衆議院

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第1号 平成14年11月28日(木曜日)

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本小委員会は平成十四年十一月七日(木曜日)憲法調査会において、設置することに決した。
十一月七日
 本小委員は会長の指名で、次のとおり選任された。
      倉田 雅年君    近藤 基彦君
      谷川 和穗君    谷本 龍哉君
      長勢 甚遠君    野田 聖子君
      葉梨 信行君    枝野 幸男君
      大出  彰君    小林 憲司君
      今野  東君    太田 昭宏君
      武山百合子君    山口 富男君
      金子 哲夫君    井上 喜一君
十一月七日
 大出彰君が会長の指名で、小委員長に選任された。
平成十四年十一月二十八日(木曜日)
    午前九時六分開議
 出席小委員
   小委員長 大出  彰君
      伊藤信太郎君    倉田 雅年君
      近藤 基彦君    谷川 和穗君
      谷本 龍哉君    長勢 甚遠君
      野田 聖子君    葉梨 信行君
      枝野 幸男君    小林 憲司君
      今野  東君    太田 昭宏君
      武山百合子君    山口 富男君
      山内 惠子君    井上 喜一君
    …………………………………
   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君
   参考人
   (東京大学大学院教育学研
   究科教授)        苅谷 剛彦君
    ―――――――――――――
十一月二十八日
 小委員谷本龍哉君及び井上喜一君同月十四日委員辞任につき、その補欠として谷本龍哉君及び井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員野田聖子君及び金子哲夫君同日委員辞任につき、その補欠として伊藤信太郎君及び山内惠子君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員伊藤信太郎君及び山内惠子君同日委員辞任につき、その補欠として野田聖子君及び金子哲夫君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 基本的人権の保障に関する件


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     ――――◇―――――
大出小委員長 これより会議を開きます。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 先般、小委員長に選任されました大出彰でございます。
 小委員の皆様の御協力をいただきまして、公正円満な運営に努めてまいりたいと存じますので、何とぞよろしくお願いをいたします。
 基本的人権の保障に関する件について調査を進めます。
 本日は、参考人として東京大学大学院教育学研究科教授苅谷剛彦君に御出席をいただいております。
 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に参考人から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、苅谷参考人、お願いいたします。
苅谷参考人 本日は、お招きいただきましてありがとうございました。
 お手元に、本日お話ししたい内容を簡単にまとめました、大学ではレジュメと申していますが、レジュメと、それから参考資料、これは別刷りでカラーコピーのものが何ページかありますが、それが用意してあると思います。適宜、資料とこのレジュメとを御参照していただきながら話をお聞きいただければと思います。
 初めに、私がこのような場でお話しするに当たりまして、一つ前提を申し上げておかなきゃいけないんですが、私自身は憲法の専門家でも教育法の専門家でもございません。社会学という立場から教育の問題を研究している研究者です。ですから、法律の議論を詳しくここで申し述べるということはできないんですが、恐らく、今後、憲法の問題を考えるに当たって、特に基本的人権の中で、教育という問題は一つの重要な課題になってくると思いますので、そこら辺のところについて、主に、現在起きております教育の世界での実態の変化ということを中心にお話しさせていただきまして、それに対して、それが基本的人権ということでどういうかかわりを持ち得るのかというところまで何とかお話しできればと思っております。
 最初に、お手元のレジュメの一番目のところで、憲法における教育についての記述のところを挙げておきました。
 これはもう御説明するまでもないんだと思いますが、二十六条におきまして、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」とございます。これを受けまして、教育基本法の第三条のところでは、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。」というふうな規定がございます。
 ここで、きょう私が問題にしたいと思っておりますのは、この「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」という、そこの部分をどのように実態に即して考えていくのかということです。
 そういった意味で、いわゆる法律論というよりは、実際の教育制度や教育行政の運用面の中でこうした「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」というものがどれだけ保障され得るのかどうかということに少し目を向けた議論をできたらと思っております。
 ちなみに、今ちょっと読み飛ばしたところで、もう一つ教育に関係するところは、憲法では、二十五条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」というふうになっております。ここでいえば、「文化的な最低限度の生活を営む権利」というものをどのように考えるかということも、恐らく教育というものに関係してくると思います。
 それから、もう一点読み飛ばしたところですが、教育基本法の三条の第二項の中では、「国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。」という規定がございます。もちろん、これはすべての子供たちに奨学金が与えられるということを必ずしも完全に保障したものではないのかもしれませんが、しかし、これから申し上げますような現在の教育の変化ということを考えたときに、こういったことが恐らく非常に重要な問題になってくるだろうというふうに考えます。
 そこで、二番目に、「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」という場合の、この能力というものをどのように考えるかということについて、私の考えを述べさせていただきたいと思います。
 当然ながら、ここで言う能力というものは、持って生まれた能力の差というものも恐らく含んでいると思います。これが、あらゆる子供たちに全くひとしく能力が備わっているという見方に対しては、ある程度留保をせざるを得ない部分があると思います。これは、いわゆる障害を持った子供たちという非常に明確にわかる場合もございますし、そういった障害という形では明確には見えない場合であっても、いわゆる学習を進めていく上での何らかの知的能力の差というものは、全くどの個人にもひとしく完全に平等であるというような考え方がとれるかどうかということについては、幾つか留保をしなければいけないということだと思います。それをどのように考えるかというのが一つ目の問題です。
 それともう一つは、ここで「能力に応じて、ひとしく教育を受ける」という場合の、この能力というものをどの年齢段階の能力として考えるかという問題です。これにつきましても、生まれた時点で、私が今申し上げたような、多分には恐らく遺伝的な要素なども関係すると思いますが、そういうところで能力をとらえる場合と、あるいは義務教育が始まる前の段階でとらえる場合と、あるいは義務教育の途中の段階で能力なるものをとらえる場合と、最終的に義務教育が終わって高校なりなんなりに進学する場合での能力というものをとらえる場合で、能力に応じたといいましても、その内容自体は実際に変わってくると思います。
 この中で、行政であるとかあるいは社会的な制度によって介入可能な範囲というものは、現在のところ、恐らく就学以前の段階で生じる何らかの家庭環境の差による能力差というものに対してはある程度何かができるかもしれません。しかし、今の我々の教育制度の中で、最もこういった問題に直接的に何らかの支援なりあるいは介入なりができるのは、やはり学校という制度を通じてです。その場合に、例えば十歳の子供の時点で生じている能力差というものは、果たして、どこまでが生得的なものであり、どこまでが家庭環境によって生じるものであり、あるいはまたさらに、どこまでが学校教育によって生じさせているものなのか、こういう問題があるわけです。
 そこの部分をある程度区別して考えない限り、ここで能力というものを抽象的に考えるだけでは、いわゆる基本的人権としての「ひとしく教育を受ける権利」というものが十分には保障されないのではないかと私は考えております。
 そういったことを考えたときに、では、現状において、今ここで言う能力の格差といった問題がどのようになっているのかということを、少し私が関係しております調査を中心にしましてこれから御説明したいと思います。ですから、ここは法律論や制度論というよりは、実際に今の教育のもとで、とりわけ教育改革が進む中で、教育というものがどのように変化してきていて、子供たちのここで言う能力差というものがあらわれているのかどうかという問題です。
 ここからは少し丁寧に、お配りいたしました資料をもとに御説明をさせていただきたいと思います。これから幾つかたくさん数字が出てまいりますが、なるべく簡単に御説明しようと思います。憲法調査会の場で、果たしてこういう社会学の統計資料を読むのがふさわしいのかどうかというのは多少疑問もあるんですが、少し数字におつき合い願えればと思います。
 と申しますのも、教育の問題を語る場合に、今までの教育の議論の中では、こういった数量的にとらえることのできる実態というものが、私から見ますとかなり軽視されてきたのではないか。そういったところが、もしかすると、教育政策を考える場合の問題点を生み出してきたのではないかというふうに私自身認識しているからです。そして、そのことが、先ほど申し上げました、学校段階の途中で生じている能力差といったことに無関係ではないというふうに私自身考えているからであります。
 最初に、まず一番目のところで、最近、朝日新聞の特集でも、学習意欲の問題がこの何日間か新聞紙上に出ておりますが、子供たちの勉強離れの実態について一つの調査結果を御報告したいと思います。
 これは、一九八三年から九八年までにかけまして東京都が三年置きに行っております子供の調査の、かなり大規模な、きちんとした調査設計が行われている、いわゆるランダムサンプリングと言われているんですが、かなりきちんとした実態把握ができるデータです。これによって、いわば経年の、時間を隔てた子供たちの勉強の様子というものをとらえることができます。
 まず、この折れ線グラフの方ですが、これは、一日当たり平均して何分ぐらい中学校二年生が学校外で勉強しているのかということを計算したものです。これは、私が過去の調査にさかのぼって全部計算し直したものなんですが、折れ線グラフはそういうものです。それに対して、棒グラフの方は、家で全く勉強しない子供のパーセント、割合を示しております。中学校二年生で、家で全然勉強しない子供が何割いるのかという数字です。
 最初に、平均の勉強時間の方から見ていただきますとわかりますように、九二年ぐらいまでは、まあ八〇年代は大きな変化がないと言っていいわけですが、九二年のところで若干高くなっておりまして、決して勉強時間は減少傾向にはありませんでした。そして、勉強しない子供たちの割合もむしろ減っております。よく世間では、社会が豊かになって子供たちが学ぶ目標をなくして勉強意欲が低くなっていると言われるわけですが、九二年というのは、御承知のとおりバブルがはじけた直後ぐらいですから、日本の経済にとっては最も豊かだった時代と言っていいと思います。それまでは、実は勉強離れというものはそれほど深刻ではなかったわけです。
 ところが、ごらんになっていただきますとわかりますように、九二年以降九八年にかけて急速に勉強時間が減っております。そして、それだけではなくて、全く勉強しない子供の比率が二七%から四三%へと急増しております。これは、厳密な意味での原因と結果の関係をこのグラフだけから推測するのは難しいんですが、参考までに申し述べますと、九二年というのは、ことしの三月まで実施されていました学習指導要領が開始された年であります。そしてもう一ついいますと、二〇〇二年、ことしの四月から学習指導要領の改訂が行われましたが、その学習指導要領の改訂を実際に行った審議会の答申が出ているのが九八年であります。
 九六年の中教審、そして九八年の教育課程審議会という審議会で現行の学習指導要領が決まるわけですが、その時点の問題認識は、日本の子供たちは勉強し過ぎて忙し過ぎるという認識でした。残念ながら、審議会の記録を私はくまなく調べましたが、こうしたデータに基づく議論は審議会では行われておりませんでした。
 しかし、このグラフ一つ見てもわかりますように、実は九〇年代に入って、子供たちは勉強し過ぎというよりも、もう勉強離れが起きていたわけです。そこは、私は一種の問題認識のずれというものがあったのではないかと思います。
 ただし、ここで申し上げたいのは、こういった勉強離れというものがどの子供にも同じように起きているわけではないということです。きょうは、ちょっとそのデータを持ってきていないんですが、過去と比較し得る高校生の調査で私が調べましたところ、これは一九七九年と九七年という二時点の比較のデータですが、これで見ますと、親の学歴であるとか職業の違いによって勉強時間の減り方が違っております。
 全体として確かに勉強時間は短くなっているんですが、だれがより勉強しなくなったのかということ、勉強離れの実態を調べていきますと、社会学者がいわゆる社会階層と呼んでいる、親の学歴だとか職業とか所得だとか、そういったものによって影響を受けている可能性があるということです。
 当然ながら、これだけ勉強離れが進めば、これは普通に考えて、いわゆる基礎学力と呼ばれるものが低下してくるということはある程度推測ができることです。
 そして、先ほど申し上げました基本的な能力、あるいは、ここで言う義務教育段階における能力の格差というものを見る上で、かなり基本的な読み書き算の学力と言われるものは、恐らく、ここで言う能力というものにある程度含めて考えていいのではないかと私は思います。
 つまり、余りにも抽象的な、一般的な、知的な能力だけではなくて、義務教育段階の中でつけられるべき基本的な読み書き算の能力というものは、「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」の中にある程度所属するものだと考えていいんじゃないかと思います。なぜなれば、そこでしっかりとした能力がつけられなければ、その後の教育機会において著しい不平等が発生するからです。
 そういった問題関心から、私は、一九八九年と二〇〇一年とにおいて、二つの時点で比較できるかなり基本的な学力の調査を実施しました。
 二番目で御紹介しますのは、関西地区の、これは調査対象地とのお約束で、どの地域かというお名前は申し上げられないんですけれども、かなり大規模に行いました調査の結果です。全く同一の学校を対象にした調査であります。それによって、八九年と二〇〇一年とで、算数、数学、国語の学力の変化がわかるようになっております。
 八九年と申しますのは、先ほどもちょっと申し上げましたが、九二年から始まりました前回までの学習指導要領が始まる以前の段階になります。学校が五日制というのはこの十年間で始まっていることですから、土曜日も休みではなくて、しかも教育内容の削減云々が言われていますが、それ以上に私が大事だと思っておりますのは、ある意味では子供たちの学習意欲を高めようという善意であったんだとは思うんですが、そうしたことが小学校の中で、いわゆる新しい学力観と呼ばれる形で広く導入されました。子供たちの体験であるとか、それから、子供たちが自分たちでも学ぶようなことを中心にする教育をやろうとする改革が九二年から始まったわけです。
