衆議院

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第5号 平成16年5月27日(木曜日)

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平成十六年五月二十七日(木曜日)

    午前九時開議

 出席小委員

   小委員長 山花 郁夫君

      倉田 雅年君    近藤 基彦君

      棚橋 泰文君    平井 卓也君

      船田  元君    古屋 圭司君

      松野 博一君    金田 誠一君

      辻   惠君    村越 祐民君

      笠  浩史君    太田 昭宏君

      山口 富男君    照屋 寛徳君

    …………………………………

   憲法調査会会長      中山 太郎君

   参考人

   (早稲田大学法学部・法務研究科教授)       田口 守一君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

五月二十七日

 小委員小野晋也君同月二十日委員辞任につき、その補欠として近藤基彦君が会長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員園田康博君及び土井たか子君同日委員辞任につき、その補欠として金田誠一君及び照屋寛徳君が会長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員金田誠一君及び照屋寛徳君同日委員辞任につき、その補欠として園田康博君及び土井たか子君が会長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 基本的人権の保障に関する件(刑事手続上の権利・被害者の人権)


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     ――――◇―――――

山花小委員長 これより会議を開きます。

 基本的人権の保障に関する件、特に、刑事手続上の権利・被害者の人権について調査を進めます。

 本日は、参考人として早稲田大学法学部・法務研究科教授田口守一君に御出席をいただいております。

 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、田口参考人から行刑上の問題を含む刑事手続上の権利及び被害者の人権について御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、田口参考人、お願いいたします。

田口参考人 早稲田大学の田口でございます。

 本日は、憲法調査会の場での発言の機会を与えていただきまして、ありがとうございます。私の専門は刑事訴訟法でございますけれども、刑事訴訟法は応用憲法とも言われるほど憲法と関係が深いわけであります。そういうことから私に発言の機会が与えられたものかと考えております。

 ただ、本日お示しいただきました論点は、非常に幅が広いといいましょうか、多くございまして、以下、レジュメに従いまして申し述べますが、やや論点のつまみ食い的なことになるかと思いますが、お許しいただきたいと思います。

 大きく分けまして、刑事手続に関する憲法規範の総論的な印象の話と、それから各論的な若干の問題点、及び最近問題になっております受刑者あるいは被害者の問題というような、大きく言って三つぐらいのグループに分かれた話になろうかと思います。

 まず第一に、正直申しまして、憲法調査会というところは、ちょっと乱暴な言い方をいたしますが、憲法九条の話ばかりしているのかと思っておりましたところ、非常に幅広くいろいろなことを検討しておられまして、認識を改めましたのですが、このような形で刑事手続上の人権について御議論いただくということは大変意味あることだと考えます。

 と申しますのは、一方におきまして、国民の方で犯罪の増加あるいは治安への関心というものが大きくなっていると同時に、犯罪とかあるいは捜査にかかわる人権への関心も大きくなっているかと思います。このことは、国民が、言うなれば、自分のことだけではなく、社会のことや公共のことにも関心を向けるということを意味しているのではないかと考えます。このようなことは果たしていいことなのか、難しい問題かとは思いますけれども、国民が社会のことや公共のことに関心を向けるということは、社会の質の向上という点から意味があることだと理解いたしまして、前向きに評価したいと思います。そのような観点から、憲法調査会におかれて刑事手続上の人権というものを正面からお取り上げになるということにも大きな意味があろうかというふうに理解しております。

 ところで、憲法問題という場合でも二つの場面があろうかと思います。

 一つは、もちろん憲法自体の改正問題でありまして、ただ、従来、刑事法に関する学会におきましても、憲法規定の改正というような問題は余り正面から論じられてきませんでした。これに対して、法律制度の憲法適合性の問題、すなわち合憲性の問題というのは大いに議論されてまいりました。そこでは憲法規定の意味が問題となりますけれども、このような憲法問題も憲法論としてもちろん大きな意味があろうかと思います。

 以下、この後者の意味における憲法論ということが私の話の中心になろうかと思います。

 さて、レジュメの二の方で憲法規範の意義というようなことを書かせていただきました。

 そこで、まず第一に申し上げたいことは、日本の憲法は三十一条から四十条まで十カ条にわたって刑事手続の規定を設けている。およそ百カ条の憲法規範のうちの一割を占めているということになりまして、比較法的に見てもかなり珍しい、恐らくほかにはないのではないかというような仕組みになっているかと思います。日本国憲法というのは刑事手続規範を非常に重視しているというふうに言っていいかと思います。

 そもそも、憲法制定過程におきまして、連合国の総司令部案を見た日本側委員たちは、この多くの規定はバランスを欠いている、詳細に過ぎる、多くのものは刑事訴訟法に規定すれば足りるのだというような意見を申されたようであります。御案内のように、帝国憲法は刑事手続については三カ条しか設けておりませんので、それに類したような対案を作成したようでありますが、総司令部としては詳細な人権規定が絶対に必要であるという立場から、日本案は全面的に退けられたと伝えられております。総司令部にとりまして、それまでの日本の実情、すなわち旧法下における人権じゅうりん事件の根絶ということを考えたというふうに報告されております。

 また、この憲法改正案に対する帝国議会の審議におきましても、この三十一条以下に対する審議というのは、参考文献に掲げました松尾論文の言葉をかりますと、ほとんどおざなりの審議を受けたにすぎないというふうに表現されておりますが、一括審議があったようであります。

 ただ、では、帝国議会における関心はなかったかといいますと、そうではなくて、やはり旧憲法下における人権じゅうりん事件の根絶ということについては日本側の議会においても大きな関心事であったということでありまして、細かな細部の議論にこだわることなく、一括承認というような形で成立したのであろうという理解をしているところでございます。

 このように、人権規定が憲法の一割を占めるということをどう見るか、こういうのが根本問題としてあるかと思います。私は、このような憲法規定のあり方というのも一国のあり方として一つの可能な道だろうというふうに考えております。刑事司法というのは、いわば社会の中のある種極限状態の中の議論でありまして、そこにおいて人間をどう扱うかという問題は、その社会、国家の文明的なレベルを示すというふうに言っていいかと思います。そういう観点から考えますと、人間らしい刑事司法というものの実現は、大きく言えば、人類の目標といいましょうか、あるいは私どもが汗を流すに値するテーマだと考えますので、そういったものを前面に押し出す憲法というのも一つのあり得る道ではないかというふうに理解しております。

 次に、憲法規範の抽象性ということであります。

 要するに、憲法と法律との関係ということであります。簡単に触れるにとどめますが、無論、人権に軽重はないと言うべきでありましょうが、その主要なものを憲法規範とする、その余のものは法律にゆだねるというような立法方針というのは自然なことだというふうに理解しております。そうなりますと、憲法規範というのは勢いある程度抽象的とならざるを得ないわけでありまして、その抽象的規範の解釈を通じて法秩序全体の統一性を図るということが、立法の姿としても安定したものではないかというふうに理解しております。以下の論述もこういった基本的な認識に立脚しているということであります。

 最後に、三十一条以下の人権規定の性質ということについて一言触れておきますと、逮捕にしましても、捜索あるいは黙秘権とか自白法則、いろいろございますけれども、いずれも国家権力が被疑者、被告人の人権を不当に侵害しないということを保障している、すなわち、被疑者、被告人からいたしますと、不当に侵害されないという権利が規定してあると言ってよかろうと思います。そういう意味では、これは侵害されない権利という意味で消極的人権と呼ぶこともできるかと思います。

 これに対して、被疑者、被告人の主体的な自己決定を国家が尊重するかどうか、こういう問題も考えることができようかと思います。被疑者、被告人が主体的に自己の犯した犯罪の後始末をするとか、あるいは主体的に罪に服したりするという側面も権利としてとらえるとするならば、これを積極的人権と呼ぶことができるのではなかろうかというふうに考えます。今後の刑事手続における人権問題について、このような積極的人権をどのように位置づけるかということも大きな課題ではないかと理解しております。

 さて、本論ということになりますが、憲法三十一条以下四十条の幾つかの権利について、先ほども申したように、つまみ食い的になるかもしれませんが、少し触れておきたいと思います。

 まず、憲法三十一条についてであります。これは、法定手続の保障、こうありますけれども、アメリカ憲法と同じく、適正手続、デュープロセスの保障と同じ意味だというふうに考えられておりまして、私もそのように理解しております。そして、これは三十二条以下の人権規定の総則に値する、こういうことでございます。

 御案内のように、刑事訴訟法第一条は刑事訴訟法の目的を規定しておりますが、そこでは、事案の真相を明らかにするという要請と基本的人権の保障とをともに実現するということを目的にしております。しかし、この両者が拮抗する場合がございますが、これについて、憲法は、適正手続の保障ということを重視しなさいということを言っているのだろうと思います。

 そういたしますと、例えば、覚せい剤等の証拠物の捜索・差し押さえ手続に違法があった場合に、最高裁判所の判例は、令状主義の精神を没却するような重大な違法があるというような場合には証拠能力を否定するという、いわゆる違法収集証拠の排除法則というものを採用しておりますけれども、これは憲法的価値判断からも支持され得る考え方であろうというふうに理解しております。

 もっとも、この適正手続というものは、手続違反があればおよそ証拠として使えないというような形式的な基準ではありませんで、事案の真相の解明であるとか真実の発見ということをも考慮しながら、なお手続の適正を維持するのだという基準を示している、より実質的な基準であるというふうに理解すべきであろうかと思います。

 本日は、余り私見を述べる場ではありません。そういったことについては、参考文献として掲げました私の論文でも御参照いただければと思います。

 次に、身柄拘束関係でありますが、憲法三十三条は、現行犯の場合を除いては令状による逮捕だ、こういう規定をしております。そこで、刑事訴訟法第二百十条の緊急逮捕については違憲ではないかという議論があるのは周知のところでございます。

 この点、緊急逮捕制度の必要性は明白でありますので、憲法上の疑義をなくするために法文を修正するということも考えられないではありませんが、「現行犯として逮捕される場合を除いては、」というこの文言の法意が、合理的な逮捕の一つの事例として例示されているというふうに理解することができるのであれば、緊急逮捕が合理的な逮捕であることは明らかでありますから、あえて三十三条を修正するという必要もないであろうというふうに理解しております。

 次の三十四条の弁護人依頼権でありますが、御案内のように、今国会におきまして、刑事訴訟法等の一部を改正する法律が成立いたしましたし、昨日は総合法律支援法というのが成立したと聞いております。このような法律の成立によりまして、被疑者の公的弁護制度というものが新たに立ち上げられることになりまして、憲法三十四条の弁護人依頼権の趣旨が大きく前進をしたと言えるかと思います。

 捜査段階、とりわけ身柄拘束状態における被疑者の弁護活動の重要性は、被疑者の人権保障のため、あるいは被疑者のより日常的な人間性の維持という問題のためにも、さらには適正な捜査の推進のためにも極めて重要でありまして、この法律では、当初は重大事件に限定されますけれども、いわば小さく産んで大きく育てるという観点から、今後の大きな取り組みの課題としていただく必要があるというふうに思います。

 次に、三十五条関係でございますが、この捜索、押収につきましては、これも御案内のように、とりわけ覚せい剤事犯に関するいわゆる電話傍受という問題が大きく争われてまいりました。最高裁の判例は、電話傍受というものが犯罪の捜査の上で真にやむを得ないと認められるときは、検証令状という令状でやってもよろしい、それをやっても許されるんだということを平成十一年、判例として出しておるわけであります。

 そこでの一つの大きな問題は、学説上争われているわけでございますが、電話傍受におきましては、多くの場合、これから犯すであろう、すなわち将来起きるであろう犯罪の話をするわけでありますから、捜査というのは、そもそも将来の犯罪の捜査をするということがあるのか、こういう非常に原理的な問題が争われたわけでございます。

 無論、多くの犯罪の証拠というのは、過去に起きた犯罪を捜査するわけでありますから、証拠というのは多くの場合は過去のものでございます。しかし、覚せい剤の取引ということになりますと、将来の犯罪ということが問題にならざるを得ないというふうに思います。ここは争いのあるところでございますけれども、たとえ将来の犯罪であっても、その犯罪が既に特定されているというような場合には、その証拠を収集するということも可能であろうというふうに私は考えておるわけであります。

 もっとも、判例は、今申し上げましたように、これを、改正される前の刑事訴訟法の検証令状で実施し得るとしたわけでありますけれども、右判例にも少数意見が付されておりますように、検証令状という令状で、憲法三十一条の要求するような適正手続の要請あるいは憲法三十五条の要求するような捜索・押収基準をクリアできるのかという点については疑問があるという理解をしております。

 この点、平成十一年に成立しましたいわゆる通信傍受法という法律は、極めて丁寧なといいましょうか詳しい手続規定を設けた通信傍受法であります。今後は、これによることになりまして、検証令状を使うということは恐らくなくなるだろうと思いますけれども、それは正しい方向だろうというふうに理解しております。

 次に、ちょっと長い法律なんですが、犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案というものが今国会に上程されております。その中には、重要な捜索、差し押さえの新提案が含まれているところでございます。

