衆議院

メインへスキップ



第10号 平成18年6月6日(火曜日)

会議録本文へ
平成十八年六月六日(火曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   委員長 森山 眞弓君

   理事 岩永 峯一君 理事 小渕 優子君

   理事 河村 建夫君 理事 田中 和徳君

   理事 町村 信孝君 理事 大畠 章宏君

   理事 牧  義夫君 理事 池坊 保子君

      稲田 朋美君    岩屋  毅君

      臼井日出男君    遠藤 利明君

      小此木八郎君    大前 繁雄君

      海部 俊樹君    北川 知克君

      北村 誠吾君    小島 敏男君

      小杉  隆君    篠田 陽介君

      下村 博文君    菅原 一秀君

      戸井田とおる君    中根 一幸君

      中山 成彬君    西銘恒三郎君

      鳩山 邦夫君    広津 素子君

      松浪健四郎君    松野 博一君

      松本 洋平君    森  喜朗君

      若宮 健嗣君    小宮山泰子君

      郡  和子君    中井  洽君

      西村智奈美君    羽田  孜君

      藤村  修君    松本 大輔君

      山口  壯君    横光 克彦君

      笠  浩史君    鷲尾英一郎君

      太田 昭宏君    斉藤 鉄夫君

      石井 郁子君    笠井  亮君

      日森 文尋君    保坂 展人君

      糸川 正晃君    保利 耕輔君

    …………………………………

   議員           高井 美穂君

   議員           藤村  修君

   議員           笠  浩史君

   参考人

   (学校法人渋谷教育学園理事長)

   (日本私立中学高等学校連合会会長)        田村 哲夫君

   参考人

   (兵庫教育大学学長)

   (中央教育審議会委員)  梶田 叡一君

   参考人

   (首都大学東京学長)   西澤 潤一君

   参考人

   (財団法人全国退職教職員生きがい支援協会理事長) 渡久山長輝君

   衆議院調査局教育基本法に関する特別調査室長    清野 裕三君

    ―――――――――――――

委員の異動

六月六日

 辞任         補欠選任

  臼井日出男君     北川 知克君

  島村 宜伸君     松本 洋平君

  西銘恒三郎君     中根 一幸君

  やまぎわ大志郎君   篠田 陽介君

  奥村 展三君     郡  和子君

  石井 郁子君     笠井  亮君

  保坂 展人君     日森 文尋君

同日

 辞任         補欠選任

  北川 知克君     臼井日出男君

  篠田 陽介君     菅原 一秀君

  中根 一幸君     西銘恒三郎君

  松本 洋平君     島村 宜伸君

  郡  和子君     鷲尾英一郎君

  笠井  亮君     石井 郁子君

  日森 文尋君     保坂 展人君

同日

 辞任         補欠選任

  菅原 一秀君     広津 素子君

  鷲尾英一郎君     小宮山泰子君

同日

 辞任         補欠選任

  広津 素子君     やまぎわ大志郎君

  小宮山泰子君     奥村 展三君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 教育基本法案(内閣提出第八九号)

 日本国教育基本法案(鳩山由紀夫君外六名提出、衆法第二八号)


このページのトップに戻る

     ――――◇―――――

森山委員長 これより会議を開きます。

 内閣提出、教育基本法案及び鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案を一括して議題といたします。

 本日は、両案審査のため、参考人として、学校法人渋谷教育学園理事長・日本私立中学高等学校連合会会長田村哲夫君、兵庫教育大学学長・中央教育審議会委員梶田叡一君、首都大学東京学長西澤潤一君、財団法人全国退職教職員生きがい支援協会理事長渡久山長輝君、以上四名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、参考人各位からお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いいたします。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、まず田村参考人にお願いいたします。

田村参考人 おはようございます。御紹介いただきました田村でございます。

 本日は、教育基本法改定の上程に当たり、参考人として意見を述べさせていただく機会をいただきましたことを感謝申し上げ、一生懸命努めたいというふうに思いますので、よろしくお願いしたいと思います。

 御存じのように、今回の基本法改定のスタートは平成十二年、教育改革国民会議、きょう委員としてお見えになっておられますが、小渕委員のお父様の小渕先生、それからきょうは委員として御出席になっておられます森前総理、このお二人の総理大臣のもとで教育改革国民会議という会議が開かれまして、そこで真摯にこれからの教育についての改革の議論をいたしました。議長は江崎玲於奈ノーベル賞受賞者でいらっしゃいました。これは、御紹介申し上げたのはちょっと理由がありまして申し上げているわけですが。そして、真摯に議論した結果、教育基本法改定を考える必要がある、こういう答申を出させていただいたわけであります。その内容に関しても、そこでかなり細かく明示をさせていただいたという経緯があります。

 実は、今回、政府案としてお出しになっておられる基本法改定の内容は、そのときに議論され、内容を書き込んだ部分とほとんど変わりはございません。まさに、その間、中教審で議論をされ、中教審としても多くの時間をかけて答申をお出ししているわけですが、それらの内容も含めて、今回の改定の案というのはそれほど大きな差がない。

 大体、私ども、考えさせていただきますと、実はその間、私は教育改革国民会議の委員として、また中教審の委員として、この議論にずうっと参加をしてまいりました。そして、議論をした結果出した答申等を一日、二日前から読み直して思い出しているわけですけれども、本当に、ある意味では民意は議論を尽くした、率直にそう感じております。ここまで議論を尽くしたんですから、そろそろこの辺で立法府としての意思を表明していただく必要があるのではないか。いいならいい、だめならだめということをはっきりとさせていただきたい。これは非常に重要なポイントでございますので、ぜひお願いを申し上げたいというふうに思います。

 教育改革国民会議の目標は、当然のことでございますが、新しく二十一世紀を迎えるについて、新しい時代にふさわしい教育を考える場合に、今までの教育基本法でいいんだろうか、こういう議論がスタートにあったことを申し上げたいと思います。

 当時は、今から六十年前でございますから、国を挙げて義務教育をしっかりと内容のあるものにする、これが目標でございました。したがいまして、いろいろありますが、基本的に教育基本法は、言葉をかえて言えば義務教育基本法であったというふうに言っていいのだろうと思っております。ですから、義務教育については、いろいろと事細かに規定させておりますけれども、それ以外に関してはほとんど触れていないというのが、当時の時代の要請によって生まれた法律の性質だろうというふうに思います。

 しかし、その後、これから大きく変わりました。中教審はそのことを簡単に指摘しておりますけれども、信頼される学校教育の確立、知の世紀をリードする大学教育改革、家庭の教育力の回復、学校、家庭、地域社会の連携協力、公共に主体的に参加する意識そして態度の涵養、新しい公共心という言い方をしておりましたけれども、この点についての深い議論を続けてまいりました。そしてさらには、日本の伝統、文化の尊重、そして国土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識を涵養していく、こういうようなことが議論されまして、そのことを柱として答申が出されたということでございます。

 そこで、現在国会で議論されております内容にかかわりましては、政府案と民主党がお出しになっておられる案があるわけでございますが、内容をよく拝見しますと、共有できるものが非常に多いわけでございますので、一、二多少の問題点、違いがあって、これはどうかなということはありますけれども、共有する場所が非常に多いものですから、ぜひこれは審議を経て、何らかの形で立法府としての意思を表明していただきたい。これは、ぜひお願いしたいと、関係者としてはお願いを申し上げたい第一位でございます。

 それから二点目でございますが、なお、教育基本法に関しては、改定をすることは意味があるのだろうか、教育現場に影響が余りないんじゃないだろうか、こういうような御意見があることも承っておりますが、私ども実際に教育に従事しておりまして、考えてみますと、もう長いもので四十年もやっているわけですけれども、日本の国民が教育に熱心だというのは、ある意味で、一般的に言えることかなという率直な疑問を持っております。

 つまり、御自分のお子さんが学校あるいは学校関係にいるときは関心をお持ちになるんですけれども、卒業してしまうと、ぱったり関心を失ってしまう。つまり、通過集団に対する関心でしかない。これはやはり、国として、あるいは国民全体が教育をどうするんだという意識を議論する根底にある基本法をそのままにしておくということが一つの理由ではないかなというふうに私は思っております。

 基本的なところをきちんとしないで、国民一般に教育に対する関心を奮い立たせようとしても、やはりこれはなかなかうまくいかないわけでありまして、立法府としてもその点の状況をよく勘案していただいて、新しい時代の要請に応じた基本法に対するしっかりとした立法府としての意思を表明していただきたい、これが第一点のお願いでございます。

 二点目でございますが、この新しい改定の中に入っております教育振興基本計画の策定に関する十七条の問題でございます。これは一条一条申し上げますと、たくさんありますので議論が拡散してしまいますので、三点ほど申し上げたいと思うんですが。

 今第一点が終わって、これから二点目に入ります。振興基本計画、これは、先ほど申し上げました国民の教育に対する関心を高めるためにも基本計画というものを必ずつくっていただく必要があるだろうというふうに思います。計画を立てて、公表して、いろいろな事情、財政事情その他いろいろな事情でその計画ができなければこれはやむを得ないわけですから、できないということを国民に問う、報告をする、そして対応をどうするか。こういうことをやっていかないと、日本の国民の教育に対する関心は一層深まるものになかなかなりにくいというふうに思います。

 具体的な例で申し上げますと、例えば、アメリカのカリフォルニア州知事になったシュワルツェネッガーが財政改革を断行いたしました。実は、私の息子が今カリフォルニアで勉強しているものですから、いろいろ報告を聞くのですが。そうしますと、アメリカのカリフォルニアの場合には学校の多くが公立学校であるわけですが、公立学校に対する一般の市民あるいは地域社会の寄附が急にふえたということが出ております。これは、学校がぐあいが悪くなってしまうのを防ぎたい、こういう一般の意思が基本にあるんだろうというふうに思っております。

 これはまさに、言葉をかえて言えば、民主主義の教育だろう。つまり、民主主義というのは、一人一人が自分の人生は自分がつくるんだという自覚を持って、世のため人のためによりよい人生を送る、そのために教育をするという役割があるわけですから、民主主義の教育というのは、教育を普及させるということと、それから、その教育が自分たちのことだ、自分の子供のこととかそういうのじゃなくて、自分たちのことだ、社会のことだという意識を普及させる、これが非常に重要なことになる。したがって、今回の改定の案の中に振興基本計画が入ったことは大変ありがたいなというふうに思っております。

 これが提案された経緯を一言申し上げさせていただきますと、実はこれを国民会議で議論に出したときに最初に言ったのは、いろいろな先生方がいらっしゃるんですけれども、ここに町村先生もいらっしゃいますけれども、私もその一人でございました。たまたまこの計画を提案したところ、議長の江崎玲於奈先生が、我が国における科学技術振興基本計画、科学技術振興基本法という法律を、そして計画をつくった直後でございました。その計画の立案者、中心人物の一人が江崎玲於奈先生でございましたので、この計画が大事だ、ぜひこれをやらなければならないということで江崎先生はすぐ乗ってこられまして、これは必ず入れようというような話になったことを御報告申し上げたいと思います。

 そして最後に、三点目でございます。これは八条に出ておりますが、私立学校に関する規定でございます。

 実は「教育基本法の理論」という有名な田中耕太郎先生の著書が、大著があるわけでございますが、その中に戦後の日本の教育の特色というものを触れておられます。その特色は四つに分けて説明しておられました。

 まず教育の地方分権、この分権の柱が教育委員会という仕組みだということです。現在、教育委員会についてはいろいろな議論がされておりますが、基本的に教育分権、教育の地方分権ということの柱として教育委員会が考えられていたんだということをぜひ思い出していただきたいと思っております。

 それから六・三・三制、これはまさに民主主義の教育ということで、教育を普及させるということが中心でございました。

 そして三番目が男女共学。今回これは提案されておりません。それは私も必要がないだろうと思っております。この法律が議論され、制定された当時、つまり戦争直後はどんな状態であったかというと、男子と女子は教育を平等に受けておりませんでした。つまり、女性は大学に行けなかった時代であります。森山先生のような例は本当に例外でございまして、基本的に女性は大学に行けなかった。そして、当時の資料を調べてみますと、女性の高等教育機関というのは高等女学校という今の高等学校に当たるところですけれども、それの最高学年である五年生の使っている教科書は男子の中学二年生の教科書を使っておりました。その程度の教育でいいというふうに当時の日本は考えていたわけですね。

 それを直すのですから、男女共学を入れるというのは当たり前といえば当たり前なんですけれども、今はそういうことはもう完全に解消されております。男女共同参画社会ということで新しい社会が実現し、そして女性の活躍、社会進出、一層広まるという状況が出ておりますので、ここで特に触れる必要はないのかなと思いますが、田中耕太郎先生はそのことを特色として挙げておられました。

 そして戦後の特徴の四点目、これが大事なところなんですけれども、私学振興でございます。

 戦前においては、教育は私立学校に対してはノー・サポート・バット・コントロール、これが基本姿勢でございました。ノー・サポート・バット・コントロール。それが戦後になってどう変わったか。私学振興ということを精神に入れていながら、実は当時の長い間、ノー・サポート・アンド・ノー・コントロール、こういう形で私学について対応するという姿勢が示されたわけであります。ノー・サポート・アンド・ノー・コントロール。

 したがいまして、当時、新しい教育制度の中で教員の身分にかかわる規定とか教科書無償というようなときに、議論の中に必ずと言っていいほど私立学校は抜け落ちておりました。教科書無償についても、義務教育の私立学校には教科書を無償で配付するということは最初の案にはなかったんです。私学側が大運動して、当時、自民党の先生方の御理解をいただいて、そして入った、こういう経緯があるぐらい、ノー・サポート・アンド・ノー・コントロール、こういう形だったということを言わざるを得ないと思います。

 ところが、一九七五年、昭和五十年、これは当時の与党、現在委員としてお見えいただいております森先生が中心のメンバーの一人でいらっしゃいましたが、私立学校の振興助成法、私立学校に対してきちっとした形で国として支援をしていこう、振興していこう、こういう姿勢をお出しいただきまして、その後、私学助成は順調に展開させていただいております。

 きょうは、委員でお見えになっている文教部会長の松野先生の千葉県で、たまたま一昨日、朝日新聞に取り上げられました記事がございますので、資料として差し上げたわけでございますが、これは、年収三百二十万の家庭の子供が東京大学に入った、こういう報告でございます。同時に、大学における奨学制度も載っております。これらの状況を支えるものが私学助成であるということです。現状、一九七五年から行われている私学助成の積み重ねが、既に、私立学校はグリーン車ではないんだ、特別にお金がある人たちが行く学校だという状況からはもう完全に脱しているということを御理解いただきたいわけでございます。国民教育の一つの重要な役割を果たしているんだということを御説明申し上げて、この資料を差し上げたわけでございます。

 実は、この三百二十万の、これは記事が出ていますから言っちゃっていいと思うんですけれども、私の学校の生徒でございます、学校名は出ていませんけれども。いろいろなところから問い合わせがありまして、生徒は取材されて、名前も出していいということで了解したようでございますが。こういう実態があるということをぜひひとつ御理解いただきたい。東京大学も、決して金持ちの子供が行っているだけじゃないんだということを、それは私学助成が支えていたということをぜひ御理解いただきたいという意味で、資料として差し上げたわけでございます。

 申し上げたいことは以上三点でございまして、そろそろ、民意を尽くしたわけですから、立法府の意思を表明していただきたい。それから、振興基本計画は、日本の国民が教育に対する関心を高めるためにも、ぜひ基本法の中にお入れいただき、できるだけ早くそれを公表していただきたい。そして最後に、私立学校の私学助成が役に立っている、したがって基本法の中にはこの規定をぜひお入れいただきたいということを申し上げて、陳述を終えさせていただきます。

 どうもありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、梶田参考人にお願いいたします。

梶田参考人 おはようございます。

 ただいま田村先生からも話がありましたが、教育改革国民会議、そして中教審と、この教育基本法の改正問題をずっと論議してまいりました。私もそれに加わった一人といたしまして、きょう、この国会の場において、これが審議という形で、基本法の改正という方向に向かって具体的な歩を進めているということを非常にうれしく思っております。

 教育改革国民会議でも中教審でも、もう既に内容的なことは、先日、中教審の鳥居会長もお話しいただきまして、今、田村先生からもお話がありまして、余り詳しくは繰り返しませんが、私なりに言いますと、政府の案も民主党の案も、こんなふうに大ざっぱにくくったらしかられそうですけれども、しかし、我々が国民会議、中教審で議論してきた大筋の上にあるというふうに私は認識しております。

 それは何かといいますと、現行の基本法の理念、これはやはり基本的には堅持する、基本的にです。ただし、これは後でちょっと申し上げますけれども、現在の基本法ができる段階、原案で、例えば伝統ということが削られたとか、非常に重要な部分の修正があったやに聞いております、これは当時占領下ですから。ただし、温故知新とよく言いますが、教育にとっては、古きをたずね新しきを知る、これはもう不可欠のことであります。日本の伝統ということが入らなきゃいけない。そういうような点はございますが、理念は堅持する。

 そして、現状に合わない具体的なところ、今もお話ございましたように、現行のものは義務教育基本法のようになってしまっておりますから、生涯学習も家庭学習も幼児教育も、あるいは教員の問題等々、十分に触れられていない。だから、これは現状に合わせて、条文はやはり基本法らしく合わせていかなきゃいけない。

 もう一つ、現在のものに一番欠けているものが教育振興基本計画的なものですね。これは、民主党の案ではそういうふうには言っておられませんが、中身は我々が議論してきた、つまり具体的に、教育というのは単年度予算を超えて、やはり五年なり十年なりのビジョンの中で一つ一つ積み重ねていかなきゃいけない、そういう施策がいっぱいあるわけですね。それをこの国会の場で本当に真剣に議論して、予算をつくっていただいているわけですけれども、毎年毎年という、そういうだけにはなじまない部分があって、やはり五年だったら五年という流れの中で考えなきゃいけない問題があるだろう。これが両方の案に入っております。

 ですから、この三点が入っているという意味では、私は、両方の案とも我々が望んでいた教育基本法改正の方向に行っているなというふうに思っておりまして、うれしく思っております。

 ただ、まだ、なぜ教育基本法の改正なのかという議論もございます。これは確かに、戦後、占領政策の中で行われたいろいろなことは余り蒸し返さないような社会的なタブーがございました。私は、これは非常にまずいことだ、日本の国にとってまずいことだと思って、今まで言ってまいりました、そういう発言もしてきたつもりであります。そういうことと、もう一つは、現状に合わないということ、この二つがあるわけですね。今の基本法が現状に合わなくなっているということ、これはもう既に田村先生も、あるいはこの前、鳥居先生もお話しになりましたから、もう繰り返しません。

 もう一つは、実は、この基本法あるいはこれから論議になると思われます日本国憲法、これが日本が主権を失っていた七年間近くの間につくられたということであります。

 主権を失っているということがどういうことかというのが、今ほとんどの人がわからなくなっております。アフガニスタンとかイラク、この前、アメリカを中心とした軍隊が行って政府を倒して、その後一種の軍政をしいたわけですね。今、形の上では独立を回復したようですけれども、この最高決定機関というのはやはり軍当局なわけですね。

 日本も、日本国憲法が制定されたとき、教育基本法が制定されたときはそういうことだったわけです。そのときには既に、例えば教育基本法は昭和二十一年に議論されたわけですけれども。第九十二帝国議会ですか。あるいは同じ二十一年十一月の三日でしたでしょうか、日本国憲法も公布されているわけですけれども。それで、例えば日本国憲法は、主権は国民に存するとか、国会は国権の最高機関である、こう規定されているわけですね。そこしか、今、日本の学校で教えないでしょう。その上にGHQがあったんですよ、連合軍総司令部が。

