衆議院

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第2号 平成16年3月4日(木曜日)

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平成十六年三月四日(木曜日)

    午後二時一分開議

 出席小委員

   小委員長 保岡 興治君

      小野 晋也君    下村 博文君

      平沼 赳夫君    船田  元君

      森岡 正宏君    綿貫 民輔君

      大出  彰君    小林 憲司君

      計屋 圭宏君    古川 元久君

      増子 輝彦君    赤松 正雄君

      山口 富男君    土井たか子君

    …………………………………

   憲法調査会会長      中山 太郎君

   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君

   参考人

   (大阪産業大学人間環境学部助教授)        井口 秀作君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

三月四日

 小委員土井たか子君二月十九日委員辞任につき、その補欠として土井たか子君が会長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 最高法規としての憲法のあり方に関する件(直接民主制の諸制度)


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     ――――◇―――――

保岡小委員長 これより会議を開きます。

 最高法規としての憲法のあり方に関する件、特に直接民主制の諸制度について調査を進めます。

 本日は、参考人として大阪産業大学人間環境学部助教授井口秀作君に御出席をいただいております。

 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、井口参考人から直接民主制の諸制度について御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、井口参考人、お願いいたします。

井口参考人 大阪産業大学の井口と申します。発言の機会を与えていただきまして、大変光栄に思っております。

 私に与えられた課題は、直接民主制の諸制度、諸類型について、比較法的に具体的な事例を挙げながら紹介し、日本での制度の適用の可能性や考慮事項などについて意見を述べよということでございますが、私にとっては非常に重い課題でございますし、比較法的な見地も大してあるわけではありませんので、非常に限られた能力の中での意見の陳述ということになろうかというふうに思います。

 事前にレジュメを配付しておりますので、それに沿って意見を述べたいと思いますが、レジュメをお送りした後、事務局作成の非常に立派な基礎資料をいただいて、私のものよりも類型のところは非常によくできているので、それも参考にしながら意見を述べたいというふうに思います。

 まず一番目ですが、私として、直接民主制という言葉で何を意味するかということを最初に申し上げておきたいと思います。

 代表民主制と直接民主制という対比が非常に一般に行われています。そして、それぞれのいいところ、悪いところといった議論が盛んに行われているわけです。ただし、そこには、直接民主制という言葉それ自体の概念が実を言うとはっきりしていない、二つのものが一つに混然とされているという側面があって、議論がすれ違っているというところがございます。

 例えば、事務局作成の資料の一ページ目に、清宮四郎先生と言った方がよろしいんでしょうか、清宮四郎教授の直接民主制の批判のものが載っております。そこに、なぜ現代国家において直接民主制は不可能かということについて、こういう表現があります。「この制度は、団体が小さく、社会条件が単純な国家の場合には比較的実行し易いが、団体が大きく、社会的分業が進化している近代の国家では、全国民が会同して、多数決によって国政を決するということは、第一に、不可能である。」という言葉があります。

 直接民主制という言葉で、まさにここにある「全国民が会同して、多数決によって国政を決する」こと、こういう制度を指して直接民主制という言葉が使われるときがあります。私は、これはレジュメの上の方に書いた、純粋直接民主制型というふうに考えるべきものであって、清宮先生が言われているように不可能であるということは、これは全くそのとおりであると思います。これは、古代都市国家における民会、あるいはスイスの一部のカントンで行われているようないわゆる青空議会と呼ばれるもの、また、現行法上も、地方自治法の町村総会、町村議会にかわって町村総会を置くことは可能なわけですが、これもそれに該当すると考えていいと思います。

 しかし、一般的にこういうものが直接民主制と言われる場合と、もう一つ、私のレジュメだと半直接制型というふうに表現してありますが、広い意味の国民投票制、レフェレンダムと呼ばれるものですね、地方レベルでは住民投票と呼ばれるものです。これは、純粋直接民主制型と半直接制型の直接民主制というのは違うというふうに考えないと、先ほどの清宮先生の指摘というのは、純粋直接民主制型については当てはまるけれども、後者については当然当てはまらないわけです。

 半直接制という言葉はスイスやフランスではよく表現されている言葉で、何を意識して半直接制という言葉を使うかというと、先ほど申し上げました純粋直接民主制型と分けて議論するために半直接制という言葉が使われるわけです。

 一般的に、私は広義の国民投票制を直接民主制だというふうに理解しておりますが、では、リコールについて、これもその直接民主制に含めて理解する見解があります。私は必ずしもその立場に立つものではなくて、広い意味で国民が何かを決める人を選ぶ、人を選ぶということと国民が直接決めるということには、やはり区別して理解することには意味があると思いますので、選ぶのは代表民主制だけれども、やめさせる、リコールするのは代表民主制ではない、直接民主制だというところには私は少し違和感がありますので、リコール自体は含めないで私自身は理解しております。

 ただし、そのことは、リコールという制度が決して意味がないというふうに申し上げているのではございません。むしろ、日本国憲法の十五条一項では、公務員の選定、罷免を国民固有の権利と規定しております。その点で、リコールというのは政治責任の追及の手段として一定程度の意味があるというふうには理解しておりますが、ただし、直接民主制には含めていないということでございます。

 そういう点で、広い意味での国民投票制というのを直接民主制として本日は理解し、二番目以下の意見を述べたいというふうに思います。

 二番目では、国民投票制の現況というふうに書いておきましたが、最近頻繁に行われている、ある人の表現を使えば、レフェレンダム旋風であるということが言われます。

 確かに、時代区分として、第二次世界大戦後あるいは一九九〇年代以降、国民投票の実施された数が増大している。これは、いろいろな人の統計を見てもはっきりしている事柄だというふうに思います。量的には拡大をしている、これは間違いないというふうに思います。

 しかし、その量的な拡大も、ある程度相対化して見てみる必要があります。

 現在、世界で実施された国民投票の半分以上がスイスで行われています。残りの二割の部分もヨーロッパ、しかも、ヨーロッパの中でもイタリアが多いという点。その点で考えてみますと、世界的に増大しているといっても、非常に、増大している地域について限定がある、偏りがあるということが言えます。

 第二次世界大戦後、それから一九九〇年以降ふえている増加の要因として、戦後、植民地国家が独立することによって新しい国家ができるわけです。当然、新しい憲法ができる。それを国民投票にかける。国自体がふえたということが一つあります。それから、九〇年代以降について言えば、旧東欧の社会主義諸国が崩壊をして新国家が成立する。同じように、国家の正当性を求めるために国民投票に付したという側面があります。それからもう一つ、ヨーロッパでは、特にヨーロッパ統合をめぐる国民投票が多々行われているわけです。そういう要因があって非常にふえていることから見ると、非常に世界的にふえているという点も相対化して見る必要があります。

 また、国民投票が本当に頻繁に行われているかということも、そうとは言いがたい側面があります。特に、アメリカやドイツのことをどういうふうに評価するか。

 アメリカについては、国レベルの直接民主制は制度化もされていませんし、実施されたこともありません。地方のレベルでは、州レベルでは、後でも御紹介しますが、むしろ頻繁に行われていますが、少なくとも国レベルではない。ドイツでは、ワイマール憲法下では直接民主制の制度化がされていましたし、実際に行われたわけですね。しかし、現在のボン基本法のもとではない、制度化されていない。また、東西ドイツ統一後の基本法の改正のときに、一つの重要なポイントは直接民主制の導入であったわけですが、結局、基本法の改正においても直接民主制の導入は見送られたわけです。

 そうすると、非常にたくさん行われているといっても、それが本当に世界的傾向かというと、必ずしもそうではないのではないかという気がします。したがって、日本で国民投票は全く経験がないわけですね。そのことは決して、日本国憲法が世界におくれているとか、そういうことは必ずしも早急に評価できないというふうに私は思っております。

 フランスの憲法学者、フランシス・アモンという先生が、上からのレフェレンダム、下からのレフェレンダム、日本語で言ったら、上からの国民投票、下からの国民投票という分類になるんだと思いますが、国民投票の発議権がだれにあるのか。国民にあるのを下からのと言う。それに対して、大統領であるとか政府であるとか議会にあるものを上からの国民投票と言う。そういうふうに分類して、上からの国民投票はむしろ減っているんだ、下からの国民投票はふえているんだということを指摘しております。

 そういうことを考えますと、制度化を考えるに当たっても、そのような視点、上からの、下からのという点は踏まえておく必要があろうかというふうに思います。

 そのような国民投票制の現況を踏まえて、類型化の話に参りたいと思います。

 国民投票制の諸類型という点については、先ほども申し上げましたように、基礎資料は大変よくできております。私の類型などよりもはるかによくできているものですが、私は、大きく分けて三つ、プラスして四つ目を入れておきましたが、四つの観点から分類をしてみました。

 一番目は対象ですね、国民投票の対象となるもの。国民という言葉を使っていますから、地方レベルであればそれを住民投票と呼ぶわけです。

 それからもう一つ、対象の分け方として、憲法を対象にするのか、一般的な法律を対象にするのかということで、憲法型、それから一般立法型に分けられるわけですね。普通はそこまで分けますが、さらに、私は、憲法制定型、憲法改正型というのはまた分けて考えることもメリットがあるかと思います。

 そうすると、先ほど言った、新しい国家ができてレフェレンダムが行われる、国民投票が行われるということと、実際に憲法が制定されたその中で憲法改正が行われるという点、これは少し意味合いが違うのではないかと思いますので、少し分けて考えることもできるかと思います。もう一つは、一般立法型ですね。通常の法律あるいは条約、いろいろなものを対象にする場合があるわけですが、そういう国民投票があり得ます。

 その場合でも、対象をどういうふうにするかについて大きく分けると、一番目は限定型ですね。これは、ポジティブリストと言ったりしますが、国民投票にかける事項を列挙する。これとこれとこれと、こういうことについては国民投票に付することができるというふうに規定する。フランスは非常に細かい規定をしています。それから、スペインのように、漠然としてですが、特に重要性を有する政治的決定というような、こういう事項については国民投票に付すことができるというような表現をして、国民投票に付する事項を限定する場合、そういう形があります。

 もう一つは、除外事項列挙型と書きましたが、いわゆるネガティブリストですね。これとこれと、こういうものは国民投票にかけることができないというふうに表現しているもの、イタリアの例をそこに書いておきました。

 ただ、問題は、そういう限定を加えた場合に、その限定をどう守ることができるのかというのが実は重要な問題です。

 フランスの例で申し上げますと、そこに列挙したものは全部法律案となっていますが、実際には、一九六二年に憲法改正案をかけてしまうんですね、十一条で。だから、限定をしているといっても、限定する手段が必ずしも有効に機能しているとは限らないわけです。ですから、ポジティブリストにしろ、ネガティブリストにしろ、限定を加えたとしても、それをどうやって実効化を持たせるのかという点が一つ非常に重要な問題であるというふうに思います。

 それから、二番目の分類方法としては法的効力の問題がございます。

 これは、国民が最終的に決定する裁可型というのは、要するに、法的効力を持つ国民投票のことですね。二番目は、議会を拘束しない諮問型、いわゆる諮問的と呼ばれる、議会を拘束しないけれども国民の意思を聞いてみる。一般的に諮問的国民投票と呼ばれるようなもの、そういうものがございます。

 諮問的国民投票制の場合、諮問的国民投票ができるようなことが、憲法上の根拠がある場合、憲法上の根拠がなくても法律によってやっているデンマークのような場合、両方あるわけです。

 それから、イギリスの一九七五年の国民投票。これはECへの残留を問う国民投票ですが、これも、議会は拘束をしない、政府は拘束するけれども議会は拘束をしないという形で、議会主権との整合性をとったわけですね。これも諮問的なものというふうに言っていいかと思います。ただし、これは非常に強調される類型化ではあります、法的効力を持つものと持たないものという点が。しかしながら、本質的な差異はあるのかというと、かなり首をかしげざるを得ません。

 というのは、実際に、諮問的であっても、国民投票で示された国民の意思とは違う決定を議会ができるかというと、それは非常に困難である。レジュメにはスウェーデンの事例というのがありますが、スウェーデンで一九五五年に、自動車を右側通行にするというものが国民投票にかけられます。これは、国民投票によって否決されます、諮問的ではありますが。

