衆議院

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第1号 平成14年2月14日(木曜日)

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本小委員会は平成十四年二月七日(木曜日)憲法調査会において、設置することに決した。
二月七日
 本小委員は会長の指名で、次のとおり選任された。
      金子 一義君    近藤 基彦君
      中山 成彬君    中山 正暉君
      長勢 甚遠君    葉梨 信行君
      茂木 敏充君    大出  彰君
      小林 憲司君    今野  東君
      島   聡君    太田 昭宏君
      武山百合子君    春名 直章君
      金子 哲夫君    井上 喜一君
二月七日
 島聡君が会長の指名で、小委員長に選任された。
平成十四年二月十四日(木曜日)
    午前九時一分開議
 出席小委員
   小委員長 島   聡君
      金子 一義君    近藤 基彦君
      長勢 甚遠君    葉梨 信行君
      松島みどり君    茂木 敏充君
      大出  彰君    小林 憲司君
      今野  東君    太田 昭宏君
      武山百合子君    春名 直章君
      金子 哲夫君    井上 喜一君
    …………………………………
   憲法調査会会長      中山 太郎君
   憲法調査会会長代理    中野 寛成君
   参考人
   (成城大学法学部教授)  棟居 快行君
   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
    ―――――――――――――
二月八日
 小委員中山正暉君同日小委員辞任につき、その補欠として松島みどり君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 基本的人権の保障に関する件


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     ――――◇―――――
島小委員長 これより会議を開きます。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 先般、小委員長に選任されました島聡でございます。
 小委員の皆様の御協力をいただきまして、公正円満な運営に努めてまいりたいと存じますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。
 憲法調査会も、いよいよきょうから小委員会ごとの議論になりました。基本的人権の保障に関する調査小委員会として、本当に、皆様方の活発な御議論、そして公正円満な運営で、すばらしい論憲をしていきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げたいと思います。
 基本的人権の保障に関する件について調査を進めます。
 本日、参考人として成城大学法学部教授棟居快行君に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわりませず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることになっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、棟居参考人、お願いいたします。
棟居参考人 本日は、「新時代の人権保障」、こう題打ちましたメモを先生方のお手元にお届けしております。これに基づきまして、四十分ということでお話しさせていただきたいと思います。
 この「新時代の人権保障」という大変漠然としたテーマをつけたわけですが、その理由は、一つには、人権について、この調査会で具体的には今回からお始めになると伺っておるというのが一点でございます。それからいま一つには、日本国憲法それ自体の人権保障、これが新時代の人権保障としてそぐわないのかどうかについては、これは日本国憲法をどう解釈運用していくかにかなりの程度依存しております。
 したがいまして、短絡的に日本国憲法の人権保障規定が新時代にそぐわないといったようなことを申すわけではなく、その逆に、日本国憲法で十分新時代に対応できるというわけのものでもございません。これは、すべて日本国憲法の解釈運用に係ってくることでありますし、また、解釈運用に一定の限界が見えたときには、日本国憲法それ自体の再検討も、これは検討の対象になってこようかと思います。
 以上のような意味におきまして、「新時代の人権保障」、こういう大変漠然としたテーマを打たせていただきました。
 まず、一でございます。
 「日本国憲法(解釈運用)」としておりますが、これは、日本国憲法を解釈運用から見た場合の日本国憲法、こういう意味でございます。解釈運用というのは、もちろんさまざまな角度からなされ、立場によってさまざまでございます。しかしながら、以下解釈運用と申します場合には、基本的には判例あるいは学界の通説、こういうものを基準にいたしておりまして、有権解釈機関である政府あるいは国会がどのような日本国憲法の解釈運用をなされてきたかについては、これは私ども解釈学者の悪い癖かもしれませんが、余り念頭に置いておらないということをあらかじめ御承知おきいただきたいと思います。
 それで、この一でございますが、日本国憲法の人権保障の一般的特徴として、以下差し当たり1、2、3、こういう三つの特徴を挙げてみたわけでございます。
 その第一は、言うまでもありませんが、日本国憲法は極めてすぐれて西欧的・古典的なリベラリズム、自由主義の伝統の上に立っているということであります。西欧的・古典的な自由主義というものですが、この古典的という言葉は、クラシック音楽がお好きな方であれば、そのクラシックと言うときの古典的という意味が対応するかと思います。十九世紀のヨーロッパにおきまして、リベラルな、経済的な自由主義あるいは精神的自由、それに基づく民主主義、これが次第に成長していったということを指して古典的自由主義と呼んでいるわけであります。
 言い方を変えますと、もはや前世紀になりましたが、二十世紀に入りまして、社会権といった生存権などの規定が憲法に導入され、国家の役割が大幅に変更される。それより以前の、国家が国民の自由を放任しておく、これがよいことであるという古典的な自由主義、この伝統の上に日本国憲法は非常に忠実に、まず第一として立っておると言えます。
 ただ、今申し上げました二十世紀的な社会権、生存権を初めとして、教育を受ける権利あるいは労働基本権などといったものが日本国憲法にございますが、この二十世紀的な社会権規定、これもまた、今挙げました条文に見られるように、日本国憲法はその点でも世界をリードするような手厚い規定を置いておるわけであります。
 したがいまして、一方におきましては、古典的な自由主義の伝統を守りながら、他方で、二十世紀に新たに要請されておるところの、弱者を保護する、こういう社会権という理念をしっかり書き込んでいる。つまり、自由主義、そして社会権、弱者保護という考え、この二つの接合といいますか、両者を併存させておるところに日本国憲法の第一の特徴があろう、こう思うわけです。
 両者を併存させておると申したわけですが、これは後でもう少し取り上げさせていただきますが、実際には、古典的な、自由放任主義といった意味での自由主義と、現代的なといいますか、二十世紀的な、弱者を保護する、そのために国家がどんどん経済にも介入していく、こういうものと連動します社会権という考えは、そう簡単には、のりでくっつけるようなわけにはいかないわけです。大いなる矛盾が、古典的な自由主義と二十世紀的な社会権、あるいは社会国家という言葉も我々使いますが、こういった社会権を標榜する、弱者を保護する国家、この二つの国家像あるいは二つの人権群にはかなりの開きがある。
 日本国憲法はその二つを、二兎を追っておるわけです。最終的には一つの国家しかあり得ないわけであります。一つの人権像しかあり得ないわけです。したがいまして、古典的な自由と現代的な弱者保護や社会権、これは結局のところ矛盾を抱えたまま日本国憲法の上では並び立っておる。その矛盾というのは、政治の場、現実の先生方の法制定の場で日々顔を出しておるということであろうかと思います。
 その点はさておきまして、まず、この1という日本国憲法の人権保障の第一の特徴について、今雑駁な紹介をさせていただきました。
 続きまして、第二の特徴といたしまして、経済的自由というものにスポットを当ててみることにいたします。
 経済的自由につきまして、これはつい今し方、古典的自由主義ということを申しました。つまり、自由放任主義、こういう観点からすれば、経済的自由について、これはまさにレッセフェールといいますか、国家は自由放任する、国民の自発的な総意に任せる、そして自由競争である。これは、裏を返せば弱肉強食であるという、よくも悪くも経済的自由が花を開いておるはずなわけであります。
 ところが、憲法の解釈運用、こういう面に目を向けますと、この場合の解釈運用というのは、判例や学説という先ほど申しましたような狭い意味もございますが、より広く法律あるいは政府見解等でどのようにみなされてきたかといったものもここで含むことにいたしますけれども、このような日本社会の中で、経済的自由が戦後五十年実際どのように生かされてきたか、あるいは場合によっては生かされてこなかったかという面にスポットを当てますと、日本国憲法、その解釈運用の大いなる特徴、この第二点が見えてくるわけであります。
 これも今さら言うまでもないことなんですが、我が国に非常に特徴的なお上依存意識、あるいは官の側から民を絶えず主導していく、こういう行政主導といったものが現実に存在し、今それを小さな政府に持っていくということで先生方頑張っておられると思うんですが、このような現実を理論的に支える最高裁の判例と、そして支えというか、これは我々の側での説明ということになりますが、学界の通説というものが存在をしてきたわけであります。霞が関の主導する行政、つまり官僚統制的な経済というもの、これに対して、実は戦後五十年間、五十年といっても最初からというわけじゃないですが、判例、そして学説は極めて好意的であったということであります。
 したがいまして、実際の日本国憲法における経済的自由というものは、本来の古典的な自由主義の軸足からかなり離れている、そちらから軸足を別の方に移してしまっているということが言えます。
 どこへ移したかといいますと、最初に述べました日本国憲法の二つの側面のうちの第二の方、つまり、弱者を保護する、社会権の方に軸足を移したわけであります。つまり、経済的自由というものが本来は弱肉強食といった負の面をもたらし得るとすれば、それをあらかじめ、しかもかなり過剰に回避をしようとしまして、およそそのような痛みが出ないような行政主導的な経済運営を行っていく。そして、それを判例、学説は、弱者を保護するといった観点からの経済規制は日本国憲法も容認しているんだ、あるいは、むしろ国家の責務ととらえているんだ、このように高く持ち上げてきたわけです。
 したがいまして、解釈運用というフィルターを経た経済的自由は、実は古典的な経済的自由ではもはやなくなってしまっておりまして、かなり大胆な変容を遂げ、あるいはもっとシンプルに言えば、極めて縮小されたものとして、小さな自由でしかないものとしてとらえられてきているということです。
 さて、第三に、精神的自由という面についてはどうか。表現の自由を初めとする精神的自由でございますが、これについても、判例は余り精神的自由について好んで語りませんので、主に学説、場合によっては自分を省みるということになりますが、精神的自由という議論をするときに、学者側の表現の自由の話をするときに、最初に、あるいは授業の時間をほとんど使って何をしゃべるかといいますと、わいせつ文書頒布罪という刑法百七十五条の話がメーンテーマになっております。
 その事件が比較的多いということももちろんあるんですが、およそ表現の自由というものがいかなる表現についての自由かを問われることなく、およそ何事か自分の表現したいものを言うことである、このように概括的にとらえられてきたことが、今のような、わいせつ文書頒布罪が議論の中心になってくるといった、ある意味でおかしな結果につながっておると思います。
 すなわち、このメモに書きましたが、主権者国民として、言いかえるなら、公民としての自由という観点から精神的自由をとらえるという態度が学界においてはやや希薄だったかなという反省がございます。
 これは、言葉としてはわかりやすい反面、ややきついのかもしれませんが、前国家的な、つまり国家よりも前から、国家抜きで存在し得る、かつ何でもありだ、こういう恣意的な自由として精神的自由がとらえられてきた。前国家的な自由として表現の自由をとらえるというのはもちろん必要なことなんですが、他方では、まさに国家の中でいかに発言をしていくか、政治に参加をしていくかという公民の自由として精神的自由をとらえるという観点が、少なくとも戦後の日本国憲法の我々学界から見た解釈運用、つまり、我々自身の解釈を含むそれですが、そういったものにおいては希薄であったかな、このように思います。
 以上で、この第一の柱についてお話をさせていただきました。
 以下、順繰りでございます。
 第二の柱としまして、「古典的自由主義憲法としての「限界」」、こういうタイトルを打っております。この「限界」という言葉に括弧をつけております。これはある種のエクスキューズであります。つまり、日本国憲法は、およそ憲法典というのはかなりそういった特徴を持っておりますが、相当フレキシブルに読めるわけであります。
 法律というのは、法治主義のもとでは、あらかじめ、コンピューターのプログラムのように、誤解のないように一義的な性格を持っておるということが求められるということは一面ございます。しかしながら、他方では、ある時点でのさまざまな利益の考量、さまざまな必要性の取り込み、これをすべて完璧に行うということは不可能であります。常に現実には新しい事案が登場し、それに対していささか古いルールを当てはめてまともな答えを出していく必要があるわけです。
 そのような、実際に解釈運用の場で生かされるべき法典としては、憲法典も法典の一つでありますので、がちがちの一義的な明確さというものは期待できもしないし、またするべきでもないということになります。
 したがいまして、憲法自身がフレキシブルである、さまざまに解釈できるというのは当然のことでありまして、言いかえれば、新しい時代に対応して、日本国憲法も読みかえというものは当然にきくはずのものでございます。読みかえ、読みかえを重ねて、人権につきましても今日まで至ってまいりました。
 しかしながら、柱としましては、先ほど申しましたように、古典的な自由主義といった伝統にのっとっておるという一つの柱があります。そのような伝統に立脚した、伝統といっても、日本古来の伝統じゃなくて、西欧から受け継いだ、輸入した伝統ですけれども、輸入したとはいえ、こういう日本国憲法の柱になっております古典的自由主義というもの、これがやはり現代的なさまざまの人権事象に対応するベースとしては、限界というものは当然に見えてくるだろうということが言えるわけです。
 それはどのような限界なのかということについて、ここでは差し当たり1、2、3と三つを挙げておきました。
 今、ややごたごたと申しましたが、これはいずれも、憲法のかなり自由な解釈運用によってどうにかならないものではありません。しかしながら、本来の筋としての古典的なリベラリズムというか自由放任主義からすると、ちょっと苦しいかなという点を三つ挙げたわけでございます。
 その第一は、消極的自由ということです。
 消極的自由というと、何か目新しい言葉のようでありますが、ここでも薄い字で書いておりますように、国家からの自由ということでございます。
 この国家からの自由というのは、本来の自由権はすべてそういう性格を持っておるわけでございますが、国家による介入を排除するという意味であります。子供が親のいろいろな干渉から逃げたいという、子供が主張する自由、これは親からの自由ということでありまして、それと同じように、干渉を排除する自由として国家からの自由、すなわち消極的自由というものが古典的自由として日本国憲法の柱になっているわけです。
 しかしながら、現代におきましては、例えば、これは後でも述べますが、時間の関係でやや先取りをして申し上げますと、インターネットというものに自由にアクセスできるということが、個人の自由な人格の発展という観点から非常に重要になっているわけです。
 しかしながら、このようなインターネットへの自由なアクセスというのは、国家によるさまざまの政策的な営為を伴わないと、これは実際には不可能、あるいは相当に時間的に遅いことになる、あるいは、早くインターネットの利益を享受できる人となかなかそれを享受できない人の間の非常に大きな格差が生じてしまう。
 それは、単にスーパーが近くにあるか遠いか、新幹線の駅が近いか遠いかという問題よりも場合によってはもっと大きな、例えば自分が主権者の一人として世論の形成あるいは国政そのものに参加できるかできないかといった観点の格差さえ、インターネットを利用できるか否かによってそういった格差さえついてくるわけでありまして、インターネットという新しい人権を取り巻く現象一つを見ましても、単に国家が何もしないで自由放任しておればいいというこの消極的自由の観点では、実は国民一人一人の自由な個人の人格の展開というものさえできなくなっておる。それだけさまざまのいわば物理的な前提あるいは社会システム上の前提が、現代において個人が自由を行使するためには必要になっているわけです。
 つまり、ありていに言えば、物入りになっているんですね、今。いろいろな自由を行使しようというときに物入りになっておりまして、そこには、個人が自由放任で社会の自助努力でどうにかなる、あるいはどうにかするべきものと、そうではなくて、国家が手っ取り早く介入して整備をするべきものと二つあるのではないか。国家が手っ取り早く介入して整備をすべきものについては、古典的な消極的自由という観念はやや後ろ向きではないかというのが第一点でございます。
