません。

 先ほど枝野さんは、内閣の意見だったらすべて悪いように考えている御理解の上でのその御発言だったのかどうかわかりませんが、内閣の認識にも時には正しいことがあるんですよ。いや、本当。だから、すべて内閣の認識は悪いとか内閣の見解だからとれないとか言い切ってしまえば、それはちょっと事実と違うと思うんですね。本来は内閣というのは正しい認識を持ってほしいですよ。

 ただ、昨今は憲法に対して、わけても、憲法の中で第九条に対して、まことに間違った認識と間違った政策と間違ったそれに対してはその筋道を考えられるものだから、私たちはもう尋常ではこれを受けとめられないというふうに思っているわけですから。それが余りにも強く言うから、そういうふうな印象をお持ちになるのかなと思いながらさっきから思っておりましたけれども、政府の見解でも、時にいただきというのもありますから。

早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。

 地方自治の点について若干申し上げたいと思います。現在の都道府県あるいは市町村を前提として議論することがいつまで通用するだろうか、この観点から申し上げたいと思います。

 本来、明治時代に府県制あるいは市町村制が施行されて地方の行政のあり方が決まりました。それから、戦後の新しい憲法の中で現在の地方自治法ができているわけであります。ただ、その時々の状況によって、住民の利益が共通であるか、あるいは情報が共有されているかどうか、こういったことが、自治体のあり方、その機能と組織、規模を決める大きな要素になるのではないかと思います。

 これから考えなきゃいけないのは、IT化がどんどん進行いたします、交通網が整備をされてまいりました、住民の生活様式が大幅に変わっております、生活圏が拡大をしているという状況の中で、もう一つは、帰属意識がだんだん住民になくなって、さまざまな選挙における、特に地方の選挙においての棄権率は極めて高くなっております。こういった段階で地方自治というのはどういうふうに構築をするかということを考えていかなければならないと思います。道州制の議論とか市町村のあり方等については、このような観点からやはりこれからの日本の国のあり方を大いに議論した上で、その議論の中で新しい地方自治というのをつくっていかなければならないと思っております。

 ただ、その際に、現在の憲法の規定がそういった作業に大きく支障となるかということになりますと、私は全く支障にならないと思っております。さまざまな制度設計はこれからいろいろ考えられると思いますけれども、大いに議論をしながら新しい国づくりをしていきたいというふうに考えております。

 以上であります。

吉井委員 共産党の吉井です。

 先ほどの枝野さんの話は、枝野さんもよくおわかりの上でのことと思いますから繰り返しませんが、政府見解であっても日本共産党は何でも反対という気持ちはもちろんないんです。正当なものを見ているのは当然の話でありますから、これはこれでよろしいかと思います。

 地方自治の本旨にかかわって、憲法のこの規定を受けて地方自治法があり、そしてその中で、一応憲法九十四条との関係もあって条例制定権というのがありますが、問題は、憲法の規定どおり、条例制定権に基づいて、地方が例えば大型店を規制して地域の商店街を守り、発展させていくということができればいいんですが、しかしこれが、具体の例で言えば、日米構造協議を受けた後、大店法規制緩和がどんどんやられました。今は大店立地法の十三条では、条例制定権まで制約をされる条項が入っております。

 こうして、やはり国が地方自治を上位法によって侵害するという事態が、今日、地方自治体全国各地でシャッター通りがどんどん広がるとか異常な事態が広がり、そして、大型店の場合は競争の後撤退すればしまいですが、その後、高齢化していく社会で地域の人の買い物の場も失われるという異常事態が広がっております。

 ですから私は、この点では、地方自治の本旨ということを本当にこれを受けてやっていくときに、国が政策として条例制定権を縛るようなやり方はしないとか、これは憲法解釈とか憲法を変えるという話じゃなしに、憲法にのっとってやっていくならばこういう問題は本来解決される問題だ、このことをやはり厳格にやっていくべきだということを発言しておきたいと思います。

三原委員 自民党の三原です。

 私は思うんですけれども、今憲法で真剣に議論し変えなきゃいけないと思うのは、もちろん私個人的な考えですが、九条。いま一つ議論に急いでしなければならないと思うのは、もうかなりの同僚議員もおっしゃったように、財政の健全化ということですね。

 私が最初に国政に出てきたころは、有効需要をつくるというような美辞麗句を並べながら、経済を支えるためにというので、建設国債がいいだろう、こういうことを言われていまして、その次は、特例国債もやはり必要なところもあるんだと言われているうちに、あっという間にこれほどまでにひどい債務を背負うような国家になってしまった。もちろん、まだ動いているからいいようなものの、だれも第二のアルゼンチンになることは否定できないでしょう。そんな気が私はするわけでもあります。借りたお金は返さなきゃならない、これは当然のことです、国家であろうとも。

 であればこそ、何人かの委員の方が既に言われたので繰り返しませんけれども、財政の健全化に関する一つの文言というもの、このことはやはり将来にわたって我々は大いに議論をしながら入れていくということを考えなきゃいけない、変えていかなければならないと私は思っております。

 いま一つ、地方自治の問題ですけれども、地方自治体あたりで、小さな例ですが、私の知っているところの町は交付税の不交付団体なんです、人口はわずか五万ぐらいですけれどもね。意気軒高としています。そこは、話をしに来られた町長さんと話して言ったんですけれども、今、日本の大きな問題の一つとして少子化なんだから、少子化に取り組んだらどうだと。例えば、七十歳以上に老人保健、老人医療があるように、今、三歳までは医療は無料だ、その後、小学校三年生までは国の助成が第一子、第二子、第三子、こうありますけれども、では、そのあたりまで町が医療費をやるというようなことをしたらどうだと。なおかつ、教育でも、四十人学級を習熟度別でも町の中でやってみて、どんどん頑張れる人はもっと前へ行く、そうでない人にはクラスを小さくしてでも教育してやるというようなことをやったらどうだ。

 それは、経済、財政的な面で余裕があるから議論もできるし、町長もやる気になっておりますけれども、その一つの点をとってみても、私は、国がナショナルミニマムみたいなものを地方自治体に与える、それから先はやはりでこぼこができると思うんですね。それを認めながら、やはりいかにして、まずはやってみて、そして、でこぼこが余りにも、ナショナルミニマムもぎりぎりいつもそのラインから上がれないようなところには、手を差し伸べるというようなそういうシステムをつくることが大切なんだと思います。そうすることによって私は、各地域地域がエネルギーを出せるように、特色を出せるような、そんな地方自治というものができるというような気がします。

 ありがとうございました。

山名委員 地方財政の問題で一点申し上げたいと思います。

 地方財政の実態というのは今極めて深刻な事態にあるわけでございまして、ずっと、通常収支不足がもう十兆から十一兆毎年続いているわけですね。どうしてそんなに地方の財源が不足をし財政危機にあるのか、国もそうではありますけれども。今の地方の財政のあり方というのは、やはり借入金、借金依存体質というのがどうしても残っているわけです。そうさせた国の責任が非常に重いわけでございますが。例えば地方債というのは、財源不足を補うために地方債を発行するわけでありますけれども、例えば減税のための補てん債、それから財源対策債、あるいは減収補てん債等々、臨時財政対策債も含めて相当の借金漬けになっておるわけですが、この地方債は、やはり国の景気対策の一環として地方公共事業を拡大したというところに大きな原因もあるわけでございます。

 本来、地方の単独事業債の利払い、この返済については地方自治体が負担をしていくのが当然のあり方であるけれども、国の景気対策でそういう地方の公共事業と連動させてきたわけでありまして、そういう意味では、国として責任を感じながら地方交付税でその補てんをする、面倒を見る、こういったことがずっと続きまして、今日のいわゆる地方債拡大の大きな要因になっているわけでございます。

 国税の一定割合であるそういう国税を自治体に配分をするというこの地方交付税のあり方、これがずっと続いてきたわけですけれども、借金をした自治体に対して補てんをするわけで、では、借金をしていない自治体の住民とのやはりそこに大きな差別も生まれるわけであります。借金をした方が得だ、こういうことになってしまうという原理もそこにあるわけでございます。

 とともに、交付税措置以外にもこの地方債には大きな問題点がありまして、国の許可制になっておりまして、国の許可で発行するということは、もし仮にその自治体が利払いとか返済ができなければ、国が責任を負うということを暗に約束をしているというまたこの原理になるわけでございます。ですから、民間資金も、そういう意味での国の保証つきということで地方自治体にお金を出しているわけですが、それがまた大きな公債費比率の増加につながっている、こういうことであります。ここに、地方自治体の財政規律という問題で非常に甘さというか、こういったものも依然と引き続きあるし、国がいろいろな経済政策等で関与することによって、それがさらにまた公債費率の増大ということに結びついている。

 したがって、そういう繰り返しをこの十数年、もう二十年近くやっておるわけでありまして、そういう意味では、税財政制度についての規律、こういったものを今こそしっかりと取り組んでいかないけないんじゃないか。はっきりと、地方の自立性を損なうような、そういう負担を転嫁するようなこういう施策をしない、あるいは、国と地方の役割分担というものを明確にしながら地方税財源の充実確保を図る、こういう意味でのきちっとした担保がやはり憲法の中にも必要ではないか。ある意味で法律の上で解決できる問題も多々ありますけれども、こういった明確なものがない限り、地方分権もこれからの時代の中で成り立っていかない、このことを申し上げておきたいと思います。

 以上です。

土井委員 あと、残る問題まだありますけれども、先ほど、自治体の問題で道州制について一言触れたいという予告をしたままになっていますから、それを一言だけ申し上げておきたいと思います。

 やはり、一番この問題を考えていって大事なのは住民自治じゃないかと私は思っています。住民の人たちが何を求め、何を考え、何を意思表示したいということなのかということが常に生かされていないと、幾ら地方自治の本旨ということはどうかと頭を悩まして本旨に対して定義を考えてみたところで、それは意義が余りないというふうに思うんですね。都道府県合併や道州制というのは、行財政の面では相対的に国からの独立性というのが増すかもしれません。しかし、住民から遊離したんじゃ、これは元も子もない。

 今、全国的に見ると、四十七都道府県、大体住民の側からいろいろな御意見が出ますけれども、定着していますよね。既に定着しています、この行政区が。したがって、圏域を越えるような行政需要、そういう問題があるときには、都道府県のお互いの協力の推進や広域連合ということで対応するということが、現実の問題としてはそれは動くんじゃないか。したがって、現行の二層制というのを維持しながら、まずそれは、分権をさらに具体的にするということこそ先決だという段階だと私は思っています。

 ありがとうございました。

中山会長 他に御発言はございませんか。

 それでは、発言も尽きたようでございますので、これにて財政・地方自治についての自由討議を終了いたします。

 午後二時から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十一時五十七分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時三分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を続行いたします。

 本日の午後は、司法・改正・最高法規等についての自由討議を行います。

 議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、河野太郎君。

河野(太)委員 自由民主党の河野太郎でございます。本日の発言の時間をいただきまして、ありがとうございます。

 司法、改正、最高法規についてでございますが、まず、憲法の改正について少し申し上げたいと思います。

 日本国憲法、振り返ってみますと、国の基本法である憲法が解釈で事実上改憲されてきたということを我々は少し反省をしなければいけないのではないかと思います。同じ憲法九条の文言でありながら、自衛隊も持たないという状況から、今やその自衛隊が国連と関係のない状況でイラクまで派遣をされている。これを同じ憲法九条の文言でやってきたということは、事実上、解釈改憲をやってきたということであり、ここは深く反省をして、今後は実体的に憲法をしっかりと改正しながら国を前に進めていかなければいけないというふうに反省をしております。

 同時に、現在のように、内閣の法制局があたかも憲法を有権解釈しているんだ、できるんだというような現状は、きっぱりと否定をしなければいけない。それは、内閣法制局が憲法に関する意見を言うことはあるのかもしれませんが、別に内閣の法制局が有権解釈をしているんではないということをはっきりしていかなければいけないというふうに思います。

 こういう状況になってしまった原因の一つが、九十六条に憲法改正の定めがあるにもかかわらず、その九十六条の改正を現実に行うためのルールづくり、法律の制定をしてこなかった。これは、立法府の不作為であり、国会の怠慢と言わざるを得ないと思います。国会は、憲法改正のための手続をどう行うかという法律をつくる作業に速やかに着手する必要があると思います。憲法をいかに改正するべきか、あるいは憲法を改正するかどうかということについて、この憲法調査会が最終的に取りまとめをするわけでございますが、その内容いかんにかかわらず、憲法を改正するための九十六条の規定を実行に移すためのルールづくりというのは、改正するかどうか、あるいはいかに改正するかどうかとは別に、速やかにやる必要があるということを申し上げたいと思います。

 また、現行の憲法の中に規定されている憲法の改正のルールでございますが、憲法の改正は、単なる法律の改正よりは厳格な手続が必要であると思います。そういう意味で、憲法は軟性ではなく硬性であるべきで、現在の、両院の三分の二で発議され、国民投票で過半数という要件は、極めて妥当な憲法改正の要件であるというふうに私は考えます。法律の改正と同じように、両院の過半数でいいんだ、あるいは国民投票は必要がない、必要ないのではないかという提案も散見されますが、私はそうした考えには賛同することはできません。

 また、一部に憲法九十六条は余りに厳格過ぎるのではないかという御意見もありましたが、憲法を改正するための手続も定められていない、あるいは憲法を実質的に改正しようという試みも行われていなかったのに、九十六条が厳格過ぎるかどうかという議論がされること自体おかしなわけですから、九十六条が厳格だから緩めろという議論にはくみすることはできないというふうに思います。