 しかし、一九六七年、十二年たって議会が右側通行を可決するわけですね。逆に、その点でいったら、十二年という期間を要したという点で、これは、諮問的国民投票制だから議会を無視したとは必ずしも言えない。十二年という期間を考えると、逆に十二年待たざるを得なかったというふうに考えれば、やはり、諮問的なものだからといって議会を無視できるわけではないと考えられるというふうに思います。

 それからもう一点は、廃止的国民投票制と書きましたが、これはイタリアの例ですが、現に存在する法律の廃止を国民投票で決めるというものです。普通は、国民が最終的に決定するというのは、国民投票でイエスが多数になって初めて法律としての効力が生じるということですが、イタリアの場合はその逆ですね。現にある法律の廃止に賛成というのが多数になった場合に廃止が決まる、そういうシステムです。これも広い意味では裁可型と言ってもいいわけですが、普通のものと逆ですので、別の類型化と言って構わないかというふうに思います。

 それから三番目、開始手続による類型。これは義務的な場合、任意的な場合、大きく分けて二つあるわけですね。

 義務的というのは、日本国憲法の九十六条のように、憲法改正の場合に必ず国民投票が行われなければならない、義務的に行われなければならない場合があるわけです。それから、任意的な場合というのは、結局、発案者、発議者がやると言ったらやる、そういうふうに言ってもいいかと思いますが、例えば、フランスであれば共和国大統領、ただし、政府の提案または両議院の共同提案に基づいてという限定が加えられているわけです。

 スペインですが、これは、実はレジュメに間違いがありまして、首相なんですが、括弧の中が両院合同会議となっておりますが、これは下院ですね。コングレ・ドゥ・デピュテ、フランス語で僕、読んでしまいましたので。これは下院です。スペインは首相で、下院で絶対多数の承認を要するというわけですね。行政府の長に与えているものですね。

 それから、イタリアのように、五十万人の選挙人または五つの州議会が要求する場合、国民あるいは州の議会に発議権を与えている場合ですね。

 それから、デンマークのように、議会の三分の一が要求する場合、これは少数者の保護ということを念頭に置いているわけですね。国際機関に権限を移譲する場合はまた別の要件が加わっております。

 それから、スイスの場合は、義務的に国民投票が行われる場合と任意的に国民投票が行われる場合を区別して、任意的な国民投票の場合は、五万人の選挙人または八以上のカントン、地方自治体と言っていいんでしょうか、の要求がある場合に国民投票が行われるということになっているわけです。

 それから四番目、イニシアチブとの結びつきというのは、つまり国民発議と言ったりするものですね、それとの結びつきによってまた別の類型ができようかと思います。

 スイスの場合は、これは事務局作成の資料では二十六ページ、二十七ページに条文がそのまま載っけてあるわけですが、憲法の全面改正の場合は、国民が、十万人の有権者によって全面改正を提案して、必ず国民投票に付さなければならないという場合ですね。それから、憲法の部分改正の場合は、一般的発議の場合というのは、これは憲法改正の基本的な方向だけを示した発議です。それと、完成された草案、こういうふうに条文を具体的に書いて発議する場合があるわけですが、それぞれによって国民投票が行われる場合、どういうふうに行われる場合かというのが百三十九条に詳細に書かれているわけです。これを説明すると長くなりますので省略いたします。

 アメリカの住民投票についても、似たようなシステムとして、直接イニシアチブ、間接イニシアチブという分け方ができます。

 直接イニシアチブというのは、州によってもちろんいろいろなやり方がありますが、有権者の一定数の署名に基づいて法律案、場合によっては憲法改正案ですね、具体的な案を発議するわけです。直接イニシアチブというのは、それをそのまま投票にかける、州ですから住民投票と言った方がいいのかもしれませんが、州の住民投票にかける。議会の審議を一切経ずに、住民が発議したものを、それを住民の投票にかける、そういうシステムですね。

 間接イニシアチブというのは、発議したものを議会で審議する、その上で、修正案がある場合はそれをかけるというような、議会の審議を経て住民投票に付すというようなものが間接イニシアチブというふうに呼ばれているわけです。これも、先ほど少し言いましたフランシス・アモン先生の表現によれば、下からの国民投票と申し上げていいんだろうというふうに思います。

 以上、大まかな類型化であったわけですが、四番目に、日本への適用の可否及び留意点、これについて意見を述べたいというふうに思います。

 まず一つ目として、原理論、憲法原理の問題として、恐らく、直接民主制を排除するということを一つの骨格とするような国民主権、フランス的な表現で言うとナシオン主権と言ったりします、抽象的な国民に主権が存在するのであるから具体的な有権者団、選挙人団は主権を行使できないという形で、国民主権、ナシオン主権だから直接民主制ができない、こういう国民主権。日本国憲法上の国民主権を専らフランスのナシオン主権的に理解するような見解はもはや存在しないと言ってもいいかと思います。もっとも、直接民主制と強く結びつく国民主権論、フランス憲法学でいうところのプープル主権ということになるんでしょうが、プープル主権的な理解が通説であるわけでもありません。フランス型のナシオン主権、プープル主権というのも、事務局の資料にもよく整理されておりますので、御参照いただきたいと思います。

 もともと、ナシオン主権だからといって、一切の直接民主制を本当に排除するのかどうかという点については、見解に争いがあるわけです。ですから、ナシオン主権であっても実は国民投票は可能だという議論もありますから、国民主権と国民投票は結びつかない、全く結びつかないんだという理解はもはや存在しないと言ってもいいと思います。

 また、議会主権を原理とするイギリスでも、諮問的とはいえ国民投票が行われたという点、この点でも、議会主権でも国民投票と矛盾しないんだというふうに理解すると、もはや、直接民主制を専ら排除するような原理論、憲法原理というのは恐らくないだろうというふうに思います。

 我が国でも、地方自治体の住民投票が行われたときに、議会制民主主義だから住民投票ができない、すべきではないんだというような理解、批判がございますが、しかし、そのような議会制民主主義というのは本来あるのだろうかというふうに、私は首をかしげざるを得ません。議会制民主主義の基礎には民主主義があるわけですから、それと国民投票とは結びつくというふうに理解すれば、少なくとも、議会制民主主義だからできないというのはおかしいだろうというふうに思っています。

 また、直接民主制の導入自体は、恐らく、日本国憲法の前文、「代表者を通じて行動し、」という文言とも矛盾をしないというふうに私は理解しています。もともと、現行憲法上も、「代表者を通じて行動し、」と前文で書きつつも、九十六条で憲法改正のための国民投票を認めているわけですから、それ以外に国民投票の場面をふやしたとしても、必ずしも憲法前文と矛盾するというふうにはならないと思います。

 また、アメリカの例ですが、アメリカのいわゆる共和政体ですね。アメリカ合衆国憲法の第四条の四節は、合衆国は連邦内の各州に共和政体を保障しという文言があります。この共和政体というのは、専ら代表制であると理解される場合があります。そこの点で、州レベルの住民投票というのは、この共和政体と相入れないのである、憲法違反である、こういう議論があります。これについて、アメリカの連邦の最高裁が、反することはない、それは政治問題であって、個別に各州で判断すればよいのであるという判決を出しております。この点でも、アメリカでも共和政体と直接民主制は矛盾しないという結論が出ていると言っていいと思います。

 しかしながら、一般的に、法律に関する法的拘束力のある国民投票制を導入することは、日本国憲法上、第四十一条ないしは第五十九条に違反するので、その導入に当たっては憲法改正が必要であるというのが私の見解であると同時に、恐らく憲法学界の多数の見解と一致するものだというふうに思っております。

 しかしながら、事務局作成の資料の六ページですか、フランスにおける代表制の展開、これがナシオン主権からプープル主権への展開という図表になっていると思いますが、まさに直接民主制の方に傾いていくというのは大きな歴史の流れであるというふうに私は理解しています。しかしながら、直接民主制に過大な期待、これですべてが解決できるかのように期待を持つことも誤りであるし、また、直接民主制が導入されることによって大きな変化が起きるというふうに危惧を抱くことも、それも誤りであるというふうに思っております。

 続きまして、二番目の直接民主制の困難性についてという点です。

 古くから直接民主制に対する批判というのはあるわけですね。先ほどの清宮先生の議論などもそうです。これについて、事前に資料として御紹介いたしました、議場にも御用意しているかと思いますが、イアン・バッジというイギリスの政治学者ですね、「直接民主政の挑戦」という本、訳本が出ております。この八十四ページに、詳細な批判、直接民主制に対する批判に対する回答が出ているわけです。ほとんど直接民主制に対する、国民投票に対する批判に対して反批判をしているというわけです。ただし、イアン・バッジの議論は、政党の役割を重視している点、特に成熟した政党制、政党の役割を重視している点で、日本に即座に当てはまるわけではないわけです。

 ただ、バッジが言っていることは、要するに、直接民主制はそんなに悪くないんだという、結論としては、議会の立法とそんなに変わらないんだ、危なくないんだということを言っているわけですね。では、議会による立法と変わらないんだったら何でわざわざ直接民主制をやるんだという点については、バッジの結論は、要はそれが民主制なんだというところに恐らく尽きるんだろうというふうに思います。

 考えてみると、議会による立法と国民投票による立法を比べて、どっちがいいのかということをアプリオリに判断することは恐らくできないというふうに思います。アメリカでも評価は分かれています。そんなに悪くない、むしろ国民は冷静に判断しているんだという評価、と同時に、いや、むしろ積極的差別解消策が廃止されて差別を助長する方向に行っているんだという評価もあります。この点は、アプリオリにどっちかがいいんだということは、私は評価できないというふうに思っています。

 ただし、従来言われてきたような直接民主制には非常に困難が伴うという点は、相当程度克服されたというふうに考えております。ただし、頻繁過ぎる実施は国民に疲弊をもたらすということは間違いないだろうというふうに思います。

 それからまた、直接民主制の過剰の問題ですね。特に、スイスやアメリカではそれがはっきりしているわけです。そこに幾つか書きましたが、イニシアチブ産業というのは、要するに、国民で発議するために、産業になってしまっているわけですね。業界があるわけですね。その業界がばあっと集めてくるわけです。そうすると、金持ち有利ということになってしまう、そういうものがある。

 それから、スイスでは、投票率が低下しているという問題がある。それから、プレビシット論ですね。これもフランスでは、ナポレオンあるいはシャルル・ドゴールを含めて理解されるときもありますし、ドイツは、ヒトラーのように国民投票を悪用する、そういう批判があるわけです。そういう点があることも頭に入れておく必要があると思います。ただし、そこであっても、スイスでもアメリカでもフランスでも、だから国民投票をなくせという議論はないわけです。むしろ、悪用の部分を何とかするべきだという議論に傾いているはずです。

 三番目ですが、直接民主制は市民参加を増加させるかという点について。

 これは、簡潔に申し上げますと、そもそも、国民投票をやって、市民参加を増加させるということ自体は、それ自体が目的ではないということ。それから、もう一つは、実際には議会の選挙の投票率と国民投票の投票率では、ヨーロッパを見れば明確ですが、国民投票の投票率の方が低いわけです。特にフランスの場合は、非常に最近顕著になっているわけです。ですから、レジュメに書きましたように、イタリアやデンマークのように、一定程度の投票がない限り効力を持たせないというような工夫がされているわけです。

 四番目として、国民投票と立憲主義との関係です。

 これは、国民投票によって成立した法律に対する違憲審査の可否の問題です。アメリカでは、通常の法律と同じように違憲審査がされます。しかし、フランスでは、国民投票によって承認された法律については違憲審査権が及ばないとする判例があります。恐らく、日本では、日本の最高裁の統治行為の立場を考えると、間違いなく違憲審査は行われないということになってしまう。そうすると、かえって、国民投票を導入することによって違憲審査が及ばないということによって、少数者の保護ということがなされないという危険性が出てきます。イタリアでは、事前に憲法裁判所が審査をするということになっております。では、日本の場合、それは可能かというと、日本の最高裁が付随的審査制をとっているので、それとはそぐわないという側面があります。やはり国民投票であっても決められないことがあるという点、そして、それをどう守っていくのかという点、これを理解しておく必要があると思います。

