衆議院

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第3号 平成16年4月1日(木曜日)

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三月二十三日

 木下厚君同日小委員長辞任につき、その補欠として鈴木克昌君が会長の指名で小委員長に選任された。

平成十六年四月一日(木曜日)

    午後四時五分開議

 出席小委員

   小委員長 鈴木 克昌君

      岩永 峯一君    衛藤征士郎君

      永岡 洋治君    二田 孝治君

      古屋 圭司君    森山 眞弓君

      鹿野 道彦君    玄葉光一郎君

      津村 啓介君    斉藤 鉄夫君

      山口 富男君    土井たか子君

    …………………………………

   憲法調査会会長      中山 太郎君

   参考人

   (東京大学大学院法学政治学研究科教授)  碓井 光明君

   参考人

   (千葉大学法経学部教授) 広井 良典君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

四月一日

 小委員永岡洋治君三月二十三日委員辞任につき、その補欠として永岡洋治君が会長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員土井たか子君三月二十五日委員辞任につき、その補欠として土井たか子君が会長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員木下厚君同日委員辞任につき、その補欠として津村啓介君が会長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員津村啓介君同日委員辞任につき、その補欠として木下厚君が会長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 統治機構のあり方に関する件(財政)


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     ――――◇―――――

鈴木小委員長 これより会議を開きます。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 先般、小委員長に選任されました鈴木克昌でございます。

 小委員の皆様方の御協力をいただきまして、公正円満な運営に努めてまいりたいと存じますので、何とぞよろしくお願いをいたします。(拍手)

 統治機構のあり方に関する件、特に財政について調査を進めます。

 本日は、参考人として東京大学大学院法学政治学研究科教授碓井光明君及び千葉大学法経学部教授広井良典君に御出席をいただいております。

 この際、両参考人に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 財政について、まず、碓井参考人には国会による財政統制の視点から、広井参考人には国民負担率の問題を含む社会保障の財源問題の視点から、それぞれ三十分以内で御意見をお述べいただき、その後、小委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 それでは、まず碓井参考人からお願いいたします。

碓井参考人 ただいま御紹介をいただきました東京大学の碓井と申します。

 本日は、このような参考人としての発言の機会を与えられましたことに感謝申し上げたいと存じます。

 私は、この十年ほど、東京大学の法学部で財政法という科目を担当しております。こういう科目が大学の学部で開設されているということはそんなに多くないわけでございますが、その成果の一部をきょうは披露させていただきたいと思います。

 国会による財政統制を中心にした財政のあり方ということについてお話ししたいと思いますけれども、何と言っても財政運営の基本というのは、私は、国民財政主義ということになければならないと思っています。それはある意味で、民主主義というものを財政の側面においてどう実現するかというときに、リンカーンの言葉に学ぶまでもなく、バイ・ザ・ピープル、フォー・ザ・ピープルというのは基本になるはずであります。

 国民財政主義をどのようにして実現していくかということについてでございますが、これについては多様な方式が考えられるわけでございます。その際に最も活用しやすいのが国会を通じたコントロール、統制でございまして、これを一応財政民主主義というふうに呼んでおくことにしたいと思います。

 しかしながら、国会による統制が十分に機能するためには、国民に対する財政情報の提供というものが極めて重要であると考えられるわけであります。

 ところで、私ども国民、それぞれ生身の人間でございますが、国民の意思にも分裂状況がございます。納税者という立場においては、どのようにしたら税金が少なくて済むかということを懸命に考えますし、また歳出については、このような施策を講じてもらいたいという要望を持ちます。一人の人間にとりましても分裂状況があるわけでございます。そういう中で、これまで痛みを伴わない仕組みというのが活用されてきたのではないかというのが私の実感でございます。

 それは、公債の発行もそれですし、財政投融資制度という、今は制度が移行期にございますけれども、郵便貯金等で集めた資金を原資として統一的な資金、かつての資金運用部でありますが、そこから特殊法人に行く、あるいはまた地方公共団体にも行くという形で、痛みを伴わないで大きな財政運営ができたわけであります。また、このところ問題になっている地方交付税もその一つでございまして、地方公共団体は直接には痛みを伴わないで、国からの資金を当てにしてきた面が否定できません。

 こういった今までの痛みを伴わない仕組みを、国民が実感できるような仕組みに転換する必要があるというのが今後の財政を考える上では出発点になるべきだと私は考えています。そこで、そのような方向を進めるためには、最低限、国会の意思決定前に、国民に正確な財政情報が提供される必要があると考えるわけです。

 実は、国会議員の先生方は毎年予算審議のときに、きょうは一部だけを持ってきたわけですが、予算が内閣から国会に提案されたときに、何点セットと申しますか、大部なものがあると思います。

 今、政府刊行物サービス・センターに行きますと、この平成十五年度のものが売られているだけでございまして、平成十六年度のものはまだ売られていないわけであります。その売られていない理由については私は存じませんが。ですから、そういう状況ですから、私はかつてはそのことを問題にして教室でも説いてまいりましたが、ITに弱い私の弱みがありまして、この本日の参考人として意見を述べさせていただくのに合わせて調べましたところ、既に現在ではこの予算書が、予算が国会に提出されるときに合わせて、予算書も財務省のホームページに載せられているということでございました。

 ということで、私が申し上げました財政情報の提供というのは、IT化の推進に伴って大きく変容しつつあると思います。ですから、ホームページ等が十分に活用されるならば、この点は大いに改善される余地があるというふうに私は思っています。

 また、情報公開制度というものが実質的に大きな統制機能を発揮すると考えられます。三月三十一日の内閣府の情報公開審査会では、外務省報償費の執行基準の一部について、公開するようにという答申を出したというふうに報じられております。このようなことが進みますと、今まで隠れていた部分が情報公開という形で国民の目に触れて、統制機能が働くと考えられます。

 会計検査院のことについては後に述べますが、国民の代理人としての検査の位置づけも可能であります。

 また、国民が直接に能動的に財政統制に乗り出す仕組みも考えられるわけでありますが、これについても後に述べます。

 次に、財政をめぐる憲法と法律との関係についてでありますが、その前に、憲法というときに、憲法学の最初の講義の時間あたりに、形式的意味の憲法と実質的意味の憲法という言葉が出てまいります。国家の根本統治にかかわるという意味では、憲法典、日本国憲法のことですが、憲法典に規定のない事柄であっても、実質的な意味の憲法に当たるものが幾らもあるわけでございますが、例えば現在で言えば健全財政主義がそれに当たるかもしれません。しかし、以下で憲法と言うときには、形式的意味の憲法、憲法典という意味に使わせていただきます。

 そのような憲法典自体にどの程度財政に関する規定を置くのが望ましいかということが問題になります。私はこれは、多くを立法府の裁量にゆだねてよいのではないかと考えております。例えば複数年度にまたがる財政計画あるいはバランスシートの作成といったようなことは、法律による対応で十分ではないかというふうに考えております。ただ、憲法八十九条については、別にお話をさせていただきます。

 現在、最もむなしく感ずるのは、健全財政主義ということでありまして、これは財政法四条がうたっていることでありますが、憲法上の原則ではないために、特例法を制定すれば赤字公債の発行も可能な仕組みになっています。しかし、このようなむなしさにもかかわらず、憲法によって縛りをかけるということはできないでありましょう。もちろん、法律による縛りということが考えられるわけでありまして、財政構造改革法はそのような試みであったわけですが、これもなかなか難しいということが言えます。

 次に、予算制度についてでございますが、予算の役割は主として支出の授権と債務負担の授権とにあると思います。予算単年度主義という言葉が複数の意味で使われているように思われるわけですが、ここでは一応、一年を単位として、毎年、歳入歳出予算を編成して国会が議決する、このことを予算単年度主義というふうに呼ばせていただきます。私はこれは、健全な財政を確保するためにやはり必要な原則であるというふうに考えています。

 継続費というものがございますが、これは、部分的に複数年の予算を規律するものでありますが、予算単年度主義の原則については例外をなしておると考えられるわけであります。継続費の違憲論というのが日本国憲法施行後しばらくの間よく闘わされたわけでありますが、もし可能であるならば憲法改正で明らかにすることが望ましいということになります。しかし、御承知のとおり、継続費を入れなかったことの理由としては、軍事費と連動している継続費は望ましいという判断があったとされておりますし、むしろ、明示しないで、解釈により縛りをかけて、ごく例外的にこれを許容するという方が望ましいという考え方もあり得るわけであります。

 また、継続費というものは、後年度の歳入を当てにするものでありますけれども、当年度の歳入を財源として、債務負担及び支出の双方を複数年にまたがって許容する制度もあり得るわけであります。現在、繰越明許費というのがございますが、これは二年にわたる支出の授権でありまして、財源をあわせて繰り越す限りは財政の健全性を損なうことはないというふうに考えられます。

 次に、会計年度独立主義というのが、予算単年度主義というときに会計年度独立主義ということをあらわすのに使われていることもありますが、ここでは、ある年度の経費は、その年度の歳入をもって支弁しなければならないこと、そういう財政法の規定に従っておきたいと思います。

 ある年度に支出を授権された経費を翌年度に繰り越して使用するということは、会計年度独立主義に反すると考えられているわけであります。会計年度独立主義というものは、憲法の直接に命ずるところではございませんけれども、歳入と歳出とを対応させた財政統制ができなくなるような運用というのは、予算制度の根幹を揺るがすことになるものとして許されるべきではないと考えます。現行法では、繰越明許費のほか、継続費の年割額の繰り越しや事故繰り越しというものがございまして、例外があるわけですが、この程度であれば、予算制度の根幹を揺るがすとは言えないように思われます。

 そこで、予算単年度主義の弊害ということについてでありますが、この意味の実質は、授権された支出を翌年度に繰り越すことが難しい、それで年度末近くに無理な予算執行を行わざるを得ないという点にあると思われます。会計年度独立主義の一内容として歳出予算の繰越禁止ということが言われるわけでありますが、最も禁止あるいは抑制されるべきものは、財源の繰り越しを伴わない、すなわち後年度の歳入を当てにした、歳出のみの繰り越しであると考えられます。反対に、財源とともに繰り越すことは、財政の健全性を損なうものではないと考えられます。

 現行制度における問題は、あらかじめ繰越明許費として計上しておかなければならないということ、及び、翌年度使用について財務大臣の承認が必要でありまして、そのためには大変な手続を要する、時間もかかるという点であります。その結果、年度末近くになりますと、もはや繰越明許費の扱いをするゆとりはないということになるわけであります。一般的に会計処理について言えることですけれども、現場に行けば行くほど、面倒な手続を回避したくなる傾向がございます。これは、例えば項目間の移用、流用の場合についても財務大臣の承認が必要とされておりますが、その場合にも、手続を回避したくなるのが現場の感覚であります。

 いずれにいたしましても、このような現場感覚から、例えば繰り越しの可能な経費でありましても、手っ取り早く随意契約等によって契約を締結して、施工することのできる工事箇所を探して予算執行を行ってしまおうということになりやすいわけであります。

 そこで、私の提案は、経費の性質に応じて、繰越明許費とは別に、歳出予算の一定割合については財務大臣の承認を要せずに繰り越すことを認める制度にすべきではないか。つまり、繰り越しの弾力化ということを提案したいと思っているわけであります。

 次に、使途を緩やかに特定した予備費のことについてでございますが、これは、数年前に公共事業等予備費というものが計上されておりましたが、それに関する私の意見でございます。

 予算編成時に既に必要性がわかっている、そういう経費について、つまり、予見されているにもかかわらず、その執行の発動を予備費の形式で内閣にゆだねるということになりますと、それにはやはり憲法の予定する予備費の範囲を逸脱している可能性があるように私には思われるわけであります。もちろん、そのような予備費としてではなくて、あらかじめ計上した上で財政法に規定を置いて、内閣における執行留保を認めるという制度を創設するというのであれば、それはまた別問題であります。

 また、景気対策的な予算執行を可能にするシステムの可能性ということについても検討する必要があろうと思います。

 一九九九年にジュリストという雑誌に載せました公共事業等予備費という論文の中で述べておりますように、いろいろな対策が考えられるわけでありますが、使途を緩やかに特定した、そういう費目を設けたとしても、直ちに憲法違反になるわけではない、予算の使途特定原則に反するものではないというふうに考えております。ですから、例えば景気対策公共事業費というようなものがあったと仮定しても、それはよいのではないかと思います。

