衆議院

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第1号 平成15年2月13日(木曜日)

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本小委員会は平成十五年一月三十日(木曜日)憲法調査会において、設置することに決した。
一月三十日
 本小委員は会長の指名で、次のとおり選任された。
      倉田 雅年君    谷本 龍哉君
      長勢 甚遠君    野田 聖子君
      野田  毅君    葉梨 信行君
      平林 鴻三君    大出  彰君
      小林 憲司君    今野  東君
      水島 広子君    太田 昭宏君
      武山百合子君    春名 直章君
      北川れん子君    井上 喜一君
一月三十日
 大出彰君が会長の指名で、小委員長に選任された。
平成十五年二月十三日(木曜日)
    午後二時一分開議
 出席小委員
   小委員長 大出  彰君
      奥野 誠亮君    倉田 雅年君
      谷本 龍哉君    長勢 甚遠君
      野田 聖子君    葉梨 信行君
      平林 鴻三君    小林 憲司君
      今野  東君    水島 広子君
      太田 昭宏君    武山百合子君
      春名 直章君    山内 惠子君
      井上 喜一君
    …………………………………
   憲法調査会会長      中山 太郎君
   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君
   参考人
   (慶應義塾学事顧問)
   (日本私立学校振興・共済事業団理事長)      鳥居 泰彦君
   参考人
   (早稲田大学教授)    岡村 遼司君
   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
    ―――――――――――――
二月十三日
 小委員井上喜一君同月六日委員辞任につき、その補欠として井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員北川れん子君同日委員辞任につき、その補欠として山内惠子君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員野田毅君同日小委員辞任につき、その補欠として奥野誠亮君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員山内惠子君同日委員辞任につき、その補欠として北川れん子君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員奥野誠亮君同日小委員辞任につき、その補欠として野田毅君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 基本的人権の保障に関する件(教育を受ける権利)

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     ――――◇―――――
大出小委員長 これより会議を開きます。
 この際、一言ごあいさつ申し上げます。
 先般、小委員長に選任されました大出彰でございます。
 小委員の皆様の御協力をいただきまして、公正円満な運営に努めてまいりたいと存じますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。
 基本的人権の保障に関する件、特に教育を受ける権利について調査を進めます。
 本日は、参考人として慶應義塾学事顧問、日本私立学校振興・共済事業団理事長鳥居泰彦君及び早稲田大学教授岡村遼司君に御出席をいただいております。
 この際、両参考人に一言ごあいさつ申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のそれぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 本日の議事の順序について申し上げます。
 まず、鳥居参考人、岡村参考人の順序で、教育を受ける権利について、教育基本法の改正に関する議論も含めまして、お一人三十分以内で御意見をお述べいただき、その後、小委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、まず鳥居参考人からお願いいたします。
鳥居参考人 鳥居でございます。それでは失礼して着席のままお話をさせていただきます。
 お手元に私の参考人意見陳述要旨をお配りしてございます。それをごらんいただきながらお聞き取りいただきたいと思います。二ページから成っておりまして、一ページ目は、一番、二番、教育というのはどういうことなのか、それが書いてあります。これをめぐりながら最初にお話をさせていただきまして、二枚目、三番、四番、五番から八番まで、いわゆる教育権と呼ばれるものは一体どういうことなのかについてお話を申し上げたいと思います。
 まず一枚目の一番でございますが、日本で今教育というふうに私たちが呼んでいるものは、もともとはエデュケーションという英語の訳語でございます。エデュケーションを何という日本語にするかをめぐりまして、森有礼文部卿と福沢諭吉との間に意見の対立があったというふうに巷間言われておりますが、実際には意見の対立ではなくて、二人は非常に仲のいい議論をしておりました。余計なことですが、森有礼の仲人が福沢諭吉でありましたので、二人は大変仲がよかったと思います。
 森有礼は、このエデュケーションの訳語として教育という言葉を最初から使っておりました。福沢諭吉は後に、明治二十二年に、時事新報の中で、教育という言葉もいいけれども、実はエデュケーションという言葉の中には人間が持っている能力を開発するという意味が含まれている、そのことをあらわす何らかの言葉が必要なのではないかということを言っております。御存じのとおり、森文部卿は明治二十二年に暗殺されておりますので、その直前に福沢が書いたものと思われます。
 私、今このことを申し上げるのは、実は、私たちが教育権ということを考えるとき、教育とは何かということをまず考えなければいけない。そのときには、教え育てるという意味、いわゆる訓育という意味と同時に能力を開発するという意味と両方を大切にしなければならないということをこの二人の意見が示唆しているように思うからでございます。
 この能力を開発するという言葉に対応する二文字のうまい日本語はないように思われます。でありますので、そのことにこだわらず、中身について少し考えてみたいのですが、今日、あえてこの能力を開発するという言葉を学習という言葉に置きかえてみますと比較的よくわかるのではないかと思います。学習をするというのは、自己、みずから学習をする自己開発という側面と、学習の仕方を教える、学習をさせてあげるという他律的な側面とがあるわけでございます。後ほどお話をいたしますが、フランスの教育基本法の中では、学習をする権利が国民にはあるということを述べ、同時に、国家には学習の仕方を教える義務があるということを述べています。そのような考え方はこれからの日本の教育を考える上で非常に重要なことではないかと思っています。
 さて、二番目でございますが、教育という言葉の内容でございますが、(1)から(4)まで四つの側面を挙げておきました。まだこのほかにも教育に関しては考えなければならないことが多々ございますが、本日はこの四項目について少しくお話を申し上げたいと思います。
 一番が人間形成、二番が基礎知識、専門知識の伝授、そして三番が学習、学習の方法、学習の支援といった側面、そして四番が成長の支援、人生設計の支援ということでございます。
 まず、教育の第一の側面であります「人間形成」。
 人は生まれてきたときには言葉を知りません。そして、次第に親から自然に言葉を習っていくというか、自然に覚えていくわけであります。しかし、美しい文字、美しい言葉を書くということは、家庭あるいは学校においていわゆる教育という営みによって初めてでき上がるものでありまして、今日いささかこのことが家庭においても学校においてもおろそかにされているように思いますが、我々はこれからの日本の教育の中で、改めてこの失われつつある美しい言語、美しい文字を書く、そういったことについての教育を重視しなければならないと思います。
 それから、人間形成のもう一つの大事な次の側面は、習慣、社会規範、信仰あるいは感謝、そこに書いてございませんけれども道徳や作法、そういった事柄について、次第にみずから身につけていく、それが大切なことだと思います。
 それから、三段目でございますが、最初、人はみずからの感情を制御することを知りませんが、成長するにつれて感情の自己統御ということを覚えていきます。そして、大人になるまでには何が罪であるかということもわかるようになるわけであります。
 日本でも、刑法の最初の部分に、何をすれば罪であるかということが定義されています。各国の刑法を見てみますと、大体、罪というのが何であるかというのは共通しておりまして、人を殺すこと、物を盗むこと、うそをつくこと、つまり詐欺ですが、あるいは姦淫の罪といったようなことがほぼすべての国に共通の罪として定義されています。そして、非常に大切なことがある。各国の刑法に定義されているこの罪は、実はほとんどの宗教が戒律の中で述べていることと重なっています。そのようなことは、何らかの方法で子供のときから次第に教わっていく必要がある事柄だと思います。
 それから、人間形成の四番目に大切な項目は、体力と身体能力、運動神経、そういったものを次第に身につけ、体そのものを錬磨していくということではないかと思います。
 最後に、精神力、忍耐力、統率、そういったことを身につけていくことだと思います。
 括弧の二番目でございますが、「基礎知識、専門知識」。これを教えるのも教育の大切な仕事でございまして、ここではあえて概念軸、時間軸、空間軸というふうにしておきましたが、物の考え方あるいは概念あるいは理論、その歴史といったようなものを、人文、社会あるいは科学、技術について、それぞれの分野で教わっていく、教えていく、それが教育だと思います。
 それから、時間軸については、大昔から現代に至るまで、古典の世界から現代まで、神話の世界から現代まで、そういった流れの中で自分がどこにいるのかをわかるようにするのが大切なことだ。
 それから、空間軸。世界には二百カ国近い国があり、六千近い民族がありまして、それぞれの文化や宗教や法律や制度を持っているわけです。それらについての知識を持つことによって、自分は何者なのかという位置づけができる、それが教育の大切な仕事だと思います。
 三番目でございますが、学習、先ほど申しました学習、学習の方法です。教える、教わるに対して、みずから学習する、あるいは学習の方法を教わるということが大切なのですが、現在の日本の教育に関する法律制度の上では、陽表的にこの学習という権利がうたわれておりません。後ほど申し上げますが、潜在的にはかなり強くこのことが意識された上で日本の憲法を初めとする諸法律の中の教育権が規定されているというふうに法律の専門家の間では言われているようでございます。
 また、この学習にはいろいろな方法がありますが、ここでは典型的な方法として、テキストや文献、教材あるいは辞書や事典、年表を初めとする情報検索、それからライブラリーやアーカイブスというものを挙げておきました。このほかにも学習の方法には、実験でありますとかフィールドワークでありますとか、いろいろなものがございまして、外国の教育の中では自然に取り入れられている国は多いのですが、日本の教育ではそれらが比較的なおざりにされているということがあると思います。
 四番目でございますが、人間は生まれてから人生を終わるまで成長を続けるわけですけれども、その成長を支援する、あるいは人生設計の支援をするということが、教育、なかんずく家庭と学校にとっては大切な使命だと言われていますけれども、日本ではそのことを陽表的に法律に規定してはいないのです。
 これも後ほど時間があれば御紹介いたしますけれども、フランスの教育法、イギリスの教育法あるいは韓国の教育法では、学校の大切な役割として人生設計を支援するというコンセプトが陽表的に書かれています。日本もこういったことを、学校のやることじゃない、教員のやることじゃないというふうに決めつけないで、新しい時代にふさわしい教育のもう一つの役割を見直す必要があるように思います。
 以上申し上げました(1)から(4)までの事柄は、一体だれがやるのかということを考える必要がありまして、それに関しては、親兄弟がやるべきこと、コミュニティーがやるべきこと、そして学校が行うべきこと、それらの役割分担をもう一度改めて考え直す必要があるというふうに思います。
 時間の関係で、この一ページについての御説明はこのぐらいにいたしまして、二ページに行かせていただきます。
 二ページのまず三番でございますが、「旧憲法下における教育を受ける権利」。これにつきましては、私、ただいまここに到着してから、こういう資料があることを初めて教えていただいたのですが、皆様のお机の上に、委員室備えつけ用となっておりまして、日本国憲法及び国会関係法規等というのがございます。それから、もう一冊、その二つ手前の資料で、衆憲資第十五号、教育を受ける権利に関する基礎的資料というのがございます。ここにも幾つかの説明が既に用意されているようでございますので、私の説明はできるだけ簡単にさせていただきます。
 まず、戦前における、旧憲法下における教育を受ける権利でございますが、明治二十二年発布の大日本帝国憲法は、第一章天皇に続きまして、第二章に臣民の権利及び義務として、日本国憲法の基本的人権に相当する内容の規定を置いておりましたが、その中に、実は教育に関する規定そのものがないのですね。これは、国が教育を軽視したのではなくて、警察、軍備に並んで、教育は非常に重要な役割を国家が期待していた事柄だと言われています。
 では一体、教育というのはどのように扱われていたのかといいますと、旧憲法の第九条に「天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」という規定を根拠にいたしまして、憲法発布翌年に小学校令を制定いたしまして、以来、太平洋戦争の終結まで、教育関係法令は、議会の立法権の行使としての法律ではなく、天皇の行政権の行使としての勅令によって整備されることとなったというのが通説とされております。文献といたしましては、憲法学の泰斗でいらっしゃいました宮沢俊義先生の有斐閣「憲法II」、これは一九七四年版に基づいておりますけれども、それらを御参照いただければよろしいのではないかと思います。
 それで、そのようなことで、天皇の勅令によって定められていたことではありますけれども、旧憲法下の日本におきましては、納税と兵役と教育というのは国民の三大義務と呼ばれておりまして、教育というのは非常に重要な義務と考えられていたと言うことができると思います。
 次に、「新憲法下の教育権」の問題でございますが、これも憲法学の先生方の間での定説といたしまして、教育の権利性が法体系上出現するのは、戦後の日本国憲法、それから、それに先だって勅令主義を破って法律として制定された教育基本法以降であるというふうにされています。
 この規定は、御存じのとおり、憲法二十六条に定められておりまして、憲法二十六条に定める教育を受ける権利が、日本国憲法によって保障された基本的人権の中における分類の上では社会権に位置づけられるというふうに憲法学者の間では言われているそうです。国民が人間に値する生活を営むことを保障するために、国民が国に対して一定の行為を要求する権利であるという点については、ほぼ憲法学者の意見は一致していると言われています。ただし、それがいかなる理由からいかなる性質のものとして保障されるかについては、若干学説の違いがあるようでございます。
 そのことがレジュメの四番の真ん中辺に1、2、3というふうに書いてございます。
 まず、1でございますが、「憲法学における古典的通説」。これは宮沢俊義先生の説を中心とする説でありますが、このように言っておられます。
 「教育を受ける権利は、とりわけ高等教育に関して意味を有する。普通教育は、義務教育であり、しかも無償と定められているから、その点については、特に教育を受ける権利をいう実益は少ない。しかし、高等教育においては、義務制はみとめられず、また、無償制もみとめられないから、教育を受けることには、少なからぬ経済的負担を伴う。過去において、」これは戦前のことを言っていると思いますが、「高等教育が大はばに貧乏人に無縁だったのは、そのためである。教育を受ける権利は、この事情に着目し、貧乏人に対しても、高等教育を受ける可能性を保障しようとするものである。」というふうに、先ほど引用いたしました宮沢先生の著書に書いてございます。
 そのようなわけで、このような考え方に基づきまして、この説は主として経済的な側面に注目して、憲法第二十五条に定める生存権の文化的側面を規定して、教育に伴う経済的負担への配慮を定めたものと解することができることから、生存権説あるいは経済的権利説とも言われております。
 それに対しまして、二番目に、「教育内容要求権説」というふうに私、書いておきましたが、こんなふうに呼ばれているようでございますので、学説の言葉どおりをレジュメに書いておきました。
 これは、教育を受ける権利の本質は、国家権力の政策ないし行政に対する積極的な教育内容までにわたる要求権を含むものであり、子供が真の主権者たり得るように、憲法の精神に即した内容の教育を国に対して要求する権利を含むという説だそうでございます。このことから、教育内容要求権説あるいは主権者教育説と称されておるようでございます。
 実は、このような説はいろいろと批判がございまして、この説は、運動論としては意味があるかもしれないけれども法律論としては不適当であるとか、あるいは、主権者教育は確かに大切だけれども、教育の作用の中におのずから含まれるべきものであって、それが教育を受ける権利の主たる内容とまで位置づけられるべきではないという批判が広く行われています。
 批判を論じておられる代表的な学者の名前を申し上げますと、有倉遼吉先生あるいは兼子仁先生などが挙げられます。
 教育の自由はもちろん憲法の認めるところですけれども、義務教育に関する限り、その教育の内容はどこまでも日本憲法の精神に即するものでなくてはならないことは言うまでもないことです。例えば、民主主義を否定し人間性の尊重を否定するような内容を有する教育を受けることを日本国憲法が強制するなどということはナンセンスであるというふうに宮沢先生の著書では批判をしていらっしゃいます。
 最後に、3でございますが、「学習権説」というのがございます。これは堀尾輝久先生によって説かれた説でありまして、すべての国民は、生まれながらにして、教育を受け学習することにより人間的に成長し発達していく権利、つまり学習権を有するものであり、それが、みずからの能力の全面的発達を可能とする教育が受けられるよう国に対して求める憲法第二十六条の権利に結実したという説でございます。これは、私が最初に御紹介いたしましたフランスの教育基本法あるいは韓国の教育基本法等にあらわれている学習権という考え方に非常に近いものだと言ってよろしいのではないかと思います。
 なお、このことに関しましては、旭川学力テスト事件、最高裁の判決がございまして、判例となっています。その判決ではこんなふうに書いています。本条の規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子供は、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在しているという。これは判例となっておりますけれども、そのように論じています。
 次に、私の要旨の五番でございますが、「「能力に応じて」をめぐる学説」が二つございまして、「憲法学における通説」と「教育学における通説」を簡単に御紹介いたします。
 「憲法学における通説」は宮沢先生あるいは佐藤幸治先生の説でありまして、「その能力に応じて、」と憲法二十六条に書いてあるのは、これは教育を受けるに適するかどうかの能力に応じての意味である、したがって、各学校で入学試験を行い合格者だけを入学させるのは差し支えないが、教育を受ける能力と無関係な事情、財産、家庭などを理由に入学を拒否することは許されないというふうに書いています。
 また、佐藤幸治先生は、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位または門地によって教育上差別されないことを当然の前提とした上で、各人の能力の違いに応じて異なった内容の教育を可能ならしめるという趣旨だというふうに書いておられます。
