衆議院

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第4号 平成17年2月24日(木曜日)

会議録本文へ
平成十七年二月二十四日(木曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 福田 康夫君 幹事 船田  元君

   幹事 古屋 圭司君 幹事 保岡 興治君

   幹事 枝野 幸男君 幹事 中川 正春君

   幹事 山花 郁夫君 幹事 赤松 正雄君

      伊藤 公介君    石崎  岳君

      大村 秀章君    加藤 勝信君

      河野 太郎君    坂本 剛二君

      柴山 昌彦君    中谷  元君

      永岡 洋治君    野田  毅君

      葉梨 康弘君    早川 忠孝君

      平井 卓也君    平沼 赳夫君

      二田 孝治君    松野 博一君

      松宮  勲君    三原 朝彦君

      森山 眞弓君    渡辺 博道君

      青木  愛君    市村浩一郎君

      稲見 哲男君    内山  晃君

      大出  彰君    鹿野 道彦君

      鈴木 克昌君    園田 康博君

      田島 一成君    田中眞紀子君

      辻   惠君    中根 康浩君

      計屋 圭宏君    古川 元久君

      三日月大造君    笠  浩史君

      和田 隆志君    渡部 恒三君

      石田 祝稔君    太田 昭宏君

      高木美智代君    高木 陽介君

      福島  豊君    丸谷 佳織君

      山口 富男君    土井たか子君

    …………………………………

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

二月二十四日

 辞任         補欠選任

  渡海紀三朗君     石崎  岳君

  園田 康博君     田島 一成君

  辻   惠君     内山  晃君

  笠  浩史君     三日月大造君

  太田 昭宏君     石田 祝稔君

  高木 陽介君     丸谷 佳織君

  福島  豊君     高木美智代君

同日

 辞任         補欠選任

  石崎  岳君     渡海紀三朗君

  内山  晃君     辻   惠君

  田島 一成君     園田 康博君

  三日月大造君     市村浩一郎君

  石田 祝稔君     太田 昭宏君

  高木美智代君     福島  豊君

  丸谷 佳織君     高木 陽介君

同日

 辞任         補欠選任

  市村浩一郎君     笠  浩史君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法に関する件


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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を進めます。

 本日の午前は、前文・その他について自由討議を行います。

 議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、福田康夫君。

福田委員 自由民主党の福田でございます。

 私は、この憲法調査会に昨年の秋から参加させていただいております。委員の皆様方の話などを伺い、大変熱心に委員の方々取り組んでこられていらっしゃることに、まずは敬意を表したいというふうに思っております。

 本日、私は、この調査会の事務局でつくってくださった記録がございます、これは委員の発言が記されているものでございますけれども、それを拝見しながら、本日のテーマでございます前文に対する私見というものを述べたいというふうに思っています。

 まず、前文の必要性、これにつきましては多くの委員が必要と認めているということでございます。私も必要であると考えますので、私は、そのことは当然であるということを前提に話を進めさせていただきたいと思います。

 次に、前文の書き直しが必要かどうかということにつきましては、これは議論の分かれているところでありますけれども、全体的な意見としては書き直しが必要、そういう意見が多かったように見受けられると考えております。それで、私も改正必要の立場であります。

 その理由は、もうこれも多くの委員の方々が述べていらっしゃるので、私からくどくどと説明することは避けるべきかもしれませんけれども、申し上げたいことは、要するに、現行憲法の前文の内容、これに不満があるということであります。すなわち、前文の構成に見られるように、全体が戦争を忌避し国際平和を目指す、一言で言ってしまえば、これは前文の全文が戦争の反省に尽きている、このように受けとめられるからであります。

 この憲法が、占領軍の恣意でつくられたということなら我が国に対する痛烈な反省を求めているということになりますけれども、仮に我が国がみずから起草したということになりますと、これは自虐的であると言われてもやむを得ない内容と考えております。戦争直後のあの時期に起草されたという特異な状況下を考えますと、これはもうやむを得ないものがあったということは理解いたしましても、戦後六十年たっても相変わらず戦争の反省、これでは国民に夢も希望も与えず、その結果、国民の思想が退廃しても、それは国民の責任に帰すべきものではないというふうに考えております。そのような前文の特異性がありながらも、私は、政府も国民も前文の規定の考え方に基づいて誠実に行動してきたというふうに考えております。

 そのうちで最も重点を置いた平和主義につきましても、国民の間に定着をし、ほとんど完全に遵守をしている、むしろ、その精神を積極的に推し進めてきたということ、このことは、我が国の国際平和に向けての現在の諸活動、これを見れば明らかなことであるというように考えております。しかしながら、完全を期すために、さらに改善するということによりまして国際社会からの期待にさらにこたえるべきであると思います。

 しかし、その反面、最も重要であるべき自衛という概念、これが希薄になっているという一大欠陥を抱えたということも、これも事実というふうに思っております。

 また、この前文に記載されていないその他の多くの重要な項目、これにつきまして、そういう分野の我が国の現状を見たときに、反省すべきこと、また、足りないところがいかに多くあるかということも思いをいたさなければいけないと思っております。国家目標は多様でありまして、前文において規定すべきこと、述べるべきことはさまざまなものがあると考えております。平和主義を求めること以外に意味するところの少ない現行の憲法前文に対して、本調査会の意見の中で多くの不満が述べられているということは、これは当然のことと考えております。

 それでは、あるべき前文の内容はどのようなものであるべきかということでありますが、この調査会でさまざまな意見がありました。私としては、欠くべからざるものとして幾つかを挙げてみたいと思います。

 まず、前文は国家国民の目指す方向を明確に示す必要があること、特に対外発信、これが重要でございまして、国際社会に対し、我が国のこれまでの平和主義の継続、これをさらに強く推進することを表明するということが求められるべきと考えます。

 そしてまた、内に向かっては、よい社会、国家を目指すということ、これは多少抽象的でありますけれども、この中には、人権とか家庭のあり方、教育、社会規範といったようなものが含まれます。そういうことを明らかにする必要があると考えます。

 そしてまた、以上のことにつきましては、高い倫理性に基づくものでなければならないと考えます。また、日本の独自性、固有性を重視するものでなければなりません。それらを記述することによりまして、総体的に日本人としての誇りを持てるものでありたいと思います。

 次に、前文の内容として、日本の国家目標を設定する際に、我が国の状況及び我が国を取り巻く環境の条件を考慮する必要があるということを申し上げたいと思います。

 三点ございますが、まず第一に、環境資源の制約が生ずること、第二に、国際化の進展は避けられないことであるということ、第三、我が国経済社会が人口減少の影響を受けるということ、その三点でございます。これらは、これからの日本及び国際社会を見通した際に避けて通ることのできない条件でございまして、日本及び日本人の安全、安心を考える際に極めて重要な課題であり、そのことを配慮しなければいけないということであります。

 もちろん、環境につきましては、これは言をまたないことでありますけれども、我が国の取り組みはもとより、国際協調というものが求められます。資源エネルギーとの関係もございますが、経済のグローバル化、情報化、国内においては人口減少、少子化の影響などで、海外資源への依存度は、これは今後ますます拡大いたします。また、生産拠点の海外における拡大、海外での企業活動の増加というような多様化というものが、これがこれから生ずるわけでありますが、その中には、海外との取引金額の増加にとどまることもなく、日本の経済活動、これはすべての世界に拡大をしていくというように考えられます。

 そういうような日本のこれからの状況及び国際環境を考えた上でこの前文というものを考えていく必要があるということを考えますと、私は、この前文の条項が余り窮屈なものになってはいけないというように思います。そして、そのことによって日本の安全保障が確保できないということは、これは非常に大きな問題だというふうに考えておりますので、そういうような配慮というものも必要ではなかろうかと思っております。

 いずれにしましても、我が国は今転換期にあります。これは、我が国にとどまらず、世界全体というふうに考えてもよろしいんですけれども、そういう時期に、これからの日本を規定するような、そういうような前文については十分慎重な配慮をする必要があるし、そしてまた、世界に向かって日本のあり方というものを十分に説明し得るようなものであってほしい、そのように考えております。

 以上であります。

中山会長 次に、鹿野道彦君。

鹿野委員 前文をどうするかというふうな本日はテーマでございますけれども、基本的に、我が国の憲法におきましても、この前文に、いわゆる平和宣言、そして民主主義を宣言してきたというふうなことは大きな意味を持つものであったと思っております。そういう意味で、これからも、この国際社会において目指す方向というものと、どういう日本の国をつくっていくかということを示していくという意味では、前文があった方がいいのではないか、こういう考え方であります。

 ただ、どういう前文にするかということを考えたときに、それぞれ他の国と比較したときに、例えば、アメリカとかイギリスとかドイツとかというふうな国においては前文を持たない。他の国でも、あったとしても非常にシンプルなものである。長い前文は、社会主義国家、イスラム教を中心とした宗教国家である。こういうふうなことを考えたときに、根本規範に沿ったところの、いわゆる余り長くない、むしろシンプルな方がいいのではないか、こういう考え方に立ちます。

 そこで、いわゆる我が国の基本三原則、これは大きな評価をされているところでありますけれども、いわゆる国民主権と基本的人権と平和主義。ただ、この基本的な三原則が自主的に具現化されてきたのかどうかということをやはり検証する必要があると思います。そして、この三原則が具現化されるようにするには、どういう書き込みをしていくかということも検討していく大きなポイントではないかと思っております。

 例えば、国民主権。果たして実態はそうなのか。国民主権であるならば、当然民主導でなければならない。しかし現実は、我が国は果たして官主導でなしに民主導なのかどうか。このことは本当にきちっと検証しなきゃならないことでもあります。また、違憲審査というものが果たしてどうであったのか。あるいは、主権在民、国民主権ということならば、直接住民の意思というものが反映されてきたのかどうかというこのような点を、やはり、具現化されてきたのかどうかということも含めて、具現化されるにはどうするかということを、もう一度申し上げますけれども、前文にどう書き込むかというふうなことに結びつけていく必要があると思います。

 基本的人権にいたしましても、もう一国の問題ではなくなりました。もう国際スタンダードになってきたわけであります。国際社会と提携をして、そしてこの人権をどう守っていくかというふうなことも考えていかなきゃなりません。

 平和主義。この平和主義といっても、もういわゆる一国平和主義というのはあり得ないわけでありまして、どうやってこの世界の安定を保っていくか、それには貧困と隷属というふうなものをなくすること、これが真の平和が訪れることだということを考えたときに、我が日本の国がどう国際社会に貢献をしていくか。日本の国は、言うまでもなく、ヨーロッパ各国と比較しても、人口、面積あるいはGDP、どの数字を取り上げても大きな国であるということを、それだけ国際社会において影響を持つ国であるということを、それだけ責任と使命を負っている国なんだというふうなことをもう一度やはり確認する必要があるんではないか、こういう認識であります。

 それからもう一点は、現在の価値観だけではなしに、遠い将来の価値観というものも含めて、高い理想というものを持ってしかるべきだと思います。このことによって我が日本の国民も誇りを持つことができるものと思っております。

 そのことを考えたときに、この地球の中におけるこの日本の国であります。地球をどう守っていくか、資源すなわちこの地球をどうやってみんなで分け合っていくか、大自然とどうやって共生していくか。億という年月をかけて悠久の循環が繰り返されてきた、このことを考えたときに、この営みというものは一瞬もとめられるということはないという考え方に立っていかなきゃなりません。

 また、民族や宗教、イデオロギーの対立を超えて、お互いに平和を、生活を分かち合っていくというふうな道を探っていかなきゃならないわけであります。このためにも、すなわち貧困と隷属をなくすというこの土台をどうつくっていくかというふうなところにも意識をしながら、この前文にどう盛り込んでいくかというふうなことを検討していく必要があると思います。

 また、国内におきましても、日本の持つ大事なものがあるわけであります。すぐれた価値観であります。例えば、聖徳太子、福沢諭吉のその訴えた基本的な考え方。聖徳太子は、御承知のとおりに、和というものを強く求められました。しかし、聖徳太子の言っている和というものは、ただ単になあなあで丸くおさめていくということではなしに、本当にこの社会に平和をつくっていこうという考え方であったわけであります。また、福沢諭吉は、個人の自立がなければ我が国の真の独立はないんだということを強調されました。依存心をなくしていこう、本当に独立した人間をつくっていく、そのことによって新しいこの日本がつくられていくということにもなるわけであります。

 ともすれば依存の文化が生まれてきたこの戦後、これまで、追いつけ追い越せというこの中央集権体制ではなしに、新しい時代に対応する分権型の社会、いわゆる民主化につながるところのその分権型の社会というものをつくっていく、こういうふうなこともどう盛り込んでいくかというふうなことは大変重要なポイントであると思います。

 すなわち、国際社会において、日本の国において、安定と安心をしっかりと確立をし平和をつくっていくんだ、この気概というふうなものがこの前文に書き込まれていいのではないか、こんな考え方に立ちます。その際に、やはりできるだけ、我が国の憲法のその前文ということになりますならば、わかりやすい表現であるべきだ、こう考えます。

中山会長 次に、赤松正雄君。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 憲法の前文のことを思うにつけまして、私は十年前のことを思い出します。十年前というのは、言うまでもなく阪神・淡路の震災のあった年、一九九五年なんですが、村山総理、旧社会党の委員長だった村山さんが総理になられて半年たった時点、そのときに、かつて自衛隊を憲法違反だ、そういう位置づけをされてきた政党の党首が総理になられたということで、実は予算委員会、平成七年一月二十七日に村山総理に対して私どもの先輩議員が、何を根拠にして自衛隊をかつての違憲の立場から合憲に変えたのかという論争を挑んだわけでございます。かつて、私たちが若いころ、社会党といえば非武装中立の論争で大変有名な議論があったわけですけれども、それに比べれば極めて地味というか余り目立たない論争ではありましたけれども、憲法前文といったときに、このことを思い出すわけであります。

 このエッセンスは、つまり、私ども公明党は、大変に苦労いたしまして、三年数カ月かけて昭和五十六年に、それまでのいわゆる違憲の疑いがあるという自衛隊の存在について、合憲であるという憲法解釈を営々たる努力の末に位置づけた、そういう経緯がありまして、それに比べて余りにもずさんというか余りにもいいかげんな、違憲も前文、合憲も前文、あえて九条に触れないという、総理になられてからの村山さんのそういう行き方というものに対して、私どもの先輩は激しくその辺を迫ったわけであります。

 私はそれを聞いていまして、非常にある種、むしろ村山さんに対して同情を抱いたという感じがいたします。それは要するに、理屈で言えばそういう私の先輩が言ったようなことになるわけですけれども、同時に、憲法前文が持つあいまいさということと深く関係をしている。村山さんから見れば、あいまいさの効用を生かされたんじゃないか、そんなふうな感じもいたすわけであります。

 翻って、先年、自衛隊をサマワに派遣するに当たっての憲法上の根拠を問われて小泉総理は、やはり憲法前文ということを挙げられましたけれども、この場合においても、そういう言ってみればある意味であいまいさの効用というものが発揮されているんではないか、そんなふうな感じを思い起こすわけであります。

 いずれにしても、この憲法前文につきましては、先ほど両先輩からお話もございましたけれども、私どもは、この憲法前文、一九四六年の公布された憲法については一定の重大な役割を果たした、そういう観点からあえて変える必要はないという意見もありますけれども、よりすっきりとしたものにすべきだというのがやはり自然な考え方であろう、そんなふうに思います。よりすっきりしたものに変えるというふうな観点からすれば、やはり、これからの二十一世紀の時代状況というものをしっかり踏まえた上での時代認識の反映というものがなされてこなければいけないのではないかと思います。

 現行憲法につきましては、しばしば、日本語としての表現の不備といった形態的側面だけではなくて、内容面でも、最大のポイントである三原則が十分に書き込まれていない、先ほども申し上げましたけれども、十分に書き込まれていないこと、さらには、日本の歴史や文化や伝統といった固有の色彩から縁が遠くて、余りに無色透明に過ぎるといった欠陥も指摘されてきました。そういった誕生の時代的背景からして当然といえば当然でしょうけれども、これからの国のあり方、形を提示する基本となる憲法の前文がこういったものを引きずり続けることには大いに議論があるだろう。そういう意味からも、新しい時代における認識というものが反映されなくちゃいけないだろう。

 そういったときに俎上に上ってくるテーマというのは、先ほどもお話ありましたけれども、地球的規模におけるさまざまな問題。一つは、地球温暖化というふうな、現代世界がひとしく見舞われているこうした現象に対する自然環境の保全や人間社会との共生というものが非常に強く望まれている、そういう点。あるいはまた、内外における新しい脅威、国際テロや、エイズに代表される感染症の脅威や、また、翻って日本自体をとってみても、安全安心を誇ってきた日本社会のほころびといったふうなそういった問題。

 つまり、国家や社会の安全保障だけではなくて、人間の安全保障ということの必要性というものが今ほど要求されていることはない。そして、二十一世紀を見渡したときに、そういった視点というものが大事だということも指摘できるんじゃないかと思います。あわせて、日本が先進民主主義国家の中の先頭を切って少子高齢社会入りをしようとしている状況というのは、社会の隅々に至るまで大幅な価値観の転換を求められている。

 そういうことからしても、すっきりした、これからの憲法における前文というものをもし新たにつくるとすれば、今のような側面というものを織り込む必要があるんではないかと思います。

 あわせて、今日まで、戦前戦後を通じて日本の憲法の背景として争われてきた一つのテーマとして、国家主義対いわゆる人間主義、あるいはナショナリズム対インターナショナリズム、あるいはまた、卑近な言い方をすると、滅私奉公対滅公奉私というか、そういうふうな対立的な価値観、こういったものが存在をしてきたわけですけれども、今、先ほど来申し上げていますような、これからの時代状況を踏まえた場合におけるところの新しい価値観、まあ国家観と言ってもいいかもしれませんけれども、そういったものを確立する必要がある、こんなふうにも思います。

 私ども公明党は、かつて、文化の華薫る平和国家、こういうふうな国家観の原型のようなものを目指すべきものとして示したことがありますけれども、今もなおそれは生きていると私は思っております。

 先日、この憲法調査会に元総理大臣中曽根康弘先生をお迎えして、いわゆる憲法をめぐるお話を公述人としてお招きして聞いたときに、私は、長く憲法の改革ということ、いわゆる改憲ということを主張されてこられた中曽根さんが、今、新しい平成憲法というものを主張されている。その背景をなす、骨格をなす国家観というものはどういうものですかということを聞きましたときに、概略、今まで経済至上主義、そういうものを目指してきた日本、目指してきたというかそういう経緯にあった日本が、これからは教育文化国家というものを目指すべきであろう、そんなふうなことを言われました。

 中曽根元総理がおっしゃる文化、教育の中身と、私たちが言うところの文化の華薫る平和国家の文化と、中身には異論はあろうと思いますけれども、方向性というものは一致している、そんなふうな感じがいたすわけで、これから、そういった新しい日本の目指すべき国家像というものについても大いなる議論というものが必要になってくるのではないかと思います。

 最後に、私が思いますことは、今、こういう憲法調査会の場におきましてさまざまな現行憲法をめぐる議論、そして、これからの、もし仮に現行憲法を補うあるいは変えるといったことをするならばどういう観点が必要かという議論を展開してきているわけですけれども、ここでやはり私たちが、非常に当たり前のことでありますけれども、私が強調したいと思うことは、要するに、政治家が極めて謙虚にならなければならないのではないかという点であります。今の政治家だけにこの大事な憲法の議論をすべて託していいと思っているのかどうか、その点、私は大いに謙虚にならなければならない。前文にしても、変える必要は認めても、おまえさんたちに任せては心配だという意見は残念ながら数多くあるのではないかと思われるわけであります。

 その意味で、国民的な議論が必要であって、多くの国民の皆さんから御意見を積極的に賜っていく必要性がある、そんなふうに思う次第でございます。

 かつて、この調査会に出席された参考人が憲法前文の書きかえ運動を提唱されたり、あるいは出版界でも、私の考える憲法前文といったものを集めて本にする動きがあるなど、まだまだ弱いとはいえ、そうした国民運動的胎動がかいま見られるということは注目に値すると言えると思います。

 以上です。

中山会長 次に、山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 初めに、日本国憲法前文の特徴について述べたいと思います。

 憲法の前文は、おのずから各国ごとの特徴があるものですが、一般には、憲法制定の由来と目的、基本的な理念と憲法制定者の意思などを示すことによって憲法典の意義と精神を内外に表明するものと言われます。

 日本国憲法の前文では、憲法制定の歴史的経緯だけでなく、全体にわたって平和への念願と達成の決意、いわば日本の進路が述べられています。そして、これらを通じて、国民主権と民主主義、平和主義と国際協調主義など、日本国憲法のよって立つ基本原則が詳しく明らかにされています。

 具体的に見れば、第一段では、憲法制定の趣旨が、諸国民との協和による成果と、自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにするという平和の達成にあること、さらに、国政が国民の厳粛な信託に基づき、国民がその福利を享受するという人類普遍の原理、国民主権と平和主義を憲法の基本原則にすることを明らかにしています。

 第二段は、恒久平和への念願を表明して、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意したこと、さらに、全世界の国民の権利としての平和のうちに生存する権利を確認しています。

 続いて第三段は、国際協調主義を旨とすることは各国の責務であると述べ、第四段で、以上に挙げた理想と目的の達成を目指す国民の決意を示しています。

 このように憲法前文は、憲法制定者としての国民の意思と憲法の基本原則を明確に表明することで法規範としての性格を持つものとなりました。日本国憲法前文の重要な特徴がここにあります。

 次に、憲法前文のもう一つの特徴として、前文が表明した憲法原則の普遍的な意義を取り上げたいと思いますが、今回は、問題を日本と世界の歴史及び現状の中で考えたいと思います。

 詳しく述べるまでもなく、日本国憲法は、日本と世界の歴史上、未曾有の惨禍となった二十世紀前半の侵略戦争と専制政治を再び許さないという強い決意に根差して制定されたものです。ここに日本国憲法が示す日本の歴史の一番のかなめがあり、文章表現上も前文で繰り返し力説されているところです。しかも、日本国憲法のこの立場は孤立したものではありません。平和の実現を求める世界的な流れの中で生まれ、今日に至ったものです。その点で、自虐的などという特徴づけはとてもできるものではありません。

 日本軍国主義の侵略戦争と植民地支配、ナチスなどの戦争犯罪を含め、人類は二十世紀の二つの世界戦争の惨禍を決してあいまいにしませんでした。この歴史から、戦争を違法化し恒久平和を探求すること、そのためにも、各国における人権と民主主義の充実に不断に努めることを大きな教訓として学び取りました。この教訓は、国連憲章と国際人権諸条約、各国の憲法に組み込まれることになりました。そして、二十一世紀を迎えた今日も、探求し実現すべき課題として新鮮な意義を持っています。

 こうした歴史の流れを踏まえた上で、日本国憲法の前文が表明した憲法原則の普遍的な意義について二つの点を取り上げておきたいと思います。

 まず、人権と民主主義の問題ですが、憲法前文は、「日本国民は、」で始まり「日本国民は、」で終わるように、国民主権原理をはっきりと宣言しています。明治憲法下では、主権は天皇にあり、国民は天皇に仕える臣民として人権を厳しく制限されました。その結果、天皇制政府が起こした侵略戦争に駆り出され、国の内外で多くのとうとい人命が失われました。天皇主権から国民主権への主権原理の転換は、こうした歴史の反省の上に立って、国民主権という世界の民主主義の成果を積極的に取り入れたことによって実現したものです。そして、国民主権原理は、基本的人権の保障、恒久平和主義、統治に関する条項を初め、憲法諸条項の実行や解釈に当たっての指針となっています。

 この点で、草案段階での「国民の総意が至高なものである」とのあいまいな表現が、憲法制定議会での審議と内外の批判の中で、第一条の修正とあわせ、「主権が国民に存すること」と明記されたことは極めて重要な歴史的出来事でした。

 次に、恒久平和主義をめぐる問題です。

 前文の第一段は、政府の行為による戦争の惨禍を二度と起こさせないと、国民が政府と国家機関に縛りをかけました。これを受けた第二段は、日本国民は、恒久平和を念願し、人類の崇高な理想を自覚することによって、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と宣言しています。憲法九条では、この立場が戦争放棄、戦力不保持と交戦権の否認として示されています。

 前文は、こうした徹底した平和主義を貫くことによって、「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」としています。世界に対する平和の発信は極めて明瞭です。

 私は、当調査会でも、イラク戦争反対の世界の世論と運動の広がりや、国連憲章の平和のルールを守るという国際政治での大きな主張、また、憲法九条への国際的な高い評価についてたびたび紹介してまいりました。これらは、日本国憲法の平和主義が二十一世紀の日本と世界の平和の指針たり得ることを今日的に示したものだと考えます。

 続いて、前文第二段は、全世界の国民が「平和のうちに生存する権利を有する」としています。これは、平和の確立を国民の権利として、すなわち人権の問題としてとらえたものです。平和的生存権とも呼ばれるように、戦争が人命、自由に対する最大の脅威であり、平和の確立を人々の人権と生存が維持され保障されるための条件としたものです。憲法前文が定めた平和的生存権は、憲法九条に反する現実を変えるために国民の運動のよりどころともなってきたもので、長沼ナイキ訴訟の一審判決では、裁判規範として基本的人権であることが認められています。

 平和のうちに生存する権利の規定の源泉が、一九四一年のルーズベルトの四つの自由宣言、それを踏まえた大西洋憲章であることはよく知られていますが、平和と人権の密接不可分性の認識は、国連憲章、世界人権宣言などにも受け継がれ、平和のうちに生存する権利の考え方は、国連総会の決議にも採用されるようになっています。例えば、一九七八年十二月十五日の平和に生きる社会の準備に関する宣言、一九八四年十一月十二日の人民の平和への権利についての宣言などでは、平和に生きる固有の権利を普遍的な性格を持つ権利として認めるようになっています。

 このように、日本国憲法の平和的生存権保障は、現代世界の要請である平和による人権保障を憲法典レベルで初めて具体的に実現したものとして、二十一世紀に生きる普遍的な意義を持つものとなっています。

 なお、イラクへの自衛隊派兵の理屈づけに、前文第三段の「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という言葉が使われたことがあります。しかし、この言葉は、戦前の日本軍国主義などに示された国家主義を排するということを意味しており、今日で言えば、国連憲章も国際法も無視して、単独行動主義に基づきイラク戦争を起こした米国への批判ともなり得るものです。憲法があいまいなのではなく、この規定を全く正反対に引用したのが小泉首相であって、みずからの憲法違反の行為をこの前文から正当化することはできません。

 以上、二つの問題に絞って述べてきましたが、憲法前文の持つ普遍的な値打ちは私たちの誇るべき内容というべきものであり、日本がアジアの中で生きていく上でも、また世界との関係においても、二十一世紀の今日、実現すべき法規範としての大きな意義を持つものと考えます。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 きょうは、午前中は前文について申し述べる機会でございますが、この日本国憲法の前文そのものは憲法の内容をなすものであることは言うまでもございません。しかも、前文の中に記述されております中身をしっかり把握することによって各条文に対しても正確な理解ができるというのが前文の内容であると思うのです。

 以下私は、四点ばかり、この前文に関係する問題点を取り上げてここで申し述べてみたいと思います。

 よく言われるのに、憲法前文は翻訳調だという声があるんですね。それからまた、したがって、正しい日本語で書き直すべきだという、それに対する提言があるんです。どうも聞いておりますと、なかなかこれは気持ちがこもった発言であるがゆえに、よい表現で言えば感情的だというふうに申し上げてもよいと思います。どうも多くの人たちは、憲法前文を見たときに、国民の間では読みやすい前文の文章は定着していますよ、少なくとも国民の間には定着していますよ、したがって変える必要はありませんとおっしゃる方々の声の方が実は多いんですね。本当に前文は翻訳調であって、日本語で書き直すべきかどうかということになりますと、これは、結論から言えば、私は変える必要はないと思っております。

 翻訳調だとおっしゃっているその語調には、少なくとも、押しつけ憲法だ、押しつけられたのではないか、アメリカから一方的に押しつけられたといういきさつがあるというところを力説される向きがあるんですが、この問題については、一言私は、こういう実際問題にどのような理解をすればいいかという意味も込めて申し上げさせていただきたいと思うのです。

