衆議院

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第1号 平成18年11月15日(水曜日)

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平成十八年十一月十五日(水曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   委員長 森山 眞弓君

   理事 稲葉 大和君 理事 河村 建夫君

   理事 斉藤斗志二君 理事 鈴木 恒夫君

   理事 町村 信孝君 理事 中井  洽君

   理事 牧  義夫君 理事 西  博義君

      愛知 和男君    井脇ノブ子君

      伊藤 忠彦君    稲田 朋美君

      猪口 邦子君    岩永 峯一君

      上野賢一郎君    臼井日出男君

      大島 理森君    加藤 勝信君

      海部 俊樹君    北村 茂男君

      北村 誠吾君    小坂 憲次君

      篠田 陽介君    島村 宜伸君

      戸井田とおる君    中山 成彬君

      西川 京子君    馳   浩君

      鳩山 邦夫君    渡部  篤君

      北神 圭朗君    小宮山泰子君

      西村智奈美君    野田 佳彦君

      羽田  孜君    古本伸一郎君

      松本 大輔君    三谷 光男君

      横山 北斗君    斉藤 鉄夫君

      坂口  力君    石井 郁子君

      穀田 恵二君    阿部 知子君

      保坂 展人君    糸川 正晃君

      保利 耕輔君

    …………………………………

   公述人

   (独立行政法人国立青少年教育振興機構理事長)   松下 倶子君

   公述人

   (石川県立金沢泉丘高等学校教諭)         鹿野 利春君

   公述人

   (早稲田大学社会科学総合学術院教授)       西原 博史君

   公述人

   (日本大学文理学部教授) 広田 照幸君

   公述人

   (弁護士)

   (日本弁護士連合会教育基本法改正問題対策会議議長、同元副会長)      出口 治男君

   衆議院調査局教育基本法に関する特別調査室長    清野 裕三君

    ―――――――――――――

本日の公聴会で意見を聞いた案件

 教育基本法案(内閣提出、第百六十四回国会閣法第八九号)

 日本国教育基本法案(鳩山由紀夫君外六名提出、第百六十四回国会衆法第二八号)


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     ――――◇―――――

森山委員長 これより会議を開きます。

 第百六十四回国会、内閣提出、教育基本法案及び第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案の両案について公聴会を行います。

 本日は、公述人として、独立行政法人国立青少年教育振興機構理事長松下倶子君、石川県立金沢泉丘高等学校教諭鹿野利春君、早稲田大学社会科学総合学術院教授西原博史君、日本大学文理学部教授広田照幸君、弁護士・日本弁護士連合会教育基本法改正問題対策会議議長、同元副会長出口治男君、以上五名の方々に御出席をいただいております。

 この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。公述人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、公述人各位からお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いいたします。また、公述人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、まず松下公述人にお願いいたします。

松下公述人 本日は、教育基本法に関する特別委員会公聴会で意見を述べる機会を与えていただきまして、ありがとうございます。

 私は、以前、約三十年間、民間の青少年団体の活動にボランティアのリーダーとして、また事務局として携わっておりまして、その後に国立の青少年教育施設にかかわる仕事をさせていただくようになり、本年四月に新しく発足いたしました独立行政法人国立青少年教育振興機構を預かることになった者でございます。

 この新しい法人は、我が国の青少年教育のナショナルセンターと位置づけられ、青少年とその指導者のための研修事業を企画、実施すること、青少年に関する調査研究を行うこと、青少年教育関係団体の活動に対する助成金、これは子どもゆめ基金という名前で知られておりますが、その交付を行うことを業務としております。全国に設置されております教育施設と本部が一体となって、青少年の社会的な自立を支援することを目指して活動しているところでございます。

 このような背景を踏まえまして、今回、教育基本法改正の政府案に賛成する立場で意見を述べさせていただきたいと思います。

 現行の教育基本法は、昭和二十二年に、我が国のその時点での状況のもとで、民主的、文化的な国づくりを目指す教育の目標を掲げて制定されたものと承知しております。その基本法にのっとって約六十年間積み上げられてきた教育が、今日の我が国社会の発展の原動力となる人材を育成してきたと言えましょう。

 現行法制定後、約半世紀の間に、我が国社会は、少子高齢化、高度情報化、家族、地域の変容等々、大きな変化を遂げており、また、国際社会における我が国の立場や役割も変化し、責任も大きくなってきていると思います。こうした変化に対応できる次代の担い手を育てる教育のあり方を見直すことが必要ではないかと考えます。

 教育基本法は教育の憲法とも言われておりますが、短期間にしばしば改正するべきものではないと思っておりますが、今、国内外の状況の変化の中で、近未来を見据えて、新たに掲げるべき教育理念を明確にすることが大事なのではないかと思っております。

 ここで、政府案に示されている新設の条項等について、四つ、五つのことを簡単に述べさせていただきたいと思います。

 一つは、第三条に「生涯学習の理念」が加えられたことでございます。

 現行法は主として義務教育に関する規定に重点が置かれていると思うのでございますが、国民一人一人が生涯を通じて向上を目指し、また社会に貢献することを目指す学習がこれからの社会では重視されることが必要だと思いますが、そのことについて明示されていることが大切な基本であると考えます。生涯学習社会の構築ということが、二十一世紀の我が国最大の最重要課題であるというふうに言われて久しく、このことにつきましては、教育の基本に視点として加えられる必要があると思っております。

 二つ目に、第十条に「家庭教育」についての理念が示されたことについてでございます。

 平成八年に中央教育審議会が提出した「二十一世紀を展望した我が国の教育の在り方について」と題する答申は「生きる力」というキーワードで有名になりましたが、生きる力は、学校での計画的な学習とともに、家庭での親子の触れ合いや地域での友達との遊び、また、さまざまな大人との交流などがバランスよく行われることで豊かに育つと提言しています。とりわけ、家庭教育については、「すべての教育の出発点」、「子供の教育や人格形成に対し最終的な責任を負うのは家庭」、「「生きる力」の基礎的な資質や能力は、家庭教育においてこそ培われる」といったような表現で家庭の役割を示しました。

 人生の最初の段階で子供が出会う家庭教育の重要さは、これからも長期にわたって不変であり、教育の基本に明示されるものであってほしいと願っております。

 次に、第十三条でございますが、「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」という言葉が新設条項に入っております。

 現行法では、個人の成長を願うという方向での定めが多いと思われますが、これからの社会では、社会の一員としてどのように行動できるかが問われるようになると考えております。子供は社会の宝、社会の一人一人がみんな子育ての主役という呼びかけが、平成十四年、今後の家庭教育支援の充実についての懇談会から出されたことがあります。

 今回の政府案の中に、学校教育だけではなく、家庭、地域が教育におけるそれぞれの役割と責任を果たした上で、連携協力についてもう少し考えていかなければならないのではないかという基本的な考え方について明示されたことは重要だと思っております。

 四番目には、十二条、「社会教育」についてであります。ちょっと条項をさかのぼってでございますが、これは新設部分ではありませんが、私の仕事に深くかかわる事項ですので触れさせていただきたいと思います。

 この条項の二にあります「その他の社会教育施設」に含まれておりますのが、私がかかわっております青少年教育施設でございます。今、多くの場で子供たちの実体験の不足が問題になっておりますが、昭和三十年代、四十年代から、そのことは当時の識者の方々が解決すべき大きな課題であると認識されて設置されたのが、少年自然の家、青年の家と呼ばれている教育施設でございます。大自然の中での体験活動あるいは同世代の仲間や異年齢の人々との集団生活を通して心と体のバランスのとれた成長を遂げる人を、その成長を支援しようという教育事業を展開しているところでございます。

 その事業による成果はさまざま報告されておりますが、ごく最近、施設の企画事業に参加したことが人生を変えたと、本人から私が報告を聞いた例をちょっとお話ししたいと思います。

 本人は、今、東京大学教養学部で海洋学を目指して学んでいる学生です。中学時代は不登校で引きこもり、家から一歩も出られないという状態だったそうですが、親御さんに勧められて、少年自然の家の、海で広い湾内をボートで冒険旅行をするという事業に渋々参加をしたということです。その中で、初めは、人のために何か手伝うのなんかというようになじめない状況でございましたけれども、日にちがたつにつれて、人に何かをしてあげることのうれしさと、またみんなと一緒に活動する喜びを感じるようになり、通学を再開して大学受験にチャレンジ、浪人を経て合格をし、海洋について学ぶことになったということです。今はボランティアとしてその少年自然の家の企画する事業を手伝いに来て、小さい人たちのために活動をしております。

 この報告は記念式典での報告でございましたが、堂々として明るい声でございました。回り道をしましたが、自分は自分のペースで人生を歩んでいきますと力強く報告してくれたことが、私は非常に印象深くとらえております。

 そのほか、悩みを抱える少年たちのための冒険活動とか、あるいは学校の活動と融合しながら自然体験をしていくという試みなどが方々の施設で行われております。

 体験活動が重要と指摘されながら、一方では学力低下が問題となって、体験活動への現場の先生方の関心は必ずしも高くないことは非常に残念だと思います。今後は、学校教育との連携を図りつつ、多くの青少年が実体験の機会に恵まれて、美しいものに感動する心、命を大切にする心、畏敬の念、人の立場を考える心等を身につける機会の充実に、私どもも一生懸命努めてまいりたいと思っているところでございます。

 最後に、教育振興基本計画に関して。教育にかかわる活動はその成果を早期に明らかに見ることができない場合が多いことは、先生方が御承知のとおりでございます。新たな理念を掲げての教育が期待する成果は、今後、十年、二十年先に示されるようになるかもしれません。必要な改善に今手をつけることが求められている場合が多いのではないかと思います。

 教育基本法成立を受けて具体的な取り組みの指針となる教育振興基本計画が定められ、私どもが事業計画の検討の際に方向づけの参考とさせていただけるようになることを期待して、発言を終わらせていただきます。

 ありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、鹿野公述人にお願いいたします。

鹿野公述人 本日は公聴会にお招きいただき、ありがとうございます。私、石川県の金沢市で、金沢泉丘高等学校というのですが、そこで化学と情報を教えております。

 きょうの公聴会については、土曜日の午前中に公募に応募いたしました。昨日連絡を受けて、午後の授業が終わってからですから二時ぐらいですか、それから六限目、七限目の授業をやって、飛行機のチケットをとってこちらに来た、そういうことになります。

 今回ここにお招きいただきまして、私、この政府案、内閣提出案に賛成という立場で意見を述べさせていただきます。

 現場にはいろいろな問題がございます。それはとても与えられた時間では表現し尽くせませんので、私、ここに賛成する理由を五点述べさせていただきたいと思います。

 一点目は、教育の目的が明記されたということ。これを私は大変評価しております。この目的については、規定すべきではないという意見もあります。ただ、何もないところで議論は生まれませんので、ある程度の規定があるということは必要ではないかというふうに思います。

 二点目ですが、生涯学習、これについての理念が明確に規定されたこと。もう学校教育だけで終わらない、その先いろいろやっていかなければいけない、そのときに、生涯学習ということについて規定が余りなかったところ、今新たに一個設けられた、これを大変ありがたいことだと思っております。

 三点目は、家庭教育の責任が定義された。ややもすると、すべてが学校に押しかぶせられてしまう状態というのが中にありました。もちろん私ども一生懸命頑張っているわけですが、それを果たせない部分もあります。どこまでが学校で、どこからが家庭なのか、ある程度の線引きをやはりやっていただくということは、現場で教えている私どもとしましてはありがたいことです。

 それから四点目は、学校、家庭、地域住民の連携と協力ということがはっきりと書かれている。今までもそういうことは言われてはいたんですが、なかなかなされないという状況にありました。今ここに明記されたことをきっかけにこの形ができていけば、学校教育の効果がこれから上がっていくだろうというふうに考えております。

 五点目ですが、前の基本法には余りなかった教育の振興基本計画がはっきりと書いてある。何事にもやはりこういうバックアップ体制というのは必要だと思います。それが基本法にはっきり書いてある。基本法はすべての基本になるわけですから、これをもとに我々をバックアップしていただくような形、教育のもとになるところ、すなわち、財源、人材、人、そういうところが手当てされるのではないか、この点については大きく期待しております。

 私、この基本法について二点もう少し加えていただきたいところがありますので、それを述べさせていただきます。

 一つは、社会教育について、前の教育基本法に比べて踏み込んだ表現があります。施設をつくるということ以外に、情報を提供するというようなことも書かれております。ただ、もう少しここに踏み込んでいただきたい。

 これは運用の中でもよろしいのですが、箱、要は、施設をつくってもそこで物が始まるというものではありませんので、やはり人は何かをする中で学んでいくということになります。ですから、社会教育、生涯教育を行うということになれば、そこで働く者、例えば学校でそれを行うとすれば教員、これが社会教育に大きくかかわっていく。

 例えば学校で授業をする。人をふやせば少し手があくので、そうしますと、地域の方に対して何かを行うということができるのではないかと思っております。学校で教えている科目は、これは一般の方にとっても文化としては一つの楽しみである。それから、芸術、音楽、書道、このあたりもやはりよいものであろうと思います。学校におりますと外のことが見えません。こういう形の教育、要は社会教育に携わらせていただくということで、教員の視野も広がると思います。

 私、実は、学校開放講座ということで、そういう形をさせていただきました。パソコンを自作する講座というのをやらせていただいたんですが、集まった方の平均年齢は七十歳でした。でも、その方たちの意欲は物すごいものがありまして、生徒の意欲を超えているような、ちょっと申しわけないんですが、目の方が多少問題があるところがあるんですけれども、眼鏡を外してしっかりと見ている。すべて写真を撮って、メモをとって、講義が終わったら一冊のノートができている、そのくらいの熱心さがあります。身につけた技術を、またその講座の後で生かされている。例えばどこかの集会所あるいはそういうボランティアのところのパソコンを設定してあげたり、そういう形もありますので、そういうことをどんどんやっていくということは必要じゃないかなと思います。

 ただ、そのときに、今ある学校教育の枠組みの中だけでそれをやれと言われると私たちの方もパンクしてしまいますので、何かしらそういう人的なものが欲しいと思います。

 それともう一つは、変化する社会への対応ということなんです。

 教育基本法ですから、これは不易の部分を主に書かなければいけない、これは当然なんですが、対応ということと不易ということは必ずしも反するものではありません。不易の心を持って改革をなし遂げていったのが明治の方たちだと思います。そういう対応。ただ対応といいますと、それはついていくということになると思いますが、私たちが学校で教えたいのは、その流れをつくっていくこと、そのための力をつけること、その技術を教えること、これを私たちは行いたいと思っております。

 そのための教科としては何があるか。どの教科でももちろんそれは教えられるんですが、例えば高校の教科で情報というのがございます。これは情報活用能力ということを通して問題解決を行っている。現在、授業では介護問題についてレポートを書かせております。インターネット、書籍でいろいろなことを調べて書かせて、書かせたものを私の方で添削して、また生徒はそれでもう一回書き直して、さらにまた別のことを調べてくる。三時間くらいの授業なんですが、実にユニークな意見が出ております。税金を二倍にすればよいという意見も出ました。それでは困るだろうということも言いました。ではどうする。では業者の競争を激しくさせればいいと。いろいろな意見が出ておりまして、これは後でまとめてどこかにお上げした方がいいんじゃないかと思うくらい、すばらしい意見が今出ております。

 そういう形の教科を発展させていくということ、それと、各教科でしっかりやっていくということ、これがこれからの流れをつくっていく、ひいては日本という国をよくしていくことになるのではないか、そういうふうに私は考えております。

 私たち、学校でやっておりますと、いろいろと問題が多いことがあります。いじめの問題がございますが、生徒に向き合う時間がなかなかとれないということが一つ問題になってきます。これについても、教育基本法、新しいもので、教育振興基本計画の中で人的な配置がされるのではないかと思っております。

 人がふえたらよくなるのか、そういう意見もございます。人がふえただけではよくならないと思います。私たちは一生懸命頑張ってやっております。一人一人の先生は志を持っております。ここで生徒を教えて、この生徒の生きていく力をつけよう、活力ある地域をつくろう、そして日本という国をよくしよう、日々教師はそういうことも考えながらやっておりますが、ただ、なかなかそれが果たせないでいる。生徒に向き合う時間をとろう、でもなかなかとれない。一つ会議が多かったり、いろいろなことはございますが。

 前回の教育基本法も、私はそれほど悪いものではなかったと思います。ただ、今回の方は、先ほど述べました理由で前回のものよりよいと思いますので、賛成という意見を述べました。