 ここで大切なことは、これらの先生方が列挙しておられる、また、憲法二十六条、十四条にも書いてあることに加えて、適性ですね。本人の適性ということをこれからどのように法律上扱っていくかということがこれからの新しい課題ではないかと思っております。これは私が思っております。
 それから、5の(2)でございますが、「教育学における通説」。これは兼子仁先生の説でございますけれども、こんなふうに言っておられます。
 すべての人がみずからの全面的発達を可能とするために有する学習権に基づき、この教育を受ける権利が、十分な教育を受けることを国家の積極的条件整備によって保障される国民の権利であることを踏まえ、「能力に応じて」と憲法に定めているのは、すべての子供が、その能力、発達の仕方に応じて、なるべく能力を発達できるような教育が提供されなければならないという意味であって、偏差値偏重や落ちこぼれ切り捨てを批判するのはこのような理由からである。その表裏一体として、例えば、戦前は教育を受けるに値しないとして教育制度から外されていた障害者についても、むしろ治療とあわせてすぐれた教育を受けることができるようにする必要があるということを述べておられます。
 これが教育学における「能力に応じて」の通説というふうになっております。
 なお、時間の関係もございますので、六番、七番は、もう皆様のお手元の資料にあるようでございますので、省略させていただきまして、「諸外国における教育権と学習権」について、最後に一言、触れさせていただきます。
 私は、日本の教育基本法の改正に当たりまして大いに参考になると考えているのは、一九八〇年からイギリスのサッチャー首相が取り組まれた教育改革、そしてその中で結実された一九八八年英国教育法、これは非常に参考になると思っています。
 それから、一九八九年新教育基本法、ジョスパン法と呼ばれるフランスの教育法、それから一九九七年だったと思いますが制定されました韓国の教育法、いずれも非常によくできた教育法でございます。それらの中では、先ほど冒頭に申し上げましたように、教育権ということだけに絞って申しますと、すべての国民は能力、適性に応じて教育を受ける権利を有し、生涯にわたって学習をする権利を有し、そして国はそれを支える責務があり、とりわけ韓国とフランスの場合には学習の仕方を教える責務があるという、日本では今まで存在しなかったコンセプトが書き込まれていることを重視するべきであるというふうに考えております。
 時間がもうありませんので、まだ申し上げたいことはいろいろございますけれども、後ほどまた御質問に答える形でお話をさせていただきたいと思います。
 委員長、ありがとうございました。(拍手)
大出小委員長 鳥居参考人、ありがとうございました。
 次に、岡村参考人、お願いいたします。
岡村参考人 こんにちは、岡村です。
 今、鳥居先生の方から、教育を受ける権利のかなり具体的な内容についてお話がありました。隣の先生が慶応で、僕は早稲田で、神宮球場じゃないんですけれども、きょうのこのテーマの内容を深めるという意味でいえば大変いい機会だろうというふうに思っています。
 個人的なことになりますけれども、僕は一応教育学をやっていることになっています、これは本人と余り関係ないところでそういうふうに言われているのですけれども。ただ、三十年を超えましたけれども、大学の教師をやっていて、この三十年間の学生たちの物の見方、考え方、あるいはそれに基づいた行動、随分変わってきたというふうに思います。もちろん、いい面でも悪い面でも変わってきているわけですけれども、一言であらわすことはできませんけれども、やはりどういう教育を若い人たちと実際に行うかによって、その人たちが持っている力が伸びたり伸びなかったりするという意味では、教育というのは大変難しい。これは実感です。
 もう一つは、僕は、卒業生が全国あるいは世界へ出かけて教師をやっています、その関係で呼ばれて、あちこちの学校で授業をすることが多いです。昨年は大体二十幾つやりました。ことしも、ことしは始まったばかりですけれども、来週また一つ二つ出かけることになっています。
 特に高等学校で授業をする機会がとても多いのですけれども、ここでも子供たちのある種のうめきというかあるいは叫びというか、本当は大学に行きたくないんだけれども周りが行けというような、そういうプレッシャーがかかっている。僕はそれも教育だとは思いますけれども、それ以上に、子供たちが本当のところで何を考え、何をしたい、どういうふうに生きようとしているのかということについて、十分に受けとめるだけの教育ということがほとんどなされてこなかったな。これは教育基本法が悪いからというわけじゃ決してないわけでして、むしろ実践に類するようなそういう問題であろうかというふうに思います。
 僕は、先ほど言いましたように、三十年教師をやっていて、余り大した仕事もやっていませんけれども、人に何か言うべき事柄があるとすれば、教育におぼれている。おぼれるにもいろいろなおぼれ方があるんだけれども、あるいはかけごとにおぼれるとかお酒におぼれるとかというのはあるんでしょうが、僕は、自分で言うのも非常におかしな話ですけれども、教育におぼれたな。おぼれた人間はどうしても何かわらをつかむんだけれども、僕にとってのわらというのは、これはわらと言うと大変失礼かもしれない、あるいは評価を落とすことになるかもしれないけれども、やはり教育基本法だったと思うんです。
 教育基本法にいろいろな問題点が生じてきたということは事実だと思うんですね、もう五十五年たっていますから。だから今日風にファッションを改めよう、そういう短絡的な考え方を僕は持たない。むしろ、教育基本法の理念として、何が実現されなくて、何が阻害要因になっているのかということを、現場に即して、一人一人の子供に寄り添って考えていくことが我々の責任だろうというふうに思っています。
 前置きはこれぐらいにしまして、レジュメにありませんけれども、ふだんと全く同じ、教室でやっているようなそういうことをきょうお話しできればと思って、ふだんどおりのレジュメにならないレジュメを書いてきました。
 僕は教育学部ですけれども、実際にこの人権問題あるいは人権論というようなことについて言えば全くの素人です。大学で二十年近く人権教育、これは僕流の人権教育なので、世間で言われるような啓発とかあるいは教育によって人権感覚を高めるというのとはちょっと意味合いは違いますけれども、そういう人権教育を実際に担当してやってきた。その中でいろいろな問題を教えられてきたんですね。
 つい最近のケースですと、昨年の十月に、今大変大きな問題で我々も関心を持っているんですけれども、拉致に遭ったその被害者の御家族が僕が担当している授業に来てくれました。そのときに、大学の教員もあるいは学生も、何で拉致被害者を大学に呼ぶことが人権問題なんだよ、人権教育なんだよ、こういう指摘を受けたんですね。だけれども、実際に二週にわたって授業を行い、そして生の声を伺って、学生たちの反応を見ていると、こういうところに生の人権の問題があるんだということを本当に素直に受けとめて驚いていた。
 人権については、この小委員会でもう既にかなりな議論の蓄積があるようです、憲法的な問題あるいは外国の問題を含めて。それから、前回は苅谷さんが来られて、人権ではありませんけれども、教育を受ける権利、基本的な権利としてのその問題を扱われています。僕は、少し違ったスタンスでお話をしてみたいというふうに思っています。
 ざっとですけれども、人権とは何だろうか、そういう人権についての一種の定義らしきものを考えてみたのですけれども、なかなか浮かばない。簡単に言いますと、僕は、人間は大変尊厳性を持っているとか、あるいは理性を持っているとか、あるいは生まれながらにして自由、平等であるという、その根拠をただしていくと、どうしても一つは自然法という考え方に到達しちゃうんですね。
 自然法という考え方、これはロックあたりから出てきているのだろうと思いますけれども、人間は生まれながらにして自由であり平等である。そういう自然状態というのは一体どこにあったんだろう、これは素朴な疑問ですけれども。そういう自然法に基づいた人権根拠論、基礎づけ論というものを具現したのが、フランス革命によってつくられた人権宣言だというふうに言われています。あるいは、それより少し前に出たアメリカの独立宣言というふうに言われています。確かに、その中には、生まれながらにして自由であり、そして幸福を追求する権利を有するというふうに書かれているけれども、実際にその時代あるいはその社会における自然状態そのものが実は人権宣言なりあるいは独立宣言の中にはっきりとあらわれているというふうに見た方がわかるんですね。
 例えば、フランスで、その当時、女性だとかあるいは子供だとか、それがどういう状況に置かれていたかというようなことは、だれだって少し考えればわかることです。フランス人権宣言のあの最初の表題にしても、人間と市民の権利というふうに書いてあるけれども、その人間は男であり、市民は男の市民であるということは、これも当たり前の話になっています。
 それから、アメリカの独立宣言、一七七六年だったと思いますけれども、これが出されたときにアメリカは既に奴隷制というものを持っていました。黒人そのものを人間以下のものとして、あるいは人間以外のものとして扱っていた、そういう状況に乗っかって独立宣言が出された。
 もちろん、その後の発展を見れば、そういう根本的なところでの人権というものの規定は大変大きな力を果たしたというふうには認めることはできると思うんですね。しかし、ある人間には人権はあるけれども、ある人間には人権は認めない。そして、その後の百年、二百年、人権を獲得するための歴史を人類は築いてきたというふうに僕は思っているんですね。
 したがって、人権の根拠というのは自然法であるという考え方、あるいは理性的な動物だというふうに言ったカントのような基礎づけ論というのは、ある意味でいえば、非常に時代おくれになってしまったな。だから、二十一世紀にふさわしい人権の根拠論というふうに言えればいいのだけれども、そういうものを僕は持っているわけじゃありません。非常に単純に、常識的に言えば、人権というのは、これは根本的に生まれながらにあるんじゃなくて、それに値するだけの働きなり活動をすることによって自分のものにしていく権利であるというふうに考えたらどうだろう、そういうことを書いておきました。
 人間がそれにふさわしい価値を獲得することによって権利は初めて生まれる。逆に言えば、義務というものが根底に含まれなければ、権利というのは身勝手なものだなというふうに思うわけですよね。したがって、その義務というものをどういう形で一人一人の持ち分に深めていくことができるかということが、これは一つは教育の力だろう、あるいは教育の仕事だろうというふうに思っています。
 それからもう一つは、権利とよく比較される言葉で特権というのがあります、プリビリッジ。特権というのは特定の人間にのみ、ある意味でいえば、偏った権利というふうにもし言えるならば、権利というのはごくごく普通の人間に、それにふさわしい力を示すことによって獲得されるべきそういう価値だというふうに考えております。
 わけのわからない言葉を使ったんだけれども、ノルマリスオブリージェという、ノーブレスオブリージェじゃないけれども、すぐれた人間、あるいは大変力を持った人間はそれにふさわしい義務を果たすべきだという考え方は、これは確かに一面の真理だろうと思うけれども、僕は、権利とかあるいは人権というのはそういうものではなくて、やはりそれに値するようなそういう生き方をした人間が自分のものにすることができる、そういうものとして権利というものを考えてみたい。
 Iの「拡大・深化する人権の輪」という、これはもう言うことないわけで、どなたも言います。若干、僕流の勝手な書き方をしておきましたけれども、少なくとも自由権とかあるいは生存権とか社会権とか、そういうもろもろの権利というものは、少なくとも我々の社会では権利として万人に認められる必要があるという形では認められてきているだろう、認知されているだろう。
 そのほかに、また新しい人権というものがさまざまなところで出てきていますね。僕、四つまで書いておきましたけれども、そのほかに、これは特にこの数年、目覚ましい形で進んできたことによって僕たちが挑戦を受けている人権論あるいは人権問題だと思うのですけれども、例えば、つい昨年の暮れから、あるいはことしの初めにかけて、生殖医療技術の特段の展開によってクローン人間というのが生まれてくる、あるいは、体外受精によって恐らく今日では二万とかあるいは三万のオーダーで新生児が誕生しています。
 今、多分、厚生労働省の委員会の中で、親を知る権利をどういう形で認めるか、つまり、体外受精によって誕生した子供たちが一定の年齢に達して、自分の親はだれだというふうに聞かれたときに、どこまで親を情報公開するかというようなことが議論されて、国会で上程されるような話も伺っています。これは大変大きな問題だと思います。
 我々の社会でも、二年ほど前だったでしょうか、クローン技術に関する規制法という法律ができました。その法律を読んでみますと、今までの人権論ではおよそ手に負えないような新しい人権論というものを僕たちは身につけなければどうにもいかないような状況に来ている。
 僕はここでこういう書き方をしましたけれども、1から4あるいは5というふうに、どんどん人権の輪が広がっていくということはそれなりの必然性を持っていた、社会的な必然性あるいは政治的な、あるいは文化的な。1の次に2が来たから1がなくなるんではなくて、そういう意味でいえば、1の上に2が乗っかり、2の上に3が乗っかり、いつでも人権の層というのはそのままでありつつ広がっていく。
 別の言い方をしますと、例えば、1の段階でいえば、国民にのみというのかな、言い過ぎだな、国民に関して保障されている人権、権利というのはそういう言われ方をしたと思いますけれども、でも、今、その国民の枠を超えたところでさまざまな社会的な活動というものが行われる時代になってきました。
 例えば、市民というレベルでいえば、NPOだとかNGOだとか、そして、国家を超えて、ボーダーを超えてさまざまな問題にチャレンジしているという意味でいえば、社会という新しいステージが、国家の上にというのか、あるいは国家とともにというのか、そういうふうに用意されて、それにふさわしい形で実は人権というものを考えていく必要があるんじゃないかというふうに思っています。
 二番目というか二枚目ですけれども、これもよくわからないんですけれども、ふだん考えていることをまとめるとこういうふうになるのかなと。教育を受ける権利を一つの例として、基本的な人権というものを考えてみたい。
 一九四七年に成立を見た教育基本法というものは大変大きな働きをしたというふうに先ほど言いました。これは恐らく、いろいろな誤解があるようですけれども、少なくとも教育基本法に関して言えば、自前で、自力で、今後の文化国家というものをつくるために我々の先輩たちが大変苦労してつくったものだというふうに言えると思うんですね。教育を受ける、そういう権利がそれ以前には極めて限られた人間にしか認められていなかったということからいえば、六・三制の義務教育制というものを多くの国民にすべて開放したという意味では、大変大きな働きをした法律であったというふうに思っています。
 教育に関して、そこに教育刷新委員会、資料の中にもあることですけれども、一九四六年の九月に設置を見た教育刷新委員会の議論、これはこれで、我々がもう一度丁寧に読んでみる、そういう値打ちがある審議会というか委員会であったと思うし、そこで議論されていたその内容たるや、隔世の感と言うと何か誤解を呼びそうですけれども、大変なものだったというふうに思っています。
 その結果、教育を受ける権利という憲法二十六条を受けて基本法が出てきたのですけれども、刷新委員会は、その二十六条を根拠として、具体的に基本法の出自を語っています。教育立法の法律主義は、直接の根拠を第二十六条に置いている。それから一番下、アンダーラインですけれども、憲法上の要請に基づいて基本法は制定されたのだ。このことは忘れちゃいけないことだと思うのですね。
 つまり、我々が今持っている憲法というもの、その憲法の理念を具体的に実現するために基本法というのはつくられたんだ。だから、憲法と切り離して、あるいは憲法がなかなか改正されそうにないから基本法だけ先にやっちゃえというのは、とても乱暴な議論だろうというふうに思っています。
 こういう要請を受けた基本法は、先ほど言いましたように、教育の民主化であるとかあるいは義務教育の普及徹底、そういうレベルでは世界に誇っていいような働きをしたというふうに思っています。
 これは、今の鳥居先生のお話にもありましたけれども、教育を受ける機会の均等というのは基本法の三条にあります。それから、二十六条は教育を受ける権利というふうになっています。教育を受けた、その結果の不平等とか不均衡に関しては、これはおかしいじゃないかという、先ほど学習権説というのがありましたけれども、これについて、もし時間があれば僕はちょっと触れてみたい。いずれにしても、基本的な権利として教育を受ける権利というものが根づいてきたというふうに考えてよろしいと思うのですね。
 (2)ですけれども、基本的人権としてのひとしく教育を受ける権利というものをどういうふうに僕たちは実際面において実現していくかということで、たくさんの問題があるんだろうと思うけれども、二つばかり出しておきました。
 これは多分、基本法の改正については、この部分は十分に議論してほしいと思うところです。言葉じりというか、あるいは言葉の問題だというふうに小さく問題をとらえられると非常に困ることだと思うので、あえてここに出しておきましたけれども、教育を受ける権利というものについて、受ける権利、これを、受ける側じゃなくて、その反対からいえば与える権利ということになっちゃうわけでして、それに比較の意味で出したんですけれども、第二十五条、二十六条の前の第二十五条で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と。
 権利というのは、先ほど言いましたように、それを獲得するということだと思うのです。与えられるものじゃないんですね。与えられるものじゃない、自分で獲得するものだという意味では、実に適切に、健康で文化的な最低限度の、最低限度というのをちょっと括弧に入れたいけれども、生活を営む権利を持っている、この権利は侵害されないんだと。
 ところが、同じ憲法の第二十六条で、「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と。これは、相当根本的なところで違うとらえ方だろうというふうに思っています。どういう文言がいいのか、僕に知恵があるわけじゃありませんけれども、少なくとも教育を営むというレベルで権利というものをとらえ直してほしいということをここでは述べておきたいというふうに思っています。
 それからもう一つ、これも先ほど鳥居先生の話で出ましたけれども、ひとしく教育を受ける権利、こういう考え方、これを等しい教育を受ける権利というふうに読む、あるいは、そういう教育を実践しようとする現場の先生たちがたくさんいますね。
 下に挙げておいた英文が、これはドラフトです。憲法のドラフトです。そこには、アン・イコール・エデュケーションというふうになっていますね。等しい教育を受ける、そういう権利を人間というか国民というか人々は持っているんだと。それぞれの能力にふさわしい等しい教育を。これは難しいです、ここは。
 つまり、教育が難しいというのはこういう難しさがあるからだろうと僕は思うし、また、こうでなきゃ教育はおもしろくないなというふうに思うのですね。できる子供に難しいというか高い教育をして、できない子供に易しい教育なんというのは、こんなのは教育じゃないとは言わないけれども、大したものじゃない。むしろ、持っている力を伸ばせない子供たちにその持っている力を自分で発見させるような、そういう教育こそが実は等しい教育を受ける権利として保障されるんだろうというふうにあえて言いたいのです。
 おまえ、そういうことをやっているかと言われると、いいえというふうに言わざるを得ないかもしれませんけれども、少なくともそういう理念であったと思うのですね、教育基本法の理念としては。それは、それ以前の学校体系あるいは実際に行われていた教育内容を見てみれば、おのずと明らかじゃありませんでしょうか。
 そして三枚目ですけれども、あえて権利という言葉を人権という言葉に言いかえて、基本的な人権を一人一人が保障される、そういう状況、環境をつくるために、我々はもっともっと人権あるいは権利というものに関して丁寧な議論をする必要があるだろう。それを踏まえた上で、なぜ基本的な人権というものあるいは権利というものを擁護するのか、あるいは主張するのかということです。
