衆議院

メインへスキップ



第1号 平成16年2月19日(木曜日)

会議録本文へ
本小委員会は平成十六年一月二十二日(木曜日)憲法調査会において、設置することに決した。

一月二十二日

 本小委員は会長の指名で、次のとおり選任された。

      岩永 峯一君    衛藤征士郎君

      杉浦 正健君    永岡 洋治君

      二田 孝治君    古屋 圭司君

      森山 眞弓君    鹿野 道彦君

      木下  厚君    玄葉光一郎君

      鈴木 克昌君    辻   惠君

      斉藤 鉄夫君    山口 富男君

      土井たか子君

一月二十二日

 木下厚君が会長の指名で、小委員長に選任された。

平成十六年二月十九日(木曜日)

    午後二時三十四分開議

 出席小委員

   小委員長 木下  厚君

      岩永 峯一君    衛藤征士郎君

      永岡 洋治君    早川 忠孝君

      二田 孝治君    古屋 圭司君

      森山 眞弓君    鹿野 道彦君

      玄葉光一郎君    鈴木 克昌君

      辻   惠君    斉藤 鉄夫君

      山口 富男君    山本喜代宏君

    …………………………………

   憲法調査会会長      中山 太郎君

   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君

   参考人

   (立命館大学法学部教授) 市川 正人君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

二月十九日

 小委員杉浦正健君及び土井たか子君同日委員辞任につき、その補欠として早川忠孝君及び山本喜代宏君が会長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員早川忠孝君及び山本喜代宏君同日委員辞任につき、その補欠として杉浦正健君及び土井たか子君が会長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 統治機構のあり方に関する件(司法制度)


このページのトップに戻る

     ――――◇―――――

木下小委員長 これより会議を開きます。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 先般、小委員長に選任されました木下厚でございます。

 小委員の皆様の御協力をいただきまして、公正円満な運営に努めてまいりたいと存じますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。

 統治機構のあり方に関する件、特に司法制度について調査を進めます。

 本日は、参考人として立命館大学法学部教授市川正人君に御出席をいただいております。

 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、市川参考人から司法制度、特に国民の司法参加、利用しやすい司法制度等の司法制度改革について、御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答えいただきたいと思います。

 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、市川参考人、お願いいたします。

市川参考人 立命館大学の市川です。

 本日は、このような機会を与えていただき、大変光栄に存じます。

 さて、私は、日本国憲法における司法権のあり方につきまして、司法制度改革との関連でお話しさせていただきます。

 まず最初に、日本国憲法における司法権の位置づけと司法制度改革につきまして、ごく簡単に一般的なことを申し上げたいと思います。

 まず、日本国憲法は、権力分立制、三権分立制をとっており、司法権を最高裁判所を頂点とする裁判所に付与しております。この司法権は、一般的に、具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定し、解決する国家の作用であるというふうに理解されております。

 裁判所は、司法権を行使しまして、まず第一に、私的な紛争の解決を図り、権利侵害の救済に努めることを使命といたします。また、公正な手続のもとで適正かつ迅速に刑罰権を実現するものです。さらに、裁判所は行政事件の裁判権、違憲審査権も付与されており、国家行為の合憲性、合法性の統制を行うことも使命とします。憲法は、裁判所が、こうした使命を果たすことを通じて、司法制度改革審議会が言うように、まさに公共性の空間を支える柱としての役割を果たすことを期待しているのであります。

 ただ、私といたしましては、裁判所が公共性の空間を支える柱である、あるいは公益・公共性実現の役割を果たすといっても、それは裁判所らしい仕方でだということに注意する必要があるということを申し上げておきたいと思います。

 この点で注目されるのが、先ほどの司法権の定義のところで、具体的な争訟についてというふうに書いてある部分です。この部分は、具体的事件・争訟性の要件とか事件性の要件というふうに呼ばれております。日本国憲法はアメリカ型の司法権観念を受け入れたというふうにされておりますが、この事件性の要件はアメリカ型の司法権観念のまさにエッセンスとも言えるものであります。具体的事件・争訟とは、法的権利・利益に関する、相対立する当事者間での現実的かつ実質的な紛争、争訟のことであります。

 司法権の行使の対象がこうした具体的争訟・事件でなければならないのは、第一に、司法権の行使を明確に司法権行使が必要であると言える場合に限定することによって、権力分立原理を守り、政治部門との無用の対立を避けるためですが、また第二に、司法権の適切な行使のために必要な当事者と場を確保するためのものであります。必要な当事者という点では、対立する見解を強力に主張する、自己の利益を追求する当事者が得られるということがありますし、司法権行使にとっての適切な場という点では、具体的な事実状況というものがあって、そこで争点が鋭利に示されているということが意味しているというふうに考えられます。

 このように、裁判所に対して法律をめぐる具体的事実状況が提示されることが重視されているのは、法の意味は具体的な事実状況の中でこそ明らかになるというふうな理解があるというふうに考えられます。裁判所の法解釈が客観性を持ち得るとすれば、それは単に裁判官が法解釈の専門家であるというだけではなく、裁判官が裁判所に持ち込まれた具体的な事実状況に迫られ悩みつつ、法解釈として正当化できなければならない、そういう縛りの中で下したぎりぎりの判断である、こういう点に求められるというふうに考えます。

 あと、レジュメでは法の支配と法治主義という点を書きましたけれども、省略いたします。

 それで、日本国憲法は、裁判所、司法権についてこれまで述べてきましたような機能を果たすことを期待しているわけですけれども、日本国憲法は、裁判所がそうした期待にこたえ、本来の機能を果たすことを国民の権利として保障しております。すなわち、憲法三十二条の保障する「裁判を受ける権利」、憲法三十七条一項の保障する「公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利」の保障であります。

 この裁判を受ける権利は、通常、権利、自由が侵害されたと考える場合に、裁判所に訴訟を提起し裁判を求める権利である、及び裁判所の裁判によらなければ刑罰を科されない権利である、こういうふうに定義されておりまして、すなわち、民事事件の場合でいえば、裁判を拒絶されない、こういう権利であるというふうに伝統的に理解されてきたわけですけれども、一方で、伝統的な理解によりますと、裁判制度をどのように定めるかは基本的に立法サイドの問題であって、裁判制度のありよう、具体的な中身について、裁判を受ける権利が一定の要請をしているということはないというふうに伝統的に考えられてきたわけですけれども、そのように考えてしまうと、結局、裁判を受ける権利というものは、法律によって樹立された訴訟制度のもとで裁判を拒絶されない、そういうふうな権利にすぎないということになってしまいまして、このような考え方のもとでは、実際の訴訟制度が、国民が裁判を受けるということを実効的に保障しているかどうかという点は全く問題にならなくなってしまうわけです。

 最近では、このような伝統的な裁判を受ける権利の理解は問題であるというふうに考えて、単に既存の裁判制度を前提として裁判を拒絶されないというだけではなくて、国民が実効的な権利保護を受けるということを裁判を受ける権利は保障しているのである、裁判を受ける権利は、国民が裁判を利用することのできる事実上の前提を整備することまでも要求しているといったような見解が憲法学説あるいは民事訴訟法学説において最近では有力になっておりまして、私自身もそのような主張をしております。

 この裁判を受ける権利は、まず第一に、民事事件の場合でいえば、裁判所において適正な手続による裁判を受ける権利である、そして、この公正手続請求権としての裁判を受ける権利は、裁判所へのアクセスが実質的に保障されている、そういう保障を含むというふうに考えます。

 さらに、行政事件に関して言えば、これは単にその公正な手続のもとで裁判を受けることができればよいというだけではなくて、公権力による権利侵害に対して実効的救済を受ける権利という側面が裁判を受ける権利にはあり、この点がとりわけ行政事件訴訟に関しては問題になるというふうに私は主張しております。

 私は、実際の裁判制度や司法制度がこのように理解される裁判を受ける権利の保障の視点から常に問われなければならないと思いますけれども、それは、現実の裁判制度や司法制度が裁判を受ける権利を侵害していない、憲法違反ではないかどうかということだけを問題にするのではなく、これは、裁判を受ける権利を侵害しておらず、憲法違反でない、それで十分だというわけではなくて、裁判を受ける権利を保障する、そういう憲法の理念により適合しているかどうかという観点から現実の裁判制度、司法制度が検証されなければならないというふうに考えております。

 日本国憲法は、司法権に前述してきたような一定の仕方で公共性の空間を支える柱として活動するという役割を与え、国民にはそういうふうな裁判所が、司法権がそういう役割を果たすということを権利として要求できる、そういう裁判を受ける権利を認めているわけですけれども、日本国憲法は、司法権についてそのような形での定めを置き、また期待をしているわけですが、裁判所がこうした日本国憲法の期待に十分こたえてきたかという、この点につきましては、残念ながら十分こたえてきてはいないというのが衆目の一致するところであろうと思います。

 まず、司法権が機能するためには、裁判官だけでなく検察官や弁護士が必要ですけれども、こうした司法に携わる法曹の数が諸外国に比べて極端に少なく、小さい司法と呼ばれる状況にあります。このように、司法の容量が小さいことに加えて、国民から遠い利用しにくい存在であるため、紛争はなかなか司法の場に持ち込まれない。そこで、司法は本来扱うべき問題の二割程度しか処理できていないという、よく言われる二割司法、そういう指摘があります。

 さらに、行政機関の公権力の行使を争うための行政訴訟はどうかといいますと、これも行政権チェックの役割を十分果たしていないと言わざるを得ません。すなわち、行政訴訟の間口が非常に狭く、もともと件数も非常に少ないんですけれども、少ない行政事件訴訟の二〇%以上が原告適格等の訴訟要件を満たさないとして却下されておりますし、本案判断までたどり着いても、一審において裁判所が行政機関の行為を取り消すというような、一部であれ原告が勝訴する可能性はせいぜい一〇%台ということで、勝訴率も高くなく、裁判所は本案判断においても行政機関の裁量を広く認める傾向にあると言えます。

 そこで、企業も、行政機関による規制や行政指導にがんじがらめにされながらも、それを裁判で争うことはまれで、行政機関との持ちつ持たれつの関係、いわゆる護送船団方式を維持してきたというふうに言われているわけです。違憲審査制についても、最高裁判所は極端な司法消極主義の立場に立ってきたというふうに全体として見ると言わざるを得ないと思います。

 司法制度改革の取り組みがなされるに至った背景にはこのような我が国の司法の実情があり、さらに規制緩和、グローバライゼーションが進む中で、司法が憲法が期待している役割を果たすことが社会的に強く期待されるに至ったということがあろうかと思います。

 こうして、司法制度改革は、司法に日本国憲法が期待している機能を十分果たさせるような基盤の構築であるというふうに位置づけることができます。

 二〇〇一年六月の司法制度改革審議会の答申は、司法制度改革の三つの柱として、「国民の期待に応える司法制度の構築」、「司法制度を支える法曹の在り方」、「国民的基盤の確立」の三つを挙げております。

 この二つ目の「司法制度を支える法曹の在り方(人的基盤の拡充)」につきましては、さまざまなことがこの答申の中でも提案されておりましたが、質量ともに豊かな法曹を養成する、そのために、法曹養成に特化したプロフェッショナルスクールである法科大学院を中心とした法曹養成制度への転換ということがそこでの中心的な課題の一つでありました。確かに制度を幾ら変えても、その制度を動かす人の充実がなければ宝の持ちぐされになってしまうわけです。ですから、司法の人的基盤の拡充こそ司法制度改革の要諦であると考えますし、そういう観点から、この四月に開校いたします法科大学院の成否は、司法制度改革の成功にとって極めて重要であるというふうに考えております。

