衆議院

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第5号 平成19年4月26日(木曜日)

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平成十九年四月二十六日(木曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   委員長 保利 耕輔君

   理事 大島 理森君 理事 河村 建夫君

   理事 小坂 憲次君 理事 鈴木 恒夫君

   理事 中山 成彬君 理事 野田 佳彦君

   理事 牧  義夫君 理事 西  博義君

      赤池 誠章君    井澤 京子君

      井脇ノブ子君    伊藤 忠彦君

      飯島 夕雁君    稲田 朋美君

      稲葉 大和君    猪口 邦子君

      亀岡 偉民君    木原 誠二君

      清水清一朗君    鈴木 俊一君

      とかしきなおみ君    西村 明宏君

      西本 勝子君    馳   浩君

      原田 憲治君    平口  洋君

      平田 耕一君    藤田 幹雄君

      二田 孝治君    松本 洋平君

      やまぎわ大志郎君    安井潤一郎君

      山内 康一君    若宮 健嗣君

      北神 圭朗君    田島 一成君

      田嶋  要君    田村 謙治君

      高井 美穂君    西村智奈美君

      藤村  修君    松本 大輔君

      横山 北斗君    笠  浩史君

      伊藤  渉君    大口 善徳君

      石井 郁子君    保坂 展人君

      糸川 正晃君

    …………………………………

   議員           田島 一成君

   議員           高井 美穂君

   議員           藤村  修君

   議員           牧  義夫君

   議員           松本 大輔君

   議員           笠  浩史君

   文部科学大臣政務官    小渕 優子君

   参考人

   (兵庫教育大学学長)

   (中央教育審議会副会長) 梶田 叡一君

   参考人

   (明海大学長)      高倉  翔君

   参考人

   (専修大学教授)     嶺井 正也君

   参考人

   (東京大学大学院教育学研究科准教授)       勝野 正章君

   衆議院調査局教育再生に関する特別調査室長     清野 裕三君

    ―――――――――――――

委員の異動

四月二十六日

 辞任         補欠選任

  井澤 京子君     飯島 夕雁君

  亀岡 偉民君     藤田 幹雄君

  西村 明宏君     清水清一朗君

  西本 勝子君     平口  洋君

  田嶋  要君     田村 謙治君

  高井 美穂君     藤村  修君

同日

 辞任         補欠選任

  飯島 夕雁君     井澤 京子君

  清水清一朗君     西村 明宏君

  平口  洋君     西本 勝子君

  藤田 幹雄君     亀岡 偉民君

  田村 謙治君     田嶋  要君

  藤村  修君     高井 美穂君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 学校教育法等の一部を改正する法律案(内閣提出第九〇号)

 地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案(内閣提出第九一号)

 教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案(内閣提出第九二号)

 日本国教育基本法案(鳩山由紀夫君外五名提出、衆法第三号)

 教育職員の資質及び能力の向上のための教育職員免許の改革に関する法律案(藤村修君外二名提出、衆法第一六号)

 地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案(牧義夫君外二名提出、衆法第一七号)

 学校教育の環境の整備の推進による教育の振興に関する法律案(笠浩史君外二名提出、衆法第一八号)


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     ――――◇―――――

保利委員長 これより会議を開きます。

 内閣提出、学校教育法等の一部を改正する法律案、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案及び教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案並びに鳩山由紀夫君外五名提出、日本国教育基本法案、藤村修君外二名提出、教育職員の資質及び能力の向上のための教育職員免許の改革に関する法律案、牧義夫君外二名提出、地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案及び笠浩史君外二名提出、学校教育の環境の整備の推進による教育の振興に関する法律案の各案を一括して議題といたします。

 本日は、各案審査のため、参考人として、兵庫教育大学学長・中央教育審議会副会長梶田叡一君、明海大学長高倉翔君、専修大学教授嶺井正也君、東京大学大学院教育学研究科准教授勝野正章君、以上四名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。理事会の協議により、本日は、特に教育職員免許制度を中心に審査を行うことといたしておりますので、参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、参考人各位からお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いいたします。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、まず梶田参考人にお願いいたします。

梶田参考人 それでは失礼いたします。

 この特別委員会で御検討になっております教育再生関連法案、これにつきまして、十分に御審議いただきまして一日も早い成立を願う、そういう立場から意見を申し上げてみたいと思います。

 ただ、私、後の高倉先生等の参考人の方々がこの教育職員免許法につきましてかなり詳しくお話しをいただくということでありますので、それを包むといいますか、その背景にあります中央教育審議会の審議の流れ等につきまして主としてお話をしたい、もちろん本題であります免許法につきましてもお話を少しはいたしますが、まず最初は、そういうことでお話ししたいと思っております。

 教育再生関連法案、特に、本日集中的に審議される教育職員免許法と教育公務員特例法の改正案。これは、私の見るところでは、日本の社会が七〇年代以降豊かな社会になりました、いろいろな意味でいいことがあったんですけれども、その中で非常に社会全体として緩み、たるみができてきた、特に学校教育におきましてその緩み、たるみが非常に顕著になってきた、これをもう一度しっかりしたものに、責任あるものに再建していく、そういう流れの中で、本日御審議の教育再生法案というものは非常に重要な意義を持つものだと考えております。

 皆さんよく御存じだと思いますけれども、九〇年代、ゆとり教育という名前のもとに、私ども、これは緩み教育だ、たるみ教育だ、こういうふうに言ってきたわけですけれども、指導することが悪いことであるかのような、あるいは努力することが悪いことであるかのような、そういう考え方が教育行政の中にも学校現場の中にも非常に蔓延した時期があります。そういう中で、御承知のように、学力は十年間で大幅に低下いたしました。あるいは、不登校の数もどんどんふえてまいりました。しかし、それではいけないということで、二〇〇〇年以降、いろいろな取り組みが始まっているわけです。

 大急ぎで申し上げておきますが、ゆとりそのものは非常に重要なことです。本来のゆとり教育は非常に重要な意味を持つものだったわけです。ただ、それがどこかで履き違えられちゃった。一面だけを強調して、本当に大事な、責任を持って指導するだとか、あるいは子供の側からも、勉強というのは強いて勉めると読むんですね、自分で自分に頑張ろうと言い聞かせなければ、いろいろなことが最後までわかるようになりません、あるいは力がつきません。そういう内側からの、本当に、自分自身と対話しながら、自分自身を励ましながら、自分自身を叱咤激励しながら頑張っていくというその気持ちをまるで悪いことであるかのように言い募った、そういう九〇年代であったと私は見ております。

 そういう本当のゆとり教育でない間違ったゆとり、これが、実を言うとアメリカでも一九七〇年代に非常に蔓延したわけです。これは自由と個性を伸ばす教育ということで、アメリカで十年間、非常に蔓延をいたしました。七〇年代の終わりから八〇年前後にかけましては、これではいけない、学力は落ちますし、もうすごい勢いで問題行動が出ましたので、バック・ツー・ザ・ベーシックスということが言われました。基礎、基本に返ろうと。これをもとにしましてアメリカの連邦の有識者会議が組織されまして、御承知だと思いますが、一九八三年に「ア・ネーション・アット・リスク(危機に立つ国家)」、そういう報告が出ました。これによって、一九八三年のこの報告をきっかけに、大きくアメリカの教育はさま変わりをしたと言ってもいいかと思います。

 我が国は、豊かな社会の到来が、アメリカに比べて大体十五年から二十年おくれました。したがって、いわばその緩み、たるみが出るのも二十年ぐらいおくれたと私は見ております。

 そういう中で、九〇年代のたるみ、緩み、これはもう教育の場ではどうにもならないということで、国会の先生方を初め心ある有識者の方々、この方々が非常に御心配になりまして、二〇〇〇年に教育改革国民会議が組織されました。これは、御承知の、小渕総理、それから森総理が非常に真摯に御指導をいただきまして、そのもとで中曽根大臣、町村大臣が非常に御尽力いただきまして、ここで百八十度、教育の流れを変えようという動きをつくり出そうとされたわけですね。これの結果が、報告として二〇〇〇年十二月に「教育を変える十七の提案」として出ております。

 これをもとに、町村大臣が、新しく二〇〇一年一月から発足した文部科学省で、最初の取り組みとしまして教育再生プランというものをつくられまして、いろいろなことを矢継ぎ早に打ち出されたわけです。

 同時に、新しい中央教育審議会が組織されまして、これは、それまでの七つの教育関係の審議会を合併させた大型の中央教育審議会でありますが、幼稚園、小学校、中学、高校、大学、生涯学習、スポーツ、青少年、全部カバーする新しい中央教育審議会が組織されまして、二〇〇一年、これは二月ですけれども、そこから今日に至るまで、きちっとした本当に責任のある教育をどうつくっていくかということでいろいろな分科会あるいは部会で審議をし、そしていろいろな答申を出してきたところであります。

 その中で、例えば教育基本法の改正、これにつきましても、国会の皆様方の御尽力で新しい教育基本法になりました。

 また、指導力不足の先生をどうするか。どうしてもそういう方が目立ってきたそういう九〇年代であります。これにつきましては、二〇〇一年に地教行法を改正していただきまして、指導力不足の方は教壇からおりてほかの仕事についてもらう、これができるようになりました。

 あるいは学習指導要領、これを、最低基準であるというそういうふうな位置づけをし直しまして、この上に時間数も積み増していい、指導要領で決められている時間にプラスアルファしてもいいんだ、内容につきましても、指導要領に書いてあることにプラスアルファしてやっていいんだ、これは教育委員会及び学校がよく話し合って、子供たちの実態に即したそういう時間数、内容でやったらいいんだということになりまして、これが二〇〇三年の十二月から、指導要領の一部改正の告示という形で、また同時に、文部科学省が各都道府県に出した通知という形で実施されております。

 こういうふうないろいろな流れがあったわけですけれども、こういう中で、御承知のように、今回の教育再生の関連法案につきましても、教育再生会議が問題提起をなさいました、これを受ける形で。そして、二〇〇一年からの中教審の各関連部会で議論してきたそういうところ、あるいは答申、これを踏まえた形で非常に集中的な審議をいたしまして、三月十日に答申を出しました。中央教育審議会として、特に、教育制度分科会そして初等中等教育分科会、これの合同会議を集中的にやりまして、私がまとめ役といいますかお世話役をさせていただきましたけれども、無事に答申を出しまして、今国会にこれを踏まえた形で改正案が出ているというふうに私は理解しております。

 改めて申すまでもありませんが、教育は人なりです。どんなに仕組みを整えても、あるいは校舎、設備、これもよくしなきゃいけないけれども、しかし、何よりもまず人なんですね。尊敬される、信頼される先生が子供に本当にもう情熱を持って真摯に対してくださらないと、教育というのは、どんな条件整備をしてもだめです。もちろん条件設備もしなきゃいけませんけれども、これを繰り返し申し上げておきます。

 そういう一番眼目である教育に人を得るということ、これを本当に抜本的に考えなきゃいけない時期にもう来ているんじゃないかということで、昨年七月には、教員養成部会で審議したところを踏まえまして、中教審答申として「今後の教員養成・免許制度の在り方について」という答申を出しました。昨年七月に出しましたこの中教審答申、これに基づいて、本日特に集中的に御審議いただきます免許法の改正と、それから、教育公務員特例法の改正があると私は理解しております。

 この昨年七月の答申は、実は三本の柱がございました。一つは免許の更新制です。もう一つが、教員養成の大学でのカリキュラムをやはり考え直さなきゃいけない、養成段階からきちっとやらなきゃいけない。それから三番目に、教職大学院をつくって、現職の先生を中心として再教育を徹底的に考えなきゃいけないだろうということであります。

 ほかの二つにつきましては、例えば教員養成のカリキュラムにつきましては、今詳細なプランができておりまして、省令の形でもうすぐこれははっきりした形をとる、教員養成課程を持っている各大学にこれが行くということになります。

 また、教職大学院の創設につきましては、三月一日に設置基準がつくられまして公表されまして、六月に申請を出し、来年の四月から発足ということで進んでおります。

 もう一つの一番大きな柱といいますか、免許の更新制、これにつきまして、本日皆さんに御審議いただきます免許法の改正と教育公務員特例法の改正が出ているわけであります。これは、皆さん御存じのように、教員の資質の向上という点で非常に重要な意味を持つと思っておりますけれども、ここで一番私どもが議論しましたのは、時代が大きく流れていっているということであります。

 例えば、十年前には、携帯のメールを使って子供たちがいじめをするなんということはほとんど考えられなかったわけです。今これが大きな問題ですよね。あるいは、今、一部の保護者が学校に毎日のようにどなり込んでいかれる。これを一部でモンスター保護者と言っておりますけれども、これでもう先生たちは疲れ果てているというところがあります。これも十年前にはほとんどなかったと思うんですね。

 それから、十年もすればどんどん学習指導要領の内容が変わりますから、教えなきゃいけない中身も変わります。そうすると、やはり十年に一回はリニューアル、一度二十幾つで免許をもらったら六十までそれでやるんじゃなくて、十年に一回ぐらいは、新しい状況、子供も変わる、親も変わる、あるいは学校のあり方も変わる、内容も変わる、それを勉強し直してということでの更新制をしようということになりました。

 その場合の不適格教員といいますか指導力不足の教員、これをどうするか。これは、実は、先ほど申し上げましたように、二〇〇一年に既に地教行法の改正で、指導力不足の方はほかの仕事についていただくということが、法律ができまして、それに基づいて、東京都を初め多くの都道府県で、条例の形でそれを動かすそういう規定ができております。そして、東京都を初め幾つかのところでは、問題教員に研修に出ていただいて、それでもだめだったら、別の仕事といいますか、あるいはおやめいただくとか、実際にやっております。

 ただ、それを全国できちっと徹底的にやるためには、教育公務員特例法を改正して、これをいわば一つの具体的なあり方のスタンダードにしなきゃいけないだろうということで考えております。

 それで、更新制と問題教員に教壇からおりてもらうということをリンクさせておりません。なぜか。これはもう簡単な話で、十年に一回免許を更新するというときに、指導力があるかどうかということをチェックしていたってだめだと私は思うんですよ。指導力がないとわかったらすぐに、問題があるとわかったらすぐに手を打たなきゃいけない。そのためには、やはり別の枠組みの方がいいだろう、あるいはそれをつくらなきゃいけないだろう、少なくとも私はそう考えておりますし、教員養成部会でこれは第三期も第四期も私がまとめ役をさせていただいております。

 そういうことで、二つをリンクさせないで、免許の更新ということと、問題のある先生あるいは指導力不足の先生、これはごく少数ですけれども、残念ながらおります。大半の先生は頑張っているんですよ。本当によくやっていると思います。ただ、ごく少数の先生が、どうしても教育界の今までの慣行の中で温存されてきてしまったということがありますので、これは別途教育公務員特例法を改正して、何とか教壇をおりていただく、こういうことをしようということでやってきたわけであります。

 この問題、これから細部につきましてはいろいろと御意見があるかと思います。ただ、今私が申し上げたような大きな状況認識、やはりこういうふうな豊かな社会では、それぞれ責任ある立場の方々が気持ちを引き締めてよほど頑張っていかないと、その豊かさの中におぼれてしまって、流されてしまって、教育というきちっとしたことがやれなくなる、こういうようなことでずっと二〇〇一年からやってきたんだ、それのいわば一つの大きなステップを画するものが今回の教育再生の諸法案であるということで御理解いただきまして、御審議をまたお願いしたい、そういうふうに思います。

 ありがとうございました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 次に、高倉参考人にお願いいたします。

高倉参考人 おはようございます。高倉でございます。

 私は、教員の資質能力向上の政策が展開される中で、免許更新制度をどういうふうに位置づけるかというようなことで陳述をさせていただきたいと思います。

 その前にちょっと、私が教員養成などにどうかかわってきたかということについて簡単に申し上げますと、実は、私、昭和四十八年に教養審の委員に任命され、十年間やりました。その間に、OECDやユネスコの会議等々に政府から派遣されまして、教職の専門性、プロフェッションとしての教師、それからもう一つは、教員養成の連続性、インテグレーションとかコンティニュイティーということについての国際的合意をつくる仕事に参画させていただきました。

 そのことを国内にも引っ張り込んできまして、例えば昭和五十三年の中教審の答申、「教員の資質能力の向上について」でございますが、それが、養成、採用、研修の過程で教員の資質能力の向上を図ることが重要というような書き込みの実現を見るということに若干なりとも関係をさせていただいたということでございます。

 それから、少し休みましたけれども、平成七年にもう一度教養審の委員に任命され、そして平成十三年には、新しく組織された中教審の委員として、今度は教員養成部会の部会長を務める。ちょうど先ほどの梶田先生が第三代目でございますが、私は初代の部会長であったということでございます。それからずっと、今日は臨時委員ということで中教審の末席を汚しております。

 その間に、平成七年以降、再度教養審の委員に任命された以降でございますが、私は、教員養成にかかわる五つの答申のいろいろな審議あるいは取りまとめの責任者というような役割を果たさせていただきました。

