衆議院

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第8号 平成19年5月8日(火曜日)

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平成十九年五月八日(火曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   委員長 保利 耕輔君

   理事 大島 理森君 理事 河村 建夫君

   理事 小坂 憲次君 理事 鈴木 恒夫君

   理事 中山 成彬君 理事 野田 佳彦君

   理事 牧  義夫君 理事 西  博義君

      安次富 修君    赤池 誠章君

      井澤 京子君    井脇ノブ子君

      伊藤 忠彦君    稲田 朋美君

      稲葉 大和君    猪口 邦子君

      亀岡 偉民君    木原 誠二君

      鈴木 俊一君  とかしきなおみ君

      西村 明宏君    西本 勝子君

      橋本  岳君    馳   浩君

      原田 憲治君    平田 耕一君

      二田 孝治君    松本 洋平君

      安井潤一郎君    山内 康一君

      若宮 健嗣君    石川 知裕君

      川内 博史君    北神 圭朗君

      田島 一成君    田嶋  要君

      高井 美穂君    松木 謙公君

      松本 大輔君    村井 宗明君

      横山 北斗君    笠  浩史君

      鷲尾英一郎君    伊藤  渉君

      大口 善徳君    石井 郁子君

      保坂 展人君    糸川 正晃君

    …………………………………

   議員           田島 一成君

   議員           高井 美穂君

   議員           藤村  修君

   議員           牧  義夫君

   議員           松本 大輔君

   議員           笠  浩史君

   文部科学大臣政務官    小渕 優子君

   参考人

   (学校法人渋谷教育学園理事長)

   (日本私立中学高等学校連合会会長)        田村 哲夫君

   参考人

   (福岡市総合図書館館長)

   (元中央教育審議会臨時委員)           植木とみ子君

   参考人

   (国際基督教大学教授)  藤田 英典君

   参考人

   (法政大学キャリアデザイン学部教授)       佐貫  浩君

   衆議院調査局教育再生に関する特別調査室長     清野 裕三君

    ―――――――――――――

委員の異動

五月八日

 辞任         補欠選任

  木原 誠二君     安次富 修君

  若宮 健嗣君     橋本  岳君

  田島 一成君     村井 宗明君

  田嶋  要君     石川 知裕君

  西村智奈美君     松木 謙公君

  笠  浩史君     鷲尾英一郎君

同日

 辞任         補欠選任

  安次富 修君     木原 誠二君

  橋本  岳君     若宮 健嗣君

  石川 知裕君     田嶋  要君

  松木 謙公君     西村智奈美君

  村井 宗明君     田島 一成君

  鷲尾英一郎君     笠  浩史君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 委員派遣承認申請に関する件

 学校教育法等の一部を改正する法律案(内閣提出第九〇号)

 地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案(内閣提出第九一号)

 教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案(内閣提出第九二号)

 日本国教育基本法案(鳩山由紀夫君外五名提出、衆法第三号)

 教育職員の資質及び能力の向上のための教育職員免許の改革に関する法律案(藤村修君外二名提出、衆法第一六号)

 地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案(牧義夫君外二名提出、衆法第一七号)

 学校教育の環境の整備の推進による教育の振興に関する法律案(笠浩史君外二名提出、衆法第一八号)


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     ――――◇―――――

保利委員長 これより会議を開きます。

 内閣提出、学校教育法等の一部を改正する法律案、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案及び教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案並びに鳩山由紀夫君外五名提出、日本国教育基本法案、藤村修君外二名提出、教育職員の資質及び能力の向上のための教育職員免許の改革に関する法律案、牧義夫君外二名提出、地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案及び笠浩史君外二名提出、学校教育の環境の整備の推進による教育の振興に関する法律案の各案を一括して議題といたします。

 この際、委員派遣承認申請に関する件についてお諮りいたします。

 各案審査の参考に資するため、来る十四日月曜日、富山県及び愛媛県に委員を派遣いたしたいと存じます。

 つきましては、議長に対し、委員派遣承認申請をいたしたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

保利委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

 なお、派遣委員の人選等につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

保利委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

保利委員長 本日は、各案審査のため、参考人として、学校法人渋谷教育学園理事長・日本私立中学高等学校連合会会長田村哲夫君、福岡市総合図書館館長・元中央教育審議会臨時委員植木とみ子君、国際基督教大学教授藤田英典君、法政大学キャリアデザイン学部教授佐貫浩君、以上四名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。理事会の協議により、本日は、特に学校教育法を中心に審査を行うことといたしておりますので、参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、参考人各位からお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いいたします。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、まず田村参考人にお願いいたします。

田村参考人 おはようございます。

 まずもって、このような場で私の考えを述べさせていただく機会をいただいたことを感謝申し上げたいと思っております。

 現在政府が提出しております学校教育法の改正案に対しては、私ども、賛成をしている立場でございます。その立場から御意見を少しく申し上げてみたいと思います。四点ぐらい触れてみたいと思っておりますが、その四点に入る前に、今回の学校教育法の改正の趣旨というか意味といいますか、そういうようなものを少しく意見を述べさせていただこうと思っております。

 昨年十二月に、国会の審議をいただきまして、六十年ぶりに教育基本法が改正されました。この改正によって、日本の教育のあるべき姿、目指すべき理念が法律で明らかにされております。その中には、義務教育の目的、大学、私立学校、幼児期の教育、学校、家庭、地域住民等の相互連携等々、新しい規定が設けられているわけでございます。

 この新しい規定が設けられた基本法の改正の考え方でございますが、やはり、六十年の間に大きな時代の変化があったということを受けておるというふうに考えられます。時代の変化というのはこれからも続くわけでございますが、二十一世紀は、いわゆるグローカル時代、グローバルとローカル、こういう基調が社会の基調の考え方になるだろう。それは当然教育にも反映されなければならない。

 その際、グローバルあるいはローカルという言葉は、別の言葉で言いかえますと、ダイバーシティーといいましょうか、多様性ということだろうと思います。つまり、多様の中にグローバルあるいはローカルというものがいろいろな考え方に反映されていく。そうなりますと、ナショナルスタンダードといいますか、ナショナルコードといいましょうか、国としてどういう特徴があるのかということをしっかりと押さえておかないと、多様性に対応しにくくなるというそういう面が出てくることは当然のことでございます。

 したがいまして、従来の国としてのスタンダードの意味が、時代の変化、グローカルという流れの中で違った意味を持ってきている。ですから、当然のこととして教育基本法の中にあらわれてきているわけですけれども、伝統文化を尊重するというのはその一つの表現だろうというふうに私は思っております。

 また同時に、規範意識という言葉が出てまいりました。これは、安倍内閣がよく教育改革の特性としておっしゃられていることですが、実は、教育の世界で規範意識という言葉は今回初めて使われているわけです。規範意識というのがなぜ出てきたかというと、今の流れの延長線上にあるというふうに私は理解しております。

 つまり、伝統文化を大事にするということは、伝統文化の中に、我が国において自然につくられてきた文化の反映としてのマナー、人間としての生き方、これをしっかりとナショナルなコードあるいはナショナルスタンダードとして理解をしておく必要があるのではないか。私たちの国がもし伝統文化の延長線上にマナーというものを考えるとすれば、具体的に言えば、規範の面で言えば、例えばおてんとうさまという考え方をもう一回しっかりと考え直す必要があるのではないか。だれが見ていなくても、やっていいことといけないことをきちっと分けてそういう行動をするというこのおてんとうさま意識といいますか、自己抑制力といいましょうか、これがこれからのグローカルの時代には、私たちは日本の国民の一員としてそういうものをしっかり持っていることが必要であろう、こういう考え方で今回の改正がなされている。

 基本法が改正されますと、当然のこととして、教育の具体的な内容を示す学習指導要領というものが議論され改正されていくわけですけれども、それをつなぐものとして、学校教育法というものが同時に改正されていく必要があるわけです。

 今回、実は学校教育法が、いろいろな面において、多面な部分で改正されているわけでございますが、今回は四点ほど取り上げて御説明を申し上げてみたいと思っております。

 まず第一点は、各学校種の目的、目標というものが明示され、それが提案されたということでございます。

 これまでのいわゆる教育基本法の普遍的な理念、つまり、世界平和とか人格の尊重というような、いつの時代でもだれも反対することのない普遍的な理念に加えて、我が国の特有の伝統文化、あるいはその延長線上にある道徳心、あるいは、次の時代を担う青少年に対するサジェスチョンとして新しい公共の精神といったものが新しい基本法に、改正の中に入っておりますので、それを受けた形で、義務教育の目標という従来なかった新しい項目を学校教育法に入れていただいたことを私どもは非常に高く評価しているわけであります。

 義務教育は、個人の人格の形成それから国民の育成というこの二つの面があるということを明示されました。これは非常に重要な視点でございまして、国家社会の形成者ということを提示しておく、つまり、人格の形成、これは当然のことでございますが、子供が大人になるということは、依存している存在が自立する存在になる、こういう変化でございますから、その自立の過程で人格を完成させていくということについてのお手伝いをする。今や十八歳で成人というふうに言われている時期、また、それが投票に反映する。つまり、国に対する参政権も十八歳からにするということが、ヨーロッパではもう既にして常識になっているわけでございますが、そういう時代の変化も受けて、義務教育の内容を、従来にない、目的のはっきりしたもの、つまり、人格の形成と国民の育成というこの視点を明確に出すということで、今回の改正は私ども大変結構なことではないかというふうに考えている次第でございます。

 また、具体的には、小学校、中学校、高校等、大学については今回は大きな変化はないわけですけれども、大学にまでも一応大学の役割として、教育、研究、さらには社会貢献、こういう三つの目標を教育の目標として示しているということも私ども大きく評価をしているわけでございまして、学校教育がどういう目的で、どういう目標でなされていくのかということを明示したという意味では、非常に大きな改革ではないかなというふうに思います。

 同時に、子供の成長、発達、つまり、依存が自立するというこの成長、発達の過程の中で発達心理学という学問が一九六〇年代に非常に進みまして、実は、これは従来の教育のいろいろな法規の中に必ずしも明確に反映されていなかったということがございます。発達段階に応じた教育というものを工夫する、さらに言えば、最近、まあこれからの問題ではあると思いますけれども、脳科学の研究が進みますと、脳科学を教育にどう反映させていくかということも大きなテーマになろうかと思いますが、そういった大きな社会的な、あるいは、人間の学問の成果というものを次の世代に伝えていくという意味での教育の仕組みに反映させるという意味では、今回の学校教育法の改正は十分に対応してきているというふうに思います。

 学校種が順番を幼稚園からにしたという意味では、これは、幼児教育というものが十八歳までの年代の子供にどういう位置づけを持つのか、大変重要な役割を持っているということは既にして教育の現場では常識になっているわけですけれども、それが法律の形で明示されたということで、私ども、大変よかったなというふうに考えております。

 それから二点目でございますが、新しい職種を学校の世界に持ち込んだという点が新しい視点でございます。

 従来の経営学的な考え方でいえば、最も進んだマネジメントのシステムというのはなべぶた形であるというのはこれは常識でございますが、これは、ITその他の機器の発達によって、なべぶた形が一番いいんだ、こういうような考え方が実行されております。実は、学校はなべぶた形の組織をそのままとっておったわけでございますが、時代がそれを許さなくなってきたということを私ども考えて、この変更を歓迎するわけでございます。

 どういうふうに許されなくなったかというと、実は、学校という組織は、いろいろな社会条件が成り立ったところででき上がった仕組みでございます。その社会情勢というのが変わってきますと、学校の役割が大きく変わってくるわけです。

 実は私、中教審の中に教員の給与にかかわるワーキンググループというのが立ち上がりまして、その主査をさせていただきました。約二年間にわたって、現在の教員の給与の実態を調査させていただき、また勤務実態を調査させていただきまして、一定の結論を得て答申を出しているわけでございますが、その答申が今回の法律改正の内容に一部反映されております。

 なべぶた形の組織では対応できないという意味は、先生方は社会の変化によって子供と接する時間が極端に少なくなってきている、そういう変化がございます。この極端に少なくなってきているという意味は、親と話し合いをしなきゃならなくなってきている、そういう事態が起きているということでございます。

 親と話すよりは、実は、先生方には子供としっかりと対応していただきたいわけですね。子供としっかりと対応するという時間を給食費の取り立てに使われてしまうというようなことになると、何のための学校かわからなくなるということが現実問題として全国的に広がっているわけです。

 それらの問題を解決するには、やはり、職種を幾つかつくって、それぞれ経験と自分たちの仕事の量を考えながら、例えば親との対応は、ある程度年齢がいって、親よりも年下でない人が経験のもとに対応した方が結果はうまくいくはずでございます。現実に現場からもそういう意見が出ております。そういう趣旨を踏まえて、副校長、主幹教諭、あるいは指導教諭といった仕組みを学校に持ち込むことを提案しているわけでございます。

 根本は、時代の変化に応じて先生方が子供に接する時間が減らないようにというところが基本にあるということを御了解いただいて、ぜひ、この趣旨を生かしていただければと思っております。

 三点目が、学校評価及び情報提供に関する提案でございますが、これは、法の整備の中に、学校の評価及び情報提供に係るいろいろなインフラストラクチャーを含めた提案がされております。

 ただ、この際ちょっと心配なのは、自己評価それから外部評価と言われる評価がなされることは私ども大いに歓迎するわけでございますが、現在いろいろなところで言われております第三者評価ということは、これはかなり心配だなと。つまり、第三者評価をする仕組みがまだ整っていないわけでありまして、それはちょっと早過ぎるのではないかなと。学校に評価が導入されますと、大きな影響が学校に起こります。現場が混乱しないためにも、早速にやらなきゃいけないというのは内部評価であり外部評価であろうと思います。

 実は、この学校の評価というのは、内部評価、外部評価のある程度のことは、こういった議論がされる前にほとんどの学校で行われています。まともな先生ならば自分の授業の評価を生徒に聞きますし、まともな学校ならば自分の学校の教育をいろいろな関係者に聞くということは、当然行われております。

 ただ、実は、なかったのが公表する部分なんです。これはほとんど行われていなかったんです。今回の法の整備によってそれが大きく進んでいくだろうと思います。公表しなければ評価をする意味がないんですけれども、マイナス点も見ますので、なかなか現場ではそのことを嫌がるわけですね。そういう意味で進まなかったんですけれども、それでは学校はよくなりませんので、ぜひ今回、こういう整備の中で慎重にそれが進んでいくことは非常にいいことではないか。いわゆるPDCAサイクルというものが実際に実現していくということを大いに期待しているところでございます。

 そして、大学等の履修証明制度については、これはまた、生涯学習社会の中で、いわゆるコンパクトな形で大学が社会に対する貢献を果たすという意味ではこの制度は非常に有効であろうというふうに思われます。大学人にお聞きしてみても、私も実は大学に関係しているんですけれども、具体的な話として聞いてみても非常に評価が高うございますので、ぜひこの制度は活用していただくということを期待しているところでございます。

 以上、四点にわたって大変駆け足で御説明をさせていただきましたが、いわゆる教育基本法の改正を踏まえて教育の理念が明示されたところで、ぜひ、現場で適用するための学習指導要領の明確化を助ける意味でも、教育基本法と学習指導要領をつなぐ学校教育法の審議をできるだけ慎重に、そして早く御審議いただきまして、学習指導要領の審議に移れるようにお願いを申し上げて、御説明を終わらせていただきます。

 時間をちょっとオーバーいたしまして、どうも失礼いたしました。

 ありがとうございました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 次に、植木参考人にお願いいたします。

植木参考人 おはようございます。

 まず、このような重要な会議の場で意見陳述の機会を与えていただきますことを、心から感謝申し上げます。

 私は、大学院修了後約十五年間を国立大学の教員養成学部に文部教官として勤務し、その後、縁あって福岡市に迎えられ十六年、特に、直近の三年間は市教育委員会教育長を務めさせていただきました。教育長の時代には、現場主義を実践し、二百三十一の学校すべてを回り、ほとんどのクラスを見て回りました。さらに、この間二年間、中央教育審議会教育課程部会で臨時委員として学習指導要領の改訂の論議にも加わらせていただいております。

 これらすべての経験から、ただいま議題となっております学校教育法に関して賛成の立場から、何点かの期待と要望を申し述べさせていただきたいと思います。

 まず、義務教育の目標に関してでございます。

 提案されております学校教育法では、その目標が具体的に示され、達成することが求められております。まず、この点につきまして現場の多くの教師は歓迎していることをお伝え申し上げます。

 御案内のように、これまで、学習指導要領の法的位置づけと教育課程の編成権をめぐっては、学校経営の中で論争と対立があった時期もございました。しかし、このような論議を繰り返さないためにも、今回のこの規定の明確化は、この法のもとに作成される学習指導要領が、各学校において編成される教育課程の大綱的基準として確実に機能するものとなる、そのための土台が完成するものと考えます。