 例えば、象徴的な例、私は昭和二十二年の毎日年鑑を持ってきたんですが、私は古本屋を回るのが趣味なものですから、いろいろと古いものを持っているんですが、十一月三日に日本国憲法が公布されております。同じ昭和二十一年、敗戦から次の年の十一月十六日付、つまり、憲法公布よりちょっと後にこういうお達しが出ているんですね、連合軍総司令部より日本政府に対し、国旗の掲揚について次の通達があったと。国旗の掲揚。

 当時、九十二帝国議会でも、これは記録をお読みになりますと、日本の学校で、民主国家になったんだから日の丸ぐらい上げていいじゃないかという議論を国会でやっておられるんですよ。そのときの答弁が、これは連合軍総司令部が許可したときしか上げられなくなっていますからという答弁になっているんですね。当時は、すべては占領政策をどうスムーズに遂行するかなんです。日本国憲法は成立しているんですよ、でも、その後にこういうことが言われているんですね、連合軍総司令部の認めたときしかやっちゃいけないと。

 そして、これに付随して、こういう通達をやっているんです。天皇陛下が地方に行幸になる、そのときにみんな小旗を振ったりしますよね、あるいは国旗を上げたりしますよね、これはまかりならぬと。

 主権を失うということはそういうことなんですよ、象徴的に言いますと。

 日本国憲法も教育基本法も、そういう中でつくられたということを私たちは改めて認識しなければいけない。だから悪いと言っているんじゃないですよ。そういう状況の中で、片方で検閲がありましたでしょう。御存じのように、占領政策に合うものはいいけれども、そうでなければ新聞の記事なんかは削られたわけですね。そして同時に、教職の適格性審査というのがありまして、敗戦前の日本政府の行き方に積極的に関与した者は教壇から追われた。後には、同じ占領政策の中で、今度は左の方が追われるわけですけれどもね。こういう中でつくられたのがこれなんです。

 で、私たちはこういうことを考えるわけですね。もちろん、どういう状況でも、いいものはいいんです。ただし、我々が独立を回復してからもう半世紀たったんですよ。我々は我々自身の自由な言論のもとで、我々自身が主人公になって日本の国の未来を考えなきゃいけないでしょう。日本の国の未来というのは、もちろん日本国憲法はありますけれども、まず教育ですよ。どういう肌合いの人間がこれから二十年、三十年、四十年後の日本の社会を形づくるか、そのために今の我々がどういう教育をしておくかなんですよ。我々今おる者は、未来の日本の社会の人々に対して、教育を通じて責任を持つわけです。これをやらなきゃいけない。

 繰り返します。いいものはいいんです、どういう状況でも。だけれども、これは問い直しをせぬきゃいかぬ。これが、理念は基本的には踏襲するけれども、伝統とかそういうことはやはり入れていかなきゃいけないという、それぞれ二つの案にあらわれているんだろうと私は思っています。

 もう一言だけ、もう時間がありませんから申し上げます。愛国心の問題。

 国を愛さない、そういう国民を育てようなんという国はないわけですよね。

 ただ、問題なのは、昭和初期から敗戦前の状況の中で、愛国心が極めて狭いものになって、エスノセントリズムといいますけれども、日本さえよければほかのことは知るか、こうなっちゃったという非常に不幸な歴史がございます。

 これの反省の上に立って、これからは開かれた愛国心、全人類に通用する愛国心にならなきゃいけないということで、国民会議でも中教審でも随分議論しました。愛国心は大事ですけれども、そのために、私は政府案はちょっと回りくどい言い方になっているかなと。これは仕方ないですよ。歯どめをつけなきゃ。

 二つポイントがあります。

 一つは何かというと、やはり愛国心というのは時の政府を愛することじゃないですね。もちろん、時の政府を愛したいですけれどもね、私はね。それは愛したいけれども、でも、日本の将来ということを考えた場合には、時の政府に対して反対もしなきゃいけないんです、批判もしなきゃいけない、これが愛国心なんです。そういうことが入ってこなければ、やはり本当の愛国心でないだろう。それは、ただ単なる権力に対する迎合、追従の徒を生むだけなんです。それと愛国心は違います。

 もう一つは何かというと、先ほど言いました、日本が結局、狭い狭い愛国心になっちゃいけない。日本の伝統に根差して、よき日本人になって、そういう先人たちの営々とした努力を尊敬し、尊重し、我々はよき日本人になると同時に、それをひっ提げて全人類のためにいろいろなことをやっていく、人類社会に参画していろいろとやっていく、そういう愛国心でなきゃいけない。これが開かれた愛国心ですね。エスノセントリズムを超えた愛国心です。この二つの条件が、愛国心については不可欠であります。

 今議論されている方々は、それは当たり前だろうと思われると思うんです、今私が言った二つは。でも、新しい基本法ができれば、これから多分五十年は生きます。その中で間違った方向に行っちゃいけないからあえて申し上げますが、くどくとも、やはり間違いのない形で愛国心の問題を規定していかなきゃいけないんじゃないか、そういうふうに考えております。

 細かい点はいろいろとございますけれども、私は、きょう、皆さんにもう一度お互い確認したいなということで、二点。

 一つは、主権が失われたときにつくられたものは、独立を回復したら我々自身の問題としてやはりきちっと考え直して、もちろん、全部捨てるわけじゃありません、いいものは守っていきます。しかし、この時点でやはり考え直して、若干修正が必要であればやっていくということが必要だろう。

 もう一つが愛国心の問題。これは、だれも国を嫌いになれというようなことはないと思うんです。ただし、これが非常に、一時期は愛国心を言うこと自体もはばかられるようなときがあったわけです。日の丸を振っちゃだめだという占領当局の指示に忠実に。だけれども、やはり日の丸を振りたいですよね。でも、これが、あえて言いますが、これからサッカーのワールドカップがありますけれども、日本チャチャチャでいいんですよ。だけれども、試合が終わったら握手しなきゃいけないです。いつまでも日本チャチャチャで、日本だけを考えて、試合が終わろうが何であろうが、時々、一部の国でありますけれども、そこから暴動になるような愛国心になっちゃいけないんですよ。

 そういう意味での、本当に大人の、成熟した、開かれた愛国心をこれからの教育によってきちっと育てていきましょう、そういうふうにいってほしいな、こういうふうに思っております。

 ありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、西澤参考人にお願いいたします。

西澤参考人 私ごときを呼んでいただいたわけでございますが、果たしておこたえできるかどうか、甚だ自信がないところでございます。

 ちょっとだけ私のバックグラウンドを申し上げた方がおわかりいただくのにいいのではないかと思います。

 私のおやじも東北大学の工学部応用化学科におりまして、子供のときから、教育ということには幾らか雰囲気として勉強ができたのではないかというふうに考えているところでございます。

 もともとは理学部に行きたかったのでございますが、終戦後、それこそ、現在の中国東北地区から毎日のように命からがらこちらに引き揚げてきた人たちの報道などを聞いておりまして、とにかく、何とかしてこの日本がこれから自立していかなきゃいけない、まず経済的な自立も一つ重要でございます。

 そういうふうなことを考えたときに、一体何で自立できるのかということを考えてみました。いろいろ考えてみましたら、どうも農業はもちろんだめでございますし、工業でやる以外にないんじゃないかと。それで、工業でいわゆる加工賃をもらうという考え方になるわけでありますけれども、当然新しい産業を起こすのが一番商売がしやすいわけでございますから、そういうところを目指すべきではないかということになったのでありますが、よく考えてみたら、東北大学の工学部に入っていたわけでございますので、何だ、自分がそれをやるべきちょうどいいところにいるんじゃないかということに気がつきまして、初めて勉強しようという気持ちになったという甚だだらしない男でございます。

 その後すぐ、昭和二十年、終戦でございます。そんなことを考えたのは二十年でございますが、その後、毎年毎年新しい学生諸君が入ってまいります。そういうのを見ておりますと、その間の学生諸君の雰囲気がだんだん変わってきております。それを割方継続的に見ることができたということが、私にとっては大変参考になったんではないかと思っております。

 これは決して、大学の教育というのが一番大事だと言う方がいっぱいいらっしゃいますけれども、もちろん大学の教育も大事でございますが、要するに壁でも何でもそうでございまして、一番最初の芯がしっかりできていなければ、いかに上にいい泥をきれいに塗りましても、その壁はすぐに壊れてしまうわけでございますから、基本的なところから人間をちゃんと秩序立てた成長をさせるようにしていくということがどうしても必要であるということに気がつきまして、それから若干、最後はいわゆる胎教まで興味を持つようなことになったわけでございます。

 たまたまサイエンスをやっていたせいもございますし、それから、恩師の恩師に当たります八木秀次先生が昔から非常に教育御熱心でございました。本当の研究ができる人間というのは、教育もちゃんとできるような人間でなければだめだということを言われました。また、教育をする教官というのは、研究の方でも負けずに世界的なレベルの研究成果を上げているような人間でなければ教育はできないんだ、それは直接講義の中に出てくるわけではないけれども、黒板を向いて後ろ姿を見せながら講義をしている先生の雰囲気が若者たちに大変大きな影響を与えるものだということをよくお教えいただいて、今でも、まさにそのとおりだというように考えているところでございます。

 そんな意味で、橋本内閣のときに、どういうわけかわかりませんが、第一号意見陳述人というのにさせられました。出ていってみましたら、最初は何かメンバーの方々のお写真を撮るために私を写真の台に使う新聞記者諸君がたくさんいらっしゃいました。頭のてっぺんにカメラを載せられて、私もさすがにちょっと小言を言ったのでございますが、大変私もそのときに妙な雰囲気を感じたところでございます。

 保利先生あたりの大変な御努力で、一応その会議を務めさせていただいたわけでございますが、最初に橋本総理が演説をなさいました。橋本内閣は六つの改革をするということをおっしゃったんだと思います。私は、一番大事なのがおっこっているんじゃないでしょうか、どんな改革をやろうと思っても、基本的には教育まで戻らなければ本当の改革になりません、そういう意味からいえば、ぜひ教育改革を一つ入れていただきたいということを申しましたら、橋本総理が一番最後に締めくくりのごあいさつをされたわけでありますが、そのときには教育を入れてくださいまして、七つになりました。翌朝の新聞から一斉に七つになった、六つかな、ちょっとその辺のところは怪しいんですが、教育を入れてくださったということだけは間違いがございません、ということになったわけであります。

 その辺からだんだんに、やはり教育行政というものに対してもいろいろなことを申し上げなければいけないというふうに考えました。大学の方も、私は研究一本でやりたかったわけでありますけれども、やはり行政的なところでもつなぎをしなければいけないということになりまして、決してそういうことは達者な方じゃございませんけれども、できるだけ努力をいたしまして、結局、東北大学の学長も一期六年間やらされましたし、また、その後、岩手県知事の方から御要望が出まして、新しくつくる県立大学の創設もやらされました。最後は、石原東京都知事に引っ張り出されまして、四つの大学を合併いたしました首都大学の学長を今やらされているというところでございます。

 そのときに、とにかくしっかりした見識を持った教育をすることが必要でございますし、やはり地元の人たちに非常にプラスになるような教育内容を持たなければいけない。教育内容としては、たまたま東京都がアジア地区における一千万都市の皮切りでございますし、大変な失敗も成功もあったわけでございますが、そういう体験がある。また、既に中国には七つか何か一千万都市がございまして、巨大化がどんどん進んでいるわけであります。これから、インドあるいはアフリカにまで人口稠密化が波及していくように思うわけでありますので、そういうことに対する基本的な学問をつくるということをやってはどうでしょうかということを私は意見具申いたしました。

 ただ、それだけでは困るわけでございまして、やはり大学というのはスピリットが要るわけであります、心が要るわけであります。そういうことを何にするかというと、案外、今、日本では全然自信を持っていない方が多いのでございますけれども、北の方に行きますと、私は旧制高等学校時代に宮沢賢治の作品に大変魅せられたわけでありまして、そういうような同じ思想を持っている方としては、後藤新平先生とかあるいは新渡戸稲造先生というような方々がいらっしゃいます。

 こういう方々のやられましたことは、既に、とにかく中国が非常に日本を嫌っているような印象を持っていることが多いのでありますけれども、天皇の像がちゃんと中国に建っているんですね。今上天皇の像が建っております。それは、人の話を聞きますと、後藤満鉄初代総裁が現地の中国人の生活にも大変プラスとするようなことをやられたことが、今もって彼らの非常に尊敬の念を集めているからであるという説明がありまして、私も納得がいったわけでございます。表に出るようなことだけでは決してないんだということも申し上げておきたいと思いますし、しっかりした方々が両国間のつなぎをやったところは今でもちゃんと日本を評価しているということも、ぜひ頭のどこかに入れておいていただければ、大変うれしいと思っております。

 そのような例はたくさんあるわけでありまして、確認はしておりませんが、毎年、後藤新平先生の祥月命日になりますと、台湾から飛行機いっぱいお墓参りに来るんですね。東京都の人は市長をやってもらっていたのにちっとも来ないといって、今皮肉を言っているところでございますけれども。台湾の人たちは大変そういうところは礼儀正しいわけでございますので、そういう話が言われているわけであります。

 ですから、悪い方ばかり表に出ておりますけれども、大変立派な仕事をしている方もいらっしゃいますし、また、それだけのことをすれば、ちゃんとそれに対する見返りがあるんだということを、この席をかりましてちょっと申し上げさせていただきます。

 いよいよ本番に入りますけれども、やはり教育というものは大変大きなものでございまして、ただ単なる知識の引き継ぎではないんだと私は思っております。本来、日本の国でやる義務教育というのは、我が国の持っている文化を子孫に伝承していくものであるというふうに考えるべきではないかと思っております。言葉に整理することのできないような、一つの、日本人として、日本国民としての思想とか物の考え方、感じ方というのがございまして、これが次代に正当に繰り越されていく。そのまま伝えなきゃいけないというのではございません。やはりまずいところはどんどん直さなきゃいけない。そういうことで、世界トップレベルのそういう仕事が伝えられるようにしなければいけないと思っております。

 次に、教育の原点ではないかと思いますが、国民一人一人の持つ人間としての能力を伸ばす。

 みんな特徴がございます。一時、画一主義に流れまして、皆同じ形にしてしまおうというような、大量生産と勘違いされたような教育が標榜された時代もつい最近まであったわけでございますけれども、これは一人一人がどんな才能を持っているかということをよく担当教師が考えまして、それに対する教育を施しまして、もちろん枠がございますからそんな勝手なことをさせるわけにはまいりませんけれども、一人一人に接していくというのは、やはりそういうことを原点としてやるべきではないか。

 もちろん、それは本人の才能を伸ばすだけであって、国という観点をなくすわけにはまいりません。もちろん、我が国社会とのマッチングをとりながら一人一人の才能を伸ばしてやるというふうに考えるのが、教育の一番基本的な方針ではないかというふうに考えております。

 結局、国民一人一人を幸福にしようといたしますと、その環境をなす社会、国家、ひいては世界がすぐれたものになっていなければ、一人の国民は十分な幸いを得ることができないわけでございますので、当然そういうことを要求する以上、国民一人一人が自分を守るのはもちろんでございます、また家族を豊かにするということも当然でございますが、同時に、自分たちを包む社会をよくしていく、国も立派にしていかなきゃいけない、また世界も立派にしていかなきゃいけないということがやはりあるわけでございまして、その辺のところが、国と個人ということの間に今非常にミスマッチングがあるのは、やはりもうちょっと深く見なければいけないということでありまして、深く見れば、これは大変オーバーラップするところが多いわけであります。どういう比重になるかというところに一人一人の見解の相違はあり得るわけでございますけれども、総合的には、国も立派でなければいけない、世界も立派でなければいけない。

 宮沢賢治の有名な言葉がございます。世界じゅうの人がすべて一人残らず幸せになっていなければ、それを見ている人たちもやはり自分も不幸だと感じなければいけないわけでありまして、一人でも不幸な人がいるうちには世界じゅうの人類は本来自分も幸せだと思う資格がないんだというようなことを大変きれいな文章にまとめたのが、よく伝えられているわけでございますが、これは特に、北アジアに住む我々の大いに誇りにすべき非常に大事な思想ではないかというふうに私は考えているところでございます。

 そんなことでございますが、文化というものは、もちろんDNAによって変わるところもございますけれども、決してそれだけではないと思うわけであります。

 中国の学校教育は、詳しく調べたわけではございませんが、西暦紀元前約三世紀というふうになっているわけでありますけれども、日本は大体十一世紀に、仏教と一緒に日本にやってきたあたりになるようでございますけれども、これは西欧で最も古いと言われておりますボローニャにおける大学の発足とほぼ同じでございます。ですから、アジアの学校教育というものの体験はヨーロッパよりもはるかに長い経験を持っているんだという意味で、その中に詰め込まれておりますノウハウも非常に豊富なわけでございます。

 そこら辺をよく考えれば、アジアの我々が、そういうこともよく自分たちで調べ上げまして、すばらしい教育のエッセンス、やり方というものを日本から逆にアピールするというぐらいの気概を持っているのが当然だと私は考えているところでございます。

 先年、台湾の校長先生――総長、学長だのというようなくだらないことを言っている人はいないわけでありまして、台湾は大学から小学校まで全部校長先生でございますが、この校長先生が何百人か集まったところで話をさせられました。私も、台湾だって大変すばらしい歴史を持っておられるんだということを申し上げてまいりまして、大変喜んでくださった方もあるようでございます。

 そんなことで、教育の効果的な順序とかあるいは年齢などにつきましては、いわゆる教育の技術になる、技術と言ってはちょっとまずいかもしれませんが、技術になるわけでありますが、幾ら教育の理念が立派でも、やはり教育技術というものが十分に発達していなければ余り効果がないわけでありまして、時とそれから環境というものがうまくそろったときに教えていくというふうなことになるわけであります。

 日本には長いこと言い伝えというのがございます。この中には、ある意味の教育のエッセンスが詰め込まれているというふうに考えるわけでございますが、例えば守破離という言葉がございます。これはおけいこごとの方では当然でございますし、また、北辰一刀流のような武道の世界でもこの守破離ということがよく言われるわけでございまして、これが教育のやり方としては基調的なものであります。

 守というのは、今までためてまいりましたその流派のエッセンスをただ黙ってまずやってみろというのが守でございます。次に、破でございますが、あるところまでいけば、今度は少し崩してみろということになるのが破でございます。守もできないうちに破をやったのでは何にもならなくなってしまう。それから最後には、今度は離れて一家をなすということで、はるかにレベルの高いものがそこから生まれてくるということになるわけでありまして、これは現代でも、教育の成果が上がっていったときには、サイエンスに関係する学生どもの教育でも全く同じことになっているのではないかというふうに思うわけでございます。

 しかし、これをよく間違えて、小さいうちから勝手な自我の主張をさせたりいたしますと、結果としては何にもならない。よく絵をかく先生方がおっしゃいますが、デッサンがしっかりできていない人間は、一時的には受けることがあってもやがてすぐにつぶれてしまう、やはり基本からしっかりやらなければだめだということが言われるわけでございます。こういうことはいろいろな分野で皆言われているのでありますが、必ずしも教育の世界ではそういうことを非常に強調なさる方ばかりではないというようなところに、やはりいろいろな破綻が生じている点もあるのではないかと思います。

 例えば、それ以外に、おけいこごとは六歳の六月六日がいいとか、それから、もうちょっと基本的な大事な性格を決めることに関しましては三つ子の魂百までなどというような、非常にエッセンシャルな言い伝えが伝わっているわけでございます。