 ただ、その基本法が法令となり、それから行政という形を通して学校にやってくる。学校にやってきたところで、私たち現場、末端にたどり着くまでにその高貴な薫りがなくなっている。なくなっているとは言い過ぎなんですが、その根本の精神がなかなか伝わらない、そういうことを、残念ながら、現場の末端におりますと思います。

 そういう形のこと、要は、今回改正されましたときに、その精神が私たち現場の者にもしっかりと届くような、そういう行政の体制をとっていただきたいというふうに思います。そうすることによって、私たちはその精神をいただいて、さらに自分の思いを乗せて子供たちを教えていく、志を持って教えていくということができると思います。

 習う子供についてもですが、今の子供に欠けているのは、やはりこの志という部分が欠けていると思います。それは持っている子もおりますが、将来自分がどうするか、それから自分が学ぶことによって社会をどう変えていくか、そういうことを自分で考えるきっかけとして教師が教える、そういうことが必要だと思います。

 ただ、それが今は残念ながらなかなかできない状況でいる。それは、教師が目的を見失っている部分がややあるのではないか。教師の目的意識をしっかりと持たせるような、そういう形のことをやっていただきたい。それは強制ではなくて、教師が考えて持てるようなゆとり、あるいはそういうことを考えるような制度、そういうところが一つあったらありがたいなと思っております。

 生徒についてもいろいろな問題はあります。教科の時間が足りないということはありますが、自分がどうやって生きていくかということを考える時間、それから教師とそれについて話し合う時間、そういう時間をとっていただきたいなと思います。

 実は、きょうここに来るときに、昨日の話ですが、出かける直前に生徒が私のところに相談に参りました。それは進路についての相談です。残念ながら、こたえられませんでした。それは飛行機の時間が迫っていたので、こたえられませんでした。今回のこれは仕方ないんですが、こういうようなことが現場では、この会議ではなくても多々あります。

 生徒に向き合う時間をふやしていただきたい。そのために人をふやすなり、それから財政をしっかりするなりということをしていただきたい、そんなことを思います。そういう中で志が育っていけばきちんとした教育ができていく、そういうふうに考えております。

 私、こういう場は初めてでございまして、きちんとした話し方はできません。思いのたけを述べさせていただきました。

 以上でございます。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、西原公述人にお願いいたします。

西原公述人 西原博史でございます。

 本日、教育基本法改正に関しまして意見を申し述べる機会をお認めいただきましたこと、心から御礼申し上げます。

 私は、早稲田大学に身を置きまして、憲法学、特に基本的人権の理論、中でも思想、良心の自由の研究にこれまで精力を費やしてまいりました。十年ほど前に上梓いたしました私の学位論文におきましても、良心の自由を扱いまして、アメリカ憲法、ドイツ憲法などとの比較の上で、国家が個人に対して特定価値観に基づく行動を強制する、それが一体どこまで許されるのかというような問題を扱ってまいりました。

 また、そうした研究を踏まえ、学校現場をめぐる法的紛争について、裁判所に鑑定意見を寄せるなどの活動にも従事しております。その中で、現在の学校教育をめぐる病理を観察する機会も得てまいりました。そうした観点から見まして、今次の政府提出によります教育基本法改正案に関しては、強い懸念を抱いております。

 憲法学として、権力分立の話から始めさせていただきますと、ここは国会、立法をつかさどる場ということになります。そして、制定された法律の執行は行政の手にゆだねられるわけですけれども、それは基本的には国会の手を離れていくということにすらなりかねません。そのため、政治部門として国会において配慮すべきは、法執行に際して十分な指針を与え、また、行政に濫用されることのない法律をつくるということでしょう。

 法律は、ある意味でいいますと、一つの生き物みたいなものです。生まれ落ちるとすぐ、生みの親である国会議員のもくろみを超えて機能し始めてしまうかもしれません。特に教育基本法のような抽象度の高い法律にあっては、一つの理念的な決定が多くの付随的な結果を発生させてしまう可能性があります。この政府案に関しては、間違った運用をされる危険がないと言えるのでしょうか。また、間違った運用をされたときに修正がきく形になっているのでしょうか。

 具体的に申し上げましょう。私が政府案に関して最も危惧しておりますのは、二条に掲げられた教育目標が硬直的に運用されることによって、国民の精神ががんじがらめに縛られていくという危険です。民主党案は、愛国心などを前文で理念と位置づけることにより、教育に対する直接の縛りとして機能する余地を弱め、さまざまな夢を持つ可能性というのを織り込んでおります。それに対して政府案は、教育基本法上の目標を明示し、それを達成するという形で条文を組み立て、その上で実施していきますので、かなり強烈な縛りが発生するという構造に傾きがちな形になっております。

 ここでは、二条の教育目標の中から、例として五号に掲げられる「国際社会の平和と発展に寄与する態度」を取り上げてみましょう。どのような態度をとれば国際社会の平和と発展に寄与することになるのでしょうか。そして、問いは常に具体的です。例えば、学校でイラク戦争を扱う場合に、イラク戦争を支持することが国際社会の平和と発展に寄与する態度だったということになるのか、それとも、フランス、ドイツのように、今から見ればイラク戦争に反対することの方が実は国際社会の平和と発展に寄与することだったということになるのでしょうか。どちらを選ぶかが教育現場では問われてくるということになります。

 あるいは、もっとホットな話題としては、例えば日本が核武装すべきかどうかというものに関しても、することか、しないことか、どちらが国際社会の平和と発展に寄与するのかという形の問いも成り立つし、それが学校において教育課題となされ得るということになるのかと思います。

 現在の教育基本法のもとでは、正しい国際平和のつくり方は、正解のない問題というふうにして扱われております。さまざまな見解とその論拠を学校で客観的に叙述するということはあり得ても、どちらか一方の態度を正しいものと決めて、それと異なる考え方を教育の中から徹底的に弾圧して排除するということは許されておりません。

 これは、もともと、現行教育基本法が一条で教育の目的とする人格の完成という理念が、独立して物を考える主体、自由な主体を想定していることと関係しています。現行の教育基本法においては、倫理的、政治的な価値をめぐる問題は、個人、一人一人が責任を持って判断すべき課題と位置づけられている。そこに国家権力が出しゃばってきて、正しい価値観を一つに特定するようなことを回避しようとする姿勢が示されています。

 ところが、政府案が現実のものになると、そうした構造は根底から覆されかねません。テストをやって、「国際社会の平和と発展に寄与する態度として正しいものを次の四つから選べ。一、日米安保を破棄して核武装すること、二、日米安保を維持して核武装すること、三、核武装を拒絶して云々云々」というような出題すら現実のものになり得るわけです。そして、それに対して、例えば、二を選ばなければ国際社会の平和と発展に寄与する態度として間違いであるということにすらなりかねないという状況になります。

 ここにお集まりの先生方の中には、私が挙げたような例を非現実的だとお考えになる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、そんなことが生じないというふうに言い切れる根拠はあるのでしょうか。現時点で私の挙げた例が非現実的なのは、現時点では現行の教育基本法が存在し、その十条で教育に対する不当な支配が禁じられるとともに、一条の人格の完成理念がイデオロギー的な教育を禁止する役割を果たしているからです。

 そして、確かに、人格の完成も不当な支配の禁止も、言葉としては政府案の中に残っています。しかし、政府案の構造を綿密に見ていくならば、政府案による教育基本法は、現実のものとなったとき、私の挙げたような例を排除する役に立つのでしょうか。

 政府案一条の人格の完成理念は、同じ条文の中で掲げられた国民としての資質の育成と関連づけられています。この資質を具体的に定義するのが二条の教育目標ということになるわけですから、二条で掲げられた目標を達成できて、初めて一人前の人格という理解が成り立つ余地があります。

 そして、政府案は、十六条ですけれども、国が二条における教育目標の内容を具体的に定義し、それを子供たちに受け入れさせる方法までをも明示していくことを通常の流れとして打ち出しています。十六条で、教育が、法律に基づいて、さらには国が総合的に策定し、実施する施策に基づいて行われるとされるとき、文部科学省が中央官庁として教育内容全般を支配するような体制が想定されていると受け取るのが自然ではないでしょうか。

 前国会におきまして、小坂前文部科学大臣は、二条に掲げられた項目、例えば我が国を愛する態度が具体的に何を意味するのかは学習指導要領の中で具体化される問題というふうに、繰り返し御答弁なさっていらっしゃいました。そうすると、例えば何が正しい国際社会の平和と発展に寄与する態度なのかは、文部科学省の密室の中で決められ、それに対してだれも口出しができないというような体制が動き出そうとしているようにも見えるわけです。

 もともと、現行の教育基本法十条は、教育の国民に対する直接責任を打ち出しておりました。これは、政府に対する直接責任を否定するものです。民主主義の中において、政府は多数決に基盤を有しておりまして、絶対的な真理を認定する力を持つものではないわけです。そしてまた、政府は、社会の中で特定の個別利害を背負って存在するものというふうにも言えます。ですから、その個別的な利害に基づいて政府が国民に影響を与えようという誘惑は常に存在するわけですけれども、だからこそ、教育は政府のために行われるものではないと確認する必要があったということになるんだと思います。政府の意向に拘束されず、もっと普遍的な真理、そうした真理を目指して行われるんだというのが現行法の立場ということになります。

 それに対して、政府案は、教育の内容を政府の意向に服従させてしまおうとする構造に傾いているように私には見受けられます。少なくとも、学習指導要領を定めるに当たって政府、文部科学省が全知全能であると主張したときに、それを抑制する原理がこの法案に組み込まれているようには私には見受けられません。逆に、政府、文部科学省の意向に異を唱えたり疑問を呈したりする人々が出てきたときに、それをすべて、教育に対する「不当な支配」、これもまた十六条に残った言葉ですが、そういう不当な支配として排除されることになるのではないかという危惧を持っております。

 そして、政府案六条二項は、国によって具体的に定義された目標に向けて、「体系的な教育が組織的に」行われる旨を定めています。この文言が意味を持つのは、文部科学省の意向で定められた教育のあり方に対して、それと違う考え方をする要素、教師を学校現場から排除するという場面ではないでしょうか。

 イラク戦争支持が正しい国際平和のつくり方なのだというふうに一たん決められた場合、例えば、誤爆という名前で罪もないイラク人民の上に降り注いだ爆弾に思いをはせ、正義の戦争なんて本当にあるんでしょうかという問いかけを発する先生は、指導力不足の不適格教員、教員免許を更新せずにやめさせてしまえ、そういう話になるのでしょうか。

 ここで想定されているのは、文部科学省の統制によって、全国津々浦々に至るまで、すべての学校において中央政府の意向に対応した内容の価値教育が行われるという構図です。愛国心にかかわる問題の本質も、ここに位置づきます。

 国を愛する方法は、人によってもちろんいろいろです。例えば、個人的には違和感があるけれども、政府が決めた方針があるんだから、それを支持しそれに協力することが国民としての愛国的な務めであるというふうに考える人もいるでしょう。また反対に、政府が決めたことであっても、自分が正しくないと判断することであったら、国を、過つことを避けるために徹底して抵抗し批判すべきである、それこそが愛国的な態度だと考える人もいるでしょう。どちらが正しいかという問題では本来なかったはずの事柄になります。

 ところが、文部科学省が教育内容決定をすべてにおいて標準化していくことになると、結局のところ、政府の示す国民として持つべき精神構造を忠実に受け入れることこそが愛国的な態度であるということにすらなりかねません。

 通知表を通じた評価の問題もここに関連してくることになります。前国会において小坂前文部科学大臣は、内心を直接に評価するようなことをしてはならないということを御確認くださいました。ただ同時に、学習内容に対する関心、意欲、態度を総合的に評価するものであれば問題はないという姿勢も崩さなかったという現実がございます。

 ところが、個人の内心はもともと他人が認識したり評価したりできるものではないわけです。そして、政府案が教育の目標にしているのも、さまざまな態度、国を愛する態度なわけです。ですから、結局、現時点までの政府の説明でも、価値観を体現する態度がとれるかどうかが評価の対象となることは最初から想定内のものであり、我が国を愛する態度をとろうとするかどうかを通知表で評価し、その際に文部科学省が定義した正しい国の愛し方を基礎に置くことには問題はないという理解がなお成り立ってしまうような状況に見受けられます。

 実際には、子供に対して特定の価値観に合致した行動をとれるようになることを命じ、それが実現できているかを評価の対象とし、できなかった場合には悪い成績という罰を与えるということは、子供に対してその価値観を受け入れるよう強制するということを意味します。こうした特定価値観の強制は、憲法十九条に保障された思想、良心の自由という基本的人権を考えた場合、許されることではありません。また、評価が下されないまでも、一つの価値観だけを正しいものとして子供たちに提示し、それ以外の考え方があり得ることを否定していくような働きかけが行われた時点で、既に思想、良心の自由に反する強制が行われていることになります。

 そのため、本来であれば、政府案がつくり出してしまうかもしれない教育の構造そのものが子供の基本的人権を侵害し、許されないはずのものではあるのですが、しかし、準憲法的な性格の教育基本法を改正し、国を愛する態度などの徳目を目標として明示的に組み込むという決断をした場合、そこで定められた国民の資質としての教育目標については、思想、良心の自由の範囲外であるといったような誤解を関係者の中に生じさせてしまう危険があるのです。

 また、これは教育現場の中だけではなくて、例えば親に、例えば地域社会、地域住民への働きかけという側面も出てまいります。

 しかし、文部科学省が学習指導要領を定めて一つの正しい平和のつくり方や愛国心を定義し、そこで定められた精神構造から逸脱することが許されなくなるような社会をつくることが本当に意味のあることなのでしょうか。立ちどまってもう一度考えていただきたいと思います。民主主義が健全なものとして発展するためには、社会の中にさまざまな考え方があること、それ自体が極めて重要な意味を持ってまいります。

 もう一度政府案二条に戻りましょう。この条文で教育目標として列挙されているものの中には、個人の価値観にかかわるような問題が数多く含まれています。男女の平等の正しい理解とは何か、これも最近多くの場合に政治的な話題になる観点です。公共の精神とはどのような精神か、我が国と郷土を愛する態度とはどのような態度か、多くのそういった論点が含まれているわけですけれども、こうした問題については、社会の中においても多様な考え方が現在認められています。

 この社会の中における考え方の多様性を否定し、どれか一つを権力的に正しいものと認定してしまえば、さまざまな考え方が多数派になることを目指して争い合うような民主主義という政治体制そのものを否定することになってしまうでしょう。本当にそれが望ましいことなのでしょうか。

 ここにお集まりの先生方は、自分なりの国の愛し方、自分が思う世界平和のつくり方についてそれぞれ深い考えをお持ちのことと思います。ところが、全員がここで同じ考えを共有しているわけでは恐らくないでしょう。それでも御自身の考え方が自分にとっては正しいと考えられる体制を手放してしまっていいかどうかということが問われているように思われます。

 事柄は与党に属する先生方にとっても恐らく深刻な話になります。首相が交代して前政権と異なった歴史認識が打ち出されると、その途端に学習指導要領が変わって、前の時代には正当なものだった御自身の日本人としての誇りが誤ったものと呼ばれる。そういうことがあり得ないと、本当にこの教育基本法、政府案のもとで言えるのでしょうか。そして、そのような権限を行政に与えてしまうことが正しいことなのでしょうか。

 教育を誤ることは国の将来を誤ることです。冷静に考えていただきたい。教育の根本にかかわる基本法を国民的合意のないままに強行採決で改正するなどということは、後の時代から見れば愚の骨頂だと言われることでしょう。少なくとも、運用する側で新教育基本法が憲法上の人権保障を超えるなどといった誤解が生じないよう、きちんとした予防措置を組み込むことが必要ですし、それを実現するための充実した審議がもっと必要だと私には思われます。

 政府案をこのままで通すかどうかが問われる今、問題になっているのは、一人一人が自分なりの考え方をつくり上げることができる民主主義を維持するのか、それとも、ごくごく少数の者が政治的指導者として決めた国民として持つべき意識を、すべての国民が受け入れなければならない抑圧的社会に転ずるのかという点であるように思われます。

 以上をもちまして、私の問題提起とさせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、広田公述人にお願いいたします。