 これは、四つばかり挙げておきましたけれども、一番目ですね、切りのない経済的な富や効率の追求が国家国民にとって願わしいことだとしても、人権はそういった一方向に偏った生活に再考を促すだろうと。人間らしい生き方というふうに、人権は、豊かな経済性、あるいは物がふんだんにあるようなそういう環境に対して、自分の生活を振り返らせるという意味での力を持っているだろう。これは、我々の今の社会の現況にも大変大きな意味を持っているんじゃないかというふうに思っています。
 それからもう一つ、これも特に我々の社会では大事だと思うんですけれども、とかくみんなが同じであることを強制しがちな社会集団のくびきを離れて、人権は自分にふさわしい生活感覚、僕の言葉で言えば生き方の流儀というものを個々人に与えてくれるだろう。
 それから三番目、スティーブン・ルークスという、これはイギリスだったでしょうか学者ですけれども、すべて国民なら国民、集団の成員のすべての利害とか目的が一致することはまず考えられない以上、あらゆる個々人が、基礎的資源の分配、社会生活に関する法や規則の施行に際して不公正や専断からも公的に保護される必要があるだろうと。その理由は、人権という観点からだということになるだろうと思います。
 それから、人権を尊重するというのは、決して、ある一人の生活そのものを、あるいは個人の尊厳ということで認めることではなくて、むしろもっともっとそういう個人が尊厳を尊厳として主張することができるような、その人の生活そのものをある意味でいえば保障するために我々は人権というものを尊重するんだ。
 終わりになりますけれども、この基本的人権あるいは教育を受ける権利ということについてのきょうのテーマで、括弧の中に教育基本法改正を含むというふうになっていました。
 先ほども一、二点、教育基本法のことについて愚見を述べましたけれども、僕は、憲法というものがまずできて、そしてその中で教育条項として二十六条がうたわれて、そこから法律によって教育を受ける権利というものが認められたということで基本法が出てきた。したがって、憲法そのものが十分に、今の段階で改正しなきゃいけないというような、そういう状況にあるのかどうかわかりませんけれども、少なくとも基本法だけを切り離して議論するということは、ある意味でいえば教育基本法の性格そのものをいびつなものにしてしまう。国を愛するとか家庭を大事にするとか、そういうことについてはもちろん僕も認めますけれども、そのことを基本法の中に入れるということが、どんなに基本法を、ある意味でいえば偏ったというか、あるいは窮屈なものにしてしまうか。
 つまり、理念だとか原理だとか、あるいは理想と言っていいのかな、そういうものをまず我々は自分のものとしようじゃないかというところから教育基本法が始まったとすれば、今なぜ教育基本法を改正するんですかと。改正しないで、どんどん学校教育の中身は変えられてきたじゃないですかということも忘れたくないんですね。
 したがって、いろいろな事項を我々は確かに議論して、教育基本法にふさわしいものにしていくだけの努力をする必要があると思うけれども、水と油を一緒にして、そして一つの器に入れてということが果たしていいことなのかどうかということ、それはやはり考えてみたいなというふうに思っています。
 それからもう一つは、憲法の精神というものを丁寧に丁寧に受けとめれば、教育を受ける権利というのは、国家あるいは公共団体そのものが個人に、国民に保障するという、権利保障の規定だったと思うんですね。これは憲法の二十六条、一番代表的な例かもしれないけれども。したがって、例えば子供が教育を受ける、その権利を保障するとか、あるいは教師が教育実践をすること、その自由の保障ということを、実は二十六条あるいは教育基本法全体でうたっている。
 それからもう一つは、とても大事なことだけれども、教育、つまり戦後のあの時代に、我々の社会のこれからの新しい理念というもの、あるいは民主的な国家社会を形成するための一つの生き方として、憲法に基づいて基本法が出てきたということ、これは重ねて強調しておきたいというふうに思っています。
 最後になりますけれども、教育基本法の、これは通常、前文というか、前書きというふうに言っていますけれども、僕は、これは結論であり、ある意味でいえば本質だろうと思うんですね。この資料の中にもあるかというふうに思いますけれども、教育によって我々は国家社会をつくっていく。その中に、こういう文言がありましたね。普遍的でしかも個性豊かな文化の創造を可能にするような教育をつくっていこうじゃないか。普遍的でしかも個性豊かな文化。ここであえて伝統とか、あるいは歴史とかなんだとか、そういう難しいことを持ち出す必要はないんじゃないんでしょうか。
 日本には独特の文化というものがある。これは僕も否定しない。しかし、そういう文化が今や危機に瀕しているから基本法を変えて、徹底的に学校教育の中で展開しようじゃないかというのであれば、これは僕の誤解かもしれないけれども、教育基本法そのものが泣くんじゃないかなと。
 大変乱暴な意見を述べましたけれども、足りないところは後で、質問の段階で補わせていただきたいと思います。
 ありがとうございました。(拍手)
大出小委員長 岡村参考人、ありがとうございました。
 以上で両参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
大出小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。倉田雅年君。
倉田小委員 自由民主党の倉田雅年でございます。
 両先生に大変高い見地からのお話を伺いまして、すっかり聞きほれておったと言ってはなんですが、改めて教育というものの重要性を感じさせられたわけでございます。
 もう御承知のとおり、教育基本法をこれからどうしましょうかということの議論が各所で始められておるわけでございます。そうした中で、いろいろな誤解といいますか、つまらない誤解、つまらない間違いというようなものもあるものだなと思って、実はけさ、新聞の資料を見せていただきまして思ったんです。
 けさの産経新聞の十五面に高崎経済大学助教授の八木さんという方が書いておられるんですが、現行の教育基本法の起草者は教育勅語を普遍的な教育理念として肯定していた。勅語と基本法との両立を考えておって、道徳教育の理念は勅語に任せ、新憲法との関係で勅語には足りない理念を基本法に入れたんだ、こんなことを書いておりますね。つまり、それだものだから、教育基本法に書いてある徳目だけでは足りなくなっちゃったんだと。
 といいますのは、教育基本法ができてから、後に一年余してから、御承知のとおり、教育勅語が廃止されたという、その事実からこういうとらえ方をしたんじゃないか思うんですが、私は、この歴史的な経過の見方自体がこの先生は間違っているんじゃないかと思うんですね。
 つまり、教育基本法は、確かに勅語の方が後から廃止はされましたが、教育基本法自体をつくられている段階で、勅語がもう廃止されるものという前提で、勅語にかわるものとして基本法ができたんじゃないかと考えますが、両先生、その点、私の認識が間違いなのか、この八木先生の方が正しいのか、ちょっとお教え願いたいと思う。
 では、鳥居先生からお願いできますか。
鳥居参考人 私も、けさの記事は読んでおりませんのでよくわかりませんが、事実として教育勅語というものが、教育基本法の約一年後にまず参議院で、それから続いて衆議院で効力を失ったわけですね。
 これはちょっと言い過ぎかもしれませんが、私は、教育勅語は法律でも何でもなかった。極端な市民的な言葉を使えば、天皇様の独白であった。しかし、それは非常に重要な独白としての役割を戦前は持っていて、それが国民に対して実効力を持っていた。その実効力を持っていた徳目に対して、それを廃止してしまうことが、日本の文化に対するどういう影響を持つかについて、どこまで衆参両院で議論されたかは、私は不勉強でわかりません。わかりませんが、教育勅語に書かれている徳目、これは、中には随分大事なことが書かれています。しかし、それを今、それにかわって、国民、特に若い青少年にこれが大事な徳目なんですということを語って聞かせるものがだれの言葉としてもないということは事実だと思います。
 ですから、私はそれにかわるものが必要だとは思いますが、それにかわるものが教育基本法であるという考えは私はとらないんです。
倉田小委員 わかりました。
 岡村先生の方はいかがですか。
岡村参考人 先ほどの御質問で、四八年の六月に両院で失効確認されましたね。実際に勅語というのは天皇のお言葉ですから、だから、それはもう廃止しますよというのは御本人がやる事柄だったんだろうと思うんですね。したがって、教育基本法が制定を見た段階で効力を失った、そういう形でとらえた。したがって、二つ同時に一年三カ月併存していた、これは歴史的な事実。だけれども、実際にはその段階では教育勅語を奉読するというようなことは行われていないんですね。それから、法的にも、その時代の文部省が学校にある意味では配付したところの勅語の写しそのものも回収するというような。
 それからもう一つは、GHQのその段階での配慮があったと思うんですね。教育基本法をつくるんだから、当然それをなくするという形で国会で決めればよかったことかもしれませんけれども、実は教育勅語そのものが持っていた大変大きな力というものに対して、GHQはある意味でいえばある種の敬意を表したんだろうと思いますよ。先ほど鳥居先生は天皇の独白と言われましたけれども、独白どころじゃない。そのことによってどんなことになったかということは、今小学校の子供はどうかと思うけれども、わかると思うんですね。
 したがって、それを片一方に置いて、本当に集中的に約半年かけて、先ほど紹介しました刷新委員会が議論した上で基本法をつくったということ、この事実は大変尊重する必要があるんじゃないかというふうに思います。
倉田小委員 ありがとうございました。
 ちなみに、田中耕太郎さん、これはもう御存じの、二十一年にこの基本法をつくった大臣でございますが、この方の「教育基本法の理論」、これの十五ページにこういうことが書いてあります。
 「私は個人的には、国家が法律を以て間然するところのない教育の目的を明示することは不可能にちかいことと考える」と。しかしながら、実際には、教育基本法の前文、一条、二条にいろいろな徳目を挙げてしまっているわけです。その理由として、「法が教育の目的やその方針に立ち入ったのは、過去において教育勅語が教育の目的を宣明する法規範の性質を帯びていた結果として、それに代るべきものを制定し以て教育者に拠りどころを与える趣旨に出ていたのである。」こう書いてあるわけで、つまり、本当は基本法は徳目なんか挙げるべきじゃないと個人的には考えていたけれども、しかしながら、教育勅語というものがあって、それがなくなっちゃうと空白ができます、したがって、自分の個人的な意思には反するけれども、徳目を幾つか挙げましたと。こんなぐあいに書いてあること、御承知と思いますが、御披露しておきます。
 時間はまだあるんですかね、もっとたくさん聞きたいことがあるんですが。
 何かお答えがありましたら、岡村さん。
岡村参考人 今の田中先生のその著作の中の文章だったと思いますが、一部僕は資料として四枚目に引っ張ってきました。資料2です。
 一九六一年ですから、田中さんはもう既に文部大臣をおやめになって相当たった段階です。したがって、一九四六年、七年のこの段階の田中さんの考え方と、それから文部省を去られた後の考え方とでは、やはり変わりましたね、変わりました。これはどっちの考え方がいいか、そういうレベルの問題じゃありませんけれども、ここで引用しておいたこの部分は、僕は教育という問題を考えるときに非常に大事な一つの視点であろうというふうに思います。
 つまり、教育というのは一般文化現象と同じく私的なものだ、そういうとらえ方をされていますね。もちろん、その私的というのは、ある意味で言えば全くもって勝手放題の個人の自由ということじゃなくて、社会に、あるいは国家に所属する個人の問題としてという意味でいえば、教育は私的な領域だ、この考え方を僕はとりたいんです。
 もう一つは、田中先生だけではありませんけれども、その一九四五年、戦前と戦後の境目と、それから二十年、三十年たった段階での我々の先輩たちの物の見方、考え方というのは相当変わりましたね。名前を出すとよくないのかもしれませんけれども、例えば中教審の会長を長くやられた森戸辰男先生がおられました。森戸先生は戦前、幾つかの事件でおやめになられました、東京大学助教授を。でも、憲法を新しくつくるというか改正する段階での国会でのあの答弁というのは、大変すぐれた見地を示されたと思っているんです。
 したがって、この人はこの当時はこういうことを言っていた、だけれども、またそれを伏せて、この段階ではこう言っていたというのじゃなくて、やはり一人の人間の中での意見とか考え方の深まりなり、あるいは変更というものを我々はとらえ直してみる必要があるのかなと。これは自戒の念を持って、そういうふうに言います。
倉田小委員 時間が終わっちゃいましたけれども、私は、田中耕太郎さんが、普遍的と認められるものだけは挙げてもいいけれども、まだ普遍的でない価値観まではこういう基本法には書くべきではないというようなことを言っていらっしゃるような気がするんです。
 私は実は法律家でもございます、弁護士でございまして、そんなふうに、国を愛する心とか伝統とか、載せるか載せないかということを考えるときに、田中先生のお考えも非常に参考になるんじゃないかと思って申し述べた次第でございます。
 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、水島広子君。
水島小委員 水島広子でございます。
 本日はお忙しい中、鳥居先生、岡村先生、本当にありがとうございます。限られた十分という時間ですので、現状の教育の中での問題と教育を受ける権利との関係について、何点かお伺いをしたいと思っております。
 まず第一点は、これは国連の子どもの権利委員会からも指摘されていることですけれども、今の日本における不登校の問題がございます。
 これは、国連の子どもの権利委員会も、学校忌避の事例が相当数に上ることを懸念するものである、そのように表明しているわけでございますけれども、まず、今の日本にこれだけ不登校の子供たちが多いという現実と、その子供たちにとっての教育を受ける権利との関係、両先生がどのようにとらえられているかということをお伺いしたいんですが、鳥居先生からよろしくお願いいたします。
鳥居参考人 はい、ありがとうございます。
 今資料を出しますので、ちょっとお待ちください。
 先ほど御紹介いたしました、一九七九年にサッチャーさんが総理に就任されて、八〇年から取り組まれた教育改革でサッチャー首相が訴えられた中に、実は不登校の問題が取り上げられています。
 サッチャーさんはなぜ不登校が起こるかの直接的な原因をいきなり述べたわけではありませんが、したがって、不登校という現象とこれから申し上げるサッチャーさんが指摘した問題との間の関係が直接つながっているかどうかははっきりしないのですけれども、サッチャーが取り上げた問題は、一九八〇年のイギリスというのは、一九四四年法に基づいてずっと教育というものをやってきた、つまり一九八〇年に至ってもなお根拠法は一九四四年法だった、法律が古過ぎる、その法律が古過ぎることがどこにあらわれてきたかを彼女は列挙したわけです。
 その中で、例えば教育委員会が、地方教育委員会が中心の制度になっておりまして、地方教育委員会が何でもかんでも決めるために、中央政府がこういう方向で教育の方向を決めたいと考えたときに、それが国の隅々まで浸透しないという問題がまず第一にあります。
 二番目には、労働組合が非常に波の激しい時代をずっと経過してきておりますので、教員組合がもっと学校の教育に集中してほしいということを言っています。
 それから三番目は、子供の自由ということをイギリスは言い過ぎたのではないか。子供たちが好きなように学ぶ時間というのを、実はイギリスでは当時やっていたんですね。それが子供たちの教室における不統一性を生んだのではないかということを言っています。
 まだほかにも幾つかあるんですけれども、そういった一連のことを挙げた上で、サッチャーさんは、たくさんの諮問委員会をつくりまして、検討を命じています。例えば、ガールズ・アンド・ガールズ・オンリー・スクールズという委員会ができました。何でもかんでも男女共学ではなくて、女子高等学校、女子中学校というものの存在意義をもう一度見直してはどうかというふうなこともその委員会で諮問を受けて審議が行われているんです。
 そういったようなたくさんの改革を実行する中で、彼女はその問題に取り組みました。私は、これは日本の今の問題を考える上で非常に参考になるものをたくさん含んでいると思っています。
岡村参考人 不登校がなぜ起こるかということについては、多分、人それぞれの理由があって、一般化してというか、まとめて言うことはできないと思うんですね。ただ、およそのことは大体理由があり、見当がつくんだろうというふうに思うんです。
 きょうの資料、せっかくつくってきた、資料にもならないんですが、一番最後の英文です。五枚目です。教育を受ける権利を行使するというのはどういうことだろう。その一、ある人の文章をそこに紹介しておきましたけれども、学校というのは、次のような、無前提の格率みたいなものですね、公理によってつくられた制度なんだ。どういう公理かというと、教えられたその結果が学習なんだ。つまり、教師がしゃべったことを受け入れることがラーニングだ、そういう考え方です。これが一つ。
 それからもう一つは、そういう学校教育を長い間受けていくと、いろいろな知恵がつきます。つまり、学校で、ある意味でいえば、つくったところの知恵のことをインスティチューショナル・ウイズダムというふうに言うんだろうと思うんですけれども、ある意味では学校を受け入れた子供たちというのは、学校そのもののあり方そのものを受け入れてしまうという。だけれども、実際には、学校に行かなければ世の中で困るかどうかということについて言えば、例外はいっぱいあるわけですよね。大変卑近な例かもしれないけれども、学力は低いけれども計算力は高いとか、計算高いかな、何かそういうのは随分あるから。
 もう一つだけです。三番目、見てください。学校というところは私たちに、教授、先生がしゃべるそのこと、インストラクション、そのことが子供たちの学ぶという学習を生み出すんだ。それから、学校があるということが、学校教育の必要性、あるいは要求というものを生み出しているんだ。そして僕たちは、あるいは我々が一たん学校というものの必要性を学んでしまえば、我々は社会に出ても、ある意味でいえば、ここはおもしろい言い方だと思うんですけれども、シェープ・オブ・クライアント・リレーションシップ、つまり、医者と患者の関係でいえば、いつでも患者のような形でその力を持っている人たちに対して態度を示すというか、つまり、そういう意味でいえば、学校というのは大変子供たちにとって窮屈だったということだろうと思うんですね。
 もちろんずるで休む子供もいるかもしれないけれども、僕はかなり個人的にもそういう子供たちとつき合っていて、それから定時制の大変ワルと言われる子供たちともつき合ってみて、やはり僕も余り行きたくなかった、そういう思いがあったから、だから逆に言えば、学校へどんどん喜んで行くという状況に今我々の社会はないということの一つのあらわれだ。だから、逆に言えば、基本を変えてじゃなくて、本当に子供たちが行きたくなるような、そういう教育実践というものをある意味では実現していくことが僕たちに課されている。自由にならないことかもしれませんけれども。
 実は、これは来年度ですか、東京都の八王子は、登校拒否なり不登校を起こしている子供たちだけを集めた学校をつくるというような、そういう政策、難しい学校だなと思いますけれども、やっています。したがって、みんな金太郎あめのような、そういう一律の性格を持った学校でない学校があちこちにできれば、こういう子供たちは違ったところで自分の力を発揮する可能性を見つけるんじゃないでしょうか。
水島小委員 はい、ありがとうございます。
 また、次にお伺いしたいんですけれども、今よく日本人のモラルの低下ということが言われておりまして、そのモラル教育とかそういうことが話題になっているわけでございます。
