衆議院

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第5号 平成15年7月10日(木曜日)

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平成十五年七月十日(木曜日)
    午前九時五分開議
 出席小委員
   小委員長 大出  彰君
      倉田 雅年君    谷本 龍哉君
      長勢 甚遠君    野田 聖子君
      野田  毅君    葉梨 信行君
      平林 鴻三君    小林 憲司君
      仙谷 由人君    水島 広子君
      太田 昭宏君    武山百合子君
      春名 直章君    北川れん子君
      井上 喜一君
    …………………………………
   憲法調査会会長      中山 太郎君
   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君
   参考人
   (北海道大学長)     中村 睦男君
   参考人
   (東京学芸大学教育学部助
   教授)          小塩 隆士君
   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
    ―――――――――――――
七月十日
 小委員山谷えり子君六月十日委員辞任につき、その補欠として井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員今野東君同日小委員辞任につき、その補欠として仙谷由人君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員仙谷由人君同日小委員辞任につき、その補欠として今野東君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 基本的人権の保障に関する件(社会保障と憲法)


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     ――――◇―――――
大出小委員長 これより会議を開きます。
 基本的人権の保障に関する件、特に社会保障と憲法について調査を進めます。
 本日は、参考人として北海道大学長中村睦男君及び東京学芸大学教育学部助教授小塩隆士君に御出席をいただいております。
 この際、両参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のそれぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 本日の議事の順序について申し上げます。
 まず、中村参考人、小塩参考人の順序で、社会保障と憲法について、お一人三十分以内で御意見をお述べいただき、その後、小委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、まず中村参考人からお願いいたします。
中村参考人 ただいま御紹介いただきました中村でございます。
 私は、長年にわたりまして憲法学者としまして、とりわけ憲法二十五条の生存権というのが私の主要な研究テーマの一つでございましたので、きょうは、こういう形で憲法調査会の小委員会で報告の機会を与えられまして、大変光栄に存じております。
 お手元に一枚の簡単なレジュメをお配りしておりますので、このレジュメの順序に沿ってお話ししていきたいと思っております。
 まず第一には、日本国憲法の制定と生存権でございます。
 憲法二十五条は、御承知のように第一項で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という形で、国民の権利としての生存権を規定しております。第二項では、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定しまして、社会保障に対する国の責務を規定しているわけであります。
 この二十五条一項の生存権の規定につきましては、日本国憲法制定に当たりましてマッカーサー草案にはなかったものを衆議院の修正によって加えられたものであります。とりわけ、衆議院の森戸辰男や鈴木義男が主張いたしまして、第一項の生存権の規定を憲法の中に入れることになったわけであります。
 この第一項のもとになる規定は、日本国憲法制定に当たりまして民間の憲法草案の一つといたしまして高野岩三郎らの憲法研究会がありまして、その憲法研究会の憲法草案要綱の中で、「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」という規定があったわけでありますけれども、この規定をもとにして衆議院で修正されたということであります。
 日本国憲法が押しつけられたかどうかということが一つのテーマとしてこの憲法調査会でも論議されたかと思いますけれども、この二十五条一項の規定は日本人の、日本の議会側の創意によって設けられた規定であります。そして、特にこの規定を制定するに当たって推進いたしました鈴木義男及び森戸辰男は、二十世紀の今日制定する新しい憲法の中においては最も重要な権利である、こういう主張をいたしまして、これが当時の憲法改正に関する委員会の小委員会、芦田小委員会の中でも非常に密度の高い憲法についての論議をされましたけれども、その中でも、生存権について小委員会のメンバーでも非常に密度の高い議論が展開されてこういう規定ができたということでございます。
 そして、この生存権の規定は、その後の憲法の運用の中でも、国民の中にやはり意識として、人権の意識として定着していったと言うことができるかと思います。
 これは、NHKの放送文化研究所では一九七〇年代から五年ごとに、同一の質問による「日本人の意識」という調査をしておりますけれども、その中でも、憲法上の権利はどれが重要か、こういう質問に対して、人間らしい暮らしをする生存権を選択する率が毎回の調査で最も高く安定しているのに対して、表現の自由とか団結権を選択する人の率が低くなっている。そういうことから、国民の意識の中にも、人権の中でも、生存権といいますか、人間らしい暮らしをする、そういう権利というのが非常に重要だという意識が定着しているということが言えるかと思います。
 続きまして、第二の、生存権の法的性格の問題に入りたいと思います。
 この生存権の規定が憲法の中に盛り込まれまして、一体、生存権というのは法的権利かどうかということが、当初、学説においても活発に論議されたわけであります。
 その中でも、戦後初期の学説はプログラム規定説という学説でございます。これは、民法学者の我妻栄がこの説の創設者でありまして、自由権とは違って、生存権というのは生存権的基本権の一つであって、その特徴の一つは、これがプログラム規定である。すなわち、裁判上、法的に救済を受ける権利ではなくて、国の政治の目標あるいは国民にとっての道義的義務を課したそういう権利であるんだ、こういう考え方であります。
 このプログラム規定説の考え方は、初期の判例におきましても、この最初にあります、昭和二十三年の最高裁の食糧管理法違反事件判決がありまして、これは、やみ米の販売購入を刑罰によって禁止する、その法律でありますけれども、ある人がやみ米を販売購入したために刑罰を科される。そういう事件において最高裁は、被告人の方では、やみ米を購入するということは自分の生存権を守る、そういう生存権を擁護する権利であるという主張に対して、いや、生存権というのは、国の政治的義務あるいは道義的義務を課したそういう規定であって、国民に具体的権利を保障したものではない、そういう判断をいたしまして被告人の生存権の主張を退けた。この事件の中でいわばプログラム規定説をとったわけであります。
 しかし、その後、第二の、抽象的権利説というのが次に出てくるわけであります。
 この代表的な判例は、生存権についても重要な判例といたしましては朝日訴訟判決というのがございます。朝日訴訟は、生活保護を受給していた方が、生活扶助、日用品費として六百円という公的扶助が健康で文化的な最低限度の生活に反するんだという主張をした事件でございます。
 これは、昭和三十一年の時点で、生活扶助、特に日用品費、朝日さんは医療扶助を受けていましたので、日用品費は別に月額六百円であった。その当時は、生活扶助については、マーケットバスケット方式ですので、算定基準が決まっておりまして、それによれば、パンツが一枚である、肌着が二年に一着、それから重症の結核患者でありましたけれども補食費はない、これが健康で文化的な最低限度の生活に反するという主張をしたわけであります。
 これに対して、朝日訴訟の第一審、東京地裁判決は、この日用品費六百円は低過ぎて、これは違法であるという判決を下したわけであります。これは、健康で文化的な最低限度の生活を営むその水準に至っていないんだという判決であります。
 抽象的権利説というのはどういうことかと申しますと、憲法二十五条だけでは裁判上救済を受ける具体的権利ではないんだけれども、憲法を具体化する法律として生活保護法が制定される。そうしますと、生活保護法の規定と二十五条を一体として解釈することによって、直接には日用品費六百円の額は生活保護法に違反するんだけれども、それはひいては憲法二十五条に違反するんだ、こういう判決を下したわけでありまして、これがいわば抽象的権利説と言われている説でありまして、二十五条を具体化する法律があった場合には裁判上救済を受けることができるという判決を下したわけであります。
 これは地裁判決ですので、東京高裁ではこの判決がひっくり返っておりまして、日用品費六百円は、これは安過ぎる、低過ぎるという、六百七十円程度が適当であるけれども、不当であるが違法ではないというのが東京高裁判決で、しかし、最高裁はさらに、原告の朝日さんが亡くなってしまったものですから、この訴訟は原告の死亡によって終了した、こういう二十五条の中身に入らない判決に終わったわけであります。
 それからもう一つ、重要な判決といたしまして、堀木訴訟判決というのがあります。この判決は、最高裁で昭和五十七年七月七日に最高裁判決が出ておりまして、これは合憲という判決であります。しかし、この判決は、問題になったのは法律の規定でありまして、児童扶養手当法に基づく児童扶養手当と他の公的年金の併給禁止規定、児童扶養手当法上の併給禁止規定が憲法違反かどうかを争われたその事件におきまして、結論としては合憲でありますけれども、しかし同時に、これは二十五条にこの併給禁止が違反するかどうかを判断しておりますので、その意味では、裁判所の中で、二十五条によって具体的な法律の規定が合憲か違憲かということが問題になったということでありまして、これも抽象的権利説として位置づけることができるかと思います。
 それからさらに、もう一つの学説として、具体的権利説というのがありまして、これは、二十五条によって直接憲法違反を争うことができるんだ、こういう学説でありました。
 しかし、この説が主張していますのは、二十五条を具体化する立法が存在しない場合にどうするかという問題で、立法の不作為の違憲確認訴訟ができるというのが具体的権利説であったんですけれども、しかし、この学説に対しましては、やはり日本の現行法上、立法の不作為の違憲確認訴訟という形で争う訴訟類型はないということで、具体的権利説は少数説にとどまっておりました。
 その次に、レジュメの(4)に出てきます、立法の不作為を含む立法行為と国家賠償請求訴訟という問題でありまして、最近は、その後、立法の不作為は国家賠償請求で争えるのだ、あるいは争うことができるのではないかという問題が出てきたわけであります。
 この問題についての最初の最高裁判決は、このレジュメにあります、最高裁の昭和六十年の十一月二十一日判決であります。この事案は生存権ではありませんで、在宅投票制度の廃止の違憲訴訟でありまして、最高裁は、結論としては、これは違法ではないという、国家賠償請求訴訟は認めませんでしたけれども、その判決の中で、立法の不作為も一定の場合には違憲、そして、違憲というのは違法ということでありますけれども、違法になり得るんだ、そういう判示内容を示したわけであります。
 このレジュメにありますように、どういう要件で立法の不作為が違法になるかというと、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定しがたいような例外的場合」、こういう例外的場合には立法の不作為も違憲になり得るんだ、しかし、在宅投票制度の廃止については、このような要件に当たらないから違法ではない、こういう判断だったわけであります。しかし、この判決の大事なのは、例外的な場合であれ、一定の場合に立法の不作為が国家賠償請求訴訟で争えるということを示した意味では非常に重要であったわけであります。
 その後、選挙権以外の事案におきましても、立法の不作為の違憲を争う国家賠償請求訴訟が出されまして、下級審判決では立法の不作為の違法を認める判決が出され、注目されているわけであります。
 一つが、元従軍慰安婦が争った訴訟でありまして、関釜元従軍慰安婦訴訟と言われております。その第一審判決の山口地裁下関支部判決でありますけれども、この事案は、戦後賠償ないし戦後補償をする立法が不作為だ、それがゆえに元従軍慰安婦が補償を受けられないということの国家賠償請求をした事案であります。
 この判決は、先ほどの最高裁の出した立法不作為の認められる要件を緩和するという形でありまして、どういう要件であるかと申しますと、人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性、このような場合にある場合には立法不作為が違法となり得るということを示しまして、この原告の請求を認めた、こういう判決であります。この判決は高裁ではひっくり返っておりますけれども、しかし、地裁判決として非常に注目されるのがこの判決であります。
 もう一つがハンセン病に関します熊本地裁判決でありまして、これはらい予防法が違憲であるということによる国家賠償請求訴訟を起こしたという事案であります。熊本地裁の平成十三年五月十一日判決ですからごく最近の判決でありまして、これは御承知のように、熊本地裁で原告勝訴しまして、控訴しないということで、一審によって判決が確定されております。
 この判決は、六十年の最高裁判決との関係についても述べまして、最高裁判決が、立法の内容が憲法の一義的文言に違反しているという要件についていえば、これは違法が極めて特殊な例外である場合に限るということの一つの例を示したものであって、これだけに限定されないんだ、こういう考え方に立ちまして、その要件としましては、人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性という要件で、ハンセン病に関する強制隔離政策をとった、そしてその後法律を改正しなかったという立法の不作為が違法であるという判決を出しまして、注目されたわけであります。
 そうしますと、こういう判決はそれぞれ、生存権の事案ではありませんけれども、生存権でも同じような事案が出た場合には、やはり人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性ということから国家賠償請求訴訟で争う道は残っているという意味では、生存権については、さらにこれは、現在においては裁判上も一定の救済を受ける権利として、判例上も取り扱われているものと解することができるかと思います。
 それに基づきまして、次に、レジュメの3の社会保障制度とその理念について述べていきたいと思います。
 社会保障制度の理念に関しまして注目されますのは、社会保障制度審議会が一九九五年に出しました勧告、これは「社会保障体制の再構築」と題する勧告であります。この中で、一九九五年の勧告は次のように述べております。
 第二次大戦後の社会保障の理念、課題が最低限度の生活を保障することであったに対して、二十一世紀における社会保障の基本理念は、「社会保障制度は、みんなのためにみんなでつくり、みんなで支えていくものとして、二十一世紀の社会連帯のあかしとしなければならない。」ということでありまして、戦後は最低限度の生活が生存権の理念であったのに対して、それにさらにプラスアルファとして、二十一世紀においては社会連帯という理念が大事であるということを指摘しているわけでございます。
 その中での三つの課題といたしまして、第一は、日本の社会保障で取り残された大きな問題は社会福祉の問題で、心身に障害を持つ人々や高齢で介護を必要とする人々に対する生存権の保障は、従来最低限度の措置にとどまっていたのに対して、今後は、人間の尊厳の理念に立つ社会保障の体系の中に位置づけられなければならないということであります。