 現在、東北大学におります川島教授というのが、近代的なサイエンスの測定技術を使いまして、放射性物質の弱いものを体の中に注射する、体の各部に置いておきますカウンターが放射性物質の量に比例したカウンティングをやるわけでございますから、結果としては、血がこちらの方にはどのぐらい流れてきたかということがわかるというようなことでございます。

 つい最近までいろいろと問題がございましたが、小学校の一年生から電卓を使わせるなどということを決めたのが約二十年前でございます。その後、いろいろな形でこれに対する批判も出たわけで、実はその会議の席上で反対したのは私一人でございます。ただし、最初の日が急に予定が通知されたので行けなかったのでございますが、二回目に行って慌てて反対をしたわけでございます。もちろん、取り上げていただけませんでした。結果としてはそういうことがよくあるものですから、おまえはいつも反対ばかりしていると言うんですが、内容を見てください、今は私が言った方が正しいと思われていることがたくさんあるんですがという泣き言を言ったこともあるわけでございます。残念なことに、計算機は小学校の一年生から使わせることに決まってしまっておりまして、まだ変えられておりません。

 ところが、ちょうど半月ほど前でございます、もう一カ月になるかもしれませんが、中国では新しい教育基準を発表いたしまして、その中に九九を十九掛ける十九まで小学生に覚えさせるということが入っております。日本は九掛ける九で、学問的には九掛ける九の方が正当性があるのではないかと思いますが、余計覚えておって害になるということは、幾らかはございますけれども、そうはないだろうと思っておりますけれども。もうちょっと早くどんどん直していただいたらいいのではないかというふうに感じているところでございます。

 そんなことで、要するに、さっきも申しましたように、教育理念も、もちろん一番大事でございますけれども、それに派生するいろいろな技術を同時にフォローアップしなければ、せっかく立派な理念をつくりましてもこれが効果として出てこない。残念ながら今度の教育基本法は今回は間に合わぬというようなお話もあるようでございますが、教育を受ける子供たちのことを考えてみますと、かなりおくれるわけでございます。下手すれば一学年おくれてしまう。それが日本に対してどれだけ大きなマイナス効果があるかということを考えていただければ、これは重大な問題ではないかという気がするわけでございます。とにかく、そういう意味からいえば、早く具体的な教育手段までどんどん検討していただかなきゃいけない。

 文部省にも教育研究所というのがあるようでございます。前に吉田さんとおっしゃる方に申し上げたのでございますが、帰国子女の中に非常に成績の悪い人が時々入るんですね。どうもこれは言葉が途中で変わるということに原因があるのではないかということで、帰国子女に関する調査ということを申し上げまして、御本人は非常に喜んでくださったのでありますが、やはりプライバシーにかかわることでございますので、その後進んでいないようでございます。そんなことで、早く具体化のところまで進めていただきたいということをきょうお願いしたかったわけでございます。

 時間がなくなってしまいましたので、そういう意味では、やはり受験塾あたりの対応が、問題解決のところは非常に力を出すわけでございますが、子供の基本的な能力を伸ばすということについては逆効果であることが非常にたくさんあります。今の暗記勉強のこと、暗記はもちろん大事でございますが、度を過ぎた暗記というのは非常にマイナスであるということをやはり注目していただく必要があると思っております。

 そんな意味で、もう時間になりましたので、大変くだくだと申し上げましたが、最近は、教育の中における人間の正義の問題というものすらおかしい。きのうもちょうど若者といろいろやり合ってきたのでございますが、とにかく多数決こそ一番大事なやり方なのだと考えている若者が今相当のアクティビティーを持った連中の世代にございます。そういうことでやるから、どうしてこういうひどいことをするのかということを感じていたわけでありますが、そうか、多数決の原理かということにやっと私も気がついたわけでございます。

 よく見直していただきますと、早急に、そういう妙なことから、簡単に言えば、占領時代のいろいろなネガティブエフェクトが今もって国民の基本的な考え方にまで尾を引いていることがたくさんあるということを今切実に感じているところでございまして、何とか命あるうちに少しでも変えていただくようにしていただければ、大変私もうれしいし、また安心して、年寄り引っ込めなんて言われておりますから、あの世にさっさと行けるところになるわけでございます。

 以上、大変雑なお話をいたしまして、どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、渡久山参考人にお願いいたします。

渡久山参考人 渡久山でございます。

 本委員会が、森山委員長を初め委員の皆様方が、我が国の教育、特にその根幹をなす教育基本法について真摯に審議されていることに対し、心から敬意を表したいと思います。また、本日は、私の意見をお聞きくださり、心から感謝をいたしたいと思います。

 二〇〇三年、平成十五年の三月に、教育基本法改正のための答申を中教審としては出しました。私も中教審の委員の立場を含めて、きょうは意見を述べさせていただきたいと思います。

 私は、当初、教育基本法改正には消極的でございました。慎重であるべきだという立場でした。その理由の一つは、ことしの五月の十六日の衆議院本会議における民主党の鳩山由紀夫幹事長の発言のように、将来、憲法改正が云々されているわけですから、その整理が済んで、それにのっとって、教育基本法の改正が必要であればやればいいんじゃないかという考え方からであります。

 二つ目は、昨今の我が国の教育は、やはり、危機だとか、あるいは教育は荒廃しているとよく言われます。いじめや不登校や、あるいは校内暴力など、やはり学業においても、学びからの逃避と言われるような状況がありますが、果たして、そういうような現在の抱えている教育課題を、今の教育基本法を変えることによってすべて解決するだろうかということを考えますと、まだ、最初にもっと早く何かすべき教育の改革の課題があるんじゃないかというようなことからでありました。

 中教審は、総会のもとに基本問題部会をつくりまして審議が進められました。真摯に審議が進められた結果といたしまして、教育の理念、目的については、個人の尊厳、人格の完成、平和的な国家及び社会の形成者の育成というようなことで、現行法の理念や目的を踏襲するというような形になりました。これは、民主党案にも、あるいは与党・政府案にもほぼ一致して新しく記述されているところでございます。

 それから、新しくくっつけ、加えて記述した方がいいというような問題については、高等教育を充実させるための大学だとか、あるいは生涯教育だとか、あるいは私学教育などのことについては多くの委員の賛同を得ておりまして、現在出ております民主党や政府案のとおりでございます。

 なお、公共に主体的に参加をする、あるいは伝統、文化などというようなことについてはいろいろな議論がございましたけれども、やはり、一党一派や、あるいは特殊や特別な学説によらず、常識的な記述あるいは良識的な考えから、これは答申のような記述になっていったわけでございます。

 それから、宗教教育や宗教的情操の教育については、これは複数の宗教学者の御意見あるいはヒアリングを受けまして今のような記述になったわけでございますが、戦前の宗教に対する弾圧だとか、あるいは憲法二十条における信教の自由というような立場から、どうも今までの学校教育の中には非常に消極的なものがあっただろうと思います。特に、日本の場合、そういうことで、カルト集団への批判的な力をつけるという意味では、まさに宗教に対する知識だとか宗教の社会的な意義だとかということについては、子供たちへの正しい理解を深めることは大事だと思います。

 ただ、宗教的情操といった場合に、果たして、具体的に何をどのように教えていくかというような形になった場合には、これは一党一派、宗派に偏する可能性も十分あるというようなことから、このことについては記述はされませんでしたけれども、今の民主党案やあるいは政府案には出ておりますが、そのとおりでいいんじゃないかと私個人としては思っているわけでございます。

 ただ、宗教の問題は、日本の場合は無宗教者が非常に多いわけでございますが、やはり個人や家庭の問題だというようなことで、改めて宗教に対して認識を深める必要があるのではないかと思っております。

 民主党案の中に、その宗教に関してですけれども、生や死のことについて書いてあります。これは法律用語としてはどうかと思いますけれども、やはり死に対する正しい認識を子供たちに持たせるということが、ひいては生の尊厳というようなことを教えていくという意味では、非常に示唆に富むものであります。これは、日野原重明先生も、ヒアリングで来られたときにはそう言っておられました。ただ、法律用語としてどうか、これはちょっと私にはわかりませんが、そう思います。

 それから、愛国心についてですが、答申では、「郷土や国を愛し、誇りに思う心をはぐくむことが重要である。」といたしております。民主党案は、国を日本としておりますが、愛する心という素直な感じで言いますと、民主党の案の方が非常に素直な記述にはなっていると思いますが、与党案は、それなりに非常に御苦労いただいて、一つはそういう形で決まってきたものだと思います。

 そういう意味では、それなりに尊重すべきではございますが、私は、愛国心というのは人に負けないくらい強く持っているつもりでございます。あるときに、国際組織に教員のデリゲーションを組織して行ったときに、ウイ・ジャパニーズと言ったら、後で、彼はどれぐらい国粋主義者かと言われるくらいでございましたが、やはりそういうことも考えて、これは非常に、個人の心や、あるいはまた国が持っている統治機構や、権力機構としての国というようなものもございますので、良心の自由というようなことを十分に尊重するという意味では、余りこれは法律的に強制するというようなものではなく、また規制するものでもないだろうというような感じで、慎み深く記述されるべきではないかと思っております。

 また、現行指導要領の中には、国を愛する心情を育てるという意味で、既に、国を愛する心情については、そういう形で学校現場では教育的に営まれているというのが現状でございます。

 現行の五条の男女共学が両案とも削られておりますけれども、与党案には男女の平等というのが載っております。民主党案には男女という言葉は一切載っておりません。これは、男女共同参画社会づくりを政府あるいは国が進めているという観点からしますと、何らかの形でこれについては規定するなり進めるなりしなければならないんですが、現実的には、公立高校や大学においては別学が進んでいるという現状をぜひとも見ていただきたい。それに対しては一考する値があるんじゃないかと思います。

 それから、民主党案は、すべての人の教育への権利を基本的なスタンスとしています。私は、これはすばらしい、結構なことだと思っております。

 特に、我が国の憲法や教育基本法ができた後、世界人権宣言とか子どもの権利条約あるいは国際人権規約など、より進歩的で民主的な規定や国際条約ができてきて、国際的な常識あるいは国際的な主潮というようになっておりますから、将来のためにもそういうような考え方も生まれていくということは極めて大事でありますし、また、財政的には、幼児教育から高等教育まで、漸進的に無償制が確立されることは非常にいいものだと思います。

 それから、両案とも、義務教育の九年間という年限が欠落いたしております。これは、何か文部科学省の説明では、下級法、すなわち学校教育法あたりで規定したい、あるいは、これは修業年限の延長も含めて議論するというようなことをお聞きしております。それは非常にすばらしいことでありまして、私も、何かというと、義務教育の延長というものが非常に大事であると思います。

 きょうお出ししました資料の一ページに各国の義務教育の実態について書いてありますから見ていただきたいと思いますが、十二年あるいはそれ以上のところもございますので、これも参考にしていただいて、何とか、これを上げるときには、附帯決議の中に必ず法文化するというようなことをしていただければ非常に幸いだと思っています。

 それから、民主党案の十九条になります、政府案では十七条に、教育振興基本計画がございますが、ぜひ財政的な裏づけのある計画にしていただきたいと思います。

 本委員会で五月二十四日に、民主党の笠浩史議員の提案の中にも、教育財政支出について、国内総生産、GDPに対する比率を指標とするということがございます。また同日、自由民主党の町村信孝議員、元文部大臣も発言をされておりまして、それによりますと、日本は教育大国と私どもはそう思っておりましたが、GDPの資料を見ると、残念ながら日本は教育小国なんですというように、元文部大臣の発言ですから非常に重い発言でありまして、各国の国際比較が示されておりまして、私も二ページからその資料を提起しております。

 一つは日本の学級規模でありまして、海外よりも非常に大きい規模がまだあります。これは一目瞭然で、OECD参加各国の中では、日本は二番目に条件の劣悪さを示しております。

 それから、もう少し具体的に見ていただきます。次の三ページ目、これは日本のGDPに占める教育費の割合であります。これは町村先生からも指摘がありましたけれども、GDPに対する教育費の占める割合は、OECD平均が五・三%なのに、日本はわずか三・六でありまして、初等教育においてはわずか二・七になっています。高等教育はもっと悪くなっております。これなんかを見ていますと、御存じのとおり、二十九カ国中二番目に悪いのが日本のGDP比の教育予算であります。

 四ページ目に、日本のGDPに占める教育費の割合は年々減ってきております。これがだんだん減ってきている実態があります。それに比べて、アメリカあるいはイギリスはどんどんどんどん伸びていっているんですね。やはり国を挙げて教育を大事にしようという姿勢が、アメリカやイギリスでは近年さらに教育費を上げている実態というのがこれでわかるわけであります。

 それから、日本の国家予算に占める初中教育費の割合もだんだん減ってきています。これは五ページに示してございますけれども、このような形で出ています。四十九年から五十一年、ピークになっていますが、これは人確法ができたことでありまして、これは当時の自由民主党の努力によりまして人確法ができていった背景がございますが、こういうような状況になっていますけれども、日本の場合はだんだんだんだん、子供たちが減っているから教育費が減っているということにはなっていません。これをとっても、相関がないばかりか、どんどん減っているのが実態でありますから、これはぜひ見ていただきたいと思います。

 それから六ページ目に、イギリスの教育予算について書いてありますが、ブレア政権は、一に教育、二に教育、三に教育という形で教育改革を進めております。もちろん、それはサッチャー政権が一等最初にやりました教育改革を受けてこれができているわけですが、具体的には、ブレア政権になって教育費をこのようにしてありまして、二〇〇六年度からは義務教育費を全額国庫負担にするというような形で書いてありますが、そういうような意識でありますから、イギリスもそういう感じでやっております。

 七ページ目に、実はイギリスは常に政府が教育予算増を発表しておりますけれども、この中に五カ年計画の戦略がございます。それから、二〇〇六年三月の予算があります。これは財務大臣の発表ですけれども、ちょっと読み違えてございまして、七千ポンドは八千ポンドでございます。それから百四十万は百六十万円でございますので、お直しいただければ幸いだと思います。

 また、アメリカも、次の八ページ目に書いてございますけれども、このようにブッシュ政権の競争力イニシアチブという形で、理科教育、あるいは落ちこぼれをつくらないための初等中等教育にこれだけの予算を組んでいるわけでございまして、ぜひともこれは大きく参考にしていただきたいと思います。

 また、衆議院の調査局から送られましたこの分厚い資料ですが、この資料の三百四十二ページに、実は基本法が二十六本あります。その中で財政措置がされていないのは二つでございまして、その一つが教育基本法なんですね。ですから、教育基本法は、理念法とはいっても全く実体を伴っていない。これでは非常にまずいのでございまして、今度これが十分審議がされている中では、このことはぜひとも、今度は、こういう意味では、教育は国家百年の先行投資だという形で御高配をいただきたいと思います。

 最後に、教育基本法改正というのは、民主党案にもよさもあり、また与党あるいは政府案のよさもあります。また、あるいは両案にはいささか欠点もないとは言えませんので、ぜひとも慎重審議をしていただきまして、両案を初め国民の合意を得るようなすばらしい教育基本法の改正案をつくっていただければ幸いでございます。

 以上です。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の方々からの意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

森山委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。松野博一君。

松野(博)委員 自由民主党の松野博一でございます。

 参考人の先生方におかれましては、大変お忙しいところ御出席をいただき、教育基本法の改正に対してさまざまな側面から御見識をお示しいただきまして、文字どおり大変参考になり、勉強になりました。ありがとうございます。

 また、複数の先生から、今回の教育基本法の改正に当たり、中教審、民間、また学界、さまざまな場において、教育基本法の改正につき多面的に繰り返し議論があった、そして教育基本法の改正の必要について、また教育基本法改正の方向についてはほぼ集約をされている時期において、国会は立法府としての意思を示すべきだという御指摘は、まさしくそのとおりでございまして、今、審議の状況を考えたときに、じくじたる思いもありますけれども、しかし、先生方から改めて御指摘をいただき、日本国教育にとりまして重要なこの法案を一刻も早く成立させなければいけないと、意を新たにした思いであります。

 本日は、教育論、教育学の御専門の先生方がお集まりでありまして、先生方に質問させていただくことを大変光栄に思っておりますし、楽しみにしてまいりました。

 まず冒頭に、常日ごろより私が教育基本法の改正に当たり最も重要だと考えていることにつき、先生方の御意見をいただきたく存じます。

 私は、現在の教育現場において最大の問題点といいますのは、教育現場の規範の喪失ということではないかというふうに考えております。

 規範とは、辞書によりますと、行動や判断の基準、もしくは判断、評価などの基準としてのっとるべきものというふうにありますが、なぜ教育現場においてこの規範が喪失をしたのかといえば、それは、規範を醸成する源泉である教育現場における権威が喪失をしたためであるかと考えます。権威の喪失といいますのは、国の権威や地域や学校の権威、教師の権威、親の権威ということであるかと思います。

 権威に関しては、これはつくるべきものではなく、あくまで実践の積み重ねの結果として得られるべきものであって、当初より規定すべきものでないというような意見があることは承知をしておりますけれども、しかし私は、やはり教育現場におきましては、例えば国の権威は、日本の長く伝統ある歴史やすばらしい文化を子供たちにしっかりと伝える、そのことにより国に誇りを感じさせるということが肝要であるというふうに思いますし、教師は崇高な使命を持つ職であることを自覚していただくこと、また、子供の教育に対する第一義的な責任は親にあり、親は子供に対する権威者たるべき気概を持つこと、こういったことを宣言することによって、この規範と権威の再構築というのが始まるのではないかというふうに考えております。

 今回の教育基本法の改正に当たりまして最も重要なポイントではないかと私自身考えておりますけれども、四人の先生方それぞれの御意見をいただきたいと存じます。

田村参考人 ありがとうございます。

 それでは、今の教育現場の規範の問題、あるいは教育の現場における権威の喪失の問題でございますが、実は、明治のときに多くの先達が日本の学校の仕組みをつくり上げたわけでございますが、それらの方々のいろいろ残された資料を読んでみますと、共通して言っておられることがございます。つまり、この新しい学校の仕組みというのは、家庭教育が存在することが前提だということを、いろいろな場所でいろいろな方が共通に言っておられます。つまり、学校教育が家庭教育にかわることが、できることとできないことがあるという意味だろうと思います。家庭における教育というのが、実は教育基本法には何も触れていないわけでございますが、今度の改定には、その点についてはある程度言及しているということで、その辺からまず立ち直らせる必要があるのではないかというふうに考えます。

 それからもう一点、教育というのは非常にクリエーティブな作業でございます。創造的な作業と言っていいのでしょうか。つまり、一人一人違いますから、一人一人違う子供に対して創造的に活動するということと、どうも規範を喪失するということが誤解をされて、規範があるとそういう創造的なことができないというふうに長い間誤解されてきた嫌いがあるというふうに、実際現場にいて実感をいたしております。

 その点に関しては、今おっしゃられた点を、これはぜひ立法府で、今回基本法をきちんと議論されて、公表していただいて、立法府の意思を示していただいた上で、やはり学校が、先生方が、きちっと話し合いをしてその点をしっかりと構築する必要があるだろう。これは、教育の内容、効果に、決定的と言えるほどの大きな影響があることだというふうに考えております。

 そんなところです。ありがとうございました。

梶田参考人 権威の問題でありますが、非常に重要な御指摘だと思っております。

 ただ、権威の背景、本当に権威が権威として機能するためには、いわば普遍的な理念といいますか、価値観といいますか、これがないとだめなわけですね。親だから何でも子供に言うことを聞けというわけにいきませんし、学校の教師だからおれの言うとおりにするのが当たり前だというわけにいかないわけです。ある理念、価値観が要ります。これが私は敗戦でまず吹っ飛んだというふうに思っております。敗戦ショック、これがずっと来まして、そのかわりに欧米から新しい価値観を持ち込もうとしたわけですね。