 続いて第二点ですが、これもテーマとしては大きいのですが、余り深く申し上げる時間がございません。非国際性ということでございます。
 非国際性というといかにも響きは悪い、また、国際協調主義というのは日本国憲法の柱ではないか、このように思われるでありましょう。これはもちろん当然の御指摘であります。しかしながら、ここでは私は人権保障に限定をした話をさせていただいておりますが、この人権保障という観点からしますと、あくまで国家対国民といった、国民の権利として人権が構成されている。憲法自身も、国民の権利義務、こういう国民という言い方をしています。
 実際の解釈運用では、いわゆる国籍を持っておる国民というものにとらわれずに、自然人であれば外国人でもといったように、どんどん拡張していくという解釈を少なくとも憲法学界ではやっておりますし、また、実際の社会保障も国籍の有無を問わず拡大適用されていくといった傾向もあると思いますが、本来の憲法のつくりとしましては、国家対国民という意味で、国民の外といいますか国家の外に人権保障の観点で目を向けたものではないということであります。
 さらに第三に、これも大きなテーマですが、私人間関係について、基本的には、この古典的な自由主義の憲法はおよそ目配りをしていないということでありまして、日本国憲法も基本的にはまたしかりということになります。
 これはどのようなことかと申しますと、あくまで憲法が保障している人権というのは国家対個人、そして、先ほど消極的自由というところで国家からの自由と申しましたが、このような消極的自由、あるいは国家からの自由というものは、比喩的に言えば垂直的な関係であります。
 国家権力というもの、これを上と言っていいのかどうかわかりませんが、国民に上位するものと考えますと、国民の水平的な横の関係、民民の横の関係ではなくて、官と民という縦の関係、比喩的に言えばその縦の関係こそが、従来の古典的な自由主義憲法のもとでの消極的自由という自由権が、あるいはその他の人権が保障し一定の規律をしてきたところのものなわけですね。
 つまり、個人と個人、あるいは社員と企業といった私人間につきましては、これは、先生方が立法でさまざまのルールづくりをされる、現になされておるわけであります。したがって、立法者は私人間関係に対して決して放置をしておるわけではない。しかしながら、憲法はどうなのかというと、憲法自身が私人間の問題に踏み込んで一定の人権上のルールをつくっているということは基本的にはないわけです。
 このように、古典的な自由主義憲法であるということから、よくも悪くも、今申し上げましたような、消極的自由である、非国際的である、私人間関係を放置しておる、こういう三つの特徴が、そして、言いかえれば限界があるということが指摘できると思います。
 以下、もう少しスピードアップさせていただきますが、この二ページ目の柱の三、「古典的自由主義憲法としての日本国憲法と、運用面でのズレ」ということでございます。
 先ほど来申し上げてきました日本国憲法の古典的な自由主義という本来の素性といいますか姿、これは、実際の日本社会あるいは国政の上で戦後五十年の間にかなりの程度変容されてきたわけでございます。
 この第一の点、経済的自由の点については既に先ほども申し上げましたが、ここでもう少しだけ詳しく述べさせていただくならば、「(現実)」と書いてあるところの真ん中より少し上に、積極規制という言葉を出しておりますが、これが霞が関的な官僚主導経済を側面からサポートしてきた判例の擁護であり、また学界も通説はそれをもろ手を挙げて支持してきたところのものでございます。
 この積極規制といいますのは、憲法が保障しております営業の自由といった職業選択の自由ですが、経済的自由に対して、最終的には弱者保護を目的としておるということが恐らく織り込まれておるはずですが、国家が経済政策、社会政策を展開するという場合には、個人ないし企業の経済的自由という憲法上の人権は大幅に制約をされてもそれは合憲なのだ、こういう考え方であります。
 今、大幅に制約されても合憲だと申しましたが、もう少し技術的に言いますと、裁判所が憲法違反だという判決を基本的には出さない、こういうお墨つきを昭和四十年代の判決が既に行っております。それで、それ以前から続いてきた官僚主導経済が、まさに判例のお墨つきを得まして、その後もずっと続いてきた、ごく最近まで続いてきたということであろうと思います。
 これは、日本国憲法の本来の自由主義という観点からすれば、一度も現実化しなかった。すぐに官僚主導経済というものの論理に置きかえられてしまったのであって、レッセフェールといいますか、個人が自由にベンチャーを起こす、そして自己責任で、しかしながら、チャンスは平等に分配されておって、自由に起業していく、そして日本の経済が活力を持つ、こういう本来の自由主義に込められた自己責任とか場合によっては痛みといったものが一度も現実化してこないという、ある意味では正反対の解釈運用が経済的自由についてはなされてきたということが言えようと思います。
 精神的自由についても、これは先ほど申し上げたことを少し詳しく述べておるだけなわけでございますが、真ん中より下の辺に書いておりますが、精神的自由の担い手は主権者国民という公民、これが中心だという精神的自由の本来の位置づけが、我々の側といいますか、学界の側では少なくとも薄かったように思います。
 最近の情報公開といった制度は、公民の自由、公民意識というものを育てる上で非常に貴重かというふうに私は思いますが、従来は、少なくとも精神的自由と民主主義との相互関係の意識は希薄だったかなという気がします。
 なお、これは本筋ではありませんが、個人情報保護法案につきまして、特に報道機関の位置づけ等につきましてさまざまな異論が世論の中にもあり、また学界でもいろいろな議論がございます。これは、ここでにわかにどうこう申し上げるような場でもありませんし時間もございませんが、プライバシーというものが、ある意味で表現の自由に対して何か異物であるかのように、敵対的なものであるかのようにとらえられているという、そういったプライバシー対表現の自由という二項対立的な物の見方がありまして、そこから個人情報保護法についてもなかなか厳しい評価が出てくるということになるのであろうと思います。
 しかし、私は、このプライバシーといったようなものが、まさに表現の自由あるいは公民が自由に政治参加をしていくというときの基礎をなすと考えますので、プライバシー対表現の自由という見方自体は精神的自由のとらえ方としてちょっとどうかなというふうに思っております。
 さて、四の日本国憲法あるいはその解釈の課題ということですが、これは今まで私が述べてきましたことを裏返してとらえていただければそれで答えは出たようなものでございます。
 まず第一に、積極的自由という理念が必要ではないか。
 先ほど、消極的自由という性格を古典的な自由主義憲法である日本国憲法は持っておる、こういうふうに申し上げました。消極的自由では、しかしながら、例えばインターネットのようにインフラを整備する、そこで国家がむしろ主導権を持つべきだ、こう言えるような新しい人権を取り巻く条件づくりについては消極的自由という古い理念では対応できない。としますと、積極的自由、つまり国家による自由、あるいは国家による自由の前提条件の整備という、レジュメで言うと三ページの上の方ですが、国家による自由という意味での積極的自由が、日本国憲法そのもの、あるいはその解釈運用のレベルで求められていくということであると思います。
 次に、二番目でございますが、消極的自由、国家からの自由という先ほど来述べてきました考え方は、国家が何もしなければ国家あるいは国民にとってベストであるということでありますから、何もしないのがベストである、つまり、介入をせずにじっとしておれ、せいぜい夜回りをして社会秩序、犯罪防止、これだけやっていなさい、これが古典的な自由主義の教えでありましたから、その根底にあるのは国家あるいは権力の性悪説であります。
 しかしながら、権力というものが悪であるという発想にただとらわれていますと、権力というものが持ち得る非常にスピーディーで抜本的な紛争解決能力、問題の解決能力、こういう得がたい、ほかにはない可能性というものをあらかじめ捨ててしまうことになるわけです。国家性悪説に立ちまして、ただ国民が自由に放任で起業しておれといって何もしなければ、まさにその起業さえも全くなされないといったことに恐らくなるわけでございまして、制度設計の合理性を担保していくことはまさに立法権を初めとする国家権力の人権に対する大いなる責務である、このように考えるべきであろうと思います。
 その場合に、これはちょっと細かくなりますし、また時間の関係もありますので省略をいたしますが、従来の裁判所による司法審査、現実の裁判所がそのようなことをやってきたわけでは必ずしもありませんが、学説がそうやるべきだと言ってきました考えは、とにかく人権の側のコストを必要最小限にしろという、比例原則といいますけれども、その考えばかりを強調してきました。
 しかしながら、別に必要最小限でなくていいというわけではないのですが、コストが小さければいいという考えではなくて、コストというのは、あくまで何を達成するかという目的とのバランスで決まる相対的なものでありますから、むしろ制度設計自体が合理的なのかどうかという、政策の目的の合理性、そちらに、司法あるいは立法についてさまざまなコメントをする学説の側も、制度設計そのものの合理性の方に目線を移すべきだろう、このように思います。
 続いて、3でございますが、古典的な自由権というもの、そして弱者を保護するための社会権、生存権というもの、これを余り両者の関係をはっきりさせずに、とにかく接着剤でつけたように二つを並べておる、これが日本国憲法の特徴であるということを冒頭来申してきました。
 そのような自由権もしくは社会権あるいはその両方といった、人権相互の峻別論というもの自体がいささかもう古臭くなっておるかなという感想を私は持っています。むしろ、自由権、社会権あるいは国政に参加をする参政権、こういった古典的な分類論自体を超えた複合的な現代的人権というものを考える必要がある。
 これを規定の上で明記すべきか、それとも解釈でどうにかするか、これはもちろんさまざまな評価があります。ただ、解釈でどこまで古典的な本来古いはずのものを現代的にいわば読みかえをしていくことができるかなどについては、現実に解釈をやってみるといろいろ無理も出てくる面もあるのではないかなと思うのですが、ともかく、今まず理念として、自由権と社会権と参政権といったような、全然別のものなんだ、それぞれ違うんだという、小さなグループに分けるといった理念を変えまして、むしろそれぞれすべての面をあわせ持った複合的な、個人の尊厳を支えるための一つの包括的、複合的な人権の理念が必要ではないか。
 その例としては、これはもう説明は要らないと思います、インターネットへの自由なアクセス権を考えていただければ、これは単なる自由権というだけではなくて、むしろ生存を確保する社会権の面あるいは国政に参加する参政権の面、すべて持っておるのですね。環境権、情報公開請求権、いずれもしかりです。
 このように、複合的な性格づけを持った人権というものを構想していく必要があろうと思います。
 さらに、第四でございますが、「人権の国際的保障と国内的保障の連携」、こういうことをここで申し上げておるわけです。
 これは、国際人権規約、既に批准済みであり、また裁判所も場合によっては国際人権規約を国内の事件で参照するといったことをやるようになってきておりますので、この国際人権規約、といっても、その中にA、B二つありますし、条文ごとにさまざま解釈に難しい問題がございますが、こういった国際人権規約に見られるような人権の国際的保障、つまり国際条約を通じて人権を保障していく、こういう開かれたといいますか国内向けにとどまらない人権保障が必要でありましょうし、また、このような人権の国際的な保障という観点をとれば、人権保障について一定の歩どまりといいますか、国際標準ができ上がってくるわけでありまして、日本だけの特有の人権論、人権保障をやらずに済むということになろうと思います。
 ただ、これを言っていますと、グローバル化の波の中で、従来よくも悪くも築かれてきました弱者を保護するために国家が積極的に介入するという、先ほど来述べてきました積極的自由とも少しつながるのですが、霞が関的な行政ということで今は悪い面ばかり着目されていますが、この弱者を保護するという日本の戦後五十年の伝統はどうするんだということになります。
 この弱者保護について、従来、解釈でそのような解釈をまかり通らせてきました。しかし、ここに来て、むしろ日本国憲法本来の姿としては、霞が関的な介入はよくないことであろう、こういう揺り戻しがあると思います、理論の上でも。
 しかし、そうやってぶらんこのように行ったり来たり議論をしておれば学者はいいのですが、実際に国民にとってあるいは国家そのものにとってどのような弱者保護がどこまで国家の責任でなされるべきかについては、これは憲法あるいは憲法解釈の上ではっきりした方がいい、このように思います。
 もう時間が尽きておりますが、最後に、私人間についてでございます。
 この民民という問題については、最近のボランティアといったものが非常に注目をされる時代におきましては、単なる民という中にボランティアといったセクターもございますので、私人間の問題が非常に重要になってきておる、このように理解をするわけです。
 時間も参りましたので、ここで切らせていただきます。どうも不十分で失礼しました。(拍手)
島小委員長 ありがとうございました。
 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
島小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。松島みどり君。
松島小委員 自由民主党の松島みどりでございます。
 憲法調査会に出ますのはきょうが初めてなものですから、どういう形で質疑をするのがいいのか、ちょっとわかっていない部分もあるのですが、二十分いただいておりますので、私の関心の視点というのが三つございます。その三つの視点から先生に質問させていただきたいと思っております。
 一つが、私自身女性でございますので、女性の発想でございます。
 もう一つは、私は、この政治の世界に入る前、新聞記者をやってまいりました。先ほども報道機関の問題がございまして、自分でもいろいろ自問自答しておりましたが、その件について。
 最後、三つ目は、日本経済の、今、最後に言われましたシステム、ありようについて、自分でも疑問とかいろいろな思いがあるものですから、この三つの観点で伺いたいと思います。
 最初に、女性の立場からなんですが、私自身、選挙において公約として掲げてきたもの、当選後まだなかなか同志を募れていない状況なんですが、相続の問題がございます。
 相続に当たって、今一般に、規定の中で子供に分割相続、法定相続するわけですけれども、いろいろなケースがあります。息子の嫁あるいは娘の婿が義理の親を最後まで介護して、そしてお見送りして、その後、遺産相続の話になったら、あなたは席を外してくれというようなことになることが随分ございます。
 法律上の平等の観点というのは、実子に平等に分けることになっている。確かに、法的には、息子の嫁であっても生前に遺言書をつくっておけばいいということになっているけれども、現実には、先ほど言われました私人間関係の問題。
 私人間関係というのは、まず家庭内において一番発生する、そして、ある共同体において発生すると思うのですが、これについてはどのように、私自身の考えは、義理の親の面倒を最後まで見たような人間に対しては、実子と同様の相続権を持たせるべきだと考えているのですけれども、これを具体化するにはどういう問題点があるとお考えか、教えてください。
棟居参考人 私人間関係の問題ということでお尋ねいただきました。大変難しい問題であるということはもちろん言うまでもございませんが、これは、私のアングルから非常に難しい問題でございます。なぜかと申しますと、先ほどの話を繰り返すつもりはもちろんないのですが、この日本国憲法に二つの柱があるということを申してきました。
 つまり、一つには、古典的な自由主義というもの。古典的自由主義というと、ネーミングがちょっとよくなくて、何か昔の話のように聞こえるかもわかりませんが、今、アメリカ型の自由主義、経済的な自由競争主義がもてはやされている。これは、ある意味で、古典的自由主義を極めて今日まで忠実に、そして強固に守っている、それが今世界にどんどん広がっているということでありまして、古典的という言葉にもかかわらず、決してそれは古いテーマではございません。
 このような個人の解放は、しかし他方で、本来は、今先生御指摘のような共同体の解体というものをよくも悪くも促進していくはずの問題でございます。
 そういった共同体が解体していく中で、平等というものが実子間については徹底していく。しかし、その法の網の目から漏れるような形で、つまり、法的には親子関係がない、息子の嫁であるといった方に対して、これは相続権がない、あるいは、仮に養子縁組をしておっても籍を外すといったような強制まで働く。このような現象というのは、日本国憲法が……(松島小委員「済みません、席を外すというのは除籍するという意味じゃなくて」と呼ぶ)
島小委員長 松島君、意見は小委員長の発言の許可を得てから行ってください。
松島小委員 済みません。席を外すというのは、除籍するとかそういう入籍の意味じゃなしに、親戚一同が集まったときに、のけものにするという、そういう、私、ざっくばらんな物の言い方でしたものですから。それだけをちょっと。
棟居参考人 どうも勘違いをしまして、大変失礼しました。