 第二には、二十一世紀に向かってますます重大な問題になる高齢化に伴う身体及び生活にかかわる不安への対応は、社会保障が世代間にわたる連帯によって成立し、維持されることに関連することである。
 第三に、社会保障制度は生存権を国家の責任で保障するものとして整備されてきたが、今後、生活水準の上昇に伴い生活保障のあり方が多様化し、生活保障の受け手の側に認めるべき選択権の問題が生じてくるので、その選択の幅は生存権の枠を超えて拡大していくことであるといたしまして、ここで、日本では社会連帯の理念を支える制度設計が今後必要であるという問題提起をしているということでありまして、これは私も妥当な見解であるかと思っております。
 その結果、社会保障に関する構造改革として行われ、その後、政策が行われていくわけでありますけれども、その中でも大事な点として指摘されますことは、社会保障が単に公的扶助に終わらないで、これに対して社会保険あるいは生活の自立ということを観点として入れなければいけないんだ、こういうことを基本的な社会保障の構造改革の理念として具体化しようとしておりますし、さらには、社会福祉の次元におきましても、従来のような措置制度ではなくて、いわば介護保険という保険のテクニックを入れて自立を支える支給制度に持っていくという方向は、社会連帯への方向へと進んでいるものとして評価できるかと思っております。
 このことから、社会保障において今後大事なのは、その負担をどうするかということを、一つはやはり税による負担ということも大事ですけれども、同時に、社会連帯のあかしとして応分の負担をそれぞれの受益者が負担する、そのことによって社会的な連帯を実現していくということが必要であるかと考えております。
 私の結論になりますけれども、この高齢社会を我々が迎えまして、社会保障の新たな制度設計が今日必要とされております。そこで必要な視点は、社会保障と社会福祉の後退ではなくて、当事者たる国民ないし市民の参加と自治、さらには、当事者の応分の負担による社会保障と社会福祉の充実でなければならないと思っております。その中におきましても、二十五条の生存権の規定というのは、国民の人間らしい最低限度の生活を営む権利を有するということを確認して、その上に立って豊かな社会保障制度を構築することが、やはり今日の私どもの日本国憲法の生存権の理念を具体化する重要なことであると私は思っております。
 以上で、私の陳述を終わらせていただきます。どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)
大出小委員長 ありがとうございました。
 次に、小塩参考人、お願いいたします。
小塩参考人 東京学芸大学の小塩と申します。よろしくお願いいたします。
 私は、社会保障の中でも、その中核的な役割を担っております公的年金に議論を絞りまして、私の個人的なお話をさせていただきます。
 御承知のように、公的年金は、老後における最低限度の所得を保障する非常に重要な仕組みであります。憲法二十五条で、すべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるというふうに定められておりますけれども、公的年金は、その権利を具体的に国民に保障するために設定された非常に重要な社会保障制度の一つというふうに言えます。
 ところが、少子高齢化が進むにつれまして、この公的年金がこのまま維持できるのだろうか、ひょっとすると破綻するのではないかというふうな不安感、不信感が強まってきているというのも事実であります。これは非常にゆゆしき事態であるというふうに思います。
 本日は、この公的年金が抱えている問題点と、私が個人的に考える改革の方向を、一部ちょっと極端な意見もありますけれども、述べさせていただきたいと思います。
 私は、現行の公的年金につきましては、財政面あるいは経済面から見て、少なくとも二つの大きな問題点があるというふうに考えております。
 一つは、年金財政が悪化し続けて、公的年金を制度として維持できなくなる可能性が強まっているということであります。
 現行の公的年金は、それぞれの時点において、現役の世代が引退の世代の年金給付の財源を負担するという、いわゆる賦課方式、簡単に言ってしまうと自転車操業なんですけれども、賦課方式の仕組みになっております。この賦課方式の仕組みを維持するためには、少子高齢化が進んで高齢者の比率が高まりますと、現役世代の人たちの負担を高めていくしか方法がありません。ところが、負担を引き上げますと若い人たちの反発が出てまいりますし、逆に、年金の給付を削減しようとすると高齢者の人たちから反発が出てくるということになります。その結果何が起こるかと申しますと、政府が将来に向けて負担を先送りすることになってしまいます。これは日本だけでなくて、ほかの先進国でも共通して見られる現状であります。
 お手元にレジュメが配られているかと思いますけれども、そこに具体的な数字をお示ししております。民間のサラリーマンが加入している厚生年金の場合ですが、二〇〇〇年度末時点におきまして、保険料を過去に少しでも払った人たち、あるいは既に年金生活に入っている人たちに対して、国は六百九十五兆円の年金給付を将来に向けて約束しております。そのうち財源が政府にある部分と申しますのは、いわゆる年金積立金という部分でして、この部分が百四十三兆円ということです。そういたしますと、今申し上げた六百九十五兆円の借金から資産としてあります百四十三兆円を差し引いた五百五十二兆円、この部分が将来に向けて先送りされた借金ということになります。この部分をしばしば年金純債務というふうに呼ぶ場合がございます。日本のGDP、国内総生産は大体五百兆円前後ですので、それをも上回るような借金を政府は将来に向けて抱えているということになります。
 この年金純債務は、これから少子高齢化が進みますとさらにふえていくかもしれません。現に、先般、厚生年金の収支が二〇〇一年度に入りまして初めて赤字に転じたということが厚生労働省によって報告されたところです。そういうことで、年金財政はかなり深刻な状況にあると言わざるを得ません。そういうふうに財政的な基盤が揺らぐようですと、老後の所得を保障する非常に重要な仕組みである公的年金の持続可能性そのものが疑問視されるということになります。
 それから、二番目の問題ですけれども、これは一番目の問題と密接に関係するんですが、公的年金をめぐりまして世代間の格差が広がっているということであります。
 私たちは、現役時に保険料を支払って、引退時に年金を受け取るわけですけれども、その受け取りと支払いの差し引きがどういうふうになるかというのは人情として気になるわけです。私が個人的に行いました試算の結果を申し上げますと、厚生年金の場合ですが、平均的な夫婦を想定いたしますと、一九五〇年生まれ、つまり昭和二十五年生まれの人たちですと、生涯賃金の大体一〇%程度、支払った保険料よりも受け取る年金の方が多くなるということに対しまして、一九九〇年生まれ、平成二年生まれですと、逆に、生涯賃金の一一%程度、保険料の方が年金を上回るという状況になります。
 こういう公的年金をめぐる世代間格差の問題は、少子高齢化が進むとどうしても出てくる問題なんですけれども、世代が離れれば離れるほど格差が広がっているという問題がございます。財政学の教科書を見ますと、所得の高い人から低い人にというふうな所得再分配が政府による財政政策の重要な役割として指摘されるわけですけれども、若い人から高齢世代に一方的に所得再分配を行うという仕組みについては、それを正当化する理論的な根拠というのはなかなかはっきりしておりません。年金の問題を考える場合も、この世代間の公平性という点については、私たちはある程度の配慮をする必要があるだろうというふうに思っております。
 もちろん、公的年金を、加入するとどれだけ得をするか、損になるかというふうな損得勘定ですべて議論するということは適切ではありません。中村先生が先ほど御指摘されましたように、公的年金には、社会連帯あるいは世代間の助け合いという非常に重要な役割があります。ただ、余りに世代間で格差が広がりますと問題が出てまいります。若い人たちに多くの負担を強いるようになりますと、制度そのものが維持できなくなって、元も子もなくなってしまうという危険性も出てくるのではないでしょうか。
 こういうふうなことを申し上げますと、若い人たちだけに依存するのではなくて、国庫負担を引き上げて、国が財源を投入すべきであるというふうな意見が出てくるわけです。ところが、これは、経済学的にいいますと、すべて正しいということは言えないのではないかというふうに思います。と申しますのは、国庫負担というのは、最終的には私たち国民の税金あるいは保険料、あるいは将来世代の人たちの負担になるからというわけであります。もちろん、むだな経費を削って、その分を社会保障に回すべきだというふうな意見は正論ですし、私も個人的にはそういう意見に全面的に賛成いたします。
 ただ、年金をめぐりましては、毎年数十兆円のお金が政府の懐を出入りしますので、一般財源の細かなやりくりだけで解決できるような、そのような小さな問題ではないというふうな認識も必要ではないかと思います。
 以上、二つの問題点、つまり、年金財政が悪化するのではないかという危険性、それから、世代間格差が拡大するのではないかという危険性を指摘させていただきました。こういう二つの問題点を念頭に置いたときに、政府が現在検討しているとされる二〇〇四年改正、今度の年金制度改革はどういうふうに評価すべきかという問題が出てまいります。いろいろな論点があるんですけれども、私がここで特に取り上げさせていただきたいのは、政府が導入を検討しているとされる保険料固定方式という仕組みであります。
 この保険料固定方式というのは、現在、年収の一三・五八%となっている厚生年金の保険料率の上限を二〇%として法律で定めて、それ以上の保険料は徴収しない。それから、保険料がその上限に達した以降は、基本的に保険料収入の範囲内で給付水準を自動的に調整していく、そういう仕組みであります。これまでの年金改革というのは、年金の給付水準をまず設定して、それを達成するように保険料を調整するというパターンの繰り返しでした。ところが、御存じのとおり、出生率は政府の予想を下回り続けて、そのために、政府はこれまで保険料を引き上げ続けてきたわけであります。
 今回の改革は、こういうこれまでの改革のパターンを改めて、保険料の上限を設定してしまおうというふうに考えているわけです。それから、保険料が上限に達した後は、政府に入ってくるお金の範囲内でしか年金を基本的には給付しないという考え方になっております。
 これをどういうふうに評価するかということなんですけれども、立場によってその評価の仕方が違ってくるかと思いますけれども、先ほど説明いたしました年金純債務が雪だるま式に膨らんで、あるいは将来への負担の先送りがどんどんと続いて、それで制度が破綻するという危険性はとりあえず回避できるのではないかというふうに思います。そういう観点からすると、一応プラスに評価できる面はないことはないというふうに私は考えます。
 ただ、その一方で、世代間の格差というもう一つの問題点がどこまで是正されたかといいますと、必ずしも政府によって数字で明らかにされてはおりません。保険料率は、上限は二〇%という形で設定されたわけですけれども、これからどんどん引き上げられてまいります。その一方で、給付水準は、最終的には現行制度よりも一二%程度引き下げられるということになっています。そういたしますと、これから保険料を長い間支払っていく若い世代にとって、今回予定されている制度改革で状況がどこまで改善されるのかと言われると、非常に不透明な部分がございます。実際、私の試算によりますと、世代間格差というのは、それほど現行制度に比べて是正されないというふうなことになっております。
 それではどうすればいいのかという問題になるわけなんですけれども、私は、年金という非常に重要な制度の持続可能性を高める、それから、世代間格差を是正するためには、保険料水準をなるべく低く抑えて、それと連動して給付水準も低目にすべきだというふうに考えております。もちろん、給付の水準を抑えるということは、それだけを取り出すと非常に残念なことであります。しかし、その一方で、若いころに支払う保険料の負担が低くなりますと、自分自身で老後に備える余地が出てくるということもまた否定できません。
 もちろん、公的年金をどんどんスリムにしてなくしてしまえというのは、極論以外の何物でもありませんし、そんなことを主張する経済学者はまずいません。公的年金というのは、老後の所得保障という非常に重要な役割を期待されております。したがいまして、私も含めてですけれども、年金を勉強している経済学者の中では、公的年金というのは老後の最低限の所得を保障する基礎年金の部分に限定して、それを上回る部分は国民それぞれが老後に備えて貯蓄をしていく。そして、政府はそうした個人による老後の備えを税制等の面で支援していくというふうな形に制度を変えるべきだというふうな主張をする者が少なくありません。
 こういう発想をする背景には、少子高齢化の進む中では、政府が余りに多くの年金の給付を国民に約束してしまいますと、現役世代が支え切れなくなって、年金の仕組みそのものが根こそぎ崩壊してしまうのではないかという差し迫った危機意識があるからであります。そういうふうに制度が根こそぎなくなってしまうよりはむしろ、政府が責任を持って運営できる、そして現役の世代の人たちが無理なく支えられる部分に公的年金の範囲を限定して、その部分を今まで以上に強固な仕組みにしていくというふうな考え方をするわけであります。
 もちろん、年金を削減するというふうな改革案につきましては、厳しい批判が寄せられるということは十分予想しておりますし、それから、個人的に考えても、老後は充実した年金生活を送れればよいなというふうには考えているわけなんですが、少子高齢化がこれから急速に進展するという非常に重い人口動態の圧力の中では、日本国憲法第二十五条の精神を貫くためには、公的年金についてもぎりぎりの選択を我々は迫られているというふうに言わざるを得ません。
 ここでちょっと具体的な数字を申し上げますと、現在の公的年金は、厚生年金の場合ですけれども、夫婦二人のモデルケースの場合、給付が大体二十万円台前半になっております。この水準は、世界的に見てもそれほど低くない、平均より上のような水準でありまして、給付面に限って申し上げますと、充実したものと言えます。ただ、正直申し上げて、こういうふうな高い給付水準、これは現在の大卒の初任給を上回るわけですけれども、こういう給付水準を維持できるだけの経済的な力を、これから頭数の先細っていくような若い世代の人たちが果たして維持できるのだろうか、負担に耐えられるのだろうかというふうなことを考えますと、私は、残念ながら悲観的な見方をせざるを得ないというふうに思っております。
 繰り返しますけれども、私は、年金という非常に重要な仕組みを維持するためにも、政府が最低限責任を持って支えるべき部分はどこまでかということをきちんと検討すべき時点に来ているのではないかというふうに思います。そして、政府が運営すべき公的年金は、個人的にも基礎年金に限定するしかないのではないか。そして、基礎年金を超える部分は別の方法で制度をつくりかえるというふうな方法が必要ではないかというふうに私は考えております。
 そういうふうに改革をした場合も、解決すべき多くの問題が残されているということも事実であります。
 全部で三つほど申し上げますけれども、一つ目の問題点といたしましては、仮に公的年金を基礎年金の部分に限定するといたしましても、その水準をどういうふうに設定するかという点については、議論が大きく分かれるところであろうというふうに思います。経済学の分野から見ても、最低限度の生活、最低限度の所得という水準をどういうふうに設定するかという点について、具体的に幾らですよというふうな回答を導き出すことはできません。
 私自身、基礎年金の給付水準につきまして、この程度が望ましいというふうな具体的な数字を自信を持って申し上げることはできません。ただ、判断のための一つの目安としては、生活保護の基準額というものがございます。この額は、居住する地域によって違いますけれども、老夫婦二人の場合、住宅扶助等も合わせますと、大体十一万円ぐらいから十五万円ぐらいというふうになっております。現在、基礎年金は一人当たり月額六万七千円ですので、老夫婦二人ですと、合わせて十三万四千円ということになります。ですから、結果的なことなんですけれども、生活保護の基準額と現在の基礎年金というのは大体見合っているというふうに考えてよろしいかと思います。
