衆議院

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第4号 平成15年6月5日(木曜日)

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平成十五年六月五日(木曜日)
    午後二時五十六分開議
 出席小委員
   小委員長 大出  彰君
      倉田 雅年君    谷本 龍哉君
      長勢 甚遠君    野田  毅君
      葉梨 信行君    平林 鴻三君
      今野  東君    水島 広子君
      太田 昭宏君    武山百合子君
      春名 直章君    北川れん子君
      井上 喜一君    山谷えり子君
    …………………………………
   憲法調査会会長      中山 太郎君
   参考人
   (千葉大学法経学部助教授
   )            小林 正弥君
   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
    ―――――――――――――
六月五日
 小委員井上喜一君同日委員辞任につき、その補欠として山谷えり子君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 基本的人権の保障に関する件(基本的人権と公共の福祉)


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     ――――◇―――――
大出小委員長 これより会議を開きます。
 基本的人権の保障に関する件、特に基本的人権と公共の福祉について調査を進めます。
 本日は、参考人として千葉大学法経学部助教授小林正弥君に御出席をいただいております。
 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 本日の議事の順序について申し上げます。
 まず、小林参考人から基本的人権と公共の福祉について、国家、共同体、家族、個人の関係の再構築の視点から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、小林参考人、お願いいたします。
小林参考人 御紹介いただきました小林でございます。
 それでは、レジュメに対応させて、用意してきた原稿を読ませていただきます。
 まず、一、公共哲学の(1)序です。
 公共哲学とは、簡単に申し上げますと、何らかの意味における公共性の実現を希求する学問、そして、一般公衆にも理解可能で広く共有され、実際に影響を与える哲学です。
 このような目的を実現するためには、具体的、実践的課題に対して学際的な研究を行うことが必要です。そこで、現在、私たちは、従来のようなタコつぼ化した専門分野の壁を乗り越えるべく、哲学、倫理学、政治学、社会学、経済学等の多様な専門家が協力して、このプロジェクトを推進しております。
 この中で、私は特に政治哲学を中心に研究しております。政治哲学の目的は、簡単に言えば、政治の理想の探求ということになります。しかし、残念ながら、海外では政治哲学が重要であるにもかかわらず、日本の大学では、その講義や講座がほとんど存在せず、専門家もほとんどいません。日本では、そのかわりに法哲学が存在し、海外の政治哲学も法哲学の専門家が紹介しております。そこで、私は、一九九七年にケンブリッジ大学から帰ってから勤務校で講義を開設し、その導入に努めております。
 今日御依頼のありました主題のうち、国家、共同体、家族、個人の関係の再構築は、今日の政治哲学の最大の主題の一つであります。ただ、以上のような事情で、これを政治哲学の観点から専門的に説明できる研究者は極めて少ないと思いますので、微力ながらお引き受けした次第です。
 (2)概論
 アメリカでは、有名なジャーナリストであったウォルター・リップマンが一九五五年に「公共哲学」という著作を公刊したのが公共哲学という概念の出発点であります。ただ、近年、この概念が使われるようになったのは、これから説明いたしますコミュニタリアニズムの理論家がこの概念に注目したからです。
 この影響を受けつつも独立して、私たちは日本で公共哲学プロジェクトをここ数年間集中的に遂行しており、その成果が東大出版会より「公共哲学」全十巻、さらには「公共哲学叢書」として刊行中です。
 このうち、十巻シリーズの方では、戦前のような滅私奉公や、逆に戦後あらわれた滅公奉私を問題視し、これにかわる観念として、韓国から来られた金泰昌氏は、「私」を生かし活性化しつつ公共性へと生かす、活私開公という考え方を提唱されています。さらに、従来の公と私という二元論を乗り越え、公、公共、私という三元論を主張して、公と私を媒介する存在として公共の概念を考え、民からの公共性を主張しています。
 ここで言う公私二元論とは、リベラルの思想家たちが重視してきた考え方で、本日の副題に言う国家、個人の二項対立の発想に相当します。
 これに対して、公共哲学では、この発想を超えることを主張し、個人と国家の間に存在する中間集団に着目して、家族、コミュニティー、NGO、NPOなどが、今後の公共世界において重要な役割を果たすと考えております。さらに、このグループでは、公共性の観念を国民国家の内部に限定せず、国境を越えた公共性、トランスナショナルないしグローカルな公共性をも重視しております。
 この研究グループは一枚岩というわけではなく、大きな方向性を共有しつつも、内部では多様な考え方が存在いたします。その中で、私は、コミュニタリアニズムないし新公共主義という考え方を主張しております。
 きょうは、このような議論に委員会の先生方が御関心を持たれたと伺いましたので、これらの観点を中心にして説明を行いたいと存じます。
 二、コミュニタリアニズム
 コミュニタリアニズムを日本語に直訳すると、共同体主義となります。英語のコミュニティーと日本語の共同体の語感は若干異なるのですが、ともかく英語でいうコミュニティーないしコミュナリティー、共同性に力点がある思想です。ですから、その意味では、今日の主題に適合的で、公共哲学としては、個人と国家という二項対立を超える政治や社会の姿を構想するためには、今日において最も重要な政治哲学と言ってよいでしょう。
 日本の憲法学の主流も含めて、法の世界や政治思想の世界では、自由主義ないしリベラリズムが強力ですが、リベラリズムは、個人対国家、私対公という二元論を軸にします。だから、この関係を再構築するためには、これに対する対抗思想としてあらわれたコミュニタリアニズムが重要になります。ただし、これから申し上げますように、憲法との関係で考えると、これは必ずしも義務条項を入れるような憲法改正論には直ちに直結しません。
 (1)リベラル―コミュニタリアニズム論争
 今日の政治哲学の起点をなしているのは、ハーバード大学の哲学者だった故ジョン・ロールズの「正義論」で、この中で、彼は、契約論を再生させて、正イコール権利を中核とする正義の二原理を提出し、リベラリズムを隆盛に導きました。日本語で正と権利はいずれも、英語のライト、ライツに相当しますので、憲法を初め法学で中心になる権利の概念が、正義として、必ず守られなければならない最重要のものとされたわけです。
 これに対して果敢な批判を行ったのが、同じくハーバード大学の政治哲学者であるマイケル・サンデルであり、彼のロールズ批判を契機にして、それに近い一群の思想がやがてコミュニタリアニズムと呼ばれるようになりました。サンデルは、ロールズの理論における自己の概念を、抽象的で遊離した自己であると批判しました。
 実際には、自己は特定のコミュニティーやその文化的伝統の中で存在し、その中でみずからのアイデンティティーや人格を形成する存在です。そこで、サンデルは、自己の埋め込まれている文脈、コンテクストとして、コミュニティーを重視し、そこにおける善、グッドの観念や、それに基づく人格形成に目を向ける必要性を主張しました。彼は、リベラルの人格概念は近年のアメリカに多い利己主義的な人間像に通底するとして、これに対して、コミュニティー、共通善、公共的な民の美徳、シビックバーチューなどの観念の必要性を主張しました。
 公私との関連においては、リベラルの論者は、公と私の区別を強調して、私的領域で人々が善などの価値を追求するのは自由だが、人々が信じる価値は多様で、強制的に決められるべきではないから、公的領域の決定においては、善などの価値は考慮されるべきではなく、正イコール権利によって決められなければならないと主張します。
 つまり、近年のリベラルな政治哲学では、個々人が追求する多様な価値を善、グッドと呼び、多様な価値観にもかかわらず人々が合意して公的に従わなければならない共通の規範を正ないし正義、ライトと呼びます。この二つを峻別して、公的領域では善ではなく正が必要であるとし、正の中核を権利とするのです。
 サンデルは、リベラルのこの考え方を正イコール権利の善に対する優先性と表現し、この考え方に反対します。実際には、政治においては、環境や生命倫理などの領域に典型的にあらわれているように、善にかかわる価値判断を公的決定においても回避できないからです。サンデルも、正―権利の重要性を否定しているのではありませんが、公的領域においても善にかかわる価値の問題が議論され決定されるべき場合が存在すると主張するのです。
 ここから始まったリベラル―コミュニタリアニズム論争における双方の主張の中心を簡単にまとめると次のようになります。
 リベラリズムは、消極的自由、個人主義、法的権利、中立性、正義などの概念を重視するのに対して、コミュニタリアニズムは、積極的自由、善、コミュニティー、伝統、美徳一般、責任・義務の必要性を主張します。そして、コミュニタリアニズムは、利己主義的な個人主義や私益追求による政治腐敗を批判し、人々の共通善、公共善の実現を主張します。
 ただ、コミュニタリアニズムは、権利の概念や個人主義を全面的に否定するのではなく、倫理的、共和主義的な個人主義は肯定する場合がほとんどです。このような人格形成を行うに際して、コミュニティーの文化が重要な役割を果たすので、コミュニティーを重視し、利己主義に対してはコミュニティーの再生を主張するのです。
 ここに言うコミュニティーは多様で、家族、地域的コミュニティーやエスニック集団に力点がありますが、多くの場合国家を含み、場合によっては世界的コミュニティーも含みます。少数派のエスニック集団については配慮する必要性から多文化主義を主張する場合も存在します。さらに、コミュニタリアニズムは、その地域ないし国家の自治の意義を強調することによって、政治参加による共通善の実現を主張するリパブリカニズムとも連携する場合が多いのです。
 (2)思想的・政治的意義
 共産主義、社会主義の崩壊後に、リバタリアニズムやネオ・リベラリズムと言われる市場原理主義や権利論中心の利己主義的な個人主義が隆盛となりました。しかし、この結果、貧富の格差、バブル経済、環境問題など市場経済の問題点や、モラルの衰退、犯罪の上昇、少児高齢化、人間関係の希薄化などの社会的問題も深刻なものとして浮上してきました。
 そこで、このような問題点に対して、倫理性やモラル及び共同性の必要性を主張して、人々の間のつながりを再生させようとしたのがコミュニタリアニズムと言うことができるでしょう。人々の間の共通性や共同性を復活させる必要があると考え、その母体をコミュニティーに求めたわけです。
 この思想は、既に政治的にも影響を与えており、古い社会民主主義ないし福祉国家論にかわるもの、あるいはその刷新として注目されました。福祉国家は財政的に維持が困難になったので、国家よりもまずはコミュニティーの再建により福祉の実現を図ることが必要になったからでもあります。特に、クリントン政権、ブレア政権にはその影響が顕著であり、例えばブレア首相がコミュニティーや教育を重視したのはそのあらわれです。
 (3)理論的位置関係
 その後の展開も含めて、原子論と全体論という哲学的な観点から、この論争や政治哲学の諸思想を整理した図を掲げておきます。
 この図の左右軸は必ずしも政治的な左右軸ではなく、左側の方が個人を中心にする考え方、右側の方が個を超えた全体を強調する考え方です。リベラルやコミュニタリアンは、この両極のような極端な思想ではありませんが、コミュニタリアニズムの方が個を超えたコミュニティーを重視するわけです。
 当初、コミュニタリアンは主流のリベラルに対する批判から始めましたが、その後に、理論的位置関係を明確にするために、例えばエツィオーニという社会学的な理論家は、社会的保守主義をも批判し、コミュニタリアニズムと社会的保守主義、さらには権威主義や全体主義との差を明確にしました。つまり、コミュニタリアニズムはリベラルと社会的保守主義との中間であり、共和主義、リパブリカニズムとも近いのです。
 私自身は、それをさらに明確にし、新公共主義という名称のもとに、リベラリズムとコミュニタリアニズムを哲学的に統合することを主張しています。
 先ほど翻訳の問題に触れましたように、日本語では共同体主義という用語は古い共同体を連想させ、むしろ社会的保守主義に近い響きを持ってしまうことがありますから、この点には注意が必要です。
 アメリカでは、リベラリズムや個人主義が徹底しているので、コミュニタリアニズムはそれを一定程度修正することを主張していますが、権利などのリベラリズムの前提は共有しているので、その廃止を唱えているわけではありません。
 エツィオーニは、新黄金律として、自律と秩序の均衡、バランスの必要性を唱えています。そして、アメリカでは自律に偏向しているから秩序が必要であるのに対し、中国や日本の場合は秩序に偏しているから自律を強化することが必要であるとします。この観点からすると、日本にはまだ自由や自律の強化が必要であるということになります。エツィオーニは少し以前の日本社会の姿を見てこのように判断していると思うのですが、過去に戻ることを志向する社会的保守主義との相違は明確でしょう。
 したがって、コミュニタリアニズムは、近代以前に復古しようという反動的思想ではありません。十八世紀から十九世紀以来成立した自由民主主義の基本は前提として共有しているのです。この古典的な政治的自由主義と一九七〇年代以来のリベラリズムとは、概念として区別する必要があります。リベラリズムは、確かに自由主義の思想を淵源としていますが、それを極端なところにまで急進化させてしまったと思われます。コミュニタリアニズムは、自由主義の伝統を踏まえつつも、この極端な急進化に反対して、共同性や倫理性を復興して思想的均衡を保とうとするのです。
 三、憲法と権利・責任
 (1)近代憲法の前提
 以上を踏まえて、憲法との関連を述べたいと思います。
 もともと専制国家に対して、憲法、特に権利宣言をかち取ってきたという歴史が存在します。ここには、社会契約論などの十八世紀の自由主義的政治原理における自然権の観念が基礎にありますから、権利が基本となり、義務の条項は少ないと言うことができるでしょう。これは、アメリカ憲法も含めて近代憲法一般の特質であり、日本国憲法だけの特質ではありません。
 例外的に、レジュメにありますように、フランス共和国一七九五年憲法第二条には、黄金律に相当する道徳的義務が定められていますし、ほかには、法の遵守、納税、兵役の義務などの条項も見られます。しかし、道徳的義務を憲法で定めるという考え方は、少なくとも今日の憲法学主流の発想とは著しく乖離しています。リベラルな憲法学においては、国家権力の制限が憲法の骨格であり、憲法は道徳的文書ではなく、その意味での制限的規範であると考えられているからです。
 (2)アメリカ憲法解釈
 コミュニタリアンも、前述のように自由主義を前提にしていますから、近代憲法も重視しています。ですから、基本的に憲法の権利宣言を前提としており、その解釈を議論することはありますが、その修正を求めてはいません。
 例えば、先ほど述べたサンデルの第二作、「民主政の不満――公共哲学を求めるアメリカ」では、アメリカの公共哲学として、リベラリズムに対して自治や共通善を重視する共和主義の伝統を対置し、その復権を唱えます。その第一部が「手続き的共和国の憲法」で、サンデルは、アメリカ憲法解釈、憲法史に立ち入った議論を展開します。憲法解釈に即して、一、権利の善に対する優先性、二、遊離した自己、三、中立的国家というリベラルの考え方に反対するのです。
