衆議院

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第1号 平成19年5月16日(水曜日)

会議録本文へ
平成十九年五月十六日(水曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   委員長 保利 耕輔君

   理事 大島 理森君 理事 河村 建夫君

   理事 小坂 憲次君 理事 鈴木 恒夫君

   理事 中山 成彬君 理事 野田 佳彦君

   理事 牧  義夫君 理事 西  博義君

      赤池 誠章君    井澤 京子君

      井脇ノブ子君    伊藤 忠彦君

      稲田 朋美君    稲葉 大和君

      猪口 邦子君    浮島 敏男君

      亀岡 偉民君    木原 誠二君

      鈴木 俊一君  とかしきなおみ君

      西村 明宏君    西本 勝子君

      馳   浩君    原田 憲治君

      平田 耕一君    福田 峰之君

      二田 孝治君    松本 洋平君

      やまぎわ大志郎君    安井潤一郎君

      若宮 健嗣君    川内 博史君

      北神 圭朗君    田島 一成君

      田嶋  要君    高井 美穂君

      西村智奈美君    松本 大輔君

      横山 北斗君    笠  浩史君

      伊藤  渉君    大口 善徳君

      石井 郁子君    日森 文尋君

      保坂 展人君    糸川 正晃君

    …………………………………

   公述人

   (独立行政法人大学評価・学位授与機構機構長)

   (前中央教育審議会副会長)            木村  孟君

   公述人

   (玉川大学学術研究所特任教授)

   (中央教育審議会臨時委員)            山極  隆君

   公述人

   (NPO法人地方自立政策研究所理事長)

   (前志木市長)      穂坂 邦夫君

   公述人

   (都留文科大学文学部教授)            田中 孝彦君

   公述人

   (全日本教職員組合中央執行委員長)        米浦  正君

   議員           田島 一成君

   議員           高井 美穂君

   議員           藤村  修君

   議員           牧  義夫君

   議員           松本 大輔君

   議員           笠  浩史君

   文部科学大臣政務官    小渕 優子君

   衆議院調査局教育再生に関する特別調査室長     清野 裕三君

    ―――――――――――――

本日の公聴会で意見を聞いた案件

 学校教育法等の一部を改正する法律案(内閣提出第九〇号)

 地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案(内閣提出第九一号)

 教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案(内閣提出第九二号)

 日本国教育基本法案(鳩山由紀夫君外五名提出、衆法第三号)

 教育職員の資質及び能力の向上のための教育職員免許の改革に関する法律案(藤村修君外二名提出、衆法第一六号)

 地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案(牧義夫君外二名提出、衆法第一七号)

 学校教育の環境の整備の推進による教育の振興に関する法律案(笠浩史君外二名提出、衆法第一八号)


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     ――――◇―――――

保利委員長 これより会議を開きます。

 内閣提出、学校教育法等の一部を改正する法律案、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案及び教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案並びに鳩山由紀夫君外五名提出、日本国教育基本法案、藤村修君外二名提出、教育職員の資質及び能力の向上のための教育職員免許の改革に関する法律案、牧義夫君外二名提出、地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案及び笠浩史君外二名提出、学校教育の環境の整備の推進による教育の振興に関する法律案の各案について公聴会を行います。

 本日は、公述人として、独立行政法人大学評価・学位授与機構機構長・前中央教育審議会副会長木村孟君、玉川大学学術研究所特任教授・中央教育審議会臨時委員山極隆君、NPO法人地方自立政策研究所理事長・前志木市長穂坂邦夫君、都留文科大学文学部教授田中孝彦君、全日本教職員組合中央執行委員長米浦正君、以上五名の方々に御出席をいただいております。

 この際、公述人の皆様方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。公述人の各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、公述人各位からお一人十二分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いいたします。また、公述人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、まず木村公述人にお願いいたします。

木村公述人 私、ただいま御紹介いただきました大学評価・学位授与機構の木村でございます。

 本日、教育三法の改正に関する意見を述べる機会をちょうだいいたしましたこと、心から感謝申し上げる次第でございます。政府提出の教育三法案に対し賛成するという立場から、意見を申し述べさせていただきます。

 現在、本委員会で審議がなされております政府提出の三法案は、昨年十二月の教育基本法の改正を受けて緊急に必要とされる教育制度改革の一環として、中央教育審議会が本年三月に提出いたしました答申を踏まえて立案されたものと承知いたしております。私も、その審議に全体の副会長並びに分科会の副分科会長として参加をいたしました。

 中教審では、約一カ月という極めて限られた審議期間でございましたが、土日や夜間も返上して、極めて精力的に審議を行いました。今回の三法案に関連する事項については、多くの内容が既に過去から中央教育審議会で検討が重ねられていたということもありまして、こうした期間での審議ができたのではないかと考えております。

 いずれにいたしましても、我々中教審委員の間には、いじめや未履修問題など多くの課題を抱える現状をいたずらに放置することは許されないことであり、一刻も早く緊急の措置を講ずる必要があるとの意識が強かったところでございまして、今回の国会にこうして法案の形でそれらが提出されたことは、極めて意義深いことであると考えております。

 以下、各法案について、私の所見を述べさせていただきます。

 まず、学校教育法の改正案について意見を申し述べます。

 第一点目は、各学校種の目的、目標の見直しについてであります。

 中教審では、平成十七年の答申で、義務教育九年間の目標の明確化を提言し、その後も義務教育の目標等について審議を進め、その審議の積み上げの上に本年三月の中教審答申を提出したところでございます。

 今回、政府案の義務教育の目標は、新しい教育基本法の理念を踏まえるとともに、家族と家庭の役割、情報、読書、体力など、現在の学校教育において課題となっていることが新たに盛り込まれており、大変適切な内容であると考えております。

 今後は、これを踏まえた学習指導要領の改訂作業が進められ、各学校における教育の改善が図られることを期待いたします。

 第二点目は、副校長などの新しい職の設置についてであります。

 現行の制度では、学校組織は、校長、教頭以外は、いわば横に一線に並んでおります、いわゆるなべぶた型となっておりまして、これに対し、従来から中教審においては、このなべぶた型から脱し、現在学校が抱えておりますさまざまな課題に機動的に対応できる体制の整備について審議をしてきたところでございます。本年三月の答申では、学校における組織運営体制や指導体制の確立を図るために、副校長、主幹等の新しい職の設置について提言をいたしました。

 本法律案は、この答申を踏まえた適切なものであると評価をいたしております。

 私が委員長を務めております東京都教育委員会におきましても、平成十五年度から主幹制度を導入しますとともに、平成十六年度には都立学校に、また平成十七年度には区市町村立学校にそれぞれ副校長制を導入するなど、独自の取り組みを進めてきました。今回の法律案においては、既に取り組みが進んでおられる教育委員会も含め、おのおのが実情に応じた配置ができるような制度設計になっている点がすぐれていると考えております。

 なお、これらの新たな職が配置される場合に、その職務と責任に見合った適切な処遇とするということが望ましいと考えております。また、その設置状況に応じて、教職員定数の改善等の条件整備を図ることも望まれる次第でございます。

 第三点目は、学校評価と情報提供についてであります。

 中教審においては、私は、自分の仕事の関係もありまして、学校評価が重要であることをずっと主張してまいりましたので、政府案に初等中等教育段階における学校評価の規定が設けられたということを高く評価したいと思います。