 今の話をちょっと続けさせていただきますと、つまり、個人を解放していくというのは、別の言い方をしますと共同体は解体していく、そういう今までのセーフティーネットがなくなっていくということでございます。その過渡期には、ありていに言えば、損をする人、得をする人、いろいろな人が出てくるわけでありまして、そういった過渡期ならではの悲劇といいますか、いろいろな問題があり得ると思うのですね。
 今先生、席を外す、あんたどいてよ、こういうふうにおっしゃったのですが、例えば、息子の嫁に対して何がしかの財産分与をするというようなことで、個人の働きに対して個人が見返りを得るという個人主義的な相続というのか、そういった財産分与制度が仮に徹底していくといたしますと、それは、しかしながら他方で、外部の介護ビジネスなどに委託をする、これはもう純然たる民民のビジネス、つまり個人主義が徹底をした場合に出てくる現象ですが、介護保険等は今横へ置きますけれども、そういったビジネスに乗っかってくる介護の問題と、その息子の嫁の得るべき利益との間の競争のような話になってくると思うのですね。
 つまり、私は、政策の是非について今答えを用意できておりません。ただ物の見方を申し上げておるわけで、こういった共同体が解体して、従来は家族が受けとめておった問題を外部化していくといいますか、すべて個人の問題に還元していく、そして契約の問題にしていく、そこにビジネスが生まれてくる。そこにはよき面もたくさんありますが、そういう中で、例えば、ビジネスでやっておる業者はいろいろなノウハウを駆使する、そして、どんどん合理的に介護ビジネスを展開していけば相当単価は安くなる。これとの競争で息子の嫁に一定の財産分与をしていくという場合には、これは、いわば入札の競争のような格好になって、息子の嫁は確かに何がしかもらえた、しかし、介護ビジネスとの競争関係において相当に安いものでしかないといったことになるでしょうし、また、それは果たして、息子の嫁というのか、つまり共同体の一員としての評価ということになるかというと、これは外部の業者と同列に論じた上での評価にすぎないわけですね。
 ですから、ちょっとうまく申せないテーマなんですが、私、先ほど不用意に最後に、しかもしり切れトンボで、私人間の、民民の問題に目配りをした憲法の人権保障が必要だ、こう申し上げ、あるいはそれを受けとめて先生が今具体的な問題を出していただいたのだろうと思いますが、実際には、総論あって各論のないのが私などの憲法学者の一つの特徴でありまして、今お尋ねの件については、そういう問題もあるのかと、まずびっくりしておるということと、恐らくそれは、現象的にいえば、共同体から個人へという、この移行期に起きる一つのいろいろな問題なのかなという気もします。
 ただ、移行が完成して、およそ息子の嫁といった方の出番がなくなり、すべて非常に便利で低廉な、しかしあくまでビジネスライクな介護ビジネスに乗っかって行うということになっていくと、それはそれで、個人の解放という面もあるけれども、やはりほかにいろいろ寂しい面もあるのかもしれない。
 逆に言うと、息子の嫁の介護のおかげで精神的に随分サポートしていたという部分は、外部のビジネスとの競争のような中で金銭的な評価をしていく場合には、そういった精神的なサポートの部分は必ずしも正当に評価されないことになってくるんじゃないかな、このように感じます。
島小委員長 参考人に申し上げます。
 恐れ入ります、質疑時間が限られておりますので、御答弁は簡潔にお願いしたいと思います。
松島小委員 ありがとうございます。
 今先生がおっしゃった中で、過渡期というとらえ方、これはそのとおりだと思うのですけれども、私ぜひお願いしたいのは、憲法の人権というものを国民が感じるのは、自分の身近な例のときだけなんですね。大まかな話、身近なところからぜひ考えていただきたいということと、私が申し上げたのは、介護ビジネスとの代替関係じゃなくて、それは介護ビジネスに任せて自分が手を出さなくて済むんならそれでいいんです。
 そうじゃなくて、例えば、この過渡期というのは、私は四十五歳ですけれども、私ぐらいの年代になると大体子供が一人か二人ぐらいしかいないからそれほど問題じゃない。もうちょっと上の六十ぐらいの方々は四、五人子供がいる。そのうちの長男の嫁か末っ子の嫁か知りませんけれども、一人だけに負担が覆いかぶさってくる。あげくの果てに、亡くなっちゃったら、例えば面倒を見ていない姉だか妹だかが押し寄せてきて、家を分けてくれと言う。
 この問題、私固執しているものですからしゃべっちゃいますけれども、中には、一番悲劇なのは、しゅうと、しゅうとめが先に死んじゃって夫が残った場合はまだいいんです。夫が財産をもらって、夫の財産がまた自分のところに来るから。一番悲劇なのは、例えばしゅうとめ、女性の方が長生きですから、おばあちゃんとだんなが同時に入退院を繰り返して、そうするとその妻というのは物すごく大変な思いをして、だんなの方が先に死んじゃって、それでしゅうとめが後に生き残る。それも見送る。だんなが相続発生していませんから、その人は持ち分が全然なくて、六十過ぎて、今まで住みなれた家からも追い出されて、アパート住まいになるというか、どこか追いやられるという事例が現実にあるんですね。
 介護ビジネスにかわるならそれはそれですっきりするからいいけれども、兄弟姉妹間の問題として、まさに私人間の問題として私はおかしいと思っていて、何かしたいんだけれども、それは養子縁組すればいいじゃないかと言われると、ただ、親に対して養子縁組してくれと言えるような、そんな気の強い人だったら何も問題は起こらないので、泣き寝入りが多い、そういうことを申し上げたかったというわけでございます。
棟居参考人 貴重な御指摘をいただいて、家族というのは私人間といっても忘れられがちなテーマなので、勉強させていただきたいと思います。
松島小委員 どうも済みません。次のテーマで申し上げさせていただきます。
 私、最初申し上げました、十五年間新聞記者をやって、それから政治の道に入って、五年半浪人してここに参りました。新聞記者時代にずっと悩み続けたのが、長くやったのは経済部とか政治部ですけれども、このころは、取材する相手も公人ですから、一応自分で割り切れた。最初のころ、いわゆるサツ回りをしたときに、今でもまだ言われているか、一九八〇年、随分昔のことですから当てはまるかどうかわかりませんが、だれか亡くなると、特に子供なんかが事故で亡くなると、顔写真をとってこいと。泣きながら幼稚園の先生に頼んで写真を借りたこともありました。だんだんとそれがぜひ必要なものだという認識は失われてきたんですけれども、このあたりについて。
 そして、私も報道に関して言うと、これは自分の立場で物を言うんじゃないんですが、加害者の人権と被害者の人権。加害者が少年ですと名前を伏せられて写真も出ない。被害者、例えばレイプされたあげくに殺された被害者というのは、名前だとか顔写真まで出されて、その姉妹だとか家族は物すごく傷つくんですね。この被害者の人権に対して余り言われないような気がしているんですけれども、どうでしょうか。
棟居参考人 事故で亡くなったお子さんというお話を最初されましたが、続いて被害者の方の人権、こういうふうにおっしゃいまして、私、従来多少考えたことがございますのは主に後の方ですので、もしよろしければ、後の方からお話しさせていただいてよろしいでしょうか。
 被害者の人権につきまして、御指摘の問題はもちろん非常に重要なテーマでございます。これは、報道経験をなさっている先生は御承知かと思いますが、報道がなぜ被害者の方に向かいがちかという点について、恐らく、加害者の方の不条理な犯罪の背景を探るというのは短期間ではかなり困難であり、また、今おっしゃいましたように、少年事件などでは加害者そのものについての特定が法で禁止されておる。実名公表、写真等できないということもあり、被害者の方に安易にといいますか、カメラが向きがちである。
 読者は、何か情報が欲しいので、結局被害者の側にどんどん行く。そして、被害者に特段の落ち度でもあれば、これは自分たちの平和な生活には関係がないんだ、そして安心できるということもございまして、何か被害者の側に特異な問題があるのではないかということで、被害者のプライバシー侵害的な報道に拍車をかける向きがあるのではないかなというふうに思っております。
 これはもちろん、先ほども申し上げましたが、表現対プライバシーというときに、両者を敵対的にとらえるというのは、基本的に私は疑問を感じておりまして、プライバシーといった個人の尊厳を尊重して初めて表現の自由も成立するというふうに考えておりますので、そこには制約があってしかるべきでございます。
松島小委員 最後に、経済事象についてなんですが、弱者保護という形で霞が関のこれまでのいろいろな行政が成り得てきた。減反、米の生産調整ですとか、これは確かに恵まれない地域の弱者保護ということもあったかと思います。しかしながら、例えば鉄鋼において、何年か前までは、鉄鋼の粗鋼生産量を昔の通産省の課長が鉄鋼大手五社、六社を集めてそれぞれ決める。こういったことは、弱者保護ではないと思うのですが、そのカルテルが認められたというのは、歴史的にはどういう意味において認められてきたんでしょうか。
棟居参考人 非常に学問的にも重要な御指摘でございます。
 それにつきましては、昭和四十七年十一月二十二日に、私ども小売市場判決などと呼んでいますが、最高裁の大法廷判決、これは刑事事件ですが、出ております。小売商業調整特別措置法という法律に対する合憲判決なんですが、その中で、判例は次のように申し上げております。私が不正確に申し上げるより、その一節を読ませていただいた方がいいのではないかと思います。手短にさせていただきますが、このように申しておるのですね。
  憲法は全体として、福祉国家的理想のもとに、社会経済の均衡の採れた調和的発展を企図しており、その見地から、すべての国民にいわゆる生存権を保障し、その一環として、国民の勤労権を保障する等、経済的劣位に立つ者に対する適切な保護政策を要請していることは明らかである。このような点を総合的に考察すると、憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定しているものということができる。
こう判例が述べておりまして、これが先ほど私が申しました積極規制という言葉につながるものでございまして、今のをお聞きいただければおわかりと思いますが、これは霞が関的な経済介入行政にとって、いわば金科玉条になるようなフレーズでございます。
 そこに、先生御指摘の弱者保護という観点が抜け落ちているかというと、言葉の上では、今お聞かせしましたように、あるんですね。つまり、生存権とか勤労権、こういう弱者の権利を前面に押し出しています。しかし、そういった弱者の権利保護をするために、国は積極的な社会経済政策を行ってよろしい、つまり経済的自由を制約してよろしい、こう言っておるわけでありまして、この弱者を保護するという目的と、そのための経済介入との間の結びつきはかなりぼかされておる。
 判例は、もう読みませんが、別のところでは、結局、完全雇用という言葉こそ使っていませんが、雇用を確保していくという観点からは、生産調整的な、あるいは業界の強い者を補助するような、そういった霞が関的な経済介入が、強い者を助けておるように見えながら最終的には弱者をも助けることになるのだ、したがって、弱者保護という観点から正当化される、こういうロジックをとっておると思われるわけです。
 先生御指摘の弱者保護との結びつき、非常に重要な点なんですが、当初の判決から、その点は、いわば刺身のつまというとちょっと言い過ぎかもしれませんが、言葉として弱者保護がありながら、実際にはそれが厳密には検討されてこなかったと言えると思います。
松島小委員 どうもありがとうございました。
島小委員長 それでは、大出彰君。
大出小委員 民主党の大出彰でございます。よろしくお願いします。
 お聞きをいたしまして、現実の憲法状態というものを指摘なさっていただいたと思っております。いろいろ考えまして、憲法解釈のグローバリズム化といいますか、それを参考人は実践なさっているのかなとちょっと思いました。
 それと同時に、経済的自由権の積極的規制のところでは、一つは冷戦構造があって、日本の国内で五五年体制があって、それが憲法運用に投影されているのかな、そんなふうに思いながら、それは言ってみれば霞が関的なことだったのか、そんな形のような感想を持ったわけです。そのことは、実は日本の憲法の状態の中で、個人主義、つまりインディビジュアリズムが根づいていなかったからではないかという気がするんですが、その点はどのようにお考えでしょうか。
棟居参考人 今の、結局個人主義の不在、これが霞が関的な介入あるいは積極規制というものと結びついておるのではないか、その原因ではないかという御指摘は、私は全く同感でございます。
 これは長くはしないんですが、なぜかというところがやはり問われるべきだろう。つまり、個人主義が、日本国憲法の、先ほど申しましたように、ある意味では本来の可能性としてもともと持っておったものなのに、なぜそれが開花しなかったのか、むしろ、経済的自由の逆をいくような積極規制なんというものが判例上も学説上も確立され、あるいは賞賛されてきたかということです。
 これは、恐らく戦後すぐの段階では、個人主義を通じて民主主義を達成するという迂遠なことがとれなくて、とにもかくにも上からの民主化、そして同時に、経済の回復といういわば上から主導する民主主義であり、そして経済の活性化、こういったやり方をとらざるを得ない。まず、民主主義を支える、あるいは経済的自由主義を支える個人というものがいなかったわけでありますから、それが育つ前に民主主義といった枠をつくっていく必要があったという、西洋がたどった順番とは逆の順序をたどらざるを得ない時期が当初続いたということがあったと思います。
 それが、その後も、民主主義はもちろん成熟をしてきたんですが、経済的自由の方では、個人主義という本来の姿に戻ることなく、ずっと官主導が残ったということではないかなと私は考えています。
大出小委員 ありがとうございます。
 順を追って本当は質問をしたいところなんですが、時間的な問題もございますので、飛びながら質問をさせていただきます。
 古典的自由主義憲法の限界ということで、新しい二十一世紀的なといいますか、新時代の積極的自由を含めて御指摘があったわけですが、限界ということを考えましたときに、地球環境といいますか、今、地球温暖化の問題で人類は四十年で死滅するのではないかと言われているようなこともありますし、あるいはまた、大気圏外で核兵器を撃ってしまったりすると放射能で汚染されてしまうとか、そういった地球自体がなくなるのではないかという危機の状況の中で、環境権を論じる前提に、地球環境的生存権とでもいいましょうか、そういったものが、限界を超えたものというか、二十一世紀的なものとして必要ではないかと考えるのですが、いかがなお考えでしょうか。
棟居参考人 御指摘のとおりです。
 そして、今おっしゃった先生の観点は、私の報告でも十分に取り込めていなかったというふうに思います。新時代と称しながらなお不十分であったと思います。
 その一つの原因は、結局、日本国憲法自体が国家対国民という非国際的、内向きのものであり、環境といった当然に国境を越えていく現象に対して日本国憲法は残念ながら対処できていない。そして、それは社会権といった弱者を保護する観点を取り込んでも、それでもやはり国内向けの発想でありますから、今先生がお使いになりました地球環境的生存権という国境を超えた新しい概念は、これは憲法自身のまさに国際標準的な、グローバル化を待たないと出てこない発想であろうと思います。
大出小委員 次に、この中で、当然お考えだと思いますが、日本国憲法の中で、差別の問題が意外と弱いような気がするんですね。
 アファーマティブアクションと申しますか、積極的な差別是正措置といいますか、こういった問題をアメリカなんかの場合だと、例えば黒人の方やあるいは我々黄色人種が入学試験を受けたりするときに、まずカラードの方は何点げたを履かせる、最初から制度としてそういうようなことをやっているように伺っておりますが、その辺は新しい時代ではどのようにお考えでしょうか。
棟居参考人 先生御指摘の差別について憲法は弱いんではないかということにつきましては、憲法十四条は社会的な差別も念頭に置いてはおります。しかしながら、同時に、国家対国民、先ほどから何度も申しておりますような縦の関係が憲法の直接の関心事項でございますので、私人間の紛争の一つである差別についてもやはり弱いということかと思います。
 今先生方御議論の人権救済機関につきましては、したがいまして、憲法の理念を横に広げていくという意味でも非常に重要かなと私は強い関心を持たせていただいております。
 さて、御指摘のアファーマティブアクションを我が国に導入できるかということでございますが、このアファーマティブアクションそのものについて、いろいろな批判がアメリカでもあるようです。その一つは、これは差別を逆に固定化することにならないか。つまり、能力が低いからげたを履かせなければいかぬのだ、このように見られる結果としまして、いつまでたってもいわばマイナスのラベリング、劣った存在だというラベリングから脱却できない。本来、アファーマティブアクションというのは、ある時期に無理やりにでもげたを履かせて、社会のいわばエリート層にどんどん差別されてきた人たちを組み込んでいくことにより、あとは自力で、つまり、ロケットを発射して成層圏まで到達すれば、あとは自分でぐるぐる回るだろう、こういう打ち上げロケットとしてのアファーマティブアクションという制度であったかと思いますが、これがなかなか打ち上げにならないという指摘があるのではないかと思います。
 そして、日本でアファーマティブアクションを取り込む場合、やはり差別を固定化することにならないか、一定の打ち上げ的な効果を必ずしももたらすことが望めないんではないかという懸念があろうかと思います。
大出小委員 御意見をいただきまして、そういうものかなと思いました。日本の中でなかなか、まあ人種差別が極めて少ない国だからそういうことなのかなと思いながらも、二十一世紀に向けては差別の観点がもう一回出てくるのではないかと実は考えていたわけでございます。
