衆議院

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第3号 平成16年4月1日(木曜日)

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平成十六年四月一日(木曜日)

    午前九時開議

 出席小委員

   小委員長 山花 郁夫君

      小野 晋也君    倉田 雅年君

      棚橋 泰文君    平井 卓也君

      船田  元君    古屋 圭司君

      松野 博一君    園田 康博君

      辻   惠君    村越 祐民君

      笠  浩史君    太田 昭宏君

      山口 富男君    土井たか子君

    …………………………………

   憲法調査会会長      中山 太郎君

   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君

   参考人

   (大阪大学大学院高等司法研究科教授)       松本 和彦君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

四月一日

 小委員棚橋泰文君三月十八日委員辞任につき、その補欠として棚橋泰文君が会長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員松野博一君、園田康博君及び笠浩史君三月二十三日委員辞任につき、その補欠として松野博一君、園田康博君及び笠浩史君が会長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員土井たか子君三月二十五日委員辞任につき、その補欠として土井たか子君が会長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 基本的人権の保障に関する件(公共の福祉)


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     ――――◇―――――

山花小委員長 これより会議を開きます。

 基本的人権の保障に関する件、特に公共の福祉について調査を進めます。

 本日は、参考人として大阪大学大学院高等司法研究科教授松本和彦君に御出席をいただいております。

 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、松本参考人から公共の福祉、特に、表現の自由や学問の自由との調整について御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、松本参考人、お願いいたします。

松本参考人 大阪大学の松本でございます。よろしくお願いいたします。

 私に依頼されましたテーマは、公共の福祉、特に、表現の自由や学問の自由との調整というものでございます。

 初めに、問題の所在を指摘させていただきまして、公共の福祉という概念のもとで何が論じられているのか、あるいは何が論じられるべきかということについてお話しさせていただきたいと思います。

 公共の福祉という言葉は、憲法上四カ所で規定されておりまして、いずれも人権条項であります。ここに公共の福祉が人権との関係で論じられる源があると言ってよいかと思います。

 この人権と公共の福祉の関係をめぐる争いというものは、問いの立て方をめぐる争いだったというふうに私は考えております。いかなる問いを立てるべきか、これが最初の問題であります。

 通説的な理解によりますと、人権と公共の福祉というのは相対立する事項ととらえられまして、人権は公共の福祉によって制限できるのか、そして、この問いに答えた後に、では、人権を制限する公共の福祉とは何なのかというふうに問うていくということであります。人権は公共の福祉によって制限できるのかという問いを問い一、人権を制限する公共の福祉とは何かという問いを問い二といたしまして、問い一、問い二の順番でお話ししたいと思います。

 まず、問い一をめぐる議論、人権は公共の福祉によって制限できるのかという問いをめぐる議論であります。

 これについて、最高裁判所は、昭和三十二年のチャタレー事件判決という事件におきまして次のように回答しております。ちなみに、このチャタレー事件判決というのは、刑法百七十五条によりましてわいせつ文書の頒布というものが処罰されていることの合憲性を問うた事件であります。

 最高裁は、この事件におきましてこのように言っております。「憲法の保障する各種の基本的人権についてそれぞれに関する各条文に制限の可能性を明示していると否とにかかわりなく、憲法一二条、一三条の規定からしてその濫用が禁止せられ、公共の福祉の制限の下に立つものであり、絶対無制限のものでないことは、当裁判所がしばしば判示したところである。この原則を出版その他表現の自由に適用すれば、この種の自由は極めて重要なものではあるが、しかしやはり公共の福祉によつて制限されるものと認めなければならない。」

 最高裁は、つまり、問い一の問題を肯定したわけであります。学説もおおむねこの問いについては肯定するわけであります。が、若干の異論もございます。それは、表現の自由と公共の福祉というのを相対立させて論じる、その論じ方についてであります。

 例えば、刑法は二百二十二条によって脅迫行為というものを処罰しておりますし、あるいは二百四十六条で詐欺行為というのを処罰しておりますが、こういう脅迫や詐欺の処罰というのは、そもそも公共の福祉による表現の自由の制限というふうにとらえてよいのか。そもそも、脅迫の自由や詐欺の自由などというものが憲法によって保障されているというふうに言っていいのか。人権ならざる行為の規制を公共の福祉による人権制限というふうにとらえていいのか。こういう疑問があるからであります。

 最高裁判所は、昭和二十七年の初期の判決におきまして、犯罪の教唆の自由というような事柄を述べておりまして、そんな自由はそもそもないという言い方をしております。

 つまり、人権、非人権というものをまずきちっと区別しないと、何でも人権としてしまった上でそれを公共の福祉によって制限するという論じ方になってしまうわけでありまして、それが問題であるというふうに言っているわけであります。このような考え方にはそれなりに理由があるわけでありますけれども、しかし、人権、非人権というものをまず区別するという考え方にも問題があります。

 それは、人権を定義することによって、その定義によって人権を制限するという結果になってしまわないのかということであります。人権の定義の段階で表現の自由というものを余り狭くとらえ過ぎてしまいますと、これはもう公共の福祉による制限ということを言う前に、その行為自体が憲法上の保護を受けなくなってしまいますので、それでは都合の悪い場合が出てくるのではないかということであります。

 例えば、名誉毀損の理解をめぐる最高裁判所の見解にこの点の問題があらわれておりまして、初期のころ、ここでは昭和三十三年の判決を挙げさせていただきますが、昭和三十三年の判決におきましては、最高裁は、名誉毀損というのは、「言論の自由の乱用であつて、憲法の保障する言論の自由の範囲内に属するものと認めることができない。」というふうに判示しておりました。つまり、名誉毀損というのは、これはもう表現の自由じゃないんだ、それは表現の自由の範囲内に属しないんだ、こういう言い方をしたわけであります。

 しかし、その後、最高裁判所は態度を変更いたしまして、これは北方ジャーナル事件という有名な判決ですが、昭和六十一年の判決におきまして、名誉毀損という行為も言論の自由の範囲に一応属すると考えた上で、しかし、名誉権という、これも憲法の保護を受ける権利でありますが、名誉権と、そして表現の自由という憲法上の二つの権利が衝突している事例であるというふうにとらえました。そして、その衝突については「調整を要することとなる」とした上で、「いかなる場合に侵害行為としてその規制が許されるかについて憲法上慎重な考慮が必要である。」というふうに判示したわけであります。

 ここから考えまして、確かに、脅迫行為あるいは恐喝行為といったようなものを憲法上の権利の行使と見るのは難しいかもしれない。つまり、憲法上の権利の行使とは言えない表現行為というのはあり得るだろう。しかし、それは一見して明らかに憲法の保護を受けることのない表現行為だけに限定して考えるべきであって、疑わしきは憲法上の権利と推定した上で、そして表現の自由と公共の福祉との関係として論じていくべきではないかというふうに考える次第であります。

 以上が、問い一をめぐる議論であります。

 次に、問い二をめぐる議論であります。

 問い二というのは、人権が公共の福祉によって制限される、制限できるとした上で、では、人権を制限する公共の福祉とは何かという問題です。

 これについての最高裁の回答は、正面からの回答はございません。個別事例ごとにアドホックに回答していくというのが最高裁の態度でありまして、先ほどのわいせつ文書規制が問題となったチャタレー事件判決においては、「性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がない」とした上で、その規制を合憲であるというふうに判示しております。

 しかし、このような公共の福祉とは何かという正面からの問いという問いの立て方が適切かどうかについては疑問があるわけでありまして、近年ではこのような問い方自体がされなくなりつつあります。いわば問いの転換がなされているわけでありまして、公共の福祉とは何かという大上段の問いから、人権と公共の福祉の相互調整の方法というものがどのようなものかというふうな問いへと変わってきているというわけであります。

 これは、人権も大事だけれども公共の福祉も大事だという議論と、それから、公共の福祉も大事だけれども人権も大事だというこの二つの議論、これはどちらにも理由があるということで、そうすれば、結局両者の微妙な調整ということが問題とならざるを得ないのではないか。公共の福祉とは何かということだけを問うても、それでは済まない。人権と公共の福祉というのは相互制約の関係にあるのであって、人権を守るということは、それは公共の福祉もまた制約されるということを意味する。公共の福祉を守るということは人権が制約されるということを意味するんだけれども、逆にまた、人権を守るということは公共の福祉の方も制約される、そういう相互制約の関係にあると理解すべきなのではないか。だとすれば、両者の微妙な調整ということを真剣にとらえる必要があろうということであります。

 そこで、どう考えていくかですが、公共の福祉と人権というのを、単に対立させるだけではなくて、目的、手段図式というものによって再把握する。すなわち、公共の福祉による人権制限を正当な目的を達成するための正当な手段による規制と考えまして、目的、手段ともに正当な規制であれば公共の福祉に適合した人権制限とみなす。規制の目的、手段を多方面から考察することで細やかな検討をしていき、公共の福祉を重視しつつも人権を尊重するということを可能にするわけであります。

 そこで、規制目的の正当性、そして規制手段の正当性という二段階で問いを立てていくことになります。

 まず、規制目的への問いということでありますが、人権制約の目的が正当化できるかというふうに問題を立てます。ここで、人権制約の目的の正当化としてしばしば挙げられるのは、一つは、他者の人権の保護ということであります。そしてもう一つは、公共の利益の保護であります。

 最初の他者の人権の保護というのは、公共の福祉の中身として他者の人権というものを考える、そして人権を別の人権によって制限する。例えば、その例として、名誉毀損の事例におきます名誉権というものが挙げられます。名誉を保護するために表現の自由を規制するという場合がその例です。それから、ビラ張り規制等で挙げられております他者の財産権の保護ということもその例として挙げられます。

 それから、公共の利益の保護については、これもいろいろあるんですが、公共の利益とここで申しますのは、他者の人権に還元できないような、個人の権利に戻せないような公益の保護ということであります。かつては、こうした公益によって人権を制限するということは、それ自体が許されないのではないかという意見が強かったんですが、最近は、憲法学者の間でもそのように考える人は少なくなってきておりまして、最高裁判所はもうずっと以前から、こういう他者の人権に還元できない公益の保護というものを正当な人権制約の規制目的であると考えております。

 例えば、その例としては、わいせつ文書規制における性的秩序、最少限度の性道徳の維持でありますとか、あるいは有害図書規制における青少年の健全な育成の保障、それから、屋外広告物規制におきます都市の美観風致の維持、最近では景観法というものが制定されることが見込まれているそうですが、そこでも美観風致というものが規制の理由として挙げられているわけです。あるいは、公務員の政治活動を禁止する理由として挙げられます行政の中立的運営の確保とこれに対する国民の信頼の維持でありますとか、あるいは選挙運動規制で挙げられています選挙の公正、公平の確保というものがあります。

 これらは、いずれも正当な規制目的であると言ってよいかと思いますが、目的が正当であるからということだけで直ちに人権制限が許されるというわけではありません。まず、その規制目的の審査をする場合には、とりわけ公益保護ということが問題となるときに言われることでありますが、その公益の中身というのをできるだけ明確化あるいは特定化する必要があるということです。これは、目的が抽象的なままでは、意味のある目的審査ができないということが理由であります。

 例えば、選挙運動の規制目的として挙げられています選挙の公正、公平の確保ということがありますが、これだけだと目的としては非常に抽象的であります。最高裁判所は、この点について、昭和四十三年の判決それから昭和五十六年の判決におきまして、この目的を明確化、特定化いたしました。

 具体的に、例えば買収、利害誘導の防止であるとか私生活の平穏の維持、候補者の煩瑣の回避、多額の出費の抑制、投票における情実支配の排除、こういうふうにできるだけ具体的な目的へと言いかえていくわけです。こうすることによって、意味のある目的審査が可能になるわけであります。もちろん、すべての公益についてこのような具体化が可能であるというわけではありませんが、これはできるだけその方向で目的審査というのを行うべきであるというふうに考えられます。