 私も立命館大学法科大学院の研究科長に就任する予定なのですけれども、他の法科大学院関係者ともども、そのような法科大学院の意義を踏まえ、法科大学院をぜひ成功させたいという決意でおります。ただ、本日は、このような司法の人的基盤の拡充の重要性を指摘するだけにとどめまして、他の二つの柱にかかわりましてお話をさせていただきたいと思います。

 次が、利用しやすい司法の実現ということですけれども、日本の司法制度は、高い、遅い、実効的な救済を得にくい、敷居が高いなどというふうにされておりまして、裁判へのアクセスの拡充策の推進が司法制度改革における重要な課題でありました。

 そして、この点に関しては、このところ、裁判へのアクセスの拡充を目指しての立法的な措置が進んでいることが注目されます。昨年には、簡易裁判所の管轄に属する民事訴訟事件の訴訟の目的の価額の引き上げ、提訴手数料の引き下げ、さらに裁判迅速化法の制定、あるいは計画審理の促進や訴え提起前の証拠収集手続の拡充等を内容とする民事訴訟法の改正がなされ、さらに、人事訴訟の家庭裁判所への移管などを内容とする人事訴訟法が制定されております。また、目下、全国どこでも国民が法的な救済を受けられるようにするということを目的とする司法ネットの整備であるとか、法律扶助制度の拡充、弁護士報酬の敗訴者負担制度の導入というものが議論されているところであります。

 このように、裁判へのアクセスの拡充を進めるための諸改革が、近時、急速に進められており、裁判を受ける権利は裁判へのアクセスの実質的な保障を含むという私の立場からすれば、こうした動きは裁判を受ける権利を実質的に保障しようとするものであると評価できます。こうした諸改革を進めるに当たっての関係者の努力、さらに立法機関である国会の積極的な姿勢には敬意を表したいと思います。

 ただ、裁判へのアクセス拡充のためとしてなされる措置が、真に裁判へのアクセスの拡充になるのか、慎重な見きわめが必要なことは確かでありまして、その典型例としては、弁護士報酬の敗訴者負担制度の導入などがあると思います。時間の関係で詳しくは申し上げられませんけれども、敗訴者負担制度も、これを導入することによって訴訟を起こしやすくなるというふうな場面もあれば、かえって訴えの提起を萎縮させる結果となるおそれもあるということで、この制度の導入に関しては、相当慎重な見きわめないし使い分けが必要ではないかというふうに考えます。

 また、私は、直接的な裁判へのアクセス拡充策だけでなく、民事裁判の審理の充実策をもここのところで取り上げたわけですけれども、それは、民事裁判の審理が充実し、使いやすい実効的な民事裁判となるということが、市民の裁判へのアクセスを促進するというふうに考えているからです。こうした観点からは、民事裁判の審理の充実、公平でかつ迅速な手続の確保がアクセス拡充のためにも必要だということにもなりますし、訴訟の遅延も裁判へのアクセス障害であり、訴訟の迅速化も裁判を受ける権利の要請であるというふうになるわけです。

 しかしまた、訴訟の迅速化だけが自己目的化し、手続の公正さ、公平さを損なうことがあれば、訴訟当事者の裁判を受ける権利の侵害とさえなってしまうわけでして、こういった訴訟の促進と手続保障との微妙なバランスへの配慮というものが不可欠であります。

 この点で、裁判迅速化法自身が、こういった手続の適正さの重視あるいは充実した審理ということを言っており、法律自身がこういう視点を確かに持っておりますので、この法律の運用に当たっては、その法律の趣旨に従って、先ほど申し上げたようなバランスを十分とる形で運用していただきたいというふうに思っております。

 そして次に、行政訴訟制度の改革でありますが、この行政訴訟制度の改革も、利用しやすい司法の実現あるいは国民の期待にこたえる司法の実現という課題の一つとして位置づけられます。

 行政訴訟をめぐる実情、貧困な実情があるわけですけれども、この主たる原因の一つが、行政事件訴訟法と裁判所によるその厳格な運用であったことは確かであります。この点については、レジュメにありますように、訴訟類型の狭さ、あるいは仮の権利保護制度の不十分性、あるいは訴訟要件が非常に厳しいこと、管轄裁判所の限定等さまざまな問題があるわけです。

 それに対して、司法制度改革審議会の答申が、「司法の行政に対するチェック機能を強化する方向で行政訴訟制度を見直すことは不可欠である。」としたのを受けて、司法制度改革推進本部の行政訴訟検討会において行政訴訟制度改革案が検討されてきており、本年一月には「行政訴訟制度の見直しのための考え方」が公表されているところであります。

 この「考え方」は、これもレジュメにありますような形で、かなり大幅な改正を行政事件訴訟法に対して加えるということを提起しておりまして、こういうふうに行政事件訴訟法の大幅な改正に向けて歩み出しているということは、公権力による権利侵害に対して実効的な救済を受ける権利が裁判を受ける権利に含まれるという先ほど申し上げましたような私の立場からすれば、高く評価されるべきものであります。

 ただ、この改革案を見ますと、まだまだ微温的なものであり、不徹底なところがあると考えます。ですから、実効的な権利の救済を受ける権利としての裁判を受ける権利の趣旨によりかなった改革ということがなされるべきではないかというふうに感じております。

 例えば、原告適格につきましても、この「考え方」は取り消し訴訟の原告適格の拡大をすべきであるというふうには言っているんですけれども、これはどのように拡大するかといいますと、原告適格についての定義そのものは変えない、「取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者」という定義自体は変えないけれども、原告適格が裁判所によって実質的に広く認められるために必要な考慮事項を書こうというふうに言っているにすぎないわけです。これは、そこに挙がっている考慮事項は、基本的に最高裁判決が現行法の解釈に当たって挙げている考慮事項と同様であって、この提案は、結局、現在の判例の立場を法定する、そういうふうなものであります。しかし、それでは基本的に原告適格の範囲を現在よりも抜本的に広げていくということにはならないわけです。

 最初に私が申し上げましたように裁判に適した場というものが必要なわけでして、そうした裁判に適した場を確保するということは不可欠なことである。この点で、アメリカの場合には、個人的な利害関係や事実上の損害というものが不可欠であるというふうに考えられているということが参考になりますが、こういうふうに裁判に適した場というものを確保する必要はありますけれども、それが確保できれば、実効的救済の確保という視点から、原告適格をより拡大していく、そういうふうな検討がなされるべきであるというふうに考えます。

 いずれにせよ、今後、行政事件訴訟法改正法案がまとめられ、国会で審議されることになるわけですけれども、ぜひ、実効的な救済を受ける権利としての裁判を受ける権利、その保障を強化していくために大胆な制度改革を実現する、そういう方向で検討、審議されていくということを期待しております。

 そして、最後の論点、柱が、司法への国民の参加であります。

 司法への国民の参加につきましては、裁判員制度との関連でお話しさせていただきます。

 司法制度改革審議会の答申は、司法の国民的基盤を確立するために国民の司法への参加を進めるべきであるとして、司法参加の柱として裁判員制度の導入を提言したわけですが、確かに、司法への国民参加には、裁判への国民の意識や常識の反映、わかりやすい裁判の実現、司法に対する国民からの幅広い支持と理解の獲得、国民の統治主体意識の醸成、司法に対する国民の関心、理解の涵養、そういった意義があることは確かであります。ですから、私も、司法への国民参加を進めるということに、それ自身には基本的に異論はありません。

 ただ、国民主権の日本国憲法のもとでは司法への国民参加が当然に求められる、こういう主張に対しては少し留保が必要であるというふうに考えております。

 といいますのも、裁判所は、日本国憲法のもとでは、個々の司法権行使について直接的に民主的コントロールを受ける存在ではありません。身分保障を受けた裁判官が独立して憲法と法律のみに従って裁判を行うものとされております。裁判所に対する民主的なコントロールの手段としては、内閣による裁判官の任命、最高裁裁判官に対する国民審査があるにとどまります。

 このように裁判所は、民主的な正統性が低い国家機関であり、直接的な民主的コントロールを受けないという点では、非民主的な性格を有します。その意味で、非民主的、括弧が私の原稿ではついているわけですけれども、この非民主的機関である裁判所は、その時々の政治的多数派ないし政治部門の判断、さらには世論に法的には拘束されず、憲法と法律にのみ従い、公正な手続に従って判断を下さなければなりません。そうでなければ、法の運用は恣意に流れて、市民、とりわけ少数者の人権が損なわれることになってしまうでしょう。

 しかしまた、憲法にせよ法律にせよ、民主主義の所産であり、政治的多数者の意思決定の所産でありますし、しかも、財布も剣もない裁判所としては、国民の法意識、法的確信から乖離した法解釈をすることはできません。この意味で、裁判への国民の意識、常識の反映が不可避なことは確かですが、当然、公平な手続に従って法を適用するという裁判の性格をゆがめない限りでという限定が付されなければならないというふうに考えます。

 そこで、次に、裁判員制度の意義と課題、それから裁判員制度の合憲性についてお話をしたいのですが、レジュメとは順番を逆にしまして、裁判員制度の合憲性の話から入りたいと思います。

 裁判員制度につきましても、司法制度改革推進本部の裁判員制度・刑事検討会で検討が進められ、本年一月に「裁判員制度の概要について(骨格案)」が公表されております。それによれば、裁判体は原則として裁判官三名と裁判員六名の計九名で構成されるものとされ、裁判員は重大刑事事件について有罪無罪の決定と刑の量定にかかわり、有罪無罪の決定と刑の量定については、裁判官と裁判員の合議体の員数の過半数による、ただし、裁判官、裁判員各一名以上が多数派に属していなきゃいけないということになっております。

 さらに、先般、裁判員制度に関する与党プロジェクトチームの案も、ほぼ同様の案がまとめられているところであります。

 この裁判員制度と憲法との関係ですけれども、これについては、学説上、従来それほど詰められてきてはいないというふうに言わざるを得ません。

 市民が裁判所の決定に関与する典型的な方式には、比較法的に見ますと陪審制と参審制とがありますが、戦前、我が国が短期間とはいえ陪審制を運用していたという経緯もあって、陪審制の合憲性につきましてはそれなりの議論がなされてきました。

 そして、多数説は、陪審の評決が裁判官を拘束しないような陪審制であれば憲法違反ではないと。すなわち、憲法七十六条一項が司法権を裁判所に帰属させていることや、七十六条三項が裁判官の職権の行使、独立を認めているということに反さず、また、憲法三十二条や三十七条の裁判を受ける権利を侵害するものではないというふうに多数説は言ってきた。すなわち、憲法学説の伝統的な多数説によりますと、陪審の評決が裁判官を拘束してはいけない、戦前の陪審制のように、陪審の評決が裁判官を拘束しなければ日本国憲法のもとでも許されると。

 これが伝統的な多数説ですけれども、それに対して一部の学説は、日本国憲法の司法権がアメリカ型の司法権であるというのであれば、完全なアメリカ型の陪審制も日本国憲法上許され得るのではないかという問題提起を一部の学説はしてきました。

 この説においては、裁判というものは狭義の法の解釈と事実認定とから成り、憲法は、裁判所が事実認定権限を完全に握っていることまでは要求していない、陪審による事実認定が適正なものとなるよう裁判官がある種の役割を果たすようにするなどの一定の条件のもとでは、陪審の評決が裁判官を拘束することを認める、それも憲法上許されるというふうに一部の説は言ってきたわけです。

 この説によりますと、裁判官が狭義の法の解釈権限を握っていることは不可欠であるけれども、事実認定権限については裁判所が完全な決定権限を握っていなくてもよいと。ただし、陪審の事実認定が裁判官を拘束するという場合は、陪審による事実認定が恣意的なものにならないよう裁判官が役割を果たす、そういうことが必要であるというふうにこの少数説は述べておりまして、私もこの少数有力説の立場を支持したいというふうに思っております。