 次の質問に参ります。
 私人間効力の話でございますが、日本の場合にはいわゆる国家類似といいますか、ステートアクションというのは余り判例等でも出てきたことはないわけなんですが、市民社会を間に置くことによりまして、例えば、憲法解釈の中に部分社会の法理だとか傾向経営だとかいろいろあると思いますが、そういうものとの関係で、市民社会を置くことによってどのような効果が出てくるのかということをお尋ねしたいんです。
棟居参考人 先ほど、最後、時間の関係というか、内容的にもここらが私の限界点でございまして、ちょうど時間が来ましたのではしょらせていただいた市民社会論という、まだ問題提起しかできないようなテーマにつきましてずばり御指摘をいただいたわけでございます。
 そしてまた、先生がその際お使いになりました部分社会といった、これは業界用語でございますので、相当に、十分に業界的な知識もお入れになった上で今議論されておると思いますので、なおさらに余り雑駁なお答えでは満足していただけないかなというふうに思っておるんですが、率直に申しまして、市民社会というものがまず憲法論の中で不在だった。
 これはどの脈絡で不在かといいますと、先ほど来申していましたような、私人間が憲法の念頭になかったというそれではありません。いわば私人間に憲法あるいは人権を適用しましょうという、民民の関係に憲法が適用される段階は第二段階です。つまり、第一段階は、言うまでもなく、国家対国民、こういう縦の関係での憲法の適用で、これは当然のことですが、第二段階として民民の関係で憲法を適用していく、例えば社会的な差別をなくしていく。市民社会論というのはその後出てくる第三の問題だというふうに私は思っています。
 つまり、民民の関係だけということですと、それぞれの民は、国家との関係ではいずれもいわば国家によって規制をされ、介入をされるという受け身の存在にすぎない。しかしながら、市民社会というのは、これを例えばボランティア、NPOといったものに置きかえて考えますと、かなりアクティブな性格を持つわけでございまして、単に、国家との関係で、こそこそと受け身の自由を行使しているだけの存在ではない。部分社会というお言葉をお使いになりましたが、国家からかけ離れたところで、自分たちでサークル的にこそこそやっているというだけではない。むしろ、世論を形成し、あるいは直接に運動し、国家意思の形成に影響を与えていく、そういった非常に公的な、そして大きな存在に育ってきているわけです。
 その意味で、国家、市民社会、個人という三角形を描き、第三のセクターとして市民社会、あるいは、より具体的に言えばNPOといったものを位置づけていく必要があり、こういった三角形の憲法論が必要だというふうに思うわけでございまして、そこで、従来の私人間効力論などがどこまで役に立つかというと、私人間効力論というのは民民のあくまで第二段階での話でありますので、第三段階という、国家、市民社会、個人という三角形の関係では、どうも確たる理論はないということではないかなと思います。
 ありがとうございました。
大出小委員 時間ですので、質問を終わります。ありがとうございました。
島小委員長 次に、太田昭宏君。
太田(昭)小委員 きょうは大変興味深いお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。
 一番冒頭に、西欧的・古典的自由主義の理念というものに二十世紀的な社会権の規定を接合したというお話をされ、それが骨格になっているということをおっしゃったわけですが、我々は、常に、押しつけた、押しつけられたということや、国の形をどうするかというのが憲法論争の大事なことであるということで、国の形は憲法、人の形は教育基本法という形での論議をしてきたわけです。そうしますと、西欧的というふうに一番最初に書いてある。まさにこの西欧的な理念の上に立脚するということ自体の中に問題があるのではないのかということについてお聞きをしたいわけです。
 カール・レービットというのが、東北大の教授もやったことがあるんですが、日本の知識人というのは、一階は和風に住み、二階は洋風の家に住んでいるようなもので、階段を忙しく上がったり下がったりしているというような指摘をしたことがあるわけですが、憲法十三条に、個人の尊重と書いてある。個人の尊重というんですが、個人の尊厳、私はそこが本当は大事だというふうに思っているんです。哲学論争の中でも、何ゆえに人間は尊厳なのか、虫けらのような、そういう存在。
 この西欧的というのは、一つはフランス革命以来の近代がつくった人間観、つまり、人間は自由で平等で博愛、そして不死であるというような人間観の上に立脚をしてきたものと接ぎ木をして、そして一気に憲法が、アメリカ主導の中で、これは、いいものはいいというふうに私は思っているわけですが、現実にはそういう形でつくられた経過というものを見逃すわけにはいかない。
 ということからいきますと、人間観も、実際に、人間というのは生まれながらにして平等でもなければ自由でもない、地域に縛られ、歴史に縛られ、家族に縛られ、まさにそうした縛られ続けて生まれた存在であるという実存的なものから、そして、そこに日本人というものを加味した、あるいはまた、儒教的国家観とか仏教的国家観というようなものをしっかりとらえた上での日本国憲法というものを志向するということがもう一つ大事なのではないのかという感じがするわけです。
 このヨーロッパ近代の人間観というものと、憲法十三条の、また、基本的人権の一番の基底にあります個人の尊重ということは、ちょっとヨーロッパ的に薄っぺらなものではないのかという感じがするんですが、その辺の哲学的な先生のお考えをお聞きしたいと思います。
棟居参考人 私は哲学は特に弱いので、十分お答えできないと思いますが、今御指摘の問題については、もちろん憲法学界でもいろいろ、自覚は少なくともあると思います。
 つまり、西欧的な個人主義というもの、これが果たして日本に根づいたのか、根づく土壌があったのか。土壌がない、あるいはもっと水をかけないから根づかないんだ、肥料が悪い、こういう啓蒙的な近代個人主義を前面に押し出す、これが戦後憲法学の主流だったかと思うんです。しかし他方で、憲法学者が恐らくだれしもひそかに思っておって、口には余り出さない問題意識としまして、この国には別の種の方が合っておったのではないか、あるいは、別の品種に変えてみたらうまくいくのではないか、こういう日本のローカライゼーションといいますか、西欧近代の理念、これはこれでもちろん尊重するとして、それを日本に適応させていくといった努力が必要だったんじゃないかなという意識は、我々ひそかに持っておるところでございます。それを実存といったような哲学的な言葉では必ずしもとらえていないということなんですが、問題意識としてはもちろん共有できておると思います。
 かつ、先生が御指摘の、人間は生まれながら自由でも平等でもないし、生まれながらに個人として孤立しておるわけでもなく、社会的な存在だ、後半は私の推測で若干膨らませましたが、こういった社会的人間像といった物の見方は、これは西欧近代がまさに今ポストモダンだと言っておる中で、アトム的というか原子的な孤立した個人から、むしろ社会関係の中で個人をとらえるという方向に転換をし出しておるわけです。ですから、そういった社会関係的に個人をとらえ直してまた別の人権論を構想するというのは、決して日本に引きこもるということではなくて、これは世界標準の新しい要請にもなっておる一面があろうと思います。
太田(昭)小委員 報道と人権ということについて、松島委員もおっしゃったんですが、私は、先生のお話を聞いて、プライバシー対表現の自由という二項対立の図式ではないという、新しい、公民としての政治参加ということについて、この二項対立を止揚した方がいいという指摘は大変興味深く伺いました。プライバシーもそうでしょうが、新しい、これが公民という形でのプライバシーに転化するということが大事だと思うんですが、表現の自由という問題とか、その辺の対立した権利のどちらを優先するかという判断基準とか判断要素みたいなものが原理的に何か打ち立てられ得るものなのか、それとも具体的事例の積み重ねの中から判断をするものなのか、どう考えたらよろしいんでしょうか。
棟居参考人 原理的か具体的かという二項対立については、私も悩んできました。そして、具体的な当てはめの中でかなり経験的に生まれてくるものかなというふうに感じてはおるんですが、しかし、その具体的当てはめをしていく中で、やはり原理的な物の考え方というものは当然必要になってくるわけでございまして、原理のための原理という議論ではなくて、具体の中に原理を発見していくといった、ちょっと禅問答風で恐縮ですが、このような形でしか、例えば表現の自由対プライバシーといったような重いテーマについて、その微妙な線引きをしていくことはできないのではないかなというふうに今は思っております。
太田(昭)小委員 個人情報保護法が今継続審議になっていまして、マスコミ関係の方からも批判というか懸念が強いと思いますが、それについて先生がいろいろと書かれているんですが、一言、それについての感想をお聞かせいただきたいと思います。
棟居参考人 一言で言えば、議論のなされ方が、若干ボタンのかけ違いというか、いろいろいきさつに不幸な点があったかな、誤解もあるんじゃないかというふうに思っています。
 誤解というのは、報道機関側、あるいは物を書く側がこの点で少し神経質になっておられるんじゃないかな。また、別の言い方をしますと、既に、民事裁判で名誉毀損につきましての慰謝料が高額化をしていくとか、そういった形で、かなり社会的にも、今までに比べますと、プライバシー保護といったもののラインが上昇してきておるわけです。あるいは名誉の保護のラインが上昇してきておるわけでございまして、そういった中で、個人情報保護法は、若干技術的なケアは必要かもしれませんが、私は、基本的には、むしろインターネット化の中では必要だというふうに理解をしております。
太田(昭)小委員 ありがとうございました。
島小委員長 次に、武山百合子君。
武山小委員 自由党の武山百合子です。
 早速、先生のお話の中で、古典的自由主義憲法としての日本国憲法と運用面でのずれというところを視点にしてお聞きしたいと思います。
 まず、経済的自由ということで、非常に理念がすばらしく、私はこれを見まして、実は、なぜこの理念が日本の戦後の国民に浸透しなかったのか、それをまず一点。それから、現実的に、経済的自由の中で、官僚主導型の経済モデルが、経済的自由の解釈ということで憲法解釈においても定着してきた。これと理念とがまさに結びついていないわけですね。それで、だれもなぜ不思議に思わなかったのか、これをまず一点、お聞きしたいと思います。
棟居参考人 これはいずれも厳しい学界に対する御批判というふうに受けとめさせていただきました。
 まず第一点ですが、これは学界に限らず社会一般にですが、経済的自由というものの理念、日本国憲法にせっかくすばらしい形で、自由で自己決定的な個人というものを基軸にした経済的自由がうたわれておるのに、なぜそのようになってこなかったのかということでございますが、これは恐らく、一つには、戦前、戦時中には当然のことながら官僚統制経済をやっておりまして、戦後の混乱期にはある程度そのような統治のメカニズムを引き継がないとやれなかったということがありまして、高度成長に次第に移行していくわけですが、したがいまして、戦後の回復期には必要に迫られたということがあったかと思います。
 つまり、そのころ、経済的自由などといってみても、焼け野原でやみ市をするという経済的自由なのか、それとも、むしろどんどん回復基調に乗せて工業整備していく、いずれが経済的自由にとって好ましいのかというと、後の選択を普通はしてしまうわけでございまして、したがいまして、戦後当初は、経済的自由というものと国家による統制が必ずしも矛盾するとはとらえられなかったわけでありましょう。
 その後、高度成長にいわばスムーズにそのままのシステムで移行してしまったという、そこが、これは結果が出るものですからだれも文句を言わないということで、ずっと続いた原因だろうと思うんですね。そして、バブルがはじけ、いろいろな問題が出てきたときに初めて経済的自由という理念が見直されるという、ちょっと皮肉な展開になったかなと思います。以上が第一点でございます。
 そして、第二点につきましてですが、なぜ学界がこの経済的自由を否定するような霞が関的な経済運営を肯定してきたのかということについてですが、これはよく先生方は御承知のとおり、戦後憲法学というのは、かなり弱者を基軸に据えた社会民主主義的な路線を追求してきた面があったと思います。もちろんこれは、政治団体ではございませんので、解釈のサイドからということなんですが、日本国憲法の二つ目の柱である社会権、生存権、これにある意味で戦後憲法学は飛びついて、しがみついてきた面がございまして、そして、そのためであればということで積極的な経済介入というものを支持してきたのであったと思います。
 ただ、現実に弱者保護というものと霞が関的な経済運営が本当に結びついておったかどうかのもっと厳密な検討は必要であったはずですが、それはしてこなかったということだと思います。
武山小委員 どうもありがとうございました。
 それでは、日本国憲法本来の自由主義が一度も現実化してこなかったという先生の説ですけれども、今はその説に対してどうしたらいいと思いますか。
棟居参考人 これは大変難しいところでございます。つまり、日本国憲法本来の自由主義といえば、憲法をひもといて初めてわかりそうな気がいたしますが、実は、憲法なぞを見なくても、日々我々は現実に肌身に触れて日本国憲法本来の自由主義なるものを感じているわけであります。つまり、それはまさにグローバルエコノミーそのものが体現しているものが、経済的自由については日本国憲法も本来の姿として持っておったはずのものだからです。アメリカからやってきて、いわば黒船のように今我々はそれに身構えておりますが、日本国憲法自身がもともと自由競争、そして弱者が淘汰されていくといった、よくも悪くも自由主義的な経済の理念を一つの柱に据えていた。と同時に、弱者に優しいという別の姿もあった。しかし、その二つの間の関係は余りすっきり整理されていなかったということであったと思うわけです。
武山小委員 それでは、私個人は、日本のよき古き伝統、文化を加味した、それでいて今まで日本国憲法の中でうたわれてきた自由主義が、きちっと自己責任のもとで自己決定を伴った憲法が一番よいのではないかと思っております。
 それで、その中の欠陥である、きょうお話しいただいた人権だとか情報公開だとか、環境権だとかも入れていったものができればいいなと思っておりますけれども、学界ではどのように考えておりますでしょうか。
棟居参考人 学界では、古きよきという日本的な秩序というものについては、恐らくなかなかにこれは理論の俎上にのってこないと思います。というのは、むしろそのような古きよきと言うときに、決してよきものではないんだ、先ほど松島先生の御指摘の中でも出てまいりましたような、家族的な共同体の中で必ずいわば割を食っておる人がおる、こういったさまざまな矛盾を内包して、ただ言葉だけ古きよきものというふうに呼んでおるのではないかという、非常に懐疑的なスタンスが学界には強くございます。したがって、そういった要素を取り込んで、かつ自己責任を中心とした憲法というものについては、ますますもってこれは異質なものを無理やりにくっつけるということになるんではないかという思いが恐らく強いと思います。
武山小委員 それでは、棟居先生はどんな日本国憲法がよいと思われますでしょうか、これからつくるものです。
棟居参考人 究極の質問をいただいたということなんですが、私は、憲法の中身がどうあるべきかという以前に、これは学者的なずるい対応かもしれませんが、憲法が何を決めるべきかという議論をまずした方が生産的だ。つまり、憲法の役割分担、守備範囲というものがあると思うんです。あれもこれもすべて憲法ということではない。
 つまり、実際に国会というものがあり、先生方が日常的ないろいろな問題を解決するために立法権を駆使しておられるわけですから、憲法は国会に対してそういった立法権を授権することはもちろん当然ですが、そういった統治のメカニズムを用意しておけば、あとは基本的な価値とか基本的なルールを定めて、そのレールの上を立法権や司法権、あるいは国民自身が、そして行政権もですが、憲法が敷いたレールの上をそれぞれのセクターが思いっ切り走れるようにしておけばいいということだと思うんです。ですから、憲法自身が直接に答えを出す必要があるのは、まさにそのレールの向きであるとか幅であるとかいった基本設計の部分です。
 それで、基本設計については、古きよきものと自己責任との間でどこで線を引くか。これも基本設計の基本そのものではないかというふうに御指摘になろうかと思うんですが、古きよきものと自己責任、古きよきものという言葉はちょっとそのままでは使えないと思いますけれども、共同体的な公益と個人の自由な人格の展開、それに伴う自己責任、こういうものの間の調和、つまり共同体と個人主義との間の調和を図っていくというようなレールの引き方をしておけば、あと、その具体的な調和点がどこかというのは、議論をして、立法でその都度線を引いていかれればいいし、また線引きをその都度見直していかれればいいということであろうと思います。
武山小委員 どうもありがとうございました。
 それでは、最後の質問になるかと思いますけれども、憲法を今論憲という形でしておりますけれども、いつまでも論憲ばかりでは困るわけで、それは今までのやり方なわけですね。そういうやり方に対して国民は、早くきちっと青写真を示してくれという状態なわけですけれども、日本国憲法があり、また、古典的自由主義の憲法がもとにあって、その上に立った日本国憲法ですから、過去の歴史の経緯を踏まえた上で、どうしても左右されると思うんですね。
 ところが、私自身は、いろいろ今まで左右されてきた議論を踏まえると、全く白紙にして新しく書きかえてもいいんじゃないかと思うんですけれども、その点についてはどう思われますでしょうか。
