衆議院

メインへスキップ



第4号 平成16年5月20日(木曜日)

会議録本文へ
平成十六年五月二十日(木曜日)

    午後二時開議

 出席小委員

   小委員長 山花 郁夫君

      小野 晋也君    倉田 雅年君

      棚橋 泰文君    平井 卓也君

      船田  元君    松野 博一君

      園田 康博君    村越 祐民君

      笠  浩史君    太田 昭宏君

      吉井 英勝君    土井たか子君

    …………………………………

   憲法調査会会長      中山 太郎君

   参考人

   (関西大学法科大学院教授)  野呂  充君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

五月二十日

 小委員山口富男君及び土井たか子君四月十五日委員辞任につき、その補欠として吉井英勝君及び土井たか子君が会長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員棚橋泰文君同月十三日委員辞任につき、その補欠として棚橋泰文君が会長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員吉井英勝君同日委員辞任につき、その補欠として山口富男君が会長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 基本的人権の保障に関する件(経済的・社会的・文化的自由)


このページのトップに戻る

     ――――◇―――――

山花小委員長 これより会議を開きます。

 基本的人権の保障に関する件、特に、経済的・社会的・文化的自由について調査を進めます。

 本日は、参考人として関西大学法科大学院教授野呂充君に御出席をいただいております。

 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、野呂参考人から経済的・社会的・文化的自由、特に、職業選択の自由・財産権について御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、野呂参考人、お願いいたします。

野呂参考人 御紹介にあずかりました野呂でございます。よろしくお願いします。

 私、憲法を専門に研究している者ではございませんで、むしろ、都市計画などにかかわる具体的な法制度について勉強しながら憲法の財産権保障についても考えてまいった者でございまして、この場でお話をさせていただくこと、適任かどうかわかりませんが、日ごろ勉強してまいったことを少しでもお役に立てればと願っております。

 それではまず、レジュメに沿いまして、レジュメのIからお話を始めてまいりたいと思います。IとIIでは、経済的自由について、やや概論的なお話をごく簡単に申し上げたいと思います。

 まず、経済的自由と精神的自由という対比、これは皆さんもよく御存じのことと存じますが、精神的自由に比べまして、経済的自由というのは比較的緩やかに制限ができる、制限されやすい権利であるといったことが指摘されております。この一つの理由としては、特に資本主義経済の発展に伴いまして経済的格差が拡大してまいりますと、弱者の保護でありますとか、それから実質的な平等を図るために国家が介入する必要が出てくるといった、そういった歴史的な背景がございます。

 ただ、一つここで申し上げたいのは、特に土地所有権については、一般的な経済的自由とは少し違った要素があるということでございます。つまり、土地所有権というのは、土地という財産に特有の、いわば普遍的な制限というものがあるわけでございまして、一般的な経済的自由の理論には解消できない特殊性があるということを申し上げておきたいと思います。

 次に、経済的自由そのものについてでございますが、その経済的自由には、主なものとして、職業選択の自由それから財産権、これはそれぞれ憲法二十二条と二十九条に規定をされているわけでございますが、この二つがございます。

 職業選択の自由につきましては、これは事務局で御作成いただいた資料に的確な説明がございますので余りつけ加えることはございませんが、一つ申し上げておきますと、二十二条に、特に二十二条第一項に保障された人権の中でも職業選択の自由、これは営業の自由も含むと考えられておりますが、職業選択の自由は経済的自由でございます。それに対して、居住、移転の自由、こちらは、経済的自由には解消できない精神的な自由の側面も含む自由である、人権である、そのように考えられているということでございます。

 次に、財産権でございますが、これは憲法二十九条第一項から第三項に規定されているわけでございます。

 まず最初に、レジュメのアとしまして、財産権の保障と法律による財産権の内容形成という論点に簡単に触れておきたいと思います。これは憲法二十九条一項と二項との関係にかかわる論点でございます。

 二十九条一項では、「財産権は、これを侵してはならない。」財産権を憲法上保障するということを述べているわけでございます。ただ、これに対して、第二項では、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」と述べられております。

 なぜこのような規定が必要かと申しますと、一つは、財産権というのは、他の、例えば表現の自由でありますとか人身の自由と違いまして、法律、特に民法のような法律によって財産制度を定めることが前提になっている。法律で財産権を定めないと、そもそも財産権というものが出てこないという面があるからでございます。

 ただしかし、第二項によって、法律でどのようにも財産権の内容を定めることができるとなりますと、憲法で財産権を保障する意味というのが非常に弱くなってしまうという問題がございます。そこで、従来の学説は、法律によっても侵し得ない財産権の保障というものがあるんではないか。そういう防波堤を何らかの形で築こうとしてきたわけでございます。

 そして、その防波堤の内容としては、いろいろなものがございますけれども、一つの従来有力であった考え方は、二十九条一項は、資本主義経済でありますとか市場経済を保障している、法律でこうしたものをなくしてしまうことはできない、そういった考え方があったわけでございます。ただ、これに対しては批判もございますし、唯一の考え方ではございませんが、このような議論があったということだけ御指摘申し上げたいと思います。

 次に、イに行きまして、財産権の制限と損失補償との関係でございます。これは二十九条第二項と第三項との関係にかかわってくる問題でございます。

 つまり、先ほど財産権にも、制限については二十九条一項によって何らかの防波堤を設けておこうという考え方があると申し上げましたが、二十九条三項がもう一つの防波堤を設けているわけでございます。

 例えば、公共事業のための土地収用のように、特定の者の財産権を公共の福祉のために剥奪してしまうような場合、つまり、非常に不平等な負担が特定の者に課されるような場合には、必ず補償しなければならないということを二十九条三項で定めているわけでございます。二十九条二項による財産権の内容の規定、これは一般的に財産権の内容を定めるわけでありますから補償は要らないけれども、特定の者に不平等な負担を課すようなそういった国家の行為については補償が要る、そういった区別が一応できるわけでございます。

 ただしかし、財産権、国家による財産権の制限の内容が多様化してまいりますと、一般的に財産権の内容を定めるのか、それとも個別的に財産権を剥奪するのか、そういった単純な区別ではうまく整理ができなくなってまいります。

 例えば、ため池の堤防で農耕や建築をすること、これを災害の防止を理由に禁止するといった場合、この場合には補償は要らないと解されております。他方で、文化財、例えば法隆寺の周囲で、その文化財の環境を守るために土地の利用を制限する、高い建物を建ててはならないといった制限をする場合、この場合には補償が要るというのが一般的な考え方でございます。

 ただ、これを、どちらが内容規定でどちらが個別的な侵害かというふうに区別することは難しいわけでありまして、少し別の基準を用いて補償が要るか要らないかを判断せざるを得ないと考えられているわけであります。そこで、現在では、ある財産権の制限が一般的な内容規定か、それとも個別的な侵害かというのではなくて、それが特別の犠牲に当たるかどうかによって補償が必要かどうかを判断するということをしております。

 特別の犠牲の内容というのもこれ自体いろいろ議論がありますけれども、一つは、どの程度強い制限、侵害が財産権に加えられるかという制限の強さの問題、それからもう一つは、制限の目的から見て、財産権者、所有権者のみに負担を課すことが妥当かどうか、そういった実質的な観点、この二つによって判断するというのが現在の有力な考え方だろうと考えております。

 これを前提にしまして、これからが本日の主たるテーマになりますけれども、都市計画や景観保護と財産権の保障との関係について、ドイツと日本を比較しながら申し上げていきたいと思います。

 ここからのお話は、あらかじめ先生方にお配りいたしました「委託調査報告書」の内容にほぼ沿って、かいつまんでお話をしていくような形になります。

 まず、ドイツと日本のまちづくりを比較してみますと、特にドイツのまちづくりについては、かなり日本と違ったものであるといった印象を受けます。とりわけ、都市の内部と外部が非常に明確に分かれている。そして、外部に行きますと、建物とか広告物といったものが見事なほど全くない。他方、都市の内部に行きますと、建物の形でありますとか色というのが統一性がある、または調和している、そういった特徴がございます。

 こうしたまちづくりが行われている理由としまして、もちろん歴史的、地理的、文化的な違いというのも無視できないわけでございますが、しかし、それだけでは解消できない法制度の違いというものもあるのではないかと考えているわけでございます。

 そこで、以下、もう少し具体的に申し上げていきたいと思います。

 最初に、一般的な都市計画制度の比較でございますが、一般的な都市計画制度を比較してみますと、比較する際にまず重要なのは、新規開発、それから建築をどのようにコントロールしているのかという問題でございます。そして、この点が特にドイツにおいては特徴的でございまして、計画なければ開発なしと言われる原則が妥当しているわけでございます。つまり、どういったものかと申しますと、既成の市街地以外の場所で新たに開発、建築をしようとする場合には、市町村が詳細な都市計画を定めてからでないとそれを行うことはできない、こういった仕組みが法律によって形成されているわけでございます。

 これと対比しまして、日本においては、開発ないし建築の自由の原則というものが妥当していると言われます。つまり、日本におきましては、都市計画法その他の法律で具体的に地域を指定して初めてドイツのような厳しい制限を行うことができるわけでありまして、いわば最初から原則と例外が逆転しているわけでございます。その結果として、どうも都市計画というのはしばしば後追い的に、後を追いかけて規制をするといったような形になっているわけでございます。

 それからさらに、具体的な都市計画のシステムに、レジュメのイでございますけれども、話を移してまいりたいと思います。

 ドイツの都市計画の中心は何かと申しますと、これは地区レベルの詳細な計画であります、Bプランというふうに普通言われますが、Bプランをコアにした二段階の計画が用いられているということが言えます。このBプランというのは、市町村が策定するものでございまして、極めて詳細にその地区の将来像を描くものでございます。そしてさらに、このBプランを策定する前提としまして、市町村の全域について、Fプランと言われるマスタープランを、これも市町村が策定する、そういったシステムが用いられております。

 そして、ドイツにおきましては、今申し上げたBプランと、それから、先ほど申し上げました計画なければ開発なしの原則が組み合わさることによりまして、市街地が拡張していく際に必ず詳細な計画を策定して、そして、長い時間をかけて現在のような町並みを形成してきたということが言えるわけでございます。

 これに対して、日本の都市計画の中心は何かと申しますと、やはり用途地域制度、都市計画法に基づく用途地域制度が中心になっていると言えるのではないかと思います。

 ただ、この用途地域制度というのは、Bプランとは違いまして、最低限の一般的な基準、一般的な抽象的な基準を定めるだけでございまして、具体的な地区の将来像というのを描くものではございません。日本にも、都市計画法に比較的新しい制度としまして地区計画という詳細な計画制度がございますが、これはあくまで必要に応じて用途地域などに上乗せをして規制するにすぎないものでありまして、それほど広く用いられているわけではない、こういう違いがあるわけでございまして、そうしたところから、どうも日本の町並みというのは統一性に欠ける、またはスプロール的な開発を十分コントロールできないといったことになっているわけでございます。

 次に、こうした都市計画の制度を前提としまして、都市景観に関する法制度の比較をしてみたいと思います。

 まず、都市景観に関する法制度のうち、ドイツの法制度について見てまいりたいと思いますが、ドイツの都市景観に関する法制度は、大きく三つに分けて整理することができるのではないかと考えております。

 一つは記念物保護法制でございまして、これはおおむね日本の文化財保護法に相当するものでございます。ただ、記念物保護法制というのは、すべて州の法律で定められておりまして、多少州によって違いはあるわけでございますけれども、個々の建造物だけではなくて、歴史的な古い市街地、そういったものを面として保全する、こういったことを可能にしているわけでございます。そして、日本の文化財保護法制にも同じような制度があるわけですが、この点では共通するものがございます。

 次に、二つ目としまして、都市景観に深いかかわりを持った制度として、先ほど既に申し上げましたBプランの制度がございます。このBプランというのは、先ほど申し上げましたように、地区の建築のあり方を非常に詳細に計画するものでございますから、建物の高さとか、それから建物の敷地内の位置、こうしたものがドイツなどヨーロッパの町並みでは統一性があるわけでございますが、こうしたものはこのBプランによって基本的に実現されているわけでございます。特に、日本の都市景観といいますと、よく高さの問題がクローズアップされるわけでございますが、こうした高さの問題というのは、基本的にBプランによって解決をされているということになります。

 ただ、ここで注意する必要がございますのは、Bプランというのは、こういう高さとか敷地内の建物の位置については規制をできるんですけれども、個々の建築物をどういうデザインにするか、例えば屋根の色をどうするかとか、または、平たい屋根にするか、それとも切り妻の屋根にするか、こういったことについてはBプランで定めることはできません。他方、日本の地区計画というのは、建築物の意匠についても定めることができるとされておりまして、地区計画に比べますと、Bプランというのは定めることのできる範囲がある意味狭いということになります。