 他方、参審制、法の素人である一般市民が裁判官とともに裁判体を構成するというこの参審制につきましては、従来、その合憲性が本格的に検討されたことはありませんでした。ただ、伝統的な理解によれば、裁判所は裁判官のみによって構成されなければならない、その裁判官というのは、憲法七十八条で身分保障を受けている裁判官であって、憲法七十九条、八十条で任命手続と任期を定められている最高裁判所裁判官と下級裁判所裁判官である、さらに、裁判を受ける権利というのは法の定める裁判官による裁判を受ける権利であると。これが伝統的な理解である。

 こういう伝統的な理解からすると、参審制は日本国憲法上は許されないということにならざるを得ないわけでして、どうも伝統的にはそう詰められた議論はなされてこなかったわけですけれども、参審制は日本国憲法上許されないのではないかというのが、必ずしも十分な議論を踏まえたものではないわけですけれども、一般的な理解ではなかったかというふうに考えます。

 しかし、裁判員制度は、裁判員を事件ごとに選任するという点では陪審制に類似していますが、裁判員が裁判官と一緒に裁判体を構成するという点では基本的に参審制の一種ですので、そうすると、伝統的な考え方からすると、この裁判員制度の合憲性というものが問題にされざるを得ないということで、裁判員制度の合憲性が真剣に論証される必要があるわけです。

 私自身は、結論からいいますと、裁判員制度は基本的に日本国憲法のもとでも許されるというふうに考えております。

 まず、日本国憲法は、この参審制なり裁判員制を明文で禁止してはいません。こうした制度については憲法上認める明文が必要であるという主張もありますけれども、比較憲法的に見ても、憲法上明文規定がないのに参審制を採用している国もありますので、日本国憲法のもとでも、解釈上許されれば市民を司法に参加させる制度は可能であろうというふうに考えます。

 憲法七十六条一項と八十条ですけれども、ここから、必ずしも、下級裁判所における裁判体が憲法八十条の言う裁判官によってのみ構成されると解さなければならないわけでもありません。裁判官が裁判体の構成の全部であることも一部であることも許容している。まあ不可欠の部分であり中核部分であるということはあるんでしょうけれども、裁判官以外の者と裁判官とで裁判体を構成するということを否定しているとは必ずしも読めない。

 さらに、現在の骨格案によりますと、事実認定と量刑については全体の多数決によるが、裁判官、裁判員それぞれ一名は多数派に属していなければならないというふうにされていますので、裁判官の中での多数派の二名が全体の多数決では少数派になって多数決に破れるというふうになることもあり得ます。

 そうすると、裁判官がその事実認定や量刑について裁判員の判断に拘束されるということになって、七十六条三項の職権行使の独立に反しないかという問題が出てくるわけですけれども、しかし、現在の場合でも、合議体を構成する裁判官のうち、合議体での多数決に破れた裁判官は多数派に従わなくてはならない、このことが憲法七十六条三項違反には別にならないというふうに解されていますので、裁判官の職権行使の独立といっても、裁判制度を維持運営していく上で必要な制限は認めざるを得ないということになります。ですから結局、問題は、裁判員と裁判官とで裁判体を形成し、事実認定、量刑についての判断をともに行うという制度自体の合理性、許容性ということが問題になるわけです。

 そして、私は、裁判官が狭義の法解釈について専権を有しているということは不可欠であるというふうに考えますが、それ以外の点についてまで専権を有しなければならないとは考えておりません。ですから、私の立場では、事実認定と量刑について裁判官と裁判員とで共同で決定するという提案されているような制度も許されると考えます。ただし、これは陪審の場合と同様に、裁判員と裁判官との共同でなされる事実認定、量刑についてのその判断が適正になされるような仕組みが、あるいは保障がなければいけないと考えます。

 私は、裁判を受ける権利は、必ずしも裁判官による裁判を受ける権利ではないと考えますが、恣意的な事実認定、量刑がなされ得るような裁判の仕組みであれば、公平な刑事裁判を受ける権利の侵害になると言わざるを得ないと考えます。

 私は、このように裁判員制度は、基本的には日本国憲法上許されると解しますが、裁判員制度の具体的なありようが、公平な刑事裁判を受ける権利を侵害しないように、あるいは公平な刑事裁判を受ける権利の保障を促進するように決められなければならないと思います。

 最後に、この裁判員制度の意義と課題ですけれども、これに対しては二つの見方がありまして、日本の刑事訴訟の現状が根本的に変わっていく、そういうふうな起爆剤になるという見方もあれば、これは重罰化の、安易に厳罰が科される、厳罰を科すような有罪判決が安易に下される、そのための促進、触媒、あるいはイチジクの葉として裁判員制度というのは使われてしまうんじゃないかという、全く二つの相反する見方があります。

 私自身は、この二つの見方も一理はあるというふうに思います。これはやはり、どのような条件を整えるか、あるいはどのような裁判員制度にするのかということ次第では、非常にうまくいく可能性もあれば、非常に悲惨な結果を招く可能性もあるというふうに考えておりまして、その意味で、裁判員制度の導入というのは、いわばハイリスク・ハイリターンの改革であるというふうに考えます。ですから、具体的な裁判員制度をどう構築するか、また裁判員制度のもとで行われる刑事訴訟のあり方をどうするか、裁判員制度を支える基盤をどのように形成するかが決定的に重要であるというふうに考えます。

 特に重要な点は、集中して審理が行われる。裁判員を何日も拘束できませんので、集中して短期間に公判が行われるということになりますので、そこですべて勝負がついてしまう。ということになりますと、弁護側がそういう短い期間でいかに対等な立場で闘うことができるのかということが問題になりまして、弁護側が対等な立場でその短期間で闘うことができるような仕組み、具体的には、取り調べの可視化の問題であるとか検察側手持ち証拠の開示の問題、こういう点についての整備がぜひ進められる必要があるというふうに考えます。

 それから、最後に違憲審査制の活性化という点について一言だけ申し上げて、私の話を終わらせていただきたいと思います。

 憲法改正をめぐる議論の中では、憲法裁判所をつくったらどうかという意見もありまして、現在の日本国憲法のもとでの付随的違憲審査制が、特に最高裁による違憲審査権の行使が司法消極主義の実情である。それを根本的に変えるということをねらって、憲法裁判所を導入してはどうかという意見があるわけですけれども、これこそまさにハイリスク・ハイリターンの改革構想でありまして、憲法裁判所がうまくいくかどうかということについては、これは、どのような基盤が必要なのか、そして日本にそういう基盤が今あるのか、それをつくるのにはどうしたらいいのかという点についてより慎重な検討が必要であろうというふうに私は考えております。

 ですから、私は、差し当たりは、付随的違憲審査制の意義を生かした形での制度改革をまずやるということを考えた方が当面はいいのではないかというふうに思っておりますし、きょう申し上げたような司法制度改革全般の動きが、付随的違憲審査制というのはそういう司法権の通常の行使の上に乗っておりますので、この司法制度改革全般が結局は付随的違憲審査制を活性化させるというふうな基盤の醸成になると思うんです。そういう点を最後に申し上げたいというふうに考えております。

 少し時間を超過いたしましたが、これで私の発言とさせていただきます。どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)

木下小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

木下小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。二田孝治君。

二田小委員 先生、いろいろな御高説、どうもありがとうございました。

 憲法三十二条で国民の裁判を受ける権利を規定しております。これは一つには、私人間の争いを迅速に公平に処理するという建前である。それからもう一つは、やはりどういいましても、公権力に対して国民がどういうような手だてをとって裁判に持ち込むか、その権利を保障したものである、こう思います。

 でございますので、この実効をいかに担保されるかということがやはり一つ国民の権利として大変大事な問題じゃないかなと思うわけでございます。

 私どもは、憲法を習いましたときに、憲法の規定の中には多くプログラム規定も含まれております。そして、それが実際に法律になり、そして生きたものになり、国民に活用されるということが大変大事なことでございます。

 国民の裁判を受ける権利、これは三十二条に規定されておるわけでございますけれども、これは実際的にどういうふうに担保されているかということをちょっと考えてみますると、この先生の論文も読ませていただきましたけれども、大変やはり困難な問題がございます。

 一つには、訴訟費用の問題がございますね。これをどういうふうに処理していくかということが大変大事な問題でございますので、一千万に対する費用、まあこれぐらいは、四、五万はどうにかなるかもわかりませんけれども、一億、二億になっていると非常に大きな費用が要求されてくる。だから、こういったものをどういうふうに担保されていくというふうに先生はお考えになるのかということが一つでございます。

 あと一つは、司法人員の問題がございますね。弁護士の数、裁判員の数、こういったものが我が国では極端に不足しているのじゃないのかな、こう思うわけでございます。

 ということは、これは法曹の数を見てみましても、大体人口十万人当たりで我が国は十五・六人でございます。アメリカを見てみますると三百六十三人、約二十五倍ぐらいの弁護士数がおる。そしてまた、イギリスでも百五十八人ぐらいでございますね。それからドイツにおいても百三十五人、フランスでも六十一人でございます。こういうふうに司法に携わる数が非常に少ない。

 したがって、法科大学院という一つの制度を設けまして、司法人口をふやすということになるわけでございましょうけれども、私の周りを見ましても、弁護士さんをやっている方は、非常にこの国会議員の中にも多うございますけれども、頭がよくて、大変すばらしい、司法試験を通ってきた方だという観念がございますので、この質の問題が今後どう変換していくかという問題点があるのじゃないのか。

 この辺の教育の、そしてまた弁護士の養成、司法人に対する養成の担保というものはいかに行われていくかという問題点があるのではないかな、こう思っております。

 何と言いましても、あともう一つの問題は、私ども、今先生のお話をお聞きしておりましても、行政裁判、行政に対する、公権力に対する一つの、異議の申し立てとか不服の申し立てというのが、やはり国民にとっては非常にこれは大事なことだと思いますので、もうちょっと簡易なやり方とか、何と申しましょうか、もうちょっと迅速に、早く、明確に行われるというようなことも大変また必要な一つの法改正じゃないかと思いますので、この辺についてもうちょっと詳しくお話しいただけると幸甚に存ずる次第でございます。

 一人の持ち時間が大体五分間ぐらいで限られておりますので、まだまだ議論もいたしたいところがあるわけでございますけれども、以上三点ばかりについて、先生のちょっとお考えをお聞かせいただきたいと思います。

市川参考人 最初の点なんですけれども、司法制度改革を進めていくということになれば、そして司法を充実していく、審理を充実し、あるいは国民がより利用しやすいような整備をしていくということになれば、それなりのお金がかかるはずであって、そういう費用はどうしたらいいのかという御質問だというふうに承ったわけですけれども、この点につきましては、まず、そういう予算の問題を考えること自身がまさに国会の仕事であって、内閣、そして最終的には国会が考えていただく、そういう政治部門の基本的に責任の問題であるというふうに考えます。

 そして、その予算については、まず予算を編成する内閣に裁量があるということも私はわかっているわけですけれども、一方で、実際の現在の司法にかけてきたお金、予算というものが、各国と比べて、いわゆる先進国といいますか、あるいは立憲民主主義的な国家の中で、司法にかける予算はどうかということを見ると、これが非常にほかの国と比べると少ないという現実があるということは確かであります。ですから、欧米並みにそういう司法制度を充実させていけば当然お金の問題もかかってくるということは確かなんですけれども、ただ、現状が余りにも貧困であるということになって、それを改革していくということになれば、当然お金がかかってくるということはやむを得ないし、そこの知恵を絞るのが政治部門の仕事であるというふうに私は考えます。

 ただ、これが余りにも現状が貧困であり過ぎれば、ないそでは振れないから我慢してくれとは言えなくて、これは憲法違反になってしまうわけでして、そこのところは知恵を絞るというか、以前の問題なんですけれども、それをクリアした場合に、私が申し上げたように、裁判を受ける権利をより保障を充実させていく、そういう観点から考えるべきだというふうに申し上げたんですけれども、そういう際に、やはり予算の問題も勘案しながらやっていかざるを得ない、全体のいろいろなやりくりの問題も考えざるを得ない。