 幼小中高等学校等において、今回の改正を契機に、学校評価による学校運営の改善が進み、教育水準の向上が図られるとともに、保護者や地域住民の信頼を得た学校づくりが進むことを大いに期待いたします。

 学校評価につきましては、大学の方が先行しておりまして、第三者評価はもう既に導入されております。これによりまして、日本の大学はかなり活性化してまいりました。国民に対する透明性、あるいはアカウンタビリティーもかなり増してきたとの印象を私は個人的に持っております。

 初等中等教育段階においても、昨年度から国の試行事業が始まっていると聞いておりますが、まずはこの試行事業の結果を踏まえていただいて、国において検討を進めていただきたいと考えております。

 第四点目は、大学等の履修証明制度であります。

 改正教育基本法を受け、政府案には、大学の目的に関する規定に社会貢献を追加するだけではなく、具体的な方策として、大学等による履修証明制度も新たに規定している点を評価したいと思います。

 大学等における履修証明制度は、例えばアメリカではサーティフィケートと称され、経済社会のさまざまな人材需要にこたえる仕組みとして普及をいたしております。今回、法律上明確に規定されました履修証明制度が、日本の社会に普及、定着するよう、国による適切な支援策が講じられることを期待いたします。

 次に、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案について所見を述べさせていただきます。

 教育行政においては、国と地方がそれぞれの役割と責任を担い、連携協力のもと、教育の振興が図られてきたところでございます。昨年十二月に成立いたしました改正教育基本法においても、新たに第十六条で、教育行政について、「教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。」こと、また、「国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。」こと、さらに、「地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。」ことが規定されております。また、特に義務教育につきましては、第五条において、「国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。」と規定されました。

 この改正教育基本法を踏まえ、教育についての国の責任をしっかり果たし、国民の信頼に真にこたえられる教育行政の体制を構築する必要があるという観点から、地教行法改正案が提出されたものと考えております。

 そのような観点から、改正法の内容について特に重要と考えます点は、国の責任を果たすために是正の要求や指示の規定を設けたことであります。

 教育に関する行為は地方が責任を持って行うべきものであり、それに関して地方公共団体の教育委員会が責任を持つべきことは当然であります。また、首長と連携協力をし、議会から適切なチェックを受けるという地方自治の仕組みの中で地方教育行政が行われるべきであることは言うまでもございません。しかしながら、教育は、国づくりの基礎である人材育成を担う、極めて重要な行為でありますから、不適切な教育委員会に対して国が責任を持って対応できるような仕組みを整備しておくことが必要であり、その意味で、今回の措置はまことに時宜を得たものであると考えております。

 また、教育については、政治的に中立であること、継続的、安定的に行われることが必要であります。これらを確保するために、実際の教育の実施主体となる地方公共団体においては、直接選挙で選ばれる首長から独立した合議制の執行機関である教育委員会が地方教育行政を担う必要があると考えております。

 すべての地方公共団体に教育委員会を設置する現在の基本的な枠組みを維持しつつ、地方における教育行政の担い手である教育委員会の体制を充実していくことが必要であり、このような観点から地教行法改正案が提出されたものと考えております。改正案においては、教育委員会制度の基本的枠組みを維持しつつ、その責任体制を明確にし、体制の充実を図るため、地方教育行政の基本理念や教育委員の責務を明らかにしており、これにより、責任ある教育行政が可能になると考えております。

 最後に、教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案について、簡単に所見を述べさせていただきます。

 今回の更新制については、すべての教員が、社会構造の急激な変化や学校や教員に対する期待等に対応して、今後も専門職としての教員であり続けるために、最新の知識、技能を身につけ、自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ていくという前向きな制度として、中教審において提言したものでございます。

 今回の更新制とあわせ、教員の養成、採用、研修の充実改善を図るとともに、日々努力しておられる教員に報いるために、優秀教員の表彰、教員の処遇や職場環境の改善など、さまざまな施策を一体的に推進することにより、質の高い教員の養成確保を図ることが必要であります。これらを通じ、学校教育に対する信頼がより一層高まることを切に期待いたしております。

 以上をもちまして公述人としての私の意見陳述を終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 次に、山極公述人にお願いいたします。

山極公述人 おはようございます。

 本日、このような重要な場で教育三法の改正に関する意見を述べる機会をいただいたことに深く感謝いたします。

 昨年十二月の教育基本法の改正を受けて、我が国の教育はいよいよ新しい時代を迎えることになったかと思います。今後、改正教育基本法に規定された新しい理念に基づいて、関係法令の改正とかあるいは教育振興基本計画の策定など、教育の大きな枠組みをつくっていく必要があるかと思います。

 今回、政府が提出した三つの法案は、言ってみれば、次の三つ、一つは教育内容の充実、二番目が教育の責任の明確化、三番目は教員に対する信頼性の確立、このことをうたっているかと思うわけです。この三つの観点というのは今後の我が国の教育に大変重要な問題でありまして、このことが今回法案に盛り込まれたということは大変すばらしいことかと思います。

 以上を前提といたしまして、各法案に関する私の所見を述べさせていただきます。

 政府が提出している学校教育法の改正案のうちの二点について意見を申し述べます。

 まず、学校教育法におきまして、義務教育の目標を設置したということであります。

 本来、改正教育基本法の義務教育の目的を受けまして、今回学校教育法に義務教育の目標を規定した、同時に、学校教育法の、義務教育、例えば小学校の目的、目標をそれによって規定していく、そしてさらには学習指導要領の目標内容につなげていく、そしてそれが学校現場での教育活動にかかっていく、こういう一つの、一連の流れ、これはやはり非常に大事であると思います。

 そこにおけるミッション、ビジョン、これがいかに最終的に学校教育の活動に反映していくかということが非常に大事かと思います。今回、非常に精選された形で述べられていると同時に、新しい時代での情報とか理科の観察実験とか、そういったものが重視されているということは、いずれ指導要領や学習活動に反映されていくかと思います。

 義務教育の目標の中に規範意識というのがあります。本来、この規範意識というのは、確かに道徳的な、そして子供に対する基本的な構えを述べているわけでありますけれども、実はこれは、今問題になっている学力問題と非常に関係があるわけです。

 例えば、最近の国際学力テストを見ても、日本の子供たちが、深く考えようとしない、あるいは自分の考えをきちっと述べるとか論述するということが苦手である。結局、これは、教育指導の問題以前に、やはり規範意識、例えば、苦しいことに耐えるとか、あるいは我慢強さ、根気強さを養うとか、粘り強く最後までやり遂げるとか、こういったものが学習指導の前提にないと、子供たちが最後まで一生懸命勉強するという気持ちになれない。そういう意味では、今の学力低下は規範意識の低下であるという側面もなきにしもあらずではないかと思います。そういったことを義務教育の目標に位置づけることによって、広い意味での子供たちの成長を見届けたいと思います。

 学校評価と情報提供であります。

 今も学校設置基準で学校評価が行われております。教育活動、学校運営の状況を評価して、ただ評価のために評価じゃなくて、その結果に基づいて学校運営の改善や教育水準の向上につなげていくというそのねらい、これが大事かと思います。

 さらには、情報を提供していく。ややもするとまだこの情報提供というところが必ずしも十分ではないと思います。

 例えば、やはりきちっと学校の実態を提供して、それに基づいてPDCAのサイクルを回して結果を検証していく。そこには、結果に対する結果責任と説明責任、そして事実を公表するというエビデンスベースド、そして結果というものを大事にするアウトカムベースド、こういった、これからの教育で非常に重要な部分がここに盛られているかと思います。