 それから、規制目的として、何らかの弊害が発生するので、その弊害を防止することが目的であると言われることもしばしばあります。特に、公益に対する弊害ということが挙げられることが多いわけですが、この場合、弊害発生の蓋然性というのを考えておく必要があります。幾ら正当な目的であっても、弊害が観念的であると、やはり意味のある目的審査にはならないと思われます。

 つまり、規制目的への問いの段階では正当な規制目的なのかどうかということをまず考え、そしてその目的の中身について明確化、特定化、そして弊害発生の蓋然性というものを具体的に考えるということが必要になるのではないかということであります。

 この規制目的の審査というものをクリアした後、規制目的が正当であると考えた後に、次は規制手段について問うわけです。人権制約の手段が正当化できるかということを問うわけであります。

 これについては、表現の自由についてでありますけれども、憲法二十一条二項におきまして検閲というのが特に禁止されているということがありますので、まず規制の手段としてそれが検閲に該当しているかどうかということを考える必要があります。これは表現の自由特有の問題でありますが。手段として検閲という方法をとっていた場合は、もうそれだけでその手段は正当化できないということです。

 しかし、表現の自由以外の自由については、このように禁止された手段というものが憲法上明文化されているということはほとんどありませんで、規制手段の正当性というものを、憲法から直接その基準を導き出すということは難しいわけであります。

 そこで、どうするかといいますと、目的との関係で手段の正当性を問うということです。

 まず第一に、手段の目的有用性を問う、言いかえますと、目的達成にとって役に立つ手段かどうかということを問うということであります。これは、逆に言いますと、幾ら正当な目的を追求する場合であっても、その目的達成にとって役に立たない手段であればそれは手段として不当であるということになります。したがって、そのような手段は正当化できないということになります。

 それから次に、手段の必要最小限度性を問うということであります。同じ目的を達成するために手段というものは通常複数考えられるわけでありますので、その中でも、より緩やかな手段がないかどうか、より緩やかな代替手段ということを考える。いわば、手段の間で比較を行って、人権に対する規制度が最も緩やかな手段でないと手段としては正当化できないというふうに考えるということであります。

 そして最後に、得られる利益と失われる利益というものを衡量するということです。それは、損失以上の利益を見込める手段かどうかを問うということであります。幾ら正当な目的を達成するための有用かつ必要最小限度の手段であっても、失われる利益が得られる利益よりも大きいと判断される場合については、それは手段としてやはり正当化できない、こう考えるわけです。

 このように、公共の福祉とは何かということを正面から問うのではなくて、規制目的の正当性、規制手段の正当性ということを個別に問うことによって人権制限の合憲性というものを判断すべきであるというのがここでの見解であります。

 ただ、このように問いを転換することに対しましては批判もございまして、やはり公共の福祉の実体を正面から問い直すべきだ、公共の福祉とは何かということをもっと真っ正面から考えるべきだという見解もございます。

 このような見解にも意味があると思うわけでありますが、ただ、こうした大きな議論というのは、道具性を欠いていることから非実践的な議論になりがちではないかというふうに私は考えております。それより、むしろ、先ほど申し上げましたような規制目的、規制手段というような小さな問いを積み上げていって一つずつ順番に答えていくというやり方をとる方が生産的な議論になるのではないかというふうに考えております。公共の福祉とは何かという大きな問いを立ててしまいますと、そこでの話というのは勢い抽象的な議論になりかねないわけでして、それは実践的議論にはほど遠いものになるというふうな気がするからであります。

 さて、最後に、残された問いについて考えてみたいと思います。それは、だれが問いに答えるのかということであります。すなわち、だれが正当な目的、正当な手段について考え、答えるのかということであります。

 ここでは、四つ挙げてみました。

 まず第一に、憲法制定者がこの問いに答えるということです。あるいは、もっと正確に言いますと、憲法改正権者がこの問いに答えるということです。つまり、現在、憲法に多くの人権条項がありますが、その人権条項に憲法改正権者が制限事由をつけ加える、つまり、憲法上明らかに制限されるべき理由というのを明文化しておくというやり方が一つのやり方であります。

 例えば、ドイツ連邦共和国の憲法、基本法には、表現の自由の制限理由として、名誉の保護や青少年保護といった事柄が規定されております。このように、憲法上、例えば正当な規制目的というものを明文化しておく。つまり、憲法制定権者あるいは憲法改正権者のところで人権と公共の福祉の調整を行うというのが一つのやり方です。

 ただ、このドイツのやり方というのは、正当な規制目的を明示しただけのことでありまして、規制手段についてでありますとか、そういった細かいところまで規定しているわけではありません。名誉の保護にいたしましても、青少年保護にいたしましても、それ自体正当な規制目的であるというのは憲法に規定されていなくとも明らかでありますので、このようなことだけであれば憲法に明文規定を置くことにそれほど大きな実益があるというわけではないと思います。

 仮に、このような正当な規制目的を憲法上明示したといたしましても、人権と公共の福祉の相互調整の必要性それ自体はやはりなくならないわけでありまして、憲法上微妙な調整というものをあらかじめすべて明示しておくということ、これは無理であります。というのは、やはり憲法というのはどうしても抽象的な規定にならざるを得ないというところがありまして、抽象的判断の限界と申しますか、具体的判断がどうしても必要になるからであります。

 そこで求められますのが、議会による調整あるいは行政による調整であります。議会は法律を制定して人権を制限いたします。そして、この議会の一般的判断を踏まえまして、行政が命令、処分を通じて人権を制限いたします。いわば、議会の一般的判断を踏まえて行政が個別的な判断をするということであります。

 そして、この議会やそれから行政の判断というものを、裁判所が、具体的事例においてでありますけれども再審査するというのが通常の行き方であろうと思われます。

 憲法学は、従来、裁判所の判断の仕方について主として論じてまいりました。例えば、二重の基準論という考え方が憲法学の通説としてございますが、これは、合憲性の審査においては、精神的自由権について厳格な審査基準を用い、経済的自由権について緩やかな審査基準を用いて裁判所が判断せよという考え方であります。つまり、人権と公共の福祉の相互調整の主体として、主として裁判所を念頭に置いて、その裁判所による相互調整の仕方ということを従来の憲法学は主に論じていたということであります。

 これはこれで非常に重要な議論であるわけでありますけれども、しかし、私はここで、その裁判所の議論の前に、とりわけ議会の役割ということを強調しておきたいと思います。憲法上の権利の制限、公共の福祉による制限については、まず議会がそれを行うということであります。議会が人権と公共の福祉の相互調整というのをまず行うということでありまして、これは非常に重要なことだろうというふうに考えております。

 そして、議会の判断を法律の形式で表現するということであります。法律に議会の判断をできるだけきちっと書き込むということが、人権と公共の福祉の相互調整を行うという点においては重要なのではないかというふうに考えているわけであります。

 言い方をかえますと、行政に判断を丸投げするような立法はしないということであります。あるいは、法律の規律密度を高めて行政裁量の領域を小さくするということであります。

 従来、法律は、一般的、抽象的であるということを心がける余りに、みずから人権制限について微妙な相互調整ということをやらずに行政に判断を丸投げしていたというようなところがなかっただろうかと考えるわけでありまして、むしろ、行政でやることはなくならないわけではありますけれども、しかし、できるだけ議会のところできちっと判断をして、そして相互調整を行う。そして、議会が行った相互調整を踏まえて行政が判断するというその行き方、仕方というものにもう少し敏感であるべきではないかというふうに考えているわけであります。

 このように、人権と公共の福祉の調整の場面における法律の意義ということをここで特に強調させていただきまして、私の話を締めくくりたいというふうに考える次第であります。

 どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)

山花小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

山花小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平井卓也君。

平井小委員 先生、どうもきょうはありがとうございました。私、自由民主党の平井であります。

 人権は公共の福祉によって制限できるかということに関しては、最近、我々の同僚議員の関係の問題でいろいろありましたりして世間でも注目されているんですが、表現であればすべて表現の自由という憲法上の保障が得られるということではないということはわかっているんですが、じゃ、どのような表現までが表現の自由で保障されるかということがまず一点。

 それと、私、もともと放送局で仕事をしていたこともあるんですけれども、放送に対する規制に比べて、新聞、特に雑誌ですね、出版物に対する規制が緩やかではないかなと前々から思っているんです。そのことに問題があるかどうか。新聞と放送の間に、電波の希少性や社会的影響力に現在顕著な差異は認められないと私は思っているんです。そう考えたときに、放送の方の規制を緩和していくという議論もあるのかな、そのときにどのようなことが検討課題になるのかということが二つ目の質問です。

 それと、今回裁判所による出版物への仮処分の手続がありましたが、どのような基準によってそういうことがなされるべきなのかなということが三つ目の質問。

 それと、最初の命題一の方について、あともう一つは、インターネットによる表現の拡大は、はっきり言ってプライバシーの侵害などの人権に関する問題を物すごく引き起こしていると思うんです。こうした現状はもともと想定できなかったことだと思うんですけれども、憲法学の議論にどんな影響があるのかということ。そして、インターネット上の表現というものを審査する場合に、従来の表現の自由に対する規制とどのように仕分けをしたらいいのかということをまずお聞きしたいと思います。

松本参考人 表現の自由といいましても、確かに限界があるわけでありますが、しかし、どのような表現行為までが表現の自由としての保護を受けるのかという点については、これは抽象的にお答えするのは非常に難しいわけであります。

 ただ、先ほど私が述べましたように、憲法上の権利の行使とは言えない表現行為はあり得るとは思うのですけれども、それはだれがどう考えても、これは憲法上の保護を考えるまでもなく許されないだろうと思われるような行為だけを表現の自由の保障領域から排除するべきでありまして、逆に言いますと、議論があるような行為については、これは表現行為ととらえた上で公共の福祉による制限を考えるべきであろうというふうに考えております。

 それから、インターネット等の新しい技術が普及することによって、さまざまな新しい表現の自由の問題というのは確かに出てきておりますが、原理的な問題については、実はそれほど昔から変わっていないのではないかというふうに考えております。それは、技術が新しくなったというだけのことでありまして、それぞれの新しい技術の特性に合わせて従来の原理をどう応用していくかという話になっていくだけだろうというふうに思います。

 それから、出版物に対する規制が、あるいは放送等に対する規制が緩やかではないかという点につきましては、これは表現の自由というものに対してどのくらいコミットするかという問題ともかかわると思いますが、表現の自由というのは、やはり傷つきやすい自由であるというふうに私は思います。どちらかというと、名誉保護とかあるいはプライバシー保護ということによって表現の自由というものを規制すべきであると言う方が何となく耳ざわりがいいわけでありますが、しかし、表現の自由というのは一たん傷つきますと取り返しがつかないことになりやすいわけでありまして、その意味で、表現の自由に対する感度と申しますか、その傷つきやすさに対する配慮というものは、幾ら強調しても強調し過ぎることはないのではないかというふうに考えております。

 仮処分の規制についての手続については、これもいろいろ議論があるわけでありますが、最高裁判所は、北方ジャーナル事件判決という昭和六十一年の判決において一応の基準を出しておりまして、やはり回復不可能な侵害があるような場合、しかも弊害が明白であるというような場合に限って、仮処分という緩やかな手続でもって事前に規制することが許されるというふうに言っております。

 この考え方が正しいかどうかについては異論もあるわけですけれども、しかし、仮処分というのは手続としては非常に緩やかな手続でありますので、先ほど申し上げた表現の自由の傷つきやすさということを考える際には、表現の自由を尊重するという観点を忘れることなく手続に臨むべきであろうというふうに考えております。

 以上です。

平井小委員 人権を制限する公共の福祉とは何かという二番目の問いですが、きょうは先生余り、書物、文献の中で随分書かれていますが、法律の留保について、少しお聞きしたいと思います。