 例えば、フェデラリストが主導したアメリカ合衆国憲法においては、当初は権利章典は存在せず、州権を重視するアンチフェデラリストの主張によって修正十条までが追加されました。ここからは、現在のリベラリズムの主張のように、個人の権利がトランプの切り札のような絶対的な存在ではなかったことがわかります。また、宗教の自由、言論の自由、プライバシー権や家族法などの解釈を判例に則して具体的に論じ、以前はこれらを自治や実質的な価値に基づいて説明していたのに対し、近年は選択の自由や国家の中立性に基づいて説明するようになっていることを明らかにします。
 この議論の目的は、リベラリズムの公共哲学に反対し、コミュニタリアニズム的な共和主義的公共哲学を復興しようとするところにあります。
 ですから、サンデルにしても、アメリカ合衆国憲法の改正を主張しているわけではありません。あくまでも、リベラルな憲法解釈とその法的思考の相対化を提唱して、憲法の条文ではなくリベラルな公共哲学の修正を目指しているわけです。
 (3)権利と責任
 また、コミュニタリアンは、権利論の過剰に反対し、責任や義務の観念の必要性を主張していますが、これも憲法修正論ではなく、主として道徳的ないし政治的議論です。
 例えば、社会学的コミュニタリアンの代表者エツィオーニは、一九九一年に「応答的コミュニタリアン綱領――権利と責任」を公表し、社会運動としてのコミュニタリアンネットワークを開始しました。そこでは、過度の権利に対して、権利に対応する責任の重要性が説かれています。時に法的な問題にも言及されますが、主として道徳的問題とされ、基本的には法的事柄ではないとされています。
 また彼は、権利と責任についての四点の課題として、一、新しい権利のモラトリアム、二、権利は責任を伴う、三、権利のない責任の存在、四、一部の権利の調整を主張しますが、責任は、アメリカ憲法前文の「より完全な連邦」「一般的福祉の増進」に対応するとします。そして、権利を強化するには責任意識が必要とされ、責任が自覚されることによって、権威主義や右傾化を招く無秩序状態を回避できるとされています。
 さらに彼は、法よりも道徳の声による規制が必要だとして、法の守備範囲は大部分が道徳の声に支持される範囲内であるべきとします。これを彼は、法に対する価値優位の法則と呼んでいます。社会的保守主義は価値の法制化を図ろうとしますが、逆効果やゆがんだ効果を招くと批判します。彼は、法と道徳の連動を主張し、まず道徳的再生が基本で、それを前提にして初めて一定程度、法とすることができると主張するのです。つまり、法への依存が少なければ少ないほど、価値への依存が高ければ高いほど、コミュニタリアン的であり、コミュニタリアン的社会は、道徳的価値に支えられた法に依拠すべきであり、道徳に支えられない法に依拠すべきではないというのです。
 また、統一の中の多様性として、アメリカの価値観の多様化にもかかわらず、それらをまとめる一定の統一性を必要と主張していますが、その際に共有されるべき中心的要素の一つとして、憲法と権利章典を挙げています。
 以上のように、アメリカのコミュニタリアニズムは、アメリカ憲法を前提としており、その解釈をめぐって議論を展開していますが、義務条項の付加などの憲法修正を主張してはいません。国民の道徳一般に根づいていない義務や責任を法制化しようとする議論は、むしろエツィオーニが反対する社会的保守主義に相当するでしょう。これは、コミュニタリアニズムからすると、実際には責任や義務を果たすことにはつながらず、むしろそれらをゆがめますし、権威主義や強権化の危険をもたらします。コミュニタリアニズムは、道徳に支えられない法制化に反対し、むしろ社会的領域において道徳や責任の観念を広めることを主張するのです。
 ある意味では、コミュニタリアニズムの以上のような姿勢は、東洋哲学では儒教の姿勢に近いかもしれません。すなわち、儒教は徳を説く一方で、法の導入と執行を強行する法家に反対しました。法よりも道徳を主張する点で、コミュニタリアニズムは儒教に近く、だから道徳の過度な法制化には反対することになるのです。
 四、日本国憲法の基本的人権と「公共の福祉」
 (1)新しい公共哲学と憲法改正論
 コミュニタリアニズム的公共哲学は、確かに国家と個人の二項対立図式の限界を指摘し、家族やコミュニティーなどの重要性、再生の必要性を主張します。これは何よりも道徳的問題ですが、その限りで政治との接点を持ち、政治の場で公共的に議論することは有意義だと思われます。
 しかし、憲法との関係を考えるためには、少なくとも、道徳、政治、法という三つの領域の関係を考えなければなりません。政治や法、さらに最高法規たる憲法においては、私的な道徳とは異なって、公権力の行使という強制力を伴うからです。
 コミュニタリアニズム的公共哲学は、道徳の領域を基礎としつつ政治的浄化などを唱える点で、道徳と政治の双方に関係し、これらの領域において責任の観念の必要性を主張します。しかし、これはそのまま法の領域、特に憲法における責任や義務の法制化を帰結しません。管見の限りでは、アメリカでは義務・責任条項の挿入という憲法修正論はまだ提起されていません。
 思想的、理論的には、現在の北米のコミュニタリアニズムにとどまらず、このような公共哲学をさらに発展させて、最も理想的な憲法典を構想する立憲論や理想国家論を考えることは可能でしょう。しかし、そのためには、現在のコミュニタリアニズムそのものではなく、それを発展させて新しい公共哲学から全憲法構造に関する全面的改革論を展開することが必要になり、現時点ではそれは学問的には行われていません。いわば、本格的な新公共主義的立憲論というようなものは、政治哲学としても法哲学としても未成立なのです。
 コミュニタリアニズム的な責任の観念は、法的なものというよりも道徳的、政治的なものですから、もし憲法典に条項として直接入れようとすれば、フランス一七九五年憲法のように、黄金律のような道徳的条項を入れることになります。
 しかしながら、今日近代国家が有する憲法は、聖徳太子の十七条憲法のような古代憲法とは異なって、道徳律や訓辞を述べたものではなく、主として国家権力を拘束する制限的法規範です。ですから、法的義務ではない道徳義務を憲法に新しく挿入することは、リベラルな主流派のこのような見解と背反しますから、これは憲法典の性格を根本的に変更するような試みとなります。あるいは、近代国家が有する憲法典とは別の憲章、いわば一切法的強制力を持たない道徳的、政策的文書として規定することになるかもしれません。いずれにしても、憲法典が強制的法規範としての性格を持つ以上、これが抑圧の危険をはらまないようにしなければなりません。
 もっとも、今日の憲法においても、権利がその反面として一定の義務を随伴することは認められています。契約論のような自由主義的構成をとっても、その目的は個々人の人権を守ることにありますが、そのためには成立した国家の法などを遵守する義務は必然的に存在するからです。このような義務を憲法典に入れることは、歴史的例がありますし、理論的にも可能です。しかし、これをあえて条項とするかどうかは別問題です。具体的、特定的な義務規定に関しては、現行憲法に既に、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務、勤労の義務及び納税の義務が存在していますから、現在のところはこれで十分と考えられます。
 もっとも、アメリカにおける憲法やそのもとのリベラリズムの発想を離れて、目を世界的に広げるならば、この調査会でも既に指摘がありましたように、ヨーロッパの中で、ドイツやスイスではこのような新しい試みが始まっております。
 ドイツ連邦共和国基本法では、前文で「神と人間に対する責任」の自覚がうたわれ、第二十条aでは、「自然的な生活基盤」として、「将来世代に対する責任から……(中略)自然的な生活基盤を保護する」とされ、スイス新連邦憲法でも、前文で「統一の中の多様性」や「将来世代に対する共同の成果と責任との自覚」が、また本文でも「公共の福祉、持続的発展、内的結合及び文化的多様性」、「公共の利益」、自己責任と社会的責任、「公益または第三者の基本権の保護」、自己責任や個人の主導を補完するものとしての社会目的などが定められているからです。
 これらの新しい憲法では、将来世代、エコロジー、持続的発展、公共の利益、社会目的などが規定されています。これらは、まさしく新しい公共哲学の基本的概念であり、これらの憲法は私たちが試みている公共哲学の理念を憲法典にいち早く導入した先駆的憲法と言うことができるでしょう。アメリカのコミュニタリアニズムは必ずしもここまでは展開しておらず、人間のコミュニティーにとどまっていますが、自然的コミュニティーや将来世代も含めた超世代的コミュニティーへと思想的展開を図ると、いわば自然的、超世代的コミュニタリアニズムというような新しい公共哲学を発展させることが可能になるのです。
 しかし、解釈論としてはともかく、このような憲法改正を現在主張する研究者はほとんどいないでしょう。これは、単に一部の条項の付加や修正というだけではなく、近代国家の原理を根本的に再定式化するような壮大な事業になるからです。これは、この調査会で議論されているような国の形だけではなく、新しい文明を構想するような遠大な試みですから、あくまでそれだけの思想的、学問的、政治的準備なしには行えないでしょう。だから、それなしにこのような試みを政治的に企てるのは現時点では少なくとも時期尚早であると言わざるを得ないと思います。
 (2)日本国憲法のコミュニタリアニズム的解釈
 私は憲法学者ではなく、コミュニタリアニズムと日本国憲法との関係については、つい先日要請を受けてから考え出したにすぎません。そこで、以下に述べる点については、決して私の確固たる見解ではなく、あくまでも日本国憲法にコミュニタリアニズム的解釈を行う可能性を示唆するものにすぎません。
 日本国憲法も、近代憲法と共通する特質を備えていますから、その第三章、国民の権利と義務に関する限り、個人と国家の二項対立を批判して、家族やコミュニティーを重視するコミュニタリアニズム的公共哲学の観点から見ても、その改正の必要は必ずしも導出されません。むしろ、エツィオーニの観点からすると、これは統一の中の多様性を可能にする、共有されるべき普遍的な中心的要素とされる必要があるでしょう。
 ただ、アメリカ憲法の場合と同様に、憲法解釈論としては、コミュニタリアニズム的観点からの議論が可能でしょう。通説は自由主義的ですが、基本的人権に関しては、実は日本国憲法は文面上はコミュニタリアニズム的解釈の方が適合していると思われます。そして、この解釈論においては、責任条項に関して、既に現行憲法に存在するという議論が論理的には可能です。
 第十二条、第十三条、第二十二条、第二十九条で「公共の福祉」「公共のために」という文言が用いられていますが、これはエツィオーニがアメリカ憲法について挙げていた一般的福祉に対応します。憲法制定過程から見ても、マッカーサー草案にあっては、これらは共通善、一般の福祉、公共善など、さまざまな形で存在していました。そして、草案が日本政府に提案されてから、これらはすべて公共の福祉に統一されました。草案にあった共通善、公共善の観念は、今日コミュニタリアニズムが強調している概念そのものです。
 ですから、エツィオーニがアメリカ憲法の中で注目した一般的福祉が、日本国憲法の中では公共の福祉という表現になっています。つまり、日本国憲法では、公共の福祉という概念として、アメリカ憲法よりもさらに明確に、共通善、公共善の観念が定式化されているのです。
 これを反映して、帝国議会における憲法改正の審議における政府答弁や初期学説においては、この公共の福祉を字義どおり国民全体の利益というような意味に解釈していました。
 しかし、その後、自由主義的な通説においては、これらの説は否定され、権利の具体的な法的解釈として公共の福祉による権利制限を単純に適用すると、人権制限が容易に肯定されてしまう危険があるとされました。そして、公共の福祉を、各人の基本的人権相互の矛盾や衝突の調整を図るための、いわば交通整理の原理、実質的公平の原理と解釈しています。つまり、公共の福祉は特に実質的な内容を持つものではなく、憲法の理念から論理必然的に生じる当然の原理を宣言したものにとどまるというのです。
 権利制限の過度の拡大を避けるために、この解釈は重要な役割を果たしました。しかし、自由主義的解釈は文言上無理をしているように見えるので、日本国憲法にもコミュニタリアニズム的観点から新解釈を提起することができるように思えます。
 そもそも、個々人の人権の衝突だけで権利の制限を説明するのは実は無理なのです。ですから、最近は、やはり公共の福祉の概念の意義を認める学説が有力になりつつあるようです。既に述べましたように、コミュニタリアニズムは、個々人の総和を超えた存在としてコミュニティーを考えますから、このような学説の動向は、リベラルな人権論の限界を自覚してコミュニタリアニズム的解釈の可能性を開くものと言えるでしょう。
 まず、第十二条では、自由及び権利について、「又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」とあります。この条文に関しては、確かに、憲法学のリベラルな通説が指摘するような危険が存在するので、憲法が権利を制限する立法を肯定しているというように、単純に法的に解釈すべきではないでしょう。しかし、この部分を法的ではなく道徳的、政治的責任の規定と解すると、この部分はコミュニタリアニズムの主張と一致します。特に、「国民は、」「責任を負ふ。」ですから、これは文面どおり解すると、国民の法的ではなく道徳的、倫理的な責任規定ということになるでしょう。
 また、第十三条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあり、ここでは、ロックやアメリカ憲法に由来する権利追求を最大限に尊重しつつ、それと公共善との調和が図られています。これも、自律と秩序の均衡を主張するエツィオーニの新黄金律と一致します。これは「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という規定ですから、文言上、政治的指針ととらえるべきでしょう。だから、この条項における公共の福祉は、道徳的というよりも、主として政治的意味であり、その系として法的意味を持つと解釈するべきでしょう。
 きょうは時間の関係でこれ以上立ち入ることは避けますが、さらに細かく第二十二条、第二十九条などについて解釈論を展開し、二重の基準論などの違憲審査基準論を用いることによって過度の権利制限という弊害を避けることは可能だと思われます。このように考えると、まず、過度な権利の危険に対して、個々人の道徳論として責任の観念が明記されていることになります。また、政治的、政策的指針として、公共善に相当する公共の福祉の観念が原理として明記されていますから、このような公共的政策の積極的な推進が可能になるでしょう。これは、環境、福祉、生命倫理などの政策に寄与するでしょう。
 自由主義的な通説は、環境や生命倫理などの新しい課題に対応することは困難であるように思えます。これに対して、コミュニタリアニズム的解釈は、公共の福祉という包括的概念を重視するので、古典的な経済的問題だけではなく、このような新しい問題にも適用する可能性があるように思われるのです。
 近年では、環境権、プライバシー権、知る権利などの新しい権利の必要性が主張され、これを根拠にして改憲の必要性が主張されることがあります。しかし、以上の解釈によると、必ずしもその必要性は導出されません。まず、第十三条のいわゆる幸福追求権は、政治的、法的規定と解されますから、これに基づいて、これらの要請にこたえる法律を制定することが可能です。また、必ずしもこれらに対して権利の概念で解決するのではなく、公共の福祉などによる責任、義務の観念で解決することもできるでしょう。
 以上のような解釈を試みれば、むしろ日本国憲法はアメリカ憲法以上にコミュニタリアニズムの原理と一致する規定を含んでいることがわかります。アメリカ憲法の場合、一般の福祉というコミュニタリアニズム的な規定は前文に見られただけであったのに対し、日本国憲法では、第三章の権利の個別的条文において、相当、体系的に公共の福祉が用いられているからです。コミュニタリアニズムの観点からすると、世界に冠たる理想的憲法ということになるかもしれません。
 したがって、個々人における道徳的、倫理的責任や政治的指針という点においても、憲法改正の必要性は必ずしも導出できないと思われます。アメリカのコミュニタリアンが日本国憲法を知って、アメリカ憲法を日本国憲法のように修正しようという議論があらわれても、私は驚かないでしょう。