 また、憲法改正のための国民投票は国政選挙と切り離して行われるべきであるということを何らかの形で、それは憲法そのものでなくとも、国民投票の法律の中に明示する必要があると思います。国政選挙というのはあくまでも政権を選択するための行為であって、国家の基本法である憲法を改正する行為と政権選択の行為は分けて行われる必要があると思います。

 また、国会の中に憲法に関する常任委員会が必要なのではないかという御意見もあるかと思いますが、私は、特に必要はないんだろうというふうに思います。現時点でこの憲法調査会が置かれているというのは、憲法の改正について半世紀の間何も行われてこなかったということを半世紀たってしっかりと議論をするという意味で特に設けられているわけでございますが、一度憲法が改正された後は、どういう手順で改正の発議を行うのか、国会の中の手順をどうするのかということを明確にする必要はあると思いますが、特に常任委員会として設置をする必要はないと思います。

 ただし、この憲法調査会が憲法の改正が必要であるというような提言をまとめたときに、それをこの憲法調査会の後に具体化していくための委員会を今回つくるということは必要であろうと思います。ただし、その後も常設的に何か置く必要があるかといえば、そうではないのではないか。また、必要なときにどうしたらいいのかということを定める必要があるというふうに思います。

 司法に関して申し上げますと、我が国の最高裁判所が違憲審査を意図的に回避してきたということが明白にあると思います。これは司法の役割を放棄され、司法が行政に追随してきたということになるのではないかと思います。最高裁判所の違憲審査が極めて消極的であったがために内閣法制局があたかも憲法解釈をしてきた、こうしたことを許し、憲法がある面恣意的に曲げられてきたのではないかと思います。必要なときには最高裁判所がしっかりと憲法判断をするのであるということを我々は肝に銘じなければいけませんし、そうした司法をつくり上げていかなければいけないと思います。

 また、司法の中で安易な統治行為の理論が振りかざされるということも排していかなければならないと思います。防衛、安全保障の問題に関してであっても、違憲判断というのは当然にあり得るはずでありまして、高度な政治性を持っているがために、すべて統治行為だから司法が判断をしないということがあってはならないと思います。

 近年、司法行政という面で、最高裁判所がお役所的になってきたということが少し懸念をされると思います。最高裁の裁判官の任命が、あたかも既得権のような形で指名が行われてきている部分は否定できません。最高裁判所を頂点とする一元的な司法行政のシステムで本当にいいのかどうか、あるいは、本来憲法が想定したのであろう法曹一元化という改革もしっかり議論をし、必要ならば、それに向けて実態的な作業に入るということが必要なのではないかと思います。

 最高裁判所が違憲審査を行う以上、最高裁判所裁判官の国民審査は必ず必要であると思いますが、現状の国民審査は形骸化しており、意味がありません。国政選挙と同時に行うのではなく、切り離して、信任、不信任の明確な意思で投票する、そういう制度に変えていかなければならないと思います。

 また、最高法規という観点で一言だけ申し上げれば、国内法の秩序に関しては憲法が最高法規であり、国内法は憲法に違反することができないわけですから、条約を担保するための国内法が憲法に違反することができないという限りにおいて、憲法に違反する条約を締結することはできない。そういう意味で、最高法規ということは明確にしておくべきだろうと思います。

 以上でございます。

中山会長 次に、山花郁夫君。

山花委員 民主党・無所属クラブの山花郁夫でございます。

 本日のテーマは、司法、改正、最高法規等ということでございますが、日本国憲法の第四章は「国会」、第五章は「内閣」となっておりますが、第六章は「司法」となっております。司法というのは作用に着目をした概念でありまして、本来であれば立法と行政と司法というのが並びとして正しいと思いますので、第四章、第五章が国会、内閣という機関に着目をするのであれば、第六章のタイトルは、本来、裁判所とあるべきではないかと考えております。

 ところで、憲法の保障ないし合憲性の統制という観点からお話をさせていただきたいと思います。

 憲法の改正の議論をするにしても、改正したにしても、法治主義、法の支配の観点から、それについてはちゃんと守らなければいけない、このように思うわけであります。

 そこで、この憲法の保障の担い手がだれであるかということによって、政治部門による保障であるケース、裁判所による保障であるケース、国民による保障であるケース、三つのケースが考えられると思います。よく裁判所というのは憲法の番人だというふうに言われますので、司法的な保障というのが非常に注目をされますが、例えば憲法尊重擁護義務など事前予防的な保障のケースもありますし、また、政治部門によってその合憲性の統制を行うということも考えられてよいわけであります。

 ところで、何か事が起きた後、事後的な保障のために、八十一条におきまして、いわゆる違憲審査権というものが規定をされております。一般的に、この八十一条というのは、七十六条、司法の作用というのを前提としておりますから、付随的違憲審査制であるとかあるいは具体的審査制と呼ばれております。つまり、具体的事件の解決に必要な限りにおいて憲法問題が提起され、また、その限りにおいて裁判所の憲法判断が要請をされるという構造であるというふうに一般には説明をされております。

 我が国の裁判所が憲法判断をする態度については、司法消極主義という言葉で語られることがございます。司法消極主義と申しましても、レベルとしては二つあり得るのかなと思うんですけれども、まず、そもそも憲法問題として取り上げるかどうかというレベルの話と、憲法問題として取り上げた場合に違憲判断というものを積極的に行うかどうか。一応レベルとしては二つあり得るんですけれども、そのいずれも消極的ではないかというような見解が非常に有力ではないかと思います。

 ただ、そもそも憲法問題として取り上げるのかどうかという話で申し上げますと、付随的違憲審査制ということを前提といたしますと、それからくる限界というのはやむを得ないのではないかと考えます。これは、そもそも具体的事件性であるとかあるいは争訟性ということを要求する司法権の観念に由来するものでありまして、七十六条の解釈に直結をするものだからであります。

 ただ、もっとも、行政訴訟法の制定と申しましょうか、行政事件訴訟法の改正によりまして、若干従来より間口が広がる可能性はあるのかなと感じております。参考人の方々の御意見の中で、付随的違憲審査のもとでも違憲審査権を積極的に行使できるはずである、そういった旨の発言などもございました。

 ただ、これまでの運用というものを見てまいりますと、既に最高裁判所の憲法に対する取り扱いのやり方というのが、憲法慣習ないし憲法習律と言うと言い過ぎかもしれませんけれども、このような感じになってきているのかなというふうにも思いますし、また違憲判断を、つまり、憲法問題であるとして最高裁が取り上げて、それをさらに違憲だという判断を積極的に行うかどうかという話になりますと、これはまさに司法権の自律にかかわることでありますから、有識者の方々が分析をするのはそれは自由なのでありましょうけれども、余り議会側から文句をつけるという筋合いのものでもないのかもしれません。

 ただ、憲法保障という観点から見た場合に、現行の運用で十分かどうかというのは、疑わしいこともあるのも事実であります。憲法そのものの議論をするという場合には、法治主義の原理を徹底するという意味から、憲法保障のあり方を制度論として再構築するというのは十分意義のあることではないでしょうか。そして、憲法裁判所というものを新たに設置する、あるいは現在の最高裁判所に憲法部を設けるということであったとしても、憲法上の根拠を持つとすることの方が望ましいと考えます。

 また、今後のあるべき姿としては、従前より議論させていただいてきておりますとおり、法の支配の徹底という観点から、憲法裁判所の設置ということの方が望ましいものと考えます。この点、参考人の方々からの御意見では、憲法裁判所を設置すると政治の裁判化が発生するなどの懸念も表明をされました。

 憲法上疑義があると指摘されるケースには、極めて政治問題の色彩の強いものがあるのも事実であります。ただ、憲法保障の方法として、裁判所による保障というだけではなくて、議会による保障というものも考えられてよいのではないでしょうか。先ほど、政治部門による保障ということを申し上げたのはこのことであります。

 議会側にも憲法判断を行う部門というものが存在をし得てもよく、憲法委員会のようなものが国会に存在をしていてもよいのではないでしょうか。憲法判断に対する最終判断権をいずれが有するかという問題さえはっきりしていれば、憲法判断を行う機関が複数存在するということも技術的、論理的にはあり得ることだと思います。

 先ほど河野委員からの御指摘があったこととも関連をいたします。ひいては、このことが内閣法制局のあり方にもかかわることだと思います。先ほどの意見陳述の中でもありましたとおり、法案作成に当たって内閣法制局がどのような憲法解釈に基づくか、それはそれとして意味のあることではありますけれども、決定的な権威であるということは本来あり得ないはずであります。現行憲法上、合憲、違憲の判断の一部は、最終的には裁判所によって担保されるものであるとしても、法律案を審議する際に、あるいは行政上の措置を論じる際に、その合憲性について、第一次的にお墨つきを与えるのは国会であるべきだと考えます。

 また、そのこととあわせて、衆議院あるいは参議院の法制局の体制の強化ということも必要となるのではないかと思います。法律案の作成についてのみではなくて、憲法判断についてもリーガルサポートをできるだけの人員が確保されることが必要ではないでしょうか。

 また、違憲判決の効力について申し上げたいと思います。違憲審査の発動の形式、契機ということと、その結果たる違憲判決の効力は、論理的には別次元のものではないかと考えます。付随的違憲審査制をとっているから直ちに個別的効力しか持たないということになるという論理関係にあるのではないのではないかと思います。

 最高裁判所の裁判事務処理規則十四条によりますと、違憲判決要旨の官報による公告、内閣、国会への裁判書正本の送付が定められております。これは違憲判決の効果が当該訴訟事件の範囲にとどまらないことのある種の認識を反映するものではないかという指摘もあります。

 ただ、問題なのは、自由権のようなケースですと、当該措置を違憲無効であるという判断をすれば、当該事件の解決にとっては有意義な判決なんでしょうけれども、国務請求権であるとか社会権、特に、余り国会にとっては名誉な話ではありませんけれども、選挙権絡みの公職選挙法の一票の格差の是正のような話ですと、違憲無効であるといっても具体的事件の解決にとっては必ずしも適切ではない場合があります。こういったケースについての救済のあり方というもの、これについては、必ずしも憲法上の話なのか、あるいは法律次元の話なのかということはあるかもしれませんけれども、憲法救済法的なものを考える必要があるのではないかと思います。

 また、その文脈の中で、立法の改廃というものを義務づけるということは、現行の憲法ではできない建前だと思いますが、これを義務づけるようなことは、憲法改正が必要ということになろうかと思います。義務づけしなければならない事態というのは国会にとっては極めて不名誉な話でありますので、発議をするというのも、なかなかしづらいかもしれません。

 時間が参りましたので、余り国民投票の話ができませんでしたけれども、国民投票法などを考えるに際しては、現行憲法の改正のためだけということではなくて、憲法改正に当たって、例えば国民にイニシアチブを持たせるということもあり得るのではないか、立法の改廃を義務づけるということなどもそういったテーマの一つの例ではないかと考えます。

 以上です。

中山会長 次に、大口善徳君。

大口委員 公明党の大口善徳でございます。

 本日は、司法、改正、最高法規等について、公明党憲法調査会の昨年六月の論点整理を踏まえ、意見を述べさせていただきます。

 日本国憲法は、憲法規範の実効性を担保するため、憲法保障制度を規定しています。権力分立制四十一条、六十五条、七十六条一項、違憲審査制八十一条、硬性憲法としての改正手続九十六条一項、法の支配の原理をあらわす九十七条、前二条の形式的、実質的最高性から導き出される最高法規九十八条一項、そして公務員に対する憲法尊重擁護義務九十九条等です。

 我が党は、現行の日本国憲法はすぐれた憲法であり、その憲法保障制度についても基本的には維持すべきものと考えます。

 以下、主な論点について意見を述べます。

 一、司法について。憲法裁判所の導入については、我が党の論点整理で、司法消極主義に傾いている現在の最高裁判所のあり方を改善していくことが重要であり、憲法裁判所の設置までは必要ないのではないかとの指摘があり、私も同じ意見であります。

 最高裁判所の現状に対しては、一、多くの上告事件を抱え多忙なため、憲法判断の責務を十分果たしていないように見える、二、憲法判断に消極的で、憲法規定を正面に押し出すことなく、法律レベルで解決を図るケースが多い、三、行政の一部局である内閣法制局に事実上憲法解釈がゆだねられている、四、時間が非常にかかり迅速な救済ができないことなどの批判があります。憲法裁判所導入論は、憲法判断の権限を憲法裁判所に集中することにより、明確かつ迅速に統一的な憲法解釈を可能にし、判決の一般的効力を持つことにより、法的安定性に資すると主張します。

 しかし、憲法裁判所には根本的な疑念があります。すなわち、迅速な合憲判決が憲法論議を封じ込め、政権に早期のお墨つきを与えたり、スーパー立法府となって国会の立法機能を弱体化させる政治の裁判化や、国会で議決した政策問題の逆転をねらい、政争を裁判所に持ち込む裁判の政治化を招き、また、具体的事件から離れた観念的な憲法判断に終始したり、人権感覚にすぐれた下級裁判所の憲法判断の機会をなくすることになるからです。