棟居参考人 この点については既に憲法調査会の方で御議論をされておるかと思うんですが、憲法改正には限界があるという基本的な考えが学界では通説になっています。そして、私も、理屈としてはそのとおりかなというふうに思っておる次第です。
 改正に限界があるということの意味ですが、つまり、日本国憲法がその改正手続を使って全く別のものになるわけにはいかない。それは、ありていに言えば憲法自身の自殺行為で、改正条項がそのような大変革まで許容しておるはずがないんだ、こういった条文解釈から、あるいは論理的な解釈から出てくる結論です。改正には限界があって、微調整というか、もう少しできるかもしれませんが、基本線を白紙から書きかえるということはできないはずだ、要するに、リフォームであって全面新築ではないんだ、こういうふうにまず言っておるかと思います。
 しかしながら、それは決して、国会が発議をして、そして国民投票でといった現行憲法の改正手続が予定しておるような手続を経た上で、まるっきり新しい、日本国憲法と本質的に異なるような憲法を制定することを日本国民ができないなどということでは決してありません。改正に限界があるという理屈は、要するに、そのような新憲法の制定を改正と呼ぶべきでないと言っておるにすぎないわけです。
 長くなるつもりはありませんが、日本国憲法自身も、大日本帝国憲法の改正という格好をとって成立しましたが、まるきり別物でございました。政治的な便法としてそのような格好をとったわけであります。日本国憲法自身も、まるきり別物になることについて、したがいまして、ただそれを改正と呼ぶべきでないという一点の留保をつければ、私は、全く新しい理念で、一度さらにして考え直してみるということもあり得るかと思います。
 ただ、白紙で書いてもかなり同じ線が出てくるというふうに、これは世界標準に相当近いので、やはり結果としてはそのようなことになろうかと思います。
武山小委員 どうもありがとうございました。
島小委員長 次に、春名直章君。
春名小委員 日本共産党の春名直章です。
 きょうは、貴重なお話、ありがとうございました。
 新しい人権についてお聞きしたいと思います。
 いわゆる環境権、プライバシー権、知る権利、こういう新しい人権は、五十年前の憲法制定当時には当然予想されていないことでした。だから、これらの権利を保障するというために、憲法に明文規定が必要じゃないかという議論もございます。
 そうした中で、私は、法学セミナーの、先生がお書きになった五百四十八号の論文を非常に興味深く読ませていただきました。ここで、「「新しい人権」のほとんどは、もともと個人の尊厳といった憲法上保障されている基本的な価値を実効的に保養するために新たに考案された司法的救済手法といったもので」「「新しい人権」は」「侵害の態様が「新しい」だけで、侵害から守るべき価値までが「新しい」わけではない。」こういうことをお書きになっていらっしゃる。したがって、「現行憲法の枠のなかで、司法による自由な法創造に委ねられた分野」だということだと思います。
 これは、新しい人権の明文化が必ずしも問題ではなくて、新しい侵害態様からいかに憲法の基本価値を保護していくのか、その実質が大事だということをお書きになっているように私は受けとめたんですが、そう理解していいのかどうか、その点をお聞かせいただきたいと思います。
棟居参考人 御指摘のとおりです。
 ただ、一点留保させていただきますと、今先生が丁寧に御紹介いただきまして大変光栄ですが、その雑誌は恐らく十数年前でございまして、私はこの説を変更しておるわけではございませんが、他方で、いわゆる新しい人権を取り巻く状況はこの十数年の間に劇的に変化しておるということも間違いのないことでございまして、個人の尊厳という核心部分、守るべき価値は揺らがないけれども侵害がいろいろ出てきておる、それをモグラたたきのように何とかすればいいじゃないかとそこでは書いたんですが、今まさに個人の尊厳というもののあり方自体がどうも変わってきておるかなと。つまり、中身を守るために表紙の方を変えていけばいいじゃないかというふうに、つまり憲法改正ほど大げさな話ではないだろうというふうにそこでは書いておるかと思いますが、その後の変化は中身にもかなりの影響を与えておるかなというふうにも思います。
春名小委員 この法学セミナーの論文は二〇〇〇年八月ということだったと思います。それはそれでいいです。ありがとうございます。
 それから、私人間の関係についてなんですが、きょうはお時間がなくて十分な陳述の時間がなかったということなんですが、この私人間の人権紛争について、憲法学の態様について、これは三十年以上前から非常に議論があるところだと思います。しかし、私は、これもすぐれて今日的課題だと思っています。
 それは、国対国民ということだけじゃなくて、民対民、横の関係が大事なんだということをおっしゃったわけですけれども、それが今一番僕が劇的にあらわれているなと思っているのは、企業と労働者の関係、例えば人権侵害という問題がありますね。セガの隔離部屋とか、あんな問題が社会的な問題になりましたけれども、企業が労働者の人権を侵害するということが次から次へと起こっている。だから、そういう問題について、労使間にゆだねる問題だけではなくて、人権という問題で侵害があれば国としてそれを規制していくという仕組みも私は大事だと思いますし、それは行き過ぎた国家介入でも国家依存でもないんじゃないかなと思うんです。
 それで、きょうの陳述の中で、国家からの自由という消極的自由の保障だけではなくて、国がより積極的に、国民が自由を実質的に享受し得るようなハード面、ソフト面の条件整備をすることも人権保障の内容ではないかと陳述いただいている。
 参考人のおっしゃる積極的自由の理念、それから私人間紛争の解決というのは、こういう今私が申し上げた企業による労働者への人権侵害なんかがあれば、やはりこれを国として、見過ごすんじゃなくて、きちっとこういう点では規制をしていく、そういう仕組みをつくっていくことが大事なんだというふうに私は理解するんですが、この点についてはいかがでしょうか。
棟居参考人 まず一点おわびです。
 先ほど十数年前と言いましたが、その後私が学説の展開をサボっておりまして、同じことを書いておる新しいものを先生に御紹介いただいたということで、早急に再検討の必要を感じさせていただいた次第です。
 さて、今お尋ねの件でございますが、企業対労働者、例えば隔離部屋といった深刻な問題がある。これについて、積極的自由ということを私が申したからには、これは国家としての積極的な介入というものを予定するべきではないか、そのような制度、あるいは憲法の解釈としてもそのようなものを取り込んでいくべきではないかといった御指摘かと思います。
 この点につきましては、先ほどは紹介しませんでしたが、最近、学界では保護義務という言葉が非常にはやっております。これは、あるいはほかの分野もそうなのか憲法学だけなのかよくわかりませんが、外国の議論を後追いしておるという、輸入法学という面がやはり残っておりまして、この保護義務論というのはドイツで生まれた議論でございます。そして、国家が保護義務を持っておる、つまり、国家と国民の関係は、国民をほったらかすのが国家の役割であるなんというのはとんでもないことで、その逆に、社会権はもとよりですが、自由権についても、国民が自由を展開できるように、享受できるように、国家が積極的に私人間の紛争に介入をして国民を保護しなければいけない。もちろん、現実には強い者から弱い者を保護しなければいけない。国家による保護の対象としての自由、そういったことが保護義務論という言葉のもとで論じられるようになってきました。つまり、ドイツでは既に古典的な自由主義から理論的にも大幅に離脱することに成功しているということが言えます。
 このような保護義務論というものを真剣に受けとめた場合には、先生が御指摘のような、企業対労働者の間の関係にも国家が割って入っていくべきではないかということも出てこようかと思いますが、これはもちろん憲法の解釈としてというよりは、先生方、まさに立法の課題としてそれに対してどのような立法的な施策があり得るかを御検討いただくということになろうかと思います。そして、現実に人権救済機関についていろいろ立法作業が進んでおると聞いておりますが、民民の関係での人権侵害事件に対して、今御指摘のようなテーマもあるいは課題になってくるのかもしれません。
 ただ、あえて私の感想を一言申せば、国家が介入をするというときにもいろいろな手法があります。人権救済機関は、これは法務省の人権擁護局を拡大発展させていくといういきさつから行政機関ということになってくるのでありましょうが、本筋としては民事調停というような司法的な解決が民民の事件では最もなじむ。つまり、個人の自己決定を尊重しながら、しかしながら公序良俗に反するような侵害行為に対して線を引いていく、そういう作業に最もふさわしい場は、これは行政機関ではなくて司法であります。
 そういった司法的な救済を簡易迅速に受けられるような、例えば法律扶助制度といった形で国家がサポートする、これも国家の保護義務の具体的な実現のあり方として十分考えられていいというふうに私は考えています。
 したがいまして、国家が介入をするということについてもはやタブー視するべきではありません。しかし、その介入の仕方は、これは劇薬ですから、重々慎重である必要がございます。つまり、行政機関による介入という基本的な構造は、よほど注意深くその具体的な機構の権限等をつくり込まないと、実際には国民の自由に対する過剰な侵害ということになってしまう、あるいはそのあしき先例をつくりかねない、これは後から見ての話ということになりますが、そういう面があろうかと思います。
春名小委員 ありがとうございます。
 最後に、昨年の八月に、国連の社会権規約委員会と呼んでいますが、経済的、社会的及び文化的権利に関する委員会の日本に対しての最終見解が出されました。
 それで、人権、権利の問題で懸念される問題がいっぱいあると指摘されていまして、例えば、過大な労働時間を容認し過ぎだとか、男女の同一労働同一賃金がちゃんとやられていないじゃないかとか、四十五歳以上の労働者に対して十分な補償がない、給与を削減されているじゃないかとかいっぱい指摘がありまして、その冒頭に、締約国日本が、国際人権規約の規定の多くが憲法に反映されている事実があるにもかかわらず、国内法において、規約の規定に対して満足のいく方法で効力を与えていないことに懸念を有する、こういう指摘をされているんですね。要するに、国際人権規約を具体化した日本の憲法、人権規定があるにもかかわらず、実際にはそれが十分具現化されていない、現実化されていないということが懸念事項なんだ、こういう指摘なんですね。
 私は、これを見て、やはり理念を実現する憲法政治そのものが問われているなという思いを強く持ったわけですが、参考人はこの点についてはどんな御印象をお持ちでしょうか。
棟居参考人 今先生御指摘の点については私も最近関心を寄せておりまして、というのは、近ごろ国内のさまざまな民民の事件、あるいは民民でなくても官対民の事件でもですが、憲法の人権規定を持ち出して訴訟を進めるという以外に、国際人権規約違反、こういう主張を加えるということがかなり弁護士さんの間ではやっているといいますか、普通になっております。ただ、大変残念なことに、判例の方がなかなか国際人権規約に対しての先例の積み上げをしておらないということもありまして、実際に地方裁判所などの下級審では、要するに憲法と同じことが書いてあるんでしょうといって、後は憲法解釈で乗り切ってしまう。
 憲法解釈になりますと、例えば憲法十四条で平等保障についての問題が出てまいりますと、不合理な差別は違憲であるけれども、合理的な区別、合理性があれば合憲ですよ、こういうかなりルーズな解釈が憲法十四条については定着しておりまして、結局、国際人権規約を憲法と同一視することによって国際人権規約が生かされないという、ちょっと珍妙なことになっておるわけです。
 ただ、これは、逆に言えば、現場の解釈で少しはよくなっていくものでございますので、私の立場としては、いや、国際人権規約にはもう少し気のきいたことが書いてありますよというふうにやっていくしかないかなと思っております。
春名小委員 どうもありがとうございました。
島小委員長 次に、金子哲夫君。
金子(哲)小委員 社会民主党の金子哲夫です。
 幾つかお聞きをしたいこともありましたけれども、ちょっとダブっておりますので。
 基本的人権ということについては、憲法の九十七条に、これまでの歴史の過程の中で生まれてきて、そしてまた、これは国民に対して永久の権利として信託されたものであるということが規定をされております。私は、基本的人権というのは、政府というある一定の権力機関の統治政治に対して個人の自由を保障していくということを基本的に、憲法の一番根本の中に基本的人権として何条にもわたって保障されているということは、そういうことだというふうに思うのですね。
 ですから、先生のお話で、弱者の保護ということが言われておりましたけれども、私はやはり、古典的かもわからないけれども、そのことが憲法の中に一番の柱として、これだけは常に柱の中になければならないんではないかというふうに考えておりますけれども、その点について、どうでしょうか。
棟居参考人 政府に対する個人の保障というものを、九十七条を引き合いに出されて、これが憲法の人権保障のやはり本質だろう、このようにおっしゃったわけであります。また同時に、社会権あるいは弱者保護というものが、その場合の政府に対する個人の保障の中心になるという御指摘であったと思いますが、それでもしよろしければ。
 私が先ほど申し上げましたのは、政府に対する個人の保障という、まさに消極的自由といいますか、国家からの自由、ほっといてくれ、こういう自由権が、決して弱者に優しくない、弱肉強食の今のグローバルエコノミーを支えておる、こういう理念に非常に近いものであって、日本国憲法にはそういった側面がもともとはあった。ただ、別の社会権といいますか、それによって示された弱者保護、こういう理念もあり、両者が帳じりをどう合わせたのか、余りすっきりしない形で併存している。読む者によって、どちらに力点を置くかによって日本国憲法が全然違う姿で我々に見えてくる、こういうことを申したわけであります。
 恐らく、先生のおっしゃるように、まさに弱者を中心にした、そういった日本国憲法全体の読みかえ、あるいは今までも多少そういった読み方をしてきたかもしれませんが、その読み方の徹底を図っていくことが、結局日本の大げさに言えば再生といいますか、二十一世紀のこの国の形をあらわす上で最もよろしいのではないかといったことかと思うのです。
 弱者保護と言うときに、それがすぐベンチャー的な強い個人の可能性の芽をそいでしまう、やる気をそいでしまう、既得権を保護してしまう、こういったふうにどうしてもとらえられてしまって、個人の自由な自己展開とうまく調和した弱者保護の理念をなかなか我々は発見できないでいるということかなと思います。アメリカではその点の大論争があって、一応今申しました二つの要請は帳じりが合うということになっているようですが、しかし日本でそれをまた再現して、合意を得ていくのは難しい作業かなというふうに思います。
金子(哲)小委員 私はちょっと理解が不十分かもわかりませんけれども、そういう自由というか自由競争とか、そういうことがすべてこの憲法によって抑制されているということではないというふうに思うのですね。人間の尊厳を守るための最低の権利というものを保障していこう。特に、国家対個人の関係に置くと、やはり個人が弱い立場にいるという中で、個人を守っていく精神が憲法の中にあって、そのことが自由競争そのものまで阻害をしているというふうには、私は、ここまで憲法を解釈するのはちょっと無理があるのではないかというふうに思うんです。
棟居参考人 今御指摘の点は、これも、私もかつてそのようなことを書いたこともございます。あっちこっちで違うことを書いておるのではないかと思われるかもしれませんが、そういうことでは決してないのでありまして、今の御指摘で、先ほどの私の解説がちょっと不十分であった点を手短に補わせていただきたいと思います。
 おっしゃるように、弱者保護というものが、強い者、可能性のある者の可能性をそいでしまう、決してそういう矛盾するものではなくて、むしろ、強い者も弱い者も通じて、ミニマムの保障として政府が一定の、まさに憲法二十五条で、健康で文化的な最低限度という言葉を使っておりますけれども、そういったミニマムのスタンダードを保障していくことで、その上に立脚して個人が、それぞれが幸福を追求していく、自由に可能性を広げていく。したがって、弱者保護ということと経済的自由ということは実は矛盾がないのではないかという御指摘だとようやく理解いたしました。そして、それはおっしゃるとおりであろうと思います。
 ただ、その場合に、弱者保護といって今まで説明されてきたものが、果たしてミニマムスタンダードの範囲におさまっておるのかどうか、むしろ、それ以上に行っておるものがあるとすれば、それは削られていくことになるのかどうか、そこまでのコンセンサスがあるかどうかといった問題は直ちに出てくるのではないかと思います。
金子(哲)小委員 それはそのとおりだと思いますよ。社会の状況の中で、先ほどインターネットのお話も出ましたけれども、社会が発展していく段階で、そういうことも社会的な問題として考えなきゃいけないというふうに思うんですけれども、とりあえずそれはおきまして、もう一点質問させていただきたいと思います。
 今日、論議の中で、公共の福祉というか、そういう形の論議が非常に強まってきているということで、先ほど、公共の福祉といえば、どちらかといえば政府や自治体の権力の側にといいますか、そういう行政の側と個人との関係になってくると思うんですけれども、今、そういう側面がかつてよりも強まったのではないか、例えば土地収用法の問題とかいろいろなことを含めまして。その点については、先生のお考えはどうなんですか。
棟居参考人 公共の福祉という言葉は、我々憲法学者の間では、これは憲法に書いてあるのに、不思議なことですが、余り使わない方がよろしいというふうに使用を戒めてきた面がございます。