 それは、余りこれは取りざたを最近されないんですけれども、一九四五年の十二月、戦後間もないときに連合諸国十一カ国で創設されたのが、御存じの方が多いと思いますが、極東委員会なんですね。極東委員会は、創設されてから後、憲法改正については最高の権限を持っていたというのがこの存在でございまして、この極東委員会の第三十回の会議の中で「新しい日本国憲法の再審査のための規定」というのが出されているんです。これは一九四六年の十月十七日、これを決定して出しているわけですが、その十月十七日の決定の中には、憲法について、施行されてから一年ないし二年以内に、必要とあらば国会でもう一度日本国憲法に対して、国民の自由な意思でもって支持されているかどうかということを再検討すべきであるという決定がこの中で出されているのです。

 しかし、極東委員会のこの決定にもかかわらず、一九四六年の十月十七日付のこの決定後、憲法が施行されてから一年以上経過して、もう一度検討しようということにはなりませんでした。それは、つづめて言えば、その時期には国会も政府も言論界も、今の憲法で十分である、変える必要はないということが大勢で見送られたということが読み取れるのでございます。そして、極東委員会もこれを了承したという事実があります。

 この点は、したがって、見れば、一概に押しつけられたというふうに言えないんじゃないかという実際問題があったわけで、もう一つ申し上げますと、マッカーサー草案と世に言われる草案が出る以前に、日本の民間では、例えば高野岩三郎私案とか憲法研究会の森戸私案とか、いろいろ民間では、ただいまの憲法と大体中身は似たり寄ったり、さらに、部分的に言うと、労働権や社会権については非常に親切な条文が用意されたような草案が発表されております。

 したがって、民間の間では必ずしもこれを押しつけられたということは言えないわけで、むしろ、民間の中で用意された私案は非常に進んだものがあったということを考えますと、少なくとも国民の圧倒的多数は、この日本国憲法に対しては歓迎したということが言えるのではないかと思うわけでありまして、押しつけられたというのは、したがって適切な理解というわけにはいかないんじゃないか。むしろ、それでも押しつけられたと言うのは、当時の政府、官僚としては、そういうふうな感想を実態に触れて経験上お持ちの方々があるのかもしれません。

 したがって、そういうことからいいますと、結論から言えば、憲法前文は憲法全体の目的や理念を簡潔明瞭に示しておりまして、その憲法の前文に対してこれを変えるという必要はただいま全くないということがまず言えると思うのです。

 二つ目には、この憲法に対して一国平和主義であるという批判がよくございます。しかし、これは当たりません。この前文について言うと、国連憲章の理念を進めるものであって、その実現には、国際社会の平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する努力が欠かせないということを明記いたしております。これはもう当然のことだと思うんですけれども、日本国憲法の目指すものはただ日本一国の平和ということではない、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存するということを目指しているんだ、そのために憲法のこの前文の箇所では、自国のことのみに専念し他国を無視してはならないということをはっきりここに決めているという点がもっともっと具体的に認識される必要があるというふうに思うのです。

 三つ目には、昨今、我が国の歴史とか伝統とか文化に根差した国柄を盛り込むべきだというふうな主張が聞こえてまいります。しかし、考えてみますと、伝統や国民性といった中身からいったら、一定のものではなく多様性を持っている内容を、この一様でないものを改憲してまで憲法に書くということが果たして必要であるかどうかという問題と同時に、可能なのかどうかということすらこれは考えなければならない問題だと思うんですね。公共の精神、日本の歴史、伝統、文化の尊重、愛国心、家族、道徳心や倫理観、そういうのを強調するということが同時にこれは並行して進められているようでありますけれども、どうもそれは憲法や法律に書いて国民に強制できるものではない、本来。したがって、前文をそういう意味で書きかえるということは、不必要であると同時に、理にかなっていないというふうに私は思います。

 最後に、これは、少なくとも憲法の基調をこの前文ははっきりと述べております。そして、九十六条の、憲法の改正に対して手続を用意している条文とも相呼応して、この憲法は、憲法を変えるということについても、この九十六条は憲法と一体をなすものであるということを前提にして考えているということを忘れちゃならないと思うんですね。それは、この前文の主権在民の原理、基本的人権の不可侵性、そして、不戦の絶対的平和主義、こういうことなどの憲法原則と矛盾したり、それを否定するような改憲というのは憲法の破壊であって、この憲法自身が認めないということをしっかりこの前文のところに疑いもなく明記されております。

 そこは、よくお互いの間で討議をするときに、間々、ここのところを置き忘れて論議するという嫌いが昨今あるんです。「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」と前文では言っているわけですから、この日本国憲法の決めております憲法の原理自身に矛盾したり、逆行したり否定したりするその行為自体が憲法違反だということをこの日本国憲法の前文自身が明記している。この点は非常に大きな意味を持つというふうに私は思います。極めて重要な憲法原則が述べられているというふうに思っております。

 ありがとうございました。

中山会長 これにて各会派一名ずつの発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 それでは、ただいまから御発言をお願いしたいと存じます。御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。

 まず、憲法は一体だれのものかというあたりから話をしたいと思います。

 昭和二十一年当時、恐らく七千万台の国民が憲法の策定作業に全員参加したかというと、必ずしもそうではない。当時、公職追放に遭い、しかも、言論の自由というのが完全には認められていなかった状況の中での現在の憲法の制定がなされている、こういったことを考えますと、当然、戦後六十年を経た現時点においては、憲法について、その問題点あるいはそのあるべき姿を検討するのは極めて当然であると思います。この前文というのは、今回、憲法改正の議論がこれから進行する中で、結果的にはどういう改正を必要とするか、それによって結果的にはその前文の中身が決まってくると思います。

 憲法改正を私はしなければならないと思っております。そのためには、まず第一に重要なことは、国民全体の憲法改正の改革の情熱がどの程度高まっているか、あるいは憲法の起草者の改革への情熱がいかに高いか、これが問われるわけであります。これまでは、いわば与えられた憲法あるいは押しつけられた憲法、私の表現でいえば借り物の憲法の存在でありましたけれども、これからは、現在の国民が将来の日本の国民のためにも新しく自分の手でつくる憲法である、憲法づくりに参加をするという観点から考えなければならないと思います。そういう意味からしますと、現在の憲法には国民自身の参加の意識というのが極めて欠落をしているのではないかと思います。

 現在、憲法改正が必要とされる事情であります。これは、私は、家庭崩壊、地域崩壊あるいは国家崩壊の危機に瀕しているという認識を持たなければならないのではないかと考えております。そういう点から、現在の憲法の見直しを必要とする条項が、例えば九条であり八十九条であり、あるいは場合によっては二十条三項等になるかもわかりません。場合によっては国会の一院制、二院制の議論になるかもしれませんし、地方分権の問題になるかもしれません。新しい環境権を入れるとかいった基本的人権条項の追加あるいは改定、あるいは、基本的人権といわゆる公共の利益とのこの相克関係をどのように調整するか、その原理の導入であるかもわかりません。こういったことをすべて解決していくための新しい憲法を私たちはつくっていかなければならないと思っております。

 そういう点からしますと、持続可能な地球あるいは持続可能な日本の国家制度、こういったものを十分認識しなければならないと思っております。地球環境の破壊というものが大きく世界的に問われている時代を迎えております。そういった意味で、何としても環境あるいは国際社会との共生を目指さなければならない、宗教対立やイデオロギーの対立を克服する、そういった新しい社会の中での名誉ある地位を占めるということが目標でなければならないと思います。高い倫理性に基づいた道義国家の構築というのが求められているのではないかと思います。日本の歴史、伝統、文化、これを当然反映するものでなければ、これは日本国の憲法とは到底言えないと思います。

 こういった配慮のもとで、新しく国民が復唱できるような、暗唱できるような、そういう憲法の前文をつくっていかなければならないと思います。

 以上であります。

石田(祝)委員 公明党の石田祝稔です。

 発言の機会を与えていただきまして、感謝を申し上げます。

 私は、この場は初めての発言をさせていただくわけでありますけれども、今までそれぞれ各党の代表の方が御発言をされているのをお聞きいたしまして、何だか、きょうからこういう議論が始まったんじゃないかというふうな率直な印象を持ちました。それはなぜかというと、五年間でそろそろ結論を出さなきゃいけないというときに、やはりまだ、全然それぞれの立場の随分前からの御意見が余り変わっていないような感じが正直いたしました。これはそれぞれのお考えですから何とも言えませんけれども、率直にそういう印象を持ちました。

 私は、この憲法の前文につきましては、ある意味でいえば、憲法の憲法、いわゆるどういう憲法をつくっていくのかというその大前提となる考え方が当然示されなければならないところだというふうに思っております。ですから、今、憲法改正、また、新しくつけ加えていくべきだ、いろいろな御意見もあるわけでありますけれども、そうなると、当然この憲法の前文についてもこれを私は書きかえていかなきゃならないんじゃないか、こういうふうに思っております。

 それは、中身の問題もそうでありますけれども、今までのいろいろな御意見の中で、やはり、翻訳されたというその制約、そういうものももちろんございますし、それと、先ほど申し上げたような、改正をするのであれば、その憲法の憲法たる前文についてもこれは当然書き改めていかなければ整合性がとれない、こういうふうに私は個人的には思っております。

 特にそれは、この前文の中で「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」こういう書き方をされておりますので、憲法の中で、この前文に反するものについて認めない、こういう書き方になっておりますので、当然、憲法を変える、また、つけ加える、そういうものとこの前文の文章の改定というものは一体のものだ、こういうふうに私は思っております。

 六十年間、現憲法で来たわけでありますけれども、これはいろいろな御意見があることは当然であります。しかし、六十年間これで来たということは、これは間違いございませんが、さらに、六十年たってなお、将来に向かってそのことが今のままでいいということにはつながらない、こういうふうに私は思っております。

 ですから、具体的には環境権だとかプライバシー権だとか、条項そのものでつけ加えるべきだ、こういうところもあろうと思いますけれども、それとともに、憲法の憲法たる前文についても、先ほど申し上げたような幾つかの理由で、私はこれは書きかえていくのがいいのではないか、こういうふうな思いがいたしております。

 特に、一条から百三条までの条項間の関係と比べて、前文と憲法の百三の条項についての関係性は余り強くないというふうな御意見もあろうかと思いますけれども、私は、決してそうではなくて、やはり大前提となる考えがここに述べられている、こういうふうに思いますので、今まで開陳したような思いを今持っていることを最後に申し述べまして、意見とさせていただきたいと思います。

 ありがとうございました。

丸谷委員 公明党の丸谷佳織でございます。

 本委員会で意見を述べさせていただく機会をいただき、ありがとうございます。今まで議論を重ねてこられた上でまとめられた論点を踏まえまして、本日は、特に前文の内容について発言をさせていただきたいと思います。

 基本的には現憲法の崇高な前文の精神を継承しながら、幾つかの点において時代に対応した前文に改めるべきと考えております。

 さて、その内容でございますけれども、この国の、あるいは国民のあるべき姿、理想像を前文に示すことは当然ですが、そのあるべき姿がどのようなものなのか、これを考えるとき、今このような形で議論をしている私たち政治家を初めとしまして、国民のそれぞれが持つ家族観であったり、世界観、歴史観等のいわゆる価値観をどこまで、どのような形で反映させるべきであるのか、このことについて深く掘り下げて考えてみる必要があると思います。

 愛国心ですとかあるいは家族の重要性を明示するべきだといったような議論もございますけれども、時代とともにますます多様化する価値観というものを比較検討し、ある一つの言葉あるいはある一つの表現としてまとめ、それを前文に示すということは、より多くの人の共感を得て国民一人一人にひとしく訴える力を持つべき憲法の性格から考えますと、少々無理があるように考えます。

 国民的価値観を一切前文に示すべきではないという意見ではございません。歴史の経験から得た日本人の究極的な価値観である、あるいはコンセンサスと言ってもよいと思いますが、平和への願いと、そして国民主権の内容、これはそのままに、憲法の原則の一つであります人権の尊重についても新たに明記するべきと考えております。中でも、平和を願う日本は何をもって平和を希求しているのか、このことについて示すことも必要なのではないかと考えます。

 一つ例を例えて言わせていただければ、国連憲章の前文には「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、」という文章から始まりますが、国連憲章の成立の経緯、そして、国際社会の歴史的経験をはかり知ることができる内容であると考えております。

 では、我が国はなぜ平和を希求する国民なのかという問いに戻れば、それは、過去に二度の大きな戦争を経験し、また、戦争による唯一の被爆国として戦争の悲惨さ、核の恐ろしさを身をもって知っているからであり、その痛ましい経験から平和を希求しているからにほかなりません。これらの経験に基づいた平和の願いであること、また、平和を願う国民であることを前文に明確に示すことが日本という国のあり方の一つの象徴になると考えております。

 また、これらの経験から、日本外交では核軍縮の推進に説得力を持ってきたと承知しておりますし、前文には核兵器廃絶の日本の見解も示されるべきと考えております。その上で、国際社会における貧困あるいは紛争等の諸問題を他人事とせず、責任ある一国として、国際社会の平和とそして安定に寄与する意思を明示し、人間の安全保障を基礎にした平和構築の積極的関与を示すことも大事であると考えております。

 なお、文章あるいは表現のあり方については、より平易なものに改め、より多くの人、特に、小学生にでもわかるような内容に改めるべきというふうに考えております。

 以上でございます。

中根委員 民主党の中根康浩です。

 若干お聞き苦しくて申しわけありませんけれども、ただいま丸谷委員からもその前半の方で、人権についても明記をすべきだというような御発言もありましたけれども、第十三条で「すべて国民は、個人として尊重される。」ということになっておりますけれども、しかし、そういう規定がありながら、依然として一人一人大切にされていない実態も存在をしているということで、人権侵害が依然として続いている。そういった谷間の部分をこの前文などを活用して埋めていくことも必要かというふうに考えています。競争社会から共生社会へ、あるいは、一人一人違ってみんないいんだというような、多様性をお互いに尊重できる日本であってほしいと願っています。

 自分で責任を負わなくてもいい理由によって例えば障害を有することになった人たち、あるいは、子供や高齢者や男女を問わずすべての差別が禁止をされる、そして、虐待はどんな理由があっても、教育であろうとしつけであろうと、あるいは訓練であろうと、どんな名目がついても許されるものではないというふうに、憲法がそれを守っていただければありがたいというふうに思っています。例えば、視力、聴力、知力が弱くても、手足が十分に動かなくても、この日本に住む限り、譲り合い、補い合い、助け合う、そしてお互いにもっと豊かで安心して暮らすことができる、そういう国になってほしいと願っています。

 例えば障害は、個人の側ではなくて、社会の無理解あるいは差別や偏見からもたらされるのであって、この憲法で規定されているように、みんな憲法の前で平等であるということをこの前文においても高らかに宣言して、出し抜きとかあるいはだまし合い、そういう人間関係から、もっと成熟した日本社会をうたい上げていってほしいと思っています。差別というものは、一定の価値観を押しつけて人間を序列化する、あるいは人間を産業や経済への貢献度によって推しはかる、差別の行き着くところは対象者の絶滅であるというところも歴史が証明しているところであります。

 人々に競争を強いて落後者を侮べつする社会は未熟であります。一度や二度失敗してもやり直しのきく社会を私ども民主党はつくっていきたいというふうに思っています。それが具現化したものとして、統合教育の実現、あるいは差別禁止法、さまざまな虐待の防止法、障害者を取り巻く司法のあり方、障害者の逸失利益というものに対する考え方、さらには無年金障害者対策や難病対策、こういったものに結びついていってほしいというふうに思っています。

 多少情緒的になりましたけれども、発言とさせていただきます。ありがとうございました。

船田委員 船田元でございます。

 憲法の前文は、憲法の顔であり表紙であると同時に、各条文、憲法全体の内容を代表するものというふうに考えております。したがって、これまでの我々憲法調査会での各分野ごとの議論の集大成ということでもあり、これは後ほど決められていくものだなというふうには思っております。

 しかしながら、現時点において、私は、これから申し上げる四つの点については、ぜひ前文に入れるべきであると考えております。

 一つが、生命とか人間の尊厳、価値というものをやはりうたうべきであるということであります。

 我々は、人間という存在をすべてにまさる最高の価値と考えるべきであって、特に、我が国は自然資源が乏しい国ですから、人材あるいは知的財産、こういうものを大切にし、また、そういう人材を育成する教育を大切にすべきであるということ、また一方で、生命の尊厳を脅かすおそれのある科学技術の企てには、断固としてこれは拒否をしていかなければいけないという意思表示もすべきだと思います。

 第二が、権利と義務の関係についての規定であると思います。

 現行憲法が保障する基本的人権の諸規定は、もちろん、当然ながら堅持すべきですけれども、同時に、権利には必ず義務が伴う、自由には必ず責任が伴うということを我々は自覚しなければいけないこと、また、公共の福祉、公共の利益と言いかえてもいいかと思いますが、それを守るためには、我々が持っている権利や自由の一部が調整されることもあるということを自覚することを書くべきであります。

 三番目は、積極的平和主義であります。

 世界、我が国の平和、いずれも、ただ黙っていれば、祈っていれば実現されるというものではないことは自明であります。我々は、世界の貧困や紛争をなくすために、国際社会の中で積極的にその役割を分担すべきであるということです。このような積極的平和主義を実践することによってのみ、我々は国際社会の中で名誉ある地位を占めることができるのだということも書き加えるべきであると思います。

 最後に、共生の理念や環境ということにも触れるべきではないかと思います。

 我々は、古来から豊かで美しい自然とともに生き、みずからの家庭や地域社会を温かな人間のきずなによって維持してきたわけであります。我々はこのような共生の心を将来にわたって堅持すべきであること、また、広く地球環境を保全することや、我が国固有の歴史、伝統、文化を継承するということを将来世代に対する我々の責務と考える、このような規定を盛り込んでいくべきであると考えております。

 以上でございます。

高木(美)委員 公明党の高木美智代でございます。

 初めに、こうした委員会の場で発言の機会を与えていただきましたことに感謝申し上げます。

 私は、先ほどの皆様の御発言を伺いながら、この前文につきまして書きかえるというお話でございますけれども、私の立場としましては、むしろこのままでよいのではないかという立場で考えております。

 これは、平和憲法という通称が示しておりますように、第九条に盛り込まれた平和主義、そしてまた前文に掲げた国際協調主義、この理念は、あくまでもやはりこの日本国憲法におきまして根幹的な意味合いを持つものと認識をしております。特に、この前文につきましては、憲法に書かれた理念、また基本的な考え方を明らかにしたもの、このようにとらえる考え方に私も賛成でございます。

 憲法制定当時の時代状況でございますけれども、国連憲章に「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、」とありますように、やはり、世界が二度にわたって戦渦に巻き込まれ、二千万人を超える犠牲者を出したという悲惨な経験をしております。そうした中で、今こそ世界諸国が協力をしながら平和維持の体制を構築していこう、そのために国連をつくり、国連を中心としながら法による平和を目指そうという、こうした時代状況を大きく反映していると認識しております。

 ちょうどこのころ、憲政の神様、尾崎咢堂先生が、骨の髄まで平和主義に徹するよりほかに日本の生きる道はない、このように述べていらっしゃるとおりでございます。

 こうした世界の潮流の中にありまして、日本が戦争放棄を宣言して、そして、こうした世界平和に貢献することによりまして平和を構築していこう、達成していこうと高らかにその理念を宣言されたものと思います。

 ところが、日本のこうした戦争体験また悲惨さ、これがどのように受け継がれているかと考えますと、よく、日本にはこうした正しい歴史教育がない、このように指摘されておりますとおり、戦争は愚であるというこうした認識、また、この前文に盛り込まれた熱き思い、これを私はこのまま残す形で、その当時、二度とこういうことを繰り返してはいけない、日本国民の新たな出発点として受けとめていくことができるのではないか、このように考えております。

 第二段のところに、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」この「名誉ある地位」、これはすばらしい文言であると私は思っております。平和を希求する世界において、日本こそ、この痛みをだれよりも味わったからこそリードする立場になろうではないか、そこにまた日本国民の誇りを打ち立てていこうではないか、こうした方向性であると思います。

 あの四年前の二〇〇一年、九・一一テロの脅威に直面をしまして、改めて、グローバル化の背後に貧困や格差が進行している、それを解決せずして真の平和はないということを認識いたしました。今、こうした平和軍縮問題に限らず、環境破壊、貧困の問題など、それぞれの根深さを考えますと、こうした総合的に絡み合った課題に立ち向かい、行動してかち取っていく、こうした積極的な平和主義、これこそ大事であると思っております。

 そこで、先般、京都議定書発効の記念式典に参加をいたしました。日本が呼びかけ、百四十一カ国が参加をし、そして今、新たにこの二月十六日に発効したという京都議定書の条約でございますけれども、こういう形でむしろやっと日本が環境破壊等につきましても世界にまさにリードして貢献をするそうした時代が来た、戦後六十年、この前文にうたわれています内容を実現できる力、またその環境、それが整ってきた、こういうふうに思えると私は思います。この後、さらにこの国際的な市民の連帯を国連を中心にしながらどのようにつくっていけるか、これを考えてまいりたいと思います。

 その上で、本文の中に新しい人権、環境権であるとかプライバシー権であるとか、これを具体的に盛り込むことがふさわしいのではないかと考えております。

 以上でございます。

坂本(剛)委員 いろいろお話ありましたから、かいつまんで申し上げますと、まず、今の日本国憲法のこの前文が国民のものになっていないんですね。その言い回しの難解さ、内容の難解さ、これでは、日本人がこの前文を読んでいて何も感じない、仮に読んだ人でも、ぴんときていない、これが果たして日本国憲法なのかという。私は、これはあくまでも、日本を占領するためにポツダム宣言を受諾させたあの原文が、これは日本占領政策なんですね。ですから、日本の占領にふさわしくない文言は全部カットされている、そういう中でつくられたのがこの前文であろうと。したがって、ここにはやはり日本人の血が流れない、こういうことが言えると思います。

 日本には四季がありまして、夏が来て、短い秋を過ぎて冬を迎える、急いで冬支度をしなくちゃならない。日本人の生活というのはめり張りがあるんですね、一年を通して。このめり張りがあるところから日本の文化が生まれてきているし、そこに歴史の深みもあるわけですね。そういうことを今の若い人たち、これからの二十一世紀、二十二世紀を生きる日本人がわかっていなくては、この国を一体どういう形で運営していくんだということになるわけでございます。

 今の若者に日本人としての自覚がないと私、前にも言いましたけれども、柳田国男さんの言葉に、人はただの荒野に生まれたのではない、人はその地域、文化、歴史、民族の力の中に生まれたのだ、こういう言葉がありますけれども、その感覚が今の教育にもないし、今の若い人たちの自覚にもない。私は、こういったようなことを通して、国際社会にやはりもっともっと格調高い日本人を打ち出していくべきだろうと思っているんです。

 アインシュタインは、大正時代、日本に来て、一神教でない多神教の日本が将来世界のリーダーになるのではないか、こういうことを言っているといいますけれども、あらゆることを考えたときに、私は、もっと日本人というものを前面に出した、日本人の理解できる、わかりやすい、そして誇りの持てる憲法を、特に前文をつくり直すべきだ、こう思っております。

 以上です。

葉梨委員 自民党の葉梨康弘です。

 前文について意見を申し述べます。

 まず、現行憲法前文についての評価です。

 現行憲法前文は、確かに翻訳調でわかりづらい悪文です。具体的には、英語の決議文に特有の留意点等を多用しており、例えば、正当に選挙された代表者を通じて行動しという文言がこの憲法の確定に係るのに、これを時に代議制民主主義をあらわしたものと誤解されるなど、法律の中の法律としては極めてよい文章と言うことはできません。しかも、主権在民、民主主義、平和主義、国際協調といった人類普遍の原理や普遍的政治道徳をうたうのみで、諸外国の憲法にあるような固有の民族的価値への言及がなく、どこの国の憲法だかわからないという批判もあります。ただ、私は、現行憲法は現行憲法なりに我が国の固有の価値と人類普遍の原理の融合を図っていると考えます。

 私は、現行憲法における上諭の存在にもっと注目すべきと思います。一般的に、上諭は単なる公布文で、規範性は持たないものとされており、憲法の制定過程を示す意味を持っていると解されます。そして、戦後であっても、日本国憲法施行前は上諭が付されている法律案は幾つかあります。ただ、そのいずれも、形式的に、朕は○○法を裁可し公布せしめるという内容です。

 ところが、日本国憲法は、「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、」という天皇の意思を示す、極めて特異な上諭と言うことができます。このような上諭を持つことは、この憲法の枢密院審議で、当時の入江法制局長官が、前文は国民の中核としての天皇が発案され、こういう趣旨で改正することを明らかにしたものと答弁していることと符合します。

 私は、押しつけの経緯は経緯として、前文は、法形式的には憲法の制定過程を示す上諭とセットで、天皇御自身の主体的意思により、いわゆる八月革命の精神を受容したことを示していると考えます。その意味において、現行憲法の前文は、日本民族の象徴、日本国に固有の存在であり、伝統文化の代表者である天皇が普遍的原理を受容した歴史的文書と言うことができます。

 私は、新しい時代においては、我が国が長い歴史の経験の中で培ってきた国家や民族に固有の価値と、民主主義、平和主義、人権といった人類普遍の原理を融合し、ともに発展していく姿勢が、グローバリゼーションの時代に対応しつつ、日本国民のすべてが国民であることを誇りに思える国づくりのため必須と考えています。

 もしも憲法が改正された場合、天皇がこれを公布することとなりますが、立法技術的には、現行憲法に置かれているような上諭は削除されることとなります。この場合、私は、前文それ自体に我が国が固有の価値と普遍の原理をともに発展していく国柄を持つことを明らかにしなければ、それこそどこの国の憲法だかわからなくなってしまうのではというおそれを持っています。そして、私たちが未来に向かって進もうという意思を持つのであれば、より積極的で前向きな意義を前文の中にうたっていくべきでしょう。

 すなわち、第一に、今まで述べたような、天皇に代表される我が国の伝統文化、共同社会の尊重と主権在民、民主主義、平和主義、人権、自由等の普遍の原理を融合させ、すべての日本人が日本国民であることを誇りに思うことができる国をつくる決意を明確にすることが必要です。

 第二に、このような日本国は、国際協調主義のもと、国際社会に対して積極的な貢献を行う決意を明確にすることも大切です。

 第三に、現行憲法にもある普遍的政治道徳を発展させる決意を確認することも大事と思います。その上で、我が国が進むべき方向として、文化国家、環境国家、共生国家等の目標、理想を提示していくべきではないでしょうか。

 このような作業を行うことにより、私は、これからの我が国の生きざまに、より積極的な意味を付与することが可能と考えます。

 以上でございます。ありがとうございました。

永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。

 私は、前文に関しまして、特に、前文のあり方を通じた国の形というものについて意見を述べさせていただきたいと思います。

 私は、憲法調査会の委員といたしまして本調査会で多くの委員の発言を拝聴し、私自身も国の形について真剣に考え、委員の皆様とともに議論を深めてまいりました。そして、これまでの調査会の議論を通じ、私が憲法について改めて認識したことを申し上げるとすれば、憲法というものはまさに国家を形づくる土台であることは当然でありますが、その前文というものが、国家が進むべき道を明確に示す道しるべとしての役割を果たすものであるということであります。

 このような視点から現行憲法を眺めたとき、我が国の前文は、その進むべき方向を明確に示しているとは言えない状況にあるのではないでしょうか。例えば、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」という文言がございますが、振り返ってみますと、我が国はこの六十年間、戦争を起こしたという事実は一度もなく、このような前文の文言は既に時代錯誤に陥ってきております。

 また、前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」あるいは、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」という高邁な思想も書かれておりますが、現実の国際社会に目を向けてみると、北朝鮮による拉致問題、イスラエル・パレスチナ問題、アフガニスタン、イラク問題など余りにもかけ離れた状態にあることに気がつきます。