 私は、当憲法調査会における北海道大学教授の笹田栄司参考人の意見陳述の指摘にあるとおり、違憲審査制の停滞の現状を最高裁判所の責任のみに帰するのではなく、立法による最高裁判所の機構改革、すなわち上告審機能と違憲審査機能を分離し、上告審機能を大幅に削減し、憲法判断が十分にできる環境整備をし、最高裁判所裁判官の任命システムについても、選任過程における透明性、客観性を確保するため、幅広く各界の意見が反映できる最高裁判所裁判官任命諮問委員会を設置し、内閣がその意見を尊重し、固定化した出身分野比率による選任や、膨大な上告事件処理のためのキャリア実務家中心の構成から、憲法問題に精通した学者等の専門家を積極的に活用する等の改革が必要と考えます。

 さらに、最高裁判所裁判官の国民審査制度については、ほとんど形骸化しており、これを廃止し、より民主的な方法を検討すべきとの有力な考えもあります。最高裁判所の裁判官は、憲法判断に消極的で、顔が見えず、国民審査の判断材料となる情報に乏しいので、まずは積極的な情報開示をすべきです。

 今般の司法制度改革については、過度の事前規制・調整型社会から、事後監視・救済型社会へ転換しつつある我が国の構造改革の中で、司法の役割がより重要度を増しているとの認識に立ち、国民の司法参加、利用しやすい司法制度等を実現するものであり、主権在民の精神からも憲法的意義のあるものです。

 特に裁判員制度は、国民が裁判員として裁判官とともに事実認定と量刑を共同決定することによって、司法が一部専門家のものではなく、国民に広く開かれた、わかりやすい、信頼されるものとなり、国民の司法に対する関心を高め、違憲審査や最高裁判所の裁判官国民審査の活性化にも寄与するものであります。国民の司法参加を憲法に明記し、立法上保障することも前向きに検討すべきと考えます。

 二、九十六条一項の改正手続について。我が党の論点整理では、各議院の総議員の三分の二以上の賛成の規定については、改正そのものを厳しくしているとの指摘も少数ながらありましたが、憲法改正の重さから妥当であるとの意見が大勢でした。

 また、国民投票についても、改正の要件であることを前提とし、選挙人名簿を投票人名簿とすることが適切であるとし、国政選挙と同時に行われることの想定については、一、政権を争う国政選挙と憲法改正の賛否を争点とする国民投票とは全く性格が違うこと、二、原則として自由であるべき国民投票運動と規制がある選挙運動との調整が大変な問題であることから、同時実施については慎重論が大勢です。

 我が党の太田昭宏委員も発言しているように、憲法改正案の内容をどのように周知させるかという問題は国会での発議のあり方と大きくかかわるものであり、これらの点を踏まえ、国会法改正を含む手続法制定の議論を行う必要があります。

 憲法改正は、国法秩序の根幹をなす国の基本にかかわる重要問題であり、しっかりとした議論をし、議会の合意形成に誠意を持って努力し、その過程を憲法制定権力を有する国民に示し、できる限り国民のコンセンサスをつくり、国民主権の原理に基づく国民投票によって民意を確認することが不可欠です。したがって、改正手続の要件を緩和すべきではないと考えます。

 なお、高見勝利参考人の当調査会最高法規小委員会における発言、「憲法改正規定の単なる形式的なハードルの高低だけを見て、一国の憲法の改正の難易度あるいはその頻度を論ずるというのは、やや問題がある」との指摘は重要であります。憲法改正議論を改正手続の要件の緩和に向けるのではなく、国民に対し、改正の必要性、合理性を十分説明し、国民的コンセンサスが得られる改正案を示すことが基本であると考えます。

 また、我が党は、九十六条二項について、現行憲法はすぐれた憲法であり、国民の間に広く定着していること、諸外国では時代の状況に合わせ憲法を補強する方式をとる国が少なくないこと、同項の「この憲法と一体を成すものとして、」との表現は米国憲法のアメンドメント方式が基本となっていることから、我が党が主張する加憲は極めて現実的な方式であると主張しています。

 三、条約と憲法の関係、国際協調主義と国家主権の移譲について。我が党の論点整理によれば、条約と憲法との関係については、あくまでも国の最高法規である憲法の方が条約よりも優位するとの見解に立つべきであると考えますが、条約を初めとする国際法規の遵守など、現行憲法が定める国際協調主義の精神は、より一層徹底していくべきとの指摘があります。なお、これに関しては、EU加盟国のような国際機関への主権の一部移譲なども将来的には検討する必要があるとの指摘もあります。

 四、九十九条の憲法尊重擁護義務の名あて人について。我が党の論点整理では、公務員に加えて国民の憲法尊重擁護義務も定めることについて、党の議論として否定的でありました。憲法は国家権力による国民の権利の侵害を防ぐための規範であるという法の支配、立憲主義の立場から、私も同じ意見です。

 なお、内閣法制局の法案提出前の厳格な事前審査や議員立法における議院法制局の事前審査は、九十九条の憲法尊重擁護義務に基づくものであります。これにつきまして山花幹事からもお話がありましたが、後者、議院法制局の体制についてはより強化すべきでありますし、また、司法の違憲審査制度というものによって最終的に憲法の判断をすることを積極的に行うべきであると考えます。

 以上です。

中山会長 次に、塩川鉄也君。

塩川委員 日本共産党の塩川鉄也です。

 司法、憲法改正、最高法規等に関して発言をいたします。

 まず、日本国憲法が定める違憲審査制度の意義について述べます。

 憲法第八十一条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と定め、裁判所による違憲審査を認めています。

 違憲審査制は、人権保障と憲法保障の二つの目的がありますが、日本国憲法が世界でも比較的早く違憲審査制を採用したのは、明治憲法のもとで、侵略戦争と人権抑圧への反省からであります。

 日本の違憲審査制は付随的審査制と呼ばれております。人権問題は具体的な事件として起こります。憲法は、その事件解決のための前提として、適用法令の違憲審査を下級審から最高裁に至るまで認め、具体的事件に即したきめ細かな憲法判断を可能にしています。そして、すべての裁判官が広く憲法について勉強し、具体的な事件に対して憲法適合性を判断する能力を求めているのであります。

 戦後の裁判では、憲法秩序を守り、人権を保障する上で重要な判例も生まれてきました。生存権をめぐる朝日訴訟では、一九六〇年、東京地裁が、厚生大臣が生活保護法に基づき定めている保護基準は健康で文化的な生活を維持できない水準であるとして、当時の保護基準及びそれに基づく保護の変更を違法と判示しました。また一九七三年には、長沼ナイキ基地訴訟で札幌地裁が、平和的生存権の権利を認め、自衛隊を憲法九条違反とする極めて正当な判決を下しました。最近では、昨年四月、福岡地裁が小泉総理の靖国神社参拝を違憲としました。

 下級審だけではなく、最高裁においても、一九九五年、定住外国人が地方自治体で選挙権を持つことは憲法上禁止されないとの判決があり、一九九七年には愛知県知事による靖国神社への公金支出を違憲としました。

 同時に、最高裁での法令違憲判決は極めて少ないのが現状であります。司法消極主義とも言われております。その原因は、政権党が最高裁裁判官の任命制を政治的に利用するために、最高裁が憲法判断を回避する傾向を持つこと、また、最高裁が下級審の裁判官を厳しく統制する司法官僚制が影響しているとの指摘もあります。

 今、一部に、司法消極主義を解消するために憲法裁判所を設置すべきとの主張があります。しかしながら、先ほど指摘した問題の解決を抜きにして憲法裁判所を設置したとしても、政府の違憲行為に対して合憲判決を重ねるだけであるとの指摘もあります。

 仙台地方公聴会で小田中聰樹意見陳述人が、「憲法裁判所をつくれば違憲立法審査権が活性化するというのは幻想ではないか。」と述べたことを初め、本調査会の参考人も、多数が憲法裁判所の導入には消極的でありました。

 違憲審査を活性化させるためには、憲法第七十六条第三項が定めるように、すべての裁判官が良心に従い独立してその職務を行い、憲法及び法律にのみ拘束されるということを名実ともに実行し、政権党の政治的利用や司法官僚制を排除することであると考えます。

 次に、憲法改正条項と国民投票制度について述べます。

 日本国憲法は、憲法改正について、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で国会が発議し、国民投票の過半数の賛成によって承認を経るとしています。こうした厳格な規定を置いているのは、憲法の安定性と可変性の両方の要請にこたえようとするものであります。憲法改正が一般の法改正とは異なって国民投票を要請しているのは、憲法改正権が憲法以前の始原的な憲法制定権力に由来し、憲法前文が「この憲法を確定する。」と宣言しているように、主権者たる国民に留保せらるべき権限だからであります。

 今、一部の改憲案に、この憲法改正条項の国民投票を削除するものがありますが、これは、主権者国民の憲法改正権を奪うものであり、本調査会でも小林武参考人から、改正限界に当たるとの指摘がなされたところであります。

 憲法改正の手続をめぐって、その制度が整備されていないことをもって立法の不作為と主張されることがありますが、これについては、本調査会でも高見勝利参考人が述べたとおり、立法の不作為とは、国家賠償訴訟で用いられる用語であります。現に具体的な憲法改定案が国会に示されていないもとで、国民の憲法改正権は侵害されておらないのであり、立法の不作為は当たらないと考えます。

 国民投票に関しては、日本国憲法は、憲法改正のほかに、地方自治特別法の制定に際しての住民投票、そして最高裁判所裁判官の国民審査を定めています。

 憲法第九十五条に係る住民投票の現状については、昨年十月二十八日の当調査会で我が党の山口議員が詳しく述べたとおり、歴代政府によってこの条文がないがしろにされております。こうした憲法に反する政治こそ、改めることが必要であります。

 一方、地方政治の分野では、住民投票は積極的な経験を積み上げてまいりました。一九九六年の新潟県巻町での原発建設の賛否を問う住民投票を初め、岐阜県御嵩町の産業廃棄物処理場問題、沖縄県名護市の米軍ヘリ基地の建設問題、徳島市の吉野川可動堰の建設問題、そして最近は市町村合併問題など、多彩に取り組まれてきました。こうした住民投票運動を敵視し、干渉を加えてきたのが、歴代政府であります。住民投票は、住民の意思を直接地方政治に反映する大きな意義を持つものとして、早急に法律の整備を図るべきと考えます。

 最後に、日本国憲法の最高法規性について述べます。

 憲法第九十八条第一項は、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定め、憲法が国法秩序の中で最も強い形式的効力を持ち、最高法規性という特性を帯びていることを明らかにしています。同時に、第九十六条で憲法改正手続に国民投票制を導入し、硬性憲法とすることによってその最高法規性を担保しています。

 そして、日本国憲法は、「最高法規」の章に人権の永久不可侵性をうたった第九十七条を置いていることから、憲法の最高法規性が人権保障という点に実質的な根拠を有していると考えられております。

 昨年十一月の本調査会公聴会で村田尚紀公述人は、この最高法規性とともに、授権規範、制限規範を憲法の特質として挙げ、この憲法が民主的かつ立憲主義的な解釈と運用がなされているのかどうか、憲法は、寿命が尽きたわけではなく、使いこなされていないことが今日の憲法をめぐる最大の課題であることを述べられました。本調査会は、本来こうした問題に光を当てるべきであります。

 我が党は、この点について繰り返し指摘をしてまいりましたが、特に憲法第九十九条の憲法尊重擁護義務の問題については、本調査会は調査らしい調査を行っておりません。

 憲法制定後、この憲法尊重擁護義務に反する言動が追及されて大臣を辞任した者は少なくありません。今日では、小泉総理が、先ほど述べた靖国神社参拝に対する違憲判決が出ても参拝はやめないと公言をする、あるいは、自衛隊の多国籍軍参加は憲法上許されないという解釈を一夜にして覆すなど、憲法九十九条に反する実態がまかり通っています。その一方で、自民党からは、公権力に対して向けられた憲法尊重擁護の義務を国民に課す改憲構想が出されるなど、逆立ちした議論だと考えます。

 本調査会で長谷川正安参考人が、憲法を守らない者が憲法を変えろと言うのは、税金を払わない者が税法を変えろと言っているのに等しいと述べましたが、憲法を語る資格が問われていることを指摘して、発言を終わります。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 まず最初に、日本国憲法の最高法規性について申し述べたいと存じます。

 立憲主義において、各国の憲法は、第一に、為政者、国家権力が暴走したり恣意的な統治をしないということのために国家に対して示している規範であり、それぞれの国の法体系の中では最高法規と申し上げてよいその意味とそれから存在意義を持っております。日本国憲法の場合には、当然ながら、この問題に対して、最高法規を条文においても決めているわけですけれども、この中では、国家の存在を基礎づける基本法であるから、憲法がすべての国内法の中で最高法規として存在しているという性格を具体的に保障しているわけです。

 しかし、この最高法規としての性格を具体的に決めている条文の一つとしてございますのが九十六条の改正手続をめぐる問題です。第九十六条は、この日本国憲法に対して、改正ということも憲法自身が予期していると申し上げていいと思います。

 ただ、ここで非常に大事な問題を私は指摘したいと思います。

 何かと申し上げれば、ここに記載されている九十六条の条文の内容は改正の手続であって、憲法を改悪することのための手続ではございません。憲法を変えるというのを総じて改憲と言ったり憲法の改良と言ったりいろいろ、最近はこれに対しての呼び方を憲法の条文が明示している表現とは別で言うたぐいがふえてまいっておりますけれども、しかし、九十六条の改正手続では改正と言っているわけですね。これは大変に意味があると言わなければならないと思うのです。