 まず、平成九年から十年において、教養審の一から第三次答申ということですね。それから、平成十四年、これは中教審の答申で、教員免許制度のあり方答申ですね。実はこれが、更新制はちょっと慎重に扱おうということを答申したことでございますね。その私がなぜきょう出てこなきゃならないのか、これもまた歴史のなせるわざなのか、いろいろと私も自問自答しております。それ以後、七年の、先ほど出ました新しい答申などなど、五つほどの答申に関係させていただいたということでございます。

 そういうことで、そんな体験を通しながら、先ほど冒頭に申しましたように、教員の資質能力の向上という政策の中に免許制度の更新制を位置づけてみようということでございます。

 本文に入りますが、第一番目に、教員をめぐる状況、いろいろ言われておりますが、人間の心身の成長や発達にかかわる専門職、プロフェッションであるということで、教職に対する認識が今日、国際常識になってきております。そういった専門職としての成長というものは、養成段階の一回限りということではなくて、先ほど申しましたように、養成、採用、研修の過程を経て形成されるものだということも、これもまた国際常識になっているわけでございます。

 と同時に、先ほど来、教育は人なりということが主張されておりますけれども、例えば、私が関係しましたOECDの教育改善プロジェクトなどでは、教育を改善する場合には三つの質の向上が大切だ、カリキュラムの質、教員の質、経営の質ということで、順番はともかく、教員の質の問題というものが大きな政策課題として取り上げられている、こういうことでございます。

 次に、子供をめぐる今日的な課題、これはいろいろ言われておりますけれども、学習意欲や規範意識の低下、あるいは社会性の不足、いじめや不登校など学校における課題、こういったものが一層複雑になり、多様化している。そこで、教員に求められる新しい資質能力というものが言われ、先ほども言いました教養審の第一次答申でこれがうたわれる、こんなことでございました。

 加えて、特別支援教育の重要性というようなことについての主張があらわれてくるということでございます。なお、私は、特別支援教育制度のあり方、答申をまとめたときの委員長でもあるというようなことで、このときは馳先生にはせ参じていただきまして、花を添えていただいたということでございます。

 それで、その次でございますが、私は、何としても、教員が自信と誇りを持つということの必要性、これはよく言われていることですが、これを強調しておきたいと思っております。

 何よりも、教員が自信と誇りを持って教育活動に当たるということが大切だ。教育の問題が出るたびに教員が悪いんだということが言われる。これは教員原因説というような言葉があるそうですが、教員原因説などというものは論外だというのが私の考え方でございます。

 大きな二番目に、教員に求められる資質能力、これは中教審始まって以来の、ずっと継続的な課題であったわけでございますが、これは教員像という言葉でも呼ばれます。

 これは、教養審の第一次答申、平成九年ですね、これも私、取りまとめの主査をさせていただきましたけれども、そのときにおもしろい区分をしました。

 つまり、一口に教員の資質能力と言わずに、いつの時代にも求められる資質能力、それから、今後特に求められる資質能力、これに分けて考えていった。そしてさらに、それに加えて、第三番目に、得意分野を持つ個性豊かな教員、これが必要なんだ、積極的に個人の得意分野づくりを進めていくということが大切なんだ、こういったことをここで強調したということでございます。

 後に十年経験者研修の問題が出てまいりますが、これは、得意分野を生かしていこうというようなところにポイントを置いた。それに対して、今度の更新制は、リニューアル、そういった点にウエートを置いた。その点で、これは大きな違いがあるということが指摘できると思います。

 次に、今、中教審の答申に見る教師像といいますか、資質能力のあり方ですが、これは平成十四年、例の、更新制についてちょっと見送りをせざるを得ないということを書き込んだ答申でございますが、その答申になりますと、従来言われていた専門性に加えまして、適格性と信頼性が強調されていった。

 もっと別な言葉で言うと、信頼される学校づくりということをキーワードに、専門性と適格性、さらには、説明責任やマネジメントなどの、今度は、新しい資質能力ということで、こういったものが加えられてくるということです。

 そういうふうに、新しい資質能力が加えられるというような、そういう状況に対してどう対応するか。その対応の一つとして、更新制というものがリニューアルというようなキーワードで主張されている状況だというふうに思っております。

 なお、何遍も平成十四年の答申について述べましたけれども、平成十四年の答申は、私、部会長で取りまとめたわけですが、更新制の導入にはなお慎重にならざるを得ないという結論づけをしましたけれども、そこで切ってしまったのではなくて、社会の急激な変化等に伴い、一度取得した資格が生涯有効であってよいのかどうかという論議が生じてくるということでもって、将来に含みを残すというような答申の形をとらせていただいたわけでございます。

 次に、一昨年になりますか、新しい時代の義務教育の創造、これが出てまいりますけれども、ここになりますと、教師に対しては揺るぎない信頼を確立するという非常に積極的な書き込みが出てくるわけでございます。そこでは、教職に対する強い情熱、教育の専門家としての確かな力量、あるいは総合的な人間力、こういった三つが強調されてくるということでございます。

 今まで三つほどの例を挙げてみましたけれども、その表現には若干の違いがありますけれども、基本的な考え方は今後とも尊重していくべきではないかと思っております。

 つまり、変化の激しい時代だからこそ、これらの資質能力を確実に修得することの重要性ということが高まってきている。しかも、求められる資質能力が、新しい資質能力と言われるように、だんだんとこれが変化してきているということをきちっととらえなければならないのではないか、こういうふうに思っております。

 最後になりましたけれども、免許制度の位置づけと更新制ということについて申し上げたいと思います。

 免許制度あるいは更新制を考える場合に、冒頭に申しましたけれども、先生方が自信と誇りを回復するための資質向上でなければならない、こう思っております。教員への尊敬と信頼、揺るぎない信頼を確立する上で、まず、教員自身が自信と誇りを持って教育活動に当たるということが必要だ。そのためには、くどいようですが、教員の養成、採用、研修の各段階でもって資質能力の向上を総合的に図っていく、そのプロセスの中に更新制も当てはめていこう、こういうことでございます。

 免許制度の位置づけでございますけれども、免許制度、特に、養成段階で得られる免許というものは教員として最小限必要な資質能力を保証するものだ、これは教養審の第一次答申で書き込んだわけでございます。最初は最低限必要と書いて、しかられまして、最小限と書きかえたわけでございますが、そういった最小限必要な資質能力ではございますけれども、しかし、その中に含まれる教職に対する知識や技術というものは絶えずリニューアルされていかなければならない、このことについては何遍も申し上げてきたとおりでございます。資質能力を一定水準以上に確保するということのためにはやはりリニューアルということが必要になってくる、このことでございます。

 したがいまして、そういった、先生方にそのときそのときで求められる資質能力が保持されるよう、定期的に必要なリニューアル、刷新、そしてその確認ですね。刷新のしっ放しでは話になりません、確認を行うことが本来的に必要だ。そういうふうな流れの中で、つまり、教員の資質能力、新しく求められる資質能力というようなものをさらに念頭に置きながら構想されたのがこのときの免許更新制だ。

 したがって、今回の更新制は、教員が社会構造の急激な変化や学校や教員に対する期待に対応して、今後も、まさに専門職、プロフェッションとしての教員であり続けるために、最新の知識や技術を身につけ、自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊厳とまさに揺るぎない信頼を獲得していく前向きな制度であるということをきちっと確認しながら、それの実現を目指していく国民的な努力をしなければならないのではなかろうかというように思っております。

 大変失礼いたしました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 次に、嶺井参考人にお願いいたします。

嶺井参考人 おはようございます。

 私は、私立大学で教員養成にかかわっている立場と、PISA問題や教育政策を研究している立場などを交えまして、今回の教員免許制度につきまして意見を述べさせていただきます。

 基本的な立場は、教育職員免許法一部改正並びに教育公務員特例法一部改正につきましては反対という立場でお話をさせていただきます。

 その理由につきましてはこれから少し詳しく申し上げますが、まず最初に、私の前に御発言になりました先生方の理由につきましてちょっと反論をしておきたいなというふうに思います。

 一つは、時代が激しく動くのでリニューアルが必要だという御指摘をされておりましたけれども、リニューアルするのに十年でいいんだろうかと思います。変化の激しい時期でありましたらば、日々の研修が大事なのであって、十年間で更新していく制度は、むしろ桎梏になってしまうのではないかな、そこの基本的な議論ができていないのではないかというふうに私は思っております。それが一点目であります。

 二点目ですが、教職員の自信と信頼を持たせる、そういうことで、更新制度でありますとか不適格教員制度を厳格にするとかという導入の目的をお話しされましたけれども、私がきのう教職を目指す学生たちと話をしていたときに、これはどうなんだろうかというふうに聞きましたらば、先生、こんなふうに研修漬けになったり、こんなふうにいろいろ指摘をされるということは、よほど教員に対する信頼がないんじゃないか、むしろ逆に教職員の信頼や魅力といったものを損ねてしまうのではないんでしょうかということで、実は私の大学でも教職志望者が激減しておりまして、困ったなというふうに思っている次第であります。

 さて、それが前のお二人の参考人の方々に対する私のまず最初の論点でございますが、きょう準備しましたのは、先生方のお手元に「教員免許更新制導入を中心として」というレジュメがございます。ポイントをわざと小さくしているのではございません。紙を節約しようと思ってしたのでございまして、申しわけございません。

 まず、今回の特に教員免許の更新制度につきましては、この基本的な設計は、先ほど高倉先生の方からもありましたように、昨年度の中央教育審議会の答申に基づいております。その答申につきまして、まず幾つかの問題点をお話しさせていただきます。続きまして、今回の法案提出に直接関係いたしましたのは、三月十日の中央教育審議会の答申でございます。あわせまして、教育再生会議の第一次報告でございました。そういうものをちょっと参考にしながら、教員免許の更新制度の問題点についてお話をさせていただきたいと思います。

 まず、二〇〇六年、平成十八年七月の中央教育審議会の答申でございますが、大きく申し上げまして三つほどの観点から問題点があるのではないかと思っております。

 その前に、ちょっと申し上げ忘れましたけれども、二〇〇二年、平成十四年の中央教育審議会、高倉先生が御関係になりました答申では、非常に慎重な導入の提起がございました。それは、さまざまな論点が残されているからだという指摘だったかと思います。今回、衆議院の事務局の方で準備をいただきました資料の中でも、「主な論点」ということでたくさん論点が掲載されておりますけれども、この論点について十分な議論が尽くされ、これがクリアされたのだろうかというふうに思いますと、それはどうもできていないのではないかというのが私の意見でございます。

 さて、昨年度の中央教育審議会の答申につきましては、まず免許更新制の導入理由に疑問や矛盾が感じられております。先ほど申しましたように、なぜ十年なのかということでございます。時代の変化が激しいということでありましたらば、まさに日々教職員が研修できるような、校内やあるいはそれぞれの地域での研修ができるような仕組みづくりをした方が、よほど時代の変化に対応できるのではないかというふうに考えております。

 かつては学習指導要領も十年に一回ぐらいの改訂でございましたけれども、昨今は非常に早くさまざまな改訂が行われております。そういうものに対応しようとしますと、十年では果たして対応できるのであろうかというふうに考えております。

 それから、中央教育審議会の答申の中で、リニューアルするという免許制度のあり方は、これは本来のあり方だというふうに書かれております。つまり、十年に一回の免許の更新制といったものは免許制度にとって本来的なあり方だというふうに書かれているんですが、そうでありますと、一九四九年、昭和二十四年に今の教育職員免許法ができたときに、どうしてそういう議論が出てこなかったんだろうかという疑問がございます。そして、免許の更新制がアメリカでしか実現されていないのに、つまり、ほかの国々ではほとんど導入はされていないのに、なぜ本来的なあり方というふうに言えるのかどうか、そこのところが私にはクリアになっていないというふうに考えられます。

 それから、ちょっと飛ばしますけれども、自主研修や十年経年研修との関係が不明確というふうに考えております。中教審の答申の中でも、基本的に、教職員にとって自主的な研修が大事であるということが指摘されております。

 また、教育再生会議の第一次報告でも、自己研さんの場が必要である、しかし、現場が忙しくてそんなことができないんだというふうに書いてありますが、そうであるならば、自主的な研修を基本とした制度設計をまずした上で、それに足りない部分をどう補足していくかということを本来考えるべきではないか。

 しかし、二〇〇二年に導入が見送られた更新制にかわって十年経年研修、そういう制度でありますとか、初任者研修制度でありますとか、さまざまな研修制度がございます。それらはすべて、どうも自主的な研修をむしろ否定するような動きになっているように私には思えてなりません。そういう意味で、重要性が指摘されているにもかかわらず、ないがしろにされている自主研修についての配慮というのがもっと必要であるべきだろうというふうに考えております。

 十年経年研修との関係につきましては、先ほど高倉先生の方から違いというものが指摘をされましたので、この点についてはもう申し上げませんけれども、ただし、この研修、研修、研修ということを受けなければ教員としての自信や誇りが持てないような、そもそも教職というのは一体何なんだろうかというふうに考えますと、もうちょっと違った角度からの議論が必要なのではないかというふうに考えております。

 三点目でございますが、免許の更新時における問題点でございます。

 先ほどの梶田先生のお話の中に、不適格教員の問題と、教員の資質向上を目指した更新制とは基本的に違うというふうにおっしゃっておりましたけれども、しかし、教育再生会議の第一次報告を見ますと、真の意味での教員免許の更新制というふうに書かれておりまして、どうもそこの関係があやふやのまま導入されてこようかと思っております。

 私は、指導力不足教員そのものの問題につきましてはまた後で議論があろうかと思いますが、資質向上策を目指す更新制といわゆる不適格教員と言われる教職員に対する対処の制度の問題は、一応区別して考えるべきだろうと。でなければ、いたずらに教職員を萎縮させるような、そういう制度になってしまうことを恐れております。

 続きまして、この三月に出されました中央教育審議会の答申でございます。そこに書かれておりますのは、お手元の資料の四ページになりますが、教員に質の高いすぐれた人を確保するために更新制度を導入するというふうに書かれております。

 しかし、その答申の留意事項の最初に、教員の養成制度や採用も踏まえ、なおかつ教員の処遇や職場環境の改善が大事であるというふうに書かれてはいるんですけれども、そういったものが全く考慮されないままにこの制度がどうも導入されようとしているということを見ますと、本当に優秀な学生たちは教職を希望しない。しかも、最近、少し景気が上向いておりますので、私の専修大学でも、教員免許は取るけれども採用試験は受けないという学生が非常に多くなって、私たち教員は何をしているんだとおしかりを受けるような状況になっております。逆に言いますと、教職に対する魅力を学生たちが感じなくなっているのではないか。そういう意味で、逆行するような制度ではなかろうかと考えております。

 それから、答申は、更新制度を、恒常的に変化する教員としての資質能力を担保するというふうに書いてございますけれども、先ほど申し上げましたように、リニューアルするということは、日々新たな状況に対していかに教職員が対応できるかという、それに対する支援制度が大事であろうと考えておりますので、制度設計自体を基本的に見直すべきだろうと考えております。

 最後に申し上げますが、教職の魅力は何かというふうに学生に聞きましたらば、一つは、子供たちと日常的にじかに接することによって子供たちの成長を見ることができること、これが第一。第二が、専門職であるならば自律的な決定ができること。特にフィンランドの教員はそういうことを持っておりますけれども、そういう専門職的な自律性が大事だ。最後に、安定した地位と収入だというふうに言っておりました。

 それを崩すことになりはしないかというのが、私の更新制度に対する懸念でございます。

 以上でございます。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 次に、勝野参考人にお願いいたします。

勝野参考人 おはようございます。東京大学の勝野と申します。

 私は、きょう、教員免許法それから教育公務員特例法のこの改正案に関して意見を申し述べさせていただきます。最初に教師の置かれている状況について少しお話をした後、改革、すなわち、改正法案の問題点と思われることについて申し上げるつもりでおります。

 最初に、教師の置かれている状況でありますけれども、レジュメに書きましたように、社会、もう少し具体的に教育に引きつけて言えば、子育てあるいは教育環境の変化といったもの、特にこれが、昨今話題になることの多い格差問題、経済的な格差、文化的格差の拡大ということが非常に大きな影響を学校にもたらしているというふうなことは、簡単に、容易にわかることであります。

 また、先ほど、保護者モンスターというふうな言葉の御紹介がありましたけれども、激化する学校あるいは教師に対する批判、バッシングのあらしという中で教師あるいは学校は仕事をせざるを得ないというふうな状況の中に置かれています。

 また、教育改革というふうなことにつきましても、もちろん、こうした状況を打開していくということを掲げて出されているものですが、必ずしもそれらが学校現場の現実にこたえたものになっているかどうか、あるいは性急さという点で問題があるのではないか、こういったことも指摘をされているわけであります。

 教師の置かれている状況についてもう少しお話をさせていただきますと、例えば、先ほどの経済格差といった問題にかかわって、御存じのように、朝食をとれない、あるいはとらないで学校に来る子供たちというのは、大変この間ふえております。ですから、一時間目から体に力が入らないわけで、そういった子供たちを目の前にして、休み時間に保健室に呼んで、自分で自腹を切ってパンや何かしらのものを食べさせているというふうな教師も決して少なくありません。