 しかし、その一方で、ややもすると、それまでの教育の反省から、子供たちがしっかりどれだけの教育内容を身につけているのかという、定着とか、あるいは、家庭学習の指導といったことに対しては少し及び腰になったようです。世の中全体としても、そのころは受験教育批判というものが確かにありましたし、いわゆる詰め込み教育というものが批判されていましたから、教科書に書かれている内容をどれだけきちんと理解しているのかということをチェックするのは非常に重要な事柄だったのですが、そうしたことも、ある意味では教師による押しつけだというようなとらえ方をされる、そういう懸念があったわけです。
 ここでは、そういったことで、学習指導要領に記載されておりますかなり基本的な内容を出題した学力テストを実施したわけです。
 ごらんになってわかりますように、少し薄い色のグラフですが、これは八九年の得点分布を、ちょうど子供たちの得点を十点刻みに、何%ずついるのかということを示したものです。きれいな右肩上がりになっておりまして、九十点以上の子供が一番多いというのが八九年の結果でした。大体、四割近い子供が九十点以上とれていまして、平均点をとりましても八十点でした。
 これは五年生ですが、小学校五年生の段階で、平均点が百点満点で八十点のテストというのは、本当にこれはすごく基本的な問題です。これは学力と呼ぶのかどうかということさえちょっとためらうくらい、それがペーパーテストの学力なのかもしれませんが、むしろ、その後の学習を進めていく上での読み書き算と言っていいくらい、その算の部分のかなり基本的な内容です。
 ところが、その得点が、二〇〇一年で見ますと、一番できる子供の割合がこれだけ減っております。そして、その分、六十点以下の子供たちがこれだけふえているわけです。
 次のページで、もう少し簡略化して御説明しますが、今度は中学校二年生の数学の得点の分布です。同じように十点刻みでとってあります。
 ここにおきましても、この場合には、ちょうど三十点台のところに小さな山が一つできておりまして、オレンジ色のグラフの方で見ますと、かなり得点の低い方にシフトしておりまして、なおかつ三十点のところにもう一山できる。これはよく学校現場では、フタコブラクダ化なんというようなことで言われているような、全体として平均が下がっているのではなくて、実はできない子供たちの学力がより低下しているという傾向を示しています。
 これは算数、数学の結果ですが、もう一つ、小学校の国語についても、小学校の算数と同じような傾向があるということを示すものを参考までに出しておきました。
 これは限られた地域の限られたデータなんですが、少なくとも、こういう調査の結果から見えてきますのは、基礎的な能力、学校で養うべき読み書き算の能力の部分について、その保障がどれだけできているのかという問題であります。当然ながら、二極分化ということが起きているとすれば、その二極分化はだれの学力なのかということが問題になります。
 そこで、次の三ページ目を見ていただきますと、先ほどの中学校数学のグラフを、先ほどは得点を十点刻みにしまして分布を見ましたが、今度は子供たちの得点をそれぞれの年度ごとに一番から、この場合には下の方でも上でもいいんですが、要するに、得点順に並べまして、ちょうど四分の一ずつぐらいの子供の数になるように分けたグラフです。いわゆる四分位というものですが、四分の一ずつぐらいに分けたときに、そのグループ内の平均得点がどうなっているのかを、やはり八九年と二〇〇一年とで比べられるような形で示したものです。
 全体としては、中学生の場合には、一番右側にありますように、七点ぐらい全体の平均点は下がっていますが、見ていただきますとわかるように、トップグループの第四・四分位グループや第三・四分位グループという、比較的できる子供の得点というのは余り大きくは下がっておりません。
 もちろんこれは、テスト自体が比較的簡単な問題を出していますから、できる子供たちの得点を細かく、より詳しく調べるのには適していないテストかもしれません。しかし、そういう基本的な問題を出したときにわかりますのは、一番左にあります第一・四分位のグループ、つまり学習の上で一番困難を来す子供たちのところで非常に極端な得点の低下が起きております。
 こういったことが、ここで言う、能力に応じた、ひとしく教育の権利ということにどう関係するかという問題です。
 それを今度は、家庭環境との影響で見ようというのが次のグラフなんですが、実はこれは、残念ながら、八九年の調査というのは私どもがやった調査ではなくて、大阪大学の研究グループがやった調査で、そのグループにお願いいたしまして、データの再分析を許していただきました。ですから、我々が、過去においてもこういう問題関心を持って何十年後に調査をやるぞというふうにしてやった研究ではありませんものですから、あくまでも便宜的に比較可能なものを集めた、そういう調査の結果です。
 そういった意味で、いわゆる家庭の文化的な環境であるとか、それから経済的な階層化というものを現在と過去とを比べるようなデータは、残念ながら過去にはございませんでした。そのかわりに、私がやりました方法は、いわゆる塾に行っているか行っていないかということによって得点の変化を見るという方法です。
 まず、右側の中学生の結果を見ていただきたいんですけれども、中学生の場合を見ますと、数学の得点ですが、塾に行っている子供の場合にはほとんど変化がありません。ところが、塾に行っていない子供の場合には、八点ですか、これぐらいのいわば得点の差が出てきます。
 これは、二つのことを意味していると思います。一つは、塾に行ける子供と行けない子供という問題です。当然ながら、塾は、家庭の経済的な費用の負担によって行けるかどうかが決まってきますし、親の教育関心とか教育意識みたいなものもそこには関係してきます。そういった点で、経済的あるいは親の教育意識なども含めた、広い意味で、ある程度そこには階層というものが関係あるんじゃないかと私は見ているわけですが、その影響がこういう得点差になってあらわれているということです。
 もう一つの見方は、実は、塾に行けない子供たちの得点というのは、裏返してみますと、学校だけで勉強している場合に、どれだけこういった基本的な学力というものがついているのかどうかということを示しています。そういった点で、学校だけで勉強している子供、もちろん家では勉強しているかもしれませんが、そういった子供たちの場合、塾によって学習を補えないような場合にこういう得点差があらわれているということです。
 実は、そのことが顕著に出ているのは小学校の場合です。小学校の場合には、塾に行っている子供も行っていない子供も、両方とも得点が落ちております。これは左側のグラフです。
 ところが、興味深いことに、薄い水色のグラフとオレンジ色のグラフでこれを比べていただきますと、オレンジ色の塾に行っていた子供、つまり二〇〇一年の塾に行っている子供の得点と八九年において塾に行っていない子供の得点を比べますと、七十三点と七十八・九ということで、実は八九年に塾に行っていない子供の方が二〇〇一年に塾に行っている子供より得点が高いんです。両方とも、塾に行っても行っていなくても落ちているんですが、このことは、要するに塾に行っていても行っていなくても、小学校段階では、こういったかつて八十点くらいの平均点だった基本的な算数の学力において低下が見られる、塾で補っても補い切れない、こういうような低下が起きているということです。
 このように、一番勉強の不得意な層で、小学校段階で勉強がわからなくなってしまいますと、特に算数のような教科は中学校になるとますます難しくなってきます。すると、難しくなって授業がわからなくなれば、そのことが勉強の意欲を低めるということは、ある意味では当然のことです。最近のいろいろな調査でも、子供たちがどういうときに勉強の意欲を強く感じるかというのを見ますと、一番意欲を感じるのは、授業がわかっているときだと答えるんですね。これは当たり前のことです。
 その授業がわかるための条件が小学校段階でどれだけ保障されているのかというのは、中学校の段階になったときの勉強に対するあきらめであるとか、勉強に対する構えみたいなものを規定してしまうわけです。ですから、先ほど、どこまでを能力と呼んで、それがここで基本的人権として保障すべき権利なのかという問題を考えるときの、義務教育段階の、特に小学校段階の学力の定着ということは極めて重要な問題だと私は思っています。
 次のページですが、よくこういう話をいたしますと必ず出てくる質問が、それでも、今、一生懸命教育改革ではいわゆる生きる力を育てる教育をしているんだ、多少ペーパーテストの得点が下がっても、これから二十一世紀に重要なのはむしろ生きる力で、子供たちが自分たちで調べたり考えたりする授業がもっと大切であって、そういう能力をこれからはつくっていかなきゃいけないんだというふうな、そういうねらいでもって教育改革が進められております。
 ところが、私が調べましたところ、実はこういった学習においてこそ家庭の影響が強く出てしまうということがわかっております。ここは、過去との比較は残念ながらできません。過去においては、こういう学習は八九年ではしていなかったものですから、もともとデータはないんです。これは、小学校や中学校の中で、いわゆる調べ学習というのは子供たちが自分たちで調べたり発表したりするような授業なんですが、今教育改革の目玉になっているような総合的な学習の時間などで一番取り入れられている、そういう授業の形態です。
 そこで、子供が自分で調べたり考えたりする授業をやろうというふうになっているわけですが、そういうことにどれぐらい子供が積極的にかかわっているのかということを調べてみますと、まず驚きますのは、それほど積極的ではないということです。
 これは、私の立場から見ますとかなり発展的な学習の部類に属しまして、基本的なことができていない子供にこういうことをやらせても、なかなか実は意欲を感じてやるようにはなりません。子供たちをいろいろなところに連れていって、見学させたり、いろいろお店の人にインタビューさせたりなんという授業をやっているわけですが、そのときは楽しくても、戻ってきてそれをまとめる段階になって、図鑑を調べたり、あるいは何かに書いたりする段階になると、どうしても基本的な能力、学力のところが基礎になってきますから、それが十分身についていない場合には、外に行って活動している時間は楽しくても、それをまとめる段階になると楽しくなくなっちゃうんですね。そういったところで家庭の環境の差が出てきてしまいます。
 ここで家庭の文化的階層と言っていますのは、私たちの調査で、子供に聞いているわけなので、余り職業とか所得といったものを詳しく聞けないものですから、親がテレビでニュースをよく見るかとか、自分の子供を博物館とか美術館とかに連れていくかどうかとか、あるいはお母さんが手づくりのケーキをつくってくれるかとか、こういうのも実は階層なんかと関係するわけですが、あと、パソコンが家にあるかとか、こういういろいろな総合的な指標を使いまして子供たちを三つのグループに分けて、文化的階層の上中下と呼んだものです。
 これで見ていただきますと、小学校、中学校でも、ともにこういう家庭の階層の影響が出てきてしまいます。実は、こういうことは、こういう学校の取り組みをしております先進国、アメリカやイギリスなどでは昔から言われていたことです。ところが、残念ながら、日本では、こういうような実態を把握しないまま、私から言わせれば、教育の理想論でもって改革が進められてきましたから、それがうまくいかない場合に子供たちにどういうしわ寄せがいくのかということがなかなか実態に即して議論されなかったということです。
 こうやって、基礎的な学力、算数とか国語のところでも格差が広がり、調べ学習とかいわゆる生きる力的な教育をやる上でも格差が広がってきてしまいますと、これは、義務教育段階の中で、私がここでお話ししようと思っている能力の格差ということに、いわば教育のやり方自体が格差を拡大してしまうということに寄与しているということです。
 潜在的に、子供たちの能力の違いはあると思いますし、家庭の環境の差はあります。ただ、学校教育がよりそれを縮めようとする方向で考えるのか、それをいわば目に見えないまま放置して拡大してしまうのかということでは大きく違いがあります。
 今までの教育政策というものは、残念ながら、こういう問題にほとんど目をつぶってきました。こういうことは実際にはあり得ないんだという前提で進められてきましたから、結果としてこういうことが起きたときには、これは政策的には、いわゆる不作為としてこういう結果をもたらしているわけです。ですから、そこはやはり何とか政治を含めて行政が考えていかなければいけない問題です。
 もう一つ、最後に幾つかつけ加えたい問題ですけれども、こういった公立学校の抱えている問題というものは、一方におきまして、特に都市部においては、子供たちの公立離れという問題を引き起こしています。
 御承知のとおり、中学校の段階から、いわゆる中高一貫の私立や国立を目指す子供たちがふえています。子供の数が減っているにもかかわらず、この学習指導要領が発表されて以降、東京などでは私立の受験者がふえております。そういった意味で、家の経済的な状態が許して、そして親の意識が高い場合には、公立に子供をやらずに私立にやるという現象が起きているわけです。
 実は、こういったことは、既に、東京の場合ですと、いわゆる学校群が導入されて以降顕著になってきた問題なんですが、そうしたことが、今後の日本社会を考える上で、幾つか重要な問題を引き起こしていると私は思っています。
 ここでお示ししました東京大学が果たしてこういうものを問題にする上でどこまですぐれた指標なのかわかりませんが、少なくとも官庁を初め、あるいは法曹界もそうですが、いわゆる東大の法学部というものは、今までの日本の社会の中では、その出身者が、好むと好まざるとにかかわらず重要な意思決定をするポジションにつく確率が高い、そういう卒業生をたくさん輩出してきた大学あるいは学部です。
 その大学に入る人たちがどういう人たちによって占められているのかということを調べた結果なんですが、一九八〇年の時点では四四%が公立の高校出身者でした。それが、九九年の時点では二八・五%まで減っています。つまり、残りの七割強は、もう中学校の時点からいわゆる義務教育段階の公立の中学校に行っていないんです。その子たちとは違う生活を十二歳、十三歳のところから送って、中高一貫の学校に通ってかなり均質な、家庭的な環境でも均質なところで教育を受けた子供たちが今東大法学部に七割入っています。
 恐らく、この傾向は十年たったらもっと進むと思います。この数年の中学校段階でまた公立離れが進んでいますから、それが何年か後には大学まで波及してきますから、大学に入学時点で見ますと、恐らくこの傾向はますます顕著になる。そうすると、恐らく東大の法学部の出身者の八割、もしかすると九割ぐらいは、十二歳ぐらいまでは公立の小学校に通っているかもしれませんが、それ以降は全く違う生活環境で育っている人たちが、そういう大学を出ていろいろな社会的な地位につくようになるわけです。
 これは、私は日本のエリートというものを考えるときの一つの問題点だと思っています。こういった問題を引き起こしているのは、実は公立学校の改革なんです。だから、これはちょっとねじれた関係ではあります。直接それがもたらしているわけではないんですが、間接的な結果としてこういうものをもたらしているということです。
 これが、上下という言葉は問題なのかもしれませんが、エリートの部分、比較的学力の高い部分、あるいは階層の高い部分で起きている階層分化の一つの局面だとしますと、もう一つ起きておりますのは下の方で起きている問題です。
 これも、皆様御承知のとおり、この数年、日本の経済の悪化も反映しまして、いわゆる若年失業ということが深刻な問題になっています。高卒者のおよそ一割は、今、全く進学もしなければ就職にもついておりません。それから大卒者でも、二割ぐらいが就職も進学もしない。大体二十数万人が、毎年、学校を出て職業にもつかなければ進学もしないという、いわゆるフリーターであるとか無業の状態を続けております。かつてフリーターというのは、何か自分の夢を求めて、自分のやりたい夢を実現するための一つの期間なのだと言われていましたが、今は違います。明らかにこれは経済的な損失につながる、若年期のいわば職業訓練の機会を奪っている、そういう二十代を過ごす、そういう問題だと思います。
 ところが、フリーターや高卒無業者にだれがなっているのかということを見ますと、ここにも明らかに家庭的な背景というものが影響しているというのが次のデータです。これはある県で、これも県の名前を申し上げられないんですが、高校の中でも比較的進学高校ではない高校、中学校の成績でいうと大体半分から下ぐらいの生徒を受け入れている、そういう高校を対象にした調査です。
 そして、卒業直前の時期に、卒業後にどんな進路をたどっていますかということを聞いているんですが、ここで「無業者」という欄に御注目いただきたいんですが、ちょっと太字で書きましたが、流動的雇用層という、保護者の職業自体が小さなお店の雇われであるとか小さなサービス業や小売業の雇われであるような、その親自身が非常に職業が不安定な、そういう親を持っている家庭の子供が無業者になる率というのは、全体の九・四%のほぼ倍になっています。つまり、だれもが同じように無業者になるわけではなくて、ここにはやはり親の階層の影響が出てくるということです。