 マッカーサー司令部は、先ほどお見せいたしました昭和二十二年の毎日年鑑に書いてありますけれども、マッカーサー元帥そのものが、これからキリスト教の理念を日本に持ち込んで、それを新しい日本の価値観にするんだ、そういうことを当時おっしゃっている。しかし、日本にキリスト教は、私はクリスチャンなんですけれども、おいそれとは根づきませんでした。残念ながら根づきませんでした。そういう敗戦ショックで、教育勅語に代表されるような東洋的な、儒教的なそういう価値観が吹っ飛んだ後に真空状態になって、そして、そこに何か言うのはタブーであるかのような状況が六十年続いてきたような気がいたします。

 もう一つ、七〇年から後、豊かになりまして、豊かになって、人がおおらかになって、金持ちけんかせずになります。好きなことを好きなときに好きなようにやるのが一番いいという。しかし、その中で、どうしても、個人の利己的なものをどういうふうに普遍的な価値観でセーブするか、これが薄れちゃったと思うんですよ。学校現場におきましても、九〇年代、非常に残念なことですけれども、私はあえて言わせていただきますが、当時の文部省も、好きなことをやらせるというような間違ったゆとり教育が一部にはびこるのを許してしまったところがやはりあると思います。

 そういう中で、残念ながら、豊かであればあるほど、あることを、しんどい思いをしても我慢しよう、自分で、これは嫌だけれども、これをあえてやろうというものを、普遍的な価値観をつくっていかなければいけない。

 そういう意味で、新しい道徳教育というのをこれからはつくっていかなければいけない、そういう時期だろうと私は思っております。

西澤参考人 教育者が自分が社会に対して持っている責任感を十分に自覚しなくなったということが、私は最大の原因ではないかと思います。

 もちろん、戦後、生活環境その他が決して教員に対してよくはなかったというふうに思いますけれども、しかし、小中学校の先生方の待遇が大学の教官に比べてそう悪くなかったなどという時代もあるわけでありまして、本来それでちっともおかしいとは思いませんけれども、先ほど申しましたように、そういうふうなところがあったにもかかわらず、自分たちがこの日本の社会に対してしっかりどういう責任を持つか、次の日本を担う子供たちをちゃんと育て上げていくという展望を見抜いて、その展望を伸ばしていく。しかも、それをめちゃくちゃに伸ばすのではなくて、ちゃんとした社会を意識しながら伸ばしていくというふうなやり方をもっと積極的にとればよかったのではないかと思っております。

 私自身も大体研究所畑でございましたから、教育については一歩置いていたわけでございますが、学生騒動というのがございまして、平素偉そうなことを言っている先生方が、学生がちょっと脅迫的に出ますと一遍で顔色を変えて逃げ込むようなことがたくさんございまして、大変失礼でありますが、何だ口ほどにもないというふうに感じたことが多々ございます。

 やはり、そういうときに自分の身を挺してしっかり受けとめる態度を持った先生方がもう少したくさんいたら、これほどひどくはならなかったのではないかというふうに考えております。

 以上でございます。

渡久山参考人 かつて戦前でも、今もそうかもしれませんが、儒教的な考え方の中に三尺下がって師の影を踏まずという言葉もありましたけれども、まさに今そういう状況がないのかといいますと、やはり私たちは、一人一人の人格が、非常に個人的な人格として尊厳ということは極めて大事でありまして、それぞれの人格がそれぞれに尊重されあるいは大事にされるというような中から一つの連帯感が生まれてくるものだと思います。

 そういう意味では、やはり今、競争社会というのが余りにも言われている、あるいは拝金主義というのが言われている。昨今の事件、そのとおりでありました。その中に、人と人とのつながりというのをつくっていく、あるいは、そこの中には、信頼関係だとかあるいは友情だとかあるいは愛情だとか、そういうようなものを切り捨ててきている今の社会というようなものに大きな問題があるんじゃないかなという気がいたします。

 ですから、私たちは、教育者あるいは教育現場にある者は進んで連帯感をつくり、子供と子供、あるいは教師と教師、あるいは子供と教師の間に、信頼関係とそれなりにお互いに尊敬し合える関係をつくり上げることが極めて大事じゃないかというように思います。そういう中から、一つの新しい意味での権威というのがつくられるというように思っています。

 以上です。

松野(博)委員 次に、私が今回の教育基本法の改正において重要だと考えますことは、国と地方自治体、家庭、それぞれの責任、役割の分担であります。

 参考人の田村先生は、我が千葉県において大変評価の高い学校経営を進めていただいております。この業績の第一は、学校現場の自由な裁量と責任の確立においてなされているものと考えます。

 私立と同様に、今後は公立においても、校長を初めとする学校現場や市町村教育委員会の裁量自由度の拡大を図っていくことが重要であると考えます。

 同時に、全国的な教育水準の維持は国の責任である、このことは今回の政府案にも明確に書かれているわけであります。

 学校現場や各市町村の教育委員会の裁量を拡大しつつ、全国の教育水準を維持するためには、まず国が明確な教育目標を提示して、その目標を踏まえて、教育現場が自由な発想、手法で授業や学校運営を進めることが必要であるかと思います。

 そして、各学校教育現場が自由に進める、その結果として得た教育的成果は国がしっかりと検証して、そこに問題が発生している場合は、改善について実効性のある仕組みをしっかりと国がつくっていく。この流れが、現場の自由度を高めつつ全国的な学力の水準を維持していく、このために必要な仕組みであるというふうに考えますけれども、この点について、田村先生、梶田先生の両先生に、国の教育に対する責任と地方、学校現場の責任、役割分担につき、御意見をいただきたいと思います。

田村参考人 ありがとうございました。

 実は、最近、大変貴重な経験をさせていただきました。つまり、日本と中国が、第一次大戦、第二次大戦を通じて大変な殺し合いをしている、これを次の世代にはもうなくそうということで、その方法として、日本国政府が本気になって、青少年の交流をやろう、中国との交流をやろう、こういう計画が始まりました。

 二千人が第一年度ということで、ことしは二千人の第一陣が二百人ということで先般来られまして、私どもの学校にも中国の生徒が来ました。同時に先生もついてきましたので、先生との話し合いを一晩ゆっくりと、ホームステイをうちにしましたので話をしたんですけれども、中国の場合は、国の基本的な責任というのを非常に明確に出しているというのが実感されました。もっとも、どういう評価なんだと聞いたら、大学進学実績だ、それしかないと言っていましたので、これはびっくりしましたけれども。

 単純といえば単純ですけれども、明快といえば明快でありまして、何でもいいと思うんですけれども、やはり国の責任できちっとしたものを示すということは、これから先、国際競争の場における我が国という状態を考えてみますと、非常に重要なことになってくるというふうに思います。

 つまり、今の中高生が活躍する場は二十一世紀の半ばごろですが、今よりもっともっとグローバルな状態が進んで、国際社会の中で生きていく人間をつくっていかなければいけないわけですから、その視点で国がしっかりと基本的なことを議論して示す、これは非常に重要だと思います。しかし、実際に行う場合には、地域によって、地方によっていろいろな特別な状況がおありになるでしょうから、それは生かせるような形で国が示すという作業をなさる必要が今後絶対にあるなということを実感いたしました。

 なお、青少年交流は、ドイツとフランスでは、去年、実績が二万四千人だそうです。我が国と中国は、昨年五百人だそうですから、これはぜひひとつふやしていただきたい。中高レベルでの交流ということで、これは世界平和につながっていくと思いますので、そんなことをちょっと。

 余計なことを申し上げましたが、よろしくお願い申し上げたいと思います。ありがとうございました。

梶田参考人 それでは今の問題ですけれども、昨年一年間、中教審で義務教育特別部会というのをつくりまして、きっかけは御承知の義務教育費国庫負担法の問題といいますか、小中の先生方の給料の出し方の問題ですね、これをきっかけにいたしまして、一年間非常にたくさんの時間を使いまして、知事さんも入られた、市長さんも入られた、都道府県の教育長さん、市町村の教育長さん、あるいは財政や教育やいろいろな分野の学者の方々、あるいは労働界、産業界の方々、こういう人たちが集まりまして、一年間議論いたしました。これが、昨年の十月二十六日に、義務教育改革の答申という形で、中教審答申の形で出ました。

 ここでは、何を言っているかというと、簡単な話が、国の責任、都道府県の責任、市町村の責任、個別の学校の責任、一人一人の教師の責任、これを明確にしようと。

 何かようわからぬで、例えばどこどこの学校で何か起こった、文部科学省は何しているか、そんなことをすぐ言われたら、これは困るわけですね。そんな細かいはしの上げおろしまで文部科学省の責任を問われたら、これは困るんですよ。まず、とりあえず設置者である、例えば小学校であれば市町村教育委員会及び学校長及び個々の先生がどうするかというのがあって、それを都道府県がどう指導して、その上で、これは全国的な一つの問題もあるなということがあれば文部科学省が乗り出す、例えばこういうことにしなきゃいけないだろう。

 今まで、個別のことを、何かあるとすぐ国は何をやっているか、こうなって、逆に、国が何か言いますと、いや、学校現場のはしの上げおろしまで文部科学省言うじゃないか、こういうふうになっていた、これはまずいことだと思います。これを答申で出しております。

 つまり、ナショナルミニマムとローカルオプティマムの両立がこれから必要である。これは今までも考えられてきたわけですけれども、これを仕組みとしてもっとはっきりすると同時に、国会、都道府県議会、市町村議会、そういうところでも、そういうすみ分けといいますか責任分担といいますか、これを明確にしてこれからやらなきゃいけないだろう。こういうふうに、一応、いろいろな立場があったんですけれども、その一点ではほとんどの方が一致したんじゃないかなと私は思っております。

 また、国会の面でも、そういうそれぞれのレベルのいわば責任の分担、明確化、それと同時に、どこかだけが突出しない、そういうことで、一人一人の子供に本当に安定した形で豊かな教育が保障されるということを、ぜひ仕組みの面での改善を図っていただきたい、そういうふうに思います。

松野(博)委員 最後の質問でございますけれども、今回の教育基本法改正の議論におきまして私は重要だと思う三つ目の論点といいますのが、私学の振興、生涯学習、幼児期の教育を初めとする、現行法にはないけれども重要な教育の概念であり、また新たな教育の概念が付加をされたということであろうかと思います。

 特に、私学に関しましては、日本の教育機関の大きな柱であることはもう自明のことでございますし、政界におきましても、例えば本委員会に御出席をいただいている委員の中でも、海部総理、森総理、羽田総理、それぞれ私学の御出身でありますし、小泉総理を初め、七代連続私学出身の総理が続いております。

 これほど重要な貢献をされているわけでありますけれども、教育基本法の改正の折、私学振興に関してどういった御希望があるか、田村先生の方からお答えをいただきたいと思います。

田村参考人 大変いい御質問をいただきまして、ありがとうございます。

 私ども、私学振興に関しては、これはぜひ国の姿勢として、私立学校の教育を評価して、きちっとした形でその振興の姿勢をお出しいただきたいと思います。もちろん、そのためには、私立学校自身がその責任の重要さを意識して、世に批判されないようにきちんとした教育をし、指弾を受けるようなことのないことをするというのが大前提でございます。

 それをすることによって、実は日本の教育の活性化というものが、私学の存在によって、今までの歴史の中でもはっきりと証明されております。帰国子女教育、中高一貫教育、それから大学、高校の一貫教育、その他いろいろな新しい教育の分野というのは実はすべて、戦後、私立学校が実験的に行い、それが普及したという経緯がございます。ですから、現在でも私立学校の方が、大変分野を広く、そういった部分の責任を持っているというのが実態としてございます。

 ぜひ、その部分に着目していただきまして、正しく私学振興をしていただくように。公立が私立の刺激によってよりよくなる、公立も頑張り、そしてそれによって私立も頑張るという、これが日本の教育をよくしていく一番いい方法ではないかというふうに私どもは考えております。

 ぜひ、よろしく、今回の基本法の制定の上に立って、今後とも国の姿勢をお示しいただきたいことをお願い申し上げて、お話しさせていただきます。ありがとうございました。

松野(博)委員 質問を終わります。ありがとうございました。

森山委員長 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。

 きょうは、四人の先生方、本当にありがとうございました。日本において教育について最も造詣の深い方々をお呼びして御意見を伺い、本当に参考になりました。心から御礼申し上げます。

 最初に、田村先生、梶田先生、渡久山先生にお伺いをいたします。

 三先生とも、平成十五年三月に中教審答申が出されました、そのときの中教審のメンバーでございました。今回の政府案につきまして、この中教審で議論されたこと、また答申、これがしっかり入っている、このように思います。我々も、この中教審の答申を何度も読み返しまして、勉強させていただきました。

 政府案の評価をお伺いしたいと思います。

田村参考人 どうもありがとうございました。

 中教審答申と今回の法案にかかわっては、基本的にはスタンスは同じでございますけれども、具体的に幾つか違ったところもございます。

 一つは、義務教育の九年という年限を外したということでございます。

 答申、議論をしていた当時は、まだまだこの九年の義務教育そのものをテーマにということは、状況としてはなっておりませんでした。その後、義務教育、先ほど梶田委員から御説明がございましたように、義務教育費国庫負担の問題で特別委員会が開かれ、世論も喚起され、いろいろな議論の上で義務教育そのものが議論されたという経験を私たちの国は持ちました。それを受けて、今回の提案には九年という義務教育の年限を外されたんだろうというふうに思います。

 義務教育そのものが九年でいいのか、こういう議論が展開されているということが原因だというふうに考えます。延ばす方法もあるだろうし、従来どおりの義務教育であれば、短くした方がいいという議論も当然あるんだろうというふうに思いますが、そういう議論の中で、基本的には長くするというのが世界の流れでございますけれども、その点については少しフリーハンドを持った方がいいだろうというお考えが示されているというふうに理解をいたしました。

 それからもう一点の違いは、実は幼児教育についてでございます。

 今回の法案が提案された中身には、幼児教育について明快に議論がされ、提案の中に入っております。この部分は、今反省しますと、実は中教審が少し弱かったなという感じがございます。当然、社会の状況の変化があったということが原因と思います。

 つまり、その後、保育園と幼稚園を一緒にした認定こども園という議論が進みまして、それが国会でも取り上げられ、既に法案化されたんでしょうか。(斉藤(鉄)委員「はい」と呼ぶ)そのことは、私どもが中教審で議論したときとは大きな違い、状況の変化だというふうに思います。

 幼児教育が教育の基本的な部分で非常に重要であるということは、これは、発達心理学という学問が一九八〇年代に非常に充実するわけですけれども、そういった学問的な背景の中で、今や教師の資質の一つとして、子供の精神的な発達段階を知っているかどうか、これが非常に大きな要素になっているぐらい大きな変化が起きているわけでございます。それを踏まえて、幼児教育という項目が新しい法案の提案には入っている。

 そこの二点が違っているというふうに私ども拝見させていただいております。よろしくお願いしたいと思います。

梶田参考人 それでは、私の見るところで、中教審答申と今回の政府案といいますか与党案、これについて意見を申し上げますが、私は、本当に御苦労いただきまして、今回の与党案はこれまでの中教審の議論を踏まえてつくっていただいたというふうに考えております。もちろん、今田村先生おっしゃったように、それは同一ではありません。若干の違いはありますけれども、基本は同じだと思っております。

 これは、きょう私、最初に申し上げましたように、やはり理念として、いいものはいいとちゃんと認めて、前文なりなんなり、最初のところへ持ってこようと。つまり、今の基本法を丸ごと捨てるのか、丸ごといいとするのか、そういう議論ではなくて、その中でいいものは残しながら、しかし、残念ながら、あの時期の特殊事情から、主権を失っていた事情から入らなかったこと、入りにくかったことをきちっと入れていこう、こういうふうなことを中教審でも議論いたしました。

 我々は、これから何十年先の日本のことを考えるんだから、イデオロギー的な対立、これに絶対巻き込まれちゃいけないということでやってきました、これは国民会議も同じことだったわけですけれども。そこからの議論の積み重ねが、私は、与党案には本当に御苦労いただいたと思いますけれども、本当に入念に議論をしていただいて、こういう形にまとまったんだなと思って、非常に感慨深いものがございます。

渡久山参考人 今斉藤先生御指摘いただいたんですが、率直に申し上げて、中教審答申に極めて忠実に法案はできているんじゃないか、こういうふうに思います。そういう意味では、中教審の答申を非常に尊重されたな、こういう気がいたします。

 しかし、先ほど申し上げましたように、義務教育の九年間の問題、これはどうなるのか。そのことについては今後議論をしていただきまして、私が申し上げましたように附帯決議等で入れて、延長もあり得ることを前提にして書いていただければ非常に幸いだと思っています。

 それからもう一つ、既に三年経過しているわけですね。ですから、その三年間の経過の中で、やはり今度はどういうことが起こっているのか、起こったのか、このことも考えられたらどうだろうかと思います。

 特に、サッカーがあんなに盛んになって、だれでも、日本人であれば日本のチームの勝利を喜ぶような感じがいたしますね。それは非常に率直に日本の国の勝利を喜ぶという極めて素朴な愛国心から出ているものだという気もいたしますので、そういうような、あるいは大きな、大きくはないかもしれませんが、社会的な変化というのもございますので、もしももっと審議の機会がございましたら、民主党案に出てくる幾つかの国際条約等の前進的な部分も入れていただいて、またすばらしい案をつくっていただければ幸いだと思います。

 以上です。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 大学の学長でいらっしゃる西澤先生にお伺いをさせていただきます。

 今回、与党案に、第七条ということで、大学という項目が入りました。もちろん学問の自由という大前提のもとに、「学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、」ここまではいいと思うんですが、「これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」

 我々国民感情からすれば当たり前なんですが、ともすると、大学については、象牙の塔ということで、社会との接点を、いわばこれまで悪いことであるかのような風潮もございました。そういうことの反省も踏まえてこのような文章になったんですけれども、またもう一つ、大学がプレーランド化しているというものもございまして、今回こういう項目が政府案には入ったと思うんですが、このことについての御評価をいただければと思います。

西澤参考人 今先生のおっしゃったことは、むしろ私の持論でございます。

 外国にもいろいろな学校がございます。例えば、グラスゴー大学に目をつけたのは伊藤博文の非常な先見の明があった。その前に、長州藩は五人の藩士を密出国させまして勉強にやっているわけでございますが、グラスゴーには行かなくてユニバーシティーカレッジに行ったのでありますけれども、いずれにしましても、そういうところに目をつけたということは、日本の明治期における文教の発達に対しては大変効果的な選択であったのではないかと思います。その中の中心的な人物はロード・ケルビンでございますが、ロード・ケルビンに目をつけたということもまた大変なことであったと思います。

 ロード・ケルビンは最初は、大体、蒸気機関というのは、日本ではジェームズ・ワットがつくったなどということをいいますけれども、実際はそうじゃなくて、三人の合作でございます。パパンという人が非常に原始的なことをやりまして、その後、ニューコメンというのがこれに改良をいたしまして、最後にジェームズ・ワットが二度目の改良をやって、ほとんどこの間まで走っておりました蒸気機関車のような高度のものに発達させたのであります。

 それを見たロード・ケルビンは、理論がないと。つまり、人のつくったのを見て、それをまねしてつくったと。もうちょっと大きいのが欲しい、力の強いのが欲しいということになりますと、それをちょっと変形させてつくるというふうなやり方でございました。そういう経験がたまっていって蒸気機関ができていたわけでございますが、それは本来はそれでもよろしいわけでありますけれども、ちゃんと理論式があって、その理論式に、馬力は何馬力が欲しいとか、あるいはどれだけのストロークが欲しいとかいうことが決まりましたときにはその寸法を入れてやると、ちゃんとそのとおり働くものができるというふうにするということを考えたのが物理学者としてのロード・ケルビンの仕事であったわけでございます。