 例えば、今論点になっていますのが、司法修習生に対する、給費制か貸与制かという問題ありますけれども、そういうようなさまざまな点も考えざるを得なくなるということだろうと思います。

 二つ目の法曹の数をふやしていく、その質をどうするか、そういうお尋ねなんですけれども、法科大学院は、理念といたしましては、単に数をふやすだけではなくて質の高い法曹をたくさん生み出していく、そういう課題にこたえるためにつくられているのが法科大学院であるというふうに考えておりまして、実際に質といった場合に、一つには、考える力、法を使って現実に立ち向かい考えていく力、これを持っているということが法曹としては不可欠の条件でありまして、これが現在の司法試験制度のもとでそういう力をはかるということがうまくいっているのかどうか、こういう問題意識があったと思うんですね。

 私自身、司法試験の考査委員をやっておりますけれども、これはだれもが言うように、答案はほとんど切り張り答案であって、こちらが手を変え品を変え考える力を見るような問題を出しても、それに対しては、判でついたような形で、予備校の模範答案を切り張りしたような答案しか返ってこない。果たしてこういう状況の中で本当に法的に考える力を持った法曹を生み出せるのか、こういう問題意識があったんだろうと思います。

 ですから、法科大学院は、一つには、実際の事例を使いながら、あるいは問答を中心としながら、考える力をいかにつくっていくか、養成していくかということが課題でありますし、さらに法曹の数が多くなってまいりますと法曹としての専門性を身につけることが必要である。これも、現在のような司法試験制度ですと六法科目しか勉強していないという状況にありますので、法科大学院においては、専門科目もかなり重視するというふうに全体のシステムができておりまして、法曹としての専門的な力量も備えてもらう、こういうふうな人材を法科大学院としては送り出したいというふうに考えております。

 三つ目の簡易な救済手段ということですが、これは行政機関による権利侵害に限ってのお話でしょうか。あるいは全体的な……。

二田小委員 殊に、公権力による私権に対する侵害、そういったものについて日本では非常に救済しづらい、こういう面がありますので、そういったものはもっと簡易にできないのか。例えば価額にして一億五千万ぐらいのものが起きてきたならば、さっきの費用にもかかわるんですけれども、時間が来ましたからもう簡単に聞きますけれども、そういったものをどうしていくのかという、これこそが三十二条の一つの大きな立法の趣旨だと思うんですよ。

市川参考人 基本的には、最終的な救済手段として行政裁判制度がしっかりなければいけない、それで、それ自身の迅速な処理がなされるようにしなきゃいけないというのは基本ですけれども、その前の段階の、何か簡易な救済制度をつくるというようなことは十分、現在でも行政不服申し立ての制度があるんですけれども、これをより充実させるとか、あるいはほかの第三者的な機関をつくるとか、さまざまなことは考えられようというふうに思います。

二田小委員 時間が来ましたので、以上にしておきたいと思います。

木下小委員長 次に、辻惠君。

辻小委員 民主党の辻惠でございます。

 私は、時間の関係もありますので、裁判員制度に絞って御質問をさせていただきたいと思います。

 参考人も述べておられるように、まさにこの制度は、革命的な転換の起爆剤になるのか、それとも重罰化のイチジクの葉に帰してしまうのか、非常に重大な問題であるというふうに考えております。

 この問題を考える場合に、まず前提として、国民の司法参加という利益と、他方で国民の裁判を受ける権利という、この二つの要請をどのように考えるべきなのか。私は、参考人もおっしゃられるように、公権力による権利侵害に対して実質的権利救済を受ける権利、裁判を受ける権利というものを優先的にやはり考えるべきであろう、同等に考えるべき質のものではないというふうに考えます。

 そこで、お手元にもありますけれども、裁判員制度をめぐる骨格案を見ましたときに、第一回の公判日前に準備手続を開くことが義務的になっていて、そこで争点整理が行われる。裁判官、検察官、被告人、弁護人がそこに出廷して争点整理がなされる。そして、争点整理が終わった段階で裁判が開かれて、できるだけ連日審理で、戦前の陪審法では一・七日が平均である、それに近い短期間で審理を終えるべきだ、このようにどうも予定されているようであります。そして、準備手続の間に予定の主張を、検事側だけではなくて、弁護側も全部主張を述べて明らかにしなければいけない。そして、準備手続が終了した後は新たな証拠調べ請求はできないんだ、これを原則にするんだ、このように骨格案ではなっております。

 そこで、まず質問させていただきたいのは、今の裁判は、被告人は無罪と推定されるということが原則になっております。無罪の推定の制度的保障は、まず検察官側が合理的な疑いを入れない程度に被告人の有罪を立証しなければならない、もしそこで検察官側が立証ができなければ、弁護側が反証するまでもなく、その被告人は無罪とされなければいけない、これが原則だと思います。

 裁判員制度は、そういう今の無罪の推定の制度的保障である、まず検事側立証を遂げなければいけないということをなくしてしまう。第一回の公判前に弁護側もすべての証拠の予定を明らかにしなければいけない。この点は、無罪の推定原則をむしろ弱める結果になるのではないかと考えますが、この点についてはいかがでしょうか。

市川参考人 それでは……

木下小委員長 発言は小委員長の許可を得てからお願いします。

市川参考人 済みません。失礼しました。はい。よろしいですか。

 今の点についてお答えをいたしますが、お尋ねの件は、準備手続でこういう証拠調べをする、こういう論点を挙げるということを言ったことしか、弁護側がその後ができない、これはおかしいんじゃないのかということで、私も基本的には同感であります。

 確かに、裁判員と裁判官とで同じ合議体をとれば、連日開廷して短期間に終わらなきゃいけませんので、そこで新しいものを何か出すということになると、連日開廷で短期間に終わるというものが十分成り立たない。あるいは、では逆に、検察官の側がそれに対して反論できるのか、そういう機会がどうなるのかとかいう、そういう基本的な構造があるんだろうと思います。

 ですが、そういうふうな構造はある、そういう制約のもとで、どのようにして弁護側ができるだけ対等な立場に立って検察官と争うことができるのかという観点からやはり制度設計はなされるべきだということで、結論としては、例外的な形で、新しいものを何か打ち出すということが認められるような何らかの仕組みを考えていくべきじゃないかというふうに思います。

辻小委員 冤罪事件でつとに有名な松川裁判なんかを見ますと、結局諏訪メモというのが最後に出てきて、それで死刑判決が覆ったということがあると思います。そういう意味におきまして、準備手続の中ですべて証拠を出さなければ、後は原則として認めないというのは、非常に問題があるのではないかというふうに考えているということを述べさせていただきたいと思います。

 次に、戦後の刑事訴訟法というのは、戦前の予審制度を廃止することが必要である、つまり、密室において裁判官のもとで証拠の整理をし、予審制度のもとでは証拠調べも行った、そこでほとんどの心証が形成されてしまって、裁判が開かれるときには大体もう心証が決まっていた、したがって、現実に開かれる裁判は形骸化したものである、これではいけないということで戦後の刑事訴訟法の改正があったと私は理解しております。刑事訴訟法の二百五十六条で、起訴状一本主義をとり、予断排除の原則をとっているというのは、まさにその趣旨であります。

 その観点で言ったときに、この裁判員制度というのは、裁判官が、戦前は予審判事と実際の判事がかわりました、証拠調べは予審判事の段階でした、現在の裁判制度では、準備手続、証拠調べまではしない、そこの違いがありますけれども、例えば否認事件であれば、六カ月なり一年間なり時間をかけて、裁判官と検察官と弁護人のもとで、証拠の構造、検事側、弁護側の証拠を全部整理して、予定をして、そしてA証人、B証人、C証人を調べようということで二日間審理が開かれる、そこで初めて裁判員が参加をして、そこで二日間、三日間で評決をしてしまう。これは、ある意味では戦前の予審裁判の復活ではないかというふうに私は危惧を持つのでありますが、その点はいかがでしょうか。

市川参考人 おっしゃられることは理解できますけれども、しかし、予審裁判とはやはり違うであろう。

 それで、公判までの段階で準備手続に裁判官が関与して、そこで争点の整理を行って、そして公判に持ってきて一緒に裁判員と審理をして判断をする、そういう流れで見ますと、予審制度のようなものとはやはり違うというふうに考えますし、そういう準備手続の段階で裁判官が関与しているから、そういう裁判官がそのまま継続しているということになると公平な刑事裁判を受ける権利を侵害するということには直ちにはならないというふうに考えます。

辻小委員 では次に、裁判員が参加をして自由に評決ができるかというこの点ですね。これが、革命的な転換の起爆剤か重罰化のイチジクの葉かという、ここにかかってくることになると思うんですね。

 否認事件なりで、六カ月なり一年なり、裁判官と検察官と弁護人、そして被告人のもとで準備手続が遂げられて、証拠調べまではしない、しかし、実質的には心証が形成されると私は思うわけです。その上で公開の法廷を開いて、直接主義、口頭主義で、二日、三日、四日、証人尋問が行われた、そして評決に入る。

 現在の合議体の裁判官、キャリア裁判官でも、裁判長の意見になかなか、右陪席、左陪席、否やを言えないという状況にある。それが、六カ月、一年、キャリア裁判官のもとで準備手続が行われて、わずか二日、三日、裁判員が参加をして、裁判員の数が多かったからといって、それで説得力のある評決、評決に裁判員が影響を及ぼすことがあり得るのだろうか、根本的な疑問がありますが、この点についてはいかがでしょうか。

市川参考人 これもおっしゃることはよくわかりますけれども、しかし、裁判官としては、裁判員を説得できるような議論をしなきゃいけないので、ちゃんと一般市民の方たちを説得できる議論がまず裁判官に展開できるのかどうかというところが一つ問題になる、ネックになってくるだろうと思います。

 それから、それと関係しますが、やはり六人になった、三、六になっているという点は、今おっしゃられたような点からすると前進ではないかなと思います。やはり裁判官の過度な影響が及ばないかどうかということを考えた場合に、裁判員の数が多い、説得の対象が多い、六人もいればいろいろな人がいるわけでして、そういう人を説得する議論を裁判官自身がしなきゃいけないということが、裁判員制度が形骸化しないために一つ必要であろうと思います。

 他方で、合議体を組んで議論をしていくためには、そういうことができるような一定の規模というものの限界があるんじゃないかというふうに考えます。ですから、そういう意味では、三、六というのはまずまずの落としどころになっているんじゃないかというふうに考えます。

辻小委員 では、最後に一点だけやります。

木下小委員長 時間が終了していますので。

辻小委員 はい、まとめます。

 参考人が、諸条件の整備が不可欠であるということをおっしゃっております。保釈、そして証拠開示、捜査の可視化が不可分一体に制度整備されるべきだと私は考えますが、その先後の関係、一体でなければやはり裁判員制度というのが非常に形骸化したものになると考えますが、最後にその点はいかがでしょうか。

市川参考人 その点は同感です。

木下小委員長 時間が経過していますので、簡単にひとつ。

市川参考人 結論としては、今申し上げたとおり、全く同感だということで、特につけ加えることはありません。

辻小委員 ありがとうございました。

木下小委員長 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)小委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。

 きょうはありがとうございました。

 早速質問させていただきますが、すべて大きな、ざくっとしたような質問でございます。

 小さな司法ということを最初におっしゃったんですが、ある意味では、日本の小さな司法はいい意味で言われることが多かったように思います。つまり、あえて争いを表面化させないで、ある意味では日本という一つの単一の文化の中で、文化の力でこれを解決させてきたということで、社会的なコストも非常にミニマムで済みますし、小さな司法というのはいいことではないかというふうに言われてきました。これに対して、アメリカは大きな司法で、ローヤーがたくさんい過ぎて、ローヤーの仕事のためにあえて表面にしなくてもいいようなことまで表面にしてきたということも言われたわけです。

