衆議院

メインへスキップ



第7号 平成13年3月16日(金曜日)

会議録本文へ
平成十三年三月十六日(金曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   委員長 高市 早苗君

   理事 岩永 峯一君 理事 鈴木 恒夫君

   理事 田野瀬良太郎君 理事 渡辺 博道君

   理事 平野 博文君 理事 藤村  修君

   理事 西  博義君 理事 都築  譲君

      青山  丘君    岩崎 忠夫君

      小野 晋也君    小渕 優子君

      岡下 信子君    嘉数 知賢君

      坂本 剛二君    杉山 憲夫君

      谷垣 禎一君    谷田 武彦君

      谷本 龍哉君    萩野 浩基君

      馳   浩君    林 省之介君

      水野 賢一君    宮澤 洋一君

      森岡 正宏君    大石 尚子君

      鎌田さゆり君    中津川博郷君

      葉山  峻君    肥田美代子君

      牧  義夫君    松沢 成文君

      山口  壯君    山谷えり子君

      山元  勉君    池坊 保子君

      斉藤 鉄夫君    武山百合子君

      山田 正彦君    石井 郁子君

      児玉 健次君    中西 績介君

      山内 惠子君    松浪健四郎君

    …………………………………

   議員           山元  勉君

   議員           藤村  修君

   議員           山口  壯君

   議員           石井 郁子君

   議員           山内 惠子君

   文部科学大臣       町村 信孝君

   文部科学副大臣      河村 建夫君

   文部科学大臣政務官    池坊 保子君

   政府参考人

   (文部科学省初等中等教育

   局長)          矢野 重典君

   文部科学委員会専門員   高橋 徳光君

    ―――――――――――――

委員の異動

三月十六日

 辞任         補欠選任

  岡下 信子君     岩崎 忠夫君

  杉山 憲夫君     坂本 剛二君

  森山 眞弓君     萩野 浩基君

  松沢 成文君     中津川博郷君

  武山百合子君     山田 正彦君

同日

 辞任         補欠選任

  岩崎 忠夫君     岡下 信子君

  坂本 剛二君     杉山 憲夫君

  萩野 浩基君     小野 晋也君

  中津川博郷君     松沢 成文君

  山田 正彦君     武山百合子君

同日

 辞任         補欠選任

  小野 晋也君     森山 眞弓君

    ―――――――――――――

三月十五日

 すべての子供たちに行き届いた教育、心の通う学校に関する請願(佐藤敬夫君紹介)(第六三七号)

 行き届いた教育の充実に関する請願(肥田美代子君紹介)(第六三八号)

 同(肥田美代子君紹介)(第六五九号)

 同(肥田美代子君紹介)(第七〇八号)

 同(肥田美代子君紹介)(第七四九号)

 同(肥田美代子君紹介)(第七八四号)

 国立大学病院の看護婦の増員に関する請願(西博義君紹介)(第六三九号)

 サッカーくじの実施計画再検討に関する請願(石井郁子君紹介)(第六六〇号)

 同(大森猛君紹介)(第六六一号)

 同(佐々木憲昭君紹介)(第六六二号)

 同(山口富男君紹介)(第六六三号)

 同(東門美津子君紹介)(第七五二号)

 同(石毛えい子君紹介)(第七八五号)

 私立専修学校の教育・研究条件の改善と父母負担軽減に関する請願(柿澤弘治君紹介)(第六六四号)

 同(吉田公一君紹介)(第六六五号)

 同(赤嶺政賢君紹介)(第七一〇号)

 同(石井郁子君紹介)(第七一一号)

 同(小沢和秋君紹介)(第七一二号)

 同(大幡基夫君紹介)(第七一三号)

 同(大森猛君紹介)(第七一四号)

 同(木島日出夫君紹介)(第七一五号)

 同(児玉健次君紹介)(第七一六号)

 同(穀田恵二君紹介)(第七一七号)

 同(佐々木憲昭君紹介)(第七一八号)

 同(志位和夫君紹介)(第七一九号)

 同(塩川鉄也君紹介)(第七二〇号)

 同(瀬古由起子君紹介)(第七二一号)

 同(中林よし子君紹介)(第七二二号)

 同(春名直章君紹介)(第七二三号)

 同(不破哲三君紹介)(第七二四号)

 同(藤木洋子君紹介)(第七二五号)

 同(松本善明君紹介)(第七二六号)

 同(矢島恒夫君紹介)(第七二七号)

 同(山口富男君紹介)(第七二八号)

 同(吉井英勝君紹介)(第七二九号)

 すべての子供たちに行き届いた教育に関する請願(柿澤弘治君紹介)(第六六六号)

 同(吉田公一君紹介)(第六六七号)

 文教予算の増額、行き届いた教育実現に関する請願(中川智子君紹介)(第七〇七号)

 私学の学費値上げ抑制、教育・研究条件の改善、私学助成増額に関する請願(辻元清美君紹介)(第七〇九号)

 同(植田至紀君紹介)(第七五〇号)

 すべての子供に行き届いた教育、私学助成大幅増額に関する請願(首藤信彦君紹介)(第七五一号)

 行き届いた教育の実現に関する請願(筒井信隆君紹介)(第七八三号)

は本委員会に付託された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 政府参考人出頭要求に関する件

 公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案(内閣提出第二〇号)

 公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案(山元勉君外四名提出、衆法第五号)




このページのトップに戻る

     ――――◇―――――

高市委員長 これより会議を開きます。

 内閣提出、公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案及び山元勉君外四名提出、公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案の両案を一括して議題といたします。

 この際、お諮りいたします。

 両案審査のため、本日、政府参考人として文部科学省初等中等教育局長矢野重典君の出席を求め、説明を聴取いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

高市委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

高市委員長 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。葉山峻君。

葉山委員 おはようございます。民主党の葉山峻であります。

 公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案について、幾つかの質問を行わせていただきたいと思います。

 今回の定数の問題につきましては、さまざまな御意見があり、私も伺わせていただきました。今回の定数法の違いは、民主党を中心とした衆法では三十人学級を前提にし、一方、閣法では四十人学級を前提にしていることであります。どちらの案も加配定数があり、特に閣法では、小中学校の教員定数の改善はすべて加配となっております。

 そこで、加配定数の考え方についてまず質問を行いたいと思います。

 まずは閣法の教員の加配に関してでありますが、これまでの議論で、第一に、基本教科による二十人授業は定数の算定の根拠であり、参考例であるということ、第二に、少人数授業での習熟度別クラス編成もその一例であるということ、第三に、加配定数部分はチームティーチングや各学校の工夫ある取り組みに対する加配であるということが明らかになったと思いますが、このような形でよろしいかどうか、まず伺いたい。

 以上であります。

町村国務大臣 おはようございます。きょう一日よろしくお願いを申し上げます。

 まず、今委員からお尋ねの教員加配についての考え方でございますが、少人数指導に係る改善数につきましては、子供たちの基礎学力の向上ときめ細かな指導のために、例えば小学校では算数、国語、理科、中学校では数学、英語、理科などの習熟度に差がつきやすいような教科について、二十人程度の少人数による指導が可能となるような積算をしているところでございます。

 実際の少人数指導の展開に当たりましては、必ずしもこの基本三教科による二十人授業などに限定されるものではございませんで、文部科学省といたしましては、学校における具体の取り組みを支援する、そういう観点から定数措置を行おうと考えているわけでございます。

 習熟度別のグループを編成するかどうかにつきましては、基本的にはこれは各教育委員会あるいは各学校の判断にゆだねるべき問題でございますが、しかしながら、学習指導要領に示しております基礎的、基本的な内容の着実な定着を図る、また、個性を生かす教育を充実するためには、学習内容の習熟の程度に応じた指導を初めといたしまして、個に応じた指導を推進することが非常に重要だと私ども考えているわけでございます。

 したがいまして、少人数指導の実施に当たりましては、文部科学省としては、こうした指導の充実に努めるということを考えて、基本に据えているわけでございます。

 また、指導方法の工夫改善の加配におきましては、少人数指導だけではございませんで、前回の第六次改善計画の際に規定を設けた、先生御指摘のあったチームティーチングなどの指導方法についても加配の対象としておるわけでございます。

葉山委員 ある県では、チームティーチングの加配はなくなった、習熟度別の少人数授業を行う場合に加配する、こういうふうに教育委員会が説明して、現場にもそのようにおりてきているようであります。そういう意味では文部科学省の考えと違うと思うのでありますが、その点について文部科学省の考えを聞かせていただきたい。

矢野政府参考人 指導方法の工夫改善の加配につきましては、これは少人数指導だけではなくて、前回の第六次改善計画の際に規定を設けましたチームティーチングなど、きめ細かな指導のための幅広い指導形態について加配することといたしているところでございます。

 ただ、どのような工夫改善を推進していくかは、これは都道府県教育委員会の判断によるものでございまして、先ほどお話がございました主として少人数指導に取り組むという方針は、それは当該都道府県教育委員会が自主的に判断された結果であろうかと考えるものでございます。

葉山委員 ともあれ、地方分権いまだしという感が深いわけでありますが、このような少人数学習集団のための加配などのいわゆる目的別の加配は、その運用の仕方によっては、国が学校における教育活動を直接統制する影響力を持ってくると思われます。各学校での自律性、各学校での工夫ある取り組みを行うだけの権限を有する必要があります。加配定数についても、国は定数を配置する基準を示し、できるだけ権限を地方や学校に持たせていく必要があるというふうに思います。

 そこで、文部科学省として、各県への加配定数の配分をどのようにして決めていくのか、このことについて明らかにしていただきたいと思います。

矢野政府参考人 少人数指導に係る定数加配につきましては、先ほど申し上げましたように、都道府県の判断によりまして、教科等に応じて少人数指導を行うなど学校の具体的な取り組みを支援する、そういう観点に立って改善を行うことといたしているところでございますけれども、加配に当たりましては、都道府県の少人数指導についての目標や方針、あるいは少人数指導の実施形態、実施方法等の考え方を十分聴取した上で、かつまた都道府県ごとの学校数や教員一人当たり児童生徒数などの客観的データを勘案いたしまして、その具体的な加配の決定をいたしたいと考えているところでございます。

葉山委員 情報公開が言われておりまして、政策決定のプロセスが透明であることが国民の信頼を得ることだと思います。

 今回の決定に関しまして、各県からどのような要望があり、そのうちどれだけの要望が認められたのか、どのような経過を経てその決定になったのかについて公開していくことが必要だと思うのですが、文部科学省としては、加配定数の決定についての情報を公開するのかどうかについて伺いたい。また、公開しない場合はなぜしないのか、その点を明らかにしていただきたいというふうに思います。

矢野政府参考人 各都道府県への加配数につきましては、現時点では改正法案を御審議いただいているところでございます。

 そういう意味で、もちろん決定には至っていないわけでございますけれども、各都道府県から、国が予算措置をしている定数を上回る加配希望数が今後申請されてまいります場合には、希望どおり配分できないことも出てくるわけでございますが、その場合には、当該都道府県に対しまして、御要望に沿えなかった事情等につきまして御説明を申し上げることになろうかと思います。

葉山委員 次は、衆法についてお伺いをしたいと思います。

 衆法につきましても、同様の加配、チームティーチングや教育課程の編成において多様な選択教科が開設される場合その他政令で定める授業方法の改善または特色ある教育課程の編成が行われる場合の加配がありますが、これを各県、各学校に配分する方法はどのようにすると考えておられるのか、お伺いしたい。

山元議員 おはようございます。

 基本的には、今文部科学省から説明がありましたように、それぞれの加配の配分の仕方についてはよく似ていますけれども、基本的に違うのは、文部科学省の方法では、目玉である二十人授業の加配、これも加配と考えて配分をしていく、私どもはそうではなしに、三十人学級という基本はきちっと配置をして、その上でさまざまな授業の方法、教育の方法についての加配をする、そこのところは随分と違います。

 ただ、基本的には、加配のあり方については、学校数や学級数あるいは生徒数に応じて、各県がこれからいろいろの工夫をしていただくと思いますし、いろいろの努力の意欲を見せていただけるだろうというふうに思っています。ですから、そういう学校の状況、そしてそれぞれの授業改善、教育改善への努力を総合的に考えて配分をしていきたいというふうに思っています。

 しかし、財政上考えると、やはり二分の一自治体の負担になりますから、よほど自治体がしっかりとした意欲を持って、そして加配を求めるということが大事なのだろうというふうに思っています。そして、各県に加配、配分をした教員数、職員数については、それぞれの学校に、今もお話が少しありましたけれども、地方分権の流れをしっかりと踏まえながら、それぞれの地域の意欲なり状況に応じた配分を各都道府県がすべきだ、こういうふうに考えております。

葉山委員 それでは、次に移りたいと思います。

 学校は、申すまでもなく、教員だけで成り立っているものではございません。養護教諭や学校栄養職員、事務職員など、それぞれの専門的職員の協力、協働によって日々の取り組みがなされており、それぞれの職種の定数改善も大きな課題だというふうに思います。

 そこで、それぞれの専門的職種の改善内容及びその趣旨について、衆法、閣法ともにお聞きしたいと思います。

石井(郁)議員 お答えいたします。

 まず、学校栄養職員の定数改善の内容とその趣旨はとのお尋ねでございます。

 配置基準でございますが、単独実施校では、児童生徒数から学級数に変更しております。ミルク給食を除く学校給食を実施する単独実施校について、十五学級以上の小中校に一名、十四学級以下の小中校二校に一名を配置しています。また、共同調理場において、千百人以下に一人、千百一人から四千四百人まで二人、四千四百一人以上を三人という配置基準でございます。十年間で約五千人の改善増でございます。

 趣旨といたしましては、第一に、学校栄養職員の職務は、学校給食法においても、学校給食の栄養に関する専門的事項をつかさどるとされています。具体的には、献立作成、食品の選定、発注、衛生管理などの給食の管理運営と食に関する指導などが職務でありますけれども、給食に関する事務処理は大変多くあります。指導に当たる余裕がないというのが現状でございます。食に関する指導は、ひとり食べとか食生活の乱れなど、その対応として、文部省の保健体育審議会等でも重要性が指摘されていると思います。このような食指導の重要性にかんがみて、学校栄養職員の配置の改善を行うことといたしました。

 また、算定基準を児童生徒数から学級数としたのは、食に関する指導は、給食時間や各教科での指導などクラス単位が中心となっているためであります。基本的には、学級数を単位とすることが望ましいと考えました。このため、単独実施校については学級数によって配置をするというふうにしております。

町村国務大臣 今委員から、栄養職員以外の、養護教諭、事務職員等の全体の考え方のお問い合わせもあったというふうに理解をいたしました。

 まず、全体のことをちょっと簡単に申し上げさせていただきますけれども、今回の改善計画におきましては、子供たちの基礎学力の向上ときめ細かな指導、先ほど申し上げましたそうした少人数指導に係る定数改善のほかに、学校運営の円滑化を図るため、委員御指摘のように、教員以外の、養護教諭でありますとか、あるいは学校栄養職員、事務職員、こうした方々の総合的な努力によって学校が成り立っているわけでございますので、それらの職員の方々あるいは教諭の改善も図るということにしてございます。

 養護教諭につきましては、改めて申し上げるまでもございませんが、保健室登校等々の役割、児童生徒の相談といったようなことも大変大きくなっておりますので、そうした相談活動に適切に対応できるように、養護教諭の複数配置の拡充ということを基本に置いております。

 学校栄養職員につきましては、子供たちの食に起因する健康問題というのが大変深刻化してきております。栄養のバランスが欠けているとかあるいは肥満がある、あるいは場合によってはカロリー不足がある、いろいろな問題もございますし、またもう一つは、先般、平成八年のO157事件といったような衛生管理上の問題といったこともございました。こうした点に配慮して、学校栄養職員が適切に配置できるようにするというふうに考えました。

 また、学校事務職員の定数改善につきましても、複数の学校の連携で多様な教育活動を展開するためにいろいろな分野の外部人材の活用でありますとか、学校の情報化を推進する場合に、連絡の拠点となる学校に対して定数措置ができるように改善を図るということで、事務職員の定数改善も図る。

 全体としては、学校が一つの組織体として有効に機能できるように、教員以外の分野でも、事務職員、栄養職員また養護教諭、こうした方々の充実も図っているという考え方に立っております。

葉山委員 学校職員、なかんずく栄養職員の問題までお触れいただいて、ありがとうございます。

 私も、以前湘南の方の市長をしておりまして、集団給食場がいろいろでき始めたころでありましたけれども、できるだけ各学校に一つ一つ独立した給食場が必要だという方針を持って臨みました。料理の本質からいきまして、台所のそばには茶の間あるいは食堂があるということが必要だと同じように、子供たちにとっても、食事がすぐその給食の職員に反応して、どうであるかということが大変重要だというふうに思いまして、そのような方策をとったわけでありますが、お話しのように、子供たちの体をつくる上で、何を食べる、どのように食べるかということが非常に重要でありまして、食事は重要な意味を持っていると考えます。

 学校給食は、一日のうち一食ではありますが、カロリー計算を初め栄養バランスも考えられている食事でありまして、子供たちの成長に大きな役割を果たしていると思います。子供たちのひとり食べや生活習慣病の若年化などもありまして、何をどのように食べるのか、食の教育の重要性が強まっていると思います。食の必要性を考えると、本来はすべての学校に学校栄養職員が配置されることが望ましく、でき得るだけ学校給食の実施校に対して一人は配置していく必要があると思います。

 そこで、閣法についてでありますが、今回の学校栄養職員の定数改善の内容とその趣旨について、第二に、義務標準法十五条第二号、特別の指導を行う場合の加配とはどのような内容なのか、お伺いしたいと思います。

町村国務大臣 学校給食の重要性、私も委員の意見に全く同じ考えでございまして、中には一部、もう学校給食はやめてもいいのではないか、あれは戦後の、言うならば食事が非常に貧しい時代の産物ではないかという御意見も世の中にはあるようでございますが、私は逆に、この豊かな時代にこそ意外と食の充実が図られていないという実態がある、朝御飯を食べずに学校に行く子供たちもだんだんふえているといったようなことを考えたときに、たとえ一食であっても学校給食がバランスのとれたものであるということは、大変重要なことだ。そういう意味で、食に関する児童生徒に対する指導というものが、もっともっと学校栄養職員によって行われていくということが大切であろう、かように考えております。

 またもう一つ、先ほどちょっと申し上げましたけれども、平成八年、大変大きな食中毒事件という形でいわゆるO157事件が起きたわけでございまして、これに対応するための、給食調理員の衛生はもとよりでございますが、施設設備の衛生であるとかあるいは食品の衛生、こうした衛生管理者としての職務が増大をしてきている、こう思っております。

 こうした状況に対応するために栄養職員の定数改善をしようということでございますが、より多くの学校及び共同調理場において学校栄養職員が適切に配置できるようにするということで配置基準を変えまして、例えば単独実施校では六百人以上に一人ということであったのを、今回の改正案では、五百五十人以上に一人、それから共同調理場では、二千五百一人以上が二人であったものを千五百一人以上二人、七千一人以上三人であったものを六千一人以上三人というようなことで、全体としては八百六十八人、十三年度の改善数はその五分の一の百七十四人ということで改善を行っております。

 なお、委員が、できれば各学校ごとに調理場があった方がいいのではないかという御指摘がございました。願わくは私もその方がいい、こう思っているものでございますが、それぞれの市町村における財源、コストの問題ということもあって、なかなか各学校一つの調理場というわけにはいかないわけでございますが、将来的にはそういう方向に向かえばいいなと私も個人的には思っております。

葉山委員 次に、先ほどもちょっとお話があったわけでありますが、養護教員についてお伺いをします。

 児童生徒の問題行動とか不登校、保健室利用数の増加など、児童生徒の心身の健康問題に対応するには、養護教員の複数配置など配置の充実が必要となってまいります。

 そこで、閣法に対しての質問でありますが、第一に、今回の改定の内容及びその趣旨について、第二に、義務標準法第十五条第二号で「教育上特別の配慮を必要とする児童又は生徒に対する特別の指導」への加配とありますが、どのような内容を考えているのか、お伺いしたい。

 それから、衆法について、その改善理由について御説明を伺いたい。

 以上であります。

町村国務大臣 養護教諭の定数の改定の内容、その趣旨ということでございます。

 細部にわたっては政府参考人の方から御説明をさせますけれども、養護教諭の重要性というのは、これはもう委員御指摘のとおりでございまして、非常に重要な役割を今担っておりますし、だんだんその重要性が増しているということも言えようかと思います。さまざまな悩みを抱える児童生徒の相談活動に適切に対応できるように、養護教諭の複数配置の拡充等を行うということにしてございます。

 少し具体的に申し上げますと、養護教諭の複数配置基準につきましては、算定基礎を学級数から児童生徒数に変更する。その上で、三十学級以上の複数配置にするという現行の基準を、小学校の場合はおおむね二十四学級から二十七学級に相当する八百五十一人以上に、中学校はおおむね二十二学級から二十五学級に相当する八百一人以上にそれぞれ改善をするということにしてございます。

 なお、高等学校及び特殊教育諸学校につきましても、小中学校と同様に複数配置を拡充する、こうした改善を図ることとしております。

矢野政府参考人 教育上特別の配慮を必要とする児童生徒に対する特別の指導についてでございますが、これは、例えば大規模な自然災害あるいは事件事故発生後等におきまして、児童生徒の心身の健康に関する特別の指導が行われる場合につきまして、現行の配置に加えて緊急的かつ機動的に養護教諭の増配置が可能となるように、新たに養護教諭の加配措置を設けることといたしたものでございます。

石井(郁)議員 現状では、養護教員の配置は三十学級以上に一人ということで、もうとても児童数に見合って仕事ができないということがたくさん言われておりました。日常の業務が、保健室を利用する児童生徒への心身両面での対応とフォローアップがありますし、全校的な健康診断また健康管理、保健指導等々がございます。そういう中で、複数配置というのは大変強い願いだったというふうに思います。

 加えて近年、教室に入れないけれども保健室だったら行けるという保健室登校の子供が大変ふえてきています。こういう児童生徒のさまざまな心身の悩み等に対応するということが今急がれるわけでありますし、救急車などで子供を病院に連れていくという場合があります、付き添いなどをする場合がございますけれども、そうしますと、保健室が空になってしまうわけですね。養護教員の複数配置というのはどうしても必要だということがずっと言われておりました。

 以上のことから、養護教諭の複数配置を、十九学級以上の小学校、十六学級以上の中学校というふうにしたところでございます。とりわけ中学校では、いじめや校内暴力などの問題が象徴的にあらわれています。思春期の始まり等の大変な生徒の問題がございますので、十六学級以上を複数配置といたしました。

 ちなみに、保健室登校している児童生徒がいる学校の割合は、小学校で一二・一%です。中学校で三七・一%です。そういう点でも本当にこの整備が急がれるというふうに思います。

葉山委員 ありがとうございました。

 衆法、閣法ともに、児童生徒の問題行動や不登校、保健室利用数の増加など、児童生徒の心身の健康問題に対応する養護教員の必要性を認めての配置改善となっております。衆法の方がより手厚い配置が必要としており、今後もその配置の拡充をしていく必要があると思います。

 それで、この間いろいろ御議論があったところでありますが、もう一度確認のために伺いたいと思いますが、非常勤講師について一定整理しておきたいと思います。

 一般的に、非常勤講師と言う場合には、教員免許を持っており、授業時間の少ない教科などを担当している。特別非常勤講師は、教員免許は持っておらず、社会での経験や特別な技能を持っており、学校での教育内容の充実強化という観点で授業を行ってもらう人を指す。しかし、両者を厳密に区別する法的な根拠はなく、そこで、今回の法改定で、非常勤講師を国庫負担の対象とすることができることになり、いわゆる非常勤講師も特別非常勤講師もその対象となる、こういう理解でいいのかどうか、もう一度確認のために伺いたいと思います。

河村副大臣 お答えいたします。

 非常勤講師それから特別非常勤講師の考え方、今委員の御指摘のとおりでございまして、特別非常勤講師制度というものが、社会人の方で非常に専門的な知識、技能を有している方にもぜひ教育現場に入っていただく、免許状はなくてもやっていただきたい、こういうことでスタートしたわけでございますが、今回、標準法改正におきまして、常勤教員の定数を換算して非常勤講師に任用できるということにしておるわけでございます。

 その対象は、いわゆる通常の非常勤講師にあわせて、免許状を持たない特別非常勤講師も非常勤講師としての換算の対象とするということでございますので、委員の御指摘のとおりの理解でお願いをしたい、このように考えております。

葉山委員 ありがとうございました。

 特別非常勤講師については、政府は、二〇〇一年度、つまり平成十三年度予算に、補助事業として、四千九百五十六人、二億四千八百九十八万円を計上しております。この補助率は国庫負担が三分の一となっておりまして、財政力の弱い県では、この場合、特別非常勤講師の補助事業より、定数崩しをより進める形で働くのではないかと思われるのでありますが、その点について文部科学省の見解をお伺いしたい。

矢野政府参考人 先ほど副大臣が御答弁申し上げましたように、今回の改正によりまして、常勤教員の定数を活用した非常勤講師の採用が可能となるわけでございますが、この非常勤講師には特別非常勤講師も含まれるわけでございます。したがいまして、これによりまして、特別非常勤講師につきましては、制度的には、先ほど御指摘がございましたように、国庫補助事業のほかに、常勤教員の定数を活用した採用ができることになるわけでございます。

 しかしながら、定数換算による場合には、常勤教員の定数がその分減ぜられることになるわけでございますから、実際には、主として国庫補助事業の活用による特別非常勤講師の採用が行われるというふうに私どもは考えているところでございます。

葉山委員 非常勤講師のことを考えるときには、学校教育への影響と、非常勤講師の賃金や身分などの処遇の面の二つの課題があると思います。

 学校教育への影響を考えますと、非常勤講師を定数を崩して活用することは、子供たちにとって、相談したいと思ったときにその先生がいないという事態も起こります。また、学校教育は、授業、行事その他の活動が連続しておりまして、その時々での子供たちの様子から教育の課題が明らかになってくるものであり、細切れではそのことはできないと思います。また、定数を崩して非常勤講師を活用すれば、学校運営にさまざまな影響がある。

 処遇や待遇面では、文部科学省の答弁にあったように、賃金も安く、学校の非常勤講師の時給は二千八百九十円とありますが、非常に不安定な身となっております。

 最近、日本の働く者の環境を見ますと、派遣労働者それからパート労働者が増加しておりまして、不安定身分の人が急増しており、使用者にとって都合のよい労働市場になっていると思います。オランダなどでは、ワークシェアリングの考えに基づいて、正規、非正規という考えではなく、短時間の正規社員、つまり働く時間だけが短い正社員という考え方で多様な働き方ができるようになっていると聞いております。日本においても、労働省が、通常の労働者との均衡を考慮したパート労働者の雇用管理についてという報告を出しております。

 安上がりのために非常勤講師を活用するのではなく、非常勤講師は定数以外の扱いとすべきだと考えますが、文部科学省はどのようにお考えでしょうか。

矢野政府参考人 今回の、定数を非常勤崩しとして活用するという制度改正の趣旨は、例えば総合的な学習の時間において多様な人材を活用することが、より効果的な教育活動として期待できるといったような場合、あるいは教員の持ち時間が極めて少ないといったような場合、そういう場合に定数を崩して非常勤講師として活用する、そういう道を制度上開くことといたしたところでございますので、各都道府県においては、その制度の趣旨を踏まえながら、また、具体的な定数崩しに当たりましては、崩すことの必要性、効果あるいは問題点等々を総合的に勘案をして、適切に対応をしていただく必要があろうかと思っております。

葉山委員 二十一世紀は共生の時代とも言われまして、教育においても、ともに生き、ともに学ぶということがこれからの大きな課題であると思います。障害を持つ子供、外国籍の子など、さまざまな課題を持つ子供たちとともに学ぶこと、地域のお年寄りやいろいろな地域の人々とともに学ぶ、地域に開かれた学校にしていく必要があると思います。文部科学省も、平成十三年度予算で学校のバリアフリー化の予算を計上しており、また高齢者施設などと学校の複合化も目指されるなど、その方向にあると思うわけであります。

 そこで、障害児教育に関して文部科学省にお伺いをしたい。

 第一に、省庁再編での名称変更で、文部省が文部科学省となったが、特殊教育課も特別支援教育課となっております。なぜそのような名称変更がなされたのか、これが第一であります。

 第二に、今回の定数改善で、文部科学省としては特別支援教育としてどのような定数改善を行っているのかをお答え願いたい。

 また、衆法に関しましては、障害児教育に関してどのような定数改善を考えているのか、お聞かせを願いたい。

 以上であります。

河村副大臣 名称変更の前段の部分について私から、後段の定数改善問題については局長の方から答弁をと考えます。

 省庁再編に伴いまして、このたび特殊教育課が特別支援教育課という名称に変更になった、御指摘のとおりでございます。

 最近、御案内のように、盲、聾、養護学校そして特殊学級という形で、障害者の方々のそれぞれの自立に合わせて教育を行ってきておるわけでございますが、最近それ以外、その範疇の外といいましょうか、通級によって指導の充実や、学習障害、LD児とかあるいは注意欠陥多動性障害、ADHDといいますが、そうした児童への対応というものが必要となってまいりまして、これも特殊教育の一環だといえばそうでございましょうが、これまでの範疇になかったものもございました。

 そういう意味で、特別な教育、今までのノウハウを生かしながらやはり特別な支援体制が要る、そういう指摘も出てまいりましたし、またそれが必要になってまいりましたものですから、そうした特別な教育支援を必要とする児童生徒に対する指導等を特殊教育と一体に進めていく、積極的に取り組んでいこうという形で、このたび、特殊教育課の名称が特別支援教育課というふうに変わってまいりました。

 それで、この名称については、二十一世紀の特殊教育の在り方に関する調査研究協力者会議というのがございまして、その中におきましても、いわゆる特殊教育という言葉についてもさらに検討を要するということでございますので、私は、特殊教育という、何か特別な、何か特殊扱いというような感じじゃなくて、広く特別な支援をするのだという広い意味で、これからの障害児の教育についてはこういう形で進めていくべきものであろう、こう思っております。

 今回、まず特別支援教育課というふうな名称になりましたのは、特別な支援をする児童生徒の範疇を含めてこの課でやっていこうということでこういう名称になったわけでございます。

矢野政府参考人 特別支援教育についての定数改善でございますが、今回の改善計画におきましては、特殊教育諸学校の教職員につきまして、小中高等学校と同様の、教頭、養護教諭の複数配置基準の改善に加えまして、以下申し上げます四点の事項について改善を行うことといたしてございます。

 第一は、障害の重度・重複化等により悩みを持つ保護者が増加していると考えられますことから、教育相談担当教員の新たな配置が一つでございます。また二つには、肢体不自由養護学校における自立活動担当教員の配置基準の改善でございます。三つ目は、生徒指導、進路指導担当教員の複数配置基準の改善でございます。さらに第四点といたしましては、従来、小学校において通級指導を受けていた児童生徒につきまして、より専門的な指導を行えるようにする観点から、聾学校における通級担当教員の加配を行うことといたしているところでございます。

 これらの改善によりまして、特殊教育諸学校における教育活動について一層の充実が図られるようになると考えているところでございます。

山口(壯)議員 葉山議員お尋ねになられた障害児教育に関しての定数改善ということで、閣法の中では入っていないと私は思うのですけれども、今通常の学級に障害児が在籍する場合にどういうふうな加配が行われるか。我々の案においては五千二百人、こういう通常の学級に障害児が在籍する場合には加配を行おうというふうにしたいと思っています。

 他方、重複学級というのが特殊教育諸学校ということで行われていると思うのですけれども、むしろこれから、一人一人の状態に応じて加配を行う方がいいのじゃないかということで、重複学級を設置せずに、それに応じた加配を行っていこうというような手当てを我々の対案では考えております。

 さらに、その障害児学校の寄宿舎の中でもいわゆる加配ということをこれからはすべきじゃないかというふうに考え、我々の対案では、この三つについて閣法との違いがあるというふうに思っております。

葉山委員 いろいろありがとうございました。教員の定数増にとどまらず、養護教員、栄養職員そして障害児学級等々、全般にわたりまして御丁寧な御答弁をいただいたことを心から感謝申し上げます。

 総じてこの委員会での実り多い質疑と御答弁を伺っておりまして、私は、ごく感想風に申し上げますけれども、文部省ともあろう者が何ゆえに二十人学級というのを、正規の学級とは別に設定したのかということの疑問はいまだに消え去ることができません。

 ともあれ、四十人学級というのは既に過去の遺物でありまして、昭和五十五年、四十人学級を開始して以来、既に二十年以上経過しておるわけであります。そして、多くの父兄や多くの先生方が、余りにも大規模な学級はよろしくない、やはり三十人学級、三十人以下学級こそがどうしても日本の二十一世紀に向かう教育の中では必要であると。少なくとも少人数学級の標準こそが世界の大勢だということは、多くの質疑の中でも明らかにされたことであります。

 私が申すまでもなく、教育というのは、何物にもかえがたい重要な事柄であり、未来への最大の先行投資であり、現在を将来につなぐ営みであり、未来への希望と期待の具体化である。そのためには、思い切って一つの決断をして、三十人以下の学級をつくるということがどうしても必要である、私はこのように思っております。

 いろいろ多方面にわたって御丁寧な御答弁をいただいたことを心からお礼申し上げまして、私の質問を終わります。ありがとうございました。

高市委員長 藤村修君。

藤村委員 民主党の藤村修でございます。

 ただいま議題になっております公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案について、政府提出の法案について、今から四十分程度で質問をさせていただきます。