 さらに、その内容は、現行学校教育法及び改正教育基本法に示されている項目に、よく読みますと、規範意識、自然体験活動、我が国と郷土の歴史についての理解、家族と家庭の役割についての理解、読書に親しむこと、自然現象についての観察及び実験、運動を通じて体力を養うといった文言が付加されておりますが、これらはいずれも、私が参加させていただいた中教審教育課程部会で、今の子供たちに生きる力をつけさせるために基礎的に必要な項目であるということで、委員の皆さんが真剣に議論をしてきたものでございます。

 目指すべき教育の目標を法律で明確に示し、教育内容の大枠を定めようとされる本委員会審議は、国民にとって大変頼もしく、まことに意義あることだと存じます。

 次に、副校長等の設置について、これをぜひ実現していただくようお願いいたします。

 既に皆様の共通認識として、現在、地域、家庭の教育力がかつてと比較して極端に低下しているという状況がございます。そして、それがすべて学校に期待されているわけでございます。

 私どもが一昨年、家庭の教育力に関する調査をいたしましたが、その中に、教師の愚痴ですけれども、保護者から、子供をデパートに連れていったけれども迷子になってしまった、迷子教育はどうなっているんだというふうなおしかりを受けたという報告もございました。

 食育の必要性についても、基本的には家庭での食教育の伝承がなくなったからでしょう、「早寝早起き朝ごはん」、こういうものも学校から展開しなければならない状況、これも同じだと思います。

 一方、保護者の学校に対する期待、要望はますます大きくなっております。極端になりますとクレーマーとなって、その対応に、担任はもとより、校長、教頭が時間をとられることになります。校長、教頭がこのような対応になれていない場合には、ひどいときには夜中まで保護者から解放してもらえなかったり、数カ月に及んでたび重なる会見を求められたりと、落ちついた学校経営はおろか、日常の子供の教育にも差しさわるということもあります。

 福岡市では、この件に関する学校現場の負担を減らすために、平成十七年度に、学校から独立した学校保護者相談室というのを設置いたしまして、客観的な立場から両者の調整をしようとしております。これまで、保護者からは年間平均二百件程度の相談があります。学校側からは十数件程度。この数字を見る限り、校長がほかに相談することを恥としているらしく、まだまだ学校が抱えている状況が多いと感じております。

 また、教育環境が激変している今日、調査統計や教育委員会への報告書の作成など事務の負担が大変な重荷になっていることも否めません。学校の地域開放が進むと、その事務的な負担、施設の管理などの仕事も増加します。その上、今後は、放課後子どもプランの実現もしていかなければなりません。また、総合学習、食育など教科横断的な授業では、それを中心としてマネジメントする人材も必要となります。

 昨年、私どもで、リーダー養成研修として教頭業務棚卸しというのをやりまして、その業務見直しを図りました。結果は、教頭の一日の平均勤務時間はほぼ全員が十一時間以上、年休の平均取得日数は三日、教頭が毎日必ず行う業務は二十項目、業務全体では百五十九項目に上っております。その内容も、教育管理に関すること、人事管理に関すること、事務管理に関すること、施設設備管理に関すること、地域や外部団体との連絡調整と多岐にわたっております。

 その中でも、特に事務的な業務に追われ、教頭の役割として最も重要だと考えられている、教師への指導に時間を費やすことができない現状があることが明らかになりました。いわんや、校長の多忙感はそれ以上でございます。

 るる申し上げましたが、要するに、学校という組織をマネジメントするための管理職の時間、能力育成についての配慮が現在特に必要となっているということでございます。

 学校を訪問すると、その学校がうまく回っているかどうかというのは、校門を入るときにわかります。まず、学校の周りには雑草が生えていません。掃除が行き届いております。地域の方々が毎日当たり前のように学校に来られて、学校の美化や雑務を手伝っておられます。子供たちは外部の人にもきちっとあいさつができ、教室も窓があけ放たれて、だれでも迎え入れる雰囲気があります。教室に入ると、子供たちは先生の方をちゃんと向いて、そこでは共感とか信頼関係ができているのが伝わります。このような学校は、校長、教頭、教務主任、この連携がとてもよくとれております。教師集団をきっちりまとめ、さらに地域の信頼も厚い。このような環境で子供は初めてちゃんと育つと思います。

 このためには、学校が組織として機能する必要があります。これまでは、校長個人の能力に多く頼ってきたところがございます。しかし、私は、すべての学校でこのようにあるべきだと思います。そのためには、すべての校長にマネジメント能力を身につけさせることが必要であります。その一助として、教頭を経験し、校長になる前にマネジメント能力を専門に身につけるための期間、つまり副校長として活動する時間を置くことは、大変有効だと考えます。また、この副校長が校長を代理して地域との窓口になると、学校開放はより進むことも期待できます。

 さらに、現在、児童が抱える問題が複雑多岐になっており、不登校、いじめ、無気力、無目的な生徒の指導、LD、ADHDなどの特別支援教育の必要などで、個々の教諭も一人一人の子供に十分に向き合える時間がございません。教諭として専門職を生かせるような制度設計が必要だと考えます。主幹教諭、指導教諭などの指導を仰ぎながら、また助力を得ながら自分の学級経営に邁進できれば、すばらしいことと存じます。ぜひとも、この新たな職を設置していただけるようお願いいたします。

 次に、学校評価についてでございます。

 先ほど、立派に運営している学校は校門を入るときからわかると申しましたが、地域の人の協力が目に見える形であらわれており、それ以外でも、学校は地域の力に頼るところが多くあります。

 福岡市にはすべての小学校区に一つずつ公民館が設置されており、この公民館を中心に自治会の活動が組織されております。子供の健全育成のために、地域子ども育成事業として、自治会、学校、PTA、子供会などが一緒になり活動しております。先年、子供が登下校中に命を奪われるという、あってはならない事件が全国的に続発した際にも、自治会が率先して子供の見守り運動を展開してくれました。これがスクールガードの活動へと発展しております。というわけで、事件があったからといって私どもは、殊さらにガードマンを配置したり学校の門を閉ざすということはしませんでした。むしろ、地域の人みんなの目が子供の安全のとりでなのです。

 子供たちは、学校以外の多くの時間を地域で過ごし、多くの大人から自然のうちにさまざまなことを学びます。地域行事の参加というのはその最たるものでしょう。また、地域の方は学校にゲストティーチャーとしてもお見えになります。まさに「学校はまち、まちは学校」、福岡市ではこのスローガンのもとに学校運営をしております。学校は地域とともにあり、その意味で、地域と離れる学校選択制はなじみません。このように、地域に支えられた学校は福岡市以外に全国でもたくさんあると思います。

 学校は基本的にいつでも地域の人に開かれるべきだということで、このことをより促進するために、学校公開週間も設けております。学校公開週間では、毎年十一月の初めの一週間、特別の広報をいたしまして、多くの市民の方に自分と全く関係のない学校にも幅広く足を運んでいただいております。さらに、個々の学校についての感想もいただいております。

 地域とともにある学校ですから、学校が保護者や地域の方々に積極的に情報提供することは、学校、家庭、地域の連携を強化する上で極めて重要であり、また、これをしないと、地域の方々の信頼、協力を得られるものではございません。

 一方、保護者や地域の方々は、しっかりと自分たちの学校を見て、いろいろ注文をしたり、褒めたりしかったりしておられます。つまり、意識するしないにかかわらず、常に外部評価をしているわけです。学校はこれにこたえるべくさらに努力し、そのことを皆さんにもお知らせします。この連鎖が学校を活性化し、学校運営をやりやすくし、また、ひいては子供の教育によりよい方向に向けているというふうに思います。

 このような実践を一部の成功の事例に終わらせるのではなく、すべての学校、地域に広げ、普遍的な制度にするためにも、これらの学校に学んで、学校評価、その公表のためのマニュアルづくりをすることは大変意義のあるものだと思います。

 ただし、この場合、住んでいる場所で学校が決められ、自由な選択はできないわけですから、その評価内容、公表内容は、いたずらに他の地域との競争心をあおるものではなく、どうすればよく学校運営ができるか、子供たちがよりよく教育できるかという観点から考える必要があると思います。

 最後に、大学等の履修証明制度について述べさせていただきます。

 大学では、その資源を社会に還元するために広く公開講座なども実践してきたのですけれども、受講生からは、正規の履修証明が欲しいという要望が多く寄せられておりました。

 公開講座は、生涯学習の中でともに学び続けたいという市民的要求を満たすものであったわけですが、現在では、転職、再就職などの再チャレンジのためであるとか、昇進のために実際に役立つものであることなども期待されています。そのためには、オーソライズされた履修証明が必要とされることも多くあります。また、入試というこれまでの方法以外に、あこがれの大学の講義を受けてその証明が受けられるという仕組みで社会の何かが変わるかもしれません。

 履修証明制度の対象となる課程は、社会人などを対象として特別に開設された体系的な科目のまとまりであるということなので、内容としては、公開講座のより専門的なものと考えられます。

 従来、大学では、ともすれば自分の興味に従った研究が優先され、社会に必要とされる研究が後回しにされるといったような嫌いもございました。この履修証明制度の対象となる課程は実際に社会に必要とされる今日的な研究であろうし、さらに、体系的な科目のまとまりということなので、大学教官が協力して事に当たらなければなりません。この意味では、大学にとっても、教官の緊張が高まり、今日的な研究へのよりよい刺激になろうかと考えます。

 せっかく創設された履修証明制度がうまく活用されるためには、大学側が率先して講座を開設するようなインセンティブを与えることがあってもよいのではないかというふうに考えます。

 一方で、余りニーズのない地方の大学に、都心の大学と同じように開設できないということで、何らかの不利益を課すことはあってはならないと思います。さらに、既にロースクールや社会人のための大学院を開設しているところで、一部の教官に負担が集中しているという現状も押さえておかなければならないというふうに思います。

 また、今日的な研究だけでなく、基礎的な研究もそのレベルを決して落としてはならないということも蛇足ながら申し添えておきます。

 いずれにしましても、この履修証明が、大学の学位と同じとまでは言わなくても、何らかの形で社会的に通用する仕組みをつくってくださいますよう期待いたしまして、私の意見陳述を終わらせていただきます。

 どうもありがとうございました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 次に、藤田参考人にお願いいたします。

藤田参考人 おはようございます。藤田です。どうぞよろしくお願いいたします。

 本日は、意見陳述の機会を与えられましたこと、非常に光栄に思います。ありがとうございます。

 時間が限られておりますが、お手元にかなり詳細なレジュメをつくらせていただきましたので、基本的にはこれに即して意見を申し上げたいと思いますが、適宜飛ばしていきたいと思います。

 学校教育法等の一部を改正する法律案の提案理由と主な変更点でありますけれども、これにつきましては、既に委員の皆様には周知のところでありますので、省略させていただきます。

 二、法律案の問題点と危険性といたしまして、私は主に三点指摘したいと思います。

 私自身、教育基本法改正の際にも意見陳述の機会を与えていただきましたが、一貫して、教育基本法の拙速な審議と、その現行法の現在のような法律への改定には批判的で、反対しておりました。したがいまして、当然、今回のものにつきましても、この学校教育法等についても批判的にならざるを得ないわけであります。

 まず最初に、主な、実質的な、具体的な問題点に入る前に、法律に何をどこまでどのように書くべきかということを立法府はきちっと考える必要があると思います。今回の学校教育法がその点で十分なものであるかどうかについては、よく御審議、御検討いただきたいと思います。

 同時にまた、学校教育法に限らずそうですけれども、法律は合理的で整合的でなければいけません。その点でも、今回の学校教育法がどのような特徴を持っているかを御検討いただければと思います。

 そこで、次に具体的な問題点に入りたいと思いますが、まず第一に、教育目標の拡張と文部科学大臣の教育統制権の拡大という特徴が今回の改定案では明確になってきております。

 教育目標につきましては第二十一条に規定されているわけですが、これはもちろん、教育基本法の改定に伴いまして、それに準じて教育基本法の第二条に盛り込まれた一連の態度徳目項目を組み込んだというところでありますけれども、そこに列挙しましたように、全項十項にわたりましてさまざまなことが書かれております、省略しますが。

 そこで、この目標拡張の問題点でありますが、目標のイデオロギー性と教化主義、態度評価の危険性というものを指摘することができると思います。

 例えば第三項ですが、これは教育基本法の際にも問題になったところですが、「我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、」となっております。ところが、その同じ項で終わりの方に、「進んで外国の文化の理解を通じて、」となっております。外国の文化は「理解」で、日本の歴史は「正しい理解」、この「正しい理解」は何を意味するのか。ここにある種のイデオロギー性といいますか、日本の歴史についてはある特定の見方、考え方を学校では教えるべきだというニュアンスを含んでおります。

 実際にこれは、裁判所等で、あるいはその他のところでどのように解釈するかということは定かではありませんが、こういう文言の中に立法者の意思というものが、あるいは思念というものがあらわれていると言っていいと思います。そういう点でも問題があると思います。ほかの態度項目についても種々同様のことを指摘することができます。

 二点目の特徴として、道具主義的な教育観、学習観が目立つということであります。

 例えば第一項ですが、社会的活動の促進により、規範意識、公共の精神、社会の発展に寄与する態度を養うとなっております。公共の精神、規範意識、社会発展等は、何も社会的活動だけではなくて、教科の活動や他のさまざまな活動を通じてもはぐくまれるものであります。殊さらに社会的活動と結びつけるところに道具主義的な特徴があらわれていると言えます。それは自然体験活動についても同様であります。

 それから、例えば五項では、読書というものは国語にしか意味がないものではなくて、数学やあるいはさまざまな教科、そしてさまざまな知的な活動にとっても読書は意義のあるものでありますから、もちろん読書の重要性を否定するものではありません、非常に重要ですが、これを殊さらに国語に結びつけるという書きぶりに私は疑問を抱かざるを得ないわけであります。

 それが道具主義的な教育観、学習観というところであります。

 もう一点、文部科学大臣の教育課程決定権の拡大と統制権強化の危険性であります。

 これにつきましては、法案の第三十三条は、「小学校の教育課程に関する事項は、」「文部科学大臣が定める。」とされております。現行法は第二十条で、「小学校の教科に関する事項は、」「文部科学大臣が、これを定める。」となっております。

 学習指導要領につきましては法的根拠があるというのが一応公的な解釈になっておりますけれども、その法的規制力につきましては種々議論の分かれるところであります。しかし今回は、単に教科だけではなくて、教育課程全般について、さまざまな道徳活動や、あるいはまた社会体験活動や、その他のさまざまな活動についても文部科学大臣がこれを規定する権限を持つという構造になっているということであります。

 この点は、非常に重大な変更点として確認しておく必要がありますし、そしてまた、そのことの妥当性、是非につきましてよく御検討いただければと思います。

 二ページへ行きまして、法律は、制定時の状況や立法趣旨、あるいはその関係者の国会答弁、弁明などにかかわりなくひとり歩きしていきます。

 例えば愛国心につきましては、既に種々指摘されておりますように、福岡市を初めといたしまして、小学校の通信表に評価欄、評定欄が記載されております。このような態度評価の活動とあるいは評価というものが、今後、この学校教育法が成立するということになれば、ますますもって学校教育において広まっていくことになりかねません。態度が悪いといって評価が悪くなる、あるいはまた、子供が嫌な思いをし、自尊心やあるいは意欲をそがれるということも起こりかねません。

 時間が限られておりますので急ぎますが、以上の諸点を勘案するなら、法案は、それ自体としても、また、教育行政、教育実践への波及効果という点でも、憲法が保障する思想、良心の自由、表現の自由、学問の自由、一定範囲での教育の自由ですが、教育を受ける権利、世界人権宣言が規定している思想、良心の自由、表現の自由、教育への権利、そして、人権実現の秩序の享受という一連の法令や法規、憲法の条項や国際法規に抵触する事態を招く可能性があると危惧されますので、どうぞよろしく御検討いただきたいと思います。

 二点目の大きな特徴といたしまして、教職員の職制、学校組織の再編とその問題点であります。

 副校長、主幹教諭、指導教諭等の中間管理職的な職位を新設したということでありますが、それは、ライン組織というものを、学校教育において、特に運営管理上のライン組織と教育指導上のライン組織を拡充し、そして明確化するということであります。

 具体的な規定として、例えば、「副校長は、校長を助け、命を受けて校務をつかさどる。」主幹教諭は、同様に「命を受けて」というふうになっています。これは明らかにライン組織でありますが、もちろん、そういう指示等があってこれは当然ではありますけれども、このように法律に規定することで、非常に官僚制的な制度というものを学校教育の中に持ち込む危険性があるということであります。

