衆議院

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第5号 平成15年7月3日(木曜日)

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平成十五年七月三日(木曜日)
    午前九時一分開議
 出席小委員
   小委員長 保岡 興治君
      奥野 誠亮君    小西  理君
      中曽根康弘君    葉梨 信行君
      平井 卓也君    森岡 正宏君
      島   聡君    仙谷 由人君
      中野 寛成君    長浜 博行君
      遠藤 和良君    藤島 正之君
      春名 直章君    北川れん子君
      井上 喜一君
    …………………………………
   憲法調査会会長      中山 太郎君
   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君
   参考人
   (鹿島建設株式会社常任顧
   問)           英  正道君
   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
    ―――――――――――――
五月二十九日
 小委員藤島正之君同月八日委員辞任につき、その補欠として藤島正之君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員島聡君同月十五日委員辞任につき、その補欠として島聡君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員伴野豊君同日委員辞任につき、その補欠として中川正春君が会長の指名で小委員に選任された。
七月三日
 小委員井上喜一君六月五日委員辞任につき、その補欠として井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員山口富男君六月十二日委員辞任につき、その補欠として春名直章君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員近藤基彦君、中川正春君及び藤島正之君同日委員辞任につき、その補欠として小西理君、長浜博行君及び藤島正之君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員大畠章宏君同日小委員辞任につき、その補欠として仙谷由人君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員小西理君及び長浜博行君同日委員辞任につき、その補欠として近藤基彦君及び中川正春君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員仙谷由人君及び春名直章君同日小委員辞任につき、その補欠として大畠章宏君及び山口富男君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 最高法規としての憲法のあり方に関する件(前文)


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     ――――◇―――――
保岡小委員長 これより会議を開きます。
 最高法規としての憲法のあり方に関する件、特に前文について調査を進めます。
 本日は、参考人として鹿島建設株式会社常任顧問英正道君に御出席をいただいております。
 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 本日の議事の順序について申し上げます。
 まず、英参考人から前文について御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、英参考人、お願いいたします。
英参考人 私は、約四十年間国家公務員として日本国憲法を遵守する生活をしたものでございます。六年ほど前に外務省を退官してからも、民間人として憲法問題、特にその前文について関心を持ち続けてまいりました。
 三年ほど前に思うところがございまして、ある総合雑誌に「まず憲法前文の改正を論じよう」と題する一文を寄稿いたしまして、掲載されました。これがきっかけとなりまして、一昨年の六月に、ある出版社から、特に若い人たちに読んでもらおうと、「君は自分の国をつくれるか 憲法前文試案」を出版いたしました。
 今回、国権の最高機関でございます国会の、しかも民主主義の根底をなす代議制度を具現する衆議院に設置された憲法調査会から参考人として招致され、本日、この小委員会において、日本国憲法前文の改正問題について私の考えを述べさせていただける機会を与えられましたことは、一国民といたしまして身に余る光栄と存じ、深く感謝申し上げます。
 もとより、私は憲法を深く学んだ学者ではなく、一介の元公務員でございますので、果たして皆様の御参考になるようなお話ができるかどうか自信はございませんが、せっかくの機会をちょうだいいたしましたので、簡潔に私の考えを申し述べさせていただきます。
 私が憲法前文の改正を提唱する理由は、大きく言って次の二つでございます。第一は、現在の前文は既にその役割を終え、私たち日本人は二十一世紀の日本にふさわしい新しい前文を必要としているということでございます。第二は、憲法改正を行うのであれば、まず前文から始めるのが適当であるということでございます。
 現行の日本国憲法の前文は、主権在民、国際の平和、普遍的な政治道徳などの立派な理念に満ちていて、敗戦後の日本に国民主権の思想を定着させ、民主的な諸制度を確立したという大きな功績があります。六十年ほど前に戦後の廃墟の中に茫然と立ちすくんだことのある私たちの世代の日本人に、この前文は輝かしい理想を示してくれました。戦後の目覚ましい復興は新しい政治理念とさまざまな改革に負うところが大きいと思います。
 しかし、民主主義が定着した後の日本に育った者、またこれから育つ者にとっては、今の前文は、日本の歴史、文化、伝統などについては全く無関心でありますので、どこの国の憲法の前文としても通用する、いわば無国籍の政治的な蒸留水のようなものに映るに違いありません。古い世代の人間がいかに愛着を持っていても、今の前文には若者をわくわくさせるようなところはありません。
 それは仕方がないことです。時は移り、社会は変化し、それとともに国民の求めるものも変わるからです。考えてみれば、ある世代の考えが長きにわたってその後の世代を拘束するというのは、不自然であるばかりでなく、むしろ非民主的であると言わざるを得ないのかもしれません。現に、どこの国でも、時代の要請に応じしばしば憲法改正を行っております。
 冒頭に申し上げましたように、私は、今の憲法、とりわけ今の前文がこれまでに果たしてきた肯定的な役割を否定するものではありません。しかし、今の憲法が一九四六年の十一月に公布されてから既に五十七年の年月がたっています。人間であれば還暦に近い長さです。今の憲法が公布された一九四六年からさらに五十七年昔にさかのぼりますと、一八八九年になります。これはまさに、旧憲法、すなわち大日本帝国憲法が発布された年でございます。その五十七年の間に日清、日露の戦争、第一世界大戦、第二世界大戦が戦われたわけでございます。五十七年という年月がいかに長い年月であるかがおわかりいただけると存じます。したがって、五十七年前の日本人の現行憲法の前文の受けとめ方と今の日本人の受けとめ方の間に隔たりがあることは当然のことでございます。
 適切な例えかどうかわかりませんけれども、今の憲法を食べ物に例えれば、賞味期限をかなり過ぎてしまったものと言えましょうか。食べられないことはないけれども相当に味が落ちている、もっと日がたつと食中毒になるおそれなしとしないということです。
 私は今の憲法をおとしめるためにこんなことを申し上げているわけではございません。むしろ、今の憲法に新しい息吹と活力を与え、この国がさらに前へ進むために憲法の前文の改正が適当であり、必要であると申し上げているつもりでございます。そのために、時代が何を求めているかを賢明に判断して、これを新しい前文の中に追加してほしいと考えるものでございます。
 率直に申し上げて、今私たち日本人はアイデンティティーの危機に直面し、自信を失っています。私は安易に英語を使うのは好きではございませんけれども、残念ながらアイデンティティーに相当する適当な日本語がございませんので、この言葉を使わせていただきます。意味するところは、自己の特質を確認するためのよりどころ、もう少し平たく言いますと、日本人はお互いの文化的、社会的な一体感を何によって確認しているのだろうかということであります。よく使われる表現であるこの国の形と同じような意味とおとりいただいて結構でございます。
 日本におけるこのアイデンティティー危機はなぜ起こったのでしょうか。それは、戦後の改革と言われるものが、天皇制を除き、日本の諸制度や伝統を悪いものもよいものも十把一からげに捨て去った、昨今はやりの言葉で言えばレジームチェンジ、つまり体制変革であったからであります。
 私は、そのことを象徴的に示すのが現在の日本国憲法前文であると考えています。そこには何らの日本性がありません。そもそも日本語としても決して美しいとは言えません。なぜそうなったかは本日の主題ではございませんので、ここでは深く立ち入りませんけれども、一口に言えば、普遍的な理念と制度を日本に植えつけるのに熱心な余り、国家意識や日本の伝統的な価値観は二の次に置かれたためであると申せましょう。
 憲法の前文は憲法の顔であります。お配りした資料に若干の国の憲法前文の例を挙げておきました。ごらんのように、ロシア連邦、中国、ポーランド、ベトナムなど、この二、三十年の間に新しい憲法を採択した国の憲法前文には、その国が誇りとするような自国の歴史、文化が個性的に述べられています。今の日本国憲法前文は日本の顔をなしていません。
 私は、憲法の前文に明確な日本のアイデンティティーを盛り込むことによって、私たち日本人は現在のアイデンティティーの危機を乗り越えることができると考えます。
 現在、多くの日本人は将来について大きな不安を抱いています。しかし、今の日本に欠けていますのは、物や金ではありません、夢と希望であります。人と同じように、国家も希望を失ったときに衰退いたします。今の前文は、この国の今の若者やこれから生まれ来る世代の日本人に夢や希望を与えることはないでしょう。
 日本が、明治維新、戦後改革に引き続く三度目の大変革期に差しかかっている現在、憲法の前文に日本の価値観や新しい理想を盛り込むことには大きな意味があります。これが、私が現行憲法前文の改正を適当とする第一の理由でございます。
 第二は、憲法改正における前文改正の戦略的な重要性です。
 いろいろな世論調査の結果では、既に国民の過半数が憲法の改正を希望していると言われています。そのような国民の意識の変化を背景に今回の憲法調査会が生まれているわけです。しかし、留意しなければならないのは、合成の誤謬でございます。憲法改正を望むすべての日本人が同じような内容の改正を求めているのではありません。環境権を憲法に追加することには賛成だけれども憲法第九条の改正には反対だという人がいるという問題でございます。
 日本人は、どちらかというと律儀で、完璧主義と整合性を重んずる国民性を持っておりますので、憲法の全面的な改正を目指すという落とし穴にはまる危険性があるような気がいたします。敗戦とか革命とか社会を根底から揺るがす大変動のときには、制憲会議を開いて新憲法をつくるということもあり得ましょう。しかし、現在日本がいかに危機的な状況にあるといっても、全面的な新憲法制定というのは非現実的です。議論のあげくにすべてかゼロかという選択に陥り、結局、従来同様に何も変わらないで終わることになる危険があるのではないでしょうか。
 したがって、私は、憲法を改正する道筋としては、国民の間に広範な合意が存在するところから、部分的、段階的にこれを行うのが現実的であると確信いたします。それが世界の通例であり、常識でもありましょう。
 段階的な憲法改正を考える場合には、当然のことながら、重要性、緊急性、難しさなどを勘案した上で、優先順位の設定をすることが不可欠です。それは、政治家のお仕事であり、責任でもあります。私は、個人的には、憲法前文こそ、まず改正の対象として議論するに最も適した分野であると考えるものでございます。
 現行憲法には改正条項がありますが、改正のための関係法令の整備はまだ全くなされていません。明治憲法も現行憲法も、いずれも国民に上から与えられたものでありますが、国民の手による改正されたことのない、いわゆる不磨の大典であります。つまり、私たち日本人は、一度も真の意味での憲法改正の経験を持たないのです。
 日本の教育水準は高く、国民の政治意識も健全です。国民投票を経ていない憲法は、このような日本にふさわしくありません。また、国際的に、国民が直接的に選んだ憲法のもとの政府は高い正統性を持つと考えられます。私は、この国が一日も早く、日本人自身による国民投票を経た憲法を持ちたいと切望するものでございます。
 不磨の大典を誇るのではなくて、この問題には少し肩の力を抜いて取り組んで、まず一度、憲法改正の経験を持つことが賢明でありましょう。
 一般国民にとって、憲法というのは、民法や刑法と異なって、私たちの生活に直接かかわっていません。現実問題として、私たちがまれに憲法を持ち出すのは、憲法違反だとして何かを問題にするときだけといってもよいと思います。つまり、憲法が私たちにかかわり合いを持つのは、私たちを守ってくれると考えるときが多いのです。そのため、憲法改正と聞くと、何かいいものがとられてしまうのではないかというおそれが生まれて、本能的に身をすくめるわけでございます。
 ですから、国民合意の存在するところから憲法の改正を行って、いわば憲法改正になれて、憲法改正によって何か貴重なものが失われるのではない、そういうことを理解してもらうということが重要と存じます。それには、だれでも議論しやすく、いい意味であいまい性のある憲法前文から始めることが最適ではないでしょうか。
 私は、日本における最初の憲法改正においては、憲法の前文を書きかえるだけでも比類のない大きな意義があると考えるものでございます。
 次に、憲法前文を改めるとした場合に、新しい憲法前文に果たしてもらいたい役割についての私の考えを申し述べます。私は、大別して五つの役割があると思います。
 第一は、日本の伝統と文化の上に立つこの国の形を示す役割でございます。
 私は、日本国民が自分たちの憲法に誇りと愛着を持つことが極めて大事であると考えます。私たちがこれこそ自分たちの憲法であるという意識を持つためには、その前文において、日本の歴史、価値観、伝統、文化などが述べられていることが重要であると思います。
 このような日本のアイデンティティーに到達する一番の早道は、先祖返りをするのではなくて、過去が投影されているこの現在を、私たちがよく見詰めることによって、日本人の特性を見つけ出すことであると思います。
 過去から連綿と受け継いできた日本人の伝統の中で、何を将来に引き継いでいくべきかを考えることから始めてはどうでしょうか。
 憲法の前文にこのような日本のアイデンティティーが反映されれば、国民は今とは違った目で憲法を見るようになるでありましょう。
 第二は、将来に向けて日本の進路を示す役割でございます。
 急速で広範なグローバリゼーションの進展から、二十一世紀において、日本は過去のいずれの時代よりも規模の大きい急速な変化を体験することになると予想されます。変化に対応するために私たちが変わらなければ、日本は取り残され、衰退していく運命をたどるでありましょう。日本人は外界の変化に適応することの巧みな民族ではありますが、問題はその速度です。
 今の日本は、アイデンティティー危機にあるだけではなく、戦後つくられた諸制度が制度疲労を起こして、機能不全に陥っているところが少なくありません。近年、ほとんどの識者が改革の必要を訴えていますけれども、日本人は基本的に保守的で余り変化を好みません。
 新しい憲法前文は、グローバリゼーションが進む中で、日本人はどういう心構えで未来に対処しなければならないかを示すという役割を果たせると思います。私が特に重要であると考えますのは、グローバリゼーションが求める変化の中における国家の役割の変化であります。二十世紀は国家主権が至上のものとされた特異な世紀でした。国家はその領域の中で国民を統治するとされ、各国国民が何ら望んでいなかったにもかかわらず、二つの世界大戦が戦われ、非戦闘員の大量殺害が正当化されました。