 まず、少し基本的な大きな話でありますが、この法案の審議において、四十人学級という四十人の標準を変えないで、幾つか政府から改善という形で提出をされた。その趣旨、それなりに理解はいたしますが、その説明の中でも、一部、やはり財政的な問題というのはどうしても切り離せないし、そのことを考えねばならないという政府の立場も十分にわかります。私、財政あるいは予算ということで御質問したいと思うんです。

 これは昨日の全国紙でございますが、「「予算編成改革」政治空白で宙に」という大きな見出しの中で「経済財政諮問会議、薄まる存在感」こういう小見出しがあるんです。

 どういうことを中で言っているかというと、すなわち、この一月から省庁再編ということが、大変これは画期的な、二十一世紀初頭の大きな国の仕組みの変更でありまして、それとともに、これは我々も去年からもいろいろ主張した中では、今まで国の予算というものが、大蔵省主計局が本当にある意味じゃ鉛筆なめなめ決めていたところがあるんじゃないか、そして、その他の各省庁というのはとにかく大蔵省からどれだけ予算をとってくるかの獲得競争であったと。

 それでは、国の大きな方向、かじ取りをする際には、どうしても過去の延長線上の積み上げとかあるいはこの部分を一部削減とかいう、そういうちまちました話になりがちであります。だからこそ経済財政諮問会議というものが置かれたんだろう、そう感じるし、そのように理解されていると思います。

 ところが、経済財政諮問会議というのはいわゆる官邸主導でやると言っていたわけですが、ここへ来て、官邸主導の予算編成を掲げた経済諮問会議の存在感が薄まるんじゃないか、そんな見通しが、これはきのうの新聞の単なる記事ではございますが、この現状というのがそれなら何も変わらないのかと。大蔵省から財務省というふうに名前が変わったお役所が、今までのように大蔵省の役割を果たして、まさに各省庁の予算に関しては少し上に立つような形で査定をし、削減をし、あれを切れ、これを切れ、ここは、じゃふやしてやろう、そんなことになったんでは何ら省庁再編の意味はないわけであります。

 そこで、具体的にお尋ねしたいのは、少なくとも、今出ている法案については、昨年、これは当時の大蔵省と折衝をされて、それは当時の町村文部大臣の御努力があり、そして先般の町村文部科学大臣の御説明のとおり、改善のために一生懸命やったんだということはそれなりに理解するとしても、そういうやり方と、来年度以降は、つまり平成十四年度以降は大きく変わるはずだと思うんですね。つまり、本年一月からの省庁再編以降の特に文部科学省予算について、どういう形で今後決まっていくのか、決めていかれるのかという基本のところをお話し願いたいと思います。

町村国務大臣 藤村議員から大変基本的な、また非常に重要な問題の御指摘がございました。

 経済財政諮問会議の法律上の所掌事務を見ますと、経済全般の運営の基本方針、財政運営の基本、予算編成の基本方針その他経済財政政策に関する重要事項について調査審議をするということになっているわけでございまして、当然、予算編成あるいは財政運営のあり方が今までと全く同じということはあり得ない、私はこう思っております。

 そういう意味で、これは内閣府そして内閣総理大臣のリーダーシップをより経済運営あるいは予算編成に発揮をしていこう、そういう基本的な考え方に立ってできたもの。したがって、ここに加わるメンバーも、各大臣のみならず民間の経済界の方あるいは学界の方、日銀総裁等々も入られて議論をされるということでございましょうから、当然今までとは相当異なった姿になってくる、またならなければいけないんだろうと思います。

 その際に、じゃ、文部科学大臣としてどういう対応をするのかという御指摘がございました。

 例えば、同じように、科学技術の分野に関しましては総合科学技術会議というものも内閣府の方にできまして、科学技術の関係のいろいろな調整あるいは重要事項の判断等についての議論がそこから出ていくんだろうと思います。

 教育の方につきまして、あるいは文部科学省全体につきましては、こうした経済財政諮問会議の各メンバーに対して私どもとしていろいろな形で実情を説明し、理解をいただき、そして私どもの考えが平成十四年度予算編成に十分反映できるように努力をする。

 そういう意味では、今までは主として文部省対大蔵省のやりとりということが中心であったのが、もちろんそれは財務省も重要な役所でございましょうが、それ以外の総理大臣、官房長官等々、関係する経済財政諮問会議のメンバーへの私どもの積極的な説明といいましょうか、理解を求める努力ということを一生懸命やっていって、十四年度の私どもの予算の充実確保に努めてまいる必要があるんだろう、こう思っております。

藤村委員 結論的には去年までとは相当大きく違う、こういうことだろうと思います。

 ただ、今、経済財政諮問会議自体が少し動かないといけないどうも予定の時期だったようであります。すなわち、今、経済財政諮問会議で予算編成過程の見直しを論議している時期で、そして同会議で予算大綱を、これは五月、六月ぐらいに作成するという予定で進んでいたようでありますが、まず予算大綱という言葉に、これはもう現宮澤財務大臣からもクレームがついているようなぐあいで、それで、予算大綱という言葉を改め、骨太の方針、こうしたそうであります。

 この骨太の方針というのは、国全体の教育あるいは科学技術にはこのぐらいの予算を配分しようとか、あるいは去年までと違って大きくこれは伸ばさないといけないとか、そういうことを考えるのが多分この骨太の方針ではないかと思うんです。

 私は、この今の委員会のレベルに戻りますと、もうちょっと文部科学省として、これは文部科学大臣がいらっしゃるわけですから、その中のいわばシェアというもの、これは、公共事業を〇・〇何%上げたとか下げたとかいう話で、とったとかとらないとかいうふうなことをよく言われたこともありましたが、文部科学大臣としては、今後の日本の教育あるいは科学技術の分野でどういうふうに見直しをするというか、やはりその配分の問題ですね。

 一つパイはある意味では決まっているし、若干縮減してくるかもしれない。ということは、文部科学省の所管の中において、例えば科学技術分野、これが今からの二十一世紀戦略として非常に重要だから一〇%伸ばすよ、しかし、こっちの分野、これはどことは言いませんが、ここは少し地方に移管するとかいろいろなことを考えながら、一〇%減らすよとか、そういう大胆なことは、これは文部科学省内で当然考えるし、大臣が責任を持って、ある意味では方針を立てて、そして経済財政諮問会議のメンバーにそういう説得をされるんだろうと思うんです。

 私は、具体的には、文部、科学ということでなしに、文部の分野で、例えば初等中等教育関係予算、今回の法案はこれに係りますね。それから高等教育関係予算、これは大分違いますね。これは、やはり日本の戦略として、今からどうするんだろう、ある意味では両方とも今までどおりの重要度を持って考えるのか、いや、やはり戦略的には高等教育にもっと金を入れた方がいいと考えるのか。あるいは、やはり子供の、特に小学校、中学校、この辺の学校の問題を一番今、文部科学省としても深刻にとらえ、これは町村大臣の所信にもありました、危機という言葉を使われたんですね、大臣が危機という言葉を使うのも非常に異例なことだと思いますが。だから、初等中等教育関係予算に相当手当てをしないといけないと考えるのか、これは今の時点で結論は出ないにしろ、町村大臣のお考えをお聞かせ願いたいと思います。

町村国務大臣 これまた基本的かつ非常に難しい御質問でございまして、今私ども、十三年度予算の御審議をようやっといただいている段階、参議院で御議論をいただいている段階で、十四年度予算編成についてお問い合わせがありましても、率直に言って、まだほとんど考えていない状態でございますので、今、委員の御質問に応じて私がどれだけ的確な御返事ができるかわかりませんが、一つは、科学技術につきましては、科学技術基本計画というものを今年度末、三月末までに内閣全体として決定をいたします。そこで、これまでの、過去五年の基本計画よりも約四割ぐらいふえる二十四兆円程度の規模というものを確保していこう、GDPの一%目標ということで、全体は大きくつくっていくという考え方がまず一つあろうかと思います。

 教育の方はどうするのかというお話がございました。その辺を少しく体系的に考えなければいけないのではないかという発想もありまして、私どもが一月二十五日に決めました二十一世紀教育新生プランの中にも、新しい教育基本法を定め、そしてその中に教育振興基本計画といったようなものを考えてはどうなんだろうかということで、今検討を始めているところでございます。

 その教育振興基本計画、まだ中身はこれからでございますけれども、そこの議論にどういう中身を盛り込むかということを考えるに当たって、一つのポイントは全体のパイをどう拡充していくかということ、そしてその際、今委員御指摘のように、初等中等教育と高等教育、二つだけに全部分け切れるかどうかわかりませんが、仮に分けた場合に、そのまたバランスをどう考えていくのかということをこの基本計画の中では多分議論をして決めていくことになるんだろうな、こう思っております。

 ちなみに、一概にこれはGDP比率で議論するのがいいのかどうかわかりませんが、若干の留保条件つきで考えた際に、初等中等教育のGDP比率と、国際比較で見ると、高等教育の方の比率が確かに少ないんですね。その辺は、やはり一つのこれからの日本の二十一世紀の戦略、あるいは先ほど申し上げました科学技術基本計画との関連をも考えたときに、今まで高等教育の方の予算配分が国際的に見ると少し手薄だったのかなというような感じは持っております。

 ただ、その辺、今、では初中関係の予算を大幅に高等に移すことができるか、そういうわけにもいかないでしょうし、現実に、私どもの予算の非常に大きなシェアは二分の一の教職員等の国庫負担によって占められているという、この人件費の圧力の大きさというものを大変私ども毎年予算編成のときに悩むわけでございますが、しかし、これも法律で決められたことでありますし、これまた大切な人件費国庫負担でございますから、これをそう軽々に動かすわけにもいかない。

 それは、限られた制約条件の中でどう考えていくのかということになりますが、結論を言うならば、やはり、教育、文化あるいは科学技術、スポーツ、財政の状況ももちろん考えなきゃなりませんが、そうした文部科学省の予算をいかに拡充していくのかということ、単純なことを最後の結論で申し上げて恐縮ですが、それに尽きるのではなかろうかな、こう思います。

藤村委員 まず、町村大臣は先般も御答弁されていたかと存じますが、やはり教育、科学という分野が日本の戦略的にも大変重要であるという御認識は十分にお持ちだろうと思います。だからこそ、全体の国の予算という意味では、パイは限りがあるけれども、その中の配分において、やはり教育、科学、こういう分野には相当、まだまだ投資していかねばならない、そういうお気持ちも強いと思います。

 その基本的な考え方は、先ほどの経済財政諮問会議に、これはいろいろな方がいろいろなふうに言うとしても、やはり文部科学大臣がきちんと説明いただいて、そのことをそのメンバーに納得させる。これはやはり国策の問題でありますから、そこのところが大臣の大きな仕事だと思うんです。

 ただ、残念ながら、来年度予算編成のときに文部科学大臣がどなたかはまだわかりませんので、これを今ここでこれ以上議論してもしようがないけれども、ただ、町村大臣におかれましては、この分野、本当に専門的にきょうまでやってこられたので、どの部署にいらっしゃってもこれを忘れず、十四年度についても頑張っていただきたい、このことはお願いしておきたいと思います。

 そこで、法案に関連してですが、私、町村大臣の所信表明の中で、ちょっと言葉を、何回も読み返して探したんですが、地方分権ということを何かすっ飛ばしていると。

 かつて、五年前、私、大体、定点質問しているんです、平成八年二月二十三日、この時期でありました。当時の文部大臣に対して、教育の地方分権を質問いたしました。そのときは、ちょうどその前年に地方分権推進委員会ができて、いわゆる地方分権というのが非常ににぎやかに言われておりました。

 それで、当時の文部大臣は地方分権について、国は主役でなくてわき役の立場で、応援団のような、そういう立場にある、そんなお答えもありました。これは三年後、だから今から二年前、平成十一年、これも二月の十日でありました。このときにも、このときは有馬文部大臣でしたが、所信表明の中に、地方分権を一層推進する観点から云々という言葉が入っておりました。そこで、当時の有馬文部大臣は、地方分権の中身については、まず第一に、基本的な教育制度の枠組みを制定する、国の役割であります、第二に、余りばらばらになってはいけませんので、全国的な基準の制定をする、三番目に、地方公共団体における教育条件整備のための支援を行うというような役割が国の役割として重要だ、こんなふうに二年前、お答えになっておりました。

 今回、町村文部科学大臣の所信表明の中には、地方分権のその言葉は全く見当たりませんでした。読み落とした可能性も若干ないではないとまた読んでみたら、やはりなかった。あるいは、トーンとして、逆にどうも中央集権的な発想がにじみ出てきているのではないかな。それは、「我が国の教育は危機に瀕しています。」という言葉からしたら、これは危機管理だから中央集権だというか、あるいは割に国が主導的にやらないといけない、そういうお気持ちがあるのかないのか、この辺を聞きたいわけです。

 つまり、今流れはやはり大きくは地方分権の時代だと言われながらも、文部科学の分野において、特に教育の分野において、町村大臣は、むしろ今教育は危機だから危機管理のためには中央集権的でやるんだ、そういう御発想があるのかないのか、その辺を基本的にお伺いしたいと思います。

町村国務大臣 教育全体が、初等中等であると高等教育であるとを問わず、非常に厳しい危機的な状況にあるという表現は、確かに異例かもしれませんが、使わせていただきました。しかし、危機管理だからすぐ国が全部やるということを申し上げる、そういう考えがあるわけじゃ全くございません。やはり教育行政というのは、国と地方公共団体、そして学校現場、それぞれがきちんと責任と役割を果たし、互いに協力し合ってよりよいものをつくっていくという考え方が重要であろう、こう思っております。

 例えば、今回決めた二十一世紀教育新生プランの前に教育改革プログラムというのを私の前任の小杉大臣が決め、私もそれを引き継いで大分リシャッフルしながらやりましたが、そのときも、地方分権一括法というものを、これは一括法の中で措置したものとして、教育長の任命承認制度の廃止でありますとか、指導助言というものを、行うものとすると義務づけていたものを行うことができるというふうに改めたり、教育委員の数を弾力化したりやってまいりました。

 また、今回の教育新生プランの中でも、できる限り物事は学校現場で決められるようにできるものはしたらいいということで、校長の裁量権の拡大、具体的には、例えば学校のそれぞれの自主性、公立学校といっても特色のある公立の学校をつくるために、校長先生が一生懸命努力できるように、例えば予算の一定の枠を校長先生が使えるようにするとか、人事の異動に当たって、市町村教育委員会から都道府県教育委員会に意見を具申する際に、学校長の意見を付して都道府県に上げることができるようにするというような形での校長の裁量の拡大といったようなこと。あるいは、学校評議員制度というものを平成十二年度からやっておりますが、これの一層の活用によって地域に開かれた学校づくり、あるいは教育委員会を一層活性化するために、教育委員会の議事の原則としての公開でありますとか、あるいは委員のあれをするというようなことでいろいろやっております。

 私どもとしては、やはり学校現場が生き生きと活動できるようにするために教育委員会がサポートし、それをまたサポートするのが文部科学省である、こういう考え方で今回の所信表明も考えたつもりでございますし、また、二十一世紀教育新生プランもそういう考えに基づいてつくったというふうに御理解をいただければと思います。

藤村委員 町村大臣、参議院に出られるようですから、ちょっと一問だけ今確認したいんです。

 今おっしゃったのは、きょうまでの流れの中で、つまり文部科学行政が地方分権の流れをくんで、地教行法も今度出てきておりますね。ところが、その船長たる町村大臣御本人は、教育は地方分権だと思うのか思わないのか。今の御説明はやはり学校現場とかいうことをおっしゃっているので、教育の分野というのはやはり地方分権だと思われているんですか、思われていないんですか、船長としての方向を示してください。

町村国務大臣 今まで、どちらかというとそれは文部省がいろいろな意味で役割を大きく持っていた。ですから、私は、これから教育行政の中で文部科学省が果たすべき役割は、先ほど幾つかの点をお触れいただきました、そうしたものにだんだん限定をしていくということが必要であろう。そして、物事の決定は、できるだけ教育現場、校長先生を中心とした学校現場、あとは市町村教育委員会がそれを支え、都道府県教育委員会が支え、さらに一番最後のサポーターが文部科学省ではないだろうか、こういう考えであるというふうに御理解をいただければと思います。

藤村委員 この所信表明にも出てこないし、今も定かにお答えにならない。つまり、教育は地方分権でないのじゃないかなとお考えなんですかね。いや、そういう考えも別に私も何も批判しませんし、教育こそやはり中央集権的に国を統括してやるべきだという考え方、これは間違っていないと思うんですよ、必ずしも。教育は地方分権だというのは我々の主張ではございます。教育は地方分権でしょうか。

町村国務大臣 余りこういうのは、白か黒か、右か左かと言って一刀両断に決めるべき性格ではないと思うんです。私はやはり、国は国として果たすべき役割、都道府県は都道府県教育委員会として果たすべき役割、市町村教育委員会、それぞれあるわけでありますから、地方分権だという一言で、別に僕はそれがおかしいとか間違っていると言うつもりはありませんが、そうやって、白か黒か、右ですか左ですかとクイズ番組で旗を上げるような性格の議論はちょっと違うんじゃないのかなと思ったものですから、ちょっと何か持って回ったような言い方をしているだけでございます。

藤村委員 大臣、どうぞ。

 過去、大臣所信にも出てくるわけですよ、地方分権という言葉は。今行かれたから、これ以上申しませんけれども。だから、一言も地方分権と言わないところに私は、本当にそう思っているのか、思っていないんだか、よくわからないというのが感想でございます。

 さて、さらにこの地方分権をもう少し具体的に聞いてまいりたいと思います。今回出てきた政府案では、それなりに地方分権の方向を配慮されているというふうに読み取っておりますが、具体的に、どういう点がこの標準法で分権している部分かというのを教えていただきたいと思います。

河村副大臣 藤村委員と大臣の地方分権論争を聞きながら、日本の教育、アメリカのような、あそこまでいってしまうと是正をしなきゃいけなくなると思うんですね。しかし、方向として、私は、できるだけ現場に任せる方向を進めていくべきであろうと思っております。

 今回の改正案では、地方分権の推進の観点から、学級編制の基準が、いわゆる都道府県単位で、児童生徒の実態といいますか、そういうものを考慮して、必要に応じて、国の定める標準を下回る基準、これも下回るという表現がどうなのか、本当は上回ると言った方がいいのかもしれませんが、いわゆる下回る基準という言い方をしておりますが、弾力化を認めるということ、できるようにするということ。それから、公立高等学校の設置主体の要件を、これまで定めておりました高校標準法第三条を削除して、いずれの市町村においても高等学校を設置するようにできるようにした。この点が、今回の改正案で地方分権の推進の観点が生かされている、このように思っております。

藤村委員 そこで、ちょっと蒸し返しになるかもしれませんが、これは実は二年前にもやっていることで、あるいは先週のこの委員会でも出てきました。長野県小海町問題であります。

 このことは委員の皆様に必ずしも周知されていないかもしれませんが、これは三年前ですか、九八年四月の報道で、非常に簡単に書いてありますのでちょっとだけ紹介いたしますと、一学級の定員を四十人とする国の決まりではきめ細かな教育ができないと、長野県小海町の二つの小学校が平成十年度から四十人以下の学級を二学級に分け、十九、十八人で一学級を構成する少人数学級を始めた、町が独自に予算を組み、教員免許を持つ教諭を補充したが、国の決まりに従う長野県教育委員会から待ったがかかった、町の教育委員会は、少人数学級は続けるものの、学級は一つにする方向で県教育委員会の指示に従うことを決めた、こんなことであります。二つの小学校でそれぞれ、三十八人とか四十人に足らないところを二つに分けた。小学校の二年生と、片っ方は一年生ですかね。

 このことは実は今、この時点でも全国の都市でもよく起こっております。つい先日も、千葉県の柏市の方々から陳情を受けました。一年生のときに四学級だったんです、百二十一人いたんです、四十で割ると。これは千葉ですから、転勤族がたくさんいます。今度、その一年生が二年生に上がるときに百十九人になりました。そうすると、とにかく学級数が変わるのですね。たった一人か二人の話ですね。このことが小学校の一年生から二年生に上がるときに起きる。これは、どうも全国、割にたくさんこの時期に起こっていて、お母さん方、保護者の皆さん、本当に戦々恐々のようであります。

 今回の、先ほどおっしゃった、ある意味では地方分権に配慮したこの法改正は、こういうことは非常に弾力的にできるようになるのでしょうか。

河村副大臣 御指摘のように、そういう小海町のようなケースも出てまいりました。地方ではそういう声もある。それを弾力的にやれるようにということで、今回法改正をするということになって、少人数の学級編制を認めるという方向になってきたわけであります。

 ただ、これはまた地方分権の中のさらに再分権といいますか、御案内のように、都道府県が教員を採用するということになっておりますから、そこから各市町村へ先生方が行く、こういう形になっておりますから、全体の県教委の枠の中で定数が定められているということがございますので、その枠を超えるということになりますと財政的な問題が出てくる、こういうことであろうと思います。だから、県教委の同意を得て学級編制を行うという形は、これは十分市町村と県教委との話し合いの中で決めていただく、こういうことになろうというふうに思います。

藤村委員 二年前の質問のときに、実は当時の教育助成局長がこの件で、具体的に指導の場面でどのような学習集団をつくっていくか、これは現場の裁量で各校長あるいは市町村教育委員会が行うことでございますと答えているのです。

 今の学習集団の話に関しては、今回法改正をしなくたってできていたんですよね、今回出ている何か二十人学級とかいっている話は。

 ところが、学級編制については、国の標準は四十である。今回初めてちょっと立ち入って、都道府県教育委員会が今度は基準を設けて、それが四十以下の基準を設けても構わないという程度ですよね。それも法文はなかなか厳しいですよね。「特に必要があると認める場合」、これはどんな場合で、どのぐらいのケースを認めるのでしょうか。

河村副大臣 「特に必要があると認める場合」、この認定する権限が、今御指摘のように、都道府県の教育委員会の裁量ということでありまして、児童または生徒の実態を考慮して、特に必要があるという場合のケースとして考えられる場合でございますけれども、一つは、児童生徒の発達段階の中で、まずその学校生活への適応を円滑に図っていく必要性ということになりますと、小学校の低学年については、やはりもうちょっと学級編制を下げて、きめ細かくやる必要があるという判断が一つあると思います。

 もう一つは、今学校の現場で問題になっておりますいじめであるとか不登校であるとか、あるいは学級崩壊、こういう状況が起きておって、今そのままの対応では難しいということで、学級編制基準を引き下げなきゃいかぬ、こういうような場合が考えられるというふうに思うのです。

藤村委員 県教育委員会は標準に従って基準をつくる、基準は標準を下回ってよろしい。そうすると、それは県内全域の話なのか、それとも、今の「特に」というのは、やはり県の中で相当限定した部分で、そこについてはというふうにやられるのか、これは県の教育委員会が決めることではありましょうが、そういうお考え方なんですか。それとも、一応国の標準は四十だ、我が県は財政的にこうしながら県内全域を三十八にする、こういうことがあり得るのでしょうか。

河村副大臣 これは特殊な地域にということじゃなくて、県全体の地域で、もちろん各県ごとの教育委員会の裁量ということになっておりますから、県を超えてということじゃありませんが、それぞれの県においては全域で考えていく、こういうふうに理解しております。

藤村委員 仕組みとしては全域なんだけれども、やはり「特に必要」という、ここで裁量になるわけですね。

 だから、結局は、県教育委員会に、今まで国がある意味では、これを中央集権と呼ぶのかどうかですが、相当がんじがらめにしていた、国は少しその権限を都道府県に移したという分権の姿ではないかと思うのです。

 ところが、都道府県教育委員会は、きょうまで、長年の国の中央集権的な習慣なり慣行なりに相当頭は固まっていますから、そうなると、今度は地方に四十七の中央集権の教育体制ができるという、そこは時間のかかる問題で、今回そうしてちょっとでも移されることはそれなりに評価いたしますが、私は、ぜひとも、都道府県教育委員会が相当柔軟に考えられるような、また中央の文部科学省はいろいろな相談に応じていく、こういう姿勢をぜひ前向きに進めていただきたいと思います。

 そこで、先ほども同僚委員の方からの質問の中にもありましたが、非常勤講師の話であります。

 これは非常勤講師の話じゃなしに、今回の政府提出の法案でいわば目玉になっている部分が、二十人学級もできますよみたいなことが新聞見出しでたくさん出ました。それが今回の法案の目玉みたいに何となくイメージされました。

 しかし、これは二年前の私の質問なんですが、当時の教育助成局長は、「国語であるとか算数であるとか、そういった個々の教科の場面につきまして、一つのクラスを二つに割って、担当する教諭につきましては、非常勤の講師という形であれば、これは現行制度の中でも各市町村教育委員会独自の予算で、自分自身で雇うことができるという仕組みになっております」と答えているのですね。

 今回、そんなに華々しく二十人学級ができますなんて言わなくてもできたんです。ただ、できたんだけれども、そのときに市町村負担の非常勤講師であったというところが、今回はそれを定数に入れますというふうに考えられたのかどうか。先ほどの局長の同僚委員に対する答弁を聞いていますと、いや、非常勤講師というのはそういうものじゃないんだみたいなイメージも何となくありましたので、二十人学級ができることは、割に非常勤講師を頭に描いて制度化されたのかどうかなんですね。

 つまり、二十人学級にするためには、やはり非常勤講師を相当入れてこないと無理だろうな、なぜなら標準は四十だからということでしょうか。

河村副大臣 藤村委員御指摘の面が全然なかったという否定はいたしませんけれども、今回、これを確保するにはどのぐらいの先生を確保していけばいいかということがあったと思うのですね。

 だから、今回の定数改善措置の中で、そういうことが可能になるような先生を確保していこうということから、先生、教諭を、定年退職される方々を全部確保していくということになれば、第七次定数改善計画においては、子供の数が総体的に減るわけでありますから、先生の数をふやすことが結果的にできるという観点に立って定数改善計画を行っていった、その中にこういう発想が出て、これを確実なものにしていこう、地方のそういう要請も出てきておりますしということ。

 それともう一つは、これは表の数字だけではございますけれども、中教審から、一人当たりの教員の持つ児童生徒数を欧米並みに、標準に合わせるべきだという指摘もございます。これに近づけるにはどうしたらいいか、こういう両面からも定数改善を行ってきた、こういうことであります。

藤村委員 今おっしゃった再任用の先生などのケースがそういうことに当たる、私どもそれはそういうふうに考えているんですが、ところが、この制度をちょっといじったことで、特別非常勤講師もこの中に入っていくんですよね、非常勤講師という中に。

 そうすると、特別非常勤講師は、先ほどの質問でもありましたように、別途国で補助をして、配置の事業費補助という形で、制度としてもう動いているわけですね。これは、重要なポイントは、なぜ特別非常勤講師と言うかというと、免許状を有しない者でも充てるわけですからね。このことは、このちょっとした制度をいじくった中で非常勤の講師の中に入るんだけれども、免許状があるかないかは大違いであります。ここはよく議論をされたはずでありますから、それでもいいと考えた。

 それならば、先ほどの御説明は、どうも再任用の、つまり当然免許を持っているというふうな前提での御説明であったように思うんですが、教員一人当たりの生徒数がヨーロッパ云々とおっしゃった。ところが、特別非常勤講師制度まで入れますと、これは週一日来ていただいて、割に専門的な、日本舞踊を教えていただく、小学校、中学校も一人ですよね。そうすると、週五日制だと五人、定数の枠一名で使えますよね。どうもそういうこそくな数合わせになりはしないかな。本来の趣旨は、標準の中の定数一名というのは、本当は一人の先生が、それも免許を持ってちゃんとやっていただく先生がいいんでしょう。それとも、いや、それはちょっと崩してくるんだというお話なんでしょうか。

河村副大臣 今の定数が、その特別非常勤講師をどんどん入れる、その枠の中で入れれば、一人でやるところが極端に言えば三人もできる、それによって先生の数がふえるんだという考え方には立っておりません。

 もちろん、現場はそんなことを考えてやっているわけじゃありませんから、文部科学省が全体として考えたときに、教員の数をふやすことによってそれに対応できるという考え方はありますけれども、それを現場に押しつけて、それをふやすことによって一人当たりの標準が上がって世界レベルの日本の教育ができる、そんなことでやっているわけでは決してないわけでありますし、そういうことを押しつけるつもりもございませんが、それぞれの現場において、こういう二つの、今まで特別非常勤講師制度は三分の一の補助事業でやる、それから非常勤の場合は二分の一でやる、こういう形でとっておりますから、本来ならば恐らく非常勤講師をできるだけ使うようにするんであろうと思いますね。

 ただ、特別非常勤講師制度は、やはりこの制度がありますから、財政力の関係もあって、その特別非常勤講師もこっちに回したいというやり方もあるかもしれないけれども、それはこれからの総合的な学習授業等いろいろな中でバランスをとっていく段階で、もうちょっと特別非常勤講師をふやした方がいいという現場があれば、そういうものが非常勤講師の中へ割り込んでくるであろう。その辺はまさにその地域の現場の配属の妙といいますか、それにお任せしたいということで、それもできるようにした方が便利ではないかという配慮でありますから、それによって何かこそくに数合わせということには私はならないというふうに思っております。

藤村委員 言葉じりをとらえるわけではありませんが、免許があるかないかという重要なポイントにおいて、便利であるからというふうにしていただいては困るのであります。

 今回、非常勤の方を定数枠に入れるというのが、再任用の方などで、ベテランの方で、しかし公務員制度の関係で来ていただく、この部分に限ってやるという部分は、ある程度私は整合性というか合理性はあると思うんですが、ただ、そうしたことによって、今度は特別非常勤までそこに入ってきてしまっていたというか、これはもちろん法律を厳密に考えられてそう仕組まれたんだと思いますが、しかし、免許がないわけですよね。だから、こういう大きな問題をさらっと流すわけにはいかないということではございますが、時間が来ましたので、以上で終わります。

 ありがとうございました。

高市委員長 午前十一時から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十時三十四分休憩

     ――――◇―――――

    午前十一時一分開議

高市委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 質疑を続行いたします。山谷えり子君。

山谷委員 ガンジーは、二十世紀後半、七つの罪、やみとしてこんなことを言いました。原則なき政治、道徳なき商業、労働なき富、人格なき教育、人間性なき科学、良心なき快楽、犠牲なき宗教。原則、道徳、労働、人格、人間性、良心、犠牲、いずれも教育と深くかかわる徳目であるというふうに思います。豊かな愛情と理解、そして生き生きした切磋琢磨の場、そして地域や学校の個性が生かされるサポート体制が必要だというふうに考えております。

 町村文部大臣に地方分権のことをちょっとお伺いしたかったのですが、まだお着きにならないということで、閣法では、通常の学級に障害を持つ児童生徒が在籍する場合の加配が行われていないのですけれども、例えば、今非常に問題になってきているのがLD児、ラーニング・ディスアビリティー、読み書き、ある特殊な部分が非常に達成度が悪いということで、知能で問題ではなくて、何か、ある特殊なところというような限界で指摘されている部分がございまして、日本の場合はまだ全体の調査もなされていないというような状況でございます。

 平成十一年七月、調査研究協力者会議の報告によりまして、これは非常な問題であるからして、担任が配慮して指導するなり、チームティーチングによる指導などを考えていかなきゃいけないけれども、まず実態調査が必要である、そういう旨の報告でございました。

 私、新聞記者をしておりましたころ、アメリカでこのラーニング・ディスアビリティーの子供たちが大変にいる、州によって定義とかカウントの方法が違いますのであれなんですけれども、おおむね、少なく見積もって五%、つまり、四十人学級でいえば二人か三人ぐらい、日本でもいてもおかしくないというような数ではあるわけでございます。そのような大きな数があるにもかかわらず、日本の場合は実態調査と支援体制がなされてきていなかったわけですけれども、その辺のことは、今現在どのようにお考えでいらっしゃいますでしょうか。

河村副大臣 山谷委員御指摘のとおり、いわゆる学習障害児の我が国においての実態がまだ十分でないというのは、私は御指摘のとおりだと思っておりまして、これを本格的にきちっと取り上げ、位置づけていく必要があるというふうに思っておるわけでございます。

 それで、アメリカあたりでは、大体、全米平均で四・八九というわけですから、五%、日本においてもということでございますが、今日本で、関東近辺、それから長野県で行われた統計が出ておるのであります。関東近辺といいますからこの周辺と思うのであります。

 完璧なものとはまだ思いませんが、東京学芸大学の上野教授が、関東近辺の通常の学級に在籍する小学校一年生から四年生を抽出された結果では、男子が三・一%、女子一・三、平均で二・二という結果が出ております。長野県が小中学校の児童生徒の抽出をやったものによりますと、長野県の総合教育センター、ここではちょっと低目に出ておりまして、〇・六二、こういう数字も出ておるようでございますが、これを含めて、今御指摘の協力者会議の方も、学習障害の定義とか、あるいは学習障害であるかどうかの判断基準等の報告が出たところでございます。

 この報告を受けて、平成十二年度に、十五県に委嘱をいたしまして、学習障害の判断基準や実態把握の体制について検証をやっておる。十三年度からは、この事業を全都道府県に拡大していって、学習障害児等の実態について全国調査を行おう、こういたしておるところでございます。

 いずれにいたしましても、学習障害児の指導のあり方については、現時点では、学習障害児の存在そのものをどういうふうな形で取り上げるかということがはっきりしておりませんから、普通の場合、重複の障害とかなんとかは別でございましょうが、通常の学級に在籍をしておるわけでございますので、いち早くそのことに気づかなきゃいかぬわけでございますが、当面の問題としては、学校全体で支援する体制をつくっていく必要がある、このことが重要であるという認識に立っておるわけでございます。