 人権制約原理の中で、法律の留保とはどのような意味合いを持つのか。それは一体何か。そしてまた、それは日本ではどのようなものとしてとらえて、現在それをめぐってどのような議論がなされているか。

 これは、我々議会に身を置く人間にとっては非常に大きな問題ですし、先生は議会制民主主義、やっぱり議会がもっと仕事をしろという御主張のように、参考文献を読ませていただいてそう考えたんですが、一方、議会制民主主義に対する不信感というものもあるし、多数決に関するやっぱりいろいろな異論もある。その辺のところを、先生に少しお話をお聞きしたいと思います。

松本参考人 法律の留保原則というのは、これは日本の公法学においてはもう昔から議論になっている事柄でありますが、憲法学においては、かつて法律の留保原則というのが、法律さえ制定すればその法律によって憲法上の権利も制限して構わない、そういう趣旨で理解されたこともあって、非常に不人気な考え方なわけです。

 しかし、憲法上の権利が仮に制限できるとすれば、それは法律の根拠がなければならないということは、これはだれもが認めていることでありまして、言い方をかえますと、法律の根拠もなしに、行政の判断だけで憲法上の権利が制限できるわけではないという点についてはコンセンサスがあるわけです。

 そこで、日本の公法学においては、とりわけ行政法学においてこの法律の留保原則というのがずっと議論されてきたわけであります。ところが、肝心の憲法学の方では、先ほど言った不人気ということもありまして、余り論じられなくなってきている。しかし、そのせいでありましょうか、法律に人権制限の根拠というものを明確に書き込むということについて、少し配慮が足りなくなってきているのではないかということを私は考えるわけであります。

 議会というところは、多様な利害が代表されている場でありますし、また、公開の場であります。これは、行政の場合といろいろな点で違うわけでありまして、この議会の特性というのを十分に生かして、まず議会において、人権と公共の福祉の相互調整を行う、その上で、その調整を行った結果、つまり議会自身の判断を法律の上に表現する、これを私は憲法上の法律の留保原則というふうに考えておりまして、いわば議会の自己決定義務ということを著書の中でも強調しているわけであります。

 以上です。

平井小委員 時間がなくなってしまって残念なんですが、これから後の質問者の中から出てくると思うんですけれども、先生が指定文献の中に書かれている本質性の原理についても、ぜひ今後の質疑の中でまた御意見を聞かせていただければと思います。

 どうも、きょうはありがとうございました。

山花小委員長 次に、笠浩史君。

笠小委員 松本先生、きょうはどうもありがとうございます。民主党の笠浩史でございます。

 今も質問ありましたけれども、昨日、やはりこの週刊文春の事前差しとめで、高裁の判決が一転して地裁の判決を否定したということで、非常に久しぶりに表現の自由にかかわる問題が大変クローズアップされていると思うんですが、先ほど先生のお話で、表現の自由というものは非常に傷つきやすい自由だと。私も、議員になる前、放送局におったもので、大変そのお言葉を聞いて心強くしているところなんです。

 ただ、一方で、この手の裁判が、昔は多分、国家と例えば表現の自由の闘い、そういったことは非常にわかりやすかったし、むしろ、やはり国民的にも、国家権力がマスメディアに対して表現の自由を侵害してはいけないという論理があったわけです。しかし、今一番難しくなっているのは、週刊誌あるいはインターネット、そうしたところで、ともすると、個人のプライバシーの問題とこの表現の自由の対立というものが、いろんな角度で、いろんなところで今争われてきている中で、今回の裁判でも、例えば公共性、公益性、そして被害の重大さと回復の困難さ、この三点をめぐって判断がなされているわけです。これで本当に十分なのか、視点が。その点についてどのようにお考えか、お聞かせいただければと思います。

松本参考人 表現の自由と国家権力の関係ということ、これは相変わらず重要な議論でありますが、今おっしゃられましたように、個人の人権をめぐる状況というのは、私人対私人の間でもやはり問題となるだろうと思います。その場合、国家がどういう位置にあるかということを考える必要があるかと思っています。私は、私人対私人の関係についても、国家を含めた三者関係で考えるべきだというふうに考えております。

 その場合、国家は、一方において、表現の自由によって被害を受けた私人を保護すべき立場にあるだろうというふうに考えています。これは、最近憲法学においても有力になりつつある議論でありますが、基本権保護義務という考え方がございまして、国家が私人間における被害を防止する義務というのを負うという考え方であります。つまり、ある私人の表現によって別の私人が損害をこうむる場合、この別の私人の損害を国家が防止して、その個人の人権を保護しないといけないという考え方です。ここで、憲法上、基本権保護義務というのが国家に課せられる。

 しかし、他方で、国家がその保護義務を履行しようとすれば、表現を行った私人の表現の自由に介入せざるを得ないわけでありまして、ここに個人対国家の表現の自由の問題というのは残らざるを得ない。それで、表現の自由をその表現した私人が持っている以上、ここには、その私人から国家に対して表現の自由の主張というのが常になされるわけでありまして、これを国家の側から見ると、私人の表現の自由を侵害してはならない義務、人権侵害防止義務というものが課せられることになる。

 つまり、国家には、基本権保護義務と基本権侵害防止義務の二つの義務が同時に課される、そしてこの二つの義務の間で調整を行わないといけないということになる、こういうふうに考えていくべきだろうと考えております。

笠小委員 今回の週刊文春のこの問題において、先ほど北方ジャーナルの事件の点が先生の方からも御披露あったわけでございますけれども、北方ジャーナルに関しては、やはり名誉毀損、名誉権というものをめぐる争いであったように私は理解をしているんです。

 ちょっとあえてこだわりたいんですが、やっぱりプライバシー権というものが憲法の十三条によるという解釈は確かにできると思いますけれども、今、さらに一歩進めて明文化しておかなければ、この判断というものが非常に難しくなっていくんではないかという危惧を私は持っているわけでございます。その点についてはいかがでしょうか。

松本参考人 プライバシー権を明文化するというのは、憲法上明文化するという意味と、それから法律でもってプライバシー権というのを保護するという意味と、恐らく二つあるのではないかと思いますが、これは、明文化することによってその中身がより明確になるということであれば、明文化する意味があると思います。

 しかし、ただ単にプライバシーという言葉を法律に書き込む、あるいは憲法に書き込むというだけであれば、その明文化による実益というものはそれほどないのではないかというふうに考えます。これは立法技術の問題もございますので、プライバシーの保護そのものは、これは重要でありますし、否定されるべきではありませんので、明文化することによってよりプライバシーと表現の自由との調整がうまくいくということであれば、これはそうされるべきであると思いますが、ただ単にプライバシーという言葉を盛り込むというだけであれば、実益はないであろうというふうに考えております。

笠小委員 先ほど先生の御説明で、議会の役割、公共の福祉の制限について、まず議会がその役割を一義的に担うべきだというようなお話があったわけです。

 私、その考え方はいいとは思うんですけれども、ただ、私自身は、今の憲法のもとで議会にそれを担わせたとしても、やはり公共の福祉の制限にかかわる、例えば先ほど申し上げましたプライバシーの権利であるとか、あるいは知る権利であるとか、そこらあたりについて、一つ踏み込んだ具体的な条項というものを憲法の中に盛り込んだ上で議会にその役割を担わせなければ、なかなかこれは判断ができないのではないか。あるいは、恣意的に、この国会の場で本当にそういうことが、そのときどきの都合で判断をされることになる危険性がないのか。そうした疑問を非常に持っているわけでございますけれども、それについてちょっとお伺いできればと。

松本参考人 憲法上、例えば制限理由を盛り込むというような場合については、そういう方法がないわけではない、あるいはそういう方法も有効な場合もあるかもしれないとは思うわけですが、ただ、憲法上の決定というのは、これは非常に長期的な考慮を要することでありますし、また国民的な賛同を要することだろうと思います。したがって、だれがどう考えてもそのような制限が必要であるというような場合に限ってなされるべきことではないかというふうに思います。

 とりわけ人権につきましては、その制限というのは、これはやはり原則として許されないことでありますので、その許されないことを憲法において実現するという以上は、国民的な賛同が得られるような事柄でないとならないのではないかと思います。そうだとすると、それほど多くの事柄を憲法に期待することはできないのではないかというふうに考えております。

笠小委員 いや、私も、それはおっしゃるとおりなんですけれども、ただ、制限することを加えるということではなくて、今の人権というものが、グローバルスタンダードにおいて、果たして今のままで十分なのかなと、その基本法の憲法の中における位置づけというものが。その部分をむしろきちんと検討して、もちろん十分な時間もかけなければいけないけれども、一つ踏み込んだ形でやはり盛り込まなければ、何が、例えば議会で議論をするにしても、制限が逆にできるのか、してはいけないのか、その部分というものが、やはり明確な基準化という意味でも必要になってくるのではないかと思っているわけでございますけれども。

松本参考人 人権というものを憲法上どのくらい列挙するかという点については、これは国によってさまざまでありますけれども、日本国憲法の人権のカタログというのは私は割と豊富な方であるというふうに考えておりまして、例えばアメリカ合衆国の憲法なんかに比べますと非常に人権の数も多いですし、基準として、特にグローバルスタンダードに照らしてみても劣るところはないというふうに考えております。

 しかし、そのことを踏まえた上でさらに人権条項を充実させていくということ、それ自体は私も否定するつもりはございませんが、現在の日本国憲法の人権条項がグローバルスタンダードから見て特に劣っているというふうには考えておりません。

笠小委員 どうもありがとうございました。

山花小委員長 次に、太田昭宏君。

太田小委員 公明党の太田昭宏です。

 時代の変遷とともに、今、笠さんがおっしゃったように、新しい人権ということも含めて提起をされていますが、調整対立項目であるというそれぞれの人権ということにつきましても、私はこうした、よりプライバシーが保護されるという時代であるべきである。人格ということについても幅広くやらなくてはいけない。同時に、表現の自由というのが非常に大事である。それらをもう少し、昭和二十一、二年当時よりも、現在の状況、あるいは未来のそうした情報通信社会、あるいは人々がより言葉をもって表現するという時代にあって、もう少し鮮明に、あるいはもう少しバランスよくたくさん書き上げるという、豊富であると今おっしゃったわけですが、私はそういうことが大事だというふうに思うんです。まず、このことについて一つお伺いをしたいと思います。

 そのときに問題となってくるのは、議会という、立法措置ということを言いましたが、私も、そういう場合非常に大事だと思うんですが、現在の、司法に任せるという場合に、どうしてもそれは事後処理的になる。そして、現在、環境権ということが司法の場で認められ、プライバシー権の中での肖像権、これが認められ、そして、名誉毀損、この名誉権というものが、司法の場ではそのくらいでしょう。

 そうしたことで結論が出るといった場合、私は、立法措置での処理ということを考えても、立法措置がたくさん、環境なら環境でいろいろ立法措置が行われます。その根拠が、憲法の上で表現するということは、立法措置をする場合でも一つ必要になるのではないのかというふうに思うわけです。司法だと事後になるから、事前という意味での立法と憲法的な措置。そして、立法措置という場合の、法律をさまざまつくるということであるならば、その根拠となる憲法の条項というものを表現するという意味で、新しい人権とか現在の憲法論議というものは進めていった方がいいという整理を私はするわけなんです。

 憲法十三条の幸福追求権、そして公共の福祉との関連性、こういうものですべてのものが読み切れるという、これはこれでバランスでしょう。しかし、一歩進んでそういう時代になったんだ、私はそう思うわけですが、いかがでしょうか。

松本参考人 人権と人権の調整というのは、これは非常に微妙な考慮を要するわけでありまして、これは、先ほど申し上げましたように、憲法上でそれを行うということには限界があるだろうと考えております。その意味で、立法の役割というのは非常に重要でありますし、それから行政の役割、そして裁判所の役割、とりわけ私人間における人権と人権の衝突の調整において裁判所の果たす役割というのは、これは永遠になくならないだろうというふうに考えております。