 国際社会は、不幸な経験から学び、貿易や国際金融をできる限り自由にする制度を築き上げたり、武力行使を厳しく制限したり、環境破壊を減らすような国際合意をつくったりしています。多くの分野にわたり、国家は次第次第に勝手に行動できなくなってきています。つまり、国家主権に対する制限は次第に増大する傾向があります。欧州連合のように、幾つかの国家が主権の一部を自発的に他国との共同処理にゆだねるということも始まっております。
 このような流れの中で、日本が今後孤高を維持するということなどは到底できないのは明らかであります。むしろ日本は、グローバリゼーションの結果、必要となってくる国家主権への制約を積極的に受け入れるべきなのではないでしょうか。私は、新しい憲法前文の中で、日本と日本よりも上位の存在である地球社会との関係についての長期的な視点に立った考え方をはっきりさせておくことが必要と考えます。
 第三は、日本における現在の閉塞感を打ち破る活力を与える役割です。
 近年の流れとして、日本人の国家への帰属意識は次第に希薄になってきています。反面、国民の間には、特に若い世代の人たちの間には、国際平和、環境保護、途上国の進歩達成、人口問題などという地球が直面する諸問題への関心が強くなっています。
 私は、このような意識の中に潜む先端性を積極的に評価したいと思います。不思議なことですけれども、現在の日本には、世界で最も進んだ憲法を議論する素地が存在していると言えましょう。
 私は、現在の閉塞状況から逃れたいとする余り、先祖返りを図りたいという安易な気持ちが生まれることを恐れます。将来の日本に危険な国粋主義や陳腐なルサンチマンが生まれることを防止するためにも、前向きの時代認識の構築に向けて、国民的な英知を集める必要があると思います。
 私は、今の日本には、逆境をばねに、国民のよりどころとなる健全で前向きな日本の理想についてのコンセンサスを築く絶好の機会が存在すると考えます。このような議論が憲法改正を機に盛んになることを期待します。そして、新しい時代認識となる高邁な理想を新しい憲法の前文に新たにうたうことができればすばらしいことだと思います。
 第四は、世界の中における日本の座標軸を明らかにする役割であります。
 座標軸は、歴史認識と世界認識で決まります。明治以降の日本人は、欧米列強に追いつき追い越す政策を国を挙げて追求してきました。明治以降の日本人の意識は、他文明との間の優劣に一喜一憂するものであったと思います。最近でも一九八〇年代に、日本経済の勢いが著しかったころの日本人は、外国でも肩で風を切るようなところがありました。しかし、バブルが弾けると、今度はしゅんとなってしまいました。日本人自体は何ら変わらないのに、いわゆる失われた十年以前と現在の間の日本人の心理状態の際立った変化は少し異常であります。
 自国の文化に自信を持っていれば、少しぐらい経済が浮き沈みしても平気でいられるはずであります。日本人が外国に対してむやみに居丈高になったり卑屈になったりするのは、自信欠如のなせるわざであります。
 明治以降、外国から学ぶに熱心な余り、日本人は、学ぶものがなければその国を尊敬しないという習性を身につけてしまったのではないでしょうか。そもそも、学ぶことがないと考えるのは慢心であります。文化は経済や科学技術とは違うのであって、それぞれ個性的であります。経済指標だけをもって世界を階層的にとらえるのは間違っていますし、危険でもあります。
 世界の多くの文化を並列的に見るべきで、一つの文化が他の上に立つと考えるべきではありません。文化人類学者のルース・ベネディクトが名著「菊と刀」の中で、日本人は伝統的に階層社会に住んでいて、各人が自分にふさわしい地位を占めることが重要と考えている、このような階層的な秩序を世界にも及ぼそうと考える傾向があると指摘したことを私は思い出します。
 私は、それぞれの民族にはそれぞれすぐれたところがあると考えることがこの問題を克服する上で有益であると考えます。日本の文化がすぐれているという意識を持つ一方で、他の諸国の文化もそれぞれその民族が誇りを持っていることを尊重しなければなりません。
 そこで、私は、文化多元主義という考えを前文に取り入れるべきだと考えています。それは、世界の諸文化、諸文明の間の同列性を認める立場であるとともに、幾つもの文化が一つの国の中で併存することに寛容でなければならないというものでございます。
 そのためには、まず日本人が日本文化を意識し、自分の文化に国民的な誇りを取り戻す必要があります。大陸の外縁に位置する島国の宿命から、古来日本人が外国文化の受容に寛容だったために、私たち日本人は、ともすれば中国文明や西欧文明に劣等意識を持つという文化的な性癖を持ちます。私たち日本人は、ブルーノ・タウトに桂離宮の美を指摘されなければそのすばらしさがわからない、欧米人が評価しなければ浮世絵も包み紙として散逸させてしまったかもしれない、情けないところのある国民であるようです。
 このような文化多元主義の考えを取り入れれば、一部のアジア地域にいまだに強く残っている日本のアジア支配への疑念を克服することに役立つかもしれません。それは、とりもなおさず、健全な歴史認識につながります。
 一九三〇年代から四〇年代にかけて日本の指導者が声高に唱えた八紘一宇の思想は、世界を日本のイデオロギーのもとに従属させる主張であったと国際的に理解されています。誤ったこの日本主義は、自国民を悲惨な戦争に駆り立てただけでなく、近隣諸国民にも大いなる災厄をもたらしました。北東アジアの隣国においては、この記憶はまだまだ長く続くでありましょう。残念なことですけれども、愚かな政策を推し進めた世代から幾世代も経た将来世代にも、その愚行のツケは回っていくのです。
 私たちは、将来の世代が負い目を背負って生きることのないようにあらゆる努力をしなければならないと考えます。新しい憲法の前文で文化多元主義を掲げることにより、日本は最終的に、他民族、他文化支配を試みた過去を克服することができるのではないでしょうか。
 日本が国際社会の中で他国に脅威を与えず、他国に侮られないで、自然体で生存を続けるためには、抽象的な国際主義を掲げるだけでは不十分でございます。みずからに誇りを持ち、他国も尊重するという姿勢が明確に示されなければなりません。諸国民が持つそれぞれの固有の文化を尊重するという文化多元主義の考えは、二十一世紀の日本に一つの重要な座標軸を提供することになると思います。
 第五は、包容力と普遍性のある日本の理念を掲げる役割であります。
 新しい憲法前文が掲げる理念が普遍性を持つべきであるという考えには、異論を唱える方がいらっしゃるかもしれません。日本人の憲法なのだから、日本人にとって大事なことだけを書けばよいので、それが外国に通じるかどうかなど心配する必要はないという反論であります。また、憲法は文化的な宣言ではなく、国家の構造を規定する基本文書であるから、文化が入り込む余地などはないのではないかと考える方がいらっしゃるかもしれません。
 憲法が対象とする日本社会は、その構成員の大部分が日本語を話し、日本の伝統的な価値観を持つ日本人が住む社会であります。しかし、日本社会は静止していた社会ではなくて、過去に中国文明、西欧文明、米国文明などの影響を受けてきていますし、海外から人の流入もあります。私は、異文化の受容の点では、日本社会は、特に際立った寛容さを示してきたと考えます。歴史的に、指導者層も庶民も新奇なものを好む傾向があり、このことは今も少しも衰えていません。
 グローバリゼーションが進めば、外国文化や外国人は、今後ますます日本社会へ流入するでありましょう。異なる文化的背景を持つ者が日本社会の中にふえる結果、日本社会は活性化することは疑いを入れません。
 しかし、将来にわたって日本に調和のある社会を維持するためには、日本人は、外国人を日本社会の中に包摂していく積極的な努力をすることが求められます。それにもかかわらず、日本においては、外国人を受け入れる制度的なインフラは不完全であります。例えば、義務教育、年金、医療などについて、外国人は差別される傾向があります。日本に暮らす外国人についても、憲法の規定は準用されるべきであります。特に、永住権を取得し、日本に暮らすことを選択する外国人には、できる限りの配慮がなされなければなりません。
 長期的には、これらの永住外国人が日本国籍を取得することを私たちはもっと歓迎しなければなりません。しかし、私は、定住外国人に地方レベルの選挙権を付与するということを考える前に、日本はもっと実態面で外国人に対する差別をなくしていかなければならないと考えます。外国人のための諸制度を完備することが先で、いきなり選挙権という高度に政治的な問題が出てきたことは、真の問題の解決から目をそらすもので、むしろ不幸なことだったと考えます。
 特に教育については、国籍を問わず、義務教育レベルの日本語の話せない子女を日本の学校が受け入れることを直ちに積極的に推進しなければなりません。
 外国人の日本社会への同化は、日本人が掲げる価値観や理念が、日本文化の上に立ちながらも普遍的な合理性を持っている場合には、一層容易になるでありましょう。
 こう考えますと、新しい憲法の前文は、国内にあっては、日本人に異文化との関係に指針を与えるだけではなく、同時に、国内に居住する非日本人、さらには新たに日本社会に加わる外国人にも意味を持つものでなければなりません。新しい憲法の前文が掲げる政治哲学、価値観は、いかなる文化圏から来た者にとっても受け入れられる普遍性を持ったものでなければならないと考えます。
 日本人が求める価値観が人類共通の規範に合致すればするほど、日本異質論は後退していきます。したがって、私たちがこれから新しい憲法の前文に掲げることの多くが、普遍性を持ち、そのゆえに外国人に容易に理解されるということは、大変に重要なことなのであります。
 さらにもう少し考えを進めれば、普遍性のある価値観を掲げるにとどまらないで、他の文化圏においていまだ認知されていない先進性を有する価値観をも包含することが一層望ましいと思います。比喩的に言えば、諸外国から優秀な人間がその価値観を慕ってどんどん日本に来て、究極的には日本国民となることをいとわないような理念を掲げようということであります。
 ローマの迫害の中で愛と福音を説いたキリスト教が、次第次第にローマ世界を超えて広く全世界に伝播していったように、日本が掲げるそういう理念が、近隣諸国に安心を与えるだけでなく、歴史の中で認知され、次第に普遍性を持つことがあり得るかもしれない、そういうぐらいの気宇と夢を持ってよいのではないでしょうか。
 私は、なるたけ早く憲法前文の改正を行っていただきたい。そのために、今申し上げた五つの役割を前文には果たしてもらいたいと申し上げました。では、具体的にどういう内容を盛り込めば、そのような役割を前文が果たすことができるかということを申し上げたいと思います。
 お手元にお配りしてあります私の試案、試みの案でございます。これはあくまでも参考程度の私案、私の案でございます。私の考えを具体的な前文の形で示さないと、私が申し上げていることのイメージをおつかみいただけないと思ったからであります。別の内容を取り込むべきであるという御意見ももちろんあると思います。あくまでも参考程度でありますので、この御説明は簡単に申し上げます。
 一つは、日本の伝統と文化についてです。
 私は、日本人の四季と花鳥風月をめでる心、生活の中に文化があるということ、自助努力、教育重視と物づくりの伝統、和の重視などが日本の伝統と文化であるという意見です。具体的には、
   美しい自然と変化に富む四季に恵まれた日本に住む私たちは、古くから自然との共生、生活の中の文化や社会における調和を大切にした国柄を育んできた。
   勤勉と自助の精神を尊び、他人の気持ちを思い遣るのは日本人の美風である。
 第二は、主権在民、民主主義、人権の尊重というような点についてでございます。
 日本的な民主主義の本質は、コンセンサスの重視であると私は思います。ですから、具体的に、
  すべての国民は等しく平等であり、このような国民の意思を体して、和を重んじる政治が行われなくてはならない。この憲法は民主主義と基本的な人権の尊重の上に、公平で平和で豊かな国民の生活が、将来に亘って確保されるように制定されるものである。
 三番目は、地球社会の中の日本、相互依存の認識というような点について、
   人口の増加、科学や技術の発達の結果、地球は狭くなった。地球の環境を保全するとともに、有限な資源を諸国民と分かち合い、争いを避けることが必要になっている。国際的な平和の維持と繁栄の確保のために、いかなる国も勝手な行動を控え、協力し合わなければならない。そのためには国家主権を世界の大義のために制限することも必要になろう。私たちは、公平と相互主義の原則が満たされる場合は、国民の意思に基づいて、このような制約を受け入れる用意がある。
 四番目は、文化多元主義でございます。
 諸文化の間の相対性の認識、世界史における日本の果たすべき役割について、次のようなものを考えています。
   私たちは個性的な日本の文化を誇りにしているが、同時に世界の諸国民の文化の間には優劣はないと信ずる。歴史を振り返れば日本人は外国文化の摂取に常に寛容であったし、今後もそうあり続けたいと思う。
   私たちは日本の文化遺産を将来の世代に引き継がなければならない。同時に世界の優れた文化遺産を後世のために残す作業にも積極的に参加すべきである。
 五番目が、平和の至高性と国際協調でございます。
 私は、憲法改正すなわち第九条改正、すなわち平和主義の放棄ではないということを強調したいと思います。日本は既に平和愛好国でありますけれども、平和の維持にも責任があるという基本的な立場です。具体的には、
   私たちはその歴史から平和の尊いことを学んだ。自ら平和を脅かす行動をとらないだけでなく、私たちは世界の平和の維持のために積極的に貢献しなければならない。
 そして最後に、
   私たちは国家の名誉にかけて、逞しくこの憲法が掲げる理想を求め、実現することにより、世界のなかで尊敬をかち得たいと希望する。
こういうふうに結びたいと思います。
 これは全く私の案でございますので、御参考までにと申し上げたわけでございます。
 最後に、新しい憲法前文が持つ教育効果と、それからその作成をどうするかという点について、若干、私の考えを申し述べさせていただきます。
 よく外国人などから、日本はどういう国ですか、子供から、日本て何ですかと聞かれます。こういう前文がもしあれば、一通りの説明はだれでもできるわけであります。特に、普遍性を持たすということを留意すれば、外国人にも日本のアイデンティティーがよくわかるということではないでしょうか。
 しかし、最も重要なのは、中学校や高等学校で前文を教材にしてさまざまな議論を進めることが可能になるということでございます。日本の伝統や文化とは何だろうか、社会と個人の関係はどうあるべきか、社会における調和とは何だろうか、日本の文化は世界の諸文化とどこが違うんだろう、地球社会の未来と日本のかかわり合い、歴史から何を学ぶべきだろうか、こういうことを議論する国民共通の基盤ができることを意味するのではないでしょうか。こういう意義は大きいと思います。
 だれもが一度は公民教育で勉強しなければならない憲法が、国民のアイデンティティーを確認する教材となるわけでございます。明治憲法のもとの教育勅語は、ある意味では日本人の倫理を確認する役割を果たしていましたけれども、いかようにしても、これに類するものを今つくり得ません。それならば、既に存在する文書である憲法前文を、そういう役割を果たすものとして書き直すことにしてみてはどうでございましょうか。きっと、新しい憲法前文は生き生きと働き出すと思います。
 最後に、もし憲法の前文を改正するということになった場合に、ぜひ御検討いただきたいことがございます。それは、新前文作成の過程に国民を最大限に参画させていただきたいということであります。
 国民が新しい憲法の前文作成の作業を自分のものと考えるかどうかは、極めて重要な意味合いを持ちます。国民が、新しい憲法前文を、まただれかがどこかで議論してつくったというふうに人ごとのように考えないように工夫をすることが賢明でありましょう。それには、最後に国民投票にかけるだけではなく、その作成過程にもできる限り国民を参加させることでございます。