 とりわけ、いわゆるサイバークライム、いわゆるハイテク犯罪でございますけれども、その証拠というのはコンピューターの中に内蔵されているということでありまして、いわゆる電磁的記録ということになります。刑事訴訟法上の捜索、差し押さえというのは、有体物に対して行うというのが従来の通説、もちろん判例でもあります。このような無体情報の収集をどうするかというのは、大きな時代の問題ということになります。

 この点に関しまして、この法案は、これらの無体情報を差し押さえることができるとする方策を幾つか提案しております。これは、コンピューター社会の到来という時代において、新たな捜査方法として取り組まなければならない課題であると考えます。

 原理的な問題といたしましては、組織犯罪への有効な対応は必要でありますけれども、同時に、適正手続の維持ということも当然必要でありますから、この緊張関係にあります両方の要求を満たすようなシステムをつくっていかなければならないということであります。この両方のいずれかに偏ることのないシステムというのは質の高い刑事手続をつくることになるというふうに理解しますので、この点についてもぜひ取り組んでいただきたいというふうに思っております。

 次に、三十七条あるいは三十八条などの被告人の権利について、一言触れておきます。

 憲法三十七条は、被告人の権利として、幾つかの権利を規定しております。

 この問題に関しまして、先週成立いたしました刑事訴訟法等の一部を改正する法律案では、裁判員制度の導入を考慮しまして、刑事裁判の充実、迅速化を図るための諸方策を導入しております。例えば、公判前の整理手続などというのは非常に大きな改革になっております。

 これらの新しい制度につきましても、憲法三十七条の被告人の権利が十分に保障さるべきことは当然のことであります。さきに申し上げましたように、被告人の積極的な人権を保障するということをも視野に入れて被告人の権利を十分に保障するということが、この新しいシステムについても検討される必要があろうかと思います。

 このような問題の所在につきましては、お示しした参考文献の、松尾先生の第二論文等の指摘するところでございます。

 憲法三十八条関係につきましては、とりわけ三十八条一項あるいは三項関係について少し触れておこうと思います。

 一つは、いわゆる刑事免責制度でございます。

 憲法三十八条一項は、自己負罪拒否特権を定めたもの、こういうふうに理解されていますが、最高裁判所は、いわゆるロッキード事件の丸紅ルートの上告審大法廷判決におきまして、この刑事免責という制度、すなわち共犯者の一方の者に免責を与えて自己負罪拒否特権を失わせる、そして供述を強制する、その証拠を他の共犯者の証拠にする、こういうシステムは憲法違反とは言えない、こういう判断をいたしました。具体的には、憲法三十八条一項違反ではないということを言いましたが、これを日本が法制度として導入するかどうかは慎重に検討すべきであるというような大法廷の判断を示しております。

 組織犯罪を解明するに当たりまして、末端の実行行為者を捕まえて、その自白を得て、そこから組織の中枢に迫っていく、いわゆる突き上げ捜査でございますけれども、そういう捜査方法は、恐らくもはや限界に来ているだろうと思います。組織の一部を免責にして組織の中枢に迫るといったような捜査方法は、刑事司法全体の利益衡量と申しましょうか、バランシングテストとしても合理性があると私は考えておりまして、こういったものも立法化の検討をすべきであろうと考えます。

 また、憲法三十八条三項に関しまして、英米法に見られますような、被告人の有罪の答弁によって有罪判決を言い渡すという、いわゆるアレーンメント制度の採否についても賛否両論がございます。司法制度改革審議会の意見書は、争いのある事件と争いのない事件を区別して手続の合理化を図るということを指摘いたしまして、その中で、このような有罪答弁制度は今後の検討課題であるという指摘をいたしました。

 この点につきまして、私の考えといたしましては、被告人には必ず弁護人をつけるという制度を保障することにいたしまして、被告人が自己の利益について弁護人と十分に相談した上であれば有罪答弁制度を導入することは十分検討に値するというふうに考えております。

 一部の議論としては、被告人が自分は有罪と言うだけで証拠調べをしないというのは問題であるというような指摘もございますけれども、例えば、アメリカ法におきましても、そのようなことはありませんで、被告人の有罪答弁には、事実的な基礎、これはファクチュアルベーシスと呼んでいますけれども、それがあるかどうかの確認は裁判官の義務ということになっております。被告人の完全な、民事のような処分権を認めるという制度ではないということを正確に理解する必要があろうかと思います。

 次に、憲法三十二条の裁判を受ける権利に関しまして、とりわけ先週成立いたしました裁判員法について一言触れておこうかと思います。

 この点に関しまして、憲法三十二条の裁判所の裁判という場合の裁判所に裁判員が含まれるかどうかという点については、御案内のように、これは含まれないという意見があるのは周知のところでございますが、私見によりますと、市民が、いわば市民裁判官として、職業裁判官と同等に裁判に関与し得るかどうかというこの問題につきましては、日本国憲法はいわば沈黙しているというふうに理解すべきであろうと考えております。言及はしていないということは排斥もしていないというふうに理解するわけでございます。しかしながら、日本国憲法の精神、主権在民からしますと、むしろ、憲法は国民の司法参加というのを、沈黙はしていますけれども、期待している、望んでいるというふうに理解することも可能であろうというふうに考えます。

 具体的には、条文解釈としましては、裁判所という言葉は、この第三章の人権規定における裁判所のみではなくて、第六章の「司法」のところで、最高裁判所を初め、多くの箇所で裁判所の言葉が出てきますけれども、第六章の裁判所については職業裁判官が中心でありまして、その規定であるという理解をしてよろしいと。端的に言いまして、必ずしも、三章と六章で同じ言葉を使っているというような、かたい解釈をする必要はないのではないかというふうに理解しているところでございます。

 先に行かせていただきますが、四番目の、受刑者の人権につきましては、大きく、一つは三十六条関係で死刑の問題があります。死刑論につきましては大問題でありまして、ここでは中身に立ち入ることは省略させていただきますが、結論だけ申し上げておきますと、死刑制度というものが憲法違反であるというところまでは言えないという理解をしておりますが、ただし、将来的には廃止を検討すべきであるというのが私の基本的な立場でございます。

 自由刑の執行につきましては、これも、資料としてお示しいたしました行刑改革会議の提言がございます。いわゆる名古屋刑務所問題を契機としましてこのような提言がなされまして、懲戒手続の明文化であるとか不服審査の整備などが提言されておりまして、これらは緊急の課題であることは当然でございます。

 この点に関しまして一言触れるといたしますと、従来のような軍隊式の行進であるとか正座の強制といった方法に改善を加えるということは、無論考えられていいことだと思います。ただし、この際注意しなきゃならないのは、単なる応報刑論に変える、すなわち、自由刑というのは自由を奪う刑罰でありますが、自由さえ奪えば後は何もしなくていいと。ヨーロッパの刑務所の中に女性の写真が張ってあったりしまして、びっくりしたことがございますけれども、日本でそういうことがないのはなぜかといいますと、それは、社会復帰行刑といいましょうか、教育刑の思想が日本の伝統としてあるからであります。私は、もちろん改善は進められる必要がありますけれども、社会復帰行刑の理念までは捨て去るべきではないというふうに考えております。教育、すなわち立ち直りでありますけれども、その基本を日本の行刑においては維持すべきであろうと考えます。

 次に、被害者の人権ということでございます。

 これにつきましては、ヨーロッパにおきまして、とりわけ一九七五年ころかと思いますが、犯罪者の処罰というのは国家の事柄とされてきたわけでありますが、被害者というのは、いわば忘れられた存在、忘れられた人というふうに言われてきました。しかしながら、被害者が犯罪の当事者であることは明らかでありますから、被害者にも一定の権利があるという指摘が起きてまいりました。とりわけ性犯罪の被害者につきまして、多くの場合、男性によります刑事手続の過程におきまして第二次被害を受けるというような指摘も多々なされてまいりました。このような外国法の動向が一九八五年ころより日本にも紹介されて、我が国においても被害者論が広まってきたのは周知のところでございます。

 その中で、刑事手続において被害者はどういう地位を占めるかということについて議論が進みまして、大きく言って三つの領域が問題とされてまいりました。

 第一は、被害者を保護する必要があるという問題であります。被害直後の保護問題、あるいは手続に乗った中における保護問題などでございます。第二は、その被害者には刑事手続への参加を認める必要があるのではないか、そういう問題であります。立法的な手当てもなされまして、さらに、今後訴訟に参加する権利をどこまで認めるかということが議論されているところでございます。第三は、被害者を救済する必要があるという問題でありまして、現行法としては、いわゆる犯罪被害者等給付金支給法による給付金制度がございます。民事的には、加害者、被害者の示談によって金銭的な救済がなされてきましたけれども、それで被害者は救済されているかどうかという問題が残っているということでございます。

 このような問題を受けまして、具体的な法改正が幾つかなされてまいりました。まず、被害者には情報を提供する必要があるというようなことで、被害者連絡制度というようなものが設けられました。あるいは、刑事訴訟法におきまして、証人尋問をする際に、例えば子供の被害者であるとかそういった被害者については、ビデオを使ったビデオリンク方式による証人尋問であるとか、あるいは遮へい措置、つい立てでございますけれども、それを使った証人尋問であるとかいうようなことが導入されたのは、周知のところでございます。さらに、被害者が捜査の記録、訴訟の記録を閲覧、謄写できる、これによって民事の損害賠償請求訴訟を進めることができるというような手当てもなされた。さらには、公判において意見を述べるということもつけ加えられました。

 このようなことで、幾つかの権利が認められ、さらに、今後どこまで認めるべきかというようなことが議論されているところでございます。

 憲法との関係で、このような被害者の権利を憲法上明らかにすべきであるという主張がございますので、一言触れておきます。

 参考文献に示しました被害者論文におきましても、アメリカの州憲法、ウィスコンシン、テキサス、カリフォルニアなどの州憲法におきまして、詳細な被害者の権利規定が掲げられている。こういった諸外国の例も参照にしながら、我が国においても被害者規定を設けるという主張もございます。

 ただ、具体的に考えてみますと、被害者の範囲というのも微妙な問題がありますし、他の保護を要する人々のグループとの比較という問題もございます。そういった点から、先ほど申しましたような憲法の根本規範性といいましょうか、基本法的性格という観点から考えまして、すべて憲法に書くということが適当かどうかという点については、私は慎重に考えるべきだという立場であります。

 憲法十三条を根拠として被害者の人権を保護する方策は、法律上幾つも考えられるし、また努力すべきである。とりわけ、事務局作成の資料集にも載っておりますけれども、いわゆる修復的司法、リストラティブジャスティスという議論がございますけれども、その議論が主張しますように、刑事手続の外において加害者との和解を進める、その結果を刑事手続に反映させるという考え方が、恐らくは正しいやり方だろうというふうに私は理解しております。

 最後に、「むすび」ということで、先生方を前にしては釈迦に説法のようなことを書いてメモにしてありますけれども、言わんとすることは、憲法といいますけれども、この目の前にあります日本国憲法という形式的な条文の議論だけではなくて、実質的な憲法、私は憲法学者ではありませんから、そういう言葉が憲法上使われているかどうか存じませんけれども、実質的な憲法ということが大切である。そこでは、法律規範との重なりというものが大いにありますので、そこに目を向けていただきたいということであります。

 「この国のかたち(constitution)」と書いておきましたけれども、実は、お手元に配付した司法制度改革審議会の意見書の冒頭の三ページのところですけれども、そこには「この国のかたち」、これは司馬遼太郎の言葉だそうでございますけれども、そういう言葉が三ページに引用してありまして、「この国のかたち」の再構成が審議会の課題であるというようなことを言っております。その座長を務められました佐藤幸治教授が、別の論文の中で、「国のかたち」というかぎ括弧つきの言葉を使いながら、それに英語を当てられまして、コンスティチューションという英語を当てておられることを引用したかったわけでございます。

 いずれにしましても、憲法、これはコンスティチューションでありますけれども、そのものをどう変えるかという問題ももちろん重要でありますけれども、「この国のかたち」、すなわちコンスティチューションを変える改革というものが現在まさに進行中であるわけでありまして、先ほど申しましたような裁判員制度の導入あるいは公的弁護制度の導入といったものは、単に司法という狭い世界の話だけではなくて、国民の社会生活全般を変えていく大きな改革を意味すると考えます。それは、十分にコンスティチューションの問題であるというふうに思いますので、そういった理解をしていただければというふうに思います。

 さらに、先生方を前にして恐縮でありますが、「「国家」の変化と「国民」の変化」、大きなことを書いたわけでございます。言いたいことは、これからは国家中心のシステムが国民中心のシステムになるというような政権交代のような話をする、そのような理解をすべきではないということを言いたいわけでありまして、どういうことかといいますと、国家それ自体が質的に変化していく、国家権力それ自体が民主化していくわけであります。裁判官席に市民が座るということ自体が非常に大きな出来事だと思います。