 そのことを踏まえました上で、立法の前に何らかの調整、特に憲法上の調整というのが要るのかどうか、とりわけ今環境権のお話をされましたので、それについてお答えしたいと思うわけです。

 私自身は、環境権というものを憲法に取り込むという点については、環境というものが、個人の権利というより、これは公共の利益である、そういう側面の方が強いのではないかというふうに考えますことから、環境権という形での規定については必ずしも積極的ではございません。

 もし環境について憲法上何らかの基準が必要であるというのであれば、私は、国家の環境保全義務というものを規定するというような方向で考えるべきではないかと考えております。つまり、国が環境を保護する義務を負っているのだというふうに考え、そして、その国家の環境保全義務を基礎に、国はさまざまな環境保護立法を行っていくというようなやり方といいますか方向性で考えるべきではないかというふうに考えております。

 個人の権利としての環境権というものを規定するという方向よりは、国家の環境保全義務を規定するという方向の方がベターではないかというふうに考える次第です。

太田小委員 プライバシー権ということを加えていくということも私は大事だというふうに思うわけですが、そのプライバシー権ということをつけ加えた場合に、当然そこには、表現の自由ももう少し強化する書き方というものがあってしかるべきである。

 その辺の、例えばスペイン憲法などでは、名誉、プライバシー、肖像権、住居の不可侵、通信の秘密ということでずっと書いたり、あるいは表現の自由、知る権利、事前検閲の禁止というようなことをかなり書き込んでいるわけですね。あるいは、オランダ憲法においてもプライバシーの権利ということを書き込んだり、韓国の憲法でも、プライバシーということについて言うならば、すべての国民は私生活の秘密及び自由を侵害されない、これは簡単でありますが、そういうふうに書いてある。

 バランスが当然必要であるというように思うんですが、私が先ほど申し上げたように、それぞれについてもう一歩書き込んでいくという作業が、その後の法律をつくる場合でもさまざまに必要である。

 今の環境権ということについての先生の考えは、環境権というものを個人の権利ととらえるからです。私は、人権という項目の中には、法体系にはなかなかない、権利と義務しかないんですが、責任という項目の中で、国民の責任や国家の責任、責任という一つの媒介指数というものをとるという時代になってきたんではないかというふうに思っているわけなんです。そのことはいいんですが、前半の私の話はいかがでしょうか。

松本参考人 プライバシー権を憲法上に規定すべきかどうかということでありますが、これも、先ほど述べましたように、プライバシー権自体が憲法上の権利としての保護を受けるべきだという点については、これは憲法学界もそうでありますし、私も肯定しております。したがって、現在、日本国憲法にはプライバシー権という権利は明文規定にはありませんが、それが憲法上の保護を受けるということについては異論がないわけであります。

 ですから、その異論のない権利を新たに明文で規定するということについて、それ自体は特に反対すべき理由はないわけですが、ただ、逆に言いますと、もう既にプライバシー権が憲法上の権利であるということを、これは学界だけではなくて裁判所を含めて多くの人が認めている中で、新たに規定することの実益がどのぐらいあるかということについては、私自身は、余りないのではないかというふうに考えているということであります。

 それから、国民の責任について考えるべきだという御指摘につきましては……(太田小委員「国家と国民」と呼ぶ)国家の責任について、私自身は、憲法というものは、国家権力というものを創出し、かつそれを統制するというところに意味があるというふうに考えておりますので、例えば、国民の権利が規定されているのも、これは国家権力を統制するためにあるわけです。

 あるいは、国会に立法権、行政に行政権、それから裁判所に司法権が規定されているのは、憲法が、国家権力というものを規定することによって、権力の行使を授権している、認めている。しかし、国家に権力行使を認めた以上、その権力が乱用されたり、あるいは暴走したりしないように、さまざまに統制する仕組みを同時に設けなければならないということで、国民の権利、人権というものが規定されているというふうに理解しておりますから、憲法上の権利というのはすべて、これは国家権力の統制という点から考えていくべきである。

 その意味で、環境権というような権利が、権利として憲法にふさわしいかどうかというふうに考えたので、先ほどのような発言になったわけでございます。

太田小委員 時間がもうオーバーしてしまいましたが、例えばプライバシー権を明示した場合、先ほど申し上げましたように、それに対する権利ということ自体も書き込むという作業が私は必要だというように思うわけですが、それはどうなんですか。

松本参考人 人権と人権の衝突の調整というのは、私自身は非常に微妙な作業であると考えておりますので、これは最終的には具体的なレベルでしか行えないだろうと考えております。

 ですから、憲法上で行えることには限界があるというのが私の見解であります。憲法上でやるよりはむしろ立法上で行う、そしてそれを最終的には裁判所で行うというふうに、ある程度具体的なレベルで行わないと、こういう微妙な調整というのはできないのではないかというふうに考えております。

太田小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、山口富男君。

山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。

 きょうは、大きく二つのテーマでお聞きしたいんですけれども、基本的人権論と公共の福祉論に分けてお尋ねしたいんです。

 初めに基本的人権論なんですけれども、きょう、日本国憲法の人権規定が大変カタログが豊富だという話があったんですが、これにかかわって、一点は、やはりこれは明治憲法下の基本的人権を認めなかった時期の教訓や反省に根差しているのかどうかという点の参考人の評価。

 それからもう一点は、先ほど、環境権やプライバシー権をめぐって、判例法理や憲法学界の中でも、これが憲法上根拠を持つという考えになってきているんだという話がありました。例えば、環境権ですと、六〇年代から七〇年代にかけて公害問題が起きて、いろいろな運動や、それから憲法学界の中から、十三条、二十五条に基づいてこれがあるんだという考えになり、それが国連の一連の環境会議なんかでも認められるという意味では、日本初の一つの権利の豊富化だったというふうに思うんです。そういうふうに考えますと、日本国憲法で定められた人権という問題が、それぞれの社会の発展の中で、いろいろな運動などによって豊富になってきているという認識をお持ちなのか。

 その二点、まず初めにお尋ねしたいと思います。

松本参考人 まず、日本国憲法の人権に対する明治憲法の影響でありますけれども、確かにそれはあると思います。

 ただ、明治憲法下でのさまざまな経験ということだけではなくて、日本国憲法というのは、近代立憲主義という非常に大きな流れの中に位置づけられる憲法でありますので、世界各国のさまざまな憲法上の経験というものが大きく影響しているということでありまして、明治憲法下での経験を否定するわけではもちろんありませんけれども、それだけではないということであります。

 それから、環境権を初めとしてさまざまな人権が主張されるようになって、それが人権カタログというものをどんどん豊富にしていくのではないかということでありますが、それはおっしゃるとおりだろうと思います。

 ただ、私は、人権の観念が豊富になっていくことと、それから日本国憲法の権利というものが変化していくということについては一応分けて考える必要があると考えておりまして、先ほども申し上げたように、憲法というのは、国家に対して権力を与えると同時に、それを統制するという役割を担っておりますので、憲法上の権利も、国家権力の統制というこの課題からはやはり逃れることはできないというふうに考えます。

 先ほど、私人間の人権調整の場面で、基本権保護義務ということを申し上げましたが、これも、基本権を保護する義務、人権を保護する義務というのが国家にあるとはいえ、これは国家権力を統制するという観点からそういう義務を国家に課すべきだという考え方でありまして、いわば国家の権力統制という場面から離れていくような形での人権の豊富化というのは、これは憲法上の権利の問題としてはむしろ警戒しないといけないのではないかというふうに考えております。

 いわば国家の権力というものをフリーハンドにするような形で、つまり国家の権力の統制が外れていくような形で議論がもし進んでいくとすれば、それは憲法の最も重要な課題というものが傷つけられるのではないかというふうに考える次第です。

山口(富)小委員 私も、今の日本国憲法の人権問題について言いますと、参考人がおっしゃったように、明治憲法の教訓、それから二十世紀の社会権の広がりがありますから、そういうものを踏まえたことである、それからまた、人権の豊富化についても、人権そのものが、近代立憲主義で国家権力との関係で規定されておりますから、今おっしゃったことをきちんと踏まえなきゃいけないなというふうに思います。

 さて、公共の福祉論なんですけれども、きょうのお話ですと、結局、初期の最高裁の判例があるわけですけれども、実際には人権と人権のぶつかり合いの中で問題になってきますから、どうしても裁判という形で争われますので、最初に裁判所のいろいろな判例が出て、その中で公共の福祉とは何かという議論になったというのは、いわば根拠があったと思うんですね。しかし、きょう、チャタレー事件から北方ジャーナル事件の説明があったわけですけれども、初期の段階で公共の福祉論がいわば制限論として使われた時期があって、それに対して、近年、これはやはり人権間の相互調整の方法なんだと、それぞれがきちんと持っている基本的人権が上手に実現するように、その調整をするものとしての公共の福祉論にいわば理解が深まってきたといいますか、そういう経過のものとしてとらえていいのかということを、ちょっとまずお尋ねしたいんです。

松本参考人 おっしゃるように、公共の福祉論というのは、今は人権と公共の福祉の相互調整の方法というものが最も重要な議論になってきているというふうに私は理解しております。しかし、それは、人権と人権の相互調整だけではなくて、人権と公共の利益の相互調整という問題も含んでおります。

 かつて、明治憲法下の教訓を踏まえて、人権の制限理由としては人権しかあり得ないんだ、つまり、ある人の人権を制限することが許されるのは別な人の人権を守るためだけなんだ、そういう理解が一般的だったんですが、しかしそれでは、先ほども申し上げたさまざまな公共の利益というものの保護が説明できなくなってくるわけであります。例えば、都市の美観、風致の維持というような事柄について、これを個人の権利の保護という観点から考える見解もないわけではないのですが、しかし、やはりそれは無理があるだろうと。そういう無理を重ねていきますと、人権でないものを人権の名前で正当化することになりかねないわけであります。

 私は、人権の制限理由として、公共の利益、つまり個人の人権に還元できないような公益というものもまた正当な人権の規制目的であると認めるべきだというふうに考えておりまして、その場合は、人権と公共の利益の相互調整ということも考える必要が出てくるということでございます。

山口(富)小委員 最後の点は参考人の御意見として承ったんですが、当初最高裁が公共の福祉論を制限条項として見たという、これは一九五〇年代ですけれども、それはやはり、この憲法上の定めというのが十分こなされていないというか、そういう時期に下された判決だったというふうに考えてよろしいんでしょうか。

松本参考人 最高裁の考え方が今の点についてどのように変化したのかということについては、これは理解がいろいろあり得るんだろうと思うのですが、私自身は、大きく変わったというふうには考えておりません。と申しますのも、最高裁は初期から一貫して、人権は公共の福祉によって制限できるという立場をとっておりまして、それは現在も変わっていないわけであります。

 私も、人権は公共の福祉によって制限できるという命題そのものを否定する必要まではないと考えております。それを否定しなくとも、先ほど申し上げた、人権と公共の福祉の相互調整という話はできるわけでありまして、いわば人権と公共の福祉の二項対立図式それ自体を否定する必要まではないのではないかと。その意味で、最高裁の基本的な立場ということは特に否定する必要はないというふうに考えております。

山口(富)小委員 今の点は、最高裁としてはそうなんでしょうけれども、学界の通説的理解としてはどうなんですか。

松本参考人 学界はいろいろな人がいらっしゃいますので、いろんな見解があるわけですが、通説的な理解としては、初期のころは、最高裁の判決の結論に対する批判というものが強かったこともありまして、私も最高裁の結論それ自体を必ずしもすべて正当化できるとは考えていないわけでありますけれども、その結論に対する批判というところから、直ちに、人権が公共の福祉によって制限できるというその命題自体を否定するという考え方、これは有力だったと思います。そして、人権は公共の福祉によって制限できるのではなくて、人権は人権によってのみ制限できるのだという考え方、こちらの方が有力だっただろうと思います。