 そこで、学級編制基準の特例的な引き下げを行ってそこへ加配をする、そういうことが都道府県教育委員会で特に必要だと認められるケースならば、それもやらなきゃいかぬ。今回の学級編制基準のあり方の中に、これも加えていこうということでございまして、さらにチームティーチングを応用するということも当然必要になってくるでありましょう。

 いずれにいたしましても、全国的な調査を早く行いまして、その対策を立てていかなきゃいかぬ、このように考えているわけであります。

山谷委員 今の部分的なデータをお聞きする限り、随分低くて、やはり定義をもう一度検討し直す必要があるのではないかというふうな印象を持ちました。

 アメリカなんかでは、一九六〇年代から非常に研究も盛んで、実態調査、支援体制などもなされておりまして、これも州によって違いますけれども、例えば、大学とか高校入試に、ラーニング・ディスアビリティーあるいはディスレクシアのお子さんは、パソコンとか辞書の持ち込み特別許可とか、そんなこともあるようでございます。日本の場合は、本当に、実態調査がなされておりませんし、理解もまだまだ不十分でございますので、これがもしかしたら引きこもりや不登校やいじめなどの原因にもなっているのではないかということを指摘する方もいらっしゃるわけでございます。

 衆法の提出責任者にお伺いしたいと思います。通常の学級に障害を持つ児童生徒がいる場合の加配について、そしてまたLD児について、どのようにお考えでございましょうか。

山口(壯)議員 学習障害というのも、基本的には、いろいろな形でとらえられる中でも、障害の一つというふうにとらえられれば、我々、この関係でも加配を認めようとしているわけなんですけれども、そういう意味では、特別な教育的支援が必要な子供たちであって、やはりこの加配の対象としてどうしても認めていくべきだと思っております。

山谷委員 本当に、いろいろなタイプもいて、アインシュタインとかエジソンとかトム・クルーズもそうだったのではないかなどとも言われておりますけれども、ギフテッドチルドレン、タレンテッドチルドレンなんといって、多様な形での支援体制がこれから必要になってくるというふうに考えております。

 続きまして、衆法の提出責任者についてなんですけれども、この法案は公立学校を対象としているわけでございますけれども、しかしながら、子供たち一人一人の個性に応じた、またきめ細かい教育は、公立だけではなくて国立、私立を含めた我が国の学校教育全体の問題だというふうに考えております。

 ところが、法令上は、私立の小中学校の一学級の児童生徒数は、昭和二十二年の学校教育法施行規則制定以来、五十人以下、高校では、昭和二十三年、四十人以下とされまして、半世紀以上も経過しているわけでございますけれども、その点、私学について、どんなようにお考えでございましょうか。

山元議員 本案は、公立学校の標準定数法の改正ですから、私学については触れておりません。しかし、今山谷議員からもありましたように、半世紀にわたって改善されていない実態があります。これは、私学が日本の教育に果たしている大きな役割、重要性を考えると、このことについても十分な対応をしなければならぬというふうに思っています。まさに私学も、一人一人の子供たちをきめ細かに育てていく、こういうことが必要だというふうに考えると、同じように三十人学級を実現しなければならぬというふうに思います。

 したがいまして、本案が成立した後には、私学それぞれの自主性がございますから、そのことを大事にしながらも、誘導措置といいますか、支援措置で、三十人学級、学級規模の縮小に向けて積極的に取り組まなければいけないというふうに思っています。

 今、私学は、少子化の流れの中で、あるいは教育内容の高度化に伴って、大変な経営努力、教育努力をしてくれていますから、そのことを支援するための措置をぜひこれは行政としてしなければならない、そういうふうに考えております。

山谷委員 町村文部科学大臣、御苦労さまでございました。

 藤村委員と河村副大臣との間で長野県の小海町の話が議論されまして、地方分権の流れの中でそれをどういうふうに考えていくのか、そしてまた、今回の閣法の中でそれがどういうふうに変わっていくのかというようなことを議論いたしました。長野県の小海町、町が、財政を自分たちでやるから少人数学級を認めてほしいと言ったところ、長野県の方が、それはいかがなものかという形で認めなくて、チームティーチングという形でお茶を濁したというあのケースでございます。

 しかしながら、河村副大臣は、今回の閣法によりまして、都道府県の教育委員会が教員採用の定数枠を持っているのであるからして、市町村と県の教育委員会の話でそれは決まっていくのではないかということでございますけれども、つまり、四十人学級を前提に、都道府県がそれを下回る基準を定めることができるとしているわけでございますけれども、国庫負担金などの財源措置が伴っていないわけでございますから、今どこも自治体財政は危機でございます。そしてまた、超高齢社会の現状では、福祉に回されたり、十分に教育に市町村の望みどおり回ってくるのかどうか、実施されるのかどうか、大変に疑問に思うところがございます。財政支出という痛みを地方に押しつけて、自由に弾力的に下回る数も学級編制としてできると言われても、現実には無理ではないかというふうに思っているのですが、その辺いかがでございましょうか。

町村国務大臣 長野県の小海町のケースをお触れいただきました。従前ですと、それはもう本当に門前払いだったわけですね。今回は、都道府県と市町村が合意をすればそうしたことも可能になるということでは一つの大きな変化ではないだろうか、こう思っております。

 そういう中で、では、そのお金が伴わなくてできるのかという今山谷委員の御指摘なのだろうと思います。

 確かにそれは、国も都道府県も市町村もみんな厳しいといえば厳しいわけでございまして、特に各自治体が、ささやかでも一定の自主財源がある、それを、例えば介護の方に回すのか、教育の方に回すのか、あるいは公共事業の方に回すのか、それはそれぞれの自治体の判断。だからこそ、そこまでも国は強制をしないという意味で、私は、地方分権というのは、各地方自治体で相当差があってもいい、また、差があることを前提に認めなければ、多分地方分権、地方主権というのは成り立たないのだろう、こう思っておりますから、その苦しい市町村あるいは都道府県財政の中で、いかに重点的にプライオリティーをつけて資金を配分するか、そういう問題に最終的には変わってくるのだろう、こう思います。

山谷委員 都道府県教育委員会は、当該都道府県における児童または生徒の実態を考慮し特に必要があると認める場合は、下回る数を基準として定めることができるというような説明なのですけれども、実態を考慮しということは、つまり、実態の調査、あるいはまた、校長あるいは市町村教育委員会が実態はこうだというようなことを挙げてくるというようなことだろうとは思うのですけれども、これはどういうふうに調査がなされるあるいは把握をしていくというようなことなのでございましょうか、町村文部科学大臣。

町村国務大臣 基本は、やはり各学校ごとの実態をしっかりと校長先生が把握をするというところからスタートするのだろうと思います。その実態を各市町村教育委員会が受けとめ、各市町村教育委員会が都道府県教育委員会と相談をするということであって、実態把握の一番のスタートというか、一番重要な部分は、私は、校長先生がいかに学校を把握するか、実態を把握するかということであると思います。

山谷委員 学校教育法施行規則第十二条あるいは十三条、学校長の権限などいろいろ書かれておりますけれども、ここで新しく閣法ができるわけですから、校長のお仕事としてこれには当然書かれていないわけなのですが、そうしますと、これからは、この閣法によれば、校長の意見、リーダーシップが教育委員会の判断に非常に重く受けとめられて、つまり、条文の中で、そのような校長の意見、リーダーシップというのが、実態として校長の意見が重く見られることになるというふうな解釈をしてもよろしいのでございましょうか。

町村国務大臣 条文がちょっとどうなるか、私も今すぐ何条、何条と言われてもちょっと頭に思い浮かびませんけれども、基本は、校長の意見具申の重みというのは、今、学校現場をできるだけ大切にしよう、そういう基本的な考え方に立っているわけでございますから、学校長の意見は、今までも軽視されていたとは思いませんが、今まで以上により重視されてしかるべきであろう、こう考えます。

山谷委員 国と都道府県の関係がやや変わりつつありまして、本当に変わるかどうかわかりませんが、だからこそ都道府県と市町村との関係もじわじわと変わってくるだろうというような見方ではないかというふうに思うのです。

 気になるのが、「特に必要があると認める」と、わざわざ「特に」というのを入れてありまして、たしか衆法では「特に」というのが入っていないというふうに思うのです。つまり、「特に」というのを入れることによって、都道府県の教育委員会は、まあいろいろ問題はある、校長の言うことはわかった、しかしながら、それは「特に」とは言えないよというような、つまり、都道府県教育委員会が動かなくてもいい口実にこの「特に」という言葉が使われてしまうのではないかというふうに思うのですが、いかがでございましょうか。

河村副大臣 「特に」という表現をどのように理解をするかということだと思います。特例的にということで、先ほど大臣も言われたのでありますが、プライオリティーの関係もあろうと思うのですね。だから、希望すれば全部先生が張りつけるのだという状況下にあるならばこういう条項は必要ないと思うのでありますが、やはり加配等々の関係でありますから、そのプライオリティーの関係でいろいろ判断基準が必要になってきて、ここまでしかできない、これをどちらに今回配属しましょうという場合に、その校長の意見を聴取したときに、これは非常に急ぐ、ここは次の機会にというケースが現実には起きるであろう、そういうことを想定しているわけであります。

 これがあるからやらなくていいのだというような理解では当然ないし、むしろ地方からはそういう声が今どんどん上がってきておりますから、それを決めていく段階において、どうしても特例的なプライオリティーといいますか、それをつける上においても特例的な段階、必要度の高いもの、それが特例、こういうふうに私は理解しておるわけであります。

山谷委員 財源措置が伴っていればプライオリティーを決めてというような言い方もできると思いますけれども、財源的なサポートがなくてプライオリティーを決めてと言われた場合、では、教育よりも介護に回そうみたいな、そういうプライオリティーだって十分あるわけでございますから、本当に実際的にきめ細かい豊かな教育をサポートしようというふうに政府は思っていらっしゃるのかということは、やはり疑問に感じざるを得ないというような印象を受けております。

 町村文部科学大臣にお伺いしたいのですけれども、先ほど河村副大臣は、「実態を考慮して特に必要があると認める場合」というのはどのようなケースをお考えかというような質問に対しまして、小学校低学年などでなかなか学級適応できないようなケース、あるいはいじめ、不登校などのケースというふうにお答えいただきましたけれども、町村文部科学大臣はどのようなケースというふうにお考えでございましょうか。

町村国務大臣 先ほど河村副大臣がそういうお答えをしたのであれば、私も同じ考えであります。

山谷委員 小学校の低学年、一年生はそういう形でいいと思うのですけれども、不登校とかいじめとか、例えば、仮に教室が荒れるということは、あの子が入学してくるからことしは荒れるぞ、あらかじめそういう予測が立つ場合もあるでしょうし、あるいは途中から荒れてくる場合もあるでしょうし、私も、子供三人おりますし、PTAの会長をやりましたし、地元の教育委員会の教育委員をやっておりますので、つまり、何か問題が起きた場合、それを変えるために一年以上かかるのですね。そうしますと、被害者は子供たちでございますから、実態的には何も変えられないというようなことが起こるわけでございます。ですから、小学校の一年生に対してはこれは有効だろうけれども、そのほかに関してこれが有効であるというふうには思えないのですが、いかがでございましょうか。

町村国務大臣 あらかじめいじめがどこそこの学校で起きるだろうということ、それを予測することは無理だろうと思います。しかし、現実に学級が動き出して緊急対応する必要があるという場合には、各教育委員会で一定のプールをしておいて、緊急に派遣をしたりというような対応もあると思います。

 また、直接のこれはお答えになりませんけれども、今回の別の法律改正の中で、問題のある児童が生じた、そして、その周りにいる子供たちの正常な学習する権利が妨げられる場合には学校から一時期外れてもらうという措置を、基準をはっきりして、例えば周りの生徒に暴力を振るったとか先生に暴力を振るったとか、幾つかのケースを明示し、その手順を明確にして一時期学校から外れてもらう、そういう措置も講ずるというようなことで、全部が教員の定数だけで対応できるかというと、必ずしもそうではないのだろう。もちろん、その場合にはPTAの協力もあるでしょうし、また、場合によっては児童相談所その他の協力も得て、そうしたいじめ等々の問題に対応していくということになるのではなかろうかと思います。

山谷委員 そのようにスピーディーでタイムリーな対応ができれば大変いいというふうに思うのですけれども、例えば、あらかじめプールする教師を得ておくとか、あるいは、あらかじめ県の方が三十五人から四十人ぐらいの間で学級編制していいですよみたいに、最初から弾力を持たせて市町村に投げるとか、いろいろないいケースが考えられるというふうに思います。

 今、県と市町村の間で、地方分権ですから、それぞれがルールづくりを進めているのかもしれませんけれども、よいケースがあったらぜひそれを文部科学省が上げて、いろいろな形でみんなでノウハウを共有化していくというようなことを進めていくことも大切ではないかというふうに思うのです。ぜひ力強く、財源措置がないから限界があるというのは非常に思いますけれども、ハウツーを共有していくという部分は、いいことであれば進めていただきたいというふうに思います。

 最後に、衆法について、教員のことについてちょっとお伺いしたいのです。

 今、教員はかなり採用増というふうになるのですが、どのような計画のもとに行われるのか。かなりの数が採用されるとしたならば、質の問題とか、あるいは、年齢構成上どのようなよい点あるいは懸念される点が出てくるのか、その辺をお聞かせいただきたいと思います。

山内(惠)議員 山谷議員の質問にお答えします。

 今日の教職員の採用試験の競争率は、小学校から高等学校まで十倍を超えています。十年前の一九九〇年度における競争率を見ると、小学校で三・一倍、中学校で四・八倍、高等学校で五・六倍となっています。本改正案に基づいて単年度の競争率を試算すると、小学校で三・八倍、中学校で五・一倍、高等学校で四・二倍となりますので、一九九〇年度の競争率と変わりがないということです。

 競争率が高いからよい教員になる素質を持った者を採用できるというわけではないと思います。競争率が下がったとしても、さまざまな資質を持った若い人材を採用することは意義があると思います。また、現在、若い人が少なく、不均衡な年齢構成となっている学校現場にとって、若い人材が入ってくることは大変活気づくという意味で評価できると思います。

山谷委員 東京都などでも、五十代と二十代の教師の割合なんかが非常にアンバランスでございますし、千葉市などでは、四十代の教師五七・七%、二十代五・二%、本当にここまでアンバランスかと思えるくらいのアンバランスな状況でございます。

 若い先生が少ないということは、運動系クラブが活性化しませんし、あるいは、余りにもアンバランスですと、先輩教員が後輩教員を見守ったり教えたり丁寧にというようなこともなくなってしまうというような状況でございますので、教育現場が活性化するためにも、若手教員というものの採用が進むということは本当にいいことだというふうに考えております。

 最後に、質問というよりも意見なんですけれども、この政府案の提案理由の中に地方分権の推進というのがあるわけでございますけれども、いろいろお聞きしますと、財源の手当てがないと、それは、今の日本の苦しい財政状況によるということでございますけれども、むだな公共投資をするのではなく、真に未来につながる公共投資として、やはり教育環境の整備にお金をかけるべき政治的な決断をしていくときだろう、今まさにそのときだろうというふうに考えております。

 全国連合小学校長会の調査でも、四分の三の校長が学級規模によって児童の学習等に違いが見られるというふうに答えているわけでございます。

 そしてまた、町村文部科学大臣のホームページを見ておりましたら、政治理念の中に、官僚のおぜん立ての上で判断していけばやっていけるという時代は過ぎてしまった、教育はすべてに優先してなされるべき国策の基本というふうにおっしゃっていらっしゃいます。そのような大きな御決意を持たれまして、教育基本法の中でも教育条件の整備を政府の責務としているわけでございますし、教育条件の根幹として、少人数学級の実現、きめ細かい丁寧な学習環境の整備というものを大事にしていただきたいというふうに思っております。

 この閣法を見ますと、本当に地方分権の推進というのをまじめに考えておられるのか、それから、教育条件の整備、今日本にとって何にお金を投資しなければいけないのかということを真剣に考えておられるのか、何か寂しい気持ちがいたします。まだまだ議論を尽くして、きめ細かい教育の実現というものをお互いに図っていきたいというふうに思います。

 ありがとうございました。

高市委員長 山元勉君。

山元委員 民主党の山元勉でございます。

 質問をさせていただく前に一言申し上げておきたいのですが、十四日のこの委員会の開催についてです。

 あの日、問責決議案が出て、参議院でそのことの審議なり討論が行われるということになっていました。少なくとも、慣例の基本は、不信任案だとか問責決議が出たときには、院が一たんとまって、そのことについて国民的な立場で論議をする、こういうふうになっていたというふうに思うのです。したがいまして、参議院では問責決議案が審議されている、ここでは法案が審議されている、参考人においでいただいて。極めて異常な委員会運営がされたというふうに思います。

 私どもは、今回のこの閣法、衆法、二つの法案について、まさに文部科学大臣もあるいは総理大臣も、教育改革大事なんだ、やるんだ、改革国会なんだ、こうおっしゃっていました。ですから、それの一番の法案として、そして一番中心になる、土台になる法案として私どもは十分な論議をする、国民の皆さんの思いにこたえる委員会にしなければいけなかったと思いますけれども、それが極めて異常に、与党だけの参考人が出席をして、与党だけの質問で終わる。

 こういう委員会運営というのは、例えば、私どもも長い間この法案を提出するに当たっては論議をしてきました、国民の皆さんの御意見も聞きました、千数百万人の署名も出ていました、そういうこの法案ですから、できるだけ時間をかけて、予算関連法案といいながらも、慎重に論議をすべき。けれども、見ていると、そういう運営がされたし、そして、きょうどうもここで討論が終結するようですけれども、与党の皆さんは、最初の日、二、三十分だけ一人質疑に立たれた。これはやはり、国民の皆さんが、教育を何とかしなきゃならぬ、それを受けて総理も大臣も、何とかしなきゃならぬ、改革をするんだとおっしゃっているのとは違う。

 本当に、これから二十一世紀が始まって、もうすぐ二十一世紀の初年度が始まるわけです。そのときに日本の教育をどうするんだということについて、論議がこういう形で行われるということは極めて異常だし、私は残念だというふうに思う。国民の皆さんに申しわけが立たぬというふうに思うのです。

 これは理事会でも相当論議をされたようですけれども、委員会の運営の問題です、委員長の存念をお伺いしたいと思います。

高市委員長 山元委員に申し上げます。

 参考人につきましては、去る三月九日の理事会において決定し、出頭決議をしたところでございます。その後、各党から御推薦のありました参考人の皆様に出頭の要請をいたしまして、御快諾をいただいたところです。

 十四日当日、野党委員の皆様が欠席の中で参考人質疑を行うことといたしましたが、開会前に出席要請をし、また与党の質疑が終わりました直後、再度要請をいたしました。

 参考人を招請するに当たりましては、参考人の皆様の準備の御都合もあり、大体一週間前に、またお忙しい皆様ですから、時間を決定するということでやっておりますので、参考人を招致している以上やむを得ず議事を進めた次第でございます。そのように御了承お願いしたいと思います。

山元委員 深くは申し上げませんけれども、結果的にも非常に残念であったし、出ていただいた参考人の方にも失礼でしたし、そういう状況であれば私は出ていかないよという参考人の皆さんに申しわけなかったというふうに思うのですね。ですから、ああいう問題が起こったわけですから、もっと適切な対応があったんだというふうに考えますし、非常に残念だということだけ申し上げておきたいというふうに思います。

 それで、質問ですけれども、先ほども言いましたように、大臣はこの委員会の初めに、日本の教育は危機的な状況にある、こういうふうにおっしゃいました。そして、根本に立ち返って見直して改革をしなければならないんだ、国民の皆さんが、教育が変わる、学校が変わるというふうにわかってもらえるような改革をしなきゃならぬ、おっしゃるとおりだというふうに思う。改革は必要です。そのことは、総理もそうですし、そういう認識をしていらっしゃることは正しい、改革は必要だというふうに思います。

 考えてみますと、例えば子供の実態、もうここで詳しくくどくどと申し上げる必要ないだろうというふうに思います。校内暴力の問題や少年の凶悪な犯罪だとか、キレる子供、あるいは学級崩壊、本当に寒くなるような言葉がぼんぼんと今飛び交っているわけです。そういう状況を考えても、改革をしなきゃならぬというふうに思います。

 少し数字だけ申し上げますと、総務庁が低年齢少年の価値観等に関する調査というのを出していらっしゃいますけれども、この数字を見て、例えば、小さなことでいらいらするという子供三五%、腹が立つとつい手を出してしまうというのは二九%、三分の一の子供が手を出してしまう。自分のやったことのよしあしを余り考えないというのは三三%。今、子供たちがこういう感覚にあるわけです。

 もっともっとやはりこのことについてしっかりと直視をしていやしていかなければいけないけれども、例えば母親の同じようなことにでも、この調査の中で、母親の三人に一人が子供が何を考えているのかわからないと感じる。子育ての仕方を思いつかないというのですか、子供をうまくしかれないというのが三五%です。

 そういう状況に子供が置かれているわけですから、もう一遍繰り返して言うと、これはやはり改革が必要だ、日本の教育を変えなければいけないというふうに思います。こういう惨たんたる状況を文部科学省としてどういうふうに認識していらっしゃいますか。

町村国務大臣 今委員御指摘をされましたいろいろな実態が、子供の側にもある、家庭の側にもある、また地域社会にもある、国全体にもある、もちろん学校の中にもある、いろいろな問題があるということでございます。したがいまして、一つの方法ですべてを解決するというわけにはなかなかいかないんだろうと思います。

 そんなこともございまして、先般、一月二十五日の日に、二十一世紀教育新生プランというものを発表させていただきましたが、そこにも、家庭、学校、地域社会さらには国全体で、やはりそれぞれの持ち分で取り組むべき課題がこれだけあるんじゃないんだろうかということを提起させていただいたわけでございまして、そういう意味で、委員御指摘のように、さまざまな分野で今私ども思い切った改革をしていかなければいけない、そのような認識をしているところでございます。

山元委員 幾つかの方法としては、確かにそうだというふうに思います。例えば、新しい指導要領で、来年度から小学校、次の年からたしか中学校というふうになっていると思いますが、二〇〇二年度、二〇〇三年度からということになっていると思いますけれども、総合的な学習の時間というのが大きくとられます。

 これは、子供たちの心をしっかりとつかみながら、それぞれの子供たちに合った勉強をさせていこう、画一的な教育でない、こういうことになるだろうと思うのですが、例えば指導要領には、総合的な学習の時間の目的は、横断的、総合的な学習や児童生徒の興味、関心等に基づく学習など工夫を生かした能力の育成を図る教育活動を行う。問題解決型の能力をそれぞれの子供に合った教育をしていく、こういう総合的な学習の時間をつくろう、これも一つの方法だ、手段だというふうに思いますが、思いつくことはいいけれども、実際に教師ができるのかどうか。

 今申し上げましたように、総合的な学習、そういうものをきちっと、例えば総合的な学習の時間にはどういうテーマでどういうふうに勉強させよう、どういうふうに子供たちは伸びていくだろうかということをしっかりと考えながら、検証しながら総合的な学習の時間をつくり上げていくという、これはもう至難のわざだというふうに思うのです、今までの学校のあり方から考えると。時間割りに従って授業をしていたらいいという教師では、これはやり切れないわけです。

 そのことについて、教師の配置で十分これはできるのかどうか、改革をしなければならない部分ではないか、これが新しい一つの条件、実態だというふうに思うのですが、大臣、どうお考えですか。

町村国務大臣 この総合的な学習の時間、これは今回の新しい学習指導要領の一つの目玉でございます。既にかなり多くの学校においていろいろな試みが行われているところでございます。

 私も、そのうちの幾つかの現場を見てまいりました。特に、総合学習の時間の教室にいる子供たちと話をしてみたところ、これは何か共通の答えが返ってきまして、子供たちはみんな非常に楽しいと言うのですね。どうして楽しいのというふうに聞きますと、もちろん先生の適切な指導もあるのですけれども、自分たちでテーマを設定し、自分たちで半年あるいは一年の行動計画をつくり、そしてそれに基づいて、インターネットを使って資料を収集したり、あるいはいろいろな現場に行って環境測定をしたり、ごみ拾いをしたり、地域のお寺に行って古いその町の歴史の様子を聞いたり、商店街の理事長さんに会って町の成り立ちを聞いたりとかいうようなことをいろいろな形でやり、最終的には、自分たちでレポートをまとめ、自分たちで発表し、さらに必要があれば、自分たちで何か市長室に行って町づくりの提言をしたり、自分たちで花壇をつくって花をプランターにして商店街に飾るとか、そこまでやる。要するに、自分たちで考えてやっていくことは大変おもしろいことだということに、子供たちが新たな喜びを見出しているようでございます。

 また、学校の先生たちも、大体毎年やっている標準的な指導案に基づいて、一学期のこの時間はこういう授業をやるということではない、また新しい発想でやらなければいけないという意味で、確かに先生方、戸惑いもあるし悩みもあると思いますけれども、やはり自分の頭を使って、もちろん今までだって頭を使っているのでしょうが、より自由な、独創的な発想のもとで、創意工夫を生かしながらこうした時間をやっていくというのは、先生たちにとってもまた非常にいい機会なのではなかろうかな、こんなふうに思っております。

 私は、この総合学習の時間がうまく活用されると大変な教育成果を上げるのではないかと期待をしているわけであります。

山元委員 確かに文部科学省は、この時間について、例えばモデルを四つ、国際理解、情報、環境、福祉・健康、こういうテーマでそれぞれ勉強させたらどうだ、こういうふうに書いてある。けれども、各地域で先生方が、自分のクラスではどういうふうに今週はやろうか、今学期はやろうか、目を輝かせて一緒になって考えて、新しい目玉で、新たな喜びを子供たちが感じていると大臣はおっしゃるけれども、それをつくり上げていくゆとりが先生にあるのかどうか。時間割りで今までずっと教えてきた。けれども、そういうことができなくて、総合的な、効果的な学習をせいということになってきて、できるのかどうか。私は、条件が非常にお粗末。

 一つ例を言うと、私たちの思いですけれども、今度の法案、例えば小学校、単式学級で二十四万三学級あるのですけれども、そのうち三十一人以上が七万九千学級、三十六人学級というマンモス学級は五万九百六十学級ある。この両方合わすと、三十一人以上の学級というのは五三%ある。中学校はもっとひどい。八六%は三十一人以上の学級です。三十五人も六人も子供たちがいる。

 新しい教育を、それぞれのグループで興味と関心のある、意欲のある、そういう勉強をさせようとしたときに、今申し上げました小学校で十三万学級、中学校で九万六千学級、二百万人、三百万人の子供たちが中学校、小学校で、言ったら大規模学級でいるわけです。新しい方法で、新しい指導要領にいろいろヒントがあるから、教育を組み立てなさいと言っても、これは至難のわざですよ。

 実際に現場の人に聞いてみても、私も何人か聞いてみました、とてもじゃないが見えてこない、何ぼ苦しんでも見えてこないというのが実感です。だから、私は、三十人以下学級にして、そういうことにも教師が本当に自分も納得がいけるような教育を組み立てていく、そういう仕事を保障する必要があるのだろうというふうに思うのです。

 時間が余りありませんから、そのことについては、先ほど申し上げましたように、そうだというのは、千何百万人の国民の皆さんが賛同している。そして、今回私どもがそうだと言って法案を提出させていただいたのは、民主党と社民党、共産党さん、三党です。けれども、これは嫌みではないのですけれども、公明党さんも前の選挙のときには、二十人から二十五人学級を順次実現させるというのが選挙公約、自由党さんも三十人学級を計画的に実現すると書いてある。私は、そういうふうに、国民の皆さん頑張りましょう、教育をよくしましょうと言わなければいけない、そういう実態がそれぞれの学校に、地域にあるのだろうというふうに思うのですね。

 そうすると、大臣も、子供たちが新たな喜びで生き生きとというふうにおっしゃいました。大臣が見てこられたところはそういう状況になっているかもしれぬ。けれども、日本の津々浦々の学校でそういうことを保障しようと思うと難しい、思い切って改革をしなければならぬと思うのですが、大臣、いかがですか。

町村国務大臣 一つの例で総合学習の時間を取り上げましたが、確かに、今までとは違うやり方になりますので、現場に戸惑いがあったり、どうしようかといって悩んでおられたりする方々がいらっしゃるのも事実だろうと思います。したがいまして、私は、そう簡単にすばらしい成果が上がるとも思っておりませんけれども、しかし、大切なことは、要は努力をしてみること、今までの、ある意味ではルーチン化していたやり方とは違うやり方を一人一人開発することのよさというものがあるのではなかろうかと思っております。

 なお、とても今の計画では無理ではないかというお話もございました。私どもの考え方は、現在まで進行してまいりました第六次計画のチームティーチングで約八千四百名、それから今回の第七次計画の少人数指導で八千六百名、合計約一万七千人の教員が活用できることに加えまして、学級担任外の教員というのが三万七千人おるわけでございまして、トータルすると五万四千人でしょうか、こういう方々を、教員組織全体を有効活用することによりまして、二十人程度の少人数による指導が可能になるのではなかろうか、こう考えているわけでございます。

 なお、私もたまたま見に行ったところでは、学年全体を一つにして、そしてクラスの分け方を超えて、例えば一学年三クラスあると約百人前後になるのでしょうか、それが学級編制を超えてそれぞれ自主的なグループをつくってやったりとか、いろいろな形が行われているようであります。とにかく、一クラス三十人ということを現場では余り固定的に考えずに、既に実験がいろいろ始まっている、私はそんな印象を受けたことも申し上げさせていただきます。

山元委員 大臣、私どもは、三十人というのを、三十人の学級をきちきちとつくっていくと言っていない。配置基準、これは文部科学省もおっしゃっているように、標準定数法というのは、配置の基準、各県に割り当てるというのですか、配置する数です。ですから、必ずしも、三十一になったから十五人と十六人の学級をつくるのですというようなことは、私は一言も言うたことはない。弾力的に、それぞれの地域に合った、あるいはそれぞれの教科に合った学級編制、学習形態をつくるべきだ、こういうふうに思っていますから、勘違いをしていただきたくないというふうに思います。

 そこで、今度の閣法の目玉、二十人授業をするんだ、国語、算数、理科、中学校では英、数、理、こうおっしゃっている。これは極端な言葉で言うと、先ほど、教育改革をやらなきゃならない、改革国会にするんだということからいうと、えげつない言葉で言うと、小手先のごまかしだというふうに私どもは思っています。

 それは、学校へ幾つか私も行ってきました。そして、例えば一年生の数を覚えていますが、三十八人、三十八人、三十九人の学校でした。百十五人ですね。中学校へも行きました。三十九人、三十八、三十九、同じ、五学級でしたけれども。

 三教科、例えば中学校で英、数、理、三時間ずつ今度なるわけで、九時間になる。そうすると、二十七時間ほどの週の時間のうち九時間は右往左往しなきゃならぬ、そうでしょう。次は理科の時間だ、A班はここの教室でやり、B班はここの教室でやる、特に理科室なんかは二つ要る。そして、時間が来るたびに、半分はあっちの教室だ、こっちの教室だ、あの先生だ、この先生だ、移動しなきゃならぬ。極端に言えば、三分の一の子供たちが学校じゅう右往左往するわけです。大混乱をする。混乱というのは廊下の混乱だけではないんです。心の混乱が起こる。おまえはあの先生だろう、あんたはこの先生だ、あんたは私の教室にそのままいなさいよと。

 大混乱が起こるような二十人規模というのは学校は絶対喜ばない。これはだれに聞いてもでした。教育委員会に聞いても校長さんに聞いても教職員に聞いても。そういうことでは、本当に落ちついて勉強できる、心のつながりがある、学級担任がしっかりと子供たちを掌握できる、そういう教育、学校、学級にはならないというのが結論です。ですから、えげつない言葉で言うと、小手先、ごまかしの目玉だというふうに言える。

 この間、ここの委員会の質問でも、自民党の方から、人数を一定確保した方が切磋琢磨できるだろう。これは国民会議の報告の中でも出ています。切磋琢磨という言葉が何回も出てくるし、報告の中にもありましたから、私、百科事典引いてみたんです。石や玉を削ったり磨いたりすること、こう書いてあるわけです。

 四十人だったら切磋琢磨、削ったり磨いたりすることができて、十人だったらできぬ。そんなばかなことはないですよ。本当に自分たちの力を出し合って、自分の気持ちや自分の意見を出し合って、こうだああだと言って論議もする、実際にやってみる。そして、ああわかった、そうかということが子供たちに実感できるような、まさに切磋琢磨は四十人だったらできぬ。それは芋の子を洗う昔の、今はそういうことはないみたいですけれども、芋の子を洗うというような教室にしてしまうんじゃないですか。どうですか。

町村国務大臣 これは程度の問題かなとも思いますから、四十人ならできて三十人なら絶対切磋琢磨が起きないなんということを私も言うつもりはございません。

 ただ、例えば、都心部でも人口の社会減その他で人数が減ってくる地域というのがあります。そのそばに比較的人数が、団地ができたりしてまあまあ多い学校があります。これは、子供たちというか親も含めて、どっちを選ぶかというと、むしろ人数の多い学校を選ぶケースの人たちが結構いるんですね。

 それはなぜかというと、やはり人数が少ないということに対する、本当の理由は僕はよくわかりません、野球チームができないとかサッカーチームができない、いろいろあるのかもしれませんけれども、やはり余り人数の少ない学校に行きたくないのは、私なんかはむしろ、私の個人的な趣味で言えば、人数が少ない学校の方がもしかしたらいいと思うかもしれません。それはわかりませんけれども、何か結構人数の多い学校にみんな子供たちが行きたがるという傾向があるという話も聞きました。