 さらに、解釈論においては、公共の福祉を、国家における福祉だけではなく、各種コミュニティーにおける公共の福祉へと適用すべきかもしれません。この場合、日本国憲法は、個人、国家の二項対立を超えて、家族、地域等の観点を、各種コミュニティーにおける公共の福祉として、法的というよりも、道徳的、政治的に規定していることになります。例えば、地域的コミュニティーにおける環境問題や景観問題などは、財産権が公共善の観点から制約されることになると思われます。このような可能性を開拓することによって、個人と国家という二元論を超えたコミュニティーの再活性化という現下の課題に対応する憲法解釈を展開することが可能になるのではないでしょうか。
 五、結論――公共哲学の憲法論への含意
 最後に、北米のコミュニタリアニズムに限定されず、私たちの展開している新しい公共哲学の憲法論への含意を、他の思想的立場と対比させつつ述べてみたいと存じます。
 一方で、リベラリズムとの相違点は、一、権利だけではなく、自発的責任、義務を重視すること。二、個人と国家という二項対立を超えて、家族や中間集団などコミュニティーを重視すること。三、倫理性、精神性や共同性、連帯性を重視すること。四、憲法では公共の福祉という概念で示されている公共善、公益を重視すること。五、人々の手によってそれを実現する公共的な民としての美徳を重視することなどです。
 これらと対比して述べますと、社会的保守主義との相違点は、一、多様性や他者性を重視し、非強制的で排他的でないような共同性を追求すること。二、多層的、多元的なコミュニティーを考え、国家をその中の一つとして相対化すること、地球的で地域的、グローカルなアイデンティティーを追求すること。三、閉鎖的で抑圧的な古い共同体ではなく、開放的で自由な新しいコミュニティーを理想とすること。四、国益だけではなく、国境を越えた公益や地域的な公益を追求すること。五、国家から支持される公ではなく、下から、民衆からの公共性の形成と、そのための公共的空間や議論を重視することなどでしょう。
 この新しい公共哲学は、社会的保守主義に比して新しい時代の要請にこたえるものですし、また、リベラリズムとは異なって必要不可欠なコミュナルな理念が存在するので、社会的混乱を避けることが可能になります。
 実は、今回、このような角度から日本国憲法を読み直してみて、リベラルな通説が軽視していた点に気づき、これまで私が思っていたよりもこの憲法がよくできているのに驚きました。
 第十二条については、倫理的責任の観念が盛り込まれていますから、いわば解釈改憲とは逆に、新しい時代の要請に対応するために、憲法の文言そのものに戻れというパラドクシカルな結論になります。また、公共哲学で最近重視している幸福については、憲法学でも重視されているように、第十三条の幸福追求権が存在しており、これを私的幸福だけではなく公的幸福の追求へと発展させることも可能でしょう。また、将来世代についても、前文には「われらとわれらの子孫のために、」とあります。このような要素に注目することにより、むしろ、日本国憲法の発展上に新しい時代の理念を考えることができると思うのです。
 まとめれば、アメリカのコミュニタリアニズムは憲法改正論を提起しておらず、したがって、日本国憲法においても、コミュニタリアニズムの観点からは、人権論についてその必要性は必ずしも存在しません。日本国憲法の場合には、アメリカ憲法に比して公共の福祉のような規定が明確に存在することを考えれば、この点は一層明らかでしょう。
 実は、この調査会では、伊藤哲夫氏が昨年五月に、サンデルやベラーなどのコミュニタリアニズムの議論に言及されて、権利について、自然権的な理解に反対して、歴史論的、共同体論的にとらえることを主張され、防衛の義務や家族尊重の規定を憲法に入れることを主張しておられます。しかし、憲法の理解が誤っているだけではなく、コミュニタリアニズムについても、この用い方は学問的には全くの誤りであります。北米のコミュニタリアニズムは、権利を共同体独特の法の精神ととらえているのではなく、通常の権利の概念を前提にしながら、それに対して、共同体における善の観念の重要性を指摘しているのです。ですから、氏の憲法改正論はコミュニタリアニズムとは全く関係がありません。
 私たちは、エコロジーや将来世代、幸福、責任などの観念を中軸にした新しい公共哲学を協力して開拓しているところですので、純思想的には、それを基軸とした新憲法ということも考えられますが、それは時期尚早でしょう。しかし、これらを憲法の中に読み込んで立法などを行うことは、現行憲法のもとでも可能だと思います。
 リベラリズムは、私が強調した責任や公共の福祉の理念をいわば憲法の不純物とみなし、これらを最小限に解釈して、事実上無視ないし軽視しようとしています。しかし、これらは現行憲法に確かに存在するのですから、解釈を変更して字義どおりに文面解釈を行えば、新しい時代の要請に対応することが可能だろうと思われます。
 したがって、解釈論においては、アメリカの場合と同様に、日本でもコミュニタリアニズム的解釈を展開することが可能かつ有意義であると思われます。そして、その結果、日本国憲法の第三章は、すぐれてコミュニタリアニズム的に構成されている理想的人権と責任の規定とみなすことができると思われるのです。その意味においては、日本国憲法の三大原理のうち、主権在民は普遍的原理ですが、基本的人権の内容には、平和主義と並んで、日本独特の先進的思想が存在するように思えます。
 ですから、国家、共同体、家族、個人の関係の再構築という極めて重要な公共哲学の課題を遂行するためには、憲法改正を直ちに行うのではなく、現行憲法そのものをコミュニタリアニズム的に再解釈し、それとともに政治的、社会的改革を遂行して、現行憲法に内在する潜在的意義を最大限に引き出し具体化させることが、まずは重要であると思われるのです。
 以上です。(拍手)
大出小委員長 ありがとうございます。
 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
大出小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。葉梨信行君。
葉梨小委員 自由民主党の葉梨信行であります。
 参考人、大変包括的なお話を伺いまして、ありがとうございました。
 最後のころのお話については、先生とちょっと意見が違うというか、私も少し勉強しなきゃいけないな、伊藤先生のお説とのそこら辺のぐあい、そう思いますが、きょうはそれは申し上げません。
 私、ちょっと先生の御意見を伺いたいと思いますのは、きょうの先生のお話の応用問題だろうと思うんです。実は、ここ一週間か十日の間に、東京の三大紙で、都市問題について、学校の先生、建築評論家、あるいは大阪の市長さんなど四人の方が意見を述べられまして、それを読んだ感想を申し上げ、最後に先生の御意見を伺いたいと思うんです。
 一つは、六本木や汐留や品川、再開発事業が今盛んでございますが、それに対しまして、積極的な評価をするお考えがございます。同時に、このことに対しまして、こんなことでいいんだろうかという説もございます。
 それは、「日本の都市は、醜く、混乱し落ち着きのないものになってしまった。目新しいきらびやかな超高層建築群が、一時人目をひいても、そこには住む人だけが作りうる味わいはなく、次ができれば人の足はそこに向かって去っていく。そうした都市に住む人に心の安らぎはなく、訪れる人にも真の喜びはない。」「パリの良さは、シャンゼリゼだけにあるのではない。そのすぐ裏に人々が落ち着いて暮らす静かな通りがあるからこそ素晴らしいのだ。住む場所とは、このように、町のかたちと住む人の秩序が歴史の中で形成された空間のことである。」ずっとこの方のお話が続いておりまして、最後に、「細い道に沿って、木造建築が立ち並ぶ、美しい安全な町が、ヨーロッパはもちろんアメリカにもたくさんある」、こういう御感想を述べる方もいらっしゃいます。
 この方々の御意見で、まず、六本木の開発を評価する方々、これは大都市の再開発、大開発でございますが、東京のような超大都市、それから大都市、中都市、小都市、あるいは田舎、町にもいっぱい、いろいろなバリエーションがございます。
 その中小都市につきましては、「都市機能の最低水準を達成することが目標だったが、これからは「美しい都市づくり」を目標とすべきであろう。第二次大戦を経て、わが国は経済成長を維持強化するため、効率性を目標に多くの開発計画を実施した。それが、美しい国土の破壊を招く結果となった。」こういう御説もございます。
 それから、「一方、郊外では家族世帯を中心とし、自然と親しめるような、新しい郊外居住形式を模索することが必要となる。 “美しいまちなみ”の創出も重要なことである。従来は、道路整備は道路用地内にとどまり、建築も敷地内は権利者の自由裁量に委ねられていたが、今後は、住区、街区ごとに多くの人との協働が不可欠となろう。」こういうお話もございます。
 それから、東京や大阪にございますね、木造密集市街地。これにつきましても、ある方は、「二十世紀の「負の遺産」といえる木造密集市街地を解消するとともに、自動車の普及によって郊外へ拡散した都市構造をコンパクトにするなど、都市を再構成することが大きな課題となっている。」こういう積極的な評価をしておりますが、片方の方は、密集市街地と一緒に、細い、昔からの建物、お店や住宅や何か、そういう味わいのある町を、密集市街地は防災の観点から整備するとしても、残したらどうだ、こういう御説もございます。
 そして、大阪の市長さんは、財政から、都市の財政が、会社が、大会社が東京へどんどん移っていってしまって、税金が吸い取られて、大阪から東京に持っていかれて、大阪も衰微してしまっていて、地方財政の財源でございますか、これの確保ということで、格別いろいろ手だてをしなきゃいかぬ、こういうことを書いておられます。
 これから先でございますが、これは大学の先生のお話でございますが、欧米では、工場が町の中にあったりして環境が汚染されたので、都市計画が始まった。住民の生活の質を保護したり景観の保全のために、土地の所有権に厳しい規制をかけるようになった。パリでもロンドンでもニューヨークでも、市民の、こんな都市にしたい、こういう町に住みたいという自己主張やつくる意思が感じられる。ところが、日本では明治時代以来、個人も法人もどのように土地を利用しても自由だという、言ってみると、絶対的土地所有権をできるだけ規制しない方向で来た。そして、そういう状況が現在続き、六本木その他、今東京で見られるような状況が出ているという御説でございます。町づくりをポスト公共事業とか新しい産業の創生といった経済の観点でしか考えていない、こういう批判もございます。
 そこで、この方が、美しい町とはどんな町かということを述べておられますが、アメリカの建築家のお話を引きまして、精神的ルーツや過去とのきずな、美しい眺望がある町だと。都市は少しずつ歴史を積み重ねながら成長するとも指摘しておられ、過去の遺産の上につくる意思を持って美しい都市は保たれてきた、これを憲法や法律が担保している、こうおっしゃっているわけでございます。
 実は、国会議員になりまして、何回かヨーロッパに視察に参りましたが、ドイツに参りまして、中小都市でございましょうが、町並みが美しく整っている。それを聞きますと、その一帯の、一連の地域は、地区計画を立てるについて、その地区の住民と自治体とのお話し合いを重ねて、そして、どういうふうな町にするか、建物は何階建てにするか、色はどうだということまでいろいろ工夫をして、メルヘンの中の町といいますか、私ども行って、本当にびっくりするような町づくりが進められているわけでございます。
 そして、去年十二月に、東京地裁が、国立市のマンション撤去訴訟判決で、景観を守ることは土地所有権の内部に含まれる義務だという判断を示している。ドイツのような、土地所有権には義務が伴うという考え方に……
大出小委員長 葉梨委員、簡潔にお願いします。残り時間二分でございますので。
葉梨小委員 判決は近づいている。日本でも、憲法の中に美しい都市をつくる権利を定めて、新たな都市法を制定するために動き出す時期ではないか、こういう御意見が載っておりまして、私は、これはごもっともだなと思ったんです。
 先生、どういうふうにお考えになられるか。
小林参考人 簡単に申し上げます。
 ローカルなコミュニティーの伝統を重視しての景観規制、景観づくりという問題だろうと思います。
 これは、エコロジーの方の人でも非常に重要な問題で、コミュニタリアンの観点からもまさに非常に重要な観点だと思います。もちろん、全くこのエコロジー的観点ばかり重視しますと開発とか近代化が不可能になりますから、過度なことはよくないと思いますけれども、原則的に、私は、そういったものは非常に重視するべきだと考えております。
 憲法との関係で申しますと、第二十九条の第二項、財産権は「公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」第三項が「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」これは公共の福祉の中でも非常に例外的な規定でして、普通は、公共の福祉に反しない限り云々なんですが、これは逆に、公共の福祉に適するように定めるというふうになっていますから、景観問題に関してはむしろ積極的に法律をつくれるということが憲法で定められているわけです。
 こういったことは憲法学でもある程度言われていることですけれども、コミュニタリアン的観点から見てもまさにこれは大事でして、先生がおっしゃったような観点で立法を行うということを私は支持したいと思っております。
葉梨小委員 私は、二十一世紀の日本のあり方としての宣言条項として環境権をうたうべきであるということを何回かこの場でも申し上げましたが、この美しい町づくりの権利ということをうたってみたいと私は考えている次第でございます。
 どうもありがとうございました。
大出小委員長 次に、水島広子君。
水島小委員 民主党の水島広子でございます。
 本日は、小林参考人、本当に貴重なお話をいただきまして、ありがとうございました。日ごろ考えておりますことに理論的な根拠づけをいただいたような気もいたしまして、大変勇気を持たせていただいたところでございます。
 幾つか確認をさせていただきたいと思うんです。
 まず、コミュニタリアニズムというのは、きょう先生からは非常に学術的なお話をいただいたわけでございますが、これは、平たく言いますと、自分が暮らす社会とか、あるいは自分が子供たちや孫たちに提供していく社会というものをよりよくしていこうとしていくような、そういう自然な気持ちに基づくものと考えてよろしいのでしょうか。先生も先ほどちょっと触れていらっしゃいましたが、これはつまり、広い意味での幸福追求というように解釈してよろしいものなんでしょうか。
小林参考人 それで大体結構でございます。
 ただ、コミュニタリアンの場合は、ローカルな共同体の伝統とか、それを前提にした人々の意識に基づく自治、この辺を強調いたします。
水島小委員 ありがとうございます。
 先生が資料の一枚目で最初に触れられておりましたコミュニタリアニズムの中で重要視されるもの、「自由、善、共同体、伝統、美徳一般、責務」とありまして、今先生がおっしゃったようなことでもあると思うんです。
 この中で、大体理解できるんですけれども、伝統というものの位置づけだけ御説明いただけますでしょうか。
小林参考人 通常のコミュニタリアンは、伝統の中で、例えば人生どう生きるべきかという理念があり、善を規定するものがあるので、人格形成のために伝統が重要であるというふうに説くわけですが、ただし、この伝統自体も時代によって変わっていくものですし、また、その時代に生きる人々の考え方によって伝統自体は変わるわけです。ですから、不変のものとして伝統を考えているのではなくて、伝統自体も変わっていく、また、人間はそれを変えていく存在だ、こういうふうな観点で私は考えております。
水島小委員 つまり、伝統というのは、伝統というものがあって、それが現代に生きる人たちを圧迫するというようなものではなくて、そこで暮らしている人たちが自発的につくり出してきたルールのようなものと考えてよろしいんでしょうか。