広田公述人 日本大学の広田です。よろしくお願いします。

 私は、教育社会学という分野で、教育学と社会学の両方の立場からこの問題についてお話をさせていただきたいと思います。

 全体として言うと、もっと議論、検討されるべきことがたくさん残されたままになっている、だから、時間をかけてじっくり議論をやり直していただきたいということです。

 まず第一に、現状認識、特に青少年の現状をめぐって、もう少し検討されるべきだ。改正の議論が出てきたのは、青少年に規範が身についていない、いろいろな事件が起きるという話ですが、お手元に資料を配ってあります。非行やいじめというのが問題になるのは産業化が進展した先進諸国で共通のことでありまして、その中では日本の状況は割合ましで、外国から来ている研究者が、いや、日本の教育から学びたいですねとか、そんなことを言われるような状況なんですね。

 実際に資料の二枚目を。統計で、凶悪な殺人に関してちょっと私がデータをつくってみたんですけれども、これは殺人で検挙された少年の年齢人口別の推移です。これを見てわかっていただけると思いますけれども、最近になって青少年がたくさん殺人をしているわけではないですね。むしろ五〇年代から六〇年代にかけて非常にたくさん青少年が人を殺していた、いわば六十代、七十代の方々が若かったころが危なかったですね、これは。

 図の二は、今度は年齢層全体を見ても、二十代が非常にたくさん人を殺していたところからだんだん下がってくる。それから、十代も下がってきて、今、どの年齢層も大体同じぐらいまで下がっている。人を殺さない社会になってきているんですね。

 当然のことながら、図の三のように、殺人検挙者の中での青少年比というのは、七〇年代にずっと下がってきて、今、非常に低いレベルで推移している。だから、最近の若い者はすぐ人を殺すようになったというのは、明らかにうそです、俗説だと思いますね。

 おもしろいのが、次の図の四ですね。これは窃盗犯の比率を見たものですけれども、十代がたくさんあって、大体十四、五歳ぐらいがピークだと思いますけれども、そこで何がおもしろいかというと、二十代と十代が全然対応していないということですね。つまり、十代で万引きとか自転車泥棒とかでたくさん捕まる子供はいるんですけれども、二十代になるとそんなことはやらなくなる。みんなまともになっているということですね、これは。

 図の五と図の六は、これは浜井先生という先生がつくられたものですけれども、これを見ると、犯罪の実数よりはメディアの報道がどんどんあふれるようになっているというふうなことですね。死亡児童数の推移が減っているにもかかわらず報道がふえているとか、このような形の構造になっている。

 私は、その次のところで、二〇〇〇年に少年法改正問題があったときに、メディアがいわばあおり報道をしているというか、あおって問題を殊さらクローズアップしているという話を書きましたので、ぜひそれを見ていただきたいと思います。

 先ほどの図の四に戻りますと、わかることは、今の青少年は規範が身につかないまま大人になっているのではなくて、大人になるころには規範が身について悪いことはしなくなる、だけれども、それまで随分時間がかかって、十代の子供たちが起こす問題に大人がいら立っているというのが実際の今の状況だというふうに思うわけですね。子供がキレるようになっているのか、大人が気短になっているのかというふうな気がします。そういう現状認識をめぐって、もう少し考えていただきたい。

 それから二番目に、こういう法改正がされたとき、果たして教育現場は具体的によくなるのかということを考えていただきたい。

 私がいろいろ考えるに、どうもおもしろみのない窮屈な学校現場になってしまうように思いますね。一つは、生徒の側がどういうふうなことになるかというと、政府案の第二条で教育の目標というのが掲げられている。うちの息子なんかと随分違うような立派な子供像がここに書いてありますけれども、そこでは、態度を養うというのがたくさん出てくるんですね、態度を養う。しかも、政府案の六条二項では、「教育の目標が達成されるよう、」「体系的な教育が組織的に行われなければならない。」というふうになっていますから、たくさんの教育的な目標が随分細かく学校現場でなされなければならないということになっていく。

 そこで、その教育は、いわば態度を養うですから、教育の効果が態度ではかられるということになりますね。そうすると、態度は外面的なチェックができますから、一律にその態度が示されているかどうかというのをチェックできるわけですね。

 そうすると、生徒の側からいうと、いろいろなことに関して細かく態度が要求されるという、窮屈で息が詰まるような教育現場になってしまう。生徒の側も、戦略をとれば面従腹背みたいなことをやりますし、先生の側も、どんどん行き過ぎた管理で何とか態度を一律にさせたいとかいうふうなことになりますから、随分何かおもしろくない殺伐とした学校になってしまう。教員の側も恐らく随分萎縮をしたりして、教育現場が問題を抱えてしまう。

 十六条で教育行政が不当な支配の当事者から外れかねないとすると、先ほどの六条二項で体系的な教育が果たしてちゃんと行われているのか、態度が養われているのかといったことを教育委員会とかがチェックするようになると、これは学校の先生にとっては大変なことですね。

 つまり、子供の現実というのは、なかなかこんな立派な価値を身につけた子供ばかりにはならないわけですから、にもかかわらずそれをちゃんとやれという話ですから、形だけのつじつま合わせをせざるを得なくなってしまうとか、今よりももっと隠ぺい体質が強まってしまうとか、学校の先生にとって、自由闊達で子供に合わせた教育というのがだんだん難しくなってくるような気がする。

 そもそも、第二条のような教育の目標の諸価値の部分は教えられるのかというふうに思いますね。

 私は、よい子には教えられるというふうに思います。今の学校というのは、子供との関係をどうつくるのかというところで結構苦労しています。だから、教育的な関係に乗ってこない子供たちというのがたくさんいる、それをどうするかというのが問題なわけですから、教育基本法に書き込んで、それを教えれば、そういう子供たちがまるで手のひらを返したように変わるということは絶対あり得ないですね。

 いわば学校現場に無理な要求をしているわけで、教育現場の力を余りに過信している。恐らく、こういう法改正では、いじめも非行も減らないのではないか。だから、本当に学校現場がどう変わって、有効になるかということをもう少し議論をしていただければというふうに思います。

 その次に、四のところに行きますが、政府案に欠けているものがあるのではないかというふうに思います。特に、民主党案と比べると、未来社会像の狭さというのがどうも目についてしまう。一つは、グローバル化への柔軟な可能性が欠けてしまうのではないかというふうな気がします、私はここは社会学的に言っていますけれども。

 今の政府案の骨子ができたのが二〇〇三年の三月ですけれども、二〇〇三年の十二月には、小泉首相のところで、ASEANと日本とで東京宣言というのを出していて、東アジアの共同体に向けて歩き出そう、そういうふうなことをやっている。その前は、いわば一国主義でグローバル競争に勝ち抜こうというモデルでしたので、それでこの法律の枠組みができています。だけれども、それができたときとは少し違う二十一世紀像が出てきているんじゃないかというふうな気がするわけですね。

 その点でいうと、民主党の案で、第四条一項で、日本に居住する外国人に教育を保障するといったことが明記されていますし、教育の目標に当たる部分が民主党案の前文に回っているのは、文化多元社会の実現の観点からというふうな形で解説がなされたりしています。そういう意味では、民主党案の方が、いわばグローバル化する中でのこれからの国のあり方に対応できているんじゃないかというふうな気がしますね。

 それから、政府案で欠けているのは、IT化への対応が不十分なのではないかと思います。

 学校と家庭と地域の連携と言うとき、子供の教育を考えると、今はインターネットとか情報空間の影響というのが物すごく大きいですね。ですから、学校と家庭と地域が連携してやるというんじゃなくて、情報空間の問題をきちんと考えないといけない。いわば社会化のエージェントというのは、第四のエージェントが存在しているわけですね。それが今の政府案には全く視野から抜けていると思うわけですね。民主党案では、インターネットを活用するバーチャルな情報空間を使いこなす能力みたいなものも入っていまして、それは、新しいこれからの社会を先取りしている部分があるような気がする。

 それから、学ぶ権利の保障というのが、戦後の社会でずっとあったものが、これも政府案では余り入っていなくて、要するに、教育を受ける側の主体性をどういうふうに制度的に保障するのかという、そこが余り明示されていない。

 それから、教育の充実に向けてお金を出すとか、そういうふうなことが民主党案には書かれていますが、政府案はそのようなことは書かれていないので、条件整備の観点が薄いというふうに思いますね。今の状況を見ても、今の教育改革の流れを見ても、財政的に充実させて、それで条件をよくして教育の質を高めるんじゃなくて、お金を余り出さないままに教育の成果が求められていて現場が苦しんでいるというのが実際のところで、財政的な裏づけの問題を民主党案のようにぜひ考えていただきたいというふうに思います。

 そういうふうに、現状認識と学校への影響、それから、これからの社会や教育を考えたときのいろいろな可能性といったことを考えたときに、議論されていないものがまだまだたくさんあるはずだ。いわば、改めて未来の教育のあり方を選び直す議論をじっくりとやっていただきたい。審議は尽くされたどころか、今の教育をどう見るか、今後の教育をどうしていくかについて検討、議論されることはたくさん残っていると思います。

 非行統計に見たように、子供の現状の見方を、リアルで見たときに何をどうすべきかという話。それから、たくさんの教育的な価値の項目を並べて現場で教育させていっても教育はよくならないような気がしますから、システム設計が果たしてこれでいいのかどうかという問題。それから、グローバル化への対応や情報社会への対応など、今後の教育のあり方について、もっとさまざまな未来の社会の可能性を考えて、それに見合った教育基本法を考えていただきたい。

 それから、最後にちょっとお話ししますけれども、政府案に比べると民主党案はいろいろな問題をかなり拾っていると思いますけれども、しかし、現在の教育基本法を改めて選び直すという道もあるような気がするわけです。

 つまり、今の教育基本法は、理想主義で簡潔な分、非常にあっさりしているわけです。理想主義的であっさりしている。その分、いわばいろいろな課題とか方向に柔軟に対応できる汎用性があるのではないかと私は思っています。二十一世紀が予測が難しい未来であるとすると、汎用性の高い現行法を改めて選び直す道もあるのではないかというふうにお話しをして、私の話を終わりたいと思います。

 ありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、出口公述人にお願いいたします。

出口公述人 今御紹介いただきました出口治男でございます。こういう機会を与えていただきまして、大変ありがとうございます。

 私は、昭和四十五年に裁判官となりまして、十一年間裁判官をしました。その間、八年にわたり少年事件と家事事件を担当し、昭和五十六年、弁護士に転じてから今日まで二十五年間、ずっと弁護人、付添人として少年非行にかかわり、あるいは家事調停委員として家事事件を担当し、さまざまな家庭、学校、子供たちの事件を扱ってまいりました。今問題となっておりますいじめの問題も、かなりの事件数を扱ってまいりました。また、現在、日弁連の教育基本法改正問題対策会議の議長を務め、この問題にかかわっております。

 私は、本日は、日弁連の意見を簡潔に申し上げるとともに、私自身の三十年余りにわたる一実務法律家としての立場から、本問題に対する意見を申し上げたいと思います。

 お配りしてございます日弁連意見書は、本年九月十五日の日弁連理事会で採択されました。八十五名、八十名余りの当日出席した理事のうち、一名の反対はありましたけれども、他の理事全員の賛成で採択をされました。教育問題につきましては、だれもがみずからの経験をもとにした一家言を持っておりまして、弁護士会においてほとんどの会員が一致するということはなかなかないのですけれども、この意見書はほとんど全員の一致を見たものでありまして、その意味では、日弁連の歴史上大変珍しく、かつ貴重な例というふうに申し上げてよろしいかと思います。

 この意見書の基本的なスタンスを若干かいつまんで申し上げ、御理解を得たいと思います。

 本意見書を作成するに当たりましては、教育基本法改正問題について会内及び各界各層にさまざまな考え方がございますので、法律専門家集団として大方の一致が得られる立場に立つことを基本といたしました。

 日弁連では、昨年の人権擁護大会におきまして、憲法改正の問題に関し激しい討議が行われました。そのときの議論で大方の一致した立脚点は、立憲主義と民主、人権、平和という憲法三原則を堅持するというところにありました。憲法に対するこの理解は、法律専門家集団として大方の一致が得られるところでありましたが、教育基本法は、憲法の精神にのっとり、憲法の理想を実現することを目的として制定された教育に関する憲法と位置づけられておりまして、立憲主義的性格を有していることは争いのないところであります。

 教育基本法は、国家や地方公共団体が子供に対して義務を課する、あるいはあれこれ指示をするというのではなく、国家等に対して、すべきこと、またはしてはならないことを義務づける権力拘束的な規範と解されております。この点は、国家等に対し、教育に対する不当な支配を禁じ、教育に関する条件整備を義務づけている現行法十条に極めて色濃くあらわれていると思います。

 現行法十条は、きょうお集まりの先生方はもう既に御承知のとおりでございますけれども、戦前の神話的国家観に立った国家主義的もしくは超国家主義的教育によって子供たちを悲惨な状態に追いやったことへの深い反省に立ち、国家等の教育介入を厳しく戒めて教育現場の自由を確保し、自主性、自律性を尊重し、子供たちの個人の尊厳を尊重し、その個性を伸ばすには、子供たちと教師との信頼関係の構築を実現することが何よりも大切なこととされました。

 政府案は、不当な支配を禁ずるという文言は残してございますけれども、教育行政の権限行使は基本的には条件整備に限定されるべきであるとする条項をすべて削除し、教育内容に関与できる道をはっきりと開こうとしております。また、法律によって教育内容が決定されるという仕組みもとられています。政府案は、教育の内容を、政治的、党派的利害を反映した法律によっていかようにでもつくることができ、教育行政による教育現場の直接支配を可能にするものとなっております。

 これらの仕組みの変更と教育振興基本計画の策定、遂行があわさりますと、教育に対する権力を拘束するという現行法十条の立憲主義的性格は完全に失われ、国家権力が教育を支配するという構造に転換することが明らかであります。しかし、このような構造転換は、立憲主義的性格を有する教育基本法の改正として大きな疑問を持たざるを得ないところであります。

 また、現行法十条を政府案のように変更することにより、愛国心や公共の精神や伝統と文化等々のように、本来多義的であり極めて価値的性質の強い概念を子供たちに一義的内容として教え込むことが可能になります。改正案の十六条、十七条はそのような可能性を制度的に支えるものであり、そのような仕組みの変更は、子供たちや現場の教師たちの良心の自由、内心の自由等精神的自由を侵害する危険があることを指摘せざるを得ません。

 ところで、この意見書承認から約一週間後に、東京地裁は、都教委の国歌斉唱義務不存在確認等の予防訴訟におきまして、国旗に向かっての起立、国歌斉唱、ピアノ伴奏を強制し、処分を行うことを禁ずる判決を出しました。この判決の論理構造は、今申し上げました意見書の論理構造とほぼ同様であります。法律的な立場から大方の一致できる意見の作成を目指した私たちの考え方と同じ志向を、この東京地裁判決は持っていることを指摘しておきたいと思います。

 さらに、各種の世論調査によりますと、安倍内閣が最優先課題に挙げる今臨時国会での教育基本法改正につきましては、今の国会にこだわらず議論を続けるべきだという意見が多いという結果も出ておりますし、東京大学の研究所の調査でも、教育現場のリーダーである小中学校の多くの校長先生たちが教育基本法の改正に対して批判的であるという結果が示されているところであります。これらの結果によりますと、少なくとも、教育基本法改正につきましてはさらに十分な議論が行われる必要があり、拙速な取り扱いをすべきでないというのが世論の多数と言ってよいのではないでしょうか。国会に教育基本法調査会の設置を求めている日弁連の意見とこうした世論の動向は、軌を一にしているというふうに考えます。

 日弁連の意見は、お配りしてございます一番最後の「むすび」のところで簡潔に書いてございますけれども、やはり教育の現場、子供たちが直面している教育をめぐる状況に深刻な問題があることは大方の見解が一致するところと思われますけれども、こういう状況を改善する処方せんとして現行教育基本法を改正するという方向を目指すことにつきましては、子供たちの事件を日々担当する実務家の立場からすると、大きな疑問と違和感を抱かざるを得ないのであります。

 私の経験に基づく個人的な意見を申し上げます。

 例えば、いじめの問題について申し上げますと、問題の渦中に飛び込みますと、教師たちが、いじめ、いじめられる子供たちと触れ合う余裕がほとんどないという事実にぶつかります。子供たちが送ってくるシグナルを受けとめる余裕が現場にはほとんどない。そうした現場の改善、改革を何らしないでおいて、子供たちに人間尊重ということを訓示したり、あるいは現場の教師を責めても、問題は陰湿化するだけでありまして、何の解決にもならないでしょう。