 これはなぜかと申しますと、Bプランというのは市町村が定める計画ではありますが、連邦の法律に基づいて定める計画でございます。ところが、こうした個々の建築物の意匠、デザインといったものは、これはドイツの憲法上の問題なんですけれども、連邦の法律に基づいて定めることはできずに、州の法律でこれについて根拠を置かなければならない、そういった仕組みになっているわけでございます。

 そこで、では、具体的に建築物のデザインについて定める法制度は何かと申しますと、次の建築規制法制というものになるわけでございます。つまり、各州が建築規制法と言われる法律を定めまして、これに基づいて建築物の細かな規制を行っているということになります。そして、この建築規制法制について特に特徴的でございますのは、これは私のネーミングでございますけれども、二段階規制システムとでもいうべき仕組みが存在していることでございます。

 まず第一段階は、直接法律に基づいて行われる醜悪化の禁止でございまして、これは、地域の限定なしに、あらゆる建築許可について醜悪化してはならないということが要件とされているわけでございます。この醜悪化という概念、これは主観的なものでございまして、非常に難しいわけですが、ドイツの判例によりますと、平均的な美的感覚を持った者がいわば目を背けたくなるようなひどいデザイン、平均的な人であれば見たくないと思うような、そういったひどいものを禁止する、そういった趣旨でございます。

 これに対して、さらに、もっと美しい町並みを実現しようといったことで規制を設ける場合には、これは市町村が条例を制定しまして、条例に基づいてより積極的な景観の保護や形成を行うということになっております。

 このように、二段階の仕組みによりまして、都市の景観保護・形成を行っているわけでございますが、もう一つ興味深い点は、特にこの景観保護のための条例につきまして、Bプランの制度と一体化することが可能になっているということでございます。つまり、Bプランというのは連邦の法律に基づく制度であり、建築規制法は州法でございますけれども、運用上それを一体化して、同時に一つの条例として制定することができるわけでございます。これによりまして、一つの地域を総合的に計画するということが可能になりますし、また、Bプランと一体化するということは、これは計画なければ開発なしの原則と結びつくことでございますから、新しく市街地ができるときにBプランをつくり、また景観条例もつくって景観についても定めていく、そういったことが可能になっているわけでございます。

 これに対して、日本の法制度がどのようになっているかと申しますと、まず、先ほど申し上げましたように、文化財保護法を中心とした幾つかの法律によりまして歴史的町並みを面的に保全するということが行われまして、これはかなりの成果を上げているのではないかと思っております。

 これに対して、都市計画法それから建築基準法にも景観保護・形成のための仕組みがございます。都市計画法上の美観地区でありますとか地区計画の制度、それから建築基準法上の建築協定の制度がございます。しかし、これは、率直に申し上げて、景観保護のためには十分活用されていないという指摘がございます。この一つの大きな原因としましては、ドイツのような計画なければ開発なしの原則が存在しないために、こういった制度を用いるときは、既に存在する町並みについて後からいわば上乗せをして規制するという形にならざるを得ない。しかし、既に人が住んでいる町並みについて後から規制をしようと思っても、なかなかそれは容易なことではないわけでありまして、そこが一つのネックになっていると言わざるを得ないわけであります。

 そして、では多くの地方公共団体などで景観保護のために何がなされているかといいますと、法律に基づかずに、自主条例によりまして景観条例と言われるものを制定いたしまして、景観政策を進めているという状況がございます。ただ、これは自主条例でございますし、またなかなか市民の強制的な景観規制に対する理解が得られないということもございまして、一般的に強制力のない、いわゆるお願い条例が多いという状況になっております。

 もちろん、景観行政において、行政が一方的に特定の景観をすぐれたものであると決めて、そしてそれを強制するということは、これは適切でもないし、不可能であると思うわけですが、すなわち住民の理解と協力というものを得て景観行政を進めていくことは当然のことでございます。しかし、全く強制力がありませんと、多くの者が景観保護のために協力していても、ごく一部の者がそれに従わないと、結局多くの正直者が損をするといったことになってしまうわけでございまして、こういった仕組みで本当にそのままでいいのかどうかという問題が残るわけでございます。

 そこで、現在、景観三法に含まれる景観法案というものが出されまして御審議いただいているところかと思いますが、この制度というのは、ある意味、従来の制度をいろいろな意味で改善し大きく進めるものであるということが言えます。ただしかし、現在の景観保護にとってネックになっております、計画なければ開発なしの原則がないもとで従来の制度を改善してもどうしても限界が残るのではないか、そういった懸念は抑え切れないわけでございます。

 したがって、これからの一つの方向としては、景観規制のための制度を整えるだけではなくて、計画なければ開発なしの原則に少しでも近づくような制度改革を進めていくことも同時に必要ではないかと思っております。例えば、市街化調整区域を市街化区域に編入する場合でありますとか、用途地域の指定がえによって容積率をアップするときでありますとか、または既成の市街地で再開発事業が行われたとき、そういったような場合に、その後で地区計画のような詳細な計画を設けて具体的に地区像を描いていくことを進めていく、場合によっては義務づけていく、こういった形で徐々に制度を改革していく必要があるんではないかというふうに思っております。

 このように、ドイツと日本ではいろいろな制度の違いがあるということを申し上げたわけでございますが、最後に、では憲法による財産権保障とこういった制度の違いがどういった関係を持っているのかということについて申し上げたいと思います。

 まず、日本国憲法二十九条とドイツの憲法でございますボン基本法十四条の財産権保障について比較してみたいと思います。ボン基本法の条文についてはレジュメにも書いたとおりでございます。

 さまざまな条文の違いがあるわけでございますが、その中でも特に注目を引くのは、ボン基本法十四条第二項、所有権は義務を伴うんだ、こういった規定がございまして、これについては日本の憲法二十九条には規定されていないものでございます。ただしかし、最終的な結論としては、私は、この規定というのは、実際の具体的な法制度をつくっていったり憲法を解釈する際には決定的な違いにはならないのではないかというふうに思っております。

 といいますのは、ここで言う「所有権は義務を伴う。」というのがどういった意味を持った条文かと申しますと、所有権というのは絶対的なものではなくて、それを乱用してはならない、何らかの制限が伴うんだということを言っているわけでございます。そうしますと、日本でも当然、都市計画法その他の法律によりまして、財産権、土地所有権というのはさまざまな形で制限されているわけでございまして、いわば当たり前のことを念のために強調しているにすぎないという見方ができます。

 それからもう一つ、こういった規定が憲法に盛り込まれた歴史的な背景を探ってみますと、もともとはワイマール憲法にこういった規定が初めて採用されたわけでございます。ただ、ワイマール憲法がなぜこのような規定を置いたかと申しますと、その背景には、所有権についてのゲルマン法的な考え方とローマ法的な考え方の対立がその背景にあったと言われているわけでございます。

 ゲルマン法的な考え方とローマ法的な考え方は何が違うかと申しますと、ゲルマン法というのは、所有権の概念の中に最初から何らかの制約、義務というものが含まれているという考え方でございます。これに対してローマ法的な考え方というのは、所有権、特に民法上の所有権は原則としては無制限な絶対的なものである、まずは絶対的な所有権というのを民法上確立して、そして、ただ、所有権の制限というのは公法などによって外から、後から加わるんだという考え方でございます。

 したがって、最終的な結論としては、所有権に何らかの制限が加わるということは、これはゲルマン法的な考え方でもローマ法的な考え方でも変わりがないわけでありまして、ただ概念の組み立て方の違いと言ってもいいわけでございます。

 ところが、日本ではローマ法的な所有権の絶対性という言葉がどうもひとり歩きをしている嫌いがございまして、もともと所有権というのは、実際の法制度を見てみますと、さまざまな形で制限されているわけでありまして、絶対的であるわけがないんですが、しかし、どうも所有権の絶対性というものがスローガンとしてひとり歩きして有効な制限を阻害する、そういった役割を果たしていたのではないかといった印象も持っているわけでございます。

 次に、ドイツの判例による憲法解釈でございますが、ドイツの判例においては、特に憲法の解釈においては、土地所有権の特殊性というものを強調する、そういった考え方が出てきております。

 一つは、土地というのは不可欠であり、そして有限である、そういった特殊な財産であるから、ほかの財産以上に強い社会的制約を帯びている、そういった考え方でございます。

 それからもう一つは、状況拘束性理論というものでございます。これは、土地というのは、その土地が置かれた周囲の状況でありますとか、または従来の利用方法によって許容される利用方法が変わってくる、土地一般というものは書かれずに、具体的な土地ごとに利用可能性が変わってくるんだという考え方でございます。これは、例えば東京のど真ん中の土地と世界遺産になっているような貴重な自然の中にある土地とが全く同じように利用できるということはあり得ないという、いわば当然のことを言っているわけでございます。

 ただ、こうした考え方が日本の法制度にとって全く異質なものかというと、決してそうではないわけでございます。一般論ではございますが、例えば土地基本法の最初の方にはこういった考え方も既に取り入れられているわけでございまして、こうした土地の特殊性を強調するということは決して日本法にとっても一般論としては異質ではないと言うことができます。

 では、なぜ違いが出てくるのかということを、もう少し具体的な法制度との関連で見ていきたいと思います。

 まず、日本においては建築の自由の原則というものがあるというふうに先ほど申し上げました。そして、最近の研究では、日本の従来の都市計画制度においては必要最小限度規制原則というものが妥当している、必要最小限しか規制しないという思考があるというふうに言われているわけでございます。

 ただしかし、それだけではなくて、なぜ建築の自由の原則を克服できなかったかということをもう少し、土地所有権のあり方について具体的に見ていく必要があるのではないかと思うわけでございます。

 それがレジュメの次でございまして、財産権の保障の重点がどこにあるのか。つまり、価値に重点を置いて保障するのか、利用に重点を置いて保障するのか、こういった違いがどうもドイツと日本ではあったのではないかというふうに思うわけでございます。

 ドイツの都市計画法制において定められております補償規定、どういう場合に補償するかという規定を見てまいりますと、どうも日本の都市計画法などと比べて、土地を資産として保障する、それも一つ必要なことでありますけれども、それ以上に、資産よりもどう利用するかという点に重点を置いて土地所有権を保障しているように見えるわけでございます。それからさらに、例えば土地の利用を規制するときに損失補償をすべきかどうかということを判断する際に、土地所有権者の個別的な事情を考慮した上で補償するかしないかを決めているという特徴がございます。

 もう少し具体的に申し上げますと、例えば、従来、法的に許容されていた、法的に可能であったけれども実現していなかったような利用方法が新しく規制されてできなくなった、そういった場合に、例えば地価がそれによって下がったからすぐに補償するのか、必要があるのかというと、ドイツの法制度では必ずしもそうなっておらずに、土地所有者が本当に従来許容されていた利用方法を実現する意思と能力があったのかということを審査して、本当に利用する意思があったのであれば補償するといったようなことが一部ではなされているわけでございます。これは必ずしも都市計画だけに限ったものではございませんが、ある財産について補償すべきかどうかを決める際に、その財産が自分の能力や努力によって形成された財産かどうかということも考慮するわけでございます。

 これについては、例えば一つの例としまして、先祖が植えて自分の庭に大木があった、現在の所有者としては、先祖が植えてくれたものだけれども、これを材木として売ってお金もうけをしたいと思っていた。ところが、その木が非常に貴重な木であるということで、天然記念物に指定されて伐採してはならないということになった場合、そういった場合に補償すべきかどうかということを考える際に、その財産ができるに当たってその本人、現在の所有者がどれだけ貢献しているかということも考慮する必要があるんじゃないかということが言われているわけでございます。ところが、日本の場合にはそういった点は余り考慮せずに、単に資産としての価値が失われたらやはり補償しなければいけないという思考が強過ぎたのではないかと思うわけでございます。

 そうなりますと、計画なければ開発なしの原則を広げていこうとする場合に、都市の外部にある利用されていない土地に新しく規制をかけるということになるわけでございますが、資産としての価値が失われたらすぐに補償しなければいけないという考え方に立っておりますと、計画なければ開発なしの原則を広げるということは非常に難しいということにならざるを得ない。そうではなくて、本当に土地所有者が利用する意思があるのか、また、土地所有者の自分の努力によって形成された財産かどうかということも考慮するのであれば、従来利用されていない土地の現状を固定するといったことは比較的容易になるのではないかというふうに思うわけでございます。