 ただ、その公共事業費という場合の特定の仕方が問題でありまして、余りに雑多な費用を想定するというのは使途の特定がなされているとは言えないわけでありまして、数種類の目的の費用を掲げるという程度のことになる、その程度のものなら許されるのではないかと思います。

 次に、予算不成立の事態に対する制度でございますが、現行憲法には、次年度の予算が成立しなかった場合にどのようにするかということの対処策は用意されていません。したがって、暫定予算というものを大急ぎで編成し、国会の議決を経なければならないことになっているわけであります。

 この点について、そういう非常事態に備えた基金を設けるべきである、そのような基金こそが憲法の想定している予備費であるという小嶋和司先生の見解もあるわけでございますが、私は、現在の運用の仕方というのは、むしろ国会における予算審議の促進機能を持っているのではないかというふうに考えております。三月一日までに次年度予算が成立しなくても心配することはないということになりますと、いつまで予算の成立が延びるかわからないという不安定な状態に陥るように思われます。ですから、大災害等の緊急事態に対する支出を授権する法律を制定しておくことで足りるのではないかというふうに考えております。

 次に、財政に関する章の中では最も問題とされてきたのが、恐らく憲法八十九条ではないかと思います。「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業」の部分は、もし憲法改正の機会があれば、削除あるいは改正を検討する必要があるというふうに私は考えております。

 もっとも、この点について、憲法学者はさまざまな努力をしてきております。例えば後段の部分も、前段の政教分離を補強するための規定であるというふうに限定解釈するという手法や、公の支配ということの意味を、だれに対しても開かれている事業である、しかも情報開示がなされていることで足りるのだ、こういう見解などがありまして、こういう憲法学の努力の成果があるときにあえて改正する必要はないという意見ももちろん承知しております。また、現行憲法下の方が緊張感があってよいのではないかという見解もございます。

 このような多様な見解がありますけれども、私自身は、機会があれば改正の対象にすべきであると思っています。

 次に、会計検査院等についてでございます。

 国会以外の財政統制の機関として、行政自身による統制、会計検査院による統制あるいは裁判所による統制等を考えることができるわけでございます。

 まず、行政自身による統制の機関として、財政を所管しております財務省の役割というものが大変大きいわけであります。さらにまた、各省庁の内部監査組織も存在しております。この点については、会計検査院が検査報告で報告したことがあったかと記憶しております。

 しかし、この内部監査組織というものは、組織ぐるみでなされている不適正な処理についてはうまく機能しないわけでありまして、えてして、いかにしたらそういう組織ぐるみの不適正な処理が表面化しないようにできるかということに腐心することに陥りやすいというふうに私は推測しているわけでございます。つまり、その組織としても容認できないような不正の摘発にはもちろん積極的であるけれども、組織の幹部も含めて、組織ぐるみでの不適正なことについては無力であるというふうに私は思います。

 次に、会計検査院のことについてであります。

 会計検査院につきましては憲法上の位置づけが問題になります。その場合に、現行憲法下における位置づけの考え方と、今後、憲法のあるべき姿としての位置づけをどうするかという二つをもちろん区別する必要があります。

 現行憲法下におきまして、国会の附属機関とする考え方もあり得るようであります。私自身も、かつてこの点について肯定的に考えていた時期があるわけですが、現在では憲法九十条一項というものを根拠にいたしまして、私は、国会の附属機関にすることは想定されていないというふうに考えております。

 何か、条文解釈をここで申し上げるのは大変失礼かとは存じますが、あえて細かいことを申し上げさせていただきますと、憲法九十条の一項というのは、「国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。」となっているわけですが、もし国会に附属する機関であるというならば、内閣経由で出すというのではなくて、いきなりみずからが所属している国会に出すのが筋でありまして、ですから、現行憲法は考えていないのではないかというふうに考えを改めるに至ったわけであります。

 ところで、現在は、したがって憲法上も会計検査院は第四権のような位置づけを与えられていると考えてよいのではないかと思いますが、ただ、会計検査院自身も、三年とか五年ごとに外部監査を受ける必要があるのではないかというふうに思います。これは、アングロサクソン系の国では、監査を行う機関も監査を受けるということは当たり前のことだというふうに位置づけられておりまして、そういう絶対のものを置かないというのがどうも考え方のようでありまして、この点は検討に値する事柄かと思います。

 会計検査院の役割に期待する場合におきまして、会計検査院の権限につき、現行のように決算の検査のみを憲法に定めて、それ以外を法律に委任する方式でよいのかどうかということは一つの検討課題であります。例えば、弁償責任の検定とか利害関係人の要求による審査判定といったような裁判的な役割をより強化するという場合には、憲法上そのような権限を明示しておく必要があるかもしれないという気がいたします。

 会計検査院と言うときに、例えばフランスなどは裁判所という位置づけになっている。日本では会計検査院と一律に訳してしまいますけれども。そういう機関と、オーディット・オフィスとかアメリカのゼネラル・アカウンティング・オフィスとかというところとは、やや根っこのところは違っているように思うんですね。もっとも、アメリカにおきましても、例えば入札に関する不服のことなどはこのゼネラル・アカウンティング・オフィスがやはり処理しているわけでございまして、根っこは多分違うと思いますが、両者の制度的な歩み寄りというのは大いに見られるところであります。

 次に、裁判的統制として最も検討に値するのは、現在、地方公共団体に認められております住民訴訟に相当する国民訴訟という制度でありましょう。ただし、最も心配されるのは乱訴ということでありまして、その中には、政治的な目的に利用する、ある特定の政治家の失脚のために訴訟を利用する、そういう利用の仕方も乱訴の一つに含まれるでありましょう。

 この点、例えばアメリカ合衆国におきましては、フォールス・クレームズ・アクトという連邦の法律がございまして、政府が締結している政府契約について、相手方が政府に不正な請求をしているということに気づいた人は、その不正な請求をしている業者を相手にして訴訟を起こすことができるという、クイッタム・アクションの一つなんですが、認められておりまして、それはしかも、報奨金といいますかそれが支払われるものですから、それで財を築いて安心して暮らすという人までいるというふうに報じられております。

 そういうのを認めることがいいかどうかはともかくといたしまして、国民訴訟というのは検討に値するのではないかと思います。

 ただし、公務員個人の損害賠償責任を追及することを認めるということは、公務員の萎縮効果を招きかねないわけでありまして、その点に十分注意する必要があろうかと思います。当面は、会計検査院に対する審査の要求をなし得る者の範囲を、現行の利害関係人よりも拡大するということが現実的な解決かもしれません。

 これに関連しまして、一つだけ言及させていただきたいのは、現在、法案化が進んで、あるいはもう提案されたのかどうか存じませんけれども、公益通報者保護法という法案のことを私も聞いておりますが、その通報対象事実というものには、どうも私の読んだ限りでは、政府資金の不正使用というようなものは含まれていないようであります。

 これは、今回も鶏のことで大変世の中を騒がせておりますように、消費者保護というか、そういうことがメーンで現在進んでいる作業でありますから当然といえば当然のことですが、その内閣府の検討の資料の中にもありますように、外国には、むしろ政府資金の不正使用についての内部告発を保護するという意味でこの法律をつくっているところも多いわけでありまして、今回のこういう法律に拡充させるのがいいかどうかはともかく、つまり、別の財政関係の法律で対処するという方法も検討に値するのではないかと思います。

 最後に、先生方に大変失礼なことをおわりにのところで書かせていただいておりまして、失礼の段はお許しいただきたいと思いますが、この国会自身も財政統制の制度的なあり方を継続的に検討して報告書を公表するように努力されたいというのが私の要望であります。

 これは、もし現在もやっておられるのであれば私の認識不足として容赦いただきたいのでありますが、まさにこの憲法調査会が動いておるのと同じように、何年かのサイクルで重要テーマを取り上げて、国会が優秀なスタッフの協力を得て報告書をまとめて報告されるようにということを期待したいと思います。

 大変不十分な内容の意見でございますが、後の質疑のときに補充をさせていただければと存じます。

 ありがとうございました。(拍手)

鈴木小委員長 次に、広井参考人、お願いいたします。

広井参考人 御紹介いただきました広井でございます。

 このような機会を与えていただきましたこと、大変光栄に感じております。

 それでは、私のお話は、お手元にございますかと思いますが、「日本の社会保障をめぐる課題」というレジュメに沿ってお話を簡潔にさせていただければと思います。

 社会保障ということでございますけれども、きょうも年金の審議が始まったということで、この社会保障ということが、今、国民にとっての非常に大きな関心事になっているわけでございます。年金の問題を考えるに当たっても、社会保障全体といいますか、社会保障の全体像をどのようにするかという視点がやはり非常に重要ではないかと思いまして、そのような社会保障全般についてどのように考えるかということについてお話をさせていただければと思います。

 最初に、これはイントロ的なことでございますが、社会保障というのは、もともと英語でソーシャルセキュリティーという言葉があるわけでございますけれども、このセキュリティーというのは、もともと語源的には、ラテン語のセクーラという言葉があるようでございまして、これは、ウイズアウトケア、ケアという言葉の原義といいますか、憂いとか心配とか不安という意味でございますけれども、そういった憂いや心配がないこと、これがセキュリティー。言いかえますと、リスクに対する備えがなされていることというような意味のようでございます。

 したがいまして、さまざまな生活上のリスクに対してどのように備えをするかということが課題になるわけでありますが、そうした方法に幾つかがあり得るわけでございます。個人で対応できるさまざまなリスクへの対処、民間保険ですとか自助といいますか、個人あるいは市場で対応するべき次元。一方、家族ですとか地域共同体ですとか、そういったレベルで行われるべきリスクへの対応もあろうかと思います。しかし、それではやはり不十分であるわけでございまして、政府レベル、公的部門でなされるべきリスクへの対応、これが社会保障ということになるわけでございます。

 言いかえますと、社会保障の課題というのは、さまざまな生活の中で生起するリスクに対して、個人と家族や共同体と政府、このいわば役割分担といいますか、これをどのように考えるか。どのような部分は政府が担うべきか、あるいは国家ないし地方自治体が担うべきか、それが社会保障をめぐる基本的な課題というふうに言ってよいかと思います。

 まず、日本の社会保障の特徴ということをごく簡潔に確認させていただきますと、形式的に言いますと、一九六一年に成立しました国民皆保険・皆年金をベースにして、いわゆる社会保険制度を中心とするシステムということになるわけでございます。

 これを少し国際的な比較の中で見ますと、前後して恐縮でございますが、資料の七ページをお開きいただければ幸いでございます。

 「社会保障給付費の国際比較」というのがそこにお示ししてございますが、これは社会保障の規模の対GDP比、国内総生産比を他国と比較したものでございます。いわゆる北欧諸国、スウェーデンなどが最も社会保障の規模が大きくて、大陸ヨーロッパといいますか、ドイツやフランスがその後に次いで、ヨーロッパの中ではイギリスが相対的に小規模、低い規模である。先進諸国の中では、日本はいわばアメリカと並んで社会保障の規模という意味では最も低いということがまず見てとれるかと存じます。

 それと並んで社会保障の内訳に目を転じますと、これはちょっと印刷が見にくくて恐縮でございますが、右から医療、年金、福祉その他。福祉その他というのは、高齢者や障害者、子供の福祉に加えて生活保護ですとか失業保険といったものが含まれておりますけれども、日本の特徴といたしましては、この福祉その他の比重が非常に小さい。逆に、スウェーデンやヨーロッパの国々はこの部分がかなり大きい。片や、年金の社会保障全体に占める比重が先進諸国の中では日本は最も高い。これが、年金の成熟化の中で、今後こういった傾向がさらに強くなっているということが指摘できるかと存じます。