 ただ、このモラルが低下するというのは、私は、やはり他者の権利の軽視であって、他者の権利について学ぶ機会が与えられていない、他者の権利についての教育を受ける権利が与えられていない、そのようにも解釈できると思うんですが、そんな中で、人間が多様であることをちゃんと尊重できるような教育、あるいは、先ほど岡村先生がおっしゃったように、拉致被害者の当事者を連れてきて、その現場を知らせるような、そういう教育、あるいは、日本の法律の中で、例えば、非嫡出子の差別によって生まれながらにして差別されてきた子供がどういうふうに感じてきたかということをその子の声を通して聞く教育、そのように現場感覚のある人権教育というのも非常に重要だと思って、この人権教育についても国連からも懸念が表明されていたと思いますけれども、このモラルの低下と、他者の権利を学ぶ機会が非常に今の教育の中で少ないということについて両先生がどうお考えになるか。また、モラルの低下を防いでいく、モラルの高い子供たちを育てていくために他者の権利というものをどうやって教えていくか、それぞれの先生のお考えをお知らせいただければと思います。
鳥居参考人 モラルの低下のかなりの部分が、今水島先生のおっしゃる他者の権利ということを考えることができなくなっているということだということについては、私も全く同感であります。
 ただ、その前に、モラルの低下という現象全体を眺めてみますと、他者の権利の問題だけではなくて、その他さまざまの問題があるように思うんです。少し言い過ぎかもしれませんけれども、モラルの教育の原点は、子供が母の胎内にいるときから始まると言われています。そして、これも有名な、「人生で一番大切なことは、幼稚園の砂場で教わった」という題の本がありますけれども、あの本の冒頭に書かれていることをずっと読んでみますと、ほとんど我々がモラルという言葉であらわしている事柄が全部出てきます。そして、それらは幼稚園で教わったということが強調されています。
 私たちは、改めて今、水島先生のおっしゃる、モラルというのが一体どの範囲であるかということについての社会のコンセンサスをもう一回再構築すべきではないかと思っています。その再構築すべきモラルの範囲というのは相当広いものであって、その中に今おっしゃる他者の権利も含まれているというふうに思います。
 今、他者の権利についてのみ限定してお答えを申し上げますと、私たちは、他者の権利ということは、自分自身が他者とのかかわりにおいて感ずる喜びということもまた含まなければならないというふうに思いまして、そのことを教える場は、まず何といっても家庭と、普通の成長過程における、子供それぞれの世代における社会的生活であるというふうに思うんです。
 そのようなことを実現する場は、したがって家庭、それから幼稚園、電車の中、バスの中、あらゆる場所だと思います。そういうところでは、学校では絶対にできないモラル教育を私たちはできるんです。それをやる場所をやはり私たちは社会全体として構築する、その雰囲気をつくる。その雰囲気をつくる場としては学校の先生も重要な役割を果たすと思いますけれども、何といっても、繰り返しになりますが、家庭であり社会であるというふうに思っています。最後に、同時に、それをさらに学校が補強するという役割を果たすんだと思っています。
大出小委員長 岡村参考人。時間が限られておりますので、簡潔にお願いします。
岡村参考人 はい、一言で。
 最近というか、この五年ぐらいですが、僕はあちこちで一人称で語るということを盛んに言ってきました。一人称で語るというのは、私はこう思うということだろうと思うんですけれども、でも、どんな人でも一人称で語る能力は持っているんですよ。だけれども、その能力がイコール権利にならない。つまり、おまえ黙ってろと学校で徹底的に言われちゃう。
 そうすると、一人称で語る能力を権利として行使するということがどんなところでも行われる必要があるだろう。その場合に、僕はこう思うよ、僕はそうは思わないよという物の言い方の片一方には必ずあなたがいるんですね、もう一人の一人称がいるんですね。だけれども、家でも、お父さんとかお母さんが、あなたまだ子供でしょう、黙っていなさいというようなことで、一人称で語る権利そのものを育てようとしないということだろうと思います。
 これは、学校教育全体にもかかわるような、そういう問題だと思いますけれども、一人一人が自分で物を言えるということです。そういう力をつくるという、それに尽きるような気がします。失礼しました。
水島小委員 大変共感できる御意見ありがとうございました。
大出小委員長 次に、太田昭宏君。
太田(昭)小委員 公明党の太田です。
 憲法二十六条を読みますと、御指摘いただいたように、私は、教育というのがある意味では二十一世紀の大事な、それこそ本当に大事なテーマであるということをもう少し強く打ち出すという表現とか考え方があっていいなというふうに思っておりまして、その意味では、きょうお話をいただいた、一部の特権の者が教育を受けるということの時代という背景の中から現憲法が書かれている、もう少し積極的にという岡村先生のお話や、あるいは鳥居先生がおっしゃいました学習というようなことや方法論ということも、実は教育基本法の前に、憲法二十六条ということにもう少し膨らみをつけて二十一世紀の憲法ということの表現ぶりを考えるということは一つの考え方ではないのかな、こういうふうに思っているんですが、まず、いかがでしょうか。簡単で結構です。
鳥居参考人 今の太田先生の御質問に、私は、ここでお答えするのは非常に難しいと思います。
 私が憲法二十六条について初めて勉強したのは、文部省著作教科書「民主主義 上」「民主主義 下」という教科書でありまして、昭和二十四年から二十七年にかけて使われた、中学校の上級生と新制高等学校の下級生に対して使われた教科書です。あそこで教わった民主主義のコンセプトに基づいて私は育ってきて生きてきましたので、この二十六条に書かれていることでほとんど大事なことは語り尽くされているというふうに私は思い込んでいたんですが、今、太田先生の御質問という形でのお話を伺って、若干、ああそういう考え方もあるのかというように目を覚まされた思いではありますが、それ以上のお答えのしようがございません。
岡村参考人 僕先ほど言いましたけれども、受けるということは、その前の段階で受けることができなかったという状況から、これは当然こういう条文になった、それは大変意味があったと思うんですね。だけれども、それから半世紀以上たって、先ほどの水島さんの不登校の問題もありますけれども、受けるというのは与える、つまり教育というのは教えることと育つことだ、あるいは育てることだというふうに鳥居先生言われましたけれども、教えることが余りにも勝ち過ぎていますと、もう教えてほしくないよ、受けたくないよという、これは人情として出てくるんじゃないでしょうか。
 だから、僕は、今教育特区の構想がさまざま出ていて、幾つか実現しそうで期待しているんですけれども、例えば学校を選ぶ、あるいは教師を選ぶ、教育をつくる、あるいは教育を営む、言葉は丁寧に考えなきゃいけないですけれども、積極的に権利を行使する、そういう主体であることをあらわすような、そういう条文というのは絶対欲しいですね。
太田(昭)小委員 教育基本法は要らないという考え方の方も何人かいらっしゃると思います。その内閣、内閣それぞれがこういう教育をしたい、そしてこういう人たちを育てたいというようなことを法律で書くというよりは、教育の中身で書くというよりは、むしろその内閣の方針とかさまざまな具体的な法律ということの中で表現をするということは一つの考え方ではないかというふうに私は思っております。
 先ほど倉田先生のお話の中にもありましたが、国家が教育のどの部分にどの程度どういうふうにかかわっていくのかということにも関係するわけですが、教育基本法はむしろ要らないということ、これにはいろいろな理由があるわけですが、そういう論調に対してはどうお考えでしょうか。
鳥居参考人 私は、現行の教育基本法は、一部の改正、それから欠けているところを補う形でやはり維持した方がよろしいと考えています。
 要らないという御意見の方々が、いろいろな論拠をお持ちだろうと思いますが、恐らく、要らないということに仮になりますと、この中に、現行の教育基本法に書かれている事柄のうちの一部は憲法で述べられているからもう不要である、それからまた、一部は学校教育法で述べればいい、したがって、その間に挟まっている、憲法と学校教育法の間に挟まっている基本法は不要であるということになるんだろうと思います。
 しかし、私は、憲法で述べた基本理念、それをもう一度教育の法体系の一番頂点に立つものとして再定義する、その上で、そこのところでは若干理念法的な性格も帯びますが、同時に、この下に、つまり教育基本法の下に今度は連なっていくであろう学校教育法を初めとする諸法体系の中で述べられるさまざまの大事な事柄の大枠をここで決めておくという意味で、教育基本法はあった方がよろしいと考えています。
岡村参考人 要らないという人に、何か聞きたいですね。
 先ほどから僕、まずい言葉でしゃべっているんですけれども、少なくとも、憲法の中に教育条項を丁寧に書くということはとても難しかった。したがって、二十六条で代表させて、その教育の実現は、法律によってと書かれています、教育基本法によって。したがって、その教育基本法は要らないということは、二十六条を含めて憲法そのものは要らないという話じゃないでしょうか。それで、とても乱暴な考え方を持つこと、そのことは僕は認めるんですね。だけれども、それを、ある意味でいえば正論のように言われることは、とてもまずいんだろうというふうに思います。
 それからもう一つは、基本法を一部変えれば、確かに結果的に一部変わるということはあるかもしれないけれども、この部分、足りないからつけ加えようという形での改正もまずいだろうと思うんですね。それは、なぜならば、憲法そのものをある意味ではないがしろにすることになる、非常に、言い過ぎかもしれないけれども、僕は、それぐらいに基本法というのは大きな意味を持ってきたと。もしあれがなければ、我々の社会における学校教育あるいは社会教育を含めて、どういうことになってきたかというふうに考えると、ぞっとするような部分もあります。
 僕自身は、レジュメの一番最後に書いておきましたけれども、教育基本法を変えちゃいけないという考え方を持っていません。変える必要があるだろうというふうに思っています。ただし、変えるのならばいいものに変えようじゃないか、そのためには時間をかけて議論して、憲法調査会は五年間ですね、したがって教育基本法も一年とかあるいは二年の議論ではなくて、もっともっと、こういう形での意見を述べ合って、それこそ一人称で語る人たちを集めて、意見を集約する努力が必要じゃないでしょうか。
太田(昭)小委員 私は、全く同じ考えです。準憲法的な存在であるから、しかも理念的な項目も多い。したがって、十分時間をかけて、徹底的に論議をしながらやっていく必要がある、こう思っておりますので、その考え方には賛成です。
 最後に一つだけお聞きしたいというか、要望ということもありますが。子供たちを中心にした教育ということについて、こうあるべきですよ、親に孝行すべきですよ、公の精神を持つべきですよ、規範を持つべきですよということの方向性ではなくて、自己実現、人格の完成、個人の尊厳、こういう人たちにするために、社会や地域や学校がどういうふうにサポートするかということに重点を置いた教育基本法でなくてはならないと私は思います。
 この教育基本法は、どちらかというと、あの戦後のときに、こうあるべきだという人間像の部分と、そしてそのほかの、地域、社会、学校がどうサポートするかということの両面が、ある意味では合致した形で展開をされてきたと思いますが、私は、今はこれは乖離してきている状況にある、こう思います。
 そのときに重点を置くべきは、子供たちに指を指して、親に孝行するような子供になりなさいという、あるいは愛国心を持つような人間になりなさいというよりも、自己実現や個人の尊厳を果たすためにどういうふうにバックアップしていくか、そういう基本法の論議の仕方が私は大事だ、こう思いますが、もう時間だそうですので、一言だけちょっと答弁をお願いします。
大出小委員長 鳥居参考人、一言お願いします。
鳥居参考人 今、太田先生からのお話は承りましたので、中央教育審議会に私は持って帰らなければなりませんので、承りましたと申し上げさせていただきます。
岡村参考人 中教審の中間報告を読ませていただきました。大変興味を持って読んでいたんですけれども、僕は、ザット・イズ・ア・コンポジションと。やはり何かこう、ナスビとトマトを一緒につくるみたいな、そういう不自然さがあるという気がしますね。
 一番大事な部分で間違っているのは、新しい公共概念というのを出していますけれども、僕はこれは公共じゃないと思う。つまり、ステートとかあるいはネーション、そういうものを下敷きにしたようなパブリックというのはありっこないなと、乱暴ですけれどもね。公というのは、私があって、私と私の間でつくっていく、それがリパブリックだと思いますので、そういう意味でいえば、太田先生言われたように、お父さん、お母さんを大事にするというのは言われなければできないことではない、そういう信頼はみんな持っていいんじゃないでしょうか。わざわざ書くことは毛頭ないなと思います。
大出小委員長 次に、武山百合子君。
武山小委員 きょうはお二人の参考人の方々、どうもありがとうございました。自由党の武山百合子です。
 早速、岡村さんにお聞きしたいと思います。
 先ほど、英文の前の資料の資料4のところで、一九五六年の、教育制度の占領下という特異な情勢のもとでというところに、次代の国民の育成に重要な影響を与えるものである、できるだけ早く改正したいというこの辺の状況をもう少し、ぜひ検証したいと思いますので、お聞かせ願いたいと思います。
岡村参考人 ちょうどこの時代というのは、五五年体制ができて、そして、王政復古とは言いませんけれども、やはりもとへ戻りたくなった人というのは随分いたと思うんですね。
 鳩山さんのこの段階の文部大臣は、その上の清瀬一郎という人でした。清瀬先生は、文部大臣は党の小使である、そういう発言をされて非常に有名になったことがあるんですけれども、僕はやはり、鳩山さんの中にも、憲法と教育基本法は一体であったという考え方があったと思うんですね。だけれども、あの当時の政治の状況の中で憲法を変えるということは、これはあり得ないことだし、やっちゃいけないことだ、そういう考え方を強くお持ちだった、したがって、独立国家にふさわしい自前の憲法はできないけれども、自前の教育基本法というようなことがこういう形で出てきたと思うんです。だけれども、実際に、この設置法案は、法案の段階で廃案になっていますね。
 この辺はとても大事な時期だったと思います。これは、外を見れば、朝鮮半島でどういうことが起こったとかというような、そういう問題とも絡んできて、僕はそういう言葉は使いませんけれども、逆流とか反改革だとか、そういう時代状況があったというふうに思っています。
 したがって、憲法と教育基本法を離して何かするということはここでもう一回終わりなんで、一事不再議みたいなもので、やはり僕はもっとまじめに考えた方がいいんじゃないかというふうに思っています。
 よろしいでしょうか。
武山小委員 もう一つ、岡村さんにお聞きしたいと思います。
 この上の文ですね。先ほどのは、一九四七年に教育基本法ができまして九年後ですよね。それから、上の方は一九六一年ということで、内務官僚から切り離しても、それから、文部官僚が指揮監督するならば、弊害は依然として除去されない。この辺のこともぜひお聞きしたいと思います。
岡村参考人 田中耕太郎という人は、東大の法学部を出られてすぐに内務省に入りました。そして、本当に一年足らずでおやめになったんですね。そして、東京大学に戻られて法学部の教員をやられた。そして、四五年の敗戦を迎えて、文部省が大変な状況を迎えて、ある意味では解体寸前までいったというので、田中先生が三顧の礼をもって呼び戻されたというか、文部省に入られました。
 一番最初についたポストが学校教育局長だったというふうに思っています。その段階では、先ほどの教育勅語とそれから教育基本法を同じ時期に議論していましたから、田中先生は当局の側で、基本法も大事だし、それから勅語もということで、ある種の妥協があったような気がするんですね。だけれども、文部大臣をやられて、そしてまた国際裁判所の判事をやられたその段階で、この基本法の理論を書かれました。
 僕は、最終的に田中先生というのは、教育というものをいろいろなところから見られて、そして行政なりあるいは政治権力からきちっと離したところで子供たちのある意味では力を出させる、そういう行為であるというふうに認定されたんだと思いますね。
 これについては、もし必要であれば、いろいろと資料がございますので、また御紹介したいと思います。
武山小委員 ありがとうございます。
 それでは、鳥居さんの方にお聞きしたいと思います。
 先ほど、教育の内容ということで、人間形成、基礎知識、学習、成長の支援、本当にそのとおりだと思うんですよね。私、自分の地元を歩きますと、皆さんに、今最もやらなきゃいけないことは教育改革だと、十人中十人に言われるわけですね。それで、今最も先生のおっしゃったようなことが欠けているわけですね、現状の家庭状況、それから教育界、社会全体。
 それで、まず人間形成、なぜこういうものが欠けてしまったか。今、本当に美しい日本語を本当に数少ない人しか話さなくなってしまった現状ですよね、語彙の乏しさ、私もその一人ですけれども。こういうものがなぜ欠けてしまったか、ぜひちょっとお聞かせいただきたいと思います。
鳥居参考人 これもサッチャーさんを引用したくなるんですけれども、イギリスでも同じことが起こっていました。いつ起こっていたかというと、一九八〇年、今から二十二、三年前にサッチャーさんが指摘した段階で起こっていたんですね。日本も、今先生がおっしゃるとおり、この問題だけを取り上げましても、言語、文字、これを正しく教える人がいなくなってしまった。事実だと思います。
 これは、どこにいなくなったのかというと、私は家庭と学校だと思います。今、一部の幼稚園で、美しい文字を覚えさせることを目的にして特殊な教育をする幼稚園も出始めています。それから、発音を直すことを一生懸命努力している先生方も出始めています。これは、やはりみんなが力を合わせてやっていくよりほかに方法はないと思います。
 私は、だれが犯人かという犯人探しはしても仕方ないとは思うんですが、あえて挙げれば、まず第一は時代の流れ、文化の変容が第一の犯人で、その背後には、やはりマスメディアのいろいろな変形があったということは否めない事実だと思います。ですから、私は、放送関係の方々にお会いするたびに、テレビの放送で使う言葉を美しくしてくださいというふうにお話ししているんです。
 この間も、朝青龍が優勝して、胸に手を当てながら君が代を彼は歌っていました。その直後にマイクを突きつけたテレビのアナウンサーが、あした横審で決まると思いますけれども、あなたはどうとかこうとかという質問をしました。えっ、と思ったんですが、よく考えてみると、横綱審議会のことを横審と言っているわけですね。それがNHKの放送で放送されるというのは、もうこれは言語の破壊に近いと私は思っています。やはりそういうことを学校でも、それから放送でも雑誌でも、みんなが気をつけるということが大事だと思います。
 それから、私は、自分が子供のとき、英語を教えてはいけなかった時代に父から英語を教わったんですが、ペン習字から入ったんですね。ペン習字は、やはり一定の斜めの角度を必ず維持することを厳しくしつけられて英習字教育をしていたんですが、日本のお習字も同じですね。そういうことを今家庭でやらなくなったということがあると思うんですね。
 以上です。
武山小委員 今の少子化の現状ですけれども、女性が社会に本当に参加したい、それから、参加していますね、大勢の女性が。そういう中で、子育てをだれがやるかということで、夫婦して子育てを両親がやるということが基本ですけれども、共働きする家庭がどんどんふえているわけですよね。また国の政策も、実際は子育ては、やはり国が面倒を見る部分もかなりありまして、それで駅前保育所とか待機児童はなくそうという考えなわけですよね。いわゆる家庭で見なければいけない時期に他人が見なければいけない、そういう本当にアンバランスの今社会状況なわけですよね。この辺は、どういうふうに整合性を持っていたらよろしいでしょうか。
鳥居参考人 またまたサッチャーの引用で申しわけないんですが、サッチャーが同じことを言っていまして、女性が家庭のことを考えない限りイギリスの将来はないという意味のことを彼女は言いまして、家庭が復活すべきはビクトリアンバーチューだ、ビクトリア時代の美徳であるということを言っています。