 最後に、そういったことがどういう問題を、学力の問題あるいは基礎的な能力の問題と結びついてどう起きているのかということを、同じように比較的進路が多様な進学校以外の高校で調べた調査の結果から御紹介したいと思います。これが八番目のものです。
 ちょっとこれはわかりにくいかもしれませんが、中学校の成績で半分から下ぐらいの子供を受け入れている高校でやった調査なんですが、そこでまず、左側にありますように、自分の今の読み書き能力があれば将来困らないかどうかということについて質問をしました。困るか困らないかということを聞いているわけです。「ぜんぜんそう思わない」という答えは、困ると思わないに対してそう思わないわけですから、困ると思うということです。ちょっと否定の否定なのでわかりにくいんですけれども。上の方にある「ぜんぜんそう思わない」「あまりそう思わない」というのは、今の読み書き能力が実は心配だ、少し不安であるというような回答のパターンです。
 もう一つは、それに対して、三十歳になったときの自分は人並みの生活ができているかどうかという質問をしました。これも、「ぜんぜんそう思わない」というのは、できていないということですから、不安だということです。高校卒業直前の段階で、自分の読み書き能力に自信がない子供ほど、これが一番上のグラフなんですが、三十歳時において人並みの生活をしているとは思っていないわけです。こういう子供が四十何%になるわけです。
 つまり、ここはもちろん子供自身の意識の点で見ていますから、これが実態になるかどうかというのはこれからの問題なんですけれども、もし義務教育段階でしっかりとした読み書き能力がつけられずに、そのまま勉強のやる気をなくしてしまって、中学校では勉強をやらなくなる、それでも今は高校にはだれでも入れますから、高校に入る、そして何とか卒業にこぎつけたとしても、その段階で、ここで言う基礎的な能力を身につけていない場合には、将来やはり不安であるということを若者たち自身が感じているわけです。
 こうやって職業機会においても格差を生み出しているというのがこの問題です。その背景には、先ほど七番で言いました、親の階層、そしてまた別の中学校のデータでお示ししましたような、小学校や中学校段階で生じているような階層の問題があるということです。
 このように、実態から見ますと、またちょっとレジュメに戻っていただきますが、ちょっとたくさん数字が並んじゃって申しわけございませんでした。こういった現状を見ますと、果たして今の教育制度のもとでどこまで機会というものが保障されているのか。確かに、学校の数はふえました、進学率は高まりました。ですから、量的な面だけで見れば、子供たちの学校へ行けるチャンスというものは広がっているわけですが、そこで実際にどういう能力が身についているのかというところまで考えたときには、こういったような問題点が今生じている。しかも、それは過去に比べて悪化しているということなんです。
 最後に、四番目のレジュメのところで、こういったことを議論する際に、私が考えております結果の平等と機会の均等ということについて、どうも日本人の間には誤解があるのではないかということをちょっと申し述べたいと思います。
 そこにもございますが、小渕元首相がつくりました「二十一世紀日本の構想」懇談会がございました。この懇談会の報告書の中に、次のような一説がございます。ここに日本人の理解する結果の平等と機会の平等についての典型があるのではないかと思って引用しました。ちょっと読み上げます。
 「残念ながら、日本の社会には個人が先駆性を発揮するのをよしとしないきらいがある。日本人のもつ絶対的とも言える平等感と深く関わるが、「結果の平等」ばかりを問い、縦割り組織、横並び意識の中で、“出る杭”は打たれ続けてきた。「結果の平等」を求めすぎた挙句、「機会の不平等」を生んできた。」というわけです。
 多分、こういうような形で我々は結果の平等ということを議論していると思います。よく例にとられるのは、教育の世界だと、運動会でゴールにたどり着くときに、みんなで手をつないで、競争状態じゃないということを指して結果の平等だというわけですね。これは確かに、日本の組織の問題、日本の文化の中で問題だと思います。しかし、こういう意味で結果の平等を使うのと、それとは違う意味で結果の平等を使うというような言い方があるということです。
 もともと、アメリカの中で結果の平等という概念、考え方が登場したときには、実はこういう日本的な文脈、日本的な意味とは全く違う意味で使われていました。むしろ、機会の均等を保障するということが結果の平等だという考え方がとられていたのです。それが有名なジョンソン大統領の貧困への闘いという演説の中の一説です。これも読み上げます。
  長年にわたり、鎖につながれてきた人を解放し、競争のスタートラインに立たせ、「さあ、あなたは自由に他の人たちと競争ができる」と言い、それだけで自分は完全にフェアであると正しく信じようなどとすることはできない。機会の門戸を開くだけでは不十分である。われわれすべての市民は、この門戸を通り抜けるにたる能力を持たなければならない。これこそが、公民権のための闘いの、次なる、そしてより深遠な段階である。われわれは自由だけではなく機会を求める――たんなる法的な公正ではなく、人間的な能力を――たんなる権利としての、理論としての平等ではなく、事実としての、結果としての平等を求めるのである。
 この場合の結果としての平等を求めるというのは、機会を保障するための能力をきちんと公共的な政策の中でつけてあげるというところまでを含んだ考え方だということです。
 もちろんこれは、最初の「鎖につながれた」という表現からわかりますように、人種差別ということを念頭に置いた問題提起だったわけです。しかし、その後、アメリカの公民権運動は、こういう問題に限らず、教育の中で途中で生じてしまう基礎学力の格差までをいわばこういう公民権運動の対象にしてきました。そうしたところでヘッドスタートなりなんなりという形で、なるべく義務教育の段階では格差を広げないような、個人の能力差を認めながらも、それを広げないような形で、結果の平等というものを考えてきたわけです。全員が全員同じゴールにたどり着くことではなくて、フェアな競争を学校を出た時点でするためには、教育段階の早期から格差を生じさせないということが大事だという認識だったわけです。
 ちょうど時間になりましたので、ここでおしまいにしますが、こういった実態を踏まえたところで、私たちが、教育における基本的人権、能力に応じた教育を受ける権利というものをどう考えていくのかということに対して、この委員会を通じても議論を深めていただければ、私としてはありがたい限りです。
 どうもありがとうございました。(拍手)
大出小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
大出小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。谷川和穗君。
谷川小委員 苅谷参考人、きょうは朝からまことにありがとうございました。特に社会学的なアプローチでただいまお話をいただきまして、まことに勉強になりました。心から感謝を申し上げます。
 私は、二点の問題についてお尋ねをいたしたいと思います。二点ともが、結果的には国の果たすべき役割と地方の問題、言うならば地方分権にかかわるような問題ということになると思います。
 第一点目、特に憲法とのかかわり合いでお尋ねをいたします。第二点目は、学力格差でなくて、能力格差という意味から、特に公立学校の問題が今お話に出ましたけれども、学習指導要領の問題にちょっと関連してお尋ねをいたします。
 ここは憲法を一生懸命になって議論している場所でありますが、私は、十八世紀、十九世紀におけるいわゆる民主主義憲法というのは、その当時は、それまでの絶対主義権力や専制に対して自由とか人権を守るというような位置づけだったと思う。当然のことだと思うんですが、国家権力に対して、これはできるだけ小さい方がいい。人権と言ってもいいのかもしれませんが、個人の権利だとか自由というものはできるだけ広い方がいい、制限がない方がいいという形で出てきたと思います。
 しかし、それが、最近になってから、民主主義というものが改めて私は問い直されているんじゃないかと思う。つまり、国家権力自体の構造が民主的に構築されているかどうかということが大切なんだ。我々の中からその権力というものが出てきているんだから、個人の自由とか権利というものは我々自体がみんなでつくっているんだ。つまり、権力を行使する中に我々は参加することが一番大事なんだという発想になってきていると思うんです。ですから、民主主義が保障されておる国家というものは、大変大事なところにNGOとかNPOだとかいうものの活動を中へ入れ込んできておる。
 そこで、先生にお尋ねしたいのは、先生、全国を回っておいでになると思うんですけれども、例えば、学校の先生方の中では、経済というものがどういうふうに動くかということを社会科なら社会科で教えるにしても、実際に証券の売り買いする経験などない人がそういうことを教えなければならぬときには、NPOが参加してそれで証券教育というものをやっていこうとか、あるいは、外国に対して、もう少し日本が教育の問題でも手助けしていくことができるんじゃないかというようなときに、NGOが前に出ていくとかいう形が起こってきていると思うんですが、その点について、何か御感想がありましたらお話しいただきたいと思います。
苅谷参考人 確かに、学校の持っているリソースというものは、今のところは、いわゆる教員を中心にした教える人たちというのは、限られた人たちになっております。
 ただ、最近は、学校を開くということで、確かにいろいろな方々が教壇に立つことができるような仕組みというものを進めているんだと思います。そういった点で、国の役割だけでは不十分な部分について、今先生の御指摘にありましたようなNPO、NGOを含めて、なるべくそういったところに求めていくということは重要だと思います。あるいは学習支援という形であっても、ここで私が申し上げたような基礎的な部分についても、実際にはこれはいろいろな形で可能なわけですね。
 しかし、それはあくまでも補助的な問題であって、中心の部分がしっかりしていなければ、これは何ともできないことだと思います。そしてまた、そういうNPO、NGOを使いこなせる学校側の先生方の力量というんでしょうか、そういったものがなければなかなかこれも、リソースというものは、資源というものはあるだけではなかなかうまく使えないわけですから、そういったところについて今後どうやって考えていくのかというのは確かに重要な問題だと思います。
 そういった点で、社会経験を持たない学校の先生たちがその経験を、もちろん、御自身がもっと広げていくということも大事だと思いますが、補えるような体制をつくるということが大事だと思います。ただ、それがボランティアだけでできるのか、つまり財政的な支援抜きでできるのかというところについて、やはり国の役割ということは考えるべきではないかと思います。
谷川小委員 ありがとうございました。
 私がお尋ねしたかったのは、実を言いますと国と地方との関係ですが、これは改めてまたどこかの機会でお尋ねいたしたいと思います。
 次の問題ですが、私は、最近、文部科学省が学習指導要領を、これはミニマムのところだ、こう言ったことは非常にびっくりしているんです。ここまで世の中変わり始めたかと思っておるわけですが、それについて一つお尋ねをいたします。
 関連してなんですが、ヒトゲノムの解析というものが去年すべて終わりましたけれども、それによって、DNAの関係その他で、例えば医療にしても、効かない医療を排除していく。効く医療、要するにレディーメードの医療から、まるで服を自分の体に合わせたような。食品でも同じことが言われておる。ファンクショナルフードというのが、アメリカの場合には九四年に法律であれしましたが、これも始まりは日本が始めたわけですけれども、そういう状態になってきている。
 教育も、文部科学省の中でも脳科学と教育という検討会ができて、伊藤正男先生がその座長になっておられる。これはOECDから始まった動きですが、いよいよこうなってくると、今までわからなかった人間の能力というもの、大半が恐らく大脳の働きにつながる能力だろうと思うんですけれども、それによってこれから、個人それぞれに合ったカリキュラムをつくり上げていくことができるんじゃないか。当然、そうなってくると、学校教育そのものも非常に大きな変化を起こしてくると思うんです。
 こういうような新しい時代の入り口で、これから先の教育というものは、特に行われるとすれば、国が全部挙げて一つの方向で進むよりも地方へ、分権という言葉を使っていいのかどうか知りませんが、任せていきながら、そこでそういうものが動き出すということの方が、よりその効果が上がるというような感じがあると言われておりますが、最後に、その点について御感想がありましたらお願いをいたしたいと思います。
苅谷参考人 まず、脳科学と教育の関係から申し上げたいと思います。
 私もあるところでこういった研究についての、研究のプロポーザルを審査するようなことを何回かやっておるんですけれども、現状で見ますと、実は、まだまだその間には大きな溝がございます。
 つまり、身体的なレベルの問題というのは言語というものを介しませんが、特に我々が今、私もきょう問題にしましたような、こういう言語を介した教育ということになりますと、そこにはもうちょっと複雑なものが相当まだ入り込んでおりますし、個人のいわゆる遺伝子レベルで決定されたり細胞レベルで決定される部分と、言語というものが入り込んだときの複雑さの度合いというものには、これはもう全然飛躍的な違いが、かなり大きな違いがあると思います。
 もちろん、ある程度の学習の傾向性みたいなことについては当てられると思いますし、どういう脳の発達段階において、どの程度の刺激を与えると有効だということについては言えるかもしれませんが、それに基づいて現行の指導要領のようなカリキュラムまでつくれるかというと、これは百年、二百年後についてはわかりませんが、少なくとも、我々が今当面問題にしているような教育の世界ではまだまだ難しいようです。これは最先端の研究においてさえ、まだまだ難しいようです。ですから、そういう点では、もう少しその手前のところで議論をすべきことが、まだ課題としてはたくさん残っているというのが私の考え方です。
 その上で、では、地方分権やミニマムということをどう考えるかなんですが、学習指導要領はミニマムだというのは私も驚きました。実際、それをつくっている最中には、つくっている方々はミニマムだと思っていらっしゃらなかったわけですから。後になってミニマムだと言われたわけです。ミニマムという意味を最低限の保障だというふうにとらえるとすると、実は、もっと本当は精選しなければいけないのかもしれないですね。つまり、ちゃんと学力保障すべき内容として見るのかどうかということが一点です。
 もう一点は、それをだれが保障するのか。地方まで分権化して保障するのか、国がミニマムとして保障するのかというところについては、恐らく教育のやり方、行政制度を含めて、これまた問題になってくると思います。私個人の意見としては、ミニマムを保障するための最低限の財政的な部分の保障や、大まかな大綱化したガイドラインは国がつくるべきだと思いますが、具体的なやり方はなるべく地方におろして、多様な改革のやり方を志向した方がいいと思います。
 といいますのは、新しい学習の考え方にしても、アメリカやイギリスというのは分権的な国ですから、全国一律にこういうことをやっている国は、先進国の中では恐らく日本だけなんですね。つまり、失敗があったときには、各地で失敗がありますから、それに対するフィードバックがかかるような分権の国でやっているのと、全国一律で中央で縛ってやっている国では、これはおのずと影響が違うんですね。ですから、そこら辺にも問題があると思います。
 以上です。
谷川小委員 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、今野東君。
今野小委員 苅谷先生のお話、大変興味深く伺いました。ありがとうございました。
 私たちは憲法というものを持っておりまして、今先生がおっしゃったように、それに裏打ちされるように教育基本法があるわけですけれども、特に、三条にある、先生もおっしゃった、「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」という項ですが、これがしばしば誤った解釈が行われていて、そして結果の平等という形になっているのではないかというふうに私も思います。
 先生がおっしゃった、運動会で、手をつないでみんなゴールしてくるという、同じような姿を、私も、公立の幼稚園の学芸会というんでしょうか、お楽しみ会というんでしょうか、ああいうところで見たことがあります。白雪姫の芝居をやっているんですが、白雪姫の主役が何人も何人も出てまいりまして、結果、たとえせりふの少ない役でもよくやったと子供を励ますという、親の子を励ます機会を奪っているのだなとそのときに改めて思ったんです。
 私たちは、教育基本法の特に第三条、これがこの社会の中では正しい意味で生かされていないのではないかというふうに思うのですが、先生はどのようにお考えでしょうか。