 もう一度レジュメの一ページに戻らせていただければと思います。

 確認いたしますと、日本の社会保障の国際的に見た特徴としましては、規模は、今申しましたように、先進諸国の中ではアメリカと並んで最も低い。内容は、年金の比重が大きく福祉の比重が小さい、とりわけ子供関係や失業関係などが低いということが特徴として指摘できます。それから財源は、先ほど社会保険中心ということを申しましたけれども、この中に、かなり複雑な形で、保険と税がまざり合うような形で入っております。その結果、かなり日本の社会保障は複雑でわかりにくいといいますか、そういった面が多々あるという側面を一部持っているわけでございます。

 例えば基礎年金、これは、三分の一は税で三分の二は社会保険料というふうになっておりますけれども、なぜ税は三分の一であるのか、この制度の趣旨はどういうものであるのかというのが少しわかりにくいものになっている。国民健康保険、医療の方ですけれども、二分の一は税金、二分の一は保険料、これはなぜこういうものなのか。この制度の趣旨がなかなか、必ずしも、歴史的経緯によるような形で、十分合理的とは言えない部分を含んでいるということが指摘できるかと思います。

 二ページ目に進ませていただきたいと思います。

 しかし、全般として見た場合に、日本の社会保障というのは、先ほど申しましたように先進諸国の中では財政規模としては低いわけでございますけれども、なぜ低くて済んだのかという問いが立てられるわけでございます。恐らく、これに関しては、二つ主要な理由があるのではないかと考えられます。

 一つは、見えない社会保障、インフォーマルな社会保障というふうに書いてございますけれども、これは具体的には会社や核家族、家族のことでございまして、こうしたものが実質上、社会保障的な機能を果たしてきた。会社は、終身雇用、かつ、社員のみならず家族の生活も生涯にわたって保障する。家族は、介護や子育てといったものは家族の中で行うということで、他の国であれば失業保障でありますとか公的な社会保障として行われていた部分のかなりの部分をこのような形で対応してきた。このこと自体は必ずしもマイナスということでは言えないわけでございますけれども、最近、ここ数年に至りまして、そうした終身雇用とか家族のあり方というものが非常に流動化する中で、これにかわる社会保障の対応ということを考えていかなければいけない、そういう時期に来ているかと存じます。

 それから、もう一つは、公共事業型社会保障というふうに、ちょっとここではそういう言葉を使っておりますが、特に七〇年代ごろから顕著になってきた傾向であろうかと思いますけれども、日本の場合、公共事業が事実上の社会保障的な機能を果たしてきた。ヨーロッパなどではこのころから公共事業の比率が下がると同時に失業率が上がってくるわけですけれども、日本は比較的最近まで、公共事業が職の提供を通じた生活保障という、他国であれば社会保障として提供されるような機能を実質的に果たしてきた。これに関しても、一時期までは一定機能した面があったと言えるわけでございますけれども、さまざまな弊害も見えるようになってきているわけでございまして、こういったあたりも含めて社会保障としての再編成ということを考えていかなければならない時期に来ていると言えるかと思います。

 では、これからの社会保障はどのような方向を考えるべきかということに入る前に、少しここで、ごく簡潔に社会保障の国際比較ということを見てみたいと存じます。

 社会保障というのは、およそその国の社会構造ですとか価値観あるいは文化、ひいては歴史等といったものを非常に反映したものにならざるを得ないわけでございますけれども、大きな歴史的な展開といたしましては、もともとは、産業化といいますか都市化が進む中で、まず都市労働者を中心に整備され、それが徐々に自営業や農業従事者等にも拡大されていったという経緯がございます。

 とりわけ、社会保障というものが大きく飛躍的に発展しましたのは第二次大戦後の時期でございまして、福祉国家ということが言われるようになって、特にヨーロッパでございますけれども、国が積極的な財政政策、ケインズ政策と呼ばれるような財政政策を行い、その中で社会保障についての給付も拡大していく、さらにそれが需要の拡大にもつながって、いわば社会保障と経済成長の相乗効果というような時期が七〇年代ぐらいまで続いたと言えるわけでございます。

 それが、八〇年代前後から、経済の構造的な低成長や高齢化、ひいては少子化の進展という中で、望ましい公私の役割分担というものはどのようなものかということを改めて考え直すべき、そういった時期になって現在に至っていると言えるかと思います。

 そのような各国の社会保障を大まかに分類してみますと、おおよそ三つぐらいのグループに分けられることが可能で、こういった研究分野でも、ほぼ、こうした三つぐらいの分類が一般的になされております。

 A、B、Cというふうにしてございますけれども、普遍主義モデルという最初のものは、イメージとしては、北欧などに代表されるもので、基本的に社会保障給付費が大きい、とりわけ福祉サービスの比重が大きい。全住民をひとしく対象とする。それから、財源は税が中心という形の社会保障になっております。理念としては、右の欄でございますけれども、いわば公助といいますか、自立した個人をベースに公共性といったことに軸足を置くような社会保障の姿と言えようかと思います。

 二番目は、社会保険モデルということでございまして、これは、文字どおり、社会保険を中心とした社会保障の形でございます。拠出に応じた給付、特に年金に顕著でございますけれども、高い保険料を払ったことに応じて、それに応じた年金の給付がなされるという内容でございます。それから、被雇用者といいますか、サラリーマンが中心の制度になっている。財源は、今申したとおりでございます。国の例としては、ドイツ、フランス、大陸ヨーロッパといいますか、これが基本になっております。理念としては、共助といいますか相互扶助、家族、共同体の相互扶助をベースに置きながら、それを公的な形で制度化した姿という理念と言えようかと思います。

 それから最後は、市場型モデルということで、これはアメリカに典型的な姿と言えようかと思います。社会保障の規模としては最も小さい。民間保険あるいは個人の自立自助やボランティアといったものを最大限活用するということで、公的な社会保障としては最低限の、ミニマムのものにする。理念としては、自助、自立した個人をベースにした考えというふうに言えようかと思います。

 次のページに進ませていただければと思います。

 以上の三つの分類に即して言いますと、A、普遍主義モデルとしたものほどいわば公的な原理が強く、後の市場型モデルほど私的原理が強くなるとも言い得ますし、自由と平等ということに関して言えば、より平等に軸足を置くか、個人の自由ということに比重を置くか、そういった価値観の違いから分岐するモデルというふうにも言えるかと思います。

 日本の位置づけにつきましては、これはいわば折衷型あるいは混合型とでも言えるような姿ではないかと思います。当初はドイツの社会保険をモデルにして出発したわけでありますけれども、基礎年金制度といったものはもともと北欧やイギリスに見られる普遍主義モデルの、先ほど申しました一つの典型的な形でございますので、そういう普遍主義モデルの要素も取り入れておりますし、そうかと思いますと、他方で、社会保障の規模から見ると、冒頭で確認しましたように、むしろアメリカと同じような水準ということで市場型モデルに近いということで、折衷型的な要素を持っている。

 その上で、今後どのように考えていくかということでございますけれども、各国についてもう一つ確認いたしますと、今、三つのモデルと申しましたけれども、近年では、これらが相互に接近しているという傾向が指摘できるかと思います。その趣旨は、ドイツ、フランスなどの社会保険グループも最近では税の財源を拡大している傾向が指摘できますし、逆に、厚い社会保障でやってきました北欧、スウェーデンなども市場原理を一定活用するというような形で、相互に接近しているという傾向が指摘できようかと思います。

 なお、各国の消費税水準ということを、幾つかの例をそこに、アメリカは州によって違いますので、概して低水準ではありますが、入れてございませんが、消費税水準ということを示しておりますのと、それからもう一つは、各国の所得格差の状況、これは資料の十二ページをちょっとお開きいただければ幸いでございますが、「所得再分配効果の国際比較」ということで示してございます。

 これは、いわゆる所得格差の度合いがどの程度のものかということで、左のグラフがそれを示したものでございますけれども、所得格差の度合いを示すジニ係数という指数がございまして、これは大きいほど経済格差が大きいということになるわけですが、日本は、中位か、特に近年ではややこの所得格差が大きく拡大している傾向がある。右は社会保障による再分配効果ということでございますけれども、日本は社会保障による分は余り大きくないということがございまして、こういった経済格差、社会保障による再分配ということをどのように考えていくかということも、今後の議論していくべき検討課題の一つと言えようかと思います。

 恐縮ですが、また三ページの方に戻らせていただきます。

 以上を踏まえた上で、社会保障のこれからの姿を若干憲法との関係も踏まえてお話し申し上げたいと思いますが、社会保障の価値原理ということでございます。

 社会保障を考える場合に、やはりどうしても自由と平等という、先ほど来も少し出てきた基本的な理念がポイントになるかと思いますけれども、自由と平等というのは、概して、いわば対立するものといいますかトレードオフといいますか、どちらを優先するかという対立するものとして考えられることが一般的であろうかと思います。

 しかしながら、自由という言葉の意味を、単なる自由放任とか干渉しないという意味の自由ということではなくて、将来の選択肢の幅といいますか、自分の、例えば中学生や高校生が将来の選択肢の幅としてどのような選択があるか、そういった意味として自由という言葉の意味を理解し直しますと、他方で平等ということを、チャンスが平等に与えられる、機会の平等というふうに考えてみますと、自由と平等という概念はかなり相重なり合う概念になると言えるかと思います。

 そのように考えますと、社会保障の基本理念として、各個人が人生のさまざまな段階において実質的な機会、チャンスの平等を得られることの保障、そういうふうに考えますと、今申しました将来の選択肢の幅という意味での自由の保障というふうに重なり合っていく。そういう意味では、個人の自由あるいは自己実現の機会を保障する制度としての社会保障という理解が可能になってくるわけで、そのように考えますと、憲法との直接的な、一義的な関係ではございませんけれども、憲法十三条にございますような個人の幸福追求権、そういったものの一つの制度的な保障として社会保障ということが考え得るのではないかと言えようかと思います。

 続きまして、これからの社会保障の方向ということについて簡潔に触れさせていただければと思います。

 四ページでございますけれども、基本的には、社会保障の姿としては強化が必要な面が多々あろうかと思います。それは、先ほどお話し申しました、日本での低い社会保障を支えてきたインフォーマルな社会保障、終身雇用とか家族とか、そういったものが多様化して、公共事業型社会保障といったこともなかなか維持が難しくなっている中では、社会保障の一定の役割の強化が必要になってくる。

 ただし、低成長の時代にあって、社会保障のあらゆる分野を公的にということはなかなか困難なわけでございまして、これからの社会保障の大まかな選択肢としては、四つほどの選択肢が考えられるのではないかと思います。そこに示してございますけれども、全分野重点型、医療、福祉、年金も公的に厚く。それから年金重点型、年金はかなり厚くして、医療、福祉は個人の負担を拡大する。それから医療・福祉重点型、医療、福祉は厚く、逆に年金は私的なものを拡大する。それから市場型、これはアメリカ的な姿で、医療、福祉、年金、いずれも私的なものを中心にという形でございます。

 これは全くの私見でございますけれども、私自身は、これからの社会保障としては医療・福祉重点型の社会保障というような姿が妥当ではないか。

 医療や福祉の分野というのはなかなかリスクの予測が困難で、どれぐらいの医療費がかかるか、いつ病気になるか、予測が困難で個人差が大きい。こういった分野は公的な保障をしっかりとする必要性が大きいかと思います。諸外国と比べても、医療保険の患者負担というのは既に日本はかなり高い水準になっているわけでございまして、こういった部分はむしろ公的な保障をしっかりとするべきではないか。

 逆に、年金につきましては、これは老後の生活費であり、予測でき、個人差も小さいということで、むしろ公的年金というのは、所得再分配機能、つまり、すべての高齢者に一定以上の所得を平等に保障するという基礎年金主体のものとするべきではないか。

 現状を見ますと、相当な高額な年金、月三十万に至るような年金を受けている層がいるかと思うと、四万円前後かそれ以下の国民年金という層も多く存在するわけでございまして、むしろ、平等な一定以上の生活の保障というところに公的年金は軸足を据えるべきではないか。そういった意味では、厚目の基礎年金主体といいますか、そういったものに再編成して、それを超えた所得比例部分、高い所得の人は高い年金を受けるというような部分は、むしろある程度民営化を進めていく。強制加入の社会保険という形とは別の姿を考えるべきではないかと思います。