 最後に、景観法制に即した検討でございますが、日本においては、先ほど申し上げましたように、強制力を持った景観保護というのは非常に例外的、限定的なものとなっているわけでございます。そのようなものになっている一つの原因としては、既に述べましたように、計画なければ開発なしの原則がないために、後から上乗せで規制しようと思ってもこれはなかなか難しいということがございます。

 ただ、もう一つ、理論的なネックとしましては、特に従来の学説においては、景観といういわば主観的な利益というのは、財産権を強制力を持って制限する、そういった根拠としては十分ではない、弱い、そういった思考があったのではないかと思うわけでございます。

 それでは、例えばドイツを初めとするヨーロッパ諸国では強制力を持った規制をしているわけでございまして、どうしてこういったことが正当化されるのかという問題が出てくるわけでございます。これについては、従来それほど明確に説明した研究があるわけではございませんで、これは私なりの理解でございますけれども、土地所有権の特殊性というのをどこまで突っ込んで考えるのか、そういった問題があるのではないかと思うわけでございます。

 土地所有権の特殊性というのは、もう一度整理しますと、不可欠であるけれどもふやすことができない、しかも動かすこともできない。さらに、土地というのは相互に隣り合っておりまして相互に影響を及ぼす、そういった特殊な財産であります。言いかえますと、土地というのは確かに私的に所有されているけれども、いわば地域という公共的な空間を形成する、そういった公的な存在でもあるわけでございます。そして、このような土地の特殊性というのを前提にしますと、次のような土地利用の制約というのが出てくるのではないかと思うわけでございます。

 つまり、土地所有者というのは、やはり原則としては自分の土地を自由に利用する権利がある。そして、赤い家を建てようと黄色い家を建てようと自由であるわけでございます。しかし、土地所有者は自分の望むデザインをある特定の場所で利用する権利までは主張できない、そういったことが言えるのではないかと思うわけでございます。

 つまり、利用できるけれども、例えば二階建ての家を建てることはできるけれども、しかし、黄色い家にするか赤い家にするかというのは、これはある程度周囲の状況によって、周囲に調和するように利用しなければいけない。もしどうしても自分の好むようなデザイン、色というのが、ある特定の場所で実現できないのであれば、それは別の場所に移動してその利用を実現する。つまり、土地利用のいわばすみ分けをしていく、そういった制約というものを土地所有権というのは帯びているのではないかと思うわけでございます。

 つまり、従来の議論というのは、ある土地の利用の方法、あるデザインというのを特定の場所で実現させるかさせないかという、いわばゼロサム的な思考が強かった。しかし、そうではなくて、土地の利用のあり方というのはある程度調和するようにすみ分けをしていく必要があるのではないかということでございます。

 ただ、こうしたことを言うためには、二つの前提が必要であると思っております。

 一つは、こうしたすみ分けを図る際に、土地所有者に追加的な、プラスアルファの経済的な負担が生じないということが前提であります。例えば、ある場所において少なくとも木造二階建ての家を建てたい、その木造二階建ての家を建てること自体は禁止されていない。しかし、周囲に調和するように黒いかわらの屋根にしてくれという制約がかかってくる、本人はどうしても白い平べったい屋根の家を建てたい。そういった場合には、どうしても白い平べったい屋根の家を建てたければほかの場所に行って建ててくださいということになるわけでございまして、ただ、その人は黒いかわら屋根でよければその場所、自分の望む場所で家を建てることができるわけでありまして、経済的にはプラスアルファの負担はかからないとなるわけでありまして、経済的負担ない限りにおいて、別の場所に移動して土地を利用することを求めてもいいのではないかということでございます。

 それともう一つは、特にこの景観の保護・形成ということにかかわってでございますが、保護・形成されるべき望ましい景観というものが、上から一方的に強制されるものではなくて、いわば地域住民の参加によって、自主的な秩序形成によって生まれた、そういったものでなければならないというふうに考えております。これは、特に景観という利益がかなり主観的なものに依存するからでございまして、こうしたものを住民の意向を無視して一方的に強制するということはあってはならない。それを前提にして、特に景観保護に当たっては、地域ごとのいわばすみ分けというものを求めていってもいいのではないか、そのように考えているわけでございます。

 私の方からは、以上で終わらせていただきます。(拍手)

山花小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

山花小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。小野晋也君。

小野小委員 きょうは、野呂参考人には、景観問題を中心としての財産権問題、いろいろな論点を提示いただきました。そのお話をお伺いさせていただきながら、ちょっと漠然とした御質問になるかもしれませんが、基本的なお考えをお聞かせいただきたいと思った次第でございます。

 まず第一点目は、この財産権の規定でございます。

 憲法第二十九条に触れられている規定ということになろうかと思いますけれども、この財産権は私たちの社会生活上非常に重要な要素であり、しかも、この財産権をめぐってはさまざまなお互いの対立関係、争い、所有権をめぐる問題等々あるわけでありますけれども、それがこの程度の憲法の記述で十分なのであろうかというような根本的な疑問があるわけですね。

 限られた資源というものを個人が所有するということは、限られたものをお互いが分け合っていくわけでありますから、多くを所有する、また優先的な、有利なものを何か所有するということには、当然のことながら、社会的にそれをうまく活用する責任といったものが付随するような気がいたすわけでありますが、憲法の規定では、「財産権は、これを侵してはならない。」ということを述べて、それの使い方、そしてさらに、補償を行えば公共のために使えると書いてはありますが、もっと積極的に、この財産権というのは社会生活を営む上の基本的なものであるという認識に立ったときに、その所有者の責任、義務というものを書き込むということがあっていいのではないかという率直な思いを持つわけでございますが、参考人の御見解はいかがでございましょうか。

野呂参考人 これは非常に重要な問題でございまして、確かに、財産権というのは相互に対立をする要素がある。また、財産権というのは、先ほども申し上げましたように、一部に偏る、そういったこともあるわけでございます。

 ただ、まず憲法の条文から見てまいりますと、第二十九条第二項によりまして、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」といったことがあるわけでございまして、法律によって財産権の機能と申しますか調整の仕方というのを定めるということを憲法も認めているわけでございます。

 そして、やはり財産権というのは、今も申し上げましたように、土地の所有権と例えば宝石を持っている権利というのは、同じ財産権といってもかなり違いますし、また、一人で東京ドームぐらいの土地を持っている人もおれば、本当に一家で住んでいくだけの土地しかない人もいる、そのように多種多様な財産権があるわけでございまして、それを調整していくというのは非常に微妙なバランスを、複雑な判断を強いられるわけでございまして、やはりこれを具体化するのは、私の意見としては、立法府によって十分議論をして、法律によって具体化していくしかないのではないか、これ以上詳しい規定を置くというのはなかなか難しいのではないかというふうに思っております。

小野小委員 それでは、この条文の言葉、先ほど御紹介いたしましたとおり、「財産権は、これを侵してはならない。」とだけ書き込まれておりますが、土地の問題等も参考人から触れておられましたが、公共の福祉に反する場合は財産権は制約を受ける、こういうふうな条文を書き込むということについては、御所見はいかがでございましょうか。

野呂参考人 確かに、そのような考え方自体は私も全く賛成でございまして、ただ、二十九条第二項を見ますと、公共の福祉に適合するように定めるということは、これは法律によって財産権の限界を動かすことができるということでございますから、もう既に基本的には二十九条二項に同じ趣旨のことが規定されているのではないかというふうに思っております。

小野小委員 それでは、公共の福祉という言葉に対して御所見をお伺いしたいと思うわけでございます。

 この公共の福祉という言い方というのは、例えば地方自治を規定する条文において、地方自治の本旨に基づき、のっとり、こういうふうに書かれていると同じく、条文としては上がっているけれども、その内容ということは決して憲法において規定していないというような性格の言葉だろうという気がいたします。

 その分、その時代の状況において適宜判断をしながら法律において定める自由度を残しているという理解ができると思うわけでありますが、野呂参考人の御所見をお伺いしたいのは、では、具体的にこの公共の福祉ということを論ずる場合、財産権の場合、この項目を考慮するというのが現在の法律界における議論であるというようなものを整理されたものがありますならば、ちょっとお示しをいただきたいと思う次第であります。

野呂参考人 これも非常に大問題でございまして、十分お答えができるかどうか、心もとございませんが、一つは、公共の福祉という場合に、人権相互、憲法上の権利相互の調整という問題が起こってくるであろうと思うわけでございます。どうしても人権の行使というのはほかの人の人権と対立する場合がございまして、これを調整するためのルールを定める、これが最低限のものでございます。

 それからさらに、特に経済的自由に関して申しますと、どうも経済的自由の行使というのは社会における非常に大きな経済的な力の偏りといいますか偏在を生みますので、特に経済的自由に関して言えば、それがいわば完全な弱肉強食にならないように、バランスをとるために国家が介入するというものも公共の福祉として認められているということであろうと思います。

 それからもう一つ、特に土地所有権の特性として申し上げたことでございますけれども、これは第一に申し上げた人権相互のバランスという、調整ということともかかわってくるんです。例えば、表現の自由に関していいますと、人権相互の調整といっても、いわば他人に迷惑をかけるような、そういった他人を害するような自由の行使はしてはならないという、いわば消極的な目的のための規制に限られるわけでございますが、土地所有権の場合でありますと、土地利用を相互に、社会全体としてうまく配分して、それぞれの土地が十分に利用できるように調整していく、そういった、消極目的ではないけれども、権利相互の調整といった目的のための規制がかかってくる。

 例えば、ある地域を住宅地域として利用して工場は建築させない、他の地域では工場を集めて住宅は基本的に禁止する、こういったことは、いわば消極的ではないけれども、その権利が十分に機能を発揮できるように、そういった観点から規制されているわけでありまして、これも公共の福祉の一つの内容になってくるであろうと思っております。

小野小委員 最後の御指摘は、非常にこれからの時代、考慮すべきものが多い点だという印象を受けました。

 実は、最近、電波の利用料問題をめぐりまして、この問題をどう処理するかという議論を私どもの内部でやっているわけでありますが、限られた電波資源というものをいかに公共の利益を高めるために使い得るのかというふうな議論を行う場合に、電波資源をより効果的、効率的に使うためにそのコストを払っていただくというような議論が可能なのではないかということも昨日の議論の中で行ったところでございます。

 私は、やはり公共の福祉ということの中に、限られた有限資源をともに分け合うのであるから、その分け合った資源が最大限社会の利益に効果的に使われるというようなことを期待する条項というのが何らかの形で入っていいのではないだろうか。それが公共の福祉という言葉の中に含まれているということが定説となるならば、それも結構なんですけれども、可能ならば、そういう思いを憲法の中に書き込むということもあり得る話じゃないかという気持ちがいたしているんですが、いかがでございましょう。

野呂参考人 確かに、憲法上の権利、特に、これは最近一部の研究者の間でも言われていることでございますが、人権というのは、単に個人の利益だけではなくて、相互に各個人が人権を行使することによって社会全体にとってメリットがある、社会全体の富が増大する、そういった公共の利益に人権の保障が資する面もあるということが言われておりまして、その点で、今の御指摘、非常に重要な御指摘であると思っております。

 ただ、なかなか、率直に申しまして、これを憲法に書き込むということになりますと、どう書き込んでいいのかということがいいアイデアが浮かばないわけでございまして、ただ、こういった考え方が十分議論されてコンセンサスとなっていくことが望ましいということは私も考えております。

小野小委員 それでは、時間が参りましたので、質問を終わります。

 どうもありがとうございました。

山花小委員長 次に、村越祐民君。

村越小委員 民主党の村越祐民でございます。

 本日、参考人からは、日独の都市計画の哲学の違いといいますか、大変興味深いお話をいただきまして、本当にありがとうございました。

 私は、景観的利益の保護という観点から、何点かぜひ御質問をさせていただきたいと思っております。

 まず最初に、この国会で政府の方から景観緑三法案というものが提出されておりまして、その審議が今なされているわけでありますが、その骨子というのが三法案のうち景観法というところにあると思うんですが、その中で、市町村が景観計画を作成する、それに従って、計画に合わない場合は建築計画の変更なり勧告なり緩やかな規制をできるという内容と、もう一つ、景観地区を指定する、そういったところがこの法案のメーンの部分になっていると思うんです。

 今提出されている法案を参考人がごらんになって、ドイツの非常に哲学のある制度とどのような異同があるのか、また、この法案が成立した場合、実効性というものがちゃんとあるのかどうか、一般的な参考人の評価をぜひお伺いしたいと思います。