 例えば、私が考えるのはこういうようなやり方でございます。
 まず第一に、憲法の前文にいかなる理念を盛り込むべきか、立法府が広く国民から意見を徴することはいかがでしょうか。これを行うのは、憲法検討のための、両院に何かの組織がつくられれば、その機関が適当でありましょうし、両院の憲法調査会の合同会議のようなものが適当かもしれません。そうでなければ、解散されることのない参議院がこういう作業の主体となるのも一案でございましょう。
 こういう作業を通じて、ある者は環境権の重要性を前文に取り込むべきだと主張するかもしれませんし、また、国民の権利と義務の間の均衡を図る趣旨を入れるべきだということを指摘する方もいらっしゃるでしょう。こういう全国民的な議論の中から、立法府が、多くの国民が重要と考える理念とか思想を抽出して、このうちどれを憲法前文に含めることが適当であるかを議論されて、決定を行うわけでございます。
 次の段階では、立法府がこのように決定した理念や思想を含む、美しい日本語で書かれた憲法前文の文章を国民から公募することを提案いたします。その中から幾つかのすぐれたものを選び、最終的にはそれらを参考にして、立法府が最終的な前文案を確定するということでございます。
 この作業は手間がかかるかもしれませんけれども、憲法の条文についての憲法調査会の議論と並行して進めることができます。その結果、新しい憲法の意義について国民の関心が高まるでありましょう。自分が作成に参加した前文に国民は興味と愛着を感ずるでありましょう。また、この作業は、いよいよ日本は変わるのだなという実感を国民に与えるでありましょう。
 日本の歴史において初めて、この国に住む国民がみずからの手で自分たちの国のあり方を確認するのであります。必ずや、今の深い混迷からこの国を抜け出させる活力が生まれてくるものと確信いたします。
 御清聴感謝申し上げます。ありがとうございました。(拍手)
保岡小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
保岡小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平井卓也君。
平井小委員 自由民主党の平井です。
 きょうは本当に多岐にわたるいろいろな御指摘をいただきまして、私も随分と考えさせられました。
 まず、参考人の前文を変えようという考え方も、私も理解はできるのですが、かつて国会の論議の中で、前文の裁判規範性であるとかそういうものをいろいろと議論されたときがあります。基本的には憲法全体の考え方を示すんだということで私自身は理解しているんですが、もう一度お聞きしたいんですが、憲法改正の端緒を前文に求める意義というのを一体どのようにお考えなのか。
 つまり、これはどう考えても、前文を書き直すことは、具体的な条項の改正は絶対伴うと思うんです、最終的には。前文だけを改正して果たしていいのかどうか。特に基本理念を変更するという場合は、当然、具体的な条項の改正、特に九条の問題も含めて、私はこれは不可避ではないかなというふうに思います。
 また一方で、アメリカとかコスタリカの憲法の前文のように、余り書き込まないでシンプルにしておくということも憲法としてはあり得るかなというふうに思うんですが、参考人に御確認させていただきたいのは、前文の改正に求める意義ということを中心にちょっとお話をもう一度いただきたいと思います。
英参考人 私は、日本のアイデンティティーを含めるということはぜひ必要だというふうに思います。このことを含めることによって憲法の他の条文に影響を及ぼすことはないと思います。
 それから、前文にそもそも規範性があるかどうかという点については学説が分かれると思いますけれども、これはやはり憲法全体を解釈する上の考え方を示すものである。そうなりますと、現行憲法もこれまで解釈によってかなりいろいろなことが行われている。率直に個人的な意見を申し上げれば、私は二つの点において日本国憲法前文は無視されているというふうに思っております。
 したがって、そういうことが行われているのに比べれば、憲法の前文、割合抽象的に書かれた憲法の前文で、特に今までの基本理念を私の意見では変えることを主張しているわけではありません。国民主権であるとか、基本的人権の尊重であるとか、平和主義であるとか、そういうようなものを変えるというのではございませんし、むしろ新しいものを時代に沿って追加してほしいというところにニュアンスがございます。
 それから、若干の点においてはもちろん考え方に変化を伴うと思います。それは、平和愛好国の友好に信頼して日本の安全をゆだねるというところが戦後五十年の間に非常に難しくなってきたために、私ども本当にいろいろ苦労してきたわけですけれども、この点については、実態面で議論が行われて、いろいろなことが進んできていますから、したがって、それがむしろ憲法との関係で問題だという意見はあると思うんですが、そういうものを反映させた前文が出てきてもそれはおかしくはないんじゃないかなというふうに思います。
 その点、全部お答えしているかどうかわかりませんけれども……。
平井小委員 参考人の試案の中に「国家主権を世界の大義のために制限することも必要になろう。」との一節がありますが、これは具体的にはどのようなことをイメージして書かれているのか、また、どのような形で国家主権の制限がなされるべきと考えているのか。これは、想像するに、その場合、当然、国連の位置づけ、役割というのも参考人はお考えがあるのでしょうから、ぜひお聞きしたいと思います。
英参考人 その点につきましては、今、完全無欠の国家主権というものはもう存在しない、国家主権というものはあちらこちらがへこんでいる、これはもう二十一世紀の現在の現実でございます。
 例えば、明治の初年に、関税を日本が勝手に決められないということで、関税自主権回復交渉というのをもう必死になってやったわけでございますが、現在はWTOにそれをもうゆだねてしまっていて、WTOに違反して日本は勝手に関税を動かせないというふうな時代になっているわけです。これはもう、かつて日本の主権の重要な一部をなしたと考えられた関税自主権、関税権というものが国際的な制約のもとに置かれたということで、こういうことは非常にたくさんあるわけでございます。
 ですから、そういうことが進むであろうということをはっきりと書いておくということと、それは、将来、いつのことになるかわかりませんけれども、アジアで例えば欧州連合のようなものができた場合、やはりそういうものに日本としては参加するのが適当なんだよということの、ある意味では精神的なよりどころを書いておくというようなつもりでございます。日本一国だけでやっていけるというような主張をそういう意味では若干制約していくということで、抽象的な規定でございます。
 それから、国連との関係については、私は、ちょっとこれは非常に難しい問題で、ポイントを絞らないと議論ができないわけでございますけれども、日本は国連に参加したときにやはりいろいろな義務を負っているわけです。
 一般的に、これは法律論でございますが、国際条約と憲法とどちらが優位するのかというのがあって、一つの有力な議論は、国際条約を結べば、それはもう憲法があってもそれを制約するんだという意見もあるし、そうじゃないという考えもあるし、国によっても考えが違います。しかし、日本は、どちらかというと、国際条約を結べば国の権利も制約できるということでございますから、そういうことを書かなくても、個々の条約を締結する、それで国会で審議し、採決することによって主権を制限するということは可能であると思います。
平井小委員 参考人は、現在の日本は世界の平和の維持のために軍事的貢献が求められている状況であり、その貢献を果たすべきであるとされておりますが、この軍事的貢献とは具体的にどのようなことを想定しているのか。また、その一方で、前文試案の中には「世界の平和の維持のために積極的に貢献しなければならない。」と定めておりますが、ここには軍事的貢献について直接的な記述をなされておりません。さらに、日本は集団的自衛権の行使をそのときすべきかどうかということもあると思います。日本は集団的自衛権を有しているが行使できないという今の政府の解釈にとどまったのでは、ここで言っておるところの相応の貢献を果たすことはできないと私は考えますが、参考人はいかがでしょうか。
英参考人 基本的な、私が問題としておりますのは、現在の前文の思想、つまり日本の外がみんな平和愛好国であって、日本はちょっとそうでなくて、したがって日本の安全は外の平和愛好国の善意にゆだねる、こういう形になっているわけですけれども、戦後五十年、もう日本は完全な平和愛好国であると思います。ですから、そういうところで今の前文と現実の間には相当のギャップがあるんじゃないかなという気持ちがするということが一つと、それでは、平和愛好国となったらば、ただ愛好国であるというだけで済むかというと、そうはいかない。やはり積極的な貢献をしていかなければいけないということになる。そのことは今までずっといろいろな法律、条約ができて議論されていることでありまして、どこまで軍事的な面で貢献するかという点は、やはりその都度、国会の審議に応じて決まるべきだというふうに思います。
 私は、前文の問題の議論でございますので、この問題についてはちょっとこれ以上述べるのは差し控えさせていただきたいと存じます。
平井小委員 では最後に、参考人の考える「個性的な日本の文化」というものについてもう少しお話をお聞きしたいと思います。
 確かに今、ソフトパワーとかハードパワーと特にアメリカでいろいろ言われていますし、不思議なもので、失われた十年、この十年、日本が唯一世界で評価され始めたのが日本の文化であったり、サブカルチャーであったり、そんな皮肉な現象が起きています。これは、最近はグロス・ナショナル・クールなんというふうに言われて、日本の格好よさというものが、アジアだけでなく、アメリカでもヨーロッパでも評価されるようになり始めた。
 これは、ソフトパワーというのはアメリカは外交戦略上に位置づけていますが、日本の場合は、どっちかというと、相手に押しつけないというところに特徴があるのかなと私自身は思っています。自然と、何となく日本の文化というものは伝わっていくところに私は特徴があるような気がするんですが、参考人は文化多元主義を掲げられておりますので、その辺について御意見があればお聞かせ願いたいと思います。
英参考人 おっしゃるとおり、日本の文化というものは、押しつけるというのではなくて、むしろ受容的なものでありますけれども、私は、基本的には自然との共生、そういうような、さっき申し上げた点について、ほかの国と比べればかなり違うところがあるなと思います。これを議論していくと切りがないので、ここでは差し控えさせていただきますけれども、私は、決して文化をかざして世界に乗り出していこうというのではなくて、やはり、一つの社会として、ほかの国と違う文化というものですぐれたものがあるならば、もう忘れ去られてしまいそうになっていますから、これから日本人が、ここでひとつそれを評価する機会に、この憲法前文改正の機会がなればということで申し上げております。
 内容的にはいろいろな意見があると思いますけれども、私は、日本の国にはすばらしい文化的伝統があるのだと思っております。
平井小委員 ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、仙谷由人君。
仙谷小委員 民主党の仙谷でございます。
 参考人には大変有意義な視点から問題提起をいただきまして、敬意を表したいと存じます。
 お話をお伺いしまして、憲法という法形式の中の前文に参考人がおっしゃられるようなことをどう書き込むのか、書き込むべきかどうなのかという点については、私自身、まだ結論を出すに至っておりませんけれども、お考えの大半には私もかねがね考えてきておりました部分と共通の部分が相当ございますので、大変貴重な御意見であると参考になりました。
 そこで、かねがね私が考えておりますことも交えて質問をしたいと思うわけでございますが、アイデンティティーを確立するとか日本人であることのアイデンティティーとは何かというのを私どももよく考えるわけでございます。
 今、参考人が「私の憲法前文試案」というところでお書きになっておるものを拝見いたしまして、そしてなおかつ、先ほどのお話あるいはこの憲法前文試案というのを拝見いたしまして感じますところは、「個性的な日本の文化を誇りにしているが、」というくだりがございます。「同時に世界の諸国民の文化の間には優劣はないと信ずる。」ということをお書きになっておりますし、それから、この本の七十九ページのところでしょうか、アイデンティティーの問題あるいは文化の問題のところで、「その理念は日本人にだけ通じる独りよがりなものであってはならない。世界中の人々に理解されうるもので、」「日本に暮らす非日本人にとっても共感しうるものでなければならない。」というふうにお書きになっているくだりがございます。
 それから、先ほどのお話の中でも、先祖返りは許されないと。それから、本の中にも、教育勅語のところへ先祖返りするなんということはあってはならないんだというようなこともお書きになっていらっしゃるわけでございます。
 そうしますと、私どももアイデンティティーを模索するわけでありますが、個性的な日本の文化であって、なおかつ普遍性を持つものというのは、参考人は何だというふうにお考えでございますか。
英参考人 私は、その点については、やはり、自然と人間との関係に関する態度の問題だというふうに思います。
 もちろん、日本は西欧文明を取り入れましたから、むしろ西欧的な考えで自然を傷めつけている面がありますけれども、しかし、歴史的には日本人はずっと、そういう意味では、西欧、欧米に比べると、自然との間には共生という考えを実践してきたと思います。これは、とても貴重なことだというふうに思っております。
 それから二つ目は、資源の有限性を知っていた国民であるということ。
 それに伴ういろいろな問題点、つまり、資源が有限であるから大事にしなければいけないということはリサイクルとかそういうようなことでよく言われることでございますが、江戸日本は世界で最も循環型の経済を持っていたというようなことで言われますけれども、日本人は確かに、物を大切にしようと、使い捨てではなくて、丁寧に紙を畳んでまた使うというようなことをしてきた国民でありますから、これから世界の人口がどんどんふえていって資源が有限であるときに、そういう日本人の経験というのはやはり役に立つんだろうと私は思うんですね。それを一つの普遍的な価値にまで高めていくということを私どもは余りしていませんけれども、やはり、こういう機会に少し考えてみたらいいんではないかというようなことがあります。
 それからもう一つは、これはなかなか言いづらいことなんでございますけれども、宗教心の問題であります。
 これをどう書くかというのは実は非常に問題がありまして、まず、おまえの宗教はと外国で聞かれると、多くの日本人は無宗教とパスポートに書いてしまうんですが、私はそれは間違いだと思っています。
 日本人は非常に宗教心がある国民だと思うんですけれども、しかし、どちらかというと、それは先祖の崇拝であるとかシャーマニズム的なものである。そういうために、どちらかというと、西欧の伝統から見ると、それは下位の宗教である。そういうのを止揚して、もっと高級な宗教があるんだというふうになってきて、一神教の幾つかのものがそういうふうに考えていると思うんですけれども、日本はそこの点は非常に融通無碍で、やおよろずの神の国なんですね。
 日本は神の国だと私は言う気はありません。まあ、神々の国だというのであれば、私は神々を片仮名で書けばいいかなと思いますけれども、しかし、やはり日本は神様の面でも非常に相対的なんですね。仏教が来れば仏様も入れてしまうし、もう神仏を一緒にしてしまう。そういう点は自在であって、軽べつをされるんですが、私は、その点は何も、みずからをおとしめる必要はない、それが日本なんだというふうに自然にとったらいいんじゃないかと。そういう点で、人間よりも高い存在に対する畏敬の念というようなものは、やはり日本の伝統の中にあるという気がいたします。
 そのほかにもいろいろございますけれども、大きく御質問に答えて、私の個人的な、日本の形で一番の特徴は何だというふうに御質問を受ければ、今のようなことを申し上げたいと思います。