 したがいまして、現行の基礎年金の水準は、今後も政府が維持すべき一応の目安として考えてよろしいのではないかというようなことを、とりあえずの私の考えとして述べさせていただきます。もちろん、具体的な水準、適切な水準については専門家の議論が必要になるというふうに思います。
 二番目の問題点は、給付水準を所得に応じて調整すべきなのか、あるいは、もう一つの所得保障の仕組みである生活保護との関係をどう見るのかという問題があります。
 公的年金を仮に最低限度の所得保障の仕組みとして考えますと、例えば、若いときにどんどんお金を稼いで貯蓄がたくさんある人、あるいは高齢時にもどんどん働いて勤労所得が高い人、あるいは資産所得が高い人にとっては、あなたは最低限度の所得以上の所得を稼いでいるから年金は給付する必要はないでしょうというふうに言うことができるかもしれませんし、あるいは、少なくとも所得の高い高齢者には給付を減らすべきだというふうな考え方が出てきてもおかしくありません。現に、生活保護を受けようといたしますと、所得や資産の状況をかなり細かく尋ねられるというふうなことになっております。これを資力審査あるいはミーンズテストというふうに申します。
 しかし、公的年金の給付の際にもそうした資力審査を厳格に行って、所得に応じて給付水準を調整するというのは、実際にはかなり大変なことだろうというふうに思います。私は、これは議論の分かれるところだろうと思いますけれども、公的年金の給付は、所得とは無関係に一律にしてよいのではないかというふうに思います。そういたしますと、所得の高い高齢者ほど得をするわけでありますので、最終的には、年金所得も含めてすべての所得を合算した上で、所得税制で所得の再分配を行うべきではないかというふうに考えます。その場合、高齢者向けの生活保護の仕組みは、公的年金の仕組みに最終的に吸収されるということになるのではないかというふうに考えております。
 最後は、財源をどうするかという問題であります。
 実は、公的年金を基礎年金に限定すべきだという立場をとる場合、財源として消費税を用いるべきだという意見が有力になっております。ただ、年金の財源につきましては、保険料か税かという議論が昔から繰り返されておりまして、専門家の間でも意見が大きく分かれております。
 私は、財源を税にするにしても保険料にするにしても、負担は所得、つまり負担できる能力にできるだけ連動させるようにすべきだというふうに考えております。
 実は、社会保障という仕組みに、所得再分配という機能をどこまで期待すればいいかという点につきましては、日本だけではなくて、欧米の専門家の間でも意見が分かれております。中には、社会保障というのは社会的なリスクを社会の構成員で分散するだけの機能を果たすのでよくて、高所得者層から低所得者層への所得の再分配というのは税制やそのほかの財政の仕組みで担当すればいいというふうな意見もあります。
 ただ、私は、社会保障という仕組みにも、経済的に余裕のある人ほど多くの負担をしてもらっていいのではないかというふうに考えております。先ほど、公的年金のあり方につきましては、世代間の公平性が重要だというふうなことを申し上げましたけれども、それと同時に、同じ世代の中での公平性というふうな、世代内の公平性という観点も重要ではないかと考えております。
 そういうふうな観点から申し上げますと、現在のように、自営業は月額一万三千三百円という定額の保険料を払う、それからサラリーマンや公務員は所得に比例する形で保険料を払うという仕組みは、仮に保険料方式を今のまま維持するとしても、なかなか正当化するのは難しいのではないかというふうに考えております。理想的には、すべての人々が、業種や職種に関係なく、所得に連動する形で年金の財源を負担すべきだろうというふうに考えております。
 その場合、所得の捕捉という非常に重要な問題が出てまいります。現在、消費税を福祉目的税化して、基礎年金の財源に充てようというふうな議論がしばしば聞かれるわけです。もちろん、消費税には、御存じのように、低所得者層ほど相対的に税負担が重くなるという、いわゆる逆進的な側面があります。にもかかわらず、消費税の導入を主張する声がなかなか消えないのは、所得税で財源調達をしようとしますと、所得がほぼ一〇〇%捕捉できるサラリーマンや公務員が一方的に不利になるのではないかというふうな危惧があるからだと思います。
 私は、所得の捕捉さえしっかりとできて、しかも所得と連動する形で年金の財源が徴収できるのであれば、税か保険料かという論争はある程度解決できるのではないかと思っております。
 これに対して、消費税による財源調達というのは、所得の捕捉という問題に手をつけない、言い方をかえますと、一種の現実的な方策といいますか、次善の策であるかというふうに思います。
 ところが、消費税で基礎年金を全額負担するとなりますと、二〇二五年時点で一〇%台前半の税率が必要になってしまうというふうな試算もあります。それから、基礎年金だけではなくて、高齢者医療それから介護保険も消費税で全部賄ってしまうということになりますと、一つの試算では四〇%ぐらいの非常に高い消費税率が必要になるというふうなことにもなっております。そこまで高い消費税率を国民が受け入れるかどうかというのは全く不透明なんですけれども、少なくとも、消費税で財源を調達しようというふうに考える場合は、品目ごとに税率を調整するとか、あるいは消費税以外のところで所得再分配の仕組みを整備するというふうな政策が別途必要になるかと思います。
 そろそろ予定の時刻が近づいてまいりましたので、私の主張したい点をまとめさせていただきます。
 日本国憲法二十五条で定められている最低限度の生活保障、そしてその中核に位置していると思います公的年金の仕組みというのは、これからも私たちが堅持すべき最も重要な制度の一つだろうというふうに思います。ただ、少子高齢化が進む中でこの重要な制度を堅持するためには、財政面から見た持続可能性、それから世代間の公平性、それから世代内の公平性といったさまざまな観点から、現行制度のあり方を見直す必要があるのではないかというふうに思います。
 その場合、私の考えている理想的な公的年金の姿、これについては反論があるのは承知しておりますけれども、その理想的な姿をあえて申し上げさせていただきますと、賦課方式で、これまでと同様、運営すべき年金というのは、できれば基礎年金部分に限定していいのではないか。それから、その基礎年金の財源は、職種に関係なく、所得と連動した形で調達すべきではないか。それから、基礎年金を超える部分は、国民それぞれによる老後への備えをする仕組みとして設定し直して、そこに政府が職種とは関係なく、統一した形で人々の老後への備えをサポートする、そういうふうな仕組みに改めるべきではないかというふうに考えております。
 以上で、私の意見を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)
大出小委員長 ありがとうございました。
 以上で両参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
大出小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。倉田雅年君。
倉田小委員 では、質問させていただきます。中村先生からお願いをしたいと思います。自由民主党の倉田雅年でございます。
 私も先生が冒頭おっしゃいました憲法研究会の憲法草案要綱、これにいささか興味を持っておるわけでございます。これは、先生もお書きになっていますとおり、一九四五年の十二月二十六日に発表されておる。それで、実際の現行憲法の原案は、GHQの民政局がつくったということですが、突貫工事でつくったと言われていますが、これは、この草案要綱が発表されたよりも後のことでしょうね、憲法原案の作成されているのは。いかがでしょうか。
中村参考人 これは、時間的には後ですから、要綱を参照したんじゃないかと言われております。
倉田小委員 そうですね。
 それで、私、生存権のこととは関係ない、生存権は衆議院での修正段階で二十五条が取り入れられた。これは今言った民間草案とそっくりだ、こういうことでございますね。
 一方、民間草案の冒頭の方の「根本原則」のところで、「統治権ハ」「国民ヨリ発ス」、こうしてありまして、これは国民主権の原理を言っているわけですが、一方、天皇については「国家的儀礼ヲ司ル」、こういうことで天皇制も認めておる。この点がGHQの原案に影響しているのではないかなと思いますが、いかがでございましょうか。
中村参考人 これも、現在の象徴天皇制の考え方というのは、私は同じものでないかと考えております。
倉田小委員 わかりました。ありがとうございます。
 次に、小塩先生の方にお伺いをしたいと思います。よろしくお願いいたします。
 先生が、少子高齢化に向かって世代間格差の拡大を防ぐ、あるいは同時に、同世代内での公平も目指そう、こういうことから八通りの計算をなさっていますね。客観的に物事をとらえようということは大変正しいと思うんですが、先生の結論といたしましては、公的年金は基礎年金の部分に限定する、しかも、その財源については所得によるんだ、こういうぐあいに結論されたわけですが、現在のままの状況でいけば、財政的に破綻してしまうだろうという切迫したことから、やはり基礎年金だけにしようじゃないかということはわかるんですが、思想的な観点からして、北欧型の、税金と社会保障の保険金とを合わせた国民負担率が七〇%を超えてしまうような社会ではなくて、やはり一部は公的なものによるけれども、基本的には自己管理といいますか、自己責任の世界、こちらの方でいこう、こういう考え方でしょうか、どうでしょうか。
小塩参考人 負担と給付の関係をどういうふうに考えるかという点では、国民の間でいろいろ意見がありますし、それから国によっても意見が分かれていると思います。
 北欧型は高負担・高福祉ということで、それで北欧の人たちは満足しているというふうに思います。その一方で、なるべく低負担・低福祉でいきましょうというふうな考え方もあるわけですね。それをどういうふうに、どれが望ましいかということについて、経済学の方から、これがいいですよというふうな結論は導き出すことはできません。
 ただ、私が個人的に考えますのは、負担という場合は、世代をまたがる形をとらざるを得ないというふうに思います。社会保障の負担は、どちらかというと若い世代の人たちが負担をするという形になるわけですね。
 そういうふうなことを考えますと、高負担となりますと、そうなればなるほど世代間の格差というのが広がってくるんじゃないか。その仕組みは、少子高齢化が進んでいくと、なかなか維持が難しいのではないかというふうに考えざるを得ません。そういたしますと、余りに高目の負担で制度を動かしていくというのは、ちょっと難しいんじゃないかというふうに考えております。
倉田小委員 わかりました。
 経済学の方で、国の経済成長率というものは、労働生産人口、つまり十五歳から六十五歳までの人口の伸び率とあとは生産性、これが経済成長率と連動するんだという原理があると言われています。これは、日本の合計出産率といいましたか、女性の合計特殊出産率、現在一・三%台まで下がっちゃっていますので、そういうことを考えると、今の原理と少子化が進んでいくということを、非常に日本の将来にとっては恐ろしいような事態が予想されると私は考えているんですね。
 そうした中で、先生のおっしゃるような、低負担で自己責任主義でいくというのも一つでしょうが、デンマークの例をとってみますと、国民負担率は七三・九%なんですね。だけれども、制度が安定しているといいますか、しっかりしている、国民からの信頼があるということが前提ですが、なんと人口もふえていますし、高齢化率も下がってきている、こういう現実があるんですね。まあ、日本人がどっちを選択したらいいのかというのは国民が決めることですが。
 仮に国民負担率がかなり高くても、制度に信頼性があり、安定性があり、かつ、先生がおっしゃったような世代間格差というようなもの、こういうものが何らかの形で上手に解消された場合には、国民負担率が仮に高くてもいけるのかな、いや、やはりだめだ、やはり負担率は低くて自由な方がいいのかなと、大きくいつも私の頭の中で揺れるんですが、先生、やはり基本的には、負担率は小さくて自己責任主義でいくべきだ、こういうお考えなんでしょうか。
小塩参考人 負担率の高さとそれから経済的なパフォーマンスあるいは出生率の間には、それほど明確な関係はございません。
 それから、北欧あるいはヨーロッパの一部の国々で、日本に比べて少し高目の出生率が観測されますけれども、これも、社会保障とどれだけ関係があるのかと言われると、十分分析が進んでいないところであります。
 ただ、そうはいいましても、やはり重要なのは制度の安定性というふうな面だろうと思います。制度が安定していると、国民生活もあるいは経済の仕組みも安定するということで、出生率の回復につながるとか、あるいは生産性の上昇につながるという面は、確かにあろうかというふうに思います。
倉田小委員 ありがとうございました。
 委員長、もう一問だけ。
大出小委員長 どうぞ。
倉田小委員 小塩先生は、消費税よりも所得税に財源を頼るべきだとおっしゃられるんですが、所得税も、最近、累進性が強過ぎるということで、緩和されているという傾向があります。
 つまり、余りに応能主義が過度になりますと、やはりここでも逆な不公平感が出るということで、私は、やはり消費税の逆進性というのは程度の問題といいますか、余り高くしちゃうとそういうことが起こりますが、やはり財源としては消費税の方に少し重きを置かざるを得ないんではないかなと考えますけれども、いかがでしょうか。
小塩参考人 消費税の方が、逆進性という面がありますけれども、例えば、先ほど申し上げました所得の捕捉の問題を解決しないまま導入できるという問題もありますし、それから、きょうは十分説明できませんでしたけれども、いわゆる第三号被保険者問題をなし崩し的に解決できるというふうなメリットもあるわけです。
 ただ、余りに高い水準に消費税率を上げるということになりますと、やはり逆進性の問題を無視できないということが出てまいります。さらに、先ほど申し上げましたように、仮に社会保障の財源を全部消費税にするといたしますと二けたの税率はもう避けて通れないということになりますから、逆進性という消費税の持っている非常に大きな問題が今まで以上に出てくるというふうに思いますので、できれば所得税の方がよろしいかと言える部分もあるんじゃないかというふうに私は考えております。
倉田小委員 ありがとうございました。質問を終わらせてもらいます。
大出小委員長 次に、水島広子君。
水島小委員 民主党の水島広子でございます。
 本日は、中村参考人、小塩参考人、お忙しい中、貴重なお話をいただきましてありがとうございます。私からも早速質問をさせていただきたいと思います。
 まず、原則的なことについてちょっとお伺いしたいんですけれども、憲法二十五条に規定をしております生存権、これは本当に、これからいよいよ貧富の格差が広がっていきそうな日本の中で、日本がきちんと守っていかなければいけない重要な条項ではないかと私は思っているわけでございますけれども、先日も、たしか森喜朗さんが、何だか、子供も産んでいない女性が後で税金でお世話になろうとは何だとか、そういう発言をされたとも聞いておりますし、また、人によっては、子供も産んでいない人が介護保険のことを論じる資格などないと言ってみたりとか、時々そういう政治家の方による暴言のようなものが耳に入ってくるわけでございます。
 これらの発言は、やはり憲法第二十五条の生存権ということを考えますと、基本的に憲法に違反する発言と考えてよろしいんでしょうか。中村参考人、小塩参考人、両参考人に確認させていただきたいと思います。
中村参考人 具体的なことが憲法違反かどうかは、ちょっと差し控えさせていただきます。
水島小委員 別に森さんの発言が云々、そういうことではなくて、やはり子供を産んでいる人、産んでいない人、いろいろな人がいるわけですけれども、そういう人たちが、結局、老後、自分がどんな健康状態になろうと経済状態になろうと、それはきちんと税金なりなんなりで公的に最低限の生活を保障される権利を持っているというのが日本国憲法の考え方であって、子供を産んでいない人は税金でお世話になっていけないというのはこれに反するものだという、その一般的なところだけ確認したいんです。
中村参考人 二十五条は、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営むということでございますので、これは全く……。
 それから同時に、二十五条の規定は、十四条の法のもとの平等の規定がありまして、当然、生存権というのは同時に法のもとの平等というのと密接不可分な関係がありますので、おっしゃった趣旨はそのとおりだと思います。