小林参考人 コミュニタリアンにいろいろなものがありまして、保守的なコミュニタリアンは割と伝統的な伝統を強調する。また、それに対して、伝統の変革の可能性、それを選択する可能性というものを強調しております。
水島小委員 ありがとうございます。
 この中で、道徳とか美徳一般とかモラルとか、そのような言葉で語られていると思いますが、この道徳というものを先生はどのように定義していらっしゃるか、教えていただけますでしょうか。
小林参考人 倫理と言うときには非常に内面的な要素を強く考えると思いますけれども、道徳の場合、やはり社会である程度共有されている価値というものにウエートを置いて考えております。
水島小委員 社会である程度共有されている価値というのは例えばこんなレベルのものだというのを、もう少し御説明いただけますでしょうか。例えば、人に暴力を振るってはいけないというようなレベルのことなのか、人のものを盗んではいけないというレベルのことなのか、あるいはまたもう少し違ったレベルのことなのかというのは、どのあたりの話なんでしょうか。
小林参考人 そういった一般的な意味での道徳ももちろん含みますし、地域と時代においては、例えば中国であれば、儒教が強かった時代には儒教的な倫理観というのが非常に強かったわけですね。今日、あるいは、プロテスタンティズムが強い地域ではプロテスタントの道徳というものがあります。ですから、これは場所と時代によって変わるわけですけれども、そういった宗教的ないし文化的な要素も広げて考えております。
水島小委員 道徳のイメージとして、それを守っていれば本当に大体の人が、ある程度生活上の個人としての幸せも満たされるというようなものなのか、あるいは、時によっては、ある人にとっては道徳に従うということが苦痛でしかないようなものなのかというと、どちらのイメージになりますでしょうか。
小林参考人 私は、本来の道徳は個人を幸せにするものだと思いますけれども、全部の道徳がそうだとは言えないので、封建的な道徳というものがあった時代があることは確かだろうと思います。
水島小委員 こういうことを先生に御質問すべき質問なのかどうか、これは政治の場で議論しなければいけないことなのかもしれませんけれども、私は、かねてから、選択的別姓を認めるという、夫婦別姓のことに取り組んでおりまして、これをやっていると、道徳的じゃないとか倫理的じゃないとかいつも言われたりするんですけれども、私は決してこれは道徳的じゃないと思っていないんですが、先生の御意見はいかがでしょうか。
 つまり、いろいろな形の家族が現に存在しているし、いろいろな形の家族が存在していて、その中で求められている道徳というのは、きちんとそこの地域に住む家族として地域に参加をしていくことであるとか、あるいは家族で子供を持っているのであれば子供をきちんと養育していくことであるとか、そういうことが求められている道徳であって、どういう名前を名乗るとか、そういうことはちょっと違う次元のような気もしているんですけれども、先生の御意見を伺えれば幸いでございます。
小林参考人 コミュニタリアンは、やはり共同体の一つとして家族を非常に重視します。その意味では家族制度は非常に大事だと思っているんですが、同時に、家族というのは時代において変化するものです。ですから、おっしゃったような問題というのは、変化の中の新しい共同体、家族のあり方に対応する一つの制度だろうと思っております。
 ただ、この問題、私も確たる見解はないのですけれども、夫婦の間の問題だけではなくて、子供とか将来世代の観点から見るとどうなるかということを考えるのがやはり大事だろうと思っております。
水島小委員 今、子供とか将来世代へということをおっしゃって、私もそういう観点は非常に重要だと思うんですけれども、この道徳というものと、現にいろいろな形の家族がもう存在してしまっているということとの関係の中で、封建的な時代にはいろいろな人たちが苦しんできたという歴史があったと思うんです。やはり、そこから脱して自分たちで新たなモラルをつくっていこうとするのが恐らく先生もおっしゃりたいことかなと思うんですけれども、その場合には、やはり子供のこと、将来のことを考える上で、それぞれの人が積極的に参加できるような形の新たなモラルであれば、ある程度、子供のこと、将来的なことというのもプラスの効果を生むのではないかと思うんですけれども、いかがでございましょうか。
小林参考人 私もそうなることを希望しているんですが、ただ、コミュニタリアンの議論の背景にアメリカの家族制度の崩壊がございまして、これが犯罪率の上昇等の現象をもたらしている、だから家族が必要だという議論が出発点にありますので、これをクリアするための対策というものを考えることが同時に大事かというふうに考えております。
水島小委員 本当におっしゃるとおりで、やはり家族がきちんと信頼して、お互いに愛情を持って暮らしていくようなことであるとか、あるいは、どうしても事情から離婚しなければいけないようなときにも、人間としての尊厳をお互いに侵し合わないように関係を維持していくこととか、子供と親との関係は、きちんと親子関係は持ったまま離婚していけるようにしていくこととか、限りなく道徳的にやっていくということは必要だなと私も思っておりまして、先生も恐らく今の御趣旨、そのようなことだと受けとめさせていただきました。
 さて、先生のお説の中でも、また私もそう思っておりますが、国家から押しつけられる公ではなく、積極的な公共の精神というものが必要なんだ、そういうことだと思うんですけれども、これを教育現場に応用させていこうとすると、どんな形になりますでしょうか。あるいは、どんな、今までいろいろなお説がございましたでしょうか。
小林参考人 つまり、公共の精神の形成のためには、例えばディスカッション、議論をして、何がいいかという決定プロセスというものを練習する過程が大事だと思うんです。
 例えば、公民というような教科がありますけれども、これまでそういうようなことは必ずしもトレーニングされていたとは思えないので、これを教育の現場で展開する。しかも、それが自分の個人的利益ではなくて、全体の利益につながるような結論を見出す、そのための手法を身につける、そういうトレーニングをすることが必要かと思います。
水島小委員 大変うれしいお答えをいただきまして、ありがとうございます。
 また、何か次々と矢継ぎ早に質問して申しわけないんですが、先生にいただきました資料の四ページ目にもございますが、「社会的保守主義は価値の法制化を図ろうとするが、逆効果や歪んだ効果を招く」と書いてあります。これは本当に私は実感していることでございまして、常に立法者が気をつけなければいけないことだと思っているんですが、これをどうしても理解していただけない方たちが国会の中にもいらっしゃいまして、こういうのを定めれば絶対社会はよくなるんだと、多分善意からだと思うんですが、信じられている方たちがいらっしゃるんですが、これがどういうゆがんだ結果を招いてきたかとか、そのような実例を、先生、学問的な立場から少し御説明いただけますでしょうか。
小林参考人 アメリカで一番典型的に挙げられるのは、禁酒法の制定ですね。プロテスタンティズムの観点から酒は不道徳なものであるということをした結果、マフィアの非常に大きな繁栄を招くし、一方お酒の方は減らなかった、結局法律はやめざるを得なかった。これが最大の例として挙げられています。
水島小委員 本当にそのようなことだと思います。
 きょう、本当に、今まで矢継ぎ早に質問をしてまいりまして、先生も御協力をいただいててきぱきとお答えをいただきましたので、聞きたいことが大体聞けて本当にありがたく思っているところなんです。
 まとめますと、そういう価値を法律にしていくのではなくて、やはり今ある憲法、きょうまた憲法の新たな価値というものを再認識させていただいたわけでございますが、その中で、とにかく今できることを道徳的にやっていこう、この可能性をもっと追求していく中でまた社会的なモラルを向上させていくのがまず我々がすべきことである、そのために立法措置が必要なものは立法していく、そのようなふうに解釈をさせていただきましたが、最後に、その点だけ御確認をいただけますでしょうか。
小林参考人 全くそのとおりであります。
水島小委員 本当にありがとうございました。
大出小委員長 次に、太田昭宏君。
太田(昭)小委員 公明党の太田昭宏です。
 国家、共同体、家族、個人、これらの観点で、今までずっと憲法調査会をやってきまして、アメリカに押しつけられたとか、そういうような観点で余り論議は、もうその次元は終わったと。ところが、いわゆる欧米の価値観というものが底流にあるということで、その言葉の背後にある思想、哲学というものが果たして、日本国憲法として、そこも含めて直していった方がいいのではないかというような観点での論議がかなり今主流になっている気が私はするんです。
 そこで、家族というものについて、欧米の家族観と日本の家族観というものは、当然そこには儒教が背景にあった上での、つまり、普遍性というものをどこに置くかというときに、儒教は、どちらかといいますと、人間の血の連続という中の普遍性というものを普遍的に見る。あるいは、神道は、これは天皇制にもかかわることですが、どこに普遍性を見るかというと、日本の風土、自然というものにかなり普遍性を見る。仏教は、ここに個人と書いてありますが、個人というよりも、むしろ人と言ったり人間という言葉の方が当たると思うんです。
 憲法十三条の個人の尊厳ということは、日本的に言うと人間の尊厳に近いと私は思っているわけです。自分自身が輪廻転生の中で永遠であるというような仏教的な物の考え方や、あるいは自然との共生、人と人との間に人間は生きる、和辻哲郎さんの「人間の学としての倫理学」に書いてあるような、そういう観点での人間観というようなものがあって、そこに個人という言葉と、私はどちらかというと、人間とか人と言った方が東洋とか、人間観にはいいのではないかというふうに思うんです。
 その辺の、日本の憲法論議あるいは憲法をつくるという背後にあるところの国家共同体、家族、個人の関係の再構築という問題で、今の憲法の中に、そうしたことも含めて、憲法改正を直ちに行うのではないという観点というのは成り立つのかなと思うんですが、先生、その辺はいかがでしょうか。
小林参考人 私、普通の哲学、すなわち公共哲学では、先生が御指摘のようなことは非常に大事だというふうに考えているんです。
 例えば、儒教的観点とおっしゃいましたけれども、儒教を、先祖に従うとか親に従うという観点よりも、むしろ血の連続という観点から考えますと、子供とか将来世代へのつながりを考える、そういう観点から再構成することができると思いますし、あるいは神道における和の思想とか、あるいは仏教における自然に対しての思想、こういったものは、例えば、近年ヨーロッパでもディープエコロジーなどで重要視されている要素だと思うんです。ですから、必ずしも西洋的、東洋的というだけではなくて、西洋思想の中に変化もございますので、そういったヨーロッパ的立場とそれから東洋的な立場というものを総合するのが今後の哲学の大きな課題だろうと考えているんです。
 ただ、これを実際に憲法にどういうふうにするかということになりますと、今言ったような基礎的な哲学にプラスアルファ、さらに政治、法律をどうするかということが大課題になる。これをやるということは、ある意味では革命的な変化をもたらすと思うんです、さまざまなところに。ですから慎重でなければならないというふうにきょう申し上げたので、将来的にそういう可能性は十分にあり得る、しかし現状では、少なくとも私が知っている限り、学問の世界、思想の世界では、まだそこまでの理論展開はなされていないというふうに申し上げました。
太田(昭)小委員 共同体の崩壊ということは大変気になることですが、しかし、国家というものと郷土ということについて、例えば教育基本法論議の中で、郷土と国を愛する心ということがさりげなく書いてあります。私は、郷土を愛する心というのと国家を愛する心というのは違うと思います。人間の自然的な延長線上にある郷土愛という、私はパトリということの方が人間の自然だろうというふうに思いますが、その辺の、国家というものと郷土愛というものについて、先生はどうお考えでしょうか。
小林参考人 公共哲学では、少し申し上げましたけれども、グローカルなアイデンティティー、あるいは多層的なアイデンティティーというものを強調しておりまして、その中の一番身近なものが、先生御指摘のような郷土愛、パトリに属するものである。つまり、パトリオティズムをやはり郷土のところで見るべきだ。と同時に、またグローバルないしコスモポリタン的なアイデンティティーも必要だ。そういったコスモポリタン的なグローバルなアイデンティティーの上に、やはりローカルな、パトリに属するようなアイデンティティーが必要であるというふうに考えておりますので、今後、アイデンティティーについてはそういったような展開というものが必要だと思っております。
太田(昭)小委員 ナショナルという意味の、民族的というのと国家的というものも私は違うと思うんですが、先生はその辺いかがでしょうか。
小林参考人 おっしゃるとおりだと思います。国家的という場合には、少なくともヨーロッパのステートの場合には国家機構の意味が強く入りますから、伝統的な国とは語感が違ってくるわけです。
太田(昭)小委員 私も、ネーションとステーツというのは違って、ネーションとステーツが図らずも一致して二十世紀の国家論というのが展開されてきたというのが、二十一世紀はこれが分離をしてくる時代であるという認識をしておりまして、恐らく先生、同じでよろしいでしょうか。
 それから、家族とかあるいは個人というものが、個人というのは先ほど申し上げたようなことで私は言うわけですが、個人というのが「私」になってきているというところが私は非常に気になるところでありまして、公と私の対立ということを言う方がいらっしゃったり、公と個というのが対立すると言う人がいますが、私は、あくまで個が「私」に成り下がっているというところが今の日本の問題ではないかというふうに考えているわけですが、家族とかあるいは個人というものが「私」に成り下がるというのは、何ゆえに戦後起きてきて今問題になっているかということの、さまざまな要因があるでしょうが、それをどこに見ますか、先生は。
小林参考人 先ほどのネーションをちょっとつけ加えますと、私、ネーションというものは、今、例えばその中に、小さな、ローカルなコミュニティーとかエスニック問題が出てきているので、先生がおっしゃるように分離してきているというふうに、同感でございます。
 今の御質問ですけれども、戦後の中で、つまり滅私奉公に対抗するものとして「私」が非常に強調されたんですが、私はやはり、先生おっしゃるように、その「私」というものが、エゴイズム、利己主義の方に理解されてきたという嫌いが非常に高い、それがさまざまな腐敗とか道徳的退廃につながったと。ですから、やはりここは倫理問題でして、必ずしも国家イコール公に結びつくものではないような倫理的、道徳的な個と、そうではないやはり非倫理的な私と、この二つを区別することが大事かと存じます。
太田(昭)小委員 そうした問題が、家族とか共同体が崩れてきているというものの再編というか再構築という中で、常に国家というものによる求心力というものが安易に求められていくような傾向が私は感じられるんですが、そういうものの求心力というのはどういうふうにしてつくり上げていったらいいというふうにお考えでしょうか。
小林参考人 私はやはり、現在、先ほど言ったグローカルな、つまり国際的な方向とローカルな方向とに現在分化しつつあると思うので、その意味では、国家というものは相対化されてきている。
 ただ、コミュニタリアンの場合は、国家を解体するというところまで主張していなくて、例えばアメリカのコミュニタリアンの場合には、憲法を中心とする基本的な価値のもとに国家を構成するということを言っているので、日本においても同じことを考えられてしかるべきだろうと思っております。
太田(昭)小委員 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、武山百合子君。
武山小委員 自由党の武山百合子でございます。きょうは、お話ありがとうございます。
 早速ですけれども、太田先生の話の続きになりますけれども、公共の哲学ですね。第二次世界大戦の後、GHQのつくった憲法によって日本の国はずっと統治されたような形になって今来ておりますけれども、個とそれから公という形で、大分いろいろと、歴史的にも文化的にも倫理的にも、本当に物すごい大きな変革だったと思うんですね。