 なお、基礎年金の財源というのは、一定以上の生活保障という観点から考えますと、税というものを基本的な財源とするのが妥当ではないかと思います。

 次の五ページ、最後の部分でございますけれども、時間の関係で、ここは確認にとどめたいと思います。

 いずれにしましても、公的部門、それから共助の部分、私的な部分の役割分担のあり方ということを考えていく必要があるということ。

 それから、財源につきましては、高齢化が進展していく中で、拠出と負担を均衡させるという保険の原理がなかなかなじみにくい層が増加しているということで、先ほど、社会保険グループの国も税の部分の比重が拡大しているということを申しましたけれども、ある程度税の部分の役割を拡大せざるを得ないのではないか。具体的には、基礎年金、高齢者医療、介護、子供といった所得再分配的な傾向が強いものは税の比重を高めていく必要性が高まっているのではなかろうかと思います。

 検討されるべき税財源といたしましては、そこに、消費税、相続税、それから環境税ということについて簡潔に示しております。

 相続税ということについて触れておりますのは、先ほどもちょっと触れましたように、所得格差や資産格差が拡大する中で、個人が生まれた時点でいわば共通のスタートラインに立てる、こういうことの保障が今若干揺らいでいる面がある。そういったことを考えますと、相続税を一定強化し、それを社会保障に充当する中で、個人の機会の平等を保障するという必要性が高まっている。

 それから、環境税というのは、社会保障の中で言及するのはやや唐突な印象があろうかと存じますけれども、ドイツなどが、環境税を導入して、それを社会保障に充てて年金の保険料を下げるという改革を数年前に行っております。これは、環境の負荷を抑制しながら福祉の水準を維持し、しかも、企業にとっての社会保険の負担を軽減して、失業の上昇を抑えると同時に、国際競争力の強化にも資するという非常に複合的な効果をねらった政策で、こういった、環境や経済成長のあり方ということもにらんだ総合的な政策というものを考えていく時期になっているのではないかと存じます。

 次の六ページ、最後のページになりますが、以上、社会保障に関します現状や国際比較、今後の方向についてお話しさせていただいてまいりましたけれども、まとめといたしましては、社会保障の具体的な設計については、やはり政策的な判断あるいはその基礎をなす政治理念、あるいはそれを支える国民の選択やコンセンサスに依拠する部分が大きいと思いますので、憲法が一義的な回答を与えるものでは必ずしもないだろうかと思います。

 ただ、社会構造が非常に大きく変化する中で、先ほど来触れてまいりましたような、個人の自由と平等の意味でありますとか、公共性の担い手としての国家、あるいは公的部門、共助の部分、自助の部分の役割分担、ひいては環境と調和した社会システムといった、かなり社会の基本的な骨格に関します再検討が求められているわけで、そうした大きな視野の中で社会保障のあり方を考えていく必要性が高まっているかと思います。

 基本的な認識といたしましては、経済が成熟化して、個人が社会の基本的な活動の単位となっていく中で、社会保障を中心とする公的部門の役割は相対的には大きくならざるを得ない。そのような中で、環境との調和も視野に入れながら、いわば理念としましては、持続可能な福祉国家あるいは福祉社会、そういった社会の姿を考えていくことが基本的な課題ではないか、そのようなことが基本として指摘できるのではなかろうかと思います。

 非常に雑駁な話となりましたけれども、以上をもちまして、私の報告とさせていただきます。(拍手)

鈴木小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

鈴木小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。永岡洋治君。

永岡小委員 自民党の永岡洋治でございます。

 きょうは両先生から貴重なお話を伺いまして、まことにありがとうございます。それぞれ二、三点、質問をさせていただきたいと思います。

 まず、碓井先生につきましては、シュンペーターという有名な学者が、国民の財政史はその国の歴史一般の本質的な部分であると言っているように、財政の仕組みの問題というのは非常に重要な問題だという認識を新たにした次第であります。情報の提供というのが極めて重要だという御指摘がありまして、私もまことにそうだと思います。

 その中で、まず予算単年度主義の原則につきまして言及がございました。私は今いろいろな問題が出てきていると考えておりまして、例えば、財務省の査定というものが前年度の実績を考慮した硬直的なものになっているという問題、それから、先ほども御指摘ありましたが、年度末に、予算の消化ということで、非常に無理をして予算を消化しているというような問題、それから景気対策も頭に置いた形で、年度末に補正予算を組んで、十五カ月予算とか年度をまたがる予算を組んでいるというようなことが事実として行われてきております。こういうことを考えますと、複数年度予算というものを実態的に考えていく必要性があるんではないかと私は考える次第であります。

 実は、大分前にアメリカでPPBSというシステムが導入されました。ケネディ、ジョンソン大統領という時代でありますけれども、残念ながら短期間で停止になりましたけれども、あの考え方というのは、五カ年程度の実行計画を作成するプログラムをつくって、それを単年度ごとに消化していく、こういう考え方だったと思います。我が国としても、こういう制度を今考えていく必要があるんではないかと思うんですが、このことについて、改めて御意見をお尋ねしたいと思います。

碓井参考人 お答えさせていただきます。

 私、先ほど予算単年度主義は現行憲法上の要請であるというふうな趣旨の発言をいたしましたが、そういう制度のもとにおきましても、委員御指摘のような複数年度の財政計画を策定するということは許される、併存的に策定することは許されると考えております。

 そして、その場合には当然途中での見直しが必要になりますから、例えば今、平成十六年度スタートする複数年度予算を編成したといたしますと、今度は、平成十七年度には平成十七年度を起点とする向こう何カ年というふうにローリングをしていくことが適切ではないか。一たん決めたものを硬直的に守るということは必ずしも適切ではないというふうに考えております。

永岡小委員 ありがとうございます。

 それからもう一点、碓井先生にお伺いいたしますが、憲法八十九条後段の解釈、運用の問題であります。

 いつも私学助成が合憲か違憲かということがすぐに問題になる問題でありますけれども、先生の御意見によりますと、八十九条後段はもう削除してもいいんではないか、こういう御意見ではないかと思います。

 しかし、明示的に許容するよりも、現行憲法の方が緊張感があるんだという説もあるという御指摘もございますが、仮にそういう見方をするんであれば、どんな改正をしたらいいのかというお考えがありましたら、ひとつお聞かせいただきたいと思います。

碓井参考人 ただいまの御質問についてでございますが、緊張感を維持するという説にありましては、現行憲法のままでよいという考え方のように私は受けとめております。つまり、いろいろ限界があるのではないかという議論がなされている状況こそがまさに健全であるということだろうというふうに私は理解しております。

 それに対して、私の考え方は、むしろはっきりさせた方がいいのではないか、そういう心配なしに私学助成ができるようにした方がいいのではないか。ただし、御承知のとおり、戦後の憲法学は、財政という技術的な規定よりも、基本的人権である教育を受ける権利とか、そういうものの方を優先すべきであるという学説がむしろ多数を占めておりますから、憲法学説の中では、現在の憲法八十九条でそんなに問題がないのではないかというふうに思われている、数の上からいけば。そのようになっていると私は理解しております。

永岡小委員 次に、広井先生の方にお伺いいたします。

 お書きになったものを読ませていただきますと、日本はこれまで、戦後高度成長を遂げまして、富のパイの再配分ということについては余り深刻な問題となってこなかった。経済成長のためには、官僚組織が非常にうまく機能して、手段の選択をうまくすることによってやってきたということは、政治がある程度不在であったという御指摘だと思うんです。しかし今、少子高齢化、経済が低迷をして、それから、先ほどもお話がありましたが、見えない社会保障になってきた会社や家族が機能低下をしている等々の問題がありまして、実際、きょうも本会議で年金問題の議論がありましたけれども、将来の不安が増大をしているという中にあります。

 そこで、参考人が、今直面しているのは政治が価値の選択をしなくてはならないということを御指摘されておりますけれども、先ほどのお話の中にも大分入っていたわけでありますが、もう一度、価値の選択とは政治に何を求めるのかということを具体的に教えていただけるとありがたいと思うのですが、よろしくお願いいたします。

広井参考人 まさに、今御質問にもございましたように、高度成長期の手段の選択という、ある意味では官僚主導の政策決定に比較的合った時代から、低成長の中で価値の選択という時代になっているかと思うわけでございますけれども、価値の選択の具体的な中身といたしましては、私は大きく二つの次元があると思っております。

 一つは富の分配にかかわるもので、単純に言えば、高福祉高負担か低福祉低負担か。諸外国で、二大政党制の一つの基本的な対立軸になっている富の分配をどのようにするかという、これが一つ。それからもう一つは、成長か、私は定常というような言葉を使っておるわけですけれども、定常志向かという、飽くなき経済成長ということをこれからも追求し続けるのか、ある程度、経済成長ということは低いものであっても、むしろ環境やそういったものに軸足を置いた社会の姿を選んでいくのか。

 そういった、大きくは、富の分配に関する選択、それから、富の大きさそのものといいますか、それに関する価値の選択、これが基本になるのではないかと思っておりまして、やはり政治レベルでどういった価値を選ぶのかという理念と政策のビジョンを示すということが非常に大きな要請になっているのではないかと思っております。

永岡小委員 ありがとうございます。

 それからもう一つ、広井参考人にお伺いいたしますが、社会保障の公的な役割というのがますます増大をしてくるという御指摘でございました。

 すぐ問題になるのが財源の問題であります。高齢化が進展をして、拠出と負担を均衡させていくということで皆さん頭を悩ませているわけでございますが、保険原理がなじみにくい層がたくさん出てくるということになりますと、税による負担の部分が増大をするということになるんだろうと思います。また、先生もそういう御指摘をされていると思います。

 その中で、基礎年金、高齢者医療、介護、それから子供の関係の対策というものについては税金を中心にしてやっていくべきだ、こういうふうに御主張されているわけでありますが、先ほどの資料の中にありますけれども、そのときに、消費税、相続税、そして環境税というのを挙げていらっしゃいます。

 消費税は現にありますけれども、これも、福祉目的に使うべきかどうかというのは、必ずしもコンセンサスができていない。それから相続税、これを目的税として福祉目的に充てろという議論については、ほとんどまだ議論がされていないという段階でありますし、環境税については、税そのものについてつくれるかどうかまだわからないという、私は必要だろうと思いますが、必要だという立場ですけれども、そういう段階であります。

 この財源をどこに求めるかというときに、消費税、相続税、あるいは環境税というものと、今申し上げたような各種の福祉対策といいますか、年金、医療等を含む、そこに国民的コンセンサスを得るためにどういう説得をしていったらいいのかというのは悩ましい問題でありまして、その点につきまして御所見をひとつお願いしたいと思います。

鈴木小委員長 参考人に申し上げます。

 質疑の時間を過ぎておりますので、簡潔にお願いいたします。

広井参考人 これは私がお答えできるかどうかという内容の大きなテーマであろうかと思いますけれども、やはり政治のレベルでまず税の問題を回避しないといいますか、増税というようなことは、国民にといいますか、余り人気のよい提案にはならないわけでありますけれども、税の問題を、私自身は、例えば一定の福祉の充実のためには増税が必要だというようなことを受容できる市民、国民の意識といいますか、そういう成熟もかなり進んでいるのではないかと思いますので、そういった社会全体のビジョンとともに、その使途も含めた税のあり方、財政のあり方、そういったビジョンを示していくということをやっていけば、かつ、それを各政党なりが示す中で国民が選択していくという姿が、今まさにそういう時期になろうとしているのではないかと思います。

永岡小委員 ありがとうございました。

鈴木小委員長 次に、玄葉光一郎君。

玄葉小委員 民主党の玄葉光一郎です。

 お二人の参考人に御意見を伺いたいというふうに思うんですけれども、広井参考人の方からお尋ねをしたいというふうに思います。

 一つは、先ほど本会議で年金の議論が実は始まったんですね。広井先生の年金改革案は、きょうはともかくとして、今御存じのように、政府の案は現行制度の延長で保険料と給付を見直す、こういうことなんですね。今回の案で五十年、百年は安心だ、こう言っているわけですけれども、一方で、この法案が通ったら一元化について議論しよう、協議しよう、こういうこともまた言い始めているわけです。私はこのこと自体はどう考えても矛盾すると思いますけれども、その点についての見解が一つ。