 日本国憲法が制定されるまでには、人類普遍の原理に立って人権を保障する過去の長い長い歴史があります。権利に対して、それを具体的に法の保障とするまでの大変な苦難に満ちた人類の具体的な努力がございます。そういうことを抜きにして憲法の存在はあり得ない。

 したがって、この憲法に対しても、これから変えるときには必ず、これまでの歴史のよって来るべきゆえんもしっかりと受けとめて、さらに歴史を進歩発展させる方向での憲法の変え方というのが実はこの憲法自身が予期している問題である。言ってみれば、憲法それ自身の、法の一番大事な基本であると申し上げていいと思うのです。したがって、この憲法の条文の内容を改正するのではなくて、歴史の歯車からいえば逆行させる方向で変改することを称して改正とは言いません。

 この九十六条の条文も、その意味において、まずは歴史の歯車を前進させる。つまり、権利に対してはさらに権利の内容を充実させる方向で努力していく。また、国民が主権者であるという問題についても、その主権性の存在というというのを確かなものにする。そして、日本国憲法の場合は、何といっても一番大事な最大の特徴である恒久的平和主義という、この平和主義の中身をさらに充実させ確かなものにする。それは、戦争をしないということをしっかり決めている条文が九条なんですから、戦争をしないということを決めている九条を変えて戦争ができる条文にしようという中身を見たときに、これが日本国憲法の予期する改正とはとても考えられないです。

 そういうことを思いますと、今の九十六条の改正手続について言うなら、時代の趨勢の中でこの憲法の歴史的な発展ということをしっかり受けとめた形で具体的に考えられるときを置いて改正はあり得ないと私自身は思うんです。

 発議の要件についても、総議員の、衆議院、参議院それぞれの三分の二以上の賛成を必要とする、そしてまた、国民投票によって国民が過半数賛成しないと発議された中身についてもこれを決めることができないということが九十六条の内容になっているんですが、この手続を、大変に厳し過ぎる、条件を緩和するということを考えたらどうかという声がしばしば聞こえてくるんです。

 実は、私は、この問題をめぐって過去に質問主意書を出しておりますが、その質問主意書の中身とただいまここで申し上げたい中身とは全然違っておりません。したがって、この質問主意書に従って申し上げさせていただきたいと思うんです。

 憲法第九十六条に定める改正手続を大幅に緩和すべきであるという意見が最近相次いでおります。これは憲法の最高法規性を無視するばかりでなく、近代立憲主義の歴史的経過、近代憲法の存在意義を踏みにじるものであって、看過することはできません。

 憲法の改変についてどう考えるかということで、九十六条に規定されている憲法の改正手続を緩和するために改変することは許されない。硬式憲法として憲法が改正手続を困難にしているということは、もって慎重を期しているわけであって、この憲法が、つまり憲法の改変に対して非常に慎重であるということをやはりこの硬式憲法という意味からすると考えられるわけで、その改正手続を緩和するという憲法の改変は硬式憲法として法理上許されないというのが私の考えなんです。憲法九十八条の第一項、九十九条にも違反すると私はこの中身について考えております。九十九条は、申し上げるまでもなく、公務員の憲法尊重擁護の義務でございます。それから、九十八条の第一項は憲法の最高法規性を問題にしている箇所でございます。

 また、国民投票、これは憲法改正手続上不可欠なものであって、これによらないで憲法を改変するということの主張が最近は出てまいっているようでございますけれども、これは、日本国憲法が定めております一大原則、国民主権原理の否定です。改正の限界を超えております。こんなことは許されないと私自身は考えております。

 したがって、ただいまの九十六条の改正手続を変える場合も、九十六条の手続によって変える以外にただいまの日本国憲法は改憲を認めておりません。

 だから、そういう点からいっても、この改正手続を緩和しようという御意見というのがいかにこの憲法の立脚点である基本問題に対して、むしろ不理解であるかということを物語っているとすら私は思うわけです。

 さて、もう今ブザーが鳴ったのですが、会長に申し上げたいのは、これは憲法調査会として、一巡、第一章からずっと章別にやってまいっておりますけれども、きょうのこの午後のテーマは非常に濃密なんですよ。それで、十分で報告申し上げて、あとフリートーキングが五分という時間の限界の中でというのを一回こっきりやって、それで終わりというわけにはどうも私はいかないような気がいたしております。ぜひとも、この問題については続行して、もう一回、できたらさらにもう一回考えていただくことを特に申し上げて、十分終わります。

 ありがとうございました。

中山会長 これにて各会派一名ずつの発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 それでは、御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。

 まず、第六章の「司法」の点について申し上げます。

 基本的には、現行の憲法規定を現在直ちに改正する必要はないという前提には立っておりますけれども、いささか問題がある点について触れていきたいと思います。

 第七十六条の第二項であります。

 「特別裁判所は、これを設置することができない。」という規定がありますが、この点について、さまざまな社会状況の変化によって、これまでのような地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所という三審制をこのまま踏襲する方がいいのか、あるいは特別の専門裁判所を設置することがむしろ国民の権利義務の救済なり行政の適正な権限行使に役立つか、こういう観点から考えますと、行政分野あるいは労働分野についての特別裁判所の設置ということは、一応検討に値することではないだろうか。そういう意味では、憲法第七十六条二項についての検討の必要性があるというふうに私は考えております。

 それから、第七十九条の二項の最高裁判所裁判官の国民審査制度でありますけれども、これは運用の実態からいって極めて形骸化をしております。これを今のまま踏襲するということはいささかむだであるというふうに考えておりますので、これは、基本的には改正をすべきものだと考えております。

 憲法の七十九条の六項と八十条の二項の点であります。

 最高裁判所、下級裁判所の裁判官は、いずれも、「すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。」という明文の規定があります。しかしながら、現実にはこれを減額しております。結果的には、公務員あるいは公職にある者に対しての国民の批判がさまざまにある中で、一般的に給与水準が妥当であるかどうかという大きな流れの中で、自主的に返納したときもありますし、一〇%減額するということもあります。そういう意味では、憲法の現在の規定については検討が加えられるべきであるというふうに考えております。

 憲法上規定がないことでありますけれども、裁判官の制度の中で、非常勤の裁判官という新しい位置づけのものが出てまいっております。現在の憲法の規定上は、明文上これを明記したものがありませんので、さまざまな分野で非常勤の裁判官を活用することが国民の司法生活をより充実させるという意味で役立つ場合が極めて大きいと思っておりますので、非常勤の裁判官を憲法上の制度として位置づけることを検討すべきであるというふうに思っております。

 なお、憲法三十二条で、何人も、裁判所において裁判を受ける権利を有する、こういう規定があります。そこで問題なのは、裁判員というのはこの中に入るのかどうかという議論があります。私は、この点については、もう既に一連の司法改革の流れの中で国民的な論議を尽くした上で解決済みであり、この点については問題はないというふうに考えております。

 それから、第八十一条の関係であります。最高裁判所の法令審査権の問題であります。

 「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」という点について、あくまでも終審裁判所ということであって、それ以外にどのような機関において法令審査をするかということについては、必ずしも明示されておりません。

 私は、第一次的には、やはり、国会で法令審査ができるようにすべきであるというふうに考えております。そういう意味では、憲法院的な形のものを機能として付加すべきであるというふうに考えております。

 特に、地方公共団体が制定する条例についての審査は一体どこでどういうふうにするのかというのが明らかになっておりませんので、いささか制度の欠缺があるのではないかというふうに考えております。

 その他幾つかの問題がありますが、とりあえず以上であります。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 多岐にわたる問題でありますが、まず、司法の問題、特に憲法解釈という問題から入りたいと思います。

 我々は、議会でさまざまな議論をしている中で、内閣法制局による憲法解釈というものを引用し、またそれに基づいて私たちの政治上の判断をするということがしばしばございます。しかし、本来、内閣法制局の権限というのは、内閣がさまざまな政治の段階で行う行為に対して、その行為が憲法に適合するものであるかどうか、そういうことを解釈する、だから内閣の行為に限定されるべきものだと考えておりますが、それが、その範囲を超えて我々のさまざまな政治の活動あるいは議論においても縛られるということは、本来おかしな話であるというふうに思っています。やはり、ここは、一つは、最高裁判所の憲法判断というものをきちんとしていく、またそういう環境をつくるということが大事ではないのかというふうに思っています。

 残念ですが、現状の最高裁判所におきましては、憲法にかかわる以外の案件が大変多い状況にありまして、なかなか憲法判断にまで時間が割けないという点、あるいは政府の統治行為であるということで、どうしても憲法判断を避けてしまう、そういう現状の最高裁判所の状況があると思います。したがいまして、私は、最高裁判所の中に憲法部という憲法問題を特別に扱う部門を設けるか、あるいは最高裁とは別に憲法裁判所を新たに設けるか、いずれかの方法によらなければいけないと思います。

 ただ、私は、憲法裁判所を独立させますと、個別のいろいろな事件、ケースと憲法裁判所での事案が乖離してしまう、個別事案と憲法を扱う部分が乖離してしまう、こういう問題が生じると思います。したがいまして、私は、できれば最高裁判所の中に憲法部を設ける、そこで憲法解釈の問題、憲法に適合するかどうかということを議論する場を設けるべきであると思っております。

 二番目に、我々国会の中にも、やはり憲法委員会、できれば常任委員会という形ですが、これを設置すべきであるというふうに考えます。

 その憲法委員会におきましては、我々が日常行っている立法措置と憲法との関係がどうであるか、これを常にチェックするという仕事が出てくると思います。また、立法行為のみならず、国会の中で議論するさまざまな政治プロセスの中で、この議論があるいはこの考え方が憲法に適合するかそうでないのかということをチェックするという幅広いチェック機関にも私はなると思っております。EUの多くの国々でも、この憲法委員会というものがそれぞれの議会の中に置かれていることは周知のとおりであります。このようなことで、常設の憲法委員会を国会の中にも設置するということを私はぜひ実現すべきであると思っております。

 憲法の改正手続のことについてでございますが、まず、国民投票法案、現在、与党内で準備をしております。国政選挙と同時にもできるわけですが、やはり争点がぼけるという点、政治勢力がこのことを悪用する、こういうことも考えますと、国政選挙とは別に国民投票を実施するということが望ましいと思っております。

 また、この国民投票法による国民投票については運動が事前に行えるわけでありますが、私は、この活動につきましては自由に行うべきであると思っております。また、この国民投票の有権者でありますが、これは国政選挙と同じ有権者のリストを使うべきである、このように考えております。

 この憲法改正手続を一日も早く整備するということは、憲法にこの改正規定があるということから、当然の立法府の責任である、このように考えております。

 以上でございます。

中川(正)委員 民主党・無所属クラブの中川でございます。

 私は、憲法裁判所はつくるべきだという観点で議論をしていきたいというふうに思うんですが、これを考えるときに、国家の意思というのをどのようにつくり出していくかということが基本なんじゃないかというふうに思っているんです。

 それで、これまでの憲法の枠組みの中で日本がやってきたことというのは、いわゆる解釈改憲、九条に象徴されるような形、あるいは、いわゆる財政の健全化の議論をしていても、官僚だけの浅知恵というか悪知恵の中で、方向性というのを議論せずに、過去に敷いた路線の延長線上で何とかつじつまを合わせて、その場しのぎをしていこうという国のあり方、こういうことに今限界が来ているんだろうというふうに思うんです。

 そうした意味からいえば、やはり憲法に違反していることは違反しているんだ、財政についてもこれ以上借金はできないんだということがどこかではっきりとした形で打ち出されてくる、そのことによって政治が動き出すわけでありまして、それはそのままでいいのか、それとも、その法律、いわゆる国の方向性というのをもう一回国家の意思として立て直して、それを動かしていくのかということがそこから始まってくるんだろうというふうに思うんです。

 そういう意味で、国の意思というのをはっきりさせていくときには、やはりその回転を速めていくためにも、結論はしっかりとした形で出していくという、やはりその仕組みというのは基本的に必要なんだろう。そういう観点から、これまでの日本の国家意思の形成のあり方というのを考えていくと、やはり改めてこの憲法ということを基本にして、憲法裁判所というのを独立した形で、そういう意思を持ってつくっていくということが大切なんだろうというふうに思っております。

 それからもう一つ、改正手続について、三分の二以上で国民投票ということなんですが、これはこれでかたい形なんですが、この憲法の改正議論をいわゆる政治化するというかポリティサイズさせることを避けるためには、これも一つの形なんじゃないかというふうに思うんです。二分の一以上だと、今、自民党が歩んでいるような道筋といいますか、ことしじゅうに逐条審議までやって、改正試案を出して提起をする。それをやると、恐らく我々も、それに対峙したような形のものが出てくるんだろうというふうに思うんですね。

 それで選挙をするということになると、選挙に憲法を利用するような、そのところがポリティサイズ、こう言うわけですが、そういう構図が出てきまして、このままでいったらもうステールメートで、そのままずっと未来永劫この憲法のままでいくんだろうというふうにシナリオとしてはなっていくんだろうというふうに思うんです。

 ところが、三分の二というのは現実的にあるだけに、そこはしっかりと議論を尽くす、あるいは国民も巻き込んで、実際どうすべきかというようなプロセスをつくるということが求められていくんだろうというふうに思いまして、何が本当に今日本にとって大事なところかというのをしっかりと自民党のサイドも踏まえた上で議論を進めていただきたいということ、これを三分の二ということに絡めてお話を申し上げました。