 この点に関して、小さな司法、大きな司法、ちょっと質問の仕方が私自身わからなくなっているところもあるんですが、どのようにお考えか。また、憲法との関係で、現在の日本国憲法が、そういう大きな司法、また小さな司法というものを志向しているのかどうか。また、将来憲法を改正することがあったとしたら、この点について何らかの言及があるべきかどうか、まずこれについてお伺いします。

市川参考人 今の小さな司法といいますのは、やはり日本の場合には、伝統的に、裁判に訴えなくても紛争を解決できる、あるいは紛争そのものが起きにくいというようなことは確かにあったと思うんですね。

 日本の社会というのは、やはり外国生活などをしてみますと非常によくわかるんですけれども、基本的に、だれが何をする、その人の位置によって社会的に期待されていることがあって、あるいは、それで社会もその人はそういうものだというふうに対応してくれるし、ルールといいますか、自分の身の置きどころ、あるいは社会的な期待というものがわかっていると非常に過ごしやすい、生活しやすい、生きていきやすい世界であったというふうに伝統的な日本社会は言えるんじゃないかというふうに思います。

 これに対して、私はアメリカで少し生活したことがありますけれども、アメリカの場合には、そのようなことは全くありませんで、自分がすべて自己主張をしていかないと何もしてくれないということで、自己主張をしながら、お互いにそれを調整して生きていかなきゃいけないということで、当然紛争になるし、裁判も利用せざるを得ない。あるいは、非司法的な紛争解決の伝統的なそういうルートがそれほど豊かでないということもあるんだろうと思います。

 そういう意味では非常にいい面もあるわけなんですけれども、一方で、では、そのもとで全く、権利が侵害されたり、泣き寝入りがされたり、あるいは紛争がすべてうまく解決されていて適切な落としどころにすべて落ちていたかといいますと、必ずしもそうではない。これは、一番悪い例でいきますと、私人間で紛争が起きた場合に暴力団に仲介を頼むというのは、これは非常に悪い例ですけれども、最悪の例としてはこういうものですけれども、こういうふうな形で紛争が正しく解決されず、あるいは十分に裁判などを通じて争うことができず泣き寝入りをするということがこれまでの日本にもあったことは否定できないというふうに考えます。

 ですから、伝統的な日本社会を前提としても、小さな司法が前提とするような司法に余り期待をしないということではなくて、もう少し期待をする、役割を果たしてもらうということは必要であったと思うんです。

 それともう一つは、私が申し上げたような伝統的な日本社会のありようそのものがやはり変わってきて、すべてがわかり合ったものが、すべてルールをわかっていて分に応じてみんなが行動する、そういう社会ではやはりなくなってきている。そういうことからすると、やはり法に基づいた公正なルールによる紛争解決というものがこれからはますます必要になってくるし、そういうことができないと、国際的に、いろいろ企業同士のつき合いであっても、あるいは国同士のつき合いであってもやりにくくなっているということだろうと思います。

 それで、日本国憲法との関係ではどうかということなんですけれども、これは、日本国憲法がアメリカのような大きい司法まで要求しているかというと、そこまでは要求していないと思いますけれども、これまでのような非常に小さな司法以上のものは、日本国憲法が司法権に対して要求している課題を果たすためには必要であろう、そういうふうに考えています。

斉藤(鉄)小委員 ありがとうございました。

 次に、国民は憲法によって裁判を受ける権利があるんですが、では、裁判官がその人に対して判決を下す根本的な根拠といいますか、その権威のよって来るところというのは一体何なんだろうかと。その人に、牢屋に入りなさいとか、極端な場合は死を宣告する、その権威の根拠は一体どこにあるんだろうかということをよく考えるんです。

 これは、裁判員制度との関連でこういう質問をさせてもらっているんですが、庶民的には、あの難しい司法試験を通った人に裁かれるんだからそこに権威があるんだろうぐらいには思うんですが、多分そうじゃないんだとは思うんです。今の憲法下で、この権威のよって来るところはどこにあるのか。ひょっとしたら、我々が衆議院選挙のときにやる最高裁判所の国民投票がその根拠なのかもしれません。

 今回の裁判員制度は、そういう意味で国民参加、まさにアトランダムに選ばれた人による国民参加が、いわゆる日本国憲法で言うところの主権の根源は国民ですから、そういう意味で、人を裁くことの根本的な権威を与えるために今回国民参加のこういう裁判員制度ができたという見方もあるわけで、そこら辺、ちょっと非常に大ざっぱな質問ですけれども、どのように考えたらいいんでしょうか。

市川参考人 少しお答えしにくいところがあるんですけれども、裁判官の権威はどこから来ているのかということなのですけれども、これは、私の考えでは、やはり裁判官が独立して職権を行使し、憲法と法律にのみ従って私心なく職権を行使し、判決を下す。当然法律の専門家である裁判官がということになるわけですけれども、そういう法律の専門家である裁判官がそういうような独立した形で職権を行使するというところに、裁判官の権威は最終的には根拠があるんじゃないかというふうに考えます。

 他方で、裁判員制度をとるということによって、例えば裁判官の権威の不足みたいなものを補って、司法の正統化をより強めることになるかということをお聞きになっているんだと思うんですけれども、私自身は、先ほども申し上げたように、裁判官は憲法によって司法権の担い手として認められ、そして先ほど言ったような形で、職権の行使の独立を認められているということで、権威という正統性の淵源という点では十分だろうというふうに考えておりますので、そういう権威の不足を補うという観点から裁判員制度は特に私の立場から位置づける必要はないと思います。

 ただ、先ほどのお話の中でも申し上げたように、国民の信頼をかち取るということは、やはり裁判所にとっては、これはよく言うんですけれども、財布も剣もない裁判所としては権威だけが頼りですから、国民の信頼をより強めていくという意味では、そういう信頼ないし権威を高めていくという効果はあろうかなとは思います。

斉藤(鉄)小委員 ありがとうございました。終わります。

木下小委員長 次に、山口富男君。

山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。

 市川参考人の話された流れに即して幾つかお尋ねしたいと思うんですが、まず初めに、憲法が定める司法権の機能の問題にお触れになったんですけれども、その中でも、違憲審査制をめぐる問題です。

 日本の憲法は、八十一条でこれを定めたわけですが、これは世界で見ても割と早い時期に違憲審査制を取り入れた国だと思うんです。ところが、きょう参考人もおっしゃったように、司法消極主義ということも言われましたけれども、現実には十分これも動いていない。一体、なぜ憲法で定められているのに違憲審査制がなかなか動かないのかという問題。そして、きょう一番最後に、それを活性化させたいというお話がありましたが、それをやるための改革としてはどういう改革が必要とお考えなのか、この点をまず初めにお聞きしたいと思います。

市川参考人 これについてはさまざまな理由があると思います。

 日本における違憲審査制が活性しなかった理由としては、例えば、現在の日本国憲法のもとでの最高裁判所の裁判官は内閣によって任命される、長官も実質的には内閣によって任命されるわけですので、やはり政権交代というものがないと、内閣そのものが同じ政党によってずっと構成されているということになると、ある政党の、実質的には自由民主党ですけれども、自由民主党の観点から見て大丈夫だ、最高裁判所の裁判官にふさわしいという人がずっと最高裁判所の裁判官に任命されるわけですから、そういう意味では、どうしても現状に対して肯定的な、保守的な考え方を持たれている方が最高裁の裁判官に任命されていくというような形になるのは当然であろうという形で、政権交代が長い間なかったということもあるだろう。

 あるいは、最高裁判所の裁判官の任命は、最終的には内閣の眼鏡にかなわないとだめなんですけれども、実際には最高裁の十五人の裁判官の出身母体の数というのが長い間の慣行でもう決まっておりまして、基本的には、その出身母体から後任はとるというような形になっている。

 しかも、どういう方が選ばれるかという経緯が従来はよくわからない。それこそ密室でやられているために、本当に最高裁判所の裁判官、特に憲法判断をしていただく最高裁判所の裁判官としてふさわしい方が選ばれるということが、必ずしも担保するような仕組みになっていなかったということもあるだろう。

 ほかにも、最高裁判所が、これは最高裁判所ですから、上訴事件を非常にたくさん持っている。その中で極めて忙しい。こういうふうに、非常に忙しい最高裁判所の裁判官が憲法問題についてじっくり取り組むことができるだろうか、こういうふうな、最高裁判所の方が非常に忙しいというような問題もありました。

 あるいは、先ほどのお話にもありますけれども、日本的な和の精神といいますか、こういったようなこともあるだろうし、さまざまな理由が複合的に絡んでいるんじゃないかというふうに私としては考えております。

山口(富)小委員 そうすると、そういう改革が必要になるんだということになるんだと思うんですが。

 続きまして、司法制度の改革の問題なんですけれども、きょうの参考人のお話でも、国民に開かれて、国民が利用しやすくて、しかも実効的な救済を与え得る司法への改革ということが求められているということだったんですが、その中で、例えば、弁護士報酬の敗訴者負担制度について、これは慎重な見きわめが必要だというお話でした。

 私は、これは現実には、裁判に訴える側にとっては、それを抑制するような要素になってしまうということを危惧し、これには賛成していないんですけれども、参考人がお考えになっている、慎重に見きわめなきゃこれはだめだよという場合の、見きわめる基準はどの辺に置かれているんですか。

市川参考人 見きわめる基準は、一般的に言えば、市民による訴訟提起を促進する効果があるかどうかということで考えるべきだろうと思います。

 ですから、例えば、アメリカなんかもこういう制度をとっているんですけれども、情報公開訴訟、政府に対して公文書の開示を求めたけれども開示してくれなかったということで、開示を求める訴訟を起こす。この場合は、アメリカの情報自由法のもとでは、行政機関の側が法の解釈を単純に誤ったという場合はいいんですけれども、これは不当に隠そうとしていたんだというようなことであれば、裁判所が弁護士費用を払えということを連邦政府の側に命じることができるというような規定があるんですね。これはかなり片面的な規定なんですね。情報公開訴訟を起こした市民の側が弁護士費用を払わされるというふうにはなっていなくて、一定の場合に、連邦政府の側が訴訟を起こした市民の側の弁護士費用を払わなきゃいけない、こういうふうな制度がありまして、私なんかがイメージしているのは、こういうような形のものですね。

山口(富)小委員 ちょっと私、時間との関係で、二点まとめてお尋ねしたいんです。

 一つは、きょうのお話ですと、民主主義原理の中でつくられている憲法に、いわば司法権というものが持ち込まれてきているというような印象なんですが、となりますと、七十六条で、先ほども少し触れられましたが、裁判官がみずからの良心に基づいて考えなさい、それから憲法と法に基づいて考えなさいというのが、結局、民主主義原理との関係でバランスをとる基本になるのかなというふうに思ったんですが、その点はいかがかという点と、もう一つ、憲法裁判所なんです。

 私は、これは、違憲審査制の活発化こそ求められていて、憲法裁判所については消極的立場をとっているんですけれども、先ほど、これについてはハイリスク・ハイリターンの問題があるんだというふうにお触れになったので、その点、もう少しお話しいただきたい。

 その二点、お願いいたします。

市川参考人 まず、裁判所の非民主的性格とかいう問題なんですけれども、基本的にはおっしゃったように私も考えています。

 しかし、裁判所が非民主的性格、括弧つきなんですけれども、それを持つということが、時の多数者であり、あるいは世論とかによって、市民の人権が侵害されない、そういう防波堤になるという意味があるわけでして、そういう点で、民主主義の暴走を抑えて、民主主義が本来の機能を果たすように持っていくというところがあると思うんですけれども、一方で、それをどこまでできるかといいますと、これが国民の政治意識と余り乖離してしまっても、結局はそういうふうに頑張っても従われないということになりますので、そういう国民の意識も十分反映させながら、そういうふうな形での民主主義の暴走を抑えるみたいなことをやらなきゃいけない。そういう意味では、裁判所というのは、非常に知恵が必要だといいますか、高度な熟慮、プルーデンス、そういうものが必要な世界であろうというふうに考えます。