 こうした教師は、こういったことは当然必要なことだというふうにはわかっているけれども、時々、これが本当の教師の仕事なんだろうかというふうな思いにも駆られるというふうなことをよく述懐されます。子供たちは喜んで食べてくれるわけですけれども、それは本当に教師としての私に感謝しているんだろうか、子供たちは、おなかをすかせていても、やはり学校で何か新しいことを学びたいと思って学校に来ているのではないか、子供たちに感謝をされるのであれば、この学びたいというふうな欲求にこたえることで感謝されるのが本当の教師の姿なのではないだろうか、そんなことを先生たちはよくおっしゃいます。

 あるいは、数人の子供たちと電話で、朝御飯はきょうはちゃんと食べたかとか、きょうは学校に来られるかというふうなことから一日を始める、朝七時に出勤をして、それが最初の仕事であるというふうな教師も決して少なくありません。

 例えばそういった教師の一人は、こういった子育てやそれから子育ちの環境の厳しさに向き合うためであれば、どんなに自分の体がきつくても構わないけれども、国や市の研究指定などで上から降りかかってくる仕事がとても多くて、それが大変残念でならないというふうなことをおっしゃいます。

 今御紹介をした一人の教師の例ですけれども、この女性教師は、保育所に自分の子供を預けて、そして子供を迎えに行って、車の中でコンビニのおにぎりを買ってきて食べさせて、また学校に戻って仕事を続ける。深夜に仕事を終えて、保健室のベッドで眠らせていたその子供を起こして、車に乗せて帰宅をするというふうなこともしばしばでありました。

 このように、今、教師たちにとって仕事の核心といったものが非常に見えにくい状況が生まれています。あるいは、仕事の核心だと自分が信じているものに対して力を注ぐことができない状況というふうなことが生まれているわけです。

 多くの教師が、教師とは何なのか、教師は何をすべきなのかというふうなことを自問し始めています。そして、なぜ自分は教師になったんだろうか、これからも教職を続けていけるんだろうか、教師を続けていっていいんだろうかというふうな問いを、子供たちにもっと多くのことをしてあげたいけれども、しかし、それができなくて申しわけないと自分を責めながら日々の教育活動をしている、そういう教師は決して今少なくないわけです。

 教師の勤務条件のこういった過酷さがもたらす弊害というものは、教師の心身の健康破壊をもたらすことになります。もう少し頑張れば授業の質ですとか子供たちとの関係をよくできるというふうに思っていても、時間が足りない、慢性的な疲労のためにあきらめざるを得ないというふうな状況が生じてきます。実践を振り返ったり、新しい着想を試したりする時間というのが教師にとっては大変大事なわけでありますけれども、そういった時間が奪われる。でき合いの教材ですとか、専門誌、専門家というふうな人たちのアドバイス、こういったものに対する依存が強まっていきます。どんなに多くの仕事をこなしても、やりがいや満足感を得ることが以前よりも難しくなってくるというふうな状況が生まれてきているわけです。

 このように、教師の主体性と自律性といったものが弱まっていく、学校内外の同僚たちとの対話の時間が奪われていく、失われていくことで孤立が深まっていくというふうな状況が学校には見られます。

 教職員数や予算といったものがむしろ今減らされていくにもかかわらず、やらなければならないことがふえているということが、教師が長時間の過密労働を強いられていることの大きな原因になっています。子供たちにもっと多くのことをしてあげられなくて申しわけないという自責の念が、教師を主体的に、括弧つきですが、主体的に過密労働に向かわせてもいるというふうな状況があります。

 ただ、かつてのように、自分で納得できる教育実践ができなくなっているのは、そもそも、そうしたより劣悪な状況のもとでより多くのことをすることが求められていることに原因があるというふうに考えられます。誠実な教師が陥りがちな自責のわな、自分を責めるというマインドといったものでしょうか、そういったものはやはり構造的につくり出されているというふうに考えるべきだというふうに思います。

 文科省の統計によりますと、平成十六年度の精神性疾患による病気休職者の教師は三千五百五十九人に上ります。病気休職者全体の五六・四%を占めることになり、この割合は、御存じのように、年々上昇を続けております。また、平成十七年度に退職をした広島県の小中学校教師の八五%は早期退職でありました。定年までつまりもたないというふうな状況があります。教職についたばかりの青年教師から、あと少しで定年を迎えるにもかかわらず、その数年間を耐え切ることができないベテラン教師まで、中途退職をする教師が確実にふえています。

 教師の自殺件数にしても、公式的には、この数年間、全国で百名前後で推移をしていますが、恐らく実態はさらに多いのではないだろうかというふうに思います。

 こうした数字を見ても、今の日本の教師が置かれている状況、厳しさといったことがそこからうかがえることができるのではないでしょうか。

 さて、今回のこの免許更新制等が、こういった教師の置かれている状況を改善する、そして、そのことによって、今の学力低下やいじめ、さまざまに言われている教育問題の深刻化に対して一定の歯どめをかけることになるのかどうなのか。そうした点から、今回の改正案の問題点について次にお話をさせていただきたいと思います。

 問題点ということになりますが、第一に、更新制は、身分の不安定化、不安感それから多忙化といったものを促進することになります。

 こういった改革は、改革の意図ということ以上に、当事者がどう受けとめるのかといったことが大事だろうというふうに思うのですが、教師は、更新制と今回の人事管理の厳格化を、政府あるいは行政が自分たちのことを信頼していない証拠であるというふうに受けとめることになるのではないでしょうか。また、社会も、教師が更新制の対象となることで、信頼を高めるどころか、一層不信の目を持って教師を見るようになるのではないでしょうか。

 教師は、信頼されていないことを感じながら、また、十年に一度の更新期間までの間、免許の失効の不安にさらされながら仕事をすることになります。こうした不安の中で、教師は熱心に働いているかもしれませんが、それは、身分の不安定化と不信を感じながら、追い詰められるようにして多忙化へとみずからを追い込んでいく教師の姿です。こうした教師の姿を目の当たりにして、教職の魅力というものが失われていくのは私は当然だろうというふうに考えます。

 第二に、更新制の導入は、教師の専門家としての成長の生命線とも言える自主的な研修の機会、学び合いの機会をさらに減少させることになりかねません。

 更新制にかえて導入された十年経験者研修を初め、この間、行政研修は体系化され整備されてきました。行政研修の意義はもちろんありますが、教師の能力の向上にとっては、教育活動の具体的な問題を持ち寄って学び合うことができる機会が決定的に重要であることは言うまでもありません。今回、更新制が加わり、また、教員の評価の実施とともに体系化されてきた研修の受講の結果が更新の是非にもつながるということが言われています。

 こうした中で、相対的に自主的な研修機会が減少すれば、研修の量はふえても、質的には向上にはつながらないというふうな状況が生まれかねません。かつて、外国から日本の教育の成功のかぎであると目されていた、称賛をされていた日本の教師の自主的研修というのは、既に、逆に外国の教師におくれをとるようになっているとまで指摘をされている状況があります。

 第三に、指導改善講習を受けて、最後に改善の程度が判定をされるわけですが、この判定の妥当性に対して疑問があります。

 現在も、指導力不足教員の判定、認定において、個人的な思想や信条など、本来の資質、能力以外の要素が入り込んでくる、そういった問題が指摘をされていますが、人事管理の厳格化によって講習期間を原則一年間に短縮するということがうたわれております。一年間という限られた期間での判定をすることが求められることで、判断の妥当性に対する不安というのは一層強まることが考えられます。専門家だけではなく、地域の人々の意見を聞いて判定するというふうにされていますが、どのような地域の人々の意見がどのように求められるのかというのは、ここでは決定的な意味を持ってまいります。

 先ほど冒頭にも申し上げたように、教師に対する批判やバッシングというふうなことが強まっている現在の状況の中では、極めて根拠を欠いた不合理な判断というのがなされる可能性というものをぬぐい去ることはできません。私も、子供の学習権を保障するために、いわゆる指導力不足教員の判定を厳格に行うということには反対ではありません。しかし、判定の厳格化は、判定のスピードアップとはむしろ逆行する可能性があります。むしろこれでは、人事管理による厳罰化と言った方が適切な今回の改革案であるように私には思えてなりません。

 第四に、更新講習の実施体制、免許管理体制、それから、更新を受講する教師のカバーですとか校内のバックアップ体制といったものがほとんど考えられていないということが問題であるというふうに思います。

 既にこのことは、教育委員会、講習を実施することになる大学、あるいは更新講習の受講者を抱えた学校現場に大きな不安をもたらし始めています。夏休みに講習を実施するなどの配慮はなされているようですけれども、夏休みでも教師は仕事をしています。こうした実際的な体制面を整えるのであれば、一体どれだけの予算上の措置、人的な配置といったものが必要なのか、そういった考慮が十分になされているようには私には思えません。少なくとも、実務上大きな支障が生じないように更新制を導入するのであれば巨額な資源が必要なはずですけれども、それを抜きにして無理に実行しようとすることでうまくいくとは私には到底考えられません。

 第五に、更新講習の内容、修了の判断の妥当性という問題があります。

 更新制は、必要な資質能力を刷新することを目的としていますが、この必要な資質というのはだれがどのようにして判断をするのか、それによってまた、修了の判断の妥当性ということも問われることになります。必要な資質の内容を確定するのは決して容易なことではありません。少なくとも、教育学の最先端の理論研究と教師の実践的知見の統合に基づいてこれは検討されなければならないことですが、このことが十分に考えられたとは思えません。

 改革案を見ると、講習の実施主体は、具体的には教職課程認定を受けている大学の教員であるようですが、内容の基準については、従来の教職課程に適用されているよりもより一層強い、国による縛りがかけられるようです。必要な資質をだれがどのようにして判断をするのか、十分に合理的な裏づけを示した上でなければ、国の内容統制、教育に対する内容統制というものは、誤った方向での教師の画一化、さらには専門性の低下をもたらしかねないのではないでしょうか。

 第六に、国の講習内容に対する統制や、これまで申し上げてきた、身分の不安定化、不安感、多忙化、自主的研修の減少、人事管理の厳格化といった状況の中で、教師のマインド、心性といったものの変化がさらに一層促される可能性があると私は考えています。端的に言えば、子供、保護者に対して直接に向き合う教師から、行政機関の末端としての教師への変化です。

 昨年十二月に改正された教育基本法の十六条一項には、教育はこの法律及びその他の法律に基づいて行われるものというふうな規定があります。教育行政が法律に基づいて行われるのは当然だというふうに言えますけれども、私には、教育が法律に基づいて行われるという文言に対して違和感を感じざるを得ません。

 子供たちとの直接的な人格的な交流を通して行われる教育は、法律という形式的な枠組みの中では決してとらえ切れないものです。それを無理やり法律に従わせようとすれば、教師と子供たちとの関係も、形式的で、人間的な温かみや情感を欠いたものになりかねません。更新制は、こうした教師の心性、マインドあるいは構えといったものの変更を、さらに、その流れにさお差すことになるように私には思えます。

 最後ですが、教師や学校に対する信頼は、具体的な教育実践と、子供たちや保護者、地域の人たちとの交流を通じて獲得されるものだというふうに考えます。決して、免許を更新された教師だから尊敬と信頼を得られるというものではないと考えます。また、免許を更新された教師は、免許を更新されたからといって、教師が自信を持って教壇に立てるという保証はありません。

 申し上げてきたように、更新制は、教師から子供たちとの交流の時間や心の余裕というものを奪っていきます。そのような更新制は、子供たち、その保護者、そしてその社会からの教師に対する信頼を高めることにはならないというのが私の結論です。

 ありがとうございました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の方々からの意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

保利委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。若宮健嗣君。

若宮委員 自由民主党の若宮健嗣でございます。

 本日は、参考人の皆様方におかれましては、本当に御多忙の中、また教育基本法のときにも参考人としてお見えをくださり、また、実際にも教育に携わっておられる本当に御見識のある方々ばかりでございます。貴重なお時間をちょうだいいたしまして、まことにありがとうございます。

 今、安倍内閣では、まさにこの教育再生が最重要課題ということで取り組んでいくということで、この特別委員会も、保利委員長のもと、つくられてございます。

 私自身、議員である前に一人の国民でもございますし、また、高校生と中学生を持つ、まさに成長期の子供を今抱えております一人の親でもございます。ですから、先生方の、きょうの四方の意見を拝聴いたしておりまして、まさに、確かにそうだな、自分たちの子供が、自分の子だけじゃなくて、これが十年後、二十年後、三十年後、今いろいろな問題が、先生方の御開陳にありましたように、社会情勢の変化あるいは国際情勢の変化、はたまた家庭環境や地域の環境あるいは住環境、すべて含めて、私、これは教育基本法のときにも実は質問申し上げさせていただきましたが、大きな変化ができております。

 私自身が実際に育ちました子供のときには、放課後、先生が、音楽がちょっと苦手だった子供には手ほどきをし、楽器を学ぶことによって音楽に興味を持たせて、そして音楽の授業に対して魅力を感じさせるように持っていったり、あるいは絵がちょっと苦手な子であれば、こういうふうにかいてみるとこうなるよと、授業以外の部分でも、特別授業というわけではなく、ちょっとした手ほどきという、細やかな愛情というようなものが折に触れてございました。もちろん、今もあるんだと思うんですが。

 基本的には、先生方は大変な御見識の高い方々でいらっしゃいますので私ごときが申し上げるまでもないかと思うんですが、やはり先生も、そして一般の会社で勤めておられる、私も民間人でございましたが、会社員であろうとも、議員であろうとも、その人物に魅力があるか、そしてまた、自画自賛ではなくて、周りの方がどう思うか。

 先生で申し上げますと、みずからたくさんの教え子を抱えておられると思うんですが、御卒業になって巣立っていかれた生徒さんたちが、またあの先生を囲んでクラス会なり同窓会なりやりたいな、みんなであのときの輪っかをもう一度大切に、ずっと何年間も、毎年毎年続けていこうじゃないか、こう生徒が思えるかどうかというのが、ある意味、企業の観点からいきますと評価につながるのではないかな。

 これは、ペーパーテストで何点をとったとか、あるいは面接試験で口頭というのは、やはりどうしても私見が入ってしまいますのでなかなか評価の難しいところだと思うんですが、何よりも一番正確に出るのが、教え子たちから、教わった、巣立った後にいかに評価を受けるかというポイントというのは、非常に大きなところではないのかなと私自身は感じております。

 きょう、いろいろな御専門の御意見を拝聴いたしまして、いろいろな御議論があるところは私も勉強させていただいておりますが、四方にお伺いしたいのは、先生方御自身が、あるいは一人の、もちろん経営者でいらっしゃるお立場でもございますけれども、一教師、先生として、また、後進の方々に向けて、あるいは、御自身が家庭人であり、一人の親として、どんな教師像、先生像、あるいは、後進の方々に対して描かれ、目指され、そしてまた、こうあってほしいな、今こうあってほしい、また十年後ぐらいこうあってほしいな、これがひいては日本の国全体のためになるのかなというふうなお考えがもしございましたら、お一方ずつお述べいただければと思っております。よろしくお願い申し上げます。

梶田参考人 今若宮先生がおっしゃったこと、非常に、私、同感を持って聞かせていただきました。特に、教師の評価というのは、いつまでも慕われる教師である、こういうことは非常に重要といいますか、土台になることだと思っております。

 信なくば立たずで、これはもう政治家の方々も同じことだと思いますけれども、教師という仕事は、まず、信頼されなきゃいけない、尊敬されなきゃいけない、愛されなきゃいけない、そしてそれが、卒業して、直接の教える教えられるという関係がなくなっても続くぐらいの強いものでなきゃいけない、そういうふうに思っております。

 私は今、教員養成の大学の責任者をしております。そこで皆さんにいつも言っておりますのは、もちろん、専門的な力量は必要です。教える中身がよくわかっていなきゃ、それはだめです。あるいは、教える方法論もわからなきゃいけない。そういう専門的な力量は大事なんですけれども、土台として、今御指摘の、いつまでも慕われるといいますか、私がいつも申し上げている言葉で言いますと、師であること、師であるということをお互い考えようと。お友達じゃだめなんですね。お友達じゃないんです。やはり、後ろ姿でも、あるいはちょっとした言葉の端々でも、子供に影響を及ぼしてしまいます。

 したがって、身を持して、自省自戒をして、常に自分自身が人間としての先輩として、人生の先輩として、あるいは、例えば算数、数学を教えるにしても、算数、数学を教えるということを通じながら、やはり、人生を教えていけるといいますか、人間としてのあり方を教えていけるといいますか、そういう者にならなきゃいけないんじゃないか。そのために、常に研修し、努力し、繰り返しますが、自省自戒をしようということを申し上げております。