小塩参考人 私は経済の専門家ですので法律のことはよくわからないんですけれども、一般的なことを申し上げますと、女性もそうです、男性もそうなんですけれども、子供をどれだけ産み育てるか、あるいは結婚をするしない、そういうのを全部含めてライフスタイルをどういうふうに選択するかというのは完全に個人の自由ですので、そこに公的な制度がバイアスをかけるというのは問題ではないかと思います。
 ただ、子供を産み育てるということに対して社会全体で支援していきましょうというのは、結果的に見ると子供を産み育てるという行動にバイアスをかけますけれども、それは是認していい、もっと積極的に進めていい方向ではないかというふうに考えております。
水島小委員 答えにくい質問だったと思いますけれども、ありがとうございました。
 次に、二十五条、どうしてもやはり生存権ということになりますと、生活保護を初めとした制度との関係が深くなるということは中村参考人もるるお話しになったとおりなんですけれども、私自身も精神科医をやっておりましたので、病気を機に家族から縁を切られてしまった患者さん、生活保護からまた社会復帰へと、そのようなプロセスを一緒にたどった経験を持っております。
 生活保護を受けるというのはやはりまだまだ偏見もございますし、また役所の窓口での対応というのも非常に厳しいものがありまして、本当にもうぎりぎりのところまで身をはがれてやっと生活保護が受けられる。その時点では、人間としての尊厳も奪われるような、そんな発言を聞かされることもあるわけでございます。私は、生活保護を受ける際に嫌みを言うエネルギーがあるのであれば、そのエネルギーをもっと就労支援とか自立支援に向けていくべきだと思っておりまして、この生存権という権利はもう権利としてきちんと確保した上で、そのほかに例えば働く権利であるとかいろいろな権利があるわけですから、それらをもっとプラスの方向に発揮していくべきだと思っております。
 そうやって考えてみると、非常に現行の制度にはまだまだいろいろな制度間の隔たりがあるなと感じておりまして、例えば母子家庭の方たちに対する児童扶養手当の問題を見ましても、これから削減される方向に行く。今どうにか働いていて、勤労収入と児童扶養手当で何とかぎりぎりの生活をしている母子家庭の方たちが、児童扶養手当を失うことによってそのトータルの収入を確保できなくなって結局生活保護世帯になっていくというふうに、そこの間にはかなり生活の大きな隔たりがあって、その制度間を非常に弱い立場の方たちが右往左往しながら振り回されているというような印象を持っているわけです。
 やはりそのあたり、もう少しこの二十五条の精神を前向きに生かして、憲法二十五条だけではなくて勤労の権利もあるわけですけれども、そのようないろいろな権利をきちんと享受できるように現行制度をもう少しスムーズなものに変える必要があるのではないかと立法府として感じているわけですけれども、そのあたりは中村参考人はいかがお考えでいらっしゃいますでしょうか。
中村参考人 今おっしゃったことは私も基本的に賛成でありまして、二十五条の生存権を具体化するに当たって、戦後はやはり生活保護から出発したという、これは他の社会保障制度が未成熟であったということからそうだったと思うんです。その後、社会保険制度が公的年金、健康保険を含めて充実し、さらに社会福祉の領域というのは最近特にまた充実させてきておりますので、やはり社会福祉なり社会保険が充実することによって、生活保護というのはやはり最後の手段であると思いますので、できるだけその生活保護の最後の手段というのはもう最後の手段として使われるということで、他の社会保障制度をやはり豊かにしていくということが基本的な考えとして必要だと思います。
 それから、同時に、二十七条の勤労権と申しますか労働権といいますか、やはり仕事をまず各人が持てるようにするということが大事、まず第一で、もともと生活保護も勤労できる場合には勤労するということが前提になっておりますので、まずは勤労権を保障するという視点がやはり大事だと私も思っております。
水島小委員 次に小塩参考人にお伺いしたいと思います。
 年金と生存権の関係ということでお話をいただいたわけでございます。先ほど最低保障、先生のお言葉で言うと、今度それを基礎年金でということなんですが、とにかく最低保障年金に当たるものと生活保護との関係で大体目安をお話しになったわけです。先ほど先生、基礎年金の水準、一人六万七千円、これは老夫婦二人で生活保護だとこのくらいということで大体一致するとおっしゃったんですけれども、ちょっと細かい質問になりますが、単身の場合はどのようにお考えでいらっしゃいますでしょうか。
小塩参考人 これはあくまでも二人のケースでして、単身になりますと、単純に二で割るというわけではなくて、もう少し高目になる水準を基礎年金として与えるべきじゃないかという議論は出てきて当然だろうというふうに思います。
水島小委員 次に、先ほど先生ちらりとお触れになったんですけれども、女性と年金について、これは大きなテーマになりますが、先ほど第三号被保険者のこともおっしゃっておりました。やはり女性の方が婚姻状態によってかなり老後の経済状況を大きく左右されたり、また賃金格差も大きいですので、厚生年金だからといって必ずしも満たされているわけではないわけでございますが、主にこの第三号被保険者のあたりに特定してまいりまして、女性と年金について先生がどのようなお考えをお持ちかというのが一つ。
 あともう一つ、もう時間もなくなってきますのでまとめてお伺いしますけれども、今、スウェーデン方式の年金制度というものが注目をされているわけでございますが、これは、最低保障年金と所得比例の一階建て方式の年金、私は所得の捕捉がきちんとできるのであればかなり理想的な年金制度ではないかと思っておりますけれども、このスウェーデン方式の年金についての先生のお考えをあわせてお聞かせいただきたいと思います。
小塩参考人 一番目の女性と年金の問題なんですけれども、一番大きな問題は第三号被保険者の存在、それから遺族年金の問題なんです。
 私は、先ほど少し指摘させていただきましたけれども、女性の方々がどのようなライフスタイルを選択しようが、年金という仕組みが一つの方向にバイアスをかけてはいけないというふうに考えております。そういたしますと、現在の第三号被保険者問題というのは非常に大きな問題を抱えているというふうに思いますし、それから、遺族年金の場合も、離婚する、しないで数字が変わってくるとか、あるいは拠出実績が十分反映されないというふうな問題があるというのも承知しております。
 そういうようなことを考えると、最終的には年金は、全部ではないと思うんですけれども、個人単位の仕組みに変えていくべきではないかというふうに考えております。
 これが一番目の御質問に対するお答えです。
 それから、二番目のスウェーデン方式についてでございますけれども、このスウェーデン方式はいろいろなところで注目されているわけなんですけれども、私も積極的に日本でも検討をしていいのではないかというふうに考えております。
 先ほどの御指摘のほかにも、例えば財政均衡調整方式と申しまして、できるだけ若い人たちの支払った保険料の範囲内でやりくりをしましょうという仕組みも一部日本でも導入が考えられていますけれども、それは非常に重要な仕組みだろうと思いますし、それから、若いときの拠出実績と年金の水準がなるべく連動するようにしましょうというふうな仕組みも今までの日本の中では余り重視されていなかった面だろうと思いますので、それも参考になるというふうに考えております。
水島小委員 どうもありがとうございました。
大出小委員長 次に、太田昭宏君。
太田(昭)小委員 中村先生にお聞きしますが、私は、九五年の「社会保障体制の再構築」という中で先生おっしゃった二十一世紀の社会連帯のあかしという、そうした形での新しい展開というものについて、まさにそうだろう、こう思いますが、憲法二十五条をそういう方向の文言に変えた方がいいのか、現在の文言は大体そういうことにしておいた上で、社会保障の理念として、また法律体系として積み上げていくという方向がいいのか。その辺の、二十五条の文言と、新しい二十一世紀の社会保障のあり方の社会連帯という概念について、お聞きをしたいと思います。
中村参考人 二十五条の一項は「健康で文化的な最低限度の生活」ということでございますので、この観点から社会連帯の考え方というのは直接出てきません。しかし、二十五条二項では、社会保障制度を樹立するという規定の中で、おっしゃったように、社会保障の理念として、生存権の中に社会連帯の考え方を入れるということで、私は、今の憲法は、二十五条はそのままにして、社会保障の理念というのはもともとそういうものであった、社会連帯なり個人の自立、それから集団の自治ということを含んでいるんだという解釈で十分可能であるというふうに考えております。
太田(昭)小委員 それでは、そこの第一項に「健康で文化的」という言葉がございますが、常に、憲法がつくられた当時の時代性の中で文言というのは当然出てきているわけです。大変不健康で、文化住宅なんという言葉が我々の時代にあったわけですが、今でもまだ関西の方ではありますか。そういう「健康で文化的」という文言、概念について、この憲法上言われている健康とは一体何であり、文化的というのは何でありということからいきますと、もう少し、今の時代とか、これから未来性、社会連帯ということもそうですが、このあたりの、最低限度と確保するという文言が果たして健康で文化的ということでいいのかという感じがするわけですが、健康とは何であり、文化的とは何であり、そのほかに何かそれにつけ加える新しい言葉、適当な二十一世紀型のものはないのかということについて、お聞きしたいと思います。
中村参考人 健康で文化的というのは、やはり時代によって変化する概念で、それが最低限度という点についても、最低限度が何かというのは、昭和二十年と現在の平成十五年では、非常に経済水準も違いますから、異なってくるという、これは当然あると思うんです。
 ただ、健康ということでの憲法制定時との大きな違いは、憲法制定時ですと、主に、病気にならないといいますか、それが健康ということですけれども、やはり二十一世紀の現代で健康概念で一番大きなのは、環境問題というんですか、いわばこれは、環境権というのを新たな憲法の規定で設けるかどうかというまたもう一つの大きなテーマがあるかと思います。健康概念をさらに拡張いたしますと、やはり二十一世紀において地球環境をどうするかということと不可分の問題で、この点に関してはやはり環境権を明文として設けるということがいいかどうかは、問題として、議論としてはありますけれども、環境権がやはり一つの発展形態としてあるのではないかと私は考えております。
太田(昭)小委員 文化というのはどうでしょう。
中村参考人 文化も水準によって随分異なってきまして、教育程度ということも、戦後の時代ですと大学進学率も一〇%に満たない、現在ですとそれが五〇%近くになっている。そういう教育も文化の一つであるかと思いますし、文化そのもののいろいろな意味での発達というのもあります。しかし、その点は基本的には、時代によって文化が変わっても、変わらない部分がやはり基本としてあるというように考えてよろしいんじゃないかと思います。
太田(昭)小委員 私は、環境権というのをこの第二十五条で読むというよりは、国民憲法、人権憲法、環境憲法の方向を明示するということが次の憲法論議では大事だというふうに思っておりまして、ここで読み切るということではないんですが、今のお話は大変参考になりました。
 そこで、今度は住まいという場合で、住む、住ということからいきますと、最低居住水準というのは二十八平米、二人でいきますと五十六平米ということがあって、東京などではなかなかそれだけ確保できないということがあったりするわけですが、こうした最低居住水準というようなものとこの二十五条の関係性というのはどういうふうに考えたらよろしいでしょうか。
中村参考人 居住については、直接ほかには規定がありませんので、やはりこの二十五条の中で、健康で文化的な生活ということから、居住の最低限度ということも、当然、解釈としてはこの中に含めて解釈すべきものだと私は考えております。
太田(昭)小委員 私は、水島先生がおっしゃったのと同じ考えで、小塩先生に再度聞きたいんですが、私は、全体の平均でいきますと二十数万円という年金水準というのは相当なものである、よく来たなというふうに思っていますが、女性の年金、特に、ひとり暮らしで都市部で住宅を抱えて家賃を払わなくちゃならなくて、六万七千円というものが逆に確保できなくてというようなことで、本当に大変な人というところをバックアップしなくてはいけない。
 全体の給付は下げていくという方向に行くんでしょうが、そこをもう少し上げてあげるという、まさに世代間の公平、厚生年金の遺族年金もないとか、あるいは離婚したというようないろいろな事例が出されましたけれども、全く私はそういうふうに思っておりまして、今回の年金改正という観点では、まさに先生のおっしゃる、世代内、特に女性、そしてひとり暮らし、家賃を払っている、こういう人に対してのバックアップ体制ということ。
 それから、どうも、生活保護世帯のもらうお金と年金で生活せざるを得ないという人たちでは、感情的に非常にすっきりしないものを持っているということは、今回の年金改正論議の中で非常に大事な問題だと思いますが、一つは、そうしたひとり暮らしの、少し上げた方がいいという話がありましたが、先生のおっしゃるすかっとした方式は、それはそれで一つの論理ですが、現状を少し変えるという中でそういうような水準を上げるという論議というものの方向性は一つ成り立つであろうかということと、生活保護の水準ということとの、いわゆる基礎年金部分、国民年金の部分との水準というものの考え方について、いかがお考えかを聞きたいと思います。
小塩参考人 先ほど、どちらかというと、年金の水準をカットするカットするという話ばかりを強調して申し上げましたので、ちょっとそれは行き過ぎじゃないかというふうな御意見、御感想を持たれたことはもう十分わかっているわけなんですけれども、高齢者の中には、生活に困っている層とそうでない層と、非常に極端に分かれております。特に、ひとり暮らしの場合、女性の経済的な貧困度というのは非常に深刻な問題があります。その一方で、年金もたくさんもらっておりますし、それから資産、貯蓄も多いというふうな高齢者の人たちも多いわけです。
 ちなみに、数字を申し上げますと、貯蓄の残高を平均で見ますと、全世帯の場合、若い人もお年寄りも含めてですけれども、大体千八百万円ぐらいなんです。ところが、高齢者の平均は二千七百万円ぐらい、それから、三千万円以上の貯蓄をしている人が全体の三割というふうなことです。ですから、高齢者の間で、所得の低い層とそれから裕福な層の格差が非常に広がっているという問題があるわけです。現行の仕組みはそういう格差の拡大というのに対して余り手当てをしていないというふうな気がいたします。
 私は、先ほど、年金を削減するというふうに申し上げましたけれども、たくさんもらっている人の年金は削減していいと思うんですけれども、基礎年金にしか頼ることができない、あるいは基礎年金も繰り上げ支給をしてもらわなければやっていけないという人たちもその一方でたくさんいらっしゃるわけですから、そういう人たちに対しては、今まで以上に、生活保護も含めて、高齢時の所得保障の仕組みというのは充実すべきだろうというふうに思います。
太田(昭)小委員 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、武山百合子君。
武山小委員 きょうは、中村参考人と小塩参考人、どうもありがとうございます。自由党の武山百合子でございます。
 早速、中村参考人にお話をお聞きしたいと思います。
 先ほど、日本国憲法の制定と生存権ということで、四番目の立法不作為を含む立法行為と国家賠償請求訴訟のお話の中で、私、実は、ハンセン病の強制隔離政策、この問題で、最終解決を図る議員連盟に所属いたしまして、実際に本当に真相の部分までいろいろ今回勉強させていただいたわけです。この問題で、たしかプロミンという抗生物質が日本に入ってこられてからはきちっと解決できる環境にあったにもかかわらず、国が結局不作為をずっとしていたということに問題があったわけですけれども、この問題に対して、先生にもう少し詳しく御説明いただけたらと思います。
中村参考人 私、この判決を取り上げましたのは、直接には、立法の不作為が国家賠償請求訴訟の対象になり得るかどうかということで、この判決が、なり得る、なるということを明らかにした判決として取り上げたわけでございます。