 それから、憲法裁判所ですけれども、憲法裁判所がもしうまく機能すれば、実際にドイツの例なんかを見ますと、これは批判もありますけれども、かなりうまく機能しているというふうに私なんかは受けとめております。憲法裁判所といいますと、抽象的違憲審査ということばかり目が行ってしまうんですけれども、実際には、ドイツの憲法裁判所の事件の九五%以上が、個人が自分の人権が侵害されたということで訴えている事件でして、そういうふうな、実際、個人の権利を救済する機能を実は中心としてドイツの憲法裁判所も果たしておりますし、抽象的な規範統制と言いまして、抽象的な違憲審査権がありますので、極めて重大な憲法上の対立点について、早期に憲法裁判所の判断を求めることができる。

 しかも、実際のドイツの憲法裁判所の判決を見ますと、かなり落としどころを考えているわけですね。やはり、憲法解釈というものは非常に政治的なものである、そういう前提のもとで憲法裁判所がつくられており、そして、議会の政党比に応じる形で裁判官も選任されているということで、非常に政治感覚が裁判官がすぐれていますので、ドイツの憲法裁判所の下す判決は非常にうまく、そういう憲法をめぐる政治的対立をどういうふうに解消させるかという観点から判決が下されてきたような印象を私は持っています。

 ただ、そういうふうにうまくいくかどうかということは一方で考えられますが、一方で、全く違った形で機能する可能性もありまして、早期に憲法判断を求められるけれども、合憲だというゴム印をすぐつくだけで、ろくな憲法判断も、立ち入った判断もしてくれないというふうなことも考えられますし、一方では、極めて政治的な、多数派、少数派が国会内で転換があって、憲法裁判所が少数派に近い人が多いために、国会で負けた少数派が憲法裁判所に訴え出て、そこでもう一回逆転するという形で、極めて政治的に用いられる可能性もあるわけですね。

 ですから、憲法裁判所については、こういうさまざまな可能性を持っているということを考えて、その導入の是非については考える必要があるというふうに私は思います。

山口(富)小委員 ありがとうございました。

木下小委員長 次に、山本喜代宏君。

山本(喜)小委員 それでは、違憲審査制ということに絞って、三点御質問いたします。

 憲法の八十一条で最高裁を違憲審査の終審裁判所ということで規定しているわけでございますが、今日まで、半世紀以上たっているわけですが、最高裁が違憲であると判断したのは、まだ五件しかないわけです。そのうち二件は定数の問題ですね。先ほどから、日本の司法府の司法消極主義ということが言われております。実際、しかし、日本国憲法では三権分立ということも明確に規定されているわけですが、この三権分立というものを実効ならしめるための消極主義、これをどういうふうに今回の司法制度改革の中で実効ならしめていったらいいのかという点。

 それからもう一つは、今現在、議員立法がふえているわけでございます。官僚主導から政治重視ということで、議員立法がふえていることはいいことだと思うんですが、実際、法制審の審議が不十分なままに、極めてハイペースで議員立法が通っているわけです。そうした中で、やはり、違憲審査というものの機能を充実させていくということが非常に大事になっているわけですが、この違憲審査ということを媒介にした裁判所と議会の適度な緊張関係を持っていくということが極めて民主主義にとって重要だと思うんですが、この立法と司法との関係、これを司法制度改革でどうとらえていったらいいのかということ。

 それからもう一つは、先ほどから議論されています付随的審査制と抽象的審査制のかかわりでありますが、一九五二年に社会党が警察予備隊違憲訴訟ということに取り組んだわけでございますけれども、当時の最高裁の判断では、我が国の違憲審査権は、具体的事件を離れて、抽象的に法律が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有するものではないということで、最高裁みずから違憲審査の道を狭めてきたというふうな経過があるわけでございます。

 学説の大勢もまたそういうふうな、統治行為論ですか、そういうことで司法消極主義を追認してきたんじゃないかというふうなことも考えられるわけでございますけれども、憲法裁判所を設置するということもありますが、憲法裁判所を設置しなくても、今の憲法のもとで抽象的違憲審査というのはできないのか。

 その三点、お伺いしたいと思います。

市川参考人 第一点目と第二点目のお尋ねになっている点の相違がよく私の方で理解できませんでしたので、まとめた形で二点についてはお話しさせていただきたいと思いますが、日本の最高裁の違憲判決は五種類六件でありまして、数的にはそれほど多くない。

 司法消極主義であるという場合、違憲判決の数ということもありますが、最高裁は、二重の基準論というものがあるんですけれども、表現の自由とか、そういった民主主義のプロセスを維持させていくために不可欠な権利が制限されている場合には、裁判所は積極的に違憲審査権を行使するが、そうでない経済的自由の制限などの場合には、緩やかな違憲審査をするにとどめる、こういう二重の基準の理論というものが学界では通説のわけなんですけれども、最高裁判所もそのように、判決の中でそれに近いことを言っているわけですけれども、実際には、表現の自由を中心とした精神的自由の制限についてもそれほど厳密な違憲審査をしていないし、実際、法令違憲の判決がないというようなところに、日本の最高裁が違憲審査権の行使に対して消極的、すなわち司法消極主義であるというふうに言わざるを得ないところがあると思います。

 しかしながら、一方で、裁判所がどんな問題についても首を突っ込んで積極的に違憲審査権を行使すればいいというものではなくて、司法積極主義と消極主義の積極主義、消極主義という意味は、立法機関の判断を尊重して違憲審査をするのが消極主義で、そうでないというものが積極主義なわけなんですけれども、やはりその消極主義と積極主義の使い分けというものを裁判所としてはやっていく必要があるだろう。そういう使い分けをしながら、おっしゃられるような、裁判所と政治部門、国会、内閣といった政治部門との適度な緊張関係を維持していく、これが日本国憲法の求めるところではないかというふうに考えておりまして、そういう点で、これまでの最高裁判所を中心とする裁判所の違憲審査権の行使の仕方はまだ十分ではないというふうに考えております。

 そういうふうにしていく、より積極的に日本の裁判所が違憲審査権を行使していく、そのためにはどうしたらいいのか、あるいはそれと司法制度改革がどういうふうにつながるかということなんですけれども、司法制度改革との絡みでは、先ほど幾つか原因を申し上げたわけですけれども、それ以外にも、例えば訴訟制度そのものが十分でない。例えば、憲法裁判になるのは刑事訴訟の場合と行政事件訴訟が多いわけですけれども、行政事件訴訟そのものの壁が厚いというような問題もありますね。ですから、こういう訴訟制度を充実していくということが違憲審査制の活性化につながるという面もあるだろう。

 あるいは一番最初のお話に出ました法曹の数と質ですね、付随的違憲審査制を支えていくような法曹の数と質があったのかという点では、これは心もとない限りでありまして、例えば、なぜ最高裁判所の裁判官が憲法判断に対してそんなに積極的でないかという点について、最高裁判所の裁判官をおやりになった方の書かれたものによりますと、やはり上告理由が取ってつけたような上告理由が多いと。憲法違反ということを言わないと上告できないので、取ってつけたような憲法違反の主張ばかり多くて、憲法違反という主張がなされると、最高裁の裁判官としては、またか、またこじつけかというふうに思ってしまうというわけですね。ですから、そういうふうな最高裁の裁判官を説得するような上告理由がちゃんと書けていたかという問題もあると思います。

 ですから、そういう意味で、法曹の質といったような問題もあると思います。それも改善されていくという流れの中にあると思いますし、さらには、最高裁の裁判官の選ばれ方の点を申し上げたんですけれども、これも、司法制度改革審議会の答申の中では、最高裁の裁判官の任命について、その選任手続をより透明化していくことが必要であるというような趣旨のことが書かれていたわけですけれども、しかし、実際の現在の司法制度改革推進本部のもとでの検討では必ずしもそういうところにまで十分及んでいない。下級裁判所の裁判官の任命手続についての社会的な意見を参考にする制度はできているわけですけれども、最高裁の裁判官のところまで行っていない。この辺はまだ一つ課題としてあろうかなというふうに思います。

 それから最後に、警察予備隊違憲訴訟のお話がありましたけれども、これは私も、典型的な抽象的な違憲審査は日本国憲法のもとでは許されないというふうに考えております。これは学説の通説ではそうでありまして、私自身も、典型的な抽象的違憲審査制は日本国憲法を前提とする限り認められないと思いますけれども、しかし、私の最初のお話の中で申し上げましたような、裁判所が司法権を行使するのに必要な場というものがありまして、そういうものが確保できるのであれば、違憲審査権の行使の場を法律でもって広げるということは十分可能であるというふうに考えます。ですから、そういう意味では、一定の限界の中で、純粋の抽象的違憲審査制ではないんですけれども、抽象的違憲審査制的な制度を法律でもってつくっていくということは可能であるというふうに考えます。

 ですから、例えば、今議論になっています、今住民訴訟が憲法訴訟の場としても非常に重要なんですけれども、こういうふうなものを国レベルでつくれというような提案が日弁連などによってなされていますけれども、こういうようなことも検討に値するというふうに思います。

 以上です。

山本(喜)小委員 ありがとうございました。

木下小委員長 次に、永岡洋治君。

永岡小委員 私の方から二つの論点についてお聞きを申し上げたいと思います。一つは、裁判員制度をめぐる司法への国民参加の問題、もう一つは、肥大化した行政に対する司法のチェック機能の強化の問題、この二つについてお伺いをしたいと思います。

 裁判員制度の導入につきましては、市川先生の方からのお話の中に十分御説明があったと思うんですが、私の理解するところ、三権分立の統治機構の中に国民主権という基本的なものを取り入れていかなければならない。その中で、国民が今、立法では選挙で参加をしてくる、それから行政では各種委員会あるいはいろんな審議会とか、そういう格好で参加をしてくる、しかし、司法においては一般国民が参加をする道というのは基本的にはないという状況の中で、国民がこの三権分立の統治機構の中にどうかかわっていくか、この問題が基本にあるんだろうと思います。

 であるとすれば、その前提になるのは、国民の側の主権者意識、それからそれに参加をしなければならないという義務意識というものが十分に醸成されているのかどうか、この点が私は最大の課題ではないかなと考えるわけであります。

 そこで、現在導入が検討されている裁判員制度について、二つの点について御意見をお聞かせいただきたいと思います。

 一つは、先ほど来御議論がいろいろあるわけでありますけれども、憲法問題としてやはり裁判員制度というものが国民の司法参加の、確かに憲法上の基礎は民主主義、国民主権主義原理というものはあるわけですけれども、一方で要請されている裁判の独立性、専門性、客観性というものについて、これはそう簡単に両立できるものではないと思うわけでございまして、やはりこの制度設計について立法論、あるいは憲法の現在の解釈としてどうすべきかということをひとつお伺いをしたいと思います。

 それからもう一つは、国民の意識の問題についてでありますけれども、陪審制をとるアメリカにおきましては、例えば司法取引というのがあります。つまり、裁判自体がネゴシエーションの対象になり得る、こういう社会的土壌というものを持っているわけであります。ところが一方、日本においては、大岡裁きという言葉に代表されるように、黒白をつけるんではなくて、相互に納得して理解をするというのが日本の社会の基本的なルールになっているわけでありまして、そういう意味では非常に、日本における法の支配という言葉は、専門家の間ではきちんと定義づけられ、その言葉は従来からあるわけですけれども、では、国民各層の間にその法の支配というものが本当に定着しているのか、その成熟度というものを考えたときに、現在の裁判員制度というものが社会に真に根づくものとなり得るのかどうか、この点について私は疑問を感じておりまして、やるべきではないということではないんですけれども、この点についての御意見をお伺いしたいと思います。