 そういう意味で、私は、専門的な力量、これは当然ですけれども、その土台に、師であるということ、これを大事にしていきたい、そういうふうに思っております。

高倉参考人 若宮先生の、人物に魅力がなければならないという言葉に非常に心打たれております。

 関連して、第一点は、私、かつて教職課程の授業等を持っておりました。教員養成の大学にいたこともあります。そういうときに、学生に、なぜあなたは教師志望なのかと聞きますと、非常に多くの学生たちは、子供が好きだからだ、こういうふうに言うわけですね。子供が好きなんだ、それは大切ですけれども、私は子供から好かれるタイプだというような答えというのはなかなかはね返ってこない。子供から好かれるようなタイプとはどんなタイプなのか、あるいは、そのためにどういうふうに自覚的に努力するのかというようなことが教員養成等々に求められるのではなかろうかというのが第一点でございます。

 第二点は、私、高等学校を卒業して五十五年ぐらいになるでしょうが、いまだ、担任だった先生が、もう本当に御高齢でございますが、しょっちゅう私に手紙を下さる、そして叱咤激励してくださるわけでございますけれども、私に何て言ってくれるか。非常に子供のころからの様子を見ていて、私に水戸っぽはやめろと言うんですね。

 先生方、ぴんとこられる方となかなかこられない方がいらっしゃるかもしれませんが、水戸っぽというのは、水戸っぽの三ぽいといいまして、怒りっぽい、飽きっぽい、骨っぽい。骨っぽいというのは、実は融通がきかないという意味ですね。その中で、特に怒りっぽいが出てまいりますので、すぐにかっとなる、子供のときからその癖がある、したがって、おまえ、水戸っぽはやめろよ、必ずそれが手紙の最後についてくる。本当に我が師の恩というものを感ずるわけでございます。

 第三番目に、先ほど梶田先生から、師ということについてお話がございました。師とか師範という言葉が最近なかなか聞かれなくなってきております。教員像という言葉でずっと政府の答申などはこれまで整ってきておりましたけれども、一昨年でしたか、義務教育の構造の答申になりますと、揺るぎない信頼云々ということで、教師像ということが使われるようになりました。

 師か教員かという言葉は別といたしまして、北京師範大学に行きますと、門を入りますと大きな石碑がある。そこに何て書いてあるかというと、学びて人のために師となり、行いて世のために範とならん。こういった先生ですね。こういった先生はどういうふうにしたらば養成できるのか。あるいは、養成するというようなことよりも、やはり、生まれながらにしての師というような、そういったタイプがあるのかどうか。私も今、いろいろと考えているところでございます。

 ありがとうございました。

嶺井参考人 私も、若宮先生がおっしゃいましたことに賛成でございます。

 高倉先生と同じで、私も、教職課程の授業のときに、なぜ教師を目指すのかというふうに聞きます。聞きますと、九割が、いい先生に出会ったと言ってくれます。一割は、ああいう先生になりたくないと言う学生がおります。いわゆる反面教師、ああいう先生になりたくないので、やりたいという者も確かにおります。

 では、どういう先生だったのかと具体的に聞きますと、一つは、えこひいきをしないということが物すごく子供たちにとって大きいかなと思っています。それから、しかるときと褒めるときのめり張りをつけてくれた先生だったとか、いろいろ具体的なことを挙げてくれるんですが、私が学生たちとそういうアンケートを踏まえながら話をしていますと、圧倒的に多かったのは、ともに何かをやっていこうという先生、一緒に何かをやっていこうという先生。それから、自分の非を、子供から言われたらちゃんと自分の非を認める先生というふうにして、子供を自分と同じような立場、一人前の人間として認めてくれて、一緒に育っていこう、そういう姿勢の先生に会ったから私はああいう先生になりたいというふうに言ってくれる学生が多いことに、まだ私は、日本の学校教育、先生たちに希望を持っております。

 以上です。

勝野参考人 お答えいたします。

 私は、若宮委員、それから三人の参考人の先生方がおっしゃられたことに、基本的に全く異論はありません。

 少し違った角度でお答えをしたいと思いますけれども、やはり教師というのは、働きながら自分の人格をまたつくり上げていったり力量を高めていく、そういう存在である。これは決して教師だけではないというふうに思いますけれども、あらゆる人間、社会人に当てはまること、あるいは子供にとってもそうなんだろうと思います。

 ですから、そういった機会といったもの、それは、教師にとっては、子供との直接的な接触、触れ合いですとか保護者との忌憚のない話し合いだとかという中で教師というのは成長していく、つまり、よい教師になっていく存在だというふうに思うんですね。

 ですから、私は、先ほど来お話しになられていた、お答えの中にもありましたような、よい教師像、それは、大きなところでは共通するものもありますし、また、個々の保護者の方たちや子供たちにとっても、いろいろなものの違いはあるかと思いますけれども、そういったものが、具体的な学校や教室というふうな場で子供、保護者の意見が出され、それに対して教師がこたえていくという場をきちっと保障すること、それがやはり、いい教師という、漠然としたものですけれども、それに教師が近づいていく一番の近道なのではないか、よい方法なのではないかというふうに考えています。

 以上です。

若宮委員 皆様方、お考えありがとうございました。

 続きまして、余りお時間がございませんので、細かいポイントというよりは、どちらかというと全体的なお話し向きで御質問をさせていただければと思っております。

 私自身は、実は、祖父母、両親の三世帯で育ったものでございますので、自分の知らない時代の、戦中、戦前の話とかもずっと聞いて育ったものでございます。ただ、先生自身が、きょう参考人でお見えくださった先生方も、皆様方、それぞれ年代が多少異なっておられます。恐らく、御自身が教わった先生方の年代、あるいはその価値観というのも、時代とともに、やはり今も変わってきていると思うんです。先ほど、十年ではちょっと長いんではないかというような御意見もございましたけれども、日々、一年一年、価値観あるいは物の考え方というのは変化してきていると思うんですね。

 私は、梶田先生のお話の中にございました、教育は人なり、まさにそのとおりだというふうに思っております。まさに、教育は人なり。会社もそうです、会社も人なり。そして、広く言えば、国家も人なりであると思っております。

 また、今のこの世の中の子供をめぐる情勢、本当に、子供が親に手をかける、親が子供に手をかけるといういろいろな痛ましい事件が起きているこういう情勢の中で、先生方も、本当にお困りの部分、あるいは、どう対応していいか、先ほどモンスター保護者というお話もございましたが、お困りの部分というのもあると思います。その先生方が、実は、既にもう核家族化で、以前の、昔の習った方々と、ある程度の年代の方と違った教育を受けて先生になられておられる方がたくさんいらっしゃると思うんですね。

 ですから、私は、ある意味では、一度免許を取ったからといって、そのままずっと更新をされていくということではなしに、やはり自分の、例えば生徒と向かい合うときでも、自分の尺度で物を見るだけではなくて、さまざまな、自分の中でいろいろな物差しがあって子供たちを見る、その幅の広さが広ければ広いほど器の大きい先生になるのではないのか、もちろん、専門的な知識ももちろんのことだとは思っておりますが、そんなような気がいたしております。

 それには、何かといいますと、まず、みずからを知って相手を知ることということ、自分をわかることということで、先ほど、自省自戒とかという御意見もいろいろ承りましたのですが、その中で、やはり先生には使命感とかやりがいとかを持っていただきたいと思っております。

 今、このままで何もしなくていいということは、どなたも思っていらっしゃらないと思うんですね。何かを変えていかなければ、どうしたらいいのか、そのあたりを、お時間が余りないので、恐縮でございますが、またお一方ずつ、申しわけないんですけれども、簡単にお答えいただければと思っております。

梶田参考人 それでは、簡単に申し上げます。

 私ども、我が大学のカリキュラムの改革の中でも、今言っておりますのは、まず第一は、使命感を持てるようにしよう。つまり、いろいろな仕事があります。みんなどの仕事も大事なことです。でも、よほど思い定めて決心してやらないと、教師の仕事というのはやはりしんどいことがたくさんある。だから、使命感、これこれのために、つまり、御縁があるこの子の未来のために、そして、それを通じてこの社会の未来のために、こういう使命感を持つということを、いろいろなことを通じてやっていこうということをやっています。

 もう一つが、学生時代から多様な経験を積むということで、いろいろなところにボランティアで行ってもらっております。いろいろなボランティア活動、大学がお世話をして今組織をしております。これも私は非常に大事だ。去年なんかは、トカラ列島に、七、八人の学生、大学院生が分かれて、一つの島に一人ずつ行きまして、ずっと島民の方々、あるいは学校でのお手伝い等を通じていろいろなことをやってくるということもやりました。また、障害を持っている方々のいろいろな意味でのお手伝いにも非常にたくさんの学生が今出かけております。

 そういう体験を膨らませていくということ、このあたりはしていかなきゃいけないな、こういうふうに思っております。

高倉参考人 ありがとうございます。

 私は、学長として、卒業式、入学式等、必ず学生に話をする機会がございます。また、それしか機会がございません。そのときに、また学長、始まったと言われますけれども、必ず学歌、大学の歌、校歌ですね、その一節を私なりにお話をする。それは、「ああこの世界を一度だけ通り過ぎる 何かひとつ 人類(ひと)のために 私達にできる何かを」、このことを胸に刻んで、一生誇り高く歩んでほしい、こういうことです。

 ですから、私に今できることというのは、そういうことを繰り返し繰り返し自分の体験をも交えながら学生に語りかける、こういうことでございます。学長というのは教師なのかどうかわかりませんが、私は、そういうことで教師としての役割を果たし、そして、そういった心を一つの使命感として若い者に引き継いでいってほしいという願いを託しているわけです。

 失礼いたしました。

嶺井参考人 私は、二つ申し上げたいと思います。

 一つは、先ほど先生がおっしゃいましたように、放課後、先生といろいろつき合われた経験があるとおっしゃいましたけれども、そのように、教職員が子供や保護者と一緒に向かい合える時間をちゃんと保障してほしい。触れ合う時間が全く今ないような状況にあるということが大問題かなと思っています。

 二つ目です。本当にいい教員を育てるには、養成段階だけではだめで、私は、日本の教育制度自体が、本当にゆとりを持って豊かな経験ができるような教育制度にすることが基本的にまず大事だというふうに思っております。

 以上でございます。

勝野参考人 私は、先ほど申し上げましたように、今、日本の教師、本当に、やりがいや使命感といったものの危機、日本の教師にとって危機的な状況があるというふうに考えています。

 私は、使命感ややりがいといったものは、いわば外側から、外部から、教師にとっての使命感はこういうものだというふうなことを決めるのではなくて、教師自身がやりがいだというふうに考えているもの、使命感だというふうに考えているものを尊重していくというふうなことが大事だろうというふうに思っております。

 そのためには、更新制というふうなことにも少しかかわってまいりますけれども、教師が何にやりがいを感じているのか、その点、先ほど嶺井参考人がおっしゃられたことに私も同感です。教師が子供たちとの触れ合いですとか直接的な接触というふうなところにやりがいや使命感を感じるのであれば、そういったことを助長していく、助けていくような制度改革というものを考えるべきだというふうに考えます。

 以上です。

若宮委員 短い時間で恐縮でございましたが、大変貴重なお話をいただきました。また、重責につかれておられるお立場でもございますので、また今後とも教育行政等々にも大きな責任をお果たしいただければ幸いでございます。

 本日は、まことにありがとうございました。

保利委員長 次に、大口善徳君。

大口委員 公明党の大口善徳でございます。

 本日は、梶田先生、高倉先生、嶺井先生、勝野先生、本当に貴重なお時間を、また貴重な御意見を賜りまして、心から感謝申し上げます。

 私も弁護士であるわけですけれども、自分の職業を決めるときに、高校の教師から、法律の知識がなくて、実は自分の友人がこういう状況になっているんだ、この中で、そのことを感じてくれた人の中に法曹を目指す人が育ってほしい、こういうお話を聞いて非常に感激いたしまして、それで法曹を志した、こういうことでございまして、ある意味では私の人生を決定づけるそういう話を授業の中で聞いた、こういう経験がございます。

 そういう点で、教師というのは、本当に生徒にとって、子供にとって極めて大事な存在である。私は、そういう点で尊敬もいたしますし、そしてまた、教育現場で一生懸命頑張っておられる先生もたくさんいらっしゃいます。そういうことで、もっともっと教師が尊敬され、そして師と仰がれるような存在になっていただくことが本当に大事だな、こう考えております。

 そういう中で、今回、更新制の問題、そして教師の人事管理システム、これを国の制度としてきちっと法律づける、こういう大改正になったわけでございます。

 まず、梶田参考人にお伺いしたいと思います。

 参考人は、中教審の部会長として、この三月十日、今回の答申を、相当な苦労があったと思われます。とにかく、三週ぐらい続けて土曜か日曜か審議をされて、教員免許の更新制導入について、これは、先生は、平成十二年十二月の教育改革国民会議の報告「教育を変える十七の提案」で検討するとされてから、平成十四年の中教審において、一度は、この導入を見送らざるを得ない、こういうことがあって、その後、議論の変遷があって、そして今回のこの更新制の導入という結論に至ったわけでございます。

 そういう点で、梶田参考人は、この間の教育改革国民会議から中教審までの議論にずっとかかわってこられた、こう思うわけです。その変遷と、特にこの議論の中でこれだけは言っておきたいということがありましたら、御教示願いたいと思います。

梶田参考人 二〇〇〇年から今に至るまで、中教審あるいはその前の教育改革国民会議で議論させていただきまして、教員の問題につきまして、ここに絞ってまいりますと、常に、現実論と理想論といいますか、これをいろいろな形でお互い出し合ったんだなということを思います。

 やはり教師というのは、だれが見ても尊敬される存在であってほしいんですよ。これは中身、専門的な力量もそうですし、人間的にもそうですし、それから情熱とかやる気とか使命感とかなんですけれども。

 しかし、小中高の先生だけで百万人おられますから、そうすると、毎日毎日、新聞種になるような、そういう事件も実際には起こっているわけです。あるいは、地域によっては、これはもう余り言いたくありませんけれども、かなり、できるだけ楽をしたい、できるだけ自分勝手をしたい、それが教師の自由なんだ、これが教職の魅力なんだという、履き違えた人たちがおるようなところもないわけではありません。これが現実なんですね。

 ただし、大急ぎで言いますけれども、一生懸命やる人というのは、本当に一生懸命やります。本当に寝食を忘れてやっている教師もいっぱいおります。あるいは、私どもは、もう二十何年、私たちの人間教育研究協議会というんですが、勉強会を持っておりまして、これが夏に、二、三日かけて実践交流会をやります。これにもう二十何年、毎回身銭を切って、そして自分で旅費を払って千人以上が集まってこられるわけですね。そういう熱心な人たちもおります。

 こういう、ある意味で非常にバラエティーに富む教師集団、百万人おられます。これを全体として底上げするにはどうするか、これが一つの大きな課題だったと思います。全体としてまず底上げしなきゃいけない。これが、今回も申し上げましたが、免許更新制の問題でもありますし、あるいは、大学における教員養成のカリキュラムを改善するということでもありますし、教職大学院をつくるということでもあります。

 しかし、もう一つは、やはり、ほんの一%かあるいは何%かわかりませんけれども、少数だけれども、これまで教師が日本社会で大事にされてきたということに甘えまして、やはり世の中の常識からいってこれはどうかなという存在がないわけではない。この人たちにどういうふうにしてもらうか。例えば、研修に出てもらって、そこで自分を振り返る、そういうチャンスを持ってもらうとか、あるいは、それでもだめな場合にはどうするかとか。

 あるいは、今、実を言うと、いろいろと不祥事を起こしても、地域によっては処分が非常に甘いんです。それで、そういうものについてどういうふうに、まさに厳格な人事管理ですね。処分が甘い。本当に新聞種になるようなことをやっても、普通は懲戒免職にならないことが多いんです。自主的に退職すればいい方。こういうことがありますので、これをどうするか。

 こういう全体としての底上げと個別のいろいろなことについて、もう少し世の中の常識に合ったように、あるいは世の中の人たちに信頼してもらえるようにどういうふうにやるかということで、ずっと議論してきたと思います。

 時期によっては、理想論が勝って、そんなうるさいことを言ったら教師のなり手がなくなるよ、もっともっと教師を大事にするというその姿勢を示すのが大事だというのが勝つときもありましたし、そうじゃなくて、そのことは大事なんだけれども、まずい点があれば今の時期に思い切って是正しなければまずいんじゃないかなということがあって、そういうことで今日に来て今回の御提案になっている、そういうふうに私は見ております。

大口委員 次に、高倉参考人にお伺いしたいと思います。

 先生はこの教員の免許制度をずっとやってこられたということをよく存じております。その中で、平成十四年の中教審で、なお慎重にという結論が出た。今回、更新制というものに踏み出された。ここに至って、現場の教師の方々が、こういう更新制ですとかあるいは不適切な教員の人事管理制度を法律化するということに対してどのように受けとめておられるのか。やはり、これは前向きな制度として考えるべきだ、私はこう思うわけでありますけれども、いろいろ疑心暗鬼があったり、不安をあおられたりという形で、今の現場の教師の方々が非常に不安に思われている。

 そういうことで、今回のこの更新制等について、現場の教師がどういうふうに受けとめられているのか、そして、どういうふうに説明をして、しっかり理解してもらうようにすればいいのか。