 これはちょっと余りにも一般化して言うのは間違いかもしれませんが、それは、いろいろな子供たちの接触とかいろいろな触れ合い、まさに切磋琢磨があった方がいい、こういう考え方もあるんじゃないでしょうか。

山元委員 いや、それは大臣、おかしな理屈ですよ。

 きょうの朝のテレビでも五人の生徒の学校の卒業式の話題が出ていました。確かに五人や十人の学校というのは、今、大臣は学校規模をおっしゃいましたけれども、寂しいですよ。できたらバスで通学できて山をおりられたらいい、こうは思いますよ。けれども、僕が今問題にしているのは、教員配置の基準としての三十人学級、三十人ということ。ですから、ここのところはすりかえてもらっては困るわけです。

 時間も余りありませんから、きょうはたくさんのことを申し上げたいんですが、もう一つ、そういう混乱と切磋琢磨の条件ではないということとあわせて、これは、八千六百人ふやすということで、本当に文部科学省、言うことをできるんですか。

 例えば、小学校でいいますと八千六百人、五年間かかってふやす、こういう案ですね、二十人授業のための。けれども、小学校で例えば十二学級規模、複数ですね、一年生二組、二年生二組で、二組ずつある十二学級の学校だと、三教科を二十人授業しようと思うと教員が大体二人要るんですよ。十二学級の学校で二人要る。そうすると、十二学級以上の学校というのは一万一千三百十九あるんですよ、一万一千。そこに、一万一千に二人ずつつけようとしたら二万人要るでしょう。

 本当にきちっと、そういうことを皆どんどんやるんですよと言ってきたら、そういう意欲があったらやらしてあげるよということではなしに、日本の学校というのはそういうふうに充実していますということをしようと思うと、これだけの八千六百人ではとてもじゃないが三分の一にもいかないという、これは一つのごまかしだというふうに思う。計算合わないでしょう。どうなります。

町村国務大臣 事務方がやっている細かい積算まで私は正直言って余り詳しく承知をしておりませんが、先ほど人数のことを申し上げました、第六次計画の八千四百人、第七次の今回の八千六百人、合計一万七千人に三万七千人を加えた五万四千人ということで、緻密に計算をすると必ずこれが実現をできるという積算計算になっているようでございますので、さらに詳しい御答弁が必要であれば、何か登録されていないようでありますが、局長から答弁をさせてもよろしゅうございます。

山元委員 結構です。時間がありませんから、また後でパソコンを持ってきて教えてもらいます。私はとてもじゃないが不可能だと思います。

 それで、どう改革するかということですが、今ごまかしだと言いましたけれども、欧米のこと、これは今までも出てきていますけれども、どういうふうにやっているのかということです。よく言われるんですが、例えばアメリカでいうと、クリントン前大統領が、七年かかって、一年、二年、三年、小学校を十八人学級にするんだと。これは発表したものを伺った。あるいはイギリスのブレアは、どうしても三十人以下にするんだというふうにこの間演説をやった。皆頑張っているんです。そういう世界の流れだというふうに思うんです。

 例えば、これは調査室が出していただいた資料ですけれども、各国の学級規模の基準と書いてある。その一覧表で見たら、アメリカはカリフォルニア州の例だけれども、一年から三年まで三十二人、クリントンが、今言いました一年から三年まで十八人にいたします、あそこは州によって違うけれども、四十人というふうなことは書いていない。イギリスは三十人以下、フランスは二十五人、ドイツは二十四人、日本は小中高校四十人。

 これは、やはり今の時代、各国がそういう問題意識を持って、国家戦略としてこういう施策を進めているんではないか。日本も、地球規模の競争に打ちかっていくというんですか、そういうためには、いつまでも四十ではなしに、日本の教育も三十人だ、二十五人だ、行き届いた教育ができて、子供と教師がまさに触れ合うんだ、そういう教育をするのが、日本の国家戦略としてあるいは文教の政策のあり方として、今求められているというふうに文部科学省は腹を決めなきゃいかぬのと違うかと思うんですが、この外国の例を見て、どういうふうに考えられますか。

町村国務大臣 必ずしもこれは統計がうまく国際的に整備されていないようでございますが、限られた資料の制約の中で申し上げますと、確かに日本の小学校は上限人数が四十人でございますが、一学級当たりの児童生徒数は二十七人。イギリスも上限三十人ですけれども、この資料によりますと二十七・六人ということでございますから、上限が四十であれ三十であれ、実態は二十七人程度ということで、変わりがないということのように思えます。フランス、ドイツは二十二・三人、二十二・六人でございますから、多少日本よりもあるいはイギリスよりも少ないのかな、こういうことかと思います。

 もっとも、比較するのが難しいのは、例えば、中学校になりますと、日本は教科担任制ということになっておりますから、学級数よりも相当多くの教員が配置をされているということになりますし、小学校の場合でも、先ほど申し上げましたが、専科教員などの学級担任外教員が配置をされているというようなことから、教員一人当たりの児童生徒数で見るという方が妥当なのではなかろうか、こう思っておりますし、また、先ほどのアメリカの例も、州によって違うというお引きもございましたとおり、諸外国には学級編制基準が必ずしもないところもありますので、学級当たりの児童生徒数の値が統計上ないという国もあるわけでございます。

 ちなみに、教員一人当たりの児童生徒数で見ていきますと、今回の改善後、日本は小学校が十八・六人、中学校が十四・六人ということになりますと、アメリカの小学校が十八・六人、中学校が十四・二人でございますから、現在のアメリカの水準とさほど変わりませんし、イギリスは小学校が二十三人、中学校十六・五人でございますから、このイギリスの水準を上回ることになります。フランス、ドイツも似たような状況というようなことから、私は、教員一人当たりの児童生徒数をもって欧米並みという私どもの説明は十分説得力があるものだと考えております。

山元委員 説得力は全くないのですよ、全くない。

 先ほど言いましたように、現に、例えば四十人に限りなく近い三十六人以上の学級の子供でも、小学校で百八十万人、中学校で二百万人いるわけですよ。

 これはどういうことかというと、ずっと文部省の時代から言ってこられた、一人当たりは少ないと。明治の学制発布のときから、寺子屋が全部学校にかわっていくというのですか、あのときに、村に不学の戸なく家に不学の子なからしめん、こうなったのです。隅々に学校をつくっていって、先ほども言いましたように、五人という学校もある。校長はんも教頭はんも担任もいらっしゃる。そういうので割ったら、下がりますよ、それは。

 幸いなことに、日本には、村に不学の戸なくということで学校を全部村々につくっていった。だから、一人当たり先生の、これはコストでいえばコスト高になるかもしれぬ。けれども、現に何百万人の子供が三十一人以上の学校にいる、これを解決しなきゃならぬというのですよ、私らは。イギリスやドイツやフランスの、ここへ出てきてあるように、やはり、うちの校は二十五人以下でするんだ、あるいは二十四人以下でするんだ、三十人以下でするんだという日本の教育のありようというのを決断しましょうと。二十一世紀初めての、これから私らの案でいっても十年かかるわけです。けれども、そういうことをもう踏み切るべきではないかというふうに思うのです。

 進みますが、財源がないというのは、大分さっきから出ましたし、この間もありました。私どもは、前にも言いましたけれども、この間予算案の組み替え案を出しました。九千三百億円、公共事業だとかあるいは官邸の機密費だとか削りなさい、九千三百億円削れるというふうに出しました。

 けれども、私はもう時間ですから、例えば、この間、これは二月の二十八日の夕刊に出ていました、ブッシュ大統領が施政方針演説をやった。そのときに、うちの国、日本と同じように、教育は大事だ、こう言っているわけです。予算の中で最大の伸びを確保するのは子供たちの教育だ、教育は第一の優先課題である、すべての子供たちにとって読解が基礎であり、向こう五年間の間に五十億ドルをあらゆる子供たちの読解の学習のために追加する。五十億ドル、今百二十円ほどですから六千億ですか、読解のために使うと言う、読解力をつけるために。これが基本だ、だから五十億ドル、六千億円をつけるんだとブッシュ演説をやっているわけです。

 これは恐らく、教師をふやす、学校図書館を立派にする、司書教諭もふやす、そういうことをブッシュさんは努力するんだろうと思うけれども、日本は金がないんだと。個人が何億円もむだ遣いをしてごまかしているようなこの時代、これはまあ別の次元の話ですけれども、そういう決断をやはり文部科学省はすべきだというふうに、前に、財政再建のときに、定員増の五年計画が七年計画に延びたときがあった。あのときに、その当時の文部大臣に私は、教育も聖域ではないという法律が出てきた、だからこれはむしろ旗を立ててでも文部省は、文部大臣はこれは守ってくださいよと言った。けれども、だめだ、むにゃむにゃとなってしまった。それで結局二年延びてしまったわけです。

 ですから、ずっと歴代そういう金のことは大蔵省に弱いのかもしれませんけれども、私は、そういう意味でいうと、財源がないというのは言いわけにならぬというふうに思います。これは、私の気持ちを申し上げておきます。

 そのほかに、今の子供たちの実態をよくするために、私どもの法案には、養護教諭の増員、事務職員の増員あるいは寄宿舎職員、あらゆる職種について、やはり行き届いた教育をすべきだというふうに数を積算しております。

 例えば養護教諭でいいますと、保健室登校の子がどんどんとふえていってある。あるいは、これは平成八年の文部省のその当時の資料で、保健室へ来るのは一日平均三十六人だ。多いところではもっと多いわけですね、三十六人もいない学校があるわけですから。小学校で三十六人が保健室へ来るというのは平均値です。だから、養護の先生が、子供たちの健康管理や身体測定だけではなしに、子供たちの心のケアも含めてやらなきゃならぬ仕事が本当にふえてきてある。

 私の地元の市は、財政がないけれども、そういう状況から一・三複数配置をやっているのです。一人しか正規がないのだけれども、忙しいとき、学年初めの三月だけは加配をします、人を探しなさい、七月になったらいへんようになってしまう、四、五、六といて。一・三複数配置。

 そういう努力をしなきゃならぬような状況ですから、先ほどの質疑にも出ましたけれども、養護教諭の場合に、保健室登校だとかそういうことを考えても、そういう養護教諭の増員だとか、あるいは事務職員についても、今度地域に開かれた学校をつくるんだ、住民の皆さんにも参加していただいて、あるいは学校も開放してということで、これは事務職員は大変です。今までの、ただ学校の先生たちの給料だとか物品だとかあるいは施設だとか、そういうだけではなしに、地域の皆さんとという窓口にならなきゃならぬのですから、教頭はんと一緒になって。ですから、そういう事務職員についても、私どもはふやすべきだというふうに考えているのです。

 ぜひそういう点については、もうきょう詳しくは申し上げられませんけれども、やはり思い切った基準の改善をする、そういう仕事をしてもらいたいというふうに思います。

 そういう、各職種からげてというのはちょっと乱暴な質問になりますけれども、学校全体のそういう構成についてどういうふうに文部科学省はお考えになっているのか、お尋ねをしたいと思います。

町村国務大臣 先ほど、葉山委員からやはり同じような趣旨の御意見、御質問もございました。

 学校は児童生徒と教員によってのみ成り立っているわけじゃございませんで、養護教諭はもとよりでございますが、事務職員あるいは栄養職員等々が総合的に機能し合って初めて一つの有機的な組織として運営されるということでございまして、私どもも、養護教諭あるいは事務職員、栄養職員の重要性というものは、山元委員と同様に認識しているところでございます。

 具体の改正案の中身につきましては、多少違いがあることは委員御指摘のとおりで、そこの違いは余り申し上げませんが、特に養護教諭につきましては、保健室登校等々に対応する児童生徒の相談活動に適切に対応できるようにやっていこう。学校栄養職員につきましては、特に食の指導というものの重要性が、こういう飽食の時代と言われるときであるがゆえに逆に高まっているとか、あるいはO157等の衛生管理といったような観点から、重要な役割をこれからももっと果たしていっていただきたいし、また学校事務職員も、先ほど委員御指摘のとおり、外部の方々との接触あるいは情報化への対応といったようなことなどから、所要の増員を図ろうという計画になっているわけでございます。

山元委員 余り時間がありませんから、はしょる部分もございますけれども、最後に、日本の教育、学校をどうするんだということについて、これはやはり文部科学省にも大きな決断、勇気を持ってもらいたいと思うんですよ。

 御承知かもわかりませんけれども、私は二十年教育職員でいました。そういう経験だけではなしに、例えば自分の子を育てた、孫を育てたとか、あるいは今政治家になって各学校を回って教育委員会の皆さんと話をしてということをやっている中で、本当に私たちが考えた三十人学級というのは最低だし最優先の課題だというふうに思っています。

 そこで、勇気を持ってもらいたいという意味で申し上げるんですが、嫌みではないんですが、前の有馬文部大臣、お引きになってからこういうことを対談でおっしゃっているんです。「私は「三十人学級にしなさい」と強く主張してきました。中教審の答申にも、「三十人」と書くと、大蔵省に「予算一兆円要るから」と怒られるから、苦労して「二十一世紀の初頭において先進国並みのクラスにせよ」と書いた。これは二十五人です。」こう新聞の対談で思い切っておっしゃっている。これは本音です。大臣のときにそれだけのことをここでおっしゃっていただくとよかったんですけれども、そうはおっしゃっていただけなくて、答弁はいつも、欧米並み、十何人です、一人当たりはと答弁を繰り返していらっしゃった有馬さんですけれども、私の本音、これは三十人、二十五人だというふうにおっしゃっている。

 先輩の大臣について町村大臣がどうお考えか、また後でお聞きしますが、江崎先生、筑波大学の元教授ですね、この先生も大きな役割を果たしてきていただきました。高い見識をお持ちです。この方も、日本でも一クラス二十四人ぐらいにするのが適当だと思う、例えば、十五歳人口が二百万人のときに四十人学級であったとするなら、今や百五十万人、数年先に百二十万になります、教室も教員数も変えなくても、三十人、二十四人ができていく、これは先取りすべきだというふうに先輩はおっしゃっているんですけれども、町村大臣、この見識、いかがお考えになりますか。

町村国務大臣 より児童生徒一人一人に適した教育をやっていこうということについて、有馬文部大臣あるいは江崎玲於奈学長と私もそれは同じ考えでございます。

 ただ、細かいことを申し上げるようで恐縮でございますが、有馬さんも今委員御指摘のような答弁をした後に、しかし、学級編制の規模につきましては、おっしゃるように、一般的にはその規模が小さい方が児童生徒一人一人の特性等に応じた指導を行うことがよりよくできると考えられております、しかしながら、学級規模と学習集団と教育効果の関連についてはまだ必ずしも明確になっていませんという答弁も同時にしたり、あるいは、江崎先生のお考えは私も直接伺いましたからよくわかっておりますが、今委員が引かれた部分のその直前に、私の子供たちが通っていたアメリカの学校は、一クラスが二十七、八人だった、できる子とできない子とを一緒にせず、三つぐらいに分けて、それぞれが満足する授業をする、要するに、少人数指導という形で、例えば習熟度別にアメリカはこうやっていましたよという実例を話されたんだろうと思います。

 私も、そういう意味で、三十人学級が意味がないとかだめだとか言うつもりもそれはございません。ただ、いろいろな考え方のある中で、一定の財政というものを一つの要件として考えたときに、今回の私どもの提案というものがそういう意味で妥当なのではないだろうか、こう思って御提案を申し上げているところでございます。

山元委員 この間の参考人の招致のときにおいでをいただく予定でございました尾木先生が資料をつくっていただいているわけですが、なぜ三十人学級なのかというのが書いてあるんですが、幾つかの項目がある。項目だけ挙げて、ここでこの意見を出してもらうとよかったんですけれども、なぜ三十人学級なのか。

 だれもが望んでいる。小中学校長会、PTA団体、研究者の調査結果、各県行政レベル、市民の要望。ずっと資料がある。だれもが望んでいる三十人学級。小学校の学級崩壊、いじめ、暴力行為の多発、基礎学力の低下懸念等を払拭するために、二つ目。三つ目、コミュニケーションスキルを高めるために、子供たちと対話し悩みや困難に寄り添う教師や子供同士の関係性がつくれないから、つくるために三十人学級だとおっしゃっている。あるいは、総合的な学習の時間への対応は少人数でなければ不可能に近い。財政難の中だからこそ国が本気の姿勢を示すことで、多忙な中でも教師がやる気を出して、子供たちは大人と社会への信頼を醸成する。国際的には常識。六つ項目を挙げていらっしゃる。

 これは、尾木先生というのは皆さんもテレビなんかでも、あるいは直接お会いになったかもしれませんけれども、本当に日本じゅうの学校を走り回って今勉強していらっしゃるし、物をおっしゃっていただいている。そういう方が総合的に、なぜ三十人学級なのかということをおっしゃっているわけです。

 今、この尾木先生もおっしゃいましたように、市町村教育委員会が言っている。実際に子供たちの近くにいる教育委員会、文部科学省とは違う、その先端にいる市町村教育委員会は、現状のままでよいと答える委員会は五・五%、あとはやはり縮小すべきだ。県の教育委員会も、このままでよいとしたのは六・五%。これはおかしな例だけれども、どこかの総理の支持率に似ているわけです。四十人学級でよいというのは一けたないんです。財政で苦しんでいる教育委員会の皆さんも、やはり三十人学級にすべきだ、学級を縮小すべきだということをおっしゃっているわけです。

 だから、そういう今の状況の認識と、国民の皆さんあるいは現場の近く、子供の近くにいる人たちの思いをしっかりと受けとめて、文部科学省が腹を決めていただくときになっているんではないか。こういうふうに言いますと、有馬さんも少しコメントがありましたけれども、有識者の皆さんもあるいは教育委員会も保護者の皆さんも、たくさんの団体の皆さんが望んでいらっしゃる。私は、文部省がつくった教職員配置の在り方等に関する調査研究協力者会議、ここだけがひとりわけがわからぬことを言っているというようにどうしても思える。

 切磋琢磨というのは先ほどもありましたけれども、このレポートの中に、最後の結論は、学習効果の上での適正規模等に関する定説的な見解が見出せないこと等を踏まえて、現在の状況では四十人学級とすることが妥当である。教育効果の上で適正規模に関する定説的な見解がないから、世間に。これは、こういうことを勉強してもらう人たちあるいは文部科学省や文部科学委員会に所属している者が、定説をどうするんだという結論を出さなければいかぬ。

 けれども、この協力者会議は、定説がないから四十人学級規模が妥当だと思う、切磋琢磨できるから四十人学級が妥当だと思う、これは私は、ひとりこう言っていらっしゃるのはもう思いを改めていただかなきゃならぬというふうに思うんですよ。そうでなければ、先ほど言いましたように、国際的な今の状況の中でも日本は立ちおくれてしまう、日本の先は暗いというふうに思うんです。

 ですから、どうか町村大臣、二十一世紀の初年度が始まる、新学期が四月から始まるわけですけれども、責任持つよと、本当に財政が苦しかったらむしろ旗を立てても、古い人間は古い言い方をするわけですけれども、やはり財務省にかけ合うてでも、あるいは国民の皆さんの声を背にしてでもやはり教育改革をする、この国会で腹を決める、新しい展望を切り開いていく論議をさらに深める、そういう決意をいただきたいと思うのですが、いかがですか。

町村国務大臣 国民の御要望には、それはさまざまあると思います。しかし、それはだれしもが、税金はなくなればいい、年金の額は十倍にも百倍にもふえればいい、先生の数は、もう極端なことを言えばパーソン・ツー・パーソンがいいとか、それは希望を言えば、国民の希望は数限りなくあります。

 その中で、私ども政治家というものは、取捨選択、プライオリティーをつけて、どこにどういうふうに重点的に資源配分をしていくのかということを考えなければならないので、それは国民の皆さん、四十人、三十人、どっちがいいですかと、そこだけを取り上げて白黒とやれば、それは三十人の方が多いというのは私もうなずけるのでありますが、しかし、そこだけの局面だけで物事を考えるというのはいかにも一面的ではなかろうかと思っております。

 ちなみに、今回の法改正あるいは計画を策定するに当たって、教育関係者の御意見を幅広く私どもも伺いました。ちなみに、教育委員会の関係、全国の市町村の教育委員会連合会からは、学級編制の弾力的運用の法施行をしてくれという御要望がございましたが、三十人というお話はございません。あるいは全国の都市教育長協議会、ここの中では、教員一人当たりの児童生徒数を欧米並みの水準に近づけて、計画的な改善を図ってくれという話がございますが、三十人という表現はございません。あるいは全国町村教育長会からも幾つかの要望がございますが、例えば担任外教員とか指導担当教員とか養護教諭、事務職員の配置基準の改善というような御要望もございますが、学級編制の弾力化というような表現にもなっております。

 いずれにいたしましても、そのすべての方々がもうなべて、全部三十人を要望しているということでは必ずしもないと私は思いますし、それは他の条件を全部捨象して、そこだけを言えば、それは三十人の方がいいでしょうという答えが圧倒的に多くなるのは当たり前だと思います。しかし、我々政治家は一つの要望だけで一つの答えを全部出すというわけにはまいらないのは、これはもう言うまでもないことであろうか、山元先輩に大変恐縮でございますが、一言だけ申し上げさせていただきます。

山元委員 時間が来ましたから終わりますけれども、大臣からついにうれしい言葉は聞けなかった思いがします。これも古い言葉ですけれども、親は、自分は食べなくても子供に食べさす、やはり一番その気持ちを文部科学省が持って頑張ってもらいたい、お願いをしたいと思います。

 終わります。

高市委員長 この際、暫時休憩いたします。

    午後零時二十三分休憩

     ――――◇―――――

    午後一時二十一分開議

高市委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 質疑を続行いたします。都築譲君。

都築委員 学校標準法の質疑もいよいよ大詰めという状況になってまいりました。私も、自由党の基本的な考え方に立ちながら、文部科学大臣、そしてまた衆法提案の先生方に幾つか見解をただしてまいりたい、こんなふうに思っております。

 まず初めに、大変トピックな話題でございますが、先日、タリバーンが、バーミヤンの石仏破壊について強硬な路線をそのまま突っ切って、世界の良識ある方々の反対を押し切って破壊をしてしまった、こういう事件があったわけであります。世界遺産にも指定されるような人類の共通の財産といったものが破壊されるということについて、大変残念に思うわけであります。

 そして、これだけ大きな問題を巻き起こし、報道も非常に大きく取り上げたテーマについて、私自身は、学校の中でも、小学校、中学校、高校、こういったところでも大いに取り上げて話をしていったらいいのではないかな、こんなふうに実は思ったわけであります。

 これは、美術の問題でもありますし、あるいはまた歴史の問題でもあろうかと思いますし、さらにまた宗教の対立、こういったものの背景のもとに行われた行為である、あるいはまた文化的な違い、民族の違い、さらにまた政治といったものまでかかわってくるわけでありまして、こういったものについて、小中学校、高校ではどういうふうに教えるのか、あるいは教えていないのか、教えるとしたら、そういうことを教える先生方がどれぐらいいるのだろうかということを実は大変疑問に思ったわけでありまして、まずその点について、文部大臣あるいはまた衆法提案の先生方からそれぞれ御見解を承りたい、こんなふうに思います。

町村国務大臣 私も、マスコミを通じての報道を見まして、大変立派なバーミヤンの巨大な石の仏が破壊をされるという情報に接しまして、まさに委員御指摘のとおり、これは世界共通の文化遺産でございますから、大変残念な事態だ、こう思っております。

 ユネスコの方でもいろいろなアクションを起こしたり、あるいは、特にアフガニスタンに大変人脈をお持ちの松浪議員を代表として、与党三党で現地に赴いたり、あるいは外務大臣の書簡を持参していただいたりなどなど、いろいろなことをやってみたわけでございますが、結果は、どうも大変残念なことになったようであります。

 確かに、今委員御指摘のように、この問題をどういうふうにとらえ、かつ教えるか、なかなかこれは難しい問題だなと思います。今御指摘のように、美術、文化といったようなアプローチ、あるいは宗教といったアプローチ、あるいは世界史的なそうした流れの中でのアプローチ、いろいろなとらえ方があろうと思います。

 したがいまして、これは、児童生徒の発達段階に応じて、こうした問題についても具体的な事例としてそれぞれの教室の現場で取り上げられてもいいテーマであろう、私はこう思っておりますが、では、具体にどうやっているのかということについては、ちょっと私も存じ上げませんし、また、ここから先はやや一般論になりますけれども、私は、ホットなテーマについても、やはりその題材に適しているテーマであればもうちょっと新しい問題も取り上げていいのではないかと思うのです。

 私のささやかな記憶でも、たしか歴史というのは、明治維新か、せいぜい明治にちょっと入ったら大体終わってしまう。あとはしっかり本を読んで勉強しなさいと言われたような記憶がありまして、どうも新しい問題になればなるほど、取り上げるのが難しいということもあるのでしょうか、取り上げない傾向があるのは残念なことだとむしろ思っておりますので、こうした一番ホットな問題も、適宜適切に各教室現場で取り上げられてしかるべきだろう、こう思っております。

山口(壯)議員 今都築委員がお尋ねになられたアフガニスタンのバーミヤンの件、私自身も隣のパキスタンに勤務した経験がございますけれども、大体ムジャヒディンが勢力を握っていたのが、今は追いやられて、この急進的なタリバーンが今は八割、九割を握っているらしいんですね。

 他方、それを政府承認しているのは三つしかなくて、パキスタン、それからア首連とサウジアラビア、どちらもすべてイスラムの急進的な国ですね。こういうところが、自分の宗教に非常に熱心になって、ほかの仏教とかというものを、言ってみれば排斥してしまう、こういうことというのは世界にいっぱいあるんだと思うのです。

 我々がいろいろ習ってきたことの中には、その違いをこれから受け入れるということは私の頭の中にあるんですけれども、イスラムの文化というものがそれだけ急進的なんだということを我々はなかなかわからない。テレビで見ていても、遺産をつぶされて残念だという気持ちは起こるけれども、なかなかそれが実感として伝わってこない。

 パキスタンあるいはアフガニスタンに私も行きましたけれども、仏像が放置されているままなんですね。ですから、そういうものを例えばイスラムの人が見てどれだけの気持ちを持つだろうかということは、我々は教わっていないわけです。だけれども、これから我々が、日本という国が使命を持って、本当にリーダーシップをとっていくためには、どうしてもその違いを理解した上で受け入れるということが非常に大事だと思うのです。

 ですから、今回、これは遺跡という観点のみならず、やはりこの世界の中には、イスラム教を非常に急進的に信じてほかを排斥する、そういう国さえあるんだ、そういう中で日本の役割は何なんだろうかということを考える非常に大事な題材になると思うのです。

 これから三十人学級ができればなおいいし、そういういろいろな議論もきれいに議論をしていくということができればなと、私もそういう思いで今回の法案を提出させていただきました。

都築委員 ありがとうございました。

 今、文部大臣、そしてまた山口議員、提案者が御説明されたように、ホットな話題について本当に真剣に考える、そういう意欲を育てていくことが大事だろう、こう思うのです。

 確かに、学級の人数をこういった形で改善していく、そういう方向で御審議が進められている、そのための法案を提案された、こういうことでございますが、実際に本当に一番大切なのは、もしそういう子供たちの疑問とかそういったものがぶつけられたときに、それを正面から受けとめて、そしてそれに公平な立場、あるいはまた客観的な立場、本人の発達段階ということを言われましたが、そういったものに応じた助言とか、そういったものが与えられるような教員あるいは職員といった方たちが確保されることが何よりも一番大切ではないのかな、私はこんなふうに思うわけでありまして、正直申し上げて、政府提案の法律案に対しても、また野党の三党共同提案の法案に対しても、私どもはちょっと考え方が異なるかなという思いを持っております。

 ただ、そこら辺のところを逐次またただしてまいりたいな、こんなふうに思っております。

 今のこのタリバーンによる石仏破壊の問題、また宗教的対立、こういった問題意識、宗教的な対立があるということはそもそも宗教がたくさん世の中にあるんだという前提とか、あるいはなぜあんなところにあんな石仏が突っ立っているんだとか、そういった関心をはぐくんでいく、そういった教育が、今現に小学校とか中学校とか、あるいはまた高校で行われているのか。そういったことが本当に真剣に受けとめられるような教育が行われていたら、今日言われているようなさまざまな問題は起こってこなかったのではないのかな、こんなふうにも思うわけであります。

 まず、今回、標準定数の改善をそれぞれ提案されておられるわけでありますが、その実態のところは、先ほども先生方の御質問の中にございましたが、これで三十人学級というものを片や衆法提案の先生方は出されておられる。片や閣法の方は、四十人学級という枠組みを維持しながら弾力的な少人数の指導が可能になるようにしていくのだというふうな形で職員の定員増を図る、こういうことでございますが、本当に一体何のためにそういったことをやらなければいけないのか。

 例えば、私自身も戦後の団塊の世代の最後でございますので、それこそ五十五人学級とか、六十人近いところにすし詰めになって教育を受けてきたわけでありますが、ざっと私の周辺を見回しても、まあまあなのかなという印象を実は持っております。

 ただ、あのころだって、本当にいろいろな犯罪まがいのことなども実はあったことは事実でありますし、隣町どころか、隣の隣の町と番長同士が抗争をするとか、そんな話だって実はあったわけであります。そういったことを思うと、世の中はもう大分変わってきた、こういうふうなことがあるのかもしれません。

 しかし、実際に何を目的にしてやるのか。今、例えば学校の面で言われておりますのは、いじめの問題とか、不登校の問題とか、あるいはまた校内暴力の問題、さらに学校崩壊と言われるような現象が起こっている。それからもう一つ、片や落ちこぼれというか、落ちこぼしというか、学習が未達成のまま上級学校にそのまま進んでいってしまう。最近では、大学に入っても割り算ができないような学生がいるなんということも時々言われたりしておるわけでありまして、本当に一体どこに焦点を当てていくのか。

 確かに、生活指導、学習指導の面ということがありますが、小学校、中学校、高校でそれぞれその役割といいますか、焦点を当てなければいけない部分が違うのではないのかなというにもかかわらず、何か同じような発想で物事を考えられているのではないか。そういう小中高のレベルの違い、あるいはまた、そういった生活指導の面なのか、学習指導の面なのか、そこら辺のところをそれぞれ本当にどういうふうにお考えになっておられるのかをお聞きしたい、こんなふうにまず思います。

町村国務大臣 今委員が御指摘をされましたさまざまな現在の課題、確かに、程度の差あるいは質の差こそあれ、それはかつてもあった問題であったのかもしれない。言葉がなかっただけかもしれませんが、しかし、例えば学級崩壊というような現象があったのかなと思うと、余りそれはなかったような気がいたします。

 いろいろな意味で児童生徒を取り巻く社会環境あるいは生活環境は大きく変化をしてきておりますし、子供たちの能力とか関心も非常に多様化をしてきております。やはりこれに対応した適切な指導を行っていく必要があるというのが、この定数改善の一つの大きな理由だと思います。

 また、今学力低下のお話もございましたけれども、改めて基礎、基本をしっかりと確実に身につけていくということをこの際やっていきたいし、その上に立って個性をどう発揮していくのか、そのために問題解決能力を伸ばしていくというような観点からの指導をより強化していく。また、小中高というお話がありましたけれども、特に高等学校につきましては、中高一貫教育とか総合学科、あるいは単位制による高等学校という多様な教育を展開していく、やはりそのために必要な教職員というものが要るであろう、こんなようなことから今回の定数改善のお願いをしているところでございます。

 ほかにも幾つか、さらに具体的な理由がございますが、大きく言えばそういうことでございます。

山元議員 私も教師をしておりまして、五十六人というのが担任の最高でした。けれども、それは既にもう何十年も前のことです。今の子供と、三十年、四十年前の子供とは子供が違う。はっきりと生活も違うし、知識、経験の量も本当に幅が広い。

 例えば、この間、私は地元の小学校へ行きました。一年生百十五人、三クラスですけれども、百十五人の新入生、十五通りの保育歴があるんですね。あの幼稚園から、この幼稚園から、この保育所から、どこにも行っていない、あるいは隣の町の保育園から、こういう十五通りの生活経験を持っている子が百十五人どっと入ってきたと。その子たちの状況というのは、おうちでパパにインターネットを習っている、片や、お母さんがパートで頑張っていて、お手伝いに一生懸命になっていてゲーム機も買うてもらえない。そういう子供の生活の状況の中から、いろいろな違いが出てきます。ですから、そういう子たちにしっかりと目が行き届く教育を実現していく、平たく言えば。

 きょう一日お勉強したけれどもあの子とは一言もしゃべらなかったなという子供が出てくるような状況というのは、やはり間違いだというふうに思います。ですから、学級で預かっている子供たちにしっかりと心が通うているような状況をつくろうとすると、切磋琢磨というような言葉ではなしに、しっかりとした人間関係をつくるという意味で、もっともっとやはり指導が行き届くような条件をつくらなければならぬ。そういうことができないと、子供たちの心が離れていって、キレる子供や、あるいは非行の子供や、いろいろな子供が出てくるわけですから。

 ですから、すべてそれで解決するというふうには思いませんけれども、そのことにはやはり手を尽くすべきだと考えて、最大限の努力、あるいは行き届いた教育の実現のための手だての一つとして、定員をふやすべきだというふうに思っています。