 それから、五番目、政党との関係ですが、特に二大政党制になった場合に、では、選挙による投票とどう関係するのかという点、この点をよく整理しておく必要があります。少々時間がありませんので、飛ばしてしまいますが、むしろ、国民投票を導入することによって、選挙でマニフェストによって政策を選択するという意味がかえって薄れてしまう、そういう危険性があります。その点に注意が必要であろうかと思います。

 それから、六番目、討議民主主義との関係という点です。

 これは、要するに、国民投票は議論がない、こういう批判があります。これについてはむしろ、国民投票を実施することが議論を誘発する。これは、新潟県の巻町の原発の投票でもそうです。デンマークでは、そこに書いたような形で、選挙の年齢が引き下げられていったわけです、否決を挟みながら。むしろ、そういうことが討議を誘発するだろうというふうに思います。

 七番目、現行憲法下の可能性として、私は、現行憲法下で可能なものとして、一つは地方自治法改正による住民投票を充実させるという点、それから諮問的国民投票制という可能性が十分あると思います。それからもう一つは、国民に法案提出権を与える。特に、法案提出権のない会派に対して、国民の一定数の署名を求める、備えることによって、発議権を認めるということが現行憲法上も可能であるというふうに理解をしております。

 そういう現行憲法上の可能性が十分にあるというふうに思っておりますので、最後に、まとめにかえてというところですが、直接民主制は、非常に重要な役割を果たすということは否定しませんが、あくまで一つの手段にすぎないという点。それから、直接民主制導入の議論を避ける理由はないけれども、すべてが解決できるかのように過大な期待を持つことは賛成できないし、また、憲法改正の呼び水としては全く問題外であるというふうに思っております。

 また、重要なのは、直接民主制を入れていくことについては、議論をすること自体はよいのですが、むしろ、直接民主制にたえ得るような政党制や代表制、代表民主制を整備するということの方が重要であって、それは現行憲法の理念を充実していくということに尽きるのではないかというのが私の見解です。

 最後、少々急ぎましたが、以上で終わらせていただきます。(拍手)

保岡小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

保岡小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。船田元君。

船田小委員 自民党の船田元でございます。

 井口参考人には、大変お忙しい中我々のために時間を割いていただき、また、大変整理された議論をしていただきまして、まことにありがとうございました。

 若干の質問を申し上げたいと思いますが、先生は、我が国の現行憲法の中でも、いわゆる国民投票というのは決してその導入は不可能ではないという、最後にも最初にもお話しになったような結論をされましたけれども、私は、例えば憲法四十一条、これは国会は国の唯一の立法機関であるとか、それから五十九条、衆議院、参議院両院の議決によってのみ法律を制定することができる、こういう非常に明確な規定があるはずでございます。そういうことに立てば、現行憲法を例えば条文を変えずに解釈ということだけでそれを導入するということは、かなり難しいことじゃないのかな。

 確かに、憲法改正のための国民投票、まさに最高法規をそういう直接民主制で最終的に決める、こういう規定はあるものの、やはり、今申し上げたような条文がある限りはなかなか難しいんじゃないか。たとえ百歩譲っても、諮問型の直接投票というものはあるいはあるかもしれませんが、拘束型というんでしょうか、法律を制定するあるいは改正をする、あるいは条約を批准する、承認をするためのそういう拘束型の国民投票というのは難しい。やはり、やるためには憲法改正をしないといけないじゃないか、こう考えているんですが、そのあたりの先生のお考えをお聞きしたいと思います。

井口参考人 今御指摘ありましたように、私も、一般的に、ありとあらゆる形の国民投票制が現行憲法を改正しないでできるということではございません。

 今御指摘ありましたように、恐らく可能なのは、憲法の四十一条との関係でいったら、議会を拘束しないいわゆる諮問的国民投票制であろうというふうに思っております。しかしながら、少し考えてみますと、確かに憲法四十一条等の憲法の文言を見ると、諮問的国民投票制ぐらいしか無理だろうというふうに言えると思います。

 しかしながら、最近の例で言いますと、例えば、イラク復興支援法に基づいて自衛隊をイラクに派遣する、この点について国会の承認を得よというのを、国民投票によって国民の承認を得よということ、もしこういう法律ができたとしても、これは私は必ずしも憲法違反であるというふうには思いません。

 住民投票で、地方で、日本でも住民投票は数々行われていますが、なぜ行われているか考えると、そこに問題があるからであるというふうに私は思っています。ここを何でか考えてみますと、まさにあの問題は国民投票にかけるに値する問題であったというふうに私自身は思っております。それは必ずしも四十一条、五十九条等に違反するものではないというふうに思っています。

 ただし、そのことは、一般的に政府がやる行為を、議会を飛び越えて国民にかけるということをそのまま認めるという趣旨ではございません。あくまでも法律で、制定の過程で諮問的なものであるということを前提と、法律の中で、政府の行為については、国会で議論を尽くした上で国会の承認のかわりに国民投票による承認を得ても、必ずしも憲法違反ではないというふうに私自身は思っております。

船田小委員 今の最後のイラク特措法関係、このことについて、私も、理屈の上でこれを憲法違反ということではないと思います。

 ただ、国民投票に付す前に議会がどこまでその議論を尽くし、そして、国民の負託にこたえられる状況にまでなし遂げられるか、やはりそこがまず最初にある大前提の問題であって、その点では、政治論的にはかける必要はないというのが私の考えでございます。

 ちょっと細かくなるんですが、例の憲法改正の国民投票のあり方なんですけれども、発議をするのは国会である、国会に所属する総議員の三分の二以上によって発議をされ、そして国民投票にかけるときは過半数でいい、こういう規定がございます。

 私は、これだけの大きな国の基本法、最高法規を決める場合に、国民投票もなぜ三分の二にしないのかという、ちょっと疑問がございます。これは、多分、国民投票をするためには相当の手間がかかるだろうし、また、三分の二以上ということになると、なかなか、国民の意思というものが非常に限定されて表現されてしまうんじゃないか、こんな疑問もあるのかもしれませんが、ちょっとその辺、いつも私は奇異に感じている部分でございますが、先生のその直接民主制との絡みで、この三分の二、二分の一、これはどのように解釈をされますでしょうか。

井口参考人 今の質問のお答えになるかわかりませんが、比較法的に見たときに、恐らく、国民投票の結果について、単純過半数ではない、加重した形の条件をつけているところは、僕は余りないというふうに思っております。

 その要因は、最終的に、つまり、これは三分の二の賛成を要するということになると、結果としては、逆に言うと三分の一の反対で三分の二の意見をひっくり返す、こういうことになるはずです。つまり、実を言うと、三分の二の多数を求めるというのは、逆に言うとこれは多数決の例外のはずです。その点で、まさに民主主義の一番最後の国民にかけるという点では、多くのところが二分の一、単純過半数にしているんだというふうに思っております。

 ただし、その前の発議の段階で、むしろ、国民にかけるか、かけないかについて慎重を期すために、三分の二あるいは五分の三というところもありますし、そういうことがあるんだろうというふうに思っております。

 むしろ、大事なことは、これは実際に憲法改正国民投票法のレベルの話かもしれませんが、投票率が物すごく少ないのに二分の一の賛成というふうにしていいのか、これは大きな問題であると思います。先ほどのイタリアのように、一定程度の投票率がないとその国民投票自体を有効にしないということもあるわけですから、仮に二分の一だとしても、一定程度の投票率がない限りはその国民投票はやはり無効だというふうに理解すべき、あるいはそういうふうに制度設計をすべきであるというふうに私自身は思っております。

船田小委員 ありがとうございました。

 それと、余り時間がないんであと一問だけなんですが、実は、憲法の中に九十五条、地方自治特別法の制定に関する住民投票、この制度が定められておりますね。ところが、過去これが発動したのが、たしか昭和二十四年から二十六年にかけてわずか十五件だけですね、実際投票が行われた、こういうふうに伺っているわけです。

 私、地方自治におきましては、いわゆる地方自治の本旨ということは、やはり住民自治である、やはり住民が直接その地域を治めていく。これに基づいたもので、これは国の制度よりもさらに直接民主制が強くなっているというふうに感じております。だからこそこういう九十五条の規定があると思っていたんですけれども、どうもその後、そういったものが、発動しないというか、発動する要件がなかったといえばそれで終わってしまうわけでありますが、制度上、どのようにこれを活用していくか、あるいは、そういう要件が今後、将来出るのかどうか、このあたりをちょっとお聞かせいただきたいと思います。

井口参考人 私も、これが使われていないことは非常に問題であるというふうに思っております。かける場がなかったんだというのは、かなり問題があるというふうに思います。例えば、駐留米軍の問題等明らかに、一とは言わないけれども、非常に偏っているわけですね。それに関する法律があるわけです。そういうものは、むしろかけるべきであると思うし、九十五条にのっとってやるべきであるし、私もなぜやらないのかということを不思議に思うところがありますし、また不思議なことに、そういう要求がそれほど強く聞かれないというのも不思議に私自身思っております。その点で、ちょっとお答えになるかわかりませんが、そのように思っております。

船田小委員 ありがとうございました。

 以上で終わります。

保岡小委員長 次に、大出彰君。

大出小委員 民主党の大出彰でございます。

 きょうは御苦労さまでございます。よろしくお願いいたします。

 初めに半直接制という言葉が出てまいりますが、ここの制度は半直接制だと言えるには、一個でも直接民主主義の規定があればいいのか、その辺の要件といいますか、そこを教えてください。

井口参考人 それは、大いに学界でも議論があるところです。一個でも入っていたら半直接制だと言う人と、例えば、日本国憲法では、九十六条の憲法改正国民投票制がないんだから、これは少な過ぎるから、少なくとも法律レベルの国民投票が必要なんだという見解があります。

 それは、見解が分かれておりますし、さらに、こう言う人もいるんですね。日本は半直接制と半代表制の間だというふうに言っている。しかしそれは、私から見たら言葉の問題なのであって、私が最初に、本日申し上げた半直接制という言葉を使ったのは、むしろ、純粋直接民主制型と分けて、いわゆる直接民主制が入っている体制のことを言いたかったのではなくて、そこで使われているレファレンダムとかイニシアチブといった制度を言おうとしていただけです。

 分量的には、学界によっても、人によって違います。確かに、分量は必要なんだと言う人と、そうではないと言う人に分かれておりますが、私自身は、一個でも入っていたら半直接制と言って構わないと思っています。なぜかというと、それは言葉の問題にすぎないからというふうに私自身は思っております。

大出小委員 なかなか、一個でもの一個の中身が直接制を強くあらわしているといいますか、そういった場合ならば、確かに、一個でもということなのかと。確かに、先生おっしゃったように、分類の問題であるだけだということかもしれませんけれども。

 次に、プレビシットというのとレファレンダムという、どうなったら、これはプレビシットだと言って、こっちはレファレンダムと言うのかという、この区別はどんなふうに考えたらいいんでしょうか。

井口参考人 まず、プレビシットという言葉は、国によって、普通、一般的な政策投票、国民投票の意味で使われるときもありますが、フランスでは、プレビシットというのをいわゆる悪用の形態としてレフェレンダムと分けて議論するときがあるわけです。

 これについて、事務局作成の資料の十四ページにたくさん書いてあります。ただ、これは、フランスにおいても、一般的に何か特別なものがあるわけではありません。プレビシットの一番の批判のポイントは何だったかというと、まず、ナポレオンの国民投票から概念化されました。つまり、民主的な国民投票という形態を使って、実は独裁につながったではないか、これを批判する概念としてプレビシットというのがあったわけです。

 ですから、一番典型的なのは、国民投票で、政策、法律についてかけているはずなのに、実はナポレオンだとか、シャルル・ドゴールであるとか、ヒトラーであるとか、実は個人への信任投票になっているのではないか、それが恐らくフランスでは、もともと従来一番強かったというふうに思います。

 ただし、その中で、なぜそうなるかについて、議会の審議がないとか、そういうことがいろいろつけ加わってきたというのが十四ページの表の、これも乗本先生の分類の仕方ですが、そういうことであろうかと思います。