 それで、今、いろいろな過去の考え方が崩壊して、新しいものを生み出していかなければいけないという、ちょうどその谷間というかはざまにおるわけですけれども、今後、この公共の哲学に対して、どういう基軸を持ったらいいんでしょうか、公共の哲学に対して。
小林参考人 基軸というのはなかなか難しい御質問だと思いますけれども、やはり公共というのは、個を何らかの意味で超えている、そして全体のことを考えるという精神だろうと思うんです。ですから、その点で先ほどから倫理や道徳と申し上げているんですけれども、ただ、倫理や道徳というものも、今日の世界においては、一つの伝統には収れんし切れないわけです。
 アメリカの場合でも、プロテスタンティズムだけではなくて、他のさまざまな文化、伝統が入ってきていますので、それら全体の中で、共通する要素として、個を超えたような配慮、精神性というものが基軸になるのではないかと考えております。
武山小委員 日本という国は単一民族で、多民族国家のアメリカとは大変違いがあると思うんですね。それで、歴史的、文化的に、単一民族なものですから、そこである程度の、いわゆる常識を持った、いわゆる共通の土俵というのは持てるんじゃないかなと思いますけれども、それについてはいかがでしょうか。
小林参考人 日本も、正確に言いますと、単一民族というふうに学界では考えておりませんで、やはり、例えばアイヌとか琉球等々において多民族というものがあったということですし、今後さまざまな人が流入してこられると思いますので、ますますそういった要素は高まるだろうと思っております。
 ですから、私が先ほど申し上げたのは、日本においても、やはりそういった多様な要素というものを包括するような共通の価値観の構成が必要だと申し上げました。
武山小委員 細かく言えば、確かに、今おっしゃったような、単一民族、一つではないわけですけれども、でも、私は、比較の問題で、アメリカはもうあらゆる国から移民として入ってきておるものですから、どちらかというと、文化の成り立ちというものを見ましたら大きな差があるという意味で、余り重箱の隅の議論じゃなくて、大きな意味の共通の土俵という意味で今質問したわけです。
 それでは、公共の福祉ということでお聞きしたいと思います。
 例えば、いい病院が欲しいと市民が思った場合でも、なかなかいい病院がその地域にない。実際になかなかできない。それから、いろいろな意味で、公共の施設にしても、それから公共の、小さなことなんですけれども、なかなか変えられない。これは明らかに公共の福祉に反しているんだけれども、それがなかなか変えられない。
 それはなぜかといいますと、市場経済の優先性といいますか、市場の原理にどうしても公共の福祉の方が後になってしまって、例えばの話、よく、地元を歩きまして、道路に、本当に危ないところに電柱なんかが、例えば一メートルぐらい道路に入ったりしているわけですね。単純な比較ですけれども。
 それから、NTTが電話のいろいろな管理をしていまして、今、多種多様な企業が入り込んできておりますけれども、実際は、例えば番号を変えるとき、東京都内の場合は区で番号が変えられるかと思いますけれども、まだ、地方に行きますと、同じ一丁目でも中央の道路をもとに西と東は番号を変えなきゃいけないとか。ささいなことですけれども。
 そういうものに対しても、公共の福祉から考えますと、国民の側にとっては、公共の福祉といいながらなかなか現実的にはなっていない。それは、市場経済が優先されている、こういう問題が、私は今細かいことを言いましたけれども、多種多様な問題が山積されていると思うんですね。こういう問題に対してはどう思われますでしょうか。
小林参考人 全く同感でございまして、つまり、市場経済というものが極端になりますとさまざまな問題が生まれてくるわけです。
 昔ですと、それを批判したのが、例えば社会主義や共産主義だったわけですけれども、今日それは成り立たないというふうに言われておりまして、それにかわる思想として、やはりコミュニタリアンというものが出てきた。その場合には、やはり共同体ないし国家も含めて、そういった全体の公共性、公共善を考える。
 ですから、市場経済のさまざまな問題に当たって公共善の観点から福祉を考えるということが必要になると思われます。
武山小委員 先ほど葉梨先生の方で御質問されたんですけれども、いわゆるコミュニティーの話ですね。町づくりから景観から伝統文化からなんですけれども、今、そのコミュニティーの問題で、日本のいろいろなコミュニティーは伝統文化がなくなってしまって、残っていても少しという感じで、大きなさま変わりなんですね。
 例えば、駅のすぐそばにパチンコ屋さんが何軒も来たり、夜だけ商売をする飲食店がすぐそばに、一等地に来たりとか、本当に町づくりがめちゃくちゃな部分もあるわけですね。
 こういうのもまさに公共の福祉に、住んでいる市民からすれば大きな迷惑なんですけれども、でも、実際はほとんど何も考えられない。しかし、市長さんとか首長のトップになったら、そういうことというのは行うことができるんじゃないかと思うんですけれども、なかなかいかない。そうしますと、公共の福祉、公共の福祉と言いながら、何だということを市民は思っているわけですね。
 こういうものもきちっと憲法の中で明記すべきじゃないかと大きな意味で思うんですけれども、いかがでしょうか。
小林参考人 先ほども少し触れましたが、ほかに、第二十九条で、財産権について「公共の福祉に適合するやうに」定めると憲法の中に書き込まれておりますし、第二十二条においては、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」ということで、「公共の福祉に反しない限り、」という制限がついております。
 ですから、先生御指摘のような極端な市場経済のもたらす弊害というものを現行憲法によって規制することが可能だろうと考えます。
武山小委員 それでは、現行憲法によって規制されているにもかかわらず、そういうふうにして現実は行われて、公共の福祉を考えていないわけですね。そうしましたら、市民が最高裁まで闘って頑張らないと変わらないということになるんでしょうか。
小林参考人 いえ、これらの規定は単に道徳的規定ではなくて政治的な規定でもありますので、政治が、立法府がそういう法律をつくって、それに従って規制することが国あるいは地域の共同体において可能だろうと考えます。
武山小委員 例えば、それはどういうふうな手順で、どんなものをつくるんでしょうか。ぜひ、わかる範囲で御提示いただきたいと思います。
小林参考人 例えば大店法の規制なんかも現実にありますので、そういった市民の声あるいは国民の声が上がれば、それをある特定のものについて規制するという法律をつくることは可能ではないかと、私は専門家ではありませんが想像するものです。
武山小委員 地域では、そういう声はたくさん上がっているんですね。多種多様な声というのはたくさん上がっていると思います。しかし、前に進んでいかないというのが現実なんですね。それは地方議会それから国政にも影響があって動かないということであろうけれども、どこに問題があるんでしょうか。
小林参考人 これは、やはり公共性の問題でして、残念ながら、まだ日本の市民あるいは国民が自分たちの声を政治に反映させるような公共的な議論、そして政治参加、トレーニングというのが十分ではないと思いますので、先ほど話題の出ましたような教育というものを通じて、あるいは実際の経験を通じてそういうことを積み重ねていくという地域自治及び国政における自治の習熟が必要だと考えます。
武山小委員 それでは、ヨーロッパのいわゆる公共の福祉というものと日本の公共の福祉というものの大きな違いというのは、どんな違いでしょうか。
小林参考人 公共の福祉という概念は時代によってさまざまに異なっておりまして、ヨーロッパにおいても、過去においては君主が定めるものあるいは君主が市民のことを考えるものを公共の福祉と呼んだ時代もございます。日本の場合、明治憲法にも似たような観念がございましたが、やはり同じようにとらえられておりました。
 それで、ヨーロッパにおいて意味転換というものが行われて今日の公共哲学につながっているのですが、現在の日本においては、戦後憲法にもかかわらず、まだ十分にその観念が一般の国民に定着していないのではないかというふうに愚考しています。
武山小委員 では、最後になりますけれども、今の現実の社会を見据えた公共の福祉と、今のヨーロッパの、どの国でも結構ですけれども、ドイツにしますか、ドイツの公共の福祉との現実の大きな差というのを一つお聞きして、終わりにしたいと思います。
小林参考人 それは、やはり市民参加の度合いが一番大きいかと思いますね。実際に、ヨーロッパに行って、私が行ったのはイギリスですけれども、イギリスなんかですと、パブリックな、雑談のところなんかでも宗教の話題と同時にすぐ政治の話題もばんばん出るわけですね。私が行ったとき、イギリスはちょうど政権交代のときでしたから、それは非常に激しかったんです。
 日本においては、残念ながら、一般の会話においてそういうことが出ることは非常に少ないので、この辺にも象徴的にあらわれているのではないかというふうに考えます。
大出小委員長 次に、春名直章君。
春名小委員 日本共産党の春名直章でございます。
 きょうは貴重なお話をありがとうございました。公共の福祉論について私からもお伺いしたいと思います。
 憲法学界が、国家による人権制限を防止するために、公共の福祉の解釈を限定的に行ってきたというのはそのとおりでありまして、それには理由があると思うんですね。私、二点あると思うんですよ。
 一つは、戦前の日本が、国民の権利は法律によって幾らでも制限が可能、こういう明治憲法のもとに置かれていたということ。もう一つは、戦後も、日本国憲法が何の留保もつけずに保障するようになったはずの人権に対して、国家による国民へのやはり不当な人権侵害が相変わらず続く事情があって、国家が公共の福祉というのを勝手に基準を決めてどんどん拡大していくというようなことになれば、そういう政治状況、社会状況からいって、大変重大な問題になるということがあって、人権と人権の調整原理ということをしっかり見定めながら発展してきているというふうに思うんですね。
 そのことは、今審議されている有事法制で典型的に示されたんですね。実は、武力攻撃事態のもとでは、国民の自由と権利を制限できると言うんですね。こんなことは初めて条文で入るわけですけれども、その根拠に、国及び国民の安全を保つという高度の公共の福祉というのを掲げて、それが憲法十三条に規定されている公共の福祉にのっとったものだということまで言われているわけです。公共の福祉論の悪用だと私は率直に思っているんです。
 そこで、お聞きしたいんですが、今のこういう日本の政治状況について参考人はどうお考えになっているかということと、特に公共を悪用した日本の政治状況を克服するために、やはりコミュニタリアニズムはどういう回答を用意されているのか、改めてお聞かせいただきたいと思います。
小林参考人 まず、憲法学説との関係の方ですけれども、おっしゃるような理由で、これまで内在的な制約説というものを憲法学界ではとってきたわけです。
 私も、もちろんその価値というか、必要性は認めておりまして、ただ、戦後直後の解釈で公共の福祉を重視したものがなくなったと言いますが、実際には、公共の福祉をコミュニタリアン的に私の言うように解釈しても、その上で二重の基準論などの憲法技術、法律解釈技術というものを使うことは可能だと思っています。
 ですから、私がきょう申し上げたのは、そういったダブルスタンダード論等の権利の制約を過剰にするという危険を無視するのではなくて、コミュニタリアン的解釈の上でそれを行うということを考えているということで、実質的には権利制限の危険というものはふえないというふうに考えております。
 それから、難しい問題、有事法制との、現実の政治情勢との関係ですけれども、有事法制について私は専門的ではございませんので、いかんとも言いがたいところがございますけれども、実際にリアリスティックな観点から申しますと、例えばアメリカの先制攻撃論等の、世界的な軍事戦略の中における有事法制だという論点が重要だろうと思っています。
 つまり、有事法制論それ自体から見れば、例えば有事法制というものをつくらない場合に比べてあった方がいいのかどうか、あるいは違憲解釈はどうかということに関して、私は、確実に違憲とは申し上げられないと思うのです。つまり、公共の福祉論が悪用されているかどうかということについては、私は、必ずしも悪用されているとは断言できないと思うのです。
 ただ、世界状況の中で今言ったようなことを考えると、これは自衛のための有事法制かどうかということが問題になりますので、むしろ第九条との関係が問題になるだろうというふうに考えているわけです。
 それから、こういった世界状況の中で、コミュニタリアンがどういうことをということですけれども、私は、第九条における平和主義というのは、コミュニタリアン的観点から見ますと、日本における和ですね、大和という国語にあるような、和の精神が戦後の段階であらわれたものと考えていますので、その平和主義を貫くということがコミュニタリアン的観点から見た場合の今日の政治状況に対する一つの返答であろうかと考えております。
春名小委員 家族の問題を次に聞きたいんです。
 参考人からお話があったように、個人対国家という二項対立を超えて、共同体、家族との関係の再構築を考えるというのは極めて重要である、ただし、これは義務条項を入れるような憲法改正論には直ちには結びつかない、こういうことをきょう陳述いただきました。
 この点でいいますと、既に立法の分野では、例えば児童虐待あるいはドメスティック・バイオレンスを防止する法整備ができていますけれども、ここに公私二分論を超えてそういう立法体系をつくってきているというのは、既に先行しているわけですね。
 一方で、こういう議論があります。少年犯罪とか教育の荒廃、児童虐待が起こるのは、憲法に家族を保護するという規定がないからだという意見が一部に出てくるわけです。その立論は、憲法は個人の尊重、法のもとの平等を基本原理としているがために、国民は利己的になり、家族が顧みられない、これは家族解体に結びつくものである、だから家族を社会の基礎単位として尊重、保護する規定を設けるべきだ、こういう考え方ではないかと私が理解しているわけです。
 しかし、翻ってみると、こういう御主張をされている方々の中で、実際に、現実に起きている家族生活を困難にしている問題がありますね、長時間労働の問題、母性保護のない男女平等という問題、そういう問題については大変むとんちゃくで、立法措置できちっと、家族を崩壊させない手だてというのはいっぱいあるはずなのに、そういうことは余り言及されないということになっているように思うんですね。やはり家族というものを狭く、戦前の家制度のもとでの家族というか、そういうふうに戻したいというような意図もあるように思えてなりません。
 そこで、この点で参考人にお伺いしたいのは、コミュニタリアニズムというのは、これとは無縁の、むしろこうした潮流と対抗するものだというふうに私は思っています。こういう家族観についてどういうお考えなのかということと、それから、そういう家族観の危険性と対抗するためにコミュニタリアニズムというのはどういう回答を用意されているのか、そのあたりをお聞かせいただきたいと思います。
小林参考人 先ほど言いましたように、コミュニタリアンは家族の価値を重視するわけですけれども、リベラルなフェミニズムの場合、ある意味では結婚を非常に容易に解消可能な契約のように考えるけれども、子供や将来世代の立場から考えると単純には言えないと思うのですが、憲法との関係を考えた場合には、第二十四条に、婚姻など家族について条項が入っていることが重要だと私は考えています。リベラルな極端な立場の場合、家族関係は契約に換言できるので、民法典でも、第四編の「親族」をなくそうという考え方を聞いたことがあるのですけれども、この考え方には反対です。
 ただ、今申し上げたこと、つまり、民法典からすら親族規定をなくそうという話と、憲法典に家族を入れるという話は随分ずれがありまして、先ほど申し上げたように、憲法典では道徳的訓辞は望ましくないので、それは余り、現状では時期尚早だ。一方で、現在二十四条がありますから、そのもとで立法を行うことは可能なので、御指摘のようなさまざまな最近の立法例というものは、その意味では非常に大事だというふうに考えています。