 最近は、PDCAという言葉からPDSAという言葉にだんだんかわろうとしています。このSというのはスタディー、すなわち結果の検証ということをもっと十分に、ただできたかできないかという表面的なものではなくて、もっと十分にスタディーしていくという考え方であります。こういうことによって、より一層、教育活動、学校運営の活性化、教育水準の向上につなげていかれればいいかと思います。

 二番目が、地方教育行政の組織運営に関する法律の一部改正であります。

 教育については、もとより政治的に中立であること、継続的、安定的に行われることが必要であります。これを確保するためには、実際の教育の実施主体となる地方公共団体において、教育委員会が地方教育行政を担う必要があると思います。そういう考え方に立てば、すべての地方公共団体に教育委員会を設置する現在の基本的な枠組みを維持しながら、地方における教育行政の担い手である教育委員会の体制を充実していくということ、これが非常に大事かと思っております。

 教育委員会においては事務局というのがあります。ここをやはりしっかりと固めておく必要があると思います。特に、学校教育を支えていくためには、各学校に対して教科指導や生徒指導などに関する具体的な指導助言を行う指導主事、このものがもっともっと増員され、きめ細かな指導ができること、これが非常に大事かと思います。このことは、市町村においても同じように言えるのではないかと思います。

 最後に、政府提出の教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案について、賛成の立場から所見を申し上げます。

 もとより、教育というのは人であります。幾らいろいろなものを変える、それは大事なんですけれども、人であります。今回、そういう意味において、改正教育基本法にも規定されているとおり、教員には常に研究と研修に努めるということが言われております。

 昨今、国際化が進み、価値観が変化する中で、社会における学校を取り巻く状況は大きく変わっております。また、新たな課題も出ております。また、学校における教育内容の基準である学習指導要領も不断の見直しというのが行われており、教員には新しい指導要領に対応した資質能力も求められています。

 こうやって見ますと、教員は、教員免許状取得後も、教員として必要な資質能力というものが常に変化しているんだ、こういうふうにして見たときに、教員として必要な資質能力というのは、本来的に時代の進展に応じて更新が図られるべき性格を持っているものであります。一方、教員免許状というのは、教員免許状を有する者の資質能力を一定水準以上に確保することを目的としております。

 そういう意味から、これからの教員免許状は、一度取得すれば終身有効ではなく、恒常的に変化する教員としての必要な資質能力を確実に担保する制度に再構築する必要があります。

 では、教員免許制度を再構築するには、一度取得した教員免許状を生涯有効とするのではなく、その効力に有効期限を付すこと、これが適当である、こう考えるわけであります。こうした考えのもと、その時々で求められる教員として必要な資質能力が確実に保持されるよう、定期的に必要な知識、技能の刷新を図る方策として、昨年中教審において教員免許更新制の導入を提言し、教育再生会議や教育基本法の改正等を受けまして、今回の教育職員免許法の改正にたどり着いたと思います。

 今回の教員免許更新制は、すべての教員が、社会構造の急激な変化、学校や教員に対する期待に対応して、今後も専門職として教員であり続けるために、十年に一度、定期的に最新の知識、技能を身につけていただくというものであります。前向きな制度であります。

 中教審においては、更新講習は主として大学を中心で行え、こう書いてあります。現場の実践の中でいつも苦しみもがいている先生方が、十年に一度、大学、あるいは場合によって母校もあるでしょう、そういうところに来て、日ごろの教育実践について語り合い、また時にはアカデミックな内容を身につけていくということ、このことは教員にとって、初心に戻り、改めて教職の重要性を再認識する、そういういい機会であるかと思うんです。そういう面で、自信と誇りを持って教壇に立つことができるようになることを期待しております。

 もとより、教員は一生懸命やっております。そういう意欲を持って働いている先生のためにも、表彰制度とか、めり張りをつけた教員給与体系の構築とか、あるいは教育活動以外の事務負担の軽減とか、そういった一連の施策を一体的に推進することによって、教職が魅力ある職業となって、教員の質の向上が図られることを期待しております。

 最後に、やはり指導が不適切な教員というのもいることも、少数ではありますけれども、事実であります。人事管理システムというのが、今、各都道府県でも行っておりますけれども、ややもすると、その対応や定義や認定手続に差があるかと思います。そういう面で、きちっと法律に位置づけまして、そして、そういう先生方に対する適切な指導というものをお願いしたいと思います。

 以上、時間が来ました。まとまらない話でありましたけれども、これで終わりたいと思います。

 御清聴ありがとうございました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 次に、穂坂公述人にお願いいたします。

穂坂公述人 御紹介いただきました穂坂邦夫です。

 限られた時間でありますので、五点にわたって、教育三法に対する私ども現場の実態、こういうことから申し上げたいというふうに思っております。

 まず一点目でありますが、公立校の優位性というのは、私も市長をやっておりましたときに痛切に感じました。異質な集団の集まりのために、悪いところもたくさんありますが、生きる力を大変一生懸命はぐくむことができる、こんなふうに思っております。

 さらに、私学に比較し、公立の場合には地域というバックボーンがある、このことも大きな優位性ではないか、こんなふうに考えております。

 三点目でありますが、異質なゆえに、御承知のように、連続するいじめ、不登校、学級崩壊、そういうものが起きる。ですから、ある意味では、私学以上に公立は教育現場の自主性や創造性、柔軟性が求められる。

 機械部品をつくるのではなくて、まさに人間をつくる、こういうことで、公立校の特性、こういうものを踏まえた上で申し上げたわけであります。

 二点目でありますが、義務教育における現場の役割と現状であります。

 まず一点は、私どもが義務教育に求める、こうあってほしいなということを申し上げたいと思います。

 まず一点でありますが、国と都道府県と市町村の明確な役割分担、これに基づいて職責を遂行したい、そんなふうに思っておりました。当然、分権とのかかわりもありますが、分権というのは、何でもやっていいということではないと思うんです。国は国の役割をしっかりやっていただく、そして地方は地方で自己責任に基づいてしっかりやる、こういうことだというふうに思っております。

 その関連からいえば、国の関与ができれば、権能に基づいたチェック機能、事後検証といいますか、そういうものを厳しくやってもいいのではないか、私はこんなふうに思っておりました。

 さらに、義務教育の場合には、御承知のように、公教育を支えるのは先ほど申し上げましたように地域社会との連携でもありますので、特にまた地方行政というのは、教育行政と他の行政、地方行政がまさに混然一体化しておりまして、決してなかなか分かれるものではないということであります。

 二番目でありますが、義務教育における現場の実態について若干申し上げたいというふうに思っております。さまざまなねじれ現象ができているということ、さらに、住民に理解できない、そういう複雑な仕組みであるということを指摘申し上げたいと思います。

 まず一点でありますが、指導助言の実態であります。教育にかかわる方々というのは非常にまじめな方々でありまして、教育長なんかも非常に、市町村でいえば都道府県、都道府県でいえば文科省、しっかり言われたことをやろうという意識が余りにも強い、そういうことで、指導助言の実態というのは上意下達、そういうものが慣習化している、私はこんなふうに思っております。簡単に言えば、命令と言ってもいいかもしれません。