苅谷参考人 最初にもこの部分で申し上げましたように、能力をどう考えるかということが一つのポイントだと思います。その場合に、私は、いわゆる子供たちの習熟度と言われている学習の進度に応じて教え方を変えたり、あるいは学級を変えたりするということを、これは余り固定してしまっては問題ですし、細かくやってしまうとこれもまた問題なんですが、ある程度緩やかな形でやるというのは非常に大事だと思っています。そしてまた、それは今の教育改革の流れの中でも行われておりまして、確かに、ある意味では、能力に応じるという部分にこたえようとしていると思います。
 しかし、そのときに、非常に難しい問題は、実際にそれを実現するための財政的な支援がどれぐらいあって、ちゃんと教員の手当てが数の上で保障されているのかということについては、私はまだまだ問題があると思います。しかも、学校段階が上になればなるほど、ややもすれば受験ということに念頭を置いて、同じ授業の形態が使われるということもあるわけですね。ですから、そこは、能力に応じるという場合、あるところ学力に応じた教育というものもやむを得ないんだと私は思っているんですが、しかし、それをどの段階から始めるのか、あるいは、あるところからそれを分けるにしたって、それまではちゃんと格差が少ないように保障できているのかということがきょう一番私がお伝えしたかったところですので、そこをしっかりした上であれば、その上の段階においては、ある程度能力や学力に応じた教育というものは求められていると私は思います。
 以上です。
今野小委員 ありがとうございます。
 近ごろ、さまざまなそういった事象からでしょうか、教育基本法を見直さなければならないという話をよく聞きます。聞いて随分になりました。これは、学力の低下とか、あるいは不登校など、子供たちの問題行動がさまざまな形で報道され、また、考える機会を多く持つということになってそういう話が出てくるのだろうと思いますけれども、しかし、そうした学力の低下とか子供たちの問題行動がどこから来ているのか、しっかり見きわめなければならないと私は思っております。
 これらの問題を考えるときに、経済効率を優先させてきた社会のツケがこうした形であらわれているのではないかと思うんですが、教育的病理のみを土台にして教育基本法を考えることは大変危険なことだと思っているんですが、これについては先生はどうお考えでしょうか。
苅谷参考人 御期待に沿うお答えができるかどうかわからないんですが、確かに、学校というものは、社会的な真空の中に存在するわけではございません。社会の変化、経済の変化の中に存在するわけです。したがいまして、社会が何を教育に求めるか、子供に求めるかというのは、今のお話にもありました経済効率優先というふうな問題点があったことは恐らく否定できないと思います。
 ただ、それが直接的には影響を及ぼさないわけですから、必ず何かを媒介して問題が起きているときに、そういう問題に対して、要するに公的な機関やあるいは税金を使って行えるような施策というものがどの部分なのかということが、恐らく私はこの問題を考えるときの基本だと思います。それによって変え得る部分、あるいは変えやすい部分と変えにくい部分というものを識別しなきゃいけなくて、ややもしますと、教育基本法の改革の議論の中でも家庭教育の重要性ということが言われるわけです。もちろんこれは、子供が生まれ育つ家庭が大事だというのは、きょうの私のお話の中でも階層の問題を含めて大事なわけですが、では、家庭にどうやって国家なり行政が介入できるかとなると、これはまた別の問題です。
 そういった意味で、私はやはり、行政が行うべき範囲というのは、公的な機関を通じてなし得ること、それをまず優先順位としては優先すべきだというのが私の考えです。その中で、社会経済そのものを変えるというのはなかなか難しいわけですけれども、その影響をどのようにして教育の中に、いわば影響を弱めたり、あるいはそれを取り込んだ上でもなおかつどういう教育方法を考えるかということが大事なのであって、一挙に社会全体が変えられれば別ですけれども、そのことを教育と一緒にやっていくしか恐らく手だてはないんだと思います。
今野小委員 先生のお書きになったものの中で、現政権が痛みの伴う構造改革を進め、不平等の拡大を許す経済政策をとりつつある中で、教育はそれを促進するのか、抑制するのか、どちらの方向をとるのかと問いかけておられます。
 ちょうどきのうの東京新聞の夕刊ですが、国民生活金融公庫総研が調査の結果、長期化する不況が世帯の年収減をもたらし、教育費負担を増大させているために、年収格差から教育格差が生じていると発表しております。
 イギリスの例を見ますと、新自由主義的な経済改革とともに、雇用の不安定化と所得格差の拡大を前提に、それに対する措置として、学力の向上を重視して、教育への財政支出を年率五%ずつふやしてきました。
 日本も不良債権処理の加速化が進み、また、金融機関による中小零細企業への貸しはがしがさらに進みますと、ますます雇用の不安定化が予想されますし、しかも長引く不況という条件の中にあるわけですが、こういった経済的格差と教育格差の関係についてどのように対応すべきとお考えでしょうか。
苅谷参考人 今の点こそきょう一番言いたかったことなんですけれども、教育の問題を子供の時代だけの問題として考えるのか、学校の時代だけと考えるのか、それとも、その子供たちが雇用者となり社会に出た時点までを考えるのか。そして、雇用者として社会を支えていく人たちが、今後十年、二十年後に社会を実際支えていくわけですから、どういうエンプロイアビリティーというんでしょうか、雇用能力を持っているのかということは大変重要な問題だと思います。
 そしてまた、そこに親の経済格差が反映しているというのもおっしゃるとおりでして、ただ、これは所得格差だけではなくて、同時に、そこには親の意識であるとか、私が階層と呼んでいるところはそこに関係するわけですが、家庭の中の文化的な環境とか、そういうものがるる重なって出てきます。ですから、これは、いわゆる奨学資金のような形だけで解決できる部分もありますが、それだけではどうしても解決できない、もうちょっと公立学校がしっかりしなければいけない部分があるわけですね。
 そういった点でいいますと、日本国内で見ましても、実は、経済の不況の問題も当然ながら地域格差を伴っています。若年の失業の問題も大きく地域格差を伴っております。こういったところで、雇用の問題に直接結びつく若者たちの能力の形成、特に、卒業時点でなかなか仕事が得られなくても、いずれその職業につくためには何らかの職業訓練が必要になるわけですが、その職業訓練を受ける上での基礎になっているのが、私がきょう一番言いたかった基礎的な能力の部分なんですね。社会が仮に何らかの職業訓練の機会を与えるにしても、それをどれだけ受けやすいように子供たちの中で知識の基盤ができているかどうかが大事だということです。それが、今の状態ではなかなか難しい現状ではないかと思います。
今野小委員 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、太田昭宏君。
太田(昭)小委員 公明党の太田です。
 私は、教育改革国民会議にも参加をさせていただいて、教育について三つのフロントということを主張させていただきました。大学改革、学力低下、そして三つ目には学級崩壊とか不登校の問題、これらにどう対処するか。私は、家庭、地域そして学校と三位一体となってやるというけれども、なかなか家庭というものがうまくいかないということからいえば、学校教育のあり方というのは極めて大事であるし、開かれた学校ということをさらに展開していかなくてはいけないということで、そうした具体的な活動を展開してきたわけです。
 きょうは、学力低下というお話がありまして、階層差というお話がありましたが、端的に言いまして、この十年間のいわゆるゆとり教育というものは誤りである、こういうふうに言っていいのでしょうか。
苅谷参考人 ゆとり教育というものの中身をどうとらえるかというのは、一つのこの御質問に対するお答えのポイントになると思います。これは、単に授業時間数を減らしてきたことだとか土曜日が休みになったことが原因なのか、あるいはもう少しそこに教育の考え方みたいなものまで含めて考えるのかによって多分違ってくるんだと思います。
 しかし、私が少なくとも自信を持って言えることは、教育改革の政策評価抜きのさらなる改革というものが問題を生み出してきたことは間違いないと思います。
 つまり、原因の特定というところにはまだまだ実際にはいろいろなことを調べていかなきゃいけないわけですが、少なくとも、現状においてこういう問題が起きているということさえ、残念ながら、我々民間の側から、あるいは学界の側から問題を提起しなければ、こういう問題自体が議論されることはなかったわけですね。ですから、行政の仕組みの中に、そうした税金を使って行われている公教育というものがどれだけの成果を生み出し、どういう問題をさらに生み出しているのかということに対するチェックが甘かったということは自信を持って言えます。
太田(昭)小委員 非常にそういう意味では貴重なデータで、先生がこれまで研究されたことがいろいろよくきょうはわかったわけですが、学級崩壊とか不登校ということの角度でのそうしたデータというものは、先生、学力低下という上ではきょうはよくわかったんですが、ゆとり教育、教育改革というものが学級崩壊や不登校という点では何らかの寄与をしたという点はないのでしょうか。
苅谷参考人 まず不登校についてですが、先ほども申し上げましたように、今行われております教育改革の出発点は九二年の指導要領になります。それ以降の不登校の統計的な推移を見ていきますと、むしろふえております。つまり、今までの教育改革がもし不登校なりそういった子供たちの問題を解決することを一つの目的に置いているとしたら、それは、原因がどこにあるかはわかりませんが、うまくいっていなかったということは言えます。
 学級崩壊というのは、これはどう定義するかというのは、これは実際にはマスコミがつくった言葉ですので、学問的な定義としては難しいのですけれども、しかし一方で、子供たちの自主性や主体性を尊重するということが行き過ぎた場合に、特に義務教育の低学年の段階で、主体性を重んじるがために、逆に先生方の、権威という言葉を使うと何か昔に戻るように聞こえるかもしれませんが、やはり大人が毅然として教えるべきことを教えるというようなことがやや弱くなったのかなというふうには私は考えております。
太田(昭)小委員 常にそれらが、先生の本にも書いてありますように、振り子が振れるように展開されるわけですが、もう一つの振り子は、教育改革国民会議について先生おっしゃっているんですが、個人と公的なものとの関係のとり方がかなり違ってきていると。
 個性の尊重をうたうという従来の教育改革の流れがあり、教育改革国民会議においては、むしろ、そうした個人中心ということ、その中には、押しつけや強制を悪とみなして、個人の興味や関心や主体性を主軸とするという今までのものとは、違う。それは、あのとき問題になりました奉仕活動の義務化などにあらわれているわけですが、これらの教育における強制や押しつけの必要性というものがかなり共有されたという認識で、確かに、私は会議に参加しておりまして、そうした論議は随分あって、その中に国家主義はいけないよとかいろいろな歯どめがかけられてあの答申がされているわけですが、この辺の、どちらが正しいということはないのでしょうが、この振り子は先生はどういうふうに判断をされるんでしょうか。
苅谷参考人 大変難しい問題だと思います。
 ただ、公共性が強制をする際の一つの後ろ盾になるということを考えたときに、強制をする中身であれ強制の仕方に対して、どれだけオープンにそれがチェックされるかということが極めて重要だと思います。そして、そのチェックのレベルを国の行政の単位で考えるのか、もう少し地方とか学校現場に近いところで考えるかによってもこれは恐らくフィードバックのかかり方が違いますから、何らかの強制なり介入なりをする際の公共的なものを考えるレベルというのでしょうか、ベースというのでしょうか、それをどこに設定するかというのはやはり私は重要だと思っています。
 なかなかこの議論の難しいところは、一方で、国家というものに対する考え方がこれまた幾つかの種類がありますので、公共性を中心にして考える場合と、ややもすると復古的な形で見る場合と、これも多分いろいろなとらえ方が国家についてもあると思うんですけれども、そうしたところで重要なのは、いかにこうした議論が開かれてあってチェックできるかということだと思います。それを大きな指針として、大綱としては国レベルで示せるとしても、具体化するところにおいては、もう少し住民参加が可能なような分権化されたレベルでもって公共性というものを考えた方が、私はむしろそのチェックというものはききやすいのじゃないかと思っております。
太田(昭)小委員 心の教育というものが非常に大事だという、そして、現状の子供たちが共同性とか人間観とか、そういうものが欠如しているという中から教育基本法の改正問題が出ているんだというふうに思います。
 人間観ということについて言えば、むしろ人間というのは、東洋哲学では、人と人との間、ジンカンというふうに読む。あるいは、和辻哲郎さんが、「人間の学としての倫理学」で、人倫というのは、ともがらの中からの人間というものを考える、今でいえば共生社会というものとも言えるかもしれません。
 私は、他人を大事にする、そして人と人とがともに共生をしていく、人と人との間柄というものをより大事にしていくというような、共同性の復活の中から文化とか伝統というものをくみ上げていくということの中から、心の教育がなされていかなくてはいけない。
 国家というものがそこに、人間こうあるべしということで入っていくというよりも、教育内容の中に、もっと文化的なものとか、あるいは江戸時代が循環型社会であったとか、あるいは郵政のことでよく前島密から始まったとかいうが、僕はそうじゃなくて、飛脚の時代とか、そういう中に非常に日本文化というものは伝統的に深いものがあった、こういう認識をしているわけです。心の教育ということについて、その歴史観が、国定の歴史観をもって検定される今の教科書の中で教えるということが一体いかがなものか。あるいは、文化とか伝統というものをどういう形で教えたらいいのかということについて、教育基本法との絡みの中から先生のお話をいただきたいと思います。
苅谷参考人 これもまた大変難しい御質問なので、どこまで答えられるかわからないのですが。
 私は社会学という学問をベースにこういう研究をやっているんですけれども、社会学の中で社会をとらえるときに、いわゆるアソシエーションと呼ばれているものと、これは組織とか訳されるわけですが、契約とかルールに基づいて人々が関係をつくり出していく、そういう側面と、家族とか郷土のように、もともと生まれながら育ってくるような地域性とかそういうものに基づいた人間関係、共同体、コミュニティーと呼ばれているものですが、こういうように二つ区別されてよく議論されます。
 私は、学校教育で行われるべき問題として、小さな子供たちの集団としては、当然ながら、コミュニティーの要素であるとか、それから近隣社会や地域というところの関係が出てくるわけですが、もう一つ大事なのは、共生社会を考えるときの、その共同のルールというものは、これはやはりアソシエーションの原理から出てくるんだと思います。そして、それは、ちゃんと知識として教えられるべき、教えることの可能な問題だと思うんですね。
 そこの部分を区別して考えないと、心といっても、実は、心というのは、一方で頭と、ハートと、それが二つあるわけですから、頭脳によってある程度判断できるアソシエーションの部分と、もう少し感情の部分というものをどうやってうまく区別して教育の中に持ち込むのかということが大事なんだと思います。
 その場合に、ルールとか契約とか、そういうようなアソシエーションの部分を余り重視しないまま共同性ということを強調してしまうと、今御指摘にあったような内容にまで踏み込むということになってくる可能性があるのかなと思います。ちょっと抽象的なお答えですが。
太田(昭)小委員 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、武山百合子君。
武山小委員 自由党の武山百合子でございます。
 きょうは、いろいろなお話、ありがとうございます。
 私、二十年ほど前に、ニューヨークで日本語の小学校の先生をしておりました。二十人ほどのクラスなんですけれども、私の息子たちは昼間アメリカの学校へ行って、土曜日だけ日本語の学校へ学びに行った。その小学校でございます。日本から駐在で来られた、ちょうど日本の高度経済成長を支えてきた方々の、海外駐在員の皆さんが行かれる学校なんですね。
 小学校一年生から六年生まで、各学年全部持った経験があるんです。そこで驚いたことがあるんです。二十人ほどのクラスなんですけれども、日本から来て間もない生徒で、日本語で一行も文章を書けない子がいたんですね。テーマを与えて、そういうカリキュラムがあったものですから。それで、物すごい驚いたことがあったんです。