 このように前文は、内容的にも既に現実に合わなくなってきておりますが、そのほかにも大きな欠陥がございます。それは、日本国民自身による国の形を考えるという視点であります。先ほども申し上げましたが、憲法は国家を形づくる土台であり、その前文は国家の進むべき道を明確に示す道しるべとしての役割を果たすものであります。私は、我が国が明るく、活力ある社会となるためには、物心両面における豊かな国づくりを目指す必要があると考えます。

 戦後六十年を経て我が国は、高度経済成長のもと、物質的には国際社会の中でも大変豊かな国へと発展してまいりました。しかし、その結果、西洋における経済合理主義が日本の社会経済を覆い、我が国は大切なものを数多く失ってきたようにも思います。我々は、我々の祖先が長い歴史の中でどのように生きてきたかを今こそ振り返り、それを踏まえた国家像、国家の進むべき道を考える必要があるように思います。

 古来、我々日本人は山川草木に畏敬の念を抱き、生きとし生けるものに慈しみの気持ちを持ちながら自然との調和の中で生きてきたという、すぐれた伝統を有しております。また、我が国は、家族、家庭を通じ、または地域社会において相互扶助、助け合いの精神を培ってきたという、世界に誇るべき生活の歴史も有しております。このような我が国固有の伝統や歴史が、ややもすると軽んじられてきているところに今日の社会秩序の乱れの一因があるのではないかと考えます。

 私は、我が国の長い歴史の中ではぐくまれてきた環境主義の理念、そして家族の重要性というナショナルアイデンティティーを前文に明確に示し、国民一人一人が自然との共生の中で相互扶助の精神を培ってきたという日本人の姿を改めて認識することにより、我が国が精神文化においても豊かな国へと発展していくものと考えます。また、このような自然との共生の中で相互扶助の精神を培ってきたという日本人の姿は、今日の国際社会の中においても求められているものと考えます。

 確かに、現在の前文にも既に国際貢献の理念がうたわれております。しかし、このようなナショナルアイデンティティーを生かした国際貢献、例えば、地球環境への積極的な関与を明らかにしていく、環境安全保障への我が国の責任というようなものを前文に明記していくことも検討に値するのではないかと考えます。このような具体的、平和的な視点を持つことにより、国際社会の中において日本は他の国々から尊敬される国になるものと信じます。

 以上、私からの前文に関する意見表明とさせていただきます。ありがとうございました。

柴山委員 先ほど鹿野委員から、現在、主権在民の理念というものが本当に機能しているのかという大変貴重な視点を御提示いただきました。官から民への号令は、必ずしも十分その理念が実現されているとは言えない状況にあると私も考えております。これは、現代の膨大な行政需要の拡大あるいは中央集権的な体制ということにももちろん一つの原因があると思いますけれども、国民の側にもやはり原因があると考えております。我々は余りにも、政治、また、自分の地域ですとか国を支えていこう、そういうことに関して無関心であったのではないかと思っております。

 また、先ほど永岡委員そのほかからいろいろ御指摘があったとおり、これ以外の場面でも、やはり国民がただ自分のことだけに関心を持つのではなくて、もっと家族とか地域とかそういった事柄に関心を持ち、それを支えていく、そういった気概がなければ日本の社会というものは変わっていかないんじゃないかな、そのように考えております。昨今のさまざまな報道で提示されている事件を見るにつけ、私も全く同感であります。

 ここで、憲法の前文を見た場合、前文というのは、国の形をつくる憲法のさらに基本理念をうたうエッセンスであります。そうしたエッセンスの中に私は個人的人権の尊重主義というものは確かにはっきり書くべきであると思っておりますが、いわばそれとセットにした形での、こうした、地域やあるいは国を大切にするという理念や公共性の理念、そして、自己の権利、自由に対する責任の概念をセットにした形で書いていくことが必要であると私は考えております。

 こうした考え方に対しては、憲法というものは国家権力に対する制限規範である、そういった責任や義務は法律で定めればよいではないか、こういう批判がよくなされます。確かに、近代憲法はそういった理念のもとに制定されたものでありますけれども、憲法は、一方で根本法たる性質もあると考えております。法は、やはりバランスをとって制定されるものですから、こうしたバランスのとれた価値観をうたっていくことが私は必要であると考えております。

 私は、歴史、文化、家族、そういったものはやはり憲法に書かざるを得ないと思っております。土井委員からは先ほど、そういった概念は内容として一定のものではないのではないか、また、丸谷委員からは、そうしたものを書いていくとより多くの人の共感を得られないのではないか、そういうような御懸念も提示されました。

 しかし私は、そのような確かに一定性を持つ概念ではないということをあえて認めながら、それぞれの家族、そしてそれぞれの地域、そういったものに関する寛容性というものを前提とした上で、そういったものを大切にしていくということは大切なことではないかというように感じております。私は、ビジネス等あらゆる場面で今グローバル化が進展する中で、これを進めていかなければいけないという立場に立っておりますけれども、だからこそ、そうしたアイデンティティーというものはこれからますます大切になるのではないかというように考えている次第であります。

 さて、平和主義について一言申し上げたいと思います。

 私も、平和主義というものは非常に大切であると思っております。山口委員から先ほどありましたとおり、平和的生存権も、まあ、裁判規範性はその抽象性からないのではないかという疑問はありますけれども、やはり大切である。しかし、武器を捨てて戦争をやめることによって本当に平和というものは実現するのでしょうか。冷戦の崩壊によって地域紛争がふえてしまっている、また、最近ではテロが多発をしている。そのような中で、不作為によって平和というものが本当に守られるのでしょうか。やはり我々は、一定の平和に対する貢献をしていくことが必要だと考えております。

 もちろん、その内容につきましては、日本が軍事的な部門で貢献をするのが果たして世界の安全のためにプラスなのかどうなのかということは考えていかなければいけません。ただ、そうした問題意識はしっかりと持たなければいけないと思っております。

 時間がほとんどありません。あと一言だけ申し上げます。

 生命の尊重、そして、これからはやはり環境の重視ということを訴えていかなければいけないと思っております。憲法前文、内容をより豊かに、わかりやすく、今申し上げたような諸理念をつけ加えていっていただけたらというように思っております。

 以上です。

加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。

 これまでもいろいろこの憲法調査会での議論を聞かせていただきながら、また、本日は前文の議論ということになるわけでありますけれども、一方で、平和主義、主権在民等の普遍的な原理というものを結果的には我が国の社会がどう消化をして、そしてそれをさらに進めていくか、私は、そういうことになっていく。そういう意味では、先ほどからも御議論がありますように、今までの憲法の中で述べられておるさまざまな普遍的な原理というものは一方でしっかりと堅持をしながら、しかし同時に、やはり我が国の歴史、伝統というものを、そしてそれをこれからどうさらに進めていくのかということを、やはり私は、この憲法の前文の中にしっかりと明記をしていかなければいけないというふうに思います。

 先ほど、家族、家庭を明記するという議論もありました。確かに、個人と国家という一つの対立した観点ということもありますけれども、一方で、個人、家族、家庭、さらには地域コミュニティー、あるいはその段階にある地方の公共団体、そして国というそれぞれの層がなし合って一つの今の日本の社会が構成をされている、そして、そうした仕組みの中で、またそれぞれのレベルにおいて努力をしてきたその結果が今日の発展を支えてきた、私は、そういう部分ということを非常に大事にしていかなければいけない。

 また、それぞれの先人の皆さんが、そうした家族、地域、またその延長としての国を一生懸命守ってくる、そして、その守るという中では、個々を大事にする、生命を大事にする、あるいは自然といかに協調を図る、そういう努力によって今日の今の繁栄、状況が来ているんだ、そして、それを我々は、これからの新しいさまざまな状況とうまく絡ませながらどうやって次代につないでいくのか、そこに非常に大きな責務がある、義務があるという流れを私はしっかりと認識しておかなければならないというふうに思っております。

 そういう意味では、最初に申し上げたように、一つの普遍的な原理というものと我が国の歴史、伝統というものを一方でしっかりと認識しながら、そこをどう消化し、これからの時代の中で、今求められている人との共生、さらには自然との共生、そういったものを実現していくのか、そのことをしっかりと明記していく。

 そして、特に憲法の今の前文の中で気にかかるのは、翻訳ということによることだとは思いますけれども、非常に記載の仕方が、主体的にこうしますというような言い方が少ないんではないか。「信頼して」云々、あるいは「占めたいと思ふ」とかそういうような表現になっていて、私は、もっとストレートな表現といったものが日本国民としての意思をあらわすものとして非常に重要ではないか、そして、先ほどからも御議論があるように、わかりやすい、そういうことにも資することになるのではないか、かように思っております。

 ありがとうございました。

松宮委員 自由民主党の松宮勲でございます。

 私も、この平成の時代において新しい憲法を制定する、自主憲法を制定するという大前提のもとで、憲法前文は憲法のいわば顔でございますから、全面的に書きかえらるべきだと思います。

 その際、一番注意すべきは、簡潔に、平易に、そして明瞭な前文にすべきであると。今の憲法前文についての問題点、いろいろな委員の先生方が御指摘のとおりでございまして、ボリューム的に言いますと、私は、現行の前文のほぼ半分程度の前文でよろしいのではないかという感じがいたしております。

 その中で、現行憲法がうたっております平和主義あるいは主権在民、そして前文でうたわれていない基本的人権、この三大原則については新しい憲法の前文で明確にうたわれるべきである、これが私の第一点目の主張でございます。

 と同時に、二点目といたしましては、多くの我が自民党の委員の方が御指摘のように、長きにわたりましてこの我が国の国土空間で培われてきました伝統、歴史、文化を踏まえていかなる国家を目指すべきであるかということについての方向性というのも、前文でうたわれるならばうたうべきであるという気がいたしております。なかなか適当な短い文章での集約というのは容易でないとは存じますけれども、自然との共生、あるいは、他者を敬い、慈しみ、いたわり合う、こういう精神のもとで私たちの歴史、伝統、文化というのは継承されてきたはずでございます。

 そうしたものを墨守するのではなしに、しっかりと踏まえて、セミがあたかも成長する過程で多くの脱皮をいたしますが、漢籍では蝉脱という言葉でうたわれているようでございますが、まさしく私どものこの国家においても私たちは、過去のよき伝統、文化、歴史を継承しつつ、これを蝉脱して育成していく、そういうことで日本の独自性というのをより固め、そしてそれが国際社会に対して日本のレーゾンデートルとして発信していくゆえんでもある。こういう意味でのいわば共生の文化、あるいは、国家として世界に冠たる文化国家を目指す、なかなか適当な言葉が見つかりませんが、そういう方向性というのを横軸でぜひ強調すべきではないかというふうに思っているところでございます。

 三点目は、能動的、積極的な国際貢献であります。

 現在のグローバリゼーションの進展のもとで、我が国の生存は国際社会との平和、安全なくして存続し得ないということはもう一目瞭然でございます。とりわけ、相対的に恵まれた立場にあります我が国といたしまして、我が国の国民の安全保障のためにも国際社会に能動的に貢献し、先ほど申しました平和と安全と世界の繁栄のために我が国がポジティブに貢献していくということを、私は高らかに前文でうたうべきだと思います。

 四点目といたしましては、こうした前文の精神を実現していく主体は国民であります。国民の強い決意と責務というのをぜひ最後に前文でうたって、我が国の国家としての道しるべ、その最高規範たる憲法の前文としてまとめるべきではないか。

 以上、考えている次第でございます。ありがとうございました。

平井委員 自由民主党の平井卓也です。

 前文に関して発言をさせていただきます。

 前文はいわば憲法の顔であり、これを読めば憲法の方向性がわかる、伝わるものでなければならないと考えます。

 まず、現前文の問題といいますか、どこの国にも当てはまる内容であり、日本固有の伝統、文化、その他が伝わってこないと思います。民主主義の理念である国民主権、平和主義、代表制民主主義が記されていますが、一文一文が長過ぎることで意味が非常にわかりにくくなっていると思います。現憲法前文は、英語を翻訳された苦心の跡はうかがわれますが、日本語としてはあいまいな表現が多くて、最初から日本語で書けばこうはならないと思います。

 この憲法が押しつけであったかどうかということではなく、現憲法が、我が国が置かれていた特殊な状況で制定され、その特殊な状況を前提につくられたものであるということはやはり忘れてはならないというふうに思います。

 第二次世界大戦後の国際社会の平和と安全の維持を担う機関として、昭和二十年十月に国際連合が発足しました。この調査会でも何度か触れたことがありますように、これは、我が国が無条件降伏する前に連合国による戦後の国際的な枠組みに関する協議がなされ、その構想のもとに戦後設置されたものであります。当時は、米ソの対立はまだ表面化しておらず、理想主義的な期待が国連に込められて、憲法はそのような時代背景のもとに制定されたものであります。このような時代背景を反映しているのが憲法前文であると考えます。

 現行憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とあります。これは、日本以外はすべて平和を愛する諸国民であり、日本さえ悪事を働かなければ世界は平和であるというような世界観が根底にあるようにも思うわけであります。しかし、現実には、当時も現在も国際社会というのは国益と国益のぶつかり合う場であります。憲法制定時の国際社会の現実に照らしても事実認識とは違ったものと考えますが、この文言が当時の国連中心主義の考え方を反映していたものであると理解しても、果たして今の厳しい国際状況の中で、このような当時の事情を前提に制定された前文あるいは九条を基本にして安全保障にかかわる制度を構築していいかどうかということは問われてしかるべきであります。

 我が国を取り巻く国際環境が急激に変化し、大量破壊兵器の拡散、テロの脅威、北朝鮮による拉致、核開発の問題等々、我が国の安全にとっても差し迫った脅威が顕在化してきました。国のかじ取りをしていくためには、憲法といえども、私たちが常識的に疑問に思う部分があれば、それを改めていく必要があると考えます。

 また、私自身が新たに前文に入れなければならないと考えていることは、国民主権、基本的人権、そして平和主義の三原則にプラスして、まず、アジアに生きる私たちが営んできた日本の伝統的な共同体の考え方、これは多くの先生方もおっしゃっておりますが、これは日本のよさであり、日本固有の文化と伝統であり、それを尊重して継承するということをうたうべきだと思います。また、善隣と友好、理解と尊敬を理念とする積極的な外交の姿勢を明記すべきだと考えます。

 また、これも多くの方々がおっしゃっていますが、国民一人一人に主権があるということを国民が感じられるようにしなければならないこと、それと、やはり他者に対する配慮、共生の精神といいますか、それは権利と義務がセットになって社会規範をつくっていくことで実現できると私は考えます。

 以上です。

鈴木(克)委員 民主党の鈴木克昌でございます。

 前文ということでありまして、一言発言をさせていただきたいと思います。

 当然のことながら、私は、前文は必要であり、あるべきであるという考え方に立っております。そして、それを前提として、先ほど来いろいろ御議論はあるわけでありますが、まず一つは、私は、やはりわかりやすい表現にする必要がある。そして、松宮委員もおっしゃったわけでありますが、やはり短い文章であるべきだ。理想を言えば、俗に言う、国民がさらっと暗記をできるようなそういうようなものであってもいいのではないのかなというふうに思います。

 私も幾つかの団体に属しておりますが、その会の精神を綱領とかそういういろいろなものでうたうわけでありますが、そうすると、やはりその一つの会の貫く精神というのがお互いに確認できるということであります。もちろん、憲法とそれを一緒にするというのは問題があるかもしれませんけれども、やはり私は、簡明で、しかもできるだけ短い文章にすべきではないかなというふうに思っています。

 基調となっておる平和主義は、これはもう当然のことながら不変であるべきだ、このように思っています。

 では、どういうところを補足すべきかということでありますけれども、やはり日本古来の精神、文化といいますか、そして国を愛する気持ち、愛国心と言うとまた非常に誤解がありますけれども、私は、国を愛するというのは国民として最も自然な形だというふうに思いまして、やはりそういう見地からのものが不足をしておるのではないのかなというふうに思っております。

 もう一つあえてつけ加えるならば、やはり、人権尊重というこの精神をどうしてもきちっと位置づけるべきだというふうに思っています。昨今の悲惨な出来事、事件をあえて言うわけではありません、それが憲法と関係をするということでももちろんないことは承知でありますが、やはり、そういった昨今の乱れを見ておる中で、人権というものをもう一度国全体として、国民として考えていく必要があるのではないかなというふうに思っています。

 二つ目は、やはり環境ということであります。日本の世界に対する、地球に対する責任というのはやはり環境にあるというふうに思っております。

 したがって、人権の問題、そして環境の問題、そういうものをきちっと明記すべきではないかなというふうに思っています。

 先ほど、わかりやすい文章ということを申し上げたんですが、例えば、「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」というような記載、それから、「主権が国民に存する」「その権威は国民に由来し、」というような文章というのはやはり非常にわかりにくいし、もう少し平易な形にした方がいいのではないかなと私は思います。

 最後に、やはり、歴史、伝統、文化という日本のよき面といいますか、そういうものも強調をすべきではないかな、このように思っておるところであります。

 以上であります。

    〔会長退席、船田会長代理着席〕

河野(太)委員 自由民主党の河野太郎でございます。

 現在の憲法の前文は翻訳調で日本語として読みにくい、そうおっしゃる方もいらっしゃいますし、そう聞くとそうかなとも思いますが、宮澤元総理のように、最初はそう思っていたが、もうなれてしまったと言われると、そうかなという気もいたします。今の憲法の前文をもう少し簡単にわかりやすく書き直すことができるというならば、今の前文をもう少しわかりやすく簡単に書き直してもよろしいのかと思います。

 そのときに、国民主権あるいは平和の追求、そして基本的人権の尊重、こうした普遍的な価値観は当然にその前文の文章の中に盛り込まなければならないと思いますが、そうではない、普遍的な価値観でないものをこの前文の中に盛り込むことは厳に慎まなければならないと思います。例えば、歴史や伝統や文化といったものは個人によって当然にとりようが違います。あるいは、道徳のようなある価値観を押しつけるようなものを入れる、こういうことは憲法の前文としてはふさわしくないと思います。

 普遍的な価値観をしっかりと明記した、わかりやすい美しい文章が憲法の前文としてふさわしいものであって、普遍的な価値観でないものを無理やり押し込んで、それを押しつけるがごとくのような前文は厳に排除したいと思います。

 以上です。

中川(正)委員 民主党の中川正春です。

 表現の仕方についてはさっきの河野さんのお話のとおりだと思うんですが、それこそ、工夫の余地も含めてあるんだというふうに思います。

 もう一つ、歴史的な背景の中で、前文だけじゃなくて憲法そのものを考えていったときに、私は二つの意味合いを持って考えていくべきだと思っています。

 一つは、普遍的な価値観、主権在民あるいは平和主義、あるいはまた、前文にはそう強調されていませんが、人権ということについて、この憲法で日本国民はこれを普遍的な人類の原理であるということを受け入れたというか、それを普遍的な価値観として日本国民としてもしっかりと実現をしていこう、そういう価値観として定義をしたということが一つあるんだろうというふうに思うんです。

 その後の歴史のプロセスの中でそれを実現していくというのは、日本人の気持ちの中には、いわゆるキャッチアップというか、戦前の日本の歴史の反省ということもあって、日本はおくれているんだ、だから、このユニバーサルな普遍的な価値に向かって日本の国をつくっていくんだという、キャッチアップ的な、追いつけ追い越せという、そういう形の中で国づくりをしてきたんじゃないかというふうに思います。

 それが、今回、この日本国憲法をもう一度原点に戻って見直していくというプロセスの中で、特に私たち戦後世代が、新しく心に秘めたというか、これではだめだというところから出発するのは、やはりキャッチアップだけということじゃなくて、私たち自身が世界に向かって発信をしていく、あるいはつくり上げていく価値観を、もう一回歴史を見直す中で何かこの憲法の中に表現をしていきたい、そういう基本的なものを日本の国民として持っていきたい、そんなものが出てきているんじゃないか。それが何なのかということをしっかりと議論していくということが、私たちのこの調査会あるいは国民全体としてのこれからの生きざまにしっかりかかわってくるんだと思うんです。

 一言で言えば、発展途上国型からしっかりとした成熟型の社会になって、それで、その成熟した我々の生きざまというのをこの憲法の中に表現していくということ、このプロセスが今私たちにあるんだろうというふうに思います。

 そんな中で、さまざまにこれから議論をしていきたいというふうに思うんですが、さっきから出ていたように、では、日本の価値観というか、私たちの中にあるほうふつとしたものというのは何なのかというのを漠然と今例えば指摘をするとすれば、自然との調和、これを重んじていく、あるいは生命の尊重、慈愛というようなもの、あるいは多神教的な包容性というのを全体の中に持っていく、あるいは勤労というものを善とする価値観であるとか、あるいは社会や家族による共生、その温かさ、そんなもので包み込んでいく社会のあり方とかいうようなことを、法的にあるいは法的規範として憲法の中で表現していくのがいいのか、それとも、それは憲法という形を使わずに、もっと違った社会的規範の中で私たちが価値観を高めていかなければならないのか。

 この議論は一つあるんだと思うんですが、そんな中でも、やはり成熟した私たちの日本人としての気持ちというのをどこかで表現していきたいということ、これを憲法の中にも、ぜひこの前文の中に入れていきたいということでございます。

 以上です。

辻委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。

 河野委員がおっしゃったように、普遍的な原理を前文でうたうべきであるというふうに私も思います。そういう意味において、今の日本国憲法の前文は、まさに人類の知恵の集積である普遍的原理をうたっているものであるということにおいて、変更する必要は全くないというふうに私は考えます。

 確かに、日本の歴史、伝統、文化ということが重要であり、私も日々、自分がやはり日本人だなということを感じることがあるし、この国を何とかしたいという思いが非常に強くあります。そのときに、では、日本の歴史、伝統、文化のいいものが今存在するのか、どういうふうに今後つくっていくのか、このことが問われるべきであって、かけ声だけ日本の歴史、伝統、文化というふうに言ったってそれは意味がない。復古調のものしか出てこないわけです。戦前の日本の歴史、伝統、文化はよい面もあったけれども、では、現在的にどうするのか。親を敬ったり、人に本当に思いやりをやる、そういうような文化が今の各世代に息づいていない、まさにそこの方がより問題なわけであります。

 ですから、現在的にどう日本の歴史、伝統、文化を見直していいものをつくっていくのかこそが問われているわけであって、憲法の前文にうたえば何かが変わる、そういう問題では全くないと私は思います。

 例えば、今、産業再生機構やRCCということで日本の企業の再生が問題になっております。では、日本の歴史、伝統、文化というふうにおっしゃるのならば、今のRCCなり産業再生機構が、株主資本主義、原理原則で今の企業を非常にグローバルスタンダード、営利主義で解体的にしている。今の日本の企業を本当に日本の歴史、伝統、文化に基づいて再生していくということが問われているわけであります。

 従業員や債権者や、そして、そこまで育ててきた創業者の立場なりを考えるということが日本の歴史、伝統、文化に根差した企業再生文化であろう、それをどうつくっていくのかということが問題であるときに、一方的にそれを解体するということにもろ手を挙げている自民党・竹中路線ということについてどうして批判しないんですか。日本の歴史、伝統、文化と言うのであれば、まさに企業再生文化において日本の歴史、伝統、文化を生み直すべきなのではないでしょうか。私はそう思います。

 そういう意味において、かけ声ではなくて、日本の歴史、伝統、文化、本当に従来のいいものを今つくり直すこと、そこに全力を傾注すべきであって、そこが忘れられて、単に空理空論で前文にうたえばいいということで事足れりとするのはやはり間違った考え方であろう、このように思っております。

 以上です。

枝野委員 いろいろここで議論を聞いておりますと、私の頭の中も整理をされてきたりとかする話もありまして、国民の義務とか責務という話が出てきて、私は、憲法の趣旨からすると、公権力行使の限界を定めたというか、国民が公権力に対して権力を与えている授権機関であるという観点から、違和感を持っておりました。

 ただ、いろいろ聞いておりますと、恐らく国民の義務とか責務とかということについては、要するに、我々国民はこれこれという責任を自覚しとか、我々国民はこれこれという責務を自覚しとかというような規定を憲法に盛り込むということであるならば、憲法の持っている法的性格や意味と、それから、義務とか責任とかということが必要ではないかという主張とが両立をするのではないだろうか。単純にこれこれの義務を課すということだとすると、では、だれがだれに課すんだということになり、憲法の意味からすると、国民自身が国民自身に課すという話になってしまいます。

 そこは、単に義務とか責務という言い方ではなくて、義務を自覚しとか、責任があることを我々は確認しとか、主語はあくまで国民自身であるということの意識を明確に持てるならば、場合によっては、ある特定の責務について憲法典に規定をする、前文に規定をするということはあり得るのかなというふうにお話を伺って思いました。

 それからもう一点、これは特に自民党の皆さんに耳の痛いお話かもしれませんけれども、どうもいろいろな話が出て、家庭崩壊とか地域崩壊とか、モラルが下がっているとか教育が崩壊をしているとかという話が、特に自民党の皆さんから出てくることに対して私は物すごく違和感を感じております。

 それは、私たち、私自身も十二年間国会議員をやっておりますし、そのうち三年半は与党でしたから、私自身も責任の一端がありますが、現行の憲法は、別に、家庭を崩壊させろとか地域を崩壊させろとか、モラルなんかなくてもいいだなんということを命じてはおりません。家庭的価値を維持すること、地域、社会をよりよくすること、教育をよりよくすることは立法、行政の範囲の中で自由にできる。

 しかも、この憲法下における六十年間のうちかなりの長い部分は、自由民主党の皆さんが国会の過半数を占め、内閣を占めてきているわけでありまして、現憲法下における六十年を全面的に否定できる国会議員や政党があるとしたら、それは日本共産党だけではないのか。少なくともある段階までは、やってきたことはよかったんだ、まず肯定的にこの憲法下における六十年間を評価するところから始まらないというのは、余りにも自信喪失過ぎるのではないだろうかと思います。

 これまでやってきたことは、家庭、地域、モラル、教育をよくするために最大限の努力をしてきたけれども、時代がこういうふうに変わった、社会状況、国際状況がこういうふうに変わったからこういうふうに変えなきゃいけないんじゃないかとか、そういう議論であるならばあり得ると思うんですけれども、あるいは、私自身はこの十二年間、自民党にかわる政治構造をつくらなきゃならないという意味では、ある程度は現状を否定する、今はよくないということを言える立場かもしれません。

 それでも私も、実は、戦後の少なくとも昭和四十年代ぐらいまでの自民党政府のやってきたことを、日本社会のあり方というのを肯定的にとらえた上で、時代状況の変化があるから変えなければならないということを申し上げているので、自民党自身の皆さんが余りにも自分たちがやってきたことを自己否定し過ぎるというのは、非常に違和感を感じるところでありまして、ぜひともそこのところは、過去を否定するのであれば、むしろもっと自己反省の言葉が伴わなければいけない。何か他人事のようにおっしゃると、やはり違和感があるなというふうに思いますので、そのあたりは、きちっとした整理、自民党御自身が戦後やってきた政治に対する自信というものをもうちょっとお示しになった方がいいのではないかと私は思っております。

 伝統、文化の話については、先ほど来何人かおっしゃっておりましたが、大事だと思いますけれども、何をもって歴史、伝統と言うのかということ自体が一様ではないというのはもう紛れもない事実でありまして、余り強調し過ぎる、あるいは書き方を相当工夫しないと、かえって議論を混乱させるのではないかと思います。

 最後に、公明党さんが憲法については加憲という主張をされておりますが、全体についてどう考えるかは別として、前文についても同じような思想をちょっと模索してみることはあるのではないか。

 つまり、歴史的な文書として、昭和二十一年の時点での今の前文は、これは一定の意味があったし、一定の宣言として残しておく価値はあるのではないか。もし改正をするのであるならば、改正文の一番冒頭に改正に当たっての前文というのをつけるということが、例はないかもしれませんけれども、決して否定されるものではないんじゃないか。六十年たって今の時点で我々はこう考える、だからこういう改正をするんだという前文を新たに加えるということは検討の余地があるのではないかと申し上げたいと思います。

 以上です。

三原委員 自民党の三原です。

 憲法にはいつも三つの基本的な原則がありますけれども、国民主権とか基本的人権のもとで我々は、日本というものをこの憲法のもとで戦後六十年、よりよいものにつくってきたと思います。ナポレオンがフランスを統治して、ネーションステーツという意識が起こって、国民国家というものがより厳然とつくり始められて、その中で来たわけですけれども、では、我々が、日本人として生まれてきた人が本当に日本国民であることを喜び得る制度をつくるための規範、基礎になるのが、やはり最高規範である憲法である、こう規定できるんじゃないかと思います。