 それから、質問だけ先にさせていただきますが、もう一点、肥大化した行政に対する司法のチェック機能の強化であります。

 ただいま抽象的違憲立法審査権及び憲法裁判所について御説明がありましたので、重複する部分はあるんですが、私としては、抽象的違憲立法審査権というものを解釈あるいは憲法改正の中で取り組んでいく必要があるんではないか、こういう問題意識から御質問申し上げたいと思うんですが、司法の行政に対するチェック機能の強化そのものは、まさしく法の支配というものを完全にやっていく、貫徹していくということだと思います。

 今何が起こっているかというと、本来は国会が行政をチェックしなければいけないわけでありますけれども、立法過程において起こっている事実というのは、重要な事柄を政令、省令に委任をしていくという現象が起こっております。これは、社会経済の複雑化に伴いまして非常に専門的になってくるがゆえに、どうしてもこういうことが起こるわけですけれども、法の支配ということ、それから法治主義という前提からいきますと、余りに白紙委任的な行政への権限の移譲、裁量権を与える立法の方式というのが、これが司法の世界からのチェックというのがやはり必要になってくる局面があるのではないか、こういうふうに考えるわけであります。それは国会でやるべきだということではありましょうけれども、しかし、司法の場からもそれをチェックするということも必要であろうと思います。

 そうなってまいりますと、二つの問題が出てまいりまして、抽象的違憲立法審査権をそういうものについて限定的に認めていくのかどうか。あるいは、違憲立法審査権を機動的に発動するために、やはり憲法裁判所に近いものを日本でも考えていく必要があるのではないかと私は考えておるわけでございますけれども、この二つにつきまして御意見をいただきたいというふうに思います。

市川参考人 まず、一番最初の、裁判の独立性、客観性と裁判員制度との緊張関係という点なんですけれども、私も、そういうふうな緊張関係があるということを前提にした上で先ほどお話をさせていただいたわけですけれども、基本的には、裁判というものの公平さといいますか、裁判というものは公平な手続によってなされなければいけない。ですから、事実認定についても、そういう形で公平な手続を通じて客観的になされなければいけない、そういうふうなものでありまして、そういうふうなものを揺るがすような形での裁判員制度は認められないであろうというわけです。ですが、裁判員制度がどのような形のものであれ、裁判の客観性、独立性などに反して認められないとは考えないというのが私の意見であります。

 それから二つ目の、国民各層に法の支配は定着しているのか、そういう状況で裁判員制度は社会に根づくのかという御質問なんですけれども、これも大変ごもっともな懸念であろうかというふうに思います。

 実際に、検察審査会の運用が非常に苦労しているというようなことも、新聞報道がつい最近数字が出ておりましたようにあるわけでして、そういう懸念が出てくるのも当然だろうかと思いますけれども、これはしかし、鶏が先か卵が先かみたいな話でして、そういう裁判員制度をやっていく中で、市民が裁判の場に裁判員として参加していく、これが年に何千人もの人が裁判員としてかかわっていく、あるいは裁判員候補者ということになればもっと膨大な数になるわけですけれども、こういう形で裁判に実際にかかわっていくという人が年数千人も出て、それが積み重なっていくということは、日本社会の法化といいますか、法の支配の貫徹という点に持つ意義は、これは相当看過できないものを持っているのではないかというふうに考えます。

 ですから、問題は、少なくとも当面のところ、裁判員制度をやりくりできるだけのそういう資質が今の日本国民のもとにあるのかということを差し当たり問題にすればいいわけでして、少なくとも我々日本国民は、その最低限のハードルはクリアできる程度の素養は持っているのではないかというふうに私は考えます。

 それから、最後に、行政に対する司法的チェックの強化のところの関連で、白紙委任立法の問題が出ておりまして、私としては、ここは国会ですから、まず国会でそれはちゃんとやってくださいということなんです。

 憲法学説といたしましても、国会は唯一の立法機関でありまして、立法権は国会自身が行使しなきゃいけないんですけれども、そうはいっても、行政機関にある程度の立法権の委任はやむを得ない、そういうふうに考えますが、しかし、白紙委任はいけなくて、やはり具体的な委任でないといけなくて、委任の趣旨、目的、そして委任の範囲、これを明確にした形での委任を法律の中でするべきである、そういうふうに憲法学者は主張しておりまして、まず、ぜひ国会におきまして、そういう点を踏まえた法制定をしていただきたいと思います。

 最高裁自身も白紙委任はいけないよというふうに言っているわけですから、最高裁判所を含めた裁判所におきましても、白紙委任的な立法委任に対してはきっちりとチェックをするということが、憲法四十一条との関係で現在の裁判所にも求められているというふうに考えます。

 実際、しかし、最高裁はどうやってやっているかといいますと、この条項は白紙委任だから憲法違反だというところまではなかなか踏み切れないようでして、実質的にはどう見ても法律は白紙委任にしているんですけれども、しかし、法の趣旨はそうじゃない。

 だから、実際に規則なりがやり過ぎなんだ、規則がだから法律に違反していて、違法であるという判決は幾つか最高裁も下しているわけですけれども、そういう形での、かなり何といいますか、ノーマルなといいますか、緩やかな形でチェックしようとしておりますが、もう一歩進んだ形で、白紙委任立法については憲法上許されないという点を裁判所は明確に述べる、そういう立場をとるべきだというふうに私も思います。

 ただ、これが、だからといって憲法裁判所でなければその機能を十分果たすことができないとは思っておりませんで、日本国憲法のもとでも、権利が侵害されるということになれば訴訟を提起できるわけですし、それができないとすれば、現在の例えば行政事件訴訟法に問題があるわけですから、それを改正するということによって、今おっしゃられたような場合は、相当部分が付随的違憲審査制のもとでも司法の場に登場するのではないかというふうに考えております。

永岡小委員 ありがとうございました。

 裁判員制度という新しい制度を導入するについては、やはり私は、かなり国民側の理解と参加意識、義務意識というものが重要だと思います。

 したがいまして、司法からの国民へのアクセスということも、開かれた司法ということでお願いをしたいと思いますし、それから、裁判員制度についての教育を小学校段階からやっていくということも必要だと思います。そのことをひとつ申し上げまして、質問を終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

木下小委員長 次に、鈴木克昌君。

鈴木(克)小委員 民主党の鈴木克昌と申します。よろしくお願いします。

 私は、利用しやすい司法の実現という視点で、最初にまず二点ほどお伺いをしたいわけであります。

 国民にとって利用しやすい司法を実現するには裁判へのアクセスの拡充というのが必要だというお話がございました。そのための手段として、司法ネットの整備、それからまた法律扶助制度の充実等が必要である、重要であるということがわかったわけでありますけれども、これらの具体化に当たって、私はどうしても、地方の市長をやってきたものですから、その視点での発言になってしまうわけでありますが、地方公共団体が果たす役割というようなものをどんなふうにお考えになっておるのか、お教えをいただければありがたいというふうに思います。

 いま一点は、行政訴訟の迅速化ということでございますが、司法制度改革審議会の意見書においても、民事訴訟の長期化が指摘されておるわけでありますが、実は私も市長時代に市民から訴えられておりまして、そんな経験から申し上げるわけでありますけれども、行政訴訟が長期化しておるような気がするわけですね。それによって非常にやはり多くの市民が、何といいますか、権利侵害と言うとちょっと言い過ぎかもしれませんけれども、例えばその案件によって行政の側に非常に、何といいますか、権利がその間、消滅をするというと言い過ぎかもしれませんが、そんなようなケースもあるのではないのかな。

 したがって、何が言いたいかというと、やはり行政の側から見ても、行政訴訟というのはやはりもっと早く迅速に処理をされるべきではないのかな、こんなふうに思うわけでありますが、とりあえず、以上二点について参考人の御意見を聞かせていただけたらと思います。

市川参考人 最初の御質問なんですけれども、地方公共団体が果たす役割というのは、主にどういう点についておっしゃっているんですか、行政訴訟に関しておっしゃっているお尋ねなんでしょうか。

鈴木(克)小委員 そういうことも含めてでありますけれども、例えば各窓口をネットワーク化して情報を市民に対して開いていくとか、それから、裁判員制度についてもやはりPRの場をどのように果たしていくべきなのかというような視点からでいいわけです。

市川参考人 それで……

木下小委員長 許可をとってください。

市川参考人 申しわけありません。なれておりませんので、大変失礼いたしました。

 その第一点ですけれども、やはりこの司法制度改革の中で、裁判への国民のアクセスを促進するという上で、地方公共団体がそういう情報提供等であるいは相談に乗るというような形で果たす役割はかなりあるんじゃないかというふうに思いますし、あるいは、現在でもそういう役割を果たしていると思いますけれども、私人間における紛争解決に一定の役割を果たすということで、地方公共団体の相談機関等がADRとしての役割を果たすということも今まであるわけでして、そういう機能をより強化されるということは望まれるというふうに思います。

 それから、裁判の長期化が権利の侵害になってしまうというのはおっしゃられるとおりでありまして、ですから、実効的な救済を裁判を通じて得ようと思えば、やはり裁判自身がそう長くかからないということが必要でありまして、そういう意味では、裁判を受ける権利が実質的な権利でなきゃいけないという私の立場からいたしますと、そういう裁判の迅速化が要求されるということになります。

 ですが、一方で、迅速化を図る余り、裁判としての適正さといいますか、そういうものを失ってしまえば元も子もないわけでして、そういうものを失わないでいかに裁判の迅速化を進めるか、そういうような難しい課題があると思いますし、これは一番最初のお尋ねにもありましたような、これは予算にかかわるような問題も出てくるであろうというふうに思います。

 それから、行政の側からしても迅速化が必要だということで、そのとおりだと思いますが、ただ問題は、日本の行政事件訴訟法は、行政事件訴訟法のもとでの取り消し訴訟の場合を考えますと、裁判を起こされても行政機関の側はほとんど痛くもかゆくもないと言ったら言い過ぎかもわかりませんが、そういうふうな制度になっているわけですね。

 すなわち、裁判を起こされても、行政処分そのものは効力も失いませんし、執行もそのままできるということになっておりまして、しかも、執行停止の要件がなかなか厳しくて認められないということになっていますので、現在の行政事件訴訟法のもとでは、そういう点で行政機関の側に余りにも有利な訴訟制度になっている。行政機関の側が既成事実をつくってしまうと結局それで勝ってしまう。もし違法だということになっても事情判決が出ますから、結局、目的は遂げてしまうわけですね。ですから、よく言うのは、行政機関の側の先行逃げ切り型の、そういう行政事件訴訟制度になっている、これがおかしいんじゃないかということが言われております。

 確かに、住民訴訟なんかの場合はそういうことはありませんので、それをやられるといつまでも続いてしまってなかなか大変だということはよく理解できますけれども、行政事件訴訟法について、行政機関の側が裁判が長引いても痛くもかゆくもないというふうになっているのが、言い過ぎかもわかりませんが、その点にやはり一つ大きな問題があるというふうに考えます。

鈴木(克)小委員 時間の関係もありますので、あと一点だけお伺いしたいんですが、先ほどのお話の中で、裁判員制度における評決のあり方なんです。

 被告人の裁判を受ける権利という立場で、骨格案では、裁判員と裁判官で構成される合議体の評決のあり方ということで、裁判員または裁判官のみによる多数で決することはできないということになっておるわけでありますけれども、これについて、国民の側というか、被告人の側ということになるかもしれませんけれども、裁判を受ける権利の保障という観点からいうと、その辺はどうなのかなというような気がするわけでありますが、いかがでございましょうか。