 まさにそれが二十年ほど前の話ですよ。それからどんどんその現実を知りまして、大体各クラスに二人ぐらいいるんですね、そういう子が。それも、経済的にも家庭的にも一応きちっとした家庭からの、駐在という形で来ている方々なんですね。
 それで、私は、ちょうど九年前、日本へ戻りまして、この政治の世界に入って、そして、教育の現場ももちろん見たり聞いたり体験したりしてきております。
 それで、最近感じたことなんですけれども、私のところで秘書を公募します。そうしますと、三十代の男の方、女の方、応募してくるんですね。その経歴書、履歴書、ひどい字で書いてくるんです、日本語を。まず、字が書けないことにびっくりいたしました。それで、基本的に雇いますね。そうしますと、お茶くみできない、あいさつできない。私は、お茶くみからあいさつから、結局そういうことまで教えなきゃいけない。
 ということは、経歴書を見ましたら、物すごい経歴書はいいんです。士どころはいっぱい持っているんです。秘書検定、英語検定、政策秘書受かった、いっぱい士どころ、五つも六つも持っているんですね。それでいて、ふらふらしているんですよ。職を幾つも転々と変えているんです。
 そういう、今、社会の現実。片や、きちっと就職してそこで一生懸命頑張る人と、いろいろな人がいますね。その中で、私のところで公募する場合は、そういう方が応募してくる。物すごい変化ですよ。大学教育を受けて、立派な肩書を幾つも持って、それでいてふらふらしているんですね。この社会現象は、今、苅谷さんがまさにきょうお話しした内容を反映していると思うんです。
 この原因なんですけれども、幾つかあると思うんですけれども、その原因をぜひお話ししていただきたいと思います。
苅谷参考人 これも、大学のレクチャーであれば一時間ぐらいかけてお話しするような内容なんですが、ただ、ちょっとこれは学問的な回答にならないかもしれませんが、こういったことの一つの反映には、大人が自信を失っているということがあると私は思います。つまり、大人が次の世代の子供たちに何を教えるべきなのかということに対する、もう少し毅然とした形での対応ができていれば、恐らくもう少し違ったんだと思います。
 それは、先ほどもいろいろ議論が出ていますが、強制なのか介入なのか、もちろん子供の自主性や主体性を尊重するということは当然大事なんですが、しかし、それと別に、子供が納得するかどうかとは別の次元で、社会としてこれだけのことは次世代の子供に伝えるべきだということが、知識だけではなくて、あると思います。ややもすると、この十数年間ぐらいの教育の世界の中の論調というものは、そういったことに少し及び腰だったのかなというような印象を私は持っています。
 こういうふうなお話をして、すぐ、何かおやじが怒って締めつければいいんだ、そういう単純な話ではないと思うんですけれども、ただ、そのときに、我々大人が大人として、次の世代にこれだけのことはしっかり伝えなければいけないということを、どれだけ合意を形成し、そして毅然として伝えられるかという、その自信の揺らぎというものが、さかのぼっていくと、やはりあったんじゃないかなというふうに考えます。
武山小委員 そうしますと、今、日本人、ほとんどの人が感じておると思うんですね、この危機的状況を。それで、多種多様な教育改革を本当にすぐやらなきゃいけないと思うんですね。
 その多種多様な教育改革の中に、ここのところずっと文部科学委員会でいろいろな法律の対応をしてまいりましたけれども、その対応の内容というのは、本当に半歩か一歩の、ダイナミックな画期的な前進じゃないわけですね。そこにみんないらいらしておるわけですけれども。
 その中で、一つ、校長先生のリーダーシップ、それから教員の、多種多様な方のいわゆる採用の枠だとか。
 そういう中で、校長先生に聞きますと、あの手この手で頭をぽこんとやられる、だから、僕はあと数年で退職なんだけれども、じっとしているほかないんだと。校長先生自身がそういうふうな意識を現実に持っているわけなんですね。ですから、これ自体が危機的状況。
 それから、多種多様な経験のある人を社会が教育の現場で雇う。
 アメリカなんか、私、子供たちの教育の現場でびっくりしたんですけれども、マンハッタンのミュージカルの現場でミュージカルをつくっていた方が、実際に音楽の先生で小学校に来て、毎年毎年ミュージカルを子供たちとともにつくっている現場を見まして、物すごい驚いたんですね。ですから、日本もそういうふうにして、現場で本当にいろいろな活動をした経験のある人を、門戸を広げて、中途採用というものをやっていくべきだと思うんです。
 校長先生のリーダーシップと、それから教員の、多種多様な経験のある方をダイナミックに採用する、そういうことに対しての所見はどうでしょうか。
苅谷参考人 それをどういう学校の場あるいは教育の場に活用するかということを考えておいた上で、そういう時間やあるいはそういう人材を使って多様な教育を展開するということは、私は必要だと思います。
 ただし、一番中心になるのは、給与をもらって教えている教員の能力、やはりそこがしっかりしていなければ、先ほどの御議論でもありましたが、そういうリソースを使いこなせるかどうかというところが問題なわけですね。
 そういった点で、もう一方で、私は、やはり教員の資質向上ということをしっかりやっておかなければ、いろいろな人たちが入ってきたときに、うまくそれが使いこなせるかどうか。そしてまた、そのときに、そういう学習の多様性も重要であると同時に、きょうお話ししたような最も基本的な部分については、これは教えるプロである先生たちがしっかり教えなきゃいけないわけですから、そこの部分が保障された上でのお話ということであれば、大事だと思います。
 そして、もう一言申し上げますと、校長のリーダーシップを初めとして、これは行政の仕組みによっているのか、それとも長年の教育界の慣行によっているのかというところについては、少し区別して議論しなきゃいけない部分がありますので、幾ら法律を変えたり行政の仕組みを変えても、なかなかそのとおりには動かない。むしろ、そういう慣例とか慣習とかのところで制約になっている部分が随分あるようです。
武山小委員 先生の能力、本当にそのとおりなんですね。
 多種多様な能力を個人がたくさん持っておるわけですから、それを教育の現場に、子供たちのために、あすの私たちの社会のために生かしていただきたいというのはだれもが思っておるんですけれども、現実にそれを生かす場になったときに、今、硬直状態だと思うんですよ。そこにかかわっている校長初め教頭、教育界、ましてや日本の文科省、そこをどう変えていったらいいんでしょうか。
苅谷参考人 私は、一つの答えはないというのが私の基本的な考え方です。つまり、多様な試みをいろいろな地域でやる中で、多様な答えをそれぞれの地域のニーズに見合って出していけばいいというのが答えです。
 ただ、そのときに、幾つか、私は研究者としてできることとしては、実際にそういうことを先端的にやっている都道府県や市町村がありますから、そういうところではなぜそういう改革ができるのかということを御紹介したいとは思っています。
 そういう中でいきますと、幾つかの市町村レベルでも、かなり大胆な、これは教育長のレベルのリーダーシップが相当違っていますけれども、そういうところから、慣例的な、先ほど申し上げましたような教員の世界のいろいろなしがらみなんかもそこで打破しながら、かといって、全く新しい人を連れてくるんじゃなくて、現有の教員たちを活性化する中で成果を上げている地域もあります。
 ですから、なぜそれが可能なのか、そういうことをやるためには何が必要なのかということを見ていけば、私は決して、日本の教育のポテンシャルというのはまだまだ高いんじゃないかというふうに、希望は捨てていません。
武山小委員 どうもありがとうございました。
大出小委員長 次に、山口富男君。
山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。
 きょう、冒頭に、苅谷参考人は憲法と教育法については専門でないというお話をされましたけれども、お話を聞きまして、教育を受ける権利を人権としてとらえて、それを今日具体化する際の非常に中心問題を提起されたというふうに私は受けとめました。
 それで、お話の最初に憲法二十六条、二十五条、また教育基本法の三条をお引きになりましたけれども、私は、教育基本法の三条が、これは憲法の十四条の法のもとでの平等を踏まえているわけですけれども、人種、信条、性別、社会的身分、その後に、十四条にはない経済的地位という言葉を入れて、いわばこの問題が教育分野に大きな影響を与えるから、この点についてはよく留意して臨まなきゃいけないよというかなり懐の深い規定をしていたんだなということを、きょう、お話を聞きながら改めて感じたんです。
 それで、最初にお尋ねしたいのは、苅谷参考人のこの問題を考える大きな見方というのは、教育現場のあるいは教育の実態にふさわしく、憲法や教育基本法が本来求めている教育を受ける権利、それが実るような方向での努力をしようじゃないか、そういう立場での一連の分析だというふうに受けとめてよろしいわけですね。
苅谷参考人 はい、結構でございます。
山口(富)小委員 そうしますと、続いてお尋ねしたいのは、きょうの社会階層的分析の一連の資料の中で、一つは九二年というのが問題になったように思うんですね。
 それで、もう一つ、今後のことを考えますと、ことしの四月からの新しい学習指導要領で、学校現場からは、学校や授業また子供たちが壊されてしまうという悲鳴が相当上がっていますね。それは、ゆとり教育という名前のもとで、学習内容にしても、授業の編成にしても、なかなか難しい問題を抱えているからだと思うんですが、その見通しといいますか、恐らく危惧されていると思うんですけれども、このまま推移してしまうとどういう点が起こり得るのか、あるいは急いで改善するんだったらこういう手を打たなきゃいけないという、そういうものをお持ちでしょうか。
苅谷参考人 極端なことを申し上げるかもしれませんが、私は、ことしの三月ぐらいまで行われていた月二回程度の土曜日の開校というのは、結構、今やろうとしている教育からすると、時間的な余裕という点では必要だったんじゃないかと思っております。
 もちろん、これは国民的な合意のもとに、教育公務員の週休二日という問題がありましたから出てきた問題ですが、それが今度、子供の教育のゆとりという問題に変わりました。
 しかし、では、それによって、結果として学校現場は先生たちも忙しくなり子供たちも忙しくなっているのであれば、もう一度、それを月二回程度は、これは、僕はその判断を国がやるべきではないと思います、地方がやるべきだと思っているんですけれども、地方の判断によっては月二回程度土曜日開校することを禁じない緩やかな規定に戻すことによって、随分学校の余裕は違ってくると思います。
 先生方は今まで、月二回、振りかえて、土曜日お休みなはずを学校に行っていましたから、その分を今夏休みに学校に行くようになっているわけですね。それで、結果的に今起きていますのは、子供がいないときに学校へ行って出勤簿を押して、あと、普通、学校があるときは先生方も忙しくなって、子供も忙しくなっているわけです。これが恐らく教育公務員週休二日の実態です。
 だとすれば、それは、最初のゆとりというところからすると、随分違う結果をもたらしているんだと思いますね。まずは、時間の点でのリソースをもう一度再有効活用という点でいえば、三月ぐらいまでに戻してもいいんじゃないかと思っています。
山口(富)小委員 日本の教育の実態に対して、国際社会からの批判というのはなかなか強いものがありますね。
 例えば、国連からの日本政府への勧告ですと、九八年に、児童の権利に関する委員会から一つ勧告が出ている。このときも、高度に競争的な教育制度並びにそれが結果的に児童の身体的及び精神的健康に与える否定的影響ということを問題にして、過度なストレス及び登校拒否を予防し、これと闘うために適切な措置をとるように勧告する。これは九八年ですよ。
 昨年の八月には、経済的、社会的及び文化的権利委員会というところから同様の勧告を受けていて、教育制度の包括的見直しを行うことを強く勧告すると。内容としては、生徒の不登校、病気や自殺まで引き起こしている教育のあらゆる段階に生じている過度の競争とストレスに焦点を当てるべきであるという、相当強い調子のものなんです。
 先ほど、階層性の問題で、アメリカやイギリスではそういう視点で教育分野を見ていくのは常識になっているんだという話がありましたけれども、これだけの国際的な勧告や批判を浴びる、その国際的な視点といいますか、それはどういう面から、やはりこれは日本の教育上問題だぞという、そういう接近になっていくんでしょうか。
苅谷参考人 まず、当然、日本側から情報が出なければ日本の教育の実態に対するそういう評価は出ないわけですね。これは先ほど、最初に私申し上げましたように、日本の教育関係の審議会においても同じような認識を持っていましたから、恐らくデータソースというか、情報ソースは同じようなところだと思います。
 しかし、今、現状、例えばことしの四月の大学入学者のうち、いわゆる受験を経て大学に受かっている人は半分しかいません。あとの半分は受験を経ていません。推薦入試とかAO入試です。それから、受験をしていても、既に多くの私立大学が定員に満ちませんから選抜はしていません。そういった意味で、学力を経て選抜されているという子供たちは、大学入試でさえ今は半分未満です。それから、高校入試も、今四割ぐらいは入試を経ていない推薦入試です。
 それはもう既に、この間のいろいろな教育改革によって、まさに受験競争の緩和というのは達成されていますし、それ以上に、十八歳人口の減少というものが、ほっておいてもいわばそういう状態をもたらしていたんですね。
 ですから、私は、少なくとも私が見ているデータで見る限り、もちろん、一部の子供の過度の受験競争というのはどんなに制度が変わっても変わりませんし、これはどんな社会に行ったってあります。だけれども、全般的な教育制度、つまり七割、八割の子供に影響を及ぼす教育制度を考える場合に、過度の競争というものを念頭に置いてしまうと、私はそれは、少なくとも私のデータは、それに対しては違うというふうになっております。
山口(富)小委員 そうしますと、義務教育の段階での、国際社会が問題にしている、不登校の問題ですとか、学級崩壊などに代表されることになると思いますが、そのあたりはどういうふうに見ているんですか。
苅谷参考人 先ほどもちょっと御紹介しましたように、教育改革をこれだけ進めてきたにもかかわらず、不登校も減っていないという実際のデータがあるわけですね。もちろん、受験競争が唯一の原因ではないということは、一つは、先ほどの受験競争が緩んでいるということからも言えるわけなんですけれども、恐らくそこには、これはなかなか実際の分析は難しいんですが、まさに日本的な、子供たちの間での共同体的な人間関係とか、集団をつくる際の、もう少し日本の文化に根差したような問題があると思います。
 すごく極端なことを申し上げますと、例えば、高校レベルなどで単位制高校にしてしまえばこういう問題はなくなります。というのは、人間関係自体が希薄になりますから、そういうところではこういう問題は起きないんですね。だけれども、そのかわり、単位制高校にしてしまえば、逆に、若者たちが共同しながら何かをつくり出すという機会も失ってしまうわけです。
 ですから、日本の教育が持っていた集団的に共同し合うといういい面と、それがネガティブな影響を及ぼすということが、どういう関係にあるのかということを見ていかない限り、少なくとも、受験競争の圧力がなくなったからといって、そういう問題が解決するということは私はないと思います。
山口(富)小委員 最後になると思うんですが、先ほど、行政の問題で非常に多様な試みが必要だというお話がありました。それは本当に大事な提起だと思うんですね。
 最近、中教審が中間報告を出しておりますけれども、端的な形で結構ですから、どういうふうに見ていらっしゃるか、お教え願いたいと思います。
苅谷参考人 つい最近出たものについて、中間報告についてまだ精査はしていないんですが、私は、かねがね申し上げておりますのは、既に中央から教育改革を発想すること自体が限界に来ているんじゃないかということを申し上げています。
 大枠をつくるところは中央から発想しなきゃいけないし、ガイドラインを大枠のところでつくらなきゃいけないし、財政的な基盤をミニマムとして国家が保障しなきゃいけないのは言うまでもありませんが、具体的なやり方、それから改革の志向性、方向性を決める単位というのは、もう少し地方におろさないと、一番の問題は学校現場からのフィードバックのかかりやすさだと思います。
 先ほども申し上げましたように、今までの改革の議論というのは、残念ながら、そういったフィードバックが非常にかかりにくい、実態把握をしないまま行われてきました。これはなかなか、今の審議会方式でそれを取り入れようとしても難しいと思います。もうちょっと身近なところに議論の場をおろしていかない限り、なかなか中央でやるのはどうかなというのが私の印象です。
山口(富)小委員 どうもありがとうございました。
大出小委員長 次に、山内惠子君。