 これは法的な根拠でありますから、個々の校長がどのように学校を運営するかということはその校長の判断によりますけれども、さまざまな形で制約が加わる、あるいはまた、そういう強制やあるいは官僚制的なあり方というものの根拠になりかねないということであります。そういった意味で問題のあるところであろうと思います。

 それから、ライン組織の拡大によってどのような問題が生じるかということでありますが、学校は、ライン組織よりもスタッフ組織の充実によって歴史的に発展してきましたし、世界的にも、基本構造はスタッフ組織になっていると言っていいと思います。同時に、学校の成功は、ミッションの共有、教職員の専門性、献身性、協働性が重要だとされてきました。さまざまな理論やあるいは実証研究がこれを示してきております。また、日本の学校の卓越性は、教職員のすぐれた協働性と創意工夫にあるというのも国際的な評価であります。

 こういったことすべてが、このようなライン組織、しかも、ハイエラーキカルな、官僚制的なライン組織を学校教育の中に持ち込むことによって阻害されることがないだろうか、その危険性はないだろうかということであります。もちろん、もう既に東京都におきましては主幹という職位を設けておりますし、そういったことについて必要性があることは、私もそういうマネジメントの仕事が必要なことは認めております。

 しかし、各学校において校長の裁量でどのような形でそれを運営するかということが自由にできるような、そういうシステムを制度設計しておくことが私は法律においては重要なことであろうというふうに考えております。

 三点目の問題は、学校の評価及び情報提供の義務化、画一化がはらむ問題であります。

 学校評価については、例えば法案第四十二条は、小学校は文部科学大臣の定めるところにより評価を行うということになっております。情報提供につきましては、下の方にゴシックにしてありますが、「教育活動その他の学校運営の状況に関する情報を積極的に提供するものとする。」ということで、義務化されることになっております。

 もちろん、現行法では、既に小学校、中学校等の設置基準において学校評価というものは行われることになっておりますし、後にも書いてありますが、全国の公立学校の九八%で既に自己評価が行われ、公表率も五八%です。外部評価も八七%で実施されており、公表率は七〇%に達しております。

 したがって、そういった意味で、学校評価は自己評価、外部評価は広まりつつありますが、今のこの法案四十二条のように、文部科学大臣の定めるところによるということになりますと、これは、全国一斉の例えば第三者評価機関というものをつくるということが教育再生会議で検討されているということでありますが、そのような第三者評価を全国一律に実施するということを前提にした、視野に入れた法案だというふうにも読むことができるわけであります。

 そうなってきますと、もし全国的な評価の画一化あるいは標準化ということが起こることになりますと、評価の意味合い、そしてまたその機能、働きというものが大きく変わってしまうことになります。

 下の方に書いておきましたが、これら現在行われている評価の多くは、その学校をよくすることに責任を担う当事者による評価、私はこれを当事者評価と呼んでおりますが、であるが、評価枠組みや基準の標準化や全国的な画一化が進むならば、学校、地域の特色、自主性や当事者性を軽視、抑圧することになりかねない。また、学力テストの成績を初め、数値化可能な側面の重視、短絡的、表層的な成果の重視、学校間、地域間のゆがんだ競い合いや序列化などを招くことになりかねない。

 法律がそういう可能性に道を開くような規定になっているとしたら、私は非常に危険なことだと思います。

 それから、上にも書きましたけれども、情報の提供につきましても、現在、いわゆる全国一斉学力テストが四月に実施されたわけでありますが、文部科学省は、この学校別、地域別の結果は公表しないとしております。しかし、これは公表を迫られる可能性が極めて強いものでありますし、情報公開法に基づけば、請求が出れば、既に大阪高裁でも判決が出ておりますが、公開せざるを得なくなるような性質のものであります。この学校教育法の改定案の文言は、こういったものを文部科学省は公開せざるを得なくなるような条文になっていると読むこともできます。

 その他、学校体系上の問題、理念上の問題でありますとか、あるいはいわゆる大学教育の問題がありますが、大学教育については、先ほどの参考人の方も述べられていましたように、証明書の発行権を与えるということは私は賛成であります。

 最後に、教育の再生というのが、教育基本法もそうでありましたが、今回の学校教育法を改定する目的、理由として挙げられております。しかし、本当にこのような改革、改正で教育の再生は実現するのでしょうか。

 教育は時代とともに変わっていくものであります。しかし、同時に、持続的な未完のプロジェクトでもあります。絶えずだれかが支え続け、そしてそこに安定性と適切性があってこそ、そこに豊かな教育の可能性が開けていくものであります。

 そして、時代の変化に伴う主な改善課題というのは、教育の内容と方法面であります。コンピューターがなかった時代とある時代とでは、方法面での改善の余地というのは拡大することになります。当然のことであります。しかし、それ以外のところで何を改善する必要があるのかということであります。

 二番目に改善の必要がある部分として、教育行政、学校運営のあり方については改善すべき点が多々あったと私も考えております。そして、その点につきましては、この十年ほどの間に、そして現在も、種々改革、改善の努力が重ねられておりますし、私はそれなりに成果を上げているとは思っておりますが、問題点も多々あります。

 いずれにしましても、現在行われている改革は、一九八〇年代から四半世紀続いてきたものであります。そういう四半世紀も続けてきた改革の中で、教育の安定性、学校の日常性が揺るがされ、教職員の多忙化や教育のゆがみがそこを促進することになっていないか。これは、政策を担当する方々が十分に考える必要のあるところだと思います。

 それから、臨時教育審議会以降の教育の新自由主義的、市場原理主義的な改革、特にこれは教育の機会構造の再編であります、それは一部の利益を不当に優先し、教育の私事化とモラルハザードを促進していないか。これもよく考える必要のあるところであります。

 そして、教育の管理主義的、成果主義的、市場原理主義的な評価、統制の拡大と強化は、教育の総合性とバランスをゆがめ、短期的成果を優先し、教育現場とその日常的実践を息苦しいものにし、ゆとりとおおらかさを奪うことにならないか。

 これらの弊害が大きいものになったとき、取り返しのつかないようなものになったとき、一体だれが責任をとるのか。私は為政者がとるべきであると思いますが、そのときには、もしかしたらここにいらっしゃる多くの方は既に議員でなくなっているかもしれない。しかし、それでも皆さんがとらなければいけないんです。

 ですから、本当に、この法案についてもそうでありますが、他の法案についてもそうでありますが、賢明かつ責任ある判断、立法行為、政策決定を期待したいと思います。よろしくお願いいたします。

 どうもありがとうございました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 次に、佐貫参考人にお願いいたします。

佐貫参考人 佐貫と申します。貴重な時間をいただきましたことを感謝いたします。

 今回の学校教育法の改正につきましては、さきに改正されました教育基本法の趣旨を徹底するという形で進められているものだというふうに理解しております。私自身は、教育基本法の改正は、国が国民の資質を決定して、いわば、国家にふさわしい臣民規定というものを教育基本法の中に組み込むものであるというふうに考えまして、一貫して批判をしてまいりました。そういう立場から、今回の学校教育法の改正についての私の意見を述べさせていただきます。

 第一点は、義務教育の目標規定というものが非常に拡大されるということであります。

 改正案によりますと、詳細な態度、例えば「我が国と郷土を愛する態度」、それから「環境の保全に寄与する態度」等々、これが学校教育法の目標に規定されるという形になっております。人間の態度の規定は、個人の行動及びその行動を生み出す内面的な価値意識そのものを法律によって法定するものであり、これは、日本国憲法の保障する、思想、良心の自由、表現の自由等を侵す可能性を持つものであることを否定できません。

 これは単なる憂慮ではなしに、現に東京都で、国旗・国歌に対する態度が直接教育委員会から指示されて、それに従わない者については処分がなされる、そしてそれに対しては、いわゆる予防訴訟の東京地裁判決で、これは、憲法第十九条の思想、良心の自由に対し、公共の福祉の観点から許容された制約の範囲を超えているという判決が既に出されております。

 さらに、文科省が教育再生会議に提出いたしました教育三法改正の理由の中には、教育委員会が未履修問題を放置したり、国旗・国歌を指導しないなどの著しく不適切な対応をとっている場合には、是正の要求ができるように法律を変えるんだというふうに明記されております。ここからは、この学校教育法の「態度」とは何を意味するかを文科省が解釈し、それに合わない現場を法律違反状況として認定し、現場に介入することが可能な法の構造が出現すると言わざるを得ません。

 特定の態度を法定し、その態度の具体的なありようを権力や行政が指定することが可能な仕組みは、国家や権力の個人の内面統制の危険性を含むものであり、そういう法構造は、戦前の教育勅語体制への厳しい批判、否定的教訓として、現在の国民主権国家を前提とする日本国憲法下においては許されないものであるというふうに考える必要があると思います。

 学校教育法は、この「態度」をこういうふうに規定しますと、国家による国民資質規定法へと転換する危険性を持つものであるというふうに私は考えます。

 第二は、第二十条に小学校の教科に関する事項は文科大臣が定めるとなっておりましたのを、小学校の教育課程に関する事項は文科大臣が定めると改正することになっていることです。

 しかし、一般に教育課程とは、単なる教科にとどまらず、道徳教育や行事を含んで、学校が行う教育活動全体の体系を示すというのが教育学の当然の認識であります。そう考えてみますと、国家が関与できるのは、教育課程全体に対してではなしに、これは抑制的でなければいけないという議論がされておりますし、現行の学校教育法では、その点を「教科に関する」という形で限定をしたわけであります。

 ところが、今回の改正によりますと、文科大臣が、必要であると認定した教育課程に関する事柄を決定することができるというふうになります。

 そもそも教育課程というのは、もちろん、文科大臣が決定する一定の基準がございます。学習指導要領もございます。しかし、現場の教師は、子供の状況に応じてどのように教育の内容を教えていったらいいかということを最終的には教師が編成するという点も当然のことであります。したがって、教育課程は、行政や学校や教師、これら全体がかかわって決定することであって、文科大臣が一方的に決定することではありません。これは教育学の条理から見ても当然のことであります。

 このように、「教育課程に関する事項」という形で、文科省が決定する内容の範囲につきまして行政解釈に任せるような規定を持ち込むことは、教育内容への国家統制を法的に許容するものとなる可能性が高くなります。

 そのような危険を拡大してまでこの規定を教科から教育課程へと改正しなければいけない理由、根拠というものはどこにも示されておりません。なぜこのような改正をする必要があるのでしょうか。これは、教育への国家統制の危険性を拡大するだけであり、改正すべきではないというふうに考えます。

 第三点でございますが、教育活動の評価につきまして、従来は設置基準にありましたものを学校教育法の中に格上げする形ですが、その際に、文科大臣の定めるところにより、すなわち、この評価の基準は文科大臣が定める、それに従えというふうに書いてあります。しかし、ここには非常に大きな問題があります。

 そもそも、学校教育にとっては自主的な評価が非常に重要であります。なぜそうかと申しますと、実は、学校という教育現場は、教育的真理探求のフロンティアであります。なぜか。それは、今子供がどうなっているのか、なぜこの子供は荒れるのか、なぜこの子供は落ちこぼれているのか、それらに対してどうやったら解決していけるかということを、教育学理論や教育的技術を蓄積した教師、そして親、あるいは地域の住民が一緒になって考えて、どうするかということを、そこで仮説をつくり、実験を行い、そしてそれを総括して、教育的真理というものが生み出されてくる最も重要なフロンティアであります。

 したがって、そのようなフロンティアにおいて、一切の制限なしに、ただ子供の発達ということにのみ責任を負って真理探求をする、学問の自由を保障する、そして、必要なことであれば学校の目標に設定して、そのための教育プログラムを組む、こういう自由が保障されなければ、教育的真理というものが教育現場という広範な日本の重要なフロンティアにおいて発展していくということは不可能になるわけであります。

 その場合の教育目標、したがって、それを評価する場合の評価基準というものは、まず第一に学校そのものがみずから決定するべきものであります。もちろん、それは親や住民に対して開かれていなければいけませんし、したがって、親や住民が教師に対してこれはおかしいんじゃないかということについては、常にオープンにしてそれに答えていく、こういう柔軟かつ教育的真理に対して開かれた自主的な評価システムというものが最も肝要であります。

 ところが、文科省の基準という形になってきますと、そういう問題が抑圧されるというふうに言わざるを得ません。

 それから、同じ評価の問題でいいますと、文科大臣の定めるところによりというふうになりますと、例えば、学力テストを使って評価をせよというふうに文科大臣が基準を設定しましたら、学力テストを受けるのは各学校のほとんど義務になります。現在は教育委員会が決定するということです。ということは、教育委員会が決定できるというこの重要な現在のシステムをこの文言によって否定する可能性があるということです。これも私は非常に危ういことであるというふうに思います。

 それから参考までに申しますが、学力テストそのものが非常に大きな問題を持っております。

 学力テストについては、一九七六年の学テ判決がございますが、よくお読みいただきたいんですが、この中には、例えば、試験の結果を生徒指導要録の標準検査の欄に記録させるという等、こういうのは教師の真に自主的で創造的な教育活動を畏縮させるおそれが絶無であるとは言えずとか、また、個々の学校、生徒、市町村、都道府県についての調査結果は公表しないとされる等一応の配慮が加えられているということの上に、学テは違法ではないという判決が出されたのであります。

 したがって、今回行われている学力テスト、これについては、安倍総理自身が、これをみずからの著書で、結果を公表することが必要であるというふうに書かれているようなことを見ましても、これは学テ判決からしましても許されざることというふうに読む必要があると思います。そういうものが評価の基準として文科省によって設定されて評価が行われるということは、教育の自由というものにとって重大な問題であるというふうに思います。

 第四点は、高等学校の部分ですが、五十条で、「高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、」という、この「進路に応じて」という言葉が入ります。

 しかし、よく考えてほしいんですね。確かに専門教育は、農業高校とか商業高校とかいろいろありますから、進路に応じて変わるということはございます。ところが、高度な普通教育、これは、高校段階で生徒が受けるべき教育の普遍的な規定であります。この普遍的な規定に係るものとして「進路に応じて」という言葉が入るような法文構造は、これは法論理構造としましても決して許されるものではありません。これは私は間違いであるというふうに思います。

 それから、その下に、これは五十一条の三項ですが、「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること。」とありましたものを、「個性の確立に努めるとともに、社会について、」云々、そして「社会の発展に寄与する態度を養う」と変えられております。

 しかし、個性とは、社会に対する態度をも含んで個性というふうに言うものであります。他者との関係の中で人間存在の固有性というものをどう実現できるかということが個性の中心であり、したがって、社会は何であり、その中で自分はどういう役割を果たすかということは、個性意識の中心であります。そして、この個性意識の中に社会へのかかわりが組み込まれることで主体性と社会性というものが統一されるわけであります。

 ところが、この条文では、個性の確立に努めるけれども、それでは不十分だから社会についての態度を養う、これは教育学理論上間違いであるというふうに私ははっきり申し上げたいというふうに思います。

 最後に、副校長、主幹、指導教諭等の設置ですが、時間がございませんので簡単に申しますが、第一に、この中では、教育をつかさどる教師という規定がございますが、文科省の調査でも、今、教師はもう本当に長時間の労働を強いられています。必要なことは、校務をつかさどるではなしに、教育をつかさどる教員の数を圧倒的にふやし、教師の条件を改善することであります。

 ところが、主幹や副校長等、非常に多くの管理職、そして校務に携わるラインを強めるということは、そういう教師の全体の数をふやすことなしには、ますます教育をつかさどる教員の数が減るわけでございます。そんなことは今の改革に全く逆行する。

 二つ目は、この中では、校務ラインと教育ラインというのは分けられております。しかし、学校というのは、すべての教師が、子供をどのように育てるかをめぐって学校の運営のあり方も検討するというのが必要であります。とりわけて、教育をつかさどる教員が校務についても発言権を持つという形で学校は本当の協働が成り立つような組織であります。その点からすれば、これは校務と教育をつかさどることを分けて、しかもラインを分ける、スタッフを分けるという、これは間違いであるというふうに思います。

 最後に、先ほども言いましたように、学校は教育の真理発見の最前線でございます。その中で教師が協力をして、そして自主的な目標を立てて真理を発見していく、こういう点を本当に改善すること、そして校長は、学校の中で思い切ってその自由の代表者としてさまざまな改革に挑戦すること、これが必要であります。これこそが重要であるのに、文科省が今回教育委員会のことで言っておりますように、問題があれば上から統制する、そのラインを強めるという形で教育再生が進むとは思われません。

 以上のような点で、今回の改正については、重大な問題を持つものとして慎重な検討をお願いいたします。

 以上です。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の方々からの意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

保利委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。西本勝子君。

西本委員 自由民主党の西本勝子でございます。

 参考人の皆様方には、貴重な御意見をお述べいただきまして、本当にありがとうございました。

 皆様方の御意見を拝聴いたしまして、私は、教育は、いざ現場で実施するに当たっては、いろいろな問題があり、見方や考え方によってその対処もさまざまだと思います。それはいたし方ないことだと思いますが、その導かれていく方法、その道筋が必要であると私は認識いたしました。