 さらに、教育委員会の独立性に対する首長の関与でありますが、これは実態的には予算権と教育委員の指名権を持っておりますので、実体的支配をしている。私も市長としてそんなふうに実感しました。全国で初めて二十五人学級を、いい悪いは別でありますが、実行したわけでありますが、本来ですと教育委員会がやるべきだと思っておりましたが、なかなか難しい。どうしても首長の実態的な支配、そういうものが存在をしているということも指摘をしておきたいと思います。

 さらに、御承知のように、中立性を担保するために教育委員会は合議制になっておりますので、責任者は一体だれだと言われて、住民から質問されたときに、だれもいない。だれだと言われたら、教育委員会という機関だというふうにいつも答えておりました。教育委員長さんは座長でありますし、教育長は事務局長でありますし、予算権と指名権を持っている市長は、まさに独立をしているために、これは何ら関係ない、こういう制度になっておりますので、この辺も実態からは乖離しているのではないか、こんなふうに思っております。

 四番目でありますが、教育委員会の制度のうち大きなものとして、県費負担教職員制度があります。これは良質な教員の確保と広域人事の有意性を目的としておりますが、あくまでもそれは一つの補完制度でありまして、本来原則的には、実施主体が教員を採用し、そして任命権を持つことが当たり前でありますが、この原則主義が補完制度と逆転をしているという実態もあります。

 特に教員資質の確保につきましては、これが大きな障害になっていると言っても言い過ぎではない、こう思っております教員の一括採用があります。私は都道府県の県議会議員、県議会議長もやりましたけれども、都道府県が一括採用して派遣をするわけでありますから、言ってみれば、市町村は上級官庁からの派遣を受ける、こういうことになっております。学力主義じゃなくて、もっと教員の資質というものを考えて採用したらどうだ、こういうことも県会議員のときによく言ったわけでありますが、一括採用で、みずからがやる仕事ではありませんので、なかなか難しい。疑われるのが嫌なものだから、どうしても学力偏重で採用してしまう。

 さらに、研修でありますが、財源の乏しい市町村から考えますと、あすどこかへ行っちゃうかわからない教員に、意義はわかっていましても、なかなか教員研修ができない。ことし教員研修が終わったら来年はどこかへ行ってしまう、そういうような不合理もございます。

 さらに、内申権と具申権というのが法律上明記されておりますが、これらについては、実態的には、御承知のように、どこかの悪い学校に、まあ比較的程度の低いと言ったら失礼でありますが、そういう、どうもよくないなという先生を一カ所に集めるわけにいきませんから、例えば志木市が一人この先生をどこかへ出してほしいというと同じような先生をいただく、そういうようなトレード方式になっております。これはやむを得ない現実です。ですから、そういうことも、玉突き人事と私ども呼んでおりましたが、この辺もやはり考える必要があるのではないか、こういうふうに思っております。

 三番目でありますが、このことによってさまざまなねじれ現象が出ております。やはり、一般的なねじれ現象というのは、私は避けるべきだというふうに思っております。

 一つは、教育委員会がこれらのために受動的機能に特化しているということ。首長の責任回避、隠れた支配があること。教育委員がそのために、地域である一定の力のある人たちを、教育よりもむしろほかの面で指名をしてもらうということがどうしてもあります。さらに、教育行政には責任者がいないということを先ほど申し上げましたが、どうしても前例主義に陥りやすい、このこともあります。

 受動的機能の現象としましては、御承知のように、自殺ゼロ報告がありましたが、どうしてもマニュアル化をしてしまう。間違いないようにがどんどんどんどん高じて、マニュアル化で一つの指導、伝達をする、あるいは報告するという欠点があります。さらに、指導官庁にどうしても教育委員会は目が向きますから、現場の住民の皆さんに対する視点がどうしても低下をしてしまう、こういうことがあります。

 さらに、教員の資質の低下もどうしても指摘せざるを得ない、こう思っております。

 学校の管理職もそうでありますが、この管理職は、御承知のように、これも市町村が登用するのではなくて、都道府県がすべて登用いたします。現場が関与しません。だから、そういう形も、管理職の低下になると思いますし、管理職も教員も、言ってみれば派遣職員ですから、どちらも遠慮しがちでもあります。そういう意味では、学校管理機能の弱体化、一体性の低下も、これも大きな問題でもあります。特に問題となりますのは、地域住民と学校との乖離が見られる、このことも大きな問題点の一つでもあります。

 四番目でありますが、新たな法律案がそれぞれ出ておりますが、でき得れば、今後、現行制度の骨格、これの骨格がどう機能しているのか、どんなふうに実態と理想、制度、そのものが動いているのか、こういうことを見ていただければありがたい、こう思っております。

 特に、理想論、私はいつも、神様たちの運営だったらこのやり方でもいいなと思っておりましたが、やはり現場の視点からの再検証をもう一回してほしい。さらに、現行制度のうまくいっているところというのはありますね。これは人の力だといいますが、やはり普遍的な形で全国の義務教育の制度が有効に機能しなくちゃいけない、こういう視点からも再検証をお願いできれば、こういうふうに思っております。

 最後になりますけれども、新たな制度に現場からの提案でありますが、一つは、国庫補助金はぜひ堅持をしてもらいたい。さらに、事後評価システム。今度は学力テストがありましたが、私は決して反対ではありません。そういう事後検証をしっかりやってもらって、ペナルティーもつけてもいい、そのぐらいの強さでやはり事後評価システムを確立すべきではないか、こう思っております。そのかわりに、実施主体における自己決定と自己責任、これらをやはり付与していただければというふうに思っております。もちろん、さっき冒頭で申し上げたことも事実でありますので、よろしくお願いいたします。

 私は、新たな教育委員会制度、今の三人とか五人ではなくて、中教審のように、地方教育審議会、十人から二十人の設置をし、そして、現行の教育委員会を抜本的に改めて、よりよい、新たな教育委員会制度をつくってほしい、こういうことをずっとお願いしてまいりました。当然その審議会は、国のそれぞれ決められたものに対してはしっかり守っていく、このことも大事な仕事の一つでもあります。

 さらに、首長が隠れた支配をする、隠れた関与があるというのはよくないんですね。やはり、もっともっと明らかにして、そして首長の責任も問う。当然予算を持っちゃっているわけですから、その辺についても、ぜひ首長の関与の明確化もお願いをできれば。ただし、私は、例えば首長が現場の指揮権を持つというのは反対であります。これらについては、それをきちっと整理する、そういう法制度も必要なのではないか。

 さらに、教育長は実態的に責任者です。しかし、最後に問われると事務局長になってしまいますので、この辺もやはり、教育行政の直接の現場の責任者、これは教育長が任命されてもいいのではないか。しかし、専横に陥ると困りますので、先ほど言った教育審議会に首長や教育長の監視機能や牽制機能を与える。もちろん議会というのは最高の議決機能を持っておりますので、これは別に競合しない、こう思っております。

 特に、最後になりますが、都道府県における義務教育、私は、ワンクッション入れる必要はない、しかし、小さいところはなかなか無理ですから、それは補完機能をしっかりしていただければいいのではないか。都道府県というのは、私も長い間おりましたけれども、補完機能をする広域地方団体、こんなふうに意識しておりますので、この辺も踏まえた上で、それぞれ御理解をいただければありがたい。

 大変ありがとうございました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 次に、田中公述人にお願いいたします。