山内(惠)小委員 社民党の山内惠子です。
 きょうは、本当に私も共感するお話をしていただきましたことを大変うれしく思っています。
 私は、小学校で三十年教員をしてまいりました。それで、私の見ていた一例を申しますと、学習塾に通っている、ピアノを習っている、おうちへ行ってもステレオがあり、ピアノがある、そういう子供たちと、一方、母子家庭で小学校の三年生までは学童保育に通っていて、四年生からは学童保育にも入れなくなり、冬、ストーブをたくのは危険だからと火のないところでたくさん服を着ている、ある日、お母さんが学校帰りに迎えに来てくれた、その帰り道ね、先生、十円どこかに落ちていないだろうかと下を見て歩いたんだよという子供との階層格差というのは、本当に学力差にあらわれているという意味で、大変きょうのお話、納得できました。
 その意味で、この間、教育改革にかかわって、画一的な教育、戦後の教育は悪平等という論がずっと出ていましたので、私は、この問題はそういうことではない。私は、一九七一年の中教審によって学習指導要領を変えられたところから、小学校の子供たちの算数嫌いは四年生からと言われた例を具体的に見てきました。
 例えば、九九は三年生で覚えればよかったものを二年生に、不等号は中学一年生でやっていたものを小学校の二年生に、関数は中学一年生でやったものを小学校三年生へ、確率は高校一年生でやっていたものを小学校の六年生へ。例えば漢字でいうと、一九七〇年で一年生で四十六字覚えればよかったものはプラス三十、なぜ一年生でふやしたかと私は思っています。それで、なぜか四年生で、漢字の数をたった十字ですけれども減らしたりしています。私は、森という字を覚えるのが先に出てきて、そして林が後に出てくるというような学習指導要領の内容が勉強嫌いの子供をどんとふやした、学習指導要領に問題ありと指摘し続けてきました。
 その意味で、今回の中教審の問題で、子供たちのいじめ、不登校、さまざまな、言ってみれば学校からの逃避というのでしょうか、そういう問題は教育基本法改正で解決しないんだと私は思っているんですが、苅谷参考人は、そのことを教育基本法の改正と絡めてどう思っていらっしゃるか、お聞きしたいと思います。
苅谷参考人 なかなかこれも、今オンゴーイングの問題ですから難しいんですけれども、基本法というものがどういう形でほかの教育関係の法律に影響を及ぼすのかというところがやはりポイントなんだと思いますね。もし、いわゆる徳目主義みたいな形でそれが盛り込まれたときに、ほかの教育の関係の法律や教育のやり方にどういう影響を及ぼすのかというところについての議論がもう少し見えてこないと、何とも言えないところです。
 ただ、この問題については、私があるときに雑誌に書いたことがあるんですが、もちろん基本計画みたいなものを立てるということは大変大事だと思っていますが、教育基本法の字句を考えるよりも、もうちょっと実態に目を向けるところから、今本当に教育の世界で起きている問題に、何とか行政や政治が手を差し伸べていただきたいなという気持ちは強く思っております。
山内(惠)小委員 ありがとうございます。
 私は、教育基本法の中教審の中間報告に対して、中学の先生が、本当に学校や子供の現実から乖離している論議をしていることを怒って書いていらっしゃる方がいて、学校にいると、子供たちの意欲の減退をひしひしと感じる、高校を出ても就職が難しくなるなど、子供が将来への希望を実感できないということが大変大きいということでいえば、きょうお話しされたことにも大変大きく関係していると思います。
 私は、実はこの国会に来るに当たって、小学校の教員だったことがありまして、子供が元気が出るということ、子供に元気ということを教育改革の視点として考えたいと思っていました。その意味でいえば、ゆとりはある意味で大変必要だと思っていますし、生きる力ということをかつて言われたときに、例えば鉛筆も削れない、転んでも手が出ない、それは、遊びでボール運動をしていないので、テレビを見たり何かすることから、自分たちの身に備わっていないということも、随分論議された過去があります。
 しかし、学力低下論が出始めて、このゆとりや生きる力という学校改革の流れがとまったように思います。先ほどおっしゃったように、私は、総合学習の導入一つにしても、教員をふやすなどの財政支援ということが本当に必要だったと思います。総合学習をしようと思ってアイデアを練っても、担任だけの仕事じゃなくて、例えば学年の先生が四人いたら、四人でいろいろ検討して、地域を見てきて、前段の準備が大変必要なんです。しかし、そのことなくして総合学習を進めざるを得ない学校現場という意味では、本当に支援が欲しいと思います。
 その意味で、教育改革を学力という一点で進めていいのか。先ほど、フタコブラクダということについて言われて、私も、そこのところは本当にそう思っているんですけれども、フタコブラクダの前段に、スーパーイングリッシュだとかスーパーサイエンスだとかいう高校に、二十校だとかいうところにお金は入れるけれども、後ろのこぶのところに財政支援は本当に何にもしていない。
 このことと絡めて、学力という一点で教育改革を進めていいのかを、改めてもう一度お聞きしたいと思います。
苅谷参考人 私は、きょうのお話はむしろ学力というところを集中的にお話しさせていただいたんですけれども、それは、もちろん、ほかにいろいろな評価の仕方があって、それをある程度客観的に示せれば、そうした面での教育というものが果たす役割というのは、これは当然重要なわけです。
 ただ、きょう申し上げたかったことは、その最もコアになる学校でしかできない、家庭や地域ではできないのは、やはり算数や国語を教えることです。ほかのことについては地域やほかの施設を使ってもできますが、先生の一番の専門性は何かといえば、教科を教えることですので、その部分について、量的に把握できる問題は、それは見た上でやらなきゃいけないということを申し上げました。
 その上で、最後に御指摘いただきましたように、どちらのこぶにも私は力を注がなきゃいけないんだと思います。ただ、ややもすれば、こういった格差という問題自体が、教育の世界で議論するのは長い間タブーでしたから、それが、ましてや家庭環境によって違うなどということを申し上げるということは、非常に今までは抵抗のあったことです。
 だけれども、それは実態としてどうなっているかということを見据えなければ、もう放置しておいていいという限界を超えていると私は思いますし、ますますこれから厳しくなる経済社会の状況を見据えたときに、そのことを今やっておかないと、二十年たつと、今団塊の世代がどんどんリタイアして、年金とか必要になってくるんですね。今の十歳の子供はそのときの三十歳ですから、今の子供たちが受ける教育というのは既に決まっていて、その子供たちが大人になったときは、実はもう今の教育によって決まっているんですね。少子高齢化の一番大変なときがその時期なんですね。
 ですから、やはりこれは、量的に把握できることはしっかり把握した上で、なおかつ、プラスアルファでできるものは当然あると思います。
山内(惠)小委員 ありがとうございました。
 私は、最後のところ、本当にそう思います。実態から出発する教育改革をと願っていますし、財政支援というのを本当に地方にしっかりやってもらいたいと思っていましたので、きょうはありがとうございます。
大出小委員長 次に、井上喜一君。
井上(喜)小委員 苅谷先生、本当に御苦労さまでございます。
 私は、ちょっと違った質問をするかもわかりませんけれども、お許しいただきたいと思うんです。
 憲法第二十六条には、すべての国民は、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利がある、こう書かれているわけですね。これは、国の立場からいえば、教育を受けさせる義務があるということですね。今、現実には、義務教育を六年、三年、あと高等学校、大学ですね。これは、国公立もあれば私立も全課程を通して認めている、こういうことだと思うんですが、そのときに、私、法律解釈を言うんじゃありませんが、教育の立場から、今義務教育というのは絶対に必要なことなのかどうか、要するに強制させるわけですね。そこについて所見をお伺いしたいんです。
苅谷参考人 現状において、私は必要だと思っております。
 その理由は、結局、我々の社会というものが、経済的な格差については、個人の能力に応じてという部分もあるところでは出てきてしまうのはやむを得ないわけですが、まさに法のもとでの平等とか政治的な権利における平等ということを考えたときには、当然ながら国民はひとしく一票を持っているわけです。
 その一票を行使する際の判断の基準というものは何であるかというふうに考えますと、これだけ複雑化した現代社会の中では、かなりしっかりとした知識のベースを国民一人一人が持っていなければ、恐らく投票という形での政治的な参加も、ある意味では、その知識や情報を十分持てない場合には、結果的にそこが機能的には損なわれてしまうということがあり得るんだと思います。もちろん、だれでも投票所には行けるわけですけれども、どういう判断で投票ができるのかということを、いわば一番基本のところで、知識のベースをつくっておくということは必要だと思います。これは経済格差とはまた別の問題です。
 そういった点で、ではそれを義務教育にかわってできる場があるのかどうかということでいいますと、私は、今のところまだないと思います。もちろん、それがいろいろな形での、メディアの発達とかそういうことによってもっと自由になれば別なんでしょうが、少なくともこの十年、二十年ぐらいを考えたときには、まだまだそういった点でも義務教育が大事だと思います。
井上(喜)小委員 そういたしますと、義務教育でありますから、例えば、小学校でありますと一年生から六年生まで、中学生は一年から三年まで、一年一年、一つずつ上がっていく、こういうことになりますね。そういう義務教育の中身、一年ごとに進級していく、いかせる、これについては絶対必要だとお考えですか。
苅谷参考人 御承知のとおりだと思いますが、フランスなどのように、義務教育段階においても、どこまで学習しているかに応じて原級とめ置き、いわゆる落第と言われるようなことをやっている国はございます。それは主にフランス系の、南ヨーロッパ系の国に多いわけなんですけれども、ではそれが効率的かどうかというのは、またちょっとこれは別の問題です。しかも、日本の国民性や、日本のさまざまな今までの教育制度のもとで、そうしたことがどれぐらいできるのかという点については、私はどちらかというと疑問を持っています。
 というのは、日本の社会の中で非常に強い規範は、年齢主義の規範というものがかなり根強くあります。そういった点では、もちろん、ある種のすぐれた能力を持っている人たちを飛び級のような形で進めるということは大事かもしれませんし、それから、ある段階まででしっかりと学力の保障がなされているかどうかをチェックすることは大事だと思いますが、それを急に変えて、原級とめ置きのような制度を導入したらいいかという形で考えたときには、ちょっと難しいかなと思います。ですから、今のところは、現行の制度を前提にした上でどう改善するかという、漸進的な考え方をとっています。
井上(喜)小委員 そうしますと、人それぞれ、学生それぞれ能力差がありますから、学力差が同じ学年でも相当出てくるわけですね。小学生のときにはそんなに出なくても、中学生になるとますますその格差が大きくなってくると思うんですが、一方、学生の方から見ますと、わからないことを教えられても全く理解もできないし、おもしろくないわけですね。そういった問題をどうやって解決すべきだとお考えですか。
苅谷参考人 具体的な手だてとしては、今実際に行われてもいますが、まだちょっと財政的な支援の点で不十分なために、一クラスの子供の数というものは十分少なくはなっておりません。それに応じて、子供たちのある程度の学習の習熟に応じた対応というのはできています。ただ、もう少しそれをきめ細かくやるためには、もう少し一学級当たりの子供の数を減らさないと、今の状態では無理だと思います。それが第一点です。
 それからもう一つは、では、今の教科書というものがそれを十分にこなすだけの、つまり、子供たちの理解を促す、そして理解をちゃんと定着させるような形で無償教科書制度というものが活用されているかどうかという点について、私は疑問を持っています。
 現行の教科書制度というものは、何ページということまでかなり厳しく規制をしておりますから、色刷りをやめてもっと厚くしようと思えば丁寧な説明ができるところを、そうしないままカラー刷りにするなんてことになっているわけですね。これは教える内容を削減するということが大前提だったからなわけですけれども、でも、教える内容を少なくするというよりは、きめ細かに子供たちが自学自習できるような教材というものは、もっと工夫によっては十分私はできると思います。
井上(喜)小委員 私は、勉強したくないのは勉強しなくてもいいじゃないかと。だから、例えば小学校一年生に入りまして、もう二年生とか三年生に行きたくない、中学一年に入っても、進学したくないというなら、それでいいじゃないかというような感じを私は持っているんですが、今先生のお話では、フランスなんかでは進級しないでいいような制度があるけれども、これを日本に導入することについてはいささか問題があるんじゃないか、こういうお話ですから、それはそれとしまして、お話はしませんけれども。
 もう一つは、義務教育の期間の延長、つまり、中学から高等学校へ延長するということです。これだけ社会が複雑化してきている、いろいろな技術の進歩もあるとか、そんなことを考えますと、中学校からさらにプラス三年ぐらいを、あるいは二年でもいいかと思うんですが、義務教育年限を延長するということについて、どのようにお考えですか。
苅谷参考人 それを義務というふうに言うのか、あるいは権利の保障と言うのかによって、大分その段階になると私は違ってくると思いますね。
 今のお話は高校段階の教育だと実際には思うんですけれども、そこで今一番大きな問題を抱えているのは、およそ職業的な教育というものが行われなくなってしまったということなんですね。そのために、先ほども御紹介しましたような、職業的なスキルをつけないまま普通科高校を出て、無業者になるという子供がふえております。ですから、そういった点では、社会に出たときに対応できるような力をしっかりつけるということはもう少し考えてもいいのかもしれません。
 ただ、それを義務というふうに言うのか、あるいは、学びたい子供たちがもう一度学び直せるような権利の行使として考えるのかということについては、もう少し議論の余地があるのかなと思います。
井上(喜)小委員 終わります。
大出小委員長 次に、近藤基彦君。
近藤(基)小委員 自由民主党の近藤基彦でございます。
 今ほどの井上先生の質問とちょっと重なってくる部分があるかもしれませんので、もし似たような質問だとしたら御勘弁いただきたいと思うんですが、先生が一番最初に、憲法二十六条をレジュメで示していただきましたが、二十六条の二項の方なんですが、「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」と。
 先生がお考えになっている、ここで言う義務教育の中の普通教育というのは、どういう教育のことを指しているとお考えですか、この憲法は。
苅谷参考人 私は、今までの既存の学校で行われていたような主要教科、特にここで読み書き算と言いましたけれども、そういうものが中心だと思いますし、それから、義務教育段階では当然、憲法を含めて、子供たちが今の日本の社会の仕組みについても基本的な部分については学習しなければいけないと思いますし、これだけ自然科学と科学技術が発達して、我々の日常生活に組み込まれているわけですから、そうしたことについてもやはり教えるべきだとは思っております。
近藤(基)小委員 私自身は、結局、先生が最後の資料の八でお示しになった、三十歳の自分は人並みの生活をしているかと。要は、社会に出たときの多分最低限の、昔で言うと読み書きそろばん、先生の言葉で読み書き算数ですが、例えば買い物をして足し算、引き算程度の計算が瞬時にできる、あるいは本を読める、あるいは地図が見られるとか、そういった社会に出たときの最低限の、これが多分基礎学力というものになるのかもしれませんが、それすら、先生のデータではフタコブラクダ的な、多少できる子と全然できない子と分かれる傾向にある。
 それが、今の義務教育制度、それは学習指導要領、現場の先生はいろいろあるだろうと思いますが、これをなくすために、先ほど先生は少人数学級と。私も反対ではないんですが、ではどこが限度なのか。今三十人学級とよく言われますが、本当に学力だけを見れば、一対一が一番いいわけですよ。ただ、一対一だと、さっき言ったように、単科高校みたいな形で先生がおっしゃいましたが、人間関係という問題。そこと、人間関係をうまく成立させながら人数的に絞っていくと、どの辺が限度だとお考えでしょうか。
苅谷参考人 教師一人当たりの平均人数で欧米と比較すると、日本は相当少なくなっていると言われているんですが、一学級平均で見ると、まだ多いんですね。これは、教えていない先生がいる問題であるとか、あと、教員が、専門職や事務職とか、そういう学校の中のほかの仕事の分担の問題がありますから、単純に教員の数当たりだけでは問題にできない部分があると思います。