 参考人の皆さんは、オリエンテーリングというスポーツを御存じでしょうか。このスポーツはヨーロッパで生まれたもので、目的地へのルートがたくさんある中、地図とコンパスのみで自分の体力に合った最善のルートを決定して、目標物を探し、タイムを競う競技で、他人に従うのではなく、自己決定を養う競技とも言われております。

 今審議しております教育再生をオリエンテーリング競技に例えて言うならば、教育再生という目的地にたどり着くには、幾つものルートが考えられる中で、ごく限られたものしかないのであれば、私は間違いなく改正した教育基本法の理念に沿ったルートを選びます。

 田村先生は、先ほど意見陳述の中で、先生方は子供と接する時間が少なくて、その反面、親と接する時間が多いという現場の実態を報告していただきましたが、私は、この点を大きな問題点であると思いました。また、植木先生は、学校は地域とともにあるという地域力の重要性を訴えられました。先日の青少年問題特別委員会で、私も公民館の利用、そして地域力の活性化について質問させていただきましたので、先生の御意見には大いに共感するところがございました。

 そこで、改正教育基本法に賛成の立場である田村先生と植木先生にお尋ねいたします。

 義務教育において、教育再生に向かう現在地と目的地、つまり、義務教育の現場における現状認識と教育再生の到達目標はどのようにお考えなのでしょうか、御意見をお聞かせください。田村先生からどうぞ。

田村参考人 ありがとうございます。

 現時点で再生に至る出発がどういう状況であるかということをまず申し上げさせていただきます。

 私の考えでございますが、前回、実は日本では、学習指導要領を改訂し、教育の仕組みを大きく変えていきました。具体的にはPISAのテストがその方向性を示しているわけですけれども、どちらかというと日本の教育というのは、答えが一つしかなくて、その一つの答えを追求していく、こういう仕組みが基本にございました。それに対して、今御指摘されているように、欧米流の考え方というのは、一つではなくて幾つかの答えがある、こういうことを考えないといけない、こういうことが求められてきた。

 特に、これからはトップランナーとして活動しなければならない日本の将来を考えると、今までは追いつけ追い越せで目標がはっきりしていたわけですが、これからは自分で目標をつくって自分で頑張っていかなきゃいけない、こういう時代になっていく際に従来型の教育でいいのかという反省がございまして、それに対して具体的に行動されたのが、いわゆるゆとり教育と称されている教育のやり方でございます。

 ゆとり教育というのは、実は私ども、ゆとり教育の内容について教育課程審議会の委員として議論をした立場でございますが、私どもの方ではゆとり教育なんということは言ったことがないわけでありまして、これはマスコミその他が言いやすいのでゆとりとおっしゃっているんだと思うんですけれども、実は、その目標とするところは、基礎的、基本的な知識を身につけた上でみずから学び、みずから考える力をはぐくむ、こういう方向性を何とか育てたいということで工夫したつもりでございます。

 しかし、実際は、基礎的、基本的な知識を身につけた上でというところが十分に消化されずに、現場では消化不良のまま教育が行われるということがあった、これが皆無ではなかった、こういう反省がございまして、現在、その点についての、PISAテストの結果出てきた読解力の低下とか、学習意欲、学習習慣に問題があるというような、そういうことについての対応を工夫しようということで、私、実は教育課程の部会の副部会長をさせていただいておりますが、その立場で、きょう御審議いただいたことを十分に踏まえまして、その問題点を解消していきたいというふうに考えております。

 なお、私どもとしては、先般行われました全国的な学習テストというのは非常に注目をしております。

 どういう点で注目しているかというと、実はあの問題、私も実際に解いてみましたけれども、答えは一つではないんですね。幾つかの答えが出るような問題が出ているわけです。これがいわゆるPISA型のテストなんですね。日本ではそういう問題は今まで実際に行われたということがないんですね。その際、問題になるのは採点ですね。どういうところまで答えを出したら何点上げられるのかという、採点、評価の問題が必ずかかわってきます。ですから、この部分が、全国的に行われたことによって、現場の先生に与えるショックというのはかなり大きいのではないかということを期待しております。

 同時に、その部分をしっかりと反省して、教育の改革に生かしていければいいのではないかなというふうに考えている次第でございます。

植木参考人 内容については田村先生がお答えになりましたので、私は、少し大きなところから言わせていただきます。

 教育に関してはそれぞれの御意見がございます。百家争鳴というぐらいあると思います。教育の目標というのは、社会の一員としての社会人、それから個の尊重、この二つの部分があると思うんですが、これまでどうしても、自分の意見を言うということが大きく尊重されてきたんじゃないかというふうに思っております。いろいろな御意見がございました。そういう中で教育というのは、そのときそのときでいろいろ方針が決定されてきたように思います。いろいろルートが本当にございます。

 だけれども、私、国会の場でこのように英知を集めて教育の目標を話し合われるというのは、これはすごいことだと思います。子供たちは、多分国民の皆さんは、このことをごらんになっていると思います。

 私は、皆さんがそれぞれに考えている教育の目標をどこかで大枠を一致させて、みんなで一緒になってやっていこう、こういう気持ちを、子供たちは大人の後ろ姿を見ているはずですし、国民の皆さんもこれを期待していると思いますから、こういう中で大いに議論していただいて、一つの大きな、一つだけではないかもしれませんが、大きな一致点というものを、ここで目標を決めていただければ大変にありがたいというふうに思います。

 以上です。

西本委員 次に、学力の低下についてお尋ねいたします。

 昭和六十二年八月の臨教審の最終答申以後、従来の、基礎、基本を身につけるという教育理念に加えて、個性の重視、生涯学習体系への移行、情報化、国際化への対応がうたわれました。この新しい教育理念は、平成十年、学習指導要綱の改訂によって、子供の生きる力を育成すること、さらに、平成十四年には総合的学習の時間が創設されました。平成十五年のPISA、生徒の学習到達度調査の結果で、我が国は、読解力が平成十二年の調査では八位であったのに十四位に低下したことが広く話題になったところでございます。

 ところで、平成十年の学習指導要綱は、知識や技能の量ではなく、子供の思考力、判断力、表現力を育てることを目指す改訂をしたものであり、まさにPISAの結果を見据えたような我が国の子供の読解能力を育成させようとしたものと思います。

 そこで、田村参考人及び植木参考人にお尋ねいたします。

 子供の学力が果たして低下したのかどうか議論が分かれているようですが、一般的には学力が低下したと言われております。ただし、授業時間数をふやすことが学力の向上につながるものではないとの指摘もあります。学力の向上は、保護者の関心にとどまるものではなく、次世代の育成を望む国民すべての願いであると私は思っております。

 学力の向上にはどのような施策が有効であるとお考えか、お聞かせください。

田村参考人 ありがとうございました。

 学力という言葉が非常に世間で使われます。実を言うと、これは余り定義が明確でない言葉と言われております。あえて言えば、適応能力、アプティチュードといいましょうか、そのことを言うのかなと思います。

 つまり、学力の中には、測定ができるものと測定が非常に難しいものがある。測定が難しいものでいいますと、巷間よく言われているように、意欲などは大変測定が難しいわけですね。では、その意欲をどう育てたらいいか、これはまたなかなか難しいわけです。測定できる部分でいいますと、いわゆる基礎学力と言われている知識、技能、あるいは記憶力とか計算力といったものをディシプリン、訓練で鍛える、こういうことは割に簡単に測定しやすいわけでございますね。

 この部分、どちらが重要かといいますと、心理学の分析では、アプティチュードという分析に例えれば、つまり、アリストテレスは、なぜ勉強するかということを二千五百年前に弟子から聞かれたとき、予想もできないことが起きたときに慌てないためだ、こういうふうに答えたという有名な言葉があります。孔子も同じようなことを言っていますけれども。要するに、適応能力が学力だというふうに考えることは、二千五百年前から同じような定義がされているのかなと私は理解しておりますけれども、その両方も低下しているということで今問題になっているということでございます。

 授業時間をふやすということは、それなりに一定程度の適切な対応では、ある程度は思います。しかし、余りふやし過ぎると、今度は意欲がなくなるという別の問題が起きてくるわけですね。ですから、その辺のところがなかなかバランス上難しいわけでございます。

 前回、ゆとり教育という、私はこの言葉を使いたくないんですけれども、一般的に使われていますからわかりやすいので使いますと、ゆとり教育ということで言われた対応は、確実に、授業時間を減らして、では何をやるのか、つまり、子供たちが学習に対する意欲、興味、関心を高めるということを重点に置いて教育をしていこうではないかという宣言だったわけでございますね。その宣言のあらわれが、総合学習。つまり、学問が何に役に立つか、そのことが身につけば学習に対する意欲が高まるわけですね。その工夫をしたわけですけれども、実際なかなかうまくできていないということが指摘されております。ただ、これは非常に判定が難しいんです。

 実は、私が一番大きな問題だと思うのは、意欲が一番大きな問題ではないかなというふうに思っておりまして、それをどうするかということは、基本的に私としての考え方があります。

 まず、社会の問題があります。つまり、私たちの国は、理数系といいましょうか、科学技術に対する興味、関心が実は世界一低い国なんだそうです。これはOECDの調査で出ております。どうして低いのか。これは一つ原因を追求してみる必要があるだろうと思います。

 学校という場で考えた場合、学習意欲、つまり、やる気が出るというのはどういうときかというと、多様な体験を持たせるということがその秘密のかぎかなというふうに思います。つまり、いろいろな機会に、成就感とか、よくできたとか、あるいは、やってみたらおもしろかったとか、こういうような体験を多く持つこと、これがとにかく大変意欲を持つためのきっかけになるんではないか。

 したがって、単一の価値観に従って社会ができている、あるいは単一の価値観に従って学校が、教育が展開されているということになると、実は、もしかすると一時的に基礎的な学力は上がるかもしれませんけれども、意欲という点では危機的な状況が起きるんではないかなというふうに考えております。

 ですから、多様性、言ってみれば、先ほどグローカリズムということを申し上げましたが、多様性というもの、つまり、生活体験、自然体験を含めたいろいろな多様な体験がいろいろな場で行われているということが、その社会が生き生きとした、生きる喜びを感じ取った社会になるためのかぎではないかなというふうに思っております。学校では、それを受けていろいろな工夫をこれからしていく必要があるんだろうというふうに思っております。

 とはいっても、やはり目標がないとなかなかやりにくいですから、学習指導要領、あるいはその上の学校教育法、教育基本法というような形で、民主主義国家の我が国が、国会で議論されて、目標を議会として提言されているわけですから、それを目標として実際の現場における子供の成長に生かしていきたい、その生かし方は、今申し上げたようなやり方かなというふうに思っております。簡単には答えは出ませんし、簡単な解決方法はないというふうに率直に思っております。

 ありがとうございました。

植木参考人 まず、学力が低下しているかどうかという問題ですが、先般の国際学力調査のときは、低下しているということでございました。しかし、その後のいろいろな調査では、少し回復しているということがございました。国際学力調査は、それ以前の学習指導要領の時代だったわけですね。学習指導要領がゆとり教育を入れて、考える力を入れようということになった後の学力調査では少し回復基調にあるということだったというふうに私は理解しております。

 そういうことなわけですが、私どもも国の調査に先駆けて昨年から、学力実態調査、すべて悉皆でやりまして、生活実態調査と絡み合わせてやりました。その中で明らかになったのは、子供たちが役に立つと思う教科は点数が高いんです。それは何かというと、受験に出ている数学とか国語は点数が高かった。理科は悪いんですね。役に立たないと思っているわけです。これは、やはり教え方が間違っている。やはり、私たちが何で学問するかというそのことから子供に伝えなければならないんではないか。それは、総合学習だと思うんです。

 そういうことも含めまして、私どもは、学校だけではなく、子供の周りのすべての資源を利用して子供を教育していく必要があると思います。学校は三分の一です。あとは地域、家庭。だから、土曜日であるとか夏休みであるとか、こういう資源をフルに活用して、学校だけではない、いろいろな知識、考える力をつけさせていきたいと思っております。

 以上です。

西本委員 質疑の時間が参ったようでございます。

 最後に、参考人の先生方がそれぞれの分野で今後もますます御活躍あらんことを御祈念申し上げまして、私の質問を終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

保利委員長 次に、大口善徳君。

大口委員 公明党の大口善徳でございます。

 本日は、田村参考人、植木参考人、藤田参考人、佐貫参考人、大変有意義なお話をいただきまして、また、貴重なお時間を賜りまして、本当にありがとうございます。

 それでは、早速、質問をさせていただきたいと思います。

 一つは、今回、義務教育の目標という形で、九年間の目標を一体として規定していますね。小学校と中学校というものを義務教育という一くくりにして、そして、その目標を決めている。このことの意義について田村参考人にお伺いしたいと思います。

田村参考人 九年という規定でございますが、実は、教育制度の中教審の委員会で義務教育の議論をしたときに調査をさせていただきました。いろいろなところに聞いて調査をしたんですが、実は、義務教育の九年というのが大多数の意見だとびっくりしたんです。延ばす方に意見が出るのかなと思いましたら、九年でいいという意見が圧倒的に多いんですね。むしろ減らしてもいいんじゃないかというような意見も入ってきたりして、延ばす方に行くと実は思っていたものですから、びっくりしたということを覚えております。そういった世の中の常識、意見というのが背景にございます。

 それから、もし義務教育を九年以上にするということになりますと、財政的な問題も簡単には解決しないんではないか。上に延ばすか下に延ばすかという問題もございますが、問題が多様になりますので、現時点では、当分の間九年ということで進めていっていいのではないかというふうに私としては判断させていただきました。

大口委員 そして、義務教育という枠組みで目標を立てられた、このことについての意義もお伺いしたいんですが。

田村参考人 法律的には、教育基本法に、義務教育の問題を取り上げて、「目的」という形で明示をいたしております。それを受けての形で学校教育法にこういう規定が設定されているんだろうというふうに思っております。

 しかし、これは法律的な問題で、実態としては、義務教育の問題というのを教育のコアとして、核として確認をしておかないと、このグローバル時代には、グローカル時代にはと言った方がいいのかな、グローカル時代には、多様な価値観が出てきて、どれもがいいという相対主義ということが基本になる危険があります。この相対主義、どれもがいいというのは考え方として大事なんですけれども、しかし、何にもなくなっちゃう危険もあるんですね。

 そこで、私は、教育の核として義務教育については確認をしておく部分がかなりあるだろうというふうに思いまして、こういった形の規定については賛成しております。その核があって初めてそこから成長していくんだろうというふうに思いますので、義務教育の内容を法律が規定して明示するということについては意味がある、重要なことだというふうに思っております。

 ありがとうございます。

大口委員 次に、学校における組織運営体制や指導体制を確立するために、新たに副校長、主幹教諭、指導教諭というものを設置する、こういうことになったわけですね。既にこれを先行的に導入しているところもあるわけでございます。そういう中でこういう新しい役職を、これは教諭というか管理職という形になりますね。そしてまた、給与についてもそれに見合ったものを処遇する、こういうことでございます。

 そういうことで、今までの、校長そして教頭、それ以外は教諭という、なべぶた、田村先生がおっしゃったなべぶたという形から、そこに管理職というのが入ってくる。そのことが、保護者や、あるいは地域、また子供たちにとって非常に有用である。例えば、学校の教師が、しっかりと子供と向き合う時間を確保しなきゃいけないんだ、親と向き合う時間が多くて大変だということで、非常にその意義がよくわかるんですが、では、学校の教師の側から見て、こういう制度の導入というもののメリット。

 それから、主幹とか指導教諭、こういうものにふさわしい人材を確保していく、これは大変だと思うんですね。要するに、特に主幹教諭と指導教諭は、児童生徒の教育をつかさどるという役目も持ちながら、なおかつ校務の一端を担うわけでございますので、そういう点で非常に負担も重くなる。中には、一生涯一教諭という考え方の方もいらっしゃるわけですね。そういう中で、そういう人材をどう確保していくのか。

 そして、こういう制度を導入することによって、これから教師を目指す方にとって魅力的な職場でなきゃいけないわけですが、それとの関係でどうなのかということについて田村参考人と植木参考人に、植木参考人は福岡市の教育長をやられておったわけでありますので、また教師という立場についても、いろいろ接しておられるということで、お伺いしたいと思います。

    〔委員長退席、中山(成)委員長代理着席〕

田村参考人 ありがとうございます。

 そもそも論で申し上げますと、キリスト教社会で学校という制度が生まれました。キリスト教社会は現在でも、子供の教育については家庭が第一責任を持つ、これが常識になっております。それを疑う者はだれもいない、これが典型的なキリスト教社会、それを前提としてつくられた仕組みが学校という制度なんですね。