 それを完成したのが彼の大変偉大なところでございますが、そのときに実は内職をしていたわけで、内職というのはちょっと言葉が悪いのでございますが、それは、世界の学問の歴史の中でも最も難解だと言われております熱力学を建設したわけです。ほとんど全部、ロード・ケルビンがつくり上げたということであります。私ども東北大学はそのグラスゴーの流れをくみまして、東大の物理に来られましたユーイングという先生の影響が非常に強く伝わっております。

 ユーイング先生は、グラスゴーから東京に派遣されてきて最初に皆さんに言ったのは、地震の研究をやろうと言ったんですね。物理学教室でございます、大抵の先生方が、何でそんな変なことをやるんだ、世界の大学で地震の研究なんかやっているところはどこにもないと言われたときに、こんなに地震の多い国で何で地震の研究をしないのか、困っている国民がいっぱいいるではないかというのがそのユーイングの返事でございました。これはまさに、本来の学者としての責任感あふれる言葉だったと私は思っております。

 そこで、二番目にやったのが磁性材料の研究でございまして、これもユーイング自身がみずから理論式をつくりました。これは今でも使われている理論でございますが、非常に大きな展開をいたしました。結局、日本の磁性材料産業は戦後にわたる復興にも大変大きな貢献をいたしましたが、この大きな理由が、やはりユーイングが指導いたしました磁性材料の研究から根を引いているものと考えている方がたくさんいらっしゃると思います。

 そういうことで、最初日本に入りました物理学の流れの一つは、日本の社会のために役に立つということが前提であったということでございます。ただ、それは役に立ったからおしまいではなくて、先ほど申しましたように、ロード・ケルビンが熱力学をつくったというふうなことによりまして、応用をやるときに同時に基礎も大変深く掘り下げた。

 私が東北大学在職中によく言っておりましたのは、これを模範としてほしいと。そのためには、先生方には二、三割は余計働いてもらわなければいけない、両方やるわけでございますから。ただし、その結果として得られるものは二倍、三倍ではききませんよ、二十倍、三十倍の成果が得られるんですということをよく申し上げていたところでございます。

 これが私の本心でございますし、今後とも、そういうことをもう少し積極的にやっていくということが日本の大学人に対して要求されていることではないかと思っております。学問だけやって楽しんでいるのでは困るわけでありまして、やはり日本の産業というもの、もちろん、いろいろな分野がございますから、私が今申しましたような工業関係だけではないので、いろいろな分野でこういう責任感がしっかり教官の胸の中にあるということがやはり重大なことではないかと思っております。

 以上でございます。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 次に、田村先生、梶田先生にお伺いしますが、高校教育の位置づけでございます。

 義務教育についてはきちんと議論されております。また、今西澤先生に私お伺いしましたように、大学ということについても議論されている。そのはざまにあるのが高校。憲法には、「普通教育を受けさせる義務を負ふ。」ということで、義務教育イコール普通教育とも読み取れる表現がございます。しかし、高等学校には普通教育がある。また、高等学校とはいえ、文部科学省的には後期中等教育で、中等教育だそうでございます。非常に概念規定がはっきりしないということと、私自身も振り返ってみてというか、だれでもそうだと思いますが、高校というのは人生の中で非常に大切な時期、そこが教育政策上余り明確になっていないということを感じているんですが、このことについて御意見を伺えればと思います。

田村参考人 非常に難しい問題でございます。

 子供の精神発達の話を先ほどちょっと申し上げましたが、青少年が大人になる自覚をする最初の一つのきっかけが、幼稚園の年中の四、五歳の第一次自立期、次に起きるのが、第二次自立期と言われる十四歳、つまり中二ぐらいのところで自我の目覚めと言われる現象に悩みます。つまり、自分が人と違うということを意識して、そして、そのころからそろそろ自分の人生を見通して悩み出す、これを心理学ではアイデンティティーの確立に入る、こう言われておりますけれども、そのアイデンティティーの確立を前提として、そのために非常に悩みの多い時間を過ごすというのが中等教育期間なんですね。中学校、高等学校がその時期だと思います。

 では、日本の教育がどうなっているかというと、実は、最初の制度設計では、つまり、今の教育基本法がつくられた昭和二十二年、そのころでは、高等学校に多くの生徒が進学するということは想定されない設計でありました。つまり、第一次、第二次自立期を終えて中学校が終わったら、ある者は社会に出る、ある者は学校を継続する、こういう制度設計をしていたわけです。

 ところが、今度は、これは社会的な豊かさが原因の一つだと思いますけれども、ほとんどが高等学校に行くようになる。現実には全員が高等学校へ行く。しかし、考え方がもとのとおりでございますから、不思議なことに、全員が行くのに入学試験が高等学校にある。全員が行くのならなくていいと思うんですけれども、あるんですね、これは世界の中でも非常に珍しい例なんですけれども。

 どうなっているかというと、現実には高等学校の入試というのは、いわゆる学力ということを使って試験しますから、おまえはできる、おまえはできないという分別をして、ラベル張りをする役割しか果たしていない、そういうような問題が起きかねる、起きかねてしまう。これは非常に危険な状態なんですね。

 ですから、高等学校に入った瞬間に、もうおれはこの程度だというふうに思ってしまう、こういうようなことが日本全体に広がってしまう、それを長い間放置されている状況であったというふうに考えなきゃいけないんじゃないかというふうに思います。

 鳩山委員いらっしゃいますが、文部大臣のころのお話ですが、場所は言いませんけれども、某所のバーで、いい若い男の青年が、おまえは偏差値幾つだ、おまえは幾つだといって言い合っているというんですね。大人になってそんなことを言っているということは、いかに高校入試が大きな影響を与えたかということの証左だと思うんです。

 この部分をやはり本当に考えないと、日本の教育の仕組みとしては余り機能しなくなるだろうというふうに思います。

 これは六・三・三制の制度の変更にもつながりますし、ではどうしたらいいかということになりますと、これは義務教育という考え方で処理できない内容を持つ話になってきますので、つまり多様な生徒が出てきますので、全体一緒になって教えていけばいいというような部分が少なくなる一方なんですね。中学を出るころは、とにかく子供たちの意識では、自分が理系だとか文系とかいう意識ははっきりもうできている。しかし、入試は全くその違いがないんですね。全員やらされる。それで非常に不満に思う子供もいるし、まだそこまでいっていない子供もいるしということで、非常に多様なんですね。

 だから、その部分は、今問題として先生御指摘されたとおりでありまして、非常に大きな問題が残っている。これをどう解決したらいいか。これは、大学でやっている部分を少しおろすということが必要な場合もあるんではないか。つまり、それに十分たえられる子供もいます。それから、中学校を高校まで及ぼす、それで十分という子供もいるわけですね。ですから、多様になってくるという部分になりますので、かなり慎重な検討の上で制度設計をもう一回見直す必要がある部分だというふうに私も実感しております。

 ありがとうございました。

斉藤(鉄)委員 梶田先生に、今の御質問と、もう時間がなくなってまいりましたので、もう一問質問させていただきます。

 民主党さんの案に、教育行政のところで、「地方公共団体が行う教育行政は、その施策に民意を反映させるものとし、その長が行わなければならない。」というふうになっております。今、いろいろな自治体の長さんが、教育委員会なんか要らないから、直接選挙で選ばれたおれたちに教育を直接任せろという意見があることも確かなんですが、教育の独立ということから考えると大変問題があって、政府案と民主党案の最大の違いがここにあるんじゃないかなと私自身は思っているんですが、この点についての御意見もお伺いできればと思います。

梶田参考人 今の二点、私の考え方を申し上げます。

 一つは高等学校の問題。与党の出していただきました教育基本法案でも、ざっと読んじゃうと、高等学校だけ抜けているんじゃないかという意見があるんですね。幼児教育がある、義務教育がある、大学教育があるわけですね。これは普通教育とかいろいろな形で実は中身的にはカバーされているんですけれども、ぽんとクローズアップするようなものとしては、まさにさっきおっしゃった高等普通教育といいますか後期中等教育といいますか、この部分について規定がない。これは少し中身を考えなきゃいけないだろう。

 もちろんこれは、この基本法ができまして、その下の学校教育法を改正することになるわけですから、ここで高等学校はという形でかなり詳細に詰めることはできます。したがって、今申し上げたことは基本法案の欠点というわけではありません。ただ、ここでは見えにくいので、学校教育法のところでかなり詳細に議論していただいて、中身を詰めていただかなきゃいけないだろうと思います。

 これにつきまして、今、中教審の方では、教育課程部会の下に高等学校専門部会をつくりまして、各教科横断的に、高等学校の特徴とは何だろうか、大学の予備門でもなければ中学の延長でもないわけですから、独自の意味があるということで今議論を始めたところであります。これも、もう少ししたらまとまってくるだろうと思います。

 ということで、高等学校の問題は非常に重要ですけれども、これからもう少し議論していかなきゃいけない。

 もう一つだけ申し上げますと、私が高校に入ったときは、せいぜい六割ぐらいなんですね。高校進学率は六割から七割です。今、九五、六%。実質、例えば養護学校も高等部がございます。私のめいも知的な能力に障害を持っておりますけれども、ちゃんと養護学校の高等部を出してもらっております。したがって、実質、全国民的なものになっている。この現実を押さえて、昔の高校、だから、偏差値でもう語れないんですよ、はっきり言って。偏差値で生き残る子もおるし、そうでない子もおる、こういうことを踏まえて、少しこの辺の詰めが必要かなと思っております。

 もう一つは、教育委員会制度の問題。これは、私も自分の住んでおります大阪府の北部の箕面市というところの教育委員も八年間やりました。大阪大学の助教授をやっているとき、若いときにやったんですけれども、そういういい経験をさせていただきまして、地方教育行政の組織及び運営に関する法律がありますね、地教行法、これはなかなか生きないな、生きるのは難しいなということは実は実感をしております、もう十年以上前でありますが。

 これは、確かに教育委員会制度を一段と充実させる、実効性のあるものにするためには、まだまだいろいろな努力が必要かなと思っておりますが、では、今不十分だから要らないかということになりますと、私はなかなかそこまで言っていいのかなと思います。

 これは、先ほど斉藤先生御指摘のとおり、やはり教育ということの独立性とか公平性とか、別の言葉で言うと政治的な中立性の問題があります。首長さんが選挙でこっちに勝った、思うように何かまた小中の教育が変えられたり、あるいは知事さんがかわってというようなことになっても困るんですね。教育というのはやはりもっと長い目で見なきゃいけないから、継続性がなきゃいけない。

 ということで、私は、実は国においても国家教育委員会をつくるべきだということを以前から申し上げておりました。これはどういうことかといいますと、やはり政党政治の枠からちょっと外すというか、完全に外すわけじゃありません。だから、文部科学省は、その国家教育委員会といいますか中央教育委員会といいますか、それの事務局になる。

 ですから、もちろん全部国会で審議していただきますから、それがひとりで動くわけではないけれども、やはり政治的な中立性といいますか、そのときそのときの政争に巻き込まれないといいますか、イデオロギー的な対立を考えなくて済むといいますか、そういうものでいかなければ、もちろん、国家教育委員会の場合も教育委員の任命については国会の同意が当然必要である。ちょうど今、地方の教育委員の任命も議会の承認が要るわけですよね。これと同じようにしなきゃいけない。

 やっていることについては、常時国会の監視は必要ですけれども、私は、教育ということが、例えば橋をかける、とても大事なことです、道をつくる、とても大事なことです、あるいは、どこどこの産業振興のためにこういう手を打つ、これもとても大事なことだけれども、ちょっとパースペクティブといいますか見通しといいますか、あるいは事柄の、次の世代の人間をつくるという事柄の特殊性というか重大性というか、そういうことからして、やはり少し工夫というものが、制度的な工夫、つまり、普通の市役所の何とかの部局と同じものにする、あるいは知事部局の中のある局やら部と同じようにするということには、やはりなじまないといいますか避けるべきではないか、私はそういうふうに考えております。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。終わります。

森山委員長 次に、西村智奈美君。

西村(智)委員 民主党の西村智奈美と申します。

 きょうは、参考人の皆様、お忙しいところ大変ありがとうございます。貴重な御意見を拝聴いたしました。とりわけ現場で教育にかかわっておられる皆様、かかわってこられた皆様からの発言でございましたので、本当の教育の真髄は何か、お一人お一人感じておられること、考えておられること、多様なんだなというふうにも思いましたし、また、お一人お一人が信念を持ってそれぞれの教育活動に取り組んでこられたということを知ることができました。

 今回の教育基本法についてでありますけれども、私たち民主党の立場といたしましては、やはりもっと国民的な議論を起こしていくべきではないかというふうに考えております。教育は国家百年の大計とも呼ばれておりまして、だれもが教育というと関心のあるテーマだと思います。だれでもが教育を受けますし、また、だれでもが教育の主体となり、客体となり得るわけでありますので、しっかりと私たち国民のものとしてこの教育基本法をとらえていけるように、もっと議論をしっかりやるべきではないかということを申し上げまして、個別に参考人の皆様に質問をさせていただきたいと思っております。

 まず、田村参考人と梶田参考人に同じ質問でございますが、例の三位一体改革で、義務教育費の国庫負担率の削減と、そしてまた私学助成の補助対象リストからの削除と申しますか、一連の流れがございまして、非常に教育行政はお金をめぐって大きな議論がここ数年間あったわけでございます。

 渡久山参考人のお出しいただいた資料を使わせていただいて大変恐縮なんですけれども、この資料にまさに私は端的にあらわれているというふうに思っておりまして、日本のGDPに占める教育費の割合は減ってきているわけでございます。

 イギリスのブレア首相が、一に教育、二に教育、三に教育だというふうに演説をされた。あれを本当に私は胸が震える思いで聞きましたけれども、日本においては、残念ながら、一向に教育にかけるお金というのは減少している状況にあるわけでございます。

 私たち民主党は、やはりここはしっかりとナショナルミニマムとして国が教育にこれだけ責任を持つということを明確にするために、私たちが提案しております法案の中で、GDPに占める教育費の割合を毎年報告するということを明記させていただきました。

 依然として国際社会の中では、国際規約、A条約ですか、ここで、日本が批准しておる条約なんですけれども、高等教育の漸進的無償化についてはまだ留保しているわけでありますけれども、お二方から、この民主党の条文に対する率直な評価、これをまず最初にいただきたいと思います。

田村参考人 ありがとうございます。

 民主党の日本国教育基本法案にかかわって、私学助成についてのことで限定してよろしゅうございますか。(西村(智)委員「条文について」と呼ぶ)条文についてでございますか。

 条文についての文章あるいは内容について、事細かく意見を言うというのはちょっと控えた方がいいんじゃないかなというふうに率直に思っております。

 基本的な考え方については、政府案と民主党案にはそう大きな違いがないというふうに私ども受けとめているというのが率直な意見でございます。

 先ほど、三位一体改革あるいは私学助成の扱い等についての議論が出たということについての御言及がございました。私ども当事者として非常に苦労をしたわけでございますが、やはりその体験の中でも、振興基本計画というものを持って、それが世の中に理解された上でこういったお金の問題を議論するということがないことが非常に歯がゆい思いをしたという経験がございます。

 日本の国の教育というのは、どうやるかで確実に将来に影響が出ることなんですね。ただし、すぐには出ないんです。ですから、基本法の議論も、今国会で決まらなくても別に世の中は変わらないかもしれないんですけれども、しかし、確実に何年かすれば何らかの形の影響は出るだろうというふうに私どもは見ております。

 要するに、教育についての考え方を、今、先生は国民的な論議を広げるというふうにおっしゃられました。実は私の教育改革国民会議からの議論に参加してきた経験では、もうある意味では、民意といいますか、民意は尽くしているなというのが率直な実感なんですね。地方へ何回も行って、私も参りましたが、地方の中教審をやってみたり、公聴会みたいなことをやってみたりして、いろいろな御意見を聞いて、大体その結果出てきた案が中教審の答申なんです。その答申が出されてから、もう三年ぐらいたっているわけで、一種のたなざらしみたいな状況になっていますので、もうそろそろ、まあ大事かもしれませんけれども、そろそろ結論を出すというか、立法府としての意見を明示するという姿勢は示してもらえないものかなというのが率直な感じでございます。

 それから、お金の問題に関しては、やはり将来的な基本計画というものを明示された上での議論でないと、確かに今ほどかけていいのかという議論もあるわけですから、そういう意味では、ではそれを今かけないと将来こういう影響が出ますよということをちゃんと明示して、みんなが理解するということが非常に大事ではないかというふうに考えるわけです。

 ですから、単にお金のことだけで、あるいは補助金を、あるいは教育全体にかけるお金をふやせと言うだけでは済まない部分があるので、その意味では、この基本法の中に、民主党案の中にも提案されておられます振興基本計画、つまり、長期にわたって、単年度予算ではなくて長期にわたって教育をどうするのかということをやはりやって、計画を立てて、それを公にして、世の中の人が理解をした上で、お金の問題を議論する、こういう姿勢になっていただかないと、ただ多ければいいみたいな、そんな子供みたいなことを言ってもしようがないですから、その辺のことはぜひ御理解いただければと思っております。

 ありがとうございました。

梶田参考人 それでは、私の考え方をちょっと申し上げますと、まず、民主党案が十九条で書いておられること、本当に私、大賛成であります。ただし、これではまだ足りぬ、足りない。というのは、GDPとか国民総生産の額だけで言っちゃいけないんですよ。日本は不景気になっても出すものは出さぬといかぬのです、教育には。だから、これはマクロ過ぎると思っておりますが、まずここから押さえていくという。

 というのは、日本はやはり、今教育に出すお金が先進諸国に比べて恥ずかしいです。皆さん、私は今、教員養成の大学に行きましたから、その前から行っているんですけれども、小学校や中学校、いろいろなところ、各地へ行きます、全国行きます。皆さん、公立の小学校や中学校の図書室に行ってみてください。今、朝読書をやっているはずなんだけれども、図書室に新しい本がないんですよ。あるいは教材も今ほとんど買えなくなっています。どうしてかわかっていますでしょう。義務教育費国庫負担法から図書費とか教材費を外して一般財源にしたからなんですよ。だから、国からは都道府県に図書費相当分あるいは教材費相当分が行っているんだけれども、行政の優先順位に沿って、はっきり言うとかなりがピンはねされて市町村に行く。そして、市町村でまた優先順位に基づいてかなりがピンはねされて個別の学校に行くわけですよ。そういう具体の状況をどうするかということを本来は考えなきゃいけない。ですから、総額の問題はもちろん大事です。だけれども、同時に、きめ細かくやっていかなきゃいけない。

 それから、今ついでに申し上げますけれども、教員の給与を削ればいいみたいな話がありますけれども、これは欧米は昔から教員の給与が低いんです。ただし、儒教文化圏、中国文化圏はみんな教員の給与が高いんです。教育の日までつくるんです。これは、社会の中のどの部分の人材を教育に向けるかという大きな考え方が違うからなんです。どこどこではどうだという「ではのかみ」がいっぱいおりまして、イギリスでは、何とかでは、こう言いますけれども、日本ではを考えなきゃいけない。日本ではということ。

 そういうことからいうと、私は、軽々に財政的な問題だけから教員の給与費だとかあるいは数をということだけではなくて、まさに教育論としてやっていかなきゃいけない、こういうふうに考えております。