田中公述人 都留文科大学に勤めております田中孝彦です。

 私は、日本の庶民の子供観や教育観の研究を仕事としてきました。特に最近では、困難を抱えた子供、そしてそれを支えている大人、専門家の人たちの声を直接に聞いて記録する、そこから教育のあり方を考え直していく、それを臨床教育学と呼んでおりますが、そういう研究をしてきました。

 そこで、その立場から、私が聞き取ってきた、子供、きょうは特に教師たちの声をもとに、教育三法案と教育の再生、改革について意見を述べさせてもらいたいと思います。

 まず最初に、その三法案全体の印象と意見ですが、法案の名前が長いので、A、B、Cと勝手につけさせていただきました。

 Aには、規範意識、公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画する態度、生命及び自然を尊重する精神、環境の保全に寄与する態度、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うなど、義務教育の目標が新たに書き込まれています。

 それから、Bでは、新たに文部科学大臣が教育委員会に対する是正、改善の指示、要求を行えるとされ、知事が私立学校に対して教育委員会の助言、援助を求めることができるとされています。

 さらに、Aでは、新たに副校長、主幹教諭、指導教諭を置くこととされ、Cでは、教員免許状の有効期間を十年として、免許状講習の修了を更新の条件とする教員免許状更新制を導入するということが記されています。

 これらは、全体として、憲法、四七年教育基本法を軸とする教育法制における、国の教育内容への関与の抑制、教育の地方自治と教育委員会の自律性の尊重、教師の教育の自由と、子供を支える人々の協力、協同の尊重などの原理を転換して、国が教育目標を設定し、それに基づいて子供、教師、学校、地域による目標達成の競争を組織し、教育を管理するシステムを構築することへ道を開くものになっていると見えます。

 しかし、人間形成を支える教育の条理から見て、また今日の子供たちの声や教師たちの声に照らしてみて、さらに世界の教育改革の動向に照らしてみて、このような措置についての異論が出るのは当然であると思いますし、私自身も根本的な疑問を感じています。三法案は廃案にして、国会でも社会全体でも、より丁寧で本質的な教育の改革、再生の論議を行う必要があって、そのための論議の土俵の再設定が必要である、そういうふうに考えております。

 時間が制限されていますので、そう考える理由を三点にわたって述べさせてもらいたいと思います。お渡ししました資料の二は省略します。三のところをごらんください。

 改正教育基本法及び今回の教育三法案は、法案作成と国会審議の過程を振り返ればわかるように、日本の子供たちの現状を、生きる力の衰弱、学習意欲、学力の低下、規範意識の低下と断定する子供観と結びついています。そして、地球規模の大競争時代という一つの二十一世紀像への適応を子供たちに求め、厳しい競争的環境に置いて生きる力と学力を刻み込む、そういう国家戦略としての教育観に立っています。これは、政府・与党が推進している教育改革の全体を貫く子供観、教育観でもあると思います。生存、成長、学習の主体である子供たちの状態を、このように外側からだめだと断定しておいて、血の通った教育改革を構想して実現できるのか、私には疑問であります。

 確かに、今、子供たちの多くは、人と人とを敵対させる力が強く働いている日常生活の中で、何かがあれば自他を傷つける形で爆発させてしまうほど緊張や不安や恐れをためています。しかし、だからこそ、その子供たちの多くは、その年齢なりに、このままで大人になっていけるだろうか、大人として生きる地域や日本や地球はどうなっているか、どう生きたらよいかといった問いを抱かざるを得なくなっています。

 私は、この間重ねてきた子供たちとの対話、相談の中で実際に、競争の先に何があるのか疑ってしまう、ささやかでいいから普通の幸せが欲しい、身近な人間関係を大切にして少しでも人の役に立つ仕事につきたい、そう思うのに、生まれ育った地域に若者の働き口がないのはどうしてだろうか、それらのことを一緒に考える友達や大人に出会いたい、そういった言葉を数多く聞いてきました。

 これらの言葉に、私は、普通の日本の子供たちの生活感情の基調が表現されていて、彼、彼女らは、ただだめになっているのではなくて、考えたがっているし、学びたがっているものであると判断しています。

 だとすると、政府・与党の教育改革が強調する競争と厳しさは、子供たちが求めているものとはすれ違っています。重要なことは、子供たちの身近にいる父母、大人、発達援助者、教師たちが、子供の声に耳を傾け、子供たちの緊張や不安や恐れを受けとめ、広く深く噴き出している子供たちの生き方への問いをともに考えることであって、それを子供への援助と教育の軸に据えることであると思います。教育改革の原理は、競争と厳しさではなくて、考え抜かれた優しさでなければならないと思うわけです。

 次に、私は、学級崩壊に直面した教師たちの声を聞き取ってきたことがあります。それらの教師たちの語りには次のような共通性がありました。

 一つは、何かがあるとすぐに教室を飛び出してしまうような子供たちがいて、彼らを理解し、彼らと関係を結ぶことが難しかったということです。もう一つは、崩壊状況になって、同じ学校の教師に相談したところ、同僚の教師たちから、あなたの指導力不足ではないかという非難のまなざしが返ってきて、それがひどくつらかったということです。ある教師は、自分自身が心身の調子を崩し休職せざるを得なくなった直接のきっかけは同僚関係のきつさだったと語っています。

 これは、教師たちの苦しみの語りであったわけですが、今の教師の困難を打開する上での直接の切り口がどこにあるかを教えてくれるものでもあると私は聞きました。

 つまり、子供が理解できずに苦しいのですから、その状態を乗り越えていくには、教師たち自身が、理解しにくい子供について一歩でも理解を深めていく努力を強める以外にありません。そして、同僚の教師同士の関係がきついわけですから、教師同士の関係を相談し合える関係に一歩でも変えていく以外に事態の打開の道はないわけです。要するに、教師たちが、子供理解を深める論議を重ねながら、教師同士の関係を支え合う関係に変えていく以外に解決の糸口は見出せないということを示していると思います。

 今回の法案のように、校長、副校長、主幹教諭、指導教諭、教諭などという細分化した職階を導入するということは、こうした、教師が求めている教師同士の自発的で対等な、支え合う関係の形成にプラスになるとは到底思えません。

 また、私は、次のような声も多くの教師たちから聞くようになっています。

 近年、一人一人の子供が感じ、考えていることを丁寧に聞き取って日々の教育活動を組み立て直していかなければ、教師としての仕事は続けられないと感じるようになっている、一人一人の子供の声に耳を傾け、子供についての全体的な理解を深めることを改めて私の教育活動の重点に置きたい、そこから一人一人の子供の成長を支える教育実践と学習指導のあり方を考えたい、そして、同僚教職員や地域の人々や他分野の専門家たちと協力して子供を支えていく道を探っていきたい。

 実際、今、こういうふうに努力を始めている教師たちがいると思いますが、こうした声は、今、日本の教師たちの間に、子供理解の専門家、学習指導の計画的組織者、子供が必要とする人間関係のコーディネーターといった諸側面を備えた、新しい人間発達援助専門職の一員としての教師像の模索が始まっているということを示していると思います。

 こうした教師像へ向かっての教師たちの成長を支えるためには、教師という専門職への社会的評価、尊敬を基盤として、少なくとも大学院修士課程を含んだ養成課程の充実と、現職教師たちの自発的で長期にわたる学習、研究を奨励し援助するというような研修の仕組みが必要です。教師であることをやめさせるおどしと結びついた免許更新制の導入は、日本の教師たちの質を上げる可能性は少なく、むしろ萎縮させる危険性の方が大きいと思わざるを得ません。