 国内的なことに関しては、実は我々は、この政党政治の中でAがいいBがいいというようなことをかんかんがくがくの議論をして決めていくわけでありまして、そして、その中で国民の幸福を謳歌する社会を構築してきた。

 しかしながら、一方を見ておりますと、対外的な面に関しては、何といっても我々の権限が及ぶところではありませんから、この点に関して、実は我々は、ただ平和主義という形でこの憲法の基本原則の一つを大きく唱えておりますけれども、明らかに、一国平和主義では何もなし得ないことは、これはもう当然のことでもあります。ここが我々の呻吟する、苦悩する場面でもありまして、国内規範で決められない対外的なこと、このことに対して、では憲法で我々は何を唱えていくのか。

 諸国民の正義に信頼する、こういうことだけでは明らかに、何も軍事的なことだけではありません。例えば、今一番問題になっておる環境の問題でも、環境が我々にもたらす安寧な日々の生活への脅威というもの、このことに関しても、各国がみずからの利害得失に走るという場面も、私が申し上げるまでもなく、皆さん方が御承知のところでもあります。

 でありますから、私は、こういう面に関しても、ただただこの憲法の前文で理想的なことを唱えるだけではなくて、もっと一歩踏み込んだような、世界に向けて我々が何ができるかというような形のものをも込めて一文を入れるような、そういうことが、この二十一世紀の社会、そしてまた、少なくとも、私が信ずる成熟した日本でありますし、今では、アジアの国々からは、範と言われる、ルックイーストと言われるほどの形になってきた日本でもありますから、その面を考えれば、もっと自信を持ってこの憲法の、私自身は改正すべきと思っておりますけれども、その中にその心意気、志みたいなものを、国際社会での役割みたいなことに関しても一文を入れることが今日の我々にはできるんじゃないか、そんな気持ちが私はいたしております。

    〔船田会長代理退席、会長着席〕

保岡委員 私は、今まで皆様から、前文に入れるべきいろいろな理念あるいは国家像の重要な点等の御披瀝がありまして、重なることは避けて、余り触れられなかった点に限って、ちょっと技術的な点にもなるかと思いますが、述べさせていただきます。

 それは、日本が歴史上、憲法という一番大事な根本規範を定めた実際の経験がない、日本国民が初めて憲法という最高法規を制定するのが今度の改正である、私はそう認識しておりますので、初めての、国民が決める憲法、国民が投票によって決める憲法の意義を前文に、我ら日本国民はこの憲法を制定するというその文言がこの前文にはぜひ必要だと強く感じております。

 それからもう一つは、中曽根先生の平和研の前文の中で強く思わされたことは、やはりこの日本のイメージというものを、アジアの東にある、太平洋の波洗う美しい島々というこの国の形、本当の姿も含めて我が国のすばらしさ、美しさをうたう、そういう美しい文章という点の配慮も必要かと思います。

 それからもう一つは、天皇について前文に触れてある、前文のいろいろな起案の例があります。私は、これは極めて重要なことだと思います。我が国の根幹的な国の形だと思います。天皇が本当に権威として日本の国の平和と繁栄を願い、そして国民の幸せを願い、そういう存在であるということで国民のほぼ一様がこの天皇の権威というものを認めている。しかも、長い日本の歴史の中で国の安定にこれほど大きな役割を果たしてきた存在もない。しかも、世界に類例のない、比類のない存在であるということなども深く考える必要があるのではないだろうかと。したがって、天皇を国民統合の象徴としていただく民主的な国家であるという国の形なども、前文のような重要なところに国の形としてあらわすべきではないかと私は思います。

 私は、イラクが、まあ戦争を始めた是非は別としまして、ああいう混乱の中から新しい民主国家をつくるプロセスでああいうふうにテロが起こる、憎悪と憎しみの連鎖があるということに比べて、我が国は、戦争を終結するときに、確かに我々も、自爆を相当やろう、最後の一兵まで竹やりでという、あるいは一億総玉砕という決意までして臨んだ戦いではありますが、天皇の玉音放送によって、そして見事に戦後の復興についたというこの権威は、今日の日本の発展の重要な基礎であり、歴史的にも評価されるべきことだ、そういうふうに思っております。

 このようなことを考えたときに、私は、若い人たちに、北朝鮮に生まれるのを、あるいはイラクに生まれたのと日本に生まれたのとは、同じ人間として生まれても随分違うでしょうと。それは、長い歴史と伝統の中で本当によきものを積み上げて努力してきた長い民族の歴史の中に今日の日本があるという、その歴史における我が民族の知恵、工夫、努力というものを高く評価して、それを、もちろん反省すべき点は反省して、将来につなぐ。

 国といえば国家主義をすぐ思ったりしますが、そうではなくて、私と公の役割の問題だと私は思います。人間は、社会性というものを持つ存在であることはその本質でありますから、私は、個の確立ということはきちっとしなきゃいかぬ、個の人格の発露ということはきちっと実現していくというのがこの憲法の最高価値と存じますが、同時に、それを支える家族とかコミュニティーとか、そういう公の部分の仕組みについての言及をした上、憲法がその理念をしっかり踏まえた最高法規としての姿を持つということはとても重要なことだと存じております。

中谷委員 憲法の前文というのは国の骨格を列挙したものでありまして、それを読んでみますと、議会制民主主義、自由主義、戦争放棄を柱とすること、国民主権で、国会、内閣の仕組みで国民の代表者がその権利を行使して、そのメリットは国民が受けるものとしている。この権利としては享受できていると思いますけれども、主権者としての義務の行使、義務を果たすことについては、現在の財政また社会保障の現状などを見てみますと、ここをきちんと強調していないと、それこそ、主権者としての責任者不在の現状の国というものが改善できないと思います。

 また、日本の国の行き方を、人類理想の、人類普遍の原理を規範として行動するという平和主義をうたっておりますけれども、この部分も、国連主義、理想主義に国をゆだねているということで、現実とかなり乖離している部分がある。

 つまり、憲法の中で、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等に立とうとする各国の責務であると信じておる部分においても、戦後六十年、冷戦があり、テロがあり、利害対立の中でそれにすべてゆだねても本当に大丈夫であるのかと。やはり、日本人自身がしっかりした大切なものを持たなければならないという気がするわけであります。

 ここで、道徳という言葉を深く考えてみますと、徳というのには大変幅広い意味がありまして、優しさとか思いやりとか慈しみとか、情け、包容、寛大という意味もありますし、清潔とか正直とか、正義、礼儀、忍耐、物事、そして、日本のよく言われている義理とか人情とか浪花節、こういったものも徳の部分でありますけれども、余りにも国際主義とか理想主義を道徳だとうたう余り、本来日本人が持っていた土壌の部分、根っこがあって芽が生えるんですけれども、豊かな土壌がないと大きな木や植物は生えません。やはり、こういった土壌の部分で日本の徳ということを書かないと、その本質がわかっていないので、成長できる国家にはなり得ないんじゃないかというふうに思っております。

 そういう点で、今この国に何が必要かという点を考えますと、自由、民主、人権、これは尊重すべきでありますが、まさに必要なのは、長期的、国際的視点に立って日本の改革を強い責任感と実行力で断行すること。そして、志の高い人材を育成すること。そして、知恵と技術で国際競争力を強化して、世界に展開させる能力のある人材、企業、これを育成すること。そして、少子高齢化社会に対応できる社会保障制度を確立する。都市と地方、いわゆる勝ち組、負け組とありますけれども、あらゆる職域のバランスをとって、国民が豊かな生活を実現すること。そして、自国の安全、世界の平和に責任を持って世界の課題解決に貢献すること。そして、人類の食糧、エネルギー、環境、これに貢献することなどが考えられるわけであります。

 やはり、こういった問題点を解決するために日本はどういう基本の骨格を持つべきかということと、それを実現するための日本の土壌、先ほど言いました日本古来の徳の部分、日本の独自の徳の部分によって日本人が伸びていくわけでありますので、そういった精神を考えた前文を考慮すべきだというふうに考えております。

大出委員 民主党・無所属クラブの大出彰でございます。

 総務委員会とかけ持ちだったものですから、ばたばたして申しわけございません。それと同時に、総務委員会で、理事会の合意を無視して趣旨説明を強行するということがあったものですから今不正常な状態になっておりますが、今後、定率減税等、地方においても大増税の問題を審議しなきゃならないときなのに、非常に不快に思いながら今ここへ上がってきたところでございます。

 と言いながら、前文でございますが。

 私は、この前文というのは、字句を変えたりとかいうこと自体は大した問題じゃないと思うんですが、要はやはり、ここに書いてあることが憲法制定者の決意でございましたり、あるいは理想や目的でございますので、その部分を変えない、つまりは、当時の世界的な意味での憲法の到達した時点の到達点というものが思想としてあらわれている、憲法的世界観というものがございますので、そのものを超えるようないいものをつくるというならば話がわかるんですが、どうも必ずしもそうは読めないところの案等も出ておりまして、そこを非常に危惧しているところなんです。

 この憲法というのは、さまざまなものが内容的に読み込める、字句が訳語調であるとかいうこと等はあるかもしれませんが、法律的な文章で物を書くときというのは、どうしても、要件、必要なものを書き加えてくると頭でっかちになったりするものでございますから、そういうことよりも、やはり中身を承継できるかどうかということの方が重要ではないかと思っております。

 そんな中で前文を見たときに、当然、国民が主権者であるということが最初に書いてありまして、それも、「正当に選挙された国会における代表者」という書き方がありまして、これは当然なことながら、議会制民主主義、国民の代表が議会において国民の意を体して審議するということでございます。そして、そのときに、「自由のもたらす恵沢」ということで、自由を守るということも書いてありますし、さらには、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」「決意し」という、平和主義の意思があらわれているわけでございます。

 そして、先ほども土井議員の方からもお話がありましたように、人類普遍の原理と言っている国民主権というものが、憲法上も排除する、つまりは憲法改正の限界ということが書いてあるわけでございまして、ということはどういうことかというと、この前からお話し申しておりますように、国民の権能、あるいはそうでないところの権能というのをあえて高めるようなことになると、逆にこの国民主権という原理に憲法上反することになり、憲法の限界を超えてしまうのではないかということがここから読み取れるのではないかと思います。

 そして、この前文の一項は、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、」というこの信託というところに、いわゆるルソーたちの社会契約論、こういったものが読み取れる記述になっているという、諸外国、特に欧米で築き上げられてきた一つの考え方がここにあらわれていると思っております。

 そして、平和と国民主権と自由ということを日本国民だけではなくて世界に発信しているようなところがございまして、さらには、最初にもありますが、「諸国民との協和による成果」とか、あるいは最後の方に、自国のことのみに専念して他国を無視してはいけないんだということが書いてありますし、「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」ということ、つまりは、世界に向かって国際協調、そしてその中で多くの諸国民が生きていくんだということでございまして、こういう理想が書かれた上で、その上に立って新たに考え方を入れていくと言うならば、例えば地球環境的生存権とか、そういったものがあるならば別なんですが、そうではないところがございますので、この前文自体の趣旨は非常に大事なのではないかと思っているところです。

 そして、安全保障のことが書いていないという話もございますけれども、実は、平和のうちに生存する権利というのは、今、人間の安全保障という形で当然我が国もそれを前面に出しているわけでございますけれども、そのことの中で、安全保障という中でもトータルなディフェンスといいますか、そういった意味では、食べ物から始まって、エネルギーに始まって人間の安全保障にまで至る、そういうものが今後とも組み込まれていくことが必要であると思います。そうでないんだとすると、かなり問題が起こるのではないかと実は思っております。

土井委員 社民党の土井たか子でございます。

 本当は、お昼から今までのを全部総括して述べる時間が約束されているわけですから、そちらの方に向いているのかなと思いながら、しかし、先ほど来の御意見を拝聴しておりまして、やはり今ここで言った方がいいのじゃないかという気持ちに駆られて、このプレートを立てました。

 実は、この憲法調査会でずっと論議をしてくる間に、だんだん、今の憲法を変えなければならないとおっしゃっている方々の御認識と私との間では、憲法とは何ぞやという基本的な法理の点で考えが違うのかもしれないと私は思っています。きっと違うんだろうと思っています。憲法と法律は違うんですよね。もうこれは言わずもがな。

 憲法というのは、特に近代憲法というのは、間違いのないようにしっかりと個々の国民の人権というのを尊重していくことのために、為政者、特に権力の側にいる為政者は、この中身についてしっかり守っていかなければならない義務がある。それは、個人個人の尊厳性ということを基調に置いて一人一人の人権について保障していくという義務があるというのは、これはもう言うまでもない話でして、この憲法に対して、憲法の存在意義とでもいうような、憲法自身の持っている原理ということがどうも認識の上で違いがあるのかなと思っている問題点なんです。

 実は、私は、自民党の方々が、すべてと言いませんが、お考えになっていて、憲法二十四条の論点整理の中では、考え方を変えようと。家族における両性平等の規定について、家族の崩壊と言われている今、あちこちに起こっている現象や児童虐待とか、あるいは、過去には余り重視されなかったような個々人の行動が最優先で考えられるという風潮は、社会的に見たときにはどうも嘆かわしい現象だと言わんばかりに、社会の基礎として家族の存在というのを考えていくべきだという、家族の位置づけをやはり考え直そうということから始まって、家族や共同体の価値を重視する観点で見直すべきだと、二十四条を。びっくりしました、私、実は。

 これはやはり、個人という問題、個人の尊厳という問題と男女の平等という問題に対して見直そうということにひいてはなるわけでして、私は、かつて国籍法の一部改正というのに対して大変苦労した経験がありますから、そのときに、いかに父系血統主義ということに対して、日本の個々の家族構成とか家族生活に対して、戸主中心のかつての家制度に対する郷愁が非常に強いということを思い知らされましたよ。

 だから、今度、二十四条に対しても、男女の平等を見直すとか個人の尊厳を見直すということになると、個人の人権よりも公共の利益ということが先だとか、個人の人権というのはしょせんはやはり国家の決めることであって、国のためにその個々人の生活というのは規制されるとかいうふうな問題がまたぞろこれは問題になるぞという、私、何とも、杞憂だったらいいですよ、被害妄想だと言われるんだったらいいですよ。でも、そういうふうな方向を目指していくに違いないというのが危惧されて仕方がないんですね、私は。

 例えば、こういう問題なんかについて、家族扶助の名目で、恐らくは女性の肩にしっかり、国政の上で保障しなければならない家庭内のいろいろな労働や介護というのがずっしりのしかかってくるだろうと思います。

 そして、今もっとこういう問題にも、どのように働く立場を保障するかを考えなきゃならない単身赴任や長時間労働というのがある。これは、家族的な責任を果たせといったって果たせない状況をそのままにしておいて、その責任だけを強制したり義務を課したりするような方向で行くと、やはりそれ自身に対して、個々人の尊厳性、個々人の人権というのが基調になって憲法の普遍の原理に立つところの保障というのがあるんだという意味が、どんどんこれはひっくり返っちゃいますよね。

 だからやはり、基本的に憲法の法理というのはどういうことかというと、主権者である国民が権力を行使する側の人たちに対して授権する、その権力者は何をすべきであるか、何をすべきでないかといういろいろな諸原則を決めているものが憲法だと。したがって、主権者国民が権力を行使する立場の人に対して示す価値であり規範内容がここに憲法として示されている、決められているというふうに私自身は考えているものですから、だからその点は、どうも私は、価値観の相違ということが話をしていてもあるのじゃないかと。

 だから、国家主義とかそれからナショナリズムなんというふうな問題については私たちはそうは考えておりませんと言われるこの御発言というものが、義務を国民にと言いながら、出てきているわけですけれども、権利ばかりが言われているよりも義務を大事にする憲法であってほしいなんて言われることと、国家主義に向かっているのではないかということは危惧にしかすぎないと言われていることとは大いに矛盾しているということを私はまず申し上げて、これは、またお昼からの問題に持ち込みたいと思います。

早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。

 幾つか、触れられていない点だけ指摘をしたいと思います。日本国憲法の前文がいかにわかりにくいかということの一つの例であります。

 これは、第一段落で「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」という文言があります。これが、議会制民主主義の文言と考えるのか、あるいは単にこの文言が、「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」「この憲法を確定する。」という文言なのか。すなわち、第一段落のところは、これは制定経過を主としてあらわしたものである。私は、この上諭との関係からいえばそのように考えております。

 結果的に、議会制民主主義の原理を示しているところは第二段落の「そもそも国政は、」というところで、「国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」この部分が議会制民主主義を示した文章であると理解するのが正しいのではないかと思います。

 その第三段落でありますけれども、これは土井委員から御指摘がありました。「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」と書いてあります。もしこれが憲法の限界を指摘するものである場合に、現憲法のすべての規定が改正を排除するものだということになると、これは矛盾をしてしまいます。結果的には、あくまでも国民主権あるいは議会制民主主義の原理に反する憲法等を排除する、こういうふうに読むのが正しいのではないかと私は思っております。

 そのことは、憲法の九十八条に、「憲法の最高性と条約及び国際法規の遵守」の中で、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」という規定があります。そういう意味で、憲法の最高法規性は第九十八条に示されている、前文に書いてあるのは、あくまでも国民主権あるいは議会制民主主義に反するそういった内容の新たな憲法の制定は許さないという宣言であった、こういうふうに考えるのが正しいと思っております。

 そういう規定からすると、やはり現在の前文がいかにも誤解を招きやすい表現であるから、これを直す必要があると考えております。

 以上であります。

中谷委員 先ほど土井先生の御発言を聞きまして、感じるところをお話しさせていただきます。

 家庭とか家族の意義につきまして、私は、人類共通、また、この社会や国家の最小の単位は家族と家庭だと思っております。子育てにしても親の面倒にしても、子供の教育にしても自分自身の仕事にしても、やはり健全な家庭に健全な人が育っていく、やはりこれが最小の単位ですが、最近、離婚率がもう二〇%、三〇%と言われておりますし、結婚をしない人もふえてきたと。

 やはりこれは、日本にとっても、本来国や行政がそういうサービスをすればいいんですけれども、もう財政にも限りがあります。そういったできない部分は家庭が教育をしたり介護をしたり、それは当然限りがあるわけですから、家庭でできることは家庭でやっていくということが世の中の基本でもあったし、また、国の基本としてこれは当然存続をしていかなければならないと思います。

 そして、社会現象として少子化という現象が起こっております。昔は子供が三人、四人いて、にぎやかな家庭で親の面倒を見たりしていました。しかし、もう本当に一人ぐらいしかいない。非常に子供を育てる環境もおかしくなってきておりますし、人間自身の考え方もそれによっておかしくなってきてしまう。

 そういう意味では、やはり今の時期だからこそ、家庭とか家族を大切にする仕組みを、そういう精神もうたう必要があるんじゃないかと考えております。

枝野委員 今の中谷先生のお話は一般論として大変もっともらしく聞こえるんですけれども、家族を大事にしようということ自体は私も否定するものではありませんけれども、例えば家族を持ちたくても持てない人が世の中にたくさんいるんですよね。

 例えば、今少子化の話をされましたが、子供を産みたくても、いろいろな肉体的な事情で子供を産めなくて苦しんでいる人たちが世の中にたくさんいるんですよ。こういう人たちが将来独居老人になる可能性がたくさんあるんです。家族を持ちたいのに持てないという可能性がたくさんあるわけです。あるいは、こういう世の中ですから、例えば家族が、一人だけ残して、例えば最近でも、殺人事件などの被害でそうなっている方とかいらっしゃいますけれども、家族を持ちたくても、事故などで家族がみんな死んでしまったなんという人たちは世の中にたくさんいるんですよ。

 この人たちのことを考えたときに、よほど気をつけて家族を大事にしようという価値については規定をしないと、この人たちを排除するというか、この人たちにますますつらい思いをさせる。子供を産みたいけれども産めない夫婦、あるいは、家族をみんな事故などで失ってしまった独居でいる人たち、こういう人たちへの配慮というものを十分に考えた上で、どうやって家族的価値というものを社会の中で大事にしていくかということを気をつけてやっていかなきゃならない。そこには相当慎重な配慮が必要であるということを申し上げておきたいというふうに思います。

中山会長 他に御発言はございませんか。

 それでは、発言も尽きたようでございますので、これにて前文・その他についての自由討議を終了いたします。

 午後二時から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十一時四十分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時四分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を続行いたします。

 本日の午後は、全体を通しての締めくくりとしての自由討議を行います。

 議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、保岡興治君。

保岡委員 発足以来五年を経た衆議院憲法調査会も、いよいよ議長への報告づくりが最終段階を迎えました。私は、法務大臣であった一時期を除き、この間、本調査会の幹事を務めさせていただきました。

 今、全体を通しての締めくくりの発言を行うに当たり、まずもって、この五年間一貫して会長の重責を担われ、終始円満公正なる運営に努めてこられた中山会長に、心から敬意を表したいと存じます。また、歴代の会長代理、幹事や委員各位に対しましても、その御苦労に深甚なる謝意を表したいと思います。

 新しい国のあり方を論じ、それを憲法に反映させることは、実は政治にしかできないことであります。私は、この歴史の大転換期に当たり、国の最高法規である憲法を見直すのは時代の政治家の歴史的使命であると確信するものでありますが、衆議院を構成する各会派が、意見の違いはあるものの、本調査会において五年間、二十一世紀の日本のあるべき姿を考えながら国の基本について論議を続けてきたことは、非常に大きい価値を持つものと考えております。その意味で、護憲の立場から議論に参加いただきました委員を含め、すべての委員の方々の御努力に、重ねて、心から敬意を表したいと思います。

 我が党は、立党の志を踏まえ、この秋の結党五十周年記念に当たり、憲法改正草案を発表することにいたしております。現在、小泉総裁を本部長、森元総理を起草委員長とする新憲法制定推進本部において、その草案作成に全力で取り組んでいるところであります。

 本日は、本調査会や党内のこれまでの論議を念頭に置いて、私なりに新しい時代の日本のあり方と憲法の基本について述べてみたいと存じます。

 まず第一に、新しい憲法において、歴史のすばらしい贈り物として与えられた国民主権、基本的人権の尊重及び平和主義を普遍的原理として大切にすることです。これを維持発展させ、さらに、我が国が民族として、人の和を大切にし、美しい国土と自然の調和の中に豊かな精神文化を築いてきた長い歴史や伝統、すなわち国柄を大切にして、日本の香りのある憲法にすることは、国民の願いであると確信する次第であります。この新しい国の基本を次の世代に受け継ぐとともに、日本が、全世界の人々の命を慈しみ、幸せを願う、積極的な平和への貢献を果たす平和愛好国であり、かつ、世界や日本の伝統、文化を大切にする国であることを宣言すべきであると思います。

 第二に、現憲法は、個の確立のため、個人の尊厳や人格の自由な発展を大切にし、国家権力がこれを侵さないという近代憲法の原理を強く持つものであります。しかし、既に本調査会で述べてきたとおり、このような普遍的な原理を一層発展させるためにも、人間の本質である社会性が、自立し、共生する個人の幸せを支える大切な器であることを明確にするとともに、かかる観点から、公共の価値を再定義し、個の確立を大切にすることを前提に、国家と地域社会、家庭、個人の関係の正しいあり方を求めるべきであると思います。

 すなわち、新しい憲法は、国家と国民を対峙させた単なる権力制限規範というにとどまらず、国民の幸せ、ひいては国益を守り、増進させるために、公私の役割分担を定め、透明性のあるルールの束の形をとる、個人の尊厳を最高価値とする新たな価値体系を持つものと考えます。したがって、このような観点から、国民の憲法尊重や国防の責務など、基本的な国民の責務も明確になると思います。

 以下、時間の制約もありますから、特に重要と考える幾つかの具体的な項目について、その要点のみ申し上げて、意見を述べることといたします。

 まず、天皇制についてですが、私は天皇の象徴としての実質的な存在意義、すなわち、天皇は代々我が国の平和と繁栄及び国民の幸せを願う存在であることは、国民がひとしく、過去、現在もこれを明確に認めているところであり、これを現在、将来の国民は、日本の伝統の中心にある天皇制が長い歴史の中で国の安定に大きな役割を果たし、世界に比類なき貴重な存在であることを認めていることであろうと思います。このことを日本の国としては大切にすべきだと思います。

 その上で、天皇が、現憲法にあるとおり国政に対する一切の権能を持たないものであることを明確にし、天皇を象徴的元首と定め、象徴としての行為や皇室行為を公的行為としてむしろはっきり認めて、内閣の助言と承認のもとに置くべきではないかと考えます。

 なお、女帝については皇室典範で認めるべきだと考えております。

 次に、平和主義についてであります。

 私は、再び侵略戦争をしないという日本国憲法における国民の誓いをさらに進化させて、九条一項を堅持するとともに、自衛隊を軍とし、戦力を保持することを認め、総理大臣の最高指揮権によるシビリアンコントロールの原則を明らかにし、自衛と国際貢献における武力行使のルールを、安全保障基本法とセットで、だれが見ても明確にわかるようなものにすべきだと思います。武力行使は紛争や平和の侵害を起こさないための、抑制のための力という位置づけをきちっと心にとめるべきだと思います。その際、平和愛好国としての国柄を強く認識する我が国としては、武力行使については具体的な場合を十分に議論した上、できるだけ抑制的な対応をすることが適当であると思います。

 次に、国の統治機構について申し上げます。

 今まで述べてきたように、時代が急激に変化する現在、迅速的確な政策決定とその実行は日本の将来にとって決定的に重要であり、総理大臣の強力なリーダーシップや二院制の的確な見直しは、国民が強く望んでいるところであります。また、内閣法制局の解釈改憲の慣行を改め、国会や最高裁の憲法判断がもっと活性化する制度を考えたり、憲法改正条項を緩和し、国会が国民に積極的に憲法のあり方を問うことが可能な改正が求められていると思います。

 また、地方自治に関しては、国と地方の役割を明確にするとともに、補完性の原則や地方の自主を尊重する基本条例や課税自主権などを保障し、住民の身近なところでみずからのことが決められるよう、その基本を明らかにすべきだと思います。

 以上、主要な憲法改正条項の基本について申し上げましたが、最後に、前回の当調査会において、民主党の憲法調査会長を務めておられる枝野会長代理から、現在法律が制定されていない憲法改正手続につき、真摯な議論の上、幅広い国会の意思で早期に制定することが望ましい、他の政党にその意思があれば協議の用意がある旨の御発言がありました。私はこれを、今までの経緯、長い歴史を考えると、非常に歴史的な重い御発言だと心から歓迎いたします。我が党と公明党は既に憲法改正手続について一定の合意を得ており、民主党との協議に入る用意は整っていると思います。中山会長の御指導をいただきながら、一日も早く協議が開かれるよう、強く希望いたします。

 さらに枝野氏は、政権を担う意思のある政党は、どちらが政権についても、今後、国政運営の共通のルールを憲法で定める合意形成を進める必要があるという趣旨の憲法改正の政党間協議の必要性について言及されました。

 我が国最初の聖徳太子の十七条憲法の第一条に、「和をもって貴しとなす」とある後に、「上和らぎ下睦びて、事論ふにかなふときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらむ。」と書かれています。立場を異にしても協調、親睦の気持ちを持ち、論議すれば、おのずから道理にかない、どんなことでも成就するものだと説いている。政治をめぐる抗争の激しかった当時にあって、日本の国柄を見事にあらわすとともに、その後の日本の歴史と伝統に和の文化を定着させた偉大な業績に思いをいたし、今こそ、我々はこの伝統を大切に、憲法改正の論議を進めなければならないと思います。

 坂の上の雲を失った日本は、今、激動の時代にあって、法の支配に基づく民主政治の基本として憲法改正を強く求めています。後がないという思いを強く抱くものでありますが、本調査会における五年間の成果を、国家国民の命運をかけ、憲法改正に結実させることを強く訴えて、意見表明を終わります。