 しかし、これは同時に医療の問題とも関係してきますので、医療の問題とのかかわりという意味では生存権ともかかわるとは思うんですけれども、しかし、ここで実際声明していますのは、強制隔離ということで、どちらかというと、居住移転の自由とか、それから、強制隔離ですから強制的ですから、やはり人格権、個人の人格権の問題にもかかわるという、その意味では、憲法の問題としては、直接生存権ではありませんけれども、生存権にかかわる居住移転の自由、あるいは人格権というやはり重大な人権問題であった。そういう人権問題であったからこそ、重要な人権侵害として国家賠償を認めるという判決であったように私は理解しております。
武山小委員 どうもありがとうございます。
 それでは、小塩参考人の方にお伺いしたいと思います。
 先ほど、現行制度の問題点というところで年金財政の悪化、本当にまさにもうだれもがわかっている状態なわけですけれども、物価スライドが過去数年凍結されてまいりまして、実際にもう年金の支給額というのはことしから下がったわけなんです。本当に現実的にもう財政が悪化しているということで、その後お話しされました世代間格差の拡大ということで、今本当に、終身雇用から、まさに納める、すなわち年金を負担する側のいわゆる世代間格差、それから、職業、雇用の問題という点で、大変大きな激変の社会に直面しておるわけですけれども、この世代間格差の拡大がもっともっと広がっていくと思います。
 これは、やはり国がいろいろな形で、定職を持ち、きちっと社会保険料を納める、そういう方向に持っていかなければいけないわけですけれども、では、ここでこの世代間格差の拡大をどうしたらいいかという点で、ちょっとお話しいただけたらと思います。
小塩参考人 世代間の格差はこのままですとさらに大きくなるという危険性があるわけですけれども、これはどこに原因があるかと申しますと、先ほども説明させていただきましたけれども、いわゆる賦課方式の仕組みで現在の制度が回っているからということになってしまいます。そういたしますと、非常に経済学的な説明で申しわけないんですけれども、その賦課方式で回っている部分をなるべくスリムにする、縮小するということを考えざるを得ないわけですね。したがって、具体的にはどういうことをするといいかというと、給付水準をなるべく低くする、それから負担の率も低くするというふうなことをせざるを得ません。
 ただ、それを公的年金の規模縮小というふうに言ってしまうのはちょっと問題があるかもしれなくて、仮に、縮小したその一方で、例えば若い人たちに積み立てをしてもらう、その分を、後で貯金を取り崩すかのような形で年金として給付する、これを積み立て方式と申しますけれども、そういうふうな仕組みを導入するという形で公的年金を衣がえすれば、世代間の格差というのは縮小できるだろうというふうに考えております。
武山小委員 今、若い人に聞きますと、将来もらえないんじゃないか、だから払いたくないという若者も結構いるわけですね。今、いろいろ若い世代を考えてみますと、三分の一がパートで、三分の一がフリーターとか派遣だとか、三分の一が定職についている、そういう印象なんですよね。ですから、いわゆる半数以上の方が、社会保険料を本当に払っているのか払っていないのかという非常に不安定な要素をたくさん持っておるわけですけれども、この若い人たちへのきちっとした方針を国が示さなきゃいけないと思うんですよね。国が若い人にどういう方針を示したらいいと思いますか。
小塩参考人 教育の場等々を通じて公的年金の意義をちゃんと教えるというのも大事だろうと思うんですけれども、実際に保険料を払ってくださいというふうな段階になりますと、なかなか若い人たちが払ってくれないだろうというふうな面はやはりあると思います。
 どうすればいいかということなんですけれども、やはり年金の仕組みを二つに分けたらいいと思うんです。一つは、いわゆる払った分が後で返ってこないんでしょうというふうな損得勘定ではもう全然議論できない部分、みんなが世代間で助け合っていきましょうというふうな部分をまず設定します。それから、それを超える部分は、払った分だけしっかり後でちゃんと戻ってきますという部分をつくります。そういうような形で年金の仕組みを大きく二つに分けて、それぞれ重要ですよというふうに説明をすれば、公的年金という非常に重要な仕組みに対する若い人たちの理解というのも高まってくるんじゃないかというふうに思います。
武山小委員 それでは、先ほど、解決すべき課題の中で基礎年金の水準設定というお話が出ましたけれども、実は、アメリカがたしか六百五十ドルだったと思うんですね、ソーシャルセキュリティーが。ですから、日本のこの水準というのは一応の目安かなと私自身も思っております。
 自由党の考えをちょっと述べさせていただきたいと思いますけれども、自由党は、基礎年金、高齢者医療、介護というものは税ですべきだというわけなんですね。この税というのは消費税で、だれもが、子供から大人まで公平である税であるということで、これを福祉目的税としてきちっと目的化してすべきじゃないかというふうに考えるわけです。
 しかし、いろいろ批判の中の一つは、それだったら相当税率を上げなければいけないんじゃないかというわけですけれども、今は国庫に全部入ってしまっているわけですよね、消費税も何も全部。ですから、福祉目的税化して、そして消費税でやるとするならば、先ほど、一〇%台前半の税率ということでしたけれども、これは、逆進性の軽減というのは当然必要だと思うんですよね。
 この自由党の考え方に対して、ぜひ御意見をいただきたいと思います。
小塩参考人 消費税を福祉目的税化して、それで基礎年金それから高齢者医療、介護も全部含めるということでありますよね。
 それは、一つの考え方として非常に重要だろうというふうに思います。というのは、現在の社会保障のお金の動きというのを見ますと、大体、若い人が納めてお年寄りに支払うというふうな形になっております。それから、制度の抱えるいろいろな問題、業種間でいろいろな格差、制度の違いがありますというようなことを考えますと、社会保障の仕組みを一体化して財源を一つにしてしまう、しかも消費税を福祉目的税化するというのは一つの重要な提案だろうというふうに思います。
 ただ、その場合、やはり私は解決しなければならないのは、消費税の持っているよくない面、逆進性という面だと思います。もしそこまで明確な形で消費税を社会保障財源とする場合も、それ以外のところでの所得再分配の仕組みというのを補完するような形で今まで以上に整備することが別途必要になるのではないかというふうに思っております。
 それともう一つは、いわゆる物価スライドの問題をどういうふうに考えるかということですね。先ほどの御提案ですと、恐らく消費税率はかなり高目になるんじゃないかなというふうに思うんですけれども、そうなると、現行の年金給付の仕組みでは物価スライドというのがございまして、消費税の引き上げ分だけインフレになりますから、その分を年金額に上乗せするというふうな措置が必要になるわけです。そういたしますと、さらに消費税率を高めなければならないというふうなイタチごっこの局面が出てくるかと思います。それをうまく解決する方法を考えなければならないという点も指摘できるというふうに思います。
 以上です。
武山小委員 頑張って人生を生きてきて、そして老後の、仕事を退職したときにきちっと基礎年金がもらえる、本当に積まないと、賦課方式でやらないともらえないという発想から、今私は支えている側なものですから、私は頑張った人には上げたいという気持ちがすごくあるわけなんですね。頑張ってきた人が老後のことまで心配して生きていかなければいけないなんという社会であれば、やはり何のために頑張ってきたのかなというふうな思いがあるものですから、そういう形で今質問いたしました。
 ありがとうございました。
大出小委員長 次に、春名直章君。
春名小委員 日本共産党の春名直章でございます。お二人の参考人の皆さん、本当にありがとうございました。
 まず、中村参考人にお伺いしたいと思います。
 日本国憲法二十五条の規定の世界の憲法との比較についてちょっとお伺いしたいんですが、冒頭に、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有している、こういう表現になっています。例えばイタリアの憲法だったら、労働の能力がなく、生活に必要な手段を持たない場合とか、災害、疾病、老齢、その意に反する失職の場合という条件をつけて生存権ということが規定されています。そういう点での比較ですね、すべての国民と。それから、後段の第二項のところでは国の責務ということが明記されていることも私は特徴ではないかなと認識しているんですが、この生存権規定の日本国憲法における特徴、私は先駆的な規定だと思っているんですが、その点はいかがでしょうか。
中村参考人 今述べられたとおりだと思うんです。この二十五条には一九一九年のドイツのワイマール憲法の影響もあると言われていますけれども、ワイマール憲法は決してすべての国民の権利という規定ではありませんで、すべての経済生活の秩序は人間らしい生活にのっとらなきゃいけないというような規定だったと思います。それから、今イタリア憲法の話を言及されましたけれども、イタリア憲法にしろフランス憲法にしろ、社会保障を受ける権利のような形でありますけれども、それに対して明確にすべての国民に権利を与えるという意味では、世界でも最も当時もすぐれていた憲法、規定だったと思いますし、今日でもやはり世界的に見ても特徴がある規定である。
 なおかつ、私、裁判の例も紹介いたしましたけれども、世界でも今いろいろな意味で憲法裁判というのが充実してきていますけれども、生存権に関してのいろいろな裁判例が蓄積されているのは日本がやはり一番であると思っておりますので、その意味では、非常に日本の特色ある規定としてこれは大事にしなきゃいけない規定だと私も思っております。
春名小委員 そこで、その二十五条の解釈の問題で、私は、先生もおっしゃったように、これは実体的な権利の保障の中身であると思うんですね。朝日訴訟なんかでそういう実体的な権利の中身を闘い取ってきたと言ったら表現は悪いかもしれませんけれども、そういうものではないかと思うんです。
 ただ、政府の解釈を見てみますと、例えば、生存権の保障に必要な予算の配分などは政府や国会の裁量による政策の問題であって、生存権はそうした裁量に指針を与えるもの、二十五条というのは。そういう解釈をしているように思えてならないんですよね。そうではなくて、実体的な権利としてこれはやはりやる必要があるということではないか、そういう歴史ではないかと私は思うんですけれども、その点の解釈、いかがでしょうか。
中村参考人 これは、最終的には最高裁判所の判例によって決めるということでありますけれども、最高裁の今の考え方は、レジュメにも挙げております堀木訴訟の最高裁は、二十五条は実体的権利ではあるんだけれども、立法府に広い裁量権が与えられる。しかし、今おっしゃったように、では立法権に全部任せた、単なる指針ではなくて、立法府に裁量はあるんだけれども、立法府が裁量権を逸脱した場合には裁判所は違憲と言うんだ、こういう歯どめは最高裁判所もかけておりますので、そこで、やはり立法府が賢明なる立法をしていただくということを前提にして、しかし裁量権が乱用された場合には違憲になり得る、こういう仕組みになっているかと思います。
春名小委員 先生の陳述の中で、九五年の社会保障制度審議会の勧告のお話を出していただきました。社会保障制度は、みんなのためにつくり、みんなで支えていくものとして、二十一世紀の社会連帯のあかしとしなければならないという理念が述べられていて、これは当然のことだと私も思うんです。
 一方、現実を考えてみますと、勧告は、二十五条の二項にかかわる国の責任については、一九五〇年の勧告と比較しても内容的には後退しているような印象を受けるんですね。その上、九五年の勧告が出された以降も社会保障の国民負担は非常にふえる一方で、公的な責任が後退される流れになっているのではないかと危惧しています。
 一つの例ですけれども、日本とアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどの社会保障への国庫支出の対GDP比というのがございます。直近の数字で見ても、国庫支出の対GDP比は日本が最低です。しかも、外国は比率をこの間伸ばしてきているんですけれども、日本の場合は、一九八〇年に四・一%だったものが、九七年には三・四%に残念ながら後退をしております。
 その比率自身が低くなってきているということから見ても、確かに財政のやりくりの困難さというのは横たわっているわけですけれども、しかし、こういう世界の流れとの関係から見ても、憲法二十五条に国の責任ということまで明記しているにもかかわらず、こういう事態になっているということは非常に残念でならないと私は思っているんですが、この間の社会保障制度改革の流れ、なかんずく国の責任の後退という点をどうごらんになっているのか、そのあたりをお聞かせください。
中村参考人 社会保障における財源問題、財政問題、これは小塩参考人の方でいろいろ先ほども述べられたとおりです。やはり、社会保障の財政を破綻させてはいけない、社会保障そのものが元も子もなくなってしまう、こういう状況の中で国民がそれぞれ応分の負担をするということは私は必要だと思っております。
 ただし、全体として私はやはり日本は福祉国家でなければいけないと思っておりますし、それから、今説明されました、GDP比率で日本が先進諸国から見るとまだ低い部分があるという面についてはより改善すべき、それは国の政治の目標として改善するのが憲法二十五条の趣旨であるというようには思っております。
春名小委員 ありがとうございます。
 小塩参考人にお伺いしますが、年金の非常に詳しいお話をいただいて、勉強になって、ありがとうございました。
 それで、少し広い話で申しわけないんですが、やはり少子化社会を克服するというのは大命題だと思うんですね。高齢化社会、長生きするということはすばらしいことですが、少子化社会というのはやはり国にとっての大問題ですので、この解決のかなめについて、やはり、女性が子供を産み育てる、そういうことができ、かつ働き続けることができる、そういう環境が日本社会は非常におろそかであるといいますか、弱いといいますか、という問題をどう見るのか、どうすればいいのかというのは最大の問題の一つじゃないかと考えるんです。
 この点、今のそういう問題、どうごらんになっていて、どう解決すればいいのか。一足飛びにはいかないのはよくわかっているんですが、改革の方向ですね、働くことと女性が産み育てることを両立させる環境をどうつくるのか、このあたりについて、お考えをお聞かせいただきたいと思います。
小塩参考人 御指摘のとおりだと思います。
 最近では、欧米諸国で年金の専門家がたくさんいますけれども、彼らの中でも、年金そのものを調整するという改革のほかに、子供の数をふやすにはどうしたらいいかというふうな観点で物を考える人たちはふえてきております。
 やはり、行き過ぎた少子化を回避するためには、育児施設を充実させるとか児童手当を拡充するとか、そういうふうな形で、今まで以上に子育てを支援する仕組みを整備するということが必要だと思います。
 ただ、これは非常に時間がかかります。少子化対策あるいは児童手当の拡充が出生率の回復につながったと言われる北欧でも、一九七〇年代ぐらいから始めてようやく効果が出てきたというふうな面がありますので、これは非常に大変なことですし、それから、制度が整ったとしても、人々の育児姿勢に対する考え方が変わらないとなかなか先に進まないというふうな面がありますので、私は、改革としては進めなければいけないんですけれども、効果をすぐに期待するというふうなことはやはり問題じゃないかなというふうな気がいたします。
 さらに言いますと、これは考え方の違いかもしれませんけれども、産めよふやせよというふうな形で制度をつくっていくというのはちょっと問題ではないかなというふうに思います。子育て支援というのは、やはり子供を産み育てるという極めて人間的な行動に対して社会全体で支えていくということに一番の問題があると思いまして、その結果子供がふえる、ふえないというのは、これはもういたし方ない面があるんじゃないかという気が個人的にはいたします。
 というふうなことを考えますと、子供がある程度少ないというのはもう所与のこととして受けとめてしまって、その中でもうまく回るような社会保障の仕組みを別のところで考える必要があるというふうに私は考えております。
春名小委員 どうもありがとうございました。
大出小委員長 次に、北川れん子君。
北川小委員 社民党・市民連合の北川れん子といいます。