 これはなぜかというと、公共の福祉という言葉は、文字どおり受けとめると、いわゆる公益といったもの、ありとあらゆるものが入ってきて、その中には、例えば財政上の不都合といったものまでも入りかねない、あるいは行政効率といったものまでも入りかねない。そうした財政上の制約や、あるいは行政効率上の制約が国民の人権を制約する根拠になるというのは、現実にはそのような選択をせざるを得ないかもしれないけれども、理論としてはやはりそれは無理があるのではないか。人権というものが至高のもの、最上のものであるとすれば、財政であるとか行政効率といった、実際上のお茶の間の都合で人権という高貴な価値を制約するというのは、これは理屈が通らぬだろうというふうに考えてまいったわけです。
 したがって、学説の上では、公共の福祉という言葉について従来余り意味を与えないできた。むしろ、直ちに、公共の福祉という言葉を他者の人権といった言葉に置きかえてまいりました。これは、恣意的に憲法学説がしておるということではなくて、西欧近代の古典的な自由主義が、他人の自由のための制約のみが許されるというふうに述べてきたわけでありまして、そういった伝統を忠実に受け継いだ結果でございます。
 ただ、それと別に、最近、公共の福祉というものをもっと積極的に解釈の対象にし、それによって、人権制約について、従来考えられなかったような、例えば町づくりのためのさまざまな財産権規制を大胆にやればいい、町づくりというものは公共の福祉そのものではないかというふうな考え方がどんどん出てきておる。つまり、行政主導による公共の福祉の実現、従来からすれば、そのためのかなり大がかりな人権規制が正当化されるべきであるという理屈がどんどん出てきておると思います。
 そのような公共の福祉論のいわばばっこという現象に対して、どう理論的に対処すべきか。これは、先ほど先生にまさに御指摘いただいた点を振り返ればいいのではないかと思うわけです。
 つまり、自由が展開するためには共通の土俵が要るわけです、それぞれのミニマムのスタンダードが、社会的なインフラが必要なわけです。その社会的なインフラづくりというものを公共の福祉ということの意味だととらえれば、社会的なインフラのために表面上は何かそれぞれの財産権その他の人権が制約されておるようでも、実は、個人の自由がより自由に発展するためのインフラづくりなわけですから、これは自分自身にとってもステップになる、そういうある種の制約、最初に我慢すれば、これは足をかがめるようなもので、次に大きくジャンプできる、こういう観点からの公共の福祉という説明ができるのではないかと思います。ただ、そこにはもちろん一定の制約があるということも当然のことでございます。
金子(哲)小委員 時間になりましたので、ありがとうございました。
島小委員長 次に、井上喜一君。
井上(喜)小委員 私は、保守党の井上喜一でございます。
 この基本的人権の関係につきましては、人権を伸長していく、より広げていくというような積極面からとらえる見方と同時に、権利に内在する制約といいますか、あるいは公共の福祉というような観点からの制約もあると思うんですが、私は、きょうの質問は、後者の方の視点からさせていただきたいと思うんです。
 我々が生きております社会は、個人の自由とか権利、これも大切でありますけれども、同時にまた、共同体との調整をしないといけないものもあると思うんです。
 そこで、憲法にいろいろな権利が規定されておりますけれども、代表するものとして基本的人権がありますけれども、この基本的人権にも本来内在する制約のようなものがあるのではないかと思うんです。こういうものとしてはどんなことが考えられるのか、御意見をまず伺いたいと思います。
棟居参考人 今のテーマは、下手をすると授業になりますので手短にさせていただきますが、内在するという場合に、私は、二つに分けて考える必要があるというふうに思っております。
 その第一は、まさに古典的な人権、自由権であるがゆえに、他者の人権を傷つけてはいかぬ、あるいは他者の尊厳を傷つけてはいけない、他人の生命、健康を損なう、これはもってのほかである。こういう、自分が自由を行使したければ、他人の同等の自由その他の権利も尊重しなさいよ、相身互いという、本来の内在的な制約論であります。
 しかしながら、それ以外に、内在的制約という言葉でよく説明されますが、実際にはまた別物の制約というものがあり、そして最近出てきておるのではないかと思うわけです。
 先ほどの質疑の中でも少しございましたが、社会的なミニマムのスタンダードを実現していくために、一見、ある人の人権行使に対して制約をかける、しかし、その人の人権は、その社会的なミニマムが整備されることによって大きく飛躍できる、こういった場合の制約も内在的制約という言葉でしばしば呼ばれておると思います。
 私は、むしろ、そのような場合には、内在的制約というよりは、社会システムを整備していって、人権が展開できるルールづくりをしていく、その途上に必然的に出てくる制約ですので、制度的な制約とでも呼んでおいた方が区別のためにはいいのではないかなと思っております。
井上(喜)小委員 次に、先ほども質問に出ておりました公共の福祉、この概念は大変幅の広い概念だと私は思いますし、また、時代とともに大きく変化をする可能性のある概念ではないか、こう思うんです。
 だから、こういう公共の福祉というような観点から基本的人権なんかが制約をできる部分と、どうしてもできない部分もあるのではないかと思うのでありますけれども、しかし、本来かくあるべしというようなことで、きちっとそこが整理をされるようなものでもないと思うんですね。
 そういたしますと、具体的には、立法措置によりまして、これが公共の福祉だ、したがって基本的人権が制約できるとか、あるいはできないとか、こういうことになってくるのではないかと思うのだけれども、立法といいますのは、これは国会での多数決で決まっていくものです。もちろん、最高裁判所の違憲立法審査権はありますが、具体的にはそういうことだと思うんであります。この公共の福祉の判定というのは議会の意思というぐあいにおおむね考えてよろしいのかどうか、その辺のところをお伺いいたしたい。
棟居参考人 公共の福祉というものを結局最終的にだれが決めるのか、これは最終的には先生がおっしゃるように議会であろうと思います。
 最終的な議会の決断には、しかしながら限界があり、その限界線を引く、これは最高裁を終局審といたしますところの司法権が、司法審査権を行使することによりまして一定の線引きをしていく。しかし、何が具体的な公共の福祉かをその都度お決めになる最終的な権限の所在は、言うまでもなく国会、議会でございます。それは先生の御指摘のとおりです。
 そのように議会が決めていくということで、したがって公共の福祉というものが、では一〇〇%説明できるかというと、もしそのような説明を仮にするとすれば、議会がつくった法律の前には憲法が掲げておる人権保障もすべて形なしということになってきかねないわけでございまして、仮にそのような解釈をとるならば、憲法は国会の立法権との関係では必ずしも上位に立つとは言えなくなってしまう。特に人権保障の点においては、立法権にはにらみをきかすことができず、行政権に対してせいぜいにらみをきかすことができるにすぎない、こうなってしまいます。
 このような人権保障のあり方も、かつては、法律の留保と呼ばれる今日的には極めて不十分な姿のもとではございました。大日本帝国憲法の臣民の権利ということですが、人権規定は基本的に法律の留保に服しており、かつ、これは西欧におきましても、十九世紀を通じて古典的な自由主義の花盛りにおきましてもやはり法律の留保がついておった、国会が法律で制約をする分には妨げがない、そういうスタイルをとっておったんですね。
 しかし、今日的には、人権のコア、核心というものがあり、それに対しては、いかに公共の福祉の認定権が国会にあるといっても、それを侵害するような立法は違憲になるはずだ、このような解釈が出てきておると思います。また、そのような言い方をしないと、従来の法律の留保のもとの弱い人権保障と今日の強い人権保障の区別が立たないということになってしまうわけでございます。
井上(喜)小委員 抽象的で、もう一つわかりにくいのでありますが、性格上そういうものかと思うんです。
 そこで、憲法改正の議論が前の発言から出ておりましたが、確かに、どのような憲法をつくっていくのかということは、国会において大いに議論をしていくということが基本的に必要だと思うんですよ。確かに、レールでいえば、どんな幅のレールをつくるのかとか、どういう強さのレールをつくっていくかというのは国会で議論すればいいじゃないか、こういうお説だったのでありますけれども、仮に憲法の改正があるとすれば、先生としましては、基本的人権に関するところにおいては、これとこれとこれは少なくとも改正すべきだとか新しく入れるべきだ、こういうような御意見もあろうかと思うんです。おありでしたら、率直に御意見をお聞かせいただきたいと思います。
棟居参考人 私は、プライバシー権について特に関心を持ってまいりましたということもあり、プライバシー権についてはぜひそういう機会があれば入るべきである、このように考えております。
 また、そのプライバシー権というものが一つの権利としてほかと相並ぶというのではなくて、むしろ個人の尊厳に直結したものとして、そのようなプライバシーを保護するという個人の尊厳が尊重されて初めて表現の自由その他の自由権が成立してくるんだという、この前後関係がはっきりするような、つまり、総花的に並べるというのではなくて、人権相互の前後関係、論理的な順序関係がはっきりするような規定が望ましいのではないかと思っております。
井上(喜)小委員 どうもありがとうございました。
島小委員長 次に、近藤基彦君。
近藤(基)小委員 自由民主党の近藤でございます。
 一番私自身が先生のお話を聞きたかったのが、一番最後の5の市民社会。先ほど大出先生の方からも若干質問がありましたけれども、憲法に、国家と個人というのは書きやすいというか書ける部分だろうと思うのですが、市場、ボランティアあるいは民間セクターという部分を憲法に明文化する、「役割分担が憲法上明記されることになり、」と書いてありますけれども、この辺の市民社会という部分をもう少し説明していただけるとありがたいのですけれども。
棟居参考人 市民社会について、どこまで記述ができるか、あるいは少なくとも今の私にどこまで用意があるかというと、これは非常に難しい問題はもちろんございます。
 ただ、先ほど申しませんでしたが、日本国憲法自身が、例えばNPOについてどういったスタンスをとっているかというと、NPOという言葉自体は存在しないのですが、八十九条という条文がございまして、そこでは次のように述べられております。「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」
 今のNPOに関連する部分は後半部分でございます。つまり、公の支配に属しない慈善、教育、博愛。仮に慈善に限定しておきますと、慈善事業を行っておるNPOという民間の団体は、これは自然発生的に民間でされておるわけですから、本来的に公の支配に属しない存在のはずであります。そういった存在に対しては公金を支出したら憲法違反ですよ、こういうことが書いてあるわけでございます。
 ただ、この八十九条については教育ということも並んでおりまして、うかつにこれを条文どおりに読みますと、私もそれに属しておりますが、私立学校に対してなされております国からの助成金の交付が憲法違反になってしまうということもあり、だからというわけではないのでしょうが、余り学界でも、ここいらは条文とは違い合憲だという解釈を、ほかの例えば教育を受ける権利などを動員しながら、私学に対する助成金については合憲だという解釈を何とか編み出してきておるわけでございます。
 ただNPOについては、話を戻しますが、八十九条は、本来自主独立であるべき存在で、それは財政面においてもおよそ国には依存するなという極めて厳しいスタンスをとっておるということなんですね。そのような、国からよくも悪くも遮断された、財政支援も全く受けないNPOというものが仮に戦後五十年の間にどんどん力を蓄えてきておるとすれば、第三の極である市民社会というものが今日成熟しておる段階に日本社会は来ておるということになろうと思います。しかしながら、本来民間のNPOなどがやるような例えば福祉的なことも大幅に官が従来行ってきたわけでございまして、NPOというものがなかなか育つ土壌がなかった、あくまで二極の官対民というだけで来たということであろうと思います。
 では、NPOというようなものが、日本国憲法はそれに対して非常にある意味で冷淡な態度をとっておるのだけれども、そのもとで成熟してきたとして、今、自主独立の市民社会ができたとして、それを憲法で取り込むとすればどのような形でかということなんですが、私は、今の日本国憲法の八十九条のように、公金は一円もやらぬ、全部自分でやれ、それがNPOじゃないかという態度ではなくて、むしろ国家がレールを引くとかミニマムスタンダードを用意するとかいったところまでは、個人がNPOなどの中で自由にその能力を発揮でき、基本的には、官依存社会から脱却して、市民社会が成熟していくための土俵づくりについては、国家が財政支援等を含む関与をしていいような条文を用意するといったことが八十九条あたりでは要求されてくるのじゃないかなというふうに思います。
 それ以上に大きく、市民社会といいますかNPO的な第三のセクターがどこまでのものとして憲法上取り込まれるべきかということについては、今正直なところクリアな答えは用意できません。ここでも書いておりますように、むしろ、市民社会の中を国家が描き切るということ自体が無理であり、また適切でもないわけでありまして、それよりも、憲法があるいは国家がどこまでの守備範囲を持ちますよ、あとはそっちでどうぞという、ブラックボックス化した市民社会だ。しかし、そこまでの距離感とか、あるいは市民社会を支える物理的な基盤とか、そういうことについては憲法が国家の責務として手当てをしておく、こういうかかわりが望ましいと考えます。
 抽象的で申しわけないですが、その程度のことしか考えておりません。
近藤(基)小委員 ありがとうございました。
 ちょっと人権とは離れてしまうかもしれませんが、現行憲法が制定される経過も私ども調査会でかなりやったんですが、その後、現行憲法が制定された後、この憲法を教育の場の中に持ち込もうとした節が数年あります。それが中学の教科書の副読本という形で数年間発行された経緯があるんですが、その後、ぱたっととまってしまった。
 先生、私どもにいただいた資料の中に「見えない憲法」という、先生のレジュメの中にも理念と現実という形で、現実の部分が恐らく「見えない憲法」ということになるんだろうと思うんですが、先生の「見えない憲法」というのは、いわゆる憲法を解釈した運用面で来ているのか。それとも、この論文の中には本音と建前という日本的な部分が非常に書いてあるんですが、そういうふうに使い分けられてきた部分を指しているのか。
 もし運用面で来ているとすれば、本当に解釈を運用だけの面で運用していっている部分があるものだから、現行憲法の成文がなかなか教科書の中に取り入れられてこなかったということになるのか。あるいは、押しつけ憲法だと言われている部分もありますが、そういった押しつけ憲法がゆえに本音と建前論が出てきて、「見えない憲法」という部分がひとり歩きをしていきながら、何となく現行憲法が「見えない憲法」の中で支配されているような形になってきているのか。その辺、先生のお考えで結構でございますので。
棟居参考人 どうも恐れ入ります。
 今、まず「見えない憲法」という私の造語について言及いただいて、大変光栄でございます。
 これについては、先生が、運用面に限った話なのか、ただそれだけのことを申しておるのか、それとも建前と本音といった意味もあるのか、こういうお尋ねでございました。その両方の意味で使っておるつもりでございます。
 ただ、本来は運用面で適宜条文を現実に合わせていく、これはどの法律でもやることですが、そのような運用レベルの法律の使い回しといった意味でこの「見えない憲法」的なものが成立してきたのであろうと思いますが、それがいつの間にか、むしろ建前と本音というのか、第二の建前のようになってきておる。
 国内向けには、日本というのはこういう社会的な構造を持った国家ですよ、こういう価値を重視しますよ、そういう国内向けの日本的な憲法秩序の解説というか、全体のコンセンサスの中で、そして、これは先生方が立法される際にもそのようなコンセンサスに恐らく導いて作業されているはずですが、そういった社会的なコンセンサスの中で、いわば第二の建前として「見えない憲法」というものが定着をしてきた。そこでは、個人の自由濶達な、ベンチャー的な、ある意味で冒険的な経済的自由よりも、むしろ弱者を保護するといったことに力点が置かれる、こういったことがあったのではないかと思います。
 ですから、最初はこっそりとした本音であったもの、あるいは単なる運用面の工夫にすぎなかったものが、いつの間にか一つの建前のような大きな顔をし出しておるということで、それに対して、本来の建前である日本国憲法の個人主義的な経済的自由、これを再び今確立しようということが構造改革という言葉で恐らく語られている。憲法レベルではそういうことかなというふうに私は勝手に理解をしております。
 そして、先生御指摘の押しつけ憲法ということとこの「見えない憲法」の発生といったものがかかわっておるかどうかについては、これはある意味ではつながっておると思います。つまり、自然発生的に下から立ち上がってきた個人主義や民主主義でなかった。外から、上からあてがわれたものであった。間尺に合わないので、最初は使い分けをしておった。しかし、使い分けをして発明した「見えない憲法」の方が日本の本来のルールであるかのようになってしまった、こういう面は特に経済的自由の世界では強いと思います。
近藤(基)小委員 どうもありがとうございました。
島小委員長 それでは、今野東君。
今野小委員 本日は、貴重な御意見をありがとうございました。