中山会長 次に、枝野幸男君。

枝野委員 衆議院憲法調査会の五年間に及ぶ調査が一区切りをつけるのに当たりまして、民主党・無所属クラブを代表して発言させていただきます。

 まずは、この五年間にわたりまして一貫して重責を担われてこられた中山太郎会長、そして会長とともにこの議論のレールを敷いてこられた歴代の会長代理、鹿野道彦先生、中野寛成現副議長、仙谷由人衆議院議員、そして歴代の幹事、委員の皆さんの努力に敬意を表すとともに、こうした皆様方の努力の結果としてこの五年間、建設的な議論ができたことを高く評価し、敬意を表したいと思います。

 特に、この五年間に、今も若干残っているとはいいながらも、イデオロギー的、抽象的な議論から脱却した具体的な議論、あるいは護憲改憲二元論という本来論理的にはあり得ない議論、こうしたものから脱却をしつつある流れができているということを私は高く評したいと思います。

 ここで、護憲改憲二元論について一言申し上げておきたいと思いますが、そもそも護憲か改憲かということで物事を二分するということは、論理的にあり得ません。憲法を変えないという考え方、意見については、理由はともかくとして、変えないという点で一つでありますが、変えるという主張については、どう変えるのかということによって多種多様な改憲論があるわけでして、それを一くくりにして護憲に対して改憲と称して二元的に物をとらえるのは、論理的に間違っているというふうに思います。

 私はあえてこの場で指摘をしたいと思いますが、例えば、自衛隊の海外派遣を一切否定する考え方、意見、あるいは自衛隊そのものを否定する意見がよく護憲派と称されておりますが、そもそもこのこと自体が私は不自然ではないかと思っています。

 現行の憲法のもとで自衛隊については大方合憲という意見が強く、またその範囲についてはいろいろな意見があるものの、一定の条件のもとでは自衛隊が海外で活動することを認める意見が多数であるという中で、もしこうした意見を持っているのであるならば、例えば自衛隊の海外派遣は認めないとか自衛力は放棄するとか、こういう条項を憲法典に加えるべきというむしろ改正の意見を述べるのが論理的に正しいというふうに思っておりまして、こうした意見を持っている方が、憲法を変えない、護憲というふうに分類をされる、あるいはそういった主張をされることは、私は不自然であるというふうに申し上げておきたいと思います。

 さて、この五年間で、私は、憲法に関する論点はほぼ網羅され明らかになってきたというふうに思っています。ここから大切なことが、私は二つあると思っております。

 一つは、憲法制定権者は私たち国会ではなくて国民であるという基本であります。

 私たちは選挙によって選ばれて法律をつくる、あるいは議院内閣制のもとで行政権を担われる皆さんは行政を執行する、このことについては国民の皆さんから負託をされております。しかし、憲法については国会が決めろとは言っていません。国会はあくまでも発議を求められているのであって、決める権限、権力を持っているのは国民であるということを私たちはきちっと再認識するべきであるというふうに思います。

 そうした観点から、この五年間の議論を踏まえて、これから重要なことは、まず第一に、憲法に対する国民的な関心を喚起していかなければならないということだというふうに思います。残念ながら、憲法については、一部の皆さんは大変強い関心を持っておりますが、国民全体ということを考えたときには必ずしも高い関心が示されているとは言えない状況にあるというふうに私は思っております。

 さらに言えば、これからもし、仮に改正ということを目指していくのであるとするならば、国民的なコンセンサスをしっかりと把握するとともに、さらにこのコンセンサスを形成していく努力こそが何よりも求められていくということであります。私が危惧をいたしますのは、もし我々が、憲法をつくる、変える権限は国民にあるということを忘れてしまって、自分たちが憲法を変えるんだというような意思で走ってしまいますと、国民的な関心やコンセンサスと離れたところで物事が進み、結果的に将来の憲法改正の国民投票の投票率が低くなったり、あるいは場合によっては否決をされるようなことになりかねないということであります。

 六十年近く憲法が変わらないでまいりました。もし最初の国民投票の投票率が余りにも低い、あるいは否決をされるというような事態になれば、また憲法議論そのものがタブーになりかねません。私たちはそのリスクをしっかりと考えて、国民世論の喚起と国民のコンセンサスづくりということを主眼に物を進めていかなければならない、このことを第一に指摘しておきたいというふうに思います。

 第二に、これは前回来もお話になっております、先ほど保岡さんからもこれに関するお話がありましたが、現行憲法は、改正の発議を国会の三分の二という要件を求めています。この規定そのものに対する賛否はいろいろあるかもしれませんが、少なくとも現行憲法は三分の二を必要としております。

 これは、国会内の第一勢力と第二勢力で過半数を争い、政権を争う構造とは別の構造で物事を進めろということを示していることにほかなりません。そして、日常的には政権を争うという形で相互に争い合う、競い合う関係にある第一勢力と第二勢力との間でコンセンサスを得ていくためには、大変な知恵と配慮が必要であるということを申し上げておかなければいけないというふうに思います。政党間の個性、政党間の違いを強調していけば、当然のことながらコンセンサスからは遠ざかってまいります。憲法は、第一勢力と第二勢力との間で、我々が公権力を行使する上での共通のルールを書けということでありますので、その意識をしっかりとしていかなければならないというふうに思います。

 現実的に、これから党であるとか個人であるとかの自己主張が強くなれば強くなるほど、三分の二というコンセンサスからは遠ざかってまいります。憲法改正を強く主張するが余り、自己主張が強まれば強まるほどむしろ改正から遠ざかっていくという実態と現実を冷静に見きわめていただきたいというふうに思います。

 もちろん、私、これまでは、そもそも憲法にどういう論点があるのかということを喚起し、共通認識を持っていくために、それぞれがそれぞれの思いに基づいていろいろな主張をすることで網羅的に論点を拾っていくということで、ここまでの議論のプロセスとしては、さまざまな強い自己主張というものが一定の意味はあったというふうに思っておりますが、これから国会の中で三分の二を形成し、さらに国民の世論を喚起してその二分の一の賛成を形成していこうとするならば、自己主張を抑制し、むしろ何が共通点であるかということを優先して議論し、協議していかなければならないということを強く訴えたいというふうに思っております。

 そして、こうした自己主張よりも共通点を探っていくという話を進めていく上で、先ほど保岡自民党憲法調査会長からもお話がありましたが、憲法改正の手続について議論を進めていくということは、憲法改正そのものの中身についての議論が円滑に進んでいくのかどうか、つまり三分の二が形成できるのかどうかということに対する重要なトライアルであるというふうに思っております。

 私は、先ほど申しましたとおり、中山太郎会長を初めとする皆さんの御尽力によりまして、本憲法調査会におけるさまざまな議論、あるいは調査会運営に当たりましては、こうした憲法の持つ意味、コンセンサスをつくり上げていかなきゃならないという思いというものが十分に感じられる中で物事が進んできておりまして、そうした視点の中から、憲法改正手続法を含めて、少なくともこれについて積極的に関心を持つ政党間で協議をし得る土壌はあるというふうに思いたいと思っておりますが、残念ながら、この憲法調査会を離れれば、今現在も財務金融委員会や総務委員会などで、あるいは年金をめぐるさまざまなプロセスの中で、与野党間の信頼に基づく協議の邪魔になるような動きを積極的になさっている方が一部に見受けられるということを大変遺憾に思っております。

 私は、中山太郎会長を初めとする自由民主党や公明党内の良識ある皆さんのこれからの党内における力を期待し、そうした皆さんの主導のもとで、前向きで建設的な憲法議論がさらに進んでいくことを期待したいということを申し上げて、発言を終わらせていただきます。

 以上です。

中山会長 次に、太田昭宏君。

太田委員 憲法調査会が五年になりまして、今までもお話のありましたとおり、中山会長を初めとして、この調査会が五年間粛々と論議をしてきたことというのは大変意義の多いことであったというふうに思っております。

 特に、今枝野先生からもありましたけれども、いろいろなそのときそのときの政局の課題というのはさまざまあろうと思いますが、国のあり方というものをじっくり論議するということが、憲法の条文を吟味すること以上に私は大事であったというふうに思っておりまして、その意味では、五年間の憲法調査会が終わった後に、ポスト憲法調査会として何らかの機関というものが設置をされて、国のあり方ということについて常に恒常的に論議をするということが必要なことだというふうに思っております。

 五年前に、ちょうど二〇〇〇年というときでありましたものですから、ちょうど百年前の話をしたことを記憶しております。明治になりまして、明治憲法下で日本が急速度に文明というものを取り入れる中で、そして、列強に相呼応するような形のところまでこぎつけた瞬間に、一体、我が国というのは何をもって文化となすのかというアイデンティティーの問題が問われたのが百年前であったというふうに思います。新渡戸稲造の「武士道」、あるいは岡倉天心の「茶の本」や内村鑑三の「代表的日本人」、あるいは牧口常三郎の「人生地理学」、そうしたものは、やはり文明というものが大きく受容される中で、日本という国はどういう国であったかということを改めて問いかけるという作業が行われたんだというふうに思っております。

 私は今、日本は、まさに憲法を論ずるということは、そうした日本というものの持つ思想や、あるいは文化とか伝統というものをやはり掘り下げて考えていかなくてはならない。戦前戦後ということで揺り戻すな、また戻せというような論議というものは全く今は意味がないというふうに思っておりまして、百年前のそういうことを想起しながらこの憲法調査会の冒頭で発言したのであります。

 保岡先生から国柄という話がありました。私は、そういう観点からいいますと、その国柄ということについても論議はこの五年間で十分とは全く言えない、このように実は思っています。それは、明治ということを想定しての国柄であったりするということはよくあるんですが、やはり聖徳太子の時代、あるいは平安時代、そしてまた鎌倉時代、室町時代、そしてまた江戸時代に至るまで、それぞれのところで、非常に多様な文化を受容しながら日本型に塗りかえていくというところに日本の文化の知恵というものの特徴がありますから、どういう文化、伝統であるのかという国柄の根源というものをもう少し論議するということが私は大事なことであったかと思っておりまして、その意味では、その点は、この五年間の憲法調査会の論議は、少し論議がまだ欠けているということを痛感しております。

 ただ、これからの未来志向の憲法論ということからいいますと、間違いなくITあるいはゲノム、あるいは環境、あるいは住民参加という四つの観点というのは当然これから大事でしょうし、世の中は変わってきていて、ことし特に私自身が考えております問題点の、大きな問題として二つだけ列挙させていただきますと、やはり少子高齢という社会に急速度に突入をし、団塊の世代が再来年から六十に到達をする。その中での財政危機と社会保障のあり方、そして少子高齢ということをどう迎えるか、経済の活性化をいかになすべきかということをトータルに考えるというような場面が、条文ごとの憲法論議ではなくて、この場で行われるということが私は大事だというふうに思っております。

 同時にまた、もう一つ、防衛、防災、防犯という三つの防というものの境目がなくなってきているという事態に、どのように国家の危機管理、あるいは自己自身、住民の危機管理というものを展開するかという作業も、直下型の地震等が懸念をされたりする中で、私は、極めて大事な課題であり、そうした根本的な課題について国会が論議をする場が現在のところはこの憲法調査会しかないということからいきますと、もう一歩そういう論議を深めるという場を、これからポスト憲法調査会という場をかりながら用意するということは極めて現実的であるというふうに考えております。

 枝野先生がおっしゃったように、もっと国民的論議をということをおっしゃいましたが、私もずっとそういうことを考えているんですが、ここで毎週毎週行ってきたという中で、多少なりともやはり憲法という論議がここを起点にして広がっていったということのプラス面というものをさらにどのように補強していくのかという観点に思いをはせていくということが大事だと思います。

 その意味で、この五年間論議を積み重ねてきた、そして国民的論議をさらにということや、文化や伝統ということについてさらにもっと論議をしたいというようなことも含めて、新しい憲法調査会の何らかの形での機関というものを設定し、そして、その中では具体的に第一歩として国民投票法という九十六条の問題について、やはりある意味では合意を形成しながらこれを論議していくということが必要かというふうに思っております。

 自民党と我が党、今枝野先生からのお話もありましたから、これから三党を中心にという場面が切り開かれていくというように思いますが、国民投票法案というものは、どのように憲法改正というものをイメージするのかという想像力なくして具体的な法案の形にならないということを、この一年ぐらい痛感をしてきました。

 選挙権は二十以上というように我々は取り決めさせていただいたわけでありますけれども、選挙人名簿と同じものを使う。本来、公民権停止などの人にも国民投票ができるということが考えられるわけですが、現実的に名簿を管理するのは難しいということで、選挙権は二十以上とし、そして憲法九十六条では特別の国民投票または国政選挙、このようにあるわけですが、現実に、国政選挙とは別にするのが適切である。なぜなら、与野党が政権を争う国政選挙という場面と、与党と主要野党間で合意形成して国民に発議する憲法改正の国民投票では、その性格が異なるというがゆえに、やはり現実論としては、別の機会に特別な国民投票を行うという形をもって憲法改正を問いかけるということであろうと思います。

 想像力と先ほど申し上げましたのは、具体的な改正案についてどのような国民投票の方式をとるかについては、具体的な憲法改正の発議案においてきめ細かく定めることと我々は考えたわけですが、こうしたことを骨子にしながらこれからも論議を重ねていきたいというふうに思っております。

 私としましては、公明党の加憲というのが具体的で現実的であるとこれまで主張してきたわけでありますけれども、現実にどのように国民に発議をするのかという場面で、国民が一つ一つ丁寧に、項目別に一つ一つを吟味するという機会を持つということが大事なことだというふうに思っておりまして、また憲法の継続性ということをあわせ考えますと、やはり部分改正、我々の立場からいいますと加憲というようなことが現実的、具体的であるというのを、国民投票法案というものを具体的に考えるに当たっても、そういうような考えに至ったわけでございます。

 なお、最近の報道によりますと、国民投票運動に対する懸念が一部にあるようでございます。我々の論議におきましては、国民投票運動は基本的に自由にすべきであるというのがあくまで考え方でございまして、それらを規制するというような誤った論議が報道されておりまして、私たちの意向と随分違うなということを思っておりまして、この機会に発言をさせていただいたわけでございます。

 以上申し上げましたように、この五年間の成果というものを受けながら、国の根本的なあり方を問いかけ、論議をするという機会をこれからも何らかの形で持続的に行っていきたいということを述べさせていただきまして、主張を終わらせていただきます。

中山会長 次に、山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 憲法調査会の締めくくりに当たって、まず憲法調査会とはいかなる目的と任務を持つものであったのか、その出発点を改めて確認しておきたい。

 憲法調査会の設置の経過を振り返ると、一九九七年五月に、我が党と社民党を除く各党の国会議員で構成する憲法制度調査委員会設置推進議員連盟の発足が端緒をなしたことがわかります。議連の設立趣意書は、委員会の設置を、二十一世紀に向けた我が国のあり方を考え、新時代の憲法について議論を行う絶好の機会と位置づけ、改憲論議の場を国会内につくろうとするものでした。しかし、実際に国会に設置された憲法調査会は、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うことを目的とし、議案提出権を持たない、つまりあれこれの結論を求めない、調査任務に限定した機関となりました。これは、日本国憲法に検討を加え、関係諸問題を調査審議するとした、一九五六年に内閣に設置された憲法調査会とは性格と目的を全く異にするものでした。

 このように、憲法調査会は改憲を論議、検討したり、方向性を求めるような調査会ではありません。政党として、あるいは委員個人としてさまざまな改憲の考えを持ったとしても、憲法調査会として行う調査は調査会の目的、性格に基づくものでなければならない、ここに問題の出発点があります。

 日本共産党は、こうした憲法調査会の目的、性格から見て、憲法調査会が行う調査として、一、日本国憲法の先駆的内容を広範かつ総合的に明らかにする調査、二、日本国憲法の基本原則に照らして現実政治の実態を点検する調査、三、いわゆる押しつけ憲法論にかかわって、改憲論の源流がどこにあるかの歴史的経緯を掘り下げる調査が必要であることを二〇〇〇年二月の調査会で提起し、その立場でこの五年間、調査に臨んできました。

 本調査会に出席した参考人、公述人からも、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うことが本調査会の任務である以上、なされるべきは、憲法の半世紀を客観的に検証して、それが実現され、また実現を阻まれた要因を明らかにし、その上で、二十一世紀においてこの憲法を生かしていく可能性を追求すること、あるいは、日本国憲法が民主的かつ立憲主義的な解釈と運用がなされているのかどうか、憲法が使いこなされていないことが今日の憲法をめぐる最大の課題との発言に示されるように、憲法の解釈と運用の実態、乖離を生み出した原因などの調査こそ本調査会の任務であることがたびたび指摘されました。

 ところが、調査会では発足当初から、調査開始後三年目には調査会として新しい憲法の概要を示す、五年目には新しい憲法の制定を図るといった発言などのように、改憲を志向する流れのスケジュールに沿う動きに取り巻かれてきました。憲法の半世紀を客観的に検証し、憲法の理念と原則がどう実現され、実現されていないのか、その原因はどこにあるのか、こうした大問題への徹底した調査が行われたとは言いがたい五年間でした。

 自民党の委員からは、憲法九条と現実との乖離が国民の憲法軽視にもつながりかねないなどの発言がありましたが、調査会としてやるべきは、九条と現実との乖離をつくった要因、すなわち、再軍備、安保条約と在日米軍の存在と実態、日米共同作戦や自衛隊の海外派兵の実態など、歴代政権による憲法九条違反の実態の全貌を徹底して調査し、直視することにあったはずであります。

 そうした中でも、参考人や公述人からの発言には貴重な提議、証言がありました。

 まず、九条問題です。

 小林武参考人からは、憲法制定当初は政府も、九条が全面的に戦争放棄、戦力不保持を公権力に命じたものとの学界の解釈と同様の立場をとったにもかかわらず、日米安保条約という政治上の必要に適合させるためにその解釈を変転させてきたとの指摘がありました。小熊英二公述人は、日本の再軍備と改憲の要求がアメリカ側から出ていたことを、一九四八年五月、アメリカ陸軍省が作成したロイヤル陸軍長官への報告書の一部などを示して明らかにしました。これらは、九条と現実の乖離をめぐる調査として参考にすべきものでした。

 二つ、全国九カ所での地方公聴会、二回の中央公聴会における公募者による意見陳述も、憲法に対する主権者、国民の意見をとらえる上で実に貴重なものでした。

 例えば、被爆地である広島地方公聴会、元広島平和記念資料館館長の高橋昭博氏は、被爆の苦しみや悲しみ、そして憎しみを乗り越え、恨みつらみを克服して、戦争のない平和の喜びをかみしめながら立ち直ることができたのは、世界に冠たる戦争放棄と平和主義をうたった日本国憲法があったからと述べました。私は、今もその声が胸深くに届いております。

 阪神・淡路大震災を経験した神戸地方公聴会、神戸大学副学長であった浦部法穂氏は、震災の公的支援に関して、少なくとも自立できるところまで公的支援を行うことが個人の尊重を規定した憲法十三条の要請であると述べ、憲法規範の実現を求めました。

 また、唯一の地上戦を経験した沖縄地方公聴会、山内徳信氏は、沖縄戦の極限状況を体験し、戦後の米軍統治下の無憲法、無権利状態の中を生き、基地の島の不条理を見てきた者として、憲法九条を世界各国に広げようと提案されました。新垣勉氏からは、沖縄で公聴会をするのであれば、悲惨な沖縄戦の体験、戦後の二十七年に及ぶ長期の米軍統治、復帰後三十年たったにもかかわらず、依然として米軍基地の集中がある沖縄の実態を踏まえたものでなければ意義はないとの指摘を受けました。

 こうした地方公聴会で表明された数々の意見は、多くの国民がみずからの体験を通して日本国憲法の値打ちを実感していること、憲法原則の実現を妨げている政治や行政運営にこそ正すべき問題があることを示すものとなりました。

 このような国民の意見とは裏腹に、本調査会では、憲法の先駆的な値打ちが憲法と現実との乖離を生み出した原因を明らかにする総合的な調査は、基本方針としては具体化されませんでした。あるべき日本の姿に適合する形で憲法を構想するという接近で果たして広範かつ総合的な調査たり得るのかとの批判が起きたこともゆえなしとはしません。

 憲法調査会規程は、調査を終えたときは、調査の経過及び結果を記載した報告書を作成し、議長に提出すると定めています。この規定からいえば、一定の方向性を持たせるような報告書を作成することはもともと許されません。しかし、今月三日の幹事会で示された編集方針は、委員の意見のテーマごとの類型化、委員の意見の多寡などを盛り込むとしています。これでは、改憲に向けた事実上の論点整理となり、調査会規程さえ逸脱します。報告書は、調査の経過と結果を事実に即して記載したものにすべきです。

 さらに、報告書は、本会議への報告ではなく、議長への報告書の提出にとどめるものとされています。これは、議案提出権を持たない憲法調査会の性格からくる重要な規定です。つまり、報告書とは、院の意思決定を前提にしたものではなく、調査会の経過と結果について何がしかレポートされて終わるにすぎない。これは当時、衆議院法制局の説明ですけれども、これが憲法調査会の設立の趣旨であることを改めて指摘して、最後の憲法調査会締めくくりに当たっての発言と、結びといたします。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 社会民主党の土井たか子でございます。

 いよいよこの憲法調査会も、五年の調査をするという時間的経過を経まして、最終報告書を作成するという段階に入ってまいりました。この最終報告書を作成するということはまことに重要なことだ、重大なことだと私は思うんですね。

 今までにどういう報告書が作成されつつあるのか、また予定されているのか、あるいは考えの中にあるのかというのがしばしば、これは外部でも問題にされてまいりましたけれども、しかし、その中身に対して今のところは、先日この場所をおかりして会長にもお願い申し上げた、恐らく憲法調査会のこのメンバー全員が少なくとも編集方針に対して意見を言う、また討議ができる、そういう機会を設けていただきたいというこの要請を、さらにきょうは強く申し上げさせていただきたいと思うのです。

 そして、その最終報告書というものの取りまとめはどういうことであってほしいかというのは、その場所を用意していただければそこで言うべき問題でありますけれども、具体的にはほかにもあろうかと思いますが、基本的なことだけを私は申し上げます。

 衆議院の憲法調査会規程の第一条に「設置の趣旨」というのがございますが、もう幾たびとなく、これは繰り返し発言の中でも出てまいりました、「広範かつ総合的に調査を行う」。何の調査を行うのか。それは、日本国憲法について、発布以来果たしてきた役割と評価についての調査である。

 このことがどういうことになっているかという具体的な論議が、具体的にさらに編集の中で生きるわけですけれども、そのような運営がされてきたかどうかということも一つは振り返って考えてみる必要があると思うのです。報告書でまずまとめられるべきは、日本国憲法が発布以来果たしてきた役割と評価について調査会としてはどんな論議が行われて、発言があったかという点なのではないのでしょうか。

 二つ目には、憲法全体に対してどのような論議が行われてきたかというのがまとめられるべきだと思っております。

 まず改憲ありきではありません。改憲ありきの方向でまとめようとすることは、当然あってはならないことであります。どうも昨今はそういう風潮をかき立てるようなマスコミの報道があったりするものでございますから、この点はよほど注意をして、そしてその辺は、非常に注意をしながらも、これでよいか、これでよいかということを慎重に取り上げて問題にしていくことが大変に必要だと思うんです。

 そしてまた、直接生の声を聞くということで地方公聴会というのが開催されたんですから、これは項を別に起こしていただいて、きっちりとまとめるべきではないかと思っております。中間報告のときにはたしかこの扱いがあいまいになったままだったというふうに私たちは受けとめております。

 いずれにいたしましても、大切なことは、憲法の現状に対する評価をどう報告書の中で強調できるかということではないかと思っています。

 今まで、外部から専門家を参考人としてお招きして御意見を聴取する、そしてまた公聴会では、直接そこに公述人として意見を私たちが求めて、そしてその中身に対して私たちも質問を展開するということの中で、改憲の問題を急ぐことではない、少なくとも、憲法の中身を具体的に実現していないとすれば、それを実現することのためにはどうしたらよいか、その原因が何なのかということを探索することの方が先決であるという意見が多かったことをもう一度ここで私は想起しなければならないと思うのです。

 私は、憲法が国民の中にどのように定着して体現しているのか、そして乖離があるとしたらなぜそのことが起きているのか、このことを専ら意識しながら最終報告書というのが求められるのではないかと思っております。

 そして、それと同時に、一言申し上げさせていただきたいのは、この最終報告書のために予算が衆議院ではもう既に用意をされているようでございますけれども、この予算の中身として用意されているのが一億四百万円という総額のようでございます。ただ、中身に対しては具体的にまだ決まっていないのでしょうか、どうでしょうか、そこのところも明らかではございませんけれども、しかし、一番、額として高く使われるのが翻訳料であるということは確かなようでございます。

 したがって、全メンバーが集まって最終報告書の作成に対して意見を出す機会、検討ができる機会を設けていただくことを要請すると同時に、この予算の中身についてもお知らせをぜひいただいて、そして、私たちもその問題に対して、どうしていったらさらによいかということがありとすれば、意見を申し述べさせていただけるような機会をぜひともここで設けていただくことを申し上げさせていただきたいと思います。

 さて、以上、最終報告書を作成することにつきまして、今気のつくことだけを先に申し述べさせていただきましたけれども、きょうもまた、新聞の記事を見ますと、改憲の方向を示すような、衆議院の調査会では最終報告案というのが考えられていると言われる記事と、そしてそれのためにはこういうふうな編集で作業が進んでいるようだという中身に対しての紹介が既に記事として出ております。こういうことが、私どもの方にはまだわからない段階で記事となって出て、報道という形で世間に流布されてしまいますと、討議をするということが場合によっては損なわれるというときもないとは言えない。

 これは非常に慎重を要する問題だと思いますが、再度、先日もこういうことに対して強く注意を喚起していただいた会長です。今回も、一つこのことを申し上げさせていただいて、何回これはあるかわかりませんよ。したがって、こういうことに対しては相当強く抗議をしていただいて、そしてこの記事の取り扱いについてはお互いやはり注意を喚起されていると思うのでございます。どうぞこのことについてもお聞き届けをいただきますようにお願いをいたします。

 私は、あと多くを申し上げることができないと思いますけれども、少なくとも、この憲法問題に対して、今、問題になっている焦点が五年前に比べますとはっきり浮上してまいっております。

 それは、憲法について改憲の必要がある、それは九条であり前文であるというところが焦点となっているわけですが、けさほども私が申し上げましたとおり、憲法に対しては、改正に向けて認めている日本国憲法それ自身の基本原理がございます。これは、国民主権性、基本的人権尊重主義、そして徹底した平和主義なんですね。この基本原理に対して背くような憲法の改憲というのは憲法自身が認めていないということをはっきりこれは認識すべきだと思うんです。簡単に言えば、改正は憲法九十六条が手続規定を用意して認めているところでございますけれども、改悪は、改正とはならないのでございまして、そこのところの峻別が大変に大事だと私自身は思っております。

 そしてまた、憲法から遊離した違憲の事実の積み重ねに対して、現実は憲法と乖離したところにある。これを理由に、現実を憲法の方向に向けて改革していくのではなくて、憲法から遊離し、離反し、違反している現実に合わせて憲法を変えようというのは、これもまた憲法自身が許さないところだと思うんですね。既に、憲法に違反した法律、規則、法令、国務行為というのは、これは無効ということが憲法自身の認識としてあるわけですから、こういうことをしっかり踏まえて、九十九条の憲法尊重擁護義務が国会議員にあるということを、いま一たびしっかりこのことに対する自覚を促されていると私自身は思っているわけです。

 ありがとうございました。

中山会長 これにて各会派一名ずつの発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 それでは、御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 衆議院憲法調査会も五年間の大変真摯な議論、その締めくくりを迎えまして、筆頭幹事としても大変感無量の思いがいたしております。

 これまで、日本国憲法について、私たちは真摯な議論、もちろんタブーを設けずに議論することができたことは、大変意義のあることであったと思います。五年前あるいは十年前でしたら、まさに憲法について議論することすらなかなか難しい時代もございました。隔世の感がいたします。

 これまで、我が国におきましては、憲法は一指たりともさわってはいけない不磨の大典であるという議論、また一方では、GHQによる押しつけ憲法である、押しつけ憲法論が二極の対立状況をつくっておりました。そういう不毛の対立から、我々のこの議論を経まして、抜け出すことができたと思っております。もちろん、現行憲法の中にも残すべき精神や条項、逆に、改めるべき条項などもいろいろと議論することができたと思っております。