都築委員 ありがとうございました。

 今の山元先生のお話を聞いておりまして、二つお伺いしたいのです。

 先ほど町村大臣は、昔は学級崩壊なんてあったかな、こういうふうなことをおっしゃられました。私の両親も、そして親戚にも教員が多くございまして、その教え子という方に最近お会いすることが、私よりも幾つか、四、五歳先輩ですが、あったらしいのです。小学校の低学年、三、四年のころ、やはり子供たちがそれこそ騒いでしまって、先生の言うことを全然聞かなくなってしまうという現象があった、それはやはり先生自身が幾つか問題点も抱えておったというふうなことを言われて、それで、別の先生が来てぴしっとさせていたというふうなことも実は聞いたことがあるわけであります。ぜひ山元先生に、もしそこら辺のところの御経験、何か見聞されたことがあったらちょっとお教えいただきたい。

 もう一つ、今山元先生の言われたお話の中で、それこそ本当に家庭の生活の態様、知識とか生活体験とか背景が全く異なってきている、そういった子供がたくさん育ってきている。私もそう思うのです。昔は、家庭は家庭でそれぞれ独立しておったけれども、正直言って貧しい時代でありましたから、割と単調な、単純な生活がいろいろなところで行われておったのではないのかなというふうな気がいたします。

 それからもう一つは、戦前と戦後の一時期までやはり教育勅語の影響といったものがあって、先生というのはそれこそ教育勅語を奉読して、そしてまた、そういった価値観に基づいて皆さんは教育を受けるのですよと。だから、学校の先生に逆らうなんといったらそれこそ不敬罪みたいな形で考えられるぐらいの緊張感を持って、実は教育を受けておったのではないのか。

 その影響が、戦後の一時期までは相当続いておったのだろう。だから、先生が、こらと言ったら、それこそ大変偉い方からしかられたと同じように、背筋をぴんと伸ばしてしっかりとお話を聞かなければいけない。こんな状況の中だったから、私は、先ほどの五十五人とか六十人とかいう状況の中でもある程度のコントロールはできたのではないのかな、こういうふうに思うわけです。ただ実際には、言うことを聞かない、小さな子供たちはそんなことは全然わからないから、あったという事実はあっただろうと思うのですが。

 ただ、山元委員が言われたそういうふうなお話を聞きますと、実は、学校でそんなことまで全部引き受けなければいけないのかと。確かに家庭で、インターネットがあっていろいろな情報が、本人の目にさまざまなものが生のまま飛び込んでくる。例えば随分問題の多い、暴力行為とか、あるいはまた卑わいな映像とか、そういったものが直接目に入ってしまう。あるいは、ビデオでもテレビでも今どんどん流れている、雑誌でも二百円、三百円のお金を出せば幾らでも買えてしまう、そういう状況の中で、そういった情報がこういった意味を持つのだということを、今までは本当に単純な、単調な生活の中で、大体先輩とか両親とか、あるいはまた兄、姉、こういった人から教えてもらっていたものが直接本人のところに入ってしまうから混乱をしてしまう、そういった状況もあるだろうと思います。だから、豊かさと、そしてまた豊かさに基づく価値観の多様化、あるいはまた情報化の急速な進展によって、今子供たちを取り囲んでいる状況というのは全然違うだろう、こう思うのです。

 ただ、それを全部本当に小学校、中学校といったところで引き受けてやらなければいけないのか。先生が言われるような議論だと、チューターと言われるような個人教師がついて、それぞれの発達段階や希望、あるいはまた適性、こういったものに応じたものをやっていかなければ本当に何事も解決しないような形になってしまうと思うのですが、そこら辺のところを、ちょっと山元先生の御感想を聞かせていただければと思います。

山元議員 大変難しい御質問ですけれども、時代が変わっても、子供は、基本的に言うと、自分は賢くなりたい、成長したいというものを持っています。そして、例えば、学校へ行ったら自分の話を聞いてほしい、一方的に聞かされるのじゃなしに自分の話を聞いてほしい、気持ちを聞いてほしい、あるいは友達と仲よくしたい、こういういろいろな人間的な思いを子供たちは持っているわけです。そのことは昔も今も変わらぬというふうに思うのです。

 ですから、昔、私も担任したときには、五十六人だけれども、授業が終わったら薄暗くなるまで運動場で一緒に遊んで、そして、きょうおまえ元気なかったぞ、おまえのところのお母ちゃん、どうしているんや、こういう話ができるゆとりがありました。そういう中で、子供と教師との間、あるいは子供同士が心が通い合うて、認め合うて成長していく、そういう安定したものがありました。

 今はそれがやはりなかなか難しいのだと。だから、子供たちがばらばらになっているし、先ほどの私の質問でも申し上げましたけれども、子供たちがなかなか自分を抑えたりできない、今はそういう状況になっている。そういうものをしっかりと教師が見抜いて、声をかけて、ふっと子供たちに安心を持たせる、あるいは喜びを持たすということができるような教育というもの、これをやはりつくっていかないといけないのです。

 学級崩壊というのは、結果ではそういうことですけれども、そこにはやはり粗末さといいますか、ミスマッチもあってそういう事態になってしまうわけですから、私はそういうことについては、昔の教師のようにおおらかにいられない状況がありますから、しっかりと勉強しなきゃならぬと思いますし、教師同士がやはり力を合わせるような、教員同士の力のつながりというものをつくっていく、あるいはつくっていける、そういう学校にしなきゃならぬ。そういう意味では、今の状況ではとてもじゃないが難しいというふうに私は思っています。

 私が、そういう自分の古い経験を持ちながら、新しい今の学校へ行って教員の皆さんやあるいは管理職の皆さんと話をすると、変わっている、変わっているから難しいなというふうに思います。その難しさというのは、一人一人の子供とのつながりをどういうふうにつくっていくかということだと思うのです。そういう点で今の条件では大変難しい、だから三十人学級だと。外国のように二十五人という言い方をするところもありますけれども、そういうことが努力として大事なんだろうというふうに思っています。

都築委員 その教師同士のつながりの問題などについては、もう少し後でまたお伺いをしたいと思います。

 今、欧米並み二十五人とか、そういったお話が出てまいりました。私は、欧米並みで本当にいいのかというのもまた一つ問題があると。資料などを拝見いたしますと、先ほども出ておりましたが、確かに、アメリカ・カリフォルニア州の例とか、イギリス、フランス、ドイツの例、こういったものがございます。

 一つは、まず、では欧米は本当に教育で成功しているのだろうかというところがあります。私は、欧米並みの学級にしたらもっと欧米並みによくなるというか、正直言って、今日本は欧米よりもよくなっているんじゃないのかなというふうな印象、教育という現場が終わった成果物といったらあれですが、教育の成果として出てきた人たちが今日本の社会を支えている状況の中で、犯罪の問題とか、あるいはまた経済の拡大の問題とか豊かさの問題、そういったものを考えたときに、では、欧米と比べて日本は格段に劣っているのだろうかということを実は思ってしまうわけでありまして、何も欧米並みということでいいのかなという気がしてしまう。

 それからもう一つ、逆に欧米というのは、特にアメリカは、実はこれは全く違う国ではないのかなと。人種のるつぼ、人種のモザイクと言われるほど、本当にたくさんの人種あるいはまた民族、他の国からいろいろな人が移民として移って構成した国家ですから、だから、逆に言うと、一つの授業にまとめてやっていく、その中に、それこそイギリスから来た人、フランスから来た人、イタリア、あるいはまた東欧から来た人、アフリカから来た人、アジアから来た人、さまざまな人たちがいる中でどうやっていくのかという問題を議論しなければ、とてもじゃないけれども、クラスなんというのは本当におさめていくことができないような状況があるのじゃないか。

 また、ヨーロッパの例も、確かに一つの民族というふうな形で考えられているところもありますけれども、それでも、過去何千年と民族間の対立あるいはまた国の対立を繰り返してきた中で、例えばフランスなどは、三代さかのぼってよその国の血が入っていないフランス人なんて一人もいないと言われるぐらい人種の混交、混血が進んでいる国であります。だからこそ、個人主義で物すごく自我の、主張の強い人たちが多いという中でクラスを成り立たせていくというのは本当に難しい問題があるなという気が、私などはするわけであります。

 だから、文化もそもそも違うのに欧米並みとは、逆の面からの指摘でありますけれども、そういったことを、ちょっとこれは事前に通告という形で申し上げておらなかったわけでありますけれども、そういった欧米並みということは、朝の審議からも、前回の質疑からもいろいろ出ておりましたので、ちょっと疑問に思います。文部大臣、それから提案者の皆さん方のまた率直な御感想を聞かせていただければと思います。

町村国務大臣 たまたまクラスのサイズとかあるいは教員一人当たりで比べやすい指標なものですから、欧米と比べてという話をしているわけでございます。

 海外に詳しい先生に大変釈迦に説法でございますけれども、もともと教育というのは、まさにそれぞれの国の歴史によって非常に違います。午前中も地方分権のお話が出ましたけれども、アメリカのように、もともと州からだんだん国ができていったような国ですともとより地方分権で、連邦政府などというものはほとんど、極端に言えばなければない方がいいぐらいのイメージを持っている国と、日本のように明治政府という形で出発した国とは、大分それは違うわけであります。

 ですから、例えば教育の国の負担といっても、アメリカは、ブッシュさんやクリントンさんは、いろいろやります、こう言っていても、日本のように人件費を半分持ちますということをアメリカはやっていないわけです。御承知のようにアメリカは、それぞれの市町村、違いは多少ありますが、かなり多くの市町村では、その地域の固定資産税で教職員を雇うということですから、お金持ちの地域の高い固定資産税が入る地域は、高い給料を出せるからある意味ではスパイラル的によくなる、その逆はスパイラル的に悪くなるというような違いもありますから、本当に国により、地域により、成り立ちは相当違うのだろうと私は思います。

 したがって、余り一概に、委員御指摘のとおり単純な比較というのをしてみる意味がどれだけあるかという気もいたしますが、そうはいっても、やはりついついよそを見るということもございます。

 欧米の人と話をすると、日本で教育改革をすると私が言いますと、何でそんな必要があるのだと言います。日本というのはすごくうまくいっているんじゃないのか、特に初等中等教育は非常にうまくいっているはずだという物すごい先入観が行き渡っていまして、いやいや、いろいろ問題があると言うと、それはそうだけれども、それは豊かな国の共通問題だからしようがないんだよと言わんばかりの反応がごく普通であります。

 それと比べると、高等教育の方はどうも日本は国際的に見てもいまいちだねというような評価も、これもある種国際的な、かなり共通した認識になりかかっているような気がいたします。

 したがいまして、そういう意味から、私は単純に国際比較をするつもりもありませんけれども、外から見ていいかもしれないけれども、初等中等教育の抱えている問題にはきちんと対応していかなければならないし、また、特に高等教育段階はこれは相当思い切っていろいろな手を打っていかないと、今のように、特に研究の面、教育の面で、まさに高等教育のレベルでは、競争しているのに自分たちは全く競争していないんだと錯覚して、大学の自治の中にどっぷりとつかっているような先生たちが非常に多いので、これではいかぬな、こう思ったりしているところでございます。

 余りお答えになっておりませんけれども、感想だけ申し上げました。

山元議員 これまた難しい御質問ですけれども、日本人、日本の民族というのは世界の中でもすぐれた民族だというふうに、誇りも持っていますし、そう考えていいというふうに思います。科学技術の問題にしろ、あるいは今までつくり上げてきた文化にしろ、日本人という民族はすぐれた民族だと思います。

 しかし、今の子供の状態は何だ。そういうすぐれた民族の子供たちが、本当に荒れている、荒れた心を持っている。親を殺すとかいろいろな事件が、十七歳事件が続きました。そして、やはりそれは、よく言われますように、子供たちの中に心のつながりが切れてくる、あるいは優越感、劣等感にさいなまれる、そういう子供の状況というものがある。すぐれた民族でありながらそういうものがあるとすれば、それは早く大人の知恵と大人の力で変えていかなければならぬ。子供たちがすぐれた民族に、科学技術もそうですが、やはり人を愛する、共生という言葉が盛んに使われますけれども、人と人、あるいは自然と人、あるいは世界の人々との共生ということがしっかりとできる、本当に世界のリーダーとしての民族というふうに育っていくような教育の条件をつくることが必要なんだろうと思います。

 先生、ヨーロッパと比べてというふうにおっしゃいましたけれども、決して、比べてそれよりもよくならぬなというのではなしに、もともとすぐれた我々国民の力をやはりこれからも大事にしていくということで、大人が、今の政治がしなければならぬことが多いのだろう、こういうふうに思っています。

都築委員 ありがとうございました。

 今のお話を聞いておりまして、先ほど文部科学大臣がアメリカの例を引かれてよいスパイラルへという話は、またちょっと後ほどやりたいと思いますが、今の山元先生のお話を聞いて、私たちは本当にすぐれた国民性といいますか、勤勉で、誠実で、誇り高く、思いやりがある、こういった日本人のよい資質というのはやはりしっかりと引き継いでいかなければいけないだろう、こんなふうに思っております。

 他方、先ほど山元先生御指摘のように、本当にいろいろな子供たちが出てきている。それは、いろいろな生活感覚を持って、いろいろな価値観を持って、そしてまたいろいろな意欲を持った子供たちが出てきている。そのことを思うと、実は欧米の話を私が引いたのは、日本人も今までの単一民族、単一文化などという発想ではなくて、完全にアメリカ並みに、子供たちが個性をそれぞれ発揮してそれぞれの生活を自分で実現していく、だれから何を言われたからどうするという話ではなくて、本当に自由で、そしてまた自立しながら自分の生活を切り開いていく、そういうものが望まれるようになってきているのではないかということを考え、また、先ほどの、価値観の多様化とかあるいは情報化といったことを考えると、今回は、学級定数をどうするか、あるいはまた教員一人当たりの子供たちの数をどういうふうにするか、こういう外枠の問題ですが、本当は、もっと中身の問題をしっかりやっていく必要があるのではないか。

 私も、実際アメリカの小学校を見たわけではありません。昨年の九月、文教委員会の派遣のときに、少人数学級拝見ということで、そこまでは行きましたが、私が実際に一番関心を持っておりましたのは、アメリカの教育の中で、先ほど申し上げたように、多民族で構成される国家だから言葉が一番大切であると。だから、契約国家とも言われて、契約にたがうと徹底的な訴訟問題になってしまうような背景もありますが、それでも、本当に自分が素直に、自分が何を思っているのか、そしてそれを相手を傷つけないようにしてどうやって正確に伝えていくか、そういうスピーチというか会話というか、自分の発表の授業というか、そういったものに真剣に取り組んでいるというふうな話を以前聞いたことがあるわけであります。

 今回、学級定数、教員の数をふやす、職員の数をふやす、これも大変大事なことでありますが、むしろその中身の問題の方。確かに、総合学習という形でみんなで取り組んでいきましょうというのもいいのですが、そういうふうに個人個人のいろいろな価値観が背景になってくるというのであれば、むしろ、そういったものこそ先に取り上げていくべきではないか。それからまた、小学校とか中学校という学校制度の枠組みではとらえ切れないものであれば、国の財政というものを使うのであれば、むしろそちらの方にそういった資源を投入していった方がいいのではないか、こんなことも実は考えるわけであります。

 ちょっと余談が長くなってしまいましたが、今の標準定数の問題について、よく問題になっておりますし、先ほども議論が出ておりましたが、一学級当たりの児童生徒数の比較でいくと、既に実は欧米並みの状況になっている、それから教員一人当たりの児童生徒数についても大体欧米並みの水準になりつつある、こんなお話も聞くわけであります。

 ただ、これは文部科学省の方にお伺いをしたいのですが、平均をとると、実は私の生まれた町、愛知県の小さな田舎町でありますが、佐久島という島があります。そこに小学校があるのです。この間ちょっとお話を聞きましたら、ことしその小学校の六年生が一人卒業する、こういう話であります。だから結局、片や四十人近くを抱えていて、片や一人。バランスをとっていったら全部で十七人だ、十九人だ、こういう話になるからもう欧米並みだ、こういう話になってしまうのでは、これは平均値のうそ、統計のうその問題になってくると私は思うのです。実際には、例えば学級、人数別に、階層としてどういうふうに分布をしているのか、それが私は本当に大事なことじゃないのかな、こんなふうに思うわけであります。

 まず、小学校、中学校ぐらいで、例えば二十六から三十人、それから三十一人から三十五人、三十六人から四十人の生徒がいる学級というものは全体の中でどれぐらいのパーセントを占めているのか。それが実は余りにも多いというのだったら、それは少人数、一人二人の学級が平均をぐっと下げているだけの話であって、全然問題の解決にはなっていないのじゃないのか、こんな感じがいたしますが、いかがでしょうか。

河村副大臣 今委員御指摘の、その学級数の全体に占める比率がどうであろうかということでございました。

 現時点で、平成十二年五月一日現在の数字がございますが、公立小学校の場合で、全国の学級総数が二十六万八千四百四十七学級ございます。児童数が二十六から三十人の学級が全体の二〇・八、三十一人から三十五人の学級は二九・四、三十六人以上の学級は一九・一、こうなっております。

 また、公立の中学校の場合でございますが、全国の学級総数が十一万九千四百八十学級ございます。二十六人から三十人のところが全体の六・九、三十一から三十五のところは三三・六、三十六人以上の学級は四七%ということでございます。

 現実にそういうことで、中学校においては三十一人以上の学級数が全体の中で、十一万九千のうち九万六千三百十一あるわけでございますから、現実には三十一人学級が圧倒的多数を占めているということが言えるわけであります。

都築委員 ちょっと、今のお話をお伺いしますと、今までの中で御説明いただいていた状況と大分違うのではないのかなと。正直言って、特に中学校の方などは、三十一から三十五が三三・六で、三十六から四十人が四七%ということは、もうそれだけで八割を実は超えてしまうわけでありまして、こういった状況の中では、今子供たちが面している問題、そしてまた教員の皆さん方が取り組まなければいけない課題といったものが本当に解決していくのだろうかと。

 今回の標準法の政府案によります改正によって、実際にどれぐらいの人数がふえていくのか。五年間で、例えば小中学校合わせて二万五千七百七十人、こういうふうな形でいかれる、特殊教育諸学校とか研修定数を合わせると約二万七千ぐらいになる。そしてまた、これを五年次別に改正していく、十三年度の改善数は五千三百八十である、こういうことでございますが、では、こういった状況の中で実際に本当にこういったものを改善していくことが十分可能なのかどうかということを私は考えなきゃいけないのかなというふうな気もいたします。

 ただ、これはちょっとまた別の問題も含んでおりまして、そこまでは今のところ、もし御回答が何かあるのであったら言っていただければとは思いますが、それはきょうはちょっと……(河村副大臣「一言だけ」と呼ぶ)いいですか。それではちょっとお願いいたします。

河村副大臣 今は四十人学級制度をとっておるわけでありますから、今申し上げた数字が今回の改善によってすぐ変わるというわけではないわけです。

 しかし、現実に生徒の数がこの十三年から十七年の間で六十万人減るという数字が出ております。先生は一定されるわけでありますから、その点、四十人学級制はとりますが、第六次から行っておるチームティーチングにプラス少人数学級制度ということがとれる、現実に、これまでの余剰の、余剰といいますか増員した先生によって可能になるということは、それだけきめ細かい授業、教育ができるということは間違いないことでございます。

都築委員 それでは、先ほどちょっと文部大臣からお話がございました、よい教員を雇ってというふうな指摘に入ってまいりたいと思います。

 今、河村副大臣から御答弁ありましたように、四十人学級は維持する、そして教職員の数をふやしていく形できめ細かな対応をするんだ、こういうお話でございました。そこのところは、また私はあまのじゃくの発想で大変恐縮ですが、質の問題を結局量でこたえていこうというお話なのかなということをつくづく思ってしまうわけです。

 山元議員が以前教員をされておられたということで、五十六人というふうなお話がございました。私は、当時の全労働力人口の中で教員をされておられる先生方の比率というのは一体何%だったんだろうかというふうなことも考えると、今、教員の先生方は大分人数がふえてきておりますけれども、むしろ逆に、あのころは本当に少数精鋭で大変すぐれた方たちが教員をやっておられたから、実は大きな定員の学級でもうまくこなし切れていったのではないのかなと。そういう要素もあると、教員の質の問題を量で本当に置きかえていくことができるんだろうかということを私などは考えてしまうわけです。

 そういったことを考えるというと、まず、今学校の先生に求められている資質と申しますか、教員像というのはどういうふうに描いておられるのか、それぞれ、文部科学大臣そしてまた衆法提案者の先生方にちょっとお伺いをしたいと思います。

町村国務大臣 教員に求められる資質、これは多分、昔も今も変わらない部分と、特に最近、新たにといいましょうか求められる部分と、何か両方あるような気がいたします。

 多分これは五十年前も百年前も、先生に求められる資質といいましょうか、そうあってほしいなと思うのは、まず、子供に対する十二分な愛情を持っていること、それから、子供に接し、子供の無限の可能性を引き出すことに大変な喜びを感ずる、そういう使命感を持っていること、それから、もちろんのことですが、当然のことですが、社会人としての常識をわきまえていること。

 そういうことは、多分五十年前も今日も変わらない、百年前もまた変わらないことだろうと思いますが、特に昨今の非常に大きなもろもろの変化を踏まえたときに、例えば平成十年に教員の免許法というのを改正いたしました。そのときどんな議論があったかというと、例えばカウンセリングなどの教職に関する専門的な能力、教科の能力はもちろん必要なんですが、特に子供たちの生活指導を含めてそういうカウンセリング的な能力を少し高めなければ、今の時代、先生としてやっていけませんよという点が一つと、もう一つは、先生みずからが個性を持って子供たちに、先生の個性で子供たちを引っ張っていくといいましょうか、そういうような両方の面が特に必要なのではないかということで、平成十年にその法律改正をして、そうしたものを今教員養成のカリキュラムの中で重視をしてやっているということでございます。

 またもう一つは、養成段階から採用の段階、それから採用後の研修とそれぞれあるのでありますが、特に採用の段階では、学校の成績がよかったというだけではやはり不十分でございまして、それはある種の、ある一定水準に達しているかどうかを見て、その上で、あとはやはり、選考方法を非常に多様化し、選考基準を多様化して、面接をやるとか実技試験をやるとか、社会人としての経験があるかなどなど、いろいろな面で評価をして採用をしていこう、そんなような工夫がいろいろ、昨今でございますとなされているところでございます。

山元議員 昔の教師は質がよかった、こういうお話だったと思うのですが、私はそうは思わないのです。

 今の教師というのは、例えば世の中が、知識の量、科学の量といいますか、どんどんどんどん日進月歩、進んでいくわけですね。膨大になってきておるわけです。

 例えば学校の教育の内容についても、この間もお話がありましたけれども、小学校三年生で教えていた漢字がどんと二年生におりてくる、九九も、三年生だったのが二年生におりてきて教えなきゃいかぬ。教育の中身もそうですし、子供たちが持つ知識、あるいは社会にある知識というのを、どういうふうにこの膨大になっていく、日進月歩をしていくものを教えるかということについては大変難しいわけですね。ですから、高校の話でしょうが、昔の先生が大学ノートがもう茶色になっていても同じことを教え、親も子供も同じ授業内容だ、こういう話がよくありますけれども、そういうことでは相済まない状況になっていることは事実です。

 ですから、教師に求められる知識だとか資質は、教育的な、子供を愛する気持ちだとか、あるいはいろいろな資質があります。けれども、やはり今、こういう時代に自分も一緒に育っていく、例えば一番いい例が、このごろパソコンを学校で教える先生、えらいこっちゃとなっているわけでしょう、そういう新しい時代にきっちりと子供と一緒に勉強していくという先生でないとついていけないだろうというふうに思います。

 ですから、こういう先生が、教師がいいとかいうことにはなかなかならぬと思いますけれども、教育的な力、愛情だとか、あるいは自分も育っていく、そういう生きることへの意欲というものを持っている先生というのは、これは少々字が下手でも構わぬと思うのですよ。ですから、そういう点でいうと、先生にもそういうゆとりというのか、そういうことをしっかりと実感してもらって、毎日毎日があくせくとしているような教師でない教師でなきゃまずいけないだろう、こういうふうに思います。

都築委員 文部科学大臣、それから山元議員のお話を聞いておりますと、何となく大体教師像というのが浮かび上がってくるんですが、ただ、そういう望まれる教師像、使命感を持ったり、社会的常識を持ったり、子供を愛する気持ち、あるいはまた新しい変化にしっかり対応していく、あるいは子供たちの問題に対しても、カウンセリングの能力ということですか、人間関係をうまく処理する力、でも、こういった人というのは実は今どこの民間企業も競い合って採用に走っておるわけであります。

 それで、先ほど町村大臣が言われたように、固定資産税で教育費を賄うようなアメリカの町の仕組みとかそういったものを考えると、裕福なところはたくさんの固定資産税が上がってよい教員を雇ってよいスパイラルに入っていく、こういうふうなお話でございました。

 だからこそ、実は本当は、よい教員を雇うためには、数の問題を改善しなければいけない、物理的な数の問題も確かにあるかもしれませんが、むしろ教員の処遇の問題、こういったものについても、今までも何度か取り組みがなされてきたと思いますけれども、そういったことこそ実は本当は大切なのではないか。人間の数をふやすというのも大切だけれども、処遇を、それこそ二倍、三倍ぽんと出すぐらいにしたら物すごく優秀な人が来る。

 例えば、落語の例を出して大変恐縮でございますけれども、普通、落語の見習いの人よりは本当におもしろい真打ちの人、こういった人はそれこそ百人、二百人のお客さんをわっと引きつけるぐらいの力を持っておるわけで、だからこそ実は高い報酬を得ることができる、そういった発想も実は大事ではないのかな、こんなふうに思うのであります。

 そこら辺のところは、政府提案の法案も数をふやしてやっていくんだ、それから、野党の先生方の提案の法案もやはり数をふやしてやっていくんだ。ただ、もしあれだったら数をもう少し絞って、これはちょっととっぴな話かもしれませんが、その分お金を確保しておいてそれを教員の処遇の改善に充てるとか、それぐらいのことを発想して優秀な人材を集めていった方が、よっぽど子供たちにとって、あるいは日本の将来にとってもいいのではないのかな、こんなふうに思うのですが、いかがでしょうか。

町村国務大臣 教員の処遇の改善の問題は大変これまた大きな問題でございまして、優秀な人材を確保するためにこれまでも、例えば昭和四十九年、人材確保法というものを通しまして、教員の待遇改善をやってまいりました。

 ちょっとここに資料があるのでありますけれども、この人確法の前は、校長先生を一〇〇とすると本省課長は一一四、それから本省の課長補佐が九三で一般の教諭は八九というぐらいに、かなり開きがあったんですね。ところが、この給与改善後、五十三年を見ますと、ちょっと指数が飛んで恐縮でございますが、課長補佐が一五九、一般の教諭が一七八と明らかに逆転いたしました。教諭が高くなりました。それから、課長が一八七で校長が二〇二と、今度は校長がやはり高くなりました。というぐあいに、この人確法の成果というのは、実はかなりあったのであります。

 その後、いろいろな経緯がありまして、平成十一年ではどうかというと、校長と課長は今度またほとんど同じぐらいの水準になってしまいまして、ただ、課長補佐と比べると教諭の方が依然としてやや高い、そんな状態にあるようでございまして、その人確法が通った直後の差ほど今は差がなくなってきているという状況にあるようでございます。

山元議員 基本的に、定員をふやしていい教育をするか、いい先生を集めていい教育をするか、そういう御質問ではなかったかと思うんですが、私はそれは少し、比べてどっちがどうだということにならないと思います。

 人材というのは、教員の質というのは確かに、先ほども申し上げましたように、それぞれ教師自身も育っていくような研修をするとか、そういうような質を高めていくということが大事ですから、ただ単に数をふやせばいいということじゃなしに、ふやしてそういう先生を確保していくというか、ふやして行き届いた教育を実現していくということが一方であって、今大臣からもありました、私も覚えておりますけれども、人材確保法がある。これは、教育の質をよくしよう、世間的にも、先生やあいという言葉、先生やあいと探すような状況もありましたから、ですから、すぐれた人材を集めようということで、まさに人材確保法というのができた。だんだんだんだんそれが折れ曲がっていってしまって、それがないようになってしまったので、優遇というんですか、人材確保のためにということがなくなっていったのです。そして、あの人勧体制の中で、人勧できちっと、ほかの民間の皆さんと同じような公務員の給与というふうになってきました。

 ですから、都築先生御提案といいますか、処遇を高めていい人材をというそのことも大事、しっかりと処遇するということも一方で大事ですから、超勤手当なんてまともに払われていないわけですから、そういう点はきちっとすべきだというふうに思いますけれども、教員の定数をふやすことと、人材を高めるというか、確保するということは、両方といえば両方を大事にしなきゃならぬなというふうに思っています。

都築委員 今お話を聞いておりまして、まず、文部科学大臣のお話の問題は、私ちょっと申し上げたいのは、よく聞いていると、校長先生の処遇は非常によくなってきたと思うのですよ、正直申し上げて。校長先生だからよい処遇は大事なんですが、実は日本の雇用慣行、これは安定しているから、本当に長期雇用慣行という中で出世をしていく、昇進していく。そして、給料も上がっていく。これは非常に将来設計がやりやすくてよいのですけれども、ただ、今、行政面でいろいろな不祥事が起こっております。警察の問題もありました。学校の問題も、私は校長先生の問題もあったと思います。

 それは何が問題かというと、結局自分たちが、校長先生になる、あるいは教頭先生になる、そしてまたその退職のときの退職金も、あるいはまたその年金の額、こういったものも全部、今までの教員に入職したときの積み重ねの上に実は成り立っている。それだけ大きな処遇が上に行けば行くほど得られるのに、何でここでうまくごまかして問題を処理しないんだろうかという発想が、私は今、日本の組織あらゆるところで、至るところで見られるのではないか。都道府県警本部長の犯罪隠しというか内部の処分を隠すような話とか、いろいろな問題がありましたが、そういった問題に実はつながっておるわけであります。

 ちょっと昔の話、私もよくはわかりませんが、小説などで見る明治の、それこそ初期の、教育を本当に立て直していくとき、例えば東京の高等師範を卒業した若い方がすぐ幹部として田舎の中学校に入っていって、それで子供たちを引きつけるような、そういったぐらいのことをやることも今は大事なのではないかなということを実は思うわけでありまして、このことは御答弁をいただかなくても結構でありますが、そこら辺の問題がある。

 それから、山元議員が言われた、両方目指すんだ、こういうこともありますが、実はその問題は、もう少子化が実は進んでおるわけです、はっきり申し上げて。先ほども申し上げましたように、本当にたくさんの人間がいる中でごくごく少数の教員を採用するような時代から、これから本当に人が少なくなっていく中で教職員として採用するんだ、そして同じような処遇でやっていくんだ、あるいはまた処遇を充実していくんだという形でやるにしても、では、本当にそれだけの人材が、今得られているような教員あるいは職員の先生方にふさわしい人が果たしているんだろうか。

 確かに、競争倍率は高いかもしれません。競争倍率は高いかもしれないけれども、民間企業だってほかの官庁だって、みんな競い合って人材獲得をやっている中で、教員だけが全体で二十万人近くも本当に十年間でふやしていくことができるんだろうかということも、実は私は大変疑問に思うわけであります。これは全体の労働政策の観点もございますが、実際にそういったことを本当にどういうふうにお考えになるのか。

 もう一つの問題は、今度は生徒一人当たりに対する税金の投入額の問題。これは国税庁が税金のお話ということで毎年冊子を出しておりますが、たしか、去年のそういった税金の本という冊子の中に、小学生あるいは中学生、高校生一人当たりに税金がどれぐらい使われているか、こんなお話がございました。大体七十五万から八十万ぐらいだっただろう、こう思います。

 もしそこら辺の数字をちょっと御存じだったらお教えいただいて、これは政府の方にお伺いしたいのですが、もし政府の方で、例えばこれから改善をしていくというふうな状況になったときに、五年間で教員数をふやしていくということでございますが、そうすると、改正後は、教職員の人件費等を含めて大体どれぐらいの児童生徒一人当たりの税金投入額になるというふうに考えておられるか、教えていただけますか。

河村副大臣 都築委員御指摘の数字でございますが、私の方の手元では地方教育費調査、これは小中高でございますが、平成十年度の資料しかございませんけれども、これによりますと、地方自治体が学校教育費として支出した額は、小学校費としては六兆六千三百九十二億円、中学校費として三兆八千九百八十四億円、高等学校費として三兆四千三百九十二億円、こうなっております。

 これを児童生徒一人当たりで割っていくわけでございますが、これによりますと、小学校が一人当たり八十八万円、中学校については九十四万九千円、高等学校につきましては百十五万五千円、高等学校は授業料を平均十万取っておりますから、百五万円と言った方がいいのかもしれません。一応出ている数字はそういう数字でございます。

 それで、この改善計画が終わります十七年度にはどうなっているだろうかということなんでございますが、実は、これは施設整備とか教材等の整備、この辺の公財政支出をどのように見るかということがなかなか今推計できかねるものでありますから、ちょっとこれは、十七年後ではどうなっているかということについては推計数字を出しておりません。

 ただ、一人当たりの経費ということになりますと、新しい改善計画をやりますので、小中学校の児童生徒一人当たり二万三千円、それから高等学校の生徒については一人当たり二万三千七百円、これが人件費に当たるといいますか、その部分の増分といいますか、そういうふうになるだろう、こう思っております。

都築委員 ありがとうございました。

 実は大変な国民の皆さんが納めた税金が使われて今日の教育が支えられている、こういう状況でありまして、本当に貴重な税金を使う以上、そういった人が育ってきてほしいというふうに思うわけでありまして、教育自体が担っていく役割は本当に大きいんだなということをつくづく思うわけであります。