 きょうは、二人の参考人、本当にありがとうございました。
 まず、中村参考人の方にお伺いしたいと思うんですが、先ほども憲法の二十七条の問題が少し触れられたと思うんですけれども、今の超資本主義社会という域に達していく中、労働基本法の改正などで、基本的に労働基本権というものが確立されたものから、私から見ると後退というふうな流れも出てきている状況の中で、勤労のありよう、勤労を保障するという国の責務なんですけれども、今の状況を中村参考人はどういうふうにお感じになっているのかを少しお伺いしたいと思います。
中村参考人 これは、やはり失業率の問題というようなことともかかわると思いますし、同時に、これは日本経済の問題ともかかわってきますものですから、法律論としましては、当然国民は勤労の権利を持っているんですから、それぞれ勤労権が保障されなければいけない。
 しかし、どうも、二十五条につきましては、先ほど御説明しましたように、プログラム規定というのが次第に克服されて法的権利になってきているということなんですけれども、ただ、勤労権につきましては、なかなかこれをプログラム規定以上に具体的に、それでは裁判上、失業した方が一体自分の適職を請求できるかというと、これはやはり経済の仕組み全体ともかかわってきますものですから、憲法論として見ますと、二十七条の部分というのは、立法なり政府の政策の指針という点にとどまっているというのが現状だと思います。
北川小委員 具体的には、やはり二十七条を格上げしていくというか、実施化を具体化していくということはとても大事だろうということだろうと思うんです。
 よく街頭の演説とかいろいろなところで使うときに、自殺者がこの四年間三万数千人を超えてきている、そしてまた、家出をされる方も三万数千人いらっしゃるというふうに聞いております。その数字の第一位が健康であり、第二位が経済と生活問題であるというふうに言われているんですけれども、政治に携わりながらそういう数字を使わなければいけないという今の状況の中で、中村参考人は、生存権の権威として、生存できない方たちに対して二十五条を、今はプログラムというところが主流になっているということなんですけれども、もう少し、解決策として二十五条をうまく使うといいますか、そういう部分では何かお考えがおありになるのかどうか、お伺いしておきたいと思うんです。
中村参考人 私は、二十五条はプログラム規定じゃなくて、これは具体的には、立法で具体化され、さらに立法についても裁判所がコントロールできる、そういう権利であって、しかも、二十五条につきましては、健康で文化的な最低生活ということは、かなり日本はいろいろな立法で整備されてきているということは認める必要があるかと思っております。
 ただ、全体に、今おっしゃったような自殺等々の社会現象というのは、私は、福祉国家というんですか、健康で文化的な最低限度の生活をだれでも営む権利を有するということを基盤にした、やはり社会連帯に基づく、理念に基づく社会というのが、今そこが弱まっている。とりわけ、何か社会の仲間同士が連帯するという精神が弱まっているというところがあって、それは新たに、国のみならず社会が、社会を構成しているのは国民一人一人ですから、やはりお互いに権利を持っていると同時に義務があるということを確認する必要があるというように私は考えております。
北川小委員 ちょっと話は飛んでしまうんですけれども、先日、英参考人がお越しになって、お伺いしている中で、憲法前文のお話が出て、具体的には、憲法九条の二項は要らないんじゃないかという御発言をされたんです。中村参考人にお伺いしておきたいんですけれども、憲法九条と憲法二十五条の生存権との関係においては、何か御説をお持ちでいらっしゃればお伺いしておきたいなと思っているんです。
中村参考人 平和的生存権という概念でございますね。憲法九条及び憲法前文から、「平和のうちに生存する権利」ということが、広い意味では生存権とはかかわるかと思います。しかし、直接二十五条ではありませんけれども、かかわりはあるかと思っております。
北川小委員 ありがとうございます。
 小塩参考人の方にお伺いをいたしたいと思うんです。
 今の日本が、割と、経済が失墜しているとはいえ、経済大国であるわけですね。経済大国でありながら、なぜこんなに日々苦しくなるのというのが、何が問題なのというのが閉塞感を生んでいるのではないかという気が私はするんですけれども、右肩上がりではなくなってきているわけですが、あるところの一定水準は保つであろうという予測のもとでの年金のお話なのか、もしくは、経済がもっと下がっていく、もっと生産性も含めて下がっていく中での先生の御提案なのかどうかをお伺いしておきたいと思うんです。
小塩参考人 後者です。私は、将来に対しては余り楽観的な見通しを持つべきではないというふうに思います。
 先ほどどなたかの御指摘がありましたけれども、働く人たちの頭数がこれから減っていくということですよね、それから、今までのようにどんどん技術革新が進むというわけでもないというふうに考えますと、最終的には経済成長率はマイナスになってもおかしくないというふうに思います。そういうふうな状況のもとでは、今まで右肩上がりで成り立っていた仕組みというのをやはり変えざるを得ないんじゃないかというふうな危機意識というのを私は持っております。
 したがって、非常にドラスチックな形になっていくかもしれませんけれども、年金額についてもなるべくスリムな形で制度を変えてみようというふうな政策提言をさせていただいたということになっております。
北川小委員 これからの経済のありようを見据えた上での提言だというふうに受けとめさせていただきたいと思うんです。
 今、よく、パラサイトシングルというのがありますよね。だから、お金持ちの高齢者という表現の中に、若い世代もそこに養われているくくりになっているというところがあると思うんです。常に現金給付という形での社会保障のありようが探られるんですけれども、私は、先ほどの労働の問題ともなんですが、ある段階、十年ごとぐらいか二十年ごとぐらいかで、やはり次のステップにいける期間というのを社会が保障するというような制度、北欧などでは既にある、特に女性などにはそういうものを活用できる仕組みというのがあるというふうにお伺いしているんです。そういう職業訓練とか、大学や大学院で学び直すとか、社会大学をつくるとか、そういうありようの中で、年金というと、どちらかというと、私は高齢者も働けるだけ働いていけるような道を探ればいいと思うんです。
 総括的に、ライフスタイルの選択とおっしゃったんですけれども、国はそういう方向の面に関して施策を充実させていかなければいけないと思うんですが、小塩参考人のお考えはいかがでいらっしゃいますでしょうか。
小塩参考人 働くということは非常に重要だと思います。
 先ほど、年金の受け取り手の話を中心にさせていただいたんですけれども、年金の問題は、それを支える人がふえれば別に深刻にならないわけなんですけれども、現在の人々の働き方を見ますと、なかなか企業の就業に対する考え方が変わってこないので、その弊害が出てきているというふうな面があるというふうに思います。
 例えば、先ほど御指摘のパラサイトシングルにつきましても、これも、企業の採用の仕組みが非常に硬直的で、大卒でずっと定年まで自分の会社にとどめるというふうな形が、一部崩れてはおりますけれども、日本の雇用システムの中核を今までと同じように占めているということであります。そういたしますと、人々の多様な働き方、パートになるとか、あるいはフルタイムになるとか、あるいは自営業からサラリーマンになって、サラリーマンから公務員になるというふうな、非常に多様な就業スタイルの選択が拘束されているというふうな面があるかと思います。
 そういうふうな人々の働き方を自由にしていくというふうなことになりますと、働く機会もふえて、その帰結として年金の保険料収入もふえてくるというふうなプラスの面も出てくるのではないかというふうに考えております。
北川小委員 時間が参りました。どうもありがとうございました。
大出小委員長 次に、井上喜一君。
井上(喜)小委員 保守新党の井上喜一でございます。
 きょうは、両参考人、本当に御苦労さんでございます。
 まず、中村参考人からお聞かせいただきたいんですが、私は、憲法二十五条というのは、これはプログラム規定、それから努力義務規定、国にとってはそういうものだというふうに思います。したがいまして、具体的な国民の権利というのは個別法で中身は確定する、それによって請求権なりあるいは支配権が発生してくるんじゃないか、こんなふうに思うんですね。
 最高裁の判決なんかも出ておりますが、どうも、これ自身を根拠にして、これを実体規定あるいは強行規定として裁判をすることは難しいんじゃないかと私は思うんですよね。これはなぜかといいますと、いわゆる社会権というものは権利一般、つまり表現の自由だとか言論の自由、こういうものとは根本的に違うと思うんですよね。例えば、保険料を払うだとか、あるいは働くだとか、そういうことがあって成り立つ、私は、権利といえば権利だと思うのでありまして、一般的に、憲法にこう書いてあるから、憲法の条文を根拠にして請求できるとはだれだって思わないんですよね。
 ところが、法律学者は、外国ではこうだから日本はこうするんだとか、そういうようなことがよくあるんだけれども、この社会権というのは、その国独自のいろいろな要素を反映するものだと私は思うんですね。
 だから、ヨーロッパなんかは、最低百五十年間ぐらいの期間をかけて基盤の整備をしてきたと思う。しかも、その間に、植民地経営なんかをやってきたわけですよね。だから、日本は、今の時点でいえば、確かにそれは国民所得は世界の第二位かもわからないけれども、中身は大変貧相だと私は思いますね。
 したがって、いろいろな政策を推進する場合に、バランスをとりながら物を進めていくということだと思うので、生存権である保障をする場合のその水準をどうするかなんというようなことも、やはり、日本独自の考え方でやらなくちゃいけないんじゃないかと私は思うんですよね。
 私はそういう考え方を持っているんだけれども、こういう考え方につきまして、中村参考人に――あるいは、もっと言わせていただきますと、法律というのは、よく上部構造と言われたわけですよね。私の学生のころなんか特にそういう思想が強かったのでありますが、私は、必ずしもそうとは思わないけれども、しかし、そういう上部構造的な要素が多いのもまたこれ事実だと思うのでありまして、だから、そういうものとして立法というのを理解して我々は取り組んでいかないといけないんではないかと思うんですよね。こういう考え方はいかがお考えですか。
中村参考人 社会権が自由権とは性質を異にして、自由権ですと即裁判で救済されるけれども、社会権の場合では必ずしもそうでない、全体から見ますと、確かにそういう傾向がありますものですから、したがいまして、裁判所でも、社会権あるいは生存権に関しましては立法府の広い裁量権を認める、どういう立法を行うかについては立法者が賢明と考える立法をする、そういう裁量権を広く認めるという観点では、自由権とは違って、社会権の特徴がある。
 ただ、それを私どもでは、プログラム規定ではなくて、裁判所が最終的にはやはりチェックできるんだという意味では法的権利ではある、こういう表現をしておりますものですから。そういうことでございます。
 それから、確かに社会権は各国によって違っておりますけれども、人権というものは、現在やはり国際的な人権保障、これは日本も国際人権規約を批准しておりますし、この国際人権規約の中には自由権規約と同時に社会権規約もありますので、そうしますと、社会権についても、現在のグローバル化した世界においては、世界的なやはり共通水準が必要だ、こういう考え方には立ってきているかなと私は思っております。
井上(喜)小委員 次に、小塩参考人にお伺いしたいんですが、公的年金、さらに具体的に言えば基礎年金、これに限定してもいいんですが、これはいわゆる憲法二十五条の生存権と関係があるとお考えですか。あるいは、関係があるとすれば、どの程度関係があるとお考えですか。
小塩参考人 私は法律の専門家ではございませんので、正確なお答えになるかどうか自信がないんですけれども、私は、年金、特に基礎年金の部分は、憲法第二十五条のやはり生存権で規定されているというふうに経済学的には考えます。ただし、その場合も、老後におけるといいますか、引退生活に入った場合の生存権を保障する一つの重要な役割として基礎年金があるというふうに受けとめております。
井上(喜)小委員 その場合に、生活保護との関係、基礎年金と生活保護とはどういうぐあいにとらえておられますか。
小塩参考人 基礎年金とそれから生活保護の関係というのは、専門家の間でもいろいろ議論があるわけですけれども、現行の生活保護の考え方は、年金等々いろいろな公的な扶助があって、それでも足りない部分があれば、最終的な仕組みとして生活保護で助けましょうというふうな形になっているかと思います。
井上(喜)小委員 ちょっとその辺は理解が、私、違うと思うんですが、まあそれはよろしいです。
 それでは、生活保護の水準と公的年金の水準、これは何を基準にしてそれぞれ決めていくんですか。
小塩参考人 それぞれの制度で考え方が違うと思いますけれども、生活保護の場合は、現在は人々の平均的な所得水準、消費水準と見合う形で、総合的にいろいろなことを判断して決められていると思いますし、公的年金の水準も同じように、いろいろなことを勘案して水準が設定されているというふうに思います。ですから、両者の間に、こちらは幾らでこちらは幾らというふうな連関は必ずしもないというふうに思います。
井上(喜)小委員 いや、しかし、財政支出をするわけですから、財政支出ということは税金なんですよね。その場合に、やはり支出基準というものは、物の考え方というのは普通あるんじゃないかと思うんです。これは政府の方で大変困っている問題の一つだと私は思うんです。だから、ちょっと参考までに、難しい問題だということはよく承知しているんですが、何かこう、すぱっと切り分けるようなそういう考え方がおありかと思ってお聞きしたんです。――いや、結構です。
 以上で終わります。
大出小委員長 次に、野田聖子君。
野田(聖)小委員 野田聖子でございます。
 きょうは、両参考人、ありがとうございました。
 先ほどの中村先生のお話、または従前いただいている先生の資料等を拝見させていただいた中で、日本人の創意によって生まれているこの二十五条生存権が、今の時代においては、単なる最低限度の生活保障じゃなくて、例えばプライバシーとか自己決定や選択の自由なんかも考慮されるようになってきて、私たちは二十一世紀型の生存権というのを模索しなければならないというような要旨だと私は理解しています。
 そんな中で質問させていただくんですが、小塩参考人に聞くべきかもしれませんが、あえて中村参考人にお尋ねしたいのは、年金制度についてです。
 実は、個人的な話になるんですけれども、私の祖父が当時、昭和三十年代、この年金制度に深くかかわった人間の一人でございまして、その祖父の臨終、幸い頭がしっかりしていましたので、当時から問題になって、七年前なんですけれども、祖父が亡くなる直前に、年金制度をつくった張本人に、なぜこんなに年金制度が破綻しかかっているのかということを聞いたことがございました。そのときに祖父が言ったことは、非常にシンプルでした。自分がこんなに長生きするとは思わなかった。ちなみに、祖父は九十一歳で亡くなったんですが。
 昭和三十四年に法律ができて昭和三十六年に始まった、この法律の当時の社会的背景というのは、大体、男性の定年退職の年齢が五十五歳、その当時の男性の平均寿命というのは六十歳ぐらいだったんですね。つまり、できた当時というのは、大体五年ないし十年以内の老後の生活をきちっと保障してあげようというようなところから始まったんじゃないか。
 ところが、二十一世紀になった今日は、御承知のように、退職年齢というのは大体五歳ぐらいは引き上がっています。六十歳ぐらいが定年だと思うんですね、平均的に。しかし、幸せなことに、平均寿命というのが飛躍的に延びまして、男性でも七十八、約八十歳。つまり、当時から推定すると、寿命の方は二十年延びてしまっているけれども、定年退職の方は残念ながら二十年延びなかったという現状があります。
 ですから、私が申し上げたいのは、いわゆる国民年金というのは高齢者の生活の生存権を保障するための制度であるわけだけれども、その高齢者そのものの存在が昭和三十年代と平成十五年では随分さま変わりしているんじゃないか。例えば、当時のお年寄りのイメージというのは、何かこう、弱々しいとか、平均寿命が語るように、長生きができない、弱い立場であったり、身体的に弱かったり、例えば収入が途絶えて、俗に言うなら貧乏な状況であるとか、そういう一般的なイメージ、あとは、リタイアした後は子守、要するに孫の面倒を見るぐらいしか老後の楽しみがないような、そういうイメージの中にあって、今日の高齢者とは全くイメージが重ならないような時代を迎えていると思うんですね。