 しかしながら、もう一点つけ加えさせていただきますと、かつてであれば、そういうむしろ自分の責任を国民投票にかける、つまり、国民投票にかけて、もし国民投票が反対多数で否決されたならば自分は辞任するというふうに言って、言ってみれば恫喝をする、これがプレビシットだという批判がありました。実際、フランスではシャルル・ドゴールは、何度もそういうふうにしましたし、最後は実際に退任するわけですね。

 しかし、それを今ではフランスでもプレビシットと呼ばずに、むしろ民主主義の正常な形なんだ、政治責任をかけてそういうふうに国民投票に信任を問うこと自体は、実はプレビシットでも何でもない、むしろ民主的な政治の形態なんだというふうに主張する学説もあります。

 私は、必ずしもそうは思っておりませんが、そういう点で、人物云々というのが一番のポイントだと思いますが、フランスでもプレビシットの概念というのは非常に揺れているということが現状であろうかと思います。

大出小委員 直接民主制で国民投票を行って憲法も改正してしまったりなんかをしますね。後になって、それは違憲でないとは言わないのかな、構わないんだというような後づけの理論が出ているようなんですが。フランスの場合に、いずれ直接民主制の方に寄っていくだろうとさっきおっしゃっていましたけれども、そうだとしますと、違憲審査のことをお聞きしたいんですが、違憲審査の場合に、プープル主権的に考えたら国民を重視するから違憲審査は及びませんよという意味なのか、そして、それがもし、じゃ、日本みたいな場合に、ナシオン主権を少し強めた形で物を言ったときには違憲審査は及ぶというふうに言うのか、その辺をちょっと教えていただきたいんです。

井口参考人 私は広い意味で多分プープル主権学派という中に入るんだろうと思います。プープル主権を主張しない人たちが、むしろプープル主権は、論理を貫いていけば、国民の主権者の意思によって表明された法律は絶対であって違憲審査は及ばないと考えるはずだというふうに思っている、批判されている、あるいは主張されているということであって、しかし、プープル主権というのは別に人権保障を無視しているわけではありませんから、多数決であっても決定できないことがあると考えるべきですから、私は、必ずしもプープル主権をとっているからといって違憲審査が及ばないというふうには考えていません。多数決でも決めてはいけないことがある。

 つまり、自分たちのことは自分たちで決めるということと、自分のことは自分で決めるということは、少し緊張関係があるわけですね。自分たちの中にも少数意見があるという、これをむしろ尊重すべきであるというふうに考えますから、論理的に言ったら、必ずしもプープル主権だからといって違憲審査制が否定されるわけではないというふうに考えております。

 しかしながら、アメリカでは実際にそういうふうに、地方レベルですけれども、裁判所が違憲審査をするわけですね、住民投票によって成立した法律を。それができるのは、アメリカの社会的な、政治的な背景があって、それだけの住民の多数の意見に反してでもノーと言えるだけの信頼感というか、そういうものを裁判所が持っているからそれができるのであって、日本では恐らく現状においては僕は無理だと思います。無理だと思うし、先ほども申し上げましたように、最高裁の統治行為のスタンスからいったら、プープル主権とは全く関係なしに、今の日本の最高裁の統治行為論の議論からいったら、主権者の意思なんだから当然違憲審査は及ばないという判決が出てくるだろうというふうに思っております。

 しかし、それはそれで問題である。そのことがかえって憲法違反の法律を国民投票が成立させるということになってしまいますから、かえって現行憲法の改正規定の意味を失っていく、そういう危険性があるというふうに私自身は思っております。

大出小委員 今アメリカの話が出たんですが、私はアメリカの、あれはプープル主権的だと思っているんですね、下院が二年ですからね。そうすると、むしろ逆に、それを強調すると、違憲審査が及ばないという方向に行くべきだったのではないかと思うのですが、その辺はどうでしょうか。

井口参考人 アメリカの論理を貫くと、恐らくプープル主権が基礎にあるというのは僕は間違いないと思いますが、と同時に、アメリカは、やはり分権化というか、そういう全く別の原理が働いているんだと思いますね。

 ですから、むしろプープル主権の中にも分権化、人権とかそういう概念を組み込んでいるプープル主権になるのであって、その点で僕は矛盾はしないんだというふうに思っております。

大出小委員 最後の質問ですが、今の日本の中で、憲法に関しての国民発案という発議、それを、例えば国民投票法みたいなのをつくって、国民も発案できますよというのをもし規定したとしますね。そうすると、これは可能なんですか、違憲ですか。

井口参考人 発案自体を国民に認めることは、私自身は憲法違反ではないというふうに思っております。

大出小委員 それは、国民投票法みたいな法律で担保しないとだめということですか。

井口参考人 当然、それを実効化するための法律が必要であるというふうに思います。

 もし、そうではない形での発案が出てきたとして、国会がそれを受け付けなかったとしても、それは違法にはならないというふうに私自身は思っております。

大出小委員 ありがとうございました。

 質問を終わります。

保岡小委員長 次に、赤松正雄君。

赤松(正)小委員 公明党の赤松正雄でございます。

 きょうは、井口参考人、本当に示唆に富んだお話をありがとうございました。

 幾つか御質問をさせていただきますが、まず、先ほどのレジュメに従ってのお話の中で、直接民主制は市民参加を増加させるかという話の中で、議会選挙の投票率と国民投票の投票率では、国民投票の投票率の方が低い、そういう状況の中で、特にフランスは国民投票の方では投票率が低いという傾向が顕著である、こういうふうなお話がございましたが、フランスについては、一九〇〇年以降のレファレンダムを見ると、一九六〇年代に四つあって、あとほぼ十年単位ぐらいに一つずつ、合計八回にわたるレファレンダムを経験しているわけですが、それは、先ほどおっしゃった投票率の低さというのは、そのレファレンダムの中身とかそういうものとどういう関係があってそういう傾向が出ているんでしょうか。

井口参考人 今の点で申し上げますと、まさに中身と関係しているというふうに考えて全く構わないわけですね。とりあえず一九六〇年代のレフェレンダム、これは当時大統領はすべてシャルル・ドゴールです。まさに、先ほども申し上げましたように、ドゴールはこれに信任投票の意味を持たせるわけですね。非常にドラスチックな形で行っているわけです。

 ドゴール以降は国民投票が沈滞化したというふうに一般的に言われますが、僕自身は、もう六二年の段階で、ドゴールが、大統領直接公選制が制度化されて、そういう面で信任投票にかける必要がなくなったからドゴール自体ももうやらなくなったんだというふうに考えた方が僕はいいと思っておりますが、ただし六〇年代はドゴールの信任の意味があったから投票率が高かったということが言えます。

 それ以降のものは、内容を見ていただければ、これは基礎資料の二十ページですか、例えば七二年のECの拡大、これはフランスがECに入るという話ではなくて、イギリスとかアイルランドとかデンマークがECに入ってくるという条約、これをかけるわけですね。言ってみれば、実はフランスと余り関係はないという、全くとは言わないけれども、関係はないわけです。そういう点で、国民は、言ってみればどうでもいい、そういう側面があるわけですね。まさに内容によってそうなっている。

 さらに、十何年国民投票が行われないで、今度またかけたのは八八年のニューカレドニアの自治の問題ですから、フランスの本土から見たら、はるか遠くの島の自治を認めるかどうかという問題であって、本土ではやはり関心がない、そういう側面があったと思います。

 ただし、逆に、だからこそマーストリヒト条約批准、つまりヨーロッパ連合に踏み込むのかどうかという点では、まさに白熱をして投票率が若干上がったという側面がありますね。

 それから、二〇〇〇年の大統領の任期、七年を五年に変えるという、これは日本で考えると、例えば衆議院の任期を変える、参議院の任期を変えるというと大騒動かもしれませんが、七年の任期はもともと長過ぎる、二期やったら十四年だというのはもともと長いという批判があったわけですね。そういう点で、議会もほとんど賛成している、国民はほとんどもう賛成だとわかっている。あえてやったのがこの二〇〇〇年の憲法改正でしょうから、まさに内容的に国民が大して関心がない、もう結論が決まっているではないか、そういう点だと思います。

 そういう点で、フランスの例というのは、国民投票にふさわしくないことをかけているというのが私の考えであります。だからこそ投票率が低いという、この点を思っております。

赤松(正)小委員 ありがとうございました。

 次に、先ほどちょっと時間の関係ではしょられた部分についてお聞きしますが、マニフェストとのかかわり、二大政党制との関連で、マニフェスト選挙がこれから進んでいく中で、政党が掲げるマニフェストの重要な部分が、国民投票という形になった場合、まさにその重なり合う部分があるからということなんだろうと思いますが、この辺について若干敷衍をしていただきたいと思います。

井口参考人 これは非常に非常に重要な問題で、私も難しくてわからないところもあるのですが、特に与党というか、与党になった政党が選挙の際に掲げていた根本的な政策が国民投票にもしかけた場合に否決をされた場合、なおかつそれでも政権に残るのかどうかという点。この点では、レジュメにちょっと書いてありますが、東京大学の高橋和之先生の国民内閣制の論理でいったら、それは総辞職をすべきである、そういう結論になるはずです。与党の根本的な政策が国民投票によって否決された場合には総辞職をすべきであるという結論になるはずです。

 したがって、逆に言うと、その国民投票というのは、与党がかけた場合は、みずからの信任案を衆議院に求めたのと同じものを国民投票によってかけたということになるでしょう。もし、野党の側に国民投票の発案権があった場合には、野党が内閣不信任の決議案を求めたものを国民に対する不信任を求める投票を求めたという形になるはずです。少なくとも、与党が否決された場合にはそうなるはずです。

 しかしながら、逆に、与党の本質的ではない事柄であるけれども、少数派の野党の政策であっても、シングルイシュー、一つの論点については国民の多数派の賛成を得られる政策がある場合に、それを国民投票によって承認されるという場合があるわけですから、その場合は、むしろマニフェスト選挙を補完するという役割があり得るというふうには私自身は思っております。

 以上です。

赤松(正)小委員 ありがとうございました。

 最高裁判所の裁判官のいわゆる国民審査というのは、直接な国民投票制の一つを形成しているんだろうと思いますが、これは私も今まで何回かやってきて、ほとんど意味があるのかなと思いながらやってきた経緯があるわけです。今司法制度の改革の中で、裁判員制度の導入、こういったことから、国民の皆さんに裁判員をしていただくというような状況が生まれることによって、この最高裁判所の裁判官の国民審査に、実質的な意味が変わるというか、導入の影響で関心が非常に高まる、こういうふうなことを考えておられるかどうか。

井口参考人 非常に距離は長いでしょうが、裁判員制度によって国民の近くに裁判というものがあるような存在になってくれば、恐らく最高裁判所裁判官の国民審査についてもある程度の実質的な意味は持つだろうというふうに思っております。ただし、その際には、現状のような罷免を可とする者についてバツをつけるという制度でいいのかどうかというのは、また別途検討する必要があろうかというふうに思っています。制度上の問題も残っていると思います。

 以上です。

赤松(正)小委員 次に、日本国憲法の第十六条のいわゆる「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は」云々という請願する権利でございますけれども、民意を直接国会や政府に伝えるということで、選挙以外の場で国民の意思を国会に反映させるというねらいというものについては、私は非常に肯定的にとらえなくちゃいけないとは思っているんですが、現在の状況をさらに一歩進めるために、一部で、例えば、十以上の都道府県において有権者の五十分の一以上の署名を集めることを条件に法案の形式での請願を認める制度を導入してはどうか、こういう案があるというふうに聞いておりますが、こういった物の考え方について、参考人はどう思われるでしょうか。

井口参考人 私は、請願権のある種延長として考えるかどうかは別にして、そういう国民発案についてというものは、しかるべく考えるべき事柄だというふうに思っております。先ほど紹介したフランシス・アモン先生の表現によれば、多分下からのレフェレンダムにつながるようなものだと思っております。

 ただし、またこれも申し上げましたように、アメリカのイニシアチブ産業のような弊害もあるわけですので、私は、法案提出権のない会派にプラス有権者の一定程度の署名で法案提出権を認める、そういうやり方の方がむしろ現実的かなというふうに思っております。