 それからもう一つ、特別免許状について。これは、今回は十年という形に決まったわけですけれども、社会人を活用していこうということから期限の撤廃ということがなされたわけですね。その考え方と今回の考え方の整合性について。

 二点、お伺いしたいと思います。

高倉参考人 率直に申しまして、現場の受けとめ方というのは非常に混乱していると思います。その非常に大きな原因というものは、情報が十分に伝わっていない、こういうことではなかろうかと思います。したがいまして、教育再生会議ではございませんけれども、社会総がかりで取りかかるという教育改革あるいは教育再生の営みが必要なわけでございますので、やはり総がかりで、教育改革、更新制の意義、あるいはその中身等々についての十分な情報を提供し、そして先生方が本当にそれを理解して、自分たちがその中でもって新しい制度の成立及びそれの実行というものに協力してくださるような、そういった努力をするということが非常に大切ではなかろうかというふうに思っております。

 なお、特別免許状の件でございますが、これをどうするかということでございます。これは、何もかも一緒に考えるということには問題があろうかと思います。

 私、ちょっとユネスコで仕事をしたというふうなことがございます。そのとき、ユネスコで採択したリコメンデーションがございます。それは、教員の役割の変化と教員養成及び研修に対する影響、それにかかわる勧告ということでございます。

 教員の役割というのは、変化した、チェンジドではなくて、チェンジングだというふうなことですね。そういったことから、もっともっと教育あるいは教員の世界にいろいろな地域社会のスペシャリストあるいはプロフェッショナルズをどんどんインバイトすべきだというような勧告の取りまとめをしました。

 そのときに、私、今思い出しましたけれども、大分前ですが、社会人を積極的に受け入れる、モア・アンド・モア・インボルブドというような原案をつくりました。そうしましたら、大変な反発を受けまして、やはりモア・アンド・モアというところに問題があるというようなことで、大体、国際的合意というのはアプロプリエートとかアプロプリエートリーという言葉を差し挟むことによって合意を得るというのが一つの鉄則でございますが、そういったことで合意を取りつけたということがあります。

 したがいまして、社会人を教育の現場にインボルブする、インバイトするということは、非常に教育の世界に対する活性化というような役割を果たすと同時に、やはりもう一つ、十分な条件なりあるいはそれに対する合意というものが必要かなというふうに思っております。

 なお、先生のお尋ねは、正規の免許状と特別免許状が更新制というところで別の扱いをされるのはいかがなものかということでございます。それについては、やはり何もかも同じに考えるということじゃなくて、多様な対応というのはあってもしかるべきだというふうに考えております。

 ありがとうございました。

大口委員 教師の今置かれている立場の中に、例えば、要するに給食費の取り立てまで学校の先生がやられている。相当大変な、事務だけじゃなくていろいろな負担が現場の教師にかかっている、こう思っております。こういうことで本当に子供としっかり向き合えるのかということは、私は本当に真剣に考えなきゃいけないと思っております。

 ですから、本当に、要求されることは非常にレベルの高いことがどんどんこれからふえてくるわけですね。一方では、給食費が未納のところへ取り立てまで行かなきゃいけない。そういうことで、勝野参考人、非常に今現場の教師が本当に向き合えるのかということについての問題提起がございました。そこで、本当に子供と向き合えるあり方というものについて御意見をいただければと思います。

 それから、嶺井参考人につきましては、十年に一回のリニューアルということは不十分じゃないかということでございますけれども、では、十年に一回、十年経験者研修というのがありますけれども、あるべき姿、これは与党も民主党も提案しておるわけですけれども、やるとしたらどういうふうにやるべきなのか。時間等は、三十時間とか百時間とか、今、与党、野党、提案ありますけれども、どうあるべきなのかをお伺いしたいと思います。

勝野参考人 お答えします。

 教師がその本来の仕事、やりがいを見出せるように子供たちや保護者と向き合える、そのためにはどうすればいいかというふうなことでしたけれども、私は、今その改革を見てみますと、改革の論理というのが足し算の論理になっている、あるいは場合によったら掛け算の論理になっている。次々と改革施策というのが学校現場の中に押し寄せておりますし、また、先ほど申し上げたような社会的な状況の変化、子育て環境の変化という中で、今お話しいただきましたような教師の大変さ、しんどさというのが生まれているわけだと思うんです。

 ですから、私は、基本的には今、教育、学校現場といったものの自律性ですとか自主性、教師が自主的に、先ほど来もお話ありましたように、自分たちである意味では身を律するというふうなこと、そういったことをきちっとできるような条件、そのためには、その改革というのを、足し算や掛け算の論理ではなくて、むしろ今、引き算の論理というんでしょうか、特に国が行うような改革あるいは自治体が行うような改革に関しては、極力、引き算というんでしょうか、なるべく学校現場の自主性を尊重するような方向での改革というふうなことを考えるべきだというふうに思います。そのことによって、教師の本当の意味でのゆとりというものが生まれるんだというふうに思います。

 以上です。

嶺井参考人 私は、日々リニューアルされるべき知見でありますとか子供への対応の仕方といったものは更新制という形ではない方が望ましいと考えておりますので、どういう更新制が望ましいかということについては考えておりません。むしろ、校内研修とかそれぞれの地域の中での幾つかの学校が集まった研修でありますとか、そういう中で、学校での子供たちの様子、地域や家庭での子供たちの様子を日々保護者などと情報を交換しながら、どうやっていったらいいんだろうかということを考えるようなゆとりが、そういう仕組みができればいいなというふうに考えております。

大口委員 最後に、梶田参考人にお伺いしたいと思います。

 これは免許のことではないんですが、地教行法において、私立学校を所管する都道府県知事は、私立学校に関する事務について、必要と認めるときは、教育委員会に対し、学校教育に関する専門的事項について助言、援助を求めることができる規定が設けられたわけですね。実際の運用として、私は、私立学校の自主性が尊重されるべきである、こう考えておりますが、これについての先生の御見解。

 それと、今回、教育委員会の方の法令違反、怠りによって、緊急に生徒の生命身体を保護する必要が生じた場合に、他の措置によってはその是正を図ることが困難な場合、文科大臣が是正、改善の指示ができることが規定されています。これについて、首長も、教育委員会の任命権者である立場から、支援を必要と考えるわけでございます。これは当然、総務大臣の答弁もありましたように、地方自治法の枠内ということでございますので、問題はないと思いますが、この二点についてお伺いしたいと思います。

梶田参考人 まず最初の、私立の学校の問題、これは非常に重要なことだと思っております。日本は非常にいいことに、私立の学校に対して自由度を与えております。これが、いろいろな近隣の諸国などで、かなり不自由なところもあります。自由な私立学校、つまり、私立というのは公立にできない教育をやるということでつくるわけですね。建学の精神があり、そして、その学校独自の教育の取り組みがある。

 もちろん、公教育ですから、法令にはきちっと準拠してやらなきゃいけない。学習指導要領にもきちっと準拠しなきゃいけませんので、未履修とかそういうことはあってはいけませんけれども、私立ということは、ある意味で、公立学校が米の飯であるとするならば、アラカルトをいろいろな形で準備して、国民の皆さんに多様な教育機会を提供する、そういうすぐれた全体のシステムじゃないかなと思っております。

 これにつきまして、もちろん法令違反とかそういうことがあれば、現在、知事部局が専門学校とか高等学校以下の場合には指導することになっております。あるいは、大学なども国がある程度指導することにはなっているわけですけれども、それはかなり抑制的でなきゃいけない。もちろん、間違ったことについては指摘しなきゃいけないけれども、やはり、抑制的でなければ第二の公立をつくってしまうようなことになってしまうと思います。それであるならば、単なる公立の補完ということになってしまいまして、今申し上げた、国民の皆さんに多様な教育機会を保障する極めてすぐれたシステムとしての私立学校の存在意義がなくなってしまうということを思っております。

 したがって、今回の地教行法の改正の中で、もしどうしても必要ならば知事が、例えば高校の未履修の問題などに教育委員会の応援を求めて助言してもらうということ、これはあってもいいかと思いますけれども、指示だとか命令というものが公立学校と同じような形でかかる、そういうことはやはり避けなければいけない、こういうふうに思っております。

 もう一つの、国が、例えば都道府県の教育委員会に対して是正の要求ができるとか、非常に差し迫った場合にはそれ以上のことがやれる。これは、今御指摘のとおり、今の地方自治法にあるそういう趣旨を地教行法にも明記したということであります。

 この点は非常にやはり大事なことであって、自主性は大事です、都道府県の自主性も大事でしょう、市町村の自主性も大事でしょう、個別の学校の自主性も大事でしょう、そして個別の教師の自主性も大事です。しかし、それが、それぞれのレベルでの自主性、別の言葉で言うと、それぞれのレベルの責任がいわばひとり歩きしちゃいけないわけですね。やはり国は国で責任を持たなきゃいけない、都道府県は都道府県で、市町村は市町村で、そして個別の先生は個別の先生で。このお互いの連携関係をどうするか、ある意味では、責任の分担をどうするか。

 そして、問題が起こったときに、やはり国も責任をとらなければいけない。これは個別の学校の問題だから、例えばいじめで自殺が出た、これはその学校の責任だから国は知りませんよでは済まないと思うんですよ。もちろん、まず学校の責任は考えなきゃいけない、設置者である教育委員会の責任も考えなきゃいけませんが、必要があれば、国もやはり相応に物を申し上げなきゃいけない場合もあるだろう、そういうふうに思います。

 そういうことで、今回、これも私は、改正案におきましては非常に抑制された表現で、それぞれのレベルでの責任を明確にするということになったんじゃないかというふうに思っております。

大口委員 ありがとうございました。

 以上で質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。

保利委員長 次に、田島一成君。

田島(一)委員 民主党の田島一成でございます。

 きょうは、四人の先生方、本当にありがとうございました。

 皆さんも御承知とは存じますが、実は、今回のこの教育三法に、対案として私ども民主党も法案を提出させていただいております。とりわけ、私も免許法の民主党案の提出者の一人でもありますので、特段の思い入れを持ちながら、今回は答弁にも立たせてもらっております。そういった中で、できれば今回の免許法の改正の部分について、それぞれお伺いをしたいというふうに思っております。

 私ども民主党の今回の法案の売りといいますか、アピールしたい部分というのは、やはり、出口だけではなく、しっかりと入り口の部分で、しっかりとした使命感とそして高い意欲に燃える先生方を養成していこう。そのために、現在は学士の四年間、短大出でも今は幼稚園ででもなられる方も当然いらっしゃいますけれども、その学士の受験資格、いわゆる免許資格を、修士の六年間を要求していこうというようなことを実は盛り込ませていただきました。

 この二年間の修士の部分の中の一年分は、いわゆる現場に入っていただいて、現場の副担任というような位置づけで、実際に教壇に立つトレーニングをOJTで一年間しっかり積み上げていただき、そして、四月、晴れて教壇に立たれるときに、すぐにでもその力を発揮していただける、そんな意味合いも込めた修士の二年間として設定をいたしました。

 それだけに、当然、負担感も出てくる。また、現実的かどうかというような質問等もこれまでありましたが、現に、フィンランドではもう既に修士の資格がないと教壇には立てないというような諸外国での取り組みもあるわけですので、そういうことを考えると、決して非現実的ではない。もうそろそろ機は熟してきているのではないかというふうに私どもは考えて修士を求めてきたわけでありますが、この点について絞っていただき、簡潔にそれぞれの先生方のお考えをお聞かせいただけたらと思います。

    〔委員長退席、鈴木(恒)委員長代理着席〕

梶田参考人 今、田島先生がおっしゃったこと、私は大賛成であります。

 実は、我が兵庫教育大学ではプロジェクトチームを今つくっておりまして、六年一貫の教員養成をどういうカリキュラムでやったらいいか、どういう仕組みでやったらいいかということをかなり今詰めております。それがあります。

 それからもう一つ、教職大学院という制度が来年春から発足いたしますが、実は、兵庫教育大学は一年先取りで、実質的に今年度から発足しました。これは実習の仕方も、いわゆる模擬授業をやってみるだけでなくて、インターンシップでできるだけ現場に漬け込んで、いろいろな意味で現場漬けにしてと言うとおかしいんですけれども、その中に指導者も送り込んでということで教職大学院はやります。

 こういうことで、私は個人的には、できるだけ早い機会に六年制一貫の教員養成を実現しなければいけない、こう考えております。

 また、中教審の教員養成部会でも、今そういうことも議論をしております。これが一番話題になるところなんですけれども、ただ、中教審の教員養成部会で議論をしておりますと、今は実質、小学校の先生だったら二年でも取れるんですよね。それから四年も多いわけですよね。やっと今、六年も割とふえてきました。大学院を出た人が小学校の現場へ行くようになりました。こういうさまざまなところを持っておりますので、教員養成課程を持っている大学は今八百ぐらいあります、これをスムーズに移行させるにはどうしたらいいんだろうかと。私が今言ったように、六年制一貫、できるだけ早期に、しかも、カリキュラムも抜本的に改善したものでいきたいわけですけれども、スムーズに移行するにはどうしたらいいだろうかということで、いろいろと今議論をしているところです。

 はっきり言いますと、それぞれの学校で、今のあり方に、どうしてもこれでいきたいということもございます。例えば短大なんかもあります。あるいは、四大でもマスターまで行かせたらな、そういう消極的な声が一部にないわけではございません。

 というようなことがありまして、しかし、これはいわばある意味で、全国民的な合意のもとでスムーズに行かせないと混乱が起こりますので、今、教員養成部会で、先ほど申し上げました私の気持ち、あるいは兵庫教育大での今既に検討しているものを一つの着地点として私自身は頭に置きながら、スムーズな移行の道を探っているといいますか、それについて議論もこれからやっていこうとしているといいますか、そういうことであります。

高倉参考人 修士課程まで含み込んだ教員養成についての御提言、私もじっくり読ませていただきました。

 それで実は、先ほど言いました平成十年の教養審の第二次答申というのは、御案内のとおり、修士課程を積極的に活用した教員研修じゃなくて、教員養成のあり方となっているわけですね。だから、これなどは、ねらいといたしましては、今すぐ実施するのは無理で、いろいろと条件を整備しなければならないけれども、できるだけ近い将来にこういった教員養成のシステムをつくろうというようなねらいが一つあったということは確かだったというように、私は理解しているわけでございます。

 ただ、そのときに問題になったことが幾つかございまして、一つは、日本の学校のアーティキュレーションが六、三、三、四、それからあとは二とか三とか大学院になっている。したがって、その四と二を、四足す二で考えればいいんだけれども、六年一貫、六年一貫ということを、四と二をまさに足してしまって六年制の云々ということになりますと、これは医学部、歯学部等々に限定されているということで、学校体系上いかがであろうかというのが一点ございました。

 それからもう一つは、短期大学の話というのはよく出るわけでございますが、それとは別に、先ほど私、専門職としての教員の資質能力というものは、養成、採用、研修の段階、過程を経て次第に形成されていくんだ、そういう考え方が一般的になってきていると。そうなった場合に、養成段階の年限、つまりイニシャルトレーニングの年限を何年にするかということはさほど大きな問題ではなくて、その後、採用時あるいは研修というものにどのようにつないでいって、その教員の資質能力の連続的な発展を図るかということが大切だ。したがいまして、養成のところについて六年とか何年というように余りに限定して考えるということには、まだ若干の検討をしなければならない点があるのではなかろうか、そんなことがございました。

 それで、もう一つ申し上げますと、この中で書き込みがもし可能だったならば、標準的な免許状を一種免から専修免にと。これは、六年一貫というよりも、四足す二ですね。それは、六年一貫か、四足す二かは別として、一種免から専修免にというような、いろいろな御要望があったということは事実でございます。しかし、それもこの時点では、やはり標準的なものを一種免から専修免にするということについては時期尚早なので、したがって、この中に、できれば数値目標、専修免を持つ方々のパーセンテージがどういうふうになっていくべきなのか、あるいはそれを促進するための数値目標まで書き込もうかという話がありましたけれども、数値目標ということではなくて推定値を書くことで、自然にこういった専修免という方に向かっていけるような、そういう状況ないしは環境を醸成していくのが当面の課題ではなかろうかということで推移したことを思い出すわけでございます。

 したがいまして、このたび民主党さんの御提言というものは、かなり積極的にゴールを示していただいた。そのゴールまでどういうふうに具体的にたどっていくのか、そのあたりの道筋をきちっと議論して、しかも固めていくということが求められるのではなかろうかというふうに思っております。

 失礼いたしました。

嶺井参考人 修士課程を利用した教員養成制度につきましては、私も、フィンランドのようなシステムとして考えられるのであれば賛成をしたいと思います。

 しかし、フィンランドは、御存じのように更新制とはセットになっておりません。やはり現場で専門職としての自律性を確保するということとセットで修士が考えられているのではないかということでありますので、更新制度との関係の上でちょっと問題があるかなとは考えております。

 それから、今高倉参考人がおっしゃいましたように、六年制一貫の修士になりますと、これは教員養成の開放性を非常に損なうことになるのではないかと私は思います。やはり私立大学等の現状を考えますと、四プラス二という仕組みの中で、四年制で基本的なものを学んでから修士の方にスムーズに移行できるような、そのための条件整備をするということであれば、私は賛成をしたいというふうに思っております。