 時間も大分詰まってまいりましたが、私の用意した質問がほとんど進んでおらないわけで、申しわけないんですが、ちょっと視点を変えまして、今、学校の自由選択制といったものが幾つかのところで試みられております。私どもも、この学校の自由選択制、あるいはまた学級とか科目の選択制、そういったものも実は取り入れていく必要があるのではないか。また他方で、中高一貫教育といった視点も含めて、これからまた教育の再編といったものも考えていく必要があるのではないか、こんなふうに思うわけであります。

 学校の自由選択制とか科目の自由選択制といったものを導入していくということは、例えば基本三科目について少人数指導でやっていくんだ、今こういう政府の御提案でございますから、何か似ているような感じがするんですが、実はどうもそうではないのではないのかなという気がします。

 私どもが考えておりますのは、例えば、学校間でも今既に公立と私立の間での競争が起こっている。あるいはまた、より進んだ勉強をしたいというか、端的に言ったら受験勉強を一生懸命やる子は塾に通っている、こんな状況の中で、公立学校では与えられないようなものを、塾、予備校、こういったところに求めるという子供たちもいる。そこにはある程度の競争のようなものが実は起こっておるわけです。ただ、これを学校自由選択制というような形で義務教育の中に、公立学校の中に、例えば品川区で試すようなことが行われてきたら、いろいろな面で偏在が起こってくるだろう、こう思うのです。

 そういったときに、ではこの学級編制の考え方、こういったものは本当に整合性がとれて進めていくことができるのか。私自身は、正直申し上げて、実はそういうある程度の競争原理、先ほどもちょっとお話がございましたが、競争原理のようなものも少しずつやはり加味して、先生方の御努力を一層お願いをしていく、魅力のある授業、あるいはまた魅力のある生活指導、そういったものを試みていく必要があるのではないか。それは学校間の競争であり、学校の中でもある程度、余り激し過ぎてはこれはまた問題が起こりますけれども、そういったものも大事じゃないのかな、こんなふうに思うのですが、そういった点について、政府と、それから衆法提案者にお伺いしたいと思います。

河村副大臣 御指摘の、学校自由選択制の導入に基づいて、その結果、学級編制への影響はどうなるだろうかという御指摘でございます。

 この学校自由選択制を導入する、しない、これについては、市町村の教育委員会が、それぞれの地域の実情あるいは保護者の意向等に基づいて判断をして実施をしていただく、こういうことになっておりますし、これは弾力的な運用がなされるべきだろう、このように文部科学省としては考え、指導をしているわけでございます。

 この結果、児童生徒の移動が起きるということが想定されますが、これについては、当然、各区市町村の教育委員会は、やはり最終的にはその当該の学校にどのぐらいの生徒が入ってくるかということは事前に把握をした上で学級編制を行うことになるわけでございますので、当初の段階においては、そう大きな問題が起きるとは考えにくいわけでございます。事前に希望をとってやるわけであります、でありませんと学級編制はできませんから。

 ただ、これをとりますと、その後やはり児童生徒の出入りが大きくなるのではないかということは、年度途中とか学年のかわり目あたりにも学区外からの転入等が今までよりもふえる可能性がある。変動数がふえる、その辺については、これはもう教育的配慮で、ちょっと数が減ったからすぐ学級数を変えなきゃいかぬとかいうことではなくて、やはり弾力的な運用をやっていただくということで考えておるわけでございます。大きな影響といいますか、若干のそうした変動があるでしょうが、学校自由選択制によって学級編制に大きな影響はない、このように考えております。

藤村議員 都築委員にお答えいたします。

 国のあり方という非常に大きなお話の中で、我々は、例えば地方分権であるとか、あるいは自由化、多様化というところも、多分都築委員とそんなに意見が違わないところではございます。ただし、教育の問題に自由化、多様化というのはいろいろなことで取り入れるとしても、競争原理が取り入れられるかというのはちょっと、都築委員も単純ではないとおっしゃったとおりで、私どももそういうふうに考えております。

 学校自由化ということについては、この法案とは直接関係がないので、これは共同提案者それぞれに多分意見が違うところがあるかもしれませんので、私ども民主党の考え方ということでお聞きをいただきたいと思います。

 今、現実に学校の自由化の動きがあります。その背景としては、やはり選択制にして学校間によい刺激を与える、あるいは競争原理と言ってもいいんでしょうか、そういうことで特色ある学校づくりをしようというのも一つの背景であるし、もう一方では、保護者とか子供たちの非常に多様なニーズが出てきている、あるいは一方で不満や不安がある、できるだけいい学校へやらせたいというのはどこの親も考えることでありますから、そういうところから多分今出てきているものと思います。

 私、実際に学校選択ということで話題になっております品川区に、おととしですか、行ってまいりました。品川区は、いわゆる学区を相当広くしてしまったということであります。この場合、まだ結果は出ませんが、今になって総括されることは、保護者が今までとは違う学区の学校を選ぶ理由というので、例えばいじめとか荒れ、あるいは学校がこっちの方が近いからというところが割に多くて、そういう学校に希望者が集中したということと、それから一方で、私立中学校への進学に有利だからこの小学校を選んだという理由、それから、施設設備面でこっちの方が新しいからという、そんな理由があったことが、これは保護者アンケートで今明らかになっているところではあります。

 私も現場で、まだ始まる前にいろいろお聞きした段階では、相当大きな動きがあるだろうと言われたんですけれども、やはり小学校段階というのはそんなには動かない。何といっても、まだ六歳の子が一キロも二キロも先のところまで歩いてというのは、ちょっとやはり無理があるし、親もできるだけ近いところに通わせたいというのが割に素直なところだったようであります。

 ただ、もちろん一部、そういう今のアンケートの結果のように偏在もありました。

 そこで、私どもは学校選択の弾力化、自由化ということを、やはり保護者とか子供の立場で学校を選びたいという願い、あるいは一方で特色ある学校づくりを促進するという面からも、尊重すべき一つの方向性ではあろうかと思っております。

 ただし、これは地域によって非常に大きな差が出ると思うのですね。今の品川区は東京都でありますが、私どもの地元、大阪などは、むしろ地元の皆さんが、選択制、学区を広くして小学校でも幾つも選べるようにするということに余り賛成されていない部分もあります。

 つまり、これはむしろ地方分権の考え方で、それぞれの設置者、つまり市町村がどういうふうにお考えになっていくかということをある程度勘案して、方向としては少しそういうことを検討していくとしても、まだなかなか簡単ではないなと。かつ、小学校はどうするかということ、中学校ならどうするかということ、あるいは高校ならという、これまた大きく考えも違いますので、それぞれ私どもは設置者の意見を尊重したいし、まさに地方分権がより重要だろうと。

 そういうことから、学級編制の標準三十人とした場合どうかという関係を聞かれておりますが、そのことと余り関係がないのかなというふうに思っております。

都築委員 時間が参りましたのでこれで終わらせていただきますが、大変貴重な御意見を拝聴させていただきました。基本的な問題、子供たちのためにどうするか、日本の社会のためにどうするかということでございますので、ぜひこれからも、政府並びに各議員とも議論を深めてまいりたい、こんなふうに思います。

 ありがとうございました。

高市委員長 児玉健次君。

児玉委員 日本共産党の児玉健次です。

 現在、日本の教育が深刻な困難に直面している、この認識では私たちは一致しているだろう、こう考えます。学校教育の改革を国民的な規模の取り組みで進めなければならない。問題はその方向性です。

 先日来この委員会で、学級編制と教職員の定数について、政府提出に成る改正案と、民主党、社会民主党、日本共産党提出による法案、以下三党案と呼びますが、それぞれをめぐって冷静に真剣に議論をしているというのは非常に好ましい前進の契機だ、私はこういうふうに考えます。

 政府案にも、例えば養護教諭の複数配置、私はこの問題を一九九〇年四月の予算委員会で最初に取り上げてから、これまで前後五回議論をしてきました。そのうちの一回は、たしか町村さんと予算委員会で、今でも記憶に残る議論をしたように思います。そして今度の政府案の中で、養護教諭に関して言えば、三十人学級以上に限っての複数配置がさらに一歩前進した、いまだに不十分さを含んでいますけれども、教職員の努力、父母の努力、関係者、そして文部省の御努力もあって一定の前進を遂げた、こういうふうに私は考えます。

 以下、教職員定数の標準に関する法案について、政府提出によるものと三党案についてそれぞれ質問をしたい、こう思います。

 最初に、政府案第十七条の二項、以下この部分の質疑は、いろいろな経過もありますから、この場合は小中学校、義務制に限定して議論をしたいと考えておりますが、政府案第十七条の二項、教諭等の数を非常勤の講師の数に換算することができる、こうした問題についてです。

 教育が困難に直面しているとき、教育に参加するすべての教職員の創意と工夫が結集されなければならない、これはもう論をまたないと思う。その際、職員会議や学年会議、場合によっては教科の会議、それらが非常に大きな役割を果たす。そういった教職員の協議の場に参加する機会が少ない、または勤務の関係からそういった機会がない。それはその非常勤の講師にとってもハンディキャップであるだけでなく、学校にとっても子供にとっても大きな損失だと考えます。この点、大臣はどのように考えていますか。

町村国務大臣 学校の中で、これから総合学習の時間でありますとか、あるいは中学校以上になりますと選択教科が拡大をしてくるというようなことに対応いたしまして、非常勤講師の活用ということによりまして多様な人材による教育活動を展開していくことが求められるようになってくる、こう考えております。また、非常勤講師を含めまして、すべての教職員が十分な相談をしながら、校長を中心にして一致協力して学校運営を展開していくということもまた重要であろう、こう思っております。

 このために、今回の改正によって新設いたします義務標準法の十七条二項に基づきます非常勤講師については、政令において、授業時数ではなくて、勤務時間数を基礎として換算をするということを予定しているわけでございます。

 これは、非常勤講師につきまして、授業時間における指導のみならず、常勤の教職員が担うべき校務についての補助的な担当、職員会議や教員間の打ち合わせへの参加等を可能にするために勤務時間数を基礎とするということにしているわけでございまして、文部科学省といたしましては、この制度によりまして、非常勤講師の学校運営への参画も含めまして、非常勤講師の活用のあり方について、各都道府県教育委員会等に対しまして必要な指導を行ってまいりたいと考えております。

児玉委員 そこで、非常勤の講師を定数内に取り込むということになれば、常勤の教職員の数は、皆さんのスキームによれば減っていくことになります。教職員の定数増への努力が本来のあり方だと私は思う。そこを大きく伸ばしていくということが今一番求められている。ところが、その道ではなく、例えば多彩な人材を得るのにその方が好ましい、こういった理由で非常勤講師を定数に換算するやり方は、ちょうど人材派遣業に依存する企業と同じような論理を私は感ぜざるを得ない。そこにはどうも教育的見地が乏しいように思います。

 文部科学省はまさかこのやり方を都道府県教委に押しつけるようなことはなさらないでしょうね。そのことをお聞きします。

河村副大臣 御指摘の点でございますが、児玉委員も御指摘をなさいました、やはりこれからの新しい学習指導要領の中で、総合的な学習時間を初めとする多様な教育活動をやっていく上で、どうしても専門分野とかあるいは得意分野を異にする幅広いスタッフを整備しなければいかぬ、そういうことでこの定数を有効に活用していかなければいかぬ。特に特定教科を担当する教員の授業時数が非常に少ない場合に非常勤講師に置きかえるわけでありますから、それによって常勤講師が減るということにはならないと私は思うのでありますけれども、いずれにしても、これを効果的に活用しようということで、この制度をやっていただこうということになったわけでございます。

 ただ、この道を開いたわけでありますけれども、これはそれぞれの都道府県の教育委員会の判断にまつものでございますので、これに基づいて、これを制約するといいますか、これを必ず実施してどうしなさいということを文部科学省として指導を行うつもりは全くないわけでございます。

児玉委員 都道府県教育委員会にこのやり方を、これしかないぞとかこれを進めろとか、そういうふうにすることはしないというふうに確認しておきましょう。いいですね、どうですか。

河村副大臣 御指摘のとおりで、その活用について文部科学省が制約をすることはございません。

児玉委員 そこで、そのことにも関連してですが、学校教育法第二十八条、その中で、六項目めになりますけれども、「教諭は、児童の教育をつかさどる。」とあります。そして、十項目に「講師は、教諭又は助教諭に準ずる職務に従事する。」とあります。非常勤の講師はこのどちらに該当するんでしょうか。文部科学省、お願いします。

河村副大臣 御指摘の学校教育法第七条等の教員の中に非常勤講師も含まれますし、それから、第二十八条の十項の講師の中には非常勤講師も含まれる、このようになっております。

児玉委員 子供にとって、そしてその学校で展開されている授業にとって、非常勤の講師の方が担当される例えば算数の授業、それは学校教育法における児童の教育をつかさどる行為そのものだというふうに理解して当然だと思いますが、いかがですか。

河村副大臣 御指摘のとおりでございます。

児玉委員 教育基本法第六条には法律に定める学校の教員に関する規定があります。非常勤講師は当然のこととして法律に定める学校の教員に当たると考えますが、いかがですか。

河村副大臣 御指摘のとおりであります。

児玉委員 そこで、町村大臣と、そして三党の提出者にそれぞれお伺いしますが、政府案におけるこの義務制の非常勤講師の身分と待遇、これは教育基本法第六条で明記されている「教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。」これを満たしているとお考えかどうか、お答え願います。

町村国務大臣 非常勤講師のような短時間労働者につきましては、短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律に基づきまして、その適正な労働条件の確保等、雇用管理の改善のための措置に関する指針が定められておりますが、地方公務員については同法は適用されておりません。

 地方公務員であります非常勤職員につきましては、地方自治法によりまして、その報酬や費用弁償の額及び支給方法を各地方公共団体の条例で定めるということにされておりまして、その他の勤務条件についても各地方公共団体が定めているところでございます。したがいまして、市町村立の小中学校等の非常勤講師につきましても、各市町村がそれぞれ定めているということでございます。

 今回の法律改正によって可能となります県費負担教職員であります非常勤講師につきましては、報酬や費用弁償の額及び支給方法を都道府県の条例で定めるとともに、勤務条件等の身分、取り扱いにつきましても都道府県の定めが適用されるということになっておりまして、この中で適切に処遇されるものと考えております。

山口(壯)議員 児玉議員へのお答え、それは多分、この件につきましては、法律で定めているというほかにもう一つ、現場で学校の先生方がどういうふうに感じておられるかということも非常に関係すると思うのです。

 特にこの非常勤の制度というのは、今、特別非常勤講師制度ということであるようですけれども、例えば学校の先生の中で非常勤の先生に対して学校の生徒がどういうふうに見ているか。ただただそこに腰かけで来ておられる先生だなと。そこには触れ合いというものが非常にないようなんですね。したがって、学校の先生に対する尊敬の念というものが、非常にこれはわき起こりにくいものだと。

 それから、学校の運営をする側においても、一つの物みたいに扱ってしまっているケースがどうもある。ちょっとあの先生貸して、こういうことになってくると、やはりその学校全体の運営の中では非常に不安定な立場になってしまって、これは望ましくないのじゃないか。

 ということで、我々の案の中では高齢者の再任用に限るということで、常勤が望ましいという観点からこの非常勤のケースは限らせていただいています。

児玉委員 山口提出者の御意見に私も全く賛成です。

 それで、大臣に重ねて申したいのですが、あなたは処遇その他については都道府県の条例にゆだねるというお話でしたが、このことについてはやはり依拠すべき国際的な基準があると思うのです。まさしくグローバルスタンダードですね。それは、一九六六年九月から十月にかけてユネスコにおける特別政府間会議で採択された教員の地位に関する勧告。これは当然日本政府も参加して真剣な議論をした。一九六七年の日本の国会に提出されて、政府から報告されています。勧告ですから、批准その他の手続は要しない。

 この教員の地位に関する勧告、その四十五に何と書いているか。「教職における雇用の安定と身分保障は、教員の利益にとって不可欠であることはいうまでもなく、」と言い、そして「教員の利益にとって不可欠であることはいうまでもなく、教育の利益のためにも不可欠なものであり、」こう述べていますね。

 ヨーロッパでの教育条理の一つには、教職員が獲得している権利の大きさは教育の効果に比例するという打ち立てられた一つの条理があります。そして、この教員の地位に関する勧告、安定した身分と十分な待遇はその教員にとって不可欠なものであるというのはもちろんだけれども、教育全体の利益にとって不可欠だと。私は、この立場に文部科学省に立っていただきたいと思うのですが、いかがですか。

町村国務大臣 事前の質問の御通告がないテーマでございますので、私は今直ちに、今委員が御指摘になったことにお答えをする用意がございませんので、もしそういう細かい質問があるのであれば事前にひとつ御通告いただきたいと思います。

児玉委員 細かい質問だと私は思わないのです。この定数崩しに関連して言えば、言ってみれば根本的な問題です。

 非常勤の講師、これを私は一切活用すべきでないという立場ではありません。都道府県の状況や学校の状況によって、そのときそのときの状況によって、その仕組みを活用することもあり得るだろう。ただし、その場合にも、学校の事情によって真にやむを得ない場合にのみ限定されるべきですし、そして、その取り扱いは定数外とすることが適切だと考えるし、そしてもう一つ、せっかくそういう機会に教育の場に立たれた非常勤の講師の方は、その方の勤務経験を生かして正規の教員になっていく確実な道が開かれるべきだ、その方向での文部省の検討を求めておきたいと思います。

 次の問題に入ります。学級規模の縮小の問題です。

 教育が深刻な状況にあるとき、教育改革は気宇壮大でなければなりません。そして、私は、その一つの例としてアメリカのものを考えてみたいと思います。

 この委員会の議論の中でも答弁者から既に紹介されたこともありましたが、一九九八年一月二十八日、アメリカのクリントン大統領は一般教書演説でさまざまなことを述べた。今振り返って、もう一遍読み返してみました。なかなか興味がある。

 彼はこう切り出すんですね。「私は昨年、この演台で、」と、昨年の一般教書演説の演台のことを言っています。私は昨年、教育は我々の最優先の政策でなければならないと提起した、まずそう述べて、そして、アメリカの教育を本当によくしていく道は何かということについて自問自答しつつ、こう述べていますね。すべての親は教育をよくするかぎがいい教師と小さなクラスであることをかねてから知っている、グッド・ティーチャーズ・アンド・スモール・クラシーズ、こういうふうにずばり言っていますね。

 そして、一般教書演説は、地方分権だから各州ばらばらにというやり方をとっていません。アメリカ全土において、小学校の一、二、三学年のクラスを平均十八人に減らすことを約束している。なかなかスケールが大きいと思うのです。しかも、その追跡をしている。追跡については、先日石井郁子議員が質問の中で紹介をしています。その場合に、私たちが学ぶべきものとして、やはり思い切ってやる、全土で小学校の一、二、三年を十八人にしようと。そして、基礎的な学級から分離された習熟度別学習などはそこでは考えられていない。

 アメリカにおける一連の努力について、三党の提出者はどのようにお考えか、そして大臣はどのようにお考えか、伺います。

    〔委員長退席、鈴木(恒)委員長代理着席〕

藤村議員 児玉委員にお答えいたします。

 我々は、学級規模の縮小ということでこのたび四十人から三十人ということを出している以上、当然これがいいんだという主張ではございます。それが、今御紹介いただきましたように、世界の流れというか、英国のお話は今されませんでしたが、ブレア首相も、とにかく英国の中では三十人を超える学級はつくらない、そんなお話もされているところでございます。また、アメリカの、これは今御紹介がなかったのですが、G8教育サミットに出席したライリー・アメリカ教育長官が、十八人学級は調査によって成績向上に効果があることは明白だと。これは、先ほどのクリントンの十八人学級の話を受けてのお話かと存じますが、そういう大きな流れの中で、我々も今回、三十人にしたい、こういう法案を提出しているところでございます。

 つまり、先進諸国でいうと、今やもう四十人クラスというのはまずないのですね。その大規模学級をそのままにして、特定教科だけは二十人とか二十五人、クラスを分割して行うという小手先の改善の政府閣法については、これは子供たちと学校を混乱に陥れるだけの、いわば便宜的方策にすぎないのではないか。

 我々はやはり、二十一世紀の日本の学校教育のありようを考えるときに、三十人学級に今ここで大きく踏み切るべきだと。これは私も財政的にそれなりに大変なことだとは思いますが、これはまさに政治主導で、こうだということでやるべき課題で、官僚だけで大蔵省とやっていたのではなかなかできない、だからこそ我々は議員立法として出した、こんなことを御理解いただきたいと存じます。

町村国務大臣 アメリカと日本では、歴史の違い、また地方分権、地方自治の違い、いろいろな問題がございます。

 今委員は、アメリカがすばらしいと、共産党にしては珍しくアメリカを賛美されるようなお話があってびっくりしたのでありますけれども、しかし、現実のアメリカの、では教育の成果というのはどんなようになっているかというと、確かに、私も今正確な数字を覚えておりませんが、たしかIEAの調査によりますと二十番台だったかな、相当低い水準にある。これを何とかしたいという思いが多分アメリカの指導者の中にはあるのだろう、そう思います。

 その点、日本は若干、シンガポール等々に追い上げられて、抜かれて、一番だったものが三番、四番ぐらいまで下がってきておりますが、まだ一応、野球でいうならばクリーンアップを打っている状態ということからすると、私は、巷間言われているほど日本の初等中等教育が、学力という点について言うなら、大変だ大変だとおっしゃる方も確かにいらっしゃるし、それも一部当たっていると思いますが、そう極めて悲観的な状態ではないだろう、こう思っております。

 そして、アメリカの公立学校は、日本のような固定的な学級とか学級編制という概念がない。また、それぞれの地方自治体がそれぞれの考えでやっているということのようでございますし、英語、数学、科学、サイエンスですね、あるいは社会、こうした教科ではホームルームに相当するクラスで授業を行い、音楽とか体育とか美術とか、こういう教科はそれぞれの特別教室で授業をやっているということのようでございまして、十八人以下の小規模クラスというのはホームルームクラスについてのことであって、音楽とか体育とか美術等の授業はより大きなサイズのクラスで行われている実情にあるようでございます。

 いずれにいたしましても、今回の私どもの改善計画におきましては、学級規模を一律に引き下げるということではなくて、教科等に応じて少人数指導を行う。いわゆる学級王国と言われるような閉鎖的な状況を打破して、教員の連携協力を推進することが大切であろう、こう考えたり、さらには、固定的な学級にとらわれずに、個々の児童生徒に多数の教員がかかわるということにより、きめ細やかな指導を行い、一人一人の児童生徒の個性をはぐくんでいくこと、また、きめ細やかな指導を通じて児童生徒に基礎、基本を定着させることが重要だ、基礎学力の向上を図ること、こうしたことなどの効果を期待しているわけでございます。

 特に私どもは、学級王国、北海道が一つの典型的な例かと思いますけれども、どんなクラス運営をやって、どんな授業をやっているかということについて、聞いた話でございますけれども、個々の教員の許可あるいは教職員組合の許可がないと、校長先生あるいは学科指導の先生が、一体どういうことをやっているのか立ち入ることができないという、極めて閉鎖的な、密室的なそういうクラス運営が行われているというような実態があることは、多分児玉委員も御承知でございましょうから、そうした面からすると、やはり四十人をただ三十人にするからもろもろの問題が一挙に解決をするということにはならないんだろうな、こうは思っております。

児玉委員 なかなかおもしろい議論を展開されるので、最初にちょっと言っておきますけれども、私たちは、アメリカの民主主義の懐の深さ、例えば独立宣言だとか、あえて私率直に言いますけれども、リンカーンと、科学的社会主義の創始者であるカール・マルクスとのやりとりの中で、あの奴隷解放を私たちの科学的社会主義の先輩がどれほど高く評価したか。

 それから、大臣自身が、この前予算委員会で実習船えひめ丸の問題を私が取り上げたとき、あなたもその場所にいらっしゃったけれども、ハワイ現地で地元の方たちが、海軍や政府の立場とは違って、どのくらい率直な意見を日本の子供たちが直面した困難に触れて述べたかということを紹介したことを、あなたは覚えていらっしゃるだろうと思う。

 私たちは、どの国であれ、是は是、非は非とする。そして、この学級編制の規模を少なくしていくという点では大いに学びたいと考えている。その点を一言言っておきましょう。

 その上で、もう少し話を進めます。

 今のお話の中で、特に町村大臣のお話の中で、幾つかの問題点が出されました。日本でどうなのかということの議論と、今あなたが強調なさった学級王国の議論は、どうしてもこれは避けて通ることができない。

 文部科学省自身の調査研究を引用した方がいいかもしれないから引用しますけれども、昨年の五月十八日に、文部省は、学級崩壊に関する調査報告、これを委託研究なさって、国立教育研究所の吉田茂さんが研究代表者となられた。そして、学級崩壊に直面している百五十の学校を対象にして、随分興味深い調査をなさっているレポートを拝見しました。

 その百五十校の中には、三十六人以上の学級が四十一含まれていますね。そして、私は正確に言いたいけれども、そのレポートの中には、比較的学級規模の小さいクラスも学級崩壊の例外とはなっていないという点も読み取ることができました。

 そこで、私が議論したいのは、こういう部分です。子供たちがどんな雰囲気の中で学ぶことが子供たちの学習意欲を引き出し、人格成長を促す上で必要か。この学級崩壊に関する調査報告で、前年度より児童数が減少したため学級数が減少し、一学級あたりの児童数が四十人近くまで増加したことが一因となって学級がうまく機能しない状況が生まれた件数が、合計八学級含まれています。三十六人以上の学級四十一のうち八つ、まさかそれを有意の数ではないとはおっしゃらないと思う。四十一のうち八つが含まれている。

 そして、そのことについて、例えば前年度、二十一人ずつの二クラス、四十二人だから公平に二十一人のクラス二つにした。二、三人クラスの子供が減ったために、三十九人の学級になってしまう。その結果、前年度のほぼ二倍に児童数が急増した学級の事例。そのことについて、こうコメントされている。この急激な学級環境の変化が問題状況をもたらす契機や要因の一つになったのではないかと指摘されている学級がありましたと。この点について、文部科学省はどのように分析されているでしょうか。

町村国務大臣 平成十二年三月、国立教育研究所、現国立教育政策研究所の調査を今お引きになられました。いろいろな結果がこの中には含まれておりますから、一概にこれだということを申し上げるのはどうかと思いますが、まず、だれしもがわかることは、百五十の小学校のクラス、学級崩壊あるいはそれに近い状態のクラスを分析したときに、一番多いのが、教師の学級経営が柔軟性を欠いている事例。これが百四学級、百五十分の百四ということで最も多い。学級間の情報交換などによって問題状況に関する共通理解を図ること、学級担任の指導力を高めるための適正な校内人事に配慮すること、こういう処方せんがついているわけでございますが、これが一番多うございます。

 それから二番目は、百五十のうち九十六学級ですが、授業の内容と方法に不満を持つ子供がいる事例。この対応としては、授業方法の柔軟な選択を行うこと、そのため、校内研修等の充実やTT、体験的な活動など、多様な工夫を行うこと、授業時間以外の言葉かけの工夫も大切であること。

 三番目が、いじめなどの問題行動への適切な対応がおくれた事例、五十一学級。もう一つ、五十一学級として、校長のリーダーシップや校内の連携協力が確立していない事例。あと幾つかのケースが載っております。

 いずれにいたしましても、概括的に言いますと、この学級がうまく機能しない状況というのは、学級担任の性別、男性の先生か女性の先生かとか、あるいはその先生の年齢とか学年とか学級規模と特定の相関は見られなかったということが、一応こういう形で報告の結果に述べられているということでございます。

 委員が八学級のケースを言われましたけれども、この原因でこれということを断定的に言うのは確かに難しいところはあろうかと思いますけれども、私どもが注目すべきは、教師の指導力の向上、あるいは授業の内容をできるだけわかりやすく、基礎、基本に徹底してしっかり身につけてもらう、こういうことをまずしっかりやることが学級経営の改善、学級崩壊を食いとめるやはり一番の方法なんだということがこの調査結果から言えるのではなかろうかと受けとめております。

児玉委員 お読みになっているのだろうから話をかみ合わすことはできるけれども、さまざまな要因が複合的に重なっていますね。そして、その調査は、分析をクロスしてやっていますから、どれがどうということにはならない。その中にはもちろん、教師のさまざまな状況も一定の要素としてはあるだろう。ただ、教師の教育力というのは、その教育力が発揮できる環境が与えられた場合にすさまじく発揮されますから、そのあたりの要素は、一人一人の教師の意見、説明も聞かなきゃいけない。

 それは承知の上で、今大臣がおっしゃったことはもう少しこの後で触れていきたいのですが、問題なのは、八つの学級でどうしてこの問題が起きたのかということについてです。二十一人前後のクラスで落ちついて勉強していた、ところが、子供たちにとっては、あるとき突然クラスの規模が二倍になり、それまで十分なじみ合っていた子供たちとは別の子供たちに接せざるを得ない、もしかしたら別の教師と触れ合うことにもなる、そういう新たな状況のもとで子供たちの生活が一挙に崩壊をして、学級崩壊に至る、これが専門家の見方ですね。

 その立場で、私はもう少し議論を進めたいと思うのです。

 ことしの一月、私は青森市で開催された教育研究全国集会に参加しました。全国のさまざまな学校で、多くの教師が子供の学習意欲を引き出すために心血を注いでいるということを目の当たりにしました。現場での努力を支え、励まさなければならない、微力な一人の議員でしかありませんけれども、私はそのことを痛感した。

 そういう中で、私自身が注目しているのは、文部科学省が今弾力的な学級編制を提起されている。さっきあなたもおっしゃったように、学級の状況というのはさまざまな組み合わせですね。地域的な要因、そして教師の年齢的な要因、その他父母の状況。そういう中で、文部科学省はせっかく弾力的な学級編制を提起されているのだから、小学校の低学年について、学校のそれぞれの実態から都道府県教育委員会が少人数の学級編制が適切であると判断する場合、文部省はその判断を尊重なさると思いますが、いかがですか。

    〔鈴木(恒)委員長代理退席、委員長着席〕

河村副大臣 御指摘のとおりで、特例的な基準ということにいたしておりますが、各県の教育委員会が判断する、それに基づいてやっていただくということになっております。

児玉委員 そのようにしていただきたいのです。

 そこで、先ほどの議論にまた進めたいと思うのです。

 少し古い話で恐縮なんですが、民研学級規模調査委員会が一九七八年九月に東京都、神奈川県、千葉県で小学校、中学校三千五百五人の教師から回答を得た、学級規模と教育活動に関する調査があります。こんな古い調査をなぜ私が持ち出しているかというと、この種の調査の本格的な出発点だし、回答例が非常に多いからです。大体その後の調査というのは、この研究の方向でさらに深められています。

 どんな調査結果が引き出されているか。子供たちに対する教科指導は、学級規模が小さくなれば、第一に落ちついた雰囲気で授業ができる、控え目な子供にも発言の機会が与えられる、基礎的なことを丁寧に繰り返し教えることができる。今日本の教育が求めているのは、これではないでしょうか。落ちついた雰囲気での二十一人が急に四十人になったら、落ちつくはずがありません。そして、二十一人のときにはお互いに知り合っていた、ところが新しいところに行った、控え目な子供はますます控え目になるだろう。そういう子供に発言の機会が与えられる、そして基礎的なことを丁寧に繰り返し教えることができる、そういう調査結果が引き出されて、この方向はその後のさまざまな国内、国外の調査で実証されています。

 さて、そこで問題なのは、クラスの子供には当然学習の到達度に幅があります。プレパラートみたいに同じ習熟度、同じ到達度の子供が集まるということは、およそ幻想に近いんですね。自然に、クラスには、集まってくる子には学習の到達度に幅があります。教師の指導で、子供たちが教え合うことによって、学習の到達度が進んでいる子供の理解、認識がより深化しますし、そして、幾らか学ぶ必要が特に痛切である子供たちも、そういう適切な教師の指導のもとで、異なる学力の子供たちの中で学ぶことで大きく全体の学力が進む。これは一つの、国際的にも実証されている姿ですね。

 私は、ある映画を見ていて驚いた。教育に関する映画ですが、算数の授業の中で、一人の子供が計算式を間違える。みんなが黒板に行って書いて、○○君が間違えた。そうしたら、教師の指導のもとに、クラス全体が○○君はどのところの計算で間違えたのかということを議論して、○○君式間違いといって、その○○君を含むクラス全員が理解を深めていく授業展開に触れて、本当に私は感動を受けました。

 学級を基礎にしてグループ学習、個別学習を適切に進めていくことが、学力、学習の到達度に幅のあるグループの子供の学力を全体に引き上げる確かな道ではないか、私はそう考えますが、文部科学省はどうお考えでしょうか。

町村国務大臣 今委員が出発点で言われた、その七十何年かの調査、私は不勉強にして存じ上げておりませんし、そんなに有名な調査であるということも承知しておりません。

 また、今、一、二の例を言われて、そういうケースも多分あったんだろうと思いますが、それが一般的に常に正しい議論かどうかも私には証明すべくもありませんし、正しいだとか間違っているとか言うつもりもございません。常に正しいのかどうかは、若干疑問な思いもいたします。

 といいますのは、今私どもは、例えば四十人を二十人、二十人で、例えばですが、習熟度という観点でクラス編制をする、こういうこともあっていいんだろう、こう思っております。

 なぜならば、私も、これはいろいろな学校の先生に話を聞いてみると、大体四十人、それはよしんば三十人でもそう実態は変わらないんですが、大体、中の中か中の上あたりに焦点を当てて授業を進めざるを得ない。そうすると、上の方の何%か、下の方の何%かは常に不満を持つ。上の方の人たちはこれはもうわかっている、下の方の人たちはもうわからないと。