仙谷小委員 アイデンティティーと安全保障の問題との関連でちょっとお伺いするわけでありますが、この日本国憲法、現在の憲法の前文を割と否定的にとらえる人は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」こういう空想的な文言があるからいかぬのだ、こういうことを大声で言う人が日本には相当いらっしゃるようであります。政治家にも相当数いらっしゃるようであります。
 しかし、考えますと、例えば、国際連合憲章に、「正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、」そういう文言があります。「国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、」こういう文言があるわけですね。
 それで、第二次世界大戦後の世界の世論といいますか、あるいは連合国の考え方あるいはその精神というのは、やはり、戦争はやめようよ、武力の行使をするときには国際連合という枠組みでやろうよ、そういう基本から国際法を、手続的にも、あるいは戦争違法化という流れもつくっていこうよと。こういうことが、その精神が抽象化されて現在の憲法の前文にも書かれているだけだ、私はこういうふうに思っているんですね。
 だから、文章とか言葉というのは抽象化すればどんどん抽象化させることができるし、具体化させればどんどん具体化させることができる。それが具体的じゃないからといって、それでそれが丸腰の、全く空想的であって意味がないなんという議論にはならないんじゃないかと思うんです。
 そこで一つお伺いしたいのは、日本人が、日本人のアイデンティティーとして、今の時点で、安全保障との関係で、もしこの前文を書きかえるとすれば、私は、核兵器の廃絶問題については日本人は見解を示すべきだと思うんです。
 つまり、大量破壊兵器であれ、核兵器であれ、唯一、原子爆弾の被爆を受けた国民としては、この問題が二十一世紀の地球社会におけるいかなる問題であって、我々はそれに対してどういう態度をとるのかということだけは書かなければ、日本人のアイデンティティーを国際社会に示せない、こういうふうに考えるんですが、参考人の御意見はいかがですか。
英参考人 これは、先ほど申し上げましたように、私は、そういう問題を含めるかどうかという点も含めて一応考えて私の案をつくったので、ですから、その段階でその問題は入れるのは適当でないというふうに考えたわけでございます。ですから、結論的に申し上げますと、今の点については、私はその問題は前文に入れない方がいいんじゃないかなという気持ちがあります。
 では、なぜそういうふうに考えるかということでございますけれども、これは本当に残念なことでありますけれども、国際法というものの不完全さ、国際法というのは非常に不完全な法である。法であるためには、法を違反した者に対して処罰がなされなければいけないわけです。それでなければ法体系は成立いたしません。
 しかしながら、古典的な国際法のもとでは、それは戦争によって実現したんですね。これは非常に全く残念なことですけれども、力のある人が正義であったんですね。それが戦後の、第一大戦の後の国際連盟、それから、特に第一大戦の後、ケロッグ・ブリアンの二八年の平和の取り決め、ああいうものを経て、武力の行使は自分の国益を伸ばすためには使ってはいけないというところがあるんですけれども、他方、人が攻めてきたらそれに反撃することももちろんできるしというところで、非常に中途半端に国際法がとどまっちゃったというふうに私は考えています。
 そういう法体系を具現するものとして国際連合ができたわけですけれども、しかし、それはやはり非常に中途半端であった。つまり、第七章のもとで、平和に対する脅威ないし平和の破壊が行われた場合には、五大国を中心としてそれに対して反撃するというシステムであったわけですね。そのために軍事参謀委員会などもつくったんですが、ただ、冷戦というものがあってそれができなくなってしまった。現在は冷戦が終わったけれども、今度はアメリカ一国が非常に大きくなってしまったために、またできなくなってしまったという非常に不幸なことが続いております。
 しかし、結果的には、そういう意味で法を完全に貫徹するために、では国際社会、まずその一つの具現する国際連合が何ができるかというと、これが非常にできない。そこの中で、では、やはり軍事力というものがある役割を果たすということは、どうしても現実論として残らざるを得ない。それにどう対処するかはそれぞれの国の行き方で、アメリカのような行き方をする国もあるし、これまでの日本のような行き方をする国もあると思うんです。しかし、国としては、その極限状況を考えた場合に、核の問題については、では、もし核で攻撃されるというようなことが本当に起こったらどうするんだということは考えなければいけない。
 そうしますと、今の日本の政策というのは、それはアメリカの核の傘のもとに入るんだということで一応つじつまは合っているわけでございますが、しかし、一国の安全を他国の核の傘にゆだねるということ自身の持つ問題もまた非常にあります。
 私は、それについては、やはりもう少し国際規範を変えていかなければいけないというふうな考え方を持っておりますが、そういうことをあれこれ考えますと、単に核を廃絶したいという希望を述べるのはいいんです、私も賛成であるし、私も祖父が広島から出てきて、親類縁者はみんな広島で死にました。ですから、そのことは痛いほどわかりますけれども、では、さりとて、それを入れておいて金科玉条のごとく神棚に上げて拝んでいれば済むというものではない。私は、そこではもっと日本国が行動しなければいけないと思うんですね。
 つまり、核をなるたけ使わせないようにするための国際的なレジームをつくっていく。それはアメリカも巻き込んだ、やはり核をコンテインしていくという努力が必要だと思うんですね。ですから、そういうようなことを考えるべきだと思うのであって、ただ核を廃絶しろというだけでとどまるということには私はちょっと個人的に納得できない点があるものですから、その点を前文に入れないというのが私の結論であったわけでございます。
仙谷小委員 終わります。
保岡小委員長 次に、遠藤和良君。
遠藤(和)小委員 公明党の遠藤和良でございます。
 きょうは、憲法前文について、その重要性について本当に多方面からお話を賜りまして、ありがとうございました。
 私、憲法の前文と条文の関係について、やはりこれは、前文と条文が密接不可分の関係にあるのではないかと思うんですね。前文には、憲法の条文を制定するに至った動機だとか背景だとか目的だとか、あるいはその条文を制定するに至った基本的な理念とか、そういうことを書くのが普通だと思うわけでございまして、憲法の前文だけ改正するというのは一体意味があるのかなと。やはり、考え方が変わるということは、前文の中に国の形のものを変えていくということは、条文の中にそれが投影されなければ意味がないのではないかな、こういうふうに思うんです。
 前文だけまずはというお話があったわけですけれども、条文を具体的に変えるといいますか、条文をこのようにするのだという意思を示さないで前文だけ変えるというのは、本当に意味があるかどうかということを考えるんですけれども、いかがでしょうか。
英参考人 私は、その点については、本を出してからもいろいろな方と議論をしたのですけれども、冒頭の陳述の中で、あいまい性を持っている前文という言葉をあえて使わせていただいたのですが、お答えはそこにございます。かなりあいまいなものである、抽象的なものである、したがって、規範性を持っていない、これが今までの結論だと思いますので。逆に言えば、前文が変わったから規範性に変化が行われたのではないというふうに私は考えますので、そこを余り神経質に考える必要はないのじゃないかと。
 ちょっとアバウトな意見というふうにお笑いになられるかもしれませんけれども、すべてのものには若干の問題点はあると思います。しかし、私は、あえて賞味期限を過ぎてしまったというような挑発的なことを申し上げておりますのは、日本のアイデンティティーが失われたというのは、やはりこの憲法前文の果たした役割、罪であるというふうに私は思うものでございます。これは非常に強く思うものですから、やはりそこのところは一日も早く日本の顔をした前文が欲しいというところで、若干のものには目をつぶってもいいし、目を十分つぶっても問題のない問題だというふうに考えておるわけでございます。
 それからもう一つは、前文の改正をするということ、それを国民投票にかけるということの意義の大きさでございます。
 私は、繰り返しになりますけれども、最近の憲法というのは、どこでも最終的には国民の投票にかけられているわけですが、これだけ高いレベルの政治意識を持った国民、教育水準の国民が、自分の国の憲法に意思表示をしていないというのは、私の世代の気持ちとしては耐えられないのです。ですから、それをどうにかしてほしい。
 ほかのやり方でもできるならば、もちろんそれで結構です。しかし、どう見ても、さっき申し上げたように、議論がこのまま進んでいくと、これもこれも整合性がという話になってくると、もう結局憲法全体を変えるという意見になってくる。一条文をいじれば、それでまた整合性が出てきますから。そういう意味の整合性を考えた場合には、前文と憲法の本体との間の整合性に比べれば、私は非常に緩いものだと思うんですね。ですから、そういうような危険を考えると、前文だけ改正をするということが適当だというふうに申し上げた次第でございます。
遠藤(和)小委員 それから、主権の制限の明記ですけれども、認識は理解できるんですけれども、具体的に諸外国の憲法の前文にそういうことを明記したのはあるんでしょうか。
英参考人 私が調べた限りは、ないと思います。私は、世界で最も進んだ憲法前文をつくりたいということを申し上げている中の一つは、まさにそれがございます。
遠藤(和)小委員 それから、独自性と普遍性の問題ですけれども、今の前文は政治的には蒸留水のようなものであって、普遍性はあるけれども独自性がない、日本のアイデンティティーを明確にすべきだというお話があったわけですけれども、一方で、今の憲法で示した理念というのはまさに世界に日本が発信した独自性であって、そうした憲法の理想、理念が実現できていないことが問題ではないのか、まず改正の議論をする前にそうしたことをきちっと議論する必要があるのではないかという意見があります。
 それから、先生のお話の中で、食べ物に例えれば賞味期限を過ぎているという表現があったんですけれども、むしろ憲法の理念というものがまだ実現をされていないのではないか、そちらの方に日本はもっと力を入れるべきである、それが日本の独自性ではないのか、こういうふうな議論があるわけですけれども、先生はどのようにお考えになりますか。
英参考人 日本国現行憲法の前文に、非常に進んでいるところがございます。それが五十年たっても実現していないことは残念だという気持ちは私はありますけれども、私は、そこはやはり現実の中の憲法だったというために実現できなかったんだろうというふうに思うわけです。
 ただ、その先進的な面を取り除くということは、私は一つも言っていないつもりであります。現在の憲法の中の普遍的な価値の中で、ほとんどのものは新しい憲法の前文の中にも残るべきだろうと思うんです。私は、むしろ追加するということですね。わずかに、若干のニュアンスが変わるかもしれないなと思うのは、今の憲法は、とにかく平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して自分の安全と生存を保持しようというスタンスであるのに対して、日本はもう既に平和愛好国なんだから、世界のほかの平和愛好国と一緒になって平和を維持するためにやはり貢献しなければならないという思想が入るということでございます。私は、そこに軍事的な貢献というようなことを一切入れていないのは、思想として、もう任せていますよという敗戦直後の状況から五十年、これだけの力を持つように至った国としての義務というものがありますよというところを思想として入れるということだけにとどめたい。
 具体的にそのためにどういう貢献をするかというのは、これこそまさにこれから国会でも、国民も議論をして、やはりこの問題についてはここまでの貢献とか、法律ができたからここまでやらなきゃいけないということはないので、その手前でとどまることだって十分いろいろあると思うので、そういうことを、そこが違うくらいであって、あとは、高邁なる理想の中で、この私の案について申し上げれば、何か捨てたということはないつもりでおりますし、また、いかなる案ができても、そういうものを私は国民が望むとは思いません。やはり現在の前文の上に立って、さらにもっと二十一世紀に向けてのいろいろな新しい理想、理念、夢、そういうものを盛り込みたいというところに国民の議論が進んでいくといいなというふうに考えます。
遠藤(和)小委員 最後に、先生が示された前文の中に「和を重んじる政治」という表現があるわけです。これは確かに日本の伝統的な政治のあり方を表現された、日本のアイデンティティーのようなものかもしれないわけですけれども、今これだけ変化の激しい時代にあってそれで対応できるのか、より強いリーダーシップと申しますか、どんどん多数決で決めていくべきではないのか、こうした議論があるわけです。こうした風潮とこの和を重んじる政治というものについてどうなのか、時代の要請に和を重んじる政治が合っていると考えてよいのかどうか、こういうちょっと懸念を持っているんですけれども、いかがでしょう。
英参考人 和は、いわゆる英語で言うとコンセンサスということなのでございますが、これは、御異存はございませんね、こう見回して、それで、ああ、コンセンサスで決まりました、こういう話なんですね。それはどういうことかというと、議論を尽くして、自分は言うことを言ったけれども、まあまあこの程度でしようがないんじゃないかなというところの時点がほとんどの問題については到来するわけですね。
 そこまで時間をかけて議論するのが日本であって、私は、これは非常にさかのぼっていくと、やはり日本がモンスーン地帯にあって米づくりをやっているというようなことに発することだというふうに思っておりますけれども、その点はちょっと省略させていただいて、やはり日本は、五〇・一%の人間が賛成したらば全部いいよ、例えばアメリカの大統領選挙でフロリダのもう数十票か、もう本当にそこで逆転するような、ああいうことで世界の最大の国の政権がどっちへ行くかというふうな形で決めるということは、日本では無理だと思うんです。
 私は、六〇%か七〇%か八〇%かわかりませんけれども、日本では恐らく八五%から九〇%の人が賛成する政治が今まで行われてきたと思います。それで一五%の人がどこまで反対するかという問題で、まあ八五%が賛成するなら自分は反対だけれども黙っていようという形で日本の政治が行われてきた。私は、それは日本のコンセンサス政治、和の政治だと思いますし、アジアの国では、インドネシアでは御案内のようにムシャワラという言葉がありますし、シンガポールのアイデンティティーをめぐる議論の中でも、やはりコンセンサスを大事にする社会にしたいということも書かれていまして、やはりこれはアジア的なモンスーン社会の特徴だと思うんですね。ですから、そういうところは民主主義の制度としてもかなり西欧とは違うんじゃないかという発想を私はしております。
 ですから、具体的な政治制度の、これがいい、あれがいいという議論はちょっと差し控えますけれども、基本的な考え方として、五〇・〇一%で物事を決するというのではやはり日本という国はいかないんじゃないかという考えがございます。そこで、そういうことも含めて和をと言ったんですけれども、和というのは一〇〇%の賛成ではないということもまた申し上げておきたいと思います。
遠藤(和)小委員 ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、藤島正之君。
藤島小委員 自由党の藤島正之でございます。
 最近、特にグローバリゼーションだとか、あるいはボーダーレスだとかいう言葉が言われているわけですけれども、私は、いろいろそんなことが言われていても、国家というのは、その役割というのは大変重要なものであり、幾ら進んでもそれは別のものだというふうに考えるわけです。憲法を考えるに当たってもそこのところをきちっと認識しておかないといけないんじゃないかというふうに思いますけれども、その点はいかがでございましょうか。