 コミュニタリアンは家族の変容というものを重視する、あるいは直視しますので、その新しい家族観の変容の中で、どうやって共同性、あるいは子供のため、将来世代のためというものを可能にするかということを考えているところでございます。
春名小委員 公共哲学の問題で、先生今、公共哲学ネットワークの活動をされて、いろいろ注目されていると思うのですけれども、その公共哲学の観点から見たときに、この間、先ほど最初の質問でも少しお答えいただいたのですが、アメリカの行動とか、報復戦争、イラク戦争が世界にもたらしてきたものがどういう事態なのかということをぜひお聞かせいただきたいなと思うんですね。地球的規模の公共性を構想するためには何が必要なのかということです。
 イラクの非戦声明というのをお出しになっておられるのです。その中に、「私たちは、憲法前文の平和的生存権や第九条の非戦の精神が地球的な平和公共哲学として世界に広がり、二十一世紀における「いのちの平和文明」の礎となることを念願する。」ということも声明の中に述べられていまして、このあたりのことを少し聞かせていただきたいと思います。
小林参考人 これまで日本の平和主義というのが一国平和主義というふうに批判されることがあるように、やはり日本自体の平和ということを論じるというふうな批判がなされてきました。ですから、今の段階では、視点を世界に広げて、グローバルな観点で公共性を考える必要がある。
 やはり公共性、公共善という観点から見ると、戦争は最も危険なもの、公共悪に相当するものですので、日本とかけ離れたところにあるような中東の危機であっても、やはり日本はそれに加担すべきではないと思いますし、まして現在は、北朝鮮のように、日本自身にも危険が生じ得る、そういう状態になっておりますので、まさしくこれは、そういった問題に対して平和主義の精神を貫くということが大事だという趣旨で、先生御指摘のような声明というものを出しております。
 先ほどの有事立法の質問との関連を申し上げますと、私は、第九条、芦田修正からGHQの黙認があって、極東委員会の文民条項の修正、こういう関連を考えますと、字義どおりとれば自衛隊は違憲ということになるでしょうけれども、ある意味では自衛隊までは合憲というのが憲法解釈の枠内には入る。しかしながら、それ以上に自衛隊を外に持っていく、紛争のための手段に用いる、あるいは協力するということは現在の憲法において許されていないと考えますので、この点でも憲法の規定を貫くということを主張した次第です。
春名小委員 どうもありがとうございました。
大出小委員長 次に、北川れん子君。
北川小委員 社民党・市民連合の北川れん子です。きょうは本当にどうもありがとうございました。
 先生が書いていらっしゃるレジュメの中で、民衆からの公共性の形成というのが書かれているのですけれども、今の日本の現状、それはどういうふうに認識をされていらっしゃるのでしょうか。
小林参考人 日本も戦後かなり時間がたちましたので、民衆からの公共性の形成が発芽的には見られて、例えば最近、NPOやNGO等が注目を集められているように、ある意味ではその大きな出発の時点に当たる。しかしながら、これが、先ほど質問に出たような、地域社会を大きく変えていくとか政治全体を大きく変えていくという力まではまだ至っていないというふうに認識しております。
北川小委員 そのところで、御主張されているコミュニタリアニズムは根づくかどうかといった点があると思うのですが、中間集団に、家族、共同体、NPO、NGOというふうにお書きになっているのです。国家というものと個人を二項対立ではなくて、その中間に、家族、共同体、NGO、NPOを持ってこられているのですけれども、この中間集団というものが、個人を守るといいますか、保護する、そういう組織になる、そういうふうに見てよろしいのでしょうか。
小林参考人 今までのリベラルな解釈ですと、国家に対して個人を守るということを強調したわけです。しかし、今御指摘の、家族、NGO、NPOというのは、単に守るというだけではなくて、それを通じて社会に参画する、まさしく公共的な自発的参加を行う、そのための大きな回路であるというふうに考えています。
北川小委員 その中の大きな回路ということになりますと、先ほど、国家を解体するということまでは主張していないというふうな御発言があったのですけれども、しかしながら、行く行くの構想の中には、国家と、その横並びに中間集団があるというふうに見てよろしいのでしょうか。
小林参考人 国家は相対化されていくと申し上げましたので、ある意味では、昔、多元国家論というものがありましたように、そういったさまざまな諸集団というものがかなり重要性を持ってくるというふうには考えています。
 ただ、制度的に見ますと、やはり国家というものが世界的に国際条約等で規定されていますので、それと対等のところに行くとまでは考えておりません。
北川小委員 行く行くはもしかしたら対等のところまで醸成していくかもということだろうと思うんですが、そういうときに、コミュニタリアンの方たちが目指す憲法、理想の政治が行われる中での憲法ということになるかもわかりませんけれども、それはかなりの多くの国が共有できるようなものになる可能性があるものとして存在し得るということになるんでしょうか。
小林参考人 これはコミュニタリアンというよりも私自身の発想になります。コミュニタリアンはやはり今までの共同体、国家というものをかなり背景として考えていますので、私自身の発想としては、これは、遠い未来には、先生おっしゃるように、例えば今国連がいろいろ問題になっていますけれども、そういったところに政治の中心が動いていって、現在の国家というものがその下位の政治機構になるというようなことが理想としては生まれるだろう。そういったようなビジョンを持ちながら、しかし、現実的には、なかなかそれは遠いというものを見据えながら対応する必要があると考えています。
北川小委員 そういうところにおいての使われている道徳の意味なんですけれども、道徳と法の境界、道徳と憲法の境界といいますか、そういうものに関しては、お考えというものは一定程度のものがあるんでしょうか。
小林参考人 コミュニタリアンは、まず道徳を強調する。道徳は、必ずしも公的領域ではなくて、一般の社会や「私」の領域でまずは広まって、それがある程度十分な了解を得られた段階で、それを確実なものとするために法制度にするというのが順当な手段だというふうに申し上げました。
北川小委員 ということは、やはり法と道徳、憲法と道徳の間には境界がなく、そこの中に道徳が入り込むというふうに理解してよろしいんでしょうか。
小林参考人 その差をなくすというふうには申し上げていないんですけれども、法の中に一種の道徳的精神が入るという可能性はある、あるいは必要である。例えば環境問題とか、あるいは生命倫理の問題を考えた場合には、道徳というものを法の精神から、立法から全く排除することは不可能だと考えています。
北川小委員 その御意見に対しては、かなり近代憲法の精神や法の解釈をされる方とは意見を異にするということは自覚をされているというふうになるんでしょうか。
小林参考人 ですから、その一般的な考え方がリベラルと言われた考え方なので、それに対して異論を提起しているのがコミュニタリアンであります。
北川小委員 そこの対立というふうになるとどうなるのかなというふうには思っていくんですけれども。
 実は、伝統という言葉も、日本は独特の使い方もあるものですからあれなんですが、そういうふうになると風土という問題も出てくると思うんです。その風土によるものに関してのお考え方というのはどういうふうになっているんでしょうか。
小林参考人 私は先ほど、ネーションの中に複数の伝統が存在する、ですから、これからの時代では、日本というネーションであっても、あるいは風土であっても、その中の複数の文化、伝統というものが存在するということを強調しましたけれども、同時にそれを包括するものとしての日本という風土、ネーションというものも歴史的には存在すると考えておりますので、その双方の要素を見ることが必要だと考えています。
北川小委員 そうしますと、先ほど先生のお言葉の中から、フェミニズムの考え方というふうにあったんですけれども、そのフェミニズムの考え方との、これは暴力を廃止する考え方というふうにも言われておりますけれども、そこのところでの対立項というのは顕在化していると見ていいのか、顕在化はしていないと見るのか、その辺はどうなんでしょうか。
小林参考人 申しわけありません。ちょっとその暴力を廃止するという趣旨がわかりにくかったのですが。
北川小委員 フェミニズムの考え方は女性独特の考え方というふうな決めつけ方を日本ではよくされるんですが、それは大きく言うと非暴力主義というか、そういう生き方を目指すためのありようの主張の一つであるという考え方があると思うんですけれども、そこにおいては一元化できる部分がコミュニタリアニズムを唱える方の中にはあるのでしょうかというところに。
小林参考人 コミュニタリアンがみんな非暴力主義というわけではなくて、私はしかしその中で非暴力主義に非常にシンパシーを持つコミュニタリアンですので、もしフェミニズムがそういう考えでまとまるとなれば、その限りでは非常に共通性があると思います。
北川小委員 その点においての、やはり日本の中での独特の家父長制が主導であった家族というような、言葉の使い方においての問題になるかもわかりませんけれども、多様な家族のありようを認めていらっしゃるということなので、そこは同一性があると思うんですけれども、その辺においての、お互い共有できる言葉遣いというものを探ろうというような意識的なものというのはおありになるのかないのか、いかがなんでしょうか。
小林参考人 もちろん家父長制というのは伝統的には封建的な道徳、先ほど言ったところから来ると思いますので、それに対する反対というのは、これはもちろん日本国憲法にもありますし、コミュニタリアンの多くが共有するものだというふうに思っています。
 ただ、男女平等というのと家族の解体というのはまた次元が違う問題だと思いますので、後者には反対しましたけれども、前者の意味には全く反対するつもりはありません。
北川小委員 そこのところはまた少し意見があれだと思うんですけれども。
 私はよく憲法の九十九条の遵守義務のことを取り上げるんですけれども、憲法は市民から統治権力、統治能力を持っている者たちへの命令だというふうにとらえている者の一人なんですけれども、参考人の御意見としては、憲法というのはどういうものであるというふうに思っていらっしゃるんでしょうか。
小林参考人 近代憲法の原則は、先ほど申し上げたように、やはり権力に対する制限というものを中心にしていると思います。ただ、同時に、もちろん政治参加、こちらの公共性の形成の方も含まれておりますので、その双方からとらえるべきだと考えます。
北川小委員 双方からとらえるということは、では、今までの憲法の中での、市民が統治権力を持った側への突きつけたものであるという考え方だけにはとっていらっしゃらないというお立場であるということですか。
小林参考人 人権に関してはもちろん制限を中心とするわけですけれども、当然ながら、そのほかに統治機構その他ございまして、政治参加の回路があり、また人権規定の中でも、私は読み方によっては公共的な参加を要請する、必要にする、例えば十三条にある幸福の追求なども、公的な幸福の追求というふうに読めば、政治参加というものを可能にするような、そういう方向も読み出せるというふうに考えます。
 ですから、権利制限に関しては先生のおっしゃるとおりなんですけれども、コミュニタリアンはリパブリカニズムとかなり通底していまして、政治参加というものの必要性を唱えますので、一応その点を強調した次第です。
北川小委員 政治参加で、昨今言われている投票率の低下ということがあると思うんですが、参考人の今見ていらっしゃる政治の場面のありようでは、この投票率は妥当だと思われるかどうかという点において、最後、少し話は飛びますけれども、今の状況を少し分析して、教えてください。
小林参考人 もちろん政治学者として非常に嘆かわしいと思っているんですけれども、コミュニタリアンの観点と連関させますと、やはり国民が、あるいは人々が政治に参加するというのは一種の政治的な美徳だ。その意味で、美徳のうちの政治的な部分のあらわれ方が政治参加、ある意味ではコストを払ってまでやる、こういう要素にあらわれてくると思います。
 ですから、美徳や倫理というものを強調する一つのポイントは、やはり政治参加をも含めて政治に関心を持つ、積極的に参加するという点にあります。
大出小委員長 次に、山谷えり子君。
山谷小委員 保守新党、山谷えり子でございます。どうも、先生、ありがとうございました。
 今日本は根っこのところで価値観が分裂している非常に不幸な状態だというふうに思っております。コミュニタリアニズム、倫理性の必要性、共同体の必要性、社会民主主義ないし福祉国家論にかわるものとして、ブレア政権、ギデンズの「第三の道」に影響を与えたというお話を興味深く伺いました。
 ギデンズの「第三の道」を見ますと、そこにエドモンド・バークの保守主義の思想がある部分がある。そこには、既に亡くなった者とこれから生まれてくる者とのためにというような考え方があるわけでございますけれども、私は今の日本に必要なキーワードというのは、つながり、それは縦軸のつながりと横軸のつながり、両方が必要なのではないかというふうに思っております。憲法の前文には「われらとわれらの子孫のために、」という今と未来としか書いていないわけですが、その辺はいかがお考えでございましょうか。
小林参考人 コミュニタリアンは、一方で伝統、その中における倫理や美徳を重視する、それと同時に、変わりつつある状況における適応を強調するということですので、先生がおっしゃるギデンズのフレーズと共通の姿勢をそこで持っております。
 つながりということに関して、今子孫の問題に触れましたけれども、先ほど申しましたように、憲法の前文にある子孫とか、あるいはもう一カ所たしかあるんですが、その部分をさらに強調して、将来世代のための政治というふうに拡大して解釈することが今後望ましいのではないかと思っております。
山谷小委員 人間というのは、未来に向かって力を得ると同時に、過去との非常に豊かなつながりによって力を得るということができますので、既に亡くなった先祖ということを視野に入れて、そういったものを大切にする倫理観、道徳性を視野に入れてこれからの政策を考えていくということも非常に大事な部分ではないかというふうに思っております。
 日本の「第三の道」の解釈において、変化する時代にプラグマティックにスピーディーな対応、その部分は非常に強調されているんですが、もう一つのエドモンド・バーク的な思想というのが余り理解されていないように思います。
 去年、二つの大きな出来事がございました。ワールドカップ、そして拉致された五人が戻ってきたこと。そこで私たちは、共同体、つながり、家族あるいは国家との関係、いろいろ考えさせられたというふうに思いますけれども、それは社会的保守主義の言う国家主義でもないし閉鎖的なものでもないというふうに思いますけれども、二つの現象、国民が、共同体が熱くなった、それについていかがお感じでございましょうか。
小林参考人 ワールドカップもその意味ではスポーツ的公共性というふうに私たちは呼んでおりまして、政治における公共性に比べれば、スポーツですから、身近なものでございますけれども、これはやはりそういった共同性や公共性の一つの表現というふうに見るべきだろうと思います。ですから、これを政治あるいは社会における公共性とどうつながらせるかということが重要だ。
 それから、過去の伝統に関するお話も、それを否定する趣旨ではございませんで、ただ、過去の伝統というものをどのように現在取り出すか、日本なら日本の伝統というものの中のどの部分をどのように取り出してどう生かすかというところに、現在の世代の課題があるのだろうと思います。
山谷小委員 法への依存が少ないほど、価値への依存が高いほどコミュニタリアン的、コミュニタリアン的社会は道徳的価値に支えられた法によるべき、コミュニタリアニズムは儒教に近いというふうにおっしゃいましたけれども、儒教というのは道徳なのか、あるいは極めて宗教に近い、宗教的情操心に支えられたあるものなのかというようなことが一つ素朴な疑問として残りました。