野呂参考人 まず第一に、景観それから緑の三法案自体は非常に重要な前進であると思いまして、余り足を引っ張りたくないというところもあるんですが、幾つか感じるところを申し上げさせていただきますと、一つは、先ほど申しましたように、景観というのは非常に主観的な、そして地域ごとに個性のある、そういった利益でございますから、やはり徹底した住民参加というものがないと、権利を制約する根拠としては不十分であるし、また同時に、十分制度をつくっても実効性がない、そういったことになりかねないという危惧がございます。

 その点、先ほど申し上げましたように、ドイツでは、普通の人が見たら見たくないと思うようなひどいものは一般的に法律で規制できるけれども、それを超えてより望ましい景観というものを形成していく際には、条例などの具体的な制度化の手続が必要だという仕組みになっているわけでございますが、今回の景観法案を見ますと、どうもそのあたりが少し、制度のめり張りといいますか、そういったものが弱くて、市町村、都道府県が計画を決定して、もちろんそこには住民参加の手続も予定されているわけでありますが、決定するとそれに基づいて最低限の規制ができる。そういったものがどこまで実際に力を持っていくかということは若干不安を持っております。

 それからもう一つは、これは先ほど申し上げたことの繰り返しになりますけれども、かなり細かな具体的な景観のための規制をかけていく際には、計画なければ開発なし、そういった全体的な枠組みがやはりどうしても必要になってくるのではないか、そういった景観法案だけでは解決できない問題というのも残っているのではないかというふうに考えております。

村越小委員 実は、二月ぐらい前でしょうか、我が党の菅前代表と食事をした際に、財産権を見直す必要があるというようなお話をされていました。年明け一月でしたか、我が党の党大会でも代表が、折しも憲法改正論議が高まっているということで憲法に関しても言及をされまして、財産権を見直す必要があるとしきりに御指摘をなさっていました。

 私は、先ほど小野委員がおっしゃられたような観点からの、憲法に義務規定を設ける、そういった観点からの憲法改正と申しますか、そういう議論には全くくみできないというふうに思っているんです。したがって、菅前代表が財産権を見直さなければいけないと簡単におっしゃっているところに非常に首をかしげていました。

 二月でしたか、京都で市長選挙がありまして、そこで電子投票を実験的に導入するということで視察に行きまして、夜、視察が終わって町中を歩いていまして、祇園から清水寺ですか、三年坂を上がって、夜なので寺の中には入れなかったんですけれども、そこで清水寺の入り口のところから京都の町を眺めてみると、左前方の方に高層マンションと申しますか高層ビルが乱立していて、そのビルの屋上部分に赤いランプがついていて、非常に古都の景観を犠牲にしているというか、非常に美しくない景観になっているなと思いまして、ともすると、菅前代表がおっしゃっていたのはそういう観点から、古都保全の観点からある程度財産権というものを見直さなければいけないという趣旨だったのかな、それなら理解できなくもないなと思って考えていたところなんです。

 文化財の保全の観点から財産権というものを見直す必要があるとして、改正論議の中で財産権をどう扱っていくのか、非常に雑駁な質問で恐縮なんですが、参考人の御意見をちょっとお伺いできればと思います。

野呂参考人 結論から申しますと、財産権についての憲法上の保障というのはどうしてもやはり抽象的なものにならざるを得ないと思うわけでございます。現に、財産権というのは、一方で侵してはならないと言いながらも、さまざまな制約がかかっているわけでございまして、これを具体的にどう運用していくかということではないかと思うわけでございます。

 と申しますのは、例えばドイツの歴史を見てまいりましても、例えばワイマール憲法とか現在の憲法には、所有権は義務を伴うという規定がございます。ところが、それ以前のプロイセンの時代の憲法にはこういった規定がなくて、より強く財産権を保障する、そういった定めになっていたわけでございます。

 では、プロイセンの時代に財産権が本当に勝手気ままに自由に行使されていたかと申しますと、むしろ現在の法制度のいわば根っこになっているような、起源のような法制度というのは全部プロイセンの時代にできまして、その後ワイマールの時代には余り本質的な変化はなかったわけでございます。

 そう考えると、むしろ重要なのは、具体的な法制度のレベルできちんと議論して、例えば古都を保全するような法律をつくっていく、そして、こういった法制度がきちんと定着して、いわばその上積みとして憲法の問題になってくるのではないかなというふうに思っている次第でございます。

村越小委員 そうだとしますと、諸外国を見ますと、憲法に景観に関する規定がなされているところが幾つかあるというふうに承っているんですけれども、具体的に憲法で景観に関する規定なり、古都、文化財の保全なりなんなりに関する規定を設ける必要は差し当たってないというふうにお考えなんでしょうか。

野呂参考人 この点に関しましては、事務局で御作成いただいた資料にも幾つか景観等について規定を置いている憲法がございますし、それからさらに、例えばイタリアの憲法などでもこういった規定を置いております。

 ただ、結論としては、こういった規定というのは、規定を置くとしても、国家としてのいわば努力目標を定めたような、そういった規定にならざるを得ないのではないかと思うわけでございます。

 といいますのは、例えば表現の自由のように国家はここまでは決して侵してはならないというものではなくて、国家としていかに景観を保全する手助けをしていくか、文化財を保全していくかということでございまして、これはやはり具体的な法律レベルの問題にならざるを得ないと思っております。ですから、憲法で規定することがいけないというふうには申し上げる気は全くないんですけれども、やはり私は、憲法学者じゃないせいかもしれませんけれども、具体的な法律をきちんとつくっていくことの方がむしろ優先的な課題ではなかろうかと思っているわけでございます。

村越小委員 あともう一点お伺いしたいと思いますのは、ここにあります国立マンション訴訟に関することなんですけれども、市民の側からすれば非常に画期的な判決だということが言えると思います。非常に盛んに報道もされておりましたし、何メーター以上のところを削りなさいという非常にユニークなものだというふうに私も考えておりますが、この中で景観権という若干耳なれない言葉が出てきたわけですけれども、この景観権に関して参考人はどう評価されるのかということと、その根拠をどうとらえていらっしゃるのかということに関してお伺いできればと思います。

野呂参考人 景観権についてのお尋ねでございますが、まず国立の事件について一言コメントさせていただきますと、国立の事件というのは、国立市の並木通り沿いに低い建物しかなかったところが突然高層マンションができてしまった、そしてその背景には、そこだけどうも公法的な規制の穴があった、そこを利用されたというところがあったわけでございます。

 やや特殊な事例でありまして、むしろ本来であれば、きちんと高さを公法的に規制していくことが必要であったのではないか。つまり、あの事件の特有の解決としては合理性があると思うんですが、例えば、都市計画法上全く問題がないのに、建てようと思ったら、それが景観権の侵害で、損害賠償しなさいとかいったことになりますと、これはかなり、建築をする側の地位が余りに不安定になってしまう、そういった問題があると思うわけでございます。

 国立の事件で申しますと、あれは、周囲の住民が自分たちの自主的な努力でよい景観を形成してきた、しかも、その景観が土地のいわば価値として周囲の土地にも定着してきた、そういった具体的な事情を前提にして、民事訴訟で撤去せよということを認めたわけでございまして、これは余りに、一般化することはなかなか難しいのではないか。

 つまり、一つは、景観権を民事上の権利として認めるかどうかでございますけれども、景観というのはどうしても主観的なものでございますから、やはり地域の住民がきちんと議論をして公法的な規制をつくっていくというところで生かすべきであって、いきなり民事訴訟によって撤去せよというのは、どうも、やはり財産権の調整という面からいくと難しい問題をはらむのではないかというふうに思っております。

村越小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、太田昭宏君。

太田小委員 公明党の太田でございます。

 日本国憲法には、景観規定はおろか、環境権や環境保護義務という規定は存在しません。国家権力を制限するということからいきますと、かなり憲法に書き込むということの必要性があるものも生ずるというふうに思うわけです。

 以前ここで、中山先生、きょういらっしゃるんですが、憲法調査に大変御尽力いただいた葉梨先生が、皆で都市をつくっていこうという都市計画権、今、景観権という話がありましたが、かなりでき上がってきてからの、争訟上の、裁判的な問題で景観権というのは出るのかなという気もしないわけじゃありませんが、積極的に都市をつくっていこうという都市計画権というようなものがあっていいのではないかというような趣旨の発言を葉梨先生がされているわけですが、私はきょうの機会にちょっとそのことについてまずお伺いをしたいな、こう思います。

野呂参考人 景観権ないしは都市計画権、こういった新たな権利を定める必要があるんじゃないかという御意見でございましたが、これにはやはり、憲法というものをどういうふうに、どういうものとしてとらえるかという考え方も反映しているような気がいたします。

 憲法というものを、国家がやっていいこと、やってはいけないことの限界としてとらえるというふうに考えてまいりますと、どうも、景観権とか都市計画権というのは、こういった具体的な権利として行使するということはなかなか考えにくい。むしろ、多くの人が良好な景観を享受できるように法律で具体化していくでありますとか、また、都市計画権であれば、きちんと現在の都市計画法を、より住民参加を充実させるような、または都市計画決定により議会を関与させるような方向で充実させていく、そういった法律の具体化をどうしても伴わざるを得ない、そういったものになってくるだろうと思うわけでございます。

 したがって、こうした国家が法律によって具体化していくようなさまざまな課題、こういったものをどこまで憲法に新たにつけ加えていく必要があるかどうかというのは、これはやはり憲法の性格に関する考え方の違いが反映してくる問題ではないかというふうに思っているわけでございます。

太田小委員 私は、いわゆる憲法学者の方と、政治家が憲法を論ずるというのは、少し違うと。どう読めるかという解釈学的なものが非常にどうしても強くなる、憲法学者の方に対してですね。どういう日本をつくっていこうかということを、ちょっと乱暴かもしれませんが、考えていくという政治家の憲法論争の果たす役割というのは非常に大きいというふうに思っています。

 この二十九条でいいますと、今の土地の問題でいいますと、こんな都市にしたいとか、こんな町をつくりたいという意思ということがこれからますます私は大事になってくるというふうに思うんですが、そういうことに対して、かなり、土地ということについては、絶対的土地所有権というものをできるだけ規制しない方向で来ているというようなものが、この二十九条の中にはあるというふうに思うわけですが、この辺について、率直に、先生、どうなんでしょうか。

野呂参考人 結論から申しますと、確かに、二十九条というのは、ドイツの憲法とそのまま比較しますと、所有権は義務を伴うといった規定がないわけでございまして、絶対的な所有権という考え方もそこから出てくるのかもしれないわけでございます。

 ただしかし、やはり二十九条二項のように、所有権は無制限ではないということをはっきりと述べているわけでございますし、また、実際にも、さまざまな具体的な法律によって財産権というのは規制されているわけでございまして、二十九条から直ちに絶対的な所有権という観念が出てくるかというと、それは私は違うのではないかというふうに思っているわけでございます。

太田小委員 以前ここに来ていただいた参考人の方が、この憲法二十九条の読み方の中に、公共の福祉に反しない限りと普通は言われているんだが、この二十九条だけは、公共の福祉というものの言葉の使い方が違うということを言いながら、逆に、公共の福祉に適するように定めるというふうになっているから、景観問題に関してはむしろ積極的に法律をつくれるということが憲法で定められているわけです、こういう発言をされているんですが、先生はどうお考えでしょうか。

野呂参考人 確かに、冒頭に申し上げましたように、財産権というのは、これは法律があって初めてきちんとした財産というものが出てくるところがございまして、常に法律によって定めることを必要としているし、また、法律によって形成されていくものでございます。

 したがって、もちろん、景観について定めるかどうかというのは、それはそのときの国民の間の意見、議会での議論によっても変わってくるわけでございますが、景観という利益を多くの国民が望んでいるという場合には、やはり二十九条二項にそれを読み込んで、その趣旨に即した法律をつくっていくということが必要になってくる、この点は、今の御発言のとおりであろうかと思っております。

太田小委員 景観ということがかなりテーマになるんですが、日本の場合は、景観ということより、どちらかというと住みやすい町ということで、一極集中型の町であったり、町の形成過程を考えると鉄道で駅ができたとか、今モータリゼーションの中で大きく町が壊れていっているということの中で、住みやすいというような観点から、職住接近であるとか新しい町づくりのコンセプトというものが今形成されようとしていくわけですが、その辺の美しい町というのは、先生は、どちらに比重を置きながら、美しい町という言葉を表現されようとされているんでしょうか。

野呂参考人 一つ、これは余り重要な問題ではございませんが、財産権の制限ということを語るときに、余り美しいということを前面に出さない方がいいんではないかと思っておりまして、そうするとどうしても、上から一定の美を押しつけるという形になってしまいますので、住民が望むような景観を形成していくといった形がいいんではないかと思っているんです。