 ところが、今は時代が変わりまして、特に我が国では、教育はすべて、かかわることもすべて学校が面倒を見ろと。うちの子が朝起きないから、先生、朝電話してきてくれとか、給食費を教員が取りに行くと税金の取り立て人が来たような扱いを親がする。これは全く理解をすることが難しいような社会状況になっているわけですね。先生方はそれで非常に苦労をされているわけです。

 ですから、もう議論の余地なく、経営学的には、マネジメントの一番効率的な仕組みというのはなべぶた形なんですね。ITの発展によって、なべぶた形が多くの組織で活用されているし、それで十分機能するわけなんですが、しかし、社会の変化に対応するということを考えると、なべぶた形ではもう対応し切れない状況になっている。したがって、階層をつくって、職務が過重になる場合には給与を少しその部分で考える、普通の先生よりは高くなるとか、そういうような仕組みもある程度導入しなきゃいけない。

 そんなことをしないで、とにかく先生をふやせばいいじゃないか、こういう議論もあることはよく存じ上げておりますけれども、現在の日本の状況の中で、定数改善、これは公務員である必要があるかどうか私はよくわからないんですけれども、しかし、現実は公務員ですから、したがって、公務員であるとすれば、定数増はそう簡単にはいかないわけですね。

 そうすると、ほかの知恵を使わなきゃならない。そうなると、組織をそういうふうに変える。あるいは、この仕事はどうも教員がしなくてもいいんではないかという部分はアウトソーシングするとかあるいはボランティアに任せるとか、そういう知恵を働かせないと、先生方が望んでいる一番やりたいこと、それは子供に接する時間なんですね。これさえちゃんと持てれば先生方は満足して現場で働くわけです。その結果は子供に必ず返ってくるわけです。だから、その知恵を出したいということが実はワーキンググループの目標でございました。

 結果、出てきましたのが、今答申として出ているような形でございまして、これはなかなかに簡単にはいかない難しい問題でございます。そういう意味で、現場の理解を得ながら、職務についての階層化ということを給与の表、つまり、現在は百万近い人がただ一つの給与表で働いているわけです。これが現実です。それでいいのかという問題もございます。

 したがって、いろいろなことを考えると、答申でお示ししたような形でいくのが現状では一番いいのかな。今までやってきたことを相似形で全体の規模をふやすということでは、解決できると思いますけれども、それは現実にはお金の問題でできないわけですね。とすれば、財政が改善するまで待つわけにいきませんから、今のようなやり方を考えるよりほかにしようがないんじゃないかということで、お願いをしているという形で答申を出させていただきました。

 ありがとうございました。

植木参考人 まず、おっしゃるように、教諭というのはオールマイティーだと思います。すべての学級においてはオンリーワンです。だから、生徒にも尊敬され、保護者にも尊敬され、全部自分で決定します。それが原則だと思います。

 その上で、まず、学校組織という意味では、校長。これには、今、多くの校長、申しわけないけれども、決定的にマネジメント能力が不足しております。私個人のあれでいえば、私は大学教官でした。それから、今、行政に入ってずっと、マネジメント能力、ある意味では管理職の要請を受けて十何年か来て、ようやく管理ができる、そういう力を身につけたわけですね。だから、ずっとなべぶたで、そして教頭だけちょっと経験して校長になって、あと、マネジメント、危機管理をやれとか地域との交渉をやれとか言われても、基本的に無理です。だから、やはりそれを教育する期間というのが要るのではないか。それで、なるべく皆さんを教育委員会に連れてきて鍛えるようにしていますが、そういうものも含めて、そういう能力を付与することは必要である。

 教頭も、先ほど申しました棚卸し研究会で、特に地域との関連で物すごく仕事がふえているんですね。そうすれば、その部分を、校長を代理する者、学校を代表する者として行政能力を持った者を入れてもいいわけですね。そうすると、今学校は閉鎖的で全部校長に責任を負わせていますけれども、こういうものを行政の方が半分持って、午後から全部開放しようとか、そういうこともできます。もっとやわらかい運営ができます。

 ということで、副校長は、ある意味では行政職でもいいのかもしれないし、教頭の行政経験をふやすためのそういうふうな期間に使ってもいいし、それから、学校に必ずしも全部要るわけではないと思います。小さい学校では、何人かをまとめて、何校かをまとめてつくってもいいというふうに考えております。

 それから、主幹教諭につきましては、今教務主任ですね、これを何とかきっちり位置づけてやる必要はあるのかと思います。

 それから、指導教諭につきましては、マイスター、やはり、ずっと教えるのがすごくすばらしい、その方たちをちゃんと評価してもいいのかなというふうに思っております。

 以上です。

大口委員 次に、学校の評価、それと情報提供についてお伺いしたいと思います。

 学校の評価のあり方、今後の推進方策について、こういうものが中間取りまとめでも発表されております。学校の評価といっても、自己評価、それから学校関係者評価、そしてそれを教育委員会がその評価に対して対応する、また第三者評価、こういうふうに分かれていて、それはやはり、学校の運営の改善と発展、それによって教育水準の向上等も保証する、こういうことであるというふうに考えるわけでございます。

 そういう点で、今の学校の評価の自己評価というのは、平成十七年で九七・九%、これは公立学校でありますが、ところが、公表が五割ぐらいである。外部評価も、アンケートとか除きますと、要するに学校関係者評価というもの、外部評価を除きますと六割ぐらい、こういうことでございますので、今回規定を置くことによって、学校評価が促進する、そして、先ほど申し上げた課題の改善ということを達成できる、こういうふうに私も考えております。

 そこで、一つは、私立学校の場合、五二・四%ございますが、そういうことで、私立学校の場合は、この学校評価についてはいろいろ留意しなきゃいけないことがあるんじゃないかな、こういうふうに思います。これは田村参考人にお伺いしたいと思います。

 それから、やはり第三者評価、これにつきましては慎重な御意見が多いようでございますけれども、植木参考人、この第三者評価についてもう少し御意見をお伺いできればと思います。

田村参考人 ありがとうございます。

 学校評価、これは、まともな教員、まともな学校であれば、こういうことが議論される前に普通にやっていたことでございます。つまり、授業がいいかどうかを学期ごとに生徒に確認するとか授業方法についての意見を生徒に聞いてみるとかいうのは、まともな先生ならみんなやっているわけです。学校も、そういったことはちゃんとした学校ならやっていました。

 御質問の、調査によると私学がこのことが低いということでございますが、実は私立学校は、これはもちろん高めていく努力をこれから重ねるつもりではおりますけれども、基本的に、建学の精神という非常に特色のある教育をしている。それは、実は、入学する前に親に説明をし、生徒に説明している、こういう感じがありますので、今さら何だというような実感があるんだろうというふうに思っております。

 したがいまして、調査の内容のように、きめ細かい項目についての調査ということになると、これは全部はやっていない。だけれども、中心はもうちゃんとわかっているからうちの学校へ来ているんだというような、こういう意識が強いというのは否めない事実でございます。

 もっとも、私立学校の場合には、それをちゃんとやらないと、生徒募集がうまくいかないとつぶれてしまいますから、必死になってやっている、そういう背景もございます。

 しかし、現状そのままでいいとは思っておりませんので、今後努力をさせていただきたいというふうに思います。団体の責任者としてのお返事でございます。よろしくどうぞお願いしたいと思います。

植木参考人 私どもは、自己評価はすべての学校がやっておりますし、第三者評価につきましては、現在九〇%の学校でやっております。

 ただ、第三者の範囲を、私先ほど申し上げましたように、一緒にその学校をつくっていく、単に評価するだけではなく、その学校を守り立ててよくしていこうという関係者、そういう方の意見がよりよく通るような、そういうふうな構成にしていただければありがたいかなと思っております。

 以上です。

大口委員 これは学教法の関係ではないんですが、地教行法の関係でございますけれども、田村参考人にお伺いしたいと思います。

 知事が都道府県教育委員会に対し学校教育に関する専門的事項について助言、援助を求める際、その具体的な運用に当たっては、知事は、私立学校と協議をし、かつ、教育委員会は、知事に対して助言または援助を行う際、私立学校の自主性を尊重すること、こういうことを私ども強く主張しているわけでございます。このことについて、田村参考人に御所見をお伺いしたいと思います。

田村参考人 この問題が私どもの中で大きな議論を沸き起こしたことは事実でございます。

 つまり、戦後六十年の間、私立学校に対しては、その自主性、自律性を尊重するということで、いろいろな法律の上でも、また行政上の扱いの上でも、学校の自主性、独自性を尊重するという扱いがなされておりました。

 そのことはそのこととして、実は、それとは直接関係があるかどうかわかりませんけれども、いわゆる履修漏れという大きな問題が起きました。これは公立も同じような状態で、私立だけではないんですけれども、しかし、学校現場で履修漏れという問題が起きるということがいいとは決して思いません。それは、ないようにしなきゃいけないわけで、その、ないようにしなきゃいけないという方法論の議論の中で、私立の自主性、独自性に対する配慮のもとにつくられた現行の制度をもうちょっと補強した方がいいのではないかという議論が出てまいりました。具体的には、教育委員会が知事部局に対してその部分を支援する、そういうことがあっていいだろうと。ただし、それも、あくまでも抑制的で、私立の自主性、独自性を尊重しないと私立学校が何のために存在しているかわからなくなってしまいますので。

 かつて、戦後六十年の間私立学校は、独自性、自主性を尊重された結果、経営的には苦しくて随分苦労したわけですけれども、新しい教育を幾つも生み出してまいりました。

 例えば中高一貫教育、これは私立学校がつくった仕組みでございます。非常にいいということで、現在は公立でそれを採用されております。それから、帰国生徒教育、これも私立学校がつくり上げたものでございます。それも、公立あるいは国立でそういうもののよさが認められて現在採用されております。それから、さらに言えば、体験学習、自然体験学習、社会体験学習みたいなものも実は私立学校が考えて始めたものでございます。そういった新しい教育を生み出す仕組みとしては、私立学校の存在というのは非常に重要だと考えております。

 履修漏れがあってはなりませんので、そういう補強ということがあっていいんですけれども、しなければいけないんですけれども、しかし、あくまでも私立の自主性、独自性は尊重していくという態度をお持ちいただかないと、角を矯めて牛を殺すという結果にならないように御配慮を賜りたいというのが私どもの考え方でございまして、現在国会で御審議されておられる方向で、今、大口先生がおっしゃられた考え方で、私ども大賛成でございますので、よろしくお願いを申し上げたいと思います。

 ありがとうございました。

大口委員 藤田参考人、佐貫参考人にもお伺いしたかったんですが、時間の関係で、これで終わりたいと思います。

 本当にありがとうございました。

中山(成)委員長代理 次に、高井美穂君。

高井委員 民主党の高井美穂と申します。

 本日は、お忙しい中、本当に貴重な御意見をありがとうございました。それぞれに大変深い御意見をちょうだいいたしました。

 私は、民主党の日本国教育基本法案の提出者の一人でもあり、今回、教育環境整備法案という、できるだけ教育の環境を整備するために人とお金をかけなければいけないという我々の政治的な理念のもとに、法案を提出しておるわけでございます。

 本日は、時間の関係もございますので、目的と目標の見直し、それから副校長などの新しい職の設置についてという、この二点に絞ってお伺いをさせていただきたいと思います。

 まず、私の立場から申しますと、前回改正されました教育基本法案は、やはり国の、つまり、文科省の統制の強化がかなり図られていく法案ではないのかという懸念を私は持っておりました。その点は藤田参考人、佐貫参考人と同じ認識でございまして、あえて私たち、日本国教育基本法案という法案の中に、前文でもって、伝統と文化、大事にする心を涵養するという、極めて丁寧な言葉で書き込みました。つまり、法律は行為を律するものであって心を縛るものであってはいけないという立場から、このように、憲法前文の解釈と同時に、法的拘束力がない形での前文に盛り込んでつくったわけでございます。

 その点に基づきまして、藤田参考人と佐貫参考人を中心に少しお伺いをしたいと思うんですけれども、今回の、すべての参考人がおっしゃったように、規範意識である公共の精神であるとか、生命、自然を大事にする精神とか、この目標なり目的なり、掲げるお題目は大変大事なものであると私も強く認識しております。ただ、さっき申し上げたように、やはり法律でもって書き込むというのには、少し危険というか、懸念がぬぐえません。

 その点で、まず藤田参考人にお伺いをさせていただきますけれども、先ほど懸念が出されました。憲法に抵触するということもおっしゃっておられましたけれども、さらに踏み込んで、現場にどういう影響が、影響というか弊害も含めてですが、あるとお考えになられるか、御意見をちょうだいしたいと思います。

藤田参考人 先ほどからの質疑を聞いておりまして、参考人の方が発言された内容と、結果的にこの学校教育法の改正案を支持するという内容との間には、大きな矛盾があるように私には受けとめられたんですが、なぜ、そのように考えられているのにもかかわらず支持すると言えるのか、非常に不思議であります。

 先ほど、例えば多様なルートがあるということ、御指摘がありました。私は、それはそのとおりだと思いますし、多様な考え方、あるいはまた生き方、そういったものを尊重し、許容し、そしてまた、学校におきましても、そういうさまざまな個性なり多様性というものをはぐくみ、大切にしていく必要があると思っております。

 ところが、例えば先ほど申し上げましたように、歴史については「正しい理解」、それから、実は現行法でも「正しい理解」とか「正しく理解し、」という表現は使われているわけですが、今回の法案では、その正しいという言葉は、歴史と国語と、それから算数、数学のところに使われております。いわゆる理科とか社会につきましては、観察でありますとか、あるいは社会事象、社会現象の多様性を考えれば多様な見方があっていいということになるんでしょうが、歴史、国語、算数、数学については、正しい、つまり正解があるはずだという考え方です。

 先ほどPISAのお話もありましたけれども、PISA調査というのは多様な答えを可能にするというふうに言われましたけれども、実は、その基礎になっているのは、基本的に、考える力、理解する力と同時に、必要な知識を十分に習得しているかどうかです。

 こういったことすべて、私だったら理解を深めという表現の方がもっといいと思うんですが、あえて正しいという言葉を使っているように、学校現場はこういう正しさを要求される中で、もう一方で、多様な考え方を生かし、そしてその中で能力を伸ばさなければいけないということになりますから、非常に矛盾した要求を突きつけられることになります。

 これは学力テストの問題だけではなく、もちろん国旗・国歌の扱いもそうでありますし、子供たちがどのような考えを持ち、あるいはまた思いを持っているか、もちろん教職員もそうですが、そのことに対して教職員やあるいは管理職がどのような配慮をできるか、その配慮をしつつ、それぞれにさまざまな議論をし、あるいは意見をぶつけ合いながら、それぞれの子供たちが自分なりの考えをはぐくんでいくということが学校教育に期待されているんだと思います。その多様性というものが、今回のような、例えば評価の問題にしてもそうですし、今の御質問の、基本的に態度項目というものを目標の中にずらずら書き込むということの問題性というのは、そういった点で現場にさまざまな混乱を引き起こすというふうに思います。

 その点で、民主党の教育基本法要綱の方は前文に入っていまして、理念として掲げているという性質になっておりましたが、法案としての構造からいいますと、今の教育基本法は、前文ではなくて目標のところに入れました。そもそも以前の教育基本法は、第二条は「教育の方針」になっていたんです。方針は、教育を施す側がどういうふうな構えとどういうことを重視して教育を行うのか、その方針を書いてあったのに、方針と第一条の目的が同じようなことが書いてあるといって、その方針の部分を目標に変えて、そこにずらずらと態度項目を並べ込んだ、盛り込んだことで、そもそも法律上の、法律としての問題を抱え込むことになったと同時に、それが学校教育にさまざまな混乱を引き起こす原因にもなっているというふうに考えております。

高井委員 佐貫参考人はいかがでございますでしょうか。さっきおっしゃられた意見陳述に加えて、より踏み込んで、現場に何か弊害が生じると思われることがあれば、補足でお願いをいたします。

佐貫参考人 このようなシステムが現場にどのような影響を及ぼすかということで考えてみたいのは、法と学校評価と学校管理とそれから教員が働くシステム、これら全体を通して、ある統制的なシステムが深まっていくんじゃないかというふうに率直に思います。

 法の部分につきましては、先ほどから議論されておりますように、本来、内心の自由にかかわるような項目を直接の教育の目標という部分に掲げることは法の性格に合わないというふうに思いますが、それを今度は実際に、先ほどもちょっと申しましたように、例えば国旗・国歌の問題にしても、これは教育委員会なりの判断する内容と違うんじゃないか、態度はこうあるべきだということをだれが決めるかというと、結局教育委員会が決めるといった形になっていまして、したがって、その法を教育委員会が決めて現場におろす。