 私は、別のことを申し上げたいんですが、人間は哺乳動物、哺乳動物のことを英語でマンマリアンと言います。要するに、自分のお乳で子供を育てるというのを哺乳動物と言うわけですね。それが人間の子育ての基本なんですね。これだけは、どんなに逆立ちしても男ではできない。少なくとも、母が自分のお乳で子供を育てる期間、その間も同じことを男にやれというのは絶対に無理なので、たとえ男女共同参画といっても、お互いにそこのところの仕分けは守っていくしかない。それを埋めるための仕組みとして、例えば保育とか育児のいろいろな新しい仕組みを随分工夫してきました。子育て、保育の予算もそれで組まれてきたんだと思いますけれども、私たちのその使い方が下手なんだと思うんですよ。というのを私は感想として持っています。
武山小委員 どうもありがとうございました。
大出小委員長 次に、春名直章君。
春名小委員 日本共産党の春名直章でございます。きょうはお二人の参考人の皆様、本当にありがとうございました。
 まず、鳥居参考人にお伺いしたいと思うんです。
 中央教育審議会の会長もされて大変御苦労されていると思います。今、話題になっているのが教育基本法の改正問題でございます。中間報告を私も読ませていただきました。そこで、二点お伺いできたらと思います。
 一つは、キーワードが、たくましい日本人の育成というのを教育目標にするということが出されているわけなんです。ただ、私、議事録を読みましても、そういうことが議論された形跡が余りないのでございます。このたくましい日本人の育成というのが、どういう経過でどういう議論で教育の目標にするということになったのか、そこを率直に、わからなかったものですから伺いたいのが一つ。
 二つ目は、なぜ教育基本法を今改正しなければならないのだろうか、その必然性が私自身見えないのです。例えば、一人一人の個性に応じてその能力を伸ばす、そういう観点が大事だということが中間報告に出ていますが、これはまさに教育基本法が言っている、人格の完成を目指す、個人の価値をたっとぶ、革新的内容だと思います。それから、国際化とかグローバル化、これへの対応が必要だということが述べられていて、確かに情勢は変化していますのでそういう状況があるわけですが、だからこそ私は、教育基本法がうたっている「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」ということが、いよいよ問われているんじゃないかというふうに認識をいたします。
 したがって、今なぜ改正なのかということがどうしても見えないので、その二点について伺いたいと思います。
鳥居参考人 まず、第一の御質問の、たくましい日本人という問題でございますが、これは、審議の経過を簡単に申し上げますと、約二十回開いてきた基本問題部会の初期の時期に、これからの教育の目標について審議をいたしまして、いろいろな意見を集約していきました。その中で五つに集約されていったのです。
 その一つが、「自己実現を目指す自立した人間の育成」。もう一つが、「豊かな心と健やかな体を備えた人間の育成」。三番目が、知の世紀をリードする、知の世紀という言葉はいろいろに解釈されると言われるかもしれませんが、一応知の世紀という言葉を使いました。「「知」の世紀をリードする創造性に富んだ人間の育成」。四番目が、先ほども問題になりましたけれども、「新しい「公共」を創造し、二十一世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成」。そして五番目に、「国際社会を生きる教養ある日本人の育成」。この五つの目標を一言であらわす言葉を考えましょうということで出てきたのが、今おっしゃる「二十一世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」というキーワードです。
 今、全く審議しなかったのではないかというお話がありましたけれども、決してそんなことはありませんで、今申しました五つの教育の目標というものを審議する過程で、私たちはこのことを十分審議してきたつもりでございます。
 それから、今なぜ改正なのかということでございますけれども、これは、今お話の中にありましたとおりなんです。日本の国内でも、国民の自信喪失現象、それからモラルの低下、先ほどの御質問にもございました。それから、青少年の凶悪犯罪とかいろいろな問題が起こっています。まさにこれも、実は一九八〇年にサッチャーさんが直面していた問題と同じなんです。いじめや不登校、中途退学、学級崩壊、いろいろな現象が起きています。それから、家庭での、地域でのしつけや教育の問題が大きな問題になっています。
 これを考えてみますと、教育の基本的なあり方について、現行の教育基本法そのままでももちろん十分この問題に対処できるのであればいいのですけれども、そうでないところを補う必要があるということで、教育基本法の改正が必要であるという判断に私たちは立ったわけです。
 その見直すべき事柄というのは、現行の教育基本法に書いてある大切な事柄、それは現行の憲法の精神を酌んで、今の教育基本法にうたわれております個人の尊厳、それから真理と平和の希求、今先生の御質問の中にありましたね。人格の完成、これはみんな現行の基本法に書いてあります。
 それに加えて、今から申し上げることをつけ加える必要があるのではないか。それは、国民から信頼される学校教育の確立。前文や目的や理念のところに書くのか、具体的な条項としてうたうのかは、これから検討をまだ重ねるわけですけれども、これがまず一つです。
 二番目は、知の世紀をリードする高等教育を推進していくということですね。これはもう十分御承知だと思いますが、教育基本法には高等教育段階に関する条項が全くないんですね。要するに、教育の対象があたかも小中学生あるいは幼稚園から小中学生ぐらいを想定しているかのごとくに読める、そういうところがありますので、高等教育に関して書き込む必要がある。
 三番目は、家庭の教育力の回復、学校や家庭や地域の連携協力、こういったことについて、教育基本法がただ学校だけを相手にするのではなくて、家庭、地域、そういったものまで視野に入れた教育基本法にできないだろうかということを検討しようということでございます。
 四番目が公共心、それから伝統や文化を尊重する……
大出小委員長 簡潔にお願いいたします。
鳥居参考人 これは何を言いたいかといいますと、伝統や習慣、あるいは我が家で伝承してきた事柄、そういったことについての深い理解から生まれてくる誇りの心ですね。その誇りに思う心というのを私たちは大切にすべきだと考えています。そのことについて検討しようというのが改正を考える四番目の理由。
 あとは、生涯学習の問題と教育振興基本計画の策定の引き金になるところが教育基本法なのではないかという考え。
 以上から、ぜひ改正すべきであると考えているわけです。
春名小委員 岡村参考人にお伺いしたいと思うんです。
 レジュメにも書いてありますし、今陳述の中にも出てきたんですが、教育基本法にはあれが足りない、これも足りない、だから足りない点を加えて改正するんだということになりますと、教育基本法の性格をいびつなものに変形させてしまうんじゃないかという危惧を感じているとおっしゃっておられます。
 私も同感でありますが、今の鳥居先生のお話を聞いていて、足らないものをつけ加える、憲法は置いておくということになると、随分いびつになるんじゃないかという印象を持ったんですが、その点、今の教育基本法改正論議について、どうごらんになっているかをお願いしたいと思います。
岡村参考人 非常に単純、率直に言いますと、もう先ほど言ったように、中教審の中間報告だけですけれども、コンポだと。コンポジション、寄せ集めですよ。片一方で、人格を完成するという教育理念を追求しよう、片一方で、たくましい日本人をつくるんだと。さあ、どういう人間ができるんだろうと。これについて僕は想像できない。だったらば、全然違う形ですっきりと、日本人をつくるような基本法をつくった方がいいですよ。議論した方がいいですよ。そういうことです。
 それで、足りないものがある、だけれども、足りないからここにプラスしましょうというと、徹底的に教育基本法そのものが機能しなくなると思うんですね。例えば、あの中に、日の丸とか君が代の問題、そういうものを入れたとしましょう。そうすると、片一方で、教育というのはあらゆる機会にどうだという、理念、原則あるいは基本原理みたいなことを述べたところで、その隣に極めて具体的あるいは対立点を呼ぶようなそういう項目を入れるべきじゃないと思うんですね。
 したがって、僕は個人的には、基本法は変える必要があるだろうというふうに、これははっきり思っています。改悪反対とかというふうには思っていないです。だけれども、変えるには変え方があるでしょう。そのためには、先ほどの武山先生の質問の中にもあったけれども、今物すごく時代とか社会とかあるいは世界が動いていますよ。一つのフレームで三十年、五十年来たものが、うんと変わっていて、それがどういうふうに決着するかというのは見えないところだと思うんですね。したがって、今、短兵急に結論を出して何か変えると、また変えなきゃいけない。朝令暮改をやる必要があるのかというふうに思っています。
 したがって、今の御質問の趣旨でいえば、僕は、もう少し丁寧に、時間をかけて、そしていいものをつくりたい、こういうことを思います。
春名小委員 どうもありがとうございました。
 五十数年たつわけですね、教育基本法ができて、憲法ができて。やはり私、この理念を今いよいよ本当に実現させる、そういう目標を達成させる努力こそ問われているなというのを非常に感じるんですよ。
 先日、東大の苅谷教授が来られて、保護者の職業など階層別の格差の広がりが学力の格差と重なっているという指摘をされました。私は、非常に重要な指摘だったなと思うんですね。教育の機会均等は、むしろ広がってきている、それが破られてきているという現実をやはり直視して、これは教育基本法の理念を実現するという立場で改善していくということが問われているんじゃないかなと思います。
 そのことを申し上げて、終わりたいと思います。ありがとうございました。
大出小委員長 次に、山内惠子君。
山内(惠)小委員 社民党の山内惠子です。
 きょうは、お二人の参考人には、貴重な御意見をありがとうございました。お二人に一つずつまとめて質問したいと思いますので、お答えをどうか短くお願いしたいと思います。
 鳥居参考人には、戦前と戦後の教育論その他をお聞かせいただきましたが、やはり、なぜ今教育基本法を変えなければならないのか、改正を急ぐのかということがなかなか見えてこなかったのです。それで、遠山大臣が諮問の中で、教育改革国民会議の要請であるということを強調していますけれども、総理の単なる私的諮問機関の報告を、そのまま中教審という公的なルールに、改正ということの流れに引き継いでよかったのかが問われると私は思っています。
 なお、今、水島委員からも言われましたけれども、九四年に我が国も批准した子どもの権利条約というのは、子供観を少なくとも変えたものであるということを考えると、資料としても十分出さなかったようですし、議論も十分ではなかったということが本当に残念でなりません。
 今回の委員の市川委員が、十四回までは放談会であった、十五回からは突然改正が出てきて驚いたというようなことを言われています。私は、この中で、出席率も大変問題だったというふうに思っています。国民に顔向けできないふまじめさではなかったんでしょうか。私は、その意味で、定数に満たなくて、文科省さえもこれは懇談会にしたと言っています。それが中間報告として出されてくるということでいいのかということも含めて私は思っています。
 ところで、鳥居会長の先輩であられる高村象平先生は、中教審のあり方について、時の権力の中でふらふらしてはいけない、こういう旨をおっしゃっているのを読んだことがございます。先生、その意味で、中教審の基本的政策と時の政府の関係、その緊張の度合いをどのように鳥居参考人はお考えになっているのか、初めにお聞きしたいと思います。
鳥居参考人 高村象平先生のおっしゃるとおりでありまして、中央教育審議会のみならず、あらゆる審議会が、いわゆる審議会隠れみの論というもので呼ばれるような、時の権力の中でふらふらするというのは、私の最も嫌いなやり方、存在でございます。したがって、私自身、時の権力のもとでふらふらしたくないということを常に自戒してやっているつもりでございます。
 それから、その前に御質問のありました、後ろからいって恐縮でございますが、中央教育審議会の基本問題部会は今二十六回開いておりますが、そのうちの二回が定数に満たなかった日があったというのは御指摘のとおりでございます。
 やり方を簡単に御説明しますと、出席を確認いたしまして開催日を決めております。したがって、最初から欠席者がいて過半数に満たない、あるいはもう話にならない出席率であるというようなときには開催はしないことになっているんです。ところが、十分な出席が得られることを確認した上で開催をいたしました日に、突然欠席ということが起こりまして、それで事実上定数に満たなかった日が二十六回のうち二回あったと記憶しております。
 これは私も非常に残念なことだと思いまして、その現場で、これは懇談会に切りかえますというふうに私が発言したのが一回、それから、私もこれは非常にうかつでありましたが、定数に満たなかったことを後になって気がついたのが一回、合計二回あったのです。これは、今では心して、そのようなことが絶対にないように運営をしていただいているところでございます。
 それから、その前に御質問のありました、教育改革国民会議の出された報告書の一番最後の一ページに、教育基本法を改正すべきである、それからそのもう一つ前のページに、教育振興基本計画を策定すべきであると書いてあったことは確かですが、私は、そのことによって中央教育審議会がこの仕事を付託されたとは全く思っておりませんし、思いたくありません。
 御指摘のとおり、教育改革国民会議はあくまでも教育改革国民会議でありまして、総理の私的諮問機関、私的懇談会と言ったらよろしいんでしょうか、そういう性格のものでございますので、私たちはむしろ、文部科学大臣から諮問をいただいた段階で、教育基本法のあり方、それから教育振興基本計画のあり方を正式に諮問いただいた、それ以上のものでもそれ以下のものでもないというふうに考えたいと思っております。
 以上でございます。
山内(惠)小委員 時間がありませんので、中身を、いろいろな問題も御質問したいところですけれども、例えば、そのようにして開催されたけれども、特に、中間報告をまとめるという段階で、十五回目は七人であった、十六回目は六人しかいなかったとなったときに、こんなに急いで結論を出さなければならなかったかということを申し上げて、次の、岡村参考人に御質問したいというふうに思います。
 社会全体が学校化されています。そのため、学校が科学技術の制度化として、資本や企業、そして支配階級のためのものにますますなっていくのではないかということを私は危惧しておりますので、その意味で、人権をめぐる論点というのが今回大変勉強になりました。お礼申し上げます。
 私は小学校の教員を長くしましたので、給食費も払えないような子供や、両親の離婚で家庭崩壊状況でほったらかしの子供がいるんですけれども、このような子供たちも、辛うじて友人や教職員の対応などで希望を感じて頑張るというような状況も目にすることができております。
 そういう状況の中で先生にお伺いしたいのは、公教育とは何かということについてです。こういう子供たちにとって、狭い学力に限らず、生きる力の基礎のようなものをつけてやるのが学校ということの役割ではないかというふうに思います。
 そういう状況の中で、昨今、自己選択、自己責任というようなことが言われ続ける中で、階層化された学力、フタコブラクダなどというのも苅谷参考人のときに論議をしたところですけれども、むしろ、こういう状況では、現行の教育基本法はこうした傾向を是正する根拠になるのではないかと私は思っています。理念法である教育基本法というのは、すべての子供たちに人生のスタートを平等にしてやりたいという人間の英知でスタートしているのではないかというふうに思います。
 そういう意味で、現在の教育基本法の役割と公教育の問題をお聞かせいただけたらと思います。
岡村参考人 公教育という、まあ言葉の問題なのですけれども、僕の意見では、公教育というのは法律に基づいて運営あるいは展開される教育、それに尽きると思いますね。その法律が実は教育基本法であり、その根っこにあるのが憲法だ。憲法というのはコンスティチューションという言葉を使いますけれども、教育基本法も実はコンスティチューショナルエデュケーション、教育の根本法というふうによく言われました。したがって、その根本法に基づいてあまねく展開される教育という意味でとらえていいのじゃないでしょうか。それが一つですね。
 それから、済みません、もう一つ質問があったと……。
山内(惠)小委員 現行の教育基本法ということが、あえてフタコブラクダの子供たち、できる子がこんなに、一方で、言葉がふさわしくないんですけれども、理解できないでいる子供たちがどんどんふえているという状況を是正するのにも、現在の教育基本法がどんな役割ができるか。
岡村参考人 とても難しい問題ですけれども、できる、できないというのをどういう形で選別するかだけの問題ですよ、簡単に言えば。つまり、出された問題を百点とって、そして同じ問題で三十点だったらば差がついたというだけの話でしょう。だけれども、三十点、とれなかった子供のどこに原因があるのかということを教師がとらえて、多分、こういう言い方をすると怒られるかもしれないけれども、その子供に即してつき合っていけば、僕は三十点が五十点になると思いますよ。
 つまり、子供に足りなかったのは、能力とか学力じゃなくて、ある意味で言えば、勉強する環境に置かれなかったとか、いろいろな状況があるだろうと思うけれども、ただ、それは苅谷さんがやられたあの調査を見ていても、それは親の経済的な力だとか、あるいは教育環境だとかというさまざまな要因が子供と子供の間に物すごい格差を呼んでいますね。だけれども、それをそのまま子供たちは学校へ持ち込まざるを得ないような状況があるということは一つ。
 そうすると、公共の福祉という概念をやはりその辺で持っていきたい。義務教育は無償だというけれども、どういう形でその無償を担保するかというのは、僕は、結果的には学力とか、あるいは学力という言葉を使うべきでないんですけれども、能力をある意味で子供たちが発揮するような環境を整備するということが実はとても大事な仕事になるんじゃないかというふうに思います。
山内(惠)小委員 もう時間もないので、深くということはなかなかできないのが残念に思います。私も、できる、できないはかぎ括弧つきで考えておりましたので、今の御回答、大変うれしく重く受けとめさせていただきました。
 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、井上喜一君。
井上(喜)小委員 保守新党の井上喜一でございます。
 鳥居参考人、岡村参考人、きょうは本当に御苦労さまでございます。
 教育の大切さというのは、これはだれしも言うことでありますし、また、だれしもこれに関与をする、本人あるいは子供が関与するということで、皆一家言を持っている分野だと思うのであります。しかし私は、この現状を見ますと、やはり法律、憲法を含めた制度の見直しは、朝令暮改は余りよくないと思うんでありますが、節目節目にきちっと行っていかなくてはいけない、そういうものだというふうに思います。これは勇気を持ってやらないといけないと思うんであります。
 制度の問題、そしてその制度の中身を実施していく問題、これは二つあるわけでありますが、きょうは、これは憲法調査会でありますから、器の問題、制度の問題を主として議論するところだと思います。
 そこで、憲法でありますけれども、憲法二十六条というのは、私は割かしよくできた条文だと思います、憲法全体の中でも。それで、それについて、つけ加えるようなこと、あるいはそれを変えるようなことについてお聞きしようと思ったんでありますが、同僚の太田議員がもう既にお聞きいたしましたので、それでもって両参考人のお考えは、まだわかっていないんだけれども、わかったことにいたしまして、次に、教育基本法のことに移っていきたいと思うんですよね。
 私は、制度というのは、制度を墨守する余りに、要するに現実の問題がどんどん大きくなっていって、制度は残るけれども、結局、退廃とか破壊とかそういうようなものが残るような、そういう国だとか社会はやはりよくないと思うんですよね。だから、そういう視点から、この教育基本法なんかも見直していったらどうなんだろうかというふうに思うんです。