 それで、ブッシュが一般教書でちょっと演説したときのメモがありまして、そのときのことを思い出したんですが、「Americans are generous and strong and decent, not because we believe in ourselves, but because we hold beliefs beyond ourselves.」つまり、我々自身によってアメリカという国が強くて品位高いのではなくて、我々を超えるものによって、そういうものでアメリカというのは強く品位があるのだ。「When this spirit of citizenship is missing, no government program can replace it.」つまり、これがなくなったときに、「citizenship」がなくなったときに、魂がなくなったときにどんな政府のプログラムもうまくいかないと。
 こういうときに、我々を超えたものというのは、やはりある種の宗教的情操心、道徳をちょっと超えたものでは、あるいは道徳よりもっと深いものではないかと思うんですが。
小林参考人 儒学について、宗教的な要素を認める見解と認めない見解と両方ございます。私自身は両方の要素が存在する。ただ、やはりほかの宗教に比べると、道徳、倫理の部分が強いのが儒教の特性だというふうに考えております。
 ブッシュ大統領のセンテンスに触れられましたけれども、ブッシュ大統領の場合、やはり宗教的な言辞が非常に多い。アメリカの場合は、シビルリージョンと言われるように、そういう要素はあるんですけれども、ブッシュ大統領の場合は特に南部の原理主義の影響が強くて、敵と味方の差異というものを強調する傾向にある。それが御存じのように、御案内のような戦争になってあらわれていると私は考えています。
 ですから、宗教的要素を強調される場合には、どのように機能しているかということが非常に大事でして、昔の日本とか今のアメリカとか、そういう要素を見ると、宗教は個々人のものとしてあって、それを公共的な領域に入れるときには、まずは倫理、道徳というところから見ていくべきだというふうに考えておりますので、倫理、道徳に強調点を置かせていただきました。
山谷小委員 ブッシュの個人的特性ということではなく、やはり欧米の社会におけるキリスト教文化あるいは伝統、倫理ですね、その辺との絡みをきちんと見詰めないと、ちょっとそれは無理があるのではないかなというような気がいたします。
 道徳の声はコミュニティーの声というようなことでございますけれども、道徳によって人格形成ができれば私もすばらしいと思うのですけれども、一方で、親鸞は「善人猶以て往生を遂ぐ、況んや悪人をや」と、道徳では人格形成はできないのが人間ではないかという命題を突きつけた。そして、それがまた宗教であるというふうに思います。
 それで、WHOでも健康の定義について、肉体的、社会的、精神的なもののほかに、スピリチュアルなものということを言っております。これはまだ結論が出ておりませんけれども、コミュニタリアニズムの観点からすると、世界に冠たる理想的憲法だというふうにおっしゃいましたけれども、法に寄り添う、あるいは法の前提になる倫理、宗教的情操心、あるいは道徳が日本の場合は崩壊してしまっているがゆえに、なかなか世界に冠たる理想的憲法だというのは非常にバーチャルな意見で、今の時代には役に立たない、もっと何か違う視点からの分析が必要ではないかというふうに思うのですが、いかがでしょうか。
小林参考人 先ほど申しましたように、私自身は、個人的にあるいは私的な哲学としては、宗教というものは非常に重要だと考えています。ただ、多様な宗教が存在する中で、公共的な哲学として、ましてや憲法として考える場合には、その宗教観で一致できる基盤としての、スピリチュアルはいいと思うのです、あるいは道徳、精神性、こういったものの基盤から考えて再構成するということが、公共的な世界では重要だと考えているわけです。
山谷小委員 今、日本では、中学生、高校生の四五%が、小遣いをもらってセックスすること、すなわち売春は本人の自由だと、四五%の子が言っているわけです。そして、成田の滑走路もなかなか完成できない。その辺についてはどのようにお考えでいらっしゃいますか。
小林参考人 少し触れましたけれども、性的道徳の乱れというものは私は非常に危険なものだというふうに考えておりますし、そういった方向ですべて自由化を主張する議論には、反論、批判を書いたこともございます。
 それから、成田問題について詳しくはないのですが、一般的に、市民運動、住民運動の全体的問題としてとらえた場合には、市民運動や住民運動の側にも公共性に対する配慮というものが求められる、それがシビックバーチュー、公共民としての美徳であると考えております。
山谷小委員 もう一つ、現代的な事象でお伺いしたいと思うのですが、二十七条、勤労の義務があるわけでございますが、これは、働かざる者食うべからずというある種の倫理観と、働く能力があって機会もあるのに働かない者は、不利益な扱いを受けてもやむを得ない、生存権の保障は及ばないというようなことを言っているのかどうか。
 それから考えると、現在、フリーター四百十七万人、引きこもり百万人、失業者三百八十万人というこの日本の現状をどのようにコミュニタリアンとしてはお考えでございますか。
小林参考人 勤労の義務の義務規定ですけれども、これを実際に今先生がお話しのようなことをやるためには、やはり立法の問題だろうというふうに考えます。ブレア政権において、あるいはそのバックボーンであるギデンズの議論においてもそういった要素が強調されてはいるわけですね。その意味では、日本国憲法の勤労の義務規定というものも重要であると思います。
 それから、フリーター等の問題も当然それと関連する問題ですけれども、この問題を解決するためにも、やはり家族とか地域のローカルコミュニティーの再生というものが必要だと思っております。
山谷小委員 大変参考になりました。ありがとうございます。
大出小委員長 次に、平林鴻三君。
平林小委員 先生の今までの質疑応答でぼんやりとわかったような気がいたしますけれども、私から二、三、愚問を申し上げたいと思います。
 共同体というものに着目をして公共の福祉とかそういうものを考えるということは、私も蒙を開かれたような気持ちで聞いておりました。確かに共同体は実在するものでありますし、それなりに活動をしておるものだと思います。
 ちょっと心配なことは、共同体というのは非常に多種多様、言ってみれば多元的な存在だと思うのです。その多元的な存在がおのおのの政治的主張を述べ立てて国家とか個人とかの問題を議論するとなると、今日の政治の運営の仕方とまた違ったシステムというものが要求されてくるのではないかと思うのです。
 例えば、地方自治で、共同体のいろいろな主張を吸収して地方自治の範囲内で処理するということは割合考えられることだと思うのですが、国家の基本になるようなこと、あるいは権利宣言に明確に書いてあるようなことを現代的にどう解釈するかというようなことになりますと、多元的な主張というものを収れんさせるにはどうしたらいいのかなという心配がちょっとございまして、何かそこら辺のところにシステムをお考えになっておられるか、今の日本の政治システムでいいのかどうかという御意見を拝聴したいと思います。
小林参考人 先生御指摘のように、やはり地方自治、分権というのは一つの大きな課題だと。これを行政的に進めるだけではなくて、ローカルなコミュニティーの精神というものを活性化することが大事だというふうに考えております。
 ただ、先生御心配のように、やはり国家としてどう収れんさせるかということも同時に大事ですが、大きな方向性としては、日本は今のところそれを心配する段階にないと思っております。これまで国家として収れんする、その意味ではすぐれたシステムを持っておりますので、むしろ分権化の方にトレンドはあるだろうと。
 アメリカの場合は必ずしもそうではないので、国の共通の基盤として、例えば憲法を中心にする価値というものが強調されている。日本でももしその心配があるならば、やはり憲法を中心にする価値というものを中軸にしてそういうシステムというものを考えるということが必要になるだろうと思いますが、現時点ではほとんど心配しておりません。
平林小委員 もうちょっと突っ込んでお伺いしたいんですが、現在は、日本は政党政治で来ております。政党の数は多うございまして、二大政党にというようなことは、なかなかまだもう少し先までかかるのではないかと思いますけれども、政党政治において共同体の主張といいますか、公共の福祉に対する配慮を共同体からくみ上げる、そういうようなことは、私は現実に即して行われ得るものだとは思いますけれども、考えようによりますと、政党政治の中には、一つのイデオロギーで固まってしまった政党もありますし、自民党のように極めてフランクな幅の広い政党もありますが、政党政治のあり方というものについて、先生の御意見から考えるとどういうような構想が描かれますでしょうか。
小林参考人 私は、英米のモデルにおける二大政党制のモデルというものは、日本の土壌で必ずしも望ましくないと思っておりますので、二大政党制というものは必ずしも理想とは考えない。
 パーティーという言葉は部分という意味でございます。ですから、公共性全体から見れば一部の主張であると。また、日本語における党というのも党派の党ですから、同じ意味を持っているわけです。そこで、古典的には、政治学で必ずしも政党というものを肯定しない、そういう伝統もございました。そこで、目的としては、今後、例えば日本なら日本という国の公共性を考えるということは、パーティーがパーティーを超えていくような、そういう視座をお互いに持つということだろうと思います。
 しかし、なぜではパーティーが必要かといえば、人間は不完全ですから、いかに努力をしても必ず差が出てくる、懸隔が出てくる。したがって、一方で両方を統合する視座を持ちながら、しかし現実には違いがあるものとしての政党制が大事であると。そのもとではやはりディスカッションを可能にしていく。
 以前と違って、例えば環境とか生命倫理等、新しい論点に関しては必ずしも旧来のイデオロギーによって対立が固定化しているわけでもないと思いますので、その意味における公共的な議論というものの必要性、それに応じて議論というものを高めていく必要性がますます重要になると思っております。
平林小委員 もう一つお伺いしたいのは、近代国家の出発点といいますか、フランス革命で三つのスローガンがありまして、自由、平等、博愛あるいは友愛という三つのことを、考えてみると両立するのかしないのかもわからない、非常に違った概念の三つの事項が掲げられて、今日まで、いわば近代国家の憲法の人権宣言にはおおむねこういうものが入っておる、権利宣言には入っておるというぐあいに思っておりますが、時代によって、やはりおのおのの概念が多少ずつ変わってきておる。自由にしても、平等にしても、博愛にしても、変わっておる。あるいは、この三者のウエートの違いといいますか、自由に重きを置くか、博愛に重きを置くか、平等に重きを置くかというようなことも違ってきておるように、歴史的には思うわけです。
 それで、日本の憲法も、明治憲法以来、いわば権利というものははっきり書いてあったわけでありますから、相当長い日本の憲法史の中で、今申したような三つの要素というものは大事にされてきたものだと思います。
 それで、私の意見を先に申し上げますと、公共の福祉というのは、これはやはり国民共通の非常に大事なもので、公共、国家の秩序というものと公共の福祉というものは、いわば、どのような政党であれ、政党政治を今日行っておる中で、各党が、それぞれ多少の意見の相違はあっても、共通の基盤で考えていくべきものじゃないかなという気がしております。いわば、博愛の部分といいますか、友愛の部分といいますか、そのような時代になってきておるように思います。ただ、政党の間に、あるいは国民の、世論の間に、自由の方に多少重点を置くか、あるいは平等の方に多少重点を置くかという、重点の置き方が少しずつ違っておる、さまざまに違っておる、そういうような感じがいたしております。
 といいますのは、最近の立法の傾向を見てみますと、公共の福祉ということに重点を置いた法制、立法というものが相当目について出てくるわけでございます。やはりそういう時代的な背景があるんだなという気がいたしますが、先生のお考えでは、この今の共同体というものに着目をした公共福祉の概念というものを第一に考えた場合に、今申した自由とか平等とかいうものには何か力、ウエートの差がまた変わった方向に行く可能性があるのかどうか、そこら辺の大ざっぱな未来観を教えていただければと思うのですが、いかがでしょうか。
小林参考人 フランス憲法の三つのスローガンの原理ですけれども、実際は自由と平等が強調されていて、博愛というのは必ずしも政治的には反映されていなかったと考えています。
 そして、私は、友愛あるいは同胞愛、博愛といったものを基盤に公共性というものを追求していくべきだというふうに考えておりますので、そういった観点から考えますと、公共の福祉というものは友愛、同胞愛という基盤の上で、自由と平等、それぞれが注視する二つの党派が今まであったわけですけれども、そういった中で共通の考え方を求めていく。
 日本語で和という言葉を先ほど申し上げましたけれども、この和を、単に同一になるという和ではなくて、論語で言うような「君子は和して同ぜず」ですから、同時にはなれない、同一にはなれないわけですけれども、その中で、和の精神で共通の基盤を探し求めていく、こういう精神で、今後自由なり平等なりを共通するような会派の間の議論というものがなされることが全体としての公共性につながっていくのではないかと期待しております。
平林小委員 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、今野東君。
今野小委員 きょうは長い時間ありがとうございます。後半ですので、私も短く質問させていただきたいと思います。
 先生は、過剰な個人主義も過剰な統制主義も、同じように社会にとっては害をもたらすという観点からのお話だと理解していいのではないかと思いますが、コミュニタリアニズムという、リベラリズムの個人の権利を重視するものと保守主義の国家統制を重視するものの中間を目指すべきだというお話なんだと思うんですが、教育のあり方においても、個人が大事かあるいは平等が大事なのかというバランスを、まさに今模索しているのではないかと思います。
 最近、教育の現場で学級崩壊などさまざまな問題が指摘されておりまして、それに対する原因として、しばしば行き過ぎた個人主義が、わがままで協調性のない子供たちをつくっているという話が展開されます。そして、それに対する反動で、公的な愛国心を強調しようという教育基本法の改正や、あるいは国旗・国歌法案などを通して愛国心や公共の義務に対する教育を教えるということで子供たちをまとめようという動機が生まれてくるのではないかと思うんです。社会全体が個人の権利と公の秩序との間のバランスをまさに今模索している段階なのではないかと思うんですが、そういうとらえ方で今のこの状態はいいんでしょうか。
小林参考人 大きくはおっしゃるとおりでございます。
 ただ、個人とそれから平等という中に、この平等の中に機会の平等と結果の平等がございまして、私は機会の平等は絶対に大事だと思っていますので、バランスと言うときには、結果の平等と個人ないし自由とのバランスということになろうかと思います。
 教育の場でもそういうことがあるというのは事実だと思いますが、そのときに、公共性の軸の方が必ずしも一つに収れんする必然性はないわけですね。あるときに、例えばそれは家族であり、共同体であり、そして国家であり、さらに国を超えた公共性でございます。ですから、教育基本法の場合にも、「新しい「公共」を創造し、」というところに賛成なんですけれども、これが国家レベルにとどまるのではなくて、先ほど言ったようなグローカルな観点からの公共性形成ということになることが望ましいと思っております。
今野小委員 今のお話にも触れていただいたのかと思いますけれども、先生は、教育の政策においておっしゃるコミュニタリアニズムの思想というのはどのように生かされてくると思いますか。または、どのように生かされるべきだとお考えでしょうか。