 それから、学校の中では、この法案の中にもありますいわゆる校務ラインという形で、学校の現場の実情を見ていただければわかりますが、現在上からの指示というのは非常に強烈で、これに反すると処分もされる、そういうことでいろいろな混乱が起こっているわけですね。そうしますと、いわゆる校務ラインが強化されていきますとそれが実現されます。

 それから、スタッフの構成でいいますと、例えば今、東京都で主幹等はなり手が少ないという問題もあるんですね。これはなぜかといいますと、実は法的に見ましても、主幹には、当然、教育について援助していく必要があるわけです。ところが、今日のシステムの中ではがんじがらめで、校長のおっしゃることとはやはり違うんだという意見を言いたいというふうな方、特にお年を召して経験のあるような方は、そういう仕事は私には合わないというか、そういう趣旨で今まで教育をしてきたんじゃないと。そうしますと、若い方で発言力もあって、こういうことについては上からの指示は徹底して実現しましょうという、いわばそういうある種のエリートが選び出されてきて、ところがそういう方は、学級崩壊とかいろいろな困難な中で、どのように困難な子供や同僚を助けて一緒にやっていくかという経験なしになるものですから、結局、指示と命令、そして、さらに上からいろいろ指示が出されてきます。

 今、学校の目標というものがいろいろ出されていますが、インターネットで引きますと、例えばこんなものがあるんですね。国語、算数の単元末テスト九十点以上の児童をクラスの七五%にする、それから無言清掃をする児童を九〇%にする、それから夢や希望を持っている児童を九〇%以上にするという。わけがわからないんですが、いずれにしましても、こういう人間の態度まで含んで、それから、テストの点数にしましても、今、社会の格差化ということが言われていますが、大きな統計で見ますと、社会の格差化ということと学力の低下ということは比例していると言ってもいい現状があるわけですね。

 そういう中で、こういう点数が出されてきて、そして、上からの指示でこれを実施するために主幹等が教師に命令するということになってくると、本来の教育的な意思疎通と合意というものが形成されていくのではなしに、上からの統制が行われていくというシステムが全体として構成される。これは避けるべきであるというふうに思います。

高井委員 私は両参考人の懸念に極めて賛同するものでございまして、本当に、今回の政府案に対して私どもが反対の立場でおるのは、まさに統制強化というところで、上しか現場が見ないんじゃないかということを大変懸念しているものでございます。

 そして、先ほど田村参考人、学力低下の件で大変判定が難しいというようなこともおっしゃっておりました。それと同時に、私が感じたのは、逆に言うと、態度は目に見えるので測定しやすいですが、心が伴っているかどうかというのは極めて判定しにくいものでございます。先ほど佐貫参考人がおっしゃったように、心の意識を九〇%まで目標をつけるとか、やはり数字的な目標を掲げるというのは大変難しいことであって、現場の先生の裁量に任されているものであろうというふうには思うんですけれども、数字目標をそういうふうに入れていくことは、逆に極めて画一的なものになっていくのではないかというふうに感じております。

 そこで、先ほどの、副校長などの新しい職の設置についても伺いたいんですけれども、藤田参考人は、ライン組織の拡大による管理的統制強化の危険性ということもおっしゃっておりました。そして、佐貫参考人も同じような御意見を述べられたというふうに思います。先ほどの佐貫参考人の意見陳述の中で、まさに管理職をふやすよりも教員の事務負担を軽くして児童と向き合う時間をふやすようなサポート体制が必要ではないかということを述べられて、恐らく全参考人も、現場の先生方が大変忙しい、事務負担にもあえいでいる、児童と向き合う時間が何よりも大事であるということは、ある意味で共通認識であろうというふうに思います。

 そうした中で、植木参考人は、より管理指導体制、マネジメントをサポートするということが大事である、田村参考人は、限られた予算の中であるからこの管理体制を強めるということに賛同を示すという御意見だったように思います。

 では、藤田参考人、佐貫参考人にお伺いしたいんですけれども、私たちは、政治の意思として、教育予算を人的、物的、これは政治の意思としてできるという考えでございます、今の限られた予算の中でしなければならないという立場に立ってはおりません。政治は予算を決める場ですので、組み替えることができる、その立場で冒頭説明した法案を出したわけでございますけれども、この点について、管理職の機能を強めることは本当に現場にとって必要なことであるとお考えであるか、両参考人に御意見をちょうだいしたいと思います。

    〔中山(成)委員長代理退席、委員長着席〕

藤田参考人 私は、必要ないというふうに思います。

 先ほどからこの問題、実際にさまざまな職務、仕事の内容といいますか、学校、教職員が対応すべき事柄が時代の変化の中でふえていることは事実であります。膨大なものであります。ですからこそ、しかるべく十分な人員を確保し、そのための予算を手当てする、これは政治の最大の責任だと言っていいというふうに思います。

 そして、現行の学校におけるあり方、管理職というか組織のあり方ですけれども、現在は、いわゆる教務主任でありますとか、あるいは学年主任でありますとか、進路指導主事、生徒指導主事等が置かれているわけですが、これは教諭をもって充てるということになっており、かつ、それは具体的には、校長がそれぞれの学校へ赴任した際に、その学校のスタッフ構成を見て最適の人をそれぞれ充てていくわけであります。そして、これは固定しているわけではありませんから、そういう意味で、ある意味で教師同士が次は自分がなるかもしれないという状況にもあるわけですし、いろいろなそういう仕組みの中でうまくいっている学校は、ほとんどがこの仕組みが非常にポジティブに働いています。

 まず一つには、若手を育成する、リーダーシップを発揮できるような若手教師を育成するという役割を果たしております。それから、教職員の相互間の連携、協働の非常に強いネットワークの基盤になっております。そして、そういったことで、学校の問題をすべて同時に教職員が共有すること、これが非常に重要なことです。

 私は、いろいろなそのふえてきた職務について、仕事内容についてアウトソーシングすることも必要だと思いますが、しかし、このアウトソーシングの仕方というのは実は非常に難しい問題であって、欧米の中で、特にアメリカなどの都市部の学校はそうですけれども、このアウトソーシングと専門分化が進んでいるために、学校の中で起こっていることをトータルに把握している人間がほとんどいない。校長一人しかそれを知らない。しかも、校長は細かいことは十分にわかりませんから、そのために、学校のいわゆるそういうマネジメントの基本的な能力というものが特に教育面で低下している。これが非常に大きい問題なんです。

 ですから、小さな学校だったらそれほど問題ないでしょう。しかし、そういう学校は副校長も要らないんです。そうなると、何が必要なのか。本当に必要な人材は、どういう人材なのか人員なのか。そして、それを各学校、全国の地域の学校がそれぞれにその充実を図るためには何が必要か。十分な財政的な手当てと、制度的なシステムと仕組みとしては、そういう多様な編制を校長がみずからの判断で、地域のサポートを得て、そしてまた教職員と協力して工夫してどういう仕組みにしていくかをできるようにする、そういう制度設計が必要なんだと思います。

 そういう意味で、私は、学校教育法のような法律にこういう職位を組み込んで規定するということには非常に大きい問題があると考えます。

佐貫参考人 この問題については、何点か考える必要があると思います。

 第一に、いわゆるなべぶた組織というふうにして、これでは不十分だからというふうに議論をされていますが、これは不正確です。学校の中で、さまざまな委員会とか、その仕事に必要な議論をして決定してその執行を担っていく、そういうシステムがさまざまな委員会や係等として組み立てられているわけです。したがって、あたかもすべての教員が全く対等に同じ仕事をする、こういう理念では物事の管理運営ができないだろうというのは事実と違っております。

 今日、学校が最も必要としていることは、私は、逆説的な言い方になるかもしれませんが、校長の権限だと思うんです。校長が教育委員会だとかに対して、本当にこの学校が必要な事柄、計画というのはこうであるというふうにして、教職員の合意を得て、自由な学校づくりをする。

 今、日本の校長の中で、こういう自分の力と自由と、それからそういう自由の上に立った親や住民に対する直接の責任性、これを実行していると感じる校長がどれぐらいいるでしょうか。私の友人で校長をやめた教師がいますが、今やめてよかったというふうに言ったんですね。なぜか。これ以上上から指示が強くなったら、もう校長なんてやっていられないと。これが率直なところです。

 それから三つ目は、やはり一番重要なことは教員の協働性です。この点では、私は、率直に言いますと、教師に、いい教師と悪い教師がいて、格差をつけて、給与に差をつければいい教師がふえるというのはうそだと思います。確かに、給与を同じにしたら怠ける教師も出てきます。しかし、重要なことは、頑張ろうと思っている教師が、みんなに信頼されて、そして、そういう人が、必要な委員会とかそういうところの責任者になって、それで学校のイニシアチブが発揮される。そういう、すぐれた者がみんなの信頼を得て中心になるような、教育内在的な、しかもそれは、単なるなべぶたではなしに、あるピラミッドシステムを持った機能的なシステムをどうつくるかということこそ、考えるのが一番重要だと思います。

 最後に、教師は給与で格差を現実にされております。特に、非常勤教師等が非常にふえています。これは、教育の現場にとっては、教師が協力をしていく上で決定的にマイナスです。こんなことはやめるべきだというふうに思います。

 以上です。

高井委員 ありがとうございました。

 引き続く委員会の質疑に皆様方の御意見を大変参考にさせていただいて、頑張ってやっていきたいと思います。ありがとうございました。

保利委員長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。

 本日は、参考人として貴重な御意見をお述べいただきまして、本当にありがとうございます。

 私、まず田村参考人と植木参考人に伺いたいと思いますが、学校現場の実情といいますか、教職員が置かれている状態、かなりリアルにお述べいただきましたので、その点に関して伺いたいと思っております。

 田村参考人は、子供に接する時間が、今教職員、極端に少なくなったと言われました、私もそういう認識で全く一致をしているわけですけれども。

 一つは、そういう学校実態というのは、今子供はいろいろな問題を本当に抱えている。一人一人が違うし、新たな発達状況の問題もある、家庭のいろいろな問題もあるという中で言いますと、一層子供に接しなければいけない、この状況の中で子供に接する時間がない、こういう中では、本当に学校が立ち直っていくだろうかということは言えると思うんですね。

 そこで伺うんですけれども、なぜこういう事態になっているのかという問題と、この問題を本当に解決するには何が最も大事なのかということについて、率直な御意見を伺えればというふうに思います。

田村参考人 どうもありがとうございます。

 子供に接する時間が減ってきている、かなり減ってきている、事実でございます。学校で、いろいろと議論が今されているわけですけれども、雑用と言われているものは実はないんですね。どんなことも全部教育に関係があるんです。ですから、給食費を取り立てるのは先生にやらせたらかわいそうだと思っているものですから、先ほどちょっと例として申し上げましたが、実は、本当はこれも先生がやった方が教育的には意味があるんですね。ですから、雑用というものはないので、あらゆることをやはり先生がやる、その方が教育的だというのが常識として学校現場に普及しております。ですから、いろいろな意見が出てくるわけですね。

 しかし、それでは、本当に先生が全部やるということで乗り切れるのかというと、現状は、雑用が余りにも複雑かつ重くなり過ぎちゃった、これが実態としてあるわけです。やった方がいいから、みんな、先生というのはまじめだからやるんですよね、するとパンクしちゃう、こういう話が実態だと思います。

 ですから、その辺のコントロールも含めて、先生方、先ほど委員会のお話が出ましたけれども、そういうふうにしている学校もあるし、多くの先生方は、はっきり言って、クラスの子供に問題があれば自分で苦しんじゃって、なかなか協働して何かしてもらうということができない、これが実態です。ですから、そういうようなことでいえば、協働性というものを発揮することが今の仕組みではなかなかうまくいかないというのが前提としてあるものですから、組織の変更というものを提案しているわけです。

 その組織の変更も、いわゆる管理職をふやしてという考え方ではなくて、管理職というふうに言われていますけれども、指導教諭、主幹教諭も、それから私は個人的には、教頭さんも副校長さんも教育につかさどるという仕事に参加するべきだと思っています。

 それが現場では、これも余り言いたくないんですけれども、管理職になると教育に直接関係しない、そうでなきゃ大変だ、こういう意見が実際にはあるんですね。ですから、それだと問題はなかなか解決しないだろうと思います。

 だから、管理職も全部教育をつかさどって一人一人の子供の教育を、必要なら家庭訪問をするというぐらいのことで実際やっておられる管理職も多くの方がいらっしゃいます。しかし、法規的にはどうもそういうふうにはなっていない。むしろ、そうしてもらわなきゃ管理職はちゃんとできないということをおっしゃる先生方もたくさんいらっしゃることも事実なんですね。済みません、長くなって。ですから、そんなような意味で、今のままではどうしようもないということが私の実感でございまして、ああいう提案をさせていただいているということです。

 ありがとうございました。

石井(郁)委員 ありがとうございます。

 文部科学省の調査でも、小中学校の教員の一日の平均勤務時間が十時間五十八分なんですね。非常に残業が多いということも今問題になっておりますけれども、私は、やはり基本的にはもっと教師をふやさなければこの事態は解決しないというふうに思っておりまして、その意見をちょっと述べて次に移りたいと思います。

 植木参考人も同様にさっき言われましたけれども、教頭先生が毎日二十項目も点検項目があるというふうに言われました。教師にとってこれが雑用なのか、これは教育的に必要なのかということがあると思いますけれども、この点でも率直にぜひ伺いたいんです。そういう二十項目の点検項目というのは、それぞれの学校が自主的にお決めになっているのか、この学校に必要だ、この地域、この子供たちに必要だということでお決めになっていることなのか、それとも、教育委員会からこういう項目点検しなさい、あるいは国からも何かの要請があるということなんでしょうか。率直なところをお聞かせください。

植木参考人 率直に申しますと、教育委員会からだったり国からの調査の必要というのが多いことも事実です。

 それにつきましては、教育委員会の方もすべてそれを整理するという努力もしておりますが、それ以外に、やはり家庭、地域の教育力の低下の中でいろいろな雑用、例えば先ほど田村先生が言われましたように、子供を送り迎えしなければならないとか、そういうこともありますでしょう。家庭の教育力、地域の教育力、そういうものを肩がわりしている、そういう中での忙しさ、かぎの点検、かぎおじさんなんですね。地域開放の中で、プール開放であったり図書館開放であったり、地域の方が入れば入るほどその事務が多くなるということがあります。

石井(郁)委員 ありがとうございました。

 次に、藤田参考人に伺いたいと思いますけれども、たくさんの論点をお示しいただいて大変参考になりました。その中で、やはり今回の法律の中で、文部科学大臣の教育課程の決定権あるいはいろいろな分野での権限強化ということが強調されたというふうに思うんですけれども、教育課程の決定権というのがどういう重大な問題を持っているのかということについて実は伺いたいと思うんです。

 それは、今後、学校教育法の改定の後に学習指導要領が非常に重要になってくる、この位置づけが重要になってくるというふうに思うんですね。実は、昨日もその点で私は大臣と質疑をいたしましたら、その答弁の中には、学習指導要領に反する事態を黙認する教育委員会は子供の学ぶ権利を侵害しているという答弁がございまして、やはり学習指導要領がすべてになってくる。しかし、この学習指導要領というのはだれが決めるのか、どういう内容で決めるのかということがまずありますよね。

 戦後の教育の中でも十年に一度ずつ学習指導要領が変わってきたということもありますし、やはり国がこの学習指導要領を決める、つまり内容を決める、そしてそれを教育委員会にも学校にもいわばやれという仕組みをこういう中でつくられると、これは本当に、教育の自主性というか内容というのは統制一路ではないのか、がんじがらめになっていくぞというふうに思うんですが、ぜひこの点での御意見を伺いたいと思います。

藤田参考人 その危険性あるいは危惧は、非常に確率性は高まっていると思います。

 したがって、これは教育基本法のときにも問題にされたことであり、私を初め多くの人が主張しましたけれども、教育基本法もそうですし、今回の学校教育法あるいはまた学習指導要領の改訂作業におきましても、国民に、ああしろこうしろ、こういうふうに育つべきだということを命令し、指示し、枠をはめ、そしてそれをさまざまな権力作用によってコントロールしようとする、そういう傾向が非常に強まっている。

 もちろん、そういうふうには言いません。目的、理由は、時代が変わる、グローバル化、グローカル化が進んでいる、大きな変化の中でさまざまな課題が起こっている、それに対応する必要がある、多様な学力、みずから学び考える力が必要だというふうなことを言うわけです。

 しかし、みずから学び考える力、あるいはゆとりの中でおおらかにみずからの人生あるいは将来を展望する、そういった可能性はどうやったらはぐくまれ、そして具体的にそういう教育を実現することができるのか、その具体性のところへ行くと、途端に議論は全部すっ飛んで飛躍してしまって統制するような方向へ行っちゃうわけですね。ですから、私は、今その傾向があらゆるところで強まっているというふうに思います。