 そこで、鳥居参考人は今、六つぐらいですか、信頼の置ける学校教育を確立していくんだということとか、それから高等教育の基本の理念のようなものを書くとか、あるいは家庭のあり方、家庭教育のありよう、それから伝統、文化の尊重とか、あるいは生涯学習、あるいは振興計画みたいなのをずっと羅列されて言われたんでありますが、これは教育審議会の方で議論されていることだと思うんですが、このほかに、鳥居参考人個人といたしまして、もう少しやはりこういうことは検討していった方がいい、あるいはこういう中身を教育基本法の中に入れておった方がいいというようなことがあったら、お考えをいただきたいのです。
 私も、この教育基本法を読んでみますと、いいことがたくさん書いてあるんですよね。ただ、やはり当時の占領行政を色濃く反映いたしまして、よくよく読めば当時の状況がよくわかるということでありまして、今から考えますと、やはりそれにプラスするところもあるんじゃないかと思うんですが、そういう意味でお聞きをいたしたいと思うんです。
 同様に、岡村参考人、すぐの教育基本法の改正は反対のようでありますけれども、しかし、今の基本法をもって、これは金科玉条、よしとしないんだ、こういうお話であったように思うんでありますが、とすれば、どういう点が足りないのか、どういう点をどう変えたらいいのか、お聞きをいたしたいと思います。
鳥居参考人 ありがとうございました。
 私がさっき申し上げましたのは、先生方のお手元にありますこういう資料の、これは変な見開きになって恐縮でありますが、二ページ、これを拾い読みする形でお話を申し上げました。それで、これ以外にあるかというのが井上先生のお尋ねでございます。
 今度は、先生方の机の上にこういう中間報告そのものがございます。この中間報告の中に何カ所か、ぜひやはり入れるべきであると考える事柄が書いてございます。そのうち三つほど申し上げたいと思います。
 現在の教育基本法では、教育を受ける青少年あるいは生涯にわたって学習をする国民一般が教育を受ける権利を持っているということが書いてあります。それからまた、親がその保護する子女に教育を与える義務があるということが憲法二十六条第二項に書いてあります。
 ところが、憲法にもそれから教育基本法にも書いていないことがあるんですよ。外国の教育基本法には書いてあるんです。それは何かというと、まじめに学校へ行きなさいということなんですよ。それは、この中間報告の二十六ページの真ん中辺に、「なお、」という丸がありますが、それがそうなんです。「子ども一人一人の人格が尊重されなければならないことは当然であるが、そのことを前提とした上で、子どもが教育を受ける際に、恣意に任せて規律を乱す等の言動は容認されるものではなく、教員その他の指導に従って、規律を守り、真摯に学習に取り組む責務があることを規定すべきとの意見があり、引き続き検討」となっています。
 このことは、今まだ私たち検討しているんです。でも、私の個人的な考えを述べよとおっしゃられましたのであえて申し上げますが、私はこういうことが大事だと思っています。
 それから、その上に書いてありますのは教員のことなんですけれども、教員が果たすべき責務についてもきちっと書くべきであるという考えに基づいて議論が行われていますが、私の個人的な考え方は、きちっと書くべきだというふうに考えております。
 そのほかまだ幾つかありますが、時間の関係上……。そういうことを幾つか考えております。
岡村参考人 先ほど言いましたように、ゆっくり時間をかけて議論をしろ、そういう物の言い方は改正しちゃいけない、僕はそういうふうに思っていないです。だから、本当に集中審議していいものができたらば一年でも構わぬと思う。それぐらいに重みのある、そういう課題だろうという意味ですよね。だけれども、実際に、現実に今出てきているこの中間のレポートを見ていると、なかなかそういうふうにはなっていないと率直に思いました。
 では、変えるのならばどういうポイントかというと、まず一点目は、僕先ほど言いましたように、消極的な権利行使の規定に当たる受ける権利というもの、あれはやはりもう少し、教育をつくるとか、あるいは選ぶとか営むとか、そういう趣旨のものに変えたい。それは中教審の議論の中でもありましたけれども、「教育を受ける機会」、そういう表現だ、基本法の第三条は。だから、これを同じように、受ける権利というふうに直した方がいいという議論があったようですけれども、僕は、もっと一歩進んで、積極的に自分の権利として行使するという形で変えた方がいいだろう。それが一つですね。
 それからもう一つ、これは大きな問題ですけれども、例えば基本法の前文に当たる部分に新しい日本をつくると書いてあります。文字どおり、その段階では新しい日本をつくらなきゃいけなかった。だけれども、現実に今、我々、五十五年たって、新しい日本という表現がいいかどうかということでいえば、やはり根本的に基本法の位置づけを変える必要があるだろう。
 それからもう一つは、これはとても大事なことだけれども、国家とかあるいは国民、そういうレベルで教育あるいは教育の根幹をとらえている、そういう性格のものでしたね。したがって、現実に国家の枠を超えたり、あるいは国民であること以上に市民であったり、そういうレベルで我々一人一人がパフォーマンスができる時代。
 それからもう一つは、国際的、そういう意味でいえば、これはもう一度位置づけをし直す必要があるだろうというふうに思っております。
井上(喜)小委員 ありがとうございました。
 それと、この「能力に応じて」ということですね。
 私は、教育というのは、鳥居参考人のこの四つの項目で説明をされておりますが、とりわけ教育というのはやはり人間形成ですね。やはり、みんなと一緒にやっていく、そういう場合の規律だとか、そういうのを含めた人間形成というのが私は非常に大事だと思うし、四番目の自分で生きていく力、こういうのを会得させるということも非常に大事だと思うのであります。
 学科の勉強は、これは、嫌なのは本当に嫌なんですよね。わからないとなおさら嫌なんですよ。ですから、私が最初申し上げました、教育の基本のところは教えても、そんな嫌いな学科なんか教える必要ないじゃないかと。その人その人には得手がありますから、おれは体育の方がいいんだ、あるいは、おれは工作の方がいいんだとかとありますから、それは教えればいいんですよ。なぜ強制して嫌なのを教えなくちゃいけないのか。私は、そんなものは教えなくていいじゃないかというふうに思うんですが、この考えはおかしいですか、どうですか。御両人にお伺いしたいと思うんです。
鳥居参考人 私自身、小学校から大学院までを含む学校の経営をやってまいりました。その中で私自身が感じた疑問は、全く先生の疑問と同じです。やはり、人はそれぞれに能力の違いがあるだけではなくて、向き不向きの違いがあり、それから、私のこのレジュメの一ページの一番下に書いておきましたけれども、人生の目標の違いがありなんですよ。
 一方、学校が理解し切れないで五十五年走ってきたのは何かといえば、人生が多様であるということを学校が認めようとしないことなんですよ。やはり、人生が多様であるということを認めることになれば、必ず先生のおっしゃるように向き不向きということを踏まえた教育、それができるようになると信じています。そうすべきだと思います。
岡村参考人 僕も実は学校というのは苦手でして、だから、その恨みで教師をやっているのかもしれませんけれども。一つは、やはりひとしく人並みの基礎、基本、学力というものをはかりたいんですね。そうでないと、教育の成果が上がったということをやはり教師はなかなか実感できないんだろうと思うんです。テストですよね。
 僕は今、ちょうど学年末で、学生のレポートを朝から晩まで随分読んでいるんですけれども、百点満点じゃないんですよ。とてもいいレポートだと二百点つくかもしれない。上限はもうないんですね。
 したがって、七科目なら七科目、同じようにやらなきゃいけないという、そういう枠そのものを取り払うということは長い間の課題だったけれども、現実に総合学習というのも始まりました、小学校から。これは非常におもしろい試みです。実際に、戦後すぐに社会科、ソーシャルスタディーズというのができましたけれども、あの段階ではこれをやろうとしたんですね、総合学習。だから、この総合学習は、本当に人とそれから予算をつけて、いい環境で先生たちに展開してもらいたい、そういうことが一つあります。
 もう一つは、中学校は中学校で閉じられている、小学校は小学校で閉じられ、高校は高校で閉じられるという時代はもう終わったと思うんですね。今、小中一貫ということもありますけれども、地域同じにしているところでは、中学生が小学校へ行き、あるいは高校生が中学校で一緒に何かをするということが現実に行われている。そういう意味でいえば、フリースクール、公教育のフリースクールという意味では非常に歓迎すべきだろう。
 それからもう一点、教える側の問題がやはりありますね。僕は大学で、教師教育というんですか、教員養成にもう三十年かかわってきて、やはり非常に難しくなりました。つまり、教えるということの専門家になろうとする教師は、そうするとたくさん自分もインプットを持っていなきゃいけないという発想になっちゃうんですけれども、子供たちと一緒に何かをつくるというような、そういうレベルで教育あるいは教師の仕事をとらえていけば、僕は、教師自身が興味を持っていろいろな勉強をする。そういう一つのあり方として、小学校でもゼミがあったり、あるいは学際的と言われるようなそういう科目が出てきたという意味では、教育基本法の改正を待たずにおもしろい状況が出てきているなというふうに思っています。
井上(喜)小委員 ありがとうございました。終わります。
大出小委員長 次に、野田聖子君。
野田(聖)小委員 野田聖子でございます。鳥居参考人、岡村参考人、ありがとうございました。
 国会議員をやっていると、社会の中で起きるさまざまな事件、問題について答えを出すために、法律をつくる場合があります。最近では、例えば児童虐待に関する法律であったり、ドメスティック・バイオレンスである法律であったり、そういうものができてきているわけですが、必ず議論されることは、そこに至るまでの教育に問題があったんじゃないかというのは、必ずどなたもおっしゃることです。
 最近、恐らくこの国会で取り上げられると思われる法律の一つに、少女の間で行われている出会い系サイトを通じての売春、売買春を抑えるための、その出会い系サイトへの書き込みに対する禁止の法律案というのが今検討されています。
 これはもう両参考人とも御承知と思いますけれども、専ら携帯電話を利用しています。その中には掲示板がありまして、いわゆる出会い系サイトというサイトがあり、そこに行きますといろいろな伝言を見ることができるわけです。本来は、昔のペンパルじゃないですけれども、文通仲間みたいなものをつくる予定だったと思うんですが、それを超えて、最近では専ら少女売春の温床となっています。
 私も幾つかその文面を拝見したんですけれども、中学一年生の十二歳、十三歳の女子が、一万円でさわらせます、二万円でキスまでさせます、三万円で最後までいいです、そういうことを平気で、それも何千、何万と書いてあるわけですね。まさにこれはどういうことになってしまったのか。
 警察がそういう子供たちを法律によって取り締まる以前にやるべきことはこの国にあったんじゃないか。簡単に言ってしまえば、携帯電話の通話料を払っている親の責務とか、そういう子供たちが通っている学校の先生は、当然、携帯電話を子供たちが持っていることは知っているわけですから、その利用に対するモラルとか見識とか、そういうことを教えるべきではなかったのかと思います。残念ながら、現実には、親子の間で、そういうことに使ってはいけないよとか、または学校現場において、そういうことをしてはならないというようなことを全面的にやっているという話は聞いたことがありません。
 そういった意味で、教育の荒廃、破綻、失敗というのは、単に少女が先進国である日本で売春をするということではなく、そこには、児童の人権が侵害され、またはさまざまな感染症病になって生涯苦しむような、それをやはり未然に防ぐような社会をつくるために教育というのはあったんじゃないかなと思うわけです。
 そういう中で、私自身がいろいろとこの資料を検索させていただいて、一つ教育を受ける権利ということについて、そこに失敗があったのかなかったのかについて両参考人の御意見を聞きたいと思っています。
 日本国憲法第二十六条二項、これはもうお二人からお話をいただきましたけれども、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」この児童、子供たちが持っている教育を受ける権利というのは、保護者とか、親とか教師とかその他なんでしょうけれども、が義務によって実現しなければならないものだと規定されているんじゃないかと思います。この保護する側の義務が行われないことによって、子供の教育を受ける権利が行使されない、すなわち実現されない、そういう結果につながっているのではないか。
 具体的な例を申し上げると、例えば、障害を持つ児童が普通の学校へ就学したいと願っても、学校や教育委員会は養護学校等の特別な学校への入学を提案します。そして、現実にそうなることが多いはずなんです。
 ある方からメールをいただきました。障害を持っている子供が普通学校に入りたいと言ったところ、どうも教育の現場の担当者は義務教育ということを間違えて理解しているんじゃないかという節があると。その中に、根本的に、義務教育という名称になっているので、実際は、学校や教育委員会側が、就学したい障害児に対して義務教育免除という反対の措置をするわけです。つまり、本人はそこで学びたいと思っていて、別に免除してほしいとは思っていないにもかかわらず、そういう言い方をしてしまう。
 本来、免除ではなく、就学意思のある人にとっての権利を受け入れる機関が教育委員会と学校であるはずなんです。権利の遂行者に対してあらゆる権利行使の場を提供するのが教育の本来のあり方である、この方はそういうふうにおっしゃっているわけですが、そういう中で、参考人のお二人にお尋ねしたいのは、こういうことがいわゆる二項の規定する義務を果たされているのかどうかということです。
鳥居参考人 非常に難しい御質問だと思いますが、最後の部分だけについてまずお答えを申し上げれば、私は、障害のあるお子さんたちがそのような扱いを受けるに至るのは、私たちの社会全体、それからまた末端の窓口になる役所や学校が、そういう人たちのことを考える心をまず失っていること、心が足りなくなっていること。それから、実質上、教育者としての能力を失っています。それから三番目には、財政的な背景を失っている。この三つだと思います。これは非常に深刻な問題です。
 私自身、ある施設のお子さんたちとつき合い出してもう二十年になりますが、昔何ちゃんと呼んでいた精神障害の子供たちが、もう四十幾つで、まだ何ちゃんなんですよ。あと二十年たって私が八十何歳になるころに、一体だれがあの人たちを何ちゃんと呼び続けて、多分彼らは六十何歳になるんですけれども、見てくれるんだろうか。それで、その子たちの施設はたらい回しを食っているんですよね。行き先がなくなって、ついにある学校からはみ出しているわけです。
 全く同感なんです。この三つですね。私たちが心を失い、教育能力を失い、それから財政的な背景を失った。この問題に取り組むべきだと思います。
 前半について申し上げたいことがありますが、先生の御質問が、大分時間がありましたから……(野田(聖)小委員「大丈夫ですよ、どうぞ」と呼ぶ)
 私、世の中が変わったことを認識すべきだと思います。要するに、繁栄のきわみの時代に生まれ育った人たちが、今、親の世代です。彼らは苦しい時代を知らないで大人になりました。彼らに教えるべきことを、教わっていない。何を教わっていないかといえば、自分の父や祖父や祖母の時代がどういう努力をしてきたかを教わっていない。それから、困難な時代を知らないままに大人になっていますから、困難な時代、どうやってこれから危機を乗り切っていくのかということを教えなきゃいけない。それには、創意工夫の上に初めてサクセスストーリーがあるんだということ、努力の上にサクセスストーリーがあるということを私たちは家庭と学校で教えなきゃいけない。
 この繁栄のきわみの中で、文化の変容がもう一つ起こっていまして、そして、異常行為を個性の主張だと言いかえる癖がついについてしまった。ですから、先ほどのように、何か指摘を、例えば出会い系サイトの売春がいけないと言っても、私はそうは思わないと言われた瞬間に大人は返事のしようがなくなっているというのが現実だと思います。ここを突破するしかないと思っています。
岡村参考人 出会い系については全く知りません。けさの新聞でもその問題についての法案のことが出ていました。有害な図書だとかあるいは映画等々でもこういう議論があったかと思うんですけれども、時代というか、あるいは事態はもっと深刻だというふうに思いますね。それには、またやはりいろいろな理由というか、あるいは原因があるんだろうと思います。
 ただ、教育を受ける権利との関係でいえば、今問題になっている子供たちの親の時代、例えば、何歳というふうには言えませんけれども、三十なら三十とか、そういう時代状況を見てみると、教育を受ける権利というものを少し謳歌し過ぎたところがあるだろうと思うんですよね。先ほど意見の中で言いましたけれども、受けるというか、あるいはもらうということに当たり前になっちゃって、だから、教育のありがたみがなくなってしまったということだろうと思うんですね。
 随分昔の話ですけれども、具体的にそういう話を僕は聞いたんですが、あるお医者さんのお子さんがいて、私のお父さんはとても自分をかわいがってくれる、言ったことは何でもやってくれる、そういうお父さんは死ぬほど嫌いだ、そういう文章を書きましたね。僕は、学校の先生もそういう状況にあると思います、とにかく嫌だというのに教えるわけですからね。だから、そういう意味でいえば、自分でやってごらんという部分をもっともっとふやさなければ、子供たちはもうぜいたくたらたら、そういう弱さを子供たちは持っているし、そういう教育を許してきたということについては我々は責任をとらなきゃいけないなというふうに思っています。
 それから、近年でいえば、インクルージョンというんですかね、統合ですか、あるいは、言葉はともかくとして、僕は年に数回養護学校へ行きます。養護学校で授業はさせてもらえませんけれども、卒業生がいて、しょっちゅう子供と一緒に遊んでいますね。そうすると、何か教育の原点というのはここにあるんじゃないかと。つまり、子供たち自身が、先生の目を気にして何かするんじゃなくて、自分が発信しなければ教師にわからないという形で、やはり一人称で何か語ろうとしている、全部ではないですけれども。
 それから、もう一つこの問題で大事なのは、健常と障害、こういうデュアリズムというんですかね、二元論ですかね、あるいは、健康と病気でもいいし、できるできないでもいい。僕は、その中間には無数の境目があっていいと思うんです。だから、健康かもしくは病気、あるいは健常か障害か、そういう分け方そのものが実は大変困難な問題を生み出しているというふうに思っています。したがって、統合化はどんどん進める必要があるだろうと思います。
野田(聖)小委員 大変参考になりました。ありがとうございました。
大出小委員長 次に、今野東君。
今野小委員 鳥居先生、岡村先生には、長時間、ありがとうございます。大変興味深いお話を伺いました。
 私は、鳥居先生が会長として、また部会長としておまとめになったこの中央教育審議会の中間報告を読ませていただきまして、これに基づいて幾つかの質問をさせていただきたいと思います。出席率が余り芳しくない中でまとめられたということで、国会でもしばしばこういうことがありまして、これこそ社会病理ではないかと私は思います。
 この中間報告の中で、「青少年の凶悪犯罪の増加や学力の問題が懸念されている。」というふうに触れていらっしゃるところがあります。しかし、これは我が国だけの問題ではなくて、多くの先進諸国が共通に抱えている問題であります。
 しかし、この日本の少年犯罪というのを考えますと、少年刑法犯の発生率は、一九九六年の時点ですが、ドイツは日本のおよそ五倍、イギリスはおよそ三倍、アメリカとフランスはおよそ二倍。また、少年による殺人になりますと、アメリカは日本のおよそ十四倍、ドイツは六倍、イギリスとフランスはおよそ五倍というふうになっておりまして、少年の犯罪率というのは、むしろ発生状況は非常に低い。
 これはさまざまな国から注目されておりまして、なぜ、日本の少年犯罪率は低いのか、低い水準にとどまっているのか、そのこともまた私たちは考えなければならないのではないかと思いますが、この点について両先生はどのようにお考えでしょうか。大変恐縮ですが、短くお答えいただければありがたいです。
鳥居参考人 まず、昨年の警察白書が言っておりますように、昨年の警察白書の段階で急にふえているという事実があります。しかし、それでも、今野先生がおっしゃるように、外国に比べればまだ低いことは確かです。しかし、事態としてはかなり深刻な事態になりつつあるということをまず申し上げたいと思います。