 そういうことを前提に考えますと、私は、十九条で書いてあることは、本当はたくさんこれにプラスアルファしてほしいポイントがあります。そして、しかし基本法だから、基本法はなかなかそこまで細かいことはやれないから、まさに国会の承認を得て、教育振興基本計画あるいは教育振興基本法をつくるということをやってほしいと思います。

 また、この民主党案の十九条から後の四項、五項、六項ぐらいのところは、実は地教行法、地方教育行政の組織及び運営に関する法律に、これは、今のものが、この辺が薄ければ十分に書き込んで、実際にこれをやっているんですよ、地方議会に詳細な報告があり、もうはしの上げおろしまで地方議会では今やっているわけですよね。

 ですから、そこのところをどういうふうにやったらいいのかということを先ほど私は申し上げましたけれども、先生一人一人の責任、学校一つ一つの責任、設置者である教育委員会あるいは学校法人の責任、そして国の責任ということが明確になる形でやはり書き分けて、これは個別の法律の改善あるいは改正という形でむしろ対応していただいた方がいいんじゃないかなと私は考えております。

西村(智)委員 ありがとうございました。

 西澤参考人にお伺いをいたします。

 西澤参考人はサイエンス分野で御活躍されておられるということですけれども、このところ、女性と科学技術という関連でいろいろな著作が出ておると承知しております。ヨーロッパ、EUなどでは、女性の科学者をいかに育てていくか、いかにふやしていくかということが大きなテーマになっているようでありますし、日本の中でも、男女共同参画基本計画の中でそのようなことが、女性の科学研究者と申しますか、数学、工学、情報科学、その他もろもろ、私たちが高校時代に呼んでおりましたところのいわゆる理系の分野にどうやって女性の参画をふやしていくかということが大きなテーマになっているわけですけれども、残念ながら、まだふえてきてはおらない。これは学長でもいらっしゃるのでよく御存じのことだと思います。

 一体、どういう取り組みが今後求められていくというふうにお感じでしょうか。

西澤参考人 今、少し神経質になっているといいますか、例えば委員会に女性の委員を何人入れろなんということを決めるのはむしろ逆効果ではないかというふうに私は考えております。

 大体それは上の連中が、周辺もそうでございますけれども、公平な目で見て、男と女とは関係なしに委員を選ぶとか、もちろん、女性の立場というものがありますから、そういうときには意識的に入れることも必要でありますけれども、今言われているように総量規制をするというようなことは、むしろ、かえってマイナスではないかと思います。

 それから、ちょっと差しさわりがあるかもしれませんが、女性の体の中には子供を産むための道具がいっぱい入っておりますね。それから、今ここにいらっしゃる先生方は大体御同意くださると思うのですが、教育をする、子供を産んで育てるということは、これは人間にとっては、人間だけではございませんが、大変な大事業であると思います。怖くてできないぐらいの恐れを持つような仕事だと思うんですが、そういう意味からいって、私は、女性に対して、そういう仕事をしてくださるだけの適性が非常にあるんですから、それをやはり頭に置いておく必要がある。

 つまり、男の社会に出てくるなと言う気は私は全くありません。そちらは非常にクールに判断をすべきでありまして、しかし、とにかく、今申しましたように、どんな有能な女性でもやはり子供を産んでほしいわけでありますから、特に有能な人を産んでほしいですから、そういう方々のためには、幾らか社会のルールを公平から曲げて女性に少し有利になるような取り扱いをすることも必要であるというふうに考えているわけであります。

 大変お気に召さないお返事かもしれませんが、私としては、余り男だから女だからということを考えずに公平にやるということが、これからいい関係をつくるために一番重要なことだと考えております。

 以上です。

西村(智)委員 渡久山参考人にお伺いしたいと思います。

 時間がちょっと厳しくなってまいりましたので予定していた質問ができないようでありますけれども、渡久山参考人、中教審の答申で七つの視点が提示をされております。

 「1信頼される学校教育の確立」というところでありますけれども、渡久山参考人は中教審の委員でもあられたと承知をしておりますが、私は、信頼される学校教育の確立という項目が第一番目に挙がってきたということは、やはり重視をしなければいけないことであろうと思っております。今、学校教育の現場も、いじめ、不登校を初めいろいろな問題が指摘をされておりますけれども、こういった状況の中で、信頼される学校教育の確立のために最も重要なこと、これは何だというふうにお考えでしょうか。

 いろいろ何か事件が起きますと、すぐに学校の責任になったり教師の責任になったり、あるいは親の責任になったりということがあるわけでありますけれども、最も大切なことは何とお考えか、そしてまた、そのことが今回の教育基本法の改正案にどの程度反映されているというふうにお考えか、伺います。

渡久山参考人 私は、中央教育審議会の審議の中でも申し上げたのですけれども、今、日本の教育、特に義務教育の関係で申し上げますと、学習指導要領というのはすばらしくできているんですね。ですから、それを踏まえて検定教科書も、何かというと、非常に満足のいくレベルでいっているんです。問題は、それなんかが子供たちの中でどれくらい定着し、あるいはまた、発展的に応用能力等を含めて教育効果が上がっているかというと、その部分が非常に乖離しているんですね。

 ですから、今、日本の教育、特に義務教育の段階での問題点は、やはり学習指導要領と、それから実際子供たちの持っている学力を含めた実力との間に、教育力との間に乖離があるということですね。このことは何かというと、今議論になっているドゥーといって、要するにそれぞれの学校に任せて、もっと自主的に教育活動を進めようという考え方が中教審でも議論をされているんですけれども、具体的に、学校現場に行きますと、例えば子供数は四十人学級ですね。先ほど申し上げましたように、OECDの中でも非常に劣悪な状況にあります。

 ですから、先生方は非常に多忙なんですね。その多忙の中に教材研究をしあるいは生徒指導や生活指導をし、あるいは部活動をしていく。こういうことをしていく場合に、十分に学習効果を上げるようなサービスというのができていない、できないというのが現状じゃないかと思いますね。

 ですから、既に文部科学省も調べているんですけれども、先生方の超勤というのは週十四時間もあるというんですね。これもありますし、そういうようなことで超勤もあるというようなことですから、私は、今度の義務教育費国庫負担法のところでも申し上げたのですが、やはり義務教育に対する国の条件整備の責任というものは十分に果たしていかなくちゃいけないだろう、こういうように思っています。ですから、そういう意味では、もっともっときめ細かな財政的な支援というのを国が責任を持ってやってほしい、こういうように思います。

西村(智)委員 ありがとうございました。

 最後に、少しまだ時間があるようでございますので、同じく渡久山参考人に伺いたいと思うんですけれども、この教育基本法の議論の進め方、プロセスについて、どんな御感想をお持ちでしょうか。

 私たちの考え方は、冒頭私が述べさせていただいたとおりなんですけれども、やはりここは、教育基本法を本当に自分たちのものにするために、教育改革国民会議あるいは中教審の中での議論はもちろんですが、その後の法案化までのプロセスは、私たちには全く見えておりません。こういったことを踏まえてどのようにお考えか、伺います。

渡久山参考人 一つは、中央教育審議会でも真摯な議論をいたしましたけれども、必ずしもすべての項目について完全な合意が得られていたわけではないんです。ですから、審議が十分だったかと言われると、必ずしもそうではないというところもあります。

 だがしかし、答申をした以上、これに対して法案化されるというのはもちろん当然の成り行きでございますが、ただ、形式的に言いますと、それは、当時の文部大臣に答申したのであって、与党にやったわけでもないんですね。しかし、最終的には与党と政府が合意を得なければ、どうせ法案にはならないということもありますけれども、政府の前に与党が議論をしてきたというような背景もあるわけですね。それも少し密室とあるところは批判されるんですが、ほとんどそれは国民的には明らかになっていない。

 中教審は、傍聴を含めて非常に明らかに議論をしてきました。だがしかし、その後、与党の議論は、それでもなかなか、選挙もあったり、いろいろなこともあっただろうと思いますが、必ずしも、そういう面が一つ、国民的な合意を得ながら与党案がつくられてきた、あるいは政府案がつくられてきたという感じのしないところはあると思いますね。

 民主党もやはりそれを受けたような対案を出されているわけですから、今後の問題として、果たして今のままで、両方どっちでもいいですから、強行採決をしていくというような形になっていっていいのかどうかということについては、極めて疑問に思っております。

 ですから、採決すれば、多数は与党側が非常に多数ですから、すいすい通るという感じもいたしますけれども、幾つかの問題点をそれぞれ持っていますし、それより一番大事なことは、それぞれの党だけじゃなくて、国民的な合意を得るようなすばらしい教育基本法をつくっていただきたい、これを心から切に望みたいと思います。

 以上です。

西村(智)委員 後ろの中教審の委員だったお二人の先生もうなずいていらっしゃっています。ありがとうございました。

 以上です。

森山委員長 次に、笠井亮君。

笠井委員 日本共産党の笠井亮です。

 教育の憲法とも言われる教育基本法ということで、きょうは、田村参考人、梶田参考人、西澤参考人、そして渡久山参考人、本当にさまざまな角度からありがとうございました。

 幾つか伺いたいと思います。

 今ちょうど渡久山参考人からお答えがあったこととのかかわりから少し伺いたいんですが、今回の政府案の提出に至る経過をめぐっての問題でありますけれども、冒頭の陳述の中で、田村参考人、梶田参考人からそれぞれ、教育改革国民会議とか中教審の議論とほとんど変わらない、大きな差はないということで、大筋の上にあるという御意見がありました。

 一方で、私自身も非常に痛感するんですが、二〇〇三年から三年間ということでいえば、そういう期間もありますし、同時に、中身の上でも答申から大きく変わった部分がある、そして、自民、公明、与党のいわゆる密室協議ということも言われ、それが行われる中ででき上がったもので、その間、国民的な議論のしようがなかったのだという強い批判もあるわけであります。

 そこで、先日、五月三十日の参考人質疑の中で、中央教育審議会の鳥居会長が、今回の法案が中教審答申と違った法案になったことについて、説明は全く受けていないというふうに言われました。この間の、三年間の政府案提出に至るやり方の問題について、西澤参考人は、直接この間はそのことに関してはお触れになっていないので、いかがかということを伺いたいのと、あわせて、田村参考人ですが、この三年間、変化の中で変わった部分があるんだというお話もされたんですが、そうであるなら、もう一度中教審に戻して、そこで議論を審議し直すということも当然あってしかるべきという意見があるわけですが、その点についてはいかがかということで、西澤参考人と田村参考人にお願いしたいと思います。

西澤参考人 大変けしからぬことを申し上げるかもしれませんが、大変この改革がおくれておりまして、さっきもちょっと申しましたように、今回、残念ながら決まらないということのようでございますけれども、しかし、それが後、学生生徒たちに何年分のマイナスになってくるかということになるんだろうと思います。そういう意味からいえば、私の専門でもないせいもございますけれども、字句その他の解釈とか細かいところというのは、やはりこれはやってみながら変えていくということが必要でございますので、そういう意味からいえば、失礼ですけれども、余りまじめに私としては考えていないということを申し上げています。ただ、何としてでも変えようという方向を強く持っていくことが必要ではないのでしょうか。

 明治の教育は成功したと言われますが、その下にあるのは、よく木村尚三郎先生がおっしゃいますように、江戸時代の教育というものが非常に大きな基盤をなしていた、これを無視する方が多いけれども、これは大変な間違いだということを言われるので、私も賛成でございます。

 それから、例えば例を東京帝国大学にとりますと、二、三年ごとに大学が解散になるんですね。入った学生は大変目を回すのでございましょう。また救済策があったようでございまして、まずいところがあればすぐに変えた。何としても理想的な教育を日本でやりたいという熱意のあらわれだと私は考えておりますけれども。その結果としては、明治期の教育というのは非常に成功したということを申し上げてもそう大きな間違いはないのではないかと思います。そういう意味で、なかなかこれはやってみないとわからないことでございます。

 字句の議論というのは、これはまた法制局の分野にはなるんだろうと思いますけれども、教育ということに関しましては、なかなか文章だけでは表現できないことがある。

 我々から見ますと、今の教育というものに対する考え方と我々の時代の教育というものに関する考え方とは相当ひどい差があるという感じがいたします。

 それから、そういう今の教育を受けた方々と私たちの時代の教育を考えた方々の間では了解がすっかり違うんですね。つまり受け入れる素地がもう違っているというようなこともございますから、やはりこれはやりながら、理想を目指して何回でも改革を繰り返す、大変失礼なことを申し上げますけれども、それぐらいの意欲を持って、とにかく第一回目はこれでやってみようじゃないかというようなお気持ちでやっていただくことを私としてはお願いしたいと考えております。

 以上でございます。

田村参考人 ただいまの御質問でございますが、確かに、先ほど申し上げたように、中教審答申と今回の法案に義務教育の九年という部分を外したということ、それから幼児教育の部分というようなことを御説明申し上げました。

 先ほど申し上げたように、時代が変化しているという経緯があることは御理解いただけると思いますが、同時に、私、今回つくづく思っているんですが、この変化でわかるように、どんどんどんどん社会は変わっているんですね。その変わっている社会に対して、実は教育がおくれているんじゃないかという危機感を常に持っております。特に私は、幼児教育は非常に心配しているんです。ですから、本気に、まあ、もう本気になっておられるんですけれども、本当にこの問題を、いわゆる政党間の争いというようなことにもしなっていたとしますと、これは悔いを残すことになるのではないか。

 教育というのは、確実に結果が何年か先に出るんですね、これはもうはっきりしているんです。子供たちを見ていると、本当にそう思います。ですから、今やるかどうかというのは、これは大人の責任ですから、大人の責任において、私どもはもう十分に議論を尽くしたと思っております。ですから、法案にしていただいて、ぐあいが悪ければ、今西澤先生のお話じゃありませんけれども、どんどん変えるところは変えていくということでいかないと、改革の変化の時代には対応できなくなるんじゃないかということを非常に危惧しております。

 先ほども御指摘ありましたが、明治のときは、一年おきぐらいに制度を変えたり法律を変えたり、あの当時は勅令でしたから簡単にできたんでしょうけれども、物すごい変化をしているんですね。あのときと今はそう違わないのではないかという気がします、この社会の変化というのが。

 ですから、ぜひひとつ、そういう意味で前向きに御検討いただきたい。よろしくお願いしたいと思います。

笠井委員 そういう変化のある問題については、大いにまた専門家の話ということで、中教審でも審議をしてということがあってもしかるべきかなと私は思います。

 続いて、梶田参考人に伺いたいと思います。

 先ほど、冒頭の陳述の中で、政府案について二点ということで御指摘があって、回りくどい言い方かなというふうなことも言われながら、時の政府を愛するということでないという点を指摘されました。

 そこで伺いたいんですが、この中教審の答申には「日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」ということが掲げられておりましたが、その場合の中教審答申の国には、統治機構ということを含んでいたんでしょうか。その点いかがでしょうか。

梶田参考人 私の理解では、これは中教審もそうでしたし国民会議のときもそうですけれども、統治機構は含んでいないという理解で私たちは全部話をしてきたと思うんです。そういう一時的な政権の問題あるいはそのときの政治権力構造の問題ではなくて、もっと長い、ずっと先人が積み上げてきた、そして我々が後世に伝えていく、そういう日本という共同体、こういうことをみんな意識して。ですから、その間のやりとりの中には、はっきりそういう方向で、つまり統治機関を含むようなニュアンスのものは一切ないというふうに思っております。

笠井委員 渡久山参考人に伺いますが、政府案について見ますと、教育の目標として、国を愛する態度を初めとして二十の徳目を挙げて、その目標を学校や教職員、そして子供たちに義務づけるというふうにしているということでありまして、当委員会でも大きな議論の一つになってきたわけです。

 先ほど、愛国心は強制したり、あるいは良心の自由は規制すべきものでないというようなことも趣旨で述べられたと思うんですが、こうした徳目を法律に書き込んで強制するということについて、実際に教育現場での受けとめについてどのような声を聞いていらっしゃるでしょうか、そして、参考人御自身どういうふうにそれを思っていらっしゃるか、伺いたいと思います。

渡久山参考人 私は、そういう個々の個人の価値観とか、あるいは良心だとか、あるいは心に関するようなものについては、法律で規定するというのは一つなじまないと思います。同時に、今、強制するということはますます望ましいことではないということが言えます。

 ただ、現場で見ますと、既に、当委員会だったでしょうか、ある県においては通知表の中に愛国心の評価というような、愛国心にまつわる評価というのが出ておりまして、そういうことについては幾つかの県や自治体でやられている、通知表に書かれているのも事実でありますから、それを見ますと、これは強制なのか、どの程度をどういう形で具体的に教えているのかというような部分がございます。そういうことが非常に大きな問題にもなってくるわけです。教職員一人一人の、特に教員の一人一人の価値観の問題になってきますし、あるいは、行政として果たしてこれをどういう形でフォローするのかということになってきましたら、これも非常に問題点が多くなってくるものだと思うんですね。そういう意味ではこれは非常に慎重じゃなければならないだろうというように考えているところであります。

 ただ、この間の委員会では、小泉総理は、評価はなじまないと言われたようでございまして、詳しい、きちっとした議事録を読んだわけではございませんが、そういうことからいきますと、やはり国会といたしましても、そういうようなことについては非常に慎重でなけりゃならないだろうというような意思統一になっているのか、こういうように存じております。

笠井委員 引き続き渡久山参考人に伺いたいんですが、現行の教育基本法は、六条で、学校の教員は全体の奉仕者として国民全体に責任を負って教育の仕事に携わるということを原則としてきたと思うんですが、今度の政府案には全体の奉仕者という規定はなくなって削除されているわけですが、この点についてはどういうふうにお考えでしょうか。

渡久山参考人 私は、教育はもともと一党一派に偏してなされるものではないと思いますね。そういう意味では、教育に対しては、普遍性があり、政治的中立性が担保されなくちゃならないと思いますね。

 そういうことからいいますと、今のこの条項は、その全体の奉仕者という言葉なんですが、なかなかこれが日本語としてなじむかどうかというのが問題の一つにありますね。ただしかし、今までずっと六十年間も親しんできたものなんだからいいような感じもしますけれども、果たしてそれでいいかどうかという部分。

 それよりも、内容についてやはり教育は政治的な不当な支配には服しないように、政治的な中立を担保すべきだ、教員もまさにそうでなきゃならない、教育活動もそうじゃなくちゃならない、もちろん学校の自由というのが保障されていい、こういうことですから、そういう考え方の中で、どういう言葉にした方がより適切かというようなことについては国会で議論いただければ幸いだと思います。

笠井委員 続けてになりますけれども、教員について、政府案、民主党案の双方に養成と研修の充実ということが掲げられております。しかし、実態としますと、教員の皆さんは研修の時間もなかなかとれないほど多忙だということが現実ではないかというふうに思うんですが、教員の方々の置かれている現状、どういうふうにしたらこの多忙化という実態を解消できるというふうにお考えか、先ほど資料もいただきましたが、そういうことも含めたお考えをいただければと思うんですが、いかがでしょうか。

渡久山参考人 この問題は、非常に現場では深刻な問題でございます。ですから、ある団体が調査したのでも週十時間以上になっていますし、文科省も恐らく十四時間の超勤というのが出ていたかと思います。

 それが、ある僕の友達が初めてお嬢さんを教員にしたんですが、こんなに忙しいとは知らなかったと。夜帰ってきて十二時ごろまで起きて勉強しているというんですね。特に新人なものですから、非常にまじめな方だと思いますね。これぐらいまで、うちに持って帰ってまで仕事をする、あるいはせざるを得ないというのが教育現場なんですよね。

 そういう意味では、これは何らかの形で条件をもっと整備し、本当に、研修だけじゃなくて、もう少し教育活動に専念できるような状況をつくらなくちゃいけないだろう、こういうように思うわけですね。