 そこで私が申し上げたいのは、今日、少子高齢化ということは、すなわち、市場での主役が高齢者に移行していく中で、現実、日本の個人資産千四百兆円のうちの半数は六十歳以上が持っていると言われている中、決してもう高齢者はすべてが貧しい存在ではないし、また、平均寿命が延びるように、弱々しい存在でもないし、また、多種多様な社会活動がふえてきた結果、単に孫のお守りをするだけがお年寄りの仕事ではないという時代の中で、むしろ、二十一世紀型生存権を模索していくのであれば、その対象者である高齢者についても一考の余地があるのではないか。
 例えば、六十歳、六十五歳を超えても元気で働き続けられる、国会議員にもたくさんおみえになるわけですけれども、そういう人たちを高齢者と呼び、一律の保障の対象にしていいのだろうか、そんなようなことを私自身は常々考えているんですが、いかがなものでしょうか。
中村参考人 おっしゃったような高齢者の概念というのが非常に大きく変わってきているのは、そのとおりですので、やはりそれに見合った制度設計をするということは必要でしょうけれども、しかし年金は、社会保険として基本的に構成されておりますと、やはり保険料を拠出している、その部分については給付を受けるというのは、ある種の対価関係、対価にはならないかもしれませんけれども、そういう双務的な関係にある、その部分はやはりきちんと保障する必要があるということであるかと私は認識しております。
野田(聖)小委員 もう一つ、例えば当時の高齢者、六十歳ないしは六十五歳が現状に合っているかどうかだと思うんですね。例えば今でも、当時決められた老人の定義があるのかどうかわかりませんけれども、老人は六十歳以上と定めており、ですから今も、全国各地で活躍している老人クラブの加入年齢というのは六十歳以上なんです。私はとても、小泉総理大臣、老人クラブに入ってくれと言えるような現状ではないなと。
 そこら辺はどういうふうなお考えを持っておられますか。生存権を主張できる対象者である高齢者の定義自体を少しスライド、変えた方がいいんじゃないかという思いがあるんです。
中村参考人 これは年金に限った話でございますか、それとも一般的に……(野田(聖)小委員「一般的にも」と呼ぶ)一般的には、まさに高齢者というのが随分概念は変わってきて、これはやはり、生存権というのは健康で文化的な最低限度の生活ですので、高齢者の年齢に達していても、ちゃんと収入もあるし、健康で働ける人は働くというのは前提にあるんだと私は思っております。
野田(聖)小委員 ありがとうございます。
 小塩参考人にお尋ねしたいと思います。
 先ほど武山委員からも話がございましたけれども、今の若い世代、私は四十代ですけれども、とりわけ二十代、三十代の世代というのは、いろいろな情報をもとに、自分たちは不公平な負担を強いられるんじゃないかという思いをしている。また、具体的には、自分たちはもう年金をもらえないんだ、年金の恩恵がないんだと思い込んでいる世代でもあると思います。若い人たちに聞くと、将来の見通しは暗いですし、将来は日本を脱出して外国で暮らしたい、そういう声も実は上がってきているわけであります。
 この生存権の中で、さっきも武山委員がおっしゃったんですけれども、払う側、つまり若い人たちの今の現状というのは大変悲惨なものがあって、例えば、国民年金に対しての信頼度がもうないわけですから、厚生労働省は、社会保険、ちゃんと払ってくれていますと言いつつも、細分化させると、二十代前半の人で支払っている人は、約五割払っていない現状なんですね。
 また、気の毒なのは、若い世代、例えば失業率に関しては、国全体は五・数%と言っていますけれども、十五歳から二十四歳という、まさに若い、働き初めの世代の失業率でも一〇%近いという状況にありますし、さらに私が非常に残念だな、悲しいなと思ったのは、先ほども自殺者がふえているという話があったんですが、医学的に、二十五歳から三十代、三十代から三十五歳までの死亡原因の第一位は自殺ということになっています。
 こういう状況を思うときに、生存権というのは、社会保障を負担してもらう側の話が先行しているんですけれども、いただく側、年金では高齢者。だけれども、負担する側の生存権がかなり脅かされているんじゃないかというような、今この現状にどういうような思いを寄せておられるか、お尋ねしたいと思います。
小塩参考人 野田先生の御指摘の点は非常に重要だと思います。
 日本の社会保障の仕組みをほかの国と比べますと、若い人に対する給付が薄くて、実は平均余命も延びて元気もりもりの高齢者に手厚い給付が行われているというふうな形で、年齢間のバランスが崩れているという問題があります。それはやはり、現在のように失業率がかなり若い層で高まっている、それから子育てにお金がかかるというふうなことを考えますと、ちょっと是正すべきだろうというふうに思います。
 そういうふうなことで、先ほど払う方のお話をなさいましたけれども、給付の側も、なるべく若い人向けの社会保障給付のあり方というのも考えていいのではないかというふうに思っております。
野田(聖)小委員 ありがとうございました。質問を終わります。
大出小委員長 次に、仙谷由人君。
仙谷小委員 民主党の仙谷でございます。
 きょうは、生存権規定の問題につきまして貴重な御意見をいただきまして、両参考人にお礼を申し上げます。
 そこで、まず両参考人にお伺いしたいのは、この「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という憲法二十五条でありますが、この最低限度というのは時代とともに変わってくるんだろうというふうに考えておるわけであります。
 私自身、大学のほぼ終わりごろに、法律を学んでおりましたときに出された判決が朝日訴訟の最高裁判決という、大体そういうめぐり合わせでございまして、その判決を読んだころの社会的な状況や、あるいは国民一人一人の収入や、あるいは生活環境を思い出してみますと、随分変わったな、ある意味では量的には日本は豊かになったのかなという気はしないでもないわけであります。
 最低限度論といいましょうか、最低限度というのは、定性的には幾らでも言えないことないわけでありますが、定量的にある種時代とともに定まってくるものはあるんでしょうか、ないんでしょうかということをお伺いしたいわけでありますが、両参考人、いかがでございましょうか。
中村参考人 最低限度の生活が時代とともに変わるというのは御指摘のとおりで、同じ最低限でも、健康で文化的なぎりぎりの最低限というのはやはり決まってくる。これは、やはり食料から最低の、身に、生活に必要な限度。生活保護基準というのはやはり基本的にはそれをもとにしてつくられていると思いますので、その意味では可能であるというふうに私は考えています。
仙谷小委員 小塩参考人、いかがですか。
小塩参考人 経済学の方から申し上げますと、具体的に幾らが最低所得ですよというふうな定義はできないというふうにお答えせざるを得ません。これは時代とともに変わってくるものでありまして、昔は、例えば生存するためにどれだけの食料をとらなければいけないのか、衣服はどれだけかというふうな形で積み上げて計算するということがありましたけれども、現在は、それぞれの時点で構成される人々の平均的な所得水準とかあるいは消費水準から相対的に判断して決める性格のものだろうというふうに思っております。
仙谷小委員 一つは、税制を考えるときとか、多分年金を考えるときも参考になっているんだろうと思いますが、収入の五分位、十分位階級別表というのがあるようであります。今、五分位表の第一分位ですと年収が二百七十七万、十分位ですと第一分位が二百二十五万ぐらい。それから、ちなみに、最低賃金、東京と沖縄は違うわけでありますが、沖縄で見ますと年間百四十五万ぐらい、生活保護のレベルは、東京で単身者でいいますと年間九十七万ぐらいで、地方でいいますと七十五万ぐらいになるんでしょうか、そういう目安がございます。それから、日本の場合、単身者の課税最低限は三百八十四万ですか、これは単身者じゃなくて子供二人を含んでいたんですね、そういう標準的な金額というのが今あるわけであります。
 この生存権規定に基づいて保障されるというのは、そういう、いわば所得、収入等々から見て、割と最低に近いところの方々のターゲットの問題なのか、あるいは普通の国民も保障されるべきものがあるんだと。それは年金とか生活保護とかということの収入じゃなくて、いろいろな医療とか教育とか、あるいは交通とか住宅とかという問題でのインフラ整備というふうなことも含んでいるのか、その点はいかがでございますか。
中村参考人 私の法律論でいいますと、二十五条一項の部分は最低限度でもぎりぎりというのを保障する、二十五条二項の方で社会保障制度をつくるという、そこはやはり、プラスアルファのより豊かな生活を保障する。どちらかといいますと、法律論でいえば、一項の方がぎりぎりの最低限、二項の方でより豊かな制度を構想する、こういう考え方に立っています。
仙谷小委員 小塩参考人に、今の問題に含めて、こういう聞き方をちょっとさせていただきたいんです。
 というのは、今、日本の財政の方から見ると、税収は四十一兆円ということになっております。ところが、反対の歳出の方を見ますと、国債費が約十六兆七千億、地方交付税交付金が十七兆三千億、合わせて三十四兆になります。公務員の給料が約十二兆円だと言われています。この三つだけではるかにオーバーしておるわけですね。つまり、一般歳出と言われておる政策経費のところはもう全く足りないばかりか、ここも借金で賄っている、こういう状況の財政になっておるわけでありますが、そこに、社会保障関係費と言われておるものが大体十五兆円出ております。
 こういう財政のもとで、福祉国家を継続していくんだ、あるいは、より豊かな福祉国家的なものをつくるんだ、こういう議論がやはりあるわけでありますけれども、これは、ないそでは振れないと言われてしまえばおしまいの話でございまして、憲法上の権利があろうとなかろうと、ないそでは絶対的に振れないわけでありますから、この絶対的な矛盾はどういうふうにして解決すればいいというふうにお考えですか。つまり、負担を大きく高めるか、あるいは給付の水準を中心として最低限度、低くしてもらうか、どちらかしか本当はないはずでありますが、どのように参考人はお考えになりますか。
小塩参考人 先ほども議論になりましたけれども、最低限度の所得をどこに設定するかという非常に大きな問題がありまして、それに具体的な数字をお示しできないという非常に残念なところなんですけれども、現在の社会保障の仕組みを考えますと、最低限度の部分につきましては、私は、余り財政的に悪さをしないというか、負担はないというふうに考えてよろしいかと思います。
 公的年金について言いますと、基礎年金部分につきましては、今の仕組みだったら何とかやっていくだろうというふうに思いますけれども、問題は、それを上回るところなんですね。報酬比例部分なんですけれども、これが将来の世代に対して悪さをしているという面があります。
 そういうことを考えますと、できるだけ国が責任を持って絶対に守っていかなければならないというところまで、ある程度その方向に向けてスリム化する必要があるんじゃないか。もしそれが嫌だったら、負担を引き上げるというふうなことをせざるを得ないんじゃないかというふうに考えております。
仙谷小委員 時間が参りましたので、残念ですが、終わります。
大出小委員長 次に、谷本龍哉君。
谷本小委員 自由民主党の谷本龍哉でございます。
 中村参考人、小塩参考人、長時間お疲れさまでございます。最後の質問者でございますので論点がほとんど残っておりませんが、重複を御容赦いただきまして、答えていただきたいと思います。
 まず一点目、小塩参考人にお伺いしますが、世代間格差の問題のところで、この生涯純受取率の計算がございます。一九五〇年生まれでプラス九・八%、一九九〇年生まれでマイナス一〇・八%。もしわかればでいいんですが、これはどの年代でプラスからマイナスに逆転するのか、教えていただきたいと思います。
小塩参考人 まさしく私のように四十歳前半の層でちょうど受け取りと支払いが同じになります。(谷本小委員「四十代前半」と呼ぶ)はい、そうです。
谷本小委員 もう何度も話に出ておりますが、私もまだ三十代ですから若い方の世代ですけれども、マイナスになる。さらに若い世代の方々とミニ集会等でいろいろな話をしていると、やはり年金の問題が出てきます。年金財政がまず破綻するんじゃないか、破綻すれば一銭ももらえない。これがないとしても、先ほどの小塩参考人の説明では、我々の世代より下はマイナスだ、だったら、もう払わない方がいいんじゃないか、その方が得じゃないかという率直な意見がやはりたくさん出てまいります。
 これに対して、いつ聞かれても、いや、そうじゃないんだという説明がなかなかできないんですね。それはどういうふうに説明するのが一番いいと思いますか。
小塩参考人 非常にお答えに窮する御質問です。
 私も学生がいるわけで、社会保障の議論をするわけですけれども、どう説明しても納得してくれないという面があります。やはり世代と世代の助け合いで、年金というのは大事なんだよというふうにはもちろん言いますけれども、やはり損得勘定というのは彼らはしますので、全面的に納得してくれるというわけではないと思いますね。
 ですから、先ほどの私の意見陳述でも申し上げましたけれども、余り損得勘定なしで、やはり高齢者の人たちを助けていきましょうという部分は、できるだけ若い人たちが納得がいくような形で制度を変えていくというようなことをせざるを得ないんじゃないかというふうに私は思います。
谷本小委員 同じ質問で、中村参考人、いかが考えますか。御意見があれば。
中村参考人 これは、私は、やはり社会連帯として世代間連帯というのを高めていくよりない、そのかわり給付はそれなりに少なくなる、あるいは、先ほど小塩参考人も言われました消費税、福祉目的税というようなことも考える必要があるというふうに思っています。
谷本小委員 両参考人に引き続き関連で質問なんですが、小塩参考人の方から、基礎年金だけにする方がいいんじゃないかという御意見がございました。以前、年金給付の開始年齢をおくらせるという議論の中でもこれは出てきたんですが、当然もらえるものと思ってやっていたものがそういうふうに変わるということで、これは財産権の侵害ではないかという議論がその当時も出たと思うんですけれども、もしこれを基礎年金だけに変えるときに、こういう議論がもう一度あったときにはどのように考えますか。
中村参考人 これは私も、憲法論としては財産権の問題として出てくるかと思いますから、やはり給付しているということからその問題が出てくるので、ただ、私もこの点、では、どう考えたらいいかということについてまだ結論が出ておりませんので、ちょっと差し控えさせていただきます。
小塩参考人 今、谷本先生の御指摘のあった問題、非常に重要でして、ほかの国でも非常に頭を悩ましている点です。アメリカでも企業年金改革が行われたんですけれども、その場合でも、既に裁定された年金額、これを既裁定額というふうに申しますけれども、これにはなるべくメスを入れないような形で改革を進めましょうというふうな方針が打ち立てられております。日本においても、既に約束した分はできるだけ尊重するというふうな方向で改革を進めざるを得ないというふうに思います。
 では、どうすればいいのかという議論があるわけなんですけれども、一つのアイデアといたしましては、これも反論が非常に多いんですけれども、現在百数十兆円に上っている年金の積立金をなし崩し的に取り崩すと非常に問題があるんですけれども、計画的に取り崩していくという形で、改革の理想的な姿に行くまでの移行期間をなるべく乗り切りやすいようにすべきじゃないかというふうな考え方もありますし、それから、非常に財政難という面があるんですけれども、一般財源からある程度の補充はやむを得ないんじゃないかというふうに私は考えております。
谷本小委員 財政の問題、いろいろあるとは思うんですけれども、この社会保障の費用負担のあり方なんですが、先ほど言いましたように、例えば若い世代は、もらえない、もしくは損をするから保険料を払わないとか、そういう状況もあります。その中で、先ほど参考人からあったように、消費税の福祉目的税化が要るんじゃないかというような議論もあります。
 そういうことを含めまして、この社会保障の費用負担、社会保険の仕組みと税財源の仕組み、これはどういう割合、どういう形でやっていくのがこれから一番いいというふうにお考えか、両参考人からお願いいたします。