 時間がないので、幾つかまとめて聞きたいと思いますけれども、もう一つは、社会保障と憲法とのかかわりですね。先ほど、最後に、社会保障については憲法が一義的な回答を与えるものではない、こういう話がございました。恐らく憲法は、そもそも、財政あるいは税だとかその支出に対してのコントロールといいますか、それがもともとの主眼だったんだと思います。したがって、こうした問題、つまり、福祉国家的な問題についてはどうしても記述が少ないというところがあるのではないか。

 我が国の現在の日本国憲法も、一言で言えば何とも条文的にはそっけないな、こういうふうに思うわけでありますけれども、広井参考人からごらんになって、この社会保障の問題で、さらにといいますか、もっと厚く憲法上規定を置いた方がよいと考えるかどうかということについてお尋ねをしたいと思います。

 碓井先生にも、もう最初に聞いちゃいたいと思いますけれども、先ほど財政立憲主義あるいは財政民主主義という観点から、国民の皆さんに情報提供されることが大事だというお話がございました。ホームページで、よく見ると開示されていて、大分進んだな、こういうことなんですけれども、ただ、私から見ると、あのホームページをごらんになって、どれだけの人が中身がわかるんだろうか、こういうふうに思いますね。

 つまり、我が国の予算制度は特に複雑だと思いますね。一般会計予算と特別会計予算と、さらにはその他の政府関係機関予算があるわけです。私も、予算委員会、ずっと理事で今回かかわっていましたけれども、特別会計についてやっとやや公開がなされつつある、こういう状況なんですね。

 ですから、予算科目別に、項目別といいますか科目別に、一般会計も特別会計もその他の予算も項目別に、トータルの連結会計といいますか連結予算、それぞれの会計の統合といいますか、そういうものまで示していかないと、私は、なかなか国民の理解というのは進まないし、議論もしにくいし、実は、先ほども財政硬直化という議論が出ていましたが、こういう問題もなかなか解決されないというふうに思います。

 ですから、今申し上げたことは、そういった硬直化の打破の一つの手段になるのではないかというふうに考えていますけれども、いかがでありましょうか。

 答えていただいて、時間があれば違う質問をさせていただきたいと思います。

広井参考人 二点ございましたが、後の社会保障と憲法とのかかわりについてまずお話しさせていただきますと、私、憲法の専門家では全く、それ以前に法律学の専門家でもございませんので、社会保障の視点からの発言になりますけれども、今の憲法というのは、これは言うまでもなく戦後アメリカの影響下につくられたもので、基本的な思想としまして、リベラリズムといいますか、個人の自由なり人権というのを基調に組み立てられている。ただ、二十五条という生存権、社会権と呼ばれるものが入っているのは言うまでもございませんけれども。

 社会保障と憲法とのかかわりが浮かび上がってくる条文としては、十三条の幸福追求権、あるいは十四条の法のもとの平等、それから二十五条の生存権と社会権ということになろうかと思いますが、私は、先ほど申しましたように、社会保障というものを個人の自由の、広い意味での自由の実現ということでとらえ直すという意味では、十三条あたりを基本原理に据えて、その上で二十五条のような規定があるというふうに理解できるのではなかろうかと思いますが、確かに、見方によっては、御指摘にございましたように、二十五条の規定は割とあっさりしているといいますか、例えば、ドイツなどでは社会国家という、もう少し福祉国家という理念を掲げた規定があるわけで、それを、日本の憲法にももう少しそういった方向づけを入れていくという選択はあり得るかと思います。

 ただ、これは極めて政策的な判断といいますか、あるいは、その時期その時期で国民の意向も変わり得る部分で、裁量の幅が大きな部分でございますので、考え方としては、このリベラリズム的な十三条や二十五条の規定のみを規定としては置いておいて、その上で、具体的な社会保障の姿を実現するのは個々の法的なレベルにゆだねるということも、十分今、現状の姿も考えられるのではないかというふうに考えます。

 それから第一の、年金について、これはまた大変な議論になろうかと思いますが、私は、一言で言いますと、今回の改革案は非常にやはり対症療法的なといいますか、そういう面が大きいと思っておりまして、また、現在の一三・五八%を一八・三%まで引き上げていくこの年金の保険料の引き上げに関しては、私自身は、若い世代の理解がなかなか得られない、かなり大きな負担を強いるものではないか。むしろ、基礎年金というものを、発表の中でも申しましたように、国の役割としては強化して、平等というものを図って、報酬比例部分はスリム化していくべきではないか。一元化という話ともつながっていくかと思いますけれども、もう少しそういった骨格自体の議論をしていく必要があるのではないかと考えております。

 以上でございます。

碓井参考人 御質問にお答えしたいと思います。

 御質問の趣旨は、予算科目、あるいは項目といいましょうか、それ別に連結予算というものをつくってはいかがかという御意見かと思います。

 特別会計というものの改革が現在進行中であるということは私も存じておりますが、今までの特別会計というものが大変複雑でわかりにくくしているということは否定できません。しかしながら、特別会計の中にはやはり存続の必要性のあるものもあるわけでありまして、そういう意味では、一概に特別会計そのものの存在を否定するわけにはいかないと思います。

 委員御指摘のように、そういうことを前提にした上で、しかし、国民にわかりやすくするために工夫の余地がないかどうかを検討する、これは大いに検討に値することだと思いますが、どういう方法があり得るかということについては、私、今まで考えてみたことがありませんので、ここでは残念ながらわからないというふうにしか申し上げられません。大変申しわけありません。

玄葉小委員 方法はいろいろあると思います。碓井先生、公共事業は一部実現をしています。でも、これは地方も含めて科目別に実現をするべきだと思うし、ぜひ先生からも、研究していただいて、提案していただきたいと思います。

 あと、複数年度予算、これは私も大いに考える余地があるし、考えるべきだと思っているんですが、これは憲法上、基本的には問題ないというふうに先ほどお答えになられていたように思いますけれども、確認の意味で申し上げると、単年度主義を捨てて複数年会計にするというのは、これは憲法上だめだ、しかし、管理の手法として導入する分には大丈夫ですよ、こういう理解でよいのかどうか、確認したいと思います。

鈴木小委員長 碓井参考人、手短に。

碓井参考人 後者の点については、御指摘のとおりでございます。

玄葉小委員 終わります。

鈴木小委員長 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)小委員 公明党の斉藤鉄夫です。

 きょうは、本当にどうもありがとうございました。私も、両参考人にまとめて最初に質問させていただきたいと思います。

 まず碓井先生ですけれども、二点。

 きょうは、財政、財政統制のあり方についてお話しをいただきました。八十三条の後に八十四条、課税民主主義のことも書かれているわけですが、いわゆる課税ということについてきょう先生の御意見がありませんでしたので、財政と裏腹の関係にある課税と憲法の問題について、お考えがあればお聞かせをいただければと思います。

 もう一点は、実は国会でも義務教育費国庫負担制度の議論を今しているところでございます。教育に対して国が、国の責任のあり方ということで議論になっておりますが、そのときに、地方自治体の教育に対しての責任のあり方、国のあり方というふうなことが議論になりました。この財政について、きょうは国ということを主体に議論いただいたわけですが、いわゆる地方分権の時代にありまして、地方の財政についての、この義務教育費国庫負担制度と直接関係ないかもしれませんけれども、お考えをお聞かせ願えればと思います。

 次に、広井先生には、お話しをいただいて、大変興味深く聞かせていただきましたが、レジュメの五ページに「(参考)ふたつの対立軸――富の成長と分配」という図がございます。大変興味深い図だったので、御説明いただけるかなと思ったんですが、飛ばされたので、この図についてお話しをいただきたいというのが第一点でございます。

 それから、社会保障について、国民負担率という一つの評価軸があろうかと思いますが、この国民負担率という観点から見て、日本の現状、諸外国との関係、よく、将来許される国民負担率はどの程度かという議論をしますけれども、それについての先生のお考えをお聞かせ願えればと思います。よろしくお願いいたします。

碓井参考人 二つの御質問でございますが、両方とも大変大きな問題でございます。

 まず、憲法八十四条がございますが、課税と憲法との関係についての見解いかんということでございます。

 租税法律主義は今後も当然維持されなければなりませんけれども、租税法律主義の適用範囲をどのように考えるかということについて、やはり検討する必要があるだろうと思います。その結果、やはり検討の必要がないということになるかもしれませんけれども、その際には、憲法八十三条との関係も留意すべきであろうと思います。私は、狭い意味の租税については厳格な租税法律主義が適用されますけれども、それ以外の金銭負担については、憲法八十三条による、国会によるやはり財政統制の問題が残るであろうと考えています。その際に、本日の議題でもございます社会保障関係の、社会保険料というのは租税と同様に考えるべきであるというのが私の考えでございますが、ただ、若干のバリエーションを認めるべきかもしれません。いずれにしましても、八十四条に乗らないものであっても八十三条による統制は残るであろうということです。

 それから、課税と憲法ということですと、当然担税力に応じた課税というものを憲法典の上でどのように考えるかということが問題になりますが、憲法に必ずしもうたう必要はないのではないか。その点は、租税というものの性質上、常に立法に当たって考慮に入れられるべき事柄であるということでよいのではないかというふうに考えます。

 次に、地方の財政についての御質問でありますが、私は、義務教育費国庫負担のことにも触れられましたけれども、やはり、国がある程度責任を持つべき経費と、それから、そうではない、自立的な地方公共団体の財政運営にゆだねるべきものとの分担関係はやはり必要だろうと思います。その際に、義務教育費について申しますと、やはり私は、国が基本的に責任を持つべきである、その程度は問題でありますが、基本的に責任を持つべきものだというふうに考えております。したがいまして、現在の地方の財政支出の中で、どういったものが国の保護のもとから離れていいかどうかという検証をしていくべきであろうというふうに思っております。

広井参考人 二点ございましたけれども、一点目の、レジュメの五ページにかかせていただきました図、私の時間配分のミスで飛ばしてしまいましたが、これは実は、先ほど、価値の選択は何かという永岡先生からいただいた質問と重なる、関連するものでございまして、これまでの、特にこれはヨーロッパを念頭に置いておりますけれども、政治の二大政党の対立軸というのは、ここの横軸といいますか、大きな政府か小さな政府か、積極的な財政政策、大きな政府か、市場にゆだねるような、この右側にありますようなものか、そういう対立軸がございました。しかし、これらはいずれも、高い経済成長を追求するという点では共通していたわけでございます。

 ところが、八〇年代、九〇年代になってから、環境の問題や、必ずしも積極的な財政政策を行えば需要が伸びて景気が拡大するということが需要の飽和というような中で起こらなくなってきた中で、縦軸、すなわち成長志向か環境志向かという対立軸がもう一つの新しい対立軸として浮かび上がってきた。

 そういう中で、両者の、大きな政府派と小さな政府派自体の振幅の幅といいますか、それもむしろ接近して、大きな政府を掲げる側も、低成長等の中ですべて手厚い公的保障というわけにはいかなくなり、逆に小さな政府の方も、高齢化等も進む中で一定以上の社会保障はどうしても充実させるべきだということで、そういう歩み寄りがなされるとともに、縦の対立軸が浮かび上がってきている。このあたりがこれから日本においても非常に問われてくるのではないかという趣旨の図でございます。

 それから国民負担率についてでございますけれども、これは、まず確認されるべきは、国民負担率というのは、社会保障に限らず公共事業とか政府全体の活動の規模を示すものであるということで、社会保障よりもう少し広いものでございますけれども、結論的には、私自身は、国民負担率が何%ならいいか悪いかというような議論にとらわれるのは余り妥当ではないと思っております。

 言いかえますと、国民負担率というのはいわば政府の活動の規模を示す結果としての数字であって、まず重要でありますのは、公私の役割分担といいますか、公的部門はどういう役割を果たすべきか、その制度論がまず先に来るべきで、その結果として国民負担率の規模をあらわす数字が帰結するというようなもので、そちらの議論から先に行うというのはある意味では本末転倒ではないかというふうに考えております。