 こういうわけでして、国家権力そのものが民主化していくと同時に、逆に国民が公権力に関与していくということによりまして、意見書の言葉をかりるならば、国民の統治客体意識が主体意識へと変化していくということを意味している。言ってみれば、相互のそういうダイナミズムにこそ現在進められている改革の核心があるというふうに理解しているところでございます。

 権力も変わるし国民も変わるということになりますと、まさに国の形が変わっていくということになるんではないかということでございますので、そういった憲法のいわば下支えのような部分についても御理解をいただきたいというようなことを申し述べて、私の意見を終えさせていただきます。

 ありがとうございました。(拍手)

山花小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

山花小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。倉田雅年君。

倉田小委員 自由民主党の倉田雅年でございます。

 きょうは、先生に、単なる刑事訴訟法あるいは憲法というよりも、いま一つ高い見地からお話を伺ったような気がします。特に、人権擁護というのは文明の程度をあらわすというようなお話、感銘を受けました。また、もう一つ、最後のおまとめの中での、市民が裁判席に並ぶというのは全体が動いているのだ、日本の全体が進歩しているというお話、感銘を受けました。

 きょうは、私は、被疑者の取り調べに対する弁護人の立ち会い権、これが、意見書でもまだ先の問題だというぐあいに先送りされた。今回確かに、裁判員制度ということ、それから刑事訴訟法の改正によりまして、被疑者に対する公的弁護制度の導入、こういうことが認められてきている、これは大きな前進だと思います。しかしながら、先生がどこかの論稿でお書きになっていましたけれども、制度論と中身の進展とは違うんだ、ここに私はまた先生の達見といいますか、御見識を見ているような気がします。

 と申しますのは、私も実は弁護士として長く刑事事件もやってきましたけれども、非常にきつい取り調べが被疑者段階で行われます。もっと言えば、参考人段階ですら、場合によったら、言い方によっちゃ、おまえ認めなければ逮捕する権利があるんだぞというおどかしが行われる。それによって、被疑者は、被疑者ないしは参考人でございますが、楽になりたいという気持ちから、実は真実に反する自白をしてしまう。これはもう正直言って日常茶飯事であります。こんなことは、先進国である日本であるべきではないと考えます。それこそ、人間性の維持というものが弁護にとっては本当に重要なわけでございます、被疑者にとって。

 そこでお伺いをしたいわけですが、制度論としては今言ったように大変な前進があるけれども、中身が弁護人の立ち会い権を認めないどころか、録画、録音すら認めていない。意見書は二〇〇一年六月でございます。あれからもう三年もたち、いろいろな議論がされましたけれども、被疑者に対する弁護人の立ち会い権こそ中身の進展ではないかと思うわけです。

 先生のおっしゃるところの職権主義から当事者主義への転換という点から考えましても、当事者主義の貫徹ということからいきますと、被疑者段階での弁護人の立ち会い権というのは絶対に必要だと思いますが、先生、いかがでございましょう。

田口参考人 倉田先生の御指摘は一々ごもっともでございますが、御指摘のように、現行法の解釈論という問題が一つあって、それから、あるべき立法論はどうあるべきか、二つの問題、分けて議論するべきだろうと思いますが、現行法の範囲内で立ち会い権をどう認めるかという問題も議論できなくはないとは思います。やってできなくはない。ただし、現行法の枠内での立ち会いを解釈論として認めるのはかなり困難であるという理解をしております。

 では、どうあるべきかということなんですが、私も、弁護人が立ち会いをして、被疑者に供述の自由を保障するということは必要なことかと思いますが、なぜ、それでは日本でそういった話が御指摘のように前へ行かないのかということなんですが、御案内のように、逮捕して三日間、勾留して十日、延長して十日、合計して二十三日間というのが日本の捜査機関の被疑者取り調べの絶対的な時間的制限ということになっております。これは、起訴前の身柄拘束をできるだけ短くして、そして起訴に持ち込むという点ではメリットはあると同時に、この期間内に答えを出さなければならないというある種の無理といいましょうか、そういうものも伴っていると思います。

 特に、これは憲法に少し引きつけてお話しいたしますと、きょうはスキップ、飛ばしましたけれども、四十条の刑事補償という規定もありまして、無罪になったりしますと補償をすることになっております。そういうこともありまして、我が国の検察官は、起訴をするについては大変慎重に起訴をするという伝統を持っている。そのことの是非もありますけれども、少なくともそういう仕組みになっていることは疑いがない、こういうことでありまして、少し嫌疑があればともかく起訴しましょうというシステムではないわけですね。

 そういたしますと、捜査機関、訴追機関といたしましては、この二十三日間にできる限り調べたい、真相をきわめたいという捜査をすることになる、こういうことかと思います。その中で、御指摘のように、参考人の段階から強引な取り調べをする、これらは延長して二十三日後のゴールのところを見据えてやっているからそういう無理なことが生ずる、こういうことでございます。

 要するに、今の話をまとめますと、弁護人がこれからつくわけですけれども、弁護人が被疑者とどういう関係に立つかという問題と身柄拘束をどうするかという問題は裏表の関係にあるということであります。ですから、私も、立法論として今後、立ち会い権、あるいは現行法の範囲内でも録音、録画の問題は可能かと思いますけれども、大いに検討すべきだと思いますけれども、この問題は、今申したような根本的な我が国における被疑者の身柄拘束システムというものとリンクしてくるということで、かなり本格的な、抜本的な取り組みを必要とするんではないか、それをすべきであるというふうに理解しております。

倉田小委員 ありがとうございます。

 そのような内容的な、取り調べの時間というものも含めて、やはり私は、弁護人立ち会い権がないと被疑者の人間性の維持というのは非常に難しい、こう思っております。

 もう一つお伺いしたいんですが、外国、英米ないしは独仏では、弁護人の立ち会い権、どうなっているかということを教わりたいんです。

 と申しますのは、沖縄などで米兵が日本人婦女に暴行を加えたり、こういう事件でなかなかアメリカは日本の司法当局に米兵の身柄を引き渡さない。この根本的な理由が、実は日本の司法には弁護人の立ち会い権がないから、どのような取り調べをされるかわからないというアメリカ側の根本的な危惧というか、あるんではないか。こんなことを考えますと、世界全体のレベルからいくと、やはりどうしても弁護人立ち会い権ということを立法化しない限りは刑事訴訟が世界レベルに達しないのではないか、こんなことを考えるものですから、英米の状況等を……。

田口参考人 全くおっしゃるとおりでありまして、弁護人の立ち会いを認めて世界レベルに達するということは検討すべき課題だと思います。

 御指摘の点は、簡単に申せば、先ほどのように英米、ドイツにおいて身柄拘束にリミットがないということですね。したがいまして、無理な取り調べをする必要もない。ですから、極端に言いますと、六カ月あるいは一年起訴前勾留をしておもむろに起訴をするということもあるわけであります。いわば無理な取り調べをしない長期拘束というのがあるわけでありますね。したがって、今度は逆に、長期拘束の是非という議論が外国ではなされる。日本は、短い拘束ですが、無理な取り調べという議論がなされる。

 こういうことで、完璧な制度はないわけでありますが、外国にももちろん問題があるんですね。ただ、日本の問題は、かなり人間性という点から検討を要することは確かだということでありますので、弁護人立ち会い、取り調べのあり方と身柄拘束の問題は、先ほど申しましたようなことで、総合的に検討する必要があるというのが私の理解であります。

倉田小委員 身柄拘束の時間との関係が非常に重要だということ、貴重なことを知りました。

 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、辻惠君。

辻小委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。

 憲法の問題に関連して、憲法改正の項目については、九条が現実とは乖離しているのではないかとか、あと、二院制の問題や憲法裁判所の問題、そして何より地方自治をめぐる諸規定について論議がされているところであります。

 私の知る限りでは、刑事手続に関係して憲法改正論議が特に起こっているということはないのであります。大きく言えば、裁判所が憲法の趣旨を実現するような役割を本当に果たせているのか、違憲立法審査権の行使と司法消極主義の現状についてどう考えるのか、これは大きな憲法問題であると思いますが、具体的な刑事手続に関連する問題としては、憲法問題としては今余り問題提起は、憲法改正との関係での問題点の指摘はないように思います。

 私は、この問題については、憲法の趣旨にのっとった刑事手続の現状が果たしてどこまで実現されているのか、むしろ本来憲法が予定していたあるべき姿というか、それが現実の必要性の前に徐々に緩和されていっているのが刑事司法の現実ではないかというふうに思います。例えば刑事訴訟法の三百二十一条以下の伝聞法則の問題をめぐっても、多くの例外が判例上認められていってしまっているというような問題があります。

 ですから、むしろ憲法と刑事手続というふうに考えた場合には、憲法が本来予定していた趣旨、これは参考人が先ほどお述べになられましたように、三十一条のデュープロセスを総則として、例えば刑事訴訟法の一条にその精神が生かされていて、実体的真実の発見と人権保障ということを考えた場合に、人権保障を基軸とするのが憲法の本来の趣旨であるという御説明をいただきましたけれども、では、それにのっとった具体的ないろいろ制度なり運用の実態が乖離する方向になっていないのかどうなのかということ、ここを検討することが大きな問題点であろう。

 他方で、視野を広げて、これは松尾先生の、配付された資料の中で、被告人の役割そして被害者救済、そういうふうに視野を広げる必要があるんだということを御指摘になっておられるように、これに限らず、先ほど質疑がありましたけれども、捜査の可視化をどのようにしていくのか、弁護人の立ち会い権をどのように認めていくのか、どのように充実させていくのかという新たな制度論を考えるべきである。だから、二つの問題があるというふうに私は思うわけであります。

 前者の問題に関連して、憲法、刑事訴訟法の本来予定していた趣旨が、現実の必要性という中でおろそかにされかねないような事実がないのかという観点に関連して、私はやはり、今般成立いたしました裁判員制度、そして公判前整理手続を中心とした刑事訴訟法の改正ということについて、依然として大きな危惧を抱いております。

 このことについては、衆議院の法務委員会でも私は繰り返し質疑をさせていただいておりますが、公判前整理手続の導入というのは、予断排除の原則を実現するための起訴状一本主義ということとの兼ね合いで、現実の運用の中で非常に微妙な問題が生じてくる可能性がある。公判中心主義、公判での直接主義、口頭主義を充実させるということを本来は目的としているのであろうというふうに思われますが、運用のいかんによっては非常にそれと背反するような結果にもなりかねない。

 第一回の公判期日以前に被告側、弁護側もすべての立証計画を明らかにしなければいけないというのは憲法三十八条の黙秘権との関係でも問題であろうし、現実問題として、検事側が立証できなければ弁護側が反証しなくても無罪判決がなされるべきだというのが無罪の推定の原則でありますから、それ以前に弁護側も立証計画を全部明らかにせよというのは無罪の推定の原則に反することでもあるのではないか、こういう危惧感を抱くわけであります。

 そういう意味におきまして、この裁判員制度というのは施行まで五年間という期間がありますから、その間にもっと、今私が申し上げた憲法上の理念を含めた議論なり、そして運用をどのようにすべきだということを議論されるべきであり、場合によっては見直しも考えられるべきものではないかと思いますが、この点、参考人はどのようにお考えでしょうか。

田口参考人 幾つかの問題があろうかと思いますが、まず、現実の必要に迫られて、憲法の予定するあるべき刑事手続がいわば変容してきたのではないか、こういう御指摘があります。

 この点につきましては、憲法あるいは刑事訴訟法の定めた公判中心主義、当事者主義というものは一種の理想論であって、日本の現実は違うのだ、こういう議論もありますが、私は、必ずしも、日本という国あるいは日本の国民の国民性というものがそういった憲法規範というものとは違う要求を持っているというような理解はしておりません。むしろ、先ほどのような厳しい取り調べであるとか伝聞例外の拡張であるとかいう問題も、これはあくまで制度の問題であって、日本の司法文化であるとか国民性の問題であるとか、そういったいわば論争抜きのようなものではない、努力によって何とでも変わっていくものだというふうに思っております。

 したがって、現実の必要性によって変容してきたということですけれども、これは制度改革によって幾らでも直っていく問題であるというのが一つです。

 それから、後者の問題、もう一つの問題は、今新しい制度ができたけれども危惧感を持っておられる、こういうことでありました。

 私は、何が決定的に違うかというと、やはり、試算によると年間二万五千人の裁判員が就任するんでしょうか、その辺はよくわかりませんが。そういった国民の素人の目が裁判官の合議室に入るわけですね。国民の目が入るということは大きな変化だと私は思います。準備手続の結果にしても、公判にそれを顕出する必要がありますので、判、検、弁護士で内々に話し合いをするというようなことが仮にあったとしても、なぜその証拠能力を認めたかどうかというようなことについては、公判の裁判員のいる、市民のいるところへ来て、こういう結果でこの証拠は認められましたよということを説明する必要があるわけですね。そうなりますと、やはり専門家の間だけの内々の話ということは、これからは通用しなくなってくると言っていいかと思うんですね。