 三つ目は、二〇〇四年の秋、私は、私たちの行っています研究の一環として、カナダのトロント大学の附属小中学校を訪問したことがあります。教師の養成、再教育の機関ともなっているこの学校について、トロントのある新聞はこう書いていました。

 カナダでも、生徒がじっと座って、定められた目標に向かって定められたプログラムの学習とドリルを繰り返すファストフードショップのような学校がふえている、だが、この学校では、子供たちが自分の足で歩いて事実を確かめ、黒板に自分の意見を書き、討論し合い、例えば町の開発計画など関心のある問題などを調べている、ここにあるのはスロースクーリングである、果たしてどちらが二十一世紀の学校の本流になるべきだろうか。

 この学校の校長は、私たちに対して、こう語っていました。

 現代のカナダ社会には、市販されているテストやアセスメントで子供を診断し、数量的に目標を設定し、既存のさまざまな教育プログラムを実施していれば学校の一年間がそれなりに済んでしまうような状況もある、だが、私たちは、教師の仕事にはそれだけに解消しないものがあると考えている、それは、一人一人の教師が一人一人の子供を全体的に深く理解する、アンダースタンディング・チルドレン・トータリー・アンド・ディープリーと表現しましたが、という問題であり、そうした教師の深い理解に支えられながら、子供が世界と自分を深く理解して育っていく教育をつくるという課題である、そういうふうに語っていました。

 これは全くの一例ですが、国家が教育の目標を掲げて、子供と教師と学校を競争させ、管理するような教育改革がもたらす弊害を直視して、個々の教師が子供と向き合いながら、子供を人間として育てる教育計画を自分の頭で構想し、その中で個々の教育目標を持つことを励ますような改革の動きが世界には起きています。今世界の注目を浴びているフィンランドの教育改革も、大きくはそうした流れの中にあると言ってよいと思います。

 私たちは、こうした、世界のもう一つの教育改革の流れも視野に入れて、国家が教育目標を設定し、その達成競争を組織し、それを通じて結局は教師の自主性と創造性を低下させてしまうような教育改革については根本から問い直す必要があると思います。

 以上のような判断で、私は、教育三法案は廃案にすべきであると思いますし、教育再生改革の国会や社会全体における論議の枠組み、土俵の再設定を行って、本格的な論議を深めるべきではないかというふうに思います。

 御清聴ありがとうございました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 次に、米浦公述人にお願いいたします。

米浦公述人 御紹介をいただきました、私、全日本教職員組合委員長の米浦でございます。

 発言の機会をいただいたことに、まず感謝を申し上げたいと思います。先ほど、委員長より、忌憚のない御意見をということでございましたので、率直なところを意見として申し上げたいと思います。

 まず初めに、内閣より提出された学校教育法等の一部を改正する法律案、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案、教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案のそれぞれについて、問題点を指摘します。

 学校教育法の一部を改正する法律案についてであります。

 この法案の問題点を三つ述べます。

 第一は、教育基本法が第二条に国を愛する態度を養うことを入れ込んだことを受けて、学校教育法に書かれている小学校、中学校の目標に、同じように国を愛する態度を養うことを入れ込み、教育基本法と学校教育法を根拠にして愛国心の押しつけを行おうとしていることです。

 国を愛する気持ちなどといったことは、教え込まれて、ましてや押しつけられてはぐくまれるものではなく、自然の感情としてあらわれてくるものです。義務教育の目標に態度が掲げられて、それが問題とされるなら、子供たちは態度を気にして萎縮し、伸び伸びとその子らしく育つことが阻害されるおそれがあると私は思います。

 そもそも、近代民主主義国家において、法が人の心の中に踏み込むことなどあってはならないことであり、子供たちに心のありようを押しつけることは許されません。この問題は、昨年の教育基本法をめぐる国会審議でも大きな問題となりましたが、憲法第十九条が保障する思想、良心の自由に違反します。

 また、幼稚園の目標に規範意識の芽生えを入れ込んでいることも、見過ごすことができません。幼い時期から押さえつけて、子供を鋳型にはめ込む危険性を持ち、人間的な伸びやかな成長、発達を保障する上で問題と言わなければなりません。

 第二は、副校長、主幹教諭、指導教諭という新たな職をつくり、置くことができるとしていることです。これは、学校に上意下達、上命下服の管理体制を持ち込むものであり、今切実に求められている、教職員が本当に力を合わせて教育活動に取り組むことを困難にするものです。

 今でも締めつけのきつい職場をもっと締めつけ、教職員の伸び伸びとした教育活動を抑えつけようとするものです。子供や保護者は授業を担当する教員の増員を求めているのであって、授業を持たない副校長や、少ししか行わない主幹教諭や指導教諭の配置を望んでいるとは到底思われません。

 今教育現場に必要なことは、中間管理職をつくることではなく、子供たちに行き届いた教育を進めるための条件整備として、国の責任で三十人学級を実施すること、文科省の調査によっても、平均で過労死危険性ラインをはるかに上回る、月六十時間を超える超過勤務や病気休職者、とりわけ精神疾患による休職者が激増しているという困難な実態を、教職員をふやすことによって少しでも解消すること、教職員が自主性を発揮して、伸び伸びと教育活動に取り組めるよう、教育現場の自主性を尊重し、励ます教育行政に転換することなどです。

 教育予算もふやさず、教職員の数もふやさずに新たな中間管理職をつくるならば、現場の困難はむしろ増すばかりであります。

 第三は、学校評価を学校教育法に位置づけ、学校の自主的な教育活動を縛り、国言いなりの学校づくりを行うとしていることです。教育の営みは子供との直接的なかかわりの中で行われるものであり、学校の評価は、何よりも当事者、つまり、その学校の教職員と子供、保護者、父母の双方向的な論議の中からなされていくべきものであります。

 次に、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案についてです。

 この法案では、地方教育委員会に対する国の関与を強めようとしています。日の丸・君が代の強制や全国一斉学力テストの押しつけが端的に示すように、これまでも、政府、文部科学省は、地方教育委員会の自主性や自主的判断を無視あるいは軽視して、国言いなりの教育政策を押しつけてきました。今回の改正案はこのことをさらに進めて、文科省と地方教育委員会の関係を、指導助言を超えて、指示、命令の関係とし、国による地方教育行政の締めつけを一層強化しようとするものです。そのねらいは時の政府言いなりの地方教育行政と学校をつくることにあると私は言わざるを得ません。また、私立学校に対する教育行政の関与を強めようとしていることも問題点として指摘しなければなりません。

 次に、教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案についてです。

 この法案では、今は終身有効である教員免許に十年間の期限をつけて、十年目には教員に三十時間の講習を受けさせ、その講習で修了が認定されなければ、教員免許を取り上げて、職を奪い失業させるという制度、つまり教員免許更新制を導入しようとしております。同時に、講習を受ける必要がないものと認められた者は免除されるとなっております。国の言いなりにならない教員は教壇から排除され、排除されたくなかったなら従順になれとおどすものであり、認めることはできません。さらに重大なことは、教免法と一体に教育公務員特例法を改め、指導が不適切だと認定した教員に対し、一年以内の指導改善研修を課して、改善が見られなければ、免許を取り上げ免職させる制度を新たに設けるとしていることであります。子供と保護者は、十分に時間をとって向き合ってくれる先生を求めているのであって、研修に明け暮れする教員を求めているのではないと思います。