 そういう前提で見ますと、やはり研修というのは、あるいはまた教員の資質の向上というのは極めて大事であります。現行法にもこれを規定されておりまして、また事実、文化の日進月歩や科学の進歩についていって、子供たちにより豊かな情操教育を含めた文化を伝達していくためにはそれだけの研修やあるいは資質の向上というのは極めて大事であります。そうでありましたら、それができるような条件整備をすべきだというのが私の考え方でございまして、常にこれを主張しているのは、そういうことです。

 文部科学省に対しても、今度、教員のいろいろな免許制度の問題が出てきますけれども、やはり研修をしていくんだったら、研修のための定員をとってほしい。例えば、今百万ぐらいの教員がいるとしたら、その一〇%ぐらいは研修定員という形で、例えば今教職大学院というのができてきますが、二年間、現職でいながら研修ができるというような職場保障というものを含めてやはり研修定員をとっていただきたい、こういうように思います。

 それからもう一つは、研修のあり方としては、やはり行政研修が中心になっておりますから、もっと創意工夫で、これはまたもちろん教育委員会含めて一定の行政が判断しなくてはいけない部分もありますが、極めていいと思われる研修については大幅に認めていくというだけのまた研修に対する考え方があってもいいと思います。

 以上です。

笠井委員 では、最後にもう一問、渡久山参考人、続けてであれですが。

 今度の法案の中で、教育振興基本計画ということがありまして、それのトップで、今度、これからの具体化ということでしょうが、全国一斉学力テストという問題を掲げて、政府は来年度からこれを実施すると、総理もこの間答弁されていました。

 一九六一年から六四年にかけて行われた全国一斉学力テストということで見ますと、テストあって教育なしということで、各地でもう大変な混乱もあって中止になったという事態があったと思いますし、今、東京などの現実に行われている自治体における学力テスト、これも、私も現場の状況をつぶさにいろいろ聞いたりもしましたけれども、学校の序列づけ、それからテスト漬けになるということで、子供も教職員も父母も大変に負担が大きくて傷ついているということがあると思うんです。

 このような全国一斉の学力テストの実施についてどのような御意見をお持ちか。参考人の教員時代の、ちょうど時期的にはそのころ教員をなさっていたのかもしれませんが、伺いたいと思います。

渡久山参考人 かつて昭和三十年代に、これは文部科学省が、あのときは文部省ですけれども、やはり最初はサンプルの学力調査からだんだん悉皆調査というような形になっていったときに、やはり現場での大きな混乱というようなものもありました。

 これは、一つには、やはり成績を上げていく、各県で争っていくという、当時の文部省は成績の公表はしないということが前提になっていたんですけれども、いつの間にか公表されて、我が県は学力第一位だ、それではその県についていけというような形の、結局、学力競争だけの問題になってきましたから、現場では、例えば成績の悪い子は受けさせないとか、あるいは欠席しろとか、そういうようないろいろな作為的な問題が出てきたり、あるいは、受験の、学力検査のためのもの、基礎準備というようなものも出てきて、極めて弊害が多かったわけですね。ですから、反対の闘いもあったかもしれませんけれども、それよりも行政でこれはやめていったという経過がございます。

 ですから、今度の学力テストの場合もそうならないようにということを、中教審でも、最初に出てきたときには、私も重々言ったわけでございまして、ちょうどここにきょう参加をしていらっしゃいます梶田先生がその主査でございまして、いろいろ御苦労いただいているわけですが、やはり、序列につながるようなことはしてはいけないということは、十分に考えていかなきゃいけない。だから、公表のあり方が一つです。

 もう一つは、どんな内容のものをするか。例えば、PISAだとかTIMSSなんかのテストはリテラシーの調査なんかをしているわけですね。ですから、単なる学力調査、いわゆる記憶力を含めた、そんなような単純な学力調査でないわけですから、要するにテストのあり方そのものも議論をしていくべきだろうと。まだ明らかになっておりませんが、それは梶田先生にも私はいつもお話ししているところであります。これが二つ目の問題ですね。

 三つ目の問題は、これはそれぞれの県が、悉皆調査を含めて、よくやられているんです、三十五、六県、あるいは自治体で。そうすると、これも本当に、一学期で子供たちの受けるテストの数というのは異常に多いわけですね。ですから、それを考えてくると、子供たちの負担、あるいは教職員の負担、そういうことは十分配慮してなされるべきだ、こういうように思っています。

 以上です。

笠井委員 ありがとうございました。

 終わります。

森山委員長 次に、日森文尋君。

日森委員 参考人の先生方、どうもお疲れさまでございます。大変長時間で恐縮ですが、社民党の日森文尋でございます。

 最初に、梶田先生に二問、御質問させていただきたいと思うんです。

 ちょっと新聞の記事で恐縮なんですが、二月二十五日の毎日新聞、ここで、先生がインタビューか何かにお答えになっている記事の中で、「米国が持ち込んだものであっても、民主的な教育理念は今後とも大事にしていくべき」だということを強調しておられました。私どもも、民主的な教育理念というのは、これはしっかり守っていかなきゃいかぬという思いは十分に持っているつもりなんですが、先生のお考えになっている民主的教育理念、現行の教育基本法の中でもきちっとあるものはあるというふうに私どもは思っていますが、ここを少し教えていただきたいと思います。

梶田参考人 民主的なというのはなかなか難しいですけれども、私の頭にありますのは、まず政治的な中立性ということが土台になります、先ほど申し上げましたように。というのは、パースペクティブは長いですから。

 それからもう一つが、やはり、例えば小中学校であれば、公立の場合、市町村が設置いたします。そうすれば、市町村議会が十分にそれについて議論をする。あるいは、今の公立高校であれば、多くは都道府県が設置いたします。そうすると、都道府県がやはり十分に議論する。あるいは、私も今国立大学法人に籍を置いておりますが、国立大学法人は国が設置しております。そうすれば、この国会においてやはり十分に議論していただくという。中立性を持ちながらも、それぞれのレベルで、きちっとした代表者の方が、いろいろな面で、これは財政的な面、内容的な面、あるいはその組織や運営の面等々含めて、きちっとチェックをかけていく、こういうことが前提になるだろうというふうに考えております。それを土台にした上で、中の様子も、中の様子というのはおかしいですけれども、個別の教育組織といいますか、学校というもの、大学から幼稚園に至るまでの学校というものも、やはり風通しのいい、そういう運営がされていく。

 ただし、それは、だれが責任者かわからぬような、そういうことが民主的だというふうに、一部誤解されております。それとは全く違います。やはり、長がきちっと責任を負って、しかし同時に、そこの意思決定はできるだけメンバーが十分に意見を言いながら、そして、それをすり合わせしながらやっていく、こういうことが必要かな、こういうふうに考えております。

日森委員 ありがとうございました。

 続いて、また同じ記事になって、これも恐縮なんですが。「日本は子どもの権利条約を批准しているのですからこの考え方を基本法にきちんと位置づけていくべきです。」こうおっしゃっておりました。

 最近の学校現場というのは、あるいは教育行政もそうなんですが、子供が管理されるものになっているんじゃないかという思いが、私ども強いんですよ。そういう風潮の中で、先生が、あえてといいますか、子どもの権利条約、これを批准しているんだったらきちんと基本法に生かせということを主張されたその思いといいますか、同時に、中教審の審議なんかでどういうふうに議論されてきたのか、これをちょっと、ぜひ具体的に、できたら教えていただきたいと思います。

梶田参考人 なかなかこの問題は難しいんですが。というのは、まず子供が管理されることが悪いかどうか。管理しなきゃ、今はどんな事故が起こるかわかりません。だから、集団登校しましょうと学校が呼びかけたら、みんなで集団登校にやはり参加してほしいですよ。下校のときも、みんな目の届くところまで先生が付き添っていきましょうということになれば、やはりしてほしいんです。それを一部で管理だというような言い方がやはりあるわけですよ。私は、必要なコントロール、これは不可欠だと思っております、教育にとっては。

 例えば学校で、教室で授業が始まる前に、礼をして始まる。終わったら礼をして終わる。これが管理の権化だみたいな言い方がありました。でも、場というものをきちっと分けるためには、休み時間で先生も子供も一緒にごちゃごちゃごちゃごちゃ遊んでいる、そこが授業に入った途端にぴしっとおさまって、子供も先生も顔つきがみんな変わって、やらなきゃ、これはやれません。けじめをつけるということまで管理だというふうに言われる、これは困ったことだと私自身は思っております。

 権利条約というのは、そういうことに対する異を唱えることじゃないんです。子供を成長、発達の主体として認めるということなんです。権利だ権利だと言って、権利条約だから権利ということを言えばいいというものじゃないんです。これは、子どもの権利条約というか児童権利条約を、ぜひもう一度読み返してみてください。

 意見表明権はあります。大事にせぬといかぬです、子供の意見表明権は。だけれども、その意見が適切、妥当な形で言えるような指導をせぬといかぬでしょう。あるいは、意見を表明したら、それが子供の成長、発達に役立つように、その子供の意見表明を、先生が先生の責任で、どういうふうに受けとめて教育活動に生かしていくか、やらぬといかぬでしょう。

 意見表明したそのとおりにやらぬといかぬというような、そういう言い方が一部あるんです。それは、ある意味ではカオスをもたらすことなんですね、教育現場に。そういうことでない、今おっしゃったのはそういうことじゃないとわかっていますけれどもね。

 ただ、この問題が極めて微妙だというのは、そういう言葉の使い方等々で非常に微妙な問題があって、ただ、そこからもう一つだけ言わせてもらいますと、まだまだ政府原案の中にも、形成するとか育てるという、外側からのあれが割と強いですよね。こういうふうに育っていくように支援するとか、こういうふうな発達を願うとか、子供を主体にした言い方がもう少し工夫できないかなという私の気持ちの問題はあります。これは気持ちです。ただし、ではそういうふうに語尾を変えたら中身が変わってくるのかと言われたら、これは困るところあります。

 ただ、気持ちの問題として、教育というのは、常に外側からある方向に向かって子供をつくっていくんだという気持ちが強過ぎるというのも困って、つくっていく面もありますよ、しかし同時に、子供が育っていくのをみんなで支援していくという面もやはりなきゃいけないな。

 そういうふうに思いますと、まだこの政府原案につきましても、語尾の工夫はもう一工夫あっていいかなというのが私の率直な思いであります。

日森委員 ありがとうございました。

 続いて、渡久山先生にちょっとお伺いしたいと思うんです。

 これも新聞で恐縮なんですが、読売新聞で、大人自身が競争社会にいて、人を思いやるより、打ち負かそうという教育をしてしまっているんだというふうに、これは五月の二十七日、ちょっと古い話で、〇三年の話なんですが、多分、中教審の議論に入る段階での記事だと思うんです。こういうふうに先生はおっしゃっていて、それはもうますます厳しくなってきて、今、二極化とか格差社会とかということが、だれもが認めざるを得ないような、いや違うと言っている方も一部いらっしゃいますが、そういう社会的な問題になっている。こういう社会情勢が一体子供にどのような影響を与えているのか、具体的に、もし御存じのことがあったらぜひ教えていただきたいと思います。

渡久山参考人 これは非常にゆゆしき問題でございまして、子供は社会の鏡とも言われております。そういう面からいうと、社会的ないろいろな大人の営みが、そのまま学校にも子供たちにも反映するというようなことは事実でございます。

 例えば、ある授業で、うそをつくなとか、あるいはまじめに生きようとか、せっかく教えているのに、翌日逮捕された人は非常にすばらしいと言われている人だったというようなことなんかは、まさに人間不信をみずからつくるようなものでございまして、そういう意味で、やはり大人社会がもっときちっとした生き方というのをそれぞれにやっていかないと、子供たちには必ずしもいい影響がないと思います。

 特に昨今、母親が子供を殺すという事件がございました。子供は、生まれてきて、赤ん坊は最初に人間関係ができてくるのは母親でございます。その母親に不信感を持った子供は、恐らくこれは一生ずっと人間に対する不信感の中で生きざるを得ないと思いますね。

 そういうことが起こっている今の大人社会、これを子供たちは素直に見るわけです、テレビであろうと新聞であろうと。そういう意味では、私たちが子供のための教育を話しているわけなんですけれども、やはり、それを踏まえて、では、大人の今の生きざまはどうなんだというようなことも問われてしかるべきだ、こういうように思っております。

日森委員 ありがとうございました。

 続いて西澤先生にお伺いしたいんですが、先生、さまざまなところで、改革というのは、この教育改革もそうですが、自主性の育成、これが最重要課題、最優先なんだということを何度も強調されています。先ほど、最近どうも管理主義的傾向が強まっていると言ったら、そうじゃないという、管理もある意味じゃ必要だと、こちらの方からの声がございましたが、それはともかくとしても、そういう、ある意味では一定、我々の立場からいうと管理主義が強まっておるんではないかという思いがあるんですよ。

 そういう中で、先生がおっしゃっている自主性、これを確立していくといいますか、これを育成していくのが最優先だということになると、ここら辺の整合性といいますか、先生の思いみたいなものをちょっとお聞かせいただけたらと思います。

西澤参考人 大変重大な点をついてくださいまして、ありがとうございます。

 今、例えば小学生のときに駆けっこをさせないというようなこと、今細かく申し上げる必要はないので、大抵の方は御存じだろうと思いますが、ということがございます。片方では、母親が何と言うかというと、おまえは偏差値の高い大学に入って、このごろ第一部上場もはやらなくなりましたけれども、第一部の会社に就職しなければちゃんとした生活ができないよと言って、子供のうちから、ある意味からいえば強制しているわけでございますね。

 そういうことが本当かと。つまり、人間というものは入った会社によって価値が決まるものではない。小さな会社に行って社長になるのと大きな会社に行って課長どまりになるのとどちらがいいかというようなことでもいろいろやればあるわけでありまして、本当の人間の価値ということが実は余り世の中では議論されない。入れ物で決まるわけですね。

 これが悪いことになりますと学閥主義が出てまいります。学閥というのが、志を同じゅうするもので、そういうことに一緒になって協力していきましょうというなら大変結構でございますけれども、往々にしてそうではなくて、同じ大学を出た連中だけだと特に手が握りやすいから、そういうことで協力していきましょうということになりますと、これは悪いところが出てまいります。

 この間も、ケンブリッジとオックスフォードがちゃんとイギリスにはあるじゃないかというのでありますが、では、イギリスのあるポジションにだれかを入れようという場合に、あの人はオックスフォードだから入れようとか、あの人はケンブリッジだから入れようということは多分やられていないのではないか。さっきの男と女と同じでございますけれども、やはりここに入る人はこの人が一番適性があるということで選んでいるという点が少なくともイギリスの場合には非常に濃厚ではないかという気がいたします。こういうのは決して、たまたま同じ大学の先生方が集まったからといって悪い話は出てこないわけでありますから、そういうものでなければいけない。

 また、小学校のときには競争させないということをやるわけですが、その実、裏では全く言葉を返して、偏差値一点上げることに親まで血道を上げているという状態でございます。こういう、本当の意味での日本の社会の中によき意味の物差し、別の言葉で言えば評価がしっかりしていない。

 イギリスの社会が一番しっかりしているというふうに私は勝手に思い込んでおりますけれども、やはり社会の人たちがよき評価眼を持っているということではないかと思います。人の物差しは絶対に受け入れない、自分で十年ぐらいかかってその人間をずっと見ているうちに、いや、あの人の言うことはやはりちゃんと価値があることを言っているし一貫しているということで評価するんだというのが、私がイギリス人はどうして評価がうまいかということを聞いたイギリスの友達が私に教えてくれた言葉でございます。時間をかけてやるんですね。

 そのときに、やはりこれが今の日本の社会の非常に大きな欠陥になっていると思いますが、昔は、先ほど来お話が出ておりましたが、旧制高校に入った途端に勉強するなと言われたんですね。これは少し乱暴でございますけれども。しかし、従来の型にはまった勉強なんかしないで、本当に、自分の目を通して、現実社会の中でどういうことが必要か、またどういうふうにしていくべきかというようなことをしっかり考えてつかめということを先輩に言われたわけでございます。

 これが、文部省のお役人に聞きましたら、あんな方向に持っていくために高等学校を始めたんじゃないんだけれども、とんでもない方向に行って、我々が期待もしなかったような大変大きな効果が出たということを言っておるし、私も全く同感でございます。

 今度の教育改革の中にもぜひそういうものを入れていただきたいと思うのでありますが、ちょうど異性を意識するころになったときに人間性が一番伸びるのでございますけれども、そういう時期に従来の価値感覚を離れて自分の価値感覚を持つという時間が入ってくるわけでありまして、これが大変成功した例ではないかと思っております。

 そういう意味で、今先生御指摘のとおり、本当の意味の価値観をもう少し国全体としてよく見直すということが必要ではないかというふうに考えております。

 以上です。

日森委員 ありがとうございました。

 田村先生に二点ほどお伺いしたいと思うんです。

 また新聞で、恐縮です。これも中教審の審議に入る前の先生の御見解だと思うんですが、〇三年の二月二十七日号で、日本経済新聞だそうですが、教育改革国民会議委員をおやりになって、その中の審議の過程だと思うんですが、先生が市場原理や効率主義を優先する教育改革に異を唱えたという記事がございました。これは、私たちも全くそのとおりだと。

 教育が市場原理に全部ゆだねられてしまったら、これは大変な話になる。株式会社でいいんだなんという話が出ていたりするものですから、大変危惧を感じているんですが。この先生の真意を、どんな場面で、どんな思いで、効率主義、市場原理は余り好ましくないんじゃないかという思いを持たれたのか、ちょっと教えていただきたいと思います。

田村参考人 実は、どの場面でそういう記事が出たか、ちょっと覚えていないんですけれども。基本的には、教育というのは、そのときそのときの流れに従って変わる必要があるところと、それから変わってはいけないところがあるということが言いたかったのではないかと思っております。

 つまり、市場原理、効率主義というのを人間の社会の中に入れるということは自然の流れでありますし、それがいけないというようなことを言って失敗したのが社会主義経済だったのではないかというふうに思っているんですけれども。しかし、それが万能であると、また教育にストレートな形で入ってくると、教育の現場では、子供の成長の中で、例えば正義ということをどう考えるか。正義はお金もうけとは違った局面があるわけですね。損してもやらなきゃいけないこともあるし、それから、得することがいけないわけでもないんだけれども、損得だけですべての行動を律するという人間になると、それは教育が目的とするものではない、そういうような議論が前提にされていたのではないかなというふうに思っております。

 特にこの正義の問題は、実は、これから私たち日本の社会が次の世代に伝える大切な考え方の一つだと思っております。正義をどういうふうに伝えるか。そんなところでよろしゅうございましょうか。ちょっと正確に覚えていませんので、申しわけありません。

日森委員 ありがとうございました。

 続けて、またもう一問、これもまた新聞なんです。恐縮です。

 これはことしの四月二十八日号の毎日新聞だそうなんですが、先ほど来の先生の御主張の中でも、教育振興基本計画、これは非常に大事だと。先生もこれに大きな期待を寄せられているということがひしひしと感じられました。

 先ほどのお話では、教育振興基本計画によって教育に対する国民的な議論が深まるんじゃないかというふうに先生はおっしゃっていました。中長期的な計画をつくることによってもちろんそういうことになると思うんですが、先生の教育振興基本計画に寄せる期待をもう少し具体的なものでお示しいただきたいということが一つと、先ほどもう既にお答えいただいたんですが、お金が先じゃないんだ、こういう計画があってそれに基づいて、今確かにGDP比で低くなっているけれども、しかし、それでお金をつけていくんだということが筋ではないかというお話もちょうだいいたしました。そこは結構なんですが。