 それから二番目に、なぜ日本の方が低いのかなんですけれども、私は二つの理由が、たくさんありますけれども、二つだけ申し上げたいと思います。
 一つは、日本が、住民が比較的日本人で構成されている、単一民族の国だ。要するに、ほかの人種の人たちが非常に少ないということが残念ながらあると思います。これが、今度の警察白書をごらんいただければわかりますように、犯罪の中に占める他の国の人の割合がふえているということと関係があるというふうに考えるべきだと思います。
 それからもう一つ、もっと大きな問題は、日本というのは今挙げられた国に比べればやはり所得格差が比較的平準な国だということだと思います。所得格差が、極端に大きく格差が広がっていきますと少年犯罪というのはふえる、そういう傾向があると思います。
岡村参考人 これは昨年の暮れだったと思いますけれども、アメリカのある州の知事が死刑囚の減刑をやりましたね。そのときに僕は調べたんですけれども、カナダが、一九七六年だったと思いますけれども、死刑を廃止しました。その前とその後で殺人事件がどれだけ減ったかふえたかということでやっていくと、確実に減っているんですね。
 だから、少年法改正でも僕は随分文句を言ったんだけれども、凶悪犯罪は確かにあります。新聞を見ていると、とにかく、三面じゃなくて、四面も五面もというぐらいに凶悪犯罪、それからまた、一つの事件を物すごく徹底的に報道するという、だから、ふだんならばそれほどでもないのだけれども、全国一律に報道されることによって百倍も二百倍もの大きさになってしまう、そういう一種のイリュージョンがあるだろうというふうに思っています。
 したがって、少年犯罪がふえるかふえないかということについて、もちろん減ることはとてもいいことだけれども、その減らし方の問題ですよね。罰則規定を強くすれば減るかというと、むしろ僕は逆のような気もするんです。したがって、犯罪のもとから断たなきゃいけないという言葉があったかどうか知りませんけれども、それはみんなで考えなきゃしようがないと思いますね。
今野小委員 それでは、次の質問は鳥居先生にお尋ねしたいと思いますが、この中間報告で最も目を引くのは、「見直しの視点」の中で「「公共」に関する国民共通の規範の再構築」というところがあります。また、基本理念に加えるべきものとして、「日本人としてのアイデンティティと、国際性」というところがあります。
 私は、これをセットとして中間報告は公共の意識や涵養をうたっているのだろうというふうに認識をしたんです。しかし、公共に関する意識や態度の涵養は、家族の愛情にはぐくまれ、また地域を思う人たちとのコミュニケーションによって形成されるもので、教育行政や学校が教育の根拠として明文化するものではないのではないかというふうに私は思います。まして、個人のアイデンティティーに踏み込んだとき、それは自我形成の精神的な自由をむしろ歪曲することになってしまうのではないでしょうか。お尋ねいたします。
鳥居参考人 公共という言葉は、この中間報告の十三ページに解説をしてございまして、そこをお読み取りいただければわかっていただけるのではないかと思いますけれども、簡単に申しますと、いわゆる官の世界、それから民の世界という分け方とは違う公共という空間を我々は想定しているということをぜひ理解していただきたいと思います。これは、この中教審の中間報告だけではなくて、司法制度改革審議会の中間報告と最終報告の中にも述べられている、公、公共空間という言葉と全く同じに理解していただきたいと思っています。
 それから、もう一つのアイデンティティーのことでございますが、それについては、確かにまだここに書いてある書き方だけでは十分な理解をいただけないかもしれませんので、さらに最終報告に向けて言葉は練っていくつもりですが、あえて今ここで私流の表現をさせていただきますれば、家庭において伝承してきた事柄、コミュニティーにおいて習慣として根づいてきた事柄、そして社会が大切にしてきた伝統、学校においては自分の学校の伝統、そして習慣、そういうものがありますね。歴史もそうです。それから、国の歴史もそうですね。そういったものに対する深い理解を持ち、その深い理解から、自分の所属する家庭や社会や国に対する誇りを感ずることができる、それがここで言うアイデンティティーだと思うんです。
 実は今、御指摘のとおり、アイデンティティーという言葉自体、もう片仮名はやめられないかという審議をおとといしたばかりであります。もしアイデンティティーという言葉をやめるとしたら何かと問われたとき、今私は、若干漠然としていて恐縮ですが、今申し上げたような言葉で表現は置きかえるべきだと思っています。ただ、それが法律の条文にはとてもなりませんので、法律の条文にするというふうにすぐ短絡的には考えないでいただきたいと思います。
今野小委員 時間がありませんので、その御意見についてもお話をしたいところではありますけれども、もう一つだけ質問させていただきます。
 見直しの主な視点のところに「国民から信頼される学校教育の確立」を挙げ、また、そこに「一人一人の個性に応じてその能力を最大限に伸ばす視点」というふうにあります。
 「一人一人の個性に応じてその能力を最大限に伸ばす」ということは言うまでもなく大変重要なことでありますが、それがこのように取り組まれていないとするのならば、それはむしろ文部省に、今の文部科学省にこそ問題があるのではないでしょうか。文部科学省の結果の平等を重視する傾向がむしろ画一的な教育につながっているのであって、だから教育基本法を変えた方がいいというのは本末転倒なのではないかと思います。
 個性に応じて能力を伸ばすという点から、中高の一貫教育などは現行法上で既に意欲的に行われております。わざわざこれを盛り込まなければならないとするのならば、子供たちは不公正から救われないのではないでしょうか。理由があるとすれば教えてください。
鳥居参考人 一人一人の個性に応じて、その子供たちが、ぜひこの道に進みたい、この分野について学びたい、そう思ったときに、それを実現してあげることが学校の責務ですということをどこかに定めておくべきだと私は思います。そのことが、学校教育法及びできれば教育基本法の中に盛り込まれていることが、学校がそういうことをちゃんとやろうという気持ちになる一番大きな根拠になると考えています。
 もちろん、おっしゃるとおり、文部科学省が中心になってそれをやる責任があるということは私も全く同感ですけれども、責任があるといって彼らに、彼らにというのは官僚の諸君に迫るだけでは、迫ったことにならない。法律に定めてあるでしょう、学習をしたい、自分の個性に応じた道に進みたいというとき、それを満たしてあげることが学校の責務ですということがどこかに書いてある必要があるのではないでしょうか。
今野小委員 明文化してしまうことの危険ということも同時に考えなければならないと思います。
 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、長勢甚遠君。
長勢小委員 私は、教育の問題を真剣にというか、一生懸命勉強したことがありませんので、素朴な疑問というか質問をさせていただきたいと思います。
 両先生から大変見識あるお話を聞きまして、ああ、そういうふうに考えるものかというふうに感服をいたしましたが、同時に、今現在、社会一般で教育の問題が盛んに言われておるわけでありますけれども、それのレベルに比べるといかにも何か現実離れをしておって、そんなに難しく考えなきゃいけないのかなというのが率直な感想でございます。
 今、教育をどうかしてもらいたいとか、教育を何かしないとどうしようもないなという話がいろいろな場面で出ております。
 例えば、私は雇用問題が一つの専門ですけれども、今、少子化が進む、そういう中でもっと深刻なのは、日本人がかつては勤勉で最も有能と言われておりましたけれども、今や、世界で一番かどうかは別にして、勤勉性がなく能力もない民族ということに評価が定まりつつある。このことは、例えば中国とか韓国へ行かれた方々は一様におっしゃることでございます。
 また、学校が崩壊をする、社会、家庭が崩壊をする、モラルが低下をする、親子関係も人間関係もおかしくなって大きな事件が起こる、少年犯罪が多発をする、こういうことが起きておるわけでありまして、こういうことからいわゆる教育の荒廃というものを見直さなきゃならぬということが言われておって、こういうことからも教育基本法の問題も起きておるというふうに見られるわけであります。
 ところが一方では、先ほど来からも出ておるようでありますが、ちょっと私は専門用語はよくわからないんですけれども、個性を伸ばす教育だとか、あるいは自由なゆとりある教育だとか、総合教育だとかというようなことに関連をして、教育を受ける権利を拡大していかなきゃならぬといったような議論も盛んに行われております。
 この二つがどうもつながらないというところに私は大変不幸なことがあるような気がしてなりません。いわゆる教育を受ける権利という議論の方向について、最初に申し上げましたような、社会一般が教育をどうかしなきゃならないんじゃないかという方向についての答えどころか、そういう問題を促進することになるのではないかという危惧を持つ国民もたくさんおられるわけで、このつながりがつけば、国民全体がわかりやすいというか、一つの方向ある結論が出せるのではないかと思っております。
 こういうモラルの低下とか、こういう問題は何も教育だけが原因であるわけではないわけでありまして、これはもともとといいますか、根源的には敗戦後の憲法のもとで社会思潮が大きく変わってきたことの成果でありますから、教育だけという問題ではございませんけれども、教育の問題について、こういうことを踏まえないままの議論になっておるということ、これこそが大変ゆゆしき問題だと私は思っております。
 先生方からはぜひ、大変高邁なお話を聞かせていただいたわけでございますが、そのことが、勤勉な日本人であるとか有能な日本人であるとか、あるいはモラルの高い日本人であるとかいうこととどういう関係になって我々は理解をし、方向づけをしていけばいいのか、そのことと憲法とがどういうことになるのかということについて、もう一度お教えをいただければ大変ありがたいと思いますので、よろしくお願いします。
鳥居参考人 大変難しい御質問をいただきまして、お答えが非常に難しいのですが、私、今問題になっている憲法の第三章、つまり第十三条から十四条、二十条あたりに書いてある国民の権利及び義務、二十三条の学問の自由を保障するという条項、二十六条の、国民は能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有するという条項、それから第二項の、保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負うという条項等々、これを直したからといって、今長勢先生がおっしゃった問題がすぐ解決するとは思いません。それから同様に、教育基本法を直しただけでおっしゃるような問題が解決するとは思わないんですね。
 ただ、これらの、特に教育基本法でありますが、教育基本法の改正をめぐる議論の中で、中間報告を見ていただきますとわかりますように、とても法律の一条、二条に書き込むことができないような事柄をたくさん審議をして議論しています。それを国民の皆さんにも議論していただいて、その中から国民が気づかなければいけないことをお互いに気づいていく、問題を発見していくということも重要なんじゃないか、それが一番大きな取っかかりになるんではないかというふうに思います。
 先ほど、野田先生からの御質問にもそういうつもりでお答えしたのでありますけれども、何とかして教育の中に、私たちが今こうしていられるのは、実は、自分たちの父や祖父や祖母の時代にこういう苦労があって今日がある、あるいは国際問題を考えるのであれば、アメリカの対日占領政策がどうであって、あるいは日本の対韓政策がどうであってということがよくよくわかって、そしてその上で今を論ずることができ、今を感ずることができる若者を育てる教育といいますか、そういうものが必要なんではないかというふうに思います。
 最近の日本の国際情勢などを見ていますと、昭和十六年十二月八日に戦争が開戦となって、わずか三、四カ月後にはもう、アメリカ国務省の中に対日占領政策策定委員会ができている。そして、その中で四つの大事なことが決められている。一つは、日本が占領下に置かれたとき、天皇制は維持すべきである、その方が日本人の精神的安定が維持できるということが書いてあります。それから第二には、軍政をしくよりも、むしろ日本の場合には日本の政府を使おう。三番目には、軍票を使うかわりにむしろ日銀券を使おう。そしてこれは四番目ですが、万が一ソ連が参戦した場合には世界の各地で分割統治が起こり得るんだけれども、日本だけはあらゆる手段を講じて日本の分割統治を避けようということが書いてあります。
 この四つの条項があって、それがほぼ実現したおかげで日本の復興と発展は早かったと私は理解しているんです。例えばそういうことは、教科書にはどこにも書かないで我々は五十五年走ってきているんですね。やはりそういうこと一つを例にとっても、国際問題を考える素地が余りにもなさ過ぎる。対韓問題にしても北朝鮮の拉致問題にしても、明治の初年からの日本と韓半島とのかかわりについてもう少し詳しく教えておかないと、なぜ韓国の人たちがあんなに怒るのか、その理由、わけがわからないままに、何年も何年もかかっても理解が得られないで、近くて遠い国のままでいくということが起こるんですね。
 こういったことは憲法を改正してもどうにもならないし、教育基本法を改正してもどうにもならないんですが、やはり教育の現場の改革の中でそれはやっていくしかないと思っているんです。
岡村参考人 今、大変大きな問題、事件、そういうものが毎日のように起こっている。これは僕の持論ですけれども、学校教育だけで何かできるということはまずないのと、それからもう一つは、よく言われるように、学校というのは社会の一つのミニチュアというか、あるいはある人に言わせると鏡である。
 例えば、このところニュースになっていますけれども、名古屋刑務所で何か大変な事件があった。ああいうのを子供たちがテレビで見、あるいは新聞で見て、そして何を感じるだろう。僕はやはり、子供たちがいろいろな問題を起こすのは、決して子供たちそのものに問題があるんじゃなくて、理由があるんじゃなくて、我々に問題がある。そうすると、例えば、我々が本当に人権というものを、あるいは権利というものを義務と同時に果たしてきたか、やはりそこへ返っていきますね。
 したがって、決してこれは理論とかあるいは理屈ではなくて、毎日毎日やはり勝負だと思うんですよ。もちろん、中教審で議論されていること、あるいはここで議論されていること、これは大変貴重な財産になると僕は思うし、また、そういう成果を新しい形で日々の生活の中に生かしていく必要があるだろう。したがって、まず一人一人がというと言葉が弱いかもしれないけれども、子供たちが全くもって裸で社会に放り出されている状況のその社会のひどさというのは、これは少し、我々は裸にならなきゃだめなんじゃないかなというふうに思うんですね。つまり、背中を見せるのか、あるいは姿を見せるのか、汗を見せるのかわかりませんけれども、大人というのかな、あるいは青年そのものが希望を持って生きる、そういう社会をつくっていかなきゃ子供たちは勇気をくじかれるだけだ。これは決して精神論じゃないと思います。
 したがって、学校をつくっているのは社会であり、社会をつくっていくのは我々であり子供たちである、そういう大きな枠の中でというか視点の中で改正問題をぜひ続けていただきたいというふうに思います。
 以上です。
長勢小委員 どうもありがとうございました。
大出小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 両参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、大変ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)
    ―――――――――――――
大出小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行いたいと存じます。
 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたしたいと存じます。
 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをこのようにお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
 小委員の発言時間の経過についてのお知らせでございますが、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたしたいと存じます。
 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。
平林小委員 きょう、初めてこの教育基本法を中心としたお話を聞かせていただきました。非常に参考になったと思います。
 倉田委員が、教育基本法と憲法との成立の前後の関係について、あるいは教育勅語との関係についておっしゃったことは、私は、過去のことでありますけれども、お互いに頭にとめて、これからの教育制度の改革に意識をしておかなければいかぬ問題だなと思って伺いました。当時の、占領中のことでありますから、今からあれこれ言い立ててもせんないことでありますけれども、成立の経過というものは、やはりお互いに頭にとどめながらこれから議論をすべきものだというのが私の意見でございます。
 それから、この中教審の中間報告でありますが、いささか部分的なことでありますが、私の意見を若干申し述べたいと思います。
 一つは、「学校、家庭、地域社会の役割等」の中で、二十六ページに記載をされておりますが、教員等の教育研修のことであります。
 やはり、教員が使命感や責務を持っておる、それを明確に規定するとともに、「研究と修養等により資質向上を図ることの重要性について規定することが適当と考える。」という文言が記されております。このことは、教育の現場を見ておりますと痛感されることでございます。
 いろいろと昔とは違いまして、教育研修を充実させておりますけれども、どうも指導者になれるような人がなかなか出てこないなという感じがいたします。昔は、だれそれという有名な教育家、あるいは教育行政家というのが全国の各地におられました。今はそういう方の名前を余り聞かなくなりましたね。失礼な話ですけれども、中央において教育、行政その他のことをつかさどっておられる方でも、この方の御意見ならということで尊敬されて尊重されるというような方々が余り大勢いらっしゃらない。
 これは日本の教育のいわば弱点だなという気がしてなりませんので、この点について、憲法との関連というよりも、もっと大事な教育のことについて議論を深めていただければありがたいなと思っております。どうしたら地方教育の中でリーダーのような方ができ上がっていくんだろうかということであります。
 それから、道徳教育のことにつきましては、三十七ページに道徳教育の充実を検討項目ということで挙げられております。
 私は、自分の経験だけで申すのはいささか不用意かと思いますけれども、修身の教科書を、どんなことを習ったか覚えている人は余りいないんじゃないかと思うんです。もちろん、修身の科目がなくなった後のことはもう全然話にはなりませんが。このことはやはり相当意識しながら、先生自身の倫理観というのを、各科目を担当する、あるいは学年を担当される先生方自身がしっかりした倫理観を持っていなければいかぬのではないか、そういう気がいたしております。
 それで、修身の先生なんというのは、これは恐らくいらっしゃらないので、得ることも難しいと思います。むしろ他の教科、例えば古典教育とか外国語教育とか、そういうようなところで教師自身、先生自身の倫理観が教え込まれる、それをもとにして、成人していくにつれて向上が図られていくというようなことがむしろ望ましいのではないかという気がいたしますので、一言申し添えます。
 以上でございます。
春名小委員 二点、発言させていただきたいと思います。
 今もお話が出ました教育基本法と教育勅語の関係についてでございますが、そもそも、日本国憲法がその前文で、日本国憲法に反する憲法、法令及び詔勅を排除すると前文で明記しているんですね。つまり、日本国憲法が制定された段階で、詔勅である教育勅語はなくなっているということがもう明確なわけですね。そういうふうに見るべきであります。