 以上です。

赤松(正)小委員 ありがとうございました。

 終わります。

保岡小委員長 次に、山口富男君。

山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。

 初めに、ちょっと大きな話なんですけれども、日本国憲法の場合、代表民主制をとりながら、九十五条、九十六条を初めとして直接民主制を取り入れている、そういう憲法だと思うんですけれども、その背景には、国民主権を実質化するという立場があると思うんですが、こういう点について、参考人はどういう考えをお持ちですか。

井口参考人 その場合の国民主権というのは、むしろフランス的な理解ではプープル主権というふうに理解していいと思いますが、今言われたような地方自治、住民投票、あるいは九条の憲法改正、国民投票制のようなそういう直接民主制というのは、プープル主権を具体化するものであるというふうに私自身も思っております。

 ただし、それだけではなくて、きょう、最初の方で、むしろ直接民主制から排除してしまいましたけれども、十五条一項の公務員の選定、罷免の方ですね。これもプープル主権を実質化する、そういう意味合いを持っているものであるというふうに思っておりますので、直接民主制だけではなくて、僕は、罷免とかリコールというのはむしろ代表民主制を充実化させる手段であるというふうに思っておりますが、と同時に、それはプープル主権の実質化という意味を持っているというふうに理解しています。

山口(富)小委員 二つ目に、最後のところなんですが、多少急いでお話しになったところなんですけれども、憲法改正の呼び水としてこの直接民主制論をやるというのは問題外だという指摘をされた後に、今必要なのは、言葉では代表民主制ともおっしゃいましたが、直接民主制を含めまして、日本国憲法の理念の具体化が必要だというふうに指摘されたと思うんです。

 そこで、参考人が考えていらっしゃる理念の具体化といった場合に、具体的な提起というのは幾つかお持ちなんですか。

井口参考人 具体的な案の提示はちょっと難しいところがあるのですが、つまり、一般的に言ったらこういうことなんですね。直接民主制、いろいろ問題があるじゃないかというこの批判に対しては、代表民主制だっていろいろ問題があると。要するに、直接民主制にたえられるだけの政党であったり裁判所であったり、そういうものが必要なのであって、それは日本国憲法の理念の具体化である。

 つまり、違憲審査制度が少数者の保護として活発に活動できる、そして国民の民意を政策として具体化する、それを媒介する機能を政党が果たす。恐らくこれは、現在の日本国憲法の理念の中に含まれているものだというふうに理解をしております。そういうものがあって初めて、直接民主制であるとか国民投票制がプレビシット化しない、そういういろいろな問題を避けることができるということを、私がそこで言おうとしたことです。ちょっと、お答えになっているかわかりませんけれども。

山口(富)小委員 三つ目に、きょうは、比較憲法論的な立場で、随分各国の直接民主制にかかわる具体的条件とか歴史的背景を指摘されたと思うんですが、この日本国憲法の、他国の憲法と比較した場合に、こういうところが特徴だとかそういうものを、幾つか参考人の方はまとめて考えていらっしゃるんですか。

井口参考人 恐らく一番特徴的なのは、はっきり言うと、一から九というのが僕は一番特徴的だというふうに思っています、ぱっと見というか。つまり、天皇制と平和主義というのが一番特徴的なものだというふうに思っています。

 それ以外のところで言ったら、恐らく、先ほど言った十五条の一項の選定、罷免の、罷免を国民固有の権利としている点、逆に、命令的委任の禁止という名詞的な規定を書いていないという点、むしろそういうところが特徴であるというふうに思っています。

山口(富)小委員 今、最初に天皇制と平和主義の問題、一条から九条を挙げられたんですけれども、一条の場合は、国民主権下の、主権在民下の天皇の制度のあり方という規定をしているんですけれども、この点はどんなふうに評価しているんですか。

井口参考人 その点は明確な見解を持っているわけではありませんが、あくまでも国民主権下の天皇制であって、まさに一条の文言のとおり、極端なことを言うと、国民の意思、全体の総意に基づいているわけですから、そこに実は国民投票の余地がある。逆に言うと、天皇制を廃止するのであれば国民投票にかけろ、そういうことを読み込むことが可能な条文だというふうに私自身は一条を思っております。

山口(富)小委員 次に、現行憲法下の可能性について幾つか指摘された点なんですけれども、そのうちの一つは、住民投票の充実という問題なんです。

 現行法制でいきますと、やはり地方自治法の改正なり、住民投票というのは結局条例をつくらないとできないことになっておりますから、住民投票にかかわる新しい法律なりが必要になってくると思うんですが、この点について、日本で住民投票法をつくっていく場合に、こういう点をきちんとつくっていかなきゃいけないんだというような構想は何かお持ちなんですか。

井口参考人 今、地方で住民投票をやるときに何が一番問題かというと、まず、その条例をつくるときに議会がつくってくれない、それが一番の問題になっているわけですね。だから、なるたけ投票自体まで持っていくハードル自身を低くしないといけないというふうに思っています。ただし、議会の審議を充実させる。ハードルの低さと、議会の審議を充実させる、最低その二つの条件というのは持っていないといけない。と同時に、逆に、住民投票の乱発、これはやはり避けなければいけないというふうに思っております。

山口(富)小委員 そうしますと、その二つの要件を満たそうとすると、地方自治法の改正の場合もありますし、住民投票にかかわる新しい法律の作成という場合もある、そう理解してよろしいですか。

井口参考人 そのとおりです。両方の場合があって、むしろ両方の可能性を僕は探るべきだというふうに思っております。

山口(富)小委員 現行憲法下の可能性の問題で、もう一点お尋ねしたいんですが、先ほど国民の皆さんの一定数の署名があれば発議ができるということを指摘されておりました。これは、憲法のどのあたりにこの根拠を置いてこういうことが現行憲法上可能だというふうにおっしゃられるのか、ちょっと教えていただきたいんです。

井口参考人 憲法上の根拠と言われると、先ほど御指摘あったように、むしろ国民主権、人民主権ということだと思います。

 現行憲法上、内閣の法律発案権の根拠、これはかなり怪しいですね。議案に含まれているという説がありますが、あれは必ずしも内閣発案、内閣の権利を示しているものではありませんから、明確ではないわけですね。むしろ僕はそこは問題だと思いますが、内閣に認められるんだから主権者である国民に認められると考えて全く構わないと僕は思っています。むしろ内閣に認めることの方が問題であるというふうに僕は思っています。国民主権なのであるから、別に四十一条の唯一の立法機関である、発議権を国民に認めても全く矛盾しないというふうに僕は思っています。

山口(富)小委員 時間の関係で最後になるかと思うんですが、ちょっと話が戻ってしまうんですが、住民投票でいいますと、原発にかかわる問題、環境問題それから米軍基地にかかわる問題、幾つかこの間行われてきたわけですけれども、こういうものは、日本の憲法が定めた、地方の場合は住民自治、また日本全体に広げて考えれば国民主権というものの実質化という意味で、どういう意義を持つのか、少しお話しいただきたいと思います。

井口参考人 どういう意味を持つかというのは、まさに先ほど言った一つの側面ですね、自分たちのことは自分たちで決めるという、そういう理念の具体化という側面があります。

 ただし、住民投票の経験というのは、原発でもそうですし、全体的に見たときにあれは地方だけの話ではないという側面が一つあります。むしろ中央集権に対する地方の住民の意思表示という側面もあったというふうに私は理解しております。

 以上です。

山口(富)小委員 ありがとうございました。

保岡小委員長 次に、土井たか子君。

土井小委員 きょうは、先生、ありがとうございました。

 議会制民主主義をとっている国々の中では、やはり国民、市民が直接この民主制の諸制度に参加するということの度合いというのがどんどん強まっていっているというふうに考えてよろしゅうございますか。

井口参考人 恐らく、それはもう大きな歴史的な流れでは間違いなくそうだと思います。多少の揺り戻しはあるとしても、歴史的な流れとしてはそういう方向に行く、それをとめることはできないというふうに私自身は思っております。

土井小委員 日本でも、自治体の中では住民が直接投票するということを決める条例を制定して、そして、それが大変意味を発揮するという事例が具体的にどんどん出てまいっておりますから、それは意義が大変あるというふうに思われるわけです。

 少なくとも最近は、やはり直接参加ということを問題にされている方々と話をしておりますと、その中には、やはり政治不信とか、自分たちが直接参加をして選挙で選んでいる、国民を代表する議員の議員活動がはっきり見えていないとか、それから、場合によったら、審議をしているということはわかるけれども、審議過程というのが明らかではないとか、いろいろ制度上の問題の不備ということと同時に、憲法の条文からすると当然なさねばならないことがなされていない、してはならないことが大いにされるというふうなことが大変不信を買っているもとになっているなということを昨今非常に強く感ずるんですね。

 そのうちの一つに、憲法の四十一条は、よくだれでも知っているとおりでございまして、国会は、国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関であるとなっているわけですね。さっき先生もちょっとおっしゃいましたけれども、私は、この立法機関の立法というのは、法案を作成するところから始まるというふうに考えてまいりました。それを提案をして審議をして採決をして、そして成否を決めるというところまでが立法作業でございまして、初めの立案をする、法案づくりをするというところが立法でないとは言えないと思うんですね。唯一のというのは重いと思うんです、唯一の立法機関というのは。

 内閣法の五条では、内閣も法案を提案することができるように法律上決められているものですから、これは決められるまでもなく、どんどんどんどん、閣法と私たち略して申しますけれども、年々数はたくさん出まして、ここにグラフをちょっと持ってまいりましたけれども、昨今は大変衆議院の方も議員立法に努力をして法案の数がふえても、なおかつ内閣の閣法には及びません。

 しかし、もっと深刻なのは、この法案の提出の件数も閣法の方がはるかに多いんですけれども、成立する成立件数、これは閣法の方は、出せば成立するということが約束されているというふうなこともございまして、一〇〇%の年があります。しかし、衆法の場合は、昨年について言いますと、五十一件提出したうち成立したのが十四件。十四件でもよく頑張っている方だと思うくらいでございまして、これは大変差が出るんですね。

 この問題について、今は、衆議院では、各法案二十人、正確に言うと二十一人ですが、議員がいないと法案提出権がないわけですが、そして予算が伴えば五十一名必要だということになるわけですが、かつて戦後しばらくの間は、一人の議員でも提案権があったんです、法案については。そのときには法案の数が非常に多かったということを聞いておりますけれども、これは作業上いろいろ整理していけばできるわけでございまして、昨今の、この国会は唯一の立法機関であるという中身について、やはり国民からすると、自分たちの意のあるような法案審議になっていないという点が大変ひっかかる問題の一つにあるのではないかと思っておりますが、先生はどのようにお考えになりますか。

井口参考人 今御指摘の点、代表民主制が、そもそも本来日本国憲法が想定しているような代表民主制の部分がうまく機能していないというのはその点だ、間違いない。むしろ、その批判が直接民主制に非常に過大な期待を寄せているということは、僕は間違いないというふうに思っております。つまり、代表民主制についても、審議の過程がはっきりしない、なぜこういう結論が出てくるのかはっきりしない、議会に出てくるときにはもう結論は決まっている、そういう非常に不信感を募らせている、それは僕は間違いないというふうに思っております。

 そして、発案権のレベルでいいますと、今、土井議員の指摘は二つあったと思いますが、一つはいわゆる内閣提出の法案が多い。僕自身は、憲法違反だというふうに思っている。内閣が発案をすることは、議院内閣制だから内閣に認めてもいいんだという議論がありますが、むしろ逆で、議院内閣制なんだから与党が出せばいい、議員で出せばいいのであるから、内閣が出す必要は僕はないというふうに思っています。

 むしろ、少数派にどういうふうに認めるかという点。一人の発議を認めていいかどうか、そこまでは迷うところでございますが、先ほど申し上げたのは、少なくても、むしろ国民の支持があれば、そういう発案権を僕は認めるべきであるというふうに思っています。ただし、それは発案をしただけでは無理なわけですね。むしろ、そこでの審議、議会での審議というのが非常に重要なものだと思います。そして、今はまさにその議会の審議が形骸化しているというのが非常に問題である。