勝野参考人 私も、先ほど来参考人の先生方がおっしゃられてきましたように、四足す二なのか六なのか、そういった制度的な問題もかなりまだ詰められずに残っているというふうに思います。

 基本的には、今の学校の教育が抱えているさまざまな困難、問題といったものに対応できる教師はやはり必要ですので、そのために、高度の教育学の研究と実践の知見、具体的な問題というふうなことを統合した教師教育、教師が育っていくための期間を延ばすという方向自体には、私も反対ではありません。むしろ賛成をしたいというふうに思います。

 ただやはり、これも嶺井参考人がおっしゃられていましたように、フィンランドのような形は、あれは六年一貫、六年の教員養成ということだけでそういった制度が成立している問題ではないということは押さえておくべき必要があると思います。その六年の教師教育、教員養成ということを受けた教師だからこそ、非常に高い自律性を与えられている、やりがいを感じられる教師の仕事になっているというふうなことが大事でありまして、やはりそれを車の両輪として考えていく必要があるんだと思います。

 以上です。

田島(一)委員 ありがとうございました。

 もう少し深掘りをさせていただきたいんですけれども、先ほど専修免許状のお話も御答弁で引用いただきましたが、私どもは実は、教員になられて一般免許状として発行をし、しかも八年間以上の経験を積んで教職大学院で一年間を研究していただこう、その後には専門免許状というものを発行していこうというふうに考えました。この専門免許状も、教科指導、それから生活・進路指導、そして学校経営という三つの領域に分けた、専門性を高めるという意味での免許制度であります。

 今、学校現場を見ますと、校長たるリーダーがきちっとリーダーシップが発揮できていない問題点、また教職員の労務管理等々に目が行き届いていない、そんな問題点も随分指摘されているところから、マネジメントという視点にポイントを当てた学校経営という力が随分今欠けているのではないかというようなことから、専門免許状を通じて学校経営をしっかりと専門的に学んでいただこう。

 その一方では、教科をさらに深掘りして、どうすれば理解をしてもらえるか、どうすればこの課程を子供たちに理解をしてもらえるかというような深掘りをする専門、また、それとは別に、地域とのかかわりであるとか、子供たちのいわゆる教科以外の身の回りのことについて進路指導、生活指導を深掘りできる、そういう専門の先生方がどんどんふえていけば、今の学校が抱えている課題を随分クリアできるのではないかなというふうに私は考えているわけであります。

 四人の先生方にお尋ねをしたいところでありますが、ちょっと五分しか残りがございませんので、この間たまたま高倉先生も、先ほど御答弁をいただきましたので、その点についてぜひ高倉先生と、それから嶺井先生に、できましたらお尋ねをしてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

高倉参考人 今、専門免許状のことについて御説明いただきまして、また私ももう読ませていただいておりますので、理解しております。ありがとうございました。

 専門免許状に近い発想というのは、実は今の専修免許状の中でもある程度実現しております。

 というのは、専修免許状がつくられたのは昭和六十三年ですね、一九八八年の免許法の改正で専修免許状がつくられました。そのときにも私参考人で参議院にお伺いいたしましたけれども、それはそれとして、そのときは、専修免許状というのは教科等の免許状だけで、ただそれっきりでございました。しかし、その後になりまして、これは平成十四年だったでしょうか、そのときは、専修免許状の裏側に裏書きをしまして、何々教育とか生徒指導とかなんとか、そういった、答申の中では例示、そこにありますから持ってくればいいんですが、例示はしておりますけれども、学校経営まで含めてそういう例示をして、裏書きをする。

 この専修免許状は、特にこんな点にウエートを置いて勉強したことに対する専修免許状だ、そういったあかしをしているわけでございます。それをもっと徹底されたのが民主党提案の今度の専門免許状だというように考えております。したがいまして、専修免許状は民主党提案の専門免許状に移っていくプロセスに位置づけることもある意味では可能なのではなかろうかというふうに理解しております。

 ありがとうございました。

嶺井参考人 民主党案ですと、修士課程で基本的に一般免許状、その後経験を積んだ後に今度はまた大学院に行って専門免許状という仕組みになっていたかと思いますが、それでよろしいかと思いますが、私自身、先ほどの修士課程での教員養成の仕組みと、その後の研修や大学院、専門免許状を取るところとの関係の仕組みがまだいま一つよく理解できないものですから、ちょっと十分にお答えできないんですけれども、それぞれの先生が個性的にそれぞれの得意分野を持って自分の力量を高めていく、そういう発想につきましては、私は賛成をしております。

    〔鈴木(恒)委員長代理退席、委員長着席〕

田島(一)委員 あと二分だけありますので。

 実は、現在の教員養成課程の大学のあり方について高倉先生がある論文をお書きいただいていたのを読ませていただいて、私も大変共感を覚えたところであります。

 現在の国立の教員養成課程、かなり問題を内在しているように私は思っています。一部には、もう教員養成を目的としない新しい課程がどんどんふえてきている。学部の名前を見ただけでは教員養成課程なのか何なのかわからないような、もう明らかに国立の教員養成課程の学部を生き残らせんがためだけに何かこじつけているような、そんな大学が出てきています。

 その一方では、附属中学、附属高校等のあり方についても、非常に私も問題があると実は考えております。

 例えば大阪教育大学附属なんかでは、教育大学のために附属があるはずなのに、今や完全なお受験校になってしまった。しかも、教育大学の学生たちが教育実習で入るはずなのに、小学校や中学校課程では半分しか附属高校に入れない、あと残りの半分は全部よそへ行っているんですね。養護教員なんかは、もう一割しか自校で教育実習ができない。こんな状態の中で、附属高校、附属中学、附属学校が本当に必要なのかどうかとさえ私は感じるんです。

 その点、高倉先生も随分御指摘をいただいていたかというふうに思うんですけれども、ぜひ御意見を開陳いただきたいと思います。これで終わりたいと思います。

高倉参考人 ありがとうございました。

 先ほどあいまいなことを申しましたけれども、専修免許状に専攻分野の区分の規定というのは、平成十四年の中教審答申に書き込まれておりまして、その中には、これは免許法施行規則でもって規定しているということで、るる書いてございます。もうこれは議員御案内のとおりだと思います。

 それから次に、教員養成大学その他のことでございますけれども、嶺井参考人が開放制のことを申されました。私立大学におりますと開放制ということは非常に敏感に感ずるわけでございますが、私は、率直に言いまして、開放制というものは堅持すべきものだけれども、節度ある開放制というものを常日ごろ主張して、また物にも書いているということが一点でございます。

 それからもう一つは、国立の教員養成大学に新しい課程、コース等が設置されて、何をやっているところかわからなくなってしまっている。これはいろいろな理由がございまして、実は、教員の採用というものが非常に厳しくなったということに対応して、ゼロ免課程をつくるというようなことに、行政的に先導されて誕生したということがございます。そのことはそのことで、また今後教員採用の数がふえていくということに従ってまた改組されていくのではなかろうかと思います。

 それよりも、非常に数は少なくなってきたとは思いますけれども、どうも教員養成大学の先生方の中に、アカデミックなマインドというのはこれは大切でございますけれども、ウルトラアカデミズムにだんだんと走られて、教員養成というような目的を前面に出すことに対してためらいを感ずるというような方がいなくはないというようなことを、私も教員養成大学に十二年間勤務したことがございまして、それは昔の話だと言ってしまえばそれまでですが、そういったことが今でも感じられるわけでございます。

 次に、附属の問題でございます。

 これにつきましては、私、平成十三年に、非常に悪名の高い報告書でございますが、国立の教員養成系大学・学部の在り方に関する懇談会というもののチェアをしてまとめた。通称在り方懇と、だれがつけたのか知りませんが、言われておりまして、それの、在り方懇のチェアは高倉だと、もう悪人の代表のように言われてきました。

 その中で、教員養成大学の学部や大学院のあり方、これはやはり教員養成という点から見れば、本当にそれを目指している目的大学なのかということに対する一つのウオーニングをしました。それと同時に、これは教員養成大学学部のいろいろな改革、内容的な改革ではなくて、統廃合を進めるための一つのプロポーザルではないかというようなことを言われましたけれども、そういった面も含めていたわけです。

 最後に、附属の問題でございますが、私は、附属の問題については非常に厳しい内容を盛り込みました。特に、非教員養成大学の附属については廃止論に近い主張をしたということでございます。そういったことが一つのきっかけになりまして、今は国立大学、教員養成大学の大学学部の附属というのはかなり本来の役割をするようになってきております。しかし、まだそうならないところもあるんだという御指摘かと思いますが、状況はそんなことでございます。

 ありがとうございました。

田島(一)委員 ありがとうございました。これからも引き続き御指導ください。

 終わります。

保利委員長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。

 本日は、当委員会の審議のために参考人としておいでいただきまして、本当にありがとうございます。

 早速質問に入らせていただきます。

 梶田参考人に伺いたいと思いますが、教員免許の更新制は、中央教育審議会で検討されまして、二〇〇二年二月の段階では、導入にはなお慎重にならざるを得ないと判断して、見送られました。そのかわりに十年経験者研修ということが実施されてきたわけでございます。

 しかし、今回、法案提出ということで、免許更新制が入ってきたわけですね。そうしますと、十年経験者研修も実施される、さらに免許更新制による講習の実施という、両制度が併存、並立することになるわけでございますが、このことについてのお考えをひとつお聞かせいただきたいということと、この更新の講習は教員養成大学などで行われるということになっておりますので、率直なところ、大学にリニューアルのための態勢はあるのでしょうか。

梶田参考人 前回の答申で、慎重に、更新制は基本的には見送るという答申が出て、その後、やはりやった方がいいということで出ました。

 実を言うと、私自身は前の答申のときはメンバーじゃなかったんですね。だから、その間のことはいろいろと聞いております。でも、やはり率直に言いまして、教師に対する、このままでいいんだろうか、そういう声がどんどん高まった。それで、前の答申のときにも、慎重ではあるけれども、その道は閉ざしたわけではないんですね。それはやらない、ただ、今すぐはやらないということだったんですけれども、やはり全体の、つまり、個々の問題のあるそういう事例についてだけでなくて、全体に底上げする、そういうことからいって更新制ということが必要じゃないかという、この議論が強くなっている、これはあります。

 同時に、これは教師だけの問題ではありません。医者であろうと何であろうと、専門免許については、一度もらったら生涯というのがふさわしいんだろうか。

 御存じだと思いますけれども、医者でも、十年もすれば治療の仕方が変わってきます。あるいは、どんどん、いろいろと診断の仕方も変わってきます。そういうことで、一度もらった専門免許をずっとそれで、二十二、三でもらったものを六十、七十までやるということがいいんだろうか。教員免許を先駆けとして、やはり十年に一回見直すという、これは自動車免許なんかもそうですね。年をとれば、いろいろともう一度考えなきゃいけない。あるいは交通法規も変わります。

 というようなことで、そこで、世論の動き、それから中での議論の動き、そういうことで、今回、去年の七月の答申では、免許更新制をこの際やろうということが出た、こういうふうに理解しております。

 それからもう一つ、これの講習を教員養成大学で、これはもちろん国立だけじゃありません。今申し上げた八百の、国立で教員養成の学部とか大学というのは大体六十ぐらいなんです、私立がたくさんあるわけですね、教員養成の課程を持っているところは。そういうところも含めて、もちろん、教員養成課程を持っておれば全部更新講習のいわば会場になるといいますか、主体になるというか、そういうことではないんですけれども、やはり私立を含めて広く、教員養成、教員研修に非常に熱心な、あるいは使命感を持っておられる、そういう大学を選んで、それで、きちっと大学の責任でやっていただこうということになりました。

 これは、別の言い方をしますと、教育委員会が実施するということでは、いわば雇用関係の中でやることになりますので、いろいろと別の意味での弊害が出てくるんじゃないかという議論がございました。ですから、養成をしている大学に一度戻して、そこで研修していただいて、いわば雇用という関係と切り離した形で、そういうことになったわけであります。

石井(郁)委員 どうもありがとうございます。

 時間の関係もありますので、よろしくお願いいたします。

 高倉参考人に伺いたいと思いますが、今、いろいろ議論が出ておりますけれども、やはり、教師になろうという人は、子供の教育に喜びや生きがいを感じて選んでいらっしゃるというふうに思いますね。教職活動を続ける上では、授業や生徒指導で高い専門性が必要とされるし、そしてまた、教育の本質からしても、やはり自主性とか自律性ということは欠かせないというふうに思うんですね。

 そういうことで伺いたいわけですが、今回、とにかく研修ということが非常に強調された制度設計になった。免許更新の講習、それから指導改善の研修という形で導入されるわけでありますけれども、これらが、その内容等が国主導で行われるということになりますと、教員にとって本当に必要な資質とか能力ということがやはり画一的な方向になりはしないかという問題、懸念が非常に言われておりますので、この点の御見解を伺いたいと思います。

高倉参考人 先ほども申しましたように、私、平成十四年の、慎重にならざるを得ない、これをまとめて、ごめんなさい、御質問のところがちょっとずれますけれども、そして、その次には、昨年の七月の答申の作成にも参加した、こんなことでございます。

 それで、なお慎重にならざるを得ない云々という答申をまとめたときに、やはり、どうしても更新制を導入すべきだ、慎重にならざるを得ないというのに対して、反対だという御意見が最後までかなり強うございました。

 一つは、もうとにかく理屈抜きに反対だ。もう一つは、導入しないことのメリットを並べて導入しないというのはいかにも消極的な理論の構成であると。それからもう一つは、制度論としてはわかったけれども政策論議がない。そんなことで、取りまとめに大変な苦労をしたということがございます。そういったことが、慎重にならざるを得ないということにもかかわらず、やはり含みを残して、できるだけ早くそういった含みの部分を実現できればと、こんなことになったというふうに私は理解しております。

 そのプロセスで、私どもは、この十四年の答申のときに、最後のところで、「教員免許更新制の可能性の検討にかかる問題点の整理」というものをしておきました。そして、この問題点というものに一つ一つ丁寧に答えていただけないとなかなか納得はしていただけないのではないかというような発言を私自身がしたところでございます。

 それに対して、平成十八年の答申は、平成十四年の答申において指摘した問題との関係ということを非常にきちっと書いてくだすったというようなことで、それはそれで一つのクリアがなされたというふうに考えております。それが第一点でございます。

 それからもう一つ、先生から御質問いただいたところでございますが、専門性と同時に自主性、自律性云々、これは、プロフェッショナルオートノミーというようなことが言われましたので、自主性とか自律性というのはもう専門性の中に包み込まれている要素なんだというように私は理解しております。したがいまして、そういうことで、専門性を重要視するということは、テクニカルな意味での専門性ということじゃなくて、自主性、自律性を包み込んだ形で考えていかなきゃならない、こういうふうに考えております。

 ということになれば、更新のための講習というようなもののあり方がやはりそこで問われてくるということで、これが国主導で画一的ということになれば、専門性の中にインクルードされている自主性や自律性がおかしくなるのではないか。このことについては、これからの制度設計によると思いますが、今いろいろと御努力をなすっているところを聞きますと、やはり透明性をもう少し前面に出していこうと。

 つまり、どういうことかと申しますと、国主導云々、制度は国が確かにつくったものでございますけれども、どういう中身でどういう講習をしていくのかということにつきましては、まず一つは、調査研究と申しますか、あるいは試行、トライアルというようなことを考えていこうではないか。と同時に、この制度が本格的に実施された場合には、実際に講習を受ける方々あるいは教育関係者からいろいろな御意見を聴取して、そして、それをもとにして講習の中身の開発というものに努力しよう。もちろん、そういったことについての公表、透明性というものを担保しよう。そういう方向で今制度設計がなされているということを聞いておりますので、そのことに期待したいと思います。

 以上でございます。

石井(郁)委員 どうもありがとうございました。

 やはり、研修というあり方、どういう内容で何をすることが、教師にとって本当に役に立つ、また力量の向上になるのかということだろうと思うんです。

 この点で嶺井参考人に伺いたいと思いますけれども、よく私どもが聞くのは、嶺井参考人も強調されましたけれども、自主的な研修、自主研修の機会というのが今少なくなってきたんじゃないかという御指摘だったと思います。校内研修、各教科ごとの研修、生徒指導の研修をやはり校内でやるというのは、経験ある先生とまた若い先生とが本当に議論をし合う、学び合う、そして率直に身につけていく、こういう役割を持っていたと思いますが、最近、それが非常に少なくなったということを聞くんですね。

 この点の現状について、何かお考えがございましたら、一言伺いたいと思います。

嶺井参考人 教職員の多忙の問題はもう勝野参考人の方からもお話がありましたし、私もたくさんの教職員の方々から意見を聞いてみますと、まず、子供と接する時間が本当にないということをおっしゃっております。

 あわせて、やはり教育活動というのはお互いの協力関係の中で行われるものですから、研修も、その中で重要なものだと思います。お互いに自分の自主性を出し合って、何が今の子供にとって大事なのか、自分の足りないところはどこなのかということを点検し合う場が必要だと思っています。そういう意味で、校内研修がまさにベースにあるというふうに考えております。