 先生のお話を伺うについて、私も先生がお書きになって発表しておられる「日本国憲法を読み直す」という本の中の「日本的秩序と「見えない憲法」の可視化」というところを読ませていただきました。この中で、先生は憲法についての三つの選択肢を示していらっしゃいます。私たちはこの憲法調査会でさまざまな議論を重ねてきたわけですが、どうしてもその先には、それでは我が国はどういう憲法がふさわしいのかという思いがあります。私もそういう思いがありまして、興味を持ってこの部分を読ませていただき、そしてきょう質問させていただきたいと思うんです。
 先生は、憲法についての三つの選択肢の中で、個人の尊厳を中核とするグローバルスタンダードを成文憲法のレベルで貫徹するというものが一つ、もう一つは、日本的価値をアレンジして、「見えない憲法」を一部成文化した憲法、それからもう一つは、議論のフォーラムとしての憲法という三つの枠組みを私たちに示してくださっております。
 この三番目の議論のフォーラムとしての憲法についてなんですが、先生は、直接民主主義の部分的導入ということをここで言っていらっしゃいますが、重要な問題については国民投票をと、あわせておっしゃっていますが、例えば国民投票をするとして、それでは投票するときの判断は、私たち国民は何によって判断をするのでしょうか、お尋ねします。
棟居参考人 直接民主制という場合に、国民投票というものが、全面的にではないにせよ、これは技術的にも無理でありますので、部分的に取り込まれるということになろうかと考え、今先生御紹介のような記述をしたわけでございます。
 その際、先生御指摘のように、問題になりますのは、国民は何についての判断をするか。これは、言い方を変えますと、国民に対して提案をする、発案をする側、これを議会が行うか、あるいは内閣が行うか、いずれにしましても、発案をする側がどのようなメニューで発案をするかによって、例えばアンケートの場合には、聞き方によってかなりデータが動いてくると言われております。同じような、イエス、ノーの分布の変化というものが発案の仕方によって出てくるということがあるとすれば、直接民主制だ、国民投票だといっても、これは決して民意を正確に反映したことにならないのではないか、そういうリスクがあるのではないかという御指摘に受けとめました。そして、それはまさにそのとおりであろうと思います。
 ただ、あらゆる政治が恐らくそうであろうと思うんですが、必ず何と何を比較し、そのどちらをとるか。今の国民投票もそうですが、そもそも直接民主制といいますか、こういう劇薬を部分的にせよ導入するというかなり冒険的なことを申しておりますのは、代表民主制というものが国民にとって根強い不信が、こういう場で申し上げるのは心苦しいですが、やはりもう今打ち解けがたい不信があるのではないか。
 結局、だれかが得をし、だれかが損をしておるというそのレベルでしか国民が議会で行われておる議論に関心を持たないとすれば、議会は国民のコンセンサスを立法という形で形にしていく機能が既に相当低下してしまっているんじゃないか。これはもちろん国民の側にも問題があるわけです。ただおまえが悪いと言ってみても、だからどうなるという話でもなかろうと思います。
 したがいまして、後戻りができないように、ある時点で国民自身が決意を明らかにする、そういう直接民主主義的な手法が、常に行きつ戻りつして、ああでもない、こうでもないと同じところで議論がぐるぐる回っているかのような状況の中では、突破口として求められてくるのではないかなという判断でございます。
今野小委員 つまり、民主主義の正当性の低下、打ち解けがたい不信とおっしゃるのはそういうところだろうと思いますけれども、それがあるからといって直接民主主義を取り入れようというのは、私は、大変危険な部分があるのではないかと危惧いたします。
 発案をしてから、そして、イエス、ノーを判断するまでの間にはどうしても、私たちの情報を得る方法としては、考えれば、マスコミが介入してまいります。情報をまとめて発信するものとして、それでは日本のマスコミが正しく機能しているかどうかということを考えた場合に、私は、今の日本のマスコミ、特にテレビは報道機関ではなく娯楽機関になっていると思います。全部が全部とは言いませんけれども、多くがそうでありまして、娯楽機関の延長として報道がある。
 例えば、ワイドショーなんかを見ておりましても、いかにも日本のあらゆる情報を放送しているかのように見えますが、しかし、社会の周辺で起きている刺激的なことのみを切り取ってきて、それを映像として放送している。そういう情報は流すけれども、それは非常に細切れでありまして、丁寧に、今私たち国民にとって何が必要なのかということを真剣に放送しているとはとても思えない。
 そういうマスコミの姿勢の中で、直接民主主義を、あるいは首相公選制を真剣に考えるべきという先生の考え方は大変危険な部分があるというふうに思うんですが、マスコミのあり方と先生の今のお考えをもう一度お聞かせいただきたいと思います。
棟居参考人 まず、マスコミのあり方ということについてでございますが、これはもう、それこそ競争によって、どんどん娯楽化していく面もありましょうが、他方では、もっと真剣な討論の方に行く、こういうルートも、全体の中では一部かもしれませんが、逆に、良質のものが値段は高くても提供されるという面もあるというふうに、私は、マスメディアにおいても競争というものがやはり機能すると思っています。
 したがいまして、今の放送のシステムというものは、チャンネル数に限定があるといういささか古い技術的な前提の上に成り立っておりまして、視聴率競争はシビアだけれども、必ずしも真の自由競争になっておらない面があり、その弊害ということもあるのではないかなというのが私の見立てです。
 したがって、これからどんどんCS等を通じましてチャンネル数がふえていく、あるいはインターネットもそのライバルになっていくということになりますと、よくなるというふうに楽観的に考えているというのが一点です。
 そして、第二点、そのような楽観主義は、つまり直接民主主義あるいは首相公選、この二つは区別した方がいいかもしれませんが、といった国民の民意を直接問う仕組みの場合には、マスコミの扇動と相まって極めて危険ではないか、代表民主制のよき安全装置というものを損なうことにならないかという御指摘だろうと思います。
 これについても、そういった民意に対するいわば警戒というものは、民主主義の未熟と言われても仕方のない状況であり、みずからの未熟さを恐れる余り、みずからの判断を他人に任せて知らぬ顔をして、結果だけ文句を言う、こういう後出しじゃんけん的な民主主義に今日本はなっていると思うんですが、これでは民主主義の成熟にもなかなか向かわないのではないかな。
 また、逆に、直接に民意を問うという制度を設ければ、発案権は恐らく国会あるいは内閣に留保されるはずですから、最初は試行的に、どうでもいいと言ったら語弊があるかもしれませんが、試しにいろいろやってみたらよろしいんではないかと思うんですが、そうやっていく中で国民も成熟していく。こちらもさっきのマスコミと同じように、私は楽観的に考えています。
今野小委員 時間がありませんから、私の短い意見を述べさせていただきまして、終わりにしたいと思います。
 私も、国会に来る前はマスコミで、特にテレビの世界で仕事をしておりまして、例えばニュース番組をつくるときに、いろいろなニュースが起きた現場に取材に行きまして、そこから原稿が上がってきます。たくさんの原稿が上がります。一時間番組のニュース原稿ですと、一時間の中で全部それを消化できません。そして、何を放送し、何を放送しないかというのをそこで決定します。そして、何を一番最初に放送するかというのも人が決めます。何を一番最初に放送し、何を放送するかというときに、より刺激的な、そして、より視聴率が上がる順番を考えて放送していくのです。それは、どんなにチャンネルがふえても、聞き手あるいは見てくれる人を意識する場合に、その作用がどうしても働いてしまいます。
 幾つかの委員会で質問をさせていただきましたが、ここは大変重要なところというところにマスコミのテレビカメラは入ってきません。そして、あるときどどどとテレビカメラが入ってくると、田中眞紀子さんが答えるときです、大臣として来るときです。
 今のマスコミの現状というものを、これでいいのかということ、ここに政治が介入するというのは大変危険なことで、もちろんこれはしてはならないとは思いますけれども、マスコミのありようということをここでもやはり考え直してもいいのではないかということを申し上げまして、終わりにします。
 ありがとうございました。
島小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつ申し上げます。
 棟居参考人におかれましては、新時代の人権保障というテーマで貴重な御意見をお述べいただきまして、ありがとうございました。また、多種多様な質疑がございました。それにお答えいただきましたこと、ありがとうございました。きょうの御意見及び質疑を参考にさせていただきまして、また小委員会として議論を深めていきたいと思いますので、よろしくお願いを申し上げます。小委員会を代表いたしまして、心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)
    ―――――――――――――
島小委員長 これより本日の参考人質疑を踏まえまして、小委員間の自由討議を行いたいと存じます。
 一回の御発言は、五分以内におまとめいただきますことをお願いします。小委員長の指名に基づきまして、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたしたいと存じます。
 小委員の発言時間の経過につきましてでございますが、終了時間一分前にブザーが鳴ります。また、終了時にもブザーを鳴らしてお知らせしたいと存じますので、よろしくお願いを申し上げます。
 御発言を希望される方は、お手元にありますネームプレートをこのようにお立ていただきまして、そして御指名をお待ちいただきたいと思います。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願い申し上げます。
 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。
中山会長 きょう松島委員が御発言になった親と嫁との関係、しゅうとと嫁との関係、これは非常に大事な指摘だったと私は思うんですね。
 それで、現行憲法が制定されるときの旧帝国議会の貴族院において、新憲法の中に家族に関する事項が全然取り上げられていないということを指摘した委員がおられます。これは議事録に載っております。
 今日、日本の社会において、家族の中における対立、争い、こういったものが非常に多く発生してきている。中には、ひどいものになると、親が子を殺すとか子が親を殺すといった事件まで今起こってきているわけです。昔だったら、尊属殺人、これは死刑ということで、旧刑法で決まっていたわけですね。
 こういう日本の一つの美しい点であったと言われている家族の協力とか、こういった問題について、現行の憲法下でそれぞれ子供に平等な権利が与えられているということで、財産の分与について一つの大きな社会問題が提起されているのを松島委員は率直に御指摘されたんだと思います。
 これから日本の社会構成の中で、一つの単位としての家族と個人、この問題を松島委員は、もし新しい憲法をつくる場合、あるいは新しく条項をつける場合に、どういうふうなことを考えるべきか、この点についてお考えがあればお聞かせをいただきたいと思います。
松島小委員 中山会長から御指摘いただいて、ありがとうございます。
 実を申しますと、美しい家庭のありようとか美風というのは、私の視点とは全く異なるものでございます。その美風とか、そういう観念のとらえ方によってねじ曲げられてきたものがあるのではないか。
 例えば介護においても、私は、介護保険の導入は非常に賛成だったんですが、その賛成というのは、子供であり嫁である立場からして、不当に女性の肩に乗りかかるのが嫌だという意味で賛成でございました。自民党を含める幾つかの、自民党など顕著でしょうけれども、男性議員の中には、介護保険なんてとんでもない、そういう家族の美風で支えるのが当然だという意見もあったんですが、私はこれを外部経済化した方がいいと思った人間でございます。
 先ほど申し上げましたのも、ある意味で、そういう美風というのをおいておいて、経済性の観念に置きかえた方がまだすっきりするのじゃないか、そういう思いで発言した。苦労は報われなければいけない。報われ方として、やはり、ありがとさんという一言だけではなくて、一応合理的なことがないといけないんじゃないか、そういう思いでございまして、ちょっとそれだけ申し上げておきたい。
 それともう一つ、経済合理性でいいますと、相続ということでついでに申し上げさせていただきますと、例えば家族経営の自営業者の場合に、これも分割相続すると、法定相続するとだめになっちゃうので、親から例えば豆腐屋を継いだ、ふろ屋を継いだ、そういう人に、一人のみに相続されるべきではないか。かつて、合理的に子供の数で全部分けるのが一番平等と言われたけれども、そうじゃなくて、負担を背負う者あるいは義務を実施する者が利点というか相続を受けるべきじゃないか、私はそういう考えでございます。
中山会長 よくわかりました。
 そうなってくると、松島委員のような御指摘であれば、遺言状の効力というものが非常に大きくなってくると思うんですね。例えば、親が生前に嫁に幾らやるとか、あるいはどの息子にやるとかいったような遺言状というものがどの程度のこれから必要性が出てくるか、この点についてどうお考えですか。
松島小委員 一つだけ申し上げさせていただきますと、遺言状というものが重要になるということと同時に、相続というのは、家族間、特に夫婦その他の場合は、相続税というのは百人亡くなったとして五件にしか発生していない、非常に税の優遇がされていると思うんですけれども、私は、それを生前贈与に切りかえるべきではないか。生前贈与というものを、今は一年間に百十万円だけ無税で贈与できますけれども、これにもっと大きな比重を持たせて、そのかわり、亡くなったときの相続から差し引く。生前贈与だと遺言よりも確かなんじゃないか、そういう考えです。
 以上です。
中山会長 ありがとうございました。
島小委員長 今のような形で、中山会長のやられた質疑という形でやっていただいても結構であります。ただ、そのときは持ち時間五分間の中でと考えさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
春名小委員 私は、新しい人権と憲法との関係に絞って発言をさせてもらいます。
 いわゆる環境権、それからプライバシー権、知る権利という新しい人権ですが、五十年前の憲法制定当時には当然予想できませんでした。ですから、これらの権利を保障するために明文規定が必要じゃないかという意見もあります。棟居参考人によりますと、新しい人権のほとんどは、もともと、個人の尊厳といった、憲法上保障されている基本的な価値をしっかり守るために新たに考案された司法的な救済手法というものであることが指摘されました。
 何か新しい権利が発生すれば、必ずそれを憲法に明文規定しなければならないというものでもないと思います。同時に、憲法に明文規定がありさえすれば、直ちにこれらの新しい人権が保障されるというものでもまたありません。むしろ、憲法制定後の人権保障の歴史を振り返ってみますと、既存の人権規定すら十分に守ってこなかったという実態があるのじゃないでしょうか。現行の人権規定を豊かに解釈して、それを生かす国民の不断の努力によって新しい人権は保障し得るということを国民の運動が証明してきたということが言えると思います。
 例えば環境権ですけれども、四大公害裁判、それから大阪空港の騒音被害、こういう闘いがありました。国民がよりどころにしたのは、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、この規定、二十五条、それから幸福追求の権利、第十三条。裁判所が判決を下す際によりどころにしたのもこれらの規定でした。
 憲法第十二条が、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」この憲法を政治や社会に生かすのは主権者国民であるということが強調されています。それは、憲法の条文を、そこに書かれている範囲内で守ればいいと言っているんじゃないと思います。
 そして、第九十七条では重ねて、この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり、現在及び将来の国民に保障されると述べているように、将来に向けて発展させていくことも見通していると思います。すなわち、憲法制定当時には予想できなかったことが起こった場合でも、第十三条などに基づいて、さらに豊かに発展させていくということを国民に求めているのであると思います。
 アメリカ合衆国の憲法でも、修正第九条に、この憲法に一定の権利を列挙したことをもって、人民の保有する他の諸権利を否定または軽視したものと解釈してはならないというふうになっています。これも同様の考え方によるもので、憲法とはそういうものだと思います。
 国民の人権の内容も、社会の発展とともに大変豊かな内容が求められるようになるのは必然だと思います。その際、日本国憲法の人権規定は、第十条から第四十条まで三十一条にわたって、大変豊かに、何の制約も設けずに保障していますし、将来発生するであろう権利についてもそれを保障するという、大変懐の深い構造を持っていると私は考えます。
 したがって、今日求められていることは、私、最初に言いましたように、企業による労働者への不当な人権侵害とか、そういう現実を実際正していく、国民の運動によって発展的に生み出されてきた新しい人権について、この豊かな人権規定を生かして本当に保障していく、そういう憲法政治を実現することが今何よりも大事になっているということを痛感しておりますので、発言とさせていただきたいと思います。