 それから、国民投票の中身なんですが、これは私は個別的にやっていくべきだろうというふうに思っておりますし、そのときに、この間スイスの国民投票の様子も勉強させていただいたんですが、非常に選択肢というのが国民にしっかりと理解ができるという装置が国民投票をする前に仕組まれているというところ、これが非常に大事な点なんだろうというふうに思うんです。その議論なしにはこの国民投票の仕組みもなかなか前に進んではいかないんだろうということ、このことも指摘を申し上げて、終わります。

 ありがとうございました。

葉梨委員 自民党の葉梨康弘です。

 司法について、まず二点申し上げます。

 第一は、憲法裁判所または最高裁判所の憲法部設置の必要性です。

 現在のように個別の事案に着目した通常の訴訟では、一つには、裁判所が憲法判断を回避し過ぎるという問題があります。あるいは逆に、特定の思想信条に立ち、また、ごく一部の政治活動、政治勢力の立場を代弁する裁判官が傍論で国の行為を憲法違反と書いても、個別事案について被告である国側が勝訴であれば被告は上訴できず、その判決が確定するという問題があります。これらの問題があるため、憲法裁判所の設置は絶対必要です。ただし、もとより、これを設けたからといってオールマイティーというわけでもありませんし、その導入に全く問題がないわけでもありません。

 三点を工夫する必要があると思います。

 一つは、国民に開かれ、かつ効率的な運営をどう確保するかという問題。

 それから二つは、裁判官の人事の問題です。例えば、内閣の指名、国会の承認により一年ごとに三分の一を入れかえるといった柔軟な運用をしませんと、ルーズベルトのニューディール政策が連邦裁判所でことごとく違憲とされ、ルーズベルト自身、共和党指名の判事が退任するまで待たざるを得なかったということの二の舞にもなってしまいます。

 三つは、司法のみでは違憲審査が十分かという問題です。特に、事前の審査には役に立ちません。内閣法制局でなく、国会に憲法委員会を置いて、憲法裁判所の機能と相まって事前事後の違憲審査を行い得る体制を確保することが必要と考えます。

 第二は、自衛隊ないし自衛軍の憲法的位置づけの明記に関連して、いわゆる軍事裁判所の問題です。

 軍があれば必ず軍事裁判所を置かなければならないかといえば、必ずしもそうではありません。今ドイツでは、軍はあるけれども軍事裁判所は設けていません。専門家に聞いてみると、多分、有事には軍人を特別司法警察職員とし、従軍検察官、従軍裁判所的なものになるのではということです。この場合は、もとより裁判は最高裁の監督下に置かれます。もとより私は、現在の我が国における精密司法の司法制度では、有事におけるスピードに著しく欠けると思います。

 ただ、私自身は、有事の側面から、今の司法制度を抜本的に改革することで、憲法上明記しなくても、代替的な軍事的な裁判制度、これを準備することが可能ではないか、こういう立場に立っています。

 次に、改正について。国民投票法の整備は国会の責務と考えます。これに加えて、国会議員の三分の二を要する発議が極めて難しい硬性憲法である、だから変えろという指摘があります。私は、しかし本当にそうだろうかということを考えています。アメリカも、国民投票制度はないものの、改正には両院の三分の二の多数が必要です。スペインも、根幹部分の改正には両院の三分の二の多数と国民投票、統治機構等については五分の三の多数を必要としています。我が国で三分の二の確保が問題であった点を考えると、他の諸国も結構硬性憲法で、しっかり、しかも改正をしています。

 かつて確かに、護憲を唱える政党が第二党として、議論がタブーとなっていた時代もありました。政権党であった自民党も、この第二党の存在を特にアメリカからの要求を拒否するエクスキューズとして使い、防衛費でなく民生費に予算を振り向けてきたこともよく知られています。でも、北朝鮮の問題を見るまでもなく、やはり自分のことは自分で守らなければならないという意識が芽生えてきています。さらに、国内的にも、高度成長下の拡大社会において、個人の経済活動の拡大は他人の犠牲なしでできたけれども、今はそんなことはない、自分が出れば他人が引っ込む時代に、何か国柄を考えていかなければいけません。

 だから、今衆議院では、改憲、創憲、加憲のいずれにせよ、憲法を変えるべきという自公民三党の議席占有率は九六・二%です。参議院でも九一・七%です。このことが、三党が案を出して、例えば総選挙で国民の意思を問い、合意できる部分は前に進もうということになれば、あすにでも憲法改正の発議ができるということです。

 もしも自民党が未来永劫政権の座にあるのであれば、従来の自民党政権の憲法解釈を上手に使うことで、特に今憲法改正の必要はないかもしれません。しかし、新時代において政権交代の可能性がある、従来の解釈が百八十度転換する可能性があるという状況下、与野党ということではなくて、本気で政権を担おうとする意思を持つ党がこの憲法をどうすべきかということを議論することは極めて意義のあることだと考えます。

 私は、技術的な統治機構に係る改正についてまで国民投票が必要かなぐらいの考えは持っています。ただ、一回改正が行われて、本気で政権に加わろうとする党が具体的な国の姿について合意できるところは何かを話し合っていく、そういう習慣ができれば、発議に両院の三分の二の多数の確保という条項は、我が国の生き残りのために必ずしも障害にならないものと考えております。

 以上でございます。

枝野委員 今の改正手続について、葉梨委員からの発言はうなずきながら聞かせていただきましたが、私も、三分の二の条項が今まで憲法改正の妨げになっていたという立場には立ちません。時代的な状況が、少なくとも憲法改正の当事者である国民が、ある時代までは現行の憲法いいではないかというのがかなりのウエートを占めていた、そして、これを変える、国民投票で変えることが現実的ではない時代が長く続いていた。その評価をどうするかは別として、そういうことが言えるのではないだろうかというふうに思っておりまして、三分の二が高過ぎたから六十年近く変わっていないということではないというふうに思います。

 その上で、やはり本質的な問題として、憲法は、我々国会であったりあるいは内閣であったり、もちろん裁判所もですが、主権者である国民がこの憲法を通じてこうした公権力の行使者に対してその公権力行使のルールを命じているものであります。つまり、我々は憲法という土俵の上で行動をする、それが国会であったり内閣であったりするわけであります。

 これが政権交代のためにころころ変更するようなものであっていいのかというと、そこは全く違うのではないだろうか。むしろ、政権交代があった場合でも共通して一貫してこのルールのもとでやらなければならないというルールこそが憲法に書かれなければならないことではないだろうかというふうに思っております。したがって、政権を担う意思のある政党が協議し合意をして、幅広い合意形成のもとで、この我々国会や内閣が行動するルールというものを、政権を交代した場合であってもそのルール自体は共通である、こういう状況をつくっていくことが重要であるというふうに思っております。そういうことを考えると、二分の一ではなくて三分の二であるというのは、私は非常に合理性があるというふうに思っております。

 もし二分の一ということになれば、例えば政権交代が国際標準的にしっかりと起こるようになれば、恐らく政権がかわるたびごとに憲法改正の発議をそれぞれの政権が国民投票を求めるんでしょう。そして、恐らく、国民投票における憲法改正についての国民の意思と政権を選択する場合の意思とでは食い違ったりすることがありますから、新しい政権ができて憲法改正を発議したけれども国民投票で否決されるとか、こういうわけのわからないことが起こってきて、政治に対する信頼、あるいは代議制に対する信頼まで損なうおそれがあるというふうに私は思っておりますので、この三分の二の条項は大事にし、なおかつ、この三分の二の条項があるということを前提に、政権がどちらの側にあったとしても共通のルールを憲法で規定する、こういう観点から合意形成を今後進めていく必要があるというふうに思っております。

 また、私は、そういう観点から、現在法律が制定されていない憲法改正手続につきましても、今のような共通の基盤を持てる政党間において真摯な協議、議論の上で、幅広い国会の意思で早期に制定をすることが望ましいというふうに考えておりまして、他の政党がそういう意思があれば、そうした話をする用意があるということを申し上げたいというふうに思っております。

 なお、全く別の論点でありますが、司法について、これも余り議論されていないことなので問題提起をしておきたいというふうに思いますが、判検交流という問題があります。

 日本では、裁判官と検察官が行ったり来たりします。場合によっては、裁判官の方が法務省の官僚になってやってきたりしています。裁判官は、検察官であったりあるいは法務省の官僚などとは全く違う身分保障、あるいは、これは問題点もありますが、給与等の保障までされている立場であります。こうした立場の人が、もちろん本人の意思ということにはなっていますが、事実上出向みたいな形で検察官になったり、あるいは検察官であった人が事実上、上からの人事で裁判所に行ったりとかということは、私は、七十八条の裁判官の身分保障の規定の趣旨には反する、こういう運用はやめるべきではないかというふうに思っていますし、もしも自律的に最高裁判所が変えることができないのであれば、判検交流のようなものを明確に否定する条文をつくっておかないと、司法の独立というものはどんどんなし崩しになっていくというふうに思っています。

 以上です。

柴山委員 憲法改正の要件について申し上げたいと思います。

 先ほど来、改正の要件を緩和すること、これについて慎重な方の御意見が相次いでおります。私は、憲法改正手続において本質的な手続とは何か、それは国民投票だと考えています。制度化された憲法制定権力である国民投票、その国民の意思こそがやはり憲法改正の肝であると私は考えております。国会で余りにも厳しい改正手続を設けることは、この憲法制定権力に対してアクセスする機会を不当に狭める可能性がないか、それを私は恐れるものであります。

 先ほど来、枝野幹事が、憲法改正が実現してこなかったのは憲法改正要件とは関係のない事柄であるという御主張をされました。それは一面事実であると思います。しかし、仮に憲法改正手続がとられたとした場合に、ほんの三十年前、自衛隊の存在自体が非常に国民の間でどうかなというような意識があったころと、現在の、自衛隊をある程度、平和的な国際活動あるいは人道復興活動、国内の災害支援活動に積極的に活用することに国民の理解が得られている、そういう状況では、やはり国民投票の結果に有意な差が出てくると私は考えております。

 政権の交代ごとに国民投票が行われる、そういう可能性もあるのではないかという御主張があります。確かにそういう危険性もなくはありません。しかし、国民投票の結果がそれほど頻繁に大きくふらつく、フラクチュエートするということは私は考えられないと思います。

 そういう観点からすれば、私は、可能な限り、憲法制定権力である国民の意思にアクセスする機会を多く設ける。特に安全保障の問題については、今、平和的な国際貢献は是であるというようなことが恐らく国民のコンセンサスであると思いますが、将来においては、国連の決定によれば武力活動にも参加をするということが大勢になるかもしれない、あるいは、国民に国防の義務というものをきちんと課することが必要であるという意見が大勢になるかもしれません。そういった改正をいわば時代の要請に従って国民の意思を問うていくということは、もちろん国民に対してしっかりとした啓蒙普及活動をすることが前提ではありますけれども、私は必要なのではないかと思っております。

 ただ、三分の二という要件、これも、例えば単純小選挙区制を導入した場合にはその合理性というものも考えられるかもしれない、そのように考えております。

 司法の問題について。憲法裁判所について申し上げたいと思います。

 私は、憲法裁判所の創設については、結論から申し上げると若干消極的であります。現在の司法制度というものが非常に後ろ向きである、官僚主義的であるということは私も残念ながら認めざるを得ません。しかし、現在の付随的審査制度が、人権保障と民主主義、これと非常に調和した苦肉のシステムであるということも私は評価したいと考えています。場合によっては、事案が違えば区別の論理を用いて妥当な解決策を導くことができることも、これはまた事実であります。

 もちろん、こうしたこと、司法の積極主義化というものも、私は、例えば、精神的自由あるいは経済的自由でも消極目的規制、あるいは人格の中核をなすような権利については行っていかなければいけないというように考えております。統治行為の部分についてもしっかりと、統治行為の自律性ですとか、あるいは行政、立法などの裁量論ということで、理屈をつけた上で、もし憲法判断を回避するのであれば政治部門にゆだねるというような形をとることは当然必要であると思っておりますが、憲法裁判所ということは必ずしも私は必要でない、むしろ、先ほど来ちょっと御指摘あったように、国会の中に憲法の常設委員会というものをつくっていくことによって解決するべきではないかと思っております。

 ただ、私は、傍論において憲法判断をするということには極めて不快感を持っております。私は、憲法の争点限りにおいて上告をするということを認めるべきではないか。いわば、結論としては不服はないけれども、憲法判断において不服である場合には最高裁判所に上告をすることは可能であるというシステムをとることができる。そして、それによっても付随的審査制の本質とは必ずしも矛盾しないというように私は考えております。そして、最高裁判所において、私は憲法部というものを設けるべきであると思っております。

 特別裁判所について一言だけ申し上げたいと思います。

 先ほど、労働裁判所や行政裁判所、あるいは軍事裁判所ということを考慮すべきではないかという御指摘がありました。私も、これはそのとおり、そういった要請もあると思っています。ただし、特別裁判所というのは通常裁判所の組織系列に属しない裁判所のことを言っているのであって……