 実は、きょうの私の資料の一番最後の四ページに、余り関係、関係というか非常に重大なことなんですが、私どもが二〇〇〇年と二〇〇二年に日本と中国とイギリスで教師を対象にして行った調査があります。

 その結果をちょっと紹介してあるんですが、三カ国共通の傾向として、教師には使命感が不可欠である、やりがいのある仕事だ、自己を向上する努力が非常に重要である、高度の専門的知識が必要であるというこれらの項目はすべて、九〇%ないし九五%の教師がこのように答えております。それに対して、生活を犠牲にする必要がある、体力が要るというのも八〇%から九五%以上であります。そして、多忙化が進んでいる、慢性的過労がたまっているが八〇%、九七%以上です。

 つまり、日本だけの現象ではないんです。教職というもの、教師の仕事というのは、現代社会においてはこれほど広がりを持ち、いろいろな課題をやらざるを得なくなっているんです。それは日本だけの特殊性ではなくて、先進諸国がほとんど共通に抱えている問題です。だからこそ、十分な人員の手当てと財源の確保が必要なんです。

 そのことは、もちろん無駄をしていいということではありません。必要なアウトソーシングはしなければいけないと思います。しかし、そのアウトソーシングも、例えば、派遣として来られる方が、同じメンバーとして学校の中で自分たちの学校づくりができるという条件の中でやっていけるならば、まだいいんです。だから、では、そういう仕組みを本当につくっているかというと、決してそうじゃない。今は、各地方教育委員会、自治体においてさまざまな工夫をしていますから、比較的まだよくいっている、うまくいっている部分が地域によってはあります。しかし、構造的には非常に厳しい状況に今追い込まれているというふうに思われます。

 そしてもう一点、教育課程の編成ということなんですが、基本的に、先ほどの大臣の答弁でしょうか、とんでもないと思いますね。学習指導要領でそのように規定すること自体が、それを強制することが憲法に違反することであり、そして、世界人権宣言はその点、今の憲法はその点は書いていないんですが、人権を侵害するような制度設計をしたら、それは人権侵害それ自体だ、ですから、そういったものを認めるべきではないということも世界人権宣言に含まれているんです。そのことは憲法においても本来遵守されなければいけない精神でありますし、そういう点でも、学習指導要領や学校教育法や教育基本法に何をどこまで書き込むべきなのか、その点での権限の無際限な拡大が今進んでいると思います。

石井(郁)委員 もう一点、最後のところで、教育の再生ということで、これはどういう方向に日本の教育が行くのかということを述べられたところがあると思うんです。一九八〇年代からの教育改革というのは、かえって教職員の多忙化あるいは教育のゆがみをずっと促進してきたんじゃないかとか、今日の特に教育の新自由主義的な、市場原理主義的な改革、これは一部の利益を不当に優先して、教育の私事化とモラルハザードを促進していないかという指摘なんですけれども、時間も余りありませんので、この点をもうちょっと補足していただければと思います。藤田参考人、いかがでしょうか。

藤田参考人 先ほどから日本の教師は非常に多忙だということが出ていまして、そのためにもアウトソーシングあるいは副校長が必要だと言われました。そして、田村参考人は給食費徴収のことを挙げましたが、副校長が給食費徴収をするんでしょうか。つまり、挙げられている事例と、そして具体的に副校長のする仕事というのは非常に大きな乖離があるということです。具体的には、こういったように、ことごとく、今この間学校でふえている仕事の半分は、この二十年間の改革がつくり出してきた仕事だと言っていいと思います。

 例えば、学校評価、外部評価、これは私はもちろん必要だと思います。あっていいと思いますし、適切にやるべきだと思いますが、このための仕事も膨大にふえています。副校長を置こうが、教頭や教務主任や、そういった職にある人の半分はそういったことに割かれていると言っても言い過ぎではない。あるいは、小中一貫教育校をつくる、あるいは教育をやるということになれば、そのために主幹が必要だということで、非常に大きなエネルギーを割いています。もちろん、地域との連携協力にも膨大な仕事があります。

 クレームが多いというのも世界的な傾向ですけれども、これへの対応にも大体そういった人たちが割かれています。しかし、このクレームにつきましても、もちろん問題が学校や教師にあることも事実ですが、この間の改革の中で、選択制であるとか、あるいは市場原理主義的な改革ということで、自分たちが学校を選び、教師さえも選ぶという権利を主張するのは当然である。私は基本的にそれは否定できない部分だというふうに思いながらも、もう一方で、その権利は、他者の同じ権利を侵害しない限りにおいて制度上は私は保障すべきことだというふうに考えておりますので、そういった意味で、他者の権利を侵害しないようなものでなければいけない。その点で、今の改革の動きはそうではないというふうに見ております。

石井(郁)委員 ありがとうございました。

 佐貫参考人に伺いたいと思いますが、大変時間が少なくなって申しわけないんですけれども、強調されましたように、今回の改定案では、義務教育の目標に、たくさんの徳目、そして態度を養う、初めてこれは入ったんですよね。

 態度を養うということ、大変問題点を強調されたと思いますけれども、これが学校教育法上に入るということにどういう問題があるのか。述べられましたけれども、改めてというか、それがこれからの学校現場に及ぼす影響というか、そういうものについてもう少し述べていただければと思います。

佐貫参考人 簡単に二点だけ述べさせていただきます。

 第一点は、なぜ国民主権国家においては教育の内容を国家が態度や価値にかかわって規定してはいけないかというこの根本原則なんですね。それはごく単純なことで、国民が国家をつくるわけです。したがって、それによってつくられた国家権力が自分に都合のいいような国民をつくりますと、国民が自分で国をつくるという権利が侵されます。そういう点でいえば、内心の自由、態度、こういうものを国家が規定してはいけないというのは、主権在民国家、いわゆる市民国家というものの基本原則であって、これはいかなる政府であっても、民主主義を前提とする限り、絶対やってはならない。学問的にも普遍的な真理であります。それを態度決定というものは侵すという点で、これはとんでもないことだというのが一つです。

 もう一つは、教育振興基本計画というものが計画されております。これに学校教育法等の規定が絡みますと、態度がどうなっているかも含んで文科省が決めて、そして、これに予算をつけて、指示し、それに従って地方自治体も同じような計画をする。いわば教育内容についての万能のコントロール権を政府が持つという、これは法的な構造としてそういう可能性があるということです。これは、法の構造の問題として、あってはならないことだと思うんです。民主主義国家というものは、国民の自由というものがどういう危機の状態にあっても保障される法的システムというものを持っていなければいけない。それが失われるということは、これは大変な問題であるというふうに思います。

 以上です。

石井(郁)委員 本当に時間ですので以上で終わりたいと思いますけれども、佐貫参考人には、先ほど、学校の現場で本当に教職員が協働性、連帯性というか、そういう中で子供たちに全体として当たっていくというような話を伺っておりまして、なるほどというふうに思いまして、その点もぜひ伺いたかったんですけれども、時間が来ましたので、以上で終わります。

 きょうは本当に貴重な御意見をどうもありがとうございました。

保利委員長 次に、保坂展人君。

保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。

 藤田参考人にまずお聞きをしていきたいと思います。

 私は、八〇年代から学校現場でいじめや校内暴力、いろいろな事件が起こるたびに、現場に行って子供や教師の声、親の声を聞いてきた体験を持っていますけれども、学校に多々問題はあるということも言ってきました。しかし、現在の安倍総理あるいは教育再生会議のおっしゃっている再生という言葉に非常にひっかかっています。

 なぜかといえば、再生という言葉はいろいろな意味合いで使われますけれども、一般的には、死にかけてしまったり、既に死んでしまっている、ぶっ壊れてしまったものを立て直す、蘇生させる、こういう意味に使われるわけです。一国のリーダーがこんなにだめだよというメッセージを放っていいのかなということを考えたときに、やはり教育現場の一人一人の、特に教師集団における相互連携や積み上げ、あるいは基盤となる教育環境の充実、こういう問題で解決しなければならないところを、ひたすら制度論というところに持ち運んでいるのかなという気がいたします。

 そこで、藤田さんもお書きになっていますけれども、日本の教育関係者や政治家は、ヨーロッパでいえばフィンランドとイギリスによく出かけている。しかし、なぜかイギリス・モデルが今回の議論、教基法の議論も含めてですけれども、どうもそちらに重点があるということについて、どのようにお考えになっているのか。私からいえば、サッチャーの教育改革がイギリスでは相当結果が出てきているんじゃないかということを、まず藤田参考人からお願いします。

藤田参考人 御指摘のとおりで、多くの政治家の方々も、それから教育研究者あるいは財界の方々も、フィンランドとイギリスに視察に行かれております。そして、どういうわけか、イギリス・モデルを日本でも参考にしようとしているわけです。

 サッチャー改革は、御存じのように一九八〇年代に始まりました。ちょうど日本では臨教審の改革が始まったところでありますし、アメリカではレーガン政権のもとで改革が始まった。同じ時期に改革が進んだわけですが、サッチャー改革の非常に大きな特徴は、制度改革、しかも非常にラジカルな制度改革を行ったという点です。

 そして、制度改革は政治家が決定するということが基本でありますから、一般の学校現場や実践家が、あるいは教育委員会が、みずから運用上の改善と努力で行うものではありません。教育の問題について政治家の方々が関心を持ち、それをよくしようとしてさまざまな改革、政策を行ってくださることは非常に大切なことで、ありがたいことではありますが、その制度を変えるためにのみ一生懸命になると、ゆがんだことが起こる。

 だから、日本の場合には、本当に制度を変えるべき制度改革は何だったのかということをきちっと見きわめずに、政治家が取り組むことのできる、そしてその成果を一般市民に、選挙民にアピールすることのできる領域ばかり多分注目してきた。もちろん、基本的に教育基本法を変えたかったのでしょう。ですから、教育基本法を扱った。憲法も変えたければ、それをやるということはもちろんあります。

 ですから、一方に、そういうある種のイデオロギー的なと私は言っていいと思いますが、みんなそれぞれ、双方イデオロギーはありますから、特定のイデオロギー的関心があり、もう一方に、目立つことを、政治家としての点数稼ぎをやりたい、これは悪いことじゃないんです。でも、本当にいい改革をしてもらいたい、それが基本だと思います。

保坂(展)委員 もう一点、教育改革という意味では、何度も旗が振られてきて、色あせるとまたこのスローガンが後退するということもあったかもしれません。

 ただ、今行われている議論、非常に違和感を覚えますのは、例えば、私、教育基本法の特別委員会の審議で、九九年以降いじめ自殺がゼロだというのはおかしいじゃないか、これだけ新聞のファイルがありますよと議論をしました。今、この法案審議になってみると、このように、児童生徒の生命や安全を放置した教育委員会の責任ということになって、国の関与が根拠づけられるというふうになっているのを見ると、未履修問題も同様のところがありますけれども、文部科学省自体の迷走と言っていいと思いますけれども、そして、みずからの責任、文部科学省自体の改革みたいなところがどこかに飛んでしまって、教育委員会や現場、そこにすべてが集約されるような議論になっていると思います。

 そこで、この議論がこのまま悪い方向へ進んでいくと、藤田さんが最後に、これらの弊害が甚大なものになったときだれが責任をとるんですか、皆さんですよと、こうおっしゃいました。その甚大なものになったときというのはどういう危険な状態なのか、もう少し具体的におっしゃっていただきたいと思います。

藤田参考人 なかなか難しいんですが、私はもう既にそういう状況にあると思います。例えば、この学校教育法もそうですし、教育基本法もそうですけれども、ゆがんだ制度、あるいはまた法律を制定するということ自体が非常に甚大な弊害をもたらす状況をつくり出しているわけですから、本当だったら、その責任を明確に自覚して、これで本当によいのかを立法府の当事者として私は考えていただきたいというふうに思います。

 ただ、一般的な意味合いでいいますと、例えば、東京都知事もよく言っております治安の問題というのはあろうかと思います。昨日もフランスでいろいろ若者の暴動が起こったというふうに、一昨年もあったわけですが、こういったことは日本でも徐々に問題化していると言っていいと思います。

 十年ほど前にアメリカの研究者と共同研究をやったときに、向こうの研究者が言っていたのは、日本の一九九〇年代の状況はアメリカの一九七〇年代の状況に非常に似ていると。アメリカにおいては、六〇年代から七〇年代に坂道を転げ落ちるように状況が悪くなってきた。

 もちろん、公民権法の問題でありますとかベトナム戦争とか、いろいろな課題がありました。そういう中で起こったことでありますから、日本と同じに考えることはできませんが、そのときに起こったことの例えば一つは、ホワイトフライトという、みずからの利益のために富裕層が郊外へ逃げ出す、脱出するということで都市部がどんどんゆがんでいくことになったわけですね。ですからこそ、例えばハーシュマンの退出、エグジットオプションを選ぶのか、あるいは我々はその中にとどまって内部から改善していこうとするのか、どちらを選ぶのかということが、我々の時代に我々の社会に突きつけられている問題だという議論も出てくることになるわけであります。そういった点で、私は、今本当にやらなければいけないことはそういうことだと思います。

 もう一つ、保坂委員が先ほど最初に、いじめ、校内暴力のことを挙げられたわけですが、八〇年代からいまだに、いじめ、校内暴力、学級崩壊あるいは不登校、そういったものが、日本の教育の危機だと言われて、だから教育の再生が必要だと言われ続けているんです。二十五年間言い続けてきたんです。

 この間の改革は何だったんですか。そして、この間、多くの制度改革や法律の改正も行われました。少年法もそうですし、学校教育法も既にこれまで何回か改定されているわけですが、それらがすべて効果を上げていないんでしょう。だから、またさまざまなことをやろうとしている。ですけれども、それもまた、多くの識者が言っているように、成果が上がるはずはない。なぜなら、合理性、論理性がないからです。そこのところを私はよく考えていただきたいと思います。

保坂(展)委員 次に、田村参考人に伺います。

 やはり田村参考人も、ずっと長らく、教育改革の二十年というスパンでいえば、いろいろ発言もされてきたと思います。私学という立場だけではなくて、公教育全体がかなり大変なことになっていると。今、藤田参考人もおっしゃったように、学力の危機は特に二極化にあると思っています。つまり、できる子と相当にわからなくなっている子が分解を始めている。

 この状況に対して、例えば教育再生会議などで教育バウチャー制などの議論もありましたね。そうすると、要するに、いわゆる経済格差によってますますこの二こぶが離反をしていく。こういうふうになると、多分、どの子も同じ学校で学んだという日本社会の極めて目に見えない資産、これはいわゆる犯罪の少なさや解決率の高さにもつながっていると思いますけれども、日本社会の基盤であるところの公教育が、その基盤が崩れてしまうのではないかという懸念をしているわけですね。そういう部分に対する提言なりフォローというのがこの議論の中に欠けていると私は感じているんですが、その点について御意見をお願いします。

田村参考人 今の保坂先生の御質問、それから藤田先生の御回答等をお伺いしていまして、基本的に、国際社会における日本の位置といいますか、プレゼンテーションについての認識が少しく違うんじゃないかなという実感を持ちました。

 つまり、確かに日本は、戦後六十年の間、特に前半は、見事な復興とそれから大変な成長を遂げた、大変健全だったという時期があったと思います。その時期は、位置としては、いわゆる追いつけ追い越せの時期だったということは確実なんですね。ですから、目標を考える必要がなかったわけです。これは、実は学校の今の仕組みには一番合っている社会情勢なんですね。目標を考えるということが、今までの日本の学校の仕組みの中では、学校の中で考えるのではなくて、学校というのは与えられた目標を達成するということを一生懸命やろうというふうに設計された仕組みなんですね。

 明治以来、いわゆる明治五年の太政官布告がそれを示していますけれども、あれは明治五年の二月に福沢諭吉が「学問のすすめ」という文章を書いて、人間はみんな平等だ、勉強しないと差がつくよというおどかしをしたわけですね。みんなびっくりしたわけです。その九月に太政官布告をして、勉強しないと差がついちゃうよというので、とにかく、本当に勉強するということの意味を十分に考えないままに、社会的に得する、損するということで学校教育というのが普及していくわけです。そのツケが今ごろ来ているわけですね。

 つまり、人間が生きているということの価値を、社会的に成功したかしていないか、あるいは得したか損したかという考え方ではなくて、人間が生きていることに意味があるんだということを、その意味があるような教育をしていきたいという切りかえをしようとしているわけです。それをしないと、国際社会で、今のプレゼンテーションの中で、日本の存在の中で、それに切りかえていかないと、追いつけ追い越せではもう納得できない日本人がどんどんふえていくということになるというふうに私は考えているわけです。ですから、改革はまだ道半ばだと思っています。