 あわせて、学校外の研修に本当に自分の意欲を持って参加できるようなことに今はなっていないんじゃないかなと思っております。そういう意味で、もうちょっと専門職にふさわしい制度設計が必要だと思っております。

石井(郁)委員 私自身もちょっと教職を目指した一人でもあったんですけれども、やはり、みずから学ぶという時間、いろいろなものを、各ジャンル、専門性だけじゃなくて、文化的なことも含めて、本当に人間らしい生活を教師自身がする中で豊かな教職活動ができていくんだろうと思うんですが、今、勝野参考人からも、大変今教師が多忙である、やりたいことを持っている、気持ちだけはいっぱいあるけれどもやれないという中で、大変困難な状況に置かれているという話があったというふうに思います。

 勝野参考人に伺いたいと思いますが、やはり諸外国では、いろいろな形で、教師の、そういう教職の仕事のエネルギーの持続とか、専門性を高めるとか、いろいろな技術を獲得するとかいう取り組みをしていると思うんですね。その点で、特に何か学ぶべきようなところがございましたら、御紹介いただければと思います。

勝野参考人 簡単にお答えいたします。

 例えばアメリカの例なんかを見ますと、確かに、教職の高い専門性の水準というふうなことが大事にされ、重要視されるわけです。ただ、それが、国が主導ではなくて、教師の専門職性、専門職的な団体が中心になって、教師の高い水準というふうなことを設定していく。それは、日本でも、専門職と言われる医師あるいは弁護士といった方たちがそういった規律面も含めてやっていかれるのと同じだと思います。

 そういったものをつくっていく中で、専門職団体の中央的なところでも教師の専門性についての議論が起こりますし、また、そういったことを一つの契機にして、学校の内外において、教師の今必要なものは何かといったこと、専門性というふうなことが議論をされるということがあります。

 やはりここでは、非常に大事なことは、教師の専門職性、個々も大事ですが、教師集団としての自律性というふうなことを生かしながら、教師がみずから研さんをしていくというふうな側面ではないかと思います。

 以上です。

石井(郁)委員 もう少し時間がありますので、勝野参考人は、最近、学校での成果主義とか評価ということが非常に教職員の仕事の性質を変えているんじゃないかという御指摘をされたことをちょっと見たんですけれども、これはどのような実態とどういう問題点をはらんでいるんでしょうか、お聞かせください。

勝野参考人 お答えいたします。

 この間、評価の問題、今回の更新制の問題もある種の評価問題だというふうに思いますけれども、学校にその評価の目というのが非常に厳しく覆いかぶさるようになっています。

 評価というのは、本来、信頼を取り戻すもののはずで、高めるはずのものですけれども、実際には、評価が評価を重ねていく。これは、金融機関の検査機関に対する評価がまたその上に屋上屋を重ねるというふうなことなどでも明らかなことだと思いますけれども、そういった学校や教師に対して評価の目が厳しくなっていく中で、教師のやりがいというふうなものが徐々に徐々に変質をさせられていっている、そんなような気がしてなりません。

 具体的には、やはり教師が、今、成果主義の中で、教員評価の問題と絡んで数値目標を立てるというふうなことが出てきます。数値目標全部を否定するというふうなことはできないかもしれませんが、例えば、子供たちの学力、点数、あるいは退学者、不登校の子の数を減らすといったようなことが、単純にそれだけが目的になっていくこと、それは教育活動の本末転倒につながるものだというふうに思います。

 以上です。

石井(郁)委員 もう一点、これも勝野参考人に伺いたいんですけれども、先ほどの意見陳述の中の最後に、教師の心性、マインドの変化を促進するんじゃないかということを言われまして、これは私も大変重要な問題と受けとめたものですから、最後にお聞きをしたいと思います。

 今、教師に対してあるいは学校に対して、非常に保護者からの非難というか、いろいろあるということがありました。そういう中で教師が大変苦労しているということもあると思いますが、苦労しているというか、受けとめなきゃいけない面ももちろんあると思いますけれども、何よりも、子供を育てるという、子供の人間的な成長、発達に携わっている教職、教師の仕事ということだと思うんです。

 そういう子供や保護者の問題を抱えて、学校に寄せられる問題と本当に正面から向き合うということにこの研修がどうつながるのかという問題なんですよね。そういうことにかかわるよりも、何か行政機関の末端としての学校、それで研修が上から押しつけられる。よく押しつけ研修という名前もかつてありましたけれども、そういうことになっていくのは、私は大変まずいんじゃないかというふうに思いますので、教師自身のそういうマインドの変化というのはどういうふうに、もう少し説明いただければと思います。

勝野参考人 お答えします。

 先ほど申し上げた成果主義の問題、あるいは教師が外部からの評価の目にさらされているというふうな問題と非常にかかわっている点だというふうに思いますけれども、そこでは、ある種の教師のやりがいの変質というんでしょうか、それが起きているような気がして私はなりません。これはもう少しきちっと検証しなければいけないデータですけれども、この間、先ほど教師の休職者、精神的な疾患が原因で休職をしていく教師が非常にふえているというふうなお話も申し上げました。バーンアウトの問題といったこともいろいろと取りざたされているところであります。

 ただ、実は最近、これは数字をもう少しきちっと検証しなければいけませんが、ある調査によると、大都市圏を中心にして、教師のバーンアウト率というのはむしろ下がっているというふうな実証的なデータもあらわれています。それはなぜなんだろうかというふうなことで考えますと、実は、教師が子供のことあるいは教育のことを深く考えないようになっているのではないか、そんなことが私はあるような気がしてならないんですね。

 つまり、ある種のそういった成果主義ですとか、教育の困難な中に疲れてしまう、その中で教師の心がすり減っていく。そして、いわば困難なところから、教師というのは、ある意味でこれは人間として自然なことだと思いますけれども、自然に楽な方へ、深く子供のことについて思い悩まない、考えない。

 それは、教師が今孤立していますから、そういった悩みや困難を抱えていても、同僚同士で支え合うというふうな関係がないこととも関係していると思うんですね。そういった教師の心性とかマインドの変化というものに、今回の更新制はまた流れにさお差すような影響を及ぼすのではないかというのが私の考えです。

 以上です。

石井(郁)委員 どうもありがとうございました。

 以上で終わります。

保利委員長 次に、保坂展人君。

保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。

 まず梶田参考人にお願いいたしますが、今回、中教審答申、土日返上で非常に大変スピードでまとめられたということなんですが、教育再生会議の第一次答申の骨格を生かしたとされていますけれども、イコールではないということでございます。

 教育再生会議の第一次報告の中で、何か、これはちょっとのみ込めないな、少し保留にした方がいいのかな、こういう点はございましたか。印象に残るものだけで結構です。

梶田参考人 なかなか難しいことですが、いろいろなところが、再生会議の第一次報告、それから中教審の答申、今回の法案、これを比べたものを出しておりまして、ごらんになるといいと思いますが、何かそういうのを見たような気がします。

 それで、私の印象は、例えば文部科学大臣が都道府県の教育長を承認するという、これは、当時の片山鳥取県知事なんかも、都道府県議会というものについて少し考えないことではないか、だから、再生会議のお気持ちは非常によくわかる、よくわかるけれども、鳥取県知事でしたから、地方自治というようなことを考えると、やはりそういうことはちょっとまずいんじゃないか。こういうようなことは中教審の皆さんの共感を得まして、例えばそれは入っていないとか、あるいは先ほどの私立学校の問題も、かなり強力に私立学校に対する指示とか命令ということが再生会議の第一次報告に入っておりましたけれども、これも、私ども、先ほどちょっと申し上げましたけれども、私学というものの独自の意味、これを考えると、それはちょっとまずいんじゃないかとか、そのほか幾つも少しずつ違うところがあります。

 というのは、やはりメンバーが違います。それから中教審の方は、いろいろな分野のいろいろな方の御意見を、御意見といいますか、メンバーとして入っておられますから、労働界からも、経団連からも、学識経験者、いろいろなバックグラウンドの人が入っておられますから、そういうことで結果としては幾つか食い違いは当然あったというふうに思っております。

保坂(展)委員 次に梶田参考人と高倉参考人に同じことでお伺いしたいと思いますが、結局、時代が動いているということで、その時代の変化を身につけるためのスキルアップというか、リニューアルという言葉を使われていますけれども、かつての日本も、確かに携帯メールとか、今ございますよね。ただ、六〇年代の高度成長期などには、今以上のドラスチックな変化があったんじゃないか。例えば、車社会になってくる、高速道路というものができてくる、あるいは、テレビというものが入って子供たちの生活が激変する、八〇年代にはファミコンが入り、塾通いとか、その都度、子供の問題というのは語られてきました。

 何かこれまで不都合があったんだろうか、逆に言えば。十年研修というものが、更新制というものがなかったことによって不都合があったんだろうかという点と、これからは、やはりそういう時代だ、あるいは今の教育に問題があるということであれば、やはり、現場の教員たちの努力や、あるいはその努力の至らない点を問題にするだけではなくて、私は、政策の立案に当たったかつての文部省、現在の文部科学省の皆さんも、これは五年に一度ぐらい更新をしていただかなければいけないんじゃないか、どうも時代とずれているなということを多々感じるわけでございます。

 つまり、政策立案をして、かなり責任のある人たちは割と問われなくて、その方針のもとにきりきり舞いをしている現場教員が問われるということはアンバランスではないのか、この点についてお二人の御意見をお願いします。

梶田参考人 今御指摘の点でありますが、まず、六〇年代、激変がありました。それで、七〇年代の初めに、御承知だと思いますけれども、いわゆる四六答申という中教審答申が出て、昭和四十六年、一九七一年、ここで既にもう学校の体制が子供の姿についていけていないんじゃないか。

 これは、具体的に言うと、教師の問題もあります、教育のシステムもあります、カリキュラムもあります。これは今御指摘のとおりです。六〇年代のあの激変の中で学校がやはりなかなかうまくいかなかった。では、後はうまくいったのか。これは、私は実はかなりネガティブに見ております。十分に当時に手を打っておけば、今これほど拡大しなかった部分もあるんじゃないかなと思っております。これは今になっての話です。

 それから、もう一つ申し上げておきます。役所の問題、私は、これは文部科学省だけではなくて、やはり常に時代に合わせて時代のニーズといいますか、あるいはその時代時代の国民のニーズといいますか、あるいは未来展望も含めてですけれども、本当に考えていただかないと、古色蒼然としたものが残ってしまうんじゃないか。私自身もそういう危惧は持っております。そういう意味では、努力していただかなきゃいけないんじゃないか。同じようなことを考えている部分もございます。

高倉参考人 時代が動いているというのは今に始まったものではなくて、六〇年代以降にも非常に大きな変化が、そのとおりと思います。

 ただ、私が感じますのは、六〇年代以降、教員について、先ほども申しましたように、一回限りの養成、ワンス・アンド・フォー・オール・トレーニング、これにかわって、養成、採用、研修の過程でもって教員の専門職能が成長するんだというような、コンティニュイティーとかインテグレーションという考え方が強くなってきて、それを受ける形でもってさまざまな形の研修の体系化というものが進んでいった。そのことが一つ前提としてあると思います。そういった研修の体系化というようなことが、ある意味での、新しい変化を身につけるというようなことも含めて機能していったということは事実だと思います。

 それからもう一つ、仮に研修といたしましても、なかなかそれが十分に機能していかなかったというのは、もう一つは、時代が変化したけれども、リカレント教育とかライフロング・エデュケーションというような考え方が出てきてそれが根づいていくのは、一九七〇年以降だというふうな一つラグがあったと思います。

 したがいまして、議員御指摘の一九六〇年以降ということですが、七〇年以降の、特にリカレント教育というような言葉が、あるいは概念が前面に出てきまして、それまでのフロントエンドモデルからリカレントモデルに教育を変えていく、当然、教員養成、教員の専門職能成長もそのとおりだということが定着してきますと、かなり研修の充実という形で動いてきたということ、これが第二点でございます。

 それから、先ほど四六答申の話が出ましたけれども、四六答申というのは、第三の教育改革と四六答申は言っていませんでしたけれども、臨教審が四六答申は第三の教育改革を提言したとこういうふうに言って、それで第三の教育改革という言葉がはやってきたわけでございますが、それはともかくとして、四六答申、臨教審、そういった改革提言の積み重ねが今日の改革提言になって結実しているんだというように、私は、そういった改革提言の積み重ねというようなことを非常に深く認識しているわけでございます。

 ありがとうございました。

保坂(展)委員 ありがとうございました。

 私は、臨教審は、やはりこれまでの戦後教育の理念を、例えば個性化だとかそういう言葉でかなりパラダイムシフトというかパラダイムチェンジということで、その後の学ぶ力、生きる力も含めて、新しい学習観みたいな部分を、戦後、一律覚え込めという大量生産、大量消費型の社会から転換する部分にやや対応しようとした部分はあると思うんですが、今回のこの教育改革の議論は、あるべき教育というかなり古典的なモデルへの回帰という、そんな気がしてならないんですね。

 嶺井参考人に伺いますが、免許の不更新によって失職をする、これは、今回の免許更新制はだめ教師の教壇排除ということは捨て去ったんだ、単なるリニューアルなんだというふうに文科大臣も説明をしていますが、よく見ると、免許が更新されないと自動的に失職してしまう。そうすると、教育公務員特例法における不適格教員に対する分限処分などとの関係がどうなっているのか、非常にこれが疑問だということをおっしゃっています。

 私はこれは非常に大きな問題だと思いますので、その点についてもう少し触れていただきたいと思います。

嶺井参考人 講習の基準がどういうふうになるかわかりませんが、その講習の基準によっては、認定されない場合に、当然、更新されませんので、自動的に失職になるということは極めて大きい問題だと思っております。この点は、他の公務員との関係で法的な地位がどうなるのかということは十分詰め切れていないのではないかと思いますので、私は、そこのところは、きちっと公務員法制上詰めて考えるべきだというふうに思っております。

 それから、そういう意味では、これまでの教員免許というのは終身制だったわけですけれども、やはり、結果としてすべての教員を一たんは免許の更新制にかけるという制度になりますので、大きな制度変更になると思いますので、十分な検討が必要だろうと思います。

 それから二つ目は、教特法の中で、指導力が不足している、不適格だというふうに判定された教員は更新制の講習をとらせないというふうに言っていますので、かなり厳しくこの更新制と指導力不足の問題をセットにしてきているのではないか。そういう、他の法律を使いながらセットにしてきていることの問題はやはり大きな問題だろうというふうに思っています。

保坂(展)委員 次に勝野参考人に伺いたいんですけれども、私も、いろいろな学校現場で苦労されている先生と会って、いい先生だなと思った先生の中に、万引きをした子がいて、その子を指導しようとした、そうしたらその子が、先生と言って涙を流して、僕はもう終わりだというふうに言ったそうなんですね。僕はこの先生きていてもいいことは何もない、勉強もできないし、スポーツも悪いし、僕は死んだ方がいい、こう言ったらしいんですね、もう死にたいよと。その先生は、その子とずっと話して、結局その家に行って、お母さんも一歩も出られないような状態で、いろいろ食事もその辺で買ってきて食べるというような状態だったらしいんですね。家庭訪問してもお母さんと会うわけはなかったのですが、玄関越しに大きな声で、彼とこういうことを話しましたよ、励ましましたから、しっかりお母さんにも伝えておきますと言って帰ったら、翌日、その子の顔が非常に明るくなったというような話を聞きまして、そういう昔いたタイプの先生なんです。

 でも、必ずしも今の教育現場では、そういう深入りした対応をする先生というのが評価をされない。不器用な、つまり、一つの大きな問題、危機を抱えている子が今目の前にいるときに、自習にしてその子に即対応しようかという判断をする先生と、一、二分でも二、三分でも話して、とりあえずその先と考える先生、どちらが多いかといえば、私は後者が多いような気がするんですね。

 教員免許制がこうやって現場に定着をしていくことで、一つのマニュアル型、こういう問題はこう、こういう問題はこうという、外食産業によくあるような、てきぱきと処理をするそういうタイプの先生がむしろふえてしまうんじゃないか、こういう危惧を感じるんですが、そのあたりのことはいかがでしょうか。

勝野参考人 お答えします。

 先ほど少し、今の教師のバーンアウト率の変化に関することも申し上げましたが、そのほかの調査などを見てみますと、非常に危惧すべき現象、結果というのがあらわれているものが幾つかあります。

 例えば日本の教師は、諸外国の教師と比べて、自分の教育の力量といったものに対する自信が持てないでいる。あるいは、従来、日本の教師というのは、今お話しになったことと関係してきますけれども、子供の学力、教科指導だけではなくて、生活指導まで丸ごと見ていくというのが日本の教師の特徴だったわけです。それは、諸外国の教師にはない日本の教師のよさ、それが日本の教育の学力面でも高いものを維持していく秘訣だったというふうなことを言われてきました。