中山会長 柴山昌彦君に申し上げます。時間が超えておりますので。

柴山委員 はい、わかりました。

 通常裁判所の系列においてこういうものを設ければ、七十六条二項を改正する必要はないと考えております。

 以上です。

山花委員 民主党・無所属クラブの山花郁夫でございます。

 私は、憲法裁判所の設置に対して積極的な立場から発言をしたいと思います。

 先ほど来、消極的な立場のお方からの発言も続いておりますけれども、その中で若干気になることがありまして、例えば、憲法裁判所というものを設けると具体的事件と乖離した形で判断をされるのではないかと。確かに学術的にそういう指摘もあるんですけれども、それは制度設計をどうするかということによって随分違ってくるはずでありまして、国会で法律ができたからそれについていきなり審査をせよという形での提訴ができるということであれば、確かに具体的事件とは乖離してしまって適切な判断になるかどうかということはあるかもしれません。また、仮にそういった完全な抽象的な審査を認めるにしても、国会議員の何人以上の提訴をもってしなければ受け付けないというような形での間口でのいわば絞り込みということも可能でありまして、そこの点については制度設計の問題ではなかろうかと思います。

 また、憲法裁判所をつくったからといってどれほど憲法的な話が活性化するかわからないという話もありましたけれども、まさにそれはわからない話でありまして、お隣の国、韓国では、これをつくったことによってかなり、特に人権の分野などでの救済事例というものが顕著に効果としてあらわれているということもあるわけでありますので、頭から悲観する必要はないのではないかと思います。

 さらに、冒頭の発言のときにも申し上げたことではあるんですけれども、現行の司法制度の中でも、例えば裁判官が良心に従って独立してやればちゃんとできるんだというようなお話であるとか、あるいは現行の最高裁がちゃんとやっていないからだというような趣旨で、ちゃんとやればいいじゃないかというような話も時として出ます。気持ちはわからないでもないんですけれども、繰り返し申し上げますが、学者の方とか評論家の方が言う分には構わないんですけれども、それは、どういう判決を出すのがベターですかという、裁判所の独立、裁判官の独立にかかわることでありますので、国会議員がそういう発言をするということは、まさに憲法尊重擁護義務から見て疑わしい話であると思います。

 そういった意味から、現状認識はおっしゃるとおりだと思いますので、どうするかという話の中で、やはり制度的な、あるいは運用面での議論というものに努めるべきではないか、その中で憲法裁判所の設置ということは具体的に考えられてしかるべき話ではないかという趣旨で発言をさせていただいたことを補足させていただきたいと思います。

 もう一点、憲法改正の国民投票について申し上げます。

 憲法改正の国民投票については、この法整備をするということについて決して私たちは否定的ではありませんが、その制度設計について一部公選法に倣うような形での発言が先ほどもございました。

 ただ、公職選挙とは異なる投票でありますし、例えば有権者について国政選挙と同じ名簿を使うというのは、それは便宜上あり得るし、一番便利だとは思いますが、例えば憲法を仮に改正するというときにした場合、拘束されるのは人生先が短い人たちじゃなくて、これからの、特に若い世代であるということ、また、国連子どもの権利条約などはそういった子供に、当事者に意見聴取の機会を与えよという話になっていますから、場合によっては二十と言わず、十八歳と言わず、義務教育課程修了ぐらいの人にも投票権があっても、それはまさに当事者の話でありますから、例えば、憲法典に子供の権利ということを書こうというような話になったときに大人しか投票ができないというのはどうかと私は思います。

 また、買収を積極的に勧めるつもりは全くありませんけれども、例えば飲み屋の席で憲法について議論をして、そして今回の改正はこっちの方がいいよね、みんなこれで行きましょうなんというような話になって、ではきょうは一杯、楽しい話だった、おごるからと言った人が、公職選挙法の規定に倣うとそれで買収で捕まってしまう、こんなばかな話はないと思います。もっとフリーな形での投票制度というものを検討すべきであるというふうに考えます。

早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。

 先ほど言い落としている点について若干触れさせていただきます。

 現在の司法手続の中でいわゆる準司法機能手続を持っている公正取引委員会とか、あるいはさまざまな課徴金等を課する証券取引等監視委員会とか、こういった形の、現憲法が制定された当時想定されていなかったような司法機能が拡大をしております。こういったことに対して検討をする必要があるだろうとまず思っております。

 それから、今回の憲法改正の中で何を目的とするかでありますけれども、私はやはり、国民全体の利益あるいは福祉の増進に資するような、そういう法治主義に基づいたルールを確定する、こういうことで考えていきたい。政権交代と言われますが、政権運営の担い手が変わるということがあり得るだけであって、基本的な国家としてのルールが大きくその都度左右されてしまってはかなわないと思っております。

 そういう状況の中で、憲法改正の手続条項の点でありますけれども、例えば、現在二院制をとっておりますけれども、連邦制を前提にした二院制でない状況の中で、例えば衆議院で三分の二の多数の賛成があって憲法の改正の発議をしたい、しかしながら参議院の場においては残念ながらちょうど半数を超える程度である、こういった場合に、結果的には多数者の意思というのが全く反映されないという状態でよろしいのかどうか。すなわち、両院のいずれかで三分の一以上の議席を占めている憲法改正反対の議員の意思でもって国民が憲法改正についての審議をする機会を失ってしまうという現行制度は余りにもいびつではないだろうかと思っております。

 そういう意味では、憲法改正手続条項についての改正の検討はぜひしていきたい。場合によっては、両院のうち一方で三分の二の賛成がある場合には、他方の院において過半数の賛成があれば発議できるとか、こういったことも検討してはよろしいのではないかと思います。

 ただし、これはあくまでも二院制を前提ですることでありまして、二院制に相当性があるかどうかについては、私は疑問を持っております。

 それからもう一つ、憲法九十九条の憲法尊重擁護の義務の点でありますけれども、現在の規定でありますと、天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員にのみ憲法尊重擁護義務が課せられているというのは、いささかおかしいのではないか。私は、いわゆる憲法の精神そのものについては国民全体でもってこれを尊重し擁護する、こういったことを確認しなければいけない。

 しかし、それが具体的に何らかの法律行為が直ちに発生するかといえば、これは必ずしもそうではない。やはり、それなりの憲法改正の手続条項を踏みながら、憲法改正ができるというものでなければならないというふうに考えております。

 以上であります。

    〔会長退席、枝野会長代理着席〕

辻委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。

 憲法改正条項についての問題と、それから司法権の問題、とりわけ司法消極主義に関して、二点について簡単に意見を述べたいというふうに思います。

 憲法改正条項に関しては、現在の日本国憲法の憲法制定権力は国民にある、国民主権主義を前提としております。しかし、民定憲法か欽定憲法かという意味においては、欽定憲法ということも一般的にはあり得るわけでありますが、今の日本国憲法からすると、欽定憲法に変えることはできない。つまり、憲法改正には限界があるわけであります。

 これは、民定憲法、欽定憲法だけではなくて、それにとどまらずに、今の日本国憲法が前提としている根本規範、基本的人権の尊重主義とか、そういう根本規範にまでは憲法改正は及ばない、限界があるということについて、やはりはっきりこれは認識していかなければいけない、その点についても再確認をしていかなければいけないというふうに思います。

 やはり、憲法改正を論議するときに、その点が非常にまだ、今の日本の政治状況というか、国民の中での状況、論議ということが必ずしも理解が十分に煮詰まっていない、そういう状況の中で、硬性憲法であるということは、今の日本国憲法の根本規範を改正の限界として守る、そういう役割を果たしているということが言えると思います。日本の状況において、そういう意味で硬性憲法の必要性があるということ。

 それと同時に、やはり憲法改正がそう簡単にされていい問題ではない。やはり、国民的な合意がいろいろな形で時間をかけて、現実の社会の中でその必要性が本当に沸き起こってくる中で初めて改正という問題はされるべきだろうという意味において、外国の、ほかの国々でも硬性憲法を維持している、そういう合理性があるんだろうというふうに思います。

 そういう意味で、憲法改正の限界があるんだということをしっかりと認識すべきであろうし、今、国民投票法案ということが話題になっておりますけれども、その辺のきっちりした議論なりがなされていない状況で、また、本当に今、憲法改正の緊急の必要性が現にあるのかといえば、そうではない状況の中で、国民投票法案だけを先走って制定していくということについては、私はくみしないという考えを持っております。

 もう一点、司法消極主義については、これを克服しなければいけないということは、恐らく皆さんおっしゃることだろうと思います。

 だけれども、それはどうやって克服するのかというふうにいったときに、憲法問題については、確かに、制度として憲法裁判所というものを制度設計して、今の本当に司法権を放棄しているような現状の司法権に対する制度的な担保というのをつくる必要があるだろうというのはあります。煮詰めなきゃいけない。

 そういうふうに一方で思いますが、同時に、司法消極主義に見られるような、司法権が本来の機能を発揮し得ない状況は何なのかということについて、これはやはり法曹養成制度に基本的に問題があるだろう。先ほど枝野委員からも御指摘あったように、法曹養成制度と同時に、判事のあり方について、判検交流や、また社会経験、社会交流ということで、非常にその辺の、本来の裁判官が憲法尊重擁護義務を実践する、みずからの職責としてどう養成されていくべきなのかということが非常にないがしろにされている。法曹一元化という問題についても今非常に後景化されている。その点をもう一回クローズアップして、しっかりとした議論をしていく必要があるのではないか、このように思います。

土井委員 先ほどから憲法裁判所の問題が出ておりますが、私は、これを幾ら読んでもどうもこの理解しか今までできてこなかったのが、八十一条という条文なんですね。八十一条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」となっているんですね。よく八十一条を読んだときに話題から落とされてしまう部分の中に非常に大事なことがあるのではないかと私は思って、いつもこの八十一条を見るのが、「決定する権限を有する」と言っている部分なんです。

 つまり、これは下級裁判所も違憲合憲審査ということはできるんだけれども、決定することができるのは最高裁判所のみなんですね。したがって、最高裁判所という裁判所は、三審制からすれば終審裁判所であると同時に、もう一つは違憲、合憲を決定する権限を持っている裁判所だと。だから、一種の憲法裁判所的役割を最高裁は八十一条の条文を読んだときに持っている裁判所ではないかというふうに今まで思ってきました。

 ただ、実態はそのとおりになっておりません、残念ながら。少なくとも、法律に対しても、命令や規則その他の処分に対しても、取り上げて問題にされるとき、中身が非常に違憲、合憲の判断として大事な問題であればあるほど統治行為論を展開されてきたというのが今までのいきさつであります。高度の政治性を持っている問題は司法権の対象にはなじまないというあのやり方で、みんなパスですよ。したがって、この決定する権限というところが生かされてこなかった。だから、ないものだと思い込まれてしまっているという節もあります。

 しかし、この最高裁について言うなら、最高裁判所を構成しているメンバーというのは、十五人の裁判官。十四人までは内閣が任命、長官に対しては指名して天皇の任命でしょう、手続からいえば。したがって、そういうことからすると、それは国民を代表してとはいいながら、やはり時の内閣の息がかかっているということがあるわけですから。

 その辺を十分に考えましたら、やはり私は、裁判官がこの八十一条に対して今話をしている決定する権限を持っているというふうな自負心があるような内閣において初めて任命できると私は思うんですね。そういう政治にやはり変えていかなきゃならない。だから、八十一条だけを何とかならないかといっても、それはなかなか難しい問題でして、八十一条の中身をこの条文がここに用意しているとおりに動かしていこうとすると、今、内閣が変わらなきゃだめだ。

 内閣以前に、選挙でやはり、九十九条の、先ほどから問題になっている、あの公務員の、それは行政も司法もそれから立法も、それに携わっているすべての公務員を指して憲法は問題にしているわけですから。その公務員に対して、国民に対しての公権力を行使するという場合、この問題をこのようにしてはならないとか、この問題はこうしなければならないということを命じているのが憲法の内容なんで、そのことをしっかり認識して生かしていくという公務員がしっかりいないことにはそうならない。

 その問題を考えますと、新たに憲法裁判所をつくったら何とかなるという問題では決してないので、やはりこれは憲法からいったら、現在の日本国憲法を実施していくという、そういう政治を持たないと、憲法に対しても、憲法を変えましょうという変え方というのが、今の憲法以下になることはあっても、憲法よりもさらにレベルアップできるような中身に、文字どおり九十六条が言っている改正ということにはならないと私は思うんです。だから、やはり現実の問題としたら、この九十九条というのはとても大事だと私は実は思います。

野田(毅)委員 改正条項について、国会における衆参両院三分の二というハードルが大変高かったということが、歴史的に見て、実際に我が国における憲法改正を具体的に阻止するという形になってきたというふうに私は認識をしております。

 それは、ちょうど、我々、昭和四十七年の暮れの総選挙で初当選したのですが、翌年、田中内閣で唐突に小選挙区制度の話が浮上したのですよ。そのときに、もう渡部恒三先生はいなくなったのですけれども、時の田中総理から直接我々が聞かされたことは、保岡さんも御記憶かとは思うんですけれども、最大のねらいは憲法改正だったのですよ。

 当時の政治状況は今と違いますよね。今は小選挙区になれば自民党は大変だということだけれども、当時の五五年体制下では、それはやはり過半数は自民党が必ずとるのですよね。だけれども、三分の二のハードルはどうしても越えられない。そのために、衆議院において小選挙区にする、参議院においては全国区をなくする、だから参議院では百減らす、衆議院は小選挙区にして定数も減らす、そして定数削減と一気にやるんだ、この迫力なんだということだったのです。

 それは、昭和二十七年の四月二十八日ですか日本が独立を回復して、少なくとも新しい国づくりに向けてスタートするときに、保守合同が昭和三十年にありまして、ことし立党五十年ですが、少なくとも独立国としてみずからの手で憲法をつくるというのは悲願であったわけで、まさに自由民主党の立党の理念は自主憲法の制定であったわけであります。そのために、鳩山内閣では、鳩マンダーと言われて、小選挙区制を提案した。それはすべて自主憲法制定が最大の悲願であったということなんですよ。