 そういったものを間もなく最終報告書として取りまとめることとなりましたけれども、私は、やはり議論の羅列ということではなくて、どのような議論が多くなされたのか、そういった議論のウエートづけをするということ、つまり憲法論議において一定の方向性を示すということもこの最終報告書における大きな役割であると思っております。

 既に、幹事会におきまして編集方針が示され、各党からの御意見も伺いました。おおむねよろしいであろうということで、現在、事務方にそのたたき台の作成をお願いしておりますけれども、このたたき台ができた時点でも、また改めて幹事会を中心に各党の議論が展開されるものと思っております。その時点において、先ほどもお話ありました土井委員や山口委員のお考えなども十二分に披瀝をしていただきながら、よりよき最終報告書ができますように、各党協力をし合う必要があると思っております。

 なお、先週の民主党の枝野会長代理からの御発言がございました。先ほど保岡幹事からもお話をいただきましたけれども、重複を恐れずに申し上げますと、憲法改正の発議が国会議員の三分の二以上という条項があることを踏まえるならば、政権がどちらの側にあっても共通のルールを憲法で規定するという観点から合意形成を今後進めていく必要があるという御指摘、さらには、憲法改正手続についても、幅広い国会の意思で早期に制定することが望ましい、他の政党がそういう意思があるのであれば、そうした話をする用意がある、このような大変前向きのお話をされました。

 また、本日の枝野会長代理のお話の中にも、各党の違いを競い合うことよりも、ここは、お互いの共通項を求めていくべきである、このようなお話をいただきました。私としてもこの枝野会長代理の御発言を大いに評価をし、歓迎をする気持ちでございます。

 これらの点について、何らかの形で改正を必要と認めている政党間で今後鋭意協議を進めていきたい、このように考えております。枝野会長代理は第一勢力、第二勢力というお話をされましたが、私は、少なくとも第三勢力の方まで交えて、各党の協力を大いに期待したいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

 以上でございます。

葉梨委員 憲法全般に関する討議の締めくくりとして、今なぜ改憲論かということについて申し上げます。

 私、昭和五十七年に大学を卒業し、役所に入りましたが、十数年間、官の側から政治を見て、実のところ、戦前派の保守政治家が押しつけ憲法に嫌悪感を持ちたい気持ちはわかるものの、なぜ改憲までしなければならないのか、しっくりきませんでした。しかし、平成六年に在インドネシア大使館に出向、任国の軍人と日常的交流を持つ中で、現行憲法が、その融通無碍さゆえに、平和主義とはいうものの、きな臭さ、不気味さを漂わせていることを知りました。そして、平成九年から警察庁少年課理事官として少年問題に携わる中で、我が国が、事児童や女性の人権の面では、世界的に人権小国ないし人権侵害大国と認識される実態を肌で感じました。その後、我が国の生き残りのためには官僚としての仕事に限界を感じ、この五年間、前筆頭幹事の葉梨信行を補佐し、修行をしつつ、現場の民意にも直接触れてきました。

 その中から私なりに、戦後教育を受けた世代として、さきの臨時国会で指摘した現行憲法の法的欠陥という論点とは別に、今なぜ改憲論議が必要かということを二点申し上げます。

 第一は、現行憲法の持つあいまいさは、自民党政権の永続を前提とすれば使い勝手のよさに通じるが、安定的政権交代を望ましいとした場合、我が国を糸の切れた風船にしてしまう危険性をはらんでいるということです。

 我が国は、独立回復後、ほんの一時期を除き、ずっと自民党及びその前身政党が政権を担ってきました。時の政権与党は、従来の政府解釈と矛盾を来さない範囲で憲法解釈を徐々に広げ、憲法の法的安定性、継続性と政治的柔軟性、戦略性を確保してきました。

 このような状況下、政権をとることよりも護憲勢力として国会で三分の一を占めることに重きを置いていた第二党も、自衛隊・日米安保違憲といった現実と乖離した憲法解釈を維持することができました。もとより、現実の方が憲法と乖離しているという論もあります。ただ、この論には、村山政権下、時の社会党も自衛隊と日米安保という現実の合憲性を認めざるを得なかったことを指摘したいと思います。

 しかし、二十一世紀において、自民党が未来永劫政権の座にいられる保証はどこにもありません。いつ何どき、従来の政府解釈、すなわち憲法の法的安定性、継続性を無視して、自衛隊の装備も徴兵も集団的自衛権も集団的安全保障も無制限で認められるという勢力が政権につき、一挙に憲法解釈を変えてしまう危険性も否定できません。

 私は、戦後六十年、日本国民は、日本人としての意識の中で、民主主義と平和主義という原理を既にしっかりとした内在的規範として持っていると思います。今こそ、我々の子孫のためにも私たちの進むべき方向性を具体的な合意を持って示していくことが必要です。

 私は、国家に、近世中国北宋末期の新法党と旧法党の党争に見られたような対立による停滞でなく、前進と活力を生み出し得る安定的政権交代のためにも、殊に平和主義などの項で、何とでも読める現行憲法のあいまいさを払拭することが必須と考えています。そのため、本気で政権を担おうとする党は、国民のため腹を割って話し合いを行うべきで、このような話し合いの場として国会に常設の憲法委員会の設置を提唱します。

 第二は、権利の乱用にむとんちゃくな現行憲法は、戦後の右肩上がりの成長の時代には機能したが、人口減、マイナス成長時代というこれからの時代には国を滅ぼす方向に作用する危険性です。

 現行憲法は、人権の制約原理を公共の福祉というあいまいな言葉にゆだね、他人の迷惑にむとんちゃくでも人権の行使を最大限保障してきました。拡大社会では、ある意味でそれでもよかったかもわかりません。経済の面では、才覚もあり汗をかく人は五〇%成長し、しかし、汗をかかない凡人でも一〇%の成長ができました。政治家も、メディアにより不当に名誉を傷つけられても、拡大社会ゆえ国民も寛容、時間をおけば再び復活という余裕もありました。

 しかし、今、状況はさま変わり、御存じのように、ゼロサムゲームの時代に突入しています。経済活動でも、だれかが得をすれば他のだれかが損をします。一人の幸せが他人の不幸せを招く時代が訪れつつあります。本当にこれでいいのでしょうか。

 このような機能不全を補うため、私は、トーマス・ホッブスの「リバイアサン」に見られるような国家統制、これをとるべきではないと思います。そうではなくて、やはりそれぞれの国民がもっと他人の人権を重んじる。例えば、経済的強者は公正さと利他の精神を内在的規範としながら市場における競争に参加すること。ありていに言えば、国に言われるのではなく、みずからの意思として、弱者を余りいじめ過ぎないということ。他人に迷惑をかけないという当たり前のことを国の姿あるいは社会的規範としていくことが大切と考えます。

 二〇〇七年から人口減社会が始まります。私は、権利の乱用にむとんちゃくな枠組み、すなわち成長モデルのままでは、早晩我が国が滅びてしまう危機感を持っています。今こそ、全国民の代表である国会議員の責任として、報告書の段階でも国としての新しい生き方のモデル、方向性を出していくことが必要と考えています。

 以上でございます。

河野(太)委員 自由民主党の河野太郎でございます。

 憲法調査会の議論もいよいよ煮詰まってまいりました。私が申し上げたいのは、これまでこの憲法調査会で行ってきた議論をさらに前に進める、そうした仕組みをつくっていかなければならないというふうに思います。いろいろな御意見が憲法に関してございましたが、少なくとも、憲法の中に改正の規定がある以上、この改正の規定を実効ならしめるための法律の整備は立法府としての義務であると思います。

 いかようなレポートが幹事会で議論されるのか、それはまだ私は定かではございませんが、いずれにせよ、この憲法調査会の次のステップは、改正のための国民投票を可能にするための、それを実行するための法律の制定に向けての議論、あるいは、議論だけではなくて法案を審議し本会議に出すことができる、そうした性格を持った何らかの委員会がこの憲法調査会の後を受けてつくられ、そこで改正を実現するための法律の制定という作業が行われなければならないことは既に明白であると思います。

 幹事会でそのような議論、並びに、憲法調査会の後を受けてどのような性格の委員会をどのように立ち上げるか、しっかりとした議論をお願いしたいと思います。

 以上です。

大村委員 自由民主党の大村秀章でございます。発言の機会をいただきまして、ありがとうございました。

 これまで各委員の先生方のお話にありましたように、五年間にわたりますこの憲法調査会の議論、本当に精力的な議論が行われたこと、心から敬意を申し上げる次第でございます。中山会長を初め幹事、そして委員の先生方の御努力のたまものということで、心から敬意を表したいと思います。また、私もこの憲法の議論、この国の形を真剣に議論するその議論の中に入らせていただいたことを大変ありがたく、うれしく思っております。

 そういう中で、私もこの委員の皆様方と同じような観点で申し上げさせていただきました。戦後六十年たって、国際社会の中で日本の位置づけはこれだけ大きくなった、時代の流れも速くなった、そして国内も、非常に市民社会も成熟をしてきた。そういうことに合わせて我々はこの国の形を改めてつくり直していく、そういう作業をやはりしていかなければいけないのではないかという意を強くするわけでございます。

 それが、例えば安全保障の面で言えば、自衛隊を憲法上しっかりと認めて、国際協力もしっかりやるということを国際社会に明確なメッセージとして打ち出すべきだということ。そしてまた、この国の形からすれば、財政の問題、財政再建でありますとか地方自治の本旨を書き込む。また、いろいろ御意見はあろうかと思いますが、決算をどんどん早くしていく、審議をもっともっと濃密に、そして決断を早くしていくという意味で、一院制をこの際しっかりと位置づけるべきだ、方向性をつくるべきだということを申し上げさせていただきました。

 そういったもろもろのことを進めていくためにも、この憲法調査会という形のこの五年間の議論を、先ほど山口委員も言われましたが、事実に基づいて、多くの委員の皆さんが、やはりこの際憲法を改正すべきだ、そしてその論点はこうだということを圧倒的多くの方が言われたわけでございますので、そうした事実に基づいた報告書をしっかりとおつくりいただきたいということをお願い申し上げたいと思いますし、引き続き、この調査会、これで一応の区切りはつくわけでございますが、さらに突っ込んだ議論をして、形を示せるもの、議案、法案を審議できるそういったものにつくりかえていくことをお願い申し上げたいと思います。

 その上で、やはり憲法九十六条にある国民投票、国民投票法というものを具体的に、これをできるだけ早く、できればこの国会中にもおつくりいただいて、そして国民の皆さんに、憲法をこういう形でつくりかえていくということを具体的なタイムスケジュールとしてお示ししていくことが、この五年間の憲法調査会の議論のまさに集大成ということになるのではないかというふうに思います。

 そういう意味で、会長、そしてまた会長代理、幹事の先生方、そして委員の皆様の引き続いての御尽力をお願い申し上げまして、私の意見表明とさせていただきます。

 ありがとうございました。

柴山委員 現行憲法下で六十年近い間、内外で生じたさまざまな事象を考えるとき、現行憲法の果たしてきた役割の大きさ、そして人権、平和のありがたさというものを私は本調査会で学ばせていただきました。と同時に、多くの立法府の方々、行政府の方々、司法府の方々、そして何よりも国民の皆様方がこの憲法と現実のはざまで大変な御苦労をされてきた、そのようなことも勉強をさせていただきました。その中で、この憲法調査会の議論が報告書にまとまるという歴史的な時期を私がこの席で迎えることの幸運を本当に感謝したいと思っております。

 この報告書については、先ほど船田幹事から御指摘があったとおり、多数意見そして少数意見を明記し、一定の方向性というものを持たせるべきであると私は考えております。そして、こうしたチャンスは何度も訪れるとは限らないと考えております。二大政党が政権を競い合い、そして激動する世界情勢、環境の問題、少子化問題が深刻化する中、一定の問題点については、早急に私は、現実的な政治的日程として、国民の信を問うそのスケジュールづくりに取りかかっていくべきではないかなというように考えております。

 その観点からは、先ほど枝野会長代理から的確に御指摘があったとおり、国民的関心をしっかりと喚起していかなくてはいけないと考えております。もちろん、我々も政党の所属構成員でありますから、それぞれの政党のプランというものを独自性を持って主張することは必要であると考えております。

 しかし、先ほど申し上げたとおり、一定の問題点については、喫緊の改正の課題として、全国民的合意を得られるような形で、しっかりと共通の合意を求めていくということをぜひ検討していかなければいけないと思っております。それは、私たち自民党に課せられた課題である、枝野会長代理が御指摘のとおりでもありますが、と同時に、もちろん、民主党あるいは公明党、第二、第三党についても同じような課題が課せられているのだということをぜひ御理解、御認識賜れればと私は考えております。

 そのような中で、何人かの先生方から御指摘があったとおり、この憲法調査会を、恒常的に憲法問題につき議論をする、そして国民投票法等の具体的な法案を提出できるような、そういう組織に何とか改組していく、発展させていく、そういう私は時期に来ているというように考えておりますので、この点につきぜひ御配慮をいただきたい、そう強く申し上げながら、発言を終わらせていただきます。

 どうもありがとうございました。

松野(博)委員 自民党の松野博一でございます。

 ここ十年間の国民の政治意識の変化の中で最大のものは、憲法に対する考え方の変化であろうというふうに思います。私ごとでありますけれども、私が政治への参画を目指して活動を開始したのが平成七年、ちょうど今から十年前でありますが、その当時のマスコミの一番最初のアンケート調査の質問事項といいますのが、あなたは護憲派ですか、改憲派ですかという質問でありました。改憲派というふうに丸をつけるのは、大分世論のプレッシャーを感じながらつけざるを得ないというような状況でありましたけれども、十年間で大変大きな国民の意識変化があった。

 それは、日本の果たすべき国際貢献のあり方ですとか、また、新たにテーマとなり、またさらに強く保護されるべきだとされるようないわゆる新しい人権意識の拡大、また科学技術等の発展に伴って出現した課題等々、現状のあるべき日本の姿と将来目指すべき国家のあり方と現日本国憲法との距離感を国民が強く意識し出したことにあるのではないかというふうに思います。

 特に、若い世代に改憲への意見が多いというのが各種のアンケートで出ておりますけれども、これは、現日本国憲法が持つ平和主義、基本的人権、主権在民等のそういった理念というのが、戦後教育を受けてきた私ども若い世代にとっては、自分たちの内在する価値観としても既に確立をされておりますし、現在の日本の繁栄を支える経済システムとあわせて考えてみると、憲法の改正がいわゆる護憲派と言われる方々が危険性を感じる事態には至らない、起こり得ないという意識が若い世代にはあり、現憲法のよさを引き継ぎながら、さらに日本国民の幸せの追求に寄与する新しい憲法ができるのではないかという期待感があるためではないかというふうに思います。

 五年間にわたる憲法調査会における発言も、国民の意識変化、要望をとらえたものが多かったのではないかというふうに感じております。さらに、より具体的な行動、活動に結びつけることが、今日本国国民が望んでいる憲法への意識だというふうに考えております。

 特に、先ほど来先生方の発言が続きましたけれども、国民投票法をしっかりと整備して、そして、国民投票法が整備できる国会の法の改正等々も含めてさらに議論を進めていくべきだというふうに感じております。

 以上でございます。

早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。

 全体を通しての締めくくりということでありますが、中山調査会長を初め、幹事の先生方が本当に公正な調査あるいは審議に当たっていただいたことに心から感謝を申し上げます。

 一昨年の十一月の衆議院選挙で初めて当選をさせていただいて、この一月から調査会の委員に選ばれ、審議に参画をしてまいりました。改めて今回の衆議院の憲法調査会の調査というものがいかにすぐれたものであるかということを実感しております。

 なぜこのようにすぐれた調査になったのかということについては、恐らく、昭和三十年当時の内閣に置かれた憲法調査会の審議の当時は、国民との距離がいささかあり過ぎたのではないか、いわゆる専門家による調査ではありましたけれども、インターネット等の手段が十分ない時代であった。現時点では、憲法調査会における審議が直ちに公開をされ、インターネット等を通じて国民に配信をされる。なおかつ、この調査の手法でありますけれども、憲法制定の経過についての検討並びに国際法的な比較検討を十分された上で、さらにあるべき国家像を探るという作業がなされたわけであります。さらに、地方公聴会、あるいは各分野の専門家等を参考人として招請し、意見陳述をされ、その意見を十分審議の中に反映をされているということであったと思います。

 さらに、委員の構成も固定をしていない、数多くの若手の国会議員が十分審議に参加をし、意見の表明の機会を与えられたということの中で、結果的には多様な国民の意見を反映することになったのではないかと思います。特に、憲法調査会の審議が始まってから三度の国政選挙が行われております。恐らく、その国政選挙において国民の多様な意見が結果的には国会議員の意見の中に反映をされたのではないだろうかと思います。

 さらに大事なことは、学問上の神学論争を排除して、机上の空論ではない実質的な論議に努められたということであります。特に、国会あるいは内閣、司法の経験者から、それぞれの現場の当事者でしかわからないことについて実感を持った意見の表明がなされたということで、憲法調査会は大幅に前進をしたものだと思っております。さらに、それぞれの専門家、研究者による膨大な研究成果を反映した各委員の意見というのがこの調査会の中で披瀝をされていたのではないかと思います。

 こういった調査の経過の中で、いよいよ本当の意味での競い合いの時代に入った、あるいは国民の常識が通用する時代を迎えた、いわゆる日本の改革が国民の常識になり、政治家の常識になった、その延長上に今回の憲法議論があるんだと思います。

 結果的には、これまでの調査の経過を十分に踏まえた新たな国民の世論を一つに集約できるようなそういう機関を設けることが必要であると思っております。

 以上であります。

和田委員 民主党の和田隆志でございます。

 まず、先ほど来、五年の長きにわたって会長初め幹事の方々、委員の各位が真剣な議論をされてきたことに、最後の数カ月だけ御一緒させていただいた者として本当に敬意を表する次第でございます。

 また、その中での議論をお聞きしておりまして、一つ自分で感慨を持って承っておりましたが、この国会の中でも憲法調査会という議論の場は、ほかの委員会よりも相当委員各位の皆様方の意識が高い調査会だなということを感じさせていただきました。委員会ではやはり党派の利害がぶつかり合いますけれども、この憲法調査会という場、出てみて感じたのは、党派の利害を超えて、まず話し合おうじゃないかという雰囲気が芽生えておって、自分としても非常に選挙区に帰って国民の皆様方にきっちり議論していますということを説明しやすい場というふうに感じさせていただきました。

 そこで、これから五年の長きにわたった議論を取りまとめていただく作業に移るんだというふうに伺っておりますが、その際に、この数カ月御一緒させていただいた者の実感として、幾つかお話ししてみたいと思います。

 今度この意見の報告を取りまとめるときには、まず我々として考えなきゃいけないのは、前に日本国憲法を制定した当時と今と、どの程度何が違うのかということではないかと考えます。私なりに頭を整理しますと、二つの点を指摘させていただければと思います。

 まず第一点は、憲法というものに対する国民の皆様の自分に主権が存するんだということの意識の高さでございます。

 これは、当然ながらもう釈迦に説法でございますが、日本国憲法が制定された当時は、前憲法は明治憲法でございますので、明治天皇以来、天皇陛下が裁可してこの憲法が制定、公布されるという仕組みの中で始まったわけでございます。そうしてみますと、日本国民の皆様方からすれば、自分が制定に携わったという意識はほとんど芽生えずして憲法の実施が始まったわけでございます。しかるに、六十年たった今、もし憲法をよりよいものにするならばという仮定のもとに国民の皆様に聞いたとすると、それはまずやはり自分たちが制定するんだという意識を個々のお一人お一人が持っていただいているでしょうし、またいただく必要がございます。

 そういった意味で、我々国会議員として選んでいただいた者のやるべき責務は、まず主権の存する国民の皆様の意見をどの程度集約できるか、そこにかかっているのではないかと思います。すなわち、日本国憲法をこれからよりよいものにするという観点から、国民の皆様方に選択肢を提供できるような報告書にしていただきたいなという意思を持っております。これが一つ目でございます。

 二つ目でございます。

 先ほど来、日本国憲法の改正手続について、今の規定を変えるのかどうか、それに伴って国民投票をどのようにするのか、これらの規定の整備が急がれるという御意見が多数出てまいります。私自身もそう考えております。それを実施していく、その考え方を進めて規定を整備していく中でも、一つ我々として認識しておかなきゃいけない六十年間の動きがあるのではないかと考えました。

 それは、日本国民の皆様方の多様性が相当高くなったということでございます。現憲法制定当時は、日本国民の皆様方がほとんど真一文字に戦争への勝利に向けて一丸となって進まれていたその当時が想起されますけれども、今この憲法を語るときに、日本国民一億二千万人いらっしゃる方々にいろいろな意見があることだけは、我々としても承知しておかなきゃいけないんじゃないかと思っております。

 そういった意味では、改正手続のお話が先ほどより出ておりますけれども、三分の二というふうに定めてあるのは、まさに選ばれた国会議員が、第一勢力、第二勢力、第三勢力もというお話ありましたけれども、国民の多様性を考えに入れながらも、大多数はどのようなところに帰着するのかということをもって報告書を作成していただきたいと思っております。

 以上、私の感じました二点を報告申し上げまして、心よりこの調査会に在籍させていただいた感謝の言葉も含めて、終わりにさせていただきます。

 ありがとうございました。

    〔会長退席、枝野会長代理着席〕

平井委員 私も、締めくくりに関して自分の今感じていることをお話しさせていただきたいと思います。

 約法三章という言葉があります。漢の高祖が秦の煩雑な法律を廃して、殺人、傷害、窃盗のみを罰する三カ条の法を発布したという故事に基づく成語で、転じて、法を極めて簡略にすること、そうあるべきことを示した言葉であります。

 古代の事例を現代の憲法と結びつけるのは早計ですが、私は憲法もシンプルかつ明確であるべきだと考えています。なぜなら、憲法は人を縛るための規則ではなく、その国のあり方、その国の人々の生き方を示す理念そのものだからだと思います。理念さえ明確にすれば、時代の変化には法律の形式で対応できると考えています。

 従来、憲法論議は政治の場でも忌避されがちでありました。ところが、昨今では各党や政治家個人のレベルでも盛んに憲法改正に向けて研究や試案作成が活発になされるようになりました。現憲法が実社会の間尺に合わなくなった結果とはいえ、自主憲法制定、また憲法見直しへの機運が高まったことは歓迎すべきことであります。

 今求められていることは、日本全体を覆う閉塞感、将来への悲壮感をぬぐう思想とスケールを持った憲法論ではないでしょうか。でなければ、主権者である国民自身が誇れる憲法にはなり得るはずがありません。

 維新の立て役者坂本竜馬は、海援隊を率いて長崎から京に向かう洋上、船中八策をしたためました。竜馬が倒れた後にもこの思想は引き継がれ、五カ条の御誓文に結実、その精神は明治憲法のバックボーンとなりました。彼らが未来への想像力を発揮しなければ、長らくは士農工商の悪弊を引きずっていたかもしれません。彼らが行動しなければ、閉ざされた国のままだったかもしれません。

 我々は、本調査会で、国民から選ばれた政治家として、過去を見詰めつつ次の時代に思いをめぐらせながら研究調査に参加し、あらゆる角度から論議を深めることができました。その成果を一人でも多くの国民に知ってもらい、国民一人一人が国の将来について考え、自分たちの思想、価値観に基づく憲法を考えるきっかけになればと考えています。同時に、自主憲法制定への道筋が見えてくればとも思っています。そのためには、一刻も早く国民投票法の制定、また常設の委員会を設置して、この我々の成果を生かせるようにすべきだと考えています。

 以上です。

森山(眞)委員 自民党の森山眞弓でございます。

 議論がいよいよ終局に近づきまして、改正がいよいよ現実のものとなったように思われます。まことに御同慶の至りでございますし、この五年間、会長及び幹事の先生方、御苦労いただきましたことに心から敬意を表します。この改正憲法がもしできましたならば、新しい社会に新たな光を与えると同時に、混乱なく定着していくものであるようにと願っております。

 そこで、私は司法について一言申し上げたいと思います。

 現在の裁判所の違憲審査権の行使についてはさまざまな議論がございまして、ここでもいろいろ話が出ました。

 また、外国には独立の憲法裁判所を設けている例もございまして、それについてもいろいろな言及がされました。しかし、外国はそれぞれの歴史、文化等を背景にしているのでございまして、これらの歴史、文化を異にする日本の社会、統治機構の相違点などをよく踏まえて、十分慎重に検討しなければならないと私は思っております。

 殊に、国会が制定した法律について、他の国家機関が法律の規定自体の合憲、違憲を判断して、その有効、無効を決し得るとする制度を新たに設けるということになりますと、三権分立における統治機構の上での国権の最高機関とされている、憲法の四十一条にも書かれておりますが、そのような国会の地位、機能に重大な制約を加えるということになるのではないでしょうか。

 私といたしましては、現状のように、具体的な訴訟事件の審理に付随して、必要な限度で法令の合憲性を審査する制度、付随的違憲審査制を維持するべきではないかと思います。具体的事件とは関係なく、法令そのものの合憲性を審査する制度、抽象的違憲審査制を日本に取り入れた場合、まずどういう方法でどういう人をその裁判官に任命するかということで、国論が二分するでしょうし、審査があるとき、また判断が示されたとき、あらゆる場合に常に大きな政治問題になる可能性があるのではないかと思います。また、政権交代があったら、なお大混乱を招くであろうということも容易に想像されるわけでございまして、このようなやり方は日本社会になじみにくいのではないかと思うのでございます。

 司法に関連して、裁判官の身分保障でございますが、十年という任期、報酬減額禁止は、裁判官の職権の独立行使を保障して、公平な裁判を担保しているものだと思いますので、これは評価したいと思います。ただ、報酬につきましては、裁判官の職権の独立行使を害しない程度で法で減額することが許容されるべきではないかと思いますし、このことを憲法上も明文で明らかにするべきではないでしょうか。

 また、最高裁の判事の国民審査のことでございますが、これは形骸化しているという批判がございます。確かにそのような感じもいたしますが、ほかにこれにふさわしいシステムがあるかについて考えなければなりません。裁判官の政治的中立性の保持という観点を考慮し、適格性を民主的に審査する制度を慎重に検討しなければならないと思います。

 最後に、国民の司法参加でございますが、さきの司法制度改革の一つとして新たに制定された裁判員制度につきましては、裁判官ではない一般国民が刑事裁判の事実認定及び刑の量定に関与するということになりますので、一部で憲法上疑義があると言われました。司法も主権者国民のものであるということをはっきりさせる、何らかの形で国民の司法参加について憲法の根拠規定を定めるということが望ましいのではないかと思っております。

 ありがとうございました。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 この間、五年間はおりませんでしたけれども、憲法調査会にかかわらせていただきました。その中で、議論していて、国民的な議論があるものについてはやはりこの議会の中でも考えが違うなというふうに思いまして、国民的な争いが比較的ないものは余りないなというふうに実は感じております。

 例えば、環境権をどうかしましょうという話になったときに、多くの方が賛成するというのが大体の議論のようでございますし、そう見てきますと、やはり、最終的には国民的議論で分かれているものはここでは分かれているなというふうに思っております。

 そして、ここのところ気になっておりますのは、一つには、先ほどの前文が関係してきますけれども、もともと何かつくろうとするときになると、その憲法の世界観や哲学や価値観というものが一番最初に出てくるわけですが、そんな中で、日本の憲法の場合には、先ほど三原則が出てきましたけれども、個人の尊厳主義といいますか、一人一人の個人は個性のある価値あるとうとい存在だから、その一人一人を最大限尊重していこうという、この考え方に一番の価値を置いているのが日本国憲法でございます。

 それから始まっているんでして、その中にいろんなちまたで出ている憲法の議論の中では、歴史、伝統、文化、国柄ということをおっしゃるわけですが、その歴史、伝統、文化、それ自体は構わないわけなんですけれども、現に私の党の中にも、歴史的な意味といいますか文化的な意味といいますか、和をもってという話が、協調主義といいますか、国内、国際の協調の話になっておりますし、自然との共生ということで環境権の話になっておりますし、そういう日本の社会的なものを入れてくるということはあるわけなんですが。