 したがいまして、私は数字を見て本当に驚いたし、残念なことだと思いますが、七五三という数字がございます。授業がどれだけわかっているか。小学校で七割、中学校で五割、そして高校で三割。これはやはり一つのクラスの中で相当、今委員まさにおっしゃったように、理解の度合いが早い子、遅い子、いる。それが三十人であれ四十人であれ、一つのクラスでやることの限界というものがある。

 先ほど委員は、そういう進んだ子とゆっくりやる子が一緒にいるからいいんだという例を言われたけれども、どうもそれが常に正しくはないんじゃないかと私が思うのは、そこに先生たちも無理があるなと思っているわけですね。むしろ一定の習熟度でそろっていた方がいろいろな意味で授業がしやすいということを、私はいろいろな教科の先生方から聞いたことがございます。

 そんなようなことから、今回の私どもの、少人数指導を行う際にどのような教科や学年を対象にして行うか、また習熟度別のグループを編制するかどうかについては、それぞれの各学校なり各教育委員会の判断にゆだねるわけでありまして、私どもが一律にこうしなさいと言うつもりはございませんが、そうした判断をそれぞれ適切にしていただければよろしいのではなかろうか、こう思っているわけであります。

児玉委員 この議論はもっと深めてやりたいですね。

 あなたが、それはあなた自身にとって理解できないとおっしゃるのは御自由だけれども、しかし、全国の多くの教師は、その道をどうやってより確実に、より広く、深く進めていくかということで必死の努力をしています。そして、どんな子供でも、私は以前本を読んでいてはっと思ったんだけれども、アルキメデスのつまずきという言葉にぶつかって驚いたことがある。アルキメデスほどの、特に数学についてのすぐれた能力のある人物が、成長過程で、数学の、算数のある部分についてわからなくなって、そこがわかったらがあっと行っちゃった。進んだ。

 今、全国の教師が必死になっているのは、一つは子供たちの学習意欲を引き出すことです。そして、多くの子供たちの中で、学力の幅のある子供たちの、特に幾らか理解が進んでいない子供の理解のつまずきがどこなのかということを見つけ出して、安定した居心地のいいクラスを基礎にして、個別指導、そしてグループ指導と結びつけて全体の学力を上げていく。この道が今は胎動になってきている。

 そして私は言いたいのですが、そういう中で、今大臣は、いみじくも学級王国という言葉をお使いになった。うーんと思いますね、学級王国。

 そして、私も北海道ですから、そして、もしかしたら教師運動への参加は、あなたより私の方が深く、かつ長いかもしれない。そして私はいつも、高校でしたけれども、授業はどなたにも見てもらったし、そして、御希望であれば校長先生であろうとだれだろうとそれを拒んだことはありません。

 今、全国の教師の中で、教師自身が自己研さんしなきゃいけない、絶えざる研究及び修養、それが問題になっています。そして、教師である以上、だれしもがいい授業をしたい、いい教師になりたいと願わない人はいないのです。当然、教職員の研修や教育研究活動は、教室でどう教えるのかが中心のテーマになります。

 せっかく北海道のことをおっしゃってくださったから、私も私の経験を言うけれども、養護の教師が教育研究集会に参加して懲戒免職になった事案がありました。処分の撤回を求める審理廷に私は証人として立って、非常に未熟ではあったけれども、次のように述べたことがあります。

 教師の研修は、個人的にもなされなければなりません。科学と学問の成果に忠実に立脚して、集団的になされることが基本であります。科学と学問の成果に基づかない恣意的な研修を、私たちは厳しく退けてきました。

 一九七二年の十一月七日のことです。

 本当に、今考えてみて未熟な言葉だったと思う。しかし、恣意的な、独善的な、排他的な、そういう教育の観点というのは、今、全国の民主的な教育運動の過程では厳しい批判にさらされて、そして、教師がどうやってお互いに励まし合いながらみずからを高めていくか、そのことが中心課題になっています。

 ちなみに、先ほどの養護の先生の懲戒免職は、当然撤回されました。

 そこで言いたいのですが、今あなたがいみじくもおっしゃった学級王国、いささか私はやゆ的に使われていると思う。しかもそれは、教師に対する不信感を出発点にしている。今まで何回かの答弁を、私はここにいなかったからビデオで拝見したけれども、自分のクラスを決して人に見せようとしないと。

 現在、全国の教師が行っている共通の努力、父母、教職員に公開され、そして教職員同士、時には大学の研究者も参加している。町村大臣は、北海道大学の教育学部の数人の教師が、授業の展開についてのすぐれた試論を提起して、その試論で授業を展開して、お互いにそれを検討し合っている幾つかの学校を御存じだと思う。そういうお互いに問題点を指摘し、助言し合う民主的な研究授業がどれほど豊かな成果をもたらしているか。これは独善的、閉鎖的な学級王国ではありません。

 そして、もう一つ言いたいのは、子供を愛し、本当に教育をよくしようと熱意に燃えている教師が、その教師の人格に触れた子供たちと心が通い合う、そういうクラスがあるとすれば、そういうクラスをこそふやそうじゃありませんか。どうしてそれを、例えば学級王国などと言うことができるだろうか。

 私は、今全国で進められている父母、教職員に公開された、互いに助言し合う民主的な研究授業、それがどれほど豊かな成果をもたらしているか、この周知の事柄について、大臣及び三党案提出者のお考えを聞きたい。

町村国務大臣 児玉委員が言われた、その民主的云々というものの実態を私どもはよく知りませんから、それがいかにすばらしいかどうかと宣伝をされても、私にはお答えをするすべもございません。ただ、私は、先生たちが一生懸命研修をするということの必要性は、これはもう人後に落ちないものがございます。

 私がまだ当選して間もないころ、初任者研修法案というのが出されました。しかし、たしか、共産党さんはこれに反対をされたんじゃないでしょうか、私の記憶が正しければ。もし間違ったら、お許しをいただきます。例えば初任者について研修をやるということに、なぜそれならば反対をするという行動をとられたのか、私には理解ができません。まあ、しかしそれはもう済んだこと、過去のことでございます。

 いずれにいたしましても、私は、教員の皆さん方が採用後に、初任研であれ、中途の段階であれ、管理職であれ、ありとあらゆるレベルで一生懸命研修をやり、今まさに委員が言われたような、その教師の人格に触れてまた子供が大きな成長を遂げるといったようなケースがあることは本当に望ましいことだ、こう思っておりますし、そういう意味で、文部科学省といたしましても、さまざまなそうした研究団体等々の研修事業については最大限の支援を、これまでもしてきたつもりですし、これからもまたそうしていきたい、かように考えております。

山元議員 昔というと、また古い話を申し上げますけれども、学級王国という言葉はありました。あの先生のクラスは、僕のクラスはと、こういうのはありました。

 それは決して、今大臣がおっしゃるような閉鎖的なものでなしに、自分が王様でいるというようなものではなしに、いいクラスをつくろうという意味で、そういう自分のクラスをつくろうということはありましたけれども、今全国で、校長さんにも、あるいはほかの人にも教室を開放しないというような先生がいるのだったら驚きですし、おられるのでしたらお目にかかりたいというふうに思います。

 そういう状況にはなっていなくて、今みんなが一生懸命になって、職員同士が一緒になって、保護者と一緒になって、あるいは地域の皆さんと力を合わせて、何とかいい学校をつくろうということで一生懸命になって努力をしている。これは文部科学省も、信頼をしていただいて、支援をしていただく、励ますようなことでないといけないだろうというふうに思います。

 開かれた学校、開かれた学級をつくらなければと、地域に根差した教育というふうに言っていますけれども、地域の皆さんと一緒になって学校をつくろう、そして、まさにそれは、地方分権の時代ですから、自分たちの地域の人たちの知恵や力、努力でいい学校をつくるんだということの努力が要るだろうというふうに思いますし、そして、今学校の先生方は、そういう点についてはきっちりと理解をしていただいておって、自分たちのそういう教育的な力量を高めようということについては、本当に真剣になって頑張っていただいているというふうに思います。

 ただ、教育の中身だとか難しさ、あるいは子供の多様化だとかいうことについては、対応するのがなかなか難しい。どんと構えているという教師ばかりではありませんから、自分が暗い気持ちに落ち込んでいって、指導の力を失っていく。何とか手を差し伸べなければならない教師がいることは事実だというふうに思います。

 けれども、そういうことは例外的といいますか、きっちりとみんなの力で、周りの力で支えていって地域の学校をつくることが大事なんだろうというふうに思いますし、文部科学省もぜひそういう現場の皆さんの努力も、しかも苦しさといいますか、そういうものも理解して、支援をしていただく。

 私どもの得た結論でいうと、やはりこの法案が、三十人学級が要るだろうと。きめ細かなことができる、そういうための一つの方法です。それが必要なんだろうというふうに思います。

 以上です。

児玉委員 例えば主任制についていえば、幾つかの、例えば北海道の高校の状況でどうなっているか、あなたはお調べになった方がいいですね。それから、初任者研修についていえば、自主、民主、公開の三つの約束が交わされてから、それがどのぐらい開かれた研究会の場所になっているか、そのこともあなたは御承知になるべきです。

 そこで、次の問題です。

 国連子どもの権利委員会が一九九八年六月に採択した最終所見で、極度に競争的な教育制度におけるストレスのため子供の発達がゆがみにさらされていること、及び、その結果、余暇、身体的活動及び休息が欠如していることを懸念する、本委員会は、さらに不登校、登校拒否の数が膨大であることを懸念する、こう述べました。そして、日本政府に対して、「過度なストレスおよび不登校・登校拒否を防止し、かつ、それと闘うための適切な措置を取るべきことを貴締約国に勧告する。」としたことは、御承知のとおりです。

 両案の提出者にお聞きをします。時間がもう少ししかありませんから、絞って聞きます。

 政府案における習熟度別授業が、日本における極度に競争的な教育制度にあって子供たちのストレスに拍車をかけるおそれはないか、私はその点、憂慮せざるを得ない。この点に絞って、文部科学省と三党提案者からの簡潔な御答弁をお願いします。

町村国務大臣 私は、学校の中、教室の中と置きかえてもいいですが、やはりほどよい、適切な競争というものがあっていいのだろうと思っております。競争のないところに進歩、発展はありません。しかし、ここはなかなか判断が難しいのです。何をもって過度と言うか、何をもって適正と言うか、何をもってほどよいと言うか、それはなかなか難しいところがあります。

 ただ、何の競争もないまま、とにかく高校全入だとか、実際には試験がありますよ、ありますけれども、結果的には全入になっている。それはそれで、別に今それがいけないと言っているわけではございませんけれども、その適切な競争すら今学校現場から失われようとしているのではないかということの方が、むしろ私は問題ではなかろうかと。

 不登校の原因、それはさまざまあろうかと思います。一つの原因が、やはりその子供にとっては余りにも過度な競争というふうに受けとめた、その結果不登校にならざるを得なかったというケースもそれはあるかもしれない。また、どうも授業がわからなくて、つまらなくて、とてもついていけなくて、学校に行くのがつらいといってやめるケースもあるかもしれない。あるいは、先生との関係、生徒同士の関係、それによって、人間関係のストレスで不登校になるケース。いろいろなケースが確かにあろうと思います。

 しかし、今御指摘の、習熟度別クラス編成というものが学校の中に導入をされたから直ちにそれが過度のストレスになり、そして、したがって不登校がどんどんふえるであろうという推論は、いささか大胆に過ぎる推論ではなかろうかと私は受けとめます。

山内(惠)議員 北海道出身の先輩議員である児玉議員にお答えさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。

 今回の政府案の少人数指導が習熟度別で行われるとしたら、議員のおっしゃるように、私も危険なものを感じる部分があります。

 子供たちが競争がなければ勉強しないと思うのは、私は間違いだというふうに思っておりますので、今回習熟度を入れることによって、もしかしたら一部の子供は競争意識に駆り立てられる場合があるでしょうし、その反対に、もう自分はだめなんだとあきらめて努力することも放棄してしまう子供が生まれるのではないかということも大変心配に思っています。

 しかも、今回の国連の子どもの権利委員会の総括所見による指摘というのは、既に日本の中で、子供たちが過度の激しい競争による教育制度のストレスからくる発達障害の件と学校忌避の件を懸念しているという状況にあるので、私もこの導入については大変危険だというふうに思っていることを申し添えたいと思います。

 時間がありませんので、もうちょっとありましたけれども、終わらせていただきます。

児玉委員 今山内議員がお答えくださったその中身が、この習熟度別学習の危険性を一番正確に示されていると思うのです。

 子供たちの学校生活の本来の場であるクラスから切り離されたところで行われる習熟度別学習。習熟度が低いと判定された子供は、差別感を醸し出し、差別感が助長されるかもしれない。別のグループに振り分けられた子供には、そのグループから振り落とされないようにという緊張感が強まるでしょう。大臣、私の発言を正確に聞いていないからだけれども、私はいつもそれを短絡的に言っているんじゃないのです。そういうことにつながりかねない危険性がある、憂慮すると私は言っている。そして、そういうことをわざわざ今なぜやらなきゃいけないのか。そのことが子供の学習意欲を減殺し、学力差の固定化、そして拡大をもたらす危険性があります。

 最後に、私は大臣にもよく聞いてほしい。子供にとって学校で学ぶというのは一生でたった一回の機会です。文部科学省がある教育政策について試行をして、その後、あの試行は誤りでしたと将来正すことは可能でしょう。子供には、それは不可能です。今、習熟度別授業ではなく、学級規模の縮小、当面三十人学級の実現に向けて足を踏み出すことが、教育に対する国民の願いに真っ正面からこたえる道ではないかと私は確信します。最後に、この点について大臣と、そしてまだ答弁に立っていらっしゃらない提出者のお答えをいただいて、終わります。

町村国務大臣 三十人学級について児玉委員の御主張というのは、お立場として私もよく理解はできます。しかし、私どもは、今回私どもが提案している政府提案がよりよいものだ、こう思っておりますので、これ以上特に申し上げることはございませんが、ちょっと中座をして大変失礼いたしましたので、私は、ちょっと本論から外れるかもしれませんけれども、お許しをいただきまして、学校現場から競争がない方がいいんだ、ない方がいいんだという形、それがまさに私は戦後の教育界における悪平等というものを蔓延させてきた、あたかも違いがあることは差別であるというような非常に間違った認識が大勢の方々に教育現場で持たれ、そして私は、そのことがむしろ活力を教育現場から失わせしめているのではないだろうか、こう思うものですから、悪平等の打破ということを私は申し上げております。そういう趣旨で申し上げたことをちょっと付言させていただきます。

石井(郁)議員 手短にお答えいたします。

 公教育としての学校というのは、子供たち一人一人の成長、発達を保障する場、そういう教育活動を行うところだというふうに思うのです。閣法、衆法を通して、今の子供たちの現状、そして抱える問題、本当にさまざまに審議されましたし、クラス規模の縮小こそが、子供たちの成長、発達を保障することだということが明らかになった。私は、研究や実態を通してそれが明らかになったというふうに思っています。問題は政治が何をするかでありまして、小中学校でも単年度で七百九十七億円ということで計画的にできるわけですから、三十人学級に私は直ちに取り組むことができるというふうに確信するものです。

児玉委員 終わります。

 ありがとうございました。

高市委員長 山内惠子君。

山内(惠)委員 社民党の山内惠子です。限られた時間ですので、最初から端的に質問させていただきます。

 大臣は、高校間格差があるということにつきましてどう認識されていらっしゃるか、お聞きしたいと思います。

町村国務大臣 格差の実態というのはいろいろな角度からの分析もあろうかと思いますので、すべてを承知しているわけじゃございませんけれども、現実に高等学校間に、ある種の序列意識というものがあるということは実感として持てるわけでございます。これは、同じ普通科高校の中でも差があったり、あるいは職業高校と普通校の差、あるいは全日制と定時制、いろいろな序列意識というものがあるような気がいたしております。

 したがいまして、私はやはり高等学校教育、もっとそれぞれの高等学校が個性的であり、多様化して、そして、その特色を発揮し、その特色に引かれて中学生が進学をするというふうになってもらいたいものだなと。そのための総合学科でありますとか、単位制高等学校の設置とか、中高一貫教育、こうしたものを大いに進めていきたいと思っております。

山内(惠)委員 おっしゃられたように、本当に序列意識がある、実際に意識だけでなく、結果としてそのようになっている状況があると思います。この格差は、今は御努力の点でおっしゃいましたけれども、是正する必要があると思っていらっしゃいますか、それともこのままでよいと思っていらっしゃいますか。この格差について、序列について。

町村国務大臣 ちょっとその序列の実態というものが必ずしも、人さまざまな受けとめ方があろうかと思いますから。

 ただ、やはり中には、中学校の進路指導の中で、偏差値だけが決して唯一絶対の指標ではないとは言われておりますが、かなりの程度まだまだ偏差値というもので、あなたの偏差値ではここの学校へ行きなさい、あなたの偏差値ではここの学校へ行きなさいといったように、かなりの程度、偏差値に基づく進路指導が徹底をし、その子供の適性を無視して、例えば何々商業学校に行きなさい、何々農業高校に行きなさいとか、あるいはどこそこの高校に行きなさいといったような進路指導があるということは、私は決していいことではないと。

 ちょっと乱暴なことを言うことをお許しいただけるならば、中学生が自分が行きたい高校を受ける、失敗したっていいじゃありませんかと私はあえて申し上げたいほどでございますが、いずれにしてもいろいろな面で、高校のあり方も変えるし、また高校の入学者選抜方法も改善するというようなことで、高等学校間の序列意識が解消される方向に向かうことを期待しております。

 ただ、序列があるということと違いがあるということは、先ほど申し上げましたように別でありまして、公立の高等学校もやはり特色を持つということは非常に大切なことだと思っております。

山内(惠)委員 わかりました。

 現在、高校進学率の全国平均が九六・八%、約九七%となっています。その意味で、高校は国民的な教育機関になっていると言えると私は思います。その上に、今は少子化の時代ですから、希望する子供たちがすべて高校に行きたいと言えば、空き教室も十分あるわけですから、あえて三%から五%の子供たちを不合格にする必要はないと思っているんですけれども、大臣はそのことについてはどのように思われますか。

町村国務大臣 その九六・八と一〇〇の差の三・二%が、不合格だから行かないという実態があるのかどうか、ちょっと私も今手元に資料がないのでよくわかりませんが、それこそ今の御指摘のような、空き教室もある、定員もいっぱいある状態では、自分がAという高校しか行かないとか思わないで、Aがだめなら次のB高校に行こう、あるいはC高校に行こうと思えば、現実は一〇〇%入学が全く可能な状態に今あると私は思っております。

山内(惠)委員 そのお答えについては私も大変賛成です。行きたいと思う子が高校に入れるということが私は大事だと思っていますので、あきがあるにもかかわらず不合格にすることのないようにぜひ進めていただけたらというふうに思います。

 ところで、一九七一年の中教審、このときから小中学校にも能力主義が導入されたと思います。先ほど町村大臣がおっしゃったように、七五三というように、理解する子の数が年々減っていく、その理解しない子のことを落ちこぼれという言葉を使うようになったのもこのころだったと思います。大臣も先日の委員会で、この状況を何とかしなければとおっしゃったように思いますので、それでは、少人数指導、習熟度別指導ということは、先ほどは各県の教育委員会等にゆだねるということをおっしゃっていますけれども、この考え方は、やはりそこのところを是正できるということとしてお考えになっていらっしゃるのでしょうか。

河村副大臣 私からも答弁させていただきたいと存じます。

 先ほど大臣も、習熟度別の問題について答弁をされておりました。今山内委員からも御指摘があったことですが、今の教育の現場で七五三という言葉が言われる、やはり基礎、基本をもう一度きちっと教え込まないといけないというのが今の大きな声だというふうに私は受けとめております。

 それにはどういう方法があるだろうか。さっきのように、習熟度別でやることによってストレスが生まれるのではないかという御指摘もございました。私もそれをゼロとは否定しません。子供によっていろいろ違います。しかし、やはりしっかり覚えていかなければいけないことが頭に入るということは大事なことだと思うのですね。だから、それは先生方もそのことに一生懸命努力をされる。その上で、やはり真ん中に標準を置けば、上の方と下の方がどうしても、下はついていけない、上はもうそれでやる気をなくす、こういう具体的な例が今までいろいろ言われてきたわけです。

 そういう意味で、少しでも七五三をなくしていく努力、その方法の一つとしての習熟度別の導入ということについて私も賛成をしておるのですが、これは各教育委員会、あるいはそれぞれの学校、市の教育委員会の中でいろいろお考えをいただいて導入をしていただくという方向で、今この導入が可能になるような方向の標準法を打ち出した、こういうことであります。

山内(惠)委員 一度は耳にしたことがおありかと思いますが、十五の春という言葉が生まれたのも、この一九七一年の中教審答申が出たころからだったというふうに思うのですが、十五歳の春、進路の分かれる春です。能力主義の導入で人間の偏差値輪切り、スライス輪切りとまで言われる状況が生まれ、人間のランキングづけがされ、高校間格差が広がったと私は思っています。

 十五の春は子供たちにとって、一部の子供は歓声を上げる季節かもしれませんけれども、涙の季節となっている子供たちも多いのです。心の傷が深まる季節でもあると思います。その意味で、高校間格差によって子供たちの連帯とか友情とかが断ち切られて、先ほど序列という言葉もありましたけれども、ランキングという言葉で言えば、A、B、C、D、その地域の学校で、あそこはA校、ここはB校、クラスの子供の何番までがあそこの学校に行けるというように高校がランキングされている状況になってから、子供たちの荒れがひどくなったように私は思います。

 この高校間格差がどうして生まれたのだろうかということをできれば短く、大臣、どうしてこの高校間格差が生まれたと思っていらっしゃるでしょうか。

町村国務大臣 いろいろな理由があるのだろうと思いますから、これが絶対ということはないと思います。

 私、県議会議員の方々と話しますと、よく教育長さんが県会議員の皆さん方から、教育長、何やっている、うちの県立高校からは何々大学に進む数がこんなに少なくて、もっとしっかりやれとかいって気合いを入れられたりするケースがあったりする。ちょっとそういう指摘は私はいかがかと思うのでありますけれども、一生懸命子供たちに勉強させるような、しっかり学び、またしっかりスポーツをしたり、いろいろいい環境をつくってやりなさいという、そういう意味の叱咤激励なのかもしれません。だけれども、何ゆえに高校の序列意識が生まれてきたかというのは、今私が、これこれの事象があったから序列が生まれたということを言うのはなかなか難しいのではないでしょうか。

 というのは、それを言うと、戦前からある意味ではナンバースクール、それは数が少のうございましたからナンバーをつけるのが可能だったのでしょうが、一中はいいとか、いやいや二中の方もいいとか、やはりいろいろな言い方が戦前だってありましたから、戦後に特異な現象かどうかすらもよくわかりませんよね。

 ただ、先ほどちょっと委員が言われた、十五の春云々という話がありました。私は今でも覚えておりますけれども、もし京都選出の議員さんに伺って、間違っていたら済みませんけれども、たしか蜷川知事が、十五の春は泣かせないという名ぜりふをして、高校全入を認めました。その結果何が起きたかというと、十八の春にみんな泣いた。みんなかどうか知りませんが、ややオーバーに言うと、十八の春に泣いた。なぜならば、京都で一生懸命勉強しようとする高校生は、全入の可能な京都府立高校に行かないで、みんな大阪だとか滋賀だとか、そういうところへ行って一生懸命勉強したということで、ただ単に、十五の春が十八の春に、泣くのが延期されただけだったというようなことも私は聞いておりますから。

 一見、十五の春は泣かせないというのは、美しく、優しく、いい言葉でありますけれども、本当にそれが子供のためなのだろうかということを、やはりそこは冷静に考えなければいけないのだろうと思います。

山内(惠)委員 私は全国状況を十分把握していませんでしたから、京都の高校が全入をしっかり実施していたということを十分知っておりませんでした。

 十五の春に泣かないで十八の春に泣いたという言葉の意味は、ある意味ではやむを得ないというように私が思うのは、先日、私は柄の長いフォークの話をしました。子供たちの可能性は、将来どこがこの子に合っているのかということを見つけるまでの間というのは、ある意味では、教養期間だというふうに押さえて、長い教養期間をずっと柄の部分で力をつけて、それから、その子供たち自身が自分の個性はどこにあるだろうということを少しずつ見きわめて、自分に合っている職業なり大学なりを選んでいくというような方向を考えた言葉なのです。

 その意味では、ある意味では、先ほど申しましたように、国民的な教育機関となりつつある、ある意味では義務教育に準ずるような高校状況ということを考えれば、十五の春で、あえて選びたかった高校に入れなかったという涙はちょっとまた別として、それから高校間格差のことをさておいて、その部分を言うと、希望する子たちが高校に入れるような状況をやはり用意してあげるのが大人の責任かと私は思っています。

 ところで、高校間格差の生まれる背景ではっきりと言えるものがあります。それは、親の学歴格差、親の所得格差が子供の成績格差につながっていると分析された方がいます。例えばこれはどういうことを言うかというと、親が塾に子供を通わせてやれる家庭と行きたくても行けないという意味では、親の所得。

 それから、パソコン格差というのがあります。それは、学校にパソコンが今後全校に導入されたとしても、我が家でもう既に、親子でEメールのやりとりという家庭の話が先ほど出ていましたけれども、もう既にそれを使ってあらゆる情報を手にしている子供と、全くそのことを願っても買えない家の事情とからいえば、もうそこで既に学力差がついてしまうということです。

 親の学歴によって子供の進路も、本人は進路なんか全然考えられない時代から親がそれなりの教育をしていける家庭、そういう状況で親の学歴、親の所得によって子供の成績格差につながるとしたら、ある意味では子供の努力ではどうにもならない大きな格差の壁が高校間格差につながっているのではないかというふうに思って、申し上げたところです。

 ところで、ここで質問です。大臣もこの高校間格差については私とそんなに違わない分析をされていた部分を先ほどお聞きしたのですが、大臣がよく、戦後の教育は画一的であり悪平等が問題であると何度も何度もおっしゃっているのですが、これだけの高校間格差を見ても、なお戦後の教育は悪平等であったとおっしゃるのでしょうか、ここのところはぜひお聞きしたいところです。

町村国務大臣 確かに、親の所得によって子供に与える教育に全く差がつかないかといえば、それは今委員が御指摘のような、パソコンが買えるかどうかという意味での違いは出てくるかもしれません。しかし、では、親の所得を全部均一にできましょうか。それはやはり共産主義の国でも物すごく所得格差が、むしろ日本よりあったわけでございますから、親の所得格差があってだめだと言われても、ちょっとそこの部分は私はお答えのしようがありません。せいぜい個人の所得税の税率が所得とともに上がっていくというぐらいの結果の平等を求めてきた、そういう意味での対策は一応講じられていたのかなと思います。

 悪平等云々がこの高校の話とどう結びつくかということであります。

 私は、偏差値というたった一つの物差しでもしこの高校間格差というもの、あるいは序列意識というものがあるとすると、それこそまさに悪平等の最たるものなんですね。そういう意識で、そのたった一つの物差しで見てしまうということが。

 子供にいろいろな個性があって、いろいろ輝く局面がある。委員には申しわけないが、私は、演劇で輝く子はやはり四幕とも全部シンデレラをやった方がいいと思います。そして、別の子は運動会で輝いた方がいいし、別の子は英語の時間、別の子はお掃除の時間でいいと思うのです。いろいろな多元的な価値判断の評価の基準があってそれぞれが輝くのがいいと思いますから、私は、逆に言いますと、もし偏差値だけに基づいて高校間の序列というものが生まれているのだとしたら、それはもうまさに、私が一番言いたい悪平等のむしろ最たるものだ、こう思います。多様な価値判断といいましょうか、尺度で、光り輝く特色ある高校が誕生することが望ましい、こう考えております。

山内(惠)委員 大臣と私の見解にはニュアンスの違いが相当ありますので、また別な形で十分討議をさせていただきたいと思います。

 私は、教育荒廃の元凶は何なのかと、本当にこれもお聞きしたかったのですけれども、まだ次の質問が残っていますので、質問しないで私の答えを申し上げますと、教育荒廃の元凶は過熱した受験教育にあると思っています。入試の重圧は、子供の成長をゆがめ、教育を壊していっている状況を迎えているのだというふうに思います。その意味で質問をしたかったのですけれども、私は、ここのところを、やはり入試というものはこの十五の春のところで必要なものではない、競争がなければ勉強ができないというふうに考えられることは間違いだということを指摘して、この部分のところは終わりにしたいというふうに思っています。

 子供たちにはみずからわかったときの喜びというものがあるわけですから、わかればもっと次を知りたいというふうにいくのが子供たちであって、そしてそのことから、読書したい子、部活をしたい子、スポーツで輝きたい子が出てくるわけですから、こういう中で本当のはげ落ちない学力が出てくると思います。受験勉強のあの勉強は、はげ落ちる学力と言って、ペーパーで百点をとってもその何日か後から忘れていくという学校での勉強の仕方が、受験勉強が教育荒廃の元凶であるということを私があえて言ったところなのです。

 ところで、習熟度別の少人数、これも私はたくさんお話ししたいところがありますけれども、このことをあえて導入するとしたら、午前中に山元議員がおっしゃったように、子供がいろいろな形で教室を移動するようになるわけですから、担任からはますます、いじめられている子供や問題行動を起こす子供の実態が見えにくくなるというふうに思うのです。ここも時間がありませんので、見えにくくなるという点について、どう思いますか、お聞かせください。

河村副大臣 確かにそれは、担任の持つ授業がその分減るということはあるでしょう。しかし、別の教師がまたその子を見ることができるようになりますから、私は、広い目で見るという視点もあるのではないか、このように思います。

山内(惠)委員 広い視点でたくさんの方たちの目で見ていただき、子供たちが伸び伸びと学校で過ごせるような方向に行くことを私も期待しています。

 きのうの新聞記事に、今の教育改革で何を一番解決してもらいたいかというと、いじめがトップの四四%という新聞がありました。

 ところで、いじめる側の子供についてなんですが、これもなぜかということをここで質問したいところですけれども、少し次の話題の方がたくさんありますのであれなんですが、いじめる側の子供の問題については、自尊感情が育っていないと言われているのです。自我の確立ができていないとも言われています。成績でみんなについていけない、自分は落ちこぼれなんだとその子が自覚をしてしまって、自我を満足させるために自信を持ちたいので、自分より弱い者を手下にしたり、命令したりして、言うことを聞かせたり暴力を振るったりという形でいじめが起こると分析されています。この子供たちが成績で解放されない状況にあるだけに、自分の自尊心をいじめで補っている例が随分あると聞いています。これをある学問的な言葉で自我補償と言っているそうです。

 その意味で、今回の習熟度別グループの問題なんですけれども、都道府県や市町村教委が選択するかしないかということはまたさておきまして、この習熟度別グループ、そしてまた、行く先では飛び級だとか飛び入学とかいうことがあるとしたら、一方の子供は敗北意識にさいなまれ続けるかもしれません。一方の子は、自分がわかって楽しいということも含めて、自分の勉強だけで精いっぱいかもしれない。ある意味で、この習熟度別グループでいろいろ進めることによって、ほかの子を思いやる、そういう気持ちを育てるということについては遠ざかってしまうのではないかと私は思うのです。そして、このA、B、CのCのグループになってしまって、もう自分はどうせやってもわからないとなってしまった子が、もしかしたら不登校の道に行くかもしれない。そのように、私はそこのところはふえるのではないかと心配しているのですけれども、大臣、ここのところはいかがでしょうか。

町村国務大臣 それは、物事を全部悪く悪く考えれば、そういうことが絶対起きないとは言えないかもしれません。ただ、やはり委員も言われたように、授業がわからないので自尊心が傷ついた、だからそれを穴埋めするためにいじめる、こうおっしゃいました。であるならば、やはり授業をわかるようにする、その子供にとって一番わかりやすい授業をするというところがまず大切なんじゃないのでしょうか。

 その一つの方法、すべてとは言いません、唯一とはもちろん言いません、その一つの方法としてもし習熟度という方法が適切であるならば、それはその子供の、授業がわかる、ああ楽しいという意味で自尊心が満たされるということにつながるので、私は、授業がわからない子供は習熟度にすれば必ずいじめに走るだろうという議論も、そういうケースが絶対ないかと言われればどうかわかりませんが、それもちょっと、全部がそうなると今おっしゃるような感じでしたから、それはちょっと余りにもまた大胆な仮定ではないのかなという気がいたします。

山内(惠)委員 違いはまた後でと思います。

 教育には二つの側面があると思います。一つは、子供たち一人一人が輝いて、成長して幸せになるようにするということです。私は、先ほど大臣がおっしゃったように――時間がだんだん足りなくなりました。では、説明はやめまして、もう一つは国家の願い、経済的な側面、科学技術の進歩などにこたえる教育、労働力の再生産をする、そういうふうに願う二つの側面があると思います。

 戦後の教育は、平等と言いながら実は、エリートから作業層までの人づくりを目指す経済発展のための教育に余りにも多くの力を注いできてしまったのではないかと思います。そのことの総括をしないまま、今回の教育改革で習熟度別グループとか飛び級だとかの導入、このようなことで、国のための人づくりのみに力を入れるとしたら、ある意味では、丁寧に教えてもらって習熟度別でよくわかっていく子がエリートとして育ち、一方で、いじめや不登校の問題がなかなか解決されないで、もしかしたら、元気をなくして学びからの逃走、例えば高校中退のようなこととか、不登校もそう言っています、職業からの逃走なんかもそういう言葉で言っている方がいますが、二十一世紀、こういうことが本当に子供たちが輝ける方向かということを大変心配しているということだけお伝えをしておきます。