 ですから、この憲法改正への動きは、先輩たちが、決してサボっていたというのではなくて、必死になって、何回かうねりがありましたけれども、その都度、当時の政治状況の中で、国会における三分の二というこのハードルをいかんともしがたい状況の中で、結果的にできなかったという歴史がある。ですから、必ずしもそういうニーズがなかったとかあったとかということじゃなくて、現実に、当時そういうことがあったということだけは、やはり我々はそのことを頭に置いておかないと、先輩の皆さんが大変努力をしてきたのだということをないがしろにするわけにはいくまいという思いが実はありまして申し上げたんです。

 したがって、現在の憲法の条項では、ところどころ、現実に、実情にそぐわない規定になってしまっていて、事実上、憲法違反に目をつぶりながら、まあまあいいじゃないかということで、与野党一緒にごまかして現にやっているという事実が幾つかあることは、今指摘するまでもありません。

 そういう意味で、国会における衆参ともに三分の二という、これは非常にハードルが高過ぎるのではないか。やはり、最終的には国民投票という審判があることでありますから、そういう点でハードルを下げるということは、当然検討対象にあっていいということは申し上げておきたいと思います。

柴山委員 二度目の発言で失礼をいたします。

 先ほど、今、辻委員がもういらっしゃらないのですが、辻委員あるいは土井委員から、憲法判断の問題点をいかに解決すべきかという大変建設的な御提案がされました。先ほどの私の発言にはそれがなかったので山花委員からおしかりを受けましたが、私も、やはり現実的な、今の制度の中で改革を行っていくためには、先ほどのお二人がおっしゃったような、司法の官僚的な体質というものを国会の側からどのように変えていくかということを真剣に考えていかなければいけないと思っております。

 一つは、やはり先ほど来御指摘のあった法曹養成のあり方、そして弁護士と判事との間の交流、そのようなあり方をしっかりと検討していくこと、また国民審査のあり方について、さまざまな御指摘があったとおり、今の国民審査は余りにも形式的に堕しているということですから、私は、例えば、参議院に本当に最高裁判事となるにふさわしい方かどうかというものをきちんと審議するような、そういう機関を設けてもよいのではないかなというように考えております。

 憲法と現実とのほころびの最たる例ということで、裁判官の報酬を減額できないという七十九条六項あるいは八十条二項の例がよく挙げられます。こうした規定を早急に解決するためにも、私は、先ほど申し上げましたけれども、憲法の改正を早急に行っていただきたいと思います。

 以上です。

保岡委員 私は、憲法裁判所について申し上げたいと思います。

 現在の最高裁判所が違憲審査に非常に消極的である、これは皆さんが指摘していて、もっともっと、違憲審査というか、憲法の適合性について、積極的に踏み込んで判断を示していかなきゃいけないのじゃないか、こういうことが指摘されているわけです。

 先ほど辻委員も言われましたように、なぜそれが行われないのだろうということを考えて、一体そのために何をする必要があるのだろうと考えたときは、確かに、御指摘のように、法曹養成や裁判官の任命制度のあり方、あるいは裁判官の法務省との関係とか、いろいろ人事交流の問題などはあると思いますけれども、私は、根本的には、やはり今のようなキャリアシステムの職業裁判官に高度の政治的判断をしろという方が無理であって、もし本当に政治性の高い、あるいは本質的に国の基本的なあり方や、そういったことに判断を裁判所に求めるならば、最高裁の憲法部において司法官に判断させるということではなくて、やはり憲法裁判所の構成を内閣や国会やあるいは裁判所からそれぞれ推薦して決めていくような設計がどうしても必要になるのじゃないか、私はそう思えます。

 そしてもう一つは、やはり、憲法の判断が内閣の法制局に極めて有権的に解釈されて、それを国会もどうすることもできない、司法も消極的だというこの状況は、どうしても改めていく必要がある。

 やはり、憲法が国民の生活の中にしっかり、自分のものとして、所有感を持って受けとめられて、日々いろいろな問題が起こることを憲法に照らし合わせて、国のあり方、国民のあり方としてどうあるべきかということについて、国民生活や国のあり方に進化がある。あるいは、歴史を展望してどうあるべきかということについて、国会や裁判所や国民、みんなが考えていく、そういう習慣をつくるためには、やはり私は、憲法裁判所の制度設計を十分尽くした上、これを起こすことが憲法上求められているんじゃないかと思います。

 それは、現代が非常に時代の大転換期で、変化が大きく、しかもスピードが速い、新しいパラダイムがどんどん進んでいる、国境も低くなってきている、こういう状況の中で、政策決定が迅速的確でなきゃいかぬ。そういった意味で、総理大臣の強いリーダーシップも必要だが、それをチェックする国会の機動的な立法権や審査権も必要だ、そして、それをまたチェックする憲法裁判所のような政治性の高い問題についても的確な判断をする司法と、国会や行政の適度な緊張関係をつくっていかなければならないのではないか、そう思うわけでございます。

 それともう一つは、憲法改正の手続の要件の問題ですが、私は、憲法裁判所がきちっと違憲判断ができるような制度がつくられたときには、やはり違憲判断をされた側の内閣やあるいは国会が、この司法の判断に対して的確な対応を、国民の支持のもとというか国民の代表としてきちっと判断のできるような要件になっていなきゃいけない。したがって、私は三分の二の要件は重過ぎると思います。

 先ほど、鳩マンダーの話が出たり、柴山先生から小選挙区なら別だと言われましたが、確かにカナダの選挙の実情などを見ると、支持が五一%を超えるとどんとひっくり返ってしまうような議会の数の変化が生まれます。そういうような中では、確かに三分の二で発議するというやり方もあるかもしれません。

 しかし、私は、国会は発議するだけであって、あくまでも制定権力は国民なんですから、国民にしっかり判断を求めるのに、小選挙区ならば三分の二ですぐできる、今の選挙制度では難しい、こういうことなど、全体の制度設計に議論を尽くした上、やはり国民主権、憲法制定権力の意思というものを尊重しながら、時代に合った憲法を進化させていくという努力が不断になされて、憲法が国民のものになる、国のものにしっかりなるという所有感のあるような憲法に変わっていく必要がある、そう思う次第です。

鹿野委員 憲法調査会でドイツの憲法裁判所に参りましたときに、当時の所長がこう言われたんです。我々の判断が議会よりもいい政治をやってくれていますね、こういう評価をちょうだいしていますよ、こういう話でありました。いささか行き過ぎかな、こんな思いをいたしましたけれども、しかし、よく考えてみれば、多数派の腐敗、問題に対して、きちっとチェックをしてくれている少数の賢人、こういうふうな評価、信頼関係というものがそこにつくられているのかな、こんな思いをいたしました。

 そこで、我が国におきましても、裁判所の判断というものは、靖国神社参拝に対する、あるいは参議院の定数問題に対して、あるいは嫡出子あるいは非嫡出子の問題、あるいは無年金障害者等の問題、こういうふうなことに対する、いわゆる違憲審査機能に大きな関心を持ってきておるということも評価できる面もあると思います。

 しかし、八十一条としての最高裁判所が機能しているのかどうかというふうなことになりますと、いわゆる三権分立からして、大きな政治問題というものは司法部が判断するのは果たしてふさわしいのかな、そういうふうな認識もあるんでしょうか、やはりいささか憲法判断に対しては消極的であるというふうなことを言わざるを得ないと思います。

 そこで、戦後、我が国も司法国家としての評価もいただいておる、こういうふうになってきたわけでありますから、基本的に、国民との信頼関係というものを築く上においても、憲法裁判所というものを設けた方がよろしいんじゃないか、こういう考え方であります。

 その際、二点問題があると思います。それは、人選の問題であります。この人ならば、こういう人たちの判断ならばしようがないなというふうに思われるような人選をいかにするかということだと思います。当然、高い見識なり、そこには中立性なり独立性というものが求められるわけでありますけれども、その点が一番のポイントだと思っております。もう一つは、何もかも持ち込まれるというようなことであってもならないんではないかと。そのことを考えたときに、どういう場合、どういう人が提訴できるのかというふうなことは、制度設計上、やはりある程度検討していく必要があるのではないか、こう思います。

 もう一点は、いわゆる国民の投票制度の問題でありますけれども、これは国民主権の徹底ということから、あるいは価値観の多様化、こういうふうな時代の流れということからして、いろいろな考え方が反映をするということからしますならば、国民投票制度というものをさらに導入してもいいのではないか、こういう認識であります。

 過般も申し上げましたけれども、現在は、最高裁判所の裁判官の国民審査、九十六条のいわゆる憲法改正条項、そして地方自治特別立法に対する住民投票、九十五条と、この三つだけでありますけれども、国民が自分たちの判断で、その結果、自分たちが責任を持つんだ、こういうふうないわゆる地方自治というものを成熟させていくという意味からも、この導入を考えてもいいのではないか、その際は、決して代表制民主主義と相対立するというものではなしに、そういう点から限界というものを明確にして、導入をしていってもいいのではないかと思います。

 一方には憲法裁判所、一方には国民投票制、そしてその真ん中にいわゆる議会がある、そういう中で緊張関係を保っていくというふうなものもこれからの我が国の一つの形ではないか、こんな認識を持っております。

葉梨委員 先ほどから議論になっております改正条項、発議に必要な三分の二という点について、先ほどの議論を補足的にちょっと申し上げたいと思います。

 実は、先ほどプレゼンテーションの中で、両院の三分の二という条項は日本の生き残りのためには決定的な障害にならないんじゃないかというふうに申し上げました。私は、全くそのとおり思っているんですが、ただ、三分の二という条項が、やはりハードルが高いんだろうというふうに私自身は思っています。

 ただ、なぜ障害とならないのかということで申し上げたかということなんですが、今回、憲法改正ということが議論になって、改正条項だけを変えるという憲法改正は多分あり得ないだろうと思います。殊に、国民の間で非常に議論になっている安全保障の問題その他もろもろの問題、コントロバーシャルな問題については、やはりある程度の措置をした上で憲法を改正していくということが、国民の納得を得るためにも必要なことだろうと思います。

 そうしますと、今のこの日本の国会の中で、どちらにしても、両院で三分の二という多数をとらなければ発議はできないわけです。ですから、いろいろな形で話し合いが行われていく。その中で、先ほど申し上げましたとおり、本気で政権をとろうとする意思のある政党は、しっかりとそういう具体的な話し合いの中に入っていくだろう。一回改正を行って、そういうようなルールづくりができていくと、意外とそこのところは三分の二でも回っていくところはあるのかなということで、障害とならないんじゃないかというふうに申し上げたんです。

 ただし、二院制との関連で申し上げますと、これはさらに今後の話ということなんですが、工夫をしなければいけない点は幾つかあります。

 といいますのは、今後、二院制がどういう形で回っていくのか、あるいは改正をしていくのか、いろいろと議論のあるところなんですが、衆参の意思が、その選び方によって決定的に変わってくるということも当然あり得ます。そういった場合に、例えばスペイン憲法ですと、参議院、上院においては二分の一、だけれども、下院においては三分の二以上の賛成があれば、これは発議できるというような規定もあります。ですから、上院、下院、あるいは衆議院、参議院、それぞれの意思が変わったときについて、具体的にどういうような措置を持っていくのかということはやはり必要だろうというふうに思っております。

 もう一つは、総選挙との関連でございます。

 さきに憲法の草案を総選挙の具にするみたいな話がありましたけれども、これはそれこそ違う話なので、やはり総選挙の前にそれぞれの政党がそれぞれの憲法草案を国民に問う、そういうような形も必要かなと思います。

 具体的に、先ほどのスペインの例ですが、全面改正を行うといったときには、両院の三分の二以上の改正で発議が必要だ、それから後に下院を解散しなければいけない、そして、解散後の議会において三分の二以上の賛成が得られれば、再度これを国民投票に付するという形で、総選挙と国民投票、二段構えで国民の意思を問うというような仕組みをつくっております。

 今回、もしも具体的な政治日程ということになってまいりますと、自民党においていろいろと自民党としてのしっかりした案をつくる、あるいは民主党さんもつくられる、公明党さんもつくられる。それぞれをやはり国民の前に明らかにした上で、国民の意思がどうかということをしっかりと我々が総選挙を通じて把握して、その上で、大体国民の意思がこういうところにあるのであればということで、具体的な話し合いに入っていく。そして、その中でいろいろな、本気での、実際の腹を割った話し合いの中で、この三分の二の条項をどうするかということについても当然話し合いの中で決まっていくべきじゃないかというふうに考えております。

 以上でございます。

    〔枝野会長代理退席、会長着席〕

永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。

 私は、司法に関連いたしまして、憲法裁判所の導入について意見を申し述べたいと思います。

 もう大分議論が出ておりますが、現行憲法におきましては、八十一条がアメリカ型の付随的違憲審査制度を採用しているとされております。しかし、付随的違憲審査制度は、裁判にならないと法令の憲法適合性が明らかにならないという点で問題があります。しかも、司法消極主義と言われるような最高裁判所の違憲審査制度の運用も相まって、憲法判断が回避されることが多いのが現状であります。これでは最高法規である憲法による規範的統制が不十分であると言わざるを得ません。