 そして、これは直接民主制を導入した場合であっても同じことが言えます。

 先ほど何度か指摘しましたように、議会が十分に議論を尽くした上で、そしていろいろな情報を公開した上で国民投票にかけないと、どういうふうに判断していいのかというのが国民にはわからないはずです。まさにその議論を充実させるためには、国会は本来の日本国憲法が想定している形での運営がなされるべきだという点は、私も思っております。お答えになっているかどうかわかりませんが。

土井小委員 ありがとうございました。

 そもそも憲法の前文の冒頭には、国民が正当な選挙によって選んだ人たちが代表者として、国民はその代表者を通じて行動するということが明記されているわけなんですけれども、この現行憲法のもとで我が国にふさわしい国民投票制度というのはどのようなものが考えられるというふうに思っていらっしゃるかどうか、お聞かせいただければと思います。

井口参考人 現行憲法の制約がありますから、先ほど申し上げましたように、一つは、諮問的な国民投票しかできないというふうに思っております。しかしながら、最初の方で申し上げましたように、事実の上での影響力ということを考えますと、諮問的国民投票であっても相当の拘束力を持つだろうということは、僕は間違いないと思っております。

 諮問的か拘束力を持つものかの分類の仕方のところで、フランスではこういう分類の仕方があるんですね。事前にかけるのか事後にかけるのか、諮問的というのは事前にやるんだという。ただ、この分類の仕方は少し間違いであると私は思っているんです。諮問的であっても、非常に国会で議論を尽くしていって、この問題については国民に問うべきだというような、むしろ最後の方の部分でかけるような国民投票、それが恐らく本来のあり方であろうと思います。

 先ほど言ったような、イラク特措法の問題のように、ずっと議論をしていって、そして最後の判断をこれにゆだねるべきなんだ。議論が熟してくる、そのレベルでやはりかける。これは拘束力のない諮問的なものであるけれども、諮問的だけれども、それはあくまでも拘束がないという意味であって、議会が決定する前にやる、そういう意味ではない。むしろ、議会が議論を尽くしていって、最後の決定を国民にゆだねるんだという、それに国会は従う、そういう形の国民投票が本来あるべき姿であると思っています。

 その意味で、私は、むしろ少数派にこそ、その諮問的な国民投票制に発議する権利を与えるべきであるというふうに思っております。そうしないと、多数派がやると、最初のうちにぼんとかけちゃって、逆に国会の議論を封じ込めるということが考えられますから、少数派に発案権を認めるような形の諮問的国民投票制というのが本来あるべき姿、可能性のある姿であるというふうに思っております。

土井小委員 ありがとうございました。

保岡小委員長 次に、下村博文君。

下村小委員 自民党の下村博文です。

 貴重なお話をありがとうございます。

 ちょっと話題を変えまして、我が国のある意味では国民的な風土として、例えば山本七平さんが空気、そういう表現であらわしていたり、あるいは情緒的な感性が国の流れをよくも悪くも動かす原動力になっているというような、そういう意味では、必ずしも、成熟した民主主義とはちょっと違う部分があるんではないかというように言われるところもあるわけであります。

 こういう中で、先ほど、ナポレオンとか、あるいはヒトラーの時代の中での国民投票制といいますか直接民主制という形の中で、日本の独特なそういう部分というのがあるとお考えになるかどうかという前提なんですけれども、この中で、国民投票制あるいは直接民主制、この辺の兼ね合いはほかの国と違いが出てくるか出てこないか、その辺の見解、感想についてまずお聞きしたいと思います。

井口参考人 国民の気質というか、そういうものがあるかないかは、私はにわかに判断つきかねますが、もし今言ったような空気というかそういうものがあるとすれば、恐らくそれは、直接民主制だけではなくて、代表民主制についても同じことが言えるであろうというふうに思います。むしろ、マニフェストをつくって、選挙でマニフェストをかけて、これで国民の信を問う、これはできるけれども、直接民主制で国民投票にかけるのは国民の気質に合わない、こういう議論はどうも私は違和感を持っております。代表民主制はうまくいくけれども、国民投票はうまくいかない、その議論は、必ずしも私は思っておりません。

下村小委員 最後のまとめのところで、直接民主制は一つの手段にすぎないということで、世界の流れとしては、直接民主制がより採用されるといいますか、いろいろな分野でそれが入ってきているけれども、しかし、過大評価ということではなくて、一つのそれは手段にすぎない。それから、直接民主制の導入ということですべてが解決できるような過大な期待を持つこともできないという意味では、非常にきちっと分析をされておられるというふうに思うわけであります。

 その中で、まとめの一番最後のところですね、「直接民主制が理念通り機能する条件を探求、整備することが必要ではないか。」ということで、どのような直接民主制か、この辺のお話が先ほど時間の関係で十分に聞けなかったものですから、ちょっとこの辺を詳しく説明していただければと思います。

井口参考人 どういう直接民主制か、どういう国民投票制かということですが、これは先ほど土井議員に対して回答しましたように、私は、少数派に発案権を認めるような形の国民投票制が望ましいというふうに思っております。むしろ、多数派は選挙によって政策の洗礼を受けるんだ。まずそういう条件をつけるということは最優先されるべきだというふうに思っております。

 つまり、政党が政策を提言し、マニフェストにし、選挙によってその負託を受ける。あくまでも選挙に、政権選択ではなくて政策の選択という意味合いを持たせる、これが前提です。そして、その中の政策、国会にかけられたものについて、一定の部分について、必ずしも国民の民意を反映していないのではないかと思われるようなものを、少数派に発案権を認めるという形になるべきであるというふうに思っております。その点では、レジュメにも書きましたように、政党がもっと政策志向になっていかないといけないというふうに思っております。

 と同時に、これは先ほどの質問にかかわることかもしれませんが、空気というか、そのような雰囲気。恐らく、日本人は、自分たちのことは自分たちで決めるということと、自分のことは自分で決めるということの間の緊張感というのを非常に理解していないのではないかというふうに私自身は思っています。

 それなので、多数決であっても決めてはいけないことがある。つまり、多数決だからといって少数派の人権を制約していいということにはならないという点で、少数派の人権を侵害するような内容を国民投票にかけてはいけないという形。つまり、先ほど言った、かけてもいい、しかし、成立しても裁判所の違憲審査がちゃんと機能するのであれば、事後的に審査をすればいいということになるでしょうが、むしろそうではなくて、それがうまくいかないとすると、どこかで事前にチェックをかけるような仕組みも考えなければいけない。

 しかし、それが私の言葉で立憲主義の強化ということなのですが、それが本来であれば、先ほどの土井議員の回答にもなりますが、議会の審議ということが非常に重視をされる。つまり、議会の審議、そして議会の少数派に発案権を与えるというのが、日本の国民投票のあるべき姿であるというふうに思っています。

 少数派に認めるという意味はもう一つあって、与党であっても意見が割れるものがあるはずです。これについて、議院内閣制の枠組みを維持しているのであれば、党議拘束で締めつけるのではなくて、本当に与党内でも意見が割れるようなことは、むしろその与党の少数派が国民投票にかける、そういうことがあってもいいというふうに思っております。

 お答えになっているかどうかはわかりませんが、以上であります。

下村小委員 理論としてはよく頭に入るんですが、具体的に、少数派の発案権とか、あるいは今最後におっしゃっていた、与党の中での少数派の意見を国民投票にかけるとかいう、その具体的なイメージがわかないんですね。参考人として、例えばこういうことについてふさわしいんじゃないかという具体的な問題提起があれば、お話ししていただければと思います。

井口参考人 ちょっと説明が悪かったかもしれませんが、少数派の意見をかけるということではなくて、あくまでも法案審議の過程であって、その法案を、例えば衆議院の三分の一、両院の三分の一以上の議員があれば、それを国民投票にかける、そういうシステム。むしろシステムの問題であって、具体的な内容云々というのは、また別個、国民投票にまさにふさわしい問題ということになろうかと思います。あくまでもシステムの問題として、ある法案を、与党の多数の意見であっても、そのまま国会での採決に持ち込むんではなくて、議会の三分の一の議員の賛成があれば、それを諮問的であっても国民投票にかけるというシステムであるというふうに私は理解しています。

下村小委員 そのシステムはよくわかるんですけれども、具体的に、そういうことがどういうことで想定されるのかということがちょっとよくわからない、イメージとして。それは何かありますか、具体的に。

井口参考人 それは、ひょっとしてこういう質問かと思うんですね。どういう問題が国民投票にふさわしいか、多分そういう質問だと思います。これも、実を言うと、こういう問題が国民投票にふさわしいということが事前に、アプリオリにわかるということでは、僕は全くないというふうに思っております。

 こういう議論があります。例えば、思想、信条にかかわるようなものは少数派の人権を制約する可能性があるから国民投票にかけるべきではない、こういう議論があります。しかし、先ほど言ったように、国民投票が必ずしも少数派にだめというふうに限らない、逆の機能も果たすわけですから。また、予算を伴うものは国民投票はだめだ、こういう議論もあります。しかし、それを貫いて絶対に予算、お金に絡むことはだめだということも僕は必ずしも言えないと思います。

 ですから、私自身も、具体的にこういうものが国民投票制にふさわしいというのは、事前に想定するのは非常に難しい、事前に持っているわけではないんです。恐らくそれは、こういうものはかけられるんだというのをだんだんと積み上げていくしかないんだというふうに思っています。

 先ほど一つだけ申し上げたのは、イラク特措法のような問題。ああいうものは僕はかけるべきである、またかける性質のものであるというふうに思っております。ただし、ここ何年かで、ではどういう問題をかければよかったのかとぱっと言えと言われると、まさにないんです。その点で、過大評価をしないというその意味もあります。地方で住民投票がなぜ行われるかというと、まさに住民にとってかけるにふさわしい問題がそこに存在するがゆえにかけているわけですね。

 そういう点で、今議員の御質問の回答になるかどうかわかりませんが、私自身がこういう具体的なものを国民投票にかけるべきだというのは、現状において持ち合わせておらないというのが本音のところでございます。

下村小委員 時間が参りました。ありがとうございました。

保岡小委員長 次に、小林憲司君。

小林(憲)小委員 民主党の小林憲司でございます。

 井口参考人におかれましては、大変長時間のきょうの質疑、大変御丁寧にお答えいただきまして、大変感謝をしております。

 本日は、直接民主制の諸制度について御質問をさせていただきますが、日本国憲法は、代表民主制を基調として直接民主制の技術を、先ほど参考人もおっしゃったように一部ずつ採用した半直接制の形態に属するものであるということが一般的な解釈となっていると思うんであります。

 しかしながら、各種団体、特殊業界、労働組合などの支援組織に支えられて当選してきている議員にとっては、これはなかなかバックアップしてくれた組織の意向に反した行動はとりがたい実情があると思うんですが、そうした実情を踏まえた場合に、アンシャンレジーム期のフランスのような命令的委任の関係に立つ純粋代表制というものが、まあそこまでは言わないにしても、選挙人の意思の忠実な反映を要請されるような半代表制の側面をこれは否定できない現実が今あると思うんですが、その辺の見解をぜひともお聞かせください。

井口参考人 いろいろな団体をバックに抱えていて、その意向を無視できないということだと思いますが、そのことと選挙人の意思は無視できないというのは、恐らくかなり距離のある話であるというふうに思います。

 まさに半代表制というのは、選挙人と被選挙人、つまり有権者と議員と言った方がいいかも知れませんが、有権者としての資格を持っている国民の意思を忠実に反映すべきということでございますので、むしろ、有権者としての資格ではない団体の意思とかそういうものをどういうふうに半代表制に取り入れるか。半代表制の意味を強調することによって、業界の利益をそのまま持ち込むという、むしろ半代表制の弊害、代表制の行き過ぎということも指摘されますので、先ほどの私の意見陳述に即して言うならば、逆に言うと、議員としての決断をそこから解放して、有権者としての国民にそういう決断をゆだねる、ある種団体からの拘束というものから議会の議員を解放する、そういう側面があるというのが私の理解です。国民投票によってそういうことがあり得る、そういうふうに理解しております。