 いじめ、あるいはいじめられる子供たちを、私たちは一緒に事件を解決する場合には、やはり時には手を握り、あるいは抱き締め、体を張った取り組みを行うことが間々ございますけれども、そうした経過の中で初めていじめの問題の解決の端緒を得るということになるのが実際であります。教育基本法改正は、いじめ問題にとってどのような処方せんたり得るのか。一法律実務家の三十年余りの経験から、私は、本当にそういう処方せんたり得るのかということを問いたいのであります。

 いじめによって不登校となった子供たちとの話、あるいはいじめによってまさに登校停止になろうという子供たちと私たちは実務の中ではよく話をするんですけれども、そういう子供たちにとって必要なことは、私の経験に照らしますと、教育基本法改正という処方せんではなくて、むしろ、人としての尊厳を説く現教育基本法の理念をいかにその子供たちに教化していくのか、教育していくのかということにあるというふうに考えます。(発言する者あり)いや、決してそうではないと思うんですね。これは実務の感覚なんですよ、本当に、子供たちと話をする。

 そういう根本の問題を、実は正面から国会議員の先生方には議論をしていただきたいのですね。子供たちや親たちや教師たちの苦しみや悲しみや嘆きの声を率直に聞いてやっていただきたいのです。そういうふうなことを通じて初めて、教育の現場あるいは現在の子供たちをどうしたらよいのかということへの教訓が出てくるのではないかというふうに思っております。

 教育の基本である、子供たちの人としての尊厳を守るために、やはりこの特別委員会においてはもっともっと議論を続けていただきたい、十分な議論を行っていただいた上で結論を出していただきたい、これが私の、三十五年なので短いのか長いのかよくわかりませんけれども、やはりその経験からします本当の心からのお願いであります。

 どうも大変ありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 以上で公述人の方々からの意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

森山委員長 これより公述人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。小坂憲次君。

小坂委員 私は、自由民主党の小坂憲次でございます。

 本日の中央公聴会のトップバッターを務めさせていただきますが、まずもって、公述人、意見陳述人と申し上げましょうか、皆様には、急な御連絡であったと思うわけでございますけれども、そのような中、それぞれお差し繰りをいただきまして、この公聴会に御出席を賜り、それぞれの立場から意見を述べていただきましたことに、心から感謝を申し上げたいと存じます。

 また、私は、この政府提案の教育基本法案の提案をさせていただきました担当の大臣でございました。そのような立場からこの改正案の早期成立を願うものでございますけれども、今日の教育基本法改正の議論というものは、この法律が持っております理念法としての性格から、今日、科学技術の進歩、情報化、国際化、少子高齢化、これら六十年間に及びます我が国の社会情勢や教育をめぐる環境の変化、こういったものに対応し、道徳心やみずから律するあるいはみずから立っていく、自律という心、また学習意欲の低下、家庭や地域の教育力の低下などのさまざまな課題を踏まえまして、教育の根本にさかのぼった改革が必要とされているとの認識から国会に提出をされたものでございます。

 従来から大切とされた人格の完成など、普遍的な理念は大切にしつつも、公共の精神、豊かな情操、伝統や文化の尊重、家庭教育、幼児教育、私立学校など、新たに必要と考えられる事項や理念が盛り込まれているわけでございます。

 このような基本認識と現行法の改正の必要につきましては、法案を提出していること及びその内容から、第八九号議案も第二八号議案も、すなわち政府改正案も民主党提出の法案も、非常に共通している点が多いと思うわけでございます。

 まずもって、公述人の皆様には、この八九号議案また第二八号議案に対する賛否、そしてこれらの両案に対して共通している理念が非常に多いという私の意見に対してお考えがございましたら、お述べいただきたいと存じます。

松下公述人 ただいまの小坂先生からのお話でございますが、私も、社会の一員として役立つ国民を育てるという観点から、今おっしゃられました基本的な事項は皆共通になっているのではないかというふうに思います。

 そして、政府案に関しまして、先ほど来、ほかの公述人の皆様から御指摘がございましたけれども、今回、教育の目的という部分と目標という部分が分けられましたことに私は注目をしておりまして、目的は大きく掲げられておりまして、それをいかに、少し具体的な目標としてどのように掲げていくかということが具体的になっていることが、一つ非常に私たちが取り組みやすいものになっているのではないかというふうに思っております。

 以上でございます。

鹿野公述人 どちらの案も、子供のことを考えて、今何とかしなければいけないという気持ちが感じられます。これからのことをよくしていかなければということも感じます。

 民主党の方は、より具体的なところが入っております。内閣案については、民主党の、特に変わっていく世界に対する対応、これを入れた形でやっていっていただければと、現場の私としては思います。

 以上です。

西原公述人 御質問ありがとうございます。

 民主党案、政府案、それぞれについての賛否及びそれぞれの異同という点ですけれども、まず、完成された教育基本法に対する改正の構造として、私は、民主党案も、完成されたものとしてはまだ若干不十分な部分があって、これからの議論にゆだねられるべき点があるのではないか。その意味では、いずれも完成された新しい教育の基本的な姿を打ち出してはいないかもしれないというふうに思っております。

 両者における違いはもちろんございますけれども、例えば、理念的な点におきまして、民主党案の一つの特徴は、やはりさまざまな理念的な項目を取り込もうとしている。例えば、非常に重要な部分として学びの権利を明記することになるわけですけれども、そこについては政府案は全く言及がない。先ほど広田公述人の記述にもありましたとおり、そもそも教育を受ける側の主体性というものが、政府案の中には全くどこにも手がかりが見出せないというふうに見受けられます。

 それに対して、もちろんこれは憲法二十六条におきます教育を受ける権利に対応した教育制度としての教育の枠組みですので、それを反映しようという意味では、学びの権利というものを出発点にする民主党案は、一つの大きな理念的な柱を立てているということになるかと思います。

 また、多文化共生の問題もそうでして、例えば政府案については、二条で目標とされているのは、あくまで我が国を愛する態度でしかないわけでして、それは、例えば、我が国に生まれ育つ、我が国以外の国籍を持ち、文化的な背景を持つ人たちが、日本の学校の中でどういうふうな立場に置かれるのかということに関して多くの懸念を生んでしまうということになります。

 日本に生まれた以上は、この我が国、多分日本という意味で使われているんだと思いますけれども、そこを愛することが目標であって、みずからの生まれた文化、みずからの血の中に流れる文化を大切にすることは目標としては位置づけられないとするならば、これは二十一世紀の世界の中における日本の教育のあり方として果たして適切かどうかという問題も出てまいりましょう。

 あるいは、私が非常に大きな懸念を持っておりますのは地方分権に関する違いなんですけれども、民主党の場合には、教育の地方分権というものをかなり強く打ち出していく。その中で、特に、教育委員会を廃止して、知事部局あるいは首長部局にそれぞれの教育に関する権限をゆだねることによって、地域住民における政治的な決断がある程度の形で政治に反映する形をつくっていこうとしている。その意味では、教育における地方自治というのを非常に大きな理念として掲げているものと拝見しております。

 ところが、それに対して政府案の場合は、その部分が非常に不明確、よく言って非常に不明確というふうに申し上げざるを得ないような気がいたします。つまり、まず、国民あるいは住民の、政治によって何がしかの形で教育に関する発言力が政治ルートで確保されているのかというと、私には残念ながら、政府案の構造はそうは読めない。これはあくまで、国が定めるといったときの国というのは、基本的には、議会制民主主義における委託を受けて文部科学省がという、現行教育基本法のもとで法律の委託というのが語られているのと同じ形での国による内容決定というのがうたわれているように思える。

 だとすると、これは住民があるいは国民が、人々が、教育のあり方について政治的に議論する土壌をむしろつぶしていってしまうのではないか。

 それに対して民主党の場合は、政治的なコミュニケーションを開くということがこの日本国教育基本法の一つのねらいというふうにしていると見受けられますので、その点においては、やはり教育における民主化と言っていいのでしょうか、そういう要請という意味では、民主党案に一日の長があるというふうに私には見受けられます。

 そういうふうに考えていった場合に、やはりねらいとしているものにかなりずれが生じているのではないか。表面的な言葉の一致は部分的にはあるかもしれませんけれども、それが支える構造として、やはり民主党案は、どちらかというと、国民が教育に関してもっとコミュニケーションしていこう、そして、自分の子供がどう育つかということに関する夢をもうちょっといろいろなところから出していこうということを、この言葉の中にできるだけ拾おうとしているというふうに拝見できるのに対して、政府案の場合は、教育の問題というのは素人が口を出すべき事柄ではなくて、お国の中で指導者が決めてさしあげるので、それを皆様きちんと受けとめてほしいというようなベクトルが働いている。そこに私は非常に大きな違いを感じております。

 以上です。

広田公述人 民主党案と政府案の比較については、私はさっき少しお話をしたので手短にしますけれども、一番大きな違いというのは、未来の社会のモデルが違うんだと思うんですね。

 つまり、価値や規範を共有して、ある種の一体感を持った共同体としての社会というのをいわば政府案が持っているというふうに思います。日本人という言葉が、改正をめぐってずっと議論されていく中でたくさん使われたのは、それの象徴みたいなものだと思います。

 それに対して民主党案は、いわば文化多元社会に開かれているという部分がある。そこでは、価値の多元性とか生き方の多様性みたいなものをいかに全体社会の秩序の中で折り合わせていくかというところで教育の発想をするという共同体モデルか市民社会モデルかみたいな対比もできると思いますけれども、そういう未来の社会像の想定の仕方が随分違うように思いますね。

出口公述人 かなり私の話があいまいだったかもしれません。

 ただ、基本理念ということは、やはりその理念を具体的にどういうふうに実現していこうとするのかという方法論と切り離して評価はできないだろうと思いますね。

 政府案についての具体的な方法論、一番骨格部分は、やはり十条を全面的に変更していこう、こういうふうなところにあろうかと思います。二条を教育の目標というふうに定めて、振興計画等々の仕組みを変更する中で具体的に実現をしていく、そういう方法論をとっているように見受けられますね。それが、やはり先ほど私どもが申し上げたとおり、非常に大きな問題を抱えているというふうに言わざるを得ないだろう。

 民主党の法案につきましては、基本的な理念軸としましては、学習権である、あるいは、今、広田先生御指摘の多文化ないしは未来志向、そういうふうな部分が見られまして、その点は政府案と相当違いがあるといいますか、かなり違ったような印象は受けますが、ただ、具体的に、されば、その理念をどういうふうに実現していこうとするのかというその方法論、これについては必ずしも十分に見えないところがある。地方行政法、地行法の改正等と他の法律の改革といいますか、それらも含めて考えておられるような向きがございまして、そういう意味では、現時点では必ずしも全体的な法案としての評価はしにくいというふうに考えております。

小坂委員 それぞれお述べいただきましたけれども、先ほど意見を陳述されている中で受けました印象は、政府案に反対の方は民主党案にも反対であるかのごとく聞こえた部分もございましたり、私どもとしては、これまでの議論を通じまして、政府案は民主党案とかなり似通っているという御指摘を大分受けました。また、世間の中でも、そのような新聞論調等もありまして、改正の必要性及び理念の骨格において非常に似ているということを言われたと思っておるわけでございます。

 今回、政府が改正案を提出し、民主党も法案を提出して、現行基本法を変えようという認識は共通している事実で、そしてまた、理念法としての基本法の性格、そして、国会において国民の負託を受けた国会議員による審議は、本日の公聴会を含めまして衆議院で百三時間を数え、行革関連の五法案の六十三時間、これは平成十八年の通常国会でしたが、また郵政民営化法案等の百一時間、これは昨年でございました。これらを超えておるわけでございますし、その間にも、インターネットの教育基本法案改正に関するホームページでの広報や意見の募集、またパンフレットやマスコミ報道、さらには公聴会を、行革法の一回あるいは郵政民営化法の三カ所よりも多くの六カ所の地方公聴会、そして本日の中央公聴会と、慎重に審議されてきたことでございます。

 これらのことを考えるならば、早く基本法の成立を図って、新しい時代の教育に必要な理念や原則を明確にして、その上で、いじめや自殺、未履修の問題、さらには教育委員会のあり方など、教育現場における問題の解決に向けた具体的な議論と対策を進め、そして教育振興基本計画の策定や学校教育法など関係法律の改正、また学習指導要領の改訂など、より具体的な方策に着手する段階に進むべきだと考えるわけでございます。

 また、このように申し上げますと、野党の皆さんの中からは、教育タウンミーティングでの作為的な質問のあり方等を理由にして審議の継続を主張されるわけでありますけれども、確かに、国民の皆さんと大臣が直接意見交換をする趣旨、この趣旨を踏まえるならば、手の込んだやらせ的な質問はあってはならないことでありまして、私は全く知らないことでありますけれども、まことに遺憾なことであり、当時、内閣の一員であった者として、国民の皆さんに申しわけなく思うわけであります。しかし同時に、私は全く知らされていないことでありますから、私も大臣として質問者の方に誠心誠意自分の意見を述べ、お答えしてきました。その質問者が主催者の仕込んであった者と知りますと、まことに残念で情けない思いすらいたします。

 このようなタウンミーティングにおける意見聴取に不適切な面があったことは認めつつも、平成十五年以来重ねられてきた各政党内における議論、あるいは中教審における審議、そして前述のホームページや公聴会など、これまでに重ねてきた議論をすべて否定されるべきではないと思うわけであります。

 改めて、早く基本法の新たな枠組みを決定し、そのもとで、いじめや自殺、そして未履修を初めとした数々の今日的な課題、そして問題解決のために、教育現場における取り組みを、具体的な議論と対策として進めることが今求められていると思うわけでございますが、時間もございませんので、簡単に、簡潔に、松下公述人、一言で結構ですので、御意見を賜れればと思います。

松下公述人 ただいまの国会の議論等を伺っておりますと、基本法という、基礎になる、教育の憲法と言われているものに関する論議と、具体的な、個々に起こっております問題とが混同されているように私は個人的に感じております。

 基本法は理念をしっかりと構成しているものであり、それに基づいて、振興法あるいは学習指導要領といった具体的なものをその基本法の精神の上につくっていくものではないかと思いますが、基本法そのものの考え方についての議論と具体的な問題点はもう少し分けて議論されるのがふさわしいのではないか、大変個人的にそのように感じて拝見させていただいておりました。

森山委員長 ほかの公述人にもお求めですか。

小坂委員 質疑時間が終了いたしておりますが、もし委員長の御許可がいただけるなら、一言ずついただきたいと思います。

森山委員長 ちょっと時間がかかりそうですね、残念ながら。

小坂委員 それでは、ただいまの御意見を参考にさせていただきます。

 以上で質問を終わります。

森山委員長 次に、西博義君。

西委員 公明党の西博義でございます。

 本日は、五人の公述人の皆さん方の御意見をちょうだいいたしました。閣法、いわゆる政府提出法案に対して賛成の御意見、また反対の御意見ございましたけれども、いずれも私どもにとっては大変参考になる、勉強させていただく内容の御意見でございました。

 順次御質問を申し上げたいと思いますが、初めに松下公述人にお願いをいたします。

 長年、青少年の育成の現場に携わってこられて、今回、独立行政法人の理事長ということで、青少年の育成の中核を本当に担っていただくことになったわけでございます。先ほどのお話で、青少年の社会的な自立をこれからぜひ目指していきたい、こういうお話でございました。それで、具体的に、家庭教育の重要性にお触れになりました。私も、議論の中で、教育の基本といいますか、一番出発点は、だれが何と言ってもやはり家庭から出発するわけですから、この重要性というのは、これはだれもが認めるところであろう、こういうふうに思っております。

 そういう意味で、今回の法律に家庭教育ということを挿入させていただきましたけれども、特に家庭教育における人格形成の現状、核家族化であり少子高齢化、子供さんも少ない、それから家族も少ない、こういう状況の中で、家庭教育という側面も随分変貌を遂げてきているのではないかというふうに思います。このことについての公述人の御感想を、まず初めにお聞きしたいと思います。

松下公述人 ただいま西先生から御指摘がありましたように、家庭のあり方が随分かつてと変わってきていると思います。そして、私は、だからこそ家庭を見直して、大変重要な、基礎的な核として考えていかなければならないと思っておりますけれども、今多くの方たちは、親子の関係を友達的に、一緒にわかり合って、何か一緒にすることが親子のいい関係であるというふうに考えている向きも多いのではないかと思います。