 再生とかそういう言葉は、政治家のお立場ですから、いろいろお使いになって、引きつけるということでおやりになるのはいいと思いますし、また、再生会議のメンバーを見ても、ほっとしているのは、教育の専門家はいらっしゃらないんですね。いや、そんなことを言うといけませんね、メンバーは思っておられるかもしれませんが。(発言する者あり)ああ、そうですか。ですから、いろいろな意見が出てくるという意味では、非常に意味があるなと思って再生会議を位置づけています。

 しかし、はっきり言って、これから先は私の個人の考えなんですけれども、総がかりで直すというのは、何もやらないということの裏返しなんですね。だから、どこかがやらなきゃいけないんです。それは専門家だと私は思っています。その部分については、嫌々か喜んでかはわからないけれども、文部省は確かにやっているんですね。私どもも手伝ってきました。それで、それについて意見を言って、まずいところは直すということで改革していかないと、総がかりでやるなんということは、はっきり言って、何もやらない、一億総ざんげみたいなもので。ちょっといけませんね、こういうことを言っては。そういうようなことだろうと思っていますので、二十年間の反省はまだまだ中途だなと。

 つまり、人間が生きているということは、生まれたときにDNAを持って生まれてきて、一定の期間しか生きられないわけです。生きているときにやるだけのことはやったなと思って死ねるように教育をしておく、こういうことだろうと思いますので、そういう意味では、今までの日本の学校の仕組みではなかなかそこまでは教え切れていないんじゃないかというふうに思っています。

 済みません、ちょっと長くなりました。

保坂(展)委員 もう少し時間があればじっくり議論させていただきたいんですが、時間が余りありません。植木参考人と佐貫参考人にそれぞれ御質問をして、お答えをいただきたいと思います。

 六十年変わっていないということが教育基本法改正の中でも議論になりました。今もそういったことが言われるわけですけれども、植木参考人の御本の中で、ここは私もなるほどそのとおりだと思ったのは、子どもの権利条約、児童の権利条約をいよいよ日本も批准することになったというその直後に書かれた部分だと思いますけれども、ございました。そこに、住民票の続柄欄には嫡出子と非嫡出子の区別があって、相続についても二分の一違う、これはやはり差別である、国連からも指摘を受けているというようなことも、六十年前には余り問題にならなかったけれども、社会の進展の中で問題になってきたというようなことについての視線がこれまでのこの議論の中でやや薄いんじゃないかということについて、お答えをいただきたい。

 そして、佐貫参考人には、お触れになったいわゆる国家による国民資質規定法になっていくんじゃないかという中で、特に現行四十二条の、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めるという部分が、社会について、広い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うことというふうに変わってきているところについて、もう少し言及をしていただきたいと思います。

植木参考人 ずっと以前の本を読んでくださって、ありがとうございました。

 私は、今おっしゃっていただいたように、社会、人の心が今変わっているんじゃないか、この六十年で。その中で、先ほどちょっと申しましたように、家庭の教育力、地域の教育力も落ちています。以前は、ごみを不法投棄する、サービスエリアに持っていくとか、そういうことは考えられなかったんじゃないかと思います。お掃除だって、自分の家の前は掃除していたんですね、みんな。今、自分の家の前が汚れたら市役所に電話をかけてきて、自分の家の前を掃除しろというふうな人間が多いようです。図書館の本が今非常に受難に遭っているというのもそうです。もちろん給食費の問題もそうですけれども、日本全体がちょっとおかしくなっているんじゃないかな。

 だから、もちろん学校教育法の改正は第一歩だと思いますが、私は、国家挙げて、食育がいろいろなシステムでみんなやるようになりました、それと同じように、社会教育というか、正しいこととかそういうものをもう一遍議論していただくようになったらいいなというふうに思っております。

 以上です。

佐貫参考人 二点申し上げます。

 教育基本法改正のときに、教育基本法はどんな国をつくるかという意識を子供に身につけさせる点が弱いんじゃないかという議論がございました。私は、これは、実は全くのうそだと思います。

 なぜかと申しますと、一九四五年敗戦のもとで、日本国民の圧倒的多数は、どうやって日本国家をもう一度再建するかということだったと思うんです。そのときに、個人の自由というものを前提にして新しい国を積み上げていくんだ、そういう意味で個性という概念が組み込まれたというふうに考えております。

 そういう点では、この個性概念は、それぞれが社会に対する主体的な固有の態度というものを形成する、まさに自主性の根源ですが。そういうものを持って、しかも平和的な国家及び社会をどうつくっていくか、こういう教育のあり方を考えなければいけないんだという意味では、まさに当時の圧倒的多数の人たちは、どういう新しい国家をつくる人間を形成するかという、この意識であの法律をつくったというふうに考えるわけです。

 その個性概念は今日も生きているというふうに思っておりまして、先ほど申しましたように、個性だけでは不十分だというふうに読める、これは基本的な理論把握として間違っているというふうに思うんです。

 もう一点つけ加えますが、今日、率直に言って、子供たちは個性競争をさせられています。私には個性がないから人間らしく生きられない。その個性とは何かというと、結局、他人よりすぐれている、こういうことですね。しかし、本当の個性というのは、どんな人間でも、他者との関係の中でかけがえがない、自分が生きていることが他者が生きていることとつながって、自分がみんなに支持され、期待されている、自分がこの社会に生きている価値があるんだ、その価値があるからこそ、その役割にこたえるような自分を、まさにそれは、その人間しか担えない固有の役割を担うような自己形成をしていくんだ。だから、個性形成は学習意欲の土台でもあるわけです。

 そういう個性というものをどうつくるかということなしに、ただ能力の違いによって異なった教育をするのが個性教育だという、これは個性概念そのものの使い方の間違いだ。そういう点から、私は、今日の教育改革というものは、本来の個性概念に立ち戻って教育改革を考える必要があるというふうに考えております。

保坂(展)委員 大変貴重な御意見をありがとうございました。

 これで終わります。

保利委員長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党の糸川正晃でございます。

 本日は、四人の参考人におかれましては、大変貴重な御意見をありがとうございました。私が最後の質疑者でございますので、忌憚のない御意見をいただければと思います。また、やや重なる部分もあるかと思いますが、確認も含めまして質問させていただきたいというふうに思います。

 まず、田村参考人にお尋ねをさせていただきますが、学校評価導入についてです。

 私立学校の理事長として、また日本私立中学高等学校連合会の会長というお立場でございますので、その両面のお立場から、私学における自己評価実施率、これが五二・四%、その公表率が二四%であるこの現状につきまして、そしてまた、学校評価制度の義務化に対する現場の受け入れの体制、そして運用面での今後の懸念について、御所見をお伺いしたいと思います。

田村参考人 ありがとうございます。

 私立学校が、学校評価の導入の部分で、最初の調査で非常に低い数字を出しているということはよく理解しているところでございますが、先ほどもちょっと触れたんですけれども、私立学校というのは、建学の精神があって独自の教育を行うということで、実は、入学の時期に親あるいは生徒に十分にそれを説明いたしております。どの学校も、その点についてはかなり真剣にやっています。それは、生徒募集にかかわることですから、当然真剣なことになるんですけれども。その理解のもとに入学してきているという意識がありますので、入ってからの評価にかかわってはそれほど熱心でないという部分があったことは事実だと思います。

 しかし、私立学校も公の責任が、公の性格が一部といいますか、基本的には公の性格のものでございますから、当然、そこで行われている教育について社会に理解をしていただく、あるいは評価を求めるということが行われることはあってしかるべきだと思いますので、現状では、その点についての理解がだんだん浸透し始めているという状況でございます。今後も、その努力は重ねていかなければいけないかなというふうに思います。

 また、義務化に関しては、これは、大学等における評価の義務化というのがもう既に実行されておりますので、そういう流れにあるということは、私立の学校すべて理解しております。しかし、自分のところを公にするというのは、どなたもそんなにうれしいことではないという感じはおわかりいただけると思いますが、これはしかし、やらねばならないことだろうというふうに理解はしております。

 そんなところでよろしゅうございましょうか。

糸川委員 ありがとうございます。

 私も、この自己評価制度、学校評価制度というのは非常にいいなと思っておりまして、また、第三者が見たときに、この学校はどういう取り組みをしているのかということもしっかり評価されて見ることができるので、いい制度ではないかなというふうに感じております。

 これは確認も含めてになりますが、全員の方にお尋ねをしたいと思います。

 教育の現場におきまして、先ほどもこれは御質問がありましたが、副校長等の管理職を新設することが教育にもたらす影響、これについてどのようにお考えなのかということを改めてお伺いしたいのと、さらに田村参考人に関しましては、私立学校における管理職の配置の状況について、あわせてお尋ねをしたいというふうに思います。

田村参考人 ありがとうございます。

 副校長にかかわっては、もちろんこれは今回の法律の改正で新しくできる職なんですけれども、先ほどお話がいろいろ、るるございました。確かに、副校長が直接給食費を取りに行くというわけではないんでしょうけれども、しかし、だれにも相談ができないんですね。ですから、校長さんは忙しくて相談相手になってくれないとか、いろいろなことがあって、そういう意味でのいわゆるなべぶたでない組織をやはり学校に導入することが、複雑な事象に対応するには役に立つのではないか。

 その点でいいますと、実は、私立学校は、管理職という言い方をしていますが、多くの管理職が配置されています。なべぶた形の組織をとっているところはほとんどないと思います。その際、これはちょっと公立と違うところだと思いますが、校長、副校長でも私立学校は授業を持っております。私も持っています。それは普通のことなんですね、私立学校では。だから、公立の校長先生方が授業を持つことを嫌がるのがよくわからないんですけれども、学校とはそういうところだろうと思うんですね、私立はそういうふうに考えているわけです。

 お調べいただくとわかりますけれども、多くの私立学校では、管理職と言われる人は、普通に授業を持っていますし、普通に親との接触をしております。そのことが若い先生方に対するいろいろな意味の刺激になるし、余計な事務の負担にならないということも、経験上はっきりわかっています。

 ですから、そういうような仕組みがこれからも普及していくといいのではないか、私は個人的にはそう思っているんですけれども、そういうことでよろしゅうございましょうか。

植木参考人 端的に申せば、先ほども言いましたように、校長のマネジメント能力の育成、それと、校長を代理できるということから、地域との連携がよりスムーズにできるのではないかというふうに思います。

 今までの皆さん方の懸念として、管理が強まるのではないか、そして命令、その中で教師がよりよく動くのだろうかというのがありましたが、私ども、既に目標管理による勤務評価というのをしております。これは、校長と教頭が教諭と話をしながら、一緒に、学校経営に対する自分の夢と、それから教師がどう考えているか、それを話し合いながら、それじゃ学校経営はこうしていきましょうというふうに一緒につくり上げる、組織はそういうふうに一体となってつくり上げなければいけないと思います。何も、校長が自分の夢だけを、自分の部下の気持ちを全然はからずに夢だけを追っているのでは、組織経営はできません。

 そういうことで、一緒になりながら、夢を一体にして、そして組織的、機能的に動く、こういうふうな組織をつくることが副校長なりほかの職の設置の目的だと思います。

 以上です。

藤田参考人 先ほど申し上げました、現在のシステムのメリットがまず失われると言っていいと思います。

 それから、具体的な点で言いますと、当然、副校長なりあるいは主幹なりというものを置くということになれば、その分、一般の教諭の数を多分、財政的には減らさざるを得なくなるでしょうから、したがって、教師はますます忙しくなる可能性があるということであります。

 それから、先ほどもこれは佐貫参考人から紹介のありました、いわゆる給与格差とかそういったものも絡んできますから、そのことに伴うモラルハザードといいますか、自分の持てる能力を十分に発揮しない教師というものもふえる可能性があると思います。その他、さまざまな具体的問題が指摘できると思います。

佐貫参考人 二点申し上げます。

 第一点は、今回の改正案では、校務と教育をつかさどるという、これが二つの系列に分けられておりますね。

 しかし、先ほど田村参考人もおっしゃったように、学校で重要なことは、やはり、校長も含んで実際的に教育をどう進めていくかという教育的指導力というものがその中心に据わっていることによって、初めて校長や管理職自身の指導力も発揮できる。ですから、こういう形で二つの系列に分ける、しかも、主幹というものは主に校務の系列で選ばれてくるというのが現状ですので、こういうのは避けるべきだということが一つです。

 もう一つは、先ほど目標管理システムということが議論になりましたが、実は学校というのは、先ほど言いました教育的真理発見のための目標を、課題と分析、それから総括、そして、その総括の結果として新しい課題や目標が設定されてくるというこの内的サイクル、自主的で、科学的で、しかも子供に責任を負った内的システムが回転することによって、学校というものはどんどん教育的真理を発見し、蓄積していく、そして教師の力量も高まっていく場になるわけです。

 ところが、これに対して、目標を外から入れて、それをどうしているかというシステムにかわるということは、単なる、目標管理システムが少し違ったのではなしに、全く異なった、上からの目標を実現していくためにどう効率的に機能するかというシステムに切りかわってしまうわけです。私は、これは学校の本質からして望ましくないというふうに考えております。

 以上です。

糸川委員 ありがとうございます。

 では、次に、佐貫参考人にお尋ねをさせていただきますが、参考人は教育基本法の改正にも反対の立場であったかなというふうに思いますが、基本法の改正、そして現在審議されております教育の三法案に対しまして、改めて、その問題点、どのようにお考えなのか、お聞かせいただけますでしょうか。

佐貫参考人 総括して言えばどうなるかということでしょうが、やはり、私は、先ほど少し議論になったように、今教育再生と言うけれども、教育再生会議なりこの法案の中にその再生の芽というものをどう見ているかということがあると思うんですね。現場には芽がない、こんなのに任せておいたらどうしようもない、したがって、上から、あるいは文科省がコントロールして、そして強引に芽を上から植えつけるんだ、率直に言ってそういう感触を持つわけです。

 ということは、教育改革で一番重要なことは、イメージとして言えば、僕は、地域と学校の中に、今、自分たちの地域の学校を再生しよう、そういう小さな会議が、教師、それから住民、親を含んでいっぱいつくられてくることだと思うんです。それは、まさに教育の論理に即した下からの教育改革だと思うんですね。

 そういうものをどうつくるかということに対して、上から、さまざまな内容だとか指示だとか計画だとか、全部コントロールして、これにこたえていなければ教師に対して場合によっては処罰を与え、格差をつけるという、これでは下からの本当の再生の芽が、あるはずのものが消えてしまう。

 ですから、根本的に教育改革の方法論というものを転換しなければいけない。今回の教育基本法の改正や教育三法は、そこの点で根本的に認識を誤っているというふうに私は考えます。

糸川委員 ありがとうございます。

 最後に、藤田参考人にお尋ねをしたいんですが、藤田参考人は教育基本法の特別委員会における参考人質疑にも御出席いただいたわけでございまして、当時、参考人は、私なりに要約いたしますと、教育基本法を今変える必要は全くない、変えても現在の教育の諸問題の解決に役立たない、こういうような御意見であったかなというふうに思います。また、これは先ほどもおっしゃっていましたが、教育の目標として徳目の列挙に対して批判をされておられます。

 今回、学校教育法に義務教育の目標として改めて徳目が列挙されたことに対して、特にどの点について問題だというふうにお考えなのか。そして、あわせて、今回新たに規定されました義務教育の目標に関する所感、特に教育現場への影響をどのようにお考えなのかお聞かせいただいて、質問を終わりたいというふうに思います。

藤田参考人 既に申し上げたこととも重なりますので、時間も限られていますから、簡単にしますけれども。

 これまでは、基本的に言えば、例えば期待される人間像が出されたりいろいろしてきましたけれども、教育基本法、学校教育法というふうに、学校教育の根本法から上から下へと全部そろえていく、そういうやり方での教育内容なり、特にその中での心や態度を学校で教えるというような規定は、戦後やってこなかったわけですね。みんな、学習指導要領であるとかそういったところからむしろ入ってきている。

 それを今回は、教育基本法が改定されたということを受けて、学校教育法さらにはその下位のさまざまな法律、そしてまた学習指導要領というふうに、上から全部、目標、態度を盛り込み、それを法律によって規定し、そして教育委員会に指導通達含めて、教育課程全般についてのコントロールがさまざまなレベルで強まっていく。

 文部科学省がすべて直結してコントロールするということではないでしょうけれども、下へ行くほど拡大解釈して、しかも狭く狭く現場の動きをコントロールするというのが官僚制的なやり方の基本的な特徴でありますから、そういう危険性が今強まっていると言っていいと思います。そうしないためにも、やはり、校長と教職員と地域住民の権限と連携協力、協働してつくっていくというその基盤整備こそ、ある意味で必要な改革なんだというふうに思っています。

糸川委員 きょうは、大変貴重な御意見をありがとうございました。

 これで私の質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。

保利委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位に一言御礼を申し上げます。

 参考人の皆様には、率直かつ貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。

 ありがとうございました。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時三分散会


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