英参考人 全く賛成でございます。
 私は、やはり百年先、二百年先はどうなるかは存じませんけれども、現在の社会、国際社会が国家を中心として成り立っている、これはもう前提でございまして、ですから、日本人の心の中にそういうものを超えたより高い地球社会とのある意味でのいろいろな問題点に対する関心が高まっていること自身は積極的に評価しますけれども、しかし、それはあくまでもある部分的なある点についてであって、基本はやはり国というものがなければいけない。
 ですから、私がアイデンティティーを大事にするというのも、まさに無国籍性、何か非常に無国籍になってきている、コスモポリタンになってきている、自分の国に誇りも持たない、何か悪いことをした国だとしか思わないというようないろいろな問題は、問題が非常にあると思いますね。根本には、やはりいい意味での国家意識というものがなければいけない。
 現在の憲法前文を見ると、国家意識にかかわるようなところはほとんど欠如していると思うんですね。だから、これはやはり問題だと思いますし、国家が基本であるというお考えに私は全く同意見でございます。
藤島小委員 今お話のあるアイデンティティーの問題でございますけれども、これを前文という短い中に書き込むというのは大変難しいことだと思うんですけれども、今先生の試案を読んでみまして、そのアイデンティティーの部分について、どこにどうだという、どういうふうに読めばいいのか、教えていただきたいと思います。
英参考人 私がアイデンティティーを自分の試案に、私の案に盛り込むのは非常に苦労いたしました、率直に申し上げまして。随分いろいろ思いをめぐらし、人の意見も伺ったんでございますけれども、人によっていろいろな意見がありますけれども、私が結論的に日本のアイデンティティーだというふうに意識して書いたのは、最初の二つのパラグラフでございます。日本人の自然環境との関係、それからくる自然との共生、日本の非常におもしろい文化というものが生活の中に入っているということ、それから社会の調和を大切にする、そういう国柄、これが日本のアイデンティティーだというふうに私は考えたわけでございます。
 それから、もう少し進めると、やはり勤勉を大事にする、それから自助の精神、これは大変に日本人はすぐれていると私は思います。私は外務省で経済協力局長もいたしましたけれども、非常に感じましたのは、最近の途上国はもらうのは当たり前だと思っていたわけですが、日本は明治の後、私は余り好きな言葉ではありませんけれども、いわゆるお雇い外国人を招いて教えを請うたわけですが、大変な給料を払ってお招きしているわけです。それから、日露戦争をするのも外債を発行して戦争しているわけですね。このやはり本当に涙が出るような自助の精神というのが私は日本の歴史を貫いていると思います。これは絶対に私は維持してもらいたいし、この精神がある限り日本国はいかなることがあろうとも大丈夫だとすら思うので、これはぜひ入れたい。
 それから、他人の気持ちを思いやる、これは非常に最近なくなってしまいました。ですけれども、昔から日本人は、人の気持ちを思いはかって、言うことも言わないとかいうふうに遠慮している面があって、私はそれは非常にいいことで、権利主張ばかりしてぶつかり合うよりも、相手はどう思っているかということをまず考えるという、これは日本人の美風だと思いますから、そういうのもやはり日本のアイデンティティーだというふうに思いました。
 それから、さっきの和の話ですね。
 そんなようなことが、いろいろなものを総合すると日本のアイデンティティーなのかな、ほかの国と違うところなのかなというのが私の意見でございますが、これは全くの私の個人的な意見で、いろいろな意見があり得ると思います。
藤島小委員 ありがとうございます。
 私もまさにそういうふうな感じはしておるんです。日本の歴史、文化、伝統について前文に書き込むべきだと私は考えているんですけれども、今のも、アイデンティティーの問題と歴史、文化、伝統というふうな、何か重なっているような感じもするんですけれども、その点はどういうふうにお考えになりますか。
英参考人 アイデンティティーというのは、先ほど申し上げましたように、何で日本人だと自分を思うのかということだと思うんです。その中にはいろいろな要素があって、歴史を共有しているという要素も恐らくあると思います。それから、生活様式を共有しているとか、価値観を共有しているとかですね。ですから、それは大きな広い意味でのアイデンティティーの中に恐らく含まれてしまうんじゃないでしょうか。
藤島小委員 最後に、自分が自分の生まれた国に自信を持って生きていくということは必要だと思うんですけれども、先生も先ほどのお話の中にありました。憲法の前文の中には我が国の進むべき道といいますか、夢といいますか、新しい理想といいますか、そういうものをそれとなく書き込んであるのが望ましいと思うわけですけれども、その点についてどういうふうにお考えになりますか。
英参考人 そこは非常に難しいところで、私としては、この私の試案の中で書いたのは文化の面に一応限られています。文化の面に限られているのは、いろいろな理由がございますけれども、やはりアイデンティティーの根源の中に文化というのは非常に大きい部分を、広い意味での文化が占めるわけなので、その文化がお互いにほかの国の文化と同列だという意識を持つということが大事だと思ったから書いたわけです。
 現実にそうでないという国もたくさんあるわけでございます。ですから、この一つをとってもかなり先進的過ぎるかもしれないとすら思いますけれども、やはり文化は同じなのでということから発する場合には、それに基づく行動規範というのも相当変わってこなければいけないんだと思います。しかし、そこまでなってまいりますと政治の問題が入ってくるのですけれども、基本的に、やはりどこの国もそれぞれ、一寸の虫にも五分の魂があるんだということを国の基本に置くということによって随分大きな変化が出てくるし、いろいろな国の行動を見ても、そういう行動をしていない国もたくさんあるわけでございますから、やはり将来にとってかなり先進的な要素であると。
 それを裏づけるといいますか、具体的に示すものとして、文化遺産を保全するという役割、これは全く日本に適した役割でございますから、日本の文化遺産の保全、これは日本の文化を守るという観点から必要でございますが、そうでなくて、世界のすぐれた文化遺産も守る。一昨日ですか、昨日ですか、テレビを見ておりましたら、世界の文化遺産に日本人の落書きが行われているというテレビ番組を見て、私は本当に恥ずかしくて、顔を上げられないぐらい恥ずかしかったんですけれども、世界じゅうの文化遺産の落書きの八割から九割は日本人の手によるものなんですね。私は、こんな恥ずかしいことが文化国家で認められていいのかと思います。どうしてそうなるのかという気がいたしました。
 本当に、そういうようなことも含めて、やはり我々は文化というものを大事にするという心を持つべきだし、それは特に他国のすぐれた文化遺産についてはもっとそうだと思うんですね。そういうこともだんだんなくなってきているので、私は大事なことだとして前文にむしろ入れたというところに特徴がございます。
藤島小委員 ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、春名直章君。
春名小委員 日本共産党の春名直章でございます。
 参考人は、日本国憲法の前文が、どこの国の憲法の前文としても通用する、無国籍だという問題と、それから、古くなって賞味期限が切れたということで改正というお話をしていただいたんですが、それにかかわってまず二点伺いたいと思うんです。
 一つは、日本国憲法前文に、第一段落目に、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」という戦争への反省と、二度と戦争は繰り返さないという決意に触れている中身があります。こういう前文を持っている諸外国の憲法がありますか。
英参考人 ないんじゃないかと思いますね。つまり、私は個人的に、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起る」、政府が起こすという考え方自身に非常に矛盾を感じます。民主主義の国であれば、政府が起こすことは国民が起こすことと同義だと思うんですね。ですからこれは、はっきり言って、この前文がつくられたときの状況、国際環境を反映したものであって、政府の行為によって戦争が起こるんだという考え方自身は私はおかしいと思います。
春名小委員 私も、中山太郎会長が書いた「世界は「憲法前文」をどう作っているか」というのを拝見したんですけれども、今おっしゃったように、侵略戦争への反省とこうした戦争は繰り返さないということを決意した前文は、日本国憲法しかないんですね。政府が起こすんです、戦争は。それに国民が動員されてきたというのが厳然たる事実であって、そのことへの深刻な反省をし、日本の国籍、日本のアイデンティティーと言うのであれば、このことを抜きに語ることは絶対にできません。このことを明確にして、まさに日本独自の歴史、国籍を示すものとして受けとめる必要があるんじゃないでしょうかというふうに私は思います。
 それから、私、参考人が古くなったと言われるんだけれども、やはりこういう宣言は今こそ大事になっていると思うんですよね。といいますのは、今議論されているイラクへ自衛隊を派遣するという問題は、まさにこれは戦争に加担することになるんじゃないかという大議論になっているわけでして、そういうことが目の前に広がっているときだけに、こういう中身、この理念は今こそ輝いているというふうに私は確信をするものであります。
 二番目にお聞きしたいのは、同じく前文の第二段落に「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」というのが出てきますね。平和的生存権ですけれども、国民が生存していく上で平和を不可欠の権利としてうたった、そういう角度からうたった諸外国の憲法の前文があるのかどうか教えていただきたいと思います。
英参考人 最初にお断りしたように、私は憲法学者ではございませんから、ほかの世界百九十ある国の憲法の前文にそういう点があるかないか、これは私はつまびらかにいたしませんので、その点の回答はちょっとできないのでございますが、平和のうちに生存する権利というものが何であるかということについては、はっきり言って私は個人的によくわからない。
 つまり、自分は平和でいたいと思っても、国内にあってもだれかが危害を及ぼすかもしれない、おれは権利があるんだよと言ったことで何を意味するのかというのが私にはわかりません。ですから、そういう平和のうちに生存する権利というものは、全世界が、すべての人がそうするのであれば問題ないのですけれども、そうじゃないというのが現実であった場合には、権利というものが果たして権利と言い得るのかどうか、ちょっとわからないというのが私の率直な感想でございます。
春名小委員 この平和的生存権については、今国際的な注目を浴びているんですね。国連総会の決議でも使われるようになっているんですよ。
 一九七八年十二月十五日に国連総会が採択した平和に生きる社会の準備に関する宣言というのがございます。そこでは、各国民と各人は、人種、思想、言語、性による別なく平和に生きる固有の権利を持っているという宣言をしています。
 一九八四年十一月十二日には、人民の平和への権利についての宣言というのが出されています。そこでは、人民の平和的生存の確保は各国家の神聖な義務、地球上の人民は平和への神聖な権利を有することを厳粛に宣言する、こういうことを国連の決議の中でも盛り込むようになってきました。
 つまり、日本国憲法のこの平和的生存権という理念や思想は、今世界の中で、このことこそが大事なんだということで国連の決議の中に組み込まれていく、こういう歴史の流れになっているんですね。つまり、世界をリードする役割をこの日本国憲法の前文は今果たしつつあるという状況だということもぜひ知っておいていただけたらと思います。したがって、賞味期限切れどころか新鮮そのものであって、これをもし変えてしまうと、逆に食中毒になってしまうんじゃないかというふうに私は言わざるを得ないということであります。
 三点目は、先ほど参考人が、繰り返し第二段落のところの「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」ということについて、これが何か他国に平和を守ることを任せている、善意にゆだねているというふうに御認識されているようですが、本当にそういう意味なんですか。そういうことでいいんですか。
英参考人 ここに書かれておりますのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と書かれております。そういう意味だと思います。
春名小委員 これは、もう御存じかと思うんですけれども、日本国民が、自分の国の安全、国民の命と安全と生存を戦前のように、それから他の国家がそうであるように、最後的には武力や戦争によって維持する、安全と生存を維持する仕方をそういうところにゆだねないという意味なんですよね。戦争によって生存と安全を守るということではなくて、まさに平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼することによって、そのことによって維持するし、日本国民と日本政府はみずからもその先頭に立つ。したがって、第九条はそのことをしっかりと指し示して、交戦権の否認、陸海空、軍隊を持たないというところまで、国際連合憲章のその中身もさらに一歩進める、そういうものとして決意をしているわけであります。
 したがって、何か他国に平和をゆだねている、そういう次元の話ではなくて、まさに戦争という手段、武力によってという手段から解放されて平和の道を歩んでいくということを示しているものだと私は理解しているし、多くの国民はそういうふうに認識しているんじゃないでしょうか、私はそのことを申し上げておきたいと思います。
 それで、先ほど何人か御質問ありましたけれども、憲法の前文と各条文というのは不可分一体です。とりわけ、平和的生存権、侵略戦争への反省ということからくる第九条との関係ですね。この不可分一体性というのは、この点は参考人はどうお考えになっていらっしゃるんでしょうか。
英参考人 私は不可分だと思っておりません。
春名小委員 この点でも、やはり私、世界の流れを見る必要があると思うんですね、賞味期限というお話も出ましたので。
 例えば、イラク戦争が起こって、百九十一の国のうち百三十の国が、この戦争はおかしいぞ、異議があるぞ、反対だという声を上げているわけですね。今度のイラクへのこの占領支配への派兵でも、フランスやドイツや中国やロシアやそういう国々が、軍隊を送るというのはおかしいし、正当性があるとは認めていないわけですね、占領。
 そういう中で、アメリカ一国のそういう国づくりでいいのか、そうではなくて、国連憲章が示すような、武力による紛争の解決はしない、例外は二つだけ、こういう流れをもっと徹底しなきゃいけないんだ、その目で見たときに、日本国憲法前文と九条はその流れの最先端にあるものだと私は思うんですね。まさにこれから光を放つものであるし、新鮮なものであるということについては確信を持ちますし、そういうところにこそ日本人のアイデンティティーが私はあるんじゃないかというふうに思います。
 以上です。
保岡小委員長 次に、北川れん子君。
北川小委員 社民党・市民連合の北川れん子です。本日はどうもありがとうございました。
 きょうのレジュメにお書きいただいております、参考人の方は、主権在民、民主主義、人権尊重というふうな三本柱をお書きいただいているんですが、通常は、主権在民、平和主義、人権尊重というのが日本国憲法の三大柱というふうに伝えられ、教えられていると思うんですね。ここで大きく違うのが、平和主義のところを参考人のでは民主主義というふうになるという点において、この辺は、あえてその三本柱から平和主義を外されたのか、その辺の思いを少しお伺いしたいと思うんです。