 ただ、非常に危惧をする、年のせいかもしれませんが、歴史学的に申し上げるんですけれども、皇国史観という史観がございまして、それは、いわゆるよく松尾芭蕉の不易流行というんでしょうかね、世の中いろいろ移り変わるものがあるけれども、移り変わらない本質的なものがあるんだということで、皇国史観の場合には、いわゆる天照大神が神勅によって三種の神器をお渡しになって、その方が続いていくということ。そして国民の皆様は臣民として奉じ奉る。さらに、三つ目に、こんなにいいことなんだから、これを成果として全世界に知らしめよう、単純に言えばそういうことなんですが、どうしてもそういう、よすがといいますか、においがするような気がして、私が若過ぎないせいかもしれませんけれども、そんなことが実は感じているところでございます。

 そういう部分には、やはりちょっと復古的で古いのではないかな、今までの到達点のこれから先に、日本にもお客様は神様だという言葉がございますけれども、別に本当に神様だと思っているわけじゃないんですね。それにおかげさまという、ここに来られた参考人の中にもおっしゃっている方がおられましたけれども、おかげさま文化であるということで、自然に対しても、山でも海でも人に対してもおかげさまという文化ではないかという話もありまして、日本の歴史、伝統、文化というのはどこまでが共通のものとして盛り込めるのかというところは、まだまだ議論が必要なところではないかというのが一つでございます。

 そして、九条の部分でございますけれども、ここも国民的議論がある部分は当然国会の中でも議論があったところですが、私は前から申し上げているように、九条一、二項は変えない方がいいだろうということを申し上げておりまして、この部分でもなかなか詰めていくと議論になるところだろうと思います。

 そういう意味では、議論のないところから始めるというのが一番いいことでございますし、逆に今度申し上げて、憲法には書いてあるんですが、現実の立法として行政執行として具体化されていないというものもあるわけで、その扱いをどうするのかというのも多分あるんだろうと思うんですね。運用面の現実が違っているというのが認められたんだとすれば、現実運用ができるようにしていかなきゃいけないというのもここでの課題だろうと思いますし、そういう意味で、本来、憲法改正権というのは制度化された制憲権ということでよく言われますね。ですから、その改正する権力というのは、いわゆる権力的契機という意味で、国民でございますので、国民の皆さんの議論は一番重要で、本当に一つずつ理解を求めていかなければならず、なかなか大変なことだなと実は思っているところでございます。

 時間になりましたから、終わります。以上です。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 まず、最終報告書をめぐる問題なんですけれども、先ほど船田筆頭の方から編集方針について幹事会でおおむねよろしいという話がありましたけれども、それは先ほどの枝野さんの話によると第三党までの話で、自民、民主、公明の幹事の方がそういう態度を表明したのであって、私は、これは憲法調査会の規程から逸脱するものであって、同意しないということをかなり詳しく述べたことを発言しておきたいと思います。

 それから、方向性を示すとか議論のウエートづくりをやるんだという話があったんですけれども、これは先ほど私発言で示しましたように、この調査会が何がしかの結論を求めるところではありませんから、私は、幹事会で申し上げましたけれども、そういうことを持ち込むこと自身が編集方針上正しくないんだという立場をとったということを重ねて表明しておきたいと思います。

 二つ目に、いわゆるポスト調査会と国民投票法案をめぐる問題が議論になりました。

 ポスト調査会について言いますと、これは院の構成にかかわる問題ですから、ここで議論すべき事柄でもありませんし、この憲法調査会自身は報告書を議長に提出して終えるということが私は筋だというふうに思います。しかも、憲法調査会の常設化という方向に踏み出していきますと、実際の今の日本の国会のあり方としては、常設の委員会の中で、憲法条項も含めまして、具体的に起こっている問題を地に足をつけた形で議論するということになっておりますから、それは当然既存の常任委員会で大いに議論すればいいことであって、ポスト調査会の必要性はないというふうに考えます。

 それから、国民投票法案なんですが、私は、主権者国民が憲法改正を現実に望んでいない以上、この九十六条の具体化は必要ないというふうに考えるものなんですが、今、議論の中で、国民投票法案について、改正の方向の内容と手続とは違うんだという議論があります。しかし、実際には、自民党を初めとして、各種の提案ですとか論点整理とかいうのを発表して、かなり近いところの問題として憲法改正ということが提起されている以上、それに向けての道をつくっていくことになっていくというのが現実なわけですから、私は、これは単なる手続法だということでの議論をするのは現状に合わないものだというふうに考えます。

 最後に、この五年間の論議を振り返りまして、いろいろ、憲法論議の変化という話がありました。私は、この点はよくよく考えてみる必要がある問題だと思うんです。この調査会でも何人かの参考人の方から、国会や議員が憲法について論議する場合の重要な問題として、幾つかのことが提起されました。

 例えば、ある参考人は、国会議員は、主権者国民の代表者としての権限を授けられた地位にいて憲法の実践に当たっているわけであり、憲法に対して日々、国民一般とは比較にならない強い影響を及ぼし続けてきた、そのことと切り離して、あたかも憲法に対する審判者のごとき高みに立ってそのあるべき姿を論じることはできないというふうに提議をしました。

 振り返ってみますと、日本国憲法は、憲法制定時の審議もさることながら、その後の憲法の専門研究者の間の議論、それから実務家の間での各種の判例の積み上げ、そういう中で大変豊かになってきた憲法としての裏づけがあるわけです。私は、そのことを踏まえた、質の高い憲法論議が必要であって、その点では、多くの参考人が、少なくとも私が出ていました小委員会や全体会の中での発言の中で、日本国憲法の平和と民主主義の原則の意義をお述べになって、これが二十一世紀の日本の進路になるし、世界とつき合っていく上でも非常に大事な中身になるということを強調された点は、我々が踏まえるべきこの五年間を振り返って、非常に大事なものになったというふうに考えております。

 以上です。

伊藤(公)委員 最後に近い締めくくりだというので、改めて発言をさせていただきたいと思います。

 まず、日本の憲法の前文についてであります。

 これまでの平和主義とか基本的人権、そして国民主権、主権在民、こういう基本理念というものはこれからも堅持していくということになると思いますが、戦後、日本はある意味では科学技術創造立国、資源のない日本は、さまざまなトランジスタ製品をつくり、そして科学技術でここまで力をつけてきたと思います。恐らく、科学技術創造立国ということは、今後においても、資源のない日本は当然その方向だと思います。

 むしろ、今まではトランジスタ製品と言いましたけれども、最近は、さらに千分の一ミリ、バイオの研究。二〇三〇年、このバイオの研究でアメリカは約三百兆円の新しい市場を開くと言われているわけですけれども、いわゆる染色体の解明でありますが、日本の今経済産業省に、それでは日本は二〇二五年にそのバイオの研究によってどういう市場が開くのかというと、大体二十五兆から三十兆ぐらいではないか、こう言われています。

 このバイオの研究ではやや日本はアメリカにおくれをとった観がございますけれども、さらにその千分の一、つまり百万分の一ミリ、ナノテクの分野では、いわゆる基礎研究では日本はアメリカに必ずしも負けていない、むしろリードしている部分もある、こう言われているわけでありまして、これから恐らく日本は、もっとミクロな、その研究によって、科学技術全体では今、特に医学だとか薬学だとかあるいは農産物の新しい品種改良だとか、そういう分野でこれからはますます世界に貢献をしていくということになるんだろうと思います。

 そのときに、科学技術の中で、日本のむしろこれからの時代には、もう一つ、環境というものが国際的な地球規模でのテーマになってくる。日本は、ある意味では、この環境に対しては非常に今大きな関心を国民の皆さんは持っていただいています。例えば自動車にしてみると、これはアメリカのNPOですけれども、学者が入ったNPOで、世界の自動車のいわゆる公害というものに配慮された車のベストテン、ほとんど日本の車であります。

 今ちょうど京都会議の問題もテーマになっているわけでありますけれども、日本は、二十一世紀、平和主義、基本的人権、主権在民、そして科学技術創造立国のその先に、新しい地球規模の環境ということにしっかり取り組んでいく、そういうイメージを大事にしていく国家だということを、私は、この前文の基本理念の中にぜひ入れて、日本の二十一世紀の目指す国づくりはどういうところにあるかということを明確にしてほしいということをまず申し上げておきたいと思います。

 それから、個々の問題でありますけれども、最近ちょっと新聞では一院制がやや不利なような新聞紙上もございましたけれども、私は、ちょうど今当会長いらっしゃらないので、会長に聞こうとも思いませんが、会長御自身もたしか参議院で当選をされて御活躍をいただいて、その後衆議院に移られたわけであります。多くの活躍をする議員の皆さんが参議院にはどうも飽き足りない、衆議院に転身する方が多い、そういう現実を見ましても、また、多くの国民の皆さんが、今、日本は二院制は必要ないんじゃないかという声も非常に私は高く感じます。そういう意味で、衆議院と参議院をこれは一院制にして、そして、しっかりその一院制の中で議論を深め、スピードアップをさまざまな政策づくりにもしていく必要がある、こう思います。

 時間が来ましたので、もう一言だけ。

 首相公選をぜひこの機会に実現をしたい。日本が、そういう意味では、国民が政治に対して直接この国のトップリーダーを選べるという制度を、私は、この憲法改正のときに大いに議論をして、ぜひ実現をしていきたいと思っています。

 ありがとうございました。

永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。

 私も、この憲法調査会における五年間の調査検討のうち、昨年の通常国会から参加をさせていただきまして、会長を初めとして、幹事、各委員の皆様方の御努力に対しまして、心から敬意と感謝を申し上げる次第であります。そしてまた、この五年間の調査結果を取りまとめるという非常に歴史的な場面に立ち会うことができましたことを、私も心からうれしく思っている次第であります。

 さて、そこで、この取りまとめの中身でありますけれども、恐らく、この憲法調査会、五年間にわたる調査検討の結果の報告書は膨大なものとならざるを得ないと思います。平成十四年に出されました中間報告は約七百ページに及んでおります。

 憲法改正に至る手続を考えますと、最終的な決定権者は国民にあります。国民投票によりまして憲法は改正されるということを考えますと、この報告書の内容について、平易なパンフレットを作成する等によりまして、国民グラスルーツレベルの議論を深めていく必要があるのではないかと思います。

 あくまでも、今の状況を見ますと、憲法調査会における論議は相当深みを増しているわけでありますけれども、国民各位における論議はそれほど進んでいるとは思えません。したがいまして、ポイントを絞って、小中学校においてはもちろん、高校、大学における授業に取り込めるような平易なパンフレットをつくることによりまして、国民的関心と理解を高めていく努力を国会としても払うべきであると私は考えます。そのようにして国民的議論を深める中で、その国民の関心あるいは反応というものを深くトレースいたしまして、憲法改正に向けての基礎づくりを行っていくべきであろうと考えます。

 それと並行いたしまして、どうしても必要なのが国民投票法であります。したがいまして、この憲法調査会における論議の国民的議論の深化と並行いたしまして、国会におきましては、国民投票法を審議するための場、委員会を設置して、これを精力的に審議する必要があると考えております。

 さらに、憲法改正に至るためには、現行憲法は衆参両院の定数の三分の二以上の合意によりまして発議をするということになっておりまして、硬性憲法の最たるものでありますけれども、憲法調査会の議論におきまして、自民、公明、民主各党におきましては、それぞれ立場が違いますけれども、改憲、加憲、創憲ということで、何がしかの格好で憲法に手直しを加えることについては合意がなされているものと考えているわけであります。

 しかしながら、今のままいきますと、単なる議論のための憲法改正論議に終わってしまう可能性があるわけでありまして、この際、自民、公明、民主各党におきましては、どこが合意できてどこが合意できないかということにつきまして、具体的に、かつ精力的に、相互にその考え方のすり合わせを行いまして、最大公約数を見出す努力をすべきだろうと考えております。その後、国民投票法の成立を待って、憲法改正に至る道筋を具体的にたどっていくべきではないかと思います。

 改正のやり方についてはいろいろあると思いますけれども、百三条と前文全体について見直しを行うということは、今の現状を考えますと余り現実的ではないと私は考えております。したがいまして、硬性憲法である手続条項についての改正、そして国民的議論も深まっております憲法九条にかかわる部分、この九条と九十六条の二条の改正だけであっても最大公約数を見出して改正をしていく、そういう現実的な対応というものが必要になるのではないかと思います。

 柳田国男が「百年の後の人こそゆかしけれ今のこの世を何と見るらん」、こう言っておりますけれども、今我々に課されているのは、現にこの五年間にわたる憲法調査会の議論を現実のものとして憲法改正につなげていけるかどうか、その責任を我々が担っているという自覚を深く持つべきであると考えます。

 以上でございます。

    〔枝野会長代理退席、会長着席〕

中川(正)委員 民主党の中川正春です。

 五年前、四年前にこの調査会が発足をした当時の雰囲気と、私は大分違ってきているんだろうというふうに思うんです。あのころは、私も思い出しますが、何が飛び出してくるんだろうと、おっかなびっくりのような、そんな緊張感みたいなものを持ちながら議論をしたなというような思いがございます。

 それが今、振り返ってみると、案外、この国の未来というものについて、その思いというのは、そう大きく隔たりがないんじゃないか。それをどう表現していくか、それをどう実現していくかというときに、あるいは憲法の上でそれをどのような表現をしていくか、そういう点については確かにそれぞれの思いというのは違う、例外的に全く違うというところもありますが、しかし、かなり、話すことによって、そうした共通項というのがみんなの気持ちの中に今育ってきているんじゃないかなという、そんな思いがいたします。

 それは、幾つかこれまでにも御指摘がありましたが、やはり一つは、イデオロギーから脱皮をして現実的な議論ができるようになってきたということと、それからもう一つは、時代背景それから世界の環境、これが違ってきた、そのことにもかかわらず政治がやはりおくれているという我々自身の使命感みたいなもの、こういうものが私たちの気持ちを今突き動かしているんじゃないかなということ、そんなことを改めて思います。

 これは締めくくりの議論で、何かこれで終わってしまいそうな雰囲気なんですけれども、これからの課題をちょっと整理して提案をしたいと思うんですが、報告書は、これは具体的に整理をしたものがここへ向いて提出をされるわけでありますから、我々は、国民への論点整理がそれでしっかりできているのかどうか、このチェックを具体的にしていくということで、これが最大の仕事として残っているんだろうというふうに認識をしております。

 それから、国民投票については、先ほどの議論のように、私たちも具体的に考えていこうという用意があって、それをどの場で議論をしていくのかというのは、私は、ぜひここの調査会でその方向性も出してまとめていくということが必要なんだろうというふうに思っております。

 そして、最後に、これから先の憲法議論をどうするかということがあります。先ほども、さまざまに提案といいますか見通しがありました。これは全く考え方、それぞれコンセンサスがとれていないんだろうというふうに思うんですが、私は、ぜひこの調査会でそこのところをオープンに議論をして、どういう形でどういう協議体をもって憲法議論を続けていくかということを方向づけるということが、とても大事なように思っております。

 これを政党レベルとか国対レベルとかいうふうなところでまとめてどうしようということの前に、やはり、ここでそうしたことをテーマにしながらしっかり議論をしておく、その中で出てきたコンセンサスを国民に見ていただいて、それで納得をした上でこの憲法議論を続けていくということ、これが、国民に対しても、一緒に参加をして憲法を考えていこうよというメッセージを出すためにも大事なことなんではないかというふうに思っておりまして、残り少ない期日になってきましたけれども、ぜひそういうところも取り組んでいただいて、テーマとして我々が議論ができる場をつくっていただければありがたいというふうに思っております。

二田委員 自由民主党の二田孝治です。

 きょうまで五年間、本当に理事の皆さん方も調査会長も御苦労さまでございました。心から敬意を表します。

 現憲法のことについて考えてみますると、現憲法というのは、私どもにとりまして非常にやはり大きな影響を与えてきた、こう思っております。殊に、平和希求主義というものは、日本人の心に深く踏み込ませるその効果というものは多大であったんじゃないのかな、こう思っている者の一人でございます。

 ちょうど私どもは、憲法が発布されましたときには小学校の二年でございました。それから、戦後教育を受けたのは、この憲法はすばらしいものだというようなことを受けてきたような感じがいたします。そういう意味におきましては、歴史的には非常にやはり大きな効果をもたらしたな、こう思っております。

 ではございますけれども、そのこととはまた別に、日本の一つの国に対する影響というものを考えてみますると、我が国は、この憲法を盾にしながら、一国平和主義に閉じこもり、そして世界に対する、各国に対するいろいろなまた責務も逃れてきたということもこれまた一つの事実であると思います。そして、戦後何十年間というものは、それも世界も認めてまいったのでございましょう。しかし、先ほどからのお話のように、今、現下の世界情勢も世の中の情勢も大きく変わっていっているな、こう思います。でございますので、今時代に合わなくなっているということもこれまた確かな姿じゃないかな、こう思うわけでございます。

 私の経験の一例を述べてみますると、私は、国会議員ですけれども、地元でもずっと防衛協会の会長を務めております。私の前の佐々木義武という人が防衛協会の会長、これも四十五年ごろでしたでしょうか、だれもやる人がおりませんでした。だれもやる人がおらないものでございますから、自分が引き受けたということであったわけでございます。

 私は、その後を受けまして、県会の時代からずっと防衛協会の会長をやっておるのでございますけれども、当時、各町村に参りまして防衛協会に入ってくださいと言っても、大部分の町村は、議会に反対されるから参加できません、こういう回答をいただいておりました。今は秋田県下の全市町村が入っております。九条、自衛隊の問題に関しましても、これだけのやはり意識の変革が出てきておる、こう思います。

 そういうこと等を考えてみますると、現在の地方自治に対する条項もこのままでいいのか、両院の制度の問題に対してもこのままでいいのか、そしてまた、最も大事な九条の問題に対してもこのままでいいのか、前文もこのままでいいのか、いろいろな矛盾を抱えていることは、これは確かでございます。

 しかし、先ほどからの議論のように、ずっと指摘してきたように、九十六条の条項で言いますと、明らかに我が国の憲法は、これは硬性憲法でございます。GHQ、不磨の大典ということにして、これは恐らくつくって与えたものでございましょう。だから、ある意味では改正することはまかりならぬよというようなことが改正の手続諸規定に、これは明らかにその考えというものが記されているというふうに考えます。

 でございますから、どうかひとつ、この九十六条の問題をまず改正しながら、現実的な憲法、憲法といえども法律でございますから、不磨の大典ではございません。そういう意味で、この改正が現実的にできるような方法をなお一層模索していく必要があるのではないかな、こんなことを強く思っておるわけでございます。

 時間になりましたので、これにて発言は終わらせていただきますけれども、どうかひとつ、そういう点をよろしく会長、御検討のほどお願い申し上げたいと思います。

山花委員 民主党・無所属クラブの山花郁夫でございます。

 締めくくりに当たりまして、幾つかの点のことを申し上げたいと思います。

 まず、憲法の改正論ということが議論になるということの脈絡で申しますと、従前より申し上げておりますとおり、改正をするというのであれば、やはり、改正したものについてはきっちり守る必要もあるでしょうし、また、それ以前に、現行の憲法についても、それがいいとか悪いとか意見はあるんでしょうけれども、現行憲法典として通用力を持っている以上は、それはちゃんと守るという前提がなければいけないというふうに考えております。その上で、だからこそ、従来、憲法典で期待されていたような形での違憲審査制が十分に機能していなかったのではないかという認識から、憲法裁判所などの創設ということの問題提起をさせていただいていたわけであります。

 先ほど、日本の文化、伝統などもあるからというお話がございましたけれども、私にはそこは少々理解に苦しむところでありまして、つまりは、日本的な司法文化の中で違憲判決が余りにも少なかったから、そういった立法事実に基づいてこのような提案をさせていただいているということが一点。

 また、そのような抽象的違憲審査を認めることになると、権力分立の観点からいかがかというような御批判もございましたが、もちろん、人権条項等、あるいは憲法改正の限界に絡むと言われている点については留保をするとしても、もし本当に、政策的な課題として必要なものがあるということで出した法律が憲法裁判所によって憲法違反だと言われたのであれば、国会は再度、それであれば憲法の方を正そうじゃないかということで、提起する権限というものが現行憲法上もあるわけでありますから、それがまさに権力分立のダイナミズムではないかと考える次第であります。

 また、この何年間か議論をさせていただく中で、特に人権条項なんだと思うんですけれども、責務ということを入れたらどうか、あるいは、国民の側にも一定の何らかのことを書いたらどうかというような議論もございました。

 私は、それには余り賛成はできません。つまりは、ただでさえ、今、きょうの議論でもあいまいじゃないかというような発言が出ておりましたけれども、国民に対して例えば責務を課す、憲法に書くということになったときに、ある具体的な国民の行為は憲法違反だと評価されることが起こり得るのでしょうか。つまりは、合憲、違憲ということがそういった形で極めて規範として拡散するおそれがあるのではないかと思います。

 憲法典に書く以上は明確にという主張をされる方が国民の責務を書いたらどうかという話は、私は、ちょっと論理的に二律背反ではないかと感じます。もちろん、言われている発言の中身が賛同できないということではなくて、それを憲法典に書くということについては賛同できない、こういう意味であります。

 また、問題なのは、憲法典に書くかどうかということだけではなくて、先日も申し上げました、附属法令としてまだまだ十分でないことがあるのではないか。つまりは、憲法に書かれている以上はちゃんと守りましょう、もしそれが破られたときにどうするのかということで、自由権的な規定であれば、それを憲法違反の行為である、あるいは法令が無効であるとすれば原状回復をすれば済むんでしょうけれども、社会権であるとか、あるいは国務請求権であるとか、そういった一定の作為だとか給付を必要とするものについては、憲法違反だと裁判所が言ったところで、具体的な争訟事件に対する有効な回答ではあり得ないわけでありまして、その意味で、憲法救済法的なものも今後検討していく必要があるのではないかと考えております。

 最後に、今まで余り申し上げてまいりませんでしたけれども、現行憲法は、いろいろな制定過程があり、また法的な評価として、例えば八月革命があって国民主権のもとで定められたんだというような説明はともかくといたしまして、形式的には、昭和天皇が「帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」というふうな形で公布された、例えば前文に対して、自虐的であるとか、あるいは読んでいて恥ずかしいであるとか、そういった発言が出てくるのは非常に不穏当なことではないか、私はこのように感じたということを申し上げて、発言を終わります。

加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。

 私は、昨年の秋からここへ参加させていただいて、本当に大変短い期間でありましたけれども、ある意味で、こういう審議の進め方を踏まえて、この憲法調査会に参加させていただいて本当にありがたかったというふうに思っております。

 そういう意味で、この五年間の議論すべてを承知しているわけではありませんけれども、この間のここでのさまざまな御議論を聞いていると、そこに一つの流れがあるのではないかな。憲法の議論について、もう一つ先のステップに向けて動き出す段階になってきた、また、さまざまなここでの議論等がマスコミ等に載る中で、国民的にもそうしたものを期待する声も私の耳に入ってきている、そういう思いがいたします。

 これから先の進め方については、具体的にどうするのか私も承知をしておりませんけれども、この憲法調査会という形でさらに進めるのか、また違う形で進めていくのかはともかくとしても、私としては、今申し上げた、この論議をさらに進めて、改正に向けての動きをもう一歩先に進めていく時期にあるのではないかというふうに思います。

 それから、ここでの議論を聞かせていただきながら、あるべき国をどうしていくのかという議論と同時に、憲法というものに何を盛り込むのか、そこに何を求めていくのかということが一つあるのではないかという思いがいたしました。国、権力対国民という位置づけ、関係という議論も確かにあるわけでありますが、しかし、それと同時に、日本国民にとっての日本国憲法をどういうものにしていくのか。そういう意味では、私は、むしろそこに積極的に、この国の形であり、どうしていくのかという姿をしっかりと盛り込んでいく、そういう姿勢が必要ではないかというふうに思っております。

 そして、当初の議論の中で、枝野委員からもお話がありましたけれども、いずれにしても、これから憲法の議論を国民的な論議にどう結びつけていくのかということは大変大きなポイントだと思っております。

 私もここで聞かせていただいても、かなり個々にわたる話も相当入ってきている。その辺をどう仕分けをしながら、ある意味では、まずこの五年間の論議というものをどう国民にアピールしていくのか、伝えていくのか。単に取りまとめるということだけではなくて、ここはやはり国会という場であり、ある意味では税金によって賄われている、国民に対してきちんとその成果を反映していく。そういう視点から、どうか報告書の作成に当たりましては、非常に一般の国民から見てわかりやすい形での取りまとめ、あるいは、論議は論議としての取りまとめは一つとしながら、アピールするものということを国民にどう伝えていくかというような形での取りまとめた部分ということも、ひとつお考えになっていただきたいというふうに思っております。

 そして、さらにそれから先へ行けば行くほど、いざ議論のときに、条文すべてを国民のそれぞれの議論に結びつけていくというのは、私はなかなか現実的ではないというふうにも思います。

 そういう意味で、この憲法調査会の報告書はこれからの国民論議と進め方を非常に規定するものでもあるというふうに思いますので、そういう視点からの取りまとめをお願い申し上げまして、発言を終わらせていただきたいと思います。

 ありがとうございました。

古屋(圭)委員 自民党の古屋圭司でございます。

 私は、いかなる報告書をつくるべきかにつきまして、基本的な考え方に絞ってお話をさせていただきたいと思います。

 五年間の議論が行われました。質、量ともに、他の委員会あるいはかつての調査会をしのぐものであったということは、恐らく全委員のひとしく認識するところだと思います。

 我々は国民の代表として真摯な議論を重ねてまいりました。したがって、その内容は正確かつ正しくこの報告書に反映をしていく、我々はその責任を負っていると思います。

 そういう視点に立って、いかなる報告書の内容にしていくか。

 まず第一点は、現行憲法の果たしてきた役割をしっかり記述する。一つ、現行憲法がもたらしているふぐあい、すなわち、現社会との非合理性、非適格性を指摘する。一つ、現行憲法の評価できる点。一つ、現行憲法の評価できない点。一つ、具体的な改正点。一つ、改正不必要の意見。こういった意見を報告書に反映する必要があります。

 その書きぶりについては、先ほど船田筆頭の方からも意見がございましたが、ウエートづけをする、いわゆる重みづけをするということは極めて重要だというふうに私は考えます。なぜか。それは、我々は国民の代表として議論をしておりますので、先ほども申し上げましたように、正確かつ正しくこの報告書に反映をする必要があるからであります。

 この上で、現行憲法の制定時と現在の社会経済あるいは国際情勢の変化を客観的事実としてとらえた上で、最高法規たる我が国憲法のあるべき姿について提言をしていくべきだと思います。このことは、一部議員が指摘する決して結論を出していくというものではなく、この調査会の報告に当たっての基本的な考え方からも逸脱するものではないというふうに考えております。

 しかし、現行憲法でも規定されているように、最終的には国民の過半数の判断によって、仮に改正が行われるときにはそれが条件になっているわけでございますので、我々としてはやはりその報告書を広く国民の皆さんに提示をしていく、こういう必要もあろうかと思います。そのためには、多くの国民にこの五年間にわたる議論の中身を知ってもらうという意味合いからも、いわばダイジェスト版のようなものを同時に出すべきではないかというふうに私は思います。さらに詳しい中身を見たいという人については報告本文を参照していただく、こういう二本立てによってこの報告書をつくっていくべきではないか、こういうふうに思います。

 以上であります。

中谷委員 中山会長のもとに、与野党の委員の皆さんと五年間、この調査会において御意見を伺い、自由濶達に憲法議論をさせていただいたことを心から感謝を申し上げます。

 感じますことは、憲法改正、改正反対と言われている方のそれぞれの発言に理論がありまして、一理あるところで間違いはないということであります。私も意見を述べて反論をしたこともありますが、後になって、あれでよかったのかと、こちらも発言を振り返り、点検し、反省することもありました。これからは、お互い正論があるわけですから、さらに議論をいたしまして、我々は何を選択すべきか、さらに掘り下げて国民に納得してもらい、今後、議論、研究を継続していく必要があると考えます。