 しかし、先ほども申し上げたように、現在は、人権を人権のみによって制限するという考え方自体に疑問が出てきてまいりまして、もちろん、人権による人権制限ということ自体は否定されないんですが、それ以外の、公共の利益による制限ということもやはり考えられるし、考えるべきではないか、それを正面から認めた上で議論をした方が生産的ではないかというふうに少しずつなってきている、こういうふうに理解しているわけです。

山口(富)小委員 わかりました。

 どうもありがとうございました。

山花小委員長 次に、土井たか子君。

土井小委員 きょうはありがとうございました。

 松本先生がお書きになった「基本権保障の憲法理論」を読ませていただきまして、大変示唆を受けました。もう今のお答えを聞いておりまして、お聞きしたい一つ目のことに対しての先生御自身の御見解というのがわかった気がいたしますけれども、重ねてという格好になることをお許しいただいて、三点聞かせていただきます。

 一つは、本来、人類普遍の原理に立って人権というのを考えてみますと、やはり人権そのものというのは制約を受けたり制限されるものではないということを基本的には認識していなければならないと私は思います。だから、そういうことから考えますと、公共の福祉という概念はどういうふうにそれを求めたらいいかということを考えたときに、ほかの人の自由権を侵さないなら権利衝突というのはそもそも起こらないわけなんですね。しかし、むしろ権利調整というふうに申しましょうか、二つの権利が衝突する場合どちらを尊重するかというふうな問題が具体的にあって、避けて通れないというときに、国は国家という立場でその態度を明らかにするというときに、この公共の福祉という問題が意味を持って動いてきたという過去の経緯がございます。

 しかし、いずれにしても大事なことは、国家とか国家権力のために人権を制限するということはできないわけですから、この点は公共の福祉を考える場合にも、基本的人権と公共福祉の関係で一番大事な点はそこにあると。国家とか国家権力のために人権に対して制限を求めてはならないというところにあるというのをやはり認識していなければいけないんじゃないかなというふうに思っているわけです。

 これからを考えますと、今まで現存している秩序を守るためとか、それから全体の奉仕者であるためにこれは考えていかなきゃならないとか、いろいろ公共の福祉の中身の、ある部分を強調して、しかもそれを曲げたような形で取り扱われて、人権に対しての認識ということが国家のいろんな機関によって行われてきたという経緯があるものですから、私は、特に今申し上げた点というのがこれからますます意識されることが重要になってくると思いますが、その辺の、国家とか国家権力のために制限することはできないということを思うと、公共の福祉ということのありようをその点からどのように考えたらいいかというのをもう一つお示しいただけたらというのが一つ。

 二つ目は、先生御自身は法律の留保原則というのをおっしゃっています。私は、しばしばこれは、法律事項とか、それから法律問題とかいうふうな呼び方で言っているわけですが、人権を規定するのには、やはりそれは法律で具体的にきちっと保障するということが原則だと思うのですね。

 唯一の立法機関と憲法の四十一条で規定されている国会の役割というのは、国会というのが徹して法律を制定する国の唯一の機関だということに対しての認識を強く持つということだと思うのですね。だから、法律事項であるはずの人権を取り扱う法律の中に、白紙委任のような形で省令に任せたり政令に任せたり、ましてや行政指導にゆだねるなんというふうなことはあってはならぬというふうに思うわけですね。

 それからすると、今、毎回国会が終わるたびごとに問題になりますのは、どれだけの法案が出されてどれだけの法案が成立したかというのがよく新聞記事にもなるんですが、どれだけの法案が出されてと言われているその法案の中身を見ますと、議員が議員立法として出す法案の数よりもはるかに多いのが、内閣が閣法と称して内閣提案で出してくる法案です。先生もこの点に触れてお書きになっていらっしゃいますけれども、実は、私は、内閣から出す法案というのは、内閣法五条で議案は提案できるようになっていますから、今の法律からするとそれを認めている立場に立つんです。しかし、内閣法五条というのは、本来は憲法四十一条から考えると違憲の中身だと私自身は思っているわけですね。本来は、だから議員立法に徹して国会の立法機関という役割というのは考えられていいし、考えていくところに意味があると私は実は思っています。

 だから、それから考えると、内閣が提案するという立法の中で、やはり省令とか政令によって事柄が動いていくという部分をむしろ大事に思うという嫌いが十二分にあるんじゃないか。そうすると、人権を保障するという法律の中に、今の閣法という形で出された中身というのは、各省庁の意見というのが十分に織り込まれると同時に、その立場というのが物を言っていますから、どうしてもそれは避けて通ることができない問題としてあるというふうに思っていますので、そこのところを、ひとつ先生のお考えを聞かせていただけたらと思います。

 三つ目は、少し大きな問題です。

 これは九七年の四月だったと思いますけれども、沖縄について特に問題になりました、米軍基地に対しての駐留軍用地特別措置法の改正がございました。その中身について詳しく申し上げるという余裕がございませんけれども、この中身で、米軍の基地として提供する目的だったら、政府は、借地料を払うなんかの補償以外は、一般的な土地収用手続をすべて無視して民有地を供給してもらうことができるという中身なんですね。

 問題になるのは、やはり国民の財産権を侵すものではないかという問題になります。そして、憲法二十九条でこれは保障されている中身ですから、憲法二十九条違反ではありませんかという問題が出てまいります。それに対して、政府の方は、私有財産を正当な補償のもとに公共のために用いることができると憲法二十九条の三項には保障されているから、これを引いて、このやり方は違憲ではありません、正当ですという物の言い方だったんですね。

 しかし、私有財産権と、公共のためと言われている、まさしくこの公共のためというのを考えていくと、それを具体的に調整してつくられている法がございます。土地収用法ですね。土地収用法では、これに該当するものでなければ事業として認めないという中身を限定して三十五項、道路とか鉄道とか港湾とか、いろいろ限定してこれを列挙しているわけですが、その中には軍事あるいは防衛目的のものは全く含まれていないんです。これは憲法第九条との関係ですね。これは政府の方も、第九条との関係でこの土地収用法の中にはそれが含まれておりませんということをはっきり認めているんですね。

 そうすると、こういうことについて特別措置法というのをわざわざつくって、私有財産に対しての財産権の制限という特例を認めていくやり方というのは、やはり、日本国憲法の基本的人権の保障を侵しても、なおかつ守っていかなきゃならない何物かがあるからだと思わざるを得ません。そうすると、そこにあるのは何かといったら、日米安保条約という形になるわけでして、これは条約優位の形で憲法の人権が考えられるという例に当たりはしないかと私は思っています。

 だから、このことに対して、先生のお考えというのを三問目には聞かせていたただきたい。

 以上でございます。よろしくお願いします。

松本参考人 まず第一点でありますが、人権の制限というのは原則としては不可なのではないかということでありますが、これはおっしゃるとおりでありまして、日本国憲法に人権が制限されたということは、要するに原則として人権は制限してはいけないということだろうと思います。

 ただ、この原則としてという部分をとってしまって無制限であるというふうに考えてしまうと、それはそれでまた不都合が発生するわけであります。先ほども少しお話の中で申し上げましたように、人権は制限できないというその命題を堅守して、そのかわり、不都合な権利行使を、それはそもそも人権の行使じゃないんだ、それは非人権の領域なんだという言い方で区別しよう、そういう考え方がございます。しかし、私は、人権、非人権を区別する考え方よりは、人権の制限は原則としては認められないけれども、例外的には認められる、それは公共の福祉を守らなければならないときである、こういうふうに問題を立てる方が、むしろ人権の尊重という考え方に沿うのではないかというふうに考えております。

 ですから、人権の制限は、確かに原則としては許されないのですが、例外的には認められる、そして、その例外が認められるべき場合というのを細かく考えていこうということであります。この場合、人権の行使自体は正当化する必要がないということを確認しておく必要があると思います。どのような人権行使であれ、それが人権の行使である以上、それがいいとか悪いとかいうことを考える必要はない。いいとか悪いとかを考えないといけないのは人権制限の方でありまして、人権を制限する場合については、そちらの方はきちっと正当化しないといけない。人権制限の正当化をきちっと行えれば、私は人権尊重の原理には十分かなうだろうというふうに考えております。

 それから、二つ目の問題ですが、内閣提出法案というものが憲法上疑義があるのではないかということでございます。

 憲法学界にも確かにそのような考え方は有力にありますが、私自身は、内閣が法律を提出する権限それ自体は、憲法上問題はないと考えております。むしろ、日本国憲法にははっきりと書いておりませんが、議院内閣制を定めた趣旨から考えると、内閣には法律案の提出権限が憲法上与えられているというふうに考えております。

 しかし、内閣に法律案を提出する権限があったとしても、それだけで話が終わるわけではありませんで、先ほどおっしゃられたように、それが単に行政の利害を調整しただけで、さまざまな国民の権利と公共の福祉の調整をきちっと行っていないのであれば、これはやはり憲法上の疑義を免れないわけであります。これは内閣が法案を提出しているかどうかとは別の問題であるというふうに私は考えております。

 そして、内閣の提出法案、確かにおっしゃるように、それは各省庁、行政の利害の代表ということもあるのかもわかりません。しかし、国会はさまざまな利益の代表の場でありますから、そこで十分に審議して、そしてその利害調整の結果を法律に書き込むべきである。そして、その法律にきちっと調整された結果が書き込まれていないのであれば、そのことをもって憲法違反であると裁判所が判断すべきであるというふうに考えています。つまり、国会がみずからの判断をきちっと行っていない、議会の自己決定義務を果たしていないのであれば、そのこと自体が憲法違反であるとして、裁判所は事後的に判定すべきであろうというふうに考えております。

 それから、三つ目は難しい問題でありまして、私は十分にお答えする準備はないわけですけれども、財産権に対する制限があるのであれば、その財産権の制限は憲法上正当化されなければなりません。そして、その憲法上正当化する方法は、先ほど申し上げたように、規制目的が正当であるか、そして規制の手段が正当であるかという形で考えていくべきであろうと思います。単に公益のためというだけでは、正当化の理由としては十分ではありません。むしろ、正当化の理由を細かく、かつ具体的にはっきりと追求していくことが人権保障につながるわけでありまして、公益のためというだけではもちろんだめであります。

 もちろん憲法九条も、これは憲法によって保障された価値でありますから、それに反するような人権制約というのは、これは正当な目的としては認められないということになります。ここは議会あるいは裁判所において、規制の目的及び手段、両方の観点から細かく審査していって、その正当性を判断すべきであろうというふうに考えます。

 以上です。

土井小委員 一つ申し上げさせていただきたいなと思いますのは、お書きになった中に、国会は、委員会の審議は非公開を原則とするというままになっていると。おっしゃるとおりで、残念ながら、今までは、国会法の五十二条の条文では、委員会は非公開が原則なんですね。

 しかし、この条文を変えるために、過去大変努力しました。衆議院の方では、これを変えて、公開原則という条文の法案を用意したんですが、これが成立しないまま今日に至っているということを一言申し上げさせていただきます。そうでないと、国会、何の努力もしていないと、もし先生がお思いになったら、これはやはりちょっと困る問題でして、努力をさらにいたしますが、もう現在は公開を原則として、実態の方が先に進行しておりますから、その中での国会法、おくれをとっております。そういうことでございます。

 どうもありがとうございました。

山花小委員長 次に、松野博一君。

松野(博)小委員 自由民主党の松野博一でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

 まず最初に、憲法で保護をするべき基本的人権の範囲と、新たに承認せられることがあるとすれば、その承認の過程についてお伺いをさせていただきたいというふうに思います。

 先ほど来、例えば環境権の問題、プライバシー権、名誉権、こういったものを憲法に書き込む、列挙する必要があるかどうかというような議論がございましたし、先生のお話の中で、例えばプライバシー権というのは、明文の根拠はないけれども、今このプライバシー権が憲法上保護されるべき基本的人権であるということに異論を挟む人はいないというようなお話もいただきました。