小林(憲)小委員 大変有名なエドモンド・バークの、都市の名前は忘れましたが、いわゆるエドモンド・バークが当選したときに、私は大英帝国の国会議員であり、選挙区の国会議員ではないというような演説をしたという話があります。そこが議会政治の根本であり、私も先生の今おっしゃった意見に大変賛同をするわけでございますが、今なかなかその直接民主制というものの諸制度がない、整わない中で、非常に難しい状態になっているんだなと、私は感想としてあります。

 そんな中で、昨今、やはり憲法の改正についていろいろな問題が出てきているわけでございますが、一九四六年の十一月三日に公布されて翌年に施行されました。二年後には日本国憲法も還暦を迎えるわけでございますが、この間、我が国では憲法に一切手を加えないで来ました。もちろん、国民主権、平和主義、そして基本的人権といったすぐれた内容のものであったからこそ手を加える必要がなかったという面もございましたが、今、時代の変化に伴い、その必要性は、国民の大多数もそれを認めているような状態であると私は思います。

 しかしながら、明治憲法も現行憲法も一度も改正してこられなかったのはなぜだろうかというと、いわゆる市民革命によって市民がみずからつくった憲法ではなかったために、不磨の大典にしてしまったところがあるんではないかとも同時に思うわけでございますが、国民が主権者であることを市民革命によって確立した経験がなく、現行憲法によって初めて国民主権というものが国の原理とされた我が国が本当の国民主権の国になるためには、市民活動にかわる幅広い憲法制定活動が必要だと考えるわけでございます。

 国民一人一人が実質的な主権者として行動できる憲法をつくり上げるためのいわゆる創憲と言われる運動を展開する際に、現在の間接民主主義に加えて、国民投票や住民投票などの直接民主主義をどう認めていくかということが、この観点が極めて重要であるとお話を伺いながら思ったわけでございます。

 先生はレジュメの中で、直接民主制について憲法改正の呼び水にするのは問題外ですよというようなことをおっしゃっておられるわけですけれども、国民の意思が政治に反映しやすい制度改革を検討する過程において、どうしてもこれは避けては通れない大きなテーマではないかとも同時に思うわけでございますが、その辺の見解はいかがでしょうか、お答えください。

井口参考人 呼び水としてというのは、こういうおいしいのがあるから憲法改正という議論はすべきではないという、それだけの趣旨であって、歴史的な流れの中では明らかに直接民主制の方に傾いていっている、これは間違いないことですから、それを導入していくことについて、私はその方向で議論することは全くそのとおりであると思いますし、意義があることだろうと思っております。

 しかしながら、あくまでも過大な期待はしないことと、過大な恐怖を抱かない、その両方のことが必要だと思っております。それを踏まえて、導入する方向で議論するのは結構ですが、先ほども申し上げたように、どういう国民投票か、どういうシステムのものか。そして、むしろ、国民投票の問題はその国民投票自体にあるのではなくて、政党の役割であったり議会の審議能力の問題であったり、裁判所の違憲審査権の問題であったり、ほかのいろいろな、憲法の他の条項というか、他の制度とのかかわりの中で議論をすべきなのであって、国民投票で、皆さんも主権者です、意見が発表できますよという形での議論の仕方は非常に私は気にしております。ちょっと、御質問の答えになったかわかりませんけれども。

小林(憲)小委員 いずれにしても、今、私たちももう二十一世紀になって、非常に世界の情勢が変わる中で、私たちだけがずっと同じ憲法を持ち続けることは難しい状態になっていることは明らかでありますが、国民的な改革なしで今まで来た我が国において、国民が啓蒙されるといいますか、憲法というものについて理解を深めるためには、一つだけこれはということがあったら教えていただきたいと思うのでございます。

井口参考人 これはかなり誤解を招く表現をするかもしれませんが、私は、国民が啓蒙されるためには権力者たる者が憲法を守る、これが一番だというふうに思っております。憲法尊重擁護義務の規定を出すまでもなく、国会議員が、内閣が、何といっても憲法の理念を尊重する。そして、それを貫いた上で、現行憲法ではこれができない、これはどうしても必要であるということを投げかけた上でむしろ憲法改正論議というのはすべきであるというふうに私自身は思っております。

 以上です。

小林(憲)小委員 ありがとうございました。

保岡小委員長 次に、森岡正宏君。

森岡小委員 私は、自由民主党の森岡正宏でございます。

 きょうは、井口参考人、大変いいお話をありがとうございました。私は最後の質問者でございますので、もう少し御辛抱いただきたいと思います。

 昨年、中山太郎会長を団長とする本院の憲法調査議員団の米国に関する報告書というのがここにございますが、この中に、カリフォルニア州における直接民主制がもたらした弊害について、バリー・キーンという元州議会議員から聴取された記述がございます。

 その一部をちょっと御紹介させていただきますと、住民発案によっていろいろな厳しい制度変更が行われる。住民発案は非常に視野が狭く、それに伴う副作用や代償などを余り考えずになされる傾向があるとして、例えば予算に関する議決には三分の二以上の賛成を必要とされる。これは、議決要件を厳しくすることにより予算の節約をできるようにしようという住民の誤解のもとにされている。しかし、実際には、この厳しい議決要件のおかげで、犯罪の取り締まりの強化とか刑務所の増設など多額の支出を伴う施策がなかなか決まらないというデッドロックの状況に陥ってしまっている、こう書いてあります。

 直接民主制は歴史的な流れだと先ほど参考人もおっしゃいましたけれども、議会制度が破壊されるようなことがあってはならないと私は考えるわけでございますが、このようなカリフォルニア州で起こった議会の危機ともいうべき状況を、参考人はどんなふうに評価されますでしょうか。

井口参考人 今御指摘の点、レジュメにも書きましたように、まさに直接民主制の過剰の問題であると思っております。

 アメリカの例というのは、確かに僕もかなり問題があると思います。イニシアチブ産業があって、電話帳みたいなものがばんと送られてくるわけですね、今度住民投票にかける、だれも読まないような。そういう形で行われているということについて、かなり私自身も問題であると思っています。

 しかし、アメリカはそれでも何とかもっているのは、結局、住民投票を議会の破壊の危機だといいながら、それと両立できるような議会があり、裁判所がありという、その機能があるがゆえにバランスをとっている。そうであるがゆえに、日本で、それがないにもかかわらず、直接民主制をぽんと持ってくればいいというふうに過大な期待をすることは非常に危険であるというふうに私自身は思っております。お答えになっているかどうかわかりませんけれども。

森岡小委員 それじゃ、国内の問題を申し上げますが、今、全国あちこちで市町村合併が進んでいるんです。ところが、一方で、大変難航している地域があるというのも事実でございます。

 各市町村の首長でありますとか議員でありますとか地域代表などが加わって合併協議会というものを立ち上げまして、苦労しながら合意の道を求める努力がなされている一方で、その中で、例えば一つの自治体で住民請求が起こりまして、直接選挙によって合併の可否を問いますと、ほとんどノーという、私の地元奈良でございますが、奈良県なんかでも、ほとんどノーという結果が出て、その一つの自治体が抜けることによって全体の合併が御破算になるというような事態が多く見られるわけでございます。

 民主主義の本質というのは、全員一致の意思に到達させるために討論をやったり説得の努力をする、そういう過程が民主主義の本質のいいところだと私は思うんですけれども、ほとんど討論したり審議をしたりすることのない大勢の住民に突然イエスかノーかという問いかけをして、そして結論を求めるやり方は民主主義に反するんじゃないか、私はそんなふうに思うんです。

 住民の直接投票の結果がノーと出ると、首長とか議員が、たとえ自分たちの意思に反しておってもそれに従わざるを得ないというところがあちこちに見られるわけでございます。まさに地方自治制度を壊す結果となっておるわけでございまして、これは国内の問題でございますけれども、参考人の御意見をお聞かせいただきたいと思います。

井口参考人 審議を経ずして即座にイエスかノーか問う、これはシステムとして非常にまずいシステムであると思っています。先ほどアメリカの例も、イニシアチブでぽんと議会を経ずにやるのもまさにそのとおりなものですから、そういう側面、それは私も手続として問題があるというふうに思っております。

 ですから、それはシステムの問題ですね。どういうふうに住民投票にかけるか。審議をして、そして論点をはっきりさせて、合併したらこうなる、そうでなければこうなるというようなことを、争点を明確化してかけるという必要がある。そのためには、先ほども繰り返し申し上げますように、そういう住民投票と両立できるような強い代表制、議会制でなければ僕はいけないというふうに思っております。

 もう一点つけ加えさせていただきますと、合併のための住民投票というのは、実を言うと世界の歴史の中ではかなり逆なんですね。つまり、カナダのケベックとかイギリスでもスコットランドとかウェールズの自立性を認める。むしろ分権のためにやっているわけですよ。日本の場合、逆ですね。くっつけるための住民投票を今やっているという。実はあれは歴史的には逆ですよ。普通は、大きいところを分割するために、独立するところにかけるという住民投票のはずなのに、むしろ今はくっつけるための住民投票ですから、これは世界的に見ると、僕は歴史の逆の方向に実は行っている、そういうふうに思っています。それはちょっと御質問とは違うことかもしれませんけれども。

森岡小委員 質問を変えさせていただきます。

 先ほど来いろいろな方から、国民主権という、現憲法を見ての話でございますが、そういう話が出ておりますけれども、憲法改正のための手続の中で、我が国は超硬性憲法だ、こう言われておりますが、憲法改正のために国民投票をやる、これを憲法改正によって削除することができないという意見があるようでございます。私は、憲法改正というのも、物すごく大きな改正もあれば小さな改正もあると思うわけでございますが、国民主権の原理から見て、国民に憲法制定権があるんだから国民投票は廃止できないという考え方が正しいんだろうかどうだろうかと。参考人の御意見を聞かせてください。

井口参考人 これはあくまでも解釈論のレベルの私の個人的な見解ですが、国民主権の具体化として国民投票がある、それは間違いない事柄であると思いますが、しかしながら、だからといって、国民投票制をなくすというのが国民主権を否定することになるからそういう憲法改正は許されないというふうには私自身は理解しておりません。全く別の、さらに厳しい要件の憲法改正のあり方がもっとあり得るというふうに思っておりますが、しかしながら、憲法政策上の判断の問題として、国民投票をなくすという形の条項をつくることは必ずしも賛成できない。

 それは、一つは、日本の憲法文化と言っていいかもしれませんが、先ほど来指摘もありますように、明治憲法下の不磨の大典という、なるたけ憲法を動かさないというのが一つの日本的なあり方だと思いますので、むしろそこを緩めるような方向の改正規定をするのはおかしいというふうに思っております。

 と同時に、もう一つ、市民革命を経ていないから、そういう指摘も先ほどございましたが、同じように、むしろ、それに倣うのであれば、みずからの国民が判断した改正だからこそその憲法改正が国民のものになるというふうに理解するのであれば、やはり現在の憲法改正国民投票制は残すべきであるというふうに思っております。

森岡小委員 最後の質問にさせていただきますが、先ほど来、自衛隊のイラク派遣を直接投票にかけたらというようなお話が再三出ているわけでございますが、今参考人が考えておられるイシューとして、何かこういうものが、直接投票にかけられるんじゃないかというようなものがありましたら、聞かせてください。

井口参考人 憲法調査会でこういうことを言うのはなんなのかもしれませんが、非常にわかりやすいイシューで言ったら、僕は、諮問的国民投票制に憲法九条改正すべきかどうか、これをかけたらいいと思っております。

 そこでできた政治判断というのは、恐らく国会は尊重せざるを得ないでしょう。予測するのはよくないかもしれませんが、それでもって国民が改正すべきではないというふうに判断しているにもかかわらず憲法九条の改正に手をつけるということは、これは政治的には許されない、諮問的であってもそういう結論になるはずです。私自身はそう思っております。

森岡小委員 時間が参りました。ありがとうございました。

保岡小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 井口参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

    ―――――――――――――

保岡小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行いたいと存じます。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、自席から着席のまま、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。

船田小委員 自民党の船田元でございます。

 先ほども最初の質問に立たせていただきましたが、やはり代表民主制というものと直接民主制、そのせめぎ合いということ、その後の質問あるいは答弁の中でもいろいろ興味深く聞かせていただいたわけであります。