 それはさておきまして、やはり、都市の住みやすさということに最近関心が移っているというのは非常に重要な御指摘であると思いまして、従来、どうも、日本の都市に対する考え方というのは、これが経済活動が集積してくる場である、そこを優先に都市計画も考えられていたんではないか。それに対して、最近、人間が住む場所として都市をどうするかというのが考えられている。これは非常に重要な視点でございまして、そして、都市の景観というものに関心が集まってきているその最大の理由の一つは、住む場所としての、人間の生活の場所としての都市というのをどうするかということに関心が高まってきたからであると思います。

 そういう意味では、住みやすさということと景観ということは非常に強く関連しているというふうに考えております。

太田小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、吉井英勝君。

吉井小委員 日本共産党の吉井英勝でございます。

 私、最初に伺っておきたい一つは、十八世紀の末ごろの、所有権は絶対的不可侵とする、そういう時代の発想から、ずっと歴史的な経過を経て、一九一九年のワイマール憲法での、要するに、すべての人の生存権の保障とか社会権の保障、そういう範囲内での経済的自由の確保をどういうふうに実現していくかという、だんだん所有権とか経済的自由権というものが変わってきていると思うんです。

 それが戦後の、今の日本国憲法の中で、当時の世界的な生存権、社会権の到達点といいますか水準というものはきちんと反映されていると思うんですが、大体今から十年前ぐらいから、憲法に基づく、政策的にさまざま進めてきたそういう制約がだんだん外されてしまって、市場原理主義とか規制緩和とか経済効率最優先という表現がよくされますが、そういう中で、何といいますか、勝ち組、負け組が当たり前、弱肉強食という、それが自由な経済活動の中での経済の発展だというふうな考え方が一部に横行しておりますが、やはり、そうなってきますと、ワイマール憲法以来の発展である各人の基本的人権の保障、そういう立場からも、その中での経済的自由を考えていくという、あるいは戦後の日本国憲法の立場から考えてみても、かなり逆流といいますか逆行する流れというものが今感じられるわけです。

 そういう点で、先生に、憲法の経済的自由権の観点から見た今の日本の経済のありようといいますか経済活動などについて感じておられることをお聞かせいただければと思うんです。

野呂参考人 財産権、所有権の歴史的展開から見て日本の現状をどう評価するかという御質問でございます。

 まず、歴史的に絶対的な所有権というものが確立した背景には、それに対抗すべきものとして中世的な封建的な所有権がございまして、例えば土地への農民への拘束とかこういった中世的な縛りから所有権を解き放した、純粋に経済的な所有権にしようというものが絶対的な所有権の背景にあったわけでございます。ですから、所有権が確立してしまった以上、何でもかんでもそれを自由に行使できるというものではやはり当然ないだろうと思うわけでございます。もう一つ、特に、ワイマール憲法の御説明がございましたけれども、やはり、いわば弱肉強食と申しますか、経済的な格差が生じますと、そのバランスをとるための経済的自由の制限というものが強調されてくることになるわけでございます。

 現在の日本の状況についてどう評価するかということでございます。

 これはなかなか大問題でございまして、なかなか十分お答えする準備がないわけでございますが、一つは、規制緩和の動きで申しますと、この規制緩和ということによって、我々行政法を研究している者は、だんだんと自分の職域が狭くなっていくということがあるわけでございますが、確かに、規制というのは常に見直していく必要がある。規制というものが、建前に書かれている目的と実際に果たしている機能というのはどうなっているのか、特に、それができたころの本来の目的と現在果たしている役割はどう違っているのかということをきちんと分析する必要があると思うんです。ただしかし、結論としては、規制は少なければ少ないほどいいというのはどうも、そういう傾向が生じるとしたら、それは余り適切なことではないと思っております。

 それからもう一つは、特に土地についての問題でございますが、土地については、一般的な、例えば営業の自由に対する規制とはやはり別の問題がある、土地という財産に特有の問題があるのであって、それは一般的な規制緩和論とは別個にきちんと、先ほどの御発言でもありましたけれども、住みやすい都市にしていく、こういったような観点から、特有の制約というのがどうしても時代を超えて存在せざるを得ない、そのように考えております。

吉井小委員 もう一点。

 数年前に、大規模小売店舗法を廃止してしまうという法律案の議論のときに、随分ヨーロッパの例も出して議論したことがあります。ドイツの場合は、大型店の進出とか巨大ショッピングセンターは原則禁止で、ゾーンを決めて、そこだけ認められる。日本の場合は、もともと原則自由で、指定された地区と、用途地域の色塗りとか、あるいは上塗りをして、そこだけ規制される。

 そういう違いを議論しながら、要するに、町はだれのものか、そこに住むすべての人が町の形成者であるのに、この住民意思というものがどこかいってしまって、資本力があれば、そこへどかんと資本を投下して全く違う町をつくってしまうことがそもそも許されることなのかということとか、あるいは、もともとその町に住んでいる人は長期にわたってずっと固定資産税など社会的費用を負担してまちづくりをしてきたわけですが、そういう社会的コストの負担もなしに突然違う町をつくってしまうことが、それが経済的自由だとかそういうことで果たして許されるのか、そういう議論をしたことがありました。

 そこで、お聞きしておきたいところなんですが、やはり、そういう巨大な商業施設の立地が経済活動として規制されずにいいものなのかという点ですね。

 それは、確かに特定事業者の経済的自由につながることだと思うんです。一方、町をつくってきた人々の経済活動とか生活とか、あるいは場合によっては祭りとか文化とか消防団活動とか、生活全体の共同社会、これが壊されるということが、結局それは、一方の側において、多くの人たちの基本的人権だとか生存基盤の基本が認められなくなってしまうわけですが、そうしたことについて、憲法の経済的自由という中で許されるのかどうかということについてのお考えというものを伺いたいと思います。

野呂参考人 大店法等の問題につきましては、最初に御発言ございましたように、特にドイツでは、非常に詳細な計画をつくって初めて開発が可能になるということもございますが、どうも日本の場合には、最低限これは禁止するというものをピックアップして規制をしているにすぎない、または既存の町が既にかなり混在しているものですから、どうしてもその最低限に合わせると非常に緩い規制にならざるを得ない、そういうところで、町全体の構想というものがきちっとできていない、そういった問題はあろうかと思います。

 大店法をどこまで規制するかについては、どうもこれは経済政策の問題も絡んできまして、十分お答えする能力がないのでございますけれども、このような大規模な小売店というものも、それに対するニーズがある以上は全く禁止するということはできないと思うわけでございます。もちろん、ドイツその他の国でも郊外に大規模な小売店というのはございまして、そこには多くの人が車で買いに行って、一週間分の食べ物を買ってくる、そういったこともございます。ただ他方で、同時に、古い、町の中心部というのが活性化しているということもございまして、だから、うまくそのバランスをとるような政策がとれないものかということを考えるわけでございます。

 ただ、それについては、単に大店法などによって規制するとか保護する一辺倒ではなくて、今おっしゃったような、町自体を活性化していく、そういう総合的な政策とセットで進めていく必要があるだろうとは、交通手段の整備なども含めて、総合的な政策としてそれを行っていく必要があると思いますし、結論としては、一定程度の規制は必要であろうとは思うんですけれども、それがどこまでが認められるかについては、なかなか明確な解答は今のところ見出しがたいというところでございます。

吉井小委員 時間が参りました。終わります。

山花小委員長 次に、土井たか子さん。

土井小委員 きょうは、お忙しい中を野呂先生、ありがとうございました。

 先生が御紹介くださいましたドイツでの都市計画、それから景観の保護等々についての取り組みというのは、とても我が国にとっても承っておりまして参考になるものだということを実感いたしております。

 きょうは、二問お尋ねしたいと思います。

 一つは、一九九九年、その年に都市計画法が改正されまして、地方自治法の二百五十条の八以下に決められております国と地方自治体の紛争処理制度の整備というのが問題になりました。一部の重要な都市計画というのは、しかし、その中でもなお都道府県の知事が決定するということに相変わらずなっていますね。そしてまた、監督措置に対して訴訟提起ということが可能になったといっても、法律で現に特別に認められた場合に限られているということであることに変わりはありません。

 ドイツの場合は、基礎的自治体の都市計画権限というのが自治権の一部であるというふうに考えられているというふうに理解していいんだろうと思いますけれども、そこから、訴訟でも救済の可能性というのが大変認められるということにも通じているということになるんだろうと思うんですね。

 この都市計画の権限で、日本とドイツの地方分権のありよう、地方分権の差というのをどのように考えたらいいのか、先生のお考えになっていらっしゃるところをお聞かせいただければ非常に幸いだと思います。

 ドイツは連邦制ですから一概に比べるということはできないのかもしれませんけれども、日本国憲法からすると、九十二条に決められているとおり、地方自治の本旨の住民自治の観点からどういうふうに考えたらいいかということを特にお聞かせいただければ幸いだと思います。

野呂参考人 まずは最初に、ドイツと日本を対比して自治体の計画権限についておっしゃったことはおっしゃるとおりでございまして、ドイツにおいて、憲法によって自治権が保障されているその最も重要な内容の一つが、みずからの町をみずから計画する権限である。それが侵された場合には、特に日本のように地方自治法などによって法律が認められていなくても、訴訟によって救済ができる、これがドイツの現在の考え方でございます。

 これに対して日本の状況で申しますと、地方自治法等の改正によってかなり前進したことは確かなんですけれども、しかし、法律がないと訴えられない。といいますのは、どうも日本における訴訟制度の考え方が少し狭いところがございまして、訴訟というのは、本来は個人の私的な権利を守るためのものである、特に、地方自治体が自治権を主張するなんというのは、これは訴訟制度の本来の射程ではない、こういった訴訟に関する狭い解釈がございまして、ただ、これはどうも裁判所がそう言っているものですから、法律である程度補っていくしかないわけでございますけれども、そういった違いがございます。

 もちろん、その背景にもいろいろな事情がございまして、特に、委託研究の資料でも少し指摘させていただきましたが、もともとドイツの都市計画制度というものが、地方自治体がさまざまな財政的な負担に耐えながら、自分で望むような町をつくりたい、そういった利益を背景にして都市計画制度が発展してきた、そういった歴史的な違いもあろうかと思っております。

 とりあえず発言を切らせていただいて、また補足して御質問いただければと思います。失礼しました。

土井小委員 それでは、後の一問の方を先に申します。

 一九九七年の四月に、全国の米軍基地にこれは関係いたしますけれども、特に、わけても、事実上沖縄の米軍基地について適用される駐留軍用地の特別措置法が改正されました。これは、米軍の基地として提供する目的があるならば、政府は、借地料を払うという補償以外は、一般的な土地収用手続ということによらず民有地を自由にすることができるという内容なんですね、簡単に言えば。

 この改正が憲法二十九条に決めております国民の財産権の保障を侵すものじゃないかというふうな指摘がございまして、それに対して委員会でも政府は、この二十九条の三項の条文に、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」ということになっているんだから、これに対しては正当であるというふうな説明をされているわけです。

 しかし、私有財産権と公共のためという、この調整を図る目的で制定されているのが土地収用法なんですね。

 この土地収用法を見ますと、「土地を収用し、又は使用することができる公共の利益となる事業」というのを特定しておりまして、御存じのとおりに、道路とか鉄道なんか三十五項目にわたってこれは列挙されているんですね。そして、これに該当するものに関する事業でなければならないと限定しているわけです。その中に、軍事あるいは防衛目的のもの、全く含まれておりません。なぜかというと、憲法九条との整合性のゆえだという説明が答弁側からちゃんと説明されているんですね。

 したがって、この駐留軍用地の特別措置法というのは、米軍基地のため、つまり、これも簡単に言えば、日米安保条約によって、必要性のためなら日本国憲法の基本的人権の保障を侵してもいいと決めたことになってしまうわけですが、一言で申しましたら、安保条約が憲法よりも上位にあるという認識で私有財産に対しての問題の取り扱いというのが行われている側面だと思うんですね、一つの。

 ドイツも今米軍の基地があると思いますが、もし先生御存じだったら、ドイツの方はこういう問題に対してどういうふうなことになっているか、ドイツの場合をお教えいただければ大変参考になると思います。

野呂参考人 大変申しわけございませんが、ドイツの米軍基地問題については私は十分通じておりませんで、お答えすることができません。

 少し補足させていただきますと、二十九条三項によりまして、財産を公共のために用いることができる、これは確かにそうでございますが、ただ、財産というのは、単にその価値を補償すれば自由に取り上げていいというものではもちろんないわけでございまして、この点は土井先生がおっしゃったとおりでございます。