 そこで、第一の質問なんですが、今議論されている、今例示したような基本的人権の内容というものが、本来、現在の日本国憲法の条文の精神によって最初からその範疇の中にあった、要するに、新たに発生をしてきて何らかの承認過程を経て加えられたものではなく、もともとの日本国憲法の条文の精神の中にあって、そこから類推をされて、現在当然の基本的人権として認められるようになったのかどうかということについてお伺いをしたいというのが一点。

 もし、いや、現在の日本国憲法の精神の中にあるもともと想定されたもの以外であっても、社会的な変化、歴史的経緯の中で新たに基本的人権というのは付加されていくものだよということであれば、その場合にはどういうような承認の過程が必要かということについてお伺いをしたいと思います。

 平成十二年にヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律というのを国会で審議したわけでありますけれども、その中で、新たに一つの争点として、リプロダクトの権利というものが上がってきました。バイオテクノロジーの発展等で、今まで想定されなかったような、子孫を残していくというような技術的な方法に関しては今どんどん拡大をされているわけでありますけれども、リプロダクトの権利をどうとらえていくかというような議論もあったわけであります。

 そういったさまざまな分野で、これは人間が保障されるべき権利だという議論がある分野が新たに出てきているわけでありますけれども、新たな分野への対応として、憲法上保護される基本的人権というものの性質、冒頭の言葉に戻りますけれども、日本国憲法の現状の精神に承認されている範疇の中にあるべきものとして導かれるのか、新たに付加される要素があるのか、そのことについて御意見をいただきたいというふうに思います。

松本参考人 人権の範囲についてでありますけれども、先ほども申し上げましたように、日本国憲法の権利のカタログ自体は割合豊富でありますので、現在明文規定のある人権条項、それをまずよく見まして、そこから新しい人権と呼ばれるものが導かれるかどうかということを最初に考える必要があろうかと思います。新しい人権といっても、よくよく考えるとそれほど新しいことを言っていないということも往々にしてございますので、既にある人権の中に含まれた権利なのかどうかということを最初に確認する必要があるかと思います。

 その上で、既存の人権規定からはどうしても導けないという場合については別に考える必要がございまして、もちろん憲法を改正して新たな人権をつけ加えるというのも一つの方法でございますけれども、日本国憲法を初めとして多くの先進諸国の憲法というのは包括的人権条項というのを置いておりまして、仮に明文規定がなかったとしても、しかし既存の人権条項と同じくらい重要で、かつそれらの人権条項と整合性を持って説明できるような権利が観念できるとすれば、それは憲法上保障された人権として承認しても構わない、こういうふうに考えているわけであります。

 日本国憲法の場合は、それは憲法十三条の生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利というのがそうであるというふうに言われています。生命、自由及び幸福追求に対する権利というのは、その言葉自体は非常に抽象的でありまして、それ自体明確な中身を持っているわけではありませんで、むしろ、今申し上げたように、憲法に明文規定のない権利を根拠づけるための条項であるというふうに考えられています。それは、先ほどおっしゃったような条文の精神もそうでありますが、憲法全体の規定と整合的に解釈できるかどうかという観点から、そしてまた、ほかの人権条項と同じだけの重要性、重みを持っているかどうかという観点から判断した上で、包括的人権条項に根拠づけることによって、新しい人権というものを現在の日本国憲法でもって根拠づけることが可能になるのではないかというふうに考えております。

松野(博)小委員 個人の基本的人権を制約するためには優越する公共の福祉の概念が必要だというお話でありますけれども、基本的人権の制約の正当目的として挙げられている、優越する公共の利益についてお話をお伺いしたいと思いますが、例えばチャタレー事件の判例において、優越する公共の利益というのは、わいせつ文書の規制における性的秩序、最小限度の性道徳、健全な風俗の維持等が挙げられているわけであります。

 今列挙したような事由は、その時代ごとの価値観にかなり大きく影響を受けるものではないかというふうに思いますし、現実に、例えば今の雑誌のグラビア等の表現であれば、かつてであればとても認められなかったような表現が、相当今規制が緩やかになってきているように思います。

 不可侵の基本的な人権を制約する公共の福祉の概念が時代とともに変化をするものという概念でいいのかどうか、それに対して先生はどういうふうな整理をされているのかについて、お話をお伺いしたいと思います。

松本参考人 憲法上の権利も、時代の影響を全くこうむらないで済むというわけには恐らくいかないだろうと思いますが、ただ、おっしゃいますように、憲法上の権利というのは、やはり普遍性を標榜する必要があろうかと思います。ですから、十年、二十年ぐらいの時代の流れによって変化するということでは、これは憲法に規定することは望ましくないのではないかというふうに考えます。

 ですから、私が最初に申し上げましたように、立法の役割というのが重要だという話になるわけであります。人権は確かに普遍的でありましても、その人権を制限する公共の利益、こちらの方も時代とともに変化していくわけでありまして、この時代とともに変化していく公共の利益、これは法律に明文化することによって、一方においてその公共の利益を守る、そして他方において、それが時代おくれになったときに訂正するということが可能になるわけであります。

 国民的な広い賛同が受けられ、かつ、時代とともに変遷することがまず考えられないと思われるような普遍的な利益であれば、憲法上、明文化することに意味があると思いますが、時代の影響を受けることが明らかなものについては、これはもう憲法に取り込むことは不適切であろうというふうに考えております。

松野(博)小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、園田康博君。

園田(康)小委員 きょうは、参考人、松本先生の多面にわたるお話をいただいておりまして、大変参考になっているところでございます。あるいはまた、今までの学界の通説といいますか、議論の流れの中で、新たな規制目的あるいは規制手段の正当性を用いて人権規制に対する憲法判断を行っていくべきであるというような、私にとりましても本当に新しい視点としての御提言をしていただいたのかなという気がしております。

 そこで、まず学説、ただ、学説のさまざまな議論の中で、今まででしたら、一元的外在制約説であるとか、あるいは内在・外在二元的制約説、あるいはまた一元的内在制約説というようなさまざまな議論の流れがあって、その上で、先ほど先生も少し触れられましたけれども、憲法判断の中でいわゆる比較衡量論的な部分が出てきて、なおかつ、二重の基準ということに触れられていらっしゃったわけでございますけれども、少しこの二重の基準というものに着目して、私からは御質問をさせていただきたいというふうに思っております。

 まず、概念的な整理でいくならば、私の理解しているところで、一九三〇年代、三八年だったと思うんですが、アメリカの連邦最高裁の判例において出されたもの、ダブルスタンダードというものから派生をして日本に入ってきた理論であるというふうに考えているところでありますけれども、まずその二重という言葉の概念ですけれども、私の理解しているところでは、人権のいわゆる序列といいますか、そういう価値序列というものに対して、重なるという、二重という議論を使うことに関して、すなわち、上下関係あるいは前後関係が重なるということに出てくるわけでございますけれども、少し私は違うのではないかと。

 すなわち、人権に関しては、先ほど先生もおっしゃっておられたように、豊富な人権カタログがこの憲法典の中に組み込まれているわけでありますけれども、いわゆるどの人権に関しても、やはり対等に、あるいはそれなりに、それなりにといいますか、大変貴重なものとして扱うべきではないかというような気がしております。したがって、これは憲法の判断の中で、いわば取り扱いの違うものとして扱われてきたというふうに考えるのが妥当なものではないのかなと。

 そうなってきますと、二重というよりは、どちらかというと二種、種類ですね、二種の基準論として、この二重の基準というものをとらえなければいけないのではないのかなという気がしているんですが、先生の御意見をいただければと思っております。

松本参考人 二重の基準論は、先ほども申し上げましたように、裁判所が国会あるいは行政の行為を事後的に審査する場合に、どういう態度でもって国会、行政の判断を再判断するかというときに問題となる事柄でありまして、裁判所にとって特に意味のある基準であるということをまず御了解していただきたいと思います。

 ですから、議会が人権を制限する場合に、それが例えば精神的自由権であれ、経済的自由権であれ、人権の制限には変わりがないわけでありますので、それが許されるかどうかということはきちっと考えて、つまり、目的、手段、双方の側面からきちっと考えて行うべきであろうというふうに考えます。

 その上で、二重の基準についてお答えしますが、これは人権の序列をあらわしたものではないとおっしゃる趣旨は、私もそのとおりだろうと考えております。二重の基準論の通説的な見解においては、精神的自由権が経済的自由権に優越する、そういう理解もあるわけですが、先ほども述べましたように、例えばビラ張り規制においては、財産権を保護するために表現の自由を制限するというようなことが実際なされていますし、それが違憲であるという見解は非常に少ないわけです。やはり、幾ら表現の自由だからといって、他人の家に勝手にビラを張ってもいいかというと、やはりそうではないだろうと。

 そうすると、これは財産権の方が表現の自由よりも上にあるのかというと、これはそういう理解ではないわけでありまして、単に人権に価値の高いもの、低いものがあるという単純な理解をしてしまいますと、今言ったような奇妙なことが起きるわけです。ですから、そういった序列というような考え方で考えるべきではないというのはおっしゃるとおりだと思います。

 その上で、二重の基準論というのは、裁判所が議会あるいは行政の行為を事後的に判断する場合に、例えば表現の自由のような傷つきやすい権利については、当然、それなりに厚い配慮といいますか、十分な考慮をした上で行うべきである、そういう心構えを表現したものであるというふうにとらえるべきではないかというふうに考えております。

園田(康)小委員 そうしますと、例えば昭和五十年四月三十日の薬事法の薬局距離制限事件の違憲判決があったわけでございますけれども、こういった部分になってきますと、今までの二種の基準というか、ダブルスタンダードではなくて、もう一つ中間基準、いわゆる厳格な審査とそれから緩やかな審査とともに、中間基準としての厳格な合理性の審査基準というものが、ここで、ある種、二種から三種へとこの判断基準というものが出てきているのではないのかなという気がしているんですが、先生のお考えはどうでしょうか。

松本参考人 これは、学説上、基準というのをできるだけ精緻化していこう、そういう見解はございまして、おっしゃるように、三種の基準だという考え方もございます。

 ただ、私は実は、二重の基準という考え方、それ自体に必ずしも重きは置いておりませんで、二重の基準あるいは三重の基準というふうに細かく分けていっても、やることにそれほど大きな差は出てこないだろうというふうに考えています。

 薬事法の事例は、これは経済的自由、特に職業の自由の制限が問題となった事例でありますが、経済的自由であれば緩やかな基準で判断してもよいのかと言われると、やはり人権の制限であることには変わりはございませんので、きちっと判断するということに違いはありません。ですから、これで違憲判決が出たからといって、緩やかな基準よりも少し厳格な合理性の基準をとったのだというような言い方を仮にしたとしても、私自身は、そこにはそれほど大きな意味を認めるべきではないというふうに考えています。

 ただ、精神的自由権については、特に表現の自由については、傷つきやすいという性質を持っておりますので、その点の配慮が要るということに気をつけるべきであるというだけのことでありまして、経済的自由だからといって、緩やかでもよい、そういうふうに考える必要はないと考えております。

園田(康)小委員 なるほど。おっしゃるとおり、よく頭の中が整理できたと思っています。

 さらに、まず表現の自由の、先ほど来から出ております、いわゆる政治的に回復されにくいという脆弱性という性質がありますけれども、これは、本来精神的自由権全般に見られることではないのかなという思いと、それからさらに、表現の自由そのものの射程といいますか、憲法が予定している範囲というものに関して、まず、いわゆる表現をするための国民の知る権利、情報の発信の知る権利というものがあり、そして、言いたいことを言いたいときに言いたい場所で言う自由としての表現の自由が認められ、さらには通信の秘密と言われるものの過程があって、最終的には知る権利へと、今度は逆に情報の受け手の知る権利へという形で、情報流通の全過程まで射程にしているんだという考えに私も立っているわけなんです。