 そういった点を含めて、やはり少人数というものをある程度実現しなきゃいけないとは私は思っています。そのことからいったときに、いろいろな研究で見ていますと、すごく有効に、いろいろな面で授業がしやすくなったり、実際に学習の効果があるのは、大体二十人ぐらいのところだという研究はあるんですね。これは、イギリスとかアメリカでも、そういう研究の成果を使って、それを目指すような教育改革の動きというのは始まっております。もともと少ない人数だった国がさらに少なくしようということをやっています。
 では、これが十人というふうになっちゃうと、これはちょっと少な過ぎるというのはありますし、教科によっても、体育とか芸術系の科目だったらもっと多くていいのかもしれません。
 だから、これは教科と学年に応じて考えればいいわけで、今のように一律に、小学校だったら全部、一年生から六年生まで何人と決める必要は実はないんですね。もう少しそこは弾力的に考えれば、一律に考えると何兆円かかるという話になっていますけれども、もう少しそこは、やり方次第ではできる余地はあるんじゃないかと思いますけれども。
近藤(基)小委員 私の選挙区は大変田舎なものですから、それと島を抱えていますので、いやが応でも少人数学級になっているようなところは実はあるんです。
 ただ、それはそれ、さりとて、例えば分校みたいなところで全学年一緒とか、今そういうところはほとんどないんですが、例えば一人の先生が十人程度を教えているということは実はあるんです。ただ、それは一人の先生がずっと十人を全部教えているという感じで、その一人の先生の能力も問われるわけです。今、これから過疎化が進み、地域間格差が非常に大きくなり、合併をすると、先ほど先生が、非常に学校もふえたし、機会がふえていると。
 それは、都会というか都市ではそうなんですが、実は田舎では、合併して面積が非常に広くなるんですが、子供が少ないので、統合される。そこへ通うのに非常に遠くなる。日本は比較的公立でスクールバス制度がないものですから、私はスクールバス制度をぜひ導入すべきだと。実はその中で、小学校一年生から六年生、あるいは中学生も、席を譲るとか小さい子の面倒を見るとか、そういうのが生まれてくるような気がする。そこには学校の先生が一人いても、学校内じゃありませんからうるさく言うこともないだろうと思っているんです。
 そういった意味で、確かに機会はふえているやに見えかけてはいるんですが、それとやはり過疎地での、我が県なんかは、余り過疎地に先生方が行きたがらないので、若い先生方を義務的に過疎赴任をさせるというようなこともやっているんですよ。そうすると、若い先生と管理職の先生、学校内でもこのギャップが非常に激しい。中間の先生方がいませんので、初めて教えるような先生が、もうがちがちに頭が固まった校長先生みたいな中で、若いフレッシュな人たちがつぶされる。
 そういった地域間格差とその地域のかかわり、そこに国が何らかの形で、もちろん最低限のことはしなきゃいけないんですが、関与できる余地がもしあるとしたら、先生のお考えをお聞かせください。
苅谷参考人 今の御指摘は、恐らく学級の規模の問題と学校の規模の問題は多分違うと思うんですね。つまり、一クラス当たり教える授業の数は減らしても、学校としていろいろな活動をするときの単位というのは、今のようなケースの場合、もう少し大きくしてもいいのかもしれません。そういう場合に、これから地方の財政もかなり厳しいようですし、国の財政も厳しい中で、きょうは階層格差というお話をしましたけれども、これは実際には地域間格差を伴って出てくる問題です。
 今まで日本は、どちらかというと、そういうところはほかの国に比べると、かなり手厚く、地域間の格差を義務教育段階ではなるべく小さくしようということで努力してきて、実際にそれは私は成果を生んできたと思っています。ですから、そういった視点が本当に失われないように今後も御努力を続けていっていただきたいなと思いますし、そういった点で、具体的に、確かにスクールバスのような形で、学校の統廃合といっても、単にまとめるだけではなくて、それがどういう特色を持った学校づくりの中でできるかとか、そういうことを通じてもう少し違うやり方があるのかもしれませんね。
 ただそれを、何か今までだと、学校をつくるときのルールが全部一律にかなり規制が強くありましたから、もう少しそこは弾力化してやった方が今のお話のようなことにも対応できるんじゃないかと思います。
近藤(基)小委員 児童の権利宣言でしたでしょうか、あの教育の中に、自然環境というものが一項入って、今日本でも環境問題がかなり、そういった面では、田舎の学校ほど自然環境に恵まれているところはありませんので、教えやすいんですが、今林間学校とか臨海学校とかいうのは、修学旅行も廃止しようかなんという時代であります。都会の子が自然に触れ合うのが非常に少なくなる中で、環境の悪いところで、自分が生活しているところで環境を教えるのもあれかなと思うんです。
 そういった意味で、先生、これから環境、ボランティアも含めてなんですが、そういうことを義務化するほど必要なのかどうかというのはちょっと私も疑問には思うんですが、環境だけで結構なんですが、そういったことをどういう形で教科の中あるいは体験学習の中で教え込んでいけばいいのか。もし御意見がありましたら。
苅谷参考人 恐らく、日本が科学技術立国を目指すときに、環境問題に対して日本が国際的にどれだけ貢献できるかというのはすごく私は重要だと思っております。そういった点で、子供の段階から自然になじむとか、自然環境の中で環境というものを考える学習が重要であることは、御指摘のとおりだと思います。
 ただ私は、プラスアルファとして、そういった体験に基づいたものが生かせるような知識の体系というものをあわせて持たないと、確かに環境に対して日常生活の中ではいろいろ考えることはできるかもしれませんが、もう一つ、科学技術を通した環境問題への貢献というようなことについても、日本のできる余地はいっぱいあると思うんですね。
 ですから、自然環境の中で体験的な学習というものは非常にいい面もあるんですが、同時に、そうした体験がまた知識の教育の中で生きるような、そういう両方が必要なのかなというふうには考えております。
近藤(基)小委員 どうもありがとうございました。
大出小委員長 次に、小林憲司君。
小林(憲)小委員 民主党の小林憲司でございます。
 本日は、大変興味深いお話を伺いまして、そしてまた、長時間にわたりまして委員会に対しまして御協力をいただきまして、まことにありがとうございます。
 私も、苅谷先生の著作を少々読ませていただきました。教育改革の成果をアナライズといいますか、分析を数字の上からどの著書もされているということで、大変感銘を受けました。
 私も、アメリカの大学で、チャイルド・アンド・ディベロプメントという学問がありまして、それを学んでいたときに、ホームライブラリーという話がありまして、家にどんな本が置いてあるか、ニューズウイークが置いてあるのか、それともプレイボーイが置いてあるのか、それとも思想的な本があるのか、宗教的な本があるのか。その本を統計的にとりますと、大体その子供の人格形成に対して、子供がそれを読んでいないにもかかわらず、その影響を非常に受けているということを勉強したことをちょっと思い出しまして、これは世界各国、当然そういうことであると。文化というものと、そして家にも文化があり、そして家の中のルール、そしてまたその家で交わされる会話、そういうものによっても子供の教育というのは左右されるということを、きょういろいろなお話の中から思いました。
 その中で、まず先生のおっしゃる能力というものですが、これは、きょうもいろいろなデータが出ておりまして、人間の能力というのはそれぞれが違うのが当たり前なわけでして、何かが得意な人もいれば、何かが不得意な人もいる。これは、本当にDNAの関係でもありますし、環境の話でもあります。
 先ほど山内委員と苅谷先生との質疑の間で、先生がおっしゃいました、階層差とか、いわゆる人種というのは、我々はホモジニアスですので、同一民族でありますので余りないのかもしれませんが、そういうものに対しての教育ということで、これはタブーであったということをおっしゃいました。まさしく、この日本の国において、戦後、憲法と教育というものを語ることはタブーであった。これが大きな影をもたらしているんじゃないかなと思うんです。
 もっと、何がよくて何が悪いかという話をしっかりできないままに、平等でなくてはいけないという、何かそれのみを追求していくことによって、非常に過保護な、異常に過保護にしてしまうような教育がなされてきているんではないか。それが、競争をしてはいけないですとか、落ちこぼれをつくらないですとか、いろいろな意味で不平等を実は生んでいるんじゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。
苅谷参考人 恐らく、義務教育段階の日本の平等主義、今御指摘のような、ある意味じゃ過度な平等主義みたいな問題と高校以降の問題と、やはりちょっと区別しなきゃいけないと思うんですね。
 おっしゃるとおり、小学校段階が多分一番そういう意味では過保護であったり、あるいは平等主義の行き過ぎという面があったんだと思います。しかし、それが、では、高校段階以降、特に中学校の後半ぐらいから高校入試の段階でどうなってきたかといいますと、これは、逆に言うと、かなり能力による、あるいは学力による、どの高校に行くのかが決まるというようなことも一方の現実としてはありました。
 私が申し上げたかったことは、そういったことのバランスをどうとるのかという問題でして、それを何か、すべてが同じ原理で日本の教育は全部動いているわけではありませんから、実態を見なきゃいけないというのはまさにその部分なんですね。
 かなり早い時期から生まれてしまう、家庭環境の差による小学校段階の、特に算数とかそういう主要教科の学力差みたいなものに対しては、一律の教育だけでは恐らくもう対応できないと僕は思っております。ですから、そういった点では、何らかの学習の習熟に応じた対応というのはやはりしなきゃいけません。ただ、それは余り固定化してしまうとまた別の問題を引き起こしますので、それを気をつけながらやる。しかし、十六、十七ぐらいの年齢になってきますと、当然、個々の生徒の能力も、それから将来の志望も違うわけですから、その中ではやはりいろいろな選択という余地が当然出てきます。
 ただ、私が申し上げたかったことは、そういった選択をする年齢に至るまで、子供がちゃんと自分で、ある程度人格的にそういう発達を遂げて、自分なりの判断ができるところまでは、最低限の基本的な部分をしっかり身につけさせるということは、これはやはり義務教育の、私が言った能力という問題なんではないかということです。
小林(憲)小委員 義務教育ということは、戦後、我々は、サンフランシスコ条約において新しく国が変わったわけですね、敗戦してから。そのときに、憲法と新しいいろいろなルールが入ってきた。その前の段階の日本の教育はどういうものであったかという検証を、先生の御意見をちょっとお伺いしたいなと思うんです。
 私が思いますには、階層差というものはもちろんあったわけですし、貧富の差も今よりももっとあったというふうに思っております。その中で、例えば、家が忙しくて、お父さん、お母さんと一緒に店をやっていて、子供は、まだ小さいのに、小学校なんか行かなくてもいい、そうじゃなくて、もううちで手伝いなさい、おまえはこの店をどうせ継ぐんだから学問なんか要らないんだよ、そういうことによって子供たちの教育を受ける機会を失っていた。そしてまた、国としても非常に思想的に強い教育をしていたかもしれない。
 いろいろな問題があると思うんですが、その中でも、私が思うには、先生が今おっしゃったバランスの意味で、本当にすべてが否定されるものではなかったと思うんですね。それは、得意な人は得意な分野を伸ばせる、学校で学問が嫌いな人は違うところで活躍する。そしてまた、奨学金制度というものがきちんとなくても、物すごく貧しい家庭であっても、頭が物すごくよくてどうしても勉強がしたい、そういう方を、近所で見ていたお金持ちのおじさんが、ああ、この子は優秀だから、お金を出してやるから大学まで行けといって、それで東大まで行って随分偉くなった学者さんや政治家の先生たちもみえるわけです。ですから、そういうことは、歴史と文化を踏まえた上で、この日本の国ではしっかりと形成されていた部分もあると私は思うんです。
 きょうは時間が余りありませんのでこの質問のみになりますが、私は、教育というものを考えたときに、教育基本法について見直すということを今言っておるんですが、一体どこをどうしたらいいのかということが一番大事だと思うんです。幾ら上手な絵をかいても、魂が入っていないのでは何もならないということが今証明されていると私は思うわけです。ですから、教育というものにはやはり歴史と文化を踏まえた上での国家観がなければならないと思いますし、そしてまた、その国で暮らしていく我々にとって、日本の国を考える、そしてまた日本の国と世界の国とのことを考える、いわゆる基軸になるもの、教育というのは大きく言うと指導をする根本をつくるものだと思うんですよ。
 ですから、先生のお考えになる、教育基本法を新しくしていくもと、その魂というものを、どんなことを今大事だと、ここをこういうふうに考えるべきであるということがありましたら、お教えいただきたいと思います。
 以上で私の質問を終わります。
苅谷参考人 社会学者は余り魂を語らないので、そこら辺のところが難しいんですけれども。
 確かに、国家、これは、我々が意識しようとしまいと、こういう国家の枠の中で我々は生活している以上、その国家というものをどうとらえるかということは極めて重要なわけです。しかし、その国家のとらえ方は多様であってもいいわけですね。そのときの多様性みたいなものを保障する限りにおいて、先ほどもちょっと議論が出ましたが、公共性の問題と個人の問題を考えていくということが私はベストだと思います。
 そういった意味で、私の個人の考えとしては、余り徳目主義というものよりは、むしろ議論の場をどうやって提供するのかというのが教育にとって大事だと思います。先ほども共同体の話をするときにアソシエーションという言葉を出しましたけれども、要するに、国家というものも、ある意味では、これは制度としてはアソシエーションの側面をたくさん持っているわけですね。
 その部分についての知識をしっかり身につけた上で、なおかつ、その公共性の中で魂と言われる部分が何であるのかということは、ある程度これは各個人の自由の部分に属することなのかもしれませんので、そういったことについては、宗教に対する考え方と同じように、多様な考え方があるということについては恐らく議論してもいいのかもしれませんが、それを何らかの一つのものとしてイメージするというのは、今の時代では、グローバル化の中では、僕は逆に難しいんじゃないかなと思うんです。これは、私の分析というよりは意見ですので、ちょっと専門的な判断じゃないかもしれません。
大出小委員長 次に、倉田雅年君。
倉田小委員 自由民主党の倉田でございます。
 先生には、長時間ありがとうございます。私が最後でございますので、よろしくお願いいたします。
 先生の大阪大学の調査等を基礎にされました実証研究、私は、非常に重要なことだと思います。そうした中で、一九八九年につくられて九二年から実施された学習指導要領、新しい学力観に基づくゆとり教育、この結果が、結局は学力低下を招いてしまっている。しかも、生きる力ということを目指した、子供が意欲を持って学習するという子供中心主義、しかし、その目指すところも、意欲を持って勉強する生徒は逆に減っているのではないか、学習時間も意欲も落ちている、こういうような結果が出ているのではないか。この先生方の御研究の結果は、私どもも感覚で非常にわかるわけですね。
 そこで、それではどうしたらよろしいのかということになるわけです。先生は、このお書きになっているものの中で、学習指導要領を方向転換しなければいけないんじゃないか、再改訂をするべきである、こういう御主張のように見えますが、そう伺ってよろしいんでしょうか。
苅谷参考人 はい。それは先ほどもちょっと議論になりましたが、必ずしも最低基準であるということを前提につくられたものでなかったのに、今、最低基準になってしまったということなんですね。もし本当に最低基準だということを前提にしてつくったら、内容も違ってくる可能性がありますし、それは、当然ながら、最低基準という以上は、その保障がどこまでできるのかという制度の議論をしなければならなくなります。
 もちろん、すべての子供が本当に百点とれるというのは理想にすぎませんが、ある程度そうした、財政的なことを含めて、制度的な教育行政の仕組みや学校の仕組みまで入り込まない限りは、指導要領の最低基準性ということは私はフィットしないと思います。つまり、言葉の上だけで最低基準だと言ったからといって、それによっては、現行の制度にはうまくマッチしていないからです。