 それでもなお、戦後、教育勅語が学校教育に少なくない影響を与えていたという点もあって、あえて一九四八年、衆参両院で、排除し失効するという決議を上げた、そして名実ともに憲法と教育基本法に基づく教育を行うということを宣言した、これが歴史だということだと思います。その点を確認しておけばいいんじゃないかと思います。
 もう一点は、今日の教育、子供たちの荒れ、困難等、教育基本法の、私はあえて改悪と言わせてもらいますけれども、今の教育基本法の問題についてであります。
 私が言いたいのは、だれもが今、いじめやそれから学級崩壊、不登校、勉強の意欲の低下、大変教育の困難に胸を痛めております。私自身もその一人です。行政それから学校、そして父母、地域がやはり一体となって、子供をど真ん中に据えた真剣な努力が要るということを痛感させられていますし、その一助になれるように努力したいと思っています。
 そのために、私は方向として、教育基本法の理念どおりの実践ということを真剣に今考えなきゃいけないと思うんです。
 例えば、人格の完成というのが教育の目的とされていますけれども、ところが、世界でも例がない競争的な教育制度が厳然としてあって、国連からも、それが過度な身体的及び精神的健康に否定的な影響を子供たちに与えている、こういう警告がされている。ここの改善。
 それから、教育の機会均等というふうに言っているのに、世界一高い学費で、全く大学に最初から門を閉ざされている、そういう家庭、子供たちも生まれている。
 それから、教育行政の任務というのは条件整備というふうにされていますが、教育の内容に介入をやめない姿勢。これらを改革しなきゃいけないと思いますし、今、都道府県でいいますと二十一だったと思うんですが、少人数学級に踏み出しています。教育条件の整備、すぐやることができるわけですから、こういう点を国が率先して取り組んでいく、こういう方向が今教育の困難を打開していく大変大事な課題になっていると思いますし、これは教育基本法の理念の実現であり、そのための努力だというように私は考えております。
 その点で、出されている教育基本法の見直しを見ますと、たくましい日本人の育成というのが突如教育目標にされています。しかしこれは、公教育というのは教育に特定の人間観を持ち込んではならないという大原則があるわけでして、そういう点からどうかという問題もありますし、議論もありましたけれども、伝統や文化の尊重、郷土や国を愛する心、国際性の視点、公共に関する国民共通の規範の再構築などなど、総じて国家色の強い立場、そういう特定の立場を持ち込んでいくということのニュアンスが非常に強いわけでありまして、こういう方向での改正をやっても、子供たちの荒れや今の教育の困難の解決ということには大きな力にはならないんじゃないかということを率直に私は思っておりますので、そのことを発言させていただきたいと思います。
 以上です。
小林(憲)小委員 先ほど平林委員のお話を聞いておりまして、私も同感するところ大変多くありました。
 先ほど来、鳥居先生のお話の中にもありましたように、教育勅語と教育基本法、これは何が違うか。先ほど春名議員のおっしゃるとおり、まさしく法律的な流れは今おっしゃったとおりだと思います。それを踏まなければいけない。
 しかし、教育勅語というものはスピリットであった、そして教育基本法というものは法律であり、そして、先ほど岡村参考人もおっしゃったとおり、憲法となりコンスティチューションの一部である。これは、まさしく国が独立国家として立つための道徳、そして国民がどういう基準を持って生きていかなければいけない、そういうスピリットも入ったものであった。だからこそ、日本の国が滅んだ後、またサンフランシスコ条約によって再度独立国家となる間に、そしてその後でも、再度議会を開いてでもそれを打ち消さなければならなかった、それはスピリットだったからだ、私はそう思います。
 教養というもの、教育というものに対してよりも教養、きょうのお話の中で両参考人からありました。家庭における教育、教養、これは、まさしく本当に今、春名議員のおっしゃるとおり、準備万端、すべてこの日本の国はできていて、進まなければいけない、でもなぜここでとまっているのか。それはまさしく教養、教えるがごとく教えられないようなものではないかと思うんです。
 何をしていいか悪いかとか、先ほど岡村参考人もおっしゃいましたが、お父さん、お母さんを大事にしようなんて書かなくてもいいでしょうということがございましたけれども、私は、きちんとこういうものも書いていかなければいけないのではないかな。今回の中間報告の中にあります、「伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心」、こういう言葉を入れていこうということでございますが、本当にこういうことが一番大事なことでありまして、まさしく母親というものはどういうものであるか。
 例えば、間違っていたら済みません、私も不勉強なので。私は、昔、山内一豊さんという人が戦に行くときに馬を買うお金もなかったのが、お小遣いをためていて、だんなさんに持たせてその馬で一番やりをとったというような話を聞いたときに、ああそうか、母親というのは、こつこつとお金をためてお父さんが恥をかかないようにするのが母親なんだなとか、例えば忠臣蔵の話もあります。芝居の話でございますけれども、四十七士が集まって、中で脱落していく、どんどん脱落していくんですが、痛みにあえぎながらも、最後、忠義のために尽くしていく。
 こういう中で、政治の世界でも、今見ておりましても、きのうの敵はきょうの友はいいんですけれども、それでも、何か事を起こそうとすると、どんどん情報漏えい。これは企業も一緒です。自分が世話になった会社にでもいろいろなことを言って、中傷誹謗で人をだめにしていく。
 そしてまた、報道にも血が通っていない。徹底的にやる。まさしく子供たちのいじめと同じことが社会でも起こっている。こんな大人たちがどうやって教養を教えていくんでしょうか。私はそれはひどく思います。皆さんが一人の人間を今ターゲットにすれば、必ずその人間をだめにするだけのマスコミの力があります。そして、マスコミの方々にも血の通った報道を、そしてまた、政治家、芸能人、そしてまた人々にさらされている人たち、その人たちにも権利がある。そしてまた、一般的な人たちにも大変な権利がある。
 そしてまた、昔起こった社会現象のように、浅間山荘事件のように、いろいろな学生たちが、いろいろな思いから真剣になって闘う中で人をあやめていってしまった事件があった。それがいいとは私は言いません。しかし、今の子供たちは、ホームレスの人がいたから、つばをかけて、殺してしまった。何か主義主張があってそういう行動をとっているわけではないという、まさしくこれはすべて教養、またそれを教える大人たち、家庭の問題であると私は思っております。
 最後に、手前みそで申しわけございませんが、私の曾祖父に当たります者もずっと明治から学校教育をやっておりまして、淑女の徳を、この国は母親がよくなれば、女性の徳をということで教育を興しました。その中で、やはり教育勅語の中で、民間の私立としてやっていくに当たって大変な苦労があった。やはりすべてが国家主義ではいけない。今、きょう、私も一生懸命お話を聞きながら日記を読んでおったんです。そうしたら、国家主義ではいけない、国のための人間ではいけない、個人のため、世界のために役立つ人間を育てるためのお母さんでなければいけない、こんなことを書いておりました。
 ですから、すべてがすべて悪ではなくて、教養という皆さんの持つ心の中の和、それをもって魂で行えば、この教育基本法の改正も必ずうまくいくと思います。
 以上です。
山内(惠)小委員 山内です。
 きょうの参考人、来ていただきまして、十分しかないというのは本当にきついなというふうに思いました。本当に時間をかけて、この問題はぜひ長い時間、今後の論議もしていただきたいというふうに思います。
 中央教育審議会は、法の中で、人格が高潔で、教育に関し広くかつ高い識見を有する者からというような文言がございますが、いらっしゃらないところで言う気は本当はなくて、御本人に申し上げたいことでもあるんですけれども、私は、今回の会長の見識にちょっとショックを受けました。犯罪が少ないのは日本が単一民族だからだなどという発言は、私は、国際人権規約も御存じないんじゃないかと。
 私は、この国にはアイヌの方がいますし、在日の方も住んでいらっしゃいますし、しかし、その一方で、難民の受け入れが本当に少ない国であるということ、こんなことで、今後どうやって基本的人権を考えていくのか。
 また、男女共同参画社会基本法に触れられて、子育ては母の責務のような発言をなさっていることについても、女子差別撤廃条約を批准したことすら御存じないのか。子の養育は男女と社会の責務と書かれていることは御存じないのか。また、子どもの権利条約における子供観についても、十分この論議をなさっていない中央教育審議会のあり方について、私は大変問題だと思っています。
 少なくとも、批准した国際人権保障にかかわる条約をしっかりと取り上げて、この場でもそうですけれども、私たちの人権とは何なのかということを本当に論議しながら、内実のあるものにしていくべき場がこの場でもあり、中央教育審議会でもあっていただきたいというふうに思っています。
 そして、私は何度も申し上げましたけれども、教育基本法をなぜ改正しなければならないのかというときに、現在起こっている子供たちのさまざまな問題が教育基本法に起因するというような結びつけ方は筋違いだと私は思っています。今ある現在の教育基本法をどうやって内実化していくか。
 人権というのが何なのか、子供たちがもっと理解していれば、また、受験勉強が今のような丸暗記教育でなく、また剥落学力ではなく、生きる力をしっかり育てていれば、また、親のリストラがなければ、授業料の払えないといった、高校中退などをしないで済むようになるじゃないですか。また、子供たちが就職難というような状況がありますけれども、希望を持てる社会であれば引きこもりもこんなにふえるはずがないと私は思います。
 その意味で、現在の教育基本法の実施状況をしっかり分析してチェックしていくようなことから、私たちの人権がどう保障されているのかということを見きわめていくこの小委員会であっていただきたいということを私は述べて、終わりたいと思います。
仙谷会長代理 本日のお二人の参考人の御意見を伺いまして、改めて教育と国家の役割というものについて思いをいたしているところでございます。
 その中で、私は、岡村遼司教授が、田中耕太郎先生の「教育基本法の理論」一九六一年というのをお引きになってお話しになられた、教育は私的、民間的性質を有しておる、文部省の支配下に置いて文部官僚が指揮監督するものならば、従来の弊害は依然として除去されないというふうに当時から指摘されておったということに、ある種我が意を得たりという感じを受けました。
 現在の状況で、日本はいろいろな意味で困難な状況に立ち至っているわけでございますけれども、相当部分を、その責任を教育、とりわけ学校教育に帰するという議論がなされていると思います。
 私は、私が受けてきた教育と言われるものを振り返っても、子供たちが受けている学校教育あるいはその他の教育的な諸活動を見ましても、十分だとは思っておりません。しかし、にもかかわらず、我々が今社会的な病理現象としてあらわれている少年犯罪その他の問題を考えるときに一番抜かせてはならない問題というのは、やはりみずからの、つまり大人の問題が相当部分反映されている、反射的にそこに現代社会の病理があらわれてきているというふうに考えるべきことも必要なんだろうと思います。
 つまり、市場経済下の競争のもとで、私どもがある種奨励をしたり行ったりしている競争、それがミーイズムというものを生んでいないだろうか。あるいは、快楽を商品として提供する、この市場経済を否定することは私どもはできないという前提の上に立っておるわけでありますから、それが子供たちに、あるいは大人たちの無軌道、無責任ぶりにあらわれていることについて、その持つ教育的効果というものについてどう考えたらいいのかというのは、これは、そう一概に言える、一概に解決策があることではないのかもわかりません。
 そしてまた、バブル崩壊後のそこにあらわれてきている、日本の、日本人にもあらわれてきている拝金主義とでも申しましょうか、そういう傾向というものについても、これまた教育的観点から考えましても解決策がなかなか難しい。むしろ、日本人がある種美徳としてまいった、金もうけは余り大っぴらにいいことだと言えないとか、あるいは、もう少し申し上げますと、金もうけの技術を教える教育などということはあってはならないというある種の考え方自体すら、反対に、むしろ検証が行われなければならないとさえ言われている時節柄であります。
 そんなことをいろいろ考えまして、結局のところ、私は、教育というのは、基本的に自己教育、みずからがみずからを教育する、そこに置かなければならないんだろうと思いますし、日本にこれから重要なのは、大人の自己教育を含めて、みんながもう一度学ぶという点に立ち返る。学びの社会をつくる。そのために、国と地方自治体、その他の、NPO等々も含めてでありますけれども、どういう機会を、あるいは、学びたいと思うときにどういう施設やあるいは条件を提供できるか、そのことがまさにこれから重要なことだなと考えた次第でございます。
 以上です。
水島小委員 きょうのお二人の参考人のかなり両極端とも言えるような意見を伺っておりまして、やはり教育の議論に関しては現場感覚というのが何よりも重要だなということを痛感いたしました。
 先ほどからも、意見は大体二つに分かれているようでございますけれども、今の現状に問題があるということは、皆同じように認識をしている。だから、昔のあそこがよかったというような議論になりたがる気持ちはわかりますけれども、やはり昔と今とではかなり社会環境が違っております。
 少子化というのはここ最近言われ始めたことですけれども、実際には、今の子供たちの親世代は既に少子化世代です。そうすると、子供にとって、まず、親戚のおじさん、おばさんの数が非常に少なくなっている。また、地域社会がもう崩れていますから、隣にだれが住んでいるかわからないような子供もたくさんいる。
 そうしますと、昔は、ある程度親が機能不全であっても、親戚のおじさん、おばさん、あるいは地域の大人たちがどこかしらでその親の機能を補完していたという側面があって、いろいろな大人が子供たちを育てていたというところがありました。
 また、子育てする母親にしましても、昔は、子育てに悩んだときにも、周りから、子供なんてそんなものだからと声をかけてもらうようなチャンスがあったり、あるいは、家事をやるために子供を見てくれる大人が別にいたりと、今ほど追い詰められた密室的な環境で子育てをしていたわけではないというような時代背景をいろいろ考えてみますと、先ほどから、子育ては母親がというような、そういう論調にすぐ偏っていくというのは、かなり現実を知らない方の意見ではないかなというふうに思わされた次第でございます。
 今、そのような時代の変化を考えていきますと、やはり当然、教育というのは、学校だけではなくて、家庭、地域、すべてにおいて教育がなされるべきであるし、特にそのような時代環境、時代背景を考えると、特に家庭ですとか地域ですとか、そういうところで大人たちが今までよりもかなり細心の注意を払って子供を育てていかなければいけないということでもありますし、昔は子供は親の背中を見ていれば育ったかもしれないけれども、今はどれだけ大人が、親だけではない大人がどれだけ子供とじっくりつき合っていくかということが非常に重要になっていると思います。
 小さなころからテレビの前にただほうり出されて、物とテレビを与えられてずっと育てられた子供たちが、その後、いろいろな問題を抱えていくというような、長期のフォローアップの調査のデータも出ておりますので、やはり、大人とどれだけかかわってもらったかということが、子供にとって非常に重要だと思っております。
 そんな中、それを母親の密室育児だけに押しつけていくような立場をとっていってしまうと、ますます子供がいろいろな大人と触れ合う機会が減っていってしまいますので、ここはぜひ、すべての方に価値観を転換していただいて、今の子供たちが置かれている現状を直視していただきたいと思っております。
 また、文化や伝統についてもそうなんですけれども、文化や伝統は大切だと思っている人も当然いますし、そういう考え方は私も尊重いたします。
 ただ、私の地元なんかで子供たちに一生懸命文化や伝統を教えている大人たち、いろいろとおはやし会をやったり盆踊りをやったりとか、私の地元にそういう大人たちがいっぱいいるんですけれども、本当にボランティア精神で子供たちと一生懸命つき合っている大人たちは、何でもかんでも法律のせいにして、自分たちが本来大人としてやるべきことをやっていない人たちが法改正の議論をしているんじゃないかと、大変冷ややかな目で見ています。
 やはり、まず大人が身をもって自分が何を大切にしているかを示していけば、子供はそこから学んでいくものですので、こういう法律の議論を、法律の世界、子供たちだけの世界、学校の世界だけに限局せずに、ぜひ大人全般の問題として考えていく姿勢を持たないと、子供たちはますます大人を信用しなくなるのではないかと思っております。
 また、今の子供たちのいろいろな問題を見てみますと、例えば、集団になると凶悪な犯罪を犯す子供たちの特徴としては、例えば親から過度の叱責とか過度の期待をかけられることによって非常に常に緊張状態にあった子供たちですとか、あるいは、いじめ体験やいじめられ体験双方を持っている子供たちですとか、そのような特徴を持っている子供たちが多いというようなデータもございます。
 先ほど岡村参考人が、一人称で語る教育と言っていましたけれども、まさに自分の頭で考えて、自分の言葉で言ったことが尊重されるというような教育を行っていくことによって、自分と人が違う意見を持っているということを肯定的に受けとめられる、他者を受容できる、そんな人間が育っていくわけですので、私はやはり、今の子供たちが抱えているいろいろな問題を解決していくかぎは、大人が子供としっかりとつき合っていくということと、また、多様性を尊重できる教育を進めていくことしかないと思っておりますので、ぜひ皆様にも御理解をいただきたいと思っております。
 以上です。
大出小委員長 時間が迫っておりますが、もう一人。今野東君。
今野小委員 教育基本法の改正という言葉が何となく見えているわけなんですけれども、これが果たして国民的な議論として盛り上がっているかというと、私は、少しも盛り上がっていない。教育関係者の方に聞いても、先日も私はある私立高校の校長先生から話を聞いたんですけれども、教育基本法についてどう考えますかというと、全く考えておりませんということでした。
 もちろん、子供たちの犯罪とか不登校とか、あるいは地域の構成員としての自覚がないとかいう子供たちの危機的な状況は問題として十分認識されていて、これをどうしようかということでは頭を抱えているけれども、だからといって教育基本法を変えるという議論には結びついていないというのが現実ではないかと思います。
 しかし、私たちが教育基本法の改正ということをスケジュールにのせなければならないという時期が来るのであろうということは私も思います。しかし、それは、憲法との関係もありますが、人権というものについて十分議論をして、これがどういうものなのか、その議論をベースにしなければ大変危険なものになっていくと思います。
 以上でございます。
大出小委員長 もう一方、重要な問題ですので。
 春名直章君、発言を許します。
春名小委員 一点だけ。短く終わりますので。
 先ほど、教育勅語についてスピリッツというお話があったので、一点だけ申し上げておきたいと思います。
 確かに、いろいろな徳目が書いてあるんですけれども、その徳目、最後の結論は、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」、つまり天皇のために命を落とすということに全部収れんされているわけですね。したがって、その徳目も消えていくわけです。
 だから、こういう精神的支柱があって、侵略戦争というあの惨禍を味わったのが日本であって、したがって、これははっきり排除しているということを明確にする必要があるということだけ、どうしても言いたかったものですから。
大出小委員長 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。
 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。
    午後五時二十八分散会

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