 私は、何年か前に国際家族年というのが国連によって定められましたときに、家族というのは一番小さなデモクラシーの行われる核であるということをうたっておりましたことをよく覚えております。家庭で一人一人の人格としてコミュニケーションをし、意見を交わす、そして一つのことをみんなで相談しながら、この家で今何をし、この次の、例えば日曜日に何をしようかといったようなこともそれぞれが意見を出し合って決めていくといったようなことが、日常生活の中で、これは決してかたいことではなくて、みんなが意見を言える、そういうようなことを日常的に行うことによって、小さな単位である家庭で育つ子供たちが、より大きな学校あるいは地域社会に出たときに、マナーを身につけて皆さんとコミュニケーションをとることができるようになるのではないかというふうに思って、家庭のあり方についてはもう少し考え直しをしなければいけないということを思っております。

西委員 ありがとうございました。

 続きまして、もう一問お願いをしたいんですが、学校、家庭、地域の連携が今回新しく定義をされました。これにつきまして、今、御説明の中で私は全くそうだなと思った内容は、子供は社会の宝である、こういう表現をされました。

 実は私ども公明党も、子供は社会の宝である、少子高齢化、子育てこそこれからの日本の、子供を産み育てる、そういうことに政治として協力をしていく、支援をしていくということが大変大事だということで、数々の施策を今まで実施するようにしてまいりましたけれども、子育ての重要性、また子供を一人でも多く産んでいただく環境をつくる、この重要性について御示唆をお願いしたいと思います。

松下公述人 子育ての環境を整備していくということにつきましては、小泉内閣のときに少子化担当の特別の大臣が置かれまして、いろいろな施策が打ち出されていたと思います。それは、国あるいは地方公共団体が行政としてお考えいただくことは大切だと思いますけれども、ただいま地域において子育て支援活動というのが盛んになりまして、いろいろなグループがNPOとしてあるいは自主グループとして活動しております。

 そこで、母親が中心だと思いますが、なるべく多くの親御さんたちが集まって子育てについて先輩から学ぶ、あるいはお互いに考えを交わすというようなことが行われておりますが、それは、グループとしての活動は盛んになっておりますが、私は、そういうグループ活動の中で、一人一人の親御さんが力をつけていくような活動をしていかなければならないんじゃないかと思うんです。地域で集まって一緒に物事をする、子育てについて考えるということは大切だと思いますが、その一人一人が我が家に帰って自分の子供と向かい合うときに、親としての学びが功を奏するかどうかということを考え、一人一人の親の力づけということが必要かと思っております。

西委員 続きまして、鹿野公述人にお願いをいたします。

 冒頭、高校の化学、情報の先生だ、こういうふうにおっしゃいまして、私も工業高専の化学の教師を二十年やっておりまして、よく似た経験をお持ちだなというふうに思って聞いておりましたが、高校の現職の先生として、今、民主党案がというさっきの小坂委員のお話がございましたけれども、現行の教育委員会の制度のもとで今教育行政が行われているんですが、先ほどちょっとほかの公述人の方から御説明もありましたが、それを知事部局に移行するという形に民主党案はなるんですが、その点についての先生のお考え、公述人のお考えをお聞きしたいと思います。

鹿野公述人 現場の私どもとしましては、どちらにあっても余り大きな違いを、問題とはしません。自分の仕事と生徒に向き合うことがしっかりできればどちらでもよろしい、そういうふうに考えます。

 ただ、今あるものを変えていくということの危険性と新たにつくっていくというときのメリットをよくお考えいただいて、お決めいただければというふうに思います。

 以上です。

西委員 先ほど、社会教育について言及をされました。学校の授業以外に大変御熱心に取り組みをされている、こういうことでございました。

 私も同じ経験をしておりまして、学校の中にいると、生徒と先生方だけの社会でずっとおるものですから、社会というものを先生方、余り経験する機会がない。そういう意味では、社会に出られて、いろいろな人に会い、そして教え教えられということだと思うんですが、そういう経験が大変必要であるという認識は、私も経験上、同感でございます。もっともっと社会に出ていっていただきたい。

 ただ、その最後のところに、やはり人的にもう少し充実しないと余裕がない、こういうお話でございました。私もそこの部分は、先ほどからも公述人の皆さんそれぞれ、やはりもう少し教育現場に余裕を持たせてあげないと、このままでは、結構学校というのは会議が多いんですよね、何かかんかと会議があったりということがあって、生徒に向かい合う余裕がないということを何人もの方が指摘をされましたけれども、これは私は共通に大きな課題だというふうに思っております。

 特にその点において、さらにつけ加えておっしゃりたいことがあれば、どうぞよろしくお願いいたします。

鹿野公述人 会議については、学校の内部問題ということはございます。これは学校の体制を正さなければいけません。

 それからあと研修、いわば強制の研修がかなりあるんですが、それについて、非常によい研修もありますが、余りここでは述べられない研修もございます。その点、ごしんしゃくいただいて、必要なものあるいは役に立つものということの厳選をさせていただければ、私どもとしまして生徒に向かい合う時間が多少ふえるのではないか。特に新任の研修におきまして、新任の先生は子供と触れ合いたいんですが、その触れ合う時間がなかなかとれないという現状が今学校にはございます。これは一つの事例です。

 以上です。

西委員 もう一つ、現職の先生としてお聞きをしたいんですが、学校の中のいじめのことです。

 高校の場合は、中学ほどではないと思うんですが、私の経験からすると、なかなかいじめというものの、もちろん先生の前でいじめる人というのは基本的にはいないわけですから、いじめそのものを発見するといいますか、これは非常に難しいことじゃないかというふうに思っております。

 日ごろの生徒との触れ合いの中で、この子はおかしいな、いじめられているなとか、この子は人生に悩んでいるなとか、こういうことがしょっちゅう起こるんじゃないかと思うんですが、この点について、今の御経験の中でどういう工夫をされているかということを教えていただきたいと思います。

鹿野公述人 まず、悩みには二種類ありまして、進路に関する悩みは、生徒はこちらに尋ねてきます。いじめに関する悩みは、こちらには尋ねてきません。

 それを、発見とおっしゃいますが、発見するというときに私はどうしますかといいますと、とにかく生徒の顔を見ます。まず、教室に入って見渡して、明るい顔をしていない子供がいないか、それから目を見る、廊下を歩いていても様子を見る、それから休み時間に教室に行って様子を見る、そういう形をしております。それでも見逃すことはあるかもしれません。でも、自分のできる範囲のことを一生懸命頑張っている、そういうつもりで日々暮らしております。

 以上です。

西委員 大変行き届いたといいますか、本当に鹿野公述人は情熱があるし、生徒が好きなんだなという気が私はいたしました。当然のこととはいいながら、そういう気持ちで全国の先生方、またさらに一段と御努力をいただきたい、このように思います。

 続きまして、広田公述人にお願いをいたします。

 先ほど貴重なグラフを見せていただきました。客観的なデータで犯罪に係ること、それから殺人、窃盗、それからそのほかの事例をずっと挙げていただきました。決して犯罪が多くなっているわけではなくて、時代的に見るとむしろ少なくなっている、これはよく理解させていただきました。年齢が下がると結構社会規範も自然と身についてくる、このこともこのグラフでは推測できます。

 しかし一方で、今新しい問題になっているのは引きこもりということではないかというふうに思うんです。これは、若いころに学校を休んで、ついつい引きこもりになっちゃって、そして時期が来たら回復するということは、必ずしもそうもいかない面があります。高齢で、三十代になっても依然として引きこもっているというような事態が続いておりまして、もちろん社会との接触がないということが大きな原因ではないかと私自身は推測しているんですが、このことについての原因、また回復がなかなかできないことについて、先生の分析をお教え願いたいと思います。

広田公述人 引きこもりは非常に重要な現代に特徴的な問題だと思っています。

 いろいろ議論はありますし、いろいろなケースがありますけれども、基本的には、やはり青少年が、もろさとか弱さとか傷つきやすさみたいなものを、すごい傷つきやすい世界の中で生きている。昔は割合鈍感で、私も若いころは鈍感だったわけで、それがだんだん、今の若い者は対人関係なんかにも非常に敏感ですので、例えばそういうことが一つ引き金になるとか、そういう昔だったら考えられないような程度のことでなったりする。

 ただ、できることというのはなかなか難しくて、例えば規範を教えて引きこもりを予防できるかというと、これは無理だと思っています。

 むしろ、考えないといけないのは、改めて何とかしようと思ったときに、出ていくときの壁が厚いというか、やはり居心地がいいところからなかなか抜けられない状況になりますから、そうすると、引きこもりの状態になった子供たちが改めて人生を考え直して歩き出そうとしたときに、そのいろいろな条件とか機会が整備されていて、それでそれなりに決断したときに歩き出せるという、それをどうつくっていくか。だから、教育の問題というよりは、青少年を取り巻く条件整備の問題だと思っています。

 以上です。

西委員 時間も近づいてまいりました。最後に、出口公述人にお願いをいたします。

 子供は、小さいときはもちろん親が頼り、それから少しずつ社会的に意識が広くなって、そして学校の先生、それから地域、例えば高校、大学へ行くともっと広い社会に飛び込んでいく。一つ一つが経験であり、ある意味では冒険かもしれません。そんな思いを私はいつも抱いているんですが、そのときに必要なことは、先ほど公述人からお話がありました、本当に抱き締めてやるぐらいの、弁護士さんとそれから問題の少年ということではなくて、一対一の人間関係の重要性を日々実践されているように私はお見受けをいたしました。

 この間の札幌での地方公聴会の折にも、教育の目的は自律の力、つまり自分の人生に希望を持つ力をはぐくむということの公述をされた方がいらっしゃいます。私も全くそうだなと。基本的には、社会にどんどん進出するにつれて自分自身の先に希望を持つということと、もう一つおっしゃっているのは、自分自身と自分の人生に対する肯定的な感情が大事なんだという話と、それから、やはり自分が要するに生きるに値する人間である、こういう感情も大事だ、こういうお話でございまして、全くそうだと思うんです。

 いざというときにやはりたどり着けるよりどころ、例えば船が港から出ていって、何かあったときにはこの港に駆け込めば大丈夫なんだという安心感、これは基本的には親だというふうに私は思っているんですが、これが必ずしもそういうふうにはなっていない家庭も存在するという今の現状でございます。

 そんな意味で、やはり基本的には家庭だというふうに私は思っておるものですから、家庭における親子関係、子供にとって本当に信頼できる親、これは別に勉強を教えるとかそういう意味ではなくて、やはり最後の最後まで子供を愛し、信頼してあげられる、そういう親というのがどうしても私は必要なんじゃないかな、そこが家庭教育ということに究極はつながっていくんじゃないかなというふうに思っておりますが、先ほど日ごろのお仕事のお話がございましたので、その点の実感を最後にお聞きして、終わりたいと思います。

出口公述人 実は、つい先日、ある非行少年の事件がありました。

 これは、広汎性発達障害と社会恐怖症という一種の精神的な障害を持っている子供のケースでした。親もやはり十分な監護能力がないということで、結局医療少年院送致になったケースなんですけれども、実は最近、私ども経験するところでは、先ほど御指摘の引きこもり等、そういう精神的に問題を抱えたケースは、小さいころというか、あるいは思春期の前後期、やはりかなりいるように見受けられます。そういう問題点について、きちっとした認識がまだ社会全体に必ずしも十分でないという状況の中で、どういう対応ができるのかというのがどうも今問われている非常に重要な部分だというふうに感じました。

 そのケースにつきましては、今申し上げました、抱き締めるとかあるいは手を握られるとか、これも相当な時間をかけてようやく面接が可能になっていったケースなんですけれども、これも、心だけでも足りないだろう、やはりその心をお互いに開いていく技術といいますか、それが必要だ。ただ、それだけでも足りませんで、いつか社会に戻ってきたときにどういう受けとめ方をするかという組織的な連携がやはり非常に重要だというふうに思われます。

 そういう意味で、私は主として子供の非行が対象なんですけれども、どうやって社会復帰といいますか、社会の構成員として一緒にやっていくことができるかという意味では、いろいろな組織あるいは人、この組織体制というものをきちっとつくっていくことがとても大事なんだということを今思っております。

 そういう意味で、先ほど申しましたけれども、私、教職員組合と一緒なということでは決してありませんで、実際にどうしたらこの子供、そこにおるその子供を、今後社会の一員として本当に一緒にやっていけるのかという、そこが出発点でありたい、これが私の基本的な考えであります。

西委員 どうもありがとうございました。

森山委員長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党の糸川正晃でございます。

 本日は、公述人の皆様におかれましては、大変お忙しい中お越しいただきまして、また、鹿野公述人、出口公述人におかれましては、一般公募ということでございまして、本当に積極的な御参加、ありがとうございます。

 まず、鹿野公述人に質問をさせていただきたいというふうに思うのですが、今回、一般公募ということでこの公述に参加されたということなんですが、今現在、学校において教職の現場にいらっしゃる。そういう方からの意見聴取というのが非常に今重要だというふうに感じております。

 そこでのお尋ねなんですけれども、今現在、このように行われている教育基本法の改正に対しての審議というものが、今現場でどのように映っていらっしゃるのか。鹿野公述人はしっかりとこの委員会を見ていらっしゃったのかもしれませんが、一般的に、教育現場にいらっしゃる方々が、この教育基本法の改正というものをマスコミなどで取り上げられて、いろいろなことで伝えられているとは思うのですけれども、それに対して注視をされているのかどうか、そして、逆にさめた目で見ていらっしゃるのか、その辺の率直な御意見をまずはお伺いしたいというふうに思います。

鹿野公述人 率直に申し上げます。

 余り問題とはされておりません。それは、日々の仕事に追われてそこまでの余裕が持てないということ。それと、こういう形の審議あるいは決定と自分の生活とが結びつかない、どういう影響を及ぼすかということが、理念的にはわかっても感情的に余り思い至らない。そういう二点のことがあろうかと思います。

 以上です。

糸川委員 ありがとうございます。

 もう一回鹿野公述人にお尋ねいたしますが、先ほどは、改正時にはこの教育基本法の精神が届くようにというふうな発言をされたかなというふうに思うのですが、現在の教育基本法というのは、この精神が先生方には届いていらっしゃらないのかどうかというところをお聞きしたいのと、もし現場の人たちにこの教育基本法のあり方というものが届いていないのであれば、どのようにしたら届くのか。

 今まさに、皆様お忙しくて御関心がないというようなことでございますけれども、それでは、本当に現場の方々に、成立した後も、この基本法がもし変わったとしても、その精神が届かないのでは何にも意味がないというふうに感じるわけで、その辺はどういうふうにしていったらよいのかという御意見を伺えますでしょうか。

鹿野公述人 非常に難しい問題ではありますが、私たちが考えていくときにはやはり時間が必要です。少しくゆとりをいただきたいということが一点。

 それから、今の話の精神がということになりますが、それは、上からあるいは中から、下から、いろいろなことはありますけれども、現場の者一人一人が持つということは、やはり志であろうと思います。この国をどうしていかれるのか、教育をどうするのか、そのための志を皆さんどう持っておられるのか、そういうことを私たちに伝えていただくこと、これが大切だろうと思います。

 以上です。

糸川委員 ありがとうございます。

 では、次は全員の方にお尋ねをさせていただきたいんですが、今この教育特の現場では、議論がまさに佳境を迎えているわけでございますが、その中で、いじめの問題ですとか未履修の問題、さまざまな問題が、教育現場の問題として今取りざたされているものが露呈されてきているというふうに思います。そこで、この対応等をめぐって、学校を指導する立場にある教育委員会がうまく機能していない、そういうふうな声も高まっておるわけでございます。

 政府案、民主案とも、教育行政についてそれぞれの特徴的な意見というものが規定をされておるわけでございまして、政府案では、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力のもと、公正かつ適正に行われなければならない、民主案では、国は、普通教育の機会を保障し、その最終的な責任を負う、地方公共団体は、国との適切な役割分担を踏まえつつ、その地域の特性に応じた施策を講ずる、地方公共団体が行う教育行政は、その長が行わなければならない、このように定められておるわけでございまして、このような規定ぶりについてそれぞれの公述人がどのようにお感じなのか、お聞かせいただけますでしょうか。

松下公述人 国で定められたものまた発案されたものが、津々浦々の機関あるいはグループに達するまでには地方のさまざまなレベルの行政を通ってくるわけでございますけれども、私は以前、ちょっと文部省の案に触れて、それに関して地方でどのように受けとめられているかというのを見た経験がございますが、国の定めたことの目標がそのとおりに伝わっていないのではないかと懸念したことがございます。