 こうしたおどしと排除の制度づくりは、教員を萎縮させ、子供たちのために頑張ろうとする教員の意欲をそぎ、ひいては教員志望者を激減させる結果を招くことは私は明らかだと思います。新教育基本法でさえ、教員については、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられると述べており、それにも反するものと言わなければなりません。

 これまで私が述べてきたように、三法案は相互に影響し合って、子供の成長、発達を助けるという教育の目的を、愛国心や規範意識を押しつけるものへと変質させ、従わない教員は免許を奪って失職させるなど、教育の国家支配、統制を目指すものと言わざるを得ません。

 これら三法案は改悪教育基本法の具体化を目指すものであります。改悪教育基本法が違憲立法の疑いを持つものであるがゆえに、これら三法案も憲法の原則と大きく矛盾すると言わざるを得ません。

 とりわけ、愛国心の押しつけは、憲法第十九条が保障する内心の自由を侵す大問題と言わなければなりません。改悪教育基本法を審議していた国会で、いわゆる愛国心通知表を示された当時の小泉首相は、愛国心を評価するのは難しいと答えざるを得ず、当時の小坂文部科学大臣は、愛国心にABCをつけるなどとんでもないとまで答弁されています。これらの答弁からいっても、義務教育の目標に国を愛する態度などを書き込むことは決して許されることではないと思います。

 また、教職員の教育上の自主的権限の保障は、憲法十三条、幸福追求権、それから二十三条、学問の自由、二十六条、教育を受ける権利によって導き出される教育の条理に基づくものであり、教職員の自主的権限をじゅうりんする教免法改悪、地教行法改悪は、この憲法の原則に真っ向から背くものと考えます。憲法違反の法律は、その存在そのものが許されないと考えます。

 また、指摘しなければならないことは、三法案の審議に当たっては、その内容上、文部科学委員会がその役割を担うべきものとして設置されているにもかかわらず、殊さらに教育再生に関する特別委員会を設け、その上、中央教育審議会同様に連日の審議日程を構えるなど、委員会運営のあり方は異常だと私は思います。審議時間だけ形を整えたとしても、慎重で十分な審議が行われたとは言えないと思います。

 そして、何よりも強調したいことは、これらの法案により行われるいわゆる教育再生、このことを教育現場ではだれも望んでいないということであります。

 以上により、私は内閣提出の三法案に反対し、廃案を強く求めることを最後に申し上げまして、私の意見陳述といたします。

 ありがとうございました。(拍手)

保利委員長 ありがとうございました。

 以上で公述人の方々からの意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

保利委員長 これより公述人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。やまぎわ大志郎君。

やまぎわ委員 自由民主党のやまぎわ大志郎でございます。

 自由民主党でございますから、当然、今回の三法について、これを改正したいという思いを持って議論をしているところであります。

 今、公述人の皆様方からお話を伺いまして、率直に、日本というのは本当にいい国だなと私は思いました。いろいろな考えを持った方々がいらっしゃって、それは当然だと思います、そのいろいろな考えを持ったのを自由に国会という場において話ができる。世界に目を転じると、なかなかこういう自由に発言ができる国というのはあるわけじゃないんですね。本当に日本というのはいい国なんだなということを改めて実感いたしました。

 そうはいいましても、教育の危機というものが叫ばれ続けて、そして、それを国民の皆さんが、少なくとも過半数の方々が教育の危機というものを感じているがゆえに、国会において改正教育基本法というものが成立をしたんだ、私はそう思います。ですから、それが非常に重たいものだと私は思っておりまして、その改正教育基本法の議論をさせていただくときにも、今回、教育基本法を改正するに当たって、私はぜひとも教育基本法の中には道徳心というものについてきちんと盛り込んでいただきたいんだということを議論の中で申し上げました。

 これは別に、私が議論をしたからそこに入ったというわけではないかもしれませんが、今回の改正教育基本法の中にはきちんと、道徳心のことについて、教育の目標、第二条の第一号に、「豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。」きちんと目標の中に掲げられている。そして、第二条の第一号より下の二号、三号、四号、五号と書いてありますが、実は、この二号、三号、四号、五号というのも、広い意味での道徳心というものの説明に近いものなのかなというふうに私は理解をしております。

 そして、このたび改正をしようとしている学校教育法の中に、やはり、義務教育の目標というものの中の一番最初のところに、先ほど、くしくも同じ名前でございますけれども、山極公述人の方からもお話があったとおり、規範意識等々に関するくだりというものがしっかり書かれておりますね。「協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。」

 私は、教育基本法の理念に基づいて、関連した法律というものがしっかりと改正をされて、さらにそれが学習指導要領に反映をされ、最終的には学校の現場においてきちんとその理念に基づいた教育が行われるという、そうあるべきだと信じております。

 そこで、木村公述人と山極公述人にお伺いしたいんですが、今私がお話ししたような問題意識に基づいて、広い意味での道徳心と言われるものがきちんと教育の現場において培われる方向に、今議論している法律を改正することで、確実に一歩近づいているものなのかどうなのかということを、率直にお二人からお聞きをしたいと思います。

木村公述人 道徳の問題は、私はやはり非常に難しい問題だと思います。

 私、英国ですけれども、多少外国に住んだ経験からしますと、やはり、日本人の道徳心といいますか倫理観というのが彼らに比べるとかなり低くなっているのではないかという印象を非常に強くします。その最たる原因は何かというと、やはり家庭教育の崩壊だと思うんですね。

 私は、随分いろいろな家庭へ呼ばれて、行きました。そういうところで見ていますと、やはりかなりの年齢まで、はっきり申し上げると高等学校を出る年齢までは、親が相当厳しく、これをしちゃいけない、あれをしちゃいけないということを注意します。しかしながら、恐らく日本では、中学校ぐらいになるとほとんど親がもう注意できない状態になっているのではないかというふうに思われます。

 それから、データでありますけれども、最近の調査の結果によりますと、アメリカとイギリス、それからドイツとフランスと日本と韓国について、親からこういうことをしょっちゅう言われているかということを子供に聞いた結果があります。

 例えば、うそをついてはいけない、非常に簡単なことです。それについて、アメリカは五〇%近くが親からそういうことをしょっちゅう言われているということで答えていますが、日本では十数%。それから、もっと簡単なこと、きちんとあいさつをしなさいというようなことを親から言われているかということに対して、イエスと答えたアメリカの子供たちが五二%もいます、それに対して日本は十数%。

 事ほどさように、すべての面でやはり、多分戦争の前は相当日本の状況というのは違ったんだと思いますけれども、ここ数十年の間に非常に、いわゆるエシックスといいますか倫理観が低下している。そういうことで、確かに道徳のようなことを法案に入れるのはいかがなものかという議論もありましたけれども、私は、やはりこの現状を見ていると、どうしても入れざるを得ないというふうに思います。

 そういうことでいうと、入れることによって、国民の一般の皆様が、ああ、こういうものが入ったか、やはり大事だということを理解していただくきっかけになるということで、どれほどかわかりませんけれども、私はプラスの方に向くのではないかというふうに考えております。

山極公述人 先ほどお話ししましたように、道徳的な、あるいは心の教育といいますか、そういったものは、特に低学年というか、小学校とか中学校、義務教育、ここではしっかりと、余り遠慮しないできちっと教えるということをしないと。