英参考人 歴史をひもときますと、帝国主義時代は切り取り自由、戦争で植民地をつくる時代が長く続いていたわけですね。それで結局、第一大戦という大変な戦争が起きてしまって、全世界戦争になった。そこで、一九二八年にパリの不戦条約ができたわけでございます。ここで、要するに、国の利益を求めるために戦争してはいけないということが初めて国際的に合意されたわけですね。これが平和主義といえば平和主義なんですね。すべての国がもう既に平和主義を受け入れているんです。私はそういう考え方に立っていますから、日本だけが特殊な平和主義を求めているのではなくて、すべての国は平和主義というのは前提に置いているべきであるし、また現実にそうなんです。
 だけれども、では実際に戦争が行われているじゃないかといえばまさにそのとおりで、戦後、ほとんど戦争の連続の歴史ですね、第二大戦以降でも。それは数を挙げるまでもなく、中東戦争が何遍も行われたし、インドとパキスタンは戦争をしたし、中国とインドは戦争をしたし、中国とベトナムは戦争したし、中国とロシア、当時はソ連も小競り合いですけれどもやったことがある。大きな戦争が行われているわけですね。
 ですから、平和主義といっても、みんな平和主義でありながら平和というのができていないから、平和主義だということの意味は全く意味を持たない。私は、ほかのすべての国いずれをとっても平和主義の国だと思いますから、日本だけが平和主義の国だというふうに思ってはいないということから、そういう意味では三本柱の中から外したということでございます。
 ただ、現在の憲法の前文が、そういう考え方、三本柱の一つに平和主義があるんだということで、国際の平和とか平和の大事さということを教えたという意味での価値はちゃんと認めるということを一番最初にも申し上げておりますし、そういう意味での全否定をしようという気は全くございません。
 ただ、平和主義というものをただ掲げて、それが何かもうアプリオリに存在してその上で物を考えるというのではなくて、平和主義というものの内容をもう少し議論しなければできない時期に差しかかってきているというふうに思います。
北川小委員 平和と言いながら銃を撃つという感じの平和という問題に関しての矛盾があるということだろうと思うんです。
 そういう点からいっても、日本の平和主義という中には九条と、私は前文と条文は不可分だというふうに思うんですね。参考人は前文と条文は分けて考えることができるとした場合に、私は、この前文があるからこそ九条がある、そこのところで揺るがすことがなかったという点が、五十七年間派兵や派遣をするという事態に及ばなかったというところにあると思うんですが、今事態は変わってきているということになっていくんだろうと思うんです。
 その点において、きょうお示しいただいた試案の中から、では、条文の九条の一項と二項、これは生かされてそのまま存在し得る前文であるというふうに思われているのかどうかをあえてお伺いしておきたいと思うんです。
英参考人 前文のことについての参考人と理解はしておりますが、あえてと言われますので、その点についてお答え申し上げれば、私は個人的に九条の二項というものは意味がないと思っております、御質問がありましたのでお答えしますけれども。
 なぜかといいますと、前項の目的を達成するため、陸海空の戦力は保持しないと言っているわけですけれども、では、既に日本が持っている自衛隊というのは戦力でないのか、まずその問題ですね。私は、個人の意見として申し上げれば、これはやはり戦力であるということ、まずそれが一つ。それから、国の交戦権は、これを認めない。これは、国際法をやった者にとって、国の交戦権というのは、しかけてくれば戦争が起こるわけですから、こっちが交戦権ないよと言ったってしようがない話なんで、これは国際法上全く意味をなさない言葉でございます。
 ですから、第二項というものは、あってもなくても現在の事態にほとんど影響を及ぼしていないというふうに思いますから、私は第二項は削減してしかるべきだと思いますし、第九条第一項と前文との間の関連性というのはあり得るというふうに思います。
北川小委員 そういう点において、アフガニスタンにしろイラクにしろ、新しい憲法をつくられる段階で、やはり、日本の憲法九条一項、二項が私たちが欲しかった平和を象徴する言葉としてあるんだというのを知ったということで、これを何とか自分たちの国の憲法の中に取り入れられないかという動きもあると伝えられている中において、私自身はやはり、憲法のおいしさ、憲法の理念の目指す本当のところを日本人はまだ知らないのではないかという立場をとる者の一人なんであります。
 きょうお書きいただいた憲法試案の中に、主権在民というところの点、レジュメには三本の柱の一つにお書きいただいているんですが、主権在民の項も読み取れる文章としては私自身は読み取れなかったんですが、試案の中のどこを読み取らせていただくと主権在民が出てくるのか、お教えいただきたいと思います。
英参考人 私は、第二項のところでございます「すべての国民は等しく平等であり、このような国民の意思を体して、和を重んじる政治が行われなくてはならない。この憲法は民主主義と基本的な人権の尊重の」もとに云々と、この二つの文章の中で、当然のこととして、主権在民であるということを前提として書いているつもりでございます。
北川小委員 そこのところにおいて、やはりここで読むということなんですけれども、そうすると、次の「和を重んじる政治」とまた「民主主義」というものとの関連性というふうになってくるんです。
 私自身は、民主主義においては、多数決というよりはやはり少数者の意見にどれだけ耳を傾けるかというところが大事だというのはあると思うんですが、しかしながら、なおかつ議論をするという土壌のところとこの「和を重んじる」「民主主義」というのは、少しく乖離をする話を並立して述べられているのではないかというふうに思うんですけれども、その点においては、参考人はどのようにお感じになってこれはあえて二つを並べられているのか、お教えいただきたいと思います。
英参考人 おっしゃられるとおり、「和を重んじる」ということと「民主主義」というところでは、非常にいろいろな問題がございます。私は、この短い前文のところで書き切れませんけれども、きょう僣越ながらお配りさせていただいた私のささやかな本の中には、その点でかなり詳しく論じてございます。
 それで、日本的な民主主義と私が述べて、それが和の精神だと言っているときには、少数意見の尊重という言い方ではないんですけれども、同じことになります。要するに、五〇・一%で政治を行ってはいけないという気持ちが込められています。
北川小委員 最後になりますけれども、もし、前文と条文が不可分ではないというのか、そういうふうに思っていらっしゃるのであれば、今新たな試みとして、日本国憲法の英語で書かれた原文がありますよね、それを新訳するという試みなども出てきているんですが、そういう傾向に関して参考人はどのようにお感じになっていらっしゃるか、最後にお伺いしておきたいと思います。
英参考人 私は、恥の上塗りをする必要は今さらないと思います。
北川小委員 ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、井上喜一君。
井上(喜)小委員 保守新党の井上喜一でございます。
 きょうは、参考人、お忙しいところおいでいただきまして、本当にありがとうございます。
 私、第二次の大戦が終わりまして、それから日本が講和条約を結ぶまでに大方七年間の期間が経過をいたしまして、この間に非常に大切な法律、憲法を含めまして幾つかできてきたと思うのでありますけれども、そういった基本となる法律を見ますと、制定の過程におきまして占領軍の非常に強い関与が見られるという特徴、それからもう一つは、日本の独自性といいますか、そういうものを当然考えないといけないようなところにも、そういうものが落ちているというようなこと、それから、あるいは最近の国内、国際情勢の変化に伴って、よく検討しないといけないことが出てきた、こういうようなことで、憲法その他の法律につきまして、やはり改正すべきだとかいう議論が出てきていると思います。
 こういった考え方につきましては、私は参考人とそんなに大きな意見の食い違いといいますか、考え方の食い違いはないと思うのでありますが、きょう、参考人から、憲法前文についてだけの改正のお話を伺ったんですね。この点について、多少私は違う意見を持っております。
 私は、憲法の前文というのは、これは規範性がないというものでありまして、歴史的な経緯でありますとか、あるいは憲法の中のエッセンスを取り出したとか、いろいろなものが含まれていると思うのでありますけれども、私は原則的に前文は必要ないと思っているんでありますが、あえて前文は必要であるというならば、前文が本文の各条の解釈に明らかに影響を及ぼす場合、前文があるからこの条はこういうぐあいに理解すべきだというような場合は前文を置く意味があるんじゃないかと私は思うんであります。
 そういう考え方につきまして、つまり、参考人の御意見で、参考人の言われるような案の前文を置いた場合に、各条の解釈で、多少解釈に変わってくるような事項の条文があるのかどうか、その点、お聞かせいただきたいんです。
    〔小委員長退席、葉梨小委員長代理着席〕
英参考人 私の試案を前文としたときに、現在の憲法の条文の解釈が変わるということもないと思いますし、規範性はもちろんないわけですから、憲法に変化が生ずるわけでもないし、さらに、そのもとでの種々の法律にも変化は及ばない。
 私は、日本国の顔であるというふうに思うものですから、やはり、前文がない国も確かにあるんですけれども、私は前文は欲しいなという意見で、そういう意味で、ではどんな顔をつけたらいいかなという考えで書いたわけでございます。
井上(喜)小委員 そういたしますと、単なる経緯を書くとか何かは余り意味がないと私は思うんでありまして、今参考人のお話を聞きますと、そのことによって条文の解釈も余り違わないんだと。
 こういうことになりますと、そういう前文、前文というのは非常に難しいんですよね。いろいろなことを、日本の顔といいますか、これから日本はどういう国になっていくのかとか、今お話がありましたように、アイデンティティーみたいなものを書くということですから、これは本当にいろいろなことを書き尽くさないとそういうものにならないと思うんで、非常に難しいわけですよね。
 ということで、憲法といいますのは、これはしょっちゅう変えるわけにいかぬわけですよね。それは韓国みたいにしょっちゅう変えていいじゃないかという人もありますけれども、どうも日本の場合は、今の憲法の改正規定もそうでありますけれども、これを改正するにいたしましても、なかなかこれは改正が難しいような、そういう手続が入ると思いまして、だから、できるだけ幅の広い憲法解釈をしていくべきだと私は考えておるんですよね。
 その憲法解釈をできるだけ弾力的にするためには、前文なんかがありまして、やはり議論としては、前文がこうあるんだからこういう解釈じゃないかなんというようなことにいきがちでありますので、そういう憲法解釈をややもすれば制約するような前文とはいかがなものだと思うんでありますけれども、その点についてはどういうぐあいにお考えですか。
英参考人 伺って、ちょっと基本的なお立場が違うんじゃないかなという感じがいたしました。
 私は、どちらかというと、憲法解釈を割合自由にするということはよくないという考え方でございます。憲法第九条二項の点、先ほど申し上げました。それから憲法第八十九条ですね、公のお金、資金を、政府の支配、国の支配のもとにない、例えば慈善であるとか教育に出してはいけないという規定にもかかわらず私学助成が行われているというような点は、明白に憲法の条文が普通の読み方から離れて解釈されていると私は思います。そのことがやはり倫理の退廃をもたらしているという気が私はするんです。
 やはり、きちっと常識的に、その文章を読んで常識的に解釈するものから離れて、ほとんど軽わざのように、こういうふうに解釈できるといってすり抜けていくということが続けられれば、ほとんどもう、そういう憲法的な文章の意味がなくなっていくだろうと思いますから、むしろ逆に、憲法の条文解釈で逃れる、または法制局の解釈である重大な国策が決まるということはおかしいんじゃないかというふうに私は考えております。
 ですから、むしろ前文が変わったから解釈が変わるような重要性を前文に与えるべきではないと僕は思いますので、そういう意味では、今の先生の御質問については、私個人としてはちょっと違う意見を持っているということを申し上げざるを得ないと思います。
井上(喜)小委員 いや、私は、自由自在に憲法解釈を変えろということは言っていないんですよ。それは一定の制限といいますか、解釈の幅がある。そういう幅の中で、つまり一義的に、これはこうだということではなしに、多少幅を持った解釈というのがあってしかるべきじゃないか、こういうことを申し上げておるんで、その点、ちょっと誤解のないようにお願いしたいと思います。
 最後に、参考人のこの草案、仮に前文を置いた場合に、各条で多少手を入れた方がいい、規定のしぶりについて、いいような条文はありますか。
英参考人 私、そういうような観点から照合した作業をしておりませんので、お答えするのが非常に困難でございます。申しわけございません。
井上(喜)小委員 終わります。
葉梨小委員長代理 次に、森岡正宏君。
森岡小委員 自由民主党の森岡正宏と申します。
 きょうは英参考人から大変有意義なお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。私は大体参考人のお考えと考え方をほとんどの部分で共有していると思っておりますけれども、やはり若干濃淡があるのかなというふうにも思いながら聞かせていただきました。
 日本の国は自分の力で独立をかち取ったものじゃない。そんなことから、平和主義というものについても非常に甘い。国民自体が非常に甘いんじゃないかなという思いを持っております。そして国家という単位をどう考えるのか。独立の堅持とか主権の確保について、今の憲法ではみずからの決意が示されていない。そして英参考人がお示しになっておる前文試案の中にもこういう部分がちょっと足りないんじゃないかなという印象を持っておるわけでございます。
 先ほど来お話が出ております今の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、」というくだりがございますが、これにつきましても、今日本国民の大半が今の憲法では現実にそぐわないじゃないかという思いを持って改正を望んでおられる人たちが非常に多くなっているというこの現実を見ますと、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、」というこのくだりと九条、ここら辺に問題があるんじゃないかという意識を持っているからこそ、こういうふうに変わってきているんだと思うわけでございます。
 そういう意味で、今、世界じゅうの大半の国が軍隊を持ち、そして国連の常任理事国五カ国が全部核を持っているというような現実を踏まえ、そしてやはり平和というものは、確かに全世界が武力も持たない、そして全部の国が平和を愛する諸国民だったら、何も苦労することは要らないんですけれども、世界じゅうで、この間の国際テロのようなことが起こり、そして毎年のように戦争がどこかで起こっているというような事態を考えますと、平和というのは、時には武力を持ってでもその独立を堅持し、平和を確保する、そういう積極的な意思というものが憲法にもなければいけないんじゃないかなという思いを非常に強くしているわけでございます。
 そんな中で、参考人が書かれた試案の中で、「その歴史から平和の尊いことを学んだ。」という言葉がございますが、もっと積極的に、私たちのこの日本という国、先人の残してくれた歴史というものを進んで評価すべきだという点があって、そしてその歴史の一部からは、やはり平和のとうといことも学んだということがあってもいいけれども、このままだと若干自虐的なにおいがしないでもないなというふうに思ったりするわけでございます。私、そういう感想を持つわけでございますけれども、この件につきまして、参考人の御意見をお伺いしたいと思います。
    〔葉梨小委員長代理退席、小委員長着席〕