 やはり財産というのは、単に価値を保障するという面と同時に、その財産そのものの存続を保障するという、現存保障とか存続保障と言われますが、それも非常に重要な要素でありまして、先ほど景観のところで申し上げましたのは、家を建てることはできるけれども、景観の部分だけ思うようにできない、そういったものだったわけですが、土地の収用とか使用の場合には、財産を根こそぎ持っていかれてしまってお金で調整するというわけですから、それに関しては、より強い正当化が必要になってくるわけでございます。

 だから、米軍基地の問題になりますと、そもそもやはり安保条約、憲法九条の関係がダイレクトに出てくるわけでございまして、まず、憲法九条から見て安保条約というものが許されるかどうかというものが直接九七年の法律の判断には影響してまいりますし、またもう一つ、仮に安保条約というものを認めるとしても、政策で見ますと、やはり沖縄のみにこういった負担をかけるということ自体、次の問題としては政治の責任として考えざるを得ない、そのようにも考えております。

土井小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、船田元君。

船田小委員 野呂先生には、ありがとうございます。きょうは、財産権の問題を中心として、特に、野呂先生はドイツに留学をされたこともあるようでございますので、ドイツにおける都市計画等のお話も大変興味深く拝聴させていただきました。

 基本的な財産権の規定、憲法でいえば二十九条になるわけですが、先ほど太田議員から、第二項ですね、「公共の福祉に適合するやうに、」ということで、ほかの公共の福祉を論じている部分においては「公共の福祉に反しない限り、」その物の言い方が違うではないか、こういう話をちょっと御指摘いただきましたが、私も実はこの点、結構注目をしておりまして、やはり、「反しない限り、」よりも「適合するやうに、」ということの方が、公共の福祉の適用の範囲とか大きさをより大きく持たそうとしているんじゃないか、何か立法の趣旨がそこに隠されているんじゃないか、こういうふうに実は考えているわけなんです。

 まず、それについて御意見をいただきたいのと、それとあわせまして、最近、財産権における公共の福祉というものを考えた場合に、今は言葉の使い方でございましたが、実態の問題としても公共の福祉の概念がやはり実質的にどんどん変わってきている、あるいは拡大をしてきているんじゃないかという気がしてならないのであります。

 例えば、土地を公共事業の施行のために正当な補償のもとで公共の用に使っていく、こういうことのときに、昔は人々の安全とか、例えばダムの建設あるいは河川改修なんというときには住民の安全ということからこの事業が行われ、つまり、公共の福祉はどちらかというと地域の人々の安全のためという含意があった。それが、道路整備ということになってくると利便性というものにだんだん変わっていくというか、つけ加わっていく。さらに、まちづくりあるいは景観という、先ほど来出ているお話ございますが、そういうことになってくると、今度は利便性から、まさに快適さ、地域住民の快適さを保つため、あるいは増進させるため、そういう、まさにここで、憲法第二十九条で言っている公共の福祉の概念そのものがだんだん拡大してくるんじゃないか、こんな気がいたしております。

 その二つについて、先生のお考えがありましたらお聞かせください。

野呂参考人 まず第一点。二十九条第二項、「公共の福祉に適合するやうに、」という文言でございますけれども、一つ前提としまして、先ほど余り十分申し上げなかったんですけれども、ほかの条文と文言が違っている一つの理由としましては、やはり財産権というものが、まずはその保障の前提として法律で定めることが必要である、そういったこともこの文言には大きく影響しているだろうと思うわけでございます。

 そして、その財産権の制度、例えば民法もそうでありますし、それから知的財産権と申しますか知的所有権、そういったものを定めるときにも、社会にとってどのようなルールの定め方が適切かどうかというのを考えて定めなきゃいけない。単に、例えば表現の自由を外から制限するのではなくて、まずは権利の内容を社会にとってより有益な形で定めなければならない。二十九条二項にはそういった意味がまず含まれていて文言が違うということがあろうかと思います。

 それからもう一つ、御指摘のように、財産権というのはかなり法律によってさまざまな形で制限される、ないし、さらに形成されていくというものでございまして、特に精神的な自由と比べますと、より政策的な判断の余地が大きい。そしてその中で、国家が達成すべき目標をその中に盛り込んでいく必要がある。その点で私も、二十九条の二項というのは大きな意味を持っていると考えております。

 それから、公共の福祉という概念の多様化と申しますか拡大、これも御指摘のとおりでございまして、とりわけ、特に土地収用の場面でも、かつては道路とかダムとかそういったものであったわけでございますけれども、現在では、例えば新しい団地をつくるために、個人が利用する、団地を造成するために土地を収用するといったような、私人のための収用といった現象も認められておりまして、そういう意味で国家がさまざまな形で社会にかかわっていく、介入していく、そういった国家の活動の範囲の拡大というものも、公共の福祉という概念がいわば如実に反映しているのではないかというふうに思うわけでございます。

船田小委員 あと、ドイツのいろいろな都市計画、非常に精緻であり、また包括的であるということで、そのことがドイツの景観を保護している、そういうお話も伺いました。

 日本の場合と比べて大分違うなということを感じておりますが、例えばヨーロッパ、ほかの地域はどうだろうか。ドイツもそうでありますが、ほかの、特に西ヨーロッパにおきまして、東ヨーロッパもそうでございますが、町並みというのが非常にいい形で、本当に美しい形で保存されているわけでして、多分、ドイツにおけるFプランやBプランに似たようなもの、あるいは先ほどのお話で、計画なくして開発なし、こんな考え方がほかのヨーロッパ諸国にももともとあるんじゃないか、こんな気がしてならないんですが、その辺。

 それから、EUが統合されて、新しいEUとしてまた五月からスタートをしているわけですが、かつて、EU指令ということで、いろいろな分野においてEU加盟国が共同歩調をとってさまざまな政策を遂行するのがいいことなんだ、こういうことでEUの統合に向けてのさまざまな試みがなされたと思いますが、この都市計画などについては、特にEU指令とかあるいはEU統合において意識的に使われた、あるいは議論された、そんな形跡はあったんでしょうか。

野呂参考人 まず、ドイツ以外のヨーロッパ諸国でございますが、申しわけございませんけれども法制度については私、十分研究を進めていないのでございますけれども、ただ、例えばイタリアとかフランスとかスイスなど、その他の国におきましても、例えばドイツから一歩出た途端にどうも日本に帰ったような気がするということはまずないわけでございまして、イタリアまで行きますとやや秩序が乱れているかなという気もするんですが、歴史的な都市の保全にしても開発の規制にしても、やはりかなりそれに近い制度があるのであろう、なければ多分こういったまちづくりはできないだろうといった印象は持っております。

 それから、それがEU統合の中でどういった役割を果たしているかということでございますけれども、一つは、やはりドイツの都市計画制度というのは、EU諸国の中でも一番ある意味丁寧と申しますか、特に住民参加の手続などが非常に丁寧でございまして、一つの問題としては、都市計画をつくるのに余りに時間がかかり過ぎる、手続が詳し過ぎる、そういった批判もございました。

 EU統合の中で、一面では、やはりこういった手続をもう少し簡素化していこう、それによって全ヨーロッパ規模での企業立地競争に勝たなければいけない、そういった面で、どうもかつてのドイツ的な都市計画というのは若干変容を迫られている。もちろん、それでも現在の日本と比べれば大きな差があるわけでございますけれども、そういった変化もございます。

 それからもう一つは、例えばBプランにしても、住民参加の中で、自治体が主導でつくるだけではなくて、やはり事業者とある程度協力して、事業者にかなり関与をさせて、いわば公と私の協働の中でよりダイナミックな計画づくりをしていこうという動向もございまして、Bプラン、Fプランの制度が一方的にと申しますか、昔どおりにそのまま来ているわけではございませんけれども、骨格はまだやはり残っているといったところだろうと思っております。

船田小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、園田康博君。

園田(康)小委員 民主党の園田でございます。

 本日は、今、国会の審議の中で、ちょうど景観法ということで審議の真っ最中のところで、先生からさまざまな観点からお話しをいただき、またドイツのこういった事例をいただきまして、大変参考になった次第でございます。

 それで、私からは、まず、現行憲法の規定の解釈、それから、多少私見が入るかもしれませんが問題意識と、やはり景観権を含めた都市計画、都市論というものについて、若干御質問をさせていただきたいと思います。

 まず、現行憲法の問題点、私見の中で私から申し上げさせていただきたいと思っているんですが、二十九条の三項の規定でございます。いわゆる「正当な補償の下に、」という補償基準の設定というものがなされているわけでございますけれども、その中で、先生きょう御提示いただきましたドイツ基本法の十四条の三項、ここにおきましては、「公用収用は、損失補償の方法と程度を規律する法律によって、又は、そのような法律に基づいてのみ、行うことができる。」という規定があるというふうに御紹介をいただきました。

 そこで、日本の現行憲法の中にはこういった規定がやはり不足している点があるかなというふうに思っております。

 そういった意味では、こういった損失補償についての規定がないまま公用収用というものが実際的に行われた場合、それは昭和四十三年の十一月二十七日の最高裁の判例にもありますけれども、これは一概には憲法違反とは言えないというものでございました。すなわち、この二十九条の三項そのものを根拠にして損失補償の請求をすることが、まだ余地が残されているんだというような判例が出ていたわけでございます。

 しかしながら、やはりこういった規定を憲法条文上の中に当初から盛り込んでおくということがあれば、こういった、仮に法律が憲法に反してそういった補償規定を設けないということであるならば、これは即憲法違反という形になるわけですから、自然と法律に対しての縛りをかけることにつながっていくものじゃないのかなというふうに考えているのですが、先生はその点についていかがお考えでしょうか。

野呂参考人 先ほど説明で割愛した重要な部分を見事に指摘していただきまして、ありがとうございます。

 二十九条三項と十四条三項も日本とドイツとの大きな差でございまして、ドイツの場合には、補償について定めを置かずに、補償を要するような財産権侵害をしますと、その法律自体が憲法違反となります。ただ、その結果として、補償規定というのはある程度具体的なものでなければならないと考えられるわけです。日本の場合には、補償規定を置いても、通常要すべき損失を補償するといった程度の規定を置くことにとどまるわけですけれども、ドイツではそうではない、具体的な補償要件を定めるという形になっております。

 ただ、これは二つの考え方がございまして、補償規定のあるなしにかかわらず、つまり補償規定がなくても、法律を違憲にせずに直接補償請求ができるという考え方と、それから、ドイツのように、補償規定を置かずに収用すると法律が違憲になるという、これは二つの大きな考え方の違いでありまして、実は、どちらがよりすぐれているとも必ずしも即断できないところがあるわけです。

 といいますのは、ドイツの場合ですと、こういった規定が置かれますと、最終的に裁判所が補償を要すると判断するかどうかというのは、非常に微妙なケースが出てまいりますので、補償規定を置かないと、どうも法律をつくったけれども、その結果として、違憲無効になって、また法律をつくり直さなければいけないという非常に不安定な状態が生じてくる場合があります。

 それから、違憲無効にしたのはいいけれども、既に損害が発生してしまっている場合には、それをどう救済するかという困難な問題が生じてまいりまして、そこで、日本では補償は全部二十九条三項でいくんですけれども、ドイツの場合には、十四条三項以外にもいろいろな補償の根拠を判例法上創造して、それによって補償せざるを得ない、そういった困難を抱えております。

 ただ、日本の今後のあり方としては、補償規定を置く場合には、ある程度具体的な補償基準を定める方が望ましいとか、また補償方法についても、金銭補償だけではなくて、その制限の性質に応じたさまざまな、例えば買い取り請求権を認めるでありますとか、そういうような補償の仕方があり得るわけでありまして、そういったものをきちんと考えて具体的に規定していくことが望ましいというふうには私も考えております。

園田(康)小委員 恐らくそうだと思います。

 したがって、侵害をされるといいますか収用される側の国民にとってみれば、あらかじめ何らかのルールというものが目に見える形で設定をされていれば、後から話が違うじゃないかというような形にはなりにくいのかなという気はしておりまして、できる限り私は法律上明記しておく必要がありますし、またさらに憲法典においてそういった規定を盛り込んでおく必要があるのかなという気はしております。