小林参考人 先ほど言ったこととも少し関連するんですが、もちろん一つは、クラスルームというものが分解しないようにコミュニティーを形成する。しかしそのコミュニティーの形成の仕方が、ある意味ではこれまでは教師の言うことに従わせるという感じの管理が強く出ていたと思うんですけれども、先ほど自発的なディスカッションなんかを教育でトレーニングする必要があると言いましたが、そのクラスの中でどういう意思形成をするかというところまで踏み込んだ教育のあり方というのをつくることができるのではないか。
 最近、いろいろフリースクールその他の試みがありますけれども、そういった要素からそういった方向ができるのではないかというふうに今愚考しております。
今野小委員 先生がおっしゃるコミュニタリアニズムが、政治的な領域に絞って公共の精神を強調しているのではなくて、社会全般の、例えば生命倫理ですとか宗教、家族など、多様な社会領域を視野に入れて、質のいい人間や社会の姿とは何かを追求しているということは、大変貴重な試みだと思います。
 私は、そうすることが、またそういう試みがますます多様性に富む社会の一つの軸として発展していく可能性があると考えるんです。コミュニティーとか公共性という言葉からしばしば私たちは国家の統制とか介入を連想するんですが、先生のお話の中でも、日本の憲法はコミュニタリアニズムの思想と照らしても理想的だというふうにおっしゃっておりますが、それも、その公共の福祉という条文の中の言葉の解釈が、国家、官僚は正しくて、民はそれに従うのだというこれまでの日本の公共概念から、より開かれた民主的公共概念へと転換されて、初めてそう言えるのだろうと思います。
 先生が別の場所で述べられているように、国家や官僚が決めることとしての公の概念から、市民が参加して議論してつくり上げるのが公共性だという、開かれた考えを持つ社会をつくることが、今の行き詰まっている日本の政治の突破口となることを期待するわけですけれども、今はどうも保守回帰の傾向が強まっておりますが、国家内部の公共性に収れんされてしまう国家中心の議論から、国家や国境を越えた、地球的公共概念とでもいいますか、が日本の政治の新たなバックボーンとなれば、憲法改正にこだわるまでもなく、この国の政治はよみがえるのではないかと思いますが、そのあたりの先生のお考えをお聞かせください。
小林参考人 全く同感でございます。
 政治の領域だけに集中する場合には、私はしばしばリパブリカニズムということを強調していまして、それは、政治参加を政治的な美徳とするわけです。コミュニタリアンと言うときには、先生が御指摘のように、社会道徳一般のところまで含めた美徳というものを考える、このように区別して使っております。
 それから、きょうあえて共同体というふうに必ずしも言わずにコミュニティーと言ったのは、やはり欧米のコミュニティーのイメージを持っているからでございまして、共同体の場合には同という言葉が入っているので、同一化、同質化というものを強制するというニュアンスが入ってくる場合がございます。古い日本の共同体のイメージですね。それと区別するために、英語でコミュニティーと言ったり、別の論文などでは共和体というふうに言ったりすることもございます。それは、先ほど言った「和して同ぜず」の意味での和という意味での共和体でございます。そういうような方向を目指す場合には、おっしゃるように、市民から開かれた公共性を目指す、そのときには市民も公共的な精神が必要なので、公共的市民という言葉を使ったりすることもございます。
今野小委員 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、野田毅君。
野田(毅)小委員 最終バッターになります。よろしくお願いします。
 いろいろお話を聞いてみて、少し私見も申し上げてみたいんですけれども、要は、我々抱いているこの憲法、その制定の背景、歴史的な位置づけなどから見て、これはヨーロッパのいろいろな伝統を受け継いで、基本的人権を重視する。その原点は、やはりいわゆる国家対個という、御指摘の、特に国家は権力の横暴を示しやすい、そこからどうやって個の権利を守っていくかということが、近代というか、民主主義の基本的な伝統になっていると思います。
 そういう点で、戦前がややもすれば国家主義的、全体主義的傾向が強かったということ、そういったことの反省があって、極力いわばそういう強い権力に対する、その権力の横暴に対してどうやって個を守っていくかという、個の尊厳に非常に重点を置いた仕組みがいろいろな面で出ているというふうに理解をしている。同じ脈絡の中で、多少家族制度というものも、非常にそういったものが強かったので、あえて女性の地位やら個の尊厳ということを非常に強く出している。そういう意味での、ある程度、振り子が多少右に強く振れ過ぎていたので、バランス上、少し逆に振り子を振ってきたというふうな面もなくはないというふうに思っております。
 その結果、この現行憲法の体系の中で一つ欠陥が出ているんじゃないかと思うのは、危機管理に対するスタンスがはっきりしていないという、これは決定的に、致命的に欠落している部分である。これは、そういう意味で、今お話のありました公共という概念。何も国家が云々じゃなくて、あるいは災害であったり、さまざまな危機を我々の周辺に抱いている、その危機に対してどう対処するか、その危機に際する人権との調整をどうするかという視点が必ずしも明確でない。
 今、公共の福祉という概念の中で乗り越えられるのではないか、中身を詰めていけばいいのではないかという御指摘があるが、どこまでそれが本当に詰まっていくのか。判例の積み重ねだけでいって本当にいいのかどうかという問題を実は一つ感じておりまして、この点についての見解を伺いたい。
 もう一つ、コミュニタリアニズムというお話があって、これは、そういう意味で、抵抗権力的な概念よりは、むしろそういった形で共同体というものを意識した解釈をしていくと、いろいろなものが解決できる道筋もあるよという御指摘だった。しかし、それだけで本当にすべてうまくいけるだろうか。
 もう一つ先に進んで、我々は、例えば民と民の間、これはさっき葉梨先生からも御指摘がありました。あるいは個と個の間の対立、決して国家と個の対立じゃなくてですね。あるいは加害者と被害者、この人権調整を一体どうするんだ。あるいは親と子の間。そういった公権力対個人の自由と個人の権利という対立をどうするかというだけじゃなくて、そういう次元ではない。同じく民対民であったり、個対個であったり、そういったところをどう調整するかということが必ずしもこの中で出ていないし、公共の福祉という概念の中だけでそれが調整を本当にできるんだろうかという点について、もう一歩進んで何らかの考え方が必要になってくるという、これは二点目。
 あと、もう時間がありませんので第三点目、申し上げたいんですが、私は、今回の中東の和平問題について、いろいろ努力もあって、しかし、やはり我々の目の黒いうちというとそれだけじゃない。かなり長い視野で見ても、中国もそうですけれども、地球社会から国家がなくなるということは考えられない、現実問題。理想論は理想論として。そういった現実を直視した中で議論をしていかないと、そう簡単に、国家がなくなった社会を前提にした共同体的考え方だけで物が進むということはあり得ないというふうにも思いますから、逆に、そういったことをもう一遍頭に置いて、国家と共同体と個、あるいは共同体同士の関係、あるいは個対個の間の関係、そういったものをどう調整していくか、そういう視点での発想が憲法の再検討に当たって必要なのではないか、そんなふうに思います。
 以上について、御所見を聞かせていただきたいと思います。
小林参考人 先生御指摘のように、近代憲法は個人と国家という枠組みで権力の抑制をしてきたわけですけれども、コミュニタリアンの系譜では、どちらかというとそれと関連するリパブリカニズム、共和主義がそれを強調する。しかし共和主義の場合は、やはり公共性というものが言葉の語源ですから、一般の近代の共和主義というのはある意味では君主制に対する反対が中心なんですけれども、私は、むしろその公共性という観点、きょうの憲法との関係では公共の福祉ということから考えるべきだということを言っているわけです。
 御指摘の危機管理の問題ですけれども、これは有事立法はまさにそのうちの一つのポイントだと思いますが、先ほど述べながらなかなか苦しいものがあったんですが、現在は軍事的な意味も含めて公共の福祉ということで有事法制を政府は正当化されている、これはある意味で公共の福祉のぎりぎりの限界事例だろうと私は思っています。ですから、それがいいか悪いかということは、当然ながら平和主義その他の関連で考えられるべきことだと思いますし、基本的人権の制限をどこまで認めるかという、今回の修正条項に入ったような問題との関係に入る。
 ただ、裏から申しますと、これはこの問題ですら公共の福祉概念で処理できるということだと思うんです。つまり、超憲法的なことを避けるために、憲法の枠内で考える、立憲主義で考える。したがって、ほかの危機管理の問題についてもやはり現行憲法の枠内で解決することができるし、だから、憲法が明示しているように公共の福祉からの制限はあり得るけれども、その中で最大限人権を守るという、そういう立場で処理できる問題だろうと思っています。ですから、その後どうするかは、当然、立法の課題、あるいは運用の課題ですので、それが現行憲法のもとでの政治の課題ということになるだろうと一点目については申しております。
 それから、二点目ですけれども、これは個人と国家という対比で考えるのがリベラルでございまして、私は、それを批判してコミュニタリアンないしリパブリカンですから、先生が御指摘のような、民と民の間、共同体と共同体の間を解決する原理として、公共性ですね、個や共同体を超えるものとしての原理というものがやはり必要だというふうに申し上げました。
 では、それをどのように確保するかということは、神ならぬ人でございますから、一義的にだれが決めることはできないので、それがまさに、政治が行っているように、議論をしたり、最終的には多数決その他の手段も用いて、政治的ないし行政的、場合によっては司法的な枠組みで解決する。行政あるいは政治というものがある形で決めても、司法があって、その司法の審査として、これが本当に公共性かどうかということを最終的には判断する、そういう可能性を憲法は持っているので、そこまで含めてこの公共性における調整問題というものを考えていくべきだろうというふうに思います。ですから、その意味においては、司法も積極的な機能を果たすべきかと考えているわけです。
 それから、第三点目でございますけれども、私は、理想主義的現実主義というもの、あるいは現実主義的理想主義というものを強調しておりまして、先生御指摘のように、現実においては、国家というものがそう簡単になくなる現実ではない。
 理想としては、日本国憲法にもうたわれているように、やはり国際的な協調主義、あるいは国連中心の発展、あるいはその発展形態。これは、例えば数百年後のことを考えた場合、現在のコミュニケーションの進展度合いから考えて、例えば、現在のようにインターネットで一瞬にして地球の裏側と通信できるというのは少し前には考えられないことでして、そういったコミュニケーションの発展、それからそれに伴う恐らく言語的なコミュニケーションの発展を考えた場合に、必ずしも数百年後に地球的な政治ができるということは夢物語だとは思っていないんです。ただ、そこまでに相当長期間かかるということがあって、それが理想と現実の双方の面だと。
 ですから、恐らく、先生のお考えとは接点と違うところと両方あろうと思うんですけれども、理想主義の人に対して私は現実主義を強調し、現実主義の方にはやはり理想も大事だということを主張したいと思っております。
野田(毅)小委員 一つ具体例で御意見を聞いてみたいんですが、曽我ひとみさんの住所を報道されましたよね、マスコミが。例えば、これなんかも、一方では報道の自由というのは非常に大事な意味があるんだけれども、ある意味では民対民、そういった横暴、国家権力じゃない、公権力でない、マスコミであったりあるいは集団であったり、個人の自由なり権利を非常に侵害するようなケースがやはりある。そういったのは、これはやはりどこかで保護するような形がないと大変問題じゃないかというようなことがありまして、しみじみ思うんですが、この点は、単に謝って済むだけの話じゃないと思いますよね。
 こういったものをやはりある程度規制をするということについて、規制がけしからぬという話もあって、国会で、法案通ったかな、今審議中か、そういったことで影響があるんですが、やはりこういったことは大変ぐあいが悪いので、これは公共の福祉ということになるのかならぬのか。むしろ公共の福祉が行き過ぎて個人のこれを抑え込んでいるということになるのか、どう解釈されますんでしょうかね。
小林参考人 その事例について詳しく私はよく存じないところがあるんですけれども、やはり、その調整問題に関して、先ほど言いましたように、自由の間の衝突問題に関して、憲法解釈において基本的に幾つかの類型を設けている。その中で、例えば報道の自由、表現の自由というのは、特に政治にとっては根本的に大事だと。強調しました自治の問題を考えるときに、インフォメーションが規制されてしまっては自治ができないというふうに思いますので、やはり、特に公的な事柄に関する表現の自由、報道の自由というものは強調されるべきだと。もちろん、近年、プライバシーの自由というものも強力になっておりますので、その間の衝突問題が大事なんですけれども、私は、殊に政治、公共的なことにかかわる問題に関してはやはり表現の自由というものが強調されるべきものだと思っております。
野田(毅)小委員 その点ではわかるんですが、マスコミ対政治との関係でいえばその部分がいいのはわかるんだが、曽我ひとみさんは別段政治じゃないと思ったんだけれども。
 つまり、弱い個というものを強いマスコミが圧殺するということはよくあるんです。そういったことを、すぐ何か、それを公権力の乱用というか、何か全体主義的な方向だという形にすりかえてやるということについて、私は、マスコミ自身も自己反省だけで本当に済むのかどうか、その点についてもう一歩踏み込むぐらいのことがあっていいんじゃないかと。本当に、そうでないと、個人は国家権力から守られても、それ以外のそういった大衆的なある意味ではペンなりの横暴の中で泣き寝入りを強要されているという現実をどう乗り越えていくかということをやらないと、私は、憲法の本当の意味での基本的人権を守れないというふうに思います。
 そこのところは、国家対マスコミじゃないんですよ、政治対マスコミじゃなくて、マスコミ対個人というレベルで見た場合にはどうかということをちょっとお伺いしたかったんです。
小林参考人 だから、曽我さんのケースは詳しいことは存じませんで、それから、どういう立法をお考えなのかということを伺わないとそれは何とも答えられないというふうに思うんですけれども、ただ、少なくとも、自己規制、倫理の問題としては、ソサエティーの、大衆社会の横暴というもの、これに注目する必要があるので、私は、大衆ではなくて公共性、公共民というふうに言っているわけです。ですから、公共的市民という言葉の中に、先生御指摘のようなマスメディアの問題等も入るだろうと思います。
 ただ、これが公的な権力規制問題ですと、またこれは、道徳問題ではなくて、倫理問題ではなくて、政治的、法的な問題になりますので、これはまた一層慎重な思考が必要か、この場ではすぐ答えられないと申し上げました。
大出小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつ申し上げます。
 小林参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表しまして、心から御礼を申し上げます。(拍手)
    ―――――――――――――
大出小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行います。
 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたします。
 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。
 きょうはいないようですね。きょうの話は難し過ぎたという感じがします。どなたか、ございませんね。
 これにて自由討議を終了いたします。
 本日は、これにて散会いたします。
    午後五時二十一分散会


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