市川参考人 これも私、ずっと申し上げておりますように、やはり裁判官と裁判員とで合議体をつくっておりまして、ここで事実認定と量刑の判断をするわけですけれども、ここの判断が恣意的なものにならないんだという歯どめといいますか、制度的な保障というものがやはり必要であろうというふうに考えます。ですから、現在のような、裁判官のうち少なくとも一人は必ず賛成しないと決定はできないという制度はそういうふうな観点から評価できようというふうに思います。

 ただ、そうでなければ必ず憲法違反かといいますと、そこは必ずしもそうは言えないかなという気もしておりまして、その制度全体として見まして、裁判員と裁判官とで運営される裁判体が恣意的な事実認定なり量刑判断をしないというような制度的枠組みがつくられていれば、全体としてそういう枠組みになっていればいいのであって、必ずしも、裁判官が一人は賛成していなければ多数決として認められない、こういう制度でなければ絶対に憲法上許されないとまで言えるかどうか、その辺は少し留保したいというふうに思っております。

鈴木(克)小委員 どうもありがとうございました。

木下小委員長 次に、森山眞弓君。

森山小委員 最後でございますし、もう既にいろいろな御質問が出まして、私も大変勉強させていただきましたが、先生もさぞお疲れだと思いますので、私は、次の予定もありますものですから、一つだけお聞きしたいと思います。

 昭和二十二年にできた憲法が今日まで全く改正もなくやってきたわけでございますけれども、実際には、国際情勢の変化とか国民の意識の変化とかいろいろなことがございまして、いろいろと運用上必要な解釈の変更というようなこともあったわけでございますが、そのような場合は憲法の変遷であるというような説もあるそうでございますけれども、そういう憲法の変遷あるいは解釈の変更というのにはどのような限界があると考えるべきなのでございましょうか。

 先生が憲法の先生でいらっしゃると伺いましたものですから、そのことについてお聞きしたいと思います。

市川参考人 解釈に限界があるのかどうかというのは、これは憲法学でも非常に難しい問題でして、説が分かれているわけですけれども、やはり二つあろうかと。

 一つは、基本的には文言ですね。憲法の文言というものが枠として存在せざるを得ないということで、この文言と全く反するような解釈はできないであろうというふうに考えます。

 それからもう一つは、文言について、あるいはそこでとっている概念について、どのような意味が伝統的に使われてきているのかということもありまして、これが枠となるかどうかという点は議論があるわけですけれども、少なくとも憲法の文言から全く無理な解釈をすることはできないというふうに考えます。

森山小委員 おっしゃったことは、当然といえば当たり前のような気がいたしますけれども、それ以外に、例えば、これ以上の解釈の変化はできない、変遷はできない、もしも変遷する必要があるならば憲法の改正をするべきであるという、何か限界があるのではないかという気がしたんでございますが、いかがでしょうか。

市川参考人 一般的には、やはり憲法の同一性を損なわせるような、そういう憲法の運用ができないということは言えると思いますけれども、しかし、それは多くの場合、やはり憲法の文言と明確に矛盾するという形になると思いますので、そこが解釈の限界としてはあると思います。

 ただ、憲法自身が非常に幅があるものでして、基本法ですから、そう容易に改正はされないだろうという前提に立っておりますので、相当柔軟な解釈ができるようにもともとつくられているわけですから、ですから、許される枠は憲法の場合は相当広いということは認めざるを得ないと思います。

森山小委員 わかりました。ありがとうございました。

木下小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 市川参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

    ―――――――――――――

木下小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行います。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、自席から着席のまま、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをこのようにお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。

早川小委員 裁判を受ける権利について、参考人からいろいろお話を承ったんですが、参考人は比較的、裁判を受ける権利の内容を広く解釈されている。ある意味では、さまざまな司法改革が今進んでいるんですけれども、こういった司法改革を根拠づけるような、いわゆる正義に対してのアクセスする権利、ライト・ツー・アクセス・ツー・ジャスティス、アクセス・ツー・ジャスティスですか、そんな感じで解釈をされておられるかなというふうに思ったわけですけれども、迅速かつ適正、あるいは権力から自由な司法を受ける権利というような、そんな感じで三十二条をお考えになっている。

 ただ、文言を普通に読んでみると、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」ということで、「奪はれない。」と書いてあるこの文言からすると、余り一義的にそう解釈できるわけじゃなくて、これからの憲法を考える上では、もっとそういった内容を反映するような形で文言を変えてもいいのではないか。

 きょうの参考人の御発言からいうと、司法について、特に現状の憲法には何ら問題がなさそうだ、むしろ現在の司法の運用に問題があるんだ、こういうふうな受けとめ方があったんですが、そういう意味では、もっともっと司法についても根本的に考え直してもよろしいのじゃないかなというふうに思います。

 それはどうしてかというと、大日本帝国憲法の第二十四条には、「日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルヽコトナシ」という文言が既に明治二十二年の段階であったわけで、「法律ニ定メタル裁判官ノ裁判」、こういうふうな表現と、それから現行憲法の「何人も、裁判所において裁判を受ける権利」というのとの、その歴史的な、あるいは比較憲法的な違いというのがどの程度きょうの参考人の御意見に反映されているかというのがいま一つわからなかったという感じがいたします。そういう意味では、司法ももっと大胆に見直してもよろしいと。

 裁判員等については、いろいろ、現行憲法上の裁判を受ける権利の中でやや疑念も呈されている面はありますけれども、しかし、国民主権、あるいは裁判に国民が積極的に参加し司法を担う、そういった現行憲法の基本原理からいえば恐らく何ら問題はない制度を今まさに司法改革の中で導入をしようとしている、そういう意味では非常に画期的なことで、これは積極的に評価できる。ただ、気をつけなきゃいけないのは、さらにそれを内容的に実質化するための努力をしなきゃいけないという御指摘であったというふうに思います。

 以上です。

中山会長 きょうの市川参考人に対する質問に対して、市川参考人から、最高裁の判事の任命されるプロセスについて非常にわかりにくいということが明確に言われたわけです。これは立法府にとっても非常に大きな問題を承ったというふうに私は感じました。

 最高裁判事の構成、これもそれぞれ役所の推薦とかそういうものがあるわけですね。こういう問題はやはり国民のためにつまびらかにしていく必要が今後憲法調査会にとってはあるんじゃないかというふうにきょうの参考人の御発言から承ったわけです。

 それからもう一点は、きょうは違憲問題にお触れになったんですけれども、今まで違憲問題というのは、ほとんど言われるのは憲法九条の問題であったわけですが、憲法七十九条、八十条、裁判官の報酬は、就任時に得た報酬は在任中これを引き下げることができないということが憲法に明文に書いてあるわけですね。

 ところが、人事院勧告を受けて、最高裁は裁判官会議を開いてこの報酬引き下げを受け入れるわけですね。これをあえて違憲でない、こう言っているわけですけれども、それじゃ、もう憲法七十九条、八十条の文言というものは不要になってくるのじゃないかというような疑念を持ったわけですね。

 ここいらの点を、きょうの御議論の中で現行憲法の中の問題点として、今まで言われた九条に並んで、憲法の最高擁護機関の最高裁判所の問題点というものをやはりこの調査会でしっかりと究明する必要があるという認識を受けました。

 以上です。ありがとうございました。

鹿野小委員 基本的に、市川参考人はいわゆる司法への国民参加、裁判員制度については認められておるわけでありますけれども、いわば司法に国民の考えておるところの常識なり良識なりというふうなものを取り入れていく、そういう考え方、司法の民主化だと。いわば、耳ざわりとしては非常によろしいんじゃないかと思いますけれども、実質的に、お話ありましたとおりに、アメリカの場合は司法取引というような形で、ゲームのような認識、感覚というふうなものもある。しかし我が国は、お上によって正しい裁きを受ける、そういう認識で来たということからするならば、理念だけで本当にいいんだろうか、少々進み過ぎておるんではないか、こんな認識を持ちまして、まだ依然として国民的なコンセンサスが受け入れられているような状況ではない、こう思っております。

 もう一点は、政治は多数決であるけれども、司法というふうなものは少数者の自由を守る、そういう認識というものを私らも教えられてきたわけです。ですから、司法は多数決では決めないというような、そういう認識があったわけでありますから、その司法に国民の多数決というふうなものによって決めていくということが取り入れられていくということは、果たしてどうなんだろうか。

 また、同時に、裁判というものは専門の裁判官によって受ける権利がある、こういうふうに私らは教えられてきたということからして、私は、この裁判員制度というふうなものの導入については、むしろ憲法上の規定の中で、国民投票によって決めていくというふうなことも一つの考え方ではないか、このことを申し上げておきたいと思います。

早川小委員 私ももともと弁護士という立場で司法改革を推進する立場にいた、その延長上で今御意見を伺っていると、やはり裁判員制度についていろいろ疑念を持たれてしまうところがある。しかし、やはり今回の裁判員制度ということで国民の意識というのが全く変わってくるだろう。

 他人任せ、あるいは、専門家といってもどういう過程で選ばれているかわからない、国民が自分で選んだわけでもない法曹にすべて判断権をゆだねるという制度が、いわゆる裁判に対する信頼の根源であったわけですけれども、しかし、現実には、いわゆる国民の常識にはそぐわない結論を出す裁判もあるということで批判があった。

 そういう意味では、一般の国民の常識なり良識を反映できるようなスタイルに変わるということと、あわせて、裁判の手続あるいは刑事捜査そのものについてもっとわかりやすく透明なものにしていく、しかも迅速に適正な解決をする、そういった新しい司法文化をもたらす大きなもとになるのが、どうも今回の裁判員制度ではないかなというふうに思われますので、司法改革審議会等でいろいろ検討されてようやく今回裁判員制度が導入をされようとなる、このたびの通常国会でそれがいよいよ法律として成立しようとするこの段階ですので、実際上は、五年程度の経過期間を置いて、かついわゆる法教育を充実させる、そういったこととか、あるいは裁判制度そのものについてより国民が納得できるようなものをあわせて用意する、そういうさまざまな司法改革の流れの中で導入されようとする今回の裁判員制度は、積極的に受けとめていきたいということが一つです。

 それから、きょうのお話では全く出てこなかったんですけれども、最高裁判所の裁判官についての国民審査についてこれが形骸化しているといったことについては、全くその議論がされていないというのは、これは国民の一般的な感情とやや反するのではないだろうか。

 それから、これは最高裁の違憲立法審査権の関係で、例えば行政が行う政令、省令についての違憲性の審査について、国会の方で全く白紙委任をしてしまった場合にそれをチェックする方法がない、司法の場でそれをチェックできるようにしなきゃいけないのではないかという御発言があったんですが、これは、私は、将来的には、二院制があるとすれば、参議院の方でいわゆる憲法裁判院的な役割を引き受けていく、そうすることによって、いわゆる個別具体的な事件に関連しての違憲立法審査ではなくて、抽象的な違憲立法審査、あるいは、場合によっては行政のさまざまな政省令についての審査も行う、こういったことまで考えてもよろしいのではないかなというふうに思っております。

鈴木(克)小委員 時間もありますので、簡単に申し上げます。

 今、早川委員のおっしゃることは、私もよくわかるんですが、どちらかというと、鹿野委員のおっしゃった、国民の理解ということで、準備期間の五年間にどれだけのことをやるのかということがやはり一番大事ではないのかなというふうに思うわけですね。したがって、この準備期間にきちっと、どれだけのことをやるのかということをやはりよく研究をしながら、そういう制度に向けて国民の理解を得る努力をする必要があるのではないかな、こんなふうに思いますので、つけ足させていただきます。

 以上です。

木下小委員長 他に御発言ございますか。

 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時五十八分散会


このページのトップに戻る
衆議院
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-7-1
電話(代表)03-3581-5111
案内図

Copyright © Shugiin All Rights Reserved.