 ただ、今先生御指摘いただきましたように、要は補償の基準、内容というものがどういった形で行われるかということが、やはりもう一つ、ワンステップ進んだときに問題になってくる点かなというふうに考えておりますけれども、日本の場合は、判例におきましてはやはり完全補償というものが原則という形でなっております。しかしながら、場合によっては、さまざまな社会的な事情あるいは経済的な、財政的な事情等々勘案しますと、相当補償でもあり得るというような判例も一方では出ているわけでございまして、完全補償であるのか相当補償であるのかという議論は、公法学界の中でもさまざまな議論がなされてきてはおりますけれども、最終的には完全補償が原則という形でいかなければ、やはり収用される側の国民にとってみれば大変な損害を後でこうむってしまう状況になり得るということから考えれば、それが原則として成り立つのかなという気はしております。

 ただ、現行憲法の中の文言そのものを見ますと、これは言葉の遊びという形になってしまうかもしれませんが、「正当な補償の下に、」という言葉で書かれているわけで、どこにも、完全な補償をするであるとか、あるいは相当な補償でも足りるというような言葉が書いてない。その「正当な補償」という言葉をどのように読み込むかというところに憲法学界のそういった議論がなされてきてしまっている部分があるわけです。

 この文言も、これは訳語によっていろいろ、さまざま各国にあるんですが、スイスでは完全な補償というものを完全にうたっているところがありますし、一方ポルトガルの憲法典の中では適正な補償というような形、あるいはスペインでは相当な補償というふうに盛り込んでしまっている部分もあるんですが、やはりこの点も、文言を、適切な文言であるのかどうかということも、一つ私はどこかで議論があってしかるべきじゃないかなという気がしておりますが、先生、御意見はいかがでしょうか。

野呂参考人 確かに、「正当な補償」という規定は、おっしゃるとおり、間違った補償をしてはいけないということですから、余りに無内容な規定であるということは、一方でおっしゃるとおりだと思います。

 それを根拠にして、今御指摘のとおり、例えば農地改革のように、いわば社会の構造を変革してしまうような場合には、これは完全な補償を与えていては地主制を廃止することはできないというわけで、一種の相当補償的な考え方が出てきたわけですが、ただ、たまたま公共事業のために個別の土地を収用するような場合にはやはり完全な補償でないといけない、こういった使い分けがされているのが現状であろうと思います。

 ただ、もう一つ問題なのは、完全な補償と申しましても、何が完全かについて考え方が違いまして、現在では、土地の価値は補償するけれども、しかし、それによって先祖伝来の土地を奪われて精神的な損害を受けたというのは補償しないとか、そういった、ある意味、切り捨てというと言い方が悪いですけれども、すそ切りのようなものがされているわけでございまして、そのあたりは、それを明確な文言で書くのはなかなか難しいところがあろうかと思います。

 それからもう一つ、完全補償についてつけ加えますと、先ほどドイツでは価値よりも利用を重視して財産権を保障しているのではないかと申し上げたのですが、ただ、価値の補償というのはある意味で利用を回復するために不可欠なものでございますから、やはり価値を完全に補償するということは奪われた利用を回復するという点でも必要なものではないか。そういう意味では、通常のケースでは完全な補償がやはり必要ではないかというふうに考えております。

園田(康)小委員 時間が来てしまいましたのでこれで終わらせていただきますが、もう一点、景観権のことをお伺いしようと思ったんです。

 ただ、これは最終的には地方分権、地方主権ということが明確に出てこなければなかなか、我が国において景観権というものを、ではだれが持つのかというところになってくるのかなという気がいたしておりますので、都市計画論とともに、景観権をもし推し進めていくならば、私は、どちらかというと、地方主権というものを明確にやっていくことによって、その地域の色合いをもっともっと特色あるものとして出すことができれば、それに付随して出てくる、自然発生的に出てくるような権利ではないかなというふうな気がいたしております。

 先生、御意見だけを言わせていただきます。失礼いたしました。

山花小委員長 次に、平井卓也君。

平井小委員 自由民主党の平井です。ラストバッターでありますので、あとしばらくおつき合いいただきたいと思います。

 ヨーロッパに端を発する近代憲法というものは、もう先ほど多くの方々がおっしゃっていたとおり、国家権力の乱用から国民の基本的人権を守るということです。またそれは、国家と国民の間で社会契約が結ばれているとする、いわば社会契約説からの影響を受けたものであって、我が国の現行憲法はその延長線上にある、そのことを我々は当たり前に受けとめているように思っています。

 そこで、私は、最近大変注目しているのは、最近の憲法の中には、このような考え方から一歩踏み出したものが出てきているのではないかということです。

 例えば、ドイツでは、一九九四年に、国の将来の世代に対する責任を定める基本法二十a条を新設する憲法改正がなされています。これは、「国は、将来の世代に対する責任からも憲法的秩序の枠内で、立法により、ならびに法律および法に基づく執行権および司法により、自然的な生活基盤を保護する。」先生御存じだと思いますが、このドイツ基本法の二十のa条というものに関連して少しお聞きしたいんです。

 このドイツ基本法二十a条というのは、国家目標として環境保護を定めているとされますが、ここには景観の保護までも含むと解することができるか。また、この規定がドイツにおける景観保護形成に関する法制度に何らかの影響を与えているかどうかという先生のお考えをまずお聞きしたいんです。

野呂参考人 現在の点につきましては、まだちょっと調査が足りないところがございまして、十分なお答えができないんですけれども、こういった国家目標規定が規定された前後に、特にいわゆる自然環境につきましては、連邦の都市計画法であります連邦の建設法典も改正されまして、かなり環境保護に関しては法律面でも充実したところがございますけれども、景観保護そのものに関しては、法制度の内容自体を見てみますと、それほど大きな影響は受けていないのではないかなと思っておりまして、景観それ自体は、またそれとは別個のところで考えられているのではなかろうかというふうに推測をしております。

平井小委員 景観に対する国民のコンセンサス、これが、ドイツの方があって、日本の方にないというのが今の現状につながっているというふうな解釈もできるのかなと思いました。そうじゃないと、なかなか今までこういうような違いは出てこない。もう一つ、その理由としては、向こうは連邦制ですから、地方分権の前提で国家がある。それから積み上がってきているということもあるのかなと思ったりするんです。

 先生、日本にはまだまだ景観に対する国民のコンセンサスというものはないと思われますか。また、ドイツと比較してどう思われますか。

野呂参考人 その点は、ちょっと実証的には申し上げることができないんですが、委託研究中でも引用しましたように、景観について、それが必要だと思う声というのは、日本でもかなり定着しているんだ、そういった調査結果がございます。ただ、確かに、財産権を自分が制限されてまで町の景観を守るというところまでいくかというと、そのあたりで多少差が残っているのかなというのが一つとしてございます。

 それから、もう一つの違いとしては、ドイツの場合、歴史的にかなり整然とした町が既にできているという面がございます。やはり、どうしても日本におりますと日本のような町が当たり前だと思っていて、景観のために規制するというと、何か自由がどんどん縛られていく、そういった印象を持ってしまうのではないか。

 ところが、美しい町並みとその心地よさを知っていると、そういった町をつくっていく必要があるというふうに実感ができるという、例えば、ちり一つ落ちていないと新しいごみを捨てないけれども、最初から汚いと平気でごみを捨ててしまうという、そういった、目の前にある現状の違いというのもどうも影響しているのではなかろうかというふうにも思っております。

平井小委員 先ほどのお話の中で、ドイツの都市景観保護・形成のためのドイツの法律に、醜悪化の禁止と条例に基づく積極的な景観形成という二段階になっているというふうにお聞きしましたけれども、この醜悪化というのは具体的にはどんなもので、だれが判断して、その判断に対して反発ということはないのか。もしそうであれば、このようなシステムは日本にも導入する可能性はあるかどうか、先生の御見解をお聞きしたいのです。

野呂参考人 醜悪化というのは、やはりかなり例外的な事態を念頭に置いたものでございまして、歴史的に古いところを調べてみますと、最初、この醜悪化という概念が使われ出したころ、裁判所はこれをかなり厳しく限定しまして、例えば、未完成のままで放置してあるような、もうだれが見てもこれはちょっとひどいと思うような、そういったものに絞ってこの醜悪化という概念を使っているわけでございます。

 現在の状況なんですけれども、これはもう少し具体的に調査をしてみる必要はあるんですが、現在の運用状況から申しますと、むしろ、最終的にはこの醜悪化という概念を使って建築許可を拒否できる、そういったことをバックにして、いわばそれをもとにまた協議をしていって、ある程度相手に納得をして多少設計を変更してもらう、そういった使われ方をしているようであります。

 ただ、最終的にもしその醜悪化を理由にして拒否するとしたら、これは裁判所が醜悪化に当たるか決着をつけるわけでありまして、そのときには、平均的な美的感覚を持った者が見て、もうこれはちょっと心が傷つくような、そういった醜い、例えば、祇園の古い町並みの中に突然黄色いビルディングができるとか、そういったようなものを、極端な例に限定して使われる概念であろうと思います。

 日本に導入すべきかどうかなんですけれども、少なくとも、直接法律に基づいて、しかも、例えば抽象的な条文に基づいて景観規制をするのであれば、この醜悪化というものがせいぜいの限度であろうと思っておりまして、かつ、この醜悪化という概念であれば地域を限定せずに適用できるというメリットがありますから、現状を徐々に徐々になるべくましな、現在やや無秩序な町並みができてしまっていても、できるだけ現状を改善していく、そういった極端なものを抑えていってもう少し調和した町並みにしていくときにこういった制度は使えるのではなかろうかというふうに考えております。

平井小委員 あと、過料についてちょっとお聞きしたいんですが、ローテンブルク市条例では、最高五十万ユーロというと、これは六千万以上ですね、という高額な過料が科されていますが、日本においても高額な過料を導入すべきかどうかということで考えると、日本は、憲法九十四条により条例制定権を法令の範囲内に限定しています。日本の景観条例は罰則を持たないが、地方自治法十四条の三項の範囲内で罰則等を定めるということになると、これは百万ですよね、日本の場合は。そういう意味で、景観法案にも高額な過料の規定は当然ないわけです。

 これは、財産権を大きく制約するということもあるので、導入するのであれば、憲法四十一条の関係から、法律によるべきものということになるんですが、これはどうでしょうか。

野呂参考人 まず、ローテンブルクで非常に高額な過料、ほかの自治体でも同じような規定があるわけでございますけれども、ただ、この過料の上限と申しますのは、州の建築規制法でありますとか、それから記念物保護法に刑罰を定めることができるという委任がございまして、ドイツの場合では、実施条例ではなくて、法律に基づく委任条例として制定されておりますから、こういった高額な過料が出てくるという背景がございます。

 ただ、もちろん普通の個人の住宅について、いきなり五千万、六千万というのはやや過激でございまして、恐らく、大きな企業など、相手方の経済力に応じた運用がされているのかなといったような推測もするんですが、ちょっとこれについてはそれ以上の詳しい情報は現在持ち合わせておりません。

平井小委員 最初にお聞きしたドイツ基本法二十a条というのを、僕はいろいろなふうにちょっと最近考えておりまして、この規定が、憲法を国家権力の制限とする考え方とは相反するものであると。この規定の解釈をめぐる活発な議論がドイツでもされていると私は聞いているんです。

 そこで、これは肯定、否定論、両方あると思うんですけれども、ここで、憲法を、お互いに権利を付与し合い、義務を課し合うことによって、国家を構成していくことについての全員の基本的合意であるととらえ直す見解に私は注目しているんです。この見解は、従来の憲法概念にとらわれず、憲法に国家目標や国民の義務、責任を盛り込むことの意義を認めたものとして、極めて参考になると私は思っているんです。

 翻って、これは我が国の憲法を考えたときに、憲法を国家権力の制限としたことにより、いわば国民の権利乱用に歯どめがかからずに、ゆがんだ社会をつくってしまったのではないか。その例が、無秩序な権利行使の結果として残った日本の貧しく醜悪な景観であったという意見もあると思うんです。そして、この現行憲法のように、国家と個人を対立するものとしてしかとらえない憲法観というのは、実は日本の歴史や伝統、日本人の思想に深い影響を与えているアジア的価値観などと比較した場合に、我が国の国民性に適合したものとは言いがたいのではないかなというふうな考え方もあると思うんです。

 今、基本的人権に関する観念を逆転の発想で転換させて、権利と義務を表裏一体のものとしてまず認識する、権利は権力に対する牽制ではなくて、自己実現の手段であると位置づけることが必要だと私は思うのです。そのためには、憲法の部分的な修正ではなく、まさに憲法における基本的人権の体系を日本社会の実態に合うように大胆に新しくするということも検討する必要があるのではないかというのが私の憲法に対する考え方なんですが、ドイツでも議論されている、ドイツ憲法の基本法の二十a条の今議論というものは、その点で参考になる点がありましたら教えていただきたいんです。