 そういう点から、危惧感、もちろんそれはいろいろ問題はあると思いますけれども、なお期待を持って、国民の役割というものに期待を持ってもいいんじゃなかろうかというのが一つです。

辻小委員 衆議院の法務委員会で、裁判員制度について、私は、国民の司法参加と、他方で、被告人の刑事手続上の人権保障、この二つの要請がある意味で衝突しかねない、両方がきちんと保障されればそれにこしたことはありませんけれども。だとすれば、国民の司法参加というのは憲法上どのような権利なのかということをお尋ねしたところ、これは憲法上の要請でも憲法上の権利でもないんだ、政策的な要請なんだ、こういう御回答を野沢法務大臣からいただきました。他方で、被告人の人権保障というのは、これは憲法上の権利である。そうすると、二つの要請がぶつかった場合に、憲法上の権利が優越的に考慮されるべきではないか、このように申し上げ、しかし、憲法上の被告人の人権手続を侵害することはないんだから問題はないんだ、こういうお答えだったんですね。

 ですから、私は、公判前整理手続と相まって、被告人の憲法上の権利が侵害されるおそれがやはり場面場面であり得る、そうすると、それをどのように解決するかというのが非常に問題ではないかというふうに今も考えております。

 配付された資料の中で、松尾先生が、これは司法改革審議会発足間もないころに、「その効果には素晴らしいものがあるかも知れないが、大変な危険をはらんでいるかも知れず、審議会には慎重な検討を求めたい旨の意見を述べた」、このように書いておられることは、私はまさにそのとおりだと思います。

 時間が参りました。最後に一点だけ。この司法制度審議会で佐藤幸治会長が、これは参考人も引用されましたけれども、国民が統治客体から統治主体になるんだ、このことで画期的なんだというふうにおっしゃいますが、そもそも憲法からいえば、国家と国民とはやはり対立的な問題であって、国家の恣意から国民の人権を保障するという意味で、自由権の保障やいろいろな保障というのは、国家の侵害から国民をどう保障するのかが憲法の役割である。そういう意味で、やはり憲法問題を考えるときには、国民が統治客体から統治主体になったというふうに一概には言うべきではないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

山花小委員長 田口参考人、時間が超過していますので、簡潔にお願いいたします。

田口参考人 最後に申し上げたかったことは、国家と国民とのいわば二項対立的な関係というものを何とか克服するのが新しい時代ではないか、それに取り組もうとしているということで、おっしゃるような危惧はわからないでもないんですが、新しい時代に対する権利関係、人権関係というものを考えていく必要があるというのが私の理解です。

辻小委員 終わります。ありがとうございました。

山花小委員長 次に、太田昭宏君。

太田小委員 公明党の太田昭宏です。

 まず一点は、憲法三十六条、この中の死刑廃止の問題についてお聞きをしたいと思います。

 ここに死刑は廃止するという一項目を加えれば死刑は廃止になるわけですが、そういうものは刑法として扱った方がいいのか、憲法上は今のままにしておいて廃止ということを施行する場合でもいいのかという、そもそも憲法というものがどこまで書くかということについてのバランスの問題が一つ。

 そして、先生は先ほど廃止した方がよいと考えるとおっしゃったのではないかという、世論調査をすると死刑廃止という人の数がだんだん少なくなっているという傾向があるわけですが、その辺の、終身刑との絡みについてどうお考えかということについてお聞きしたいと思います。

田口参考人 大問題のお尋ねでございます。憲法三十六条が残虐という言葉を使っておるわけでありますが、私は、何をもって残虐と考えるかというのは、言うまでもなく、これは価値的な概念でありますが、歴史的な概念であるとも思います。時代の推移によって、残虐という言葉の意味内容、どういう人権の奪い方が残虐であるかということは、かなり歴史的な価値の問題が入ってきていると思います。場合によって、昔は残虐でなかったものが時代の推移によって残虐になったりする、こういうような変化があり得ると思います。

 そういう点で、では、現在の日本という国の歴史的な段階で死刑制度を残虐と認めて、先生御指摘のように憲法的な決断を下すということが必要かどうか、こういうことが第一の問題の究極だと思います。

 私は、その点については、現段階で憲法上結論を下すというよりも、その問題を、国民の意識であるとかあるいは国際的なバランスであるとか、いろいろな諸状況を考慮して法律にゆだねるという方が、憲法的に一刀両断に答えを出すよりもいいだろうという形で、現在行われている死刑制度それ自体は、そのまま憲法違反であるという判断を下さない方が賢明ではないかという考え方をしているということを先ほど申し上げたつもりでございます。

 そうなりますと、今度は、法律論的に、制度論的に、もろもろの事情を考えて、死刑を存置するか廃止するか、そういう議論をしよう、こういうことになるかと思います。

 御指摘のように、世論調査を見ますと、存置論といいましょうか、そういうのが多いというのは御指摘のとおりであります。しかしながら、これも先ほど申したように、例えば凶悪な犯罪が起きますとこの数字が動いたり、かなり国民の意識というものも調査の時期によりまして動いたりすることがあると思います。その国民の意識というものと同時に、制度をつくる方々のいわば価値判断というものとの、両者のいわばバランスの上で政策決定がなされるべきだろう、こう思います。

 そういう点から考えますと、確かに世論調査の数字というのはずっと下がっているわけじゃないわけなんですけれども、私は、以前に比べまして、以前というのは戦後のことですけれども、戦後の推移の中で比べまして、死刑制度を廃止する環境が前よりもいわば強まってきてはいる、その中の一つの重要な考慮要素が代替刑の問題であることは当然ですけれども、そういった制度も含めまして、廃止というゴールに向かっていろいろな環境をつくっていくべきだという理解でございます。

太田小委員 先ほどもありましたが、裁判員制度というのは司法制度改革全体の中で非常に大きな要素を占めているわけですが、先生が先ほど、憲法は、そうした市民裁判官としてということについては、言及はしていないが排斥もしていない、しかし、主権在民からいうと国民の参加を期待しているというふうに解せられるというふうに大事な視点を述べられたと思います。

 ならば、私は、この憲法全体にもう少し国民主権というものをいろいろな分野で鮮明に打ち出す憲法ということが大事だろうというように考えておりまして、そうした観点をあえて加えていくといいますか、裁判員とは申しませんが、国民が参加をしていくということのニュアンスをこの憲法の中に表現するということはどうなんでしょうか。

田口参考人 私は刑事のことしか考えておりませんので、全体的に、国民参加を憲法全体の色彩として全面に打ち出すべきかどうかという点について、ちょっとお答えするあれを持ち合わせておりませんけれども、基本的な私の考え方としましては、諸外国に見られるような非常に詳細な、膨大な憲法というよりも、憲法規範というものはある程度抽象的なシンボリックなものであって、それを法律規範が支えるという日本の現行のシステムというのは、私は、それはそれで存在価値があるんじゃないかという理解をしておりまして、何でも書けばいいというふうには考えていないということです。

太田小委員 被害者の人権というと、刑事あるいは刑法の世界というよりも、最近言われているのは、いわゆる報道による被害者の人権侵害というような側面というのはかなりあるわけですね。これを一体どういうふうにしていったらいいかということで、この間は田中眞紀子さんの例の文春の差しどめの問題があって、そういうことでさまざまな事象があるわけですが、この辺の、報道による人権侵害とその回復措置ということについては、先生はどういうふうにお考えなんでしょうか。

田口参考人 報道の問題は現実の問題でもありまして、いろいろなところで問題が出ておりますが、私は、一つ根本的に考えなきゃならないと思いますのは、あるいはヨーロッパの報道等も比較しながら考えてみなきゃならぬというのは、国民というのは本当に細かいことを知りたがっているだろうかと。

 マスコミの方は詳しいことはいいことだと信じておられるかと思いますけれども、そこは、どこまで詳しいことを国民が欲しているか、かつ、その詳しい情報を、いつの段階で、特にこれは犯罪が問題になっていますけれども、犯罪の直後なのか公判でもいいのか、いつ知りたがっているのかという点について、私はもう少し分析していただきたいという気はしております。その前提がないと、オール・オア・ナッシング的に報道が是か非かという議論は、場合によっては危険なことにもなりますので、もう少し分析的に詰めていって、各論的な詰めをすべきではないかという理解をしています。

太田小委員 先ほど倉田先生がおっしゃった質疑は非常に興味深かったわけですが、勾留期間という問題と弁護人の立ち会い権という問題については、期間であるならば、逆にその立ち会い権という制度自体は導入して、そこの一部とか、そういうものが原理としてあるんでしょうか。何日間はそうではないが何日間はあるというような、そういう立ち会い権のあり方というものを考えることはできますか。

田口参考人 全く新しいアイデアだとは思うんですけれども、今までそういう議論はしてこなかったんですが、外国の例からいきますと、厳密なタイムリミットは設けない、その上で自由に立ち会いなり接見なりを認めるという形でやっているのが外国の比較法的な例なわけですね。

 今先生が御指摘なのは、多分その中間あたりのアイデアだろうと思うんですが、要するに持ち時間みたいなものですね。御指摘なのはそういうような制度だと思うんですけれども、そういうものが可能かどうか、ちょっと……(太田小委員「原理としてあり得ないのかなというふうに思いながらも、あえて聞いたわけです」と呼ぶ)考えてみたいと思います。

太田小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、山口富男君。

山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。

 私は、参考人がお述べになりました、憲法規範の抽象性を認めて、現行憲法の規範をさまざまな形で実現、具体化を図っていく、そして法秩序の安定を図るという考え方に賛成です。

 それで、参考人が三つの柱でお述べになりましたので、三つの柱に即してお尋ねしたいんです。

 初めに、刑事手続上の人権に関する憲法規範の意義というところにかかわるんですけれども、指摘がありましたように、日本の場合は、刑事手続、特に適正手続について、三十一条から四十条にかけて、他国に例を見ない非常に詳細な規定を加えております。この背景には、これも指摘がありましたけれども、二十世紀前半までのあの治安維持法体制下での非常に過酷な、特高警察の拷問を含めました野蛮な人権侵害と弾圧があったということが背景になっております。それだけに、憲法制定議会で、衆議院段階で、四十条を加えて刑事補償まで入れたということも、そういうことを背景にしていると思うんです。

 となりますと、憲法規範の理解に当たりまして、条文解釈とともに、こういう規範を書き込まざるを得なかったといいますか、そういう歴史的な背景をきちんと踏まえるということが、やはり日本国憲法の場合、特にこの三十一条から四十条を今後法秩序として安定的なものにしていく上でも極めて重要だというふうに考えるんですけれども、この点は、参考人、どういうお考えでしょうか。

田口参考人 先ほども申し上げたことですが、他国に例を見ない詳細な人権規定を憲法規範に設けるということは、御指摘のように歴史的な経緯がございますが、それを単なる過去の遺産にとどめないで、将来にわたって日本の刑事司法システムが人権を重視するシステムであるということを積極的にアピールしていくためにも、存在意義があるというふうに理解しています。

山口(富)小委員 二十一世紀に憲法論を論じようとした場合に、その点が非常に大事な眼目だと私は思うんです。

 二つ目にお尋ねしたいのは、刑事手続上の人権各論にかかわるんですけれども、実は、今度の法改正があった刑訴法の被疑者の公的弁護制度の導入なんですが、これについては、法改正の前から国選弁護人制度が広がりまして、私は、これは前向きなものとして評価しております。同時に、今度の法改正では、開示証拠の目的外使用の禁止、こういうもの等がありますので、被告人と弁護人の権利を侵害しかねない問題点があるということで、法改正そのものについては反対の態度をとったんです。

 問題になりますのは、憲法三十四条の弁護人依頼権の趣旨が、先ほども、形式的なものじゃなくて、いわば防御権の実質的な保障を含むんだという御指摘でしたから、今度の法改正で弁護人による被疑者のための防御活動が十分に保障されるのかどうか、あるいはさせるためにはどういうことに留意する必要があるのか、そのあたりについては、参考人としてはどういう意見をお持ちなんですか。

田口参考人 非常に大きい質問だと思います。といいますのは、被疑者段階の弁護人活動についてのいろいろな問題点がたくさんあります。例えば、先ほど来問題になっておりますような立ち会いの問題、これは中核的な問題が一つあると思うんですが、それ以外にも、今御指摘のように、準備手続における証拠開示の問題も大きな柱だと思います。

 先生が証拠開示の問題に一言触れられましたが、その点について言いますと、今度の新しくできた準備手続における証拠開示制度は、従来の証拠開示の実務といいましょうか、これを大きく前進させるであろうと一応期待はしております。

 ただ、先生御指摘のような目的外使用というような条文が入っていますから、これをどういう運用をするか、こういう問題はありますが、中には、これは弁護士先生のあれですけれども、極端なケースとして、そういったものをマスコミに故意に流すとか、あるいはもっとひどい例があるかもしれません。極端な場合についてはチェックする必要があることは明らかでありますから、その辺、どこで線を引くか、どこまでが適正で、どこまでが目的外かというのは今後詰めていくことだとは思います。