 もう一つ、この調査会で議論を継続していく必要は、国会で憲法議論をすることは、国民が今期待をして注目をしているということです。今の日本、このままどうなるか、将来に対する不安を国民は感じておりまして、その点を政治に期待いたしております。護憲、改憲論者、双方の論者にとって、国民のかわりにここで議論することは、国の将来のこと、自分たちの住んでいる国のことを考える機会を国民に与えているという機能を果たしております。

 私は、最近のニュースで驚くことがありました。イラクで選挙が実施をされましたが、この投票率が五八%であったということであります。最近の日本の総選挙は五〇%近くの投票率で過半数を下回る、そういう心配をしております。まさに国民の政治離れというものは進んでおるわけでありますけれども、イラクではテロの危険が言われまして、まさに命がけで投票所に行ったわけですね。それでも五八%。片や日本では、街頭であなたは憲法をどう思いますかと質問しても、ああ、読んだことないわとか、中に何書いているのでしょうかという認識でありまして、まさに、この国に対する目を国民に向けさせるためには、しっかりとした憲法議論をすることが肝要だと思います。

 もう一つ、この議論の収穫は、事務局の人の整理のおかげで膨大な議事録ができまして、ゆっくり落ちついて憲法を勉強するときの参考になっております。

 現在、参議院でも憲法議論が行われていますが、心配することは、これからのさらなる議論を、さらに深く議論をする場合の衆議院の事務局体制、これが今のままで大丈夫かということであります。本来、立法府というのは憲法を立案するところでありまして、衆議院の法制局も限られた人員でやっていますが、これだけの膨大な議論には、もっと多くのスタッフ、専門家、法律家、研究家、そしてその分析、意見提言があってもよいと思います。

 今まで憲法調査会が常設でなかったというところにも、法治国家としての大いなる私の疑問があるわけでありますけれども、憲法が大事であればあるほど、その専門委員会をきちんとつくっておくということも必要でありますし、幸い、国立の国会図書館がございます。ここにも多くの憲法の専門家がいて、多くの文書、文献が整理されているし、非常に高い能力を有していると聞いております。参議院でも法制局があります。スタッフは探せば近くにもいるわけでありますので、ぜひ立法府の立案機能の強化、活用という観点で、憲法調査会が常設となりまして、落ちついてすばらしい議論ができることが必要であると考えます。

 以上、私の発言とさせていただきます。

三原委員 自民党の三原でございます。

 私は、この五年間のうちの最後のわずか四カ月だけ委員にならせていただいて、参加させていただいて、いろいろなことを勉強させていただきました。感謝申し上げたいと思います。

 私自身は、特に憲法第九条の改憲ということを時代の要請である、こう思っておりましたものですから、その点でも何度か議論をさせていただいたことを感謝申し上げたいと思います。

 もともと我が国に憲法という意識ができてきたのは明治維新からであります。あの当時も、実は、みずからつくり上げたというよりも、使節団をドイツに出し、イギリスに出して、帰ってきて、やはり我々は天皇をいただいてのドイツ型の方がよかろうという結論から大日本帝国憲法というのが百十余年前にできたわけです。

 そのうち、年ふること、今を去ること六十年前に、今度は、敗戦の後に今日の憲法というものをまた我々は認めて、六十年間来たわけでありますけれども、そのときも、今三つの柱になっております考え方あたりは、実は反面では借りてきたような場面もあったわけです。しかし、それは借りてきてからどうこうというよりも、あの当時の国家情勢、国民の意識からすれば当然のことであったし、私は、今の憲法は借り物憲法だというような気持ちは持ちません。厭戦気分もあった国民が今日のように九条を選んだというふうに認識いたしております。

 そういう中で今日までやってきましたが、実に、今の憲法というものを、国内への影響、対外的な影響というようなことから考えてみますと、私は、国内的には、今の憲法のもとでいろいろな法規範をつくっていって、我々はさらに福祉国家として平和で安定した国民生活を続けていくことが可能ではなかろうかと思っております。

 しかし、一方、対外的なことから考えますと、今の憲法では行き詰まっておると私は感じざるを得ないわけであります。何も、これは軍事面のことだけを申し上げているわけではありません。これほどまでにグローバルな形の民間企業あたりができてきて、それに対する把握あたりが、国内ではできても世界的にはできないような状況がある。どの国家も十二分に民間企業をコントロールできないような社会でもあるというようなことを考えてみたり、また、よくここでも議論しました環境問題に関する考え方を考えてみたり、ローマ・クラブが言っているような、一面では、人口のこれから先の爆発的な増加もあるであろうというようなことも考えておられたりということを考えますと、今から我々は真剣に議論していかなければならない国際的な問題は山積しておると思っております。

 そういう中で、では、我が国の憲法がどのような働きができるんであろうかと考えたときに、まだ我々が議論していかなければならないような問題がたくさんあるような気がいたしたわけであります。それから考えますと、これから先改憲をしていくという中で、今申し上げたようなことをもそんたくをしたフェアな国際社会をつくる。

 そして、国内的には、忠恕といいますか、特に弱者に対する思いやりをさらに深めたような意見を、考え方を広げていけるような基礎となる憲法をつくる、こういうことが大切なことだと私は思いますし、そのことが実は、百九十以上もある国連に加盟しておる国家の中で、我が国がこれから先、さらに国家を健全なものにしていこうとする国がたくさんあるとするならば、我が国こそその範に足るというような国になっていけるんじゃないか、そんなロマンチックな気持ちを持ちながら、私はこの会に出させていただいておったような次第でございます。

 ありがとうございました。

渡部委員 民主党・無所属クラブの渡部恒三であります。

 非常に短い時間でありましたが、私は、この憲法調査会に入れていただいて感謝いたしております。

 私は、国会に議席を持って三十五年になりますけれども、今までの経験の中で、こんなに自由に、濶達に、誠実に、この国をどうするかについて議論しておられる皆さんの姿を初めて見ました。今、残念ながら、国会の権威は地に落ちておりますけれども、国民の皆さんにこの憲法調査会の審議の実態を知ってもらえれば、国会の権威はさらに大きくなっていくと思います。

 私が憲法改正の必要を痛感したのは、湾岸戦争のときに、予算委員長、九十億ドルの支出を一日も早く通さなくちゃならないということで仰せつかったときであります。

 自衛隊の任務、九条の解釈、いろいろ集中国会しました。そのとき、委員長の席におってしみじみ感じたのは、これは当然、総理大臣、それから法務大臣、今の法務大臣よりは若干法的知識のある方だったような記憶がありますけれども、これが審議の中心にならなきゃならないのに、総理大臣もだめだ、法務大臣も要らない、法制局長官、どう考えるかということに質問が集中して、中身、正確には忘れましたが、何かヘリコプター、自衛隊のが一台出ていいかどうかが、何か天皇陛下と難民を一緒にした法制局長官の答弁で出るようになった記憶がありますけれども、憲法がどうかということが、総理大臣よりも法務大臣よりも、法制局長官の一言で憲法違反であったり合憲であったり、そんなことでいいのかと。やはり時代が変化し、国際社会が変化し、生活が変化する中で憲法は変えられなければならないなということをそのとき感じました。

 ただ、そのときもう国会議員になって二十年近くなっているわけで、非常に自分として不勉強なことを恥じましたのは、憲法は、当然、国民投票によって決めなければなりません、ところが、その国民投票の手続の法律がないということを、それまで国会議員を二十年もやって知らなかったので、本当に恥ずかしい思いをしました。しかし、聞いてみると、ほとんど知らない人が多いんで、何と国会議員というのは勉強していないかと。

 そのときから、やはり少なくともこの憲法を守るためには、国民投票の手続法がなければ守れないわけですから、これはもう当然、超党派でつくらなきゃならないと考えました。

 せめて今度の国会、これだけの新しい時代を迎えた変革の中で、国会で議論されたのが郵政民営化だけだったのではちょっと寂しいので、これは三党が合意すればあしたにでもできる話ですから、この国会で国民投票の手続法ぐらいは、こっちもみんな、これは三者じゃなくて五者でやっていいわけだけれども、恐らくなるんじゃないかと思いますが、すぐできるはずですから、会長、この国会でせめて手続法ぐらいは実施していただきたいと思います。

 また、今護憲が、土井さん、大事ですけれども、憲法を守るためには守られる憲法にしなきゃ守れないわけですから、やはり国民が、私は大臣を何遍かして答弁席でしみじみ感じたのは、大臣席に座っている者、自衛隊は軍隊であると言った途端に首になりました、私がやっていたころは。しかし、世界で三番目の予算を使って、今の自衛隊が軍隊でないなどと思っている国民は一人もいませんよ。それから、大臣になれば自衛隊は軍隊でありませんと言わなくちゃならないわけですから、うそをつくな、うそをつくなと言っておって、大臣になればうそをつかなければ務まらないとは、こんな憲法で立派な教育もできるはずありません。

 どうぞ民主党の皆さん、おれも民主党なわけだけれども、現実的に、じっくり話し合ってこの憲法改正をまとめれば、次の解散・総選挙では自民党にかわって政権をとるようにお願いして、私の話を終わります。

赤松(正)委員 五分間で終わっていただくのは残念なぐらいに、渡部大先輩のお話の後で話をさせていただきます。公明党の赤松正雄でございます。

 私は、この憲法調査会が五年間の調査を終えるに当たって、率直に言って複雑な心境でございます。といいますのは、今大半の皆さんが、すばらしい調査会だった、こうおっしゃる。私、この調査会が非常にほかの委員会に比べて独自の役割を果たしたということを認めるのにやぶさかじゃございませんが、とりわけいい点としましては、私が思い出しますのは、小委員会で議員同士の議論ができたこと、非常にいい経験になったと思います。社民党の皆さんや共産党の皆さんといろいろ議論できた機会があったということは、少なかったですけれども、非常に面白かったと思います。

 ただ、総じてやはり言いっ放し、聞きっ放しというか、それがまたいい側面もあるんですけれども、憲法に対してどう思うかということについて、さっき先輩の方から、それぞれがいろいろな意見を言ったからよかったという話がありましたが、そうなんですけれども、同時に、物足りなさが残ります。

 私どもは今回、この最終締めくくりに当たって、当委員会に所属しない委員をそれなりに、政党の数にしては大量にここに来てもらって発言をしてもらいましたけれども、意外に、何だ、五年間やった割には、要するにみんな勝手なことを言っているだけだねというふうなことを言う人もおりました。ある意味でそれはしようがないことでありまして、いろいろな角度から広範囲に調査をしよう、研究しようということでやったわけですから、それはしようがない側面だとも言えるんですけれども。つまり、方向性を収束させる方向への試み、営みというものが余りできていないということが私の、非常にいい機会で、なかなか充実した議論を聞くことができた、またすることもできたけれども、さて、ではどうするんだということは残るという話でございます。

 まさにそれは、本来、もともと五年かけて、報告書について、憲法調査会の規程にもありますが、調査の経過及び結果を記載した報告書を作成すると第二条にありますけれども、つまり、経過とやはり結果をきちっと報告するという流れの中で、この五年間いろいろな角度から議論をしたということについて、先ほど私の言った収束するという部分で、もちろん、要するにいろいろな意見、違う意見をぶつけ合って、何らかの形で一定の方向性を見出すということの部分では物足りない部分はありましたけれども、総じて言えば、やはり何らかの形で、この憲法は現状のままでは不満足である、どういう角度でどうということは課題を残すにしても、変える必要あるねというのが、やはりこの五年間の調査の結果としてそういうものがあったということは、はっきりと会長の方から議長に提出されるべき報告書の中に盛り込まれねばならない、そんなふうに思います。

 実はそこから新しい議論が始まる。先ほど中谷委員からも、今後の調査研究という話がありましたけれども、そこからいよいよ本番が始まるというふうに私は思います。当初、この調査会が始まったときに、五年間ここでしっかりいろいろな議論をして、そこから、その時点で、先ほど私が申し上げましたその結果は、やはり何らかの、変革、改革、改正、言葉はいろいろ言いますが、そういう必要があるということが出た時点から、それぞれの政党がそれぞれの考えを表明し、そして、朝の場でも申し上げましたけれども、先ほど渡部大先輩からの話に、国会の権威は地に落ちているという話があったわけですが、そういう国会で憲法を変えるという話って納得できない、そういう意見も一方であるわけですから、つまり、国会議員だけの議論ではなくて、幅広い国民の中から憲法に対する意見もしっかり聴取して、五年ぐらいさらにかけてきちっとした方向性を出す、そういう場を設けていくべきではないか、そんなふうに思う次第でございます。

 以上です。

鹿野委員 この五年間、この憲法調査会で議論されてきました。きょうは最後の機会だということでありますので、意見を申し上げたいと思います。

 今なぜ憲法なのかというふうなことであります。かつて我が国においては、経済一流、官僚二流、政治三流、こういうふうに言われておったときがありました。しかし、今日の状況は、経済は全体としては容易ならざる状況であります。官僚は信頼を失ってきております。政治は今さら言うまでもありません。果たしてこれからの日本の国、どういう形の国をつくっていくのか、どういう社会をつくっていくのか、どういう姿を求めていくのかということを考えたときに、現憲法典が適合しているのかどうかというふうなことをまずしっかりと受けとめていかなければならないと思います。

 それで、近代憲法のいわゆる柱というものは、言うまでもなく人権保障と統治制度だ、こういうふうに言われてきました。残念ながら我が国の憲法の議論においては、この統治機構において非常に関心が薄い、こういう面があったんではないかと思います。しかし、現実的に、我が国の意思決定なり我が国の政策決定というものが、だれがどこで行われているのかということがわからない、そのあいまいさというふうなものが次から次と露呈しておるわけであります。これは統治制度のあいまいさであると思います。

 そういう状況の中で、本当にどこに問題があったのかというふうなことも研究される機会が少ない、責任をとるというふうなことも少ない。これでは国は治まっていかないと思います。

 そこで、時代は変わってまいりました。経済の成長も限界があります。そして、いわゆる国民の価値観が非常に多様化になってきましたから、政策選択の優先順位というものもつけていかなきゃならないというときを迎えております。また、国際情勢も流動化しております。国益なり国際益というものを踏まえた、本当の国際協力なりあるいは国際貢献が求められている時代が来たと思います。

 そのためには、統治制度、統治システムというものをより明確にしていかなければならないと思います。すなわち、そのことが、官のもとにおけるところの国ではなしに、民のもとにおけるところの国というものをつくるというふうなことであります。このことによって、国民が、どこかでだれかが決めてくれるだろうというこの依存体質から抜け切ることになるのであります。

 自分がみずから判断し、そして、みずから判断した限りは責任を持つ。そのかわりに、判断しやすいように、できるだけわかりやすいシステムにしていかなきゃならない。今のようにできるだけわかりにくいようなものであっては、それはもう、情報も提供されないような状況では判断しにくい。できるだけわかりやすくしていく、このことによって、本当に我が日本の国が真の独立国家になり、真の民主国家になるものと思います。

 そういう意味で、我が日本の国は新しいスタートが求められていると思います。その新しいスタート、すなわち国の柱を立て直していくときだと思います。すなわち、未来を見据えた憲法構想をつくることだと思います。ゆえに、この五年間の憲法調査会におけるところの議論、これをただ単に論憲に終わらせてはならない、こういう考え方を持つところであります。

土井委員 社会民主党の土井でございます。

 先ほどから、自民党の方からの御意見の中にもこれが出ておりましたけれども、私と初当選が同期の渡部議員が同じような趣旨をおっしゃいましたので、いよいよ、一言これははっきり申し上げたいなという気持ちを強くいたしました。

 それは、言うまでもないんですが、この憲法調査会は、九九年の八月だったと思いますが、国会法の一部改正をしてつくられた調査会なんですね。その国会法を一部改正する節に、与野党間で随分これは協議を重ねております。

 非常に熱心に討議された中身で一番重点になっているのは何だろうと、会議録をひもといてずっと追求してみますと、やはりこの憲法調査会というのは、改憲を目的にしている場所ではないんだと。お互いが、日本国憲法のありように対して、実際問題にそれが生きているかどうか、生きていなければなぜ生きていないか、生きているとするならばそれの評価という問題を調査するということで、しっかりやってもらいたいということにこたえようというのが、大体、与野党間が話し合って、結局、終着駅はそこにたどり着くという形になったわけですね。

 それで、それを何とか具体的にしなければならないというので、議案提出権がないということをお互いが申し合わせとして確認した上で、国会法の一部改正をしてこの憲法調査会が設けられたといういきさつがあることは、知らない人は一人もいないと思うんです。

 私は、ここに参りまして、五年というのをずっと務めさせていただくことはできませんでした。一昨年の十一月後でございますが、参りまして、ああ、これはほかの委員会とわけが違うと。どこが違うかというと、議席数に応じた発言時間ではない。あのドント方式でやられますと、恐らく私どもの方は五分もないだろうと思うんですが、しかし、みんな同じ時間を持って、同じ時間割りで発言が認められるというのは、機会均等という点からすると、意見を申し述べるのには非常に好ましい状況でありまして、これは、さすがやはり憲法調査会だなというふうに言われてよい点だと、私は実は本当に思うんですね。

 私はよく時間オーバーで注意を受けてもやめないという悪い癖が身についているところは正さなきゃいけませんけれども、しかし、本当に、国会の中では、こういうドント方式でない質問のあり方というのが、実はその権利というのを非常に尊重しているゆえんであるというふうに言われて、私は、そうですよと答えたいと本当に思うんです。

 ただ、その中での申し合わせが、今までは確かに守られてきた。しかし、ここからなんですよね。さっきから御発言を承っていますと、最終報告書を提出すればそれで終わりじゃないので、国会法をさらに変えて、この憲法調査会が、日本国憲法について今度は改憲していく場所になると言わんばかりの御発言が続いているんですよ。

 先日来、新聞を見ますと、与党の間で、その点に対しては既に話し合いができ上がっちゃっていると。憲法調査会の設置目的を、今の、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うということに限定しないで、今度は、国会法を変えて、いよいよ、今の国民投票法案について提案を受けて審議をするという場所にしていく必要があるということで合意したという記事なんです。実際に憲法改正手続を決めた国民投票法案について審議をするということの合意となると、話が違ってきますよ。

 これは、先ほども渡部議員は言われましたけれども、長い間、私たちは同じ経験を今までの国会活動の中で持ってきました。その間の時間は同じです。ただ、これほど国会が地に落ちたときはない、実感ですよ、本当に。これは私たちが感ずるだけでなくて、国民の皆さん方からのいろいろな御批判を受けるのはその点なんです。

 少なくとも、ここで決めたルールは守っていくというのが、憲法問題について考える立場の基本じゃないんでしょうか。ルール破りは、これはいけませんよ。ルールを破ってこの憲法調査会が取り決めをやったって、何にも取り決めにならない。そういうやり方でやったのでは、これは後々、急がれる改憲も、信用できる中身でないということになりますよ。

 したがって、この合意、改憲案を発議できる常任委員会に憲法調査会を衣がえさせることには、絶対反対です。ただいまは、つくったルールをまず守りましょうということをはっきりさせなきゃならないときだと私は思います。

 そして、これは、憲法調査会設置時のルール破りが、趣旨に合致しないばかりか、政治が主導する形で憲法の改悪の機運だけをいたずらにあふることになりかねないということを申し上げさせていただいて、ベルが鳴っておりますから終わります。

中山会長 他に御発言はございませんか。

 それでは、発言も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

    ―――――――――――――

中山会長 この際、幹事会での申し合わせに従い、一言ごあいさつを申し上げます。

 日本国憲法について広範かつ総合的な調査を行うため、平成十二年一月二十日に衆議院に設置された本調査会の任務は、その設置目的に従ってその調査を行い、調査の経過及び結果を記載した報告書を作成し、議長に提出することであります。本調査会の調査期間は、議院運営委員会理事会の申し合わせにより、おおむね五年程度を目途とするとされておりますが、本日、全体を通しての締めくくりとしての自由討議を終え、今後は、報告書の取りまとめに向けての作業が行われることになろうかと存じます。

 そこで、本調査会設置以降の調査を通じて特に印象深く感じた幾つかの点について、私の所見を申し上げたいと思います。

 本調査会は、設置以来、その任務を達成するため、日本国憲法の制定経緯に関する調査から開始し、戦後の主な違憲判決に関する調査を経て、二十一世紀の日本のあるべき姿に関する調査を実施いたしました。

 その後、本調査会のもとに小委員会を設置して憲法の全般にわたって専門的かつ効果的な調査を遂げた後、今日に至っております。これらの調査活動の中では、憲法学、政治学を初めとする社会諸科学はもとより、人口論、ゲノム、ITなどの自然科学の視点からの調査を行うとともに、本日のように委員間の活発な自由討議を行ってまいりました。

 他方、この間、合計五日にわたる公聴会、及び全国九カ所で地方公聴会を開催して、国民から憲法に関する意見を求めるとともに、憲法調査会委員で構成された憲法調査議員団による海外調査を通じて、比較憲法的な観点から諸外国の憲法事情についても調査を行ってまいりました。

 本調査会では、これらの調査の成果も踏まえながら調査を行ってきたところでございます。

 この間、本調査会において国民の目線で真摯に行われた議論の中から幾つかの特徴について申し上げるならば、その特徴の一つに科学技術の進歩と憲法があります。

 戦後の目覚ましい科学技術の進歩が、国家の法制度に重大な影響を及ぼす可能性のあることが明確になったと存じます。例えば、クローン技術や遺伝子組み換え技術が乱用された場合の倫理面や環境面への弊害は予測できないものがあり、これは翻って、日本国憲法の最高価値である個人の尊厳に重大な影響を与えかねない問題であります。また、電子政府の導入や民間における個人情報データベースの構築に伴い、ユビキタス社会における個人のプライバシーの保護が従前にも増して緊要性を増すとともに、国民の情報アクセス権が議論されるようになるなど、情報通信技術の進展が社会や法制度に及ぼす影響もはかり知れないものがあります。

 これは、憲法制定時には想像もつかなかった国内外の情勢の変化の一つにすぎません。

 冷戦終結後、民族紛争や国際テロが頻発する状況となっており、我が国を取り巻く安全保障環境も大きく変化しております。北朝鮮によって無通告、無警告で発射されたテポドンミサイルは、我が国の上空を脅かすものであるのみならず、米国の近海まで到達する性能を持ったものでありました。また、周辺国における核弾頭ミサイルの配備は、現在、国民に多くの不安を与えております。こうした状況下において、イージス艦が配備されているほか、不測の事態に当たって国民を守るため、ミサイル防衛の開発や偵察衛星の開発の必要性が議論されるに至っております。

 こうした中で、安全保障の概念も大きく変貌し、国家の安全保障、地域的な安全保障、社会、経済、文化等を含む人間一人一人の安全保障を図る考え方が出現しており、我が国も、安全保障及び国際協力の両面において、多様な取り組みが求められております。

 例えば、一九九〇年以後の湾岸危機を契機として国際協力の問題について突っ込んだ議論がなされるようになり、一九九二年のいわゆるPKO法以後、我が国では、憲法のもとで実施し得る国際協力の範囲に関して、九条の解釈論が繰り返し繰り返し議論されてきました。

 国内の変化に目を向けてみると、青少年による殺人事件の多発や、学力水準の国際比較における低下が見られます。これを受けて、憲法の精神を教育を通じて具現するという教育基本法の見直しを強く求める声があると承知しております。

 また、少子高齢化の進行と医療技術の進歩は、国民の医療費の高騰を招き、国民の未来における社会保障制度のあり方や給付と負担の関係が大問題となってきております。高学歴化による晩婚化や出生率の低下は深刻であり、やがて来る周辺国とのFTAの締結は、海外からの労働者の受け入れも見据えたものとならざるを得ませんが、これは、日本国内で居住する外国人の人権の保障を憲法上いかに扱うかという大きな問題を抱えております。

 このような内外の変化に対応して、我が国は、国の将来のあり方を真剣に検討しなければなりません。そうした中で、本調査会においては、法の支配のもと、我が国がなし得ること、なし得ないことの基本を、国家の基本法において疑義のないように明確に規定していくべきではないか、そのような議論が活発に行われてまいりました。

 事の是非に関する立場の違いを超えて、この憲法規範に基づく政治という立憲民主主義の要請については、委員各位とも共通の認識を持たれたものと存じます。

 また、憲法論議の観点の一つとして、憲法規範と現実との乖離をどう考えるかということがありました。九条の問題に限らず、私学助成と憲法八十九条の公の支配に属しない慈善、教育、博愛の事業に対する公金の支出等の禁止規定の関係、裁判官報酬引き下げと憲法七十九条、八十条の裁判官報酬の減額禁止規定との関係も、憲法規範と現実との乖離が指摘される典型的な例でございます。

 これらを憲法上問題ないとするのは、主権者である国民にわかりやすい解釈とは言えないと思います。最高裁判所が行政にかかわる違憲訴訟について憲法判断に消極的で、憲法上の争点について公権的判断が的確に得られていないこともまた、国民にわかりにくい法の解釈、運用を許す原因となっているものと思います。国民にわかりづらい法の解釈、運用は、法治国家、立憲国家の観点から問題であるのみならず、憲法に対する国民の信頼の喪失ももたらしかねない、それこそが最も重大な問題ではないかと考えております。

 これまで五度にわたり実施いたしました海外調査では、この自由圏、かつての共産圏、また現在共産主義を行っている国家においても、幾たびかの憲法改正が行われていることを相手国から説明を受けてまいりました。中でも、昨年の海外調査の際、欧州の法律家が欧州憲法条約の制定理由の一つが市民にもっと密接に向かい合うことにあるとしておられたことは、印象的でございました。これと関連しますが、安全保障及び国際協力等に関する小委員会における調査では、欧州憲法条約に欧州市民の権利を具体的に書き出したのは、そのような条文を書くことによって、市民の側も読みやすい、理解しやすい、自分たちのものだとわかりやすいような内容にしようという意味合いがあったのだということが明らかにされました。

 これは、私が常に申し上げている、憲法は国民のものということと共通の考え方だと思います。

 この欧州憲法条約の批准については、十カ国弱の国々において、国民投票の実施が見込まれていると承知しております。つい先日、スペインが先陣を切って国民投票を実施したところでありますが、国のあり方について、直接、国民に判断を求めるという仕組みが欧州において作動していることには感銘を受けました。

 一方、我が国では、憲法九十六条の憲法改正規定に基づく手続法が制定されておりません。憲法が予定する法制度が憲法施行後六十年にわたって整備されていなかったことが憲法にかかわる国民の主権の制限を来しているのではないかなど、積極、消極の両方の立場からの議論が活発になされていることは最近の議論の一つの特徴と言えるのではないかと存じます。

 この海外調査では、欧州憲法条約の合意形成のプロセスに接しました。

 これと関連する部分があろうかと存じますが、先日、二月十七日の午後の調査会で、枝野会長代理が、憲法は公権力行使のルールを示すものであり、幅広い合意のもとにおけるルールでなければならないとの御発言をされました。

 今後、政党間の憲法論議が大きなテーマになってこようかと存じます。

 以上、本調査会のこれまでの調査を簡単に振り返りますとともに、若干の所見を申し述べてまいりましたが、言うまでもなく、本調査会は、国権の最高機関に設置された機関として、国の内外の諸問題について、憲法的観点から大所高所の議論を行うことができる唯一かつ最適の機関であります。従来、ともすればタブー視されてまいりました天皇制の問題についても、この憲法調査会ほど広範かつ詳細に議論されたことはなかったのではないか、それほどまでに熱心かつ具体的な御議論が繰り広げてこられたのであります。国民の代表たる国会議員がさまざまな立場から議論することは、非常に意義深いものであると存じます。

 本調査会は、人権の尊重、主権在民、再び侵略国家とはならないという三つの原則を堅持しつつ、日本国憲法に関する広範かつ総合的な調査を行ってまいりましたが、本日、全体を通しての締めくくりの自由討議を終え、今後は報告書の取りまとめに向けての作業に邁進することになろうかと存じます。

 会長代理を初め、幹事、オブザーバーの方、そして委員各位の御指導と御協力に厚く御礼を申し上げるとともに、我々に課せられた任務の重大さを痛感しながら、御協力をお願い申し上げて、ごあいさつの言葉とさせていただきます。

 ありがとうございました。(拍手)

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後五時一分散会


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