 さらに、そこでいくならば、やはり国民の知る権利というものの性質について、元来さまざまな議論がここの中で行われてきたんではないのかなというふうに思っているんですが、いわば自由権的な側面とそれから受益権的な側面において、知る権利そのものがなかなか憲法上明記しづらい権利であるというふうに議論がなされてきております。

 そこで、ただ、かといって、国民の知る権利というものをそのままほかっておくわけにはいかないんではないのかという思いから、その意義と本質、限界というものをここでしっかりともう一度明確にすべきではないのかというふうに私自身は考えております。

 そういきますと、もう一歩進めて、憲法上に国民の知る権利、新たなる人権という形で位置づけても余り意味がないという御指摘もあろうかと思われますけれども、ただ、そういう知る権利というものに対して憲法上明記を仮にするならば、自由権的な側面あるいは受益権的な側面から、どういう位置づけで憲法典の中に組み込むことができるのかということを最後に先生にお伺いしたいと思います。

松本参考人 表現の自由の射程につきましても、これはいろいろ議論がございます。

 とりわけ、情報の受け手の権利という観点から、つまり、情報の送り手の観点だけではなくて受け手の観点から表現の自由というのをとらえ直すべきだという意見には、これは私は説得力はあるというふうに考えております。

 その意味で、知る権利論というのは重要な議論ではあるわけですが、ただ、おっしゃるように、知る権利という言葉それ自体を憲法に明記したとしても、そこからどれだけ生産的な議論が引き出せるかという点については、これはなかなか難しいのではないかと思っております。むしろ、知る権利と言われているものの中にはさまざまな権利がございますので、それを一つ一つ分解して考えていった方がよいのではないかと思います。

 例えば、情報を受領する権利。送り手が情報発信した、その場合、その発信した情報は、遮断されなければそのまま多くの人々の手元に届くわけですが、特定の人のところには届かなかったときに、送り手の側の権利ではなくて、届かなかった受け手の側の権利が侵害されたという観点から論じるというやり方、これは一つあり得ると思います。いわば、情報受領権というものを観念いたしまして、その情報受領権が制限されているんじゃないか、こういう議論の仕方ですね。

 それから、情報というものは能動的に収集して回らないと手に入らないということもございますので、情報収集の権利というものを観念するということも可能かと思います。これは、従来、取材の自由という形で議論になっている事柄とも重なるわけでありますし、最高裁判所も、憲法二十一条の表現の自由の精神の中には取材の自由というものも含まれる、そういうふうな言い方をしております。ですから、情報収集の権利というもの、取材の自由というものを表現の自由の派生的なもの、派生的な権利として考えるということ、これは一つあり得ると思います。

 それから、もう一つ難しいのは情報請求の自由でありまして、これは自由とは言えない、請求権でありますので自由権とはまた異なる性質を持つものでありますが、これをどう考えるかというのは難しい問題であります。これは、憲法だけで解決できるかどうかというと、私は少し難しいかなと考えております。

 ただ、現在、例えば国のレベルでも、情報公開法というような法律が制定されまして、政府情報については公開請求権というものが国民に与えられております。こういう情報公開法の制定といったような形で、情報の公開請求権といったものを実質的に保障していくということが認められておりますので、私は、情報公開法の制定のような立法行為を通じて、一つ一つそういう請求権的なものも保障していくというふうに考えていけばよいというふうに考えております。

園田(康)小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、船田元君。

船田小委員 自民党の船田元でございます。

 松本参考人には、大変長時間にわたりまして我々の質問に答えていただいておりまして、ありがとうございます。これが最後でございますので、おつき合いいただきたいと思います。

 先生のお話の中で、私自身も大変感銘といいましょうか、大変目を開かせていただいたのは、公共の福祉という概念を多くの方々は大変漠然としたものとしてとらえている、そういう傾向が多いんですが、松本参考人は、特に目的、手段図式によってこれを再把握する、もう一度定義づけをしていこう、こういうお話がありました。大変これは参考になる話でございました。

 そこで、実際の現在の憲法の中での公共の福祉の表現されている場所をもう一回ちょっと検証し、お考えを聞きたいのでありますけれども、第三章、国民の権利と義務の部分がございます。その中で、第十二条と十三条、これは、公共の福祉ということを権利全般の中でどう扱っていくか、あるいはどう位置づけるかという非常に包括的な規定である。そして、それぞれの権利あるいは自由という項目の中では、二十二条の居住、移転、職業選択の自由などをそこで規定をし、それから二十九条、財産権のところで規定をしている。しかし、そのほかの個別のところでは、公共の福祉というものは特に意識をされて書いていない、こういうことになっております。

 これは、先ほどダブルスタンダードという話が出ましたけれども、例えば財産権にしても職業選択にしても、これは法的にいろいろと後ほど修正ができる、そういう権利であるから、これは公共の福祉というのを書いてもいいんではないか。逆に、精神的な自由にかかわるような非常に脆弱な権利あるいは自由ということについては、そのところで公共の福祉という言葉を書いてしまうと、それは公共の福祉の要素の部分が大き過ぎちゃって、本来の自由という部分が負けてしまうんじゃないか。そういう憲法制定当時の配慮があったのかな、こう私は解釈しているんですけれども、参考人はどのようにお感じでしょうか。

松本参考人 私も同じような理解であります。表現の自由を初めとする精神的自由権、これもまた公共の福祉による制限に服すということ、これは私も認めざるを得ないだろうと思います。

 二十一条には公共の福祉による制限を明示する規定はありませんが、しかし、公共の福祉による制限を全く受けないというふうに考えることは、これはできないだろうと思います。ですから、憲法は、十二条あるいは十三条の一般的な権利規定のところで、公共の福祉というのをやはり一般的に規定しているわけでありまして、二十二条や二十九条の経済的自由のところに規定しているのは、これは、なくても別に、特に不都合はなかったのだと思うんですが、しかし、経済的自由は、これはその行使が往々にしてほかの利益との衝突を起こしますので、特に傷つきやすい人権というわけでもありませんから書いたということだろうと思います。ですから、二十一条に書かなかったのは、おっしゃるように、憲法制定権者の政策的な判断だったのだろうというふうに考えます。

 理論的には、二十一条であっても公共の福祉の制限それ自体は免れないというふうに理解してよいのではないかと思います。

船田小委員 ありがとうございます。

 それでは、少し細かいところにちょっと触れていきたいと思うんです。先ほど平井議員からだったと思いますが、表現の自由の一つの形態だと思いますが、報道の自由、これが、いわゆるプリントメディア、新聞とか雑誌とかそういう部分では割と、かなり自由な状況であるけれども、一方で、電波、いわゆる放送の自由、そういう点においては、例えば放送法が極めて厳格に規定がございます、さまざまな規制もございます。これは、報道の自由、プリントメディアの自由と放送の自由というのを比較した場合に、かなり差が今でもあるのではないか、こういうふうに私は思っております。

 人によっては、放送の自由ということについては、昔は電波法などによって放送の流し手がかなり限定をされてしまって、ですから、それだけにやはり特殊な影響力を、非常に大きな影響力を持っている、そうなると、やはり放送については相当な規制が必要だったけれども、今は、例えばCATVとかCS放送、BS放送あるいはインターネットを通じた放送とか、いろいろな放送の主体がいっぱい出てきている、そうすると、これはもうプリントメディアの量とそんなに変わらないんではないか、だから放送法などによって放送の自由をある程度規制するということはそろそろ考えた方がいいんじゃないか、こういう議論もあります。また、逆に、いや、プリントメディアの方の自由の方が自由奔放過ぎちゃって、これはやはりもう少し規制をすべきではないか、こういう議論があって、私は両方存在すると思うんですが、参考人はこの議論に対してはどのようにお考えでしょうか。

松本参考人 非常に微妙な話でありまして、正確にお答えするのは非常に難しいんですが、電波メディアについては、最近、メディアが多様化してきているということもありまして、インターネットも普及していますし、BS、CS放送あるいはケーブルテレビといったものが普及してきたということもありまして、従来のような電波メディアの規制というものの根拠というものが揺らいできているというのはおっしゃるとおりだと思います。

 ただそれは、従来は、電波メディアは特殊なメディアであるというところから規制を強化するという方向で議論されていたのが、メディアが多様化することによってそれほど特殊なメディアではなくなった、だからむしろ規制は緩和すべきだという方向で議論されているということでありまして、私は、そういう方向性それ自体は間違えていないのではないかと思います。メディアが多様化すればするほど、それは規制を緩和する方向でいってよいというふうに考えますが、だからといって、現在の放送法をプリントメディアの規制と全く同じように扱うというところまでは、現在はまだいっていないのではないかというふうに考えます。

 プリントメディアの規制を強化すべきかどうかについても、これも少し具体的に考えないと一概にはお答えできないのですが、今のところ、特別の法律を設けて規制をしないといけないというような場面があるというふうには私は認識しておりません。むしろ、現在は表現の自由の規制の方がだんだん強化されつつある、そういう意見もございまして、そちらの意見にも私は聞くべきところがあると思いますので、今直ちにプリントメディアの規制を従来よりも特に強化すべきであるというふうには認識しておりません。

船田小委員 ありがとうございました。

 それから、これも先ほどちょっと同僚議員から出たと思いますが、いわゆるインターネットを初めとするサイバースペースが非常に拡大をしている、このように現代では表現をされておりますが、そういう中で、先ほどは表現の自由とサイバースペースとの関係という話でしたが、私は、通信の秘密とサイバースペースの拡大、これをちょっとお聞きしたいと思っております。

 過去におきましては、まさに、通信といいましても、これは送り手が一人、受け手が特定の一人ということで、一対一という関係が非常に強かったと思いますね。こういう時代においての通信の秘密というのは、これは割合守れるというんでしょうか、よほどのことがなければ保護できる分野であったと思っております。

 しかし、現在は、一対多数、これは放送などでは一対多数になりますが、サイバースペースでは多数対多数、しかも、それが非常に複雑に錯綜して情報の交換をやり合っている、こういう状況にありまして、この時代での通信の秘密というものは、先ほど先生からは、要するに、技術が新しくなっただけであって基本的な部分は変わらないだろう、こういうお話がありましたけれども、私は、どうも、この通信というものの量的な変化というのはもう飛び越えちゃって、それが質的な変化に変わっているんじゃないかというふうに思っております。

 そういう状況からすると、この通信の秘密という憲法上規定された文章あるいは概念を、公共の福祉あるいは公共の利益というものと絡ませて考えるならば、もうちょっと言葉を変えていく必要があるんじゃないかなという気が私にはしてならないんですが、いかがお考えでしょうか。

松本参考人 憲法は、二十一条の一項で表現の自由を保障していて、二項で通信の秘密を保障しているわけで、二十一条という同じ条文の中に表現とそれから通信というものが入っているので、似たような性質の権利である、こういうふうに受け取られがちなわけです。ただ、おっしゃいますように、現在、通信とそれから放送というものの境というのはますます不明確化してきておりまして、サイバースペースというのはまさに従来的な意味での通信の領域と考えるのは難しくなってきているかなというふうに思います。

 通信の秘密というものの憲法上の意味というのを考えますと、それは実はプライバシーの保護だったのではないかと私は考えております。憲法二十一条一項の表現の自由は、これはまさに表現の自由の保障でありますが、通信の秘密の方は、これはプライバシーの保護でありまして、保護される利益というのがもともと違っていたというふうに考えます。ですから、通信の秘密の考察とそれから表現の自由の考察というのは、これは分けて考える必要があるだろう。

 従来は、通信といえば通信の中身が非常に明確であったし、それから表現行為の方も、放送といったようなものの中身が非常に明確だったので混乱しなかったのですが、最近、技術の発展によって放送と通信の中身が融合し始めてきたために、通信だから秘密、それから、放送だから表現の自由、こういう区分けができなくなったということです。