 いずれにしましても、従来よりも弁護人の活動領域が広がっていることは確かだ、こう思います。後退はしていないと思います。ただし、おっしゃいますように、広がってくれば、もちろんいろいろな問題点で、捜査当局あるいは裁判所との緊張関係が生じてきますから、それは今後、一つ一つ解決していく必要があろうと思います。

 と同時に、実を言いますと、先週末、日本刑法学会におきましてこの問題を取り上げたばかりでございますけれども、いずれにしましても、当初九千人ぐらいからスタートするのが、二〇〇九年には九万人になるわけですね。そうなりますと、弁護士の体力問題というのが出てくるわけですね。こういった点で、今度は、個別的な防御権の保障であると同時に、弁護士全体の底上げという大きな課題もあって、大きな問題がどんどん出てくるということで、これから刑事弁護、捜査弁護を含めて、極端な話、今まではいわばボランティア的な刑事弁護が、これからはルーチンワークになっていくというふうに思いますので、これからようやく刑事弁護の本来の時代が来るというふうに思っています。

山口(富)小委員 時間がなくなると困るので、先にお尋ねしておきますが、三つ目の柱の被害者の人権の問題なんです。

 これは私は、単に刑事司法の面だけでなくて、経済的にまた精神的に、被害者の皆さんの人権問題で総合的な施策の前進を図ることが大事だと思うんです。

 先ほどのお話ですと、被害者の人権の解釈の憲法上の論拠をどこに見出すのかという問題なんですが、総括的には十三条の幸福追求権があると思うんです。最近は、あそこの読み方を生命権、自由権、幸福追求権とかなり広げて見る解釈があるようなんですけれども、参考人のお考えとしては、やはり人権の総論的な規定である十三条からこの問題に接近するのか、あるいは二十五条などもこの問題の憲法上の論拠になるのか、そのあたりはどういうお考えですか。

田口参考人 私も、先ほど申しましたように、十三条が基本だろうとは思うんですが、例えばフランスなんかの議論を聞いていますと、あそこは社会連帯という言葉が定着している国なんですけれども、社会連帯、助け合いだと思いますね。助け合いで困っている人を助ける、こういうようなことから被害者支援のシステムを立ち上げている、そういう説明をしておりますが、日本でいきますと、その議論というのはどっちかというと二十五条にも関係してくるかなと思います。

 したがいまして、もう少し社会的な側面も、お互い助け合いですからあるかなという、余り詰めておりませんが、そんな感じです。

山口(富)小委員 フランスの場合、よく社会的自治という言葉で、どうもそういう人権を支える伝統があるようですけれども。

 もう一点、話が前後するんですが、死刑制度にかかわる問題なんですけれども、私は、これは、憲法上の合憲性にかかわる議論と立法政策上の存廃論は区別して考えた方がいいように思っているんです。

 それで、一つお伺いしたいのは、一九八九年の十二月に、国連総会が、長い名前ですけれども、死刑の廃止を目的とする市民的及び政治的権利に関する国際規約第二選択議定書、いわゆる死刑廃止の議定書とか死刑廃止条約とか言われているようですが、そういうものを総会で採択しました。この問題での国際的動向について、参考人の方でこういう点があるということがあれば、幾つか示していただきたいと思います。

田口参考人 国連を含め世界の動向について、必ずしも私は全部今承知しておりませんので、やや留保つきの発言になりますが、ヨーロッパ諸国については、死刑を廃止しているのが大勢であります。とりわけ、最近は日本人が世界に出ていくわけでありまして、いろいろなところで捕まったりするというようなことがあります。そのときに、犯罪者を引き渡すとか、そういった問題も現実に起きているわけですね。そういったときに、死刑のある国とない国で、身柄を引き渡したり引き渡されなかったりということが現に起きている。

 そうなってきますと、この問題についても、基本的には国内法の問題ではありますけれども、グローバルスタンダードといいましょうか、世界的なそういった死刑の動向というものについて配慮せざるを得ない時代にもう我々は来ているということは確かだろうと思います。

 そういった点で、今先生御指摘のように、世界の動向というものを我々は踏まえて議論をするというのは、まことそのとおりだと一応は思います。思いますが、先ほど別の先生の御質問にもお答えしましたように、日本は日本の時間、空間の特殊性がありますから、その歴史的な現実の中でどうするかということは法制度の問題として詰めていくべきだ、こういう理解です。

山口(富)小委員 時間が参りました。ありがとうございました。

山花小委員長 次に、照屋寛徳君。

照屋小委員 社会民主党の照屋寛徳です。

 きょうは大変貴重な御意見を拝聴することができました。感謝を申し上げたいと思います。

 まず最初に、参考人もお触れになりましたけれども、裁判員制度について、けさの読売新聞に、読売新聞が実施をした世論調査の結果が報道されております。これは、全国有権者三千人を対象に個別訪問面接聴取法で実施をし、回収が千八百六十八人、回収率六二・三%という世論調査でありますが、私もこの報道を見て大変驚きました。また、私がかねてよりこの裁判員制度に危惧をしておった点も出てきたなというふうに思っております。

 裁判員制度の導入に賛成をする人は、「どちらかといえば賛成」を含めて五〇%、それから、「反対」あるいは「どちらかといえば反対」が四〇%ですので、裁判員制度の導入自体には賛成する人が多いということでありますが、一方で、裁判員として参加したいかどうかということについては、「参加したくない」人が六九%なんですね。そして、「参加したい」二七%を「参加したくない」という人が大きく上回っているという結果が出ております。しかも、「参加したくない」という人はどの年代でも七割前後を占めておるということでありますが、その理由として、「有罪・無罪などを的確に判断する自信がない」というのが五九%で一番多いんですね。もう一つは、「人を裁くことに抵抗を感じる」というのが五四%であります。

 読売新聞では、世論調査の結果を受けて、東京都立大の前田雅英教授の次のようなコメントが掲載されております。「参加したくない人が七割を占めた事実は重い。導入する側が、理念先行で、国民の声を聞いてこなかったためだ。実施を急げば、国民の意識とのギャップが広がり、制度はうまく機能しないだろう。より良い制度にするためには、五年以内の実施にこだわらず、国民の理解度を見ながら、時期を決めるべきだ」、こういうコメントでありますが、参考人は、今御紹介しましたけさの読売新聞の裁判員制度に関する世論調査の結果については、どのような御感想をお持ちでしょうか。

田口参考人 一つは、法律が五年間という準備期間を設けておりまして、五年間で、裁判所を初め、あるいは我々大学人もそうかもしれませんが、大いにこの制度の趣旨を国民に説明したり普及したりするという努力はしなきゃならない、こう思っております。

 今の数字なんですけれども、今まで司法制度改革審議会も、いずれかといえば、参加する国民の声を聞くというよりも、法曹専門家の声を聞いて議論してきたことは確かでありまして、参加の主体である国民の声をどれだけ聞いてこの制度を立ち上げたかという点については、御指摘のとおり、やや不十分だったかなという印象を受けますので、その点での国民の声をくみ上げる方法というのは、これから、おくればせながらでも全力を挙げてやらなきゃならない、こう思います。

 ただし、一つ具体例を出させていただきますと、たまたま私、これは外国の例ですけれども、カナダですが、これは陪審制度の国ですけれども、カナダの陪審員の選定手続に立ち会った経験ですけれども、そのときの経験として、いわば辞退権というのが認められていますから、辞退ですね、やりたくないという人がどのぐらいいるかということで申し上げますと、私が参加したその日に招集をかけられた国民の半分が辞退をいたしました。

 これは国によって違うかもしれませんけれども、国民のどれだけの賛成があれば制度はうまくいくのか。これはなかなか難しい問題なんですけれども、少なくも、少し乱暴な数字を出しますと、八割、九割賛成がないとうまくいかないというものではないだろう。しかしながら、賛成が二割、三割ではうまくいかない。どこかに数字があると思うんですけれども、しかし、これも強引に義務化して押しつけるというのはよろしくない。一つの目安として、今、私、半分が辞退したと言いましたけれども、半分をちょっと超えるぐらいの協力が得られれば、制度としてはそれはできるんだ。世の中にはいろいろな考え方がありますし、都合の悪い人もいますから、しかし、その半分の人がよしやろうと言ってくだされば機能するんではないか。非常に個人的な、主観的な見方ですけれども、私はそんな理解をしております。

照屋小委員 私は、この世論調査の結果の中で、裁判員制度に参加したくないという理由の中で、「人を裁くことに抵抗を感じる」という人が五四%というのは、大変大きな問題をはらんでいるんではないかというふうに思います。

 裁判員制度は、憲法にも定めのない新たな義務を創設し、国民にその意に反して裁判員として重大な刑事事件につき被告人とされた者を裁くことを強制し、さらには厳重な守秘義務を刑罰をもって科すなど、憲法十三条あるいは十八条、十九条、二十一条などに違反するという主張をする者もおりますけれども、田口参考人はどのようにお考えでしょうか。

田口参考人 人を裁くというのは、かなり哲学的といいましょうか、ドストエフスキーを持ち出すまでもなく、自分に人を裁く資格があるかと問われると、それは非常に難しい問題だとは思います。

 しかしながら、実を言いますと、少し主観的な答弁をさせていただくと、私は、人を裁くということを我々は本来避けることができないという理解を持っておるんです。そのことからいわば我々は免除されて、専門の裁判官や検察官たちにその職務を恐らくゆだねてきたんだろう、こう思いますけれども、しかし、市民として市民社会の秩序を乱した人々を裁かざるを得ない、あるいは裁くということは恐らく本来的な任務だろうという理解を私はしているんですが、そこは論争になるかもしれません。

 先生御指摘のように、これは義務である、あるいは苦役であるとか、そういう御指摘も確かにありますけれども、私は、あるフランスの人が言ったことで、非常に印象的ですけれども、義務というのは権利の別名であるという表現がございます。私は、裁判員になるのは苦役であり義務であり、いいことは何もないという理解は、やや一面かな、こう思っておりまして、陪審制について、公共精神の学校、スクール・オブ・パブリック・スピリットという有名な言葉がありますけれども、国民として人を裁くような重大な場面に参加することによって、その人自身が大きな体験をするということが権利でもあるという側面も考えるべきだ、こう私は思っております。

 したがいまして、やや哲学論争になりますけれども、私は、単に国民が嫌々やりたくないことをやらされるというようなことは、やや物事を一面的に見過ぎているんではないかというふうな感じを受けております。

照屋小委員 終わります。

山花小委員長 次に、松野博一君。

松野(博)小委員 自由民主党の松野博一でございます。本日は御苦労さまでございます。

 私は、先生の方のお話をお伺いしている中で、容疑者、被告、受刑者、こういった社会的なある種の極限に置かれている方々の人権をどう扱うか、とらえるかということが、その国、社会の人権意識の象徴であり、集中的な形であらわれるというお話をお伺いしまして、まさにそのとおりであろうというふうに思います。

 そこで、今回、先生の方にお話をお伺いしたいと思いますのは、容疑者、被告、受刑者の人権と、先ほど先生もお話をされておりましたけれども、報道、国民の知る権利を両方あわせて比較をして、容疑者の人権がどう守られていくかということに関してお話をお聞きしたいと思います。

 先ほど先生が、報道における国民の知る権利というのはどの時点でどれほど詳しく知る必要があるのかということをしっかりと検証していかなければいけないというお話をされました。この小委員会で私もかつて一度質問をしたことがある質問で、もう一度させていただくことなんですが、現在、日本におきましては、容疑者の時点で、特に警察が逮捕に踏み切る時点から実名報道が始まるわけであります。現在のマスコミの力からいうと、一度実名報道を流されますと、その人が結果的に無罪であっても、生涯にわたって回復し得ないほどのダメージを受けるわけであります。

 この問題に関して、先生が先ほどおっしゃった、国民の知る権利、いつの時点でどれほど詳しくということから考えると、現状の容疑者の時点での実名報道というのをどうお考えになるかということに関してお伺いをしたいと思います。

 また、受刑者になった時点で、各報道機関が、その犯罪が起こるに至った経緯等々も家族や関係者も含めてルポルタージュのような形で発表をすることが多々あるわけでありますけれども、そういったことも、本当に本質的に国民の知る権利に基づいたものかどうか、ちょっと私個人としては疑わしいものがございます。

 そういった今の現状に関して先生がどのようにお考えになっているかに関して、お伺いをしたいと思います。

田口参考人 先ほども少し申し上げたことですけれども、日本の現状における犯罪報道というのは、ヨーロッパに比べますと、ほぼ無制約な状態だと思います。今のままでいいとは私も思いません。どうすればいいかというのは、いろんな対策があろうかと思うんですけれども。

 先ほども申し上げましたように、犯罪が起きた直後に、実名、かつ、これは多くは警察発表に依存しますけれども、犯罪事実の詳細までも直ちに報道されるというのが日本では一応何の規制もない、こういうふうに行われておりますが、先ほども申したように、それの及ぼす影響というのは御指摘のとおり大きいわけですね。しかしながら、犯罪事実あるいは被害者の名前というのはどこかで報道する。だから、それは、例えば公判が始まって、公開裁判になりますから、公判が始まって公開でオープンになったときに詳しく話すというシステムも考えられるわけですね。