 そこで、憲法問題を専門に取り扱う憲法裁判所を導入して、抽象的違憲審査を認めることが必要であると考えます。

 憲法裁判所は、抽象的違憲審査をすることから、かなりの忙しさになることが考えられるわけでありますが、その規模としては、最低でも、現在の最高裁判所と同じ十五人程度の裁判官により構成されるべきではないかと考えております。また、その裁判官は、内閣が国会の承認を得て任命することとし、その任期は十年間、再任できることとします。また、現在の最高裁判所裁判官の国民審査は、余りにも形骸化しておりますので廃止をします。ただ、憲法裁判所裁判官の再任の際には、改めて国会の承認を要するものとしたらいかがかと考えております。

 なお、憲法裁判所に具体的事件を前提としない抽象的規範統制を認めるに当たっては、先ほど鹿野委員からもありましたが、かなりその訴訟件数が膨大なものになる可能性があります。したがいまして、その原告適格は一般国民には認めずに、例えば国会議員の三分の一以上の提訴によることを要するというような方法にすべきではないかと考えます。そのようにすることによりまして、憲法裁判所が、民主的にほとんど受け入れられていないような主張の処理に忙殺されることとならないように、真に憲法適合性の判断が必要な事案への十分な対応ができるようにすることが必要であると考えます。

 以上のような内容の憲法裁判所の導入を図ることが必要と考えます。

 しかし、仮にそれが難しい場合には、次善の策として、最高裁判所に憲法部を設けるという構想も検討に値すると考えます。というのは、そこで憲法問題を専門に取り扱うことによりまして、長期化している現在の憲法訴訟の迅速化が期待できるからであります。ただ、この構想では、あくまで具体的事件を前提にした具体的規範統制しかなし得ないことから、やはり憲法裁判所の導入がよりよいものと考える次第であります。

 以上です。

保岡委員 今度の憲法改正を考えるとすれば、それは、基本的人権、個人の尊厳、あるいは平和主義、国民主権主義、こういった、この憲法が持つ、すぐれたというよりか、人類が今日まで築いてきた普遍的な原理という意味で、我が国の憲法としても大切にしなきゃならない、また定着もした、こういう原理を進化発展させていくという姿勢がぜひ必要だと思います。

 もちろん、統治機構の中でいかに国民主権を実現し、民主主義をもっといいものにしていくかという努力は、立法の分野でも、選挙制度その他、いろいろ工夫が必要でありますし、また、行政に対するチェック、行政訴訟その他、行政を民主化していくための工夫などもいろいろある。

 それと同時に、私は、司法を民主化していく努力というものも非常に重要であって、今度、裁判員制度が導入されることになりまして、五年後の施行ということになって、今、関係者が努力しております。せんだって、テレビでこの裁判員制度のモデルがドラマとして放送されていましたけれども、これなどを見ると、やはり裁判官が一般の人と、我々政治家が選挙民と接していろいろなことを学んでいくように、やはり裁判官が苦労しながら司法というものを国民に伝えて、一生懸命努力して、そして、その国民の常識、良識、そして国民に司法の意味をわかっていただいて、判決に導く、あのプロセスは非常に私は大事なものだという気がしました。裁判官も努力する。国民も努力する。

 確かに、この裁判員制度は、国民の側の主権意識や、あるいは参加義務意識というのが大事で、これがまだ薄いという世論調査もありますけれども、私は、やはりこの憲法改正をもしするのであれば、司法の分野に国民参加の趣旨を明確にうたうことはとても日本の将来にとって大事なことではないだろうか、そのように思います。

 そういった意味で、やはり国民というものを大事にして、民主主義にしても、平和主義にしても、基本的人権主義にしても、国民を信頼して我々は政治をやっていくという基本は、我々が国の基本を議論するときに、いつも、当然のことながらベースにして考えていくというのが大事であって、国民の上に我々国会があるというような考え方は、私はあり得ない。あるいは、司法がある、行政があるということをみんなが克服していく、それに問題があればそれを是正していくということが我々の努力であろう、また、憲法改正の重要な論議の中心にそれがあるんだろう、そういうふうに思います。

鹿野委員 九十九条のいわゆる憲法擁護尊重義務についてでありますけれども、これまでに、憲法改正に国務大臣が触れて辞任せざるを得ないということがたびたびありました。細川政権のときには、自主憲法制定を党是としている自民党が、憲法改正問題に触れてはけしからぬといってしつこくその辞任を求めて、国務大臣をやめさせるというようなこともございました。やはり、この九十九条というのは、憲法を守ることと憲法改正について論ずることは明確に別だというふうなことをしていかなきゃならないと思います。

 憲法がこの時代の流れの中で本当に適合しているのかどうか、こういうことを論じ、そして次の日本の国のあるべき社会、国の形というものをつくっていくことが憲法でありますから、憲法について国務大臣その他の論ずることも封ずるというふうなことは、決して好ましいことではないと思っております。ぎすぎすぎすぎす、どちらかというと憲法論議というのはそうなりがちでありますけれども、もっとおおらかに、国民みんな一緒になって憲法はどうあるべきかを議論していくという意味からも、九十九条について申し上げたいと思います。

枝野委員 先ほどの私の発言に対して幾つか意見をいただきましたので、それに触れたいと思います。

 席を外されましたが、野田先生からの御発言がありました。自民党の全部なのか一部なのかは存じませんが、改正のための努力があった、それを是とするか非とするかという評価は別として、努力があったということは、私もそう思っております。ただ、客観的に国民投票で二分の一がとれるような状況が例えば三十年前にあったのかどうかとか、そういうことを考えると、やはりむしろ、壁であったのは、国会の三分の二ということよりも、当時の社会状況が今の憲法でいいではないかという国民世論を形成していたのではないかというふうにとらえているという意味でございます。

 それから、葉梨先生から御指摘のあったこと、それはそれなりにうなずけるところもあるんですが、ただ、マニフェスト選挙と政治論とを考えたときに、現実的にそうなっていくだろうかということです。

 つまり、総選挙において各党が憲法について争点として比較主張をするということになれば、当然、どこが違うのかということが国民の選択のときの要素になるわけです。そして、その違いの部分によってそれぞれ票を背負って議会に出てくるわけでして、私は、マニフェスト選挙ということの意味は、少なくとも次の選挙までは、選挙において約束をしたことということを、有権者に対する責任を負うことになるのではないか。

 つまり、例えばA案、B案があって、B案を主張して、もし総選挙の争点にして戦って、そのB案を掲げて勝ってきた人は、いや、それは三分の二を形成するためだからといってそのB案をおろしてしまうということが果たして投票してくれた有権者との関係で許されるのかどうかということになると、そこは、もちろん評価、判断は分かれるかと思いますけれども、非常に微妙な問題になってくるし、ましてや現実の政治論としては、今の鹿野先生のお話というのは非常に示唆に富んでおりますけれども、日々の政権を争うとか、それを目指した国会での争いとかというような話の中で、果たして選挙の争点になるようなことについて与野党で一致、妥協ができるのかといったら、やはり政治論としてはなかなか難しいというふうに私は思います。

 したがいまして、まさに国民投票で最終的に国民の意見を問うわけですから、本当に国会で三分の二を形成してコンセンサスを得て国民投票に付そうということであるならば、いかに総選挙の争点にしないかということが、早期に、よりあるべき憲法改正を進めるために、最低条件、前提条件になると私どもは考えています。

 ただ、何人かの方からも御指摘がございましたが、今二院制で、両院とも三分の二というのは、これは確かにかなりきついかな。特に、参議院が半数改選で六年という非常に長期の任期でありますから、非常に厳しい壁にはなるのかな。ここは考慮の余地がある。これは、二院制のあり方とも絡んできますし、衆参の役割分担とも絡んできますけれども、ここは一定の考慮の余地はあるのかなというふうに思っております。

 なお、先ほどの葉梨先生の御指摘も含めて、もう一つあり得るのは、実は国民投票に付すという国会の発議ということの意味をどう解釈するかということがあるんだと思うんです。これは、国民投票法の制定の議論をこれからもし進めていくとすれば、一つの大きな議論をする必要があると思っているんですが、この改正には私は反対なんだけれども、国民投票に付して国民の意見を聞くことは賛成だ、こういう見解というのは許されるのかということです。

 通説では、憲法九十六条の解説では、それはだめだ、つまり、そういう改正をすべきだと思う人たちで三分の二を集めろというのが九十六条の一般的な通説と言われていますけれども、いや、そんなに改正したいと言うんだったら、では国民投票にかけてみましょうよ、我々は反対だけれども、国民投票で否決してもらったらいいじゃないかと。

 こういうことの余地があるのであれば、私はそれは、先ほどの総選挙の争点と三分の二のハードルとマニフェスト選挙の意味というものを全部両立させ得ることが可能だと思いますし、場合によっては、国民の皆さんの意思をたくさんきちっとできるだけ聞くということだったら、A案、B案、改正せずという三択で投票をすると二分の一がとれないとかややこしいことになりますから、投票の仕方は難しいかもしれませんが、例えば同じ条項について改正案A、改正案Bというようなことがあれば、ではまず改正案Aについて国民投票しましょう、過半数がとれたら改正案Aで決まりね、否決されたら改正案Bで国民投票にかけましょうということまで一致をして、足すと三分の二を超える、では発議しましょうというようなことを、私は、九十六条から許されるかどうかは別として、それ自体は議論したいと思いますが、そういうことが可能な仕組みにするということは一理あるのではないかな、こんなふうに思っています。

葉梨委員 三回目になって恐縮でございます。

 ちょっと私の発言で枝野幹事の方からいろいろとお話がございましたので、簡単に申し上げたいと思うんですが、私は、総選挙の争点にするという趣旨で言ったというよりは、むしろ総選挙前にしっかりと案を提示するということで申し上げたんです。

 といいますのは、さっきのスペインの例でも、まず一たん三分の二で全面改正をする、それをもう一度総選挙でやって、総選挙で返ってきたら三分の二でもう一度決めて、それを国民投票というような流れの中で申し上げたんです。

 例えば、次回の総選挙があったといたしまして、自民党で今度十一月までに案をつくります、民主党さんも翌年までにつくりますといったことで、どういったことを私たちは考えているんだということを国民に全く明らかにしない中で総選挙を戦うというのは、これはいかがいかでも問題だろう。

 ただ、問題は、私たちは、先ほど申し上げたのは、本当に政権を本気で担おうとしている党は、腹を割っていろいろな形で合意を探っていく、その努力は片っ方でしながら、我々が考えていることはこうなんだということで総選挙でやはり国民の意思を問うていく。やはり政治的な知恵というのが必要なわけで、特に憲法のような国柄の問題において、国を分裂させるためというよりは、国をよくするためにお互いが共同でやっていく。そのために、やはり一度総選挙で国民の意識を問わなきゃいけない場面というのも当然あるだろう。そういうことで申し上げたわけなんです。

 当然のことながら、私、まだぺいぺいでございますけれども、枝野幹事とはこの調査会を通じてお話が合うようでございますので、いろいろとまたお話しをさせていただきましてやってまいりたいというふうに思います。よろしくお願いします。

枝野委員 では、せっかくですから、短く。

 私は若干誤解をしていたようでございますが、そういう趣旨であるならば、私もあり得ると。もうちょっと私自身は具体的に考えておりまして、選挙の時期がいつになるか、見通しは立てられないものですが、選挙からある程度時間がある段階までにしかるべき政党はそれぞれの考え方を示して、その上で、選挙に当たっては、我々の考え方はこうであるが、どの党が政権をとっても選挙後にはこういう政党の中で一致点で発議をしたいということについて国民に示す、こういう合意がもしもあと一年ぐらいの間にできれば建設的な話になるのかなというふうに思っております。

土井委員 先ほどから承っておりまして、二大政党同士で選挙に向けての戦術、戦略を話されているような感じがしてきました。

 この憲法調査会は、本来はそういうことのために設けられた場所ではなかったはずで、原点に返って言いますと、広範かつ総合的に調査を憲法に対して行う。憲法が実施されていなければなぜか、実施されていればそれはどういうわけでうまくいっているかというふうなことも含めて、憲法が公布されて以来どういうふうな役割を果たしてきたかということに対しての評価とか、それから役割に対してどう認識したらいいかという問題などが取り上げられて、ここで話し合われる場所だなと私は思っておりました。

 したがって、この点はどのように考えたらいいのか、さっきから微妙な気持ちになってまいりましたので、一言申し上げさせていただきます。

中川(正)委員 私も、この問題の提起をさせていただいた者として、一言付言をしたいと思うんです。

 葉梨さんの持っている理想型というのがそのまま実現をされていくということであればそれでいいんだろうと思うんですが、実際は、やはり政治的にチャージしてくるということが現実なんだろうというふうに思うんですね。それだけに、私たちも、我々の政党の意思を一切その中に表現をしないということじゃなくて、その逆で、方向性と、それから私たちのコンセンサスはここまで来ておりますという、そういう意思表示は政党としてまとめていく、それで国民に判断を求めていくということはやっていくわけであります。

 しかし、それから進んで、逐条までいっちゃうと、これは私は心配するんですよ。これで固まってしまったら、そっちの方が身動きとれなくなってしまうんじゃないかな、あるいは、それ以上に、やはりチャージしますから、政治的にそれを活用していくという方向になってしまうんじゃないかな。それが起こったときには、やはりこの国にとっては悲劇なんだろうというふうに思うんです。そこのところをよくよく考えてやってくださいよというメッセージとして申し上げたということでございます。

 以上です。

中山会長 他に御発言はございませんか。

 それでは、発言も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、来る二十四日木曜日午前八時五十分幹事会、午前九時調査会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時二十一分散会


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