 二点目ですね、もう一つは、それと同時に、GDP比でそれだけ低いと、私学助成についてもこれは随分厳しい状況になっていると思うんですよ。その私学助成の現状と今後のあり方について先生のお考えがございましたら、二点になりますが、お聞かせいただきたいと思います。

田村参考人 まず、第一点の振興基本計画にかかわってですが、恐らく私たちの国は、世界に誇れることは幾つかあるだろうと思うんです。例えば、非常に透明な経済活動だとか、何だかんだ言われているけれども平和で安全だとか、その中の一つに、やはり行き届いた教育というのは誇るべき内容だろうと思います。これは戦後の荒廃の中から日本を再建するために先人が努力してやってこられた結果でございます。

 しかし、社会が今日のような形になると、その教育が仕組みとして機能するためには全員が協力しないとできないという時代になってきているというふうに思います。私はこれを民主主義と教育という言い方をしているんですけれども。今までは、だれか偉い人が考えて、その計画を発表してみんなが従うということでうまくいった時代があると思うんですけれども、これからは、とにかく全員がそれに参加するという。

 有名な話ですが、ケネディが就任演説で言った言葉、私、これ大好きなんですが、アメリカ人は、アメリカに何かしてもらおうというふうに考えるんじゃなくて、自分がアメリカに何ができるかということを考えようではないかと言った有名な言葉がありますが、これこそ民主主義なんですね。

 教育もそういう民主主義の教育にするためには、振興基本計画が一番確実なんです。それはどこでつくってもいいんです。民主党案のように国会でやっても結構ですし、政府案のように政府が決めるということでもいい。大事なことは、それが透明性を持つ、世の中に訴えるということですね。そして、みんなが理解する、その支えで教育というのは内容ができてくるというふうに思うんです。そうでないと、自分の子供が卒業しちゃうともう教育には関心がない、悪いときだけ文部省何しているんだというような、こんなことを言って済ませているという、これは日本にしたら、これから先真っ暗だろうという気がします。

 世界各国は、先進国であればあるほど競って教育にかかわる基本的な考え方の政策を打ち出しております。ブッシュでさえ、連邦政府は教育に口を出さないと言いながら、ノー・チャイルド・レフト・ビハインド法というのをつくって、三千ページにわたる膨大な法律で、これは全部読んだ人はアメリカに三人しかいないんじゃないかと言われるぐらい、物すごく気を使ってやっているわけですね。イギリスもしかり、フランスもしかり、ドイツもしかり、お隣の韓国もそうですね。

 日本だけが、何か、のんきというわけじゃないんですけれども、この基本法のような重要なことをなかなか決めてくださらない。立法府が意思表示をぜひしていただきたいというのが、私の個人的な感じでございます。その中心は振興基本計画、現在、教育基本法にないものですね、これだということで。これは、平成十二年にそういう結論になったという内容です。

 それから、二点目の私学助成にかかわる要望というか意見ということですが、私は、今の私学助成はなかなかよくできているなというふうに思っております。基本的には、仕組みとしては、学費の軽減という面があるんですけれども、現在でも学費軽減をしますと、先ほどお見せいたしました新聞に報道がありますが、あれは授業費を軽減しますとその分補助金が出るんです、私学助成という形で。ですから、学校がそんなに大きく負担しないで済んでいるというのは、もう現状あるわけです。

 それから、今の私学助成で非常に大事だなと思うのは、社会資本としての学校をそれなりに評価している。ですから、学校の経営の健全化とか教育水準の向上というものが助成の対象になっているわけですね。必ずしも学費の軽減だけではない。その部分はどうしたらいいかは、これは国会で議論されることだろうと思います。私学助成をこれからどうするかは。学費軽減中心でいくのか、あるいは社会資本としての学校を重視して、その形で補助金を充実させていくという考えでいくのか。そういうようなこと、大きな問題があるんですけれども、今の流れとしては、方向としては非常にいい方向で頑張っていただいていると思っております。

 これは、余り党のことを言っちゃいけないのかもしれないんですけれども、自民党の方々が力になって振興助成法をつくり、内容をつくり上げてきてくださったということが大変感謝している内容なんですが、額は、これは言えば切りがありませんので、そのときの財政事情もありますし、世の中がそれじゃ少な過ぎるよと言ってくださるような教育を私学は頑張るよりしようがないなという、率直な感じでございます。

 ありがとうございました。

日森委員 ありがとうございました。

森山委員長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党の糸川正晃でございます。

 参考人の皆様方におかれましては、大変お忙しい中御出席いただきまして、また、大変貴重な御意見をいただきまして、本当にありがとうございます。私も、数点でございますけれども、質問をさせていただきたいというふうに思います。

 本委員会では、この教育基本法の改正に関しまして、約六十年前の現行法の制定過程にまでさかのぼって、その過程における問題点ですとか、そしてその後、我が国の教育をめぐってどのような問題が起こってきたのか、さらには、それが教育基本法のどのようなところで関係をしてくるのか、また、そういうところがあるのかないのか、こういう観点に対して私も質問をさせていただいたり、審議をしてきたわけでございます。

 本日、参考人の皆様におかれましては、中央教育審議会におきまして教育基本法改正に関する御検討に尽力を賜った方々ですとか、また、有識者として、今置かれている我が国の現状を憂い、教育基本法の改正を世に問う、こういうような方にこの審議の場において質問できることを光栄に思っておるわけでございます。

 まず、全員の参考人の方に御質問させていただきたいんですが、教育現場にいろいろな角度から携わられている、こういう経験をお持ちの参考人から見まして、この教育基本法の改正というものは、これはだれのために行われるべきものなのか、また、今の現行法はだれのために存在してきたと思われるか、お聞かせいただければと思います。

田村参考人 現行の教育基本法は、成立過程で、もう先生よく御存じのように、いわゆる教育勅語がなくなったというところで、その穴を埋めるために、基本的に、その精神をどのように法律化していくかということを中心にしてつくられたものと聞き及んでおります。

 なお、教育にかかわる基本的な、憲法のような性格を持つものでありますから、教育勅語の内容に加えて、当時、私たちの国が充実していかなきゃならなかった義務教育に関しての規定を中心に規定したということになっているわけであります。

 その基本法が、基本的なことの規定ですので、現場にほとんど影響がないよ、学習指導要領にみんな書いてあるんだから要らないんじゃないかという意見があることもよくわかっております。しかし、その現場に影響がないよと言っている事実こそが実は大きな問題なんですね。それは非常に恐ろしいことを言っているんじゃないかというふうに思います。

 つまり、日本の国がどういう教育をこれからしていくんだということをだれも議論していないんですね。六十年前に決めた法律どおりで、それでもういいじゃないかと。実際の毎日の学校は学習指導要領とかそういうようなことでやっているんだから、別にいじることはないだろうという、つまり、正面切って教育についてきちっとした意見を表明するということをしない結果、今日が起きているんじゃないかと私は考えています。ですから、教育の現場に対して影響がないという議論は間違っているというふうに思います。

 この影響は、教育基本法の改定あるいはこの議論の中でずっとやってきて実感したんですけれども、余り言っちゃいけないのかもしれないんですけれども、教育学の学者の先生が議論している内容が神学論争なんですね。現実に、では、どういう影響が教育現場にあるんだという議論よりも、いわゆる神学的な、言葉の解釈とか理念ということで議論して、それで学問の役割を果たしたと思っておられるのではないかというふうに感じることが大変多かったです。

 ですから、そういう意味で言えば、今回の基本法の改定は、その神学論争はもう終わって、実際にどうするんだ、教育現場にどういうような形で国の姿勢を示すのかということを内容にした法律が示される。これは、教育基本法が現場に影響することになります。

 例えば教育振興基本計画、これは現場に直接関係があります。現場に関係があるということは、それにかかわる国民全体がそのことを意識せざるを得なくなります。ですから、そういう意味では、ちょうどこれで日本の国の教育を囲む環境は変わってくるんじゃないかな、本当の意味の民主主義の国の教育になるんじゃないかなということを大いに期待しているということでございます。

 ありがとうございました。

梶田参考人 今、議論されております教育基本法、新しい教育基本法については、私は、やはり今この日本の社会に生まれ育っている一人一人の子供、これの未来のために責任を持つものだとまず思います。しかし、それは同時に、この日本列島の上に成立してやってきた日本の社会、これの未来にも同じく責任を持つものであるというふうに思っております。

 この二つが、実はばらばらのものでなくて、やはり一人一人がうまく成長しなければ日本の社会のいい未来はないんですよ。逆に、日本の社会がいい未来を持たなければ、一人一人が幸せになれない。このいわば相即的な関係をきちっと見据えながら、私たちは本当に厳粛な思いでこの基本法の改正ということに取り組んでいかなければいけないだろう、こういうふうに考えております。

 では、今の基本法はどうだというと、私は、第九十二帝国議会の議論の様子を一応勉強させてもらいました。やはり同じように考えておられたと思います。ただし、原案が、これは御存じのように教育刷新委員会でつくられました。教育刷新委員会は、私のこれによりますと、二十年に来日したアメリカの教育調査団、これが民主化のために、あるいは占領政策の遂行のために、この実行機関としてまず教育家会議というのをつくり、そしてそれを拡大改組する形で教育刷新委員会をつくったんです。あくまでもこれはアメリカの占領政策の一貫として教育刷新委員会は機能した。これはもうこれにも書いてあるんですね。そういう当時の認識でありますし、多分機能でしたでしょう。

 ですから、私は、第九十二帝国議会での議論は、今ここで行われているのと同じように、一人一人の子供の未来、そして、日本の社会の新しい、次の展望を開くためにということでやられたというふうに私は思いますけれども、同時に、その原案、あるいはそれを準備したもの、あるいは当時の一つの枠組みですね、主権がなかったわけですから、というものは、やはりアメリカによるスムースな占領政策の遂行、あるいは日本の、アメリカが考えるという意味での新しい社会づくり、国家づくり、日本が考えるんじゃないですよ、アメリカが考えるという意味でのね、ということのためにつくられた。このことは、私たちは今の時期にはきちっと認識し直しておくべきだろう、そういうふうに思います。

西澤参考人 日本の教育は、日本人のためにあります。すべての人たちがこの国に生まれて、この教育を受けてよかったなと思ってくれるような教育をするというのが理想だと思っております。

 では、非常にエゴイスティックで外国から嫌われるような教育をするのかというと、そうではないんですね。日本人が何かやろうとして、それをやった結果、自分たちの国も非常に幸せになった。すぐはわからないかもしれません。やがてわかってくれるでしょうし、また、何回もこういうことがあれば、日本というのはそういう国だなと思ってくれる。それが本当の、私は日本のあるべき姿であると思いますし、私が日本を愛しているのはそういう国にしたいと思っているからです。

 ちょっと、余り時間がないので具体的に申し上げることはないんですが、私どもの先輩で山本義一という先生がいまして、南極に若者を送り込んだんですが、持って帰ってきたのが氷のかけらでございます。それを大抵の人はオンザロックにして飲んじゃったんですが、一部の先生が、溶かして中から出てくる炭酸ガスの量をはかりました。南極の大気の中には炭酸ガスがどんどんふえている、非常に危ないということを言われた。ただ、やはり怖かったのかどうかわかりませんが、余り御自分ではおっしゃらなかった。私言ったんですが、聞いたことがありませんでしたから。

 大阪大学に稲田という先生がいらっしゃいました。経済学の先生です。この山本学説が非常に大事だということで、岩波の「世界」に山本学説を紹介されました。余り評価されなかったのでありますが。不思議なことに、日本では、レイチェル・カーソンがそういうことを言った一番最初だというのですが、私が調べたところでは、この岩波の「世界」に出たのは、レイチェル・カーソンがアメリカで本を出した一年前でございます。日本人というのは不思議な民族でございまして、外国人がやったということに喜びを感ずるみたいであります。たくさん日本が先鞭をつけたいい仕事がいっぱいあるのですが。

 私は、先輩でもございましたし、学長もやっておりましたので、山本先生の出されましたデータ分析をいたしました。解析接続法という方法を使いまして、カーブがこれからどう伸びるかということを調べてみたわけです。二百年たつと大気中の炭酸ガスは三%になるということでございます。三%というのは、電気屋がすぐ三%をとるものですから、余り根拠がなかったのですが、後で調べてみましたら、生理学的にいいまして、四%になると呼吸作用全体が不能になります、体の中に酸素が行かなくなりますということがわかりました。そういう意味では、僥幸にも当たっていたのでございます。

 私は、それを中央公論の副編集長に言われまして、中央公論に書かせてもらいました。いろいろなことがありまして、某芸能人がある雑誌に書いた。世の中には二百年たつと人類全部が窒息死すると言うばかがいる、世の中のやつらをたぶらかして研究費をせしめようというペテン師である、もしもあいつが言っていることが本当だとしても、そのときはおれは死んじゃっているからどうでもいいやと書いてある。私は大変怒りましたが、けんかする相手でもないのでほうってございますけれども。

 日本の政府が、まあ聞いてくれたのかどうかわかりませんが、横浜に超大型コンピューターを据えまして、地球の気象解析、気候解析をやっておりまして、先月か何かに第一回目の中間発表が出ました。現在の温暖化の六〇%は炭酸ガスが原因であると。つまり、ペテン師かどうかわかりませんが、完全なペテン師ではなかったということで、私もほっと安心をしたところでございます。

 やはりこういうことは、私もエンジニアの端くれでございます、そういう危険がある以上、早く申し上げて対策を講じていただくということが必要じゃないかと思ってやったんでございますが。それで、結局トヨタさんが大変正当に受け取ってくださいまして、私のところに若い人を二人よこしていろいろ質問がございました。帰っていって、豊田章一郎さんがプリウスの生産の前倒しをやられたようでございます。ホンダさんには前からおつき合いがありまして、ホンダさんの方もそれは御存じだったわけでございますけれども。そういう一番被害を受ける産業の方々がプリウスをつくるということによって世界第一の自動車メーカーに躍り出たと。これは決して安心していいかどうかわかりませんけれども、とにかくそういう活路を見出していく。トヨタ自動車が今のような盛況を維持するということは、日本国民にとっても大変重要な飯の種でございます。

 そういうこともございますので、そういう方向に利用していただいたということは大変うれしかったわけでございますけれども、これは具体的事例を申し上げた方がいいと思いますので、嫌われてもやはりやるべきことはやるというのが私の信条でございますし、及ばずながら少しはお役に立てたかなと思っております。

 以上です。

渡久山参考人 時間もございませんので、簡潔にやりたいと思います。

 一つは、日本国憲法の二十六条にございますように、国民の教育への権利、これをどう保障しているのか、あるいは豊かにしていくのかということの側面があると思います。それにはやはり、子どもの権利条約にも示されているように、子供たちの教育への権利というものを保障しますし、また、大人に対しては、生涯教育というような面でも、これを保障しなくちゃいけないと思います。

 たまたまこの委員会で公明党の太田昭宏さんが、デューイの言葉をかりて、人間は学ぶことによって人間となる存在だということを言っていらっしゃいますが、まさにこれは個々人に対する一つの教育保障でありましょう。

 それからもう一つは、やはり教育というのは、組織、国家の自己刷新の機能であります、社会の。だから、自己刷新の機能としての教育というものについては、非常に政府を含めて責任を持つ必要があろうかと思いますね。

 これは、教育が、歴史的には、過去に持っている面と、それから未来に対する顔、この二つがあるわけでございまして、やはり過去に対してきちっとした知識や、あるいは科学技術や文化というものを継承しながら、なおかつ未来に向けて教育を発展させていくというような使命も教育にはあるわけでありまして、だから、過去に向けての保守的な部分だけではなくて、やはり未来に対する革新的な部分というのも含めて教育は考えた方がいいと思いますね。

 そういう意味で、この教育基本法がそれにこたえるようになっていただければ幸いでございます。

糸川委員 ありがとうございます。

 田村参考人が先ほど、教育基本法というのは憲法に準ずるというぐらいの発言をされたわけでございます。

 そこで、もうほとんど時間がございません、田村参考人と渡久山参考人にお尋ねをさせていただきたいんですが、教育基本法は日本国憲法と表裏一体の法律である、こういうふうに思うわけで、個人の尊厳が強調されておるわけでございます、今のこの教育基本法では。現行の教育基本法には、国にとって大切な伝統ですとか文化、こういう文言がなくて、また家族のきずな等というものも記載されていない、こういうような意見があるわけでございます。

 このような意見についてどのようにお考えになられておるか、二人の方にお願いいたします。

田村参考人 先ほど憲法に準ずるというふうに申し上げましたのは、日本の社会が教育基本法をそのように見ているという意味でございます。法体系がどうなっているかちょっとわかりませんけれども、世の中はそういうふうに見ている、非常に重視しているということです。その重視している法律が、実は六十年前の日本の社会の情勢でつくられて、そのままになっている。それが具体的に、欠陥といいますか、触れなければならないことに触れていないという状況が出てきている。

 ですから、これは、教育というのは未来に対する投資でありますし、確実に結果が出る作業ですから、ぜひひとつぐあいの悪いところを至急に指摘して、直すべきところは直して、立法府としての意思をぜひ国民に示していただきたい。これは普通の教育関連のほかの法律と違って国民に与える影響が非常に大きい法律でございますので、ぐあいの悪いところがわかっているんですから、ぜひひとつそこは補充していただいて、改正していただいて、意思をお示しいただきたいというのが私の感じでございます、お願いでございます。よろしゅうございましょうか。

渡久山参考人 現行教育基本法の前文の中に、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造というようなことがございますので、これは何かというと、先ほど申し上げましたように、日本の過去の文化、あるいは未来への創造をしていく豊かな文化というような意味では一定程度フォローできている部分だとは思います。だがしかし、今ここの政府・与党にある伝統の継承というものは、ある意味では、日本においては、伝統を軽視をしているわけではないんだが、やはり不十分であったのではないかという世論がないわけではないと思うんですね。

 そういう意味では、すばらしい伝統を受け継いでこれをすばらしく発展させていくというのは、日本にとっては非常に大事なことだと思います。問題は、何を伝統とするのか、よき伝統とか悪き伝統とかあるか知りませんけれども、この辺の部分が実は議論されなくちゃいけないと思います。これが一つです。

 もう一つは家族の関係ですが、確かに今、日本においては家族のきずなが非常に薄くなっていますね。ですから、そういう意味では、家族をどうするんだという部分が一つあります。同時に、家族の教育力というのが非常に落ちておりまして、全く学校任せというような部分や、あるいは放置されているという子供たちが非常に多いですね。そういう面では、やはり家族の教育力というのは非常に大事だと思います。

 ですから、何らかの形で家族には、あるいは家庭には教育に対する第一義の責任があるというような考え方というのは、非常に僕は大事だと思いますね。これが一つ大事なんですが、ただ、現在の家族を見た場合に、やはりブロークンホームであったり、あるいは保護者、両親がいないといういろいろな側面がありますから、必ずしも、それを家族でくくる場合、きめ細かな行政的なサービスが必要になってくる側面があろうと思います。

 ただ、ほかの国の教育基本法に値するものでは、家族には余り触れておりません。なぜかというと、余り国家権力によるものが家庭に入ってくるということについては、慎み深く書かれているようでございます。

 以上です。

糸川委員 大変貴重な御意見、ありがとうございました。終わります。

森山委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位に一言御礼を申し上げます。

 参考人の皆様には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます。

 次回は、明七日水曜日午前八時四十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時二十一分散会


このページのトップに戻る
衆議院
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-7-1
電話(代表)03-3581-5111
案内図

Copyright © Shugiin All Rights Reserved.