 しかし、最近のいろいろな国際的な調査を見ますと、逆に日本の教師は、自分の仕事を狭い意味での学力、教科指導だけに絞っていく、子供を丸ごと見るというふうなことから撤退をし始めている。逆に諸外国の教師は、子供を丸ごと見ていくという逆の方向に進みつつあるというふうな結果も示されています。

 こういった状況の中で、恐らく多くの方々は、やはり教師というものは、先ほど、よい教師、望ましい教師ということが最初にありましたけれども、子供に丸ごと向き合っていく教師がいい教師だと皆さん思われるというふうに思うんです。私も全くそのとおりだと思います。

 問題なのは、今の更新制といったような制度がそのことに対してプラスに働くのかマイナスに働くのか。私には、先ほど申し上げたように、今のいい教師像というんでしょうか、皆さんが思われる、子供たちに対して、保護者たちに対してしっかりと生身の人間として向き合っていく教師から、更新制が導入されることによって、教師を引き離していく、そうではない教師につくり上げていくような気がしてならない、そういうふうに思います。

 以上です。

保坂(展)委員 今の点と関連して嶺井参考人にもう一度伺いたいんですが、今回の免許更新制では、これは、研修実績あるいは勤務実績、こういうことを見て、一部あるいは全部免除だという制度がございます。これは一体だれがどのように決めていくのか。

 例えばそれは学校長だったり、その市の教育委員会とかそういうところのある種おめがねにかなった先生が、いわば、十年ごとの身分が不安定になる瞬間を安心してクリアすることができるということになった場合に、教員集団の中で、今でもそういう傾向はありますが、どうも指示待ち的な、独創性や挑戦意欲が本当に膨らんで生き生きとした職場になるということとは逆の、すくんだ職場にならないかということを心配するわけですが、その辺はいかがでしょうか。

嶺井参考人 今御指摘の懸念は、私もそのとおりだというふうに思っております。

 既に教員評価制度が入っておりまして、この制度は、校長先生が立てた学校経営目標に対して個々の先生たちが自己目標を立てて、それがどれだけ達成しているかどうかということを踏まえて最終的に教頭、校長先生が評価をし、最後に教育委員会が評価をする。それも、大体四段階から五段階評価になっております。

 そういう、既に校長先生が立てた目標に対して自己目標を設定するというような評価自体がベースにあって今回の更新制度が入ってくるということは、やはり、その意に沿った評価を気にしてしまう、萎縮してしまうということにつながっていくのではないかと私は考えております。

保坂(展)委員 最後に勝野参考人に。この間の教育改革をめぐる議論は、イギリスモデルですね。サッチャー政権下、これはまた日本をモデルにして導入をされて、学校番付表の評価であるとかナショナルテストであるとか、非常に大がかりにやったわけですね。ここに学ぶ、こういうふうに言われているわけですが、こちらの、イギリスのモデルの方で教員もなかなか苦闘されたと思うんですが、その辺について御存じのことがあったらお話しいただいて、終わりたいと思います。

勝野参考人 では、手短にお答えいたします。

 イギリスの教師は、実は、諸外国の国際的な比較をしますと、現状の日本以上にバーンアウト率が高いという結果が出てきます。それがまず一つあります。

 そして、その教師の問題だけではなくて、イギリスの先生たちは今恐らくイギリスの子供たちは世界で一番テスト漬けの子供たちだというふうに言っていますけれども、事実、それは当たっている部分はあるんだと思います。

 それに対して、むしろ日本が今学ぼうとしている、教訓として得ようとしているそのイギリスの教育改革のほころびや矛盾というふうなことが既に明らかになっていて、私の見る限りでは、現在、そういった試験あるいは競争といった教育改革の方向を既にイギリスは軌道修正をし始めているというふうに思うんです。全国カリキュラムも、そしてそれに基づくテストに関しても、既に、これまで非常に厳しかったわけですけれども、それを緩和させる方向で幾つかの改革が取り組まれています。

 以上です。

保坂(展)委員 ありがとうございました。

保利委員長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党の糸川正晃でございます。

 本日は、四人の参考人の皆様方におかれましては、大変御多忙の中参加いただきまして、大変貴重な御意見をありがとうございました。私が最後の質疑者でございますので、どうぞまた忌憚のない御意見をいただければと思います。

 まず、これはやや重なるところもあるかもしれませんが、梶田参考人にお尋ねさせていただきます。

 梶田参考人は、中教審の部会長として、短期間で答申を取りまとめられることとなったわけでございますが、これで大変御苦労があったのではないかなというふうに思います。具体的にどのような点で苦労されたのかなということと、それからまた、教育再生会議の第一次報告、先ほども保坂先生の質問にもございましたけれども、文部科学大臣からの審議要請、これがございまして、特に、教員免許更新制度導入について中教審と教育再生会議の考え方に違いがあったように思います。

 中教審での審議に当たって、教育再生会議の第一次報告、これをどのように考えていらっしゃったのか、これをお伺いしたいと思います。

梶田参考人 わずか一カ月でしたけれども、土日を返上してやって、特に、二人の知事さんそれから二人の市長さんというような、議会を抱えているそういう委員の方もおられまして、本当に、夜とか土日を返上して三十二時間ぐらいやりました。これは、通常の審議会ですと、一年以上に当たるものをやりました。一番苦労したことというと、一番大きいのは日程調整です。こういうことであります。

 そういう中で、先ほど申し上げましたけれども、再生会議と中教審というのは、委員構成といいますかメンバー構成が違いまして、中教審というのは、こういう言い方が許されるならば、内閣がかわっても続くあれなんですね。二年間の任期があって、それでまたという。そして、極めて多様な、例えば知事会代表、市長会代表、労働界代表、あるいは日教組推薦、経団連推薦等々多様なところからの委員も入っておられるということで、同じような危惧、不安を教育について持っておられても、表現の仕方がかなり違う。それを答申でどうすり合わせをするか。今のままでいいという方は全然おられなかったと私は思うんです。ただ、それを最後の答申にまとめるときに、この表現はちょっとなというのが、いろいろな方があられて、これは最後、随分表現の手直しというのはあったかと思います。これが、まあ苦労話じゃないです。

 ただ、内容的なことにつきましては、一カ月といいますけれども、その背後には、先ほど言いました、二〇〇一年からのずっと中教審の答申やら、あるいは各分科会、部会での議論が全部整理されて出ておりましたので、そういう面ではそれと余り違うものにならなかった。私どもの認識では、今回の三月十日の答申は、中教審の、二〇〇一年から続けてきた、そういう議論のあくまでも延長上で出てきた、ただ、それにいい意味でのインパクトを再生会議が与えていただいた、こういうふうに思っております。

 それで、再生会議との違いといいますか、これは今申し上げたとおりで、メンバーが違いますので、そして、やはり総理大臣が直轄でおやりになるものと、中教審というのは、いろいろな意味で政治からちょっと距離を保ちながらフリーに議論しようという場でありますから、性格づけが違いますので、私どもは、再生会議の御提案も本当に十分にこれは参考にさせていただきました。ただ、そういうものを参考にしながら、やはり私たちは私たちで議論をしていって、つまり、それを追認するとかそういう機関じゃないわけですから、といって、その再生会議で出てきたものをいささかも軽んずるということではありません。これは非常に大事なことです。

 ということで、再生会議の出してこられたことを十分に参考にさせていただきながら、しかし同時に、多様なバックグラウンドを持っておる委員の方々のいわばコンセンサス、最大公約数を求めていく、そういうことででき上がったのが三月十日の答申であろう、こういうふうに思っております。

糸川委員 ありがとうございます。

 それでは次に、四人の参考人それぞれにお聞きしたいんですけれども、これは、勝野参考人から嶺井参考人、高倉参考人、梶田参考人の順にお願いしたいと思います。

 この免許状の更新講習についてですけれども、どのような内容を盛り込むべきだというふうにお考えでしょうか。特に、教員として最低限身につけるべき資質能力、これは何であるというふうにお考えでしょうか。これをお答えいただきたいと思います。

勝野参考人 お答えします。

 私、先ほど申し上げましたように、更新制度自体に内容という点での不安ということもありますし、また、その他のいろいろな側面を考えたときに、更新制度自体に反対の立場でありますので、そういう意味では少しお答えしにくいところがあります。

 ただ、その中身ということに関して言えば、つまり、教師にどういう資質能力が求められるのかということの中身について言えば、先ほどやはりこれも申しましたように、教育学の研究というふうなことと、その実践的な知見なり経験なり問題なりというふうなこと、非常に簡単に言ってしまえば、その研究というものと実践というものをきちっと統合していくという中でしか必要な資質能力というのは見えないだろうというふうに思います。

 やはり、今の更新制度の問題、これは先ほどの繰り返しですけれども、どうやってその必要な資質能力というふうなことを確定していくのか、それをどう研究していくのかというふうなことの議論抜きに更新制を考えられていることに、大きな問題があるというふうに私は思います。

 以上です。

嶺井参考人 私も更新制度について反対の意見でございましたので、そこにどう盛り込むべきかということでは具体的にお答えできません。

 それから、最低限必要な資質ということにつきましては、これは、更新制度の導入はリニューアルというお話をされていまして、その時々に必要なものを身につけさせるということで更新制の導入を提起されておりますので、その趣旨からしますと、更新制度の問題と最低限の資質の問題についてはちょっと違うかなというふうに思いますが、私自身は、子供たちに学ぶ喜びを教えることのできる力と、子供たちと向き合うことのできる、子供たちを丸ごと受けとめることのできる力、これが最低限必要な資質だろうと考えております。

高倉参考人 先ほどもちょっと触れましたけれども、最低とやったらばしかられて、最小限というように書き直しをさせられたことを思い出しますが、「最小限必要な資質能力」という言葉は、平成九年の教養審答申で初めて使わせていただいた言葉で、私、これの取りまとめの主査をした、こういうことでございます。

 ここのところではちょっとポイントがずれるかもしれませんが、これは、教員養成段階ということに限定した意味での「最小限必要な資質能力」というような言葉をここでは使っているわけでございますが、「採用当初から学級や教科を担任しつつ、教科指導、生徒指導等の職務を著しい支障が生じることなく実践できる資質能力」、こういうふうにやったわけですね。このことは、何か頼りないようだなと思われることもありますけれども、実はここからスタートして、プロフェッショナルディベロップメント、専門職能というものを採用、研修の段階においてさらに展開させるというそのスタートラインだという気持ちを込めてこういうふうに書き込ませていただいた。

 と同時に、先ほどもちょっと言いましたけれども、プロフェッショナルディベロップメント、職能成長という考え方からいえば、養成段階での期間をどれだけにするかとか、あるいは学習の量をどれだけにするかということはさほど問題じゃなくて、その後の自己研修も含めた研修等々によって専門的な能力を高めることが大切だ、そういう考え方が基礎にあったというふうに考えております。

 それと比べまして、このたびの免許更新に関しまして、ここではやはり、「その時々で求められる教員として最小限必要な資質能力が保持されるよう、」云々と、これは私、一言で言えば、実践的指導力だと思います。そしてその実践的指導力というものは、社会の変化等々まで取り込んだ上での実践的指導力というものが求められるというように考えております。

 ありがとうございました。

梶田参考人 私が考えております不可欠なといいますか、これを簡単に申し上げます。

 まず四点、ストレートに、直接に関係するもの、そして私は、今どうしても必要なもう一つ、プラスアルファと思っております。

 四点といいますのは、一つは使命感の再確認であります。

 もう繰り返し申し上げましたけれども、本当に自分で使命感ということをいつでも自問自答していかなければ、やはりなかなかやっていけない仕事じゃないかなと思っております。

 二番目は、教育の新たな課題。

 例えば、特別支援教育ということで、軽度発達障害、軽度学習障害の子供も、あるいは、もう少しいろいろな障害のある子供も普通学級でやはり基本的にやろうということになったわけですよ。これは私はとてもいい方向だと思いますけれども、これは今までの先生にとっては余り今までなかったことですので、よほど考えなきゃいけない。例えば、具体的な学級運営の仕方、授業運営の仕方を考えなきゃいけない。こんなことがあります。そういう意味で、新たな教育課題、こういうことについて研修。

 三番目が、社会と保護者のニーズです。

 教育についての期待というもの、これをもう一度研修しなきゃいけないんじゃないか。どうしても学校というのは閉鎖社会になります。ですから、社会の教育に対する期待がなかなか届かない。保護者の教育についての思いが届かない部分もあります。これをやはりもう一度受けとめていただくということがあります。これが三番目。

 四番目は、子供の姿の変化であります。

 御承知だと思いますけれども、この四、五十年だけでも、小学校の高学年の子供たちの発達は最低二年は早まっております。小学校へ入る段階では一年早まっております。これは発達加速現象とか発達前傾現象といいますけれども、それに伴っていろいろな問題が実は起こっております。そういうことを含めて、子供の姿の変化、しかも生の変化。先生には大体よそ行きの顔しかしません。メールで一体何をやりとりしているかなんというのは、ほとんど先生は知りません。こういうことを含めて、子供の生の姿の変化をやはり受けとめていただかなきゃいけない。

 この四点。もう一度言いますが、使命感の再確認と教育の新たな課題、社会と保護者のニーズ、それから子供の変化、これをやりながら、もう一つプラスアルファといいますか、非常に私自身が個人的に大事だと思っておりますのは、日本の伝統的な教育思想にもう一度触れ直していただく。

 例えば、デューイのことについて一生懸命勉強した人は教師の中でおります。ペスタロッチもいます。でも、本居宣長の「うひ山ぶみ」を読んだ人はほとんどいない。中江藤樹の「翁問答」を読んだ人はほとんどいない。あるいは、貝原益軒の「和俗童子訓」を読んだ人はほとんどいない。これで日本の教師なのかと私はいつも思います。

 我が兵庫教育大学では今そういうことを進めておるわけですけれども、そういう我が国の先人が教育について何をどういうふうに思索し、どういう点が大事だと思ってやってきたかということも、この際、やはり六十年の間に残念ながら日本は、教育思想も含めて精神的な植民地になってきたんじゃないかと私は思っております。私は、個人的には、こういう日本の先人の教育にかける思い、あるいはその中から得たいろいろな大事なポイント、これも伝えていかなきゃいけないんじゃないかな、こういうふうに思っております。

糸川委員 ありがとうございます。

 勝野参考人、嶺井参考人につきましては非常にお答えにくい質問だったかもしれませんが、ありがとうございます。

 では、最後に高倉参考人に、大学長としての立場からちょっとお尋ねをしたいんです。

 政府案における三十時間の更新講習に関してなんですが、学校側の受け入れ体制整備状況、これはどのようになっているのかということと、特に学校として、当該講習を受けるに当たって予算的、人的にどのような準備を要するものだというふうに考えていらっしゃるのか、お聞きしたいと思います。

高倉参考人 約三十時間の講習というものを主として大学がその担い手になるというようなことで、ある意味では身の引き締まる思いでございます。

 しかし、率直に申しまして、梶田学長のところのように教員養成を専門にしている大学、しかも大学院主体の大学ということになっておりますと、しかも、教職大学院の設置、創設のために四〇%は実務家教員をインバイトしている、そういうようなところになっていきますと、これは非常に、簡単にと言っちゃ変ですが、ほかと比べれば非常にスムーズにこういった講習のお引き受けということが可能かと思います。

 しかし、一般に教職課程を持っているというだけで、特に私のところのような私立大学を考えますと、これは教職課程を持っておりまして、毎年百人近くの免許状取得者がおりまして、そして、ある程度の数の教員を輩出しております。しかしながら、そこのスタッフィングということを考えましたときに、今この講習をすぐに引き受けるということは、ちょっとこれは無理があるんじゃないだろうか。

 だから、もう少し何らかの形での準備期間、その準備期間というのは、私どもも勉強するというような準備期間と同時に、もう少しスタッフィングを考える。そのスタッフィングを考えるというのは、人を採用しなきゃならないということを短絡的に考えるということではなくて、学内のさまざまなマンパワーをどういうふうに組織するかというようなことで対応していく。そのためには、この更新制度それ自体の意図するところなどなどを含めて学内のコンセンサスを得ないと、そういうような組織というのはできない。そういったことでもって学内の組織を進めていって、学内のマンパワーを活用して、それに対応するということは可能になってくると思います。

 ただ、議員お尋ねの、最後の予算の点になると一体どうなのか、その予算を大学が負担するのか。私学助成の予算が削られたとかなんとかと、そんな恨みつらみは申しませんけれども、そういう状況の中でもって経費の負担を、もちろんこれは個人の資格ですから、基本的には個人が負担するというのが筋道だと思いますが、やはり、制度をつくった国あるいはそういった講習を実施している大学等々がそれなりのコントリビューションをすべきだと思いますけれども、その場合の予算措置がどうなのかというふうなことは、今の段階ではちょっと考えておりません。今後考えさせていただきますので、よろしく御指導をお願いいたします。

 ありがとうございました。

糸川委員 本日は、大変貴重な御意見、ありがとうございました。

 終わります。

保利委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位に一言御礼を申し上げます。

 参考人の皆様には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます。

 次回は、明二十七日金曜日午前八時四十五分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時八分散会


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