 それで、教育においては、地方地方の特色あるいは状況に応じた応用が必要だとは思いますが、一番最初に、根本的な考え方としてどういうことが目指されているのかということを県レベルあるいは市レベルの例えば教育委員会の方々がよく理解していただく、勉強していただくことが必要で、それを理解した上で、我が県ではというふうにその県における施策を考えていただくという、この一番最初の基本の理解ということが大事ではないかと感じたことがございます。

 以上です。

鹿野公述人 私どものもとに物がやってくるときは、決定としておりてきます。私どもの意見が入れられることはまずありません。

 この場では私の意見を聞いていただくという公聴会という形、もちろん五人の意見もそうなんですが、こういう形を地方の、あるいは県、市、要は現場の意見を委員会なり行政なりの方々と話し合って、国がこうしていくということについて、この地域はどうするかということを考える場を持っていただければ、もう少し現場の方も積極的にかかわっていくという形がとれるのではないか。要は、一緒に考えてつくっていきましょうという体制が全体に必要ではないかというふうに思います。

 以上です。

西原公述人 御質問ありがとうございます。

 まず、先ほど具体的な件として挙げられました未履修問題、それからいじめ、そしていじめ自殺などの問題、これはやはり現在の教育行政の一つのゆがみをあらわすものなのかなというふうにも見受けられるわけです。

 特に一九九〇年代以降の中で、例えば数値目標化、そして数値目標の達成を目指した教育の効率化という動きが進んでまいりましたが、現行教育基本法のもとでのものではありますけれども、恐らく政府案が目指している将来と重なってくる部分があるだろう。ただ、まさに数値目標化、あるいは計画化という部分が現場にはひずみをもたらしていて、結局は、例えば子供たちに向かい合えない先生たちをつくっている、あるいは子供たちを逃げ場のないところに追い込んでいるという現実があるようにも拝見できます。

 御質問の、それを取り巻く教育行政としてどう考えたらよいかという点なんですけれども、私はやはり二点考えるべき部分があると思います。

 一点は、まず教育の専門性をどう確保するのかということでして、これは民主党も、知事部局、首長部局に置くからすべての問題が解決するということではなくて、そこで民主的な、住民の声を反映する部分と、それから専門性に基づいてきちんと教育のあるべき姿を追求する部分ということの仕分けをしていかなければならないだろうということなのだと思います。

 教育委員会制度というのは、どちらかというと教育の専門性の部分に重きを置いた形ではあるわけですけれども、ただ、それが、ややもするとやはり上からの決定になってしまいがち。例えば、現行教育基本法のもとでは、もともと公選制で住民から選ばれる教育委員会、つまり専門性を持ち、かつ選挙民の意思に支えられた教育委員会を組織するというやり方をしていた時期もあるわけでして、時代に合わなかった側面等々があって廃止のやむなきにはなりましたけれども、もう一度例えばここのメリット、デメリットも含めて検討し直すというようなことが必要なのではないかと思います。

 もう一点、要するに、教育を専門家の枠の中に閉じ込めずに、開かれたコミュニケーションとしてつくり上げていく、その中で、親は、子供は、教師は、そして行政はどういう見解を述べるかということを、きちんと論じられる場を設定することが何よりも大切ということでは、鹿野公述人の意見に基本的には同意いたしております。

 以上です。

広田公述人 三つぐらいのことを簡単に言いますが、教育委員会がうまく機能していないというふうにおっしゃいまして、その場合に、教育委員会をリストラする、やめてしまうという道もあるし、教育委員会をよくするという道もあるので、つまり、いじめや未履修問題といった問題が一義的にこれからの方向を決めるわけではない。だから、どういう方向かはいろいろあり得ると思います。それが一つ目ですね。

 それから二つ目に、そのときに、国が目標を定めて全体に及ぼしていくことは重要だとは思うんですが、教育のダイナミクスというか、教育現場での実際の活動を考えたときには、やはり内容や方法のレベルで一律に国全体が画一化してしまうことは結構行き過ぎの問題がありますから、そういう意味では、条件整備をやる部分と内容や方法の部分は切り分けないといけない。そういう意味では、私は、この部分に関しては、現行法の第十条がシステムとしてはよろしいのではないかというふうに思います。

 それから三番目に、そういう中で特にこれからのことを考えたときに、行政との関係、一般行政との関係をどうするかというときに、政治と教育をどこで切り分けるかということ、効率性だけに目を奪われていると見えなくなってしまいますけれども、政治と教育を切り分けて、それで教育の部分のあり方の専門性をどう高めるかということを方向として考えていく必要があるんじゃないかというふうに思っています。

 以上です。

出口公述人 この役割分担をするという規定につきましては、具体的にどういう分担をするのかということが、これは法律案の条文だけでははっきり見えないように思います。

 この点、基本的な方向性として国の権限を強めていくのか、あるいは地方分権化をするということにするのかという、そこの基本理念、これはどこから導き出したらいいのかという問題が一つあろうかと思います。

 私は、現行の教育基本法の理念、あるいは、地方によって教育をめぐるさまざまな事情が随分異なる、そういう状況の中では、基本的には地方分権、ただし、この教育をめぐる財政の問題、これはやはり国が最終的な責任を持つべきということで、やはり現行の十条をベースに考え、かつ地方分権という方向で考えるのがいいのではないかというふうに思っておりまして、現在の仕組みそのものはそれでよろしいのではないか。

 問題は、うまく機能していないという御指摘でありまして、これは、例えば未履修の問題につきましては、学習指導要領の拘束力の問題が一つございますね。それから、文科省の方でゆとり教育をおとりになった、これとの絡みで今回のような問題が起きたのではないかということが取りざたをされております。

 もう一つ、私の感想的なことについて言えば、勝ち組に対するげたをはかす、実際には九割の子供たちは今回の未履修とは関係がないわけですね。そういう子供たちの目から見て、今般の、本来揺るがすべきでないルール、これを文科省の当局が揺るがすようになった。これは、やはり教育のあり方、あるいは子供たちに対する影響としても極めて甚大なものがあったのではないかという感じが私はいたします。

 これは、救済云々ということに、すぐそういう議論になったわけですけれども、今回の原因がどこから由来しているのかということを根本的に考える、非常に貴重なといいますか、これはやはりよい問題ではないかというふうに思っておりまして、むしろ、私は、この委員会で十分な議論をいただいて、現在の教育基本法との関係を十分検討いただければ大変ありがたい、こういうふうに思っております。

糸川委員 時間が参りましたので終わりますが、本当にきょうは現場の声も聞くことができまして、一緒に考えて一緒につくっていくんだと鹿野公述人がおっしゃられた、そして西原公述人もそれに同意されている、またそういうことをしっかりと踏まえた上で今後も議論をしていきたいというふうに思います。

 終わります。ありがとうございました。

森山委員長 次に、牧義夫君。

牧委員 公述人の皆様、おはようございます。

 きょうは、お忙しい中、こちらまでお運びをいただきまして、貴重な御意見をまずお聞かせいただいたことに感謝を申し上げたいと思います。

 皆様方のこの貴重な意見をもとに、それをしっかりと踏まえて、これからの国会の審議を私たちもしっかりしていきたいなと改めて決意を固めたところでございますけれども、十分な審議時間がこれから先いただけるかどうかは、また与党の皆様方の御判断もありますので、それがかなわないときはぜひ御理解をいただいて、御容赦をいただきたいと思うわけでございます。私どもは、皆様方の貴重な意見を踏まえて、しっかり議論をこれからもしていきたいという立場でございますので、どうかよろしくお願いをいたしたいと思います。

 そこで、限られた時間ではございますけれども、やはり基本法でございますから、審議の過程というものもやはり大変重要なものであろうと私どもは思っております。私も、この法案の改正に当たって、最初の委員会が始まる前に、二十二年の帝国議会の議事録なんかも読ませていただいて、当時の人たちの息遣いまで感じられるような、そんな議論を目の当たりにしたわけで、やはりこういったものというのは、ともかくこの審議、内容は、その審議の過程も含めて、三十年先、五十年先の後世の人たちの批判に耐え得る、そういった審議過程を経て成立すべきものと私は思うわけで、その辺のところから、まず皆様方の御意見をお聞かせいただきたいと思うわけであります。

 教育改革国民会議から、国政の場では、そろそろ教育を基本から見直さなきゃいけないんじゃないかという問題提起から始まって、もう五年以上が経過をいたしておりますけれども、その後、中教審の答申を経て、与党内で三年間の議論があったと聞いております。この国会に提出をされたのはことしの五月、連休明けてからでございまして、御承知のように六月十八日には通常国会が幕を閉じたわけで、長い夏休みを経て、この臨時国会における審議の再開というのは、振り返ってみれば、まだ先々週始まったばかりでございます。これでもってもう出口がすぐ先に来ているというのは、私どもは拙速であると言わざるを得ないと思います。

 地方公聴会において私も同様な質問をさせていただいたところ、やや政府側の立場に立つ方から、これは国会の皆さんが判断することですという御回答もあったんですけれども、そうじゃなくて、やはり我々国会の立場にある者が広く有識者の皆さんから御意見をお聞かせいただくためにこういう会を開かせていただいているわけですから、どうか忌憚のない御意見をお聞かせいただきたいと思います。

 それぞれお願いします。

松下公述人 これまで教育の問題について、子供たちの犯罪の問題とかいろいろ困った状況が起こりましたときに、例えば臨時教育審議会とか、教育の問題ではあるけれども、いろいろな分野の方々からそれぞれの御意見を聞かなければいけないといって、臨時教育審議会あるいは教育国民会議などが開かれて、その時々の課題についての見通し、それから改定案のようなものは出されてきたというふうに思っています。そして、その考え方がその後の施策の作成に影響を与えてきたと思うのでございます。ただ、これまでのところ、起こってきた個々の問題に対して、対症療法と申しますか、こう薬を張って治すというような感じがなきにしもあらずに感じております。

 そこで、今教育基本法を考えるということは、この半世紀以上基本としてきましたものをここで振り返るということは大変重要なことだと思っております。

 ただ、社会の変化が激しい時代に、ずうっと長く論議をし続けているということは、あすのことがきょうになってしまい、きょうのことがきのうになってしまうということもあります。ですので、そのことを見通しながら、国会の中でぜひ皆様方が、私、さっき近未来という言葉を使ったんですけれども、私たちに与えられている時間はそんなに多くないのではないかと思いましたので、近未来を見据えての御論議をぜひお願いしたいと思います。

 今回、タウンミーティング、いろいろ問題が起きましたけれども、タウンミーティングを方々でお持ちいただいたことは、私どもを巻き込んでいただく大変よい方法だったというふうに思っております。

 以上でございます。

鹿野公述人 現在の状況をよく思っている教師は多分余りいないと思います。それは、国民の皆さんも、それから議員の皆さんも同じだろう、何らかの対策が必要であると。それは今までのものを直すのか、新しくするのか。私としましては、基本であるこの法律を変えることによって教育行政全体が見直されるということに期待しております。

 私ども、教育しておりますと、目の前に子供がいますので、その問題は今の問題で、あすの問題ではありません。リアルタイムで起こっています。現場で私たちが求めていますものは、審議ではなく、行動であり結果なんです。

 以上です。

西原公述人 国会として歴史の検証に耐え得る審議過程が必要であるという御見解、非常に敬服いたします。そのとおりだと思います。

 そして、その観点から、この教育基本法改正をめぐる国会での審議を拝見したところの感想を申し上げますと、まず、そもそもなぜ改正なのかという、その理由すら十分に示されてきているとは思えないというのが現状だと思います。

 つまり、もちろん日々問題は起こります。問題には原因があり、原因の結果としての問題があるわけですけれども、その分析がきちんと行われているだろうか。例えば子供が危ない子供たちになってきたというようなイメージ先行で議論がなされるとすれば、それは決して歴史の検証に耐えるものではないというふうに申し上げざるを得ないような気がするわけです。

 そうすると、具体的に問題が起こっているその原因が何なのか、そして、その原因を生んできた構造のどこに教育基本法がかかわるのか、そして、教育基本法のどこをどう改めれば問題が解決に向けて一歩進むのかという点をきちんと認識しないと、これは非常に危ないことになりはしないかというところがございます。

 教育基本法は非常に重要な法律ですので、これを誤って変えてしまったときの効果はまた取り返しがつかないということになるでしょう。相手は子供ですから、あ、ごめん、あなた方間違えて育てちゃいましたというようなことが許される世界ではないわけですね。そうした場合に、まず原因を特定するときに、本当に教育基本法のどこに問題があったのかということをもうちょっときちんと見出していかなければならない。そして、その中で、教育基本法、運用されてきた部分、運用に問題があった部分と、それから法律そのものに問題があった部分をきちんと整理し、仕分けていかなければならないというふうに思っております。

 そうやって考えていきますと、多くの問題はその運用自身に起因する問題である。それが何より証拠には、やはり、例えばここ数年間に限定して、あるいはここ十年ぐらいのスパンで起こってきた問題があるとするならば、それは恐らく教育基本法のせいではなくて、その十年に固有の教育基本法運用の問題であるというふうに考えられるわけですね。

 臨時教育審議会が終わった後、ゆっくりと、しかし確実に、文部科学省は教育の階層化に向けて一歩一歩歩を進めているように私には見受けられます。そして、みんなが同じ共通の機会を保障されて、みんなが同じようにその社会に参加していくという教育の機会均等という理念は、ここ十年においてがたがたと崩れ去っていったというのが教育行政の現実のように見受けられるわけですけれども、そこに起因している問題がどこからどこの範囲なのかということについてのきちんとした分析がないということについて、私は非常に隔靴掻痒の感を持っております。

 そうやって考えていった場合に、もちろん、現行の教育基本法にも完璧でない部分はあるかもしれない。それは、例えば親の発言権、それから教師の発言権というものを制度的にきちんと拾い上げていく枠組みというものは、基本法の中には十分できてこなかったかもしれないという部分がありますので、よりよき基本法を目指して議論を続けていくということは非常に重要な部分があるんです。

 しかし、それは着実な事実認識を踏まえたものでなければ意味がないし、そして、現今行われておりますこの政府案に関する審議の中では、やはり、問題に対してどこの部分に切り込むのか、そして、特に教育の階層化の問題に対してどう対処するのか、そこに対する処方せんなしに、まさに教育行政の問題として、あるいは教育に関する権限配分の問題としてだけ問題を見ると、非常に道を誤ってしまう危険があるのではないかというふうに私は認識しております。

 どうもありがとうございました。

広田公述人 教育問題のレベル、いじめとか、そういう教育問題のレベルと、それから教育の枠組みにかかわるレベルというのは、やはり考え方を変えないといけない。教育問題の目の前に迫っているものは速やかに大胆に手を打つことが必要ですが、教育の枠組みというのは、少しじっくりと時間をかけてやる必要があると思います。

 というのも、教育というのは影響をどれぐらい及ぼすことになるかというと、人の一生にかかわるわけですね。今十歳の子供が八十歳まで生きるとすると、二〇七六年ぐらいになるんですね。今回もし教育基本法が変わって、二十年ぐらい先に受ける子供たちは二一〇〇年になってもまだ生きているかもしれない。そうすると、随分長い先に向けて、我々は教育の枠組みを考えて今議論をしていることになるわけですね。そういう慎重さを持たないといけない。

 先ほど小坂先生からの質問で、政府案と民主党案が両案よく似ていると思われてきたみたいなことを言われて、実に意外だったわけですが、つまり、これだけ違う両案の違いが十分これまで議論されてきたのかと。少なくとも、世間はそんなにわからないような状況で決定されてしまうのはやはり困る。やはり審議をさらに尽くして、十分違いを明らかにした上で、審議して、意思決定をしていただければというふうに願ってやみません。

出口公述人 本法案が姿をあらわしたのが四月あるいは五月の初めだ、こういう御指摘で、それは国民的に見ればそのとおりだと思うんですよね。今回の基本法、これは申すまでもなく国家百年の計で、現在だけではなくて、やはり未来を担う子供たち、あるいは国民の全体にかかわる問題でありまして、やはりこの点については十分な時間をかけて検討する必要があるのではないか。

 この間の審議経過を見てまいりますと、個々の条文であるとか、あるいは文言の解釈等についてのさまざまな議論はございましたけれども、今ほども出ておりますように、本当に今回の改正が今の教育の状況に対する処方せんになるのかどうか。これは言葉をかえて申しますと、立法事実があるのかどうか、そういうことについての十分な議論がまだ行われていないのではないかというふうに私どもとしては懸念をしております。