 ヨーロッパの人の言葉でおもしろい言葉がありまして、国民には少し待っていただく、こういう言葉がありますけれども、少し待っていただくということだって日本でも考えられていいんじゃないか。今すぐ知りたいかもしれないけれども、もう少し待てば、いずれ公判で明らかになりますから、そういった時間差的なシステムも考えられるのではないかというふうに思います。

 これは、法的規制というよりも、まずもって、マスコミの方で内部規範がありますけれども、ああいったものをさらにブラッシュアップしていただいて、各社の協定でまずやっていただくというのが恐らく本筋なんだろうと思いますけれども、そういった問題提起をマスコミに対してする必要がある、こう思います。

 それから第二に、受刑者あるいはその家族のプライバシー問題、これも御指摘のとおりの問題があって、限度があるべきだ、こう思います。

 特に、諸外国、ヨーロッパの手続なんかを見ますと、刑事裁判におきましても、有罪、無罪の裁判はもう完全に公開でありますけれども、有罪と決まった後のいわゆる家族関係であるといったような量刑手続については、プライバシーがどんどん出てくるわけですね。そういう意味において、刑事裁判における量刑手続の公開制というようなことが議論になっておりますけれども、これは残念ながら日本ではまだ議論になっていないというところがあります。

 これも、今般、裁判員制度が導入されることによって、陪審裁判ではありますけれども、刑の量定手続というのは恐らく純化されるだろう、こう思いますけれども、刑の量定手続で出てくるいわば非常にプライベートな情報というものが、これも全く報道の自由なのかという点、その延長線上に今の刑務所に入った人のプライバシーもあると思いますけれども、そういった問題も御指摘のとおり議論すべきである。

 具体的な方策については、私はまだはっきりしたものを持ち合わせておりませんが、今のままでいいとは思いません。

松野(博)小委員 引き続いて、これはアメリカの事例であったというふうに記憶をしておるんですが、常習的な性犯罪者等で再犯の可能性が非常に高いと司法が判断をした場合に、その方が刑期を終えて出所をした後も、その方がどこに居住をしていてという情報や顔写真等々をオープンにするということがあったかと思います。

 これは日本では当然行われていないわけでありますけれども、しかし、一つの事例として、受刑者なり刑を終えた方の人権と、これから起こる可能性が高いと言われる犯罪の予防、これは社会全体のいわば利益につながる、予防は利益につながることだと思うんですが、この関係に関して、例えば今の、常習的な性犯罪者が出所後その情報をオープンにするというような事例をもって先生がどのようにお考えなのか、お伺いしたいと思います。

田口参考人 かなり難しい問題の質問を受けたと思いますが、外国において性犯罪者の情報を社会なりあるいは共同体なりが知っているということは、私も聞いたことがあります。

 それが日本でどうかということになりますと、理論的に言えば、果たして日本における刑罰理論と整合性を持つかどうかですね、先ほど社会復帰と申しましたけれども。そういう点で大きな問題がありますし、人権上も大きな問題があるとは思います。ただ、ではほうっておくのかということになると、そうもいかないということも御指摘のとおりだと思います。

 これも外国の例で、私もおやっと思ったことがありますけれども、性犯罪のみならず暴力事犯等について、かなりの先進国ではDNA登録というのが常態化していますね。かなり普通になってきている、こういうことがあります。今は指紋の登録制度はありますけれども、DNA登録制度というのはないわけですが、そういったものがもし制度的に定着していきますと、これはかなりの犯罪抑止効果もありましょうし、万一の場合の特定も早くできる、こういうことで、恐らく今後、そういうことが検討される時代が来るだろうと思います。

 何らかの手を打って、しかも御指摘のような人権に配慮しながら、そういった再犯を何とかしてできるだけ抑制していくという努力はする必要があるかなと思います。

松野(博)小委員 ありがとうございました。質問を終わります。

山花小委員長 次に、金田誠一君。

金田(誠)小委員 民主党の金田誠一と申します。

 きょうは、先生、貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございます。

 死刑制度に関連をいたしまして、幾つか質問をさせていただきたいと思います。

 と申しますのも、私、超党派でつくっております死刑廃止議連に所属をしておりまして、何とか死刑廃止に向けて我が国も踏み出すことができないものか、こういう観点から活動を続けてございます。先生の御意見では、違憲とまでは言えないが将来的には廃止を検討ということでございまして、私どもの議連もおおむねそういう立場でございます。違憲であるから廃止をしろという考えは、そう多くはない状態でございます。

 主たる立場は、現行制度によっては、冤罪の可能性、これはもう避けられないということが一つございますし、死刑は犯罪の抑止効果というものが必ずしも立証されておらない、ないのではないかという研究まであるわけでございます。

 あるいは、諸外国で現在、廃止国が百十七カ国、存置国はこれに対して七十八カ国と、もう廃止国がはるかに上回っていて、EU初めいわゆる先進諸国と言われるところではもうほとんど廃止になっておりまして、残っているのは我が国とアメリカ合衆国のある程度の州ぐらいでございます。お隣の韓国、台湾も、今、廃止に向けてかなり進んだ議論がされているというふうに伺っております。

 こういう背景のもとに、私ども議員連盟で、実は去年法案をまとめました。その法案の内容は三本柱になっておりまして、一つは、仮釈放のない終身刑を創設するということが一本目なんです。これは、死刑を廃止した場合、現在の無期懲役だけでは仮釈放ということで抑止効果がかなり薄れるのではないかという意見が強い、これに配慮をして実質終身刑、恩赦の道は残すということですが、実質終身刑を導入、これが一つ。

 その上で、衆参両院の中に仮称死刑臨調という調査会を設置して、二年か三年程度ここで存廃について結論を出そう。

 それで、その臨調で議論をしている間は死刑の執行を停止、モラトリアムという三本柱で法案をつくったんですけれども、ある党ではなかなか党内手続もこれでは無理だったということがございまして、まだ法案提出までには至っておりません。これをどうするか、秋の臨時国会に向けて、今、仕切り直しを考えているところでございます。

 先生、先ほどのお話では、違憲とまでは言えないが将来的には廃止を検討ということのみお触れをいただいたわけですが、もう少し突っ込んだ先生のお考えをお聞かせいただければということと、私どもの議連の考え方について御感想をお聞かせいただければありがたいというふうに思います。

田口参考人 先ほども申し上げましたように、これは大問題でありまして、法律学者、刑事法学者、皆さん、恐らく最大の問題と理解している、こう思います。先生御指摘のように、今、世界の傾向といいましょうか、そういったものが廃止に向かっている、こういうこともそのとおりであります。

 たまたま二週間ほど前に中国の学者と議論をする機会がございましたが、近い将来、中国においても、非暴力犯罪というんでしょうか、ノンバイオレントクライム、中身は財産犯罪だと思いますけれども、この死刑廃止に踏み切るというようなことで、そういった印刷物もいただいたところであります。

 これはお隣の国の話でありますけれども、その国その国の事情があって、先ほども申したような、ある歴史的な段階に至ると、一定の段階に至ると廃止することが可能になってくる、こういう一つの例だと思いますが、これは部分的なものだと思います。

 日本については、先ほども申しましたように、そろそろ死刑廃止を政治日程に上せていただくという段階に今立ち至っていると理解しておりまして、先生の御指摘のような、議員の先生方がこういったものに今取り組んでおられるということについては、中身の議論はともかくとしまして、それは歴史の趨勢ということを感じます。

 私、中身の議論は非常に難しいんですけれども、抑止効果というような議論というよりも、むしろ冤罪という問題が一つあると思いますが、死刑になる方が果たして本当に自分の罪を自覚し、認識し、自分が死刑に相当するということを納得して刑に服するかどうかは、これは非常に難しい問題があると思うんですね。そういう点で、刑罰の執行、刑の意味という点からいって、死刑という刑罰の存在そのものに私は疑問を持っているというのが基本的にはあるんですけれども、そういうことがありまして、死刑問題、死刑という制度が未来永劫続く制度だという点については疑問がある、こういうことが一つであります。

 それから各論的なことですけれども、先ほど三本柱という御説明をいただきました。どういう形でこれにアプローチしていくかというと、いろいろなことがあると思いますが、その中で一つ、御指摘のように、現在の無期刑という制度をどうするかという問題が大きな一つのポイントであることは確かだというふうに思います。ちょうど事務局作成の参考資料にも載っておりますけれども、法定刑引き上げなんということが現在話題になっておりますが、無期刑をどうするかという問題も死刑との関係で一つの重要なポイントで、そのあたりでの先ほどのような国民の同意なり、多くの方の同意なりというものを得ていくというのが一つポイントかな、こう思っております。

金田(誠)小委員 どうもありがとうございます。

 私どもこういう運動をやっておりますと、国民の皆様からは、加害者の人権には配慮をしているようだけれども被害者の人権はどうしてくれるという意見が寄せられまして、この問題に取り組む中から、先生もきょう問題提起されております被害者の人権ということをきちんとやはり確立をしよう。加害者も被害者も人権の尊重ということは当然であるという立場で今検討を始めたところでございます。

 この中で、先生は、被害者の法的地位、被害者保護の必要性、被害者の手続参加、被害者の救済という項目を挙げられてございます。我が国でも多少は前進しているんでしょうけれども、国際比較をいたしますと、まだまだ立ちおくれている。

 もう時間もなくなってしまったんですが、先生、ポイントとなるところ、この点はというところを幾つか御指導いただければと思います。

田口参考人 複雑な事情が絡んでいますから余り簡単に言うと危険ではあるんですけれども、非常にシンプルに定式化しますと、被害者保護が進まないとき、被害者は応報感情を持つというような一つのテーゼはあり得ると思うんです。

 これは立証するのは難しいんですけれども、私が調べた限度では、財産犯については言えますね。財産犯について、示談が成立したら応報感情は減退する、これはかなり証明できるわけであります。生命犯罪についてはどうかといいますと、それはお金の問題ではないというのがありますから、簡単ではない。

 しかしながら、被害者のケアというものがないがしろにされるときは、被害者としては加害者に対する厳しい刑罰を求めるしかないわけですね。その点で、被害者ケアの問題と加害者に対する刑の重さというのは、恐らく関係があるだろうというふうに思っています。

金田(誠)小委員 ありがとうございます。終わります。

山花小委員長 次に、棚橋泰文君。

棚橋小委員 自由民主党の棚橋泰文でございます。

 参考人におかれましては、大変お忙しい中、貴重な御意見を開陳いただきまして、本当にありがとうございます。

 私からは、まず、捜査の可視化という観点から少し御意見を伺いたいと思っておりまして、参考人の御意見にありますように、捜査の可視化というのは、これはまさに、ある意味では文明化のバロメーターでしょうし、それから、適正な刑罰手続、刑事手続に不可欠なものである、これは全く私も賛成でございます。

 ただ、これはまた、まさに釈迦に説法でございますが、参考人御承知のように、もともと我が国の法制は、実体法は大陸法的な発想が中心であったのに、刑事訴訟法を中心に、英米法、特にアメリカの手続的なものが導入された。ある意味では、我が国のこれまでの国民感覚あるいは慣習と少しずれた部分があったのではないか。

 ただ、ある意味では、その間隙は、比較的、我が国の国民性が、例えば罪を犯した人間は基本的に自分から罪を認めるとか、そういった国民性で埋められてきたと思うんですが、捜査の可視化、これだけ価値観が多様化してきて、被疑者、あるいは最終的には有罪とされた人間が、今までのような形での、悪いことをした人間はみずからそれを積極的に告白すべきだというような国民的価値観がだんだんだんだん薄れてきた中で、大変捜査の方も難しくなっていると私は思うんです。

 捜査の可視化というもので刑事捜査、刑事手続をより適正にしていくに当たっては、逆に、諸外国なんかでも導入されているように、今我が国では基本的に制限されている、あるいは認められていない、そしてまた国民感覚的にも否定的な感覚が強い、例えばおとり捜査とか司法取引あるいは通信傍受の範囲の拡大、こういったものとマッチしなければ、逆に今度は、本来、罪を犯した人間も無罪になっていくというような不信感が国民の中に大きくなっていく心配があると思うんです。

 そういう意味で、私は、捜査の可視化というのは、当然、立証責任が捜査側にある以上は、捜査権限、これは法的なものも含めての強化と対になってやっていかないと、真の意味での人権、これは、被疑者、被告人、受刑者の人権だけではなくて、国民全体の人権を当然考えるために刑事手続があるわけでございますので、人権確保ができないと思っておりますが、その点、まずいかがお考えでございましょうか。

田口参考人 大きな問題を御指摘いただきましたし、今先生の問題の立て方について、私もほぼ異論がないわけでありますけれども、まず前段で、我が国の実体法は大陸法に基づいているというのはそのとおりでありまして、御案内のように、例えば故意と過失の区別にしても非常に厳密に、未必の故意であるとか、認識ある過失であるとか、こういう非常に細かい議論をしております。