中村参考人 私は、やはり基本部分は社会保険、これは年金、健康保険、それから、社会福祉の部分でも介護保険という形で保険の技術を入れている、しかし、それでは足りない部分がある、その部分は税によって行う、そういう構造になっておりますので、やはり両方でいかなきゃいけない。税について言えば、どうやって税収を取るかという、消費税なり福祉目的税の問題が出てくるというように考えております。
小塩参考人 私は経済学の方から申し上げますけれども、現役世代の人たちを対象とする医療保険とか雇用保険等々は、今までと同じように保険料の仕組みで運営していいかと思います。ただ、世代をまたがってお金が出入りするような年金とか介護、それから高齢者医療につきましては、今まで以上に税負担を引き上げるしか方法はないんじゃないかというふうに考えております。
谷本小委員 ありがとうございます。
 もう残り時間わずかですので、最後に両参考人、何か言い残したことがあれば、どうぞ。
中村参考人 私は、やはり社会福祉というのは大事なことでありますので、この財政負担というのを懸命に考えて、やはりよりよき福祉国家をつくっていくべきだと考えております。
小塩参考人 やはり若い人たちの社会保障に対する理解を深めるような努力をする必要があるというふうに思います。
谷本小委員 どうもありがとうございました。
大出小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつ申し上げます。
 両参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、本当にありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)
    ―――――――――――――
大出小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行います。
 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたします。
 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いをいたします。
 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。
春名小委員 きょうの参考人質疑を通じて、憲法二十五条が、やはり世界の憲法との比較で見ても非常に先駆的な規定をしているということと同時に、やはり二十一世紀の日本の進路たり得る中身を持っているということが、私自身非常に明白になったなと思っています。
 生存権の内容についても御説明いただいて、プログラム規定から抽象的権利説、そして具体的権利説というふうに発展をし、立法がきちんとなされること、その上に、現代ではその立法が不作為という問題も裁判所が問うということでチェックする、こういう形で実体的な権利という内実をつくり出してきている過程があるということが深く理解できました。その上に立ったときに、この二十五条を実体的権利として発展させるという努力がやはり今求められていると思います。これをないがしろにしている現実の問題に改革のメスを入れていくといいますか、そういう努力が不可欠だというふうに思います。
 その点で、やはり国の責任ということについて、きょうは大分財政面からの議論になりましたけれども、私の一つの認識は、やはり今の財政の主役を年金などを含めた社会保障にうんとシフトしていく、支出のあり方の大きな改革ということが非常に今問われているなということを改めてきょうの議論を通じて感じた次第です。
 以上です。
葉梨小委員 きょうは、年金あるいは医療それから介護保険等々、社会福祉制度についての財政上のアンバランス、あるいはもっと申しますと、非常に不健全な状況をどうやって克服するか、こういうことも一つのテーマであったと拝聴いたしました。そして、それを克服するためには、若い人に理解を求めるという御意見もございましたが、それともう一つは、消費税にシフトして消費税で補う、こういうお話がございました。確かにそれも一つの知恵であろうと思います。
 私は、不思議に思いますのは、日本が世界第二の経済大国であり、また国民一人当たりの所得も非常に高い、その中で非常に貧乏な話、残念な状況なわけでございます。これを、そういう今お答えが出たといいますか示唆がありましたような状況だけで乗り切っていけるんだろうか、こういうことを考えるわけであります。うんと豊かな国で、しかも、そういう大事な社会保障制度が、豊かな社会を支える社会保障制度があるいは破綻してしまう、それは日本社会の破綻、衰亡につながるわけでございまして、物の考え方をここらで国民みんなで考え直す、みんなで問題を共有して議論していく、そのときには我々国会議員がリードしなきゃいけないと思いますが、そういう考え方の切りかえをするときが来たと私は認識しておるわけでございます。
 消費税も、これは消費をすることによりましていささかの税金を払って社会を支えるということで意味のあることでございますが、それも含めまして、国民みんなが、若い人もお年寄りも働き盛りの方々も、みんなで国を支えるんだ、こういう意識改革をしなければ私はいけないと思っております。よく税金を取られるという言葉がございますが、国の主人公は国民であるとすれば、その国を支えるのは国民でございますから、国民が税金という形で運営費を出し合う、そういう気持ちに我々の親愛なる日本国民がみんななってもらえるような仕組み、社会の雰囲気をつくりたいなと思うわけでございます。
 もちろん、財政のいろいろな仕組み、財政の運営、それから予算の使い方等々、今小泉改革で進めておりますのもそういうところに一つ大きな視点があって、総理は、厳しいといいますか強引と言われますか、そういうような改革を進めているのではないかと私はひそかに考えております。それが国民全体の合意に高まるように、我々みんなで話し合いながら持っていきたいなということを考えている次第でございます。
 終わります。
仙谷会長代理 きょうの議論の中で言い忘れたことがございますので、ちょっと申し上げたいと存じます。
 きょうの議論の中でも、社会的な連帯が大事だという御指摘がございました。社会的な連帯というのは大変美しい言葉でございますし、私も大好きなコンセプトでありますけれども、しかし、一体、この社会的な連帯というのはどういうふうに表現されるのかというのが、あるいは制度的にどういうふうにつくられるのかというのが非常に難しい問題だろうなというふうに考えておるところであります。
 言い方を変えれば、この間、この永田町でもあるいは市民社会の中でも割とはやっておりました言葉の中に、自助、共助、公助という言い方がございます。社会保障あるいは社会保障的なるものを考える際にも、何でもかんでも国あるいは地方公共団体ということでは、つまり、国や地方が運営する制度で、その財源も国、地方が賄う、それは、よく考えてみればすべて税金であったり将来世代の負担である借金であるわけであります。いとも簡単に、政治家あるいはそれを支える有権者の方々も、それは国がやればいいんだ、それは県がやればいいんだ、国庫から出せばいいんだ、打ち出の小づちがあるかのごとき議論がなされてきたわけであります。つまり、国の行うべきことと社会的な連帯というのは、一義的に全くイコールに重なり合ったり、つながったりしているのかという問いかけが改めて必要なんだろうなというふうに考えます。
 もう一点は、グローバリゼーションとの関係でございます。
 私の尊敬しております神野先生においても、このグローバリゼーションのもたらす影響が、いわゆる一国福祉国家論を必ず崩壊に導くといいましょうか、持続可能でなくする可能性が強いということをつとに指摘されるわけであります。
 ここは、一つは企業間の国際競争、それから、コストの問題というのは、絶えず国境を越えて問題になってくる時代になってきますと、国家、一国的な、政府あるいは自治体が企業なり個人にある種の負担をかけ過ぎると、企業はいなくなる、あるいは競争に負けてしまうという冷厳な事実があるわけでございます。さあここで先ほどの社会的な連帯のシステム、このシステムというのは国家的な制度という意味ではありませんが、我々が手をつなぐ、そして、助け合う仕組みをどうつくり、組み込んでいくのか。そういう観点からもこの社会保障を考えなければならないというふうに考えているところでございまして、ここは経済成長の問題とも絡んで、やはり非常に悩ましい、かつ最大の問題だな、改めてそういう認識を深くした次第でございます。
 以上です。
武山小委員 一言お話ししたいと思います。
 私、アメリカで生活しておりまして、実は、二十年ぐらい前ですか、もう少し前ですか、週末だけ働いていたときに、学校の先生なんですけれども、六百五十ドル、給料をもらっていたんですね。そうしましたら、四十五ドル、ソーシャルセキュリティーといいまして、年金を差し引いて給料をもらうわけなんです。例えば、一万円働いても、十万円働いても、五万円働いても、社会保障費として払う。アメリカの場合は法律で決まっておるものですから、必ずそのとき給料から差し引いてくるわけですね。
 日本の場合は、差し引く場合と自分から納める場合、両方ありますよね。自分から納めるということになりますと、非常に給料が少ないと納めにくい立場に当たると思うんです。特に給料が低い、日給でもらう人とか。
 ですから、やはり徴収の方法も考えるべきじゃないかなと思いまして、給料をもらうときにそこからもう払ってしまう、それで残ったお金だけもらうというような、払う側の心理からいいますと、きちっとそこで差し引いて、残ったお金だけをもらう。
 今、私は国民年金というものを払っているんですけれども、新たに自分が払わなきゃいけないわけなんですね。ですから、また新たに払うということになると、もらったときに差し引いていないわけですから、新たに払うという制度も、やはり社会保障制度の中で、年金制度の中で考えるべきじゃないかと思いまして、一言お話しさせていただきました。
 以上です。
倉田小委員 きょうの議論の中にも出てきたんですが、私は、日本の女性の生涯にわたる出生率の低下というものが非常にすべての問題の根底にあるような気がします。
 統計によりますと、フランスなんかは、一九九〇年から二〇〇〇年の間、十年の間に出生率が反転しています。これに大変興味を持つんですが、恐らくは育児手当、つまり、子供を女性が産み育てるのにかかる費用を社会で持ってあげるという仕組みができ上がったんじゃないか、こんなことも考えますけれども、アメリカでも少子化の傾向にありません。まだイギリスは少子化の傾向にあります。
 一方、極端に少子化が進んでおるのが、日本、それからドイツ、イタリア、スペイン、旧枢軸国ですね。これは、旧枢軸国だからというんだけれども、結局、旧枢軸国というのは後進資本主義国だと思うんですね。だから、経済的には相当猛烈に追いついたけれども、社会制度において、欧米よりも古いものがまだ残っているんじゃないか。
 例えばの話が、いい悪いは別として、日本では単身の女性が子供を産むということは社会的に非常に非難されている。しかし、いい悪いは別として、北欧とかヨーロッパでは必ずしもそうではない。考え方が変わっている。
 それから、もう一つ大きいのは、イギリスでは、ブレア首相が首相の公務を休んで赤ちゃんを抱いてみせる。つまり、男女共同参画社会において子供を育てるという役割が、日本等ではまだ全面的に女性の役割、女性に負担がかかっている。しかしながら、ブレアの例のように西欧では、もはや男も子育ての義務ありと。こんな考え方の違いができてきている。
 やはり後進資本主義国、枢軸国ということと、この出生率の極端な低下とフランスなんかの反転とは必ずしも無関係ではない、こんなことを考えますので、何を考えるのにも、この少子化の、どこでどういうことで食いとめるか、これも社会保障の一番の問題点だということをお話をしたかったので、発言させてもらいました。
 終わります。
    〔小委員長退席、小林(憲)小委員長代理着席〕
葉梨小委員 今の倉田先生のお話をさらに深めたいと思うんです。
 そういういろいろな社会保障制度的なシステムを充実させるということ、これは、スウェーデンなどがそれで出生率が上がったという実績がございます。私は、日本の場合には、先ほど武山先生もおっしゃったか、いつもおっしゃっていることでございますが、基本に、まず家庭を持つということは、大変、人間として人間的な大事なことである、うれしいことであるとか、喜ばしいことであるということ、そして、家庭を持って子供を授かるということ、これはさらに大事なことであり、喜ばしいことであるというような、家庭とか家族の価値、大事さということを戦後の我々が少し忘れてきていたのではないだろうか、合理主義的な生活を強調される戦後の社会風潮の中でそれを忘れてきたんじゃないかという反省がございます。
 私は、既にほかにも同僚議員の方々がおっしゃっておられますが、憲法の前文なりあるいはどこかの条章に家庭、家族の大切さ、尊重しましょうという文言をぜひ入れるということ、これも皆様に御賛同を呼びかけたいと思います。
仙谷会長代理 葉梨先生、倉田先生からいいお話が出たので、私の方からも重ねて、とりわけ自民党の先生方に強く要望をしておきたいと思います。
 この少子化の問題を、女性が出産を拒否している、ストライキを起こしているというふうにとらえるとするならば、葉梨先生がおっしゃった家庭、家族、あるいはもっと言えば祖先、そういうものの大事さというのを私は重々認識をしておるわけでありますけれども、最大の問題は、日本の戦後が男中心社会を牢固として変えなかった。自民党が一党支配を変えないように、自民党の中も、あるいは労働組合も企業社会も、辛うじて公立学校の教員の世界ぐらいでしょうか、女性が相当進出をされているというのは。どこを見てもドブネズミ色の背広を着た連中が跳梁ばっこして、優秀な女性が進出しようとしても、これはほとんど評価しないで位置づけない、ここが最大の問題だと思います。
 私どもの子供たちの世代の女性、若い女性を見ておりますと、こういう日本の男中心社会の、それも余り能力のない男がのさばるような社会はもう飽き飽きして、さっさと日本を捨てようということになって、優秀な人ほど本当に海外に住んでおるという実感を私は持っておりまして、これは、国連の調査の中でも、管理職の女性が多い国ほど出生率が高くなっている、こういう調査結果があるようでございます。
 つまり、女性が社会で自己実現をしながら家庭をつくり、家庭の中で子供をつくって、男と女が育てるということに我々男が本気になる、これは社会的な制度としてもそういうことを打ち立てる、同時に、意識を変える、日常生活のビヘービアを変えるということがない限り、もう女性のストライキはとまらない、あるいは海外脱出はとまらないというふうに絶望的な気分に私はなっております。
 そこへ森大先生のようなああいう発言が出るお国柄でございますから、これはますます悲劇的なことになる。
 自民党がまず一番になさるべきことは、選択的夫婦別姓を即座に法案として通す、ここから始めない限り、一方で女性の手足を縛るようなことを平気でやったり、ああいう言動を出しながら、子供を多く産めと。種馬や何とかじゃないわけでありますから、あくまでも人間としての女性を位置づけない、ここに問題があるということを早く気がついていただかないと、この少子化問題はおさまらないと私は思います。
葉梨小委員 夫婦別姓のお話が出ましたのでちょっと申し上げますが、今でも、いろいろ仕事を持っていらっしゃる御婦人が、結婚していろいろ大事な仕事をなさるときに独身時代の姓を名乗るということは、戸籍上の問題は別としてあり得るわけでございますね。だから、そういう習慣もあるし、それはそれでいいと思うんですが、戸籍として認めるということは、よほど慎重に考えなければならない。
 私は、そういうことが限定なしに法案化されるといたしますと、ますます家族とか家庭ということが分解する方向へ行ってしまうのではないだろうか、そこを恐れているわけでございます。そんなことをしなくても、通称として結婚前の姓で通すということは別に構わないわけでございまして、そこら辺につきましては、尊敬する仙谷先生の御発言でございますけれども、慎重にいたしましょうということを申し上げたいと思います。
小林(憲)小委員長代理 他に御発言ございますか。
 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。
 本日は、これにて散会いたします。
    午後零時三分散会


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