 そういう意味で、本公聴会がこの教育基本法案の出口であってほしくはない、私、こうやって立っておりますけれども。本当に、もう少しじっくり議論をしていただきたい。最近の世論調査の中でも、やはり、賛成、反対を問わず、じっくり議論をすべきである、こういう意見が多いというふうに思っております。ぜひそういうふうにお願いしたいと思います。

牧委員 それぞれ貴重な御意見ありがとうございます。

 おおむね、私も、五人の皆さんそれぞれのおっしゃること、すべて正しいと思うわけで、時間的なスパンですとか、そのとらえ方の問題もあろうかと思います。私の質問の仕方も悪かったのかもしれませんけれども、ここへ来て拙速に決めるということがいかがなものかということを私は申し上げたかったわけで、基本的な問題と、それから今教育現場で起こっている具体的な問題に対する解決策、これは、広田先生おっしゃるように、私もしっかり切り離して考えるべきだと思っております。

 言いわけではございませんけれども、この国会には文部科学委員会という委員会が、立派な常設のものがございますから、こちらでじっくり、緊急に審議をすべき問題というのが御承知のように山積をしているわけですけれども、残念ながら、広田先生おっしゃるように、気短な大人が多くなったせいかこの法案の出口を余りに拙速に模索する余り、そちらを開かないでとにかくこっちに専念ということなものですから、やむを得ずこの委員会でそういった問題も扱ってきたという経緯があったことも、ぜひ松下公述人にも御理解をいただきたいと思います。

 基本的なことと個別的なことは分けるべきだと先ほどのお話にもありましたけれども、その辺御理解をいただいて、そしてもう一つ、今日的な問題の中でこの教育基本法の議論とも絡む問題があったからこそここで議論してきたという事実も一方ではあったということ、これも御理解いただけると思います。

 例えば、いじめの問題にせよ、あるいは未履修の問題にせよ、教育委員会と学校との関係は一体どうなのか、責任分担は一体どうなっているのか、あるいは学校と家庭との関係はどうなのか、国と地方との責任分担はどうなのかということが改めてこういった問題を通じてクローズアップされてきたわけですから、語弊があるかもしれませんけれども、この教育基本法を議論する中でちょうどいい材料が与えられたと言っても片一方では間違いではないのかなと思います。

 そんな中で、ちょっと御意見をいただきたいんですけれども、私どもの教育基本法においては、まさにそこら辺の責任の所在についてもう少しクリアにすべきじゃないかという観点から、教育委員会の見直し等を盛り込んでいるわけであります。

 現在の、例えば国と都道府県の関係、それから学校設置者である市町村との関係、これも、人事権と学校設置権、学校を運営する立場、この辺の最終的な責任の所在もわかりませんし、私ども民主党は、国がナショナルミニマム、ナショナルスタンダードの部分については最終責任を負うという一方で、地方に権限を移譲して、むしろ学校の現場に近いところで民主的に運営をしていただく、そういうスタイルを私どもは明確に打ち出していると思っておりますけれども、その辺についての御意見を西原先生と広田先生からお伺いしたいと思います。

西原公述人 責任の所在が不明確である、現行法体制の一つの問題かもしれないというのは多分御指摘のとおりだと思います。

 特に、専門性ということが教育で重視されなければならない、それ自身は間違っていないんですけれども、その専門性の陰に隠れて結局どこに具体的な決定権限があるのかということが十分見えてこなかったという部分もございます。

 例えば、一九九七年でしたか、中央教育審議会が地方分権にかかわって答申を出したときには、そこには誤解がある、現在の実務には誤解がある、すなわち、指揮命令権限が、本来であれば県教育委員会から市町村教育委員会において、ないはずの部分について、あたかも指導が指揮命令権限を前提にしたかのように行われている、これは誤解であるから直すべきだという指摘もされておりました。そういう意味では、非常に不明確な時代が続いてきたということは確認できると思います。これは、教育基本法のせいなのか、それとも単なる運用の問題で運用を直せばいいのかというと、私は後者かもしれないと思っていますが、ただ、教育の専門性を重視したときに、そういう方向に流れがちというのは一点あると思います。

 民主党の案におきましては、そういうところの懸念を払拭すべく、教育における民主性という部分を非常に強く打ち出していった。これには、方向性において私は非常に強く同意できる部分がございます。

 ただ、もちろん教育というのは多数決で決めてしまってはいけない。例えば、前の政権では、とある虐殺事件があることになっていたんだけれども、政権交代があったらその虐殺事件が教育の中ではないことになってしまったなどということはあってはならないことですので、そうすると、やはり教育における専門性と民主性の兼ね合いのつけ方というのは非常に難しい問題があるというふうに考えておりますし、首長部局に権限を置いたときに、それがどこまでの範囲で、教育内容に関してどこまでの決定権限を持つのかということについては、民主党案を踏まえた上での、もっと詰めの議論というのが恐らく必要になってくるだろう。

 もちろん、これはすべてを教育基本法に盛り込むわけにはいきませんので、方向性としての民主的なものを大事にする。ただ、そこで、おっしゃったように、やはりなるべく学校に近いところに決定権限を置くというのは、一つはそういった多面的な観念が入り込むために必要でしょうし、また、同時にそれを具体的に専門性とどう兼ね合いをつけていくのかというのは、今後の議論としてやはり重要な部分になっていくものと理解しております。

広田公述人 責任の所在が最終的にはっきりするシステムがいいのか、責任がいわば多元的に分散されているシステムがいいのかというのは、これははっきりとはわからない、どちらがいいかわからないと思います。つまり、責任の発生というのは同時に権限の発生でもあるわけで、その権限がいわば一元化されたシステムを望むのか、それとも多元的に分散されたシステムを望むのかという最終的な部分ですね、というふうなことになる。

 一つだけ言えるのは、民主党の案で考えられているような仕組みと政府案の仕組みとが、考えられている仕組みが随分違うような気がするので、そこはさらにきちんと審議をして、どういうシステムが望ましいのかをもっと詰めていっていただければと思います。

牧委員 ありがとうございます。きちっと審議をさせていただきたいと思います。

 私ども民主党案の、地方の長がその責任を負うという部分について、与党の質疑者の質問の中で大臣の答弁にもありましたけれども、これは、例えばエキセントリックな首長が誕生したときに教育はどうなるんだというような御指摘もあったわけですね。ただ、私ども逆に申し上げたいのは、では、例えば国の長がエキセントリックな人になったらこれはどうするんだということなわけですから、これは全く意味のない議論だと思います。エキセントリックというのはちょっと言い過ぎかもしれませんけれども。

 例えば、私ども、ここ数年来、小泉政権が誕生した後、義務教育費国庫負担の制度の問題について随分、多年にわたって議論をしてきました。どんどんその義務的経費が地方に押しつけられていく、ついには、この制度の根幹そのものがもう既に崩れてしまったと言っても過言ではないと思うわけです。

 そういう中で、私どもは教育というものを、この前文の中でも「国政の中心に教育を据え、」ということをはっきりうたい、そして、先ほど公述人のお話の中にもございましたけれども、これは財政的にもしっかり担保するんだということを教育の振興に関する計画という条文を設けてはっきりとうたっているわけで、政府案にはそういった裏づけがないわけでございます。そこら辺のところを、松下公述人と鹿野公述人にちょっとお聞かせいただきたいと思います。

 鹿野先生も生徒とできるだけ向き合う時間が欲しいんだというお話でございましたが、全く私もそのとおりだと思いますし、そういった要請にきちっとこたえていけるだけの財政的な裏づけというものが、やはり教育には欠かせないと思います。

 そういった観点から、ぜひ私どもの民主党案、ごらんになっていただければおわかりになると思います、そこら辺の御意見、感想を御両人からお聞かせいただきたいと思います。

松下公述人 特に義務教育の問題などに関係いたしましては、国の責任で教育行政を行っていく上では、財政的な保障がなければならないというふうに思っております。

 そして、前に義務教育費に関する論議がありましたときにも、国ですべて負担をすべきであるというふうなことで、中教審でもそういう議論が多かったわけでございますけれども、そのことですべてを縛るということ、お金が考え方を縛るというふうなことでなく、各市町村の特色ある教育がその地方なりに行われていくということを含めた、幅広い考え方での決まりをつくっていただくことが大事かというふうに思っております。

鹿野公述人 財政的保障は必ず必要です。そのための何か政策は必要です。

 民主党案では、国民総生産等の話が出てまいります。他国と比べて何%ということは、比較の対象としてはあるかもしれません。法案の方には何%というのはございませんが、解説の方には他国の比較が出ております。これは、比べて何%ではなくて、我が国はどうするのか、それから、その地方はどうするのか、そういうことを考えていく中で決まっていく。そのときに、もちろん今よりふえるものだと私は信じております。

 以上です。

牧委員 ありがとうございました。

 義務教育の機会均等それから無償、これをきちっと担保するための、これは憲法がそれを保障していると言われればそれまでですけれども、やはり教育の観点からそこら辺をきちっと私どもは押さえておかなければいけないなという意識を持ったのは、やはり小泉政権下、経済財政諮問会議の意のままに、この国の教育の根幹が揺らいできた、これは地方の首長のことを心配するよりも、この国の長のことを心配しなきゃいけないと思わざるを得ないような状況があったものですから、それも踏まえて、私どもはきちっとここにそれを盛り込んだというつもりでおります。

 最後に、同じ質問ですけれども、西原先生の御感想をお願いします。

西原公述人 もちろん、教育については権限の適切なバランスが必要なわけですけれども、そこでやはり一番関心を持っているのは子供本人、そして親というところが出発点だと思うわけですから、そうすると、親とそれから中央官庁との距離、子供と中央官庁との距離ということを考えると、国にすべての権限を集中するというのは、権限配分論としてはやはり無理だろうというふうに思います。

 そうすると、もちろん、ある程度ナショナルミニマムの保障、そしてそこに対する財政上の保障という部分について国が果たすべき役割は大きいし、多分これまで以上に大きくなければいけないというのが私の個人的な見解ではありますけれども、それと内容に関する権限を分けていく、そして、その中で国民の声そして地域住民の声、子供の声が反映できるようなシステムをつくるということが大事だということについては、民主党の方向性に強い支持を感じております。

牧委員 ありがとうございました。

 質問を終わらせていただきます。

森山委員長 次に、穀田恵二君。

穀田委員 日本共産党の穀田恵二です。

 公述人の皆さん、貴重な御意見を本当にありがとうございました。

 公聴会は、国民の声を真摯にお聞きし、国会審議に反映すべきものです。ところが、与党は、公聴会開催前日である昨日、きょうの採決を主張しました。この態度は公聴会を冒涜するものだと一言述べておきたいと思います。

 最初に、出口公述人にお聞きします。

 今、早急に解決を図らなきゃならない教育問題は山積みです。その中で、いじめ問題などの対応を見ても、教育が、教育委員会や文部科学省の方ばかり、つまり上ばかり見て、子供を見ないという弊害が如実にあらわれていると感じざるを得ません。現行教育基本法十条の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」との条文の意味をかみしめて、生かすべきときだと私は考えます。

 ところが、政府案は、国家が歯どめのない形で教育内容に介入できる仕組みをつくっている。事実、答弁でも、この法律の定めるところにより行われる教育委員会等の命令や指導などが不当な支配でないことが明確になった、このように述べています。ここが私は政府案の非常に大きな問題点の一つだと考えていますが、御意見をお聞かせください。

出口公述人 不当な支配の問題につきましては、冒頭、私の方で日弁連の意見書に基づいて意見を申し上げたとおりでございます。

 実際に、いじめの問題につきまして、私ども実務的にかかわりを持っていきますと、今御指摘の教育委員会とそれから現場の教師との関係、これがどういうふうな状況になっているのかということが如実に見えてまいります。実際に、やはり現場は非常に苦しんでいるわけですね。

 実際、いじめをどうやってなくすのかということについては、教師集団がやはり学校の中で一致した方針を持っていないといけないんですけれども、なかなかそういうふうな体制を組む時間的な余裕もなければ、あるいは相互の教師間の信頼関係もなかなか十分でない、そういう中でいじめとかあるいは暴力行為が発生しているというのが現場の状況だろうと思うんですね。

 本来は、そういう問題に対して教育行政として、やはり十分な、人的な配置を含めて、あるいは体制ももう少し考えた方がいいんじゃないかというふうに思っております。私も実際、京都の中で教育委員会の方には、例えば弁護士とか精神科医とか臨床心理士などを含めたサーキットチームをつくって個別的な問題に臨機応変に対応していく、そういうことだって考えていいのではないかというふうなことを申し上げたことがありますけれども、やはり、そういう点では現場に対する理解が必ずしも十分でない、そういううらみがあったという経験を一言申し上げておきたいと思います。

穀田委員 ありがとうございます。

 次に、西原公述人にお聞きします。

 政府の改定案は、基本法に新たに第二条をつくり、我が国と郷土を愛する、中略ですが、態度を養うなど二十に及ぶ徳目を列挙し、その目標達成を義務づけています。これは内心の自由を侵害する大きな問題をはらんでいると私は考えます。

 最近、東京地裁は、先ほども議論になりましたけれども、東京都の日の丸・君が代押しつけに対し、憲法第十九条と教育基本法第十条に反するとの判決を出しましたが、この点についての御意見をお聞かせください。

西原公述人 海外の例を見ますと、教育目標を法律で決めること自身は決して珍しいことではないというのがまず一つです。ですから、その場合に、本質的なのは、教育目標の設定とその教育目標の実現の仕方がどこまで法律によって縛られるのか。逆に言うと、教育目標の実現に向けたコミュニケーションがどこまで開かれたコミュニケーションとして実現していくのかというところが決定的に重要なんだろうと思います。

 ですから、政府案にかかわる問題点で私が最も大きいと思うものは、やはりそこのコミュニケーションが非常に上からの硬直的な流れになってしまいやすい。つまり、やはり中央官庁レベルで決められたものがそのままの指令という形で現場に直接おりていく。そのことによって、もちろん、現場の先生方の創意工夫の余地というのは極小化していってしまうだろうし、一人一人違った子供たちの個性に対応していくような現場のあり方というのは、基本的には否定されていくことになってしまいはしないかというところに非常に大きな問題があるわけです。

 御指摘のとおり、もちろん、こういう考え方を、あなたの正しい考え方として唯一これしかないんだから受け入れなさい、そういう形で学校の活動が行われるとするならば、私の定義ではこれは教育とは呼べない、子供の調教と呼ぶべき事柄であって、もとより基本的人権の主体、あるいは主体になり得る存在としての子供というものの人格を尊重したものとは考えられない。あらゆる意味において基本的人権の侵害に当たるということは、まず出発点として確認すべき点だと思います。

 そういう意味におきましては、やはり政府案、まだまだきちんと審議し、問題点をきちんと浮かび上がらせていくことが必要なのではないかというふうに考えております。

穀田委員 もう一点、西原さんにお聞きしたいと思います。

 日本の教育は、国連子どもの権利委員会から、過度の競争教育だと批判を受けています。政府改定案に盛り込まれた教育振興基本計画などを通して競争教育が一層促進される懸念を私は抱いていますけれども、この点での御意見を伺いたいと思います。

西原公述人 競争の問題は非常に難しいと思うんですけれども、仮に教育に計画という考え方を持ち込んだからといって、即競争が激化するかというと、それはもちろん計画のつくり方ということになりますので、その必然性は必ずしもない。ただ、特定の条件の中ではそういう方向性を持ってしまうということです。

 その特定の条件としてやはり、現在の教育をめぐる環境の一つの条件としては、まずお金を余りかけたくないというところが出発点になって議論が組み立てられている。私は、やはり子供に投資することが最大の有効な投資というふうに考えていますので、まずその前提を、なぜそうなるのかなということに強く疑いを持っているわけです。

 二点目として、その場合に、効率性を追求するに当たって、その効率性は、すべての子供たちに均等に教育の機会を与えるという方向性の法律修正に必ずしもなっていないような危惧があるというところがわからないところの第二点目です。

 もとより、全員に同じ教育を与えることがいいことなのかというと、多分そうではない。やはり、子供にそれぞれ個性があるように、個性に応じた能力の伸長、これは中教審の言葉ですけれども、それを目指すべき場合というのはもちろんございます。ただそれは、後に社会に巣立っていくに当たって、やはり同じ条件で社会の競争に参加するということが確保された上での話ですので、その前提を欠いてしまうと非常に問題だろうというふうに思います。