 子供たちが元気になって学校で一人一人が輝くという意味では、キーワードに子どもの権利条約があると私は思っています。大臣は、この子どもの権利条約をお読みになったでしょうか。なっているとしたら、どんなところが大事と思われているか、お聞きしたいと思います。

町村国務大臣 ちょっと前段の御指摘、戦後の日本の教育は、国家の大方針のもとに、平等と言いつつエリートと一般を何か仕分けして云々という御指摘がありまして、ちょっと全部よく理解できなかったのですが、戦後の教育は、むしろエリートを育ててこなかったところの問題の方が実ははるかに大きいという指摘が、世の中、一般的にはあるのではなかろうかと思いますが、それはさておいて、子どもの権利条約のお尋ねがございました。

 私も、文部科学大臣として当然、子どもの権利条約を読ませていただきましたし、もちろん、政府が批准をし、また国会でも承認を受けた話でございますから、それはそれで大変大切な条約だ、こう思っております。

山内(惠)委員 どこがというところは、時間がないのできょうはその辺にしたいと思いますが、この間、本会議でも申し上げましたが、子どもの権利条約は、保護としての対象でもなければ、教育をする対象として見るのでもなくて、子供は権利の主体であるということを、私たち教育に携わる者がもう一度意識を変えなければならない条約だということをお互いに押さえた上でなんですけれども、本会議場で申しましたように、子供たちは、人間として大切にされるということはと聞かれて、成績で差別されないことと答えているのが一つ。これは、私は習熟度別を進めることとは反対の観点だと思いますし、自分の言い分を聞いてほしいと言っているという意味では、一クラスが四十人というのは多過ぎると考えています。

 最後のところにいきます。テレビで「プロジェクトX」という番組がありますが、薬師寺の改修に当たった四十人のさまざまな個性のある大工に、宮大工の棟梁が言うのです。木にも癖があるのだ、「木癖組みは人組みなり、人組みは人の癖組みなり」とおっしゃっていたのです。これを解説すると、北側に育った木には節があり、こぶがあってかんなもかけにくい、しかし、これはひび割れには大変強い、しかも一番我慢強いのだ、だから、組み合わせのときに工夫して位置づけてやらなければならないといった言葉を聞いて、この四十人の大工が尊敬をして、ともに頑張って薬師寺の改修をしたというお話でした。

 私は、教育もそうだと思っています。等質のメンバーを集めてグループで学習するのではなくて、学力も個性も親の収入もみんな違う子供たちの集まりの中でこそ子供が育つと私は思っていますから、先ほどのところ、ちょっと私のとらえ方を直していただきたいなと思うのです。学校という、個性もいろいろ違う子供たちの集まりの中でこそ子供は育つと私は思っています。特に義務教育ではそうあるべきだと思っています。

 時間がありませんので、最後に、習熟度別グループによる少人数指導の導入には私は反対であります。各市町村でこの選択をどうなさるかということもありますけれども、私は、大変危険な考え方であるということを強く主張して、きょうの質問を終わらせていただきます。

高市委員長 中西績介君。

中西委員 時間がわずか三十分しかございませんので、急ぎながらお聞きしますので十分でない面があるかと思いますけれども、お許しをいただきたいと存じます。

 きょうの論議、そして先般の論議を聞いておりますと、中心的なものは、やはり四十人学級と三十人学級、この単位をめぐる一つの大きな問題があるような気がします。それを一口で言いますと、両案のこの違いは、子供を中心にする教育をどうつくり上げていくかということと、金がない、あるいは諸条件、そうしたものから非常に困難だということが優先する余りに、この三十人以下学級というものを否定しなくてはならぬというような論議が行われておるような気がしてなりません。

 そこで、具体的にお聞きをしますけれども、教職員配置研究協力者会議の報告などにおきましても、いろいろございますけれども、簡単に申し上げますならば、現行の上限四十人が妥当であるとされています。小学校教師の経験もあり、しかも三十人以下学級の経験を持っておられるとお聞きしております山内委員に、この点について、どのように経験なさったのか、そして、その三十人以下学級を受け持った場合と四十人学級を受け持った場合の違いがあれば、お答えいただきたいと思います。

山内(惠)議員 立場を変えまして、中西議員に、先輩にお答えをさせていただきます。

 今回の教職員配置研究協力者会議のメンバーのことをちょっと私は見たのです。十六人メンバーがいるのですけれども、まずここで、女性が三人である。本当は、教え子たちは半数が女性ですから、ここのところも半数は女性が欲しかった。

 もう一つ、よく見ますと、高校の校長がいて、中学校の校長がいて、あと大学の先生その他となっているんですけれども、小学校の校長先生がいらっしゃらない。それから、現場の先生がいらっしゃらないということでいえば、もしここに現場の先生がいらしたら、きっと四十人が妥当だなどというお答えをしなかったのではないかなと私は思います。

 私は、実は実際に、四年生が四十一人になるということがわかったその年、二クラスに分けましたので、二十一人の学級の担任をしたことがあります。前年まで四十人のクラスを担任していましたので、二十一人の学級担任をして一番驚いたのは、一人一人がよく見えたことです。四十人のときのことを思い出すとマスとして見えたなというのを、このとき本当に強く思いました。

 テストをしても、どの子がどこでつまずいたかがすぐわかりますし、すぐ対応できました。それだけではありません。この子が朝食をとってこなかったことまで会話の中ですぐわかりました。ある日は、親と口げんかをしてきたこと、また、その子が父親っ子だったのに、親の離婚で母親と暮らしていて父と会いたがっていることなど、本当に小さなことまで私と会話が進みました。

 そのときわかったことの一つは、子供は悩みをすぐ解決できなくても、担任にそのことを聞いてもらえただけで表情がこの日から明るくなったという経験を持っています。一人一人を大切にするということでいえば、やはりクラスの人数が少ないということがとても重要だということを体験しましたので、そのことを報告しておきます。

中西委員 次に、近来特に、小学校あるいは中学校、高等学校の校長は、リーダーシップということを求められております。私の知るところでは、小学校長会調査、現場教師がいろいろ経験をし、そして校長になった、そういう人たちが調査をした結果が出ておるようでありますけれども、この点、どのようになっておるか、お答えいただきたいと思います。

山元議員 各学校の校長さんというのは、やはり一番子供に近いところにいる。そして、自分の教員生活の最後のところを校長と考えると、やはり何としてもいい学校をつくりたい、こういうことを一生懸命になって考えている、一番子供の近くの教育者だというふうに思いますけれども、その小学校長会、全国連合小学校長会というのですが、調査を詳しくしていらっしゃいます。

 学校を管理する立場からということでアンケートをとっていらっしゃるのですが、最近の率でいいますと、三十人が望ましいというのが四五・九%、二十五人以下が望ましいというのが二九・七%です。合わせると七五%、およそ四分の三の校長さんは、やはり三十人、二十五人だと。二十人以下というのもありまして、足すと八三%近い。四十人学級というのは、ちなみに言いますと一・二%しかないわけです。

 ですから、そういう圧倒的多数の校長先生、今申し上げましたように、現場の近くで一生懸命になって、いい学校づくりをしよう、地域に責任を持とう、持たなきゃならぬと考えている校長さんの実感が出ているのだろうというふうに思います。

 その理由というのを三つほど自由記述みたいな形でアンケートをとっていらっしゃるわけですけれども、少人数学級のよさというのは、一番目に、一人一人の児童の能力、特性に応じてきめ細かな指導ができる。先ほど来も申し上げてきましたように、四十人は、さまざまな生活様式なりあるいは体験を持っている子、能力を持っている子をしっかりと指導しようと思うととてもだめだということで、少人数学級がいいと。

 それから二番目は、お互いにかかわり合いながら、自己を高め、生活態度が落ちつき問題行動が少なくなっていく。子供たちがわあっといるのではなしに、できるだけ少ない人数の中で、お互いに相手を見て、自分を見せて、こういうふうな交わりをしていく中で、落ちつきが出てきて問題行動がなくなる、これが二番目の理由になっています。

 その次が、基礎、基本の力の定着がよくて、学習効果が上がる。

 校長会の結論は、具体的な解決策が急がれる、こういうのがこの校長会の実感として出ています。

中西委員 そこで、この研究協力者会議の報告書をずっと見ますと、特定教科の中できめ細かな指導を行って、一人一人の児童生徒の個性をはぐくんでいく上で効果的ということになっていますね。ところが、中学、高校では、小学校もそうなのですけれども、学級規模と学習効果の相関について、報告の中を見ますと、定説的な見解が出せないことを根拠にいたしまして、上限四十人が妥当なんだという結論的なものを出しておるようであります。

 そうなってまいりますと、先ほどからお聞きしております少数でやるということの効果。中学、高等学校の場合は、すべて教科ごとにやるわけですから、それだけの接触をする。そうすると、今言われておる多人数という、この協力者会議の皆さんが言っておるのは何かというと、生徒の交流ということだけを言っておるような感じがします。

 そして、さらにまだありますけれども、時間がございませんので、いろいろ言われておることを全部総括的に見ますと、私からしますと、これは非常に矛盾のある中身でしかない、この四十人という根拠を出すに当たっては。この点、どのようにお考えなのか、提案者の方にお答えいただきたいと思います。

山元議員 これは私も大変問題にしておりまして、先ほど大臣の方にもお尋ねをしていたのですけれども、四十人がいいか、三十人がいいか、二十五人がいいか。例えば、物の実験をするときでしたら、きちっと比較ができるような材料、メニューをそろえて実験をやってみるということ、これはできます。けれども、学校の、同じ三十五人の学級が三つあっても、さまざまな要素が違うわけです。その学校のある地域の条件だとか、あるいは親の条件だとか、さまざまな条件があって、それで四十がいいか、三十がいいか、三十五がいいかということの実験は、とても至難のわざです。

 けれども、実際に教育に携わっている現場の先生方や、あるいは校長先生や、あるいは、先ほど私が例を挙げましたけれども、市町村の教育委員会の皆さん、地域の教育に責任を持とうと思っている方々の圧倒的多数、九十何%は、やはり四十人学級では無理なんです、こう言っているわけです。

 ですから、この協力者会議が、定説的な見解は見出せない、だから四十人だという結論、結論が見出せないことは、先ほど言いましたように実験がやりにくいということはわかっていますけれども、だから四十人でいいという結論を出してこられて、これがあたかも正論かのように、あるいは正解答かのような施策が行われることについては、大変な危険を感じますし、私は、文部科学省もこのことについてはしっかりと理解をしていただきたいというふうに思っております。

中西委員 私もかつて高校の教師を二十年やったのですけれども、その中で一番感じましたのは、この前もちょっと説明をしたことがございますけれども、多人数の場合に、一つの生活集団である学級というものを考えてみた場合に、先ほどからいろいろ言われているように、多人数の教師に接触をする、あるいは生徒が交流をするということだけで判断をしたのでは誤りだと私は思います。

 それだけではありません。なぜかというと、いわゆる生活集団ですから、今度はその子たち、あるいは生徒たちを、どういうふうにこれから将来我々が指導し、あるいはいろいろな意見、そういうものを十分聞いた上でやっていくかということになっていきますと、ただ単に教師と児童生徒の関係だけでなしに、風土の関係もありますね。そうなってくると、地域社会全体の中に配置されている高等学校なんかの場合、今度は広い範囲の中でやるようになってきますと、それを三十人以下、二十人あるいは二十五人と四十人ということを比較してみた場合に果たしてできるかということを知った人はこの協力者会議の中に何人おっただろうか。私は、それを非常に感じますね。

 とにかく学校には旅費がないから、自弁で行くんですよ、本当に一生懸命やっている人たちはみんな。校長はもういつもいつも県に行って、学校に来るのは校長のための旅費じゃありませんから、全体の教員に対する旅費をそこが一方的に使っているから、なおないのですよ。こういうことを本当に知った上でこういうことを結論づけてやっておるだろうか。

 そして、この前もお聞きしましたように、ただ授業時数だけではない。しかも、授業時数だけで四十時間ということを規制していきますならばどうなるかということですね。もうそれで大方なくなっちゃうじゃないですか。ですから、そういうほかにいろいろ、生徒指導、生活指導から全部が含まれておるわけですから、こういうものを消化していく場合には我々がどれだけの努力をしなくちゃならぬかという、このことを一切抜きにしてのこれは考え方ですよ、私に言わせると。

 そこにいらっしゃる、例えば政府関係の皆さんで、現場の実態、そういう学校での経験をなさった方はいらっしゃいますか。いないと思うのです。鉛筆なめなめ、数が合うとか、そういうものじゃないのですよ。このことだけはひとつ十分知った上で論議しておかないと、私は大変な誤りを犯すのではないだろうかと思っています。

 そこで聞きます。もう一つは、地方分権、地方分権ということをよく言いますけれども、地方分権が本当になされておるかどうかということが問題なんですね。いろいろな仕事的な権限というものは与えられたとしても、それに付随をする財政がどうなったかということ等を考えていったときに、本当に今の状況でこういうことができるかどうかということを考えていかなくちゃならぬと思うのです。

 その点について、地方分権推進をする立場から、地方自治体における教育行政の弾力的な運用を進めるということになっていますけれども、その条件整備が本当になされておるかどうか、この点をお答えいただきたいと思うのです。

石井(郁)議員 お答えいたします。

 地方分権の推進は、その裏づけとなる財政的措置が保障されていなければ実効性が担保されないというのは、当然なことでございます。現下の財政状況のもとで、政府提出法案のように、三十人学級をやりたければ財源を全部負担しなさい、こういうやり方では、地方の財政状況によるアンバランスを生み出して、教育の機会の均等を困難にすることは明らかだと思います。その意味からも、野党三党案は、すべての自治体でやはり三十人学級に踏み出すということにしたわけでございます。

 もう中西先生十分に御存じで釈迦に説法でございますけれども、民主、社民、自由、共産の四党の共同提案で、十三年度の政府予算に対する抑制総額九千三百億円の組み替え要求を行ったところでございまして、そこで示したように、むだな公共事業の削減、ODA予算の見直し、従来型の硬直した政府予算を大胆に見直すということで、地方分権型教育の実現に向けた経費の捻出は十分に可能だというふうに考えているところでございます。

中西委員 これはまた後で政府の方にも聞きますけれども、いずれにしましても、こうした点がどうなっておるかということについては余り触れていないのですね。

 それから次に、もう一つ、第六次高等学校の定数改善計画は、内閣提出法案では五年間で七千八百人が見込まれています。自然減で二万人あるわけでありますから、その約三分の一なんです。これは、義務教育の改善が自然減を満たすのと比べ、相当な開きがあるわけでありますけれども、野党三党案はどうなっておるでしょうか。

山元議員 この委員会での論議がどうしても、例えば資料として小学校長会だとかいろいろ出ていましたように、義務教育の標準定数法の論議に少し偏っていたというふうに反省をしていますけれども、高等学校の置かれている状況というのも同じことでございます。

 今、諸外国から比べて極めておくれているわけです。今、中西議員は政府案が七千八百人とおっしゃいましたけれども、私の資料では、政府案は七千八人です。私どもは十年間で七万五千人、政府案は五年間で七千八人。それにしても数倍の違いがあるわけです。

 この三十人学級にしても、例えばイギリスは現在二十二人、フランスが二十五・一人、ドイツは二十四・六人です。日本の場合でいうと、実態は三十七・一人というふうに出ていますから、三十七人の日本に比べて、フランスが二十五とかドイツが二十四とかいうことについては、やはり相当な日本のおくれがあります。ですから、七千八人というような改善案では、とても日本の高校教育がよくなるというふうには考えられない。

 やはり高校も同じように、教師と子供が、子供同士が心が通うような教育の場をつくっていかなければいけないというふうに考えております。

中西委員 私、ちょっと読み違えまして、七千八百人でなしに七千八人でありますので、訂正させていただきます。

 そこで、文部科学省の方にお聞きをいたしますけれども、短時間ですから、これはもう一時間ぐらいずっとやって皆さんにお聞きをすると、また参考になさるところもたくさんあったかと思うのですけれども、わずか十五分しか論議できなかったということ、大変残念です。

 この定数改善計画策定に向けまして、ゆとりある行き届いた教育ということになりますと、学級規模のあり方は不可分であります。したがって、国が定める学級編制の標準、先ほどから申し上げるようないろいろな理由を挙げています。さらにまた、大臣の答弁の中におきましてはいろいろ、これはもう一時間でも二時間でも論議しなければならぬような点がたくさんここには含まれておったのですけれども、学級閉鎖の問題、悪平等、画一化の問題、そして、限りなく少数にすることをすべての人が求めておるなどという暴論ですね。

 こういうようなことを考えますと、いろいろございますけれども、上限を四十人が妥当であると答弁をしておるわけでありまして、これは、私は矛盾に満ちておると思うのですよ。一つの例だけを挙げますと、四十人学級を考えた場合に、現在、公立小学校の場合だけをとってみましても、三十人以下の単式学級の数は十一万三千百三十三、単式学級数の四六%を占めています。このようなことから考えますと、全国の小学校の学級数の五割近い学級が社会性を育成する生活集団としては適正な規模でないということに、さっきからの論議を聞いておりますと、なりはしないか。

 これは一つの例であります。ほかにもたくさんありますよ。しかし、一つの例としてそのように、これから後三十人学級を目指し、さらにそれを縮小していくという、こうした将来展望というものを全く否定するような論議が今までなされてきたような気がするのですけれども、この点について、どうお考えですか。

河村副大臣 今、全く否定をするということは、この線が妥当であるということはありますが、それでは三十人学級でやったら効果がないということは、私は、文部科学省は一言も言っていないと思うのです。

 というのは、少人数学級で今回の定数是正の中でいきましょうということは、やはりその効果も認めて、そして多様な教育はそれでできるということから少人数学級を導入しているわけでありますから、三十人学級をすべて否定したというふうには私は思ったことはないのですが。

中西委員 いや、直接否定はしていないにしても、今までの、例えば先ほどから申し上げますように、こういう結論を導き出したのは、研究協力者会議の報告の部分を取り入れたのじゃないかと私は思うものですから。例えば「学級編制基準の弾力化」というところの(2)のところにありますように、「学級には一定の規模が必要である」とか、それから、さらにその後の方に「きめ細かな指導を行い、一人一人の児童生徒の個性を育んでいく上でも効果的であること」、それには「学習集団による指導を進める」、ここですね「多様な学習集団」。さらにまた、その次にありますのは「教員の指導力や、児童生徒の素質や生活環境、学校運営の円滑度等の違いにより、客観的、実証的な比較が困難なこともあって、学習効果の上での適正規模等に関する定説的な見解が見いだせないこと」ということになって、この四番目などということは、これはもう将来永久にできぬということを意味しますよ。

 ですから、それを根拠にしてあなたたちが三十人学級に踏み切れずに四十人学級を基礎にしてやるという、このことがむしろ、今私が指摘をしますように、それを強調する余りに今やっておることすら否定をしなきゃならぬというようなことだってあるのじゃないですか、こう言っているのですよ。だから、何も私は無理なことを言っておるわけじゃないのですね。その点でどうお考えなのか。

 ですから、いや、そうじゃない、将来は三十人あるいは二十五人学級だって目指しているのですということをはっきりここで言って、今金がないからどうなんだとか、こういうふうに言ってもらえば、ある程度、では年限をどうするかというような話だとか、いろいろなことになってくるのじゃないですか。政治というのは大体そういうものじゃないかと思うのですけれども、あなたたちのは、あっちでもない、こっちでもないと言って、こう薬を張り続けてやるようなやり方をするからわからなくなるのです。

 だから、もうちょっと大胆に、教育改革国会ですから、ぜひそういう視点を持っていただいて、本当に大事と言うのならば、そういうことを将来展望を付してぴしっと出していかないと、これはただ単にこう薬張りにすぎない、私はこう言わざるを得ぬから言っておるのですよ。

町村国務大臣 今回の計画の中で、私どもは、教科等に応じた少人数指導は、複数の教員による多面的できめ細やかな指導や評価が可能となり、個に応じた指導を効果的に実現するものであり、一律に三十人学級を実施するよりも適切だ、こう考えたということでございます。

 ただ、今回の改善計画の後の話、これはどうかということについては、実際に今回の計画を動かしてみて、その成果を、この五年の途中のある時点で状況を把握し調べてみて、さらに、やはりこれではまずいということになれば、それは三十人学級ということもまた議論になってくるかもしれません。私どもは今、とにかく現在のこの御提案している計画をまず動かさせてください、その上で、また次の時点でいろいろな点を多面的に考えていきたいということを申し上げているのであって、もう三十人学級を未来永劫やりませんとか、そんなめちゃくちゃなことを言っているつもりはございません。

中西委員 それだったら、この四番目ですよ、(2)の4あたりのようなことを麗々しく掲げて書くというところに、これはもう未来永劫できぬということを意味していますよ、こういう書き方は。だから、それによって、「等を踏まえ、現在の状況では、現行どおりの上限四十人とすることが妥当である。」というふうに決めておるから、私は言うのです。ですから、本当にもうちょっと大臣主導あるいは政治主導の物が言えないかということを非常に残念に思っています。

 ですから、この点は、今のこの四十人学級、今度出されておる閣法については、本当に内容的には、将来の展望をむしろ阻害をするものにしかならぬ。あなたたちが強調する余り、そこにおる人はみんなそう思っている、あるいはこれを支持する人たちはみんなそう思うということになってしまうのですから。反対されても、二者択一でやるとそうなるでしょう。ですから、そうしたことがあってはならないと私は指摘をしておるのです。

 時間が参りましたので、もう一つだけお聞かせください。

 一つは、何と申しましても、先ほど申し上げましたように高校の定数改善が七千八人で見込まれておる、これは普通の小中学校に比べまして三分の一にしかならない、これがわかりません。

 それと、これは非常に大事なことですから、済みません、ちょっと時間があれするかもしれませんけれども、学校教育法三条について、「設置基準に従い」と、ずっとありますけれども、これをやっていると時間がありませんので、この点はもう先に要旨を提出してありますので、お答えください。

 高等学校の設置基準で学級定員四十人以下となっているが、例外規定で五十人以下も許容されておる。したがって、私立学校と公立学校間の格差の是正は必要であり、小中学校の設置基準の法的整備について、大臣権限で策定をすることは私は必要じゃないかと思っています。そうしないと、永久にこれからも私立学校との格差はそのままずっといってしまうのですね。こうしたこと等が残されたのでは、私立学校に多く依拠するという現状の中では大変な問題を残しておるのじゃないかと私は思うのですけれども、この点についてお答えいただきたい。

町村国務大臣 まず、お尋ねの高等学校の方の定数改善計画の問題でございます。

 確かに、五年間で二万三千二百人の自然減、これに対して措置するのが七千八人ということでございますが、これはもう委員御承知のとおり、高等学校は一つのクラスで授業をするというより、科目によっていろいろ変わってくるわけであります。しかも、今回の学習指導要領の中では相当選択の科目をふやしております。非常に選択肢がふえて、私どもが高校に通っていたころは随分単純だったなと思うのですが、非常に選択肢が多い。ということは、常に何十人で一遍に授業をするケースがどんどん減ってまいります。

 したがいまして、ここのところは、教員一人に対して児童生徒がどのくらいかというあたりを見た方がやはりいいのではないのかなという意味で考えてみますと、高等学校は十七年度末には十三・五人ということで、小学校、中学校よりもまだ少ない。小学校が十七年度見込みで十八・六人、中学校十四・六人でございますから、高等学校十三・五人というのは、これはまた国際的に見ましても十分遜色のない水準ではないのかな、こう思っております。

 それから、私立の小中学校の学級編制につきまして、学校教育法施行規則の五十人以下を標準とするとの規定が適用されて、各都道府県の行う認可に際しては、この規定を考慮して、おおむねこの標準を下回る四十人を審査基準としております。一部の都道府県は四十五人というところもあるようでございますが、ほぼすべての都道府県が四十人でやっております。

 現在、小中学校の設置基準が未制定であるという実態は先生の御指摘のとおりでございますので、文部科学省といたしましては、二十一世紀教育新生プランの中でも、私立学校の設置に当たっての基準を明確化するため、小中学校の設置基準を平成十三年度中に策定するということにしておりまして、こうしたことで、関係者の意見も聞きながらしっかり取り組んでいきたい、こう思っております。

中西委員 終わります。

 ただ、一言だけ。先ほど私が指摘したようなことで、わかりにくい表現、ごまかすような表現を使ってもらいたくない。そして、やはり多くの皆さんがわかるように明快な表現をしてもらう。そうせぬと、こんな、引きずり回して最後はわからなかったというようなことになってしまうのですから、これでは困りますよ。それをまた参考にした皆さんの答弁は、私が受け取るのでは、三十人を否定するような形のものだけしか出てこぬ、こういう格好になっていますから、私は指摘をしたと思っています。

 ですから、これからこういう点を十分公開されて、みんなでこれでどうかというぐらいにやった方がいいと私は思いますので、ぜひお願いしたいと思います。

 以上であります。

高市委員長 これにて両案に対する質疑は終局いたしました。

    ―――――――――――――

高市委員長 この際、山元勉君外四名提出、公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案について、国会法第五十七条の三の規定により、内閣の意見を聴取いたします。町村文部科学大臣。

町村国務大臣 ただいまの山元勉君外四名提出の公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案につきましては、政府といたしましては反対でございます。

    ―――――――――――――

高市委員長 これより両案を一括して討論に入ります。

 討論の申し出がありますので、順次これを許します。鈴木恒夫君。

鈴木(恒)委員 私は、自由民主党、公明党及び保守党の三党を代表して、政府提出法案につきましては賛成、民主党・無所属クラブ、日本共産党、社会民主党・市民連合三党共同提出法案につきましては反対の討論をいたします。

 近年、児童生徒をめぐる教育環境はますます複雑多様化し、個に応じたきめ細かな学習指導を通じて人格形成と基礎学力の向上を図ることがより一層必要となってきており、そのための指導体制の改善充実が強く求められております。また、地方分権の観点からも、地方の実情等に応じた多様な教育の展開が求められております。

 一方、現下の厳しい財政状況のもとでは、この点も考慮した政策を実施することが必要であり、今後の教職員定数や学級編制のあり方につきましても、これらの点を踏まえた上で、より効果的な施策を実施することが必要であります。

 以上のような点にかんがみますと、政府提出法案につきましては、児童生徒に対して基礎学力の向上ときめ細かな指導を進めるため、教科等に応じて少人数指導を行うことが可能となるような定数改善を行うとともに、学級編制について、地方分権推進等の観点から、児童生徒の実態を考慮して特に必要がある場合には、国の標準を下回る基準を都道府県の判断により設定することができることなどを内容とするものでありまして、学校教育の充実に資する時宜にかなった適切なものであると考えられるものであります。

 一方、三党共同提出法案につきましては、全国一律の三十人学級の実施や教職員の配置基準の大幅な改善をその主な内容とするものでありますが、学級規模と教育効果の関連については必ずしも明確ではないこと、また、三十人学級とした場合には十数人という規模の学級が多くなりますが、集団の中での人間関係の形成や切磋琢磨という面からはある程度の規模は必要であると考えられること、さらに、三十人学級の実施等のためには膨大な経費が必要であり、国及び地方公共団体の財政に重大な影響を及ぼすことが予想されるものであるなどの問題点があります。

 以上のことから、我々は、政府提出法案に基づきより有効適切な施策が実施されることを確信し、政府提出法案には賛成し、三党共同提出法案につきましては反対をするものであります。

 終わります。(拍手)

高市委員長 平野博文君。

平野委員 私は、民主党・無所属クラブを代表いたしまして、三会派共同提出の公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案に賛成、政府提出の法案に反対の立場から討論を行うものであります。

 政府提出法案に反対する主な理由は、政府案が、学級標準を四十人に据え置いたまま、部分的に少人数授業の導入を図ろうとしていることであります。

 委員会審議でも明らかになりましたように、学級標準を変更しないままでの小手先の改革では、生活指導、生徒指導が今まで以上に手薄になることや、児童生徒と教師が触れ合う時間がますます少なくなることは明白であります。生活指導の充実と学力向上をバランスよく実現させていくためには、学級規模自体の縮小が不可欠であり、三党共同案で言うように、学級標準を三十人に引き下げることからまず着手すべきであります。

 政府案に反対するもう一つの大きな理由は、いかに財政負担を伴わずに教育改革を実現させるかという政府案全体に貫かれた考え方であります。

 特に、学級標準を見直すことなく、非常勤講師を教職員定数を取り崩して活用するという政府案の発想は、まさに教職員を安上がりにふやそうとするものであり、教育哲学の貧困を指摘せざるを得ません。非常勤講師を用いるのであれば、三党共同案にあるように、定数の枠外で多様な人材を活用すべきであります。

 教育は、未来への先行投資であります。現在を未来へつなぐ営みであり、未来への希望と期待の具体化であります。欧米諸国でも、多様な子供に行き届いた教育を行うために学級定員の削減が不可欠であるという認識のもと、学級定員削減の努力が重ねられております。政府案は、このような世界の趨勢にも背を向け、財政上の理由をもって四十人標準を据え置こうとするものであり、まさに当事者不在、本末転倒の法改正と断ぜざるを得ません。

 以上述べました理由から、私ども民主党・無所属クラブは、ここに改めて三党共同提案の法案に賛成、政府法案に反対することを表明するものであります。

 終わります。(拍手)

高市委員長 児玉健次君。

児玉委員 児玉健次です。

 私は、日本共産党を代表して、民主党・無所属クラブ、社会民主党・市民連合、日本共産党共同提案による学級編制及び教職員定数の標準に関する法律の一部改正案に賛成、政府提出案に反対する討論を行います。

 日本の教育が深刻な困難に直面している中で、すべての子供に基礎的な学力を保障することが広範な国民の根本的な教育要求であり、憲法、教育基本法が学校教育に求めているものです。そのことを保障するためには、三十人学級に進むことが不可欠であり、学級規模の縮小が、学習効果、子供の人格形成に積極的な役割を果たすことが国際的にも実証されているにもかかわらず、政府、文部科学省はこれを拒んでいます。これが政府案に反対する第一の理由です。

 第二の理由は、学校における生活集団と学習集団を分離して、子供たちに一層の競争を強いることにつながる習熟度別授業を政府案が進めようとしていることです。習熟度別授業が、国連子どもの権利委員会の最終所見、一九九八年の最終所見で懸念された、日本の子供たちの極度に競争的な教育制度によるストレスを増強する危険性があることを、私は指摘せざるを得ません。

 反対する第三の理由は、教職員定数を取り崩して、非常勤講師に置きかえる道を開いていることです。これは、学校に新たな混乱をもたらすものです。

 政府案には、養護教諭の複数配置を改善する等の前進面もありますが、以上述べたように、全体として、教育に対する国民の願いに背を向ける内容となっています。

 三党案は、すべての子供に基礎的な学力を保障するために、当面三十人学級を実現することを中心的な内容としており、三党共同提案の実現こそ、国民が切望する学校教育の民主的改革に一歩を踏み出すものであることを私は確信します。

 以上で討論を終わります。(拍手)

高市委員長 中西績介君。

中西委員 公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案、山元勉君外四名提出に賛成、内閣提出法案に対して反対をする立場から、討論を申し上げたいと思います。

 私は、個々の論議の過程の中で明らかになりましたように、隠されておる問題は、財政的な問題がどうしても明確になっておらないということであります。できない理由が財政的問題にあるといたしますならば、この点をどのようにこれから推進をするかということになりますけれども、特に来年度予算に関しまして、果たしてこのことが実現できないかどうかということを十分検討し直す必要があったのではないかと思っています。

 三党案の中身を見てみましても、小中学校で十九万二千百四十七人、それに要する費用といたしましては一兆五千九百四十八億円です。そして、十年ですから、年額に直しますと千五百九十五億円です。国の負担は、七百九十七億円。高等学校で申し上げますならば、七千三十一億。そして、年度で申し上げますならば、七百三億という金額になるわけであります。

 果たして、この財政的なものが解決できないだろうかということを考えてみましたときに、三党提出の案にもございましたように、公共事業予備費三千億、これ一つをとってみても、このことは一挙に前へ進んでいくと私は思っています。

 そして、一年をかけて、本格的にこれらの問題について、先ほどからのごまかしの答弁でなしに、開かれた論議をやった中で、こういうような重要な、教育は百年の大計などという言葉だけは走っておりますし、今国会は教育国会、このように銘打っておりますけれども、それが果たして具現化され、そして保障されておるかどうかということになってまいりますと、全くないと言っても過言ではありません。

 したがって、すべての児童生徒に対して、子供を中心とする教育をどう再構築していくかということから考えましても、三党提案の法律に対しまして賛成し、政府案に反対をいたします。

 終わります。(拍手)

高市委員長 これにて討論は終局いたしました。

    ―――――――――――――

高市委員長 これより採決に入ります。

 まず、山元勉君外四名提出、公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案について採決いたします。

 本案に賛成の諸君の起立を求めます。

    〔賛成者起立〕

高市委員長 起立少数。よって、本案は否決すべきものと決しました。

 次に、内閣提出、公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案について採決いたします。

 本案に賛成の諸君の起立を求めます。

    〔賛成者起立〕

高市委員長 起立多数。よって、本案は原案のとおり可決すべきものと決しました。

 お諮りいたします。

 ただいま議決いたしました両法律案に関する委員会報告書の作成につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

高市委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

    〔報告書は附録に掲載〕

    ―――――――――――――

高市委員長 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時五十五分散会




このページのトップに戻る
衆議院
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-7-1
電話(代表)03-3581-5111
案内図

Copyright © Shugiin All Rights Reserved.