山花小委員長 野呂参考人、時間が来ておりますので、恐縮ですが、端的にお願いいたします。

野呂参考人 まず、憲法のとらえ方に関しましては、今おっしゃった二つのとらえ方のもう一つの要素としまして、人権というのを一種の民主主義的な権利としてとらえていく、つまり、国家と対立するというふうにとらえる考え方が強いとおっしゃいましたが、むしろ国家に参加していって、国家をいわばみずからのものとする、前提として、例えば表現の自由でありますとかいったものをとらえていく、そういった観点も重要でありまして、今おっしゃった二つに尽きるものではないというふうに思っているのが一つ。

 もう一つ、国家目標の規定というのは、またそれと少し違ったレベルでございまして、むしろ国家が何を、どういう政策を積極的に進めていくかというところでございまして、それに関して申しますと、日本の状況ではむしろ、まずはきちんと法律でそういう政策を実現して、それを定着させる、そうしたものが最終的に憲法として定着していくんじゃないかなというふうに個人的には考えております。

平井小委員 もう時間ですので。

 これは私の意見ですけれども、国民が何か主体性がなくなってきているというところは、やはりそういうところにあるのではないかな、そう思って、将来、お年寄りから若い人たちが肩身の狭い思いをしないような憲法論というのはどういうものかなという観点で、先ほどこういうお話をさせていただきました。

 ありがとうございました。

山花小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 野呂参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

    ―――――――――――――

山花小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行います。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、自席から着席のまま、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。

倉田小委員 きょうの野呂先生のお話を聞いていまして思ったんですが、日本では所有権の絶対性というローマ法の観念がひとり歩きしているということもおっしゃっておられました。それで何を連想したかといいますと、最近、圏央道ですか、あれに関連して、土地収用法の代執行でしたか、あれをストップする、停止するというような地裁判決が、同じ裁判官によってですが、事業認定の取り消しと、たしか代執行の停止という二つのあれで出されているということを考えて、かなり、そう言ってはなんですが、地域全体のこととか社会全体のことを考えないプリミティブな正義感といいますか、それがこの野呂先生のおっしゃるところの所有権の絶対性というところと結びついているのかな、こんなことを思います。

 私は、土地収用法の手続自体は相当精緻なもので、これを簡略にするとか要件を緩和するということは余りできないと思っていますので、逆に言うと、司法研修所における、裁判官というか、弁護士も含めてですが、全体の観念の中で、もう少し公共の福祉というもの、これが多数の者の権利を阻害しないというところから、あるいは先ほど船田先生がおっしゃっていた利便性というようなもの、それからさらに、その公共の福祉は快適さも求めるというようなものにまで広がってきているんだ、こういうことを少し、よく研修所として教えてもらうといいのだがなというようなことを感じました。

 裁判官も法曹の一部でありますけれども、やはり社会の変化についていけるような法曹を養成していかなければならない、こんな感想を持ちましたので申し上げた次第でございます。

 後になりましたが、自由民主党の倉田雅年でございます。ありがとうございました。

船田小委員 自民党の船田でございます。

 きょうは、財産権の問題を中心に、その成り立ちと、それから意味するところ、そしてドイツにおける、特に都市計画のこと、非常におもしろい議論を聞かせていただきました。先ほど私の質問でも申し上げましたように、財産権、二十九条においての公共の福祉ということが、特にまちづくりという観点から少し、適用概念というか意味するところがだんだん広がってきているということをちょっと私も感じておりましたので、質問させていただき、野呂先生からもそれに近い御答弁があったというふうに理解をしております。

 実は、私の地元が宇都宮、ちょっと、立てこもり事件等がありまして、印象の悪いところなんですが、それとは別に、まちづくりということを非常に今市民が我が事として考え始めているという状況があります。

 具体的には、町に路面電車を通そうじゃないか、こういう運動というか、そういう主張が大分なされてきたのであります。路面電車といいましても、昔のチンチン電車というイメージではなくて、非常に今はやりの低床型、バリアフリーに近い低床型で、高性能で、また車両自体も非常に軽量で、デザイン的にも非常にすばらしい、こういうものでありまして、最近の言葉では、ライトレールトランジット、LRTというふうに呼んでいるようでございます。ドイツの幾つかの地方都市におきましても、また大都市におきましても、このLRTというのがかなり町の中を走っております。昔から走っているものはありますが、まちづくりの道具として、ツールとして、LRTを新たに導入しようというのも幾つか出てきているようであります。

 日本では、広島とか高知は既に路面電車が通っておりますが、これを見直しをして、新しい車両を導入する、あるいは路線を延長するということを今計画しております。全く新しく導入しようというのは、たしか国内で五つぐらいありますが、浜松、それから私どもの宇都宮等々が挙げられております。

 ここで考えられるのは、やはり線路を新たに引いていくということになると、当然、これまで市民が享受していたいろいろな権利ですね、その町の中でのさまざまな権利ということを一部制限せざるを得ない。

 例えば、道路交通であります。一部道路が路面電車のレールによって占領されるために、道を広げなければ、今までどおり車を通しておりますと非常に渋滞が発生をする。だから、まちづくりのために、あるいは町の景観を新しくつくるためには、町中に入ってくる車の量を制限しなきゃいけない。ここが非常に大きなネックといいますか、市民の悩みということになっております。

 例えば、韓国・ソウルなんかでは、あるいはほかのヨーロッパの都市の一部においても、ナンバー制限というのがありまして、ある日は偶数ナンバーの車だけ入ってよろしい、ある日は奇数ナンバーの車だけ入ってよろしい、そういうような流入制限というものが行われ、それに市民が合意をして従っている、こういう状況があります。

 日本ではまだまだそのような、特に車社会の日本でございますから、非常に流入制限というのは厳しいことかもしれませんけれども、今言ったような、財産権というか、ちょっと考え方は拡大するのでありますが、そういうことをそろそろ日本人として考えるべきではないか、また、そのために、憲法のこれから見直しをしていく場合にも、そんな観点も十分に取り入れた改正の方向があってもいいのではないか、このように思っております。

 以上です。

園田(康)小委員 民主党の園田でございます。

 先ほども質問の中で、少し時間が足りませんで、述べさせていただきたいというふうに思いまして、お時間をいただきます。

 今、船田先生のお地元の方では、もう一度そういった路面電車を見直そうという動きがあるということを伺いまして、大変うらやましく聞いておりました。

 つまり、私の地元であります岐阜では、逆に路面電車廃止の動きが出てきてしまっておりまして、何とかこれを残そうではないかということで、私も、今週でありましたか、LRTの総会があるというふうに聞いておりますので、そこへ出席をして、今の話をぜひ皆さんに知っていただきたいというふうに思っております。

 恐らく、きょうの議論の中でも言われておりますけれども、都市論というものがさまざまな形態で変わってきて表現をされるようになってきた。しかも、世界的な憲法観の中を見ていきますと、やはり文化であるとか、風景であるとか、景観であるとか、歴史、芸術、伝統、あるいは居住生活、土地やエコロジーというようなさまざまな言葉を用いて記述をされ、そして、そこから私的所有権などの制限をする根拠、目的をきちっと明確にうたっているというのがございます。

 必ずしもその中身について定義は明確ではない部分がありまして、やはりその国々における歴史や伝統、文化というものが、長年の中で培われてきたものであるのかなという気がいたしております。

 ただ、やはりそういった多義的な部分、多元的な部分というのが、恐らく、この二十一世紀に入ってさらに進化を遂げていくのではないかなという気がいたしておりますので、やはりこの議論の中で、いわゆる憲法を草案するということを私どもも考えているところでありますけれども、五十年先、百年先、年金法案と違って、きちっとたえ得るというか、それが賞味期限が切れないようにつくるべきではないかということの議論の中からすれば、やはりこういった文化的な部分、それから都市論、都市計画論というものをもう一度見直しをして、再定義を行って、いわゆる公共性とのかかわり合いの中から、新たな枠組みというものを構築していく必要があるのではないかなという気がいたしております。

 その中では、先ほども、私的な意見という形で述べさせていただきましたけれども、先ほどの野呂参考人、先生のお話の中では、景観規定や景観権というものが、殊さら憲法条文上設ける必要はないのではないか、設けたとしても、それは単なる努力目標という形にならないか、いわゆる具体的な法律によって、法律のレベルの問題であるというお話がありました。

 しかし、私は、いわゆる二十五条、生存権、これもやはり、いわゆるある一面では努力目標と言われておりますけれども、しっかりとした憲法典の中に規定が設けられて、そこから私たちの、生活保護というような具体的な権利へと派生をしてきているということから考えれば、必ずしも全く意味がない、そういう規定を憲法条文上設けるのは意味がないということではないのではないかなという気がいたしております。

 したがって、これからのことを見据えた上で、先ほども申し上げましたが、地方分権あるいは地方主権という、地域主権というものの色合いがきちっと出てきて、住民参加のもとで地域の特色を生かしていくということであるならば、恐らく自然発生的にこの景観権というものが、ある種見出せてくるのではないのかなという気がいたしております。

 そういう中では、やはり憲法典の中で、今後のさらなる進化を遂げていくということであるならば、設けることも一つ考えられるのではないのかなという気がいたしております。

 以上です。

吉井小委員 吉井です。

 私は、きょうは景観について発言できませんでしたけれども、例えば、京都の円通寺というお寺がありますが、借景庭園の非常にすばらしいところですね。こういうところは、借景そのものが、景観が公共財なんですね。マンション業者が、土地財産の使用、経済活動の自由だけ主張して、そこにマンションを建ててしまうと、円通寺の景観はさっぱりになるわけですね。

 そういう点では、やはり歴史、文化、景観という、この公共財が殺されるようなことのないような制限というものは、これは近代的な社会の発展の中で、やはり考えられて当たり前のことだし、憲法の規定からしても、それは当然のことではないかというふうに思っております。

 やはり、今日景観が壊されたというのは、憲法に責任があるのではなくて、この憲法の、そういう幾つもある重要な規定が踏みにじられてきたというところに問題があるので、私は、そちらの方を正すという立場が今非常に重要な時代だというふうに考えております。

 次に、二十九条一項で、きょう、野呂先生のお話を伺っておりまして大変大事だと思いましたのは、やはり十八世紀のフランス人権宣言以来の発展があって、最初の財産権の絶対不可侵の考え方から、生存権、社会権の実現という中で経済的自由、財産権というものをとらえるようになってきたというところは、やはり人類の進歩のあらわれ、発展の今日的段階だな、それが憲法に、一項、二項、三項に生かされているなということをきょうは感じました。

 特に、二項の「公共の福祉」というのは、まさに社会権の実現、生存権の実現というところで、それに「適合するやうに、法律でこれを定める。」というところが大事だなというふうに思いました。

 三項の「正当な補償」については、これは議論もありましたけれども、最高裁判例でも、土地収用における補償については完全な補償、いわゆる政策的な取り組みの中での制約を設ける場合には相当な補償ということで足りるという見解等も示されておりますが、やはり三項の「正当な補償」ということを考えたときには手続を厳格にするという点で、本来、土地収用法でそれを定めるものなんですが、九七年特措法改正のときに、形式的手続としては残しておきながら、実質的にはこの「正当な補償」ということをゆがめてしまうといいますか、後退させるというか、そういう問題になったのは非常に残念な点です。

 とりわけ、土井さんからもお話ありました、沖縄にかかわる土地収用の問題などについては、これはちゃんと憲法九十五条に基づく、実質的に沖縄県対象でしたから、住民投票をきちっと行うとか、そういうことをやってこそ憲法の規定も生かされたものになったであろうと思っております。

 なお、最後に、私も圏央道の問題について時間があれば先生に伺っておきたいと思ったんですが、この判決では、行政に対して公益性の厳格な立証を求めた点が特徴的でありますし、そして、計画策定段階で住民が参加したり司法判断を受けたりする仕組みが不十分な現行法の問題を浮き彫りにしたという点では、やはり今の憲法に基づいて法律のあり方そのものとか、とりわけ今の時代に大事なのは、景観の問題もそうなんですが、住民参加、その地域を構成する住民の意思が早い段階から計画その他に盛り込まれていくように、そういう面での法律の整備や手続の整備、そういうことが極めて重要なことであって、憲法を現実に合わすんじゃなくて、憲法に既にあるわけですから、憲法を体して、それを生かすためにさまざまな法律や制度や政策的取り組みというものが大事になっているというふうに考えるものであります。

 以上です。

山花小委員長 他に御発言ございますか。

 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、来る二十七日木曜日午前九時から小委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時二十三分散会


このページのトップに戻る
衆議院
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-7-1
電話(代表)03-3581-5111
案内図

Copyright © Shugiin All Rights Reserved.