島小委員長 この自由討論は、今までと違いまして、事前に各会派からのお申し出がなくても自由に御発言していただいて結構でございます。よろしくお願いします。
今野小委員 私は、外国人の人権について考えてみたいと思います。
 きょうはたまたまそういうところが出てきませんでしたけれども、外国人の権利保障というのは、国際社会、国、地方自治体、地域のコミュニティーにおいて有する連帯の権利に深くかかわるものだと思います。人権の自然権的性質から、外国人の人権を保障するという考え方はだれもが多く共有するものだと思いますが、国民の権利義務には外国人の人権というのは明文化はされておりません。
 そして、憲法について、改正した方がいい、改正しない方がいいという、大きく分けて二つの議論がありますが、特に春名委員にお尋ねしたいと思いますけれども、この外国人の人権について、現憲法には明文化されていないと思うのです。しかし、第十六条、十七条、十八条以降には「何人も、」という書き出しで始まっているところがあるんですね。ここでは外国人の権利も保障されているのかなと、ちょっと考えがまとまらないところがあるんですが、仮に憲法を改正しないという場合、外国人の権利保障、人権というのはどのように考えたらいいんでしょうか。
春名小委員 しゃべってもいいんですか、五分過ぎても。
島小委員長 今野委員の五分以内に質疑という形で、そういう意味です。
春名小委員 先ほど申し上げたように、外国人について直接の規定はありませんので、私は、だけれども、この第三章、国民の権利義務、特に三十条にわたる権利の中で、いろいろな角度でその問題についても対応できるというように思っています。
 地方政治に対する参政権を付与するということも、この憲法のこういう人権規定の中から当然必要だ。それから、地方自治という観点で考えたときに、これを付与すべきだということが今解釈されてきているように、私は、直接その文章がないからといって、外国人の人権を守るということがこれでできないというふうには考えておりませんし、運用上で十分可能ではないかなと思っています。
今野小委員 ありがとうございました。私はこれで結構です。
金子(哲)小委員 社会民主党の金子です。
 私は、先ほどの質問の中でも何度か申し上げましたけれども、憲法に規定をされている基本的人権というのは、憲法そのものは国家の最高法規ですけれども、別に最高のすべてを決めている中身ではないというふうに思っています。
 つまりは、最低これだけは日本の国民にあって守られるべき権利というものが規定をされている。特に、これまでの、特に大日本帝国憲法下における国家対個人の関係の中で、抑制され抑圧された歴史的な経過の中で、その誤りを繰り返してはならないということで、最低の権利を保障していくということが基本的人権の尊重の中に私はあるように思うのです。
 そうして見ますと、例えば十三条は非常に重要な条文だということを言われております。これを当てはめればすべてのことが包含されるのではないかと言われるぐらいのことですけれども、その中にもありますように、立法その他の国政の上で行うことができるわけであって、例えば環境権の問題にしてもそうです。
 私は、人の命といいますか、健康を守っていくということの延長の中に、より高めていくための法律をつくって、促進をしていくということが今の政治の中に求められているのであって、一部に例えば環境権の問題を盛んに主張される皆さんがいらっしゃいますけれども、では、実際の今までの立法の措置の中でそのことをどれだけ積極的にやってきたのか。憲法に仮に規定がなくても、環境権を法律上に幾らでも保障することはできたはずであるけれども、それができていないことを、あたかも憲法の問題、憲法上の条文の問題にするということがもし論議されるとしたら、私はこれは誤りではないかというふうに思います。
 先ほどの先生のお話にもありました、それは古典的という意味でなくて、私は、今の社会の、政治の中における、例えば経済の自由なんということは、憲法に書かれてなくても、当然行い得ることであって、先ほど申し上げましたけれども、国家対個人の関係の中で、国家の力、国家の抑制する統制権によって個人のさまざまな権利が侵害されることを守るというところに憲法はあるということを基本的に認識した上で論議をしないと、この憲法の基本的人権の問題にかかわる論議は問題が出てくるのではないかという思いを強く持っております。
 そのところでいえば、最近の新しい人権で言われるような、例えば知る権利も含めて、今の憲法の中でも幾らでも、法律制定することによってそのことを押し広げていく、それは豊かな国民の福祉とか幸福の追求権を拡大するという意味で、法律上で、この現憲法の中でも、我々特に立法側の努力によってそれを推進することができるということを強く思うということを申し上げておきたいと思います。
茂木小委員 先ほど来、春名委員それから金子委員の御発言をお聞きしていますと、確かに現行憲法下でも基本的人権を守るための措置というのは十分入っている、そこの中のまた努力が足りない部分もあるんじゃないか。御指摘、もっともだと思うのですが、しかし、私は、違った意味で、例えば環境権の問題にしてもそうなんですが、時代環境の大きな変化というのももう一回見詰め直す必要があるんじゃないかな。
 例えば、近代も含めて人類の歴史というのは、少なくとも二十世紀の中盤までは、大変厳しい自然環境に対して、人類が科学技術の成果によって自分たちを守ったりする、またそれに打ちかっていく、こういう歴史であったんですが、しかし、ここ十数年起こっていることは、その科学技術の力を使うことによって自然を人類が破壊するようになり、それがまた人類に及んでくる。
 こういった意味で、これからの時代は、人類が科学技術を使って自然に打ちかつのではなくて、科学技術等々の力を利用しながら、いかに人類と環境が共存していくか、こういうことを考えなきゃならない、そういう新しい時代に入っている。そういう時代になったときの憲法のあり方、これは環境権も含めて考える必要があるんじゃないかなと思っております。
 それからまた、違うポイントでありますが、先ほど中山会長の方から家族の問題について御指摘がありまして、まず、それにつきまして二点ほどコメントをさせていただきたいと思うのです。
 一つは、先ほど松島委員の方からお話がありました相続と贈与の話でありますが、私も意見一致するところがありまして、例えば、アメリカ、イギリス、フランス等々の税制を見ておりますと、生前贈与、いわゆる贈与税と相続税が全く同じ体系で組み立てられている。個人が自分のライフサイクルの中で、どういう段階で資産の移転をすればいいか、こういう構成になっておりまして、日本の税制とは随分違うな、ここら辺は税制として私は見直していく必要があるんじゃないかなと思っております。
 それからもう一点、今度は家族というものを考えた中で、家族のそれぞれの構成要員の関係。例えば殺人の問題にしましても、子供が親を殺す場合と親が子供を殺す場合で、刑罰が違っているわけであります。これは、場合によっては過去の家父長制的な伝統を引きずっている部分もあるのかな、こういう考えも持っておりまして、もし、きょう参考人が言ったような形で、国家と個人の間に一つの社会とか家族というものを位置づけるとしたならば、その家族の中における個人の関係、これももう一回見直す必要があるんじゃないかな、こんなふうに私は考えております。
松島小委員 私、先ほど今野委員が外国人の人権ということをおっしゃいまして、それにも絡むんですが、日本国憲法一つある中で、いろいろな法律がある。その法律及び行政があって、それが矛盾しているんじゃないかといつも悩んでいることがあるので、結論は何がいいかわからないんですけれども、ちょっと申し上げたいと思います。
 日本人と外国人の結婚なんですけれども、これは多分、区役所というか、自治体の窓口では、どんな結婚も、二重婚でなければ受け付けてくれるわけですね。それから発生する問題で、相手が例えば、これまで不法滞在を繰り返してきて国外に追放されて、たまたまそのとき国内にいる人とか、あるいは外国で知り合ったとか、いろいろなケースがございまして、皆さん方も御経験あるかもしれませんけれども、知り合いから、有権者なりから、婚姻届を出して夫婦になった、なのにその配偶者が国内に入ってこれない、法務局ははねつける、とんでもない、何とかせよという、何かよく言われる陳情みたいなのが来る。私どもはそんなのは役所に取り次いではいけないわけですけれども。
 そのときに、考え方として、それが人道的にいけないと見るか。私は、やみくもにとにかく婚姻届だったら全部受け付ける方が悪いと思っているんですけれども。何でもいいということにしたら、法的な秩序、いろいろ悪いことをしたとか不法滞在した人はやはり国外に出てもらうというようなことが許されなくなるわけですから、その兼ね合い。片っ方で、結婚相手と認めちゃった。普通の国民からすると、区役所で認めた、だから夫婦だ。そういうとき往々にして、その配偶者にかつて日本で悪いことをしたことがあるなんて思いたくないものですから、我々は正義の愛に貫かれているのに日本国は何てことをするんだと文句を言われるわけですね。
 この辺、ちゃんと見きわめて受け付けるか、あるいは受け付けたら全部入れるのかどっちかにしてもらわないと、このちぐはぐ状況というのは常に思っているのですけれども、どなたか御意見があれば、またよろしくお願いします。
小林(憲)小委員 民主党の小林憲司です。
 基本的人権の保障という問題で、先ほど来から国家と国民との間のお話が出ていると思うのですが、例えば、最近危機的な状況がよく起こっております。テロにしてもそうですし、また国内でも地震の情報などがたくさん出ておるわけです。これに向けまして、未来において、国が抑圧するとか国がコントロールするという意味ではなくて、現状、国が人権を保障し、そして財産や安全を保障しているわけでございますから、それに対しまして、やはりその国をしっかりと守るという意味、そしてまた、その国がしっかりとした基軸を持つために、我々国民が一時的に基本的人権が縛られるような、例えば、この地域で地震が起こるかもしれない、火事が起こるかもしれない、また、他国からの攻撃でミサイルが飛んでくるかもしれない、ここにあなたたちが住むことは一年間だめですよ、こちらへ移ってください、そういう事態になるかもしれない。
 そういう場合に、今個人の時代、家庭の問題から嫁しゅうとめの問題、そして学校の問題も子供たちの問題も入ると思うのですが、個人の時代になって、みんなが自分たちの権利を主張し、自分たちのことだけを主張している、そんな風潮の時代ではないでしょうか。
 そんな中で、自分たちの暮らす国を愛する気持ち、家族を愛する気持ち、そして団体を守る気持ち、そういうことも一つ含めた上での基本的人権。そしてまた、その基本的人権が国家によって守られている。そして、その国家が、世界的に今みんなで手を合わせて地球の安全を守っていかなければいけない。人類の食料難が来るかもしれない。環境汚染で太陽が差さなくなるかもしれない。魚も食べられなくなっている地中海ですね。それからまた、狂牛病の問題がありました。食料の問題だって、何年間我々人類が食べられるかわからない。
 食べ物がなくなれば争いが起こる。そんな中で、ではどうやってその国に住む人たちを守っていくのか。自分たちがどうやってその集団の中で、集団のことを考えた上で個人を考えるのかということも、これは大きな意味での未来に対しての基本的人権の保障の中に入っていくのではないかと私は思いますので、ぜひとも、自分の人権、そして個人の主張だけではなくて、国家国民、そしてまた地球全体のことを考える上での基本的人権という問題もこれから大きな問題として出てくると思いますので、またそのようなことがこの場で議論できるといいなと思っております。
 どうもありがとうございました。
島小委員長 ありがとうございます。
 今、大出委員と葉梨委員が発言の意思を示していただいておりますが、時間の関係でこの二人までとさせていただきますので、よろしくお願いします。
大出小委員 時間があるようですので、発言をさせていただきます。
 きょうの参考人のお話の中で、先ほど私も質問をしたのですけれども、いろいろなところでグローバリゼーション化になっていまして、経済が中心なんですが、政治の方もグローバリズムということを言われて、いよいよ憲法解釈もグローバリズム化させようと参考人は考えているんだなと実は思ったのですね。そのような解釈の仕方。ただ、皆さん、きょうの中には出てこなかったのですが、参考人は「見えない憲法」という言い方をなさっていまして、現実に起こっている憲法状態と憲法で書いてあることのずれが生じているということを盛んに書いてあるわけです。
 そのときにつくづく思うのは、憲法が古いから変えろとかいう議論ではなくて、憲法は理想で掲げてきたんだけれども、実はその憲法どおりに日本の政治が行われてこなかったのですね。そこのところを非常に強く感じるのです。
 ですから、先ほども個人主義という言葉を言いましたけれども、個人の尊厳を重んずるわけです。個人主義というと、日本だとどうも利己主義という意味のようにとらえてしまうらしいのですが、個人主義というのは、一人の人間は全地球よりも重いんだ、個人を大切にする、抑制などを受けないで自由に自己決定ができていくんだ、こういう考え方なわけなんです。
 そのこと自体がどうも貫かれてこなかったことがあって、国会の方も多数派が法案を通してしまったりとか、あるいは裁判所の方も必ずしも憲法保障をしてくれていないので、理想のとおりにはいっていない。つまり、どれをとっても、もともと憲法が悪いのではなくて、憲法どおりにいっていないのではないか、それがいいかどうかという問題が一つあるのと同時に、そうなってしまった中に、日本と憲法が合わなかったのではないかという考え方も出てくるのですね。
 ところが、私はそうではなくて、もう少し、個人主義的な考え方はいい考え方だから、その方向で解釈をもう一回新たに見直して考えてみたらどうかというふうに思っているのです。
 というのは、さっきから家族の問題も出ているのですが、憲法なんかだと、家族は御主人と奥さんということを基本に書いてあるわけですね。ところが、民法の方の家族法、つまり親族法の部分に行きますと、どうも昔の家制度を少し引き継いだようなところが実はあるのです。
 そのことが戸籍法なんかにも影響していて、現実に三世代が住んで円満にという絵にかいたような、例えば、ぽかぽか日が当たっている縁側でおばあさんが孫をひざに抱いてという絵があるのですが、あれは現在では無理ですよ。というのは、七十の方が九十の方の介護をするような時代なので、昔はみとり三日といいまして、昔の方は早く死んだから、そんなに親を見ないで済んだのですね。
 ところが、今はそうはいかないので、その部分の理想的な、頭の上だけの考え方で家族の絵を描くと悲惨なことになってしまうということで、それも含みながら介護法というのができてきたわけなので、必ずしも、いろいろな青少年の問題があるからといって昔の家族的なことを考えなくても、そんなばらばらにならないと思うのです。というのは、アメリカの中ではみんなばらばらかというとそうではございませんし、戸籍法を直したからばらばらになるのかというと、そういうことでもないのですね。
 私は、戸籍の問題については、男女別姓でもいいし、選択的に、奥さんが嫌ならやめればいいというふうな、ただ、難しくなるという問題があるので、それは立法技術の問題ですので構わないのではないかと思うと同時に、もう一つは、国籍の問題も重国籍、アメリカ人と結婚して子供がアメリカだけに行っちゃうのじゃつまらないという声がありますので、日本国籍もアメリカ国籍も取れるような国籍に直していってほしいなと考えているところでございます。
 以上でございます。
葉梨小委員 自由民主党の葉梨です。
 環境問題でございます。今我々が議論しているのは、二十一世紀の日本のあり方、その日本において憲法はいかにあるべきかということを議論しているわけであります。環境問題ですけれども、これは国内問題であると同時に、今や全世界的な課題でございます。人類がこれから生々発展していくか滅亡するか、そういう深刻な面も持っている課題に対して、これから平和的な民主的な国家として世界で日本が尊敬されながら生存していくためには、環境問題を一つ大きな課題として日本は掲げて進んでいきますよという宣言をしなきゃいけないと私は思うのです。そういう意味でも、環境問題を憲法の中にはっきりうたうということは時代的な要請でもあると考えております。
 それから、家族の問題については、松島委員、大出委員からもお話ございましたが、なお、中山会長から提案された、家族について考えたいと言われた意味は、さらにその外にあるのじゃないだろうか。
 そういう意味で、これは現行憲法が施行されたときに、シロタさんというアメリカの総司令部の方が家族という文言を入れようとしたら結局削られたということもございましたけれども、なお残っている大きな課題であると思いまして、これからも各委員と議論をして、知恵を出してみたいなという思いがいたしております。
 終わります。
島小委員長 ありがとうございました。
 まだ御発言の希望はあると思いますが、予定の時間を過ぎましたので、ここで討議を終わらせていただきます。
 本日は、中山会長からいわゆる一つのモデルとして、自分の持ち時間内に質疑をしていただくという、そういうこともやっていただきました。そしてまた、この自由討論、当然、小委員長としましては、公正を旨として運営をさせていただくわけでございますが、自由濶達な議論はこうすればいいというような方法論がございましたら、御提案賜りまして、また幹事会にお諮りして実現をしていきたいと思っている次第でございます。
 次回は、来る三月十四日木曜日午後二時から小委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。
    正午散会


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