斉藤(鉄)小委員 ありがとうございました。

鈴木小委員長 次に、山口富男君。

山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。

 まず碓井参考人にお尋ねしたいんですけれども、きょうのお話では、国民主権の原理というものを財政の分野でどういうふうに実質化させていくのかという提案だったというふうに思うんです。

 それで、質疑のやりとりでも感じたんですが、参考人の場合は、財政の規定を統治機構論だけでなくて基本的人権の保障にもかかわるというとらえ方でこの問題に接近されているんですか。もしそうであれば、少しその点をお話しいただきたいと思います。

碓井参考人 きょうお話ししたのは統治機構としての財政に焦点を絞ったものでありますが、当然のことながら財政に関する規定は基本的人権に深いかかわりを持っておりまして、すぐに思い浮かぶのは、租税はそうでありますし、それからまた、先ほども申し上げましたように、憲法八十九条なども基本的人権の絡みでの理解がなされているところであります。そういう意味では、基本的人権との関係を無視することはできないというふうに考えられます。

山口(富)小委員 その点がはっきりしましたので、大変よくわかりました。

 それから、きょうの報告の柱に沿って少しお尋ねしたいんですが、引き続き碓井参考人なんですけれども、二点目の、例外は憲法八十九条だといった部分は、先ほど、多数説は現行でよいということで安定しているというお話でしたから、そういうことで私は理解しております。

 もう一点、その次のところで、予算単年度主義にかかわって、現行憲法がこれをとっているのは軍事費にもかかわる問題があってという御指摘がありました。これは、やはり戦前の戦費調達の中で国家財政が破綻に導かれたという、ああいう歴史とのかかわりを念頭に置かれているかという点を確認しておきたいと思います。

碓井参考人 必ずしもそういう憲法学の歴史的意味までたどって私は研究しているわけではございませんが、御承知のとおり、継続費という制度について憲法に違反するのではないかという議論がなされまして、そのときには軍事費支出に対する反省があったことは否定できないと思います。あるいはそのことが、予算単年度主義という私の理解するような憲法の規定とまさに整合的であるのかもしれないと思います。

山口(富)小委員 では、続きまして、広井参考人にお尋ねしたいんです。

 ちょうどきょうも話題になっていましたけれども、この始まる前が年金で、私も本会議質問をやったものですから、多少、幾つかお尋ねしたいんです。きょうのお話ですと、十三条から出発して考えるかという話があったんですけれども、二十五条の場合、確かに、憲法は基本的人権ですから、まず十三条が出てくるわけですけれども、二十五条で大事になってきますのは、国の責任を定めた点だと思うんです。「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」という。ですから、社会保障について考えようとしますとどうしても、もちろん十三条の個人の幸福追求権も基本なんですが、この二十五条二項の国の責任という問題が出てくると思うんです。

 それで、初めのところで、役割分担というので三つのレベルがあるんだという話もあったんですが、この二十五条についてはどういう評価をされているのか。お願いします。

広井参考人 先ほどもちょっとお断り申しましたように、憲法の専門家ではないので、なかなか的確なお答えとは言えるかどうかということで、社会保障の視点からのものになりますけれども、やはり私は、先ほど憲法とのかかわりということで一度お話し申し上げましたように、二十五条というのは、ある意味では両方解釈がとり得るといいますか、すなわちリベラリズム的な思想をベースに、今の憲法の体系が、積極的な社会国家、福祉国家というところまではうたっていない。片や、御指摘のように、二十五条の二項で国の責任を定めている。ですので、もちろん十三条はあくまで理念的な規定でありまして、それを受けて社会保障に直結してくるのは当然二十五条であるわけで、かつまた生活保護その他、個々の制度のあり方とも関係してくるわけです。

 そういう意味では、二十五条というのは、憲法の解釈論で例えばプログラム規定説というようなのがあるようですけれども、かなりある意味では解釈の幅を残すような規定で、その中でどれぐらい個々の制度として社会保障を整備していくかというのは、憲法自体から一義的に規定される部分はむしろ小さくて、かなり立法といいますか、それにゆだねられているというふうに考えられるのではないかというのが私の理解でございます。

山口(富)小委員 私は、この二十五条について言いますと、やはり国の責任というものを明確に規定したという点で、世界的に見ても非常に豊かな規定になっているというふうに思います。

 それで、先ほど、ジニ係数も挙げられて、日本の所得格差の問題に触れられたんですけれども、このいただいた資料の四枚目なんですけれども、特に高齢者世帯の問題で、全国消費実態調査報告で、高齢者夫婦世帯の消費支出が大体十六万から十七万程度だと。としますと、今、国民年金の場合は平均四万六千円ですから、夫婦、世帯でお二人として九万二千円。そうすると、この水準にも遠く及ばないわけですね。となりますと、最低限度の生活を保障するという二十五条からいきまして、やはりここへの抜本的な対策が必要だという認識をお持ちなんですか。

広井参考人 基本的にそうでございます。つまり、一定以上の生活を平等に保障するという部分に公的な社会保障は力点を置くべきではないか。そういうことを考えますと、例えば、今、国民年金というのは、満額でもちろん六万六千円ではありますけれども、平均ですと、男性五・五万円、女性四・五万円というようなことで、これはあくまで平均ですので、かなりそれを下回る層がいるわけですが、そういった意味では、私はこれは非常に不足していると。むしろ基礎年金は税をベースにして、厚目の基礎年金というふうにしておりますけれども、相応の生活を保障する水準に高めるべきではないか。

 逆に、単純な言い方をしますと、行き過ぎている層といいますか、公的年金がここまで必要なのかという部分がありますので、そこは圧縮できるということで、厚目、基礎年金主体の年金制度に再編するというのが、これは当然二十五条や憲法と直結するものではないかとは思いますけれども、公的な制度のあり方としては望ましいのではないかという認識でございます。

山口(富)小委員 となりますと、結局、税の改革の問題が出てくるわけですね、財源論がありますから。

 私は、社会保障ですから、ここに消費税を入れるのは反対なんです。これは当然、消費税が所得の低い人も含めてかかっていきますから、非常に低額者に重い税金になってきますので、今お隣からありましたけれども、逆累進性というものを持ってきますから、それをとるのはまずいという立場なんです。となると、残ってくるのは企業負担の問題なんですね。

 それで、日本の場合は、先ほどヨーロッパとの比較がありましたけれども、この分野での企業の負担というのは相当低いわけですよね。この点についてはどういうふうにごらんになっているんですか。

広井参考人 まず、前半の消費税のことですけれども、私は、消費税が唯一の選択肢ではないにしろ、一つ社会保障の有力な財源ではないか。逆進性の問題は、生活必需品について非課税その他低減するなりして対応するべきであろうかと思いますけれども、一つの選択肢にはなる。かつ、例えば国民年金の保険料というのは定額ですので、逆進性は消費税以上に高いわけですから、それよりはむしろ改善されることにもなる。

 企業負担につきましては、これは、法人税の水準というのはむしろ日本はかなり先進諸国並みか、あるいは場合によってはそれ以上の場合もあると思いますので、私自身は、これからの社会保障の財源として余り期待することは難しいのではないかと。

 もう一つは、企業負担、社会保険料などが余りにも大きくなりますと、今度は雇用に対して消極的になって失業がふえる、そういうまた別の問題点も出てきますので、財源としてはむしろ、きょうお話し申しました消費税、相続税、環境税もあります、それからまた、所得税自体が所得再分配機能が弱くなっていますので、個人の所得税もありますけれども、そういったものが中心になっていくのではないかというふうに考えております。

山口(富)小委員 時間が来たので終わりますが、法人税だけの比較じゃなくて、総合的に見たら、日本の大企業を中心として、社会保障分野での税負担というのは大変低いというのが実態だと思います。

 終わります。

鈴木小委員長 次に、土井たか子君。

土井小委員 きょうは両先生、ありがとうございました。

 お二方とも大学の教授でいらっしゃるわけですけれども、人間育成という点からすると、義務教育の国庫負担という問題というのは、これは実は非常に大きい問題だろうと思うんですね。条文でいえば、憲法の二十六条の二項に「義務教育は、これを無償とする。」という条文がございますが、これは公立小中学校の場合は、今度は義務教育国庫負担金に対して一般財源化というのが、今政府の進める三位一体の中の柱になっているというわけですから、これから先どうなっていくかとかなり不安半ばで、この問題に対して心配なさる声というのが聞こえてまいります。

 確かに、一般財源化すると、国から都道府県にお金を渡す際に、その使い道について具体的に国からの縛りというのがなくなる。したがって、それだけに学級編制も自由にできるとか、また、創意工夫を教育現場で生かすことになるという反面、そればかりじゃなくてその反面、自治体の胸三寸で、この義務教育に対してどういうふうに中身を決めていくかということで、大分格差が全国的にはできるんじゃないかということが取りざたをされております。

 今、全国的には一定の教育水準というのを確保するということでやってきた義務教育ですから、大抵、私なども外へ出ました場合に、アジアの国々でももちろんそうですけれども、欧米でも、日本の義務教育に対しては、非常にうらやましい、水準が非常に高いと。これはもう定評があると申し上げてもいいと思うんですね。

 今までのやり方がすべてよかったとは私は申しません。やはり改革すべきは改革すべきだろうと思いますけれども、しかし今、一定の教育水準というのを確保するということでやってきた中身が困難になるということが、少なくとも一般財源化という暁は覚悟しなければなりませんよという声が出てきているわけですから、地域によって学力格差というのも出てくるかもしれないし、また、地方によって独自教育ということになると、全国的には一定の教育水準を確保するということが難しくなるということも考えなければならないという問題があって、この両者の調和というのをどのように考えたらいいのかというのが、恐らくは具体的にこれから考えなければならない課題がクローズアップされるだろうと思うんですね。

 どのようにこれは考えましたらようございましょう。両先生にお聞かせいただきたいと思います。

碓井参考人 大変、教育という人材育成の根幹にかかわる問題で、私も大学に身を置いております関係で、重大な関心を持っております。

 ただ、それだけになかなかお答えしにくいのですが、まず、義務教育のことについてどこが責任を負うべきかということについては、先ほども申し上げましたように、私は、国が責任を負うべきである。財源についても、国が基本的には責任を負うべきである。その場合に、一般財源化ということが財源について責任を負う制度になるかどうかということが、まず財政の面からいくと問題でありまして、全般的な地方交付税制度の縮小という中でそれが保たれるかどうかというのが最大の関心事であります。そこで十分に確保されるという場合には、それなりに私は評価してもいいと思います。

 次に、格差の問題で、教育水準がばらばらになりはしないかという御指摘でございます。

 これは、地域による教育のあり方を自主的に考えるという自主性の余地というのももちろんあるわけですから、国家による教育の統制を徹底すべきであるという議論には必ずしも私は賛成いたしません。しかしながら、委員御指摘のように、質を落とすことは困る。そうすると、それをどのように調整するかというと、やはり一定の評価といいますか、そういうものは不可欠になるのではないか。その評価というものが統制になるのではなくて、自由な批判をして、それを、それぞれの地方公共団体がこたえていく。法的に統制されるという意味ではなくて、そういう批判にさらしてそれにこたえていくというのが一つの解決策なのではないかというふうに私は考えます。

広井参考人 教育に関してでございます。

 これは、まず、社会保障との関係が非常に強くなっていて、社会保障と教育を区別すること自体がもう困難になっているという状況かと思います。

 イギリスのブレアが、改革で重要なものを三つ挙げろといって、教育、教育、教育と言った話が知られていますけれども、社会保障というのはこれまで主に人生の後半にかかわるもので、教育は人生の前半というようなことで区別されて考えられてきたわけですけれども、今や失業率が一番高いのは若者であって、人生前半の社会保障というのが重要になって、教育も、生涯学習ということで人生に広く及ぶという意味で、社会保障と教育というのを一体のものとして考えていく必要がある。

 それで、日本の教育費、GDPに対する公的な教育費というのは先進諸国の中で最も低いわけですので、そういった意味では、少なくとも財政的には、教育に対する公的な支出というものは現在以上にもっと拡充するべきであるというふうに考えております。