英参考人 今の点については、私が最初にこの試案を恐る恐る御説明申し上げたときに申し上げた言葉、つまり、これは全く私個人の考えであって、もっと立派な、いいお考えを持っていらっしゃる、そういう方がいらっしゃるし、もっと別の考えもあるでありましょうと申し上げた。要するに、前文を変えるということを述べている以上、では、一体おまえどんなものに変えるんだ、おまえなりの考えを示せと言われるので、実は、むしろ消極的につくったものであるんです。ですから、これがもうほかのものに比べて最善であるなんという気は毛頭もなければ、今の御指摘に対して、そういう意見も当然あり得るだろうと思いますし、個人的な意見からすれば、それも一つの考えだろうというふうに思います。
 そういう意味では、つたない、まだまだ欠点の多いものを恥を忍んで出しているわけなので、お許しいただきたいと思います。
森岡小委員 いや、私の方こそつたない見識しか持ち合わせておりませんのに、何か参考人のつくられたものにけちをつけるようなことを申し上げて、大変恐縮に感じているわけでございます。
 その次に、先ほどからアイデンティティーという言葉が大変よく出ているわけでございますけれども、私もこれは参考人と全く同じような考え方を持っているわけでございます。
 ルース・ベネディクトの「菊と刀」でありますとか、新渡戸稲造さんが書かれた「武士道」でありますとか、また私が読んだものの中に、ラフカディオ・ハーンの「日本」という本がございまして、これなどには、日本とは、また日本人とはということが非常によく表現されているわけでございます。
 先ほど、この前文試案の中でも、ここが日本のアイデンティティーに相当するところを書いたんだということをお示しいただいたわけでございますが、この中で、私は、やはり宗教とか哲学とか、そういうものが少し欠けているんじゃないかなというふうに思えてならないわけでございます。
 私が今申し上げました本の中には、神道でありますとか仏教でありますとか儒教の精神でありますとか、そういうものをつきまぜた、日本の今までの歩んできた精神文化、こういうものがどこにも書かれているわけでございまして、やはりこういうものが日本人のアイデンティティーというものをつくっているんじゃないかなというふうに思うわけでございまして、アイデンティティーということに触れるならば、やはり宗教とか哲学とか、そういうものにも触れるべきじゃないかな。
 そして私たち、今教育基本法の改正と取り組んでいるわけでございます。やはり教育基本法の改正と取り組んでおりますと、その中にも「日本国憲法の精神に則り、」こう書いてあるわけでございまして、やはり同じように、先ほどおっしゃったように、蒸留水のようだとか無国籍のようだとかいうような議論が出ているわけでございまして、今の教育の現状を憂えますと、私は、今の日本国憲法とか教育基本法のあり方、こういうものとの因果関係について触れざるを得ない、そういうふうに思うわけでございます。
 今の教育の現状と日本国憲法との関連、そして先ほど言いましたようにアイデンティティーということならば、宗教とか哲学とかいうものにもう少し触れた方がいいんじゃないか、そんなふうに思うわけでございますが、この件について御感想をお聞かせいただければありがたいと思います。
英参考人 御指摘の、日本人の精神文化について触れていないではないか、これはもう大変厳しい御指摘でございます。もうひとえに私の力不足で、どうしても、これなら人に問うても恥ずかしくないなと思うものに到達できなかったということでございます。
 でも、私は、もし前文の改正というようなことをするんであれば、国民の意見を広く聞いてというようなときに、やはりそういうことについてもいろいろな意見が出てきて、その中からすばらしい言葉、英知が出てくるかもしれないというふうに思いますので、広く集めて、ただ何人かの有識、学識経験者が考えてというんではないというふうに申し上げたのは、そういう、だれかすばらしい文章をつくってくれる人がいるんじゃないかという気がするんですね。そういうことで申し上げております。
 御指摘の、精神文化について触れていないというのは、私も触れたいと思っております。
森岡小委員 教育についてはどうでしょうか。
英参考人 教育は、日本は黙っていてもすごく教育熱心なんですね、いろいろな意味において。ですから、これ以上教育を大事にしろという必要は前文ではないんじゃないかなという気が私はするので、教育は入れておりませんけれども、勤勉、自助というところに加えて、その延長線上にやはり、勤勉で自助ということであれば、当然その延長線は教育なんですね。
 ですから、そういうことで、そのところまで書くのも一案だとは思いますけれども、かなり教育に御熱心な人もたくさんいて、教育が逆にまたいろいろな意味で問題になっておるので、むしろ私は、個人的な意見でございますけれども、これからはやる気のある人がしっかり勉強して立派になっていく。全国民の教育レベルを上げるという時代はもう過ぎたというような感じを持っておるものですから、教育については、比重をさらに従来よりも高くしなければいけないというふうには思わない。むしろ教育については、本当に伸びる人、全部一律の教育をするというんではなくて、伸びる人を伸ばしていくというような教育にしなければいかぬとか、そういうふうなところに、私、教育では問題があるんじゃないかというふうに思っており、教育一般という点については、もう十分ではないかというふうに考えております。
森岡小委員 時間が参りましたので、終わります。ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、中野寛成君。
中野(寛)小委員 民主党の中野寛成でございます。
 お久しぶりでございます。ソフトな語り口の中に信念をずばりと表現される英節が健在だと思って、きょうはお聞きをさせていただきました。
 さて、今ちょっと話題になっておりましたが、私は、よくこの憲法前文の試案をお書きになられたということに敬意を表したいと思います。
 先ほど井上委員からも言われましたが、前文が要らないという人もいますし、前文があった方がいい、また、その前文の性格はこういうものにした方がいい、いろいろなイメージをそれぞれが持っておりますので、そういう中で、こうして試案を出すということは大変勇気の要ることだと思います。それに対して、自分のイメージと照らし合わせて、この文言がいいとか悪いとかという議論は幾らでもできますし、ましてや人の書いた文章にけちをつけるのは、だれでも、どんなことでもできるわけで、ただ、おっしゃられる、国民参画の新しい前文作成作業をということで提起をされて、その中で、言うならばそのきっかけもしくはひな形といいますか、というお気持ちで書かれたんだろうというふうにも思いながら、私はむしろ、その勇気に敬意を表したいというふうに思っております。
 前文こうあるべきという議論はたくさんなされるんですが、こうして試案を出されるというのはなかなかないわけで、それが大事なんだろう、そこから議論は始まっていくのではないか。むしろ、英さんだけではなくて、ここにいるメンバーが全部、一回前文試案を出してみたらいいというふうにさえ思う次第であります。
 提起をされておりますことで、私は、我が意を得たりと思うのが実はたくさんありまして、自然と変化、四季に富む日本、実は、去年の七月に出しました私ども民主党憲法調査会、私、会長を仰せつかっておりますが、その中で、日本の個性をあらわす言葉として、このまま書いてあるんです。同じ文章が出てくるのです。それから、多元的文化と表現されているんですが、実は私たちは、日本の文化を積み重ねの文化と表現いたしました。いろいろな文化を吸収し、それをアレンジし、日本独特のものにしている積み重ねの文化、それはある意味で日本人の包容力または幅の広さを示しているものというふうに受けとめていいのだろうというふうに思っております。
 そこで一つ、内容にわたってお聞きしたいと思いますが、現在の憲法前文、これにはオリジナリティーがないと言う人がいます。例えば、国政は、「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使」、この部分はリンカーンのゲティスバーグにおける演説の引用。また、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」、これは国際連合、当時は一年前に国連憲章ができているわけですが、国連の憲章や議論を踏まえて織り込んだものがかなりある。これは憲法九条の文言にも出てまいります。また、「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」、これはルーズベルト大統領の四つの自由。
 言うならば、当時、この日本国憲法の作成に当たったGHQの若い理想に燃えた青年たちが、そのみずからの理想と前向きの姿勢を持って、いかに新しい日本にどういう憲法をということで、彼らが考えた一つの経緯があったんだろうというふうに思います。
 同時にまた、最近のコンピューター世代の若者たちがよくやります、自分で文章を書くのではなくて、いろいろなところから名文を集めてきて、全部それをコンピューターにインプットして、その中のいいところを引っ張り出してきて並べて、はい、これが私の文章という癖が最近のコンピューター世代の若者にありますが、似たようなことをやっているんじゃないかという感想を実は持ったりもいたします。
 まず、現在の前文というのはそういう性格があるのではないかというふうに思いますのと、それから、先ほど前文というのはその国の顔だとおっしゃられました。ある意味で、柱といい、精神といい、精神といえばアイデンティティーかな、柱といえばバックボーンかな、私は英語は得意ではありませんが、こんな言葉を勝手に思いながら、さっきからちょっとメモをしておりました。
 この現在の前文のオリジナリティーの問題と、それから、なすべき、これからつくる前文の背景、特にアイデンティティーについては難しい。言うはやすく、私はいろいろな方々に、アイデンティティーがない、アイデンティティーを入れるべきだと言う人には必ず、それではあなたならどんな表現をしますかと聞くと、ほとんど答えられない人が圧倒的に多い。それをあえてここを書かれたのですが、もう少し付言されることがあれば、お聞かせいただきたいと思います。
英参考人 いや、もう冷や汗が出てくるようなお話を中野委員から伺ったわけですが、もう御指摘のとおりの経緯でできている前文でございます。それで、今のような経緯、いろいろなところからかりてきたと言われるのは恐らく事実だと思います。
 しかし、さっき北川委員からお話があったんですけれども、英語で見ますと、あれはそれなりに名文でございます。それは確かにリンカーンとかルーズベルトとかいうのがスピーチライターを使ってつくった名文をとってきていますから、ある程度その著作権を払わなきゃいけないかもしれないけれども、文章としては名文だと思います。ただ、文章は英語で名文であるということと我々の前文として内容がふさわしいかということは、全然別の問題であるというふうに思うものですから、あえて恥ずかしい前文を提出したわけなんでございます。今の、中野委員のおっしゃることを私は大変うれしく思いまして、非常に恥ずかしいなという気持ちもしながら、きょうは出てきているわけです。
 ぜひ、私の意のあるところを、つまり、いろいろな議論はできるだろうと思うけれども、損得を踏まえて、どっちかといえば、やはりやった方がいいんじゃないかなと。先ほどもどなたか委員の方がおっしゃっていましたけれども、やはり何かだれかが言い出すと、それについて問題点を指摘するのは、日本はすばらしい教育制度のために、もう非常に見事に問題点を指摘する方が多いんですね。それで、具体的に出す人は非常に限られている、しかし、批判する人はその十倍いるということになりますと、新しいものが出てこないと思うんですよね。
 やはりそれは、そういう意味で中野委員が勇気をという、若干、その勇気の前に何かがつくんじゃないかなというぐらいですけれども、おっしゃってくださったことを、私は大変ありがたく受けとめさせていただいております。
中野(寛)小委員 このオリジナリティーについてあえて触れたのは、これはひっくり返せばアイデンティティーになってくる話でして、日本の日本人による日本人のための憲法を日本人の表現で書くということが、やはり日本人の心にもぴったりくるということではないかという気がするんですね。やはりそういう意味では、私は、憲法そのものを、新しい憲法をつくった方がいいという意味で創憲と表現をいたしているのです。
 よく国のあり方について、例えばヨーロッパで例えますと、ドイツかEUか、フランスかEUか。また、イギリスは地方分権を大変今進めておりますが、国か地方か。結局は、地方とリージョンステート的なEUとの間に挟まって、国の存在感というのが薄れてこないか。そことまた国のアイデンティティーとの問題というのは、議論のあるところですね。
 しかし、私は、EUのソラナさんに聞いたときに、おもしろいことを言いましたね。その国の国家目標を果たすためにEUが存在をし、それぞれの国の目的を果たすために地方分権がある、よって、このEUのような存在も、また地方分権を進めることも、本来の国の目的を達成するための手段である、それが両立し得ない、また、それが並列に並び、成り立ち、並列し得ないようなものであれば、そのもくろみは失敗だと言われたのです。
 ですから、私は、上下ではなくて、むしろそれは同じ目的を持った、並列に並べる存在だろう、こういう気持ちで自信を持って国を語り、憲法を語るべきだ、そして、その精神を前文に織り込むべきだと思うのですが、どうお考えでしょうか。
英参考人 全く賛成でございます。
中野(寛)小委員 ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、葉梨信行君。
葉梨小委員 自由民主党の葉梨信行でございます。
 英参考人、きょうはありがとうございました。実は、参考人がお書きになりました「憲法前文試案」を拝見しまして、国民の皆さんからいろいろ御意見を募ったらいいだろうという御意見に私は大変賛成で、自民党の憲法調査会長として、党の機関を通じたり、党の雑誌を通じてしばしばそのような呼びかけをしておりまして、この機会にお礼を申し上げたいと思います。
 先生が書かれた、自分としてはこういう前文でいいだろうという文章を拝見して、いろいろな感想を持っておるわけでございますが、確認をしたいと思いますのは、現行憲法の前文では、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」この項はジョン・ロックの社会契約説によるものである、こういう御説を伺ったことがございますが、このジョン・ロックの説を基本としてフランス革命が行われ、フランスの人権宣言あるいはフランス憲法がつくられたと伺っております。
 一方の流れといたしましては、歴史と伝統とか、長い間に培われたものを基本にして憲法、成文憲法じゃございません、イギリスはそういう伝統のもとに国家の基本理念を決めていると伺っております。先生はこの試案ではそういう難しい理屈めいたことをお書きになっていらっしゃいませんが、これは、政治理念として、イギリス流の憲法に対する考え方をとっていらっしゃるということであるかどうか、そのことをまず伺ってみたいと思います。
英参考人 私の感じとしては、契約に基づくものというふうには思っていないんでございます。それで、やはり同等の権利を持つ国民が集まって、それの中の合意によっていろいろなことが決まっていくべきである、それが民主主義だと思っておりますので、民主主義というのを私は一番根本に置いているわけでございます。
 ですから、私の試案には民主主義という言葉を取り入れたんでございますけれども、契約とか、国家を制約するものとして合意をしたとか、そういうような発想をしないで、すべてを含めて国民が民主的に選んだ、決めたことなんだ、前文もそうであるし、憲法もそうである。
 そういう意味では、今の憲法はそういうふうにできて、形式的には、もちろん、衆議院それから当時の貴族院にかけて継続性は保っていますけれども、実際にはそうでなかったわけですが、ある時点でやはり国民投票にかける必要があると私は思うのは、やはり平等な権利を持つ全国民、投票権を持っている全国民の意思に基づいて憲法というものがつくられなければいけない。ここを私は一番大事に考えているし、これから今の憲法をとにかく前提として進める場合には、やはり国民投票とか、特に前文の場合には国民参加が必要であるというふうに申し上げているのは、私のそういう考え方が根底にあることは事実でございます。