 やはり私はずっと御意見を聞いておりまして、日本国憲法、現行憲法はその両方の中間にある、こういう位置づけが最も妥当であろうというふうに感じております。ただし、直接民主制にかかわる部分というのはやや限定的であります。根幹の部分はやはり代表民主制の色合いが濃いということを私自身は認めざるを得ないと思っております。

 例えば一般的国民投票、これは私が質問したわけでありますが、法律や、あるいは条約の改正あるいは承認、そういったことを国民投票にかけるということを、いろいろな解釈によって現行憲法のもとでもできるのではないか、こういうお話も一部でございましたけれども、憲法四十一条、国権の最高機関、国会がそのように決められている、あるいは衆参両院の議決を経たものでなければ法律にならない、こういう規定をやはり考えますと、憲法改正をしないで一般的国民投票を行う、例えば拘束型にしてもあるいは諮問型にしても、これはなかなか難しい、無理があるのではないか。やはり明文の改正をしないと、この道は開けないのではないか、こう考えております。

 二番目に感じたことは、議会制民主主義、代表民主制の最たるものと感じておりますが、これはやはり近代国家において政治を遂行する意味においては極めてすぐれた装置であるというふうに私は理解をしてまいりました。しかし、この議会制民主主義というものが、例えばいろいろな政争が行われたり、あるいは常に政局で争っていたり、また人々の意見が十二分に国会、議会での議論の中で反映をしない、こういうことになると、やはり国民投票をしなさいという国民の側からの圧力が強まるということもこれは当然のことだろうと思っております。

 ですから、この限りにおいて、議会制民主主義と国民投票を初めとする直接制民主主義はトレードオフの関係、どちらかを立てればどちらかが立たない、こういう関係にはあると思っております。

 しかし、我が国の将来を考えると、もちろん、議会制民主主義をさらに深めていく、こういう我々の役割は非常に大きいと思っておりますが、やはり一部の分野におきましては、国民投票もより広く行われるようないわゆる役割分担、シェアリングということをある程度考えるべきではないか、また考えてもいいのではないかということも感じました。

 ただ、その方法としては、何でもかんでも国民投票にかけるというのではなくて、例えばフランスの事例のように、何をかけるかを決める、あるいは逆にイタリアのように、何をかけないかを決める、こういう限定的国民投票のあり方、それによる民主主義の一方の役割を分担させるということは、今後の知恵として、政治を行う、あるいは国として運営をしていく上の非常に大きな知恵ではないか、そんなふうに感じたわけであります。

 なお、国民投票については、例えば投票率が非常に低下をするとか、あるいはイニシアチブ産業というのがどうもアメリカにはあるようでございまして、国民の一般意思、これが少しねじ曲げてつくられ、あるいは世論がある特定の利益によってつくられる、こういった、この国民投票をある意味で食い物にするような、そういう傾向だけは、これは前例がヨーロッパ、アメリカにあるわけでございますので、こういう国民投票の一つの限界点、問題点、これについてはやはり我々の知恵で克服すべきであるし、克服できる、このように信じております。

 以上です。

山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。

 私は、きょうの参考人質疑を通じて感じた若干の点だけ発言したいと思うんです。

 一つは、直接民主制と代表民主制の問題なんですけれども、今発言ありましたように、日本国憲法の場合は代表民主制を基本に置きながら直接民主制を取り込んでいるわけですけれども、これはせめぎ合いというよりも、私は、国民主権の実質化を求めるという方向において両方が日本国憲法の場合は機能するようにつくられているというふうに、きょうも参考人のお話を聞きながら感じました。

 それからもう一点は、現行憲法下での可能性の問題として、住民投票の充実の問題ですとか、諮問的な国民投票制についての検討課題が提起されたんですけれども、これらについては憲法とのかかわりでどういうことが実際求められるのか、吟味が必要であるというふうに感じました。

 最後に、参考人が強調されました日本国憲法の理念の具体化の問題で、議員の場合は憲法を守ることを求めるという話もやや比喩的になされたわけですけれども、この分野でも、日本国憲法の理念の具体化という問題が提起されているんですから、やはり、憲法調査会としてもこの点の、それこそ調査検討が必要だな、そういうことを感じました。

中山会長 自民党の中山太郎です。

 きょうの参考人のお話を聞きながら、突っ込んだ話の出なかった、憲法改正の発議に対する国民投票の細目、あり方、これがきょう一切議論が出なかったのは残念だったと思います。

 主権者である国民の代表者たちが発議した場合に、それを国民投票にかけるといった場合の細目が法律的に決められていない。そうすると、結局、憲法改正の条項が九十六条にあっても、実施の方法というものが決められていないというのは、法治国家としておかしいんじゃないか、むしろ立法府の不作為行為ではなかったか、こう思うんです。

 将来、この憲法改正のための国民投票を法律で決める場合に、国の形を決める投票をやるわけですから、従来の公職選挙法違反で公民権が停止されておられる方にも、やはりこの投票に限っては認めるべきではないか、こういう意見を私は持っています。つまり、公民権が三年なら三年停止されておられる際に国民投票が実施されたときには、選挙違反等で公民権が停止された方にも、自分の住む国の形に対して自分の意思を発揮する機会というものは認めてあげたらどうかというふうな意見を持っています。

 以上です。

山口(富)小委員 会長から提起があった憲法改正の国民投票法についてだけ発言したいんですが、私は、これを立法不作為とは考えておりません。立法不作為というのは、国家賠償訴訟などに関連して、ある法律ができていないために主権者である国民が被害を受けるということになるわけですけれども、今日の場合、九十六条に基づく法律がないことで、憲法改正権が別に侵害を受けていないのですね。そういう状態のもとで、私は、これを立法不作為と見ることはできないと思っております。

 そして、現状でいえば、私たちは今、調査会自体としては憲法について広範かつ総合的に調査するということにはなっているわけですけれども、私は、現状において、あそこの九十六条にかかわる法律の具体化は求められていないと考えます。

中山会長 山口委員からの御発言ですけれども、あらゆる条項について調査を行っていくということが憲法調査会の目的である。それで、決議をするとかそういうことを私は申し上げているわけではないのです。どういう場合にどうあるべきかということを議論しておくのは、決してマイナスではないという認識を私自身は持っています。

大出小委員 民主党の大出彰でございます。

 この直接民主制のいわゆる国民投票制度を導入するかどうかというのは、昔からよくこれは悩んだんですが、いつもおられる大勲位の方がおられなくなりましたけれども、中曽根先生が昔、総理大臣公選制のときにこの国民投票という話が上がって、そのときにはかなり反対が強かったんですね。それは、先ほどから議論になっているプレビシット的だということで、多分そうだったと思うんですね。

 しかし、今、この国民投票ということが言われてくる中で、全体的に、先ほどから議論をやっているナシオン主権ではなくてプープル主権的に寄ってきているというのが一つありまして、それと同時に、現在の日本の民意の反映の仕方を見たときに、やはり少し問題があるんではないかというところで、国民投票ということになるんではないかと実は思っているんですね。

 というのは、一つには、衆議院の選び方が小選挙区制度なものですから、本来ならば、国民、つまり主権者という主権の意味が、国家意思の最終決定権が国民にあるんだということなわけですけれども、そうだとすると、その国民主権は、できる限り国民の意思を反映する制度を要求しているはずなんですね。ところが、確かに小選挙区制度プラス比例区があるから辛うじて違憲ではないとは思いますけれども、その部分でどうしても制約を受けているという、もう少し国民の意見を反映できる制度にすべきではないのかというのが一方に一つあります。

 それと同時に、では、選挙制度として、戸別訪問はだめだということになると、かなり制約をされている部分がありますね。さらには、一票の格差も今の制度だと直しようがないんですね、はっきり言いますと。小選挙区だと直しようがないということになっている。この部分が必ずしもしっかりと反映されていないんではないか。あるいは議会の中で多数派が強いものですから、法案はどんどん通ってくる。そうすると、私たちが意見を反映するには国民投票の方がいいんではないか、こういう形で今、議論が起きてきているんではないかと思っております。

 そして、昔は私もプレビシット的な感じを受けたものですから、それはしない方がいいんではないかと思いましたけれども、今のような状況になってきて、本当の意味で主権者の意思を反映させるというところを強調すれば、やはり国民投票制度ということの導入に傾いていくのではないかな、そんなふうに考えているところでございます。

 以上です。

船田小委員 今、大出委員からありました、首相公選制の非常に理路整然としたお話、ありがとうございました。

 実は、私自身も首相公選制を唱えたことがあります。確かに、歴史的に見ると、一九六〇年代、当時の憲法調査会で中曽根元総理が首相公選制を唱えていた、意図はまた別なところにあるのかもしれませんが、その当時、これはプレビシットの一つのあらわれではないかということで、マスコミなどでもいろいろ喧伝されたことがあった。そういう段階での議論というのは、確かにまだまだ難しかったんじゃないかというふうに私は思っています。

 ただ、やはり直接民主制に近い、プープル主義に近い方向にだんだん国の仕組みが、あるいはその傾向がなってきたという中では、もう一回改めて首相公選制というものを考えることは意味がある、また意義があるというふうに私は感じております。

 ただ、先ほどの小選挙区制度との絡みでの話ですが、私はちょっと異論があるといいますか、異にしている部分がございます。

 それは、やはり小選挙区制度は、政権を選ぶ選挙に近づいているという感じがいたしております。国民の意思を鏡のように非常に正確に反映する、少数意見も尊重するというのであれば、それは中選挙区であり、大選挙区であるべきだと思うんですが、あるいは比例代表であるべきだと思うんですが、小選挙区というのは、民意の反映ではなくて民意の集約であり、政権を選ぶ、二大政党にも絡む話ですが、そういう方向に近づいているということなので、その点だけは小選挙区制度の意義は大きく認めたいと私は思っています。

大出小委員 船田先生おっしゃったように、我が党も小選挙区制度に移行しようという要求があるわけでして、そのことを否定するわけじゃありませんが、国民の意思の反映ということを考えたときに、私たちは今、民意の集約の方をとっていますけれども、そうではない方向の方がやはり本当の意味の民主主義なんではないかなと考えたから言ったのでございます。

 以上です。

増子小委員 私は、代表民主制が基本であって、国家的な大きなことについては、やはり国民投票というものも取り入れるべきだと考えておるものであります。

 ただ、今私が大変心配しているのは、この代表民主制という今の、例えば日本の国政選挙においても極めて投票率が低いということを大変心配しているわけであります。やはり、衆議院選挙でもさきの選挙は六〇%、参議院選挙においては五〇%をちょっと上回るということ。有効投票数というものの観点からしても、やはりこの投票率と代表民主制、そして国民投票を考えたとき、先ほどの参考人の話にもございますとおり、やはり投票率が極めて少ないときに、それでもなおかつこの投票のことを有効にするかということをしっかり考えていかないと、国民投票はしたものの、やはりそれが果たして国民の意思をすべて代表するものかということになれば甚だ疑問ではないのだろうか。いわゆる代表民主制においても、やはり直接民主制の代表である国民投票においても、この投票率というものについての何らかのきちっとしたものを取りつけなければ、私はいかがなものかなという大変心配をいたしております。

 イタリアでは、レジュメに書いてありますとおり、有権者の過半数が投票することを有効性の要件とするとか、あるいはデンマークのように三〇%以上を否決の要件にするとかいろいろございますが、私どもがもし国民投票を取り入れるという形になっても、この有効性というものをどのように位置づけていくか、担保していくか、ここのところがちゃんとなされなければ、私は、国民投票をやったものの、必ずしもその民意が反映される、あるいは集約されるということにもなっていかないのではないだろうかというふうに心配をいたしているわけでございます。

 この辺は、もう少しこの小委員会でも徹底的に議論をしていく一つの要件かなというふうに考えているわけでございます。

山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。

 一点だけ補足させていただきたいんですが、先ほど中山会長の方から御発言がありましたけれども、きょうの参考人質疑の中で、九十六条が、その中身が具体的に問題にならなかったのは、参考人御自身がレジュメにも書かれたように、憲法改正が今求められている課題でなくて、憲法の理念の具体化が必要であるという立場で御報告されましたから、それに触れられなかったのだというふうに私は感じております。

保岡小委員長 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時二十二分散会


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