 競争を激化するという意味では、現在の政策の先にあるのは必ずしも競争の激化とは言えないかもしれない。ごく一部のエリート集団において、自分たちが生き残るために競争を強いられる、それ以外のグループについては早目にドロップアウトをさせられてしまうという現象が、もしかすると今の政策の先にあるかもしれない。そういう意味でいうと、そこでの問題というのは、競争の激化よりも、まさに子供たちの発達機会に対する支援が途中できちんと行われない状況ができ上がってしまう、そのことが最大の問題なのではないかと思っております。

穀田委員 次に、広田公述人にお聞きします。

 安倍総理の教育再生プランや、近ごろ、今お話しになりましたけれども、競争と効率の名で、学校選択制や、学力テストの実施と公表によるランクづけ、そのランクに基づく教育予算の配分、いわゆる教育バウチャー制などが議論になっています。その一部は東京の足立区、品川区などで実施に移されているわけですが、そういう方向についてどういうふうにごらんになりますか。

広田公述人 日本はかなり、高度成長を経て非常に効率的な教育のシステムをつくってきたと思っているんですね。ところが、いわば今までのシステムのいい部分というのを忘れて、とりあえずアメリカやイギリスのモデルから学ぼうという形で、かなり、プラスとマイナスがきちんと計算されないままに改革が進んでいる部分があるような気がします。

 今、教育再生会議なんかで動いているのは、いわば教員のしりをたたいてシステムを活性化させよう、それから子供たちや学校単位でしりをたたいて競争させようという、みんな追い詰められると頑張りますから、短期的には質は少し上がるかもしれませんが、長期的には随分しんどいシステムになってしまうような気がする。そういう意味では、私は余り得策ではないと思っています。

 ただ、教育基本法の改正問題と絡めて言うと、お金をかけずに教育の理念を変えて教育をよくしよう、それから、お金をかけずに競争の仕組みでよくしようというのではなくて、きちんとお金をかければ教育がよくなる可能性はあるわけですから、違う方向で、とりあえず目の前の教育をよくする方向を含めてお考えになるべきではないかというふうに私は思います。

穀田委員 では、もう一点だけ、広田さんにお聞きします。

 東京大学が行った一万人校長アンケート調査で、子供の間の学力の格差が広がると答えているのは、中学校で八九・九%、小学校でいうと八七・三%の結果が出ています。OECDの対日経済報告書では、格差の拡大は所得の低い世帯の子供たちの教育水準低下などを招くおそれがあると懸念を表明しています。

 格差社会と教育基本法の第三条が示す教育の機会均等、また今度の政府の改正案の問題について、教育機会均等の文言は同じように書いていますけれども、若干中身は違うわけですが、その点についての見解をお聞きしたいと思います。

広田公述人 教育の問題なのか経済システムの問題なのかというところもありまして、経済システムを変えようとして、それに合わせて教育システムを変えていくという部分がありますので、そうすると、社会そのものの組み立てにもかかわると思うんですけれども、少なくとも教育の場面で出てくるのは、学力の格差とか進学機会の格差という問題は非常に重要な点だと思います。

 学力に関して言うと、一九五六年の調査と七〇年代半ばの調査とあって、戦後の間に達成したものは何かというと、学力の平均値が上がって分散が小さくなった、それが日本の教育システムのこれまで達成してきた部分ですね。

 ところが、今、八〇年代ぐらいから子供たちの勉強離れが進んでいく中で、競争に乗れる子供たちと乗れない子供たちと、そういうのが出てくると、恐らく決定的に、いわば分断された状況というのが危惧されてしまう。そこはやはり、機会均等の理念はきちんと生かして、社会のいわば標準的なところで、みんなができるだけ大きなリスクを背負わないで教育経験を終えられるような、そういうふうな教育システム、社会にはなってほしいと思いますね。

 そういう意味では、教育機会の均等の理念はぜひ実効性のある形で、具体的な方向でやっていただければと思います。

穀田委員 では、松下公述人と鹿野公述人にお聞きします。

 国民の声を聞くという点では、先ほどタウンミーティングのお話がありました。国会では、このタウンミーティングでのやらせの問題が非常に大きな問題になっています。八回以上のうち五つまでが明らかになっている。残りはわからないだけでそういうこともやっているだろうという話もあり、教育委員会の方々が意見も言う、席まで指定している、こういうことが明らかになっています。

 いじめの問題や自殺の問題の議論をするたびに、政府は規範意識を説きます。こんなことをやっていて、政府に規範意識を説く資格があるのか、法案提出の資格があるのかと私は問われていると考えます。この点でのお考えを聞きたいと思います。

松下公述人 先ほど私は、タウンミーティングという方法を取り入れていただいたのはよい取り組みであるというようなことを申しましたけれども、そのタウンミーティングというのが大きな規模で行われているというふうに思うんですね。

 私どもが、先ほど鹿野公述人がおっしゃいましたように、現場で子供たちを相手に、青少年を相手に活動しているときに、常に教育基本法のニュースを聞いてそれについて語り合っているかというと、決してそういうことはないんです。現実の問題に取り組むのにもう精いっぱいという感じがあります。

 そして、タウンミーティングという大きな公会堂とか何かで行われるところに出ていくには勇気が要りますし、また非常に勉強して考え方を取りまとめて行かなければならない。もう少し、こういったような論議が小さいレベル、職場とか学校とか小さなコミュニティーでたくさん行われて、そこからの吸い上げが集まっていくというふうにしないと、今のようなタウンミーティングの形では、なかなか国民の意見を吸い上げたというふうにはならないのではないかという、大変個人的な印象を持っております。

 以上です。

鹿野公述人 国民の意見をということであれば、何らかの方法は必要だろうと思います。

 私、きょうここに来ておりますのは、ただ一人、個人としてここにおります。それについてはいろいろ問題はあります。学校を休まなければいけない。実際問題として、タウンミーティングに高校の教師が出ていくということについて、たとえ休日であったとしても、それは部活動あるいは模擬試験などの問題があったりしますので、非常に難しい状態である。小中についてはちょっとコメントはできませんが、高校については参加がなかなか難しい状況にあるということをお伝えします。

 以上です。

穀田委員 では、出口公述人に最後に一言。

 今お話しになりました、やはり弁護士としても、また子供たちのさまざまな病理にかかわってこられた公述人として、こんなふうな形でやらせがやられているという事態に対してどうお考えかだけ、お聞きしたいと思います。

出口公述人 私は、法律家の観点から、やらせは許されないと思いますね。

 やはり、非常にこれは、随分報道されていますけれども、これを見ている子供たちがどういう目で見ているのかということを十分考えるべきだというふうに思います。

穀田委員 終わります。

森山委員長 次に、阿部知子君。

阿部(知)委員 社会民主党・市民連合の阿部知子です。

 本日は、五人の公述人の皆さんに御足労をお願いいたしまして、この委員会で貴重な御意見を賜ることができました。鹿野先生には、きっと生徒がインターネットを見て応援しているかもしれませんし、貴重なお時間を割いて来ていただいているということで、大変に私どもも、現場の声として承るいろいろなことが参考になったと思います。

 だがしかしというか、ちょっと残念なのは、こちら側の委員会席がやや空席が目立つかなということで、やはり、本当にせっかく来ていただいているのだから、この場から吸収して、もっともっと、鹿野公述人は、早い結論をというお考えも一部述べられましたが、いずれにしろ、現場を聞いて、私どもが適宜必要な判断をしていくという上で、委員会の出席も、厳密に皆さん御出席いただければなと私は思うものであります。

 私に与えられた時間十五分の中で適宜質問させていただきますが、冒頭は西原公述人にお願い申し上げます。

 私は、先ほどのタウンミーティングのやらせ問題も、例えば文部科学省、教育委員会、そして校長、PTAと、縦系列が非常にこのことを容易にしておるという姿を見ても、今の教育行政というのが大変に問題をはらんでいると考えるものであります。そして、そのこと以上に実は私は今深刻に感じますのは、例えばいじめの問題で、気づかなかったという形で校長先生が自殺をなさったり、未履修問題で校長先生が自殺をなさる。

 実は、教育にかかわる皆さんに一番やっていただきたいのは、子供たちに生きてくれというメッセージを、生きるということのメッセージをまず送れるような現場でなければ、命なくしてはすべてないわけですから。しかし、教育者みずからが死を選び取る、取らねばならない教育行政とは何なんだと、私は非常に深刻に思うものであります。

 現行教育基本法下で、教育行政が果たして正常に機能しておるのかどうか。この基本法にかかわりますところと教育行政、私は現在でも十分にやはりおかしいと思うのです。何がおかしいかの論議から始まらないと、木を見て森を見ずとなりますから、西原公述人のその点についてのお考えをまず伺います。

西原公述人 現在、命の大切さというものを片っ方で言いながら、現場では、まさに指導する立場にある先生たちがみずからの命を絶たざるを得ないという非常に痛ましい状況を迎えている。これはやはり、何らかの制度的な欠陥があるということなんだと思います。その制度的な欠陥の非常に大きなものは、学校をめぐる行政の流れ、教育行政の流れの中にあるように思います。

 教育基本法の、現行法の基本的な想定というのは、やはり教育行政は条件整備を主要な課題とするということにあるわけですから、そこの中で基本的に学校の中での教育課題を進めていく、その学校の権限がわかりにくくなってしまった、これがやはり現行法の解釈の上での最大の問題点かなというふうに思われるわけです。

 結局、そこでは、本来は単なる指導あるいは大綱的基準の設定に限って認められていたはずの教育行政の権限というものが、どんどんどんどん微に入り細に入り細かくなっていってしまった。あげくの果てには、先ほども御指摘いただきましたように、東京都で、卒業式でどっちの旗、都の旗と国旗を、どっちを右に掲げて、どっちを左に掲げなきゃいけないかということまで通達で命令しなきゃいけないというふうに考える環境まででき上がってしまう。

 これは明らかに、現行法においてすら十条違反の異常な事態なわけですけれども、にもかかわらず、教育行政を担う方々において、そこでの自分たちの分を越えた教育の内容に関する介入、そしてそれは多くの場合、政治的な意図に基づいて行われているケースが少なからずあるわけですけれども、そういう形で、教育行政の任務と教育の任務ということの分担ラインが非常に不明確になっている。それも、まさに教育行政、力を持つ者がその力を広げようとする形で、本来適正じゃないことが行われているということを指摘したいと思います。

阿部(知)委員 私も、今、西原公述人がおっしゃったとおりだと思うのですね。教育の中で縦系列が非常に強められて、逆に、横のつながり、それは子供同士の横のつながり、あるいは先生方の横のつながり、校長先生も非常に孤立しておられる。もしかして、教育委員会のあり方も、私は今、私自身は、教育委員会を残し、活性化していった方がよいという立場に立つものですが、それにしても大幅な改変が必要であろうと思うものであります。

 そして、さきの国会が、主に愛国心問題でこの教育特別委員会で論じられていた時間数が多うございますが、私は、この国会にあっては、やはり教育行政のあり方を現状の問題分析からいかに是正されるべきかということにおいて、教育基本法が果たして改正されるべきなのか、それとも行政のあり方が是正されるべきなのか、十分な論議が必要と思うものであります。

 続いて、その点に関係して、出口公述人にお願いいたしますが、きょういただきましたレジュメ等々を見ましても、現行の教育基本法十条、そして与党案では十六、十七条、また民主党案では十八条、教育行政の問題が取り上げられております。

 先ほど公述人は、例えば、現在の教育委員会においても、もう少しいろいろな職種の人の、専門家の意見を取り入れた柔軟な対応が望まれるが、だがしかしそうなっていないという御懸念をお話しされましたが、そもそも、戦後しばらくの間、公選制ということがこの教育委員会でも取り上げられておりました。やはり、これほど価値も多岐にわたり、問題の発生も多種多様になった時代に、私は、さまざまな分野からの意見を取り入れていく教育委員会のあり方ということが第一と思いますが、公選制についての出口公述人のお考えをお願いいたします。

出口公述人 私の小さいころに公選制が行われていた時期がありまして、随分戸別訪問もありました。非常に狭い町だったものですから、ある先生が手を挙げてあいさつに来られたということを今記憶しております。

 これは、社会の状況の変化の中で、いわばそういう公選制を維持することによるメリット、デメリットというものがあるいはあるのかもしれません。私は、その辺は、かなり早々とこの公選制は一定の思惑の中で立ち消えになっていったというふうに考えておりますので。この公選制の問題については、非常に一考に値することだというふうに私は思っております。

 これは、現実に、私どもが今、先ほど申しました実務の中で本当の意味で地域の力を教育の中に入れていくという場合には、やはり地域の人たちの声、これを吸い上げていくシステムがどうしても必要なんですよね。そういう仕組みをつくる意味で、公選制ということも考える余地は十分にあるだろう。

 いずれにしても、この問題については、十分な御検討を国会の中ではやっていただきたい、その上での方向性を出していただきたいというのが私の希望です。

阿部(知)委員 ありがとうございます。

 本当にそれ一つとっても、私は、この教育基本法との関係でまさにきっちり論議されねばならないテーマだと思っておりますから、きょう公述人に御意見をいただきましたことが、先ほど出口公述人もおっしゃいましたが、出口とならないように、これは与党の町村先生、おられませんが、しっかりと聞いていただきたいと思います。

 そして、私は、なぜこのような形で拙速に結論が出されようとしているかということの背景には、まさに大人のいら立ちがあるんだ、これは広田公述人の御指摘のとおりだと思うのです。今、産業化された社会では、いわば子供たちの社会化に本当に時間がかかる。簡単に言えば、例えば、太平洋戦争のころの十代の終わりの若者と現代社会の若者を比べたら、二十代の終わりでも、まだ十代の終わりほどのいろいろなことを考える力それから思いということが熟成していなかったかもしれないと思うくらいであります。

 特に私は、この前も申しましたが小児科医ですので、現代の子供たちというもの、産業化された社会での子供たちが、いわばいろいろな実感、例えば、ニンジンは種を植えたらそこから根が出て食べられる、ニンジンが種であるという実感も本当に遠くなっております。そういう中で、自分の足元や生命、存在、社会、つながり、本当にこれを子供たちが受けとめていくには時間がかかる。それを、教育、はぐくみ育てていくにも時間がかかる。日本には、はえば立て、立てば歩めの親心という言葉がございました。でも、今の国会の論議には、この親心、待つ親心が非常にないと思います。

 広田参考人にぜひお伺いしたいのは、少年非行等々の問題で現在子供たちが置かれている状況と、そしてその中で教育がどういう姿勢で臨むべきかという、私はここに本当に根幹があると思いますので、重ねてになるかもしれませんが、御意見を賜りたいと思います。

広田公述人 問題を抱えている子供たち、犯罪であったりいじめであったり、そういう子供たちに対して教育は何ができるのかというとき、余りスーパーパワーを考える仕組みをつくってはいけないのではないかと思うんですね。つまり、教育にできることは限られている。むしろ、何かを教え込んで問題解決しようじゃなくて、彼らが抱えている問題を聞き取って、本当に何で詰まっているのかの部分を改善していくという丁寧な作業が実は大事なんじゃないか。

 何か徳目を教えればいじめがなくなるかのようなことを考えるとこれは錯覚で、いじめはゼロにはならないと思いますけれども、そういうことがすぐに先生にもわかるような良好なコミュニケーションをきちんととれる学校、先ほど鹿野先生が言われたような、先生にいろいろな時間がたっぷりある、そういう学校をつくって、いわば子供の個別の問題につき合っていくというふうなことができれば、教育理念をどうつつくとかという前に、教育問題が随分軽減されていくと思います。

 だから、重要なことは、そういう条件整備をやっていくことではないか。あとは、学校が丁寧に子供につき合うということだと思いますね。

阿部(知)委員 松下参考人と鹿野参考人には、日々子供たちのそばで、子供たちをはぐくみ育ててくださっている御努力に非常に敬意を表します。そして、お二方とも、松下参考人は、小さな規模、やはり本当に、コミュニケーションするというのは小さな規模でしか本音が言えない、私どもですらそうですから、そのことの御指摘をいただきましたし、鹿野参考人には、教育におけるゆとりの問題も、本当に現場からの切実なお声と私は承りました。時間の関係で御質疑がかないませんが、きょういただきました御意見を参考に、また論議を深めていきたいと思います。

 ありがとうございます。

森山委員長 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、公述人各位に一言御礼を申し上げます。

 公述人の皆様には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます。

 これにて公聴会は終了いたしました。

 公聴会は、これにて散会いたします。

    午後零時十四分散会


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