 その中で、一般財源化かどうかという、そういったことに、その配分のあり方についてはちょっとまだ定まった見解を持ち合わせておりませんので、その点はここでは控えさせていただければと思います。

土井小委員 ありがとうございました。

 これもまた基本的なことだと思うんですが、憲法の二十八条では、労働基本権のありようについて保障しております。

 そのうち、団体交渉権、団体行動権というのが保障されていないのは公務員労働者なんですね。このために、公務員労働者の労働条件というのを保障しなければならない、したがって、代償措置として人事院による勧告が取り入れられているというのはもうだれしもよく知っているところですが、中央、地方を問わず非常にただいまの厳しい財政状況の中で、人件費の削減というのが当然のことのように出てまいっております。この人事院勧告も、給与やそれから一時金の引き下げというのを勧告するという状況でもございます。

 人事院勧告というのが、実際上そうなってまいりますと、労働者として、基本的権利として保障されねばならない労働条件を保障しないかわりに代償措置として認められているという、この役割を果たしていないということにもなってくるわけなんですね。

 したがって、この労働基本権の保障と人事院勧告のありようというのを現状においてはどのように考えたらいいんでしょう。これはどのようにお思いになりますか。

碓井参考人 残念ながら、私は憲法学者でもございませんし労働法学者でもございませんで、お答えする資格はないと思いますが、代償措置であるというその議論については、もちろん私も承知しております。

 お答えにならないのですが、まず、人事院勧告というものが世間の動きからすればおくれがちであるということが、私は非常に気になるところであります。例えば、世間の賃金が上昇傾向にあるときにはすぐに上げてくれるかというとそうではなくて、かなりおくれる。それから、世間が大変苦しんで、民間の人たちが路頭に迷ったり給料を減らされているときに、公務員の方はなかなか、代償措置だからといえば代償措置ですが、減額の勧告は出されなかったという過去の実績があるように思います。

 ですから、そういうタイムラグの中でこの人事院勧告の制度をどう評価したらいいかということについては、もう少し考え直してみる必要があろうかと思います。

 お答えになっていないのですが。

広井参考人 これも、私も碓井先生以上に、恐縮ですが、十分なこの点についての知見を持っておりませんので、むしろちょっと課題として受けとめさせていただければと思います。

土井小委員 それは申しわけございません。ありがとうございました。

 それでは、ひとつ碓井先生に承りたいんですが、先ほどお話を承っておりますと、八十九条の問題で、これはいろいろな見解が学界でもあり、それから取り扱いの上でも賛否両論あって、今の八十九条からしたら私学に対する助成は認められないんじゃないかという声も聞こえてくる、その中での私学助成なんですね。しかし、だからはっきりした方がいいとおっしゃる、そのはっきりした方がいいの中身を、私は、私学助成法という法律ではっきりした方がいいというふうに思っている一人なんです。

 ただいま八十九条では、私学に対する国庫助成というのは、私は憲法違反とは思っておりません。そしてまた、取り上げる方がちょっと少ないなと私は思うんですけれども、二十六条の一項という条文も、私学のありように対しては、「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」というのがすべての国民にあるわけですから、したがって、その辺も、保障をしっかりするという意味において、私は、私学に対しての国庫助成法というのをしっかりさせればよいというふうに思っております。そういう考えなんです。

 そしてもう一つは、国会の方が一つのテーマに取り組んでいるわけではございませんけれども、各委員会がどういう活動をしているかということを一冊にまとめて、「衆議院の動き」という表題だと思いますが、最近出たのが十一冊目でございます。お手元に届いておりますかどうか。

 いろいろな方々に一冊目のときは読んでいただいて、御感想をいただいたんです。それで、よりわかりやすく、より親しんでいただけるものにしないと、大抵は、国会から出てくる文書というのは、三行読んだら眠たくなるとおっしゃる方が多くて、居眠りの材料を提供するようなことじゃなくて、やはり喜んで読んでいただけるようなものをつくっていくということが大事でございますから、そういう思いでおりますが、もしもお手元に届いていなければ、委員長にお願いしたいと思います。十一号まで出ております。

鈴木小委員長 次に、森山眞弓君。

森山小委員 両先生、まことにありがとうございます。

 私は、主として広井先生に御質問申し上げようかなと思っております。

 同僚議員から、それぞれの見地から、あるいは角度から、質問が既にたくさん出ておりますので、ダブらないように気をつけるのは非常に難しいのでございますけれども、私自身の経験から入りたいと思います。

 社会保障とか社会保険とかいう言葉を聞きますと、私はいつも、一九六一年にスウェーデンに行ったときのことを思い出すわけでございます。今先生の資料を拝見すると、国民皆保険とか皆年金とか言われたのが六一年だそうですので、多分そのころ、日本も、福祉国家、あるいは社会保険、社会福祉というのはどういうものかということを真剣に勉強する気持ちになったんだと思いますが、そのころまだなりたての公務員だった私が、そのような奨学金を得まして、スウェーデンその他へ行ってまいりました。

 行きましたら、その当時の日本人の目から見ますと、物すごくすばらしい施設、保育所もそうですし、老人ホームもそうですし、そのほか、大変にすばらしい施設が立ち並んでおりまして、また、目をみはるような行き届いたサービスが行われておりまして、非常に立派だなと思いまして、これが福祉国家というものかということをつくづく感じたわけでございますが、なぜこのスウェーデンという国がこんなことができるんだろうかと私はそのとき思いました。

 簡単にそのとき勉強したことによりますと、スウェーデンは戦争に参加しなかったからお金がいっぱいある、そして人口が少ないから一人一人が大切にされるというのではないかなとその当時思ったことを今思い出しておりますが。それから二、三十年たちまして、日本も大変お金だけはあるようになりましたし、人口は相変わらず多かったですけれども、でも、いわゆる少子化というのが始まってまいりました。ですから、当時のスウェーデンと似たような状況になりつつあるわけなのでございますが、その日本が、社会福祉、社会保障について今大変悩んでいるわけでございます。

 その辺はなぜなのかなという非常に素朴な疑問を持っておりますので、それについて何かお答えがあれば、聞かせていただきたいと思います。

広井参考人 今の点は、恐らく社会保障のあり方を考えるに当たって一番根底にある点だと思うんですが、私も実はその点をずっと疑問に思っておりまして、二年ほど前、一年海外研究に行ったときも、その点を一つ課題にしたんです。

 やはり社会保障のあり方というのは、その国の文化や歴史に依存する部分がかなり大きくて、例えば、私がスウェーデンに感じたのは、文化という意味では、宗教的な背景、例えばスウェーデンの場合は、中世に教会などがやっていた事業、プロテスタントの国で、実質的に国教会ですので、国が福祉事業を引き受けていった。教会に税金を払っていたのが、そのまま、単純に言いますと、国家に払う税に移行していったというような、そういった文化的な背景もあるわけで、公的部門に対する非常に厚い信頼といいますか、コンセンサスというものがある。

 裏返して言えば、個人主義といいますか、家族等が介護や子育てを行うのではなくて、外部化するといいますか、公的部門が行う、そういったことへの志向性が強いというようなことで、やはり社会保障のあり方というのは、改めて言うまでもないことかもしれませんが、その国の文化や歴史に依存する部分が大きいです。

 今、社会保障の研究の分野でも、各国の社会保障はこれから接近していくのか、違いを残したまま推移するのかというのが大きなテーマになっておりまして、難しいところなわけですが、ただ、各国共通の現象として、経済が成熟化して、共同体が緩くなって、個人が単位の社会となっていくというこの方向自体は先進諸国共通のものでありますので、そういう意味で、趨勢としては日本も、家族や共同体に余り依存するのではなく、公的な部門の社会保障を充実させていくという方向に進まざるを得ないのではないかというふうに考えております。

森山小委員 そのスウェーデンでも九〇年代に大変悩んだそうでございまして、そのときできた連立政権がワーキンググループをつくって新しい改正法をつくったということを聞いております。

 それが九八年に成立して翌年から施行されたというふうに聞いておりますけれども、これは特徴がいろいろあるようでございますが、例えば、年金制度の抜本的な再編、つまり、給付建てから掛金建てとか、あるいは、二階建て給付から所得比例をベースの給付にするとか、年金保険料一八・五%を長期固定化するとか、あるいは、受給開始年齢の自由選択化、六十一歳からもらうか、七十歳までの間、適当なときに自分から言い出してその時期にもらうというようなやり方もできるようですし、その他幾つか特徴があるようでございます。

 これらは、私のような素人が見ますとなかなかおもしろいアイデアだなと思いますが、先生におかれてはどのようにお考えでしょうか。

広井参考人 まさに、御指摘されましたように、スウェーデンは九〇年代に非常に悩んで改革を進めて、これは、大きな枠組みで見ますと、先ほど各国の社会保障が接近ということを申しましたけれども、最も厚い公的な社会保障、福祉国家をやっていたスウェーデンですらといいますか、すべてを公的にというのではなくて、一定の効率性とか市場原理というようなものを社会保障の中に取り入れていく、そういう改革であるというのが基本であるかと思います。

 そういう意味では、日本にとっても非常に学び得るものであるかと思うんですが、スウェーデンと今回の改革案が保険料に上限を求めるという意味で共通しているという説明がなされることがあるんですが、これはかなり様相が違っておりまして、スウェーデンは、ほとんど改革を行った時点以上に保険料をもう上げない、それ以上上げないという改革であった。日本の今回の改革は、一三・五八%を一八・三までかなり上げていくというものですので、そういう意味ではかなりスウェーデンのものとは違っているということが一つあるかと思います。

 それから、スウェーデンのもう一つの特徴は、最低保障年金ということを、ここは税金で一律に保障するということを行ったわけで、これは社会保険で行う保険を補完するような形で位置づけているわけですけれども、私自身の考えは、そうではなくて、やはり基礎的な部分の保障はすべての国民に基礎年金という形で税を財源に保障するのが考え方としては筋ではないかというのが私見ではございますけれどもありますので、その点では、必ずしもスウェーデンの制度をそのまま日本にというのは妥当ではない面があるのではないかというふうに考えております。

森山小委員 ありがとうございました。

鈴木小委員長 次に、津村啓介君。

津村小委員 長時間お疲れさまでございます。民主党・無所属クラブの津村啓介と申します。

 憲法調査会小委員会における質問は本日初めてになりますが、私は、大学時代に碓井先生の同僚に当たられる増井先生の租税法のゼミに所属しておりまして、シャウプ税制の戦後日本の税制に与えた影響その他を勉強したことがあります。また、八年間勤めました日本銀行におきましては、日銀法改正の議論を職員の一人として間近に見ておりました。その時々の思いや、あるいは経験をもとに、以下幾つかの点を、主として碓井先生になりますけれども、御質問していきたいと思います。

 最初の質問は、ちょっと大きな話になりますが、憲法の寿命あるいは耐用年数についてです。

 私は、社会科学と自然科学や人文科学、こういったものの一つの違いは、そこに寿命とか耐用年数というものがあるかどうか、あるいは人類、文明の進歩にそこが影響されるかどうか、こういったことにあるのではないかと思っていまして、例えば、自然科学の普遍性は言うまでもありませんが、人文科学も、人類がこの世にある限り普遍的な価値を持つものと思っています。

 しかし、社会科学の領域につきましては、とりわけ政治システム、統治機構については、さまざまな外部環境の変化によって当然価値が変化をいたしますし、実際、立憲主義国家の先輩であるヨーロッパやアメリカの各国においても、憲法というのは、長くても数十年、短ければそれよりもさらに短い期間で、改正をしたりあるいは抜本的につくり直すということがあるかと思います。

 これは一般論として両先生にお聞きしたいんですが、憲法には寿命とか耐用年数というものがあると思われますか。また、やや長目にとっていただいても結構ですが、どの程度で社会の変化が憲法に改正を迫るとお考えになりますか。

碓井参考人 お答えします。

 憲法に寿命ありやなしやということですが、憲法を決めるのは国民でございますから、その国民がどういう選択をするかという問題だと思います。ですから、そういう意味では、国民意思の変容といいますか、そういうのがあるか否かということにかかわっていると思います。

 それからもう一つは、例えば現在、日本国憲法のようなものを想定した憲法の寿命ということになりますと、その日本国憲法がどの程度の詳細さで規定しているかということにかかわっているわけであります。