葉梨小委員 現行憲法の三つの理念と言われます基本的人権の尊重、平和主義、民主主義、そして国民主権という言葉がございます。そのほかに象徴天皇制とか議会制民主主義も加えたらどうかという御意見もあると聞いております。
 その国民主権の国民でございますが、私は、国民主権は、人民主権ではなくて天皇陛下も含めた国民が国の主人公である、そして、その国民の主人公の中の代表が天皇で象徴天皇と申し上げている、このように理解をしておるわけでございますが、この点についてはいかがでございましょうか。
英参考人 大変難しい質問だと思うんですが、私が国民主権と言うときには皇室は入っていないのでございます。というのは、投票権を持っておられるわけでもないし、ちょっと別格であろうかなという気がします。ですからこそ、国民統合、日本国の象徴としての立場をお持ちになられているんではないかな、やはりちょっと別格の方だというふうな認識を持っております。
 それから、国民主権といい人民主権といい、これはニュアンスの問題であって、人民という言葉が余り好きではない方もいらっしゃるし、国民の方が何となくソフトだというお考えの方もいらっしゃるけれども、私は、それぞれの基本的人権を持っている人間という意味でとらえれば、余りそういうふうに区別して考える必要はないんじゃないか、ちょっとアバウトかもしれませんけれども、そういう感じでございます。
葉梨小委員 私が今申し上げましたのは、国民の中に天皇陛下もいらっしゃいまして、国民の代表として存在しておられると理解しております。人民主権と申しますと、天皇と人民は対立している、こういう関係になるのかなという解釈も聞くわけでございます。
 次に、全然この前文に関係ないことでございますけれども、先生に伺いたいのは、江戸時代まではさておいて、明治、大正、昭和と推移してまいります中で、特に明治維新以来、日本の興隆を支えた国民のモラルと申しますかがあったと思います。品格のある国民性といいますか、そういうものがあって日本の国を支えてきたと思っておりますが、戦後五十数年経過しまして、そこら辺が今混迷の中にある。このままでは日本の国を支えるべき一番大事な人材、人間の基本が揺らいでいく、このままではいけないという感じがいたしております。
 そういう意味で、今、そして二十一世紀の日本の国民のモラルは何に基づいたらいいのか、そこら辺についてのお考えをもしお持ちでいらっしゃいましたら、教えていただきたいと思います。
英参考人 日本は、それぞれどういう名で呼ぶか存じませんが、人間を超える存在があるという意識を持っている点においては、宗教的な精神はあるという言葉も申し上げたわけでございますが、他方、モラルといいますか道義といいますか、そういう面では、いわゆる宗教的な規範というか宗教上の縛りというものが大変緩うございます。ですから、そういう意味で、個人個人がかなり放縦な生活に流れていく危険性がある。そこはもう大変な問題であって、では、それを何によって制肘するかという問題がやはり基本的な問題だと思うんです。
 もちろん、法律によってそれを縛るというのがありますけれども、これも牢屋がいっぱいになっちゃえば物理的に限度があるわけでありますから、やはりその前にそういう法を犯すことが起こらないようにするためにはどうしたらいいかということになってくる。ここまでまいりますと、例えば家庭の役割であるとか、本当にいろいろな問題が出てくると思うんですね。私は今、この家庭の問題も実は前文の試案に入れたかったのでございます。だけれども、ちょっとおさまりどころが悪いので入っていないんですけれども、やはり家庭の役割というのが大変もう弱くなってきております。それから家庭教育ということもあります。
 その中で、一体、何で人間が自制をするかということになってきたときに、これは受け売りなんですけれども、ルース・ベネディクトが、彼女は本当に先の先まで考えて心配してくれていまして、やはりこれからの日本を規律する一つの考え方は、因果応報という考えではないかということを述べております。日本的な伝統からすると、案外、因果応報ということをもうちょっとうまくいえば、やはり悪いことをすると悪いことがあるよというようなことが、日本には一番ふさわしいのかなというような感じもいたしました。
 しかし、もちろん前文の話ではございませんけれども、ちょっと前文を離れての御質問だったと了解していましたものですから、そういう感じを持っておることを申し上げます。
葉梨小委員 ちょっと時間が超過して恐縮でございます。
 英参考人が書かれましたような、新しい二十一世紀の国民、特に青年が読んで心が躍るような、そういうものができてくると、それも一つのモラルの支えになるのかなという期待を持っているところでございます。
 きょうはありがとうございました。
保岡小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 英参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)
    ―――――――――――――
保岡小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行いたいと存じます。
 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたしたいと存じます。
 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようにお願いいたします。
 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
 それでは、ただいまから御発言をお願いしたいと存じます。
奥野小委員 自由民主党の奥野誠亮でございます。
 私は、仙谷さんには大変敬意を持っているものだから、その御発言はいつも注目して聞いております。きょう、憲法前文の一部を挙げて、いろいろな考え方が持たれているということで、詳しいお話はございませんでした。同時にまた、共産党の方からは、いろいろな面において、大変この憲法を評価する御発言もございました。
 そんなことで、ちょっと私なりにこう思っているんですよということを申し上げていくことが、将来何かの参考になるんじゃないかなと思いますので、発言させてもらおうと思いました。
 御承知のように、現行憲法は、昭和二十一年の初頭に、マッカーサー日本占領軍総司令官が部下に三原則を示して書かせたものであります。その三原則の一つに、日本はいかなる陸海空軍も保持することを許されない、みずからの安全を守るための戦争も認められない、こういうくだりがあるわけでございます。私は、そのとおり忠実に三原則を守って憲法を書いたと思います。書いた人の中で、そのままには書けないものだから、いろいろ工夫をして書いたということを読んだことがございました。
 御承知のように、それを表現するために、まず憲法第九条がありまして、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、」「永久にこれを放棄する。」同時にまた、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と書いてあります。それを補っているのが、前文にあります、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
 これを全体として読みますと、マッカーサー三原則の一つの趣旨が達成されているんじゃないかな、こう思っているわけであります。そこに憲法の趣旨が出ているのであって、やはり前文と本文と総合して判断されるべきものだ、私はこう思っておるわけでございます。
 同時に、私が申し上げたい一つは、日本はポツダム宣言を受諾して戦闘を中止したわけでありますけれども、連合国軍はそれだけでは許してくれなかった。日本全土を軍事占領いたしまして、七年間、占領政策のもとに我々は置かれたわけでございました。その占領政策に当たって彼らが特に用いた手法は、政府と国民とを振り分けたわけでありまして、国民はよかったんだけれども政府が悪かったんだ、こういう手法でございました。そのことが、私は、占領政策を受けやすくしたんだな、こう思いました。
 私は、戦前の姿をそれらとあわせて考えてまいりまして、戦前には衆議院で軍のありようを批判した方がございました。衆議院はその方を除名したわけであります。何ということをしたものだろうかな、こう思うわけでありますけれども、これから、国会がしっかりしていれば何も心配することはない、何か政府が悪いことをするものだというような物のとらえ方をするんじゃなくて、大いに批判したらいいと思うのでございます。
 一番大切なのは、私は、国会議員一人一人がしっかりした考え方と行動で終始すれば、日本の将来を心配することはないんだ、そういう決意を持って、いつまでも占領政策にとらわれるような物の考え方はやめたいものだなという希望を持っていることを、あえて申し上げさせていただきます。
春名小委員 日本共産党の春名直章でございます。
 討論、参考人のお話を聞いて、なお二点について発言させてもらいます。
 一点は、前文には、日本の歴史、伝統、文化がない、あるいはオリジナリティーがないという意見、議論についてであります。
 前文は、憲法の基本原則や理想を宣言するものだと思います。日本国憲法のその前文は、国際的な潮流の中にあって必要な基本原則を網羅していると思いますし、それだけじゃなくて、先ほど私、質問でもしましたが、世界の憲法にはない先駆的な理想や原則もうたっているものだと思うんですね。そういうものとして受けとめる必要があると思います。
 それから同時に、二番目に、前文でうたわれたことの具体化として各条文がございますので、その点でいいますと、条文に書かれていることがどこまで実現したかの検証を抜きに前文の改正と言っても、これは空文句になるということだと思います。
 それから、このオリジナリティーということについても、それ自身、前文の中に書き込むということについてどれぐらいの意味があるかというのは、議論のあるところではないかと思います。
 つまり、先ほど言いましたように、前文というのは、そのときの国際的、国内的な原則の最高の達成を積極的に取り入れる、国連憲章などはまさにそのとおりだと思いますけれども、そういうものとしてやはりとらえることが大切なことではないかというふうに思います。
 それから、歴史や文化がないために自信や誇りが持てないというのは別次元の問題でして、例えば、日本人、日本国民の誇りが持てないという点でいいますと、先日も沖縄で少女暴行事件がまた発生したように、戦後五十八年間たっているにもかかわらず、外国の軍隊の基地が日本に引き続きのさばっているというようなことを未来永劫続けるのかどうか、日本の国民として本当にそれがいいのかということの吟味こそ、本当に誇りという問題を討論するときに考える必要があるというふうに私は思うんですね。
 最後に、一体性という問題についてでありますが、日本国憲法は、やはり前文と各条文がまさに一体をなしているということを深く認識する必要があると思います。
 九条が、戦争及び戦争準備と軍備とを全面的に否認する、そういう法的制度を設ける。そして、それに対応する形で前文において、主観的な権利として、先ほど申し上げた平和的生存権が定められている。この両者が、一つの平和主義というこの二つの側面を、この一つの平和主義の二つの側面を形づくる形で、体系的な構造が組み立てられている、こういうふうに思うんですね。
 同時に、そういう権利は、十三条の幸福追求権を媒介にして、第三章の三十条にわたる基本的人権、権利の中に一層豊かに具体化されているということになっているわけですね。
 このように、憲法上、完結した形でこの点を保障しているというのはよく見る必要があるんじゃないか。平和による人権保障という戦後世界共通の現代的な要請が、この日本国憲法によって具体的な形で、実定法の形で実現しているというふうに考えます。この値打ちは、先ほども言いましたが、ますます新鮮さを増しておりまして、このことをやはりしっかり議論もするし、つかむことが大事になっているというふうに思います。
 以上です。
仙谷会長代理 尊敬する奥野大先生に名前を出していただきましたので、私からも一言、その点について私の考え方を申し述べたいと思います。
 私の思いとわずかな勉強の結果、私はこういうふうに考えております。つまり、近代国家そして国家の憲法というのは、歴史的には日本から生まれ出てきたものではない。きょうのお話にもありましたように、そもそも、フランス革命あるいはアメリカの独立革命等々、あるいは、さかのぼればイギリスの名誉革命やマグナカルタというところに範を置く極めて西洋的な考え方、欧米的な考え方であっただろうと思います。
 しかし、日本が明治維新という革命を行って近代国家の仲間入りをしようということを考え、あるいは、そのこと以外には日本民族の独立が守れないと、気概にあふれた、明治維新という、きょうまさに回天の大事業を行った人たちが、これを近代国家につくっていこうと。
 もちろん、坂本竜馬や後に出てくる植木枝盛のような非常に革新的なといいましょうか、その当時のフランス革命やアメリカ独立革命の精神をそのまま国の基本的な法秩序にしようというふうに考えた人もおったわけでありますが、明治憲法がつくられる過程において、それほど近代国家の諸原則に従ったようなものをつくるということと、ある意味で明治維新の持っておったイデオロギーである尊王攘夷あるいは王政復古というふうなイデオロギーに即したものでなければならないという考慮も働いた。あるいは、そのときに権力を持っていた薩長土肥の権力をいかに維持するか、強化するかという考慮も働いたんだろうと思います。
 大日本帝国憲法の告文と憲法発布勅語というのをごらんいただければ、これはプロイセンに学んだというふうにも言われておるわけでありますけれども、いかにも近代国家の諸原則と矛盾をする、王権あるいは神から授かった大権というふうな物の考え方が出ておるわけであります。
 こういう構成の中途半端さが、軍国主義を許して日本を大破綻に導いて、先ほど申し上げましたように、政府の行為が、まさに判断がおくれたために広島、長崎原爆投下等を招いたというふうに私は考えておるわけでありますけれども、その反省を、いかようにマッカーサー三原則を押しつけられたとしても、押しつけざるを得ないような状況をつくった政府というのも戦前にはあったということを、我々ははっきりとといいましょうか、深く心に刻むべきであろうというのが私の第一の観点でございます。
 しかし、にもかかわらず、このグローバリゼーションの現代において、日本人とは何か、日本民族の一員として我々はどういうアイデンティティーを確立すべきなのかということは、おのずから必要なことであるということも間違いがないわけであります。そして、日本人とは何か、日本的なるものは何かということを考えることと、近代国家の諸原則である憲法の持つ普遍性とか、あるいはアングロサクソン性というふうに言えば言い過ぎなのかもわかりませんけれども、ヨーロッパ、アメリカ的なるものとの調和といいましょうか、それをどうつくっていくのかということが、あくまでも現時点でもまだ我々の課題として残っているというふうに考えております。
 私は、日本で民族的なるもの、あるいはもっと言えば、国粋的なるものを強調される方の最大の弱点は、特に戦後における弱点は、アメリカとの関係、ここを自立的に考えるのか、アメリカの傘の下ですべてを考えていくのか、まさに先ほど共産党の春名委員からも提起がございましたけれども、基地の存在をどう考えるのか、あるいは今度のイラク戦争におけるアメリカの政策について、無論理に法律も国際法も国連憲章も全部無視してもやはりアメリカに従うべきだという論理は、日本民族として、日本人としてそんなことが許されるのかという民族主義的反論が出てこないのを、私は非常に不可思議に考えておるということを申し上げておきたいと思います。
保岡小委員長 他に御発言ございますか。
 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。
 本日は、これにて散会いたします。
    午前十一時四十六分散会


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