 今後は、これはプライバシーを保護すべき領域なのか、それとも表現の自由を保護すべき領域なのかという二つの観点から考えて規制をするべきでありまして、通信だからとか、あるいは放送だから、そういう区別で考えることはできなくなっていくのではないか。ただ、プライバシーの保護あるいは表現の自由の保護というその二つの観点それ自体はなくならないので、この両方の側面があるので、それぞれの側面から規制の是非というのを考えていくべきではないかというふうに考えております。

船田小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 松本参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

    ―――――――――――――

山花小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行います。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、自席から着席のまま、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。

船田小委員 自民党の船田でございます。

 今も、公共の福祉ということについて、松本参考人から、大変新しい、斬新な切り口で分析をし、我々に大きな示唆を与えていただきましたが、やはり公共の福祉と人権あるいは自由という問題は、これは永遠の課題といいますか、いつまでにこういう議論をすればこういう結論が出るというものではない、その点では永遠の課題であると思っております。

 そういう中で、先ほど私が述べましたような、放送、それから報道、あるいは通信、そういう情報の送り手というものによって、その自由とかあるいはその規制というものが強くなったり弱くなったりということよりも、やはり、表現の自由、そして通信の秘密、何を守るべきか、そういうことに重きを置いた規制であったり、あるいは自由の保障であったり、こういう考え方が参考人から示されたことは、大変示唆に富むものであったということを一つ指摘したいと思っております。

 それからもう一つ、これはいずれ我々のこの憲法調査会の総会でも議論されると思いますが、学問の自由というもの、これはやはり、表現の自由あるいは良心の自由と同等に学問の自由というのは憲法の中で非常に重要な概念として規定をされていると思いますが、この問題につきましても、最近の、特に生命科学の発達、発展、そういうことによって人間の尊厳が侵されたり、あるいは直接生命や健康に対する危害が予測されたり、こういうようなことで、非常に、個人の人権以上に公共の利益というものが重要視される、あるいは重要視しなければいけない、こういう事態が今後起こり得ると思っております。ですから、公共の福祉あるいは公共の利益をどう守るかという観点を今後もう少し私たちは注意深く議論していく必要がある、このことも、特にきょうのお話の中で感じたことでございました。

 最後に、先ほど私の質問の中で、時間がなくてできなかったことなんですが、意見ということで申し上げてみたいのは、最近の各地域における、これはもう都会でも農村部でも同じでございますけれども、市民の安全が脅かされる、秩序が乱れている、こういうことが非常に大きな社会問題となり、また政治問題ということにもなっております。

 これは、国のレベルよりも地域のレベルとしまして、地方自治体のレベルとして、例えば、千代田区のポイ捨て禁止条例であるとか、くわえたばこ禁止の条例であるとか、あるいは防犯カメラを設置して、一般住民の監視というんでしょうか、監視カメラでウオッチングする、こういった、我々の、市民の安全を守るためにというさまざまな施策と、一方で、私たちの持っている基本的人権というものとのせめぎ合いがまた新たな形で起こってきているんじゃないか。このことを大変注目しております。

 こういった問題に対しても、我々はやはり、現代的な問題ということで、しっかりと、公共の福祉あるいは公共の利益をどう守るか、それから基本的人権をどう維持していくか、こういうことと非常に密接に関連をし、また、公共の福祉の部分を、私自身は、もうちょっと広く、あるいはもうちょっと実効的に認めていくという方向で議論することが非常に大事になってきているな、このように考えております。

 以上でございます。

園田(康)小委員 民主党の園田でございます。

 本日の松本参考人、先生からのお話は、私にとりましても、新しい視点からの憲法解釈というものを示唆していただいたというふうに思っております。

 そして、今船田委員からの御指摘がありましたので、私も、本日の議論の中で議論ができなかったものですから、学問の自由に関して少し私見を述べさせていただきたい、そのように思っております。

 まず、二十三条におきましては、「学問の自由は、これを保障する。」という一文しかございませんでした。しかし、この中でも、人類史の過程の中では、科学活動の対象や方法や内容、あるいは教授の自由というものでこれを深くとらえることができるのではないかというふうに学問上も議論がされてまいりました。その上で、大学の自治という制度的な保障がこの中に読み取れるものであるというふうに議論上はなってきております。

 しかし、残念ながら、憲法の条文上に大学の自治というものが書かれていないということで、私からは、大学の自治ということになってくると少し議論がトーンダウンしてきているのではないかというふうに思っております。したがって、今後、議論の中では、大学の自治というものを積極的に解釈、とらえて議論を深めていく必要があると思っております。

 例えば、東大ポポロ座事件の判例にも見られますように、大学と警察権との管轄権の問題、あるいは大学人の言論の自由、評論活動とそれから政治活動の線引き、あるいは産学協同と言われるさまざまな研究活動の中で、大学に占める科学活動がどういう段階まで自主性を保つことができるのかということを、もう一つ深めていく必要があると思っております。

 そこで、現在、大学の自治に関する制度的な保障の枠組みとして規定をもし設けるということであるならば、大学人としての研究、教授の自由に関して、人事と研究教育の方法、対象、内容、そして施設管理と財政処理の自律権、こういったものをしっかりと制度的な保障として今後明記をしていく必要があるのではないか。

 すなわち、先ほど申し上げた警察権、あるいは学生の主体、大学の自治の主体になり得るかどうかという議論も、こういった憲法の解釈上の混乱が今まであった、誤解があったということから、このような裁判例、判例というものが出てきたというふうに私は考えております。

 したがって、それらを予防するためにも、ぜひこの点は積極的に、憲法の中で明記できるかどうか、あるいはどのように明記をしていくべきであるのかどうかというものを深めていきたいというふうに考えております。

小野小委員 三点の指摘をさせていただきたいと思います。

 一点は、既に一部議論もございましたけれども、科学技術と人権の問題でございまして、先ほど、学問の自由の観点からの御指摘がございましたが、学問や研究が自由であるからといってそれが本当に無制限に自由であり得るのかどうかという点を、これからひとつ議論の俎上にのせる必要があるような気持ちがいたします。

 例えば、よく議論される原子爆弾等の開発。これは、学問においては、研究においては自由であるかもしれないけれども、それが進められたがゆえに多くの人の生存権を結果的に奪う可能性を持ってきましたし、現実に多くの人の命が日本においては奪われたという現実もあるわけであります。

 また、情報関係の技術の進歩というものが、非常に小型のテレビカメラまでつくられ、それが、伝送も自由にできるような技術も生まれることによって、思いもかけないところにカメラ等が設置をされていて、プライバシー権が非常に安易に侵されるような状況が生まれ始めてきているというような問題も生まれてきているわけでございまして、こういうような技術、科学的知見と言われるようなものの研究というものが、果たして本当に自由ということであり得るのか否か。これは、私は結論は今出せませんけれども、一つの問題提起としてさせていただきたいと思います。

 それから、第二点目の問題といたしましては、先ほど参考人から、権利侵害に係る問題については非常に個別の問題であり、その具体的な問題において調整されねばならない、それで、一方においては、法律において、もっと人権制限の議論というものについてはきちんと行わねばならない、こういうふうな部分の御指摘もあったわけでありますが、多様な権利というものが主張されるようになってくる中において、その権利調整と言われるものは非常に難しくなってきているという現実が起こっていることを改めて認識しなきゃいけないのではないでしょうか。

 そうなってまいりますと、果たして、法律という形でそれだけ複雑に入り組むような権利間の調整というのは可能なのか否かという問題もございます。また、ではそれが現実はどうかというと、司法の世界に持ち込まれて、そこで調整がなされるわけでありますが、司法における煩雑な手続を経ないとその権利調整ができないという形が果たして妥当な社会のあり方なのか否か。もっと簡明に調整される仕組みというようなものも社会の中に組み込んでいく必要性が生まれつつあるのではないかという気持ちがいたしました。

 それから第三点目には、私ども政治家も同じでございますが、公人と私人と言われる評価の問題も一つ論点としてあるような気がいたします。

 最近の話題としては、当然、田中眞紀子元外務大臣の娘さんのお話、きのうもそれに対しての一つの判断が高裁で示されたわけでありますけれども、どこまでが公人でありどこまでが私人であるのか、こういうところがあいまいなままに運用されれば、どんどん個人の権利が侵害されていくという可能性を持つわけであります。

 また、私ども政治家にしろプロ野球の選手やスターと言われるようないろいろな人たちにしろ、公的な活動をしている部分であっては公人だとしても、私的な活動をしているところまで公人としての扱いをされてプライバシー権が侵されるべきであるか否か、こういう点についても一つの論点があるような思いがいたします。

 以上、問題提起ばかりで、それに対してどうだという見解は特に今の段階であるわけではございませんが、このきょうの議論についての問題指摘だけをさせていただきたいと思います。

土井小委員 きょうは、松本参考人からの公共の福祉に対しての考え方というのをしっかり聞くことができた思いでおります。それは、間々公共の福祉と秩序維持というのが混同されまして、同じように考えられるという嫌いが今までにあったのじゃないかと私自身思うんですね。

 行政の側面で、人権に対してどのような姿勢で臨むかというときに、まずは規制が大事だと。規制の要素として考えられるのは、やはり秩序維持であると。なぜ秩序維持が必要ですかというふうなことを聞いた場合には、やはり公共のためにということを考えなきゃなりませんと。公共の福祉と秩序というのは、何か一体のもののような取り扱い、考え方というのがあったのじゃないかと思いますが、これはまるで違うと私はやはり思うんですね。

 簡単に言うならば、公共の福祉というのは、やはり人権そのものと矛盾しない。人権尊重という立場で、いかに人権を尊重していくかということを考えた場合に、きょうのお話では、公共の福祉という概念というのが意味を持つということがはっきりしたような感じがいたします。

 きょうの松本参考人も含めまして、このところやはり、改憲を急ぐ必要はない、何らないと。現在の憲法について、これを的確に理解をして、そして生かしていくという努力こそ、十二条、十三条、まさしく公共の福祉について関係のある条文を見た場合には、不断の努力こそ肝心ということがやはり切々と伝わってくるという御意見が相次いでおりますから、私は、その御意見を尊重しなきゃならぬとますます思うわけでございます。

 ありがとうございました。

中山会長 自民党の中山太郎でございます。

 きょうの松本参考人のお話を聞いておって、憲法の問題に関しても、立法府の法律による規制というものがやはり重要な時代がやってきているというふうな御意見があったかと思います。

 私は、この憲法も立派な憲法と信じていますけれども、ただ、一つ言えることは、憲法が制定された当時と現在との間に大きな格差が出てきている。それは、科学技術の発展ではないか。きょうも、放送に関する、プライバシーの侵害とかいろいろな問題が出てまいりましたけれども、憲法制定時には放送衛星もなかったし、通信衛星もなかったし、偵察衛星もなかった、こういったような状況と今日の状況とでは、もう格段の変化が起こってきている。

 特に、このごろ週刊誌とかいろいろなところで問題になってきておりますけれども、送り手と受け手の問題、先ほども船田元君が申されましたけれども、携帯電話の発達というものが驚くべき速度で出始めてきた。今、これが大変社会に影響を与えつつある。こういった問題も含めて、科学技術の発展、発達と社会の受ける影響、そして、それが憲法違反かどうかということを判断する裁判所の能力といったものに一つの大きな問題が潜んでいると思います。

 ちなみに、裁判官の学歴を調べてみると、理工系の出身者が大体八名ぐらいですね。こういう一つの、司法と立法と行政との間における、それから学問の世界における研究、これとの関連性というものを、将来、立法府としてどう考えていくのが必要なのかということをきょうは改めて痛感させられたということを申し上げておきたいと思います。

山花小委員長 他に御発言ございますか。

 それでは、討議も尽きたようでありますので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午前十一時三十一分散会


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