 きょう私に課せられた統治機構の財政に関する部分について申しますと、憲法自体がそんなに詳しい定めを置いているわけではございません。ですから、財政法、会計法等の財政法令が具体的な制度化を行っているわけですね。財政法令の制度というものには、それは寿命がむしろあるものもあるかもしれません。先ほど来議論に出ております複数年度予算の必要性などは、まさにその典型かもしれないと思います。

 そういう意味では、憲法の寿命としては、財政に関する部分については、私は尽きたとは思っておりません。それから、現行の憲法のような大ざっぱなものを前提にすると、一般的に何年とも必ずしも言いがたい。しかし、財政法令、法律や政令等について言えば、これは寿命が尽きている制度もあり得る、こういうふうに考えています。

広井参考人 憲法に寿命があるかというのは、非常に重要なといいますか、興味深い視点だと思うんです。

 私も、その点について考えたことがあるわけではないんですが、基本的には、碓井先生も言われましたように、憲法だけが独立した形で社会、世の中に存在するわけではなくて、社会構造の変化といいますか、そういうものが基盤にあって、その上にそれを踏まえた形で存在しているものだと思いますので、憲法の寿命いかんというのも、それ自体で議論できる点というよりは、その基盤にある社会構造の変化というものをどう理解するかによって決まってくるものではないかというふうに思います。

津村小委員 ありがとうございます。

 質問を続けますが、私の持論を申し上げますと、私は、過去の各国の例や日本の例を見ても、大体五十年から六十年、長く見ても百年程度の、長目に考えてですよ、憲法の寿命を一つ想定しながら、そろそろ日本国憲法の改正時期が迫っている、そしてこうして議論されているんだと理解をしております。

 そしてまた、私は、実はそういう意味で言いますと、日本国憲法は、今のこの日本の経済大国、あるいは平和な国と私は思っておりますけれども、こういうものをつくってきた大きな歴史的意義があったと思っているわけですが、それはある意味過去のものになっていると思っています。

 そして、これから次の、それでは、二十一世紀、五十年、百年、新しい憲法をつくる際には、未来永劫続くものを今からつくるわけではなくて、やはり寿命があるものをつくるわけですよね。私はそう考えるんですが、そういう意味で、これから向こう百年ほどの日本にとって何が最も大きな国としてのテーマなのかと考えたときに、もちろん少子高齢化ということもあります。ただ、ここは財政の話を伺いたいものですから、財政面で最も大きな向こう百年のテーマは、やはり財政再建であり、財政健全化だと思います。

 これは、日本国憲法ができたとき、あるいはその他の各国の憲法ができたときと比較しても、相当大きなテーマとして今あると思いますので、そう考えたときに、日本国憲法の問題点を整理してという、そういう積み上げ方ではなくて、まず、国がしっかりと憲法に、あるいは国家国民の意思として、財政再建を促すような仕組みを憲法の中にビルトインしていくことが国としての姿勢を示すことにもなりますし、あるいは、さらに言いますと、今、一千兆円にも上る公的債務があって、海外のマーケットから日本の国の、要するに財政運営能力を問われているわけですよね。それがたび重なる格下げにつながっているわけですが、この問題をやはり国として、対外的に、外からどう見えるかということをしっかりとメッセージを発するために、この憲法改正というのは非常に大きな意義があると思います。

 そういう意味で、碓井先生、先ほどの御意見の中では、まあその話はむなしさも伴うものであるから、これは法律の方で、立法府の方でやってもらうのはどうかという御意見をおっしゃっていましたが、私は、むしろ国民の意思として、向こう百年にわたる強い国民の決意として憲法に健全財政主義を明記することはどうなんだろうかと思っているんですが、そこは多少意見の違いもあるかもしれませんが、法技術的な部分で、健全財政主義を盛り込むことが可能か不可能か、教えてください。

碓井参考人 ただいまの健全財政主義を憲法に盛り込んではどうかという御意見でございますが、私がきょう申し上げたのは、時々の財政事情というのは変動していきますから、健全財政主義を好ましいと国民が考えていると仮定いたしましても、それを破らざるを得ない事態というのはどうしても出てくると思うわけですね。そういう事態をも封鎖するような意味の強力な健全財政主義を憲法に書けば、それこそ意味があるわけですが、それでは身動きができない、そういうジレンマがあると思います。すなわち、憲法に健全財政主義を盛り込むというときには、訓示的な意味の憲法規範になるのではないかというふうに思います。

 そのような規範でももちろん意味があるということで盛り込むことには、私は反対はいたしません。しかし、それは破られ得る原則、例外のないものはないという意味で、例外があり得べしという健全財政主義になるのではないでしょうか。

津村小委員 もう余り時間がありませんので、私の意見を言うだけになりますけれども、私は、戦後、日本において、憲法九条が、日本の国の一つのカラーあるいはメッセージとして、対外的にすごく大きなアピール力を持ったと思っています。これから先、それとはまた違う場面で今、日本が対外的に発しなければいけないメッセージの一つには、やはり財政の問題、国の中で、国の中の法律として議論することももちろんですが、やはり対外的なメッセージというのが、グローバリゼーションの中で、国際金融マーケットを今日本は持ちつつある中で、しっかりとしたメッセージを出していかなければいけないということを申し上げたいと思います。

 それから、最後に、もう時間は終わっておりますが、これは残していただきたいので申し添えるんですけれども、日本銀行改正をめぐる議論において、最終的に憲法問題がクリアにならない中で、日銀の独立性というものが現時点では、私は十分なものになっていないと思っています。私、日本銀行の法的性格をめぐる議論を塩野先生がリードされたテーマがございまして、その点についても詳しくお話を伺いたかったんですが、今回のこの憲法調査会での今後の議論においても、日本銀行の法的性格についてまた議論がなされることを希望するとだけ申し上げて、私の時間を終わりたいと思います。

 どうもありがとうございました。

鈴木小委員長 次に、岩永峯一君。

岩永小委員 遅くまで御苦労さんでございます。

 碓井先生、私、農水大臣政務官をやって、その後総務大臣政務官をあずかったわけです。それで、たまたま、農水大臣政務官に行ったときに、実は政策評価のはしりだったんですね。そして、農水省が、かなり政策評価について研究をしながら、政策評価制度をどうするかということで当時、研究に研究を重ねながら、あるべき政策評価というのをつくり上げた、それは農水省の力であったんじゃないか、私はこのようにすら実は思うほど、農水省というのは努力していました。

 それで、逐一、私も興味がありましたので、そのシステムなり、それから評価委員会等にずっと出て、実効あるものにしたい、こういう努力をしてきたわけでございます。そのおかげで、実は、各省庁の大臣政務官が、岩永、農水省すばらしいじゃないか、一回みんなに、どういうやり方をやっているか話をしてくれ、こういうような話があるほど農水省も努力してきた、このように思うわけですね。

 それが終わってから、今度は総務省に大臣政務官として行ったわけです。そうしたら、総務省では、今度はそれを受けて二次評価を総務省が行うと、政策評価の。各省庁のものの適正を総務省がチェックする、こういうシステムになっているわけですね。それで、今度は、会計検査院が、検査の性質の有効性、効率性の評価というのをやっているわけでございまして、みずからやる、そして総務省がそのチェックをする、今度は会計検査院は会計検査院でやるというようなことなんですが、ちょっと、政策評価が屋上屋になってきたんではないか。

 だから、みずからの省庁でやるのはいいけれども、それを総務省でやる、ともかく国会、行政府、会計検査院、それぞれの部分がどういうふうに政策評価にかかわっていったらいいか、ちょっと私が今悩んでいるのはそこなんですが、どういうように処理をしていくのがいいと思われるか、先生の御意見があったらお聞かせいただきたい、このように思います。

碓井参考人 委員御指摘の、屋上屋を重ねる制度と申しますか、屋上屋を重ねるという表現がいいかどうかはわかりませんが、多数の方法が乱立しているというふうに私も認識しております。現在の総務省は各省庁のことを評価する立場にありますから、お話のようになるわけであります。

 私は、このようなことにどれだけのコストをかけるかということ自体も、それこそ評価しなければならない事柄であると考えています。

 そして、全く個人的なアイデアにすぎませんけれども、これからは、各省庁は、固有のそういう政策評価が必要なものは厳選することにいたしまして、むしろペイを払って総務省に評価してもらう、そういうふうにしてはいかがか。つまり、有料評価ということになるわけでありまして、日本の役所は一般に、評価を受けるということに消極的で、毛嫌いしているわけですが、これからは、お金を払って厳しい評価を受けることがむしろそれぞれの省庁の今後存続していく道である、そういう認識に立つ必要があるのじゃないかというふうに考えています。

岩永小委員 では次に、広井先生にお伺いをしたいと思うんですが、一つは単純な話なんですが、今、国民年金問題、大変な議論になっておるわけですね。それで、二十歳以上の自営業者や学生に納付が義務づけられているわけでございまして、保険料も毎月一万三千三百円。しかし、納付率が、御承知のように、平成四年が八五・七%であったのが、今、平成十四年では六二・八%まで落ち込んでいる、こういうことなんですが、先生は、この納付の状況について原因は何である、そして、なおかつ未納を解消するためにはどうすべきであるとお考えなのか、ちょっとお聞かせいただきたいと思います。

広井参考人 このいわゆる空洞化というのが非常にゆゆしき問題であるわけですけれども、私はやはり、一番大きな理由は、基礎年金、国民年金の性格が余りはっきりしていない。三分の一税金で三分の二保険料というのは、つまり、これは保険なのか、若いときに積み立てたお金が年をとったら戻ってくるようなそういう制度なのか、それとも、今いる高齢者のために国民全体が税金で負担している制度なのか、その制度の趣旨が非常にあいまいであるというのが基本的な原因だと思います。

 したがって、私はやはり、発表の中でも申しましたように、国民年金、基礎年金は、全国民共通のものとして、しかも、最低生活、一定以上の生活の保障という性格のものですので、税を財源にして再編するというのが一番妥当な対応策ではないかというふうに考えます。

岩永小委員 はい、どうも済みません。

 それでは、広井参考人に、福祉国家モデルというので、大きな社会保障給付のAグループ、それから、拠出に応じた給付のBグループ、最低限の公的介入のCグループという三つに分類されるわけですね。

 先生がおっしゃっているお話で、社会保障はその国の社会構造、価値観、文化、歴史等を色濃く反映しているということであるが、日本はこのうちどのグループに分類されるのか。また、社会保障には各種制度があって、一概には言えない面もあるわけですが、日本はどういう方向を目指していったらいいかというふうなことを、ちょっと私、ほかの会議がございましたので、お話を聞いていなかったので、大変失礼かと思いますが。

広井参考人 レジュメの二ページのところでございますが、これがやはり基本論になるかと思います。

 やはり日本は、これまではBグループ、共助、やはり日本は文化的にも、家族や共同体、それから、会社も社会保障的な役割を果たしたと申しましたけれども、共助的なものを基本に置いてこれまでやってきたと思います。

 ただ、これまではうまくやってこれたわけですけれども、会社も終身雇用というのから崩れて、さらに家族も三世代同居というようなことではなくなってくる中で、どうしてもやはり個人が社会の単位になってくる。そうなってくると、これまでBに軸足を置いていたわけですけれども、私としては、やはりある程度はAの方向に、公助的なものを重視せざるを得ないというのが基本かと思います。

 ただ、話がちょっと錯綜しておりますけれども、実は、A、B、Cという各グループも、国際的に見ると接近していて、先ほどスウェーデンのお話も出ましたけれども、Aグループも、単純な公助ではなくて、できるだけ民間の市場原理を活用するというようなことも出ていますので、各要素の長所を維持しながら、軸足は、私自身はAの方向に比重が大きくなっていかざるを得ないのではないかというふうに考えてございます。

岩永小委員 ありがとうございました。

鈴木小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 両参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

    ―――――――――――――

鈴木小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行います。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたします。

 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようにお願いをいたします。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。

 特に御発言ございませんか。――それでは、御発言がないようでございますので、これにて終了させていただきます。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後六時二十五分散会


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