 実を言いますと、先ほど刑法学会と言いましたけれども、先週の刑法学会でも、裁判員制度のもとでそういった区別が可能であるかというようなことがある研究会のテーマに上がっておりました、私はそこに出ませんでしたけれども。

 そういうわけでして、今後、こういった裁判員制度というようなものが導入されますと、そういう非常に厳密な大陸法的な実体刑法というものをどこまで実施できるかというのは大きな課題であるということが一つです。

 それから後段の、被疑者の人権を進めると同時に有効な捜査手段も考えなきゃならないというのは、それはもう当然であります。ただ、そのときに、御指摘のように、それは日本の国民性に合わないとかそういう議論が出てくるんですけれども、私は、先ほども少し申し上げたんですけれども、日本の国民性というものが何か触れてはならない大命題のように立ちはだかっている、そういう問題ではないのであって、私はむしろ日本の国民性はもっと柔軟だと思っているんです。時代の必要に応じて必要なものを工夫し制度化していくということについて、国民の理解が得られないということはないのではないか、これは大きな歴史の問題ですけれども、私はそういう理解をしております。

棚橋小委員 ありがとうございました。

 今、まさにお話がございましたように、刑事関係の法律あるいは憲法改正の議論についても、そのときの国民感覚というものを大事にしながらも、おっしゃるとおり、特に私ども国会議員を中心に政治がリードしていかなければいけない部分はあると思っております。ただ、やはり、特に刑の本質にかかわる問題については国民の感覚は非常に重視しなければいけないと私は思っているんです。

 限られた時間でございますので、もう一点、死刑制度について少し御意見を伺いたいと思います。

 先ほど金田先生が死刑の廃止をおっしゃいましたが、私は、先生には申しわけございませんが、死刑廃止反対でございまして、死刑存続論者でございまして、死刑の廃止に関しては幾つかの議論が出ております。

 まず一つは、特に誤判のときに取り返しがつかない。ただ、大変失礼ですが、それは有期刑であっても同じでございまして、人生の中で例えば何年かの間刑務所に入る。懲役刑を受刑する。このことも、その失われた人生の期間は取り返しがつかないわけでして、これを言い出したら、誤判で真犯人でない人間が受刑した場合には、すべての刑罰は取り返しのつかない刑罰ですので、この議論でいくならば、刑罰は廃止するというのが本来論理的な帰結でして、私はこれはちょっと不適切だと思っております。

 第二は、特に教育的効果あるいは威嚇的効果があるかというのは、これは確かに議論があると思うんですが、しかし一方で、現状、いろいろなお話を有権者としていると、やはりそういったものを恐れてやらないという方もいらっしゃるわけでして、これはやはりもう少し慎重に議論すべきではないかと私は思っています。

 それから三番目は、海外において死刑廃止国が多い。ただ、これは、こう言ってはなんですが、海外が多いから我が国もそれには倣うべきだという問題ではなくて、やはり私は、そもそも刑というものは何なのかという本質、あるいはその本質に対する国民の理解だと思っております。まさに先生もお話しされましたように、特に刑の概念については応報刑論と社会復帰論、あるいは教育矯正的な効果というものがございますが、私どもは、特に有権者、国民とお話をしていて、素朴に感じる国民感情、あるいはここについては説得できないものは、御承知のように、我が国で死刑になる受刑者というのは、これは間違いなく人一人以上の生命を失わせているわけでして、基本的には、何の罪もない、あるいは責任の軽い人間が殺人行為等によってその生命を失っている。

 ところが、それをもたらした、人の生命を失わせた人間が生き延びる権利がある、他人の生命を尊重しない人間が、なぜ自分の生命は尊重されるべきだということを主張される権利があるんだろうか。人権というのは、あくまで、人の人権を侵害しない観点において自分の人権を主張すべきではないかという素朴な国民感情に対して、私はその中で死刑を廃止すべきだというふうに説得する論拠を持たないわけでございます。

 刑というものを何かというふうに考えるか、これは非常に難しゅうございますし、応報刑論というと比較的、どちらかといえば古い考えのようにとらえられる方もいらっしゃると思うんですが、私は、刑の持つ本質というのは応報刑という側面はやはり重要な要素としてあると思うんですが、その点、いかがお考えでしょうか。

田口参考人 非常に本質的な御質問をいただいて、何というか、アポリアといいましょうか、本当に永遠のテーマのような質問だと思います。

 私は、ただ、刑罰というのは、例えば、典型的によく言われますけれども、カントの絶対的応報刑といいましょうか、ある島国が解散するときには最後の刑罰を執行してから解散せよという有名なテーゼがありますけれども、刑罰というものはそういう絶対的なものというよりも、むしろ刑罰によってその社会が維持されるという機能の面、刑罰の機能面、先生の御指摘からすると、それはただの機能であるということになるかもしれません。私は、機能こそ大事である。そこに少し視点の違いがあるかもしれません。

 死刑が必要な国もある、死刑がないと維持できないような国があるだろうと思います、恐らく。そうでない国もあるというわけでして、死刑について、絶対の議論というんじゃなくて、死刑を必要としている社会、国家、必要としていない社会、国家、こういうふうに、非常に私はある程度考え方としては、先生から言わせれば経験主義的かもしれないんですけれども、そういう考え方を持っております。

 そういう観点からいきますと、日本という国の治安なり法秩序なり規範なりというものを維持するときに死刑が絶対に必要であるかという問題提起をすると、少し違う結論が出るんじゃないかということでありまして、これは非常に根本的な問題かと思います。

棚橋小委員 質疑時間が参りましたので、一点だけ。質問ではございません。

 今の参考人のお話、私も大変納得できるところもございます。ただ、残念ながら一部の犯罪者の中では、特に非常に残念なことに一部の少年犯罪等の中で、人の生命を失わせても何年か受刑すれば出てこられるんじゃないかという感覚の受刑者がいるという事実も私はやはり認識していかなければいけないと思っております。

 どうもありがとうございました。

田口参考人 一言だけ。

 それは、本当に刑務所に入ったことのない人の意見だと思いますね。刑務所に入って生活を受けるということがどれだけすごい、その人の人生にとって大きな苦痛であるかということは大変なものがあって、死刑にならなければ平気だというようなことではないというふうに思います。

山花小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 田口参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

    ―――――――――――――

山花小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行います。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、自席から着席のまま、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。

村越小委員 先ほど来、裁判員制度に関してのことが議論の俎上に上がっていましたので、私の意見を若干申し上げたいと思います。

 裁判員制度に関してなんですけれども、開かれた司法並びに市民の統治機構への参加を促すという点で大いに評価できるものだと私は差し当たって考えております。しかし、仮にこの裁判員制度の議論の出発点が、よく言われるように、裁判官が市民感覚が欠けているんじゃないか、そういった指摘にこの議論の出発点があるのであれば、若干、もうちょっと考えることがあるのではないかと思います。

 つまり、よく裁判所が社会通念ということを言うわけですけれども、裁判官自身が社会通念に欠けているところがあるのではないか。本当かどうかはよくわかりませんが、赤ちょうちんという言葉を知らない裁判官がいたとかという話を私は聞いたことがあるんですけれども、そういった裁判官に市民が裁かれるということが本当にある。そういうところに問題があるんだとすれば、やはり裁判官の再教育ということを考える必要があるのではないかと私は思うわけです。

 憲法三十二条並びに憲法三十七条の一項というのは、差し当たって、適切な職業裁判官に、適切な裁判を受ける権利を保障しているというのは言うまでもないわけでして、先ほど田口教授が、制度論が余りに先行すると中身がなくなるおそれがあるというような指摘をされていましたが、言いかえれば、これは、形が変われば中身が変わるんだという議論はだめだよというお話だと思うんですけれども、私はこれは非常にごもっともな指摘だと思っておりまして、そうならないためには、つまり、裁判員制度の実効性を担保するためにも、やはり裁判官の再教育ということを我々は考えなくてはいけないのではないかと私は考えます。

 以上です。

棚橋小委員 私も裁判員制度について少し意見を申し述べたいと思います。

 先ほども議論の中でございましたが、裁判員制度の目的を、特に主目的をどう考えるかということによって、まさに、村越先生のお話にもございましたように、分かれると思いますが、基本的に、私は、司法は独立、公平であるものが本質であって、三権分立と民主主義の関係でございますけれども、司法も含めて国民が全面的に参加するということを少なくとも日本国憲法は要請しているものではないと思います。

 もちろん、最高裁判所の判事の罷免等あるいは国会による弾劾裁判等の形でのコントロール、あるいは、もちろん法制度によるコントロール等はございますけれども、必ずしも適切な表現ではないかもしれませんが、いわゆる悪い意味での人民裁判あるいは魔女狩り、こういったものがかつて人類の歴史の中であったということを踏まえた上で、裁判というものは公平かつ独立でやらなければいけないというのが司法の本質であり、だからこそ司法に関しては、立法、行政との関係でも対等の三権分立というものがあるのではないか。

 そういう意味で、一部の方々の中では、憲法四十一条を国会が三権の中ですべてに優越するというようにお考えになる方もいらっしゃいますが、私は、そうではなくて、三権分立という中での司法の独立、公平というものをきちんと守っていくことが大事ではないかと思っております。

 そういう意味で、本来の、今回の裁判員制度についても、司法の中で特に国民感覚と少しずれている部分がある、この部分を埋めて、司法の独立、公正、あるいは特に司法の公平さ、裁判官の評価をやはり裁判の内容でやるということは司法の独立に反しますので、そういう観点から、逆に、国民的感覚を裁判の結果に入れて司法の公正さをより保つという観点から考えていくべきではないかと思っております。

 それから、先ほど田口参考人が最後におっしゃいました。時間がございませんでしたので、私の方から意見を申し上げませんでしたが、もちろん私は、死刑制度についてでございますが、死刑制度については、そもそも、やはり刑の本質、応報刑ではないかと思っておりますけれども、その威嚇効果について、刑務所に入ったことのない人間にはわからないけれども刑務所に入ることは非常にという話がございました。これは、田口参考人も入ったことはないでしょうし、私どもも入ったことはございません。ただ、大変残念なことに、一部の方々の中で非常にそういったものに対するハードルが低くなって、多少の年限の受刑であれば構わないというような感覚を持った国民がふえているというふうに感じる一般有権者、国民が多いということは、私は現実として認識しなければいけないと思っております。

 その中で、数年の受刑と、それから生命を失う死刑という制度と、それはどちらがより威嚇的効果があるのか。私は、やはり圧倒的にそれは違うと思いますので、刑の本質が社会の秩序を維持するという観点からも、安易にこれは効果がないんじゃないかということを、実は、いろいろな議論の中でそういう話は出ておりますが、少なくとも私が知る限り、不勉強かもしれませんが、実証的に必ずしもなされていないような気がいたします。

 そういう意味では、ここの議論もやはりもう少し詰めていく、特に若い世代を中心に国民の秩序感覚、あるいは刑罰法規を守らなければいけないという感覚が大分変わってまいりましたので、その点も含めて議論をしていくべきだと思っております。

山口(富)小委員 私は、きょうの参考人質疑を通じまして、刑事事件の適正手続につきましては二つの視点が欠かせないなということを感じました。

 第一は、やはり他国に例を見ない詳細な刑事手続の規定を設けたという歴史的背景についてです。

 これは、先ほども質疑いたしましたけれども、いわば日本の経験として、被疑者、被告人が人権侵害の被害者になってしまうという重い歴史があったわけで、この点の認識が、日本国憲法の適正手続にかかわる問題としては極めて重要な認識になるというふうに思います。先ほど参考人の方からは、これは過去のものとしてではなくて、今後とも踏まえておくべきものだという指摘がありましたが、私も全く同感です。

 それから、二点目に私が感じましたのは、憲法が制定後約六十年たつわけですけれども、その歴史と運用にかかわって、憲法理論の発展や刑事司法の現状についてやはりリアルに見ることが非常に大事だというふうに思いました。憲法は、制定されたらそれでおしまいということではなくて、施行後、当然、条文に基づく具体化や、学説や判例、実務等での積み上げがありますから、そういうものとして生きてきているものだ。その幾つかは、きょう紹介があったところです。

 その点で刑事司法の現状を見ますと、一つは自白偏重捜査の問題、それから倉田委員も指摘されましたけれども、被疑者段階での身柄の長期の拘束の問題、それから弁護士との接見の制限の問題等々は、やはり憲法規範から考えて改善が求められる点は多々あると思うんです。中でも、被疑者、被告人、また被害者の人権保障の問題については、私は、生起するいろいろな事象を視野に入れながら、適切な方策を講じて憲法規範の実効性を高めることが今後とも必要だということを感じました。

 最後に、裁判員制度の問題なんです。

 これは、国民参加という点で積極的に評価するわけですけれども、同時に、先ほど照屋委員の方から世論調査の結果も紹介されましたけれども、やはり五年後の施行に向けまして解決すべき問題は山積していると思うんです。その点についても、引き続き立法府としての施行に向けてのいろいろな解決すべき問題、例えば、その任に当たる人の、その期間、収入や職業との関係をどうするのかとか、介護や育児の関係をどうするのかとか、それから例の守秘義務の範囲の問題等々ありますので、そういう点は引き続き検討の課題になってきているのではないかというふうに思います。