 ですから、私は、そういった意味で、まず、学習指導要領が本当に最低基準だということを前提にしてつくり直したときに、今のものになるのかどうかということに疑問を持っているということです。
倉田小委員 最低基準だというぐあいに大島大臣もおっしゃっていますよね。まさに最低基準だというところは、文部省の教科書検定官が、もうこれ以上の内容を盛ってはいけないのかというようなことから教科書検定をしている、結果として薄い教科書になってしまった、こういうことですけれども。一方では、文部省の方も、しかしながら、ちょっと矛盾するちぐはぐなところはあるんだけれども、理解の早い生徒のために、発展的なことを学ぶためにということで教師用のマニュアルをつくってみたり、いろいろなこともしている。現在の学習指導要領自体が二つに矛盾しているちぐはぐさがあるように思うんですよね。
 私は、自分の意見を言いますと、やはり基礎教育については、円周率が三・一四が三になるんじゃなくて、やはり三・一四、内容的に基礎教育としてはもっと上であってもいいんじゃないか。先生のおっしゃるところの、学習指導要領はあくまで下限である、上は自由にあっていいというぐあいに考えて、国民の基礎的な能力というものを底上げすることを目指した指導要領の改訂が必要じゃないか。また、日本の民主主義というものに対しても、やはり何といっても、国民の基礎能力が上がって、それに基づいて国民が高等教育を受けていってくれる、こういうものがないと民主主義のためにもならぬ、そんなことを考えますが、先生と同じような考えでございましょうか。
苅谷参考人 基本的なところは賛同いたします。
 それで、私自身、確かに、いろいろな制度のちぐはぐさというものがある種の行政の対応の中で生まれてきているということが公教育現場にも影響を及ぼしていると思います。つまり、どっちを向いていいのかわからなくなっているという問題を起こしているわけです。そういったところで、いろいろなねじれが起きてしまったこと、一たんもとに戻して議論するところからしか、信頼を回復した公立学校の公教育の再興というのはなかなかできないんじゃないかというのが、私が先ほど申し上げた、なぜ見直さなきゃいけないのかということの一番の理由です。
 その上でもう一つだけ申し上げさせていただきますと、指導要領とは別の形でも、今本当に、優秀な先生や優秀な学者や、あるいはメディアクリエーターを使ってもいいんですが、これだけメディアの発達した時代ですから、いろいろ子供たちが自学自習できるような副教材みたいなものを民間の活力を利用して何種類かつくってもいいんですよ。そういうものを学習要領とは別の形で学校が使えるような、実際に市町村レベルでは自分たちでつくっているところが出てきています。先生たちが協力し合ってつくっています。
 ただ、残念ながら、国のレベルではそういった財政支援の問題が余りありませんから、教科書は無償ですけれども、もうちょっとそれを発展的に学んだりあるいは補充的に学んだりすることが多様にできるような、本当にわかりやすい教材を、日本人の英知を集めて、多分こういうことを言うとおしかりを受けるかもしれませんが、ちょっと公共事業をやめて、教育を公共投資だと思えば随分いい教材が私はできると思いますし、それをまた外国語に訳してODAで使ったっていいんですよ、無償配付したっていいんですよ。そういうような教育による国際支援なんという視野も含めて、日本の子供たちの学力も救えるような、何かそういうことをもし政治にかかわっていらっしゃる皆さんが考えていただけると、非常に私としてはありがたいんじゃないかと思っております。
倉田小委員 しかし、先生の御本を読みました、副教材をやるべきだと。それは逆に、四月から始まっている週五日制、それから内容的には三割削減、これを前提とした上での副教材ということになるんじゃないかと私は思うんだけれども、そうじゃなくて、薄くなった教科書をもう一度抜本的に見直す、もう少しレベルを上げなくちゃいけないと私は考えるんですが、その上での副教材ならいいけれども、これを現在据え置いたままの副教材でよろしいのかと思いますが、いかがですか。
苅谷参考人 それは先ほど、その前に申し上げたとおり、まずはねじれを戻すというところからしか始まりませんから、それをやった上での話です。
 ただ、それには、今の時点で指導要領の改訂というのは何年もかかって、教科書ができ上がるまでというのは、多分今から改訂しても教科書だけで最低でも三年かかりますから、そういう意味では時間がかかっちゃうんですね。今の財政事情とこういう傾向性を考えたときに、どこまでこれが緊迫した緊急の問題なのかということはちょっとまた別の判断が必要かもしれません。ですから、今までのやり方でもって指導要領の改訂、教科書づくりまでのスパンで考えると、とても時間がかかると思います。
倉田小委員 もう時間がないと思いますけれども、過去に文部省はいろいろ実態調査をしておらないじゃないかと先生よくおっしゃる。しかし、そうはいってもそれなりにあると思うんです。過去のデータまで含めて、文部省自身がもう一度、実証的な面から、あるデータから考え直して教科書内容を変えていく。これは先生のおっしゃるほどそんなに時間がかかる問題ではない。逆に、考え方さえ変えればいいんじゃないか。
 今の日本の状況、世界の状況を見ますと、このままでは日本が置いていかれちゃうという焦燥感を私は持っていますし、国民一般も危機感を持っておるので、早急にこの指導要領の改正をするべきだと私は思いますけれども、先生の最後の御意見をお願いします。
苅谷参考人 きょうお話ししましたのは、あくまでも私が仲間たちとつくった、本当に地域性も限定された調査の結果です。残念ながら、こういう階層的な問題についての全国調査は日本には存在しません。文部科学省もとっておりません。ですから、こういう問題自体を分析するデータは欠けております。まず、それは、社会のグランドデザインを描くときの基本的な情報ですから、どこかでやはりこういう実態については調べる必要があると思います。
 それと同時に、それを調べるときにぜひお願いしたいのは、行政の調査というものを、これは個人情報の問題がありますからそこのところはしっかりした上ですが、そのデータを研究者を含めて一般の使用にオープンにしないと、恐らく正しい意味での政策評価というのはできないと思います。
 アメリカのような国ですと、CD―ROMで全国的な学力データなんというのは簡単に手に入ります。だれでも分析できます。ですから、ちょっと間違った分析をするとすぐ批判が研究者同士で出てきますから、あやふやなことは言えない。つまり、競争のシステムが評価の中に入り込んでいるんですね。ところが、残念ながら、日本の場合には、そういったデータは全く外にオープンになりませんから、どういう報告書が出るかというのは、その管轄の研究所が出した結果だけで終わってしまいます。
 ですから、そういった点においても、実態の把握をするためには、これは私のデータも間違っているかもしれません、だけれども、それは多角的な分析をして初めてその精度が高まるわけでして、多様な立場からの分析を可能にする情報公開を前提にしなければ、実は行政評価、政策評価というのはできないんですね。ところが、恐らく、教育の政策に関しては、そういうものは非常におくれていると思います。ですから、そこからやはり始めないといけないというのが最後に申し上げたいことです。
倉田小委員 どうもありがとうございました。大変勉強になりました。
大出小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 苅谷参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)
    ―――――――――――――
大出小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行いたいと存じます。
 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたしたいと存じます。
 小委員の発言時間の経過についてのお知らせでございますが、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせしたいと存じます。
 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをこのようにお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。
山内(惠)小委員 ありがとうございます。
 ここの場所に初めて出てきて、一番最初に質問するというのは大変心配だったので、本当は後からと思ったんですけれども、では、先に発言させていただきます。
 私は、学校にいて、いつも、平等ということはどういう状況を平等というんだろうということを思っています。
 一例で言えば、御発言あった中に、例えば運動会で、みんな手をつないで一等賞になる例が前の文部科学委員会でも出されたんです。私は、自分の学校でそういうことをしたことはありませんから、それに対して、どういうお気持ちでなさったかということをお答えする気はありませんけれども、子供たちが、人間として法のもとに平等というときの平等はどんなことをいうのかというときに、学校というところは、どちらかというと、いつも学力で自分の位置を、自分もわかってしまう状況があり得るわけです、いろいろ点数で。勉強で評価されない子は体育で一番をとればいいじゃないかという発想もどこかにあります。でも、では、勉強でも評価されないし、走るところでもできない子はどうしたらいいんだということがあります。
 そういう中で、私は、実は、男女平等ということを考える中で、差別撤廃条約で、女性に対する差別とは、性に基づく区別、排除、制限、この三つをされることを差別というんだと。区別されること、排除されること、制限されることは差別であると。また一方で、では平等というのはどういうことだろうということにつきまして、これもまた世界的なんですが、世界の行動計画で、機会と権利と責任において平等扱いをされることだと。
 機会の平等というのは割と言われるんですけれども、権利の平等というのは大変難しいのが今の日本の社会だと思いますが、プラス責任においても平等でなければならないという意味で、私は、差別撤廃条約の論議の中で出てきたことですから、女たちは、一歩後ろにいることは大変楽な場面もあります。でも、責任も平等でなければならないということは受けとめた上で平等をというふうに思います。
 その意味で、一例が出ていましたので、例えば、学校で学芸会があるときに、一年生から六年生まで、一年間に一回しか学芸会がないということを考えたとき、主役になれる子というのは毎年なれる可能性を持っているんですね。でも、主役になれない子は、いつまでたっても、どんなに努力してもなかなかなれなくて、いつもその他大勢。私は、その他大勢が悪いとは全然思いません。
 例えば、音楽で、笛を吹く場面でこの劇を応援するんだ、それから、このデザインをして監督になるんだ、さまざまな見えないところでの活躍も評価できると思います。しかし、足を踏まれて痛いという側と踏む側のことでいえば、踏んだ側というのはなかなかわかりません。
 その意味で、例えば一例を申し上げます。これも一例ですけれども、いつも男子が先で女子が後の出席簿を見直したときの話なんですけれども、いつも男子が先にバスに乗っているクラスで、例えばきょうは女子から先にと言ったときに、女子は、ああそうかと思って乗るんですけれども、男子は、何で女子が先にという言葉がよく出てきます。でも、男子が先にいつも乗っている子供たちが、またきょうも男子からというときに、女子はそのことに抵抗するという姿は余り見られません。その意味で、子供たちが差別感がずっとあるとしたら、みんな一等になろうということを考えた学校があったのかなというふうにあのことは聞きました。
 私は、主役というのも体験した方がいいと思っていましたので、例えば四場面あるんだったら、一人ずつ四場面出てくるために、かぐや姫の頭にかぶるものと着るものを交代していくというような形でチャレンジする精神を子供たちに身につけた例もあります。
 そういう意味で、平等ということを皆さんどう思っていらっしゃるのか、もし後からの討論で出てこられたら、いただきたいなと思っています。
 以上です。
山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。
 今、山内委員から提起された、出された方がいらっしゃらないようですので、私は、きょうの苅谷参考人がお述べになったことで感じた点を、二点端的に申し上げたいと思うんです。
 一つは、やはりきょうの、教育現場はこうなっているというお話は、今の教育行政に対するかなり厳しい批判だったというふうに受けとめました。
 それで、その中で、苅谷参考人が、多様性、弾力的それから分権的、こういうことを行政のあり方の問題として重要だという提起をされたんですけれども、その問題を考える上でも、一つは、参考人自身がお述べになったような、教育の実態をきちんとつかむという、その努力が本当に欠かせないということと、もう一点は、憲法や教育基本法がもともと求めたものは何だったのかということをきちんと握っておくことが大変大事だなというふうに思ったんです。
 それで、きょうは冒頭で、参考人の方から教育基本法の三条や憲法の二十六条のお話があったわけですけれども、憲法と教育基本法は、つくられてもう五十数年たちまして、文字は変わっておりませんが、その中身が社会の動きや現状に応じてやはり非常に豊かに、そこからくみ出すものがふえているということも、きょう参考人の話を聞いて痛感したんです。
 それは、参考人が、階層差の問題で、それがどういう形で教育現場に反映するのか、そのことを正面から見ることが大事になっているという提起をされたんですけれども、確かに、もともと教育基本法の中に経済的な問題が、それからきょうもいろいろ言われたような、家で何を読んでいるのかとか、そういうことまで含めたいろいろな問題が教育の分野に影響を与えるという、その考え方はあったわけですけれども、それが実際に今日の社会の中でどうあらわれているのかということを考えると、もう一度、憲法や教育基本法が求めた本来の中身というものを、能力に応じてとか、機会均等の問題なんかでも深くつかんでいくことが大事だったなというのが一点感じた点なんです。
 それから二つ目なんですが、きょうは、今日の憲法に対して明治憲法下の教育はどうだったのかという質疑がありました。
 参考人の方から、社会学者は魂はなかなか語らないんだという話があったんですけれども、私は、国会の場合は、踏まえるべき問題は、衆議院の場合は、一九四八年の六月に教育勅語等排除に関する決議を上げたということをやはりきちんと踏まえることが大事だと思うんです。
 その中身はもう申し述べる必要はないと思うんですが、決議によれば、教育勅語等に示された主権在君並びに神話的国体観に基づいている問題について、これは基本的人権を損なうという認識のもとでその排除を院議として決定したわけで、明治憲法下の教育の問題として私たちが踏まえる場合は、そこのところを出発点に置くべき点だというふうに思いました。
 その二点が、きょう参考人質疑を通じまして感じた点です。
谷川小委員 きょうの参考人の御発言とちょっと離れますが、今出た議論の中の、特に憲法十三条にかかわる基本的人権と公共の福祉の問題。
 私は、現行憲法、書き方、これは主として立法技術上の問題かもしれませんが、例えば、「何人も」とか「すべて国民は」とか、書き分けておるんですけれども、いま一つはっきりしない問題の一つに、公共の福祉、この用語、用法。基本的人権と公共の福祉の問題については、制約を受けるという書き方になっているんだけれども、私は、どうもこの規定がはっきりしていないという感じを持っているわけなんです。特に、基本的人権というのは、国家権力をもって奪うことができない、国民はこれを乱用してはならない、ということに実は尽きるんじゃないかと思っているんです。
 ですから、憲法みたいなものは、ごく簡明に、簡略に書いた方がいい。憲法十一条、十二条、十三条、最高法規の九十七条、いずれもそういう書き方で統一できるんじゃないだろうかと思っておるんです。
 戦後もかれこれ六十年近くなるわけですけれども、特に公共の福祉については、私はむしろ、例えばガバメントという言葉がありますが、あれは動名詞ですが、ガバーンという言葉が非常に大事だからガバメントという言葉が出てきていると思うんです。我々はそういうものに参加しているんだということで、公共の福祉を取り上げると。公共の福祉が大事であって、それに従っていろいろな人権だとか自由だとかいうものをつくり上げていくという社会をつくっていかないと、これからどうしても発展していかないような感じがして仕方がないということをちょっと申し述べたいと思います。
大出小委員長 ほかに御発言ございますか。
 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。
 本日は、これにて散会いたします。
    午前十一時四十三分散会


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