 以上です。

金田(誠)小委員 死刑制度について幾つか御意見もございましたので、改めまして見解を述べておきたいと思います。

 死刑制度については、国民の間にさまざまな議論があるということはよく承知をいたしております。先ほど出された意見に対しても、また別な意見がございます。

 例えば、有期刑であって、仮出獄あるいは刑期を終えるという形で社会に戻ってくるのであれば抑止力がないのではないかということに対しては、それでは、当面の措置として、仮出獄のない終身刑というものを対置すれば、それはそれで効果を上げることができるのではないかという意見がございます。

 あるいは、冤罪というのであれば、死刑のみならずすべての刑罰について言えることだ。しかし、これについては、死刑というものとその他の刑罰とを一緒に扱うことが本当に適正なのか。確かに、自由刑で一定期間拘束されて、それが冤罪であって、後からそれを償うとしても、恐らく金銭的な償いしかできない、それが償いになるかという問題はあるかもしれませんが。死刑というものはその金銭的な償いさえできない極刑であるということでは、死刑とその他の刑罰を同列に扱うことは、私は適切ではないというふうに思います。

 あるいはまた、人の生命を奪った者が自分の生命を存置するように主張することが理屈に合わないという御意見もございました。そうであれば、その人権を守るべき国が、国家の名において生命を奪うということは論理矛盾ではないかという意見もございます。さまざまな意見がある。

 そこで、私ども提案しているのは、仮称死刑臨調というものを国会の場に設置して、三年程度そうした議論を闘わせるべきではないか、それが国民の間にフィードバックをされて、一定の結論に達することができるのではないか、そういう機会をつくろうということを呼びかけているわけでございまして、この点では御理解をいただけるのではないかな、こう思うわけでございます。

 以上でございます。

船田小委員 自民党の船田元でございます。

 本日は、田口参考人のお話、そして委員間の質疑等の中で、刑事手続上の人権を中心として大変広範な、しかも大変有意義な議論が展開されていること、大変勉強になっております。その上で、私は、三つ四つぐらい、ちょっと気のついた点を申し上げたいと思います。

 一つは、刑事手続上の人権に関する憲法規範、三十一条から四十条までございます。まさに先ほども参考人触れましたように、憲法、百条ちょっとある中での十分の一をこれに費やしているということで、他国の憲法には例を見ないくらいに詳細な規定がございます。

 この由来ということもお話がございましたが、やはり戦前あるいは明治憲法下における官権によるさまざまな国民の自由の制限、そういったことに対する反省と、特に占領軍、GHQがそのことを殊さらに意識して、民主日本をつくる場合の具体的な措置をとろうということをやはり憲法に相当ゆだねた結果であるというふうに理解いたします。憲法をこれから見直しをしていこうかというときに、この事実あるいはこのウエートの重さというのを私どもはやはりしっかりと認識しておく必要はあると思っております。

 二番目には、被疑者の人権ということで、参考人が、消極的人権、それと積極的人権という二つの概念というか方向性をお示しいただきました。消極的というのは、国家権力が不当に被疑者の人権を侵害してはいけないということでありますが、積極的人権というのは、被疑者がみずから自分の罪の償いをするための諸権利を認めよう、こういうことでありまして、これは現憲法にはなかなか見当たらないものであります。

 アメリカでは、有罪の答弁、アレーンメントという制度があるわけでございますが、これもそれに該当していくのではないかと思っておりますが、被疑者の積極的人権、アレーンメントを中心として今後憲法に書き込むということも、私は議論すべき有意義な課題であるというふうに思います。

 三つ目には、やはり死刑制度のことであります。

 凶悪犯罪に対しては死刑をもって臨むということについて、国民の間では、その法的な確信というのは相当現在ではあると思っております。

 ちょっと古いんですが、平成十一年、当時の総理府の世論調査において、場合によっては死刑もやむを得ないと答えた人々が約八割にも達している、廃止をすべきというのが一割弱であるという数字は、大変それを物語っているものと思っています。

 しかしながら同時に、その同じときの調査の中で、状況が変われば将来死刑を廃止してもいい、こう考える人々が三八%おりました。もちろん、状況が変わっても廃止すべきでないというのが五七%でございますので、その点は、廃止ということについてはやや否定的でございますが、しかし、三八%が将来の廃止ということも考え始めている。

 まあ、時期も今大分経過しておりますので、数字も変わってくるかと思いますが、言わんとすることは、まさにこの三八%の数が今後どのように推移をしていくのか、それに従って我々も、この死刑の問題については、固定的に考えるのではなくて、もちろん世論に迎合することはいけないと思いますけれども、世論の動向ということにはやはり常に敏感に対応していかなければいけない、決して固定的に考えるべきではない問題であるというふうに考えています。

 以上でございます。

照屋小委員 私は、きょうの参考人の意見を聞いて、刑事手続上の権利との関連で憲法改正の必要はないというふうに確信をいたしました。

 刑事裁判制度の意義は、国家から犯罪を犯した者として訴追された被告人をして、犯罪事実の存否につき必要かつ十分に主張と反証を尽くさせることによって、万が一にも無辜の者を有罪としないための適正な手続を制度として保障することにあります。そのために憲法三十一条から四十条まで十カ条にわたって刑事被告人、被疑者の人権を擁護するための規定を設けているものと理解いたしております。

 私は長年、刑事弁護もかかわってまいりましたけれども、むしろ、現在の刑事司法、捜査から公判に至る過程は、今申し上げました憲法上の規定に沿って忠実に運用されておらないのではないかという意見を申し上げたいと思います。

 裁判員制度でございますが、先ほど参考人に対する質問の中でも紹介いたしました、けさの読売新聞の世論調査の結果、裁判員制度導入に反対する理由の中で、「有罪・無罪などを的確に判断する自信がない」というのが最も多くて五九%、「人を裁くことに抵抗を感じる」が五四%。これは、この裁判員制度というのが、その意に反して裁判員として重大な刑事事件について被告人とされた者を裁くことを強制をする、それで、強制をされることに多くの国民が危惧を持っておるのではないかというふうに思っております。

 私はやはり、憲法十三条、十八条、十九条、二十一条に違反をする疑いが強いということと、同時に、裁判員制度は、現在の刑事司法制度とその運用の問題点を克服し改善をする内容になっていないんじゃないかと。むしろ、被告人の防御権と弁護を受ける権利をさらに抑制をし、より簡易かつ迅速に犯罪事実を認定し処罰するシステムとなる点で、適正手続の保障を定めた憲法三十一条、公正な裁判を受ける権利を定めた憲法三十二条、刑事被告人の権利を定めた憲法三十七条に違反をするというふうに考えております。

 以上です。

辻小委員 司法改革は、小泉改革のある意味で仕上げに位置づけられていると言われております。政治改革や財政改革を受けて司法改革ということが言われているわけであります。この司法改革と言われているものの内容が何なのかということを、やはり真剣にもう一回問い直さなければいけないというふうに思います。

 この司法改革の基本思想を端的にあらわしているのは、司法制度改革審議会の会長である佐藤幸治さんがおっしゃっている、従来、国民は統治客体であったが、統治主体に変わるんだ、この言葉であると私は思います。

 これは、私は、近代憲法の前提としている、国家からの自由を国民に保障するというマグナカルタであるという基本的な思想的立脚点の変容を迫るものではないかというふうに非常に危惧感を持っているものであります。国民が統治の客体である、つまり国家と国民とは対立的な関係であるというその関係が、国民が統治主体になるんだ、国家と国民が一致するんだと。一致すれば、憲法上、国家から国民が侵害される自由権の保障、それが非常に重要であるという観点が後景化してしまう可能性がある。

 この憲法調査会に私が参加させていただいて以降、憲法は権利だけがたくさん規定されていて、国民の義務をもっと規定すべきではないのかという意見を聞くことが多々ありました。今の憲法というのが国家からの自由をまず最低限保障する、これは歴史的に人類の知恵としてつくり出してきた基本原理であります。その基本原理に変容を迫る。憲法の中に権利だけではなくてむしろ義務をうたえ。つまりこれは、国民が国家の統治の客体から統治の主体に変わるんだというこの司法改革の会長の基本姿勢に裏打ちされている。その意味で、憲法の基本思想を立脚点において変容を迫るものであり、極めて問題であろうというふうに私は思うわけであります。

 これらの点につきまして、学会の泰斗とされる方々は一様に、私が知る限りでは警鐘を鳴らしておられます。本日の私が紹介させていただいた東大の松尾浩也名誉教授も、質疑の中で引用させていただきましたけれども、司法改革についてはむしろ慎重にすることを求めるということをおっしゃっております。にもかかわらず、改革の声が先行して、現実追随的な、ある意味では政治主導型の形で改革の名に基づいて制度が変容されていく、それが現実であります。政治家がもう一度、歴史的な、そして未来を見通した、思想的にしっかりとした立脚点に立って、現状、振る舞わなければいけないという思いを強くしております。

 とりわけ、憲法の刑事手続上の諸規定との関連で申し上げれば、戦後、一九四九年一月一日に施行された刑事訴訟法、これは戦前の密室裁判と決別するということをうたって出発しております。起訴状一本主義、予断排除の原則、公判中心主義、この刑事訴訟法の戦後定着していた制度を根本的に変容を加える可能性のある公判前整理手続の導入ということが、ある意味では大きな反対がないままに国会で成立してしまっている。この問題について、やはり極めて大きな危機感、問題点を感じます。

 今問われているのは、憲法の諸規定で保障されている刑事上の人権保障の具体的保障を、もっと具体的にどのように詰めていくのかということが今私たちに問われている問題ではないかというふうに考えております。

 以上でございます。

倉田小委員 自由民主党の倉田雅年でございます。

 裁判員制度については、私は、権力による裁判ではなくて、人民による裁判という流れの上において、裁判員制度あるいは陪審制度が是認されるものだと思っておりますけれども、もう一つの観点としては、国家の恣意に対して、国民を、市民を守るということの観点から三権分立というのが、先ほど棚橋先生がおっしゃいましたが、出てきているわけです。そういう意味での司法は、いわゆる皆さんのおっしゃるところの行政権力としての国家権力とはまた別な、独立した司法ということを認められている、それは法律のエキスパートでもある、こういうことがあります。

 したがって、何でもかんでも人民による裁判でなくても、人民がつくった、いわゆる国家権力から独立した司法権という制度もあるわけですから、それによる裁判をもし被告人が求めた場合には、それも許してよいのではないかということを考えております。

 憲法の三十七条では、公平な裁判所の裁判を受ける権利を有する、こうなっております。裁判員が入った裁判が公平でないというわけではありませんが、まだ裁判官のみによる裁判を求める被告人もいるんじゃないか。経過的な意味でも、この五年間の動向を見ながら、国民の考え方も見ながら、選択制を入れてはどうかなということを考えております。

 もう一点、死刑廃止論についてですが、私も若いころからずっと死刑廃止論者でした。人が人を裁くことが果たしてできるのか、神のみができるのではないか、こんな考え方を持って、理想と思っておりました。しかしながら、年齢を重ねるにつけて、世の中にどうしても大勢の人間を殺してしまう、その人間を死刑にできない、これでは犯罪を抑止できないのではないかという考えが強くなってきました。

 記憶が定かではありませんが、テルアビブでしたか、三十何人を日本人が殺したこともありました。あれがどうして死刑になってはいけないのかというようなこともこの間にあったわけです。

 そこで、きょうの田口先生のお話から非常に大きな示唆を受けました。何かといいますと、やはり理想は死刑廃止論でありますが、その国家がどのレベルに達しているか、死刑を廃止しても、人々が死刑がなくなったことによってどんどん人を殺してもいいんだなんていう考え方をしない段階に国家が達したとき、そういうときには死刑は廃止すべき段階が来るのかなと考えます。田口先生の、機能の問題だということになるほどという感じを受けましたので、意見として申し上げておきます。

 ありがとうございました。

中山会長 自民党の中山太郎です。

 きょうは、細かい法律論議というよりも、法律学を学生たちに教えている教授が、衆議院の憲法調査会の議論は九条だけやっているんじゃないかというふうに思っていた、こういう御発言が冒頭にございまして、実は調査会長としてびっくりしたわけでございます。早稲田大学という有名な法律学の権威者の集まる学校の教授がそういう状況なら、全国の大学で法律を教えている教授が果たしてどれだけ衆議院の憲法調査会の議論を御存じだろうか。

 こういう意味で、小委員長におかれては、ぜひひとつ、大学の法律学の部門に憲法調査会の情報を流すように、事務局に御指示をいただきたいと思います。

山花小委員長 会長の御発言ですので、受けとめさせていただきます。

 他に御発言ございますか。

 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

 本日は、これにて散会いたします。

    午前十一時三十五分散会


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