 結局、今までの話を聞いていてもわかるように、教育の流れの中には大きく二つあるんですね。一つは、子供中心主義で、いわゆるお子様主義で、子供が言うことは何でも聞こう。一見非常に物わかりのいい、そしてだれもが反対できない、そういったものが学校教育に蔓延して、そしてきちっとしたけじめもつかないという、そういった流れ。もう一つは、やはり教師主導といいますか、きちっと教えていく。これはもちろん両方大事で、どっちがいいということじゃなくて、バランスが大事なんですけれども、前者が余りにも行き過ぎた、そういったことが今の教育の問題に来ていると思うんです。

 なぜならば、教育の目的というのは、教育基本法にもありますように、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者としての必要な資質を備えた心身ともに健康な国民を育てると書いてあるんですね。

 今の親は、よくここでも出るでしょうけれども、とんでもない親が多い。家庭教育もだめだ、モンスターペアレンツ、何でも学校に文句を言いつける、とんでもないといいます。しかし、今の親は突然宇宙からこの地球にやってきたのか。そうじゃないんです。今の親も、子供のときから教育を受け、そして、もちろん教育だけの影響じゃありませんけれども、ここまでたどり着いているんです。であれば、今の親は、ある種の教育の成果なんですね。

 では、かつての教育はどうだったのか。道徳反対、何か教えれば管理教育、そういうような中で育ってきた、その成果が今の親なんですね。ですから、学校の先生が、今の親がどうこうなんて言うこともありましょうけれども、もう少しその辺は謙虚になってもらわなきゃ困る。そういう意味では、やはりきちっと、特に義務教育等は、不易の部分はきちっとやってもらわなきゃ困る。これは、勉強も、心の教育もそうだ。

 私のような、若干年配の者なので、少し古臭いかもしれませんけれども、私はそういうふうに思っております。

 以上です。

やまぎわ委員 私もそう思います。ですから、今回の教育三法を、一日も早く改正を行って、そして、その教育基本法にうたった理念が一日も早く、本当は家庭教育に行ってもらえればいいんですが、少なくても、学校教育に早く入っていくことを望んでいる一人でもございます。

 次に、穂坂公述人にお伺いしたいと思うんですが、お話の中でねじれ現象ということを御説明いただきました。私もそのとおりだと思うんですね。

 今ある制度というものが、それはそれなりにきちんと機能さえしてくれればそれほど改正をしなくても済むものなのかもしれないけれども、制度としてあるものが、実際にはきちんとその制度の成り立ちから考えたものとしては機能していないという現状が、ねじれ現象という言葉で御説明をいただいたものなんだろうと思うんです。

 そこで、簡潔にお伺いしたいんですけれども、今回のこの三法を改正することによって、おっしゃっているねじれ現象というものが少しでも改善の方向に向かうとお考えかどうかということを簡潔にお答えいただければと思います。

穂坂公述人 率直に言って、大変難しいなというふうに思っています。

 なぜかといいますと、もとの根幹となる一つの骨格が、やはりもうその骨格自体が動いていない。ですから、本来ですと、骨格が有効に機能していれば、そこに上積み部分でやはりいろいろ変えるというのもいいと思うんです。しかし、今回は骨格そのものをやはり問うて考えた方がいいのではないか、率直にそんなふうに思います。

やまぎわ委員 率直な御意見をありがとうございました。

 続きまして、田中公述人にお話を伺いたいんですが、学校の現場でのお話を伺ってきたということをお話しいただきました。ああ、そうなんだなということを思いながら聞きましたし、私も学校の先生方と日々話をさせていただくときに、うんうんとうなずく部分もかなりありました。

 その中で、子供のことを理解ができないというお話と、同僚同士の関係がうまくいかないというお話がありましたが、これは、よくよく考えますと、普通、一般社会において、学校に限ったことじゃなくて、どこでも同じことが起きているんじゃないかなと思うんですね。そこにおいて、我々は、ですから、現状としてそうだから変えていかなきゃいけないよねという話をしたときに、ちょっと考え方が違うのかなと思うんですけれども。

 今、簡単に言えば、校長先生がいて、その下の先生方はみんな、ここの表現で言うと対等というような形で扱われている。職員室なんて大体そんなイメージですね。ですけれども、自然に考えると、私もこの世界に入ってまだ四年ですから、わからないことがたくさんある。そうなりますと、ここに並んでいらっしゃるような先輩方に、先輩、一体これはどうなんでしょうかというふうに伺う。そうすると、先輩方は、自分自身が培ってきた経験から、後輩に対してこうするべきなんじゃないかという指導を与えてくださる。言ってみれば、議員というのは、議員になれば給料も同じなんですよ。ですから、何年やっていようが、一回生議員だろうが、給料も同じ。ですから、対等であることは間違いがない。だけれども、やはりそこには経験の差であるとか、勉強によって培ってきた差であるとか、そういうものがきちんとあって、そして、それは言ってみれば役職というような形でその先輩方はそういう重要な役割というのをなしていく、これは私は社会としては自然なあり方だと思うんです。その自然なあり方を学校に導入するということが、なぜ対等な議論を妨げることになるのかというのはちょっとわからなかったものですから、そこについて短く御説明をいただければと思います。

田中公述人 短くとおっしゃいましたけれども、ちょっと具体的な例でお話をしたいと思います。

 今、子供たちが社会の大きな不安定の中で、幼いときからなかなか丁寧な扱いを受けることができなくて、非常に多くの子供が不安定な状況を示しているということは事実だと思います。それで、みんな、子育て、教育をどうしたらいいのかということを考え合っている、そういう時代であるわけですが、そういう子供たちの一つの特徴としてかなり広く言われていることは、受けとめてくれる他者というか、依存の相手を求めているんだけれども、その依存の相手を攻撃してしまうというか、いら立ちや不安を受けとめようとしてくれる他者に、一〇〇%受けとめてくれる人はなかなか難しいものですから、それを攻撃してしまう。

 例えば、精神科医もカウンセラーも教師も、そのクライアントや子供の攻撃を受けてひどく揺さぶられ、傷つくというようなことがあります。精神科医やカウンセラーは、そういうクライアントの攻撃を受けて自分が傷つくことがある、この患者は苦手だなと思うようなことがあるということは当然の職種として御本人たちも認めていますし、社会的にも認知されているわけですね。そういう人々には、精神科医やカウンセラーを続けていくために、同業者のカンファレンスというんですか、相談のし合いとか、精神科医をやっている上での苦しさ、自分がどういうふうに苦しいかとか、この患者がどうしても理解できないんだけれどもというようなことを相談できるカンファレンスを持つことが、彼らが専門職として勤務し続けていく上での不可欠な行動だというふうに認知されていると思います。

 ところが、教師は、今、精神科医やカウンセラーに負けないぐらい、不安定な子供たちの依存欲求と攻撃的な言辞を日夜浴びていて、教師自身も相当苦しんでいる、傷ついているということがあると思います。

 しかし、教師自身の中にも、社会的にも、その教師たちは、自分たちの苦しみや、時には、例えば本当に荒れている子供がいたら、この子が休んでくれたらうんと楽になるのになとか、そういうふうに思うことだってあるわけですね、そういう教師の、子供に向かって、今の社会状況の中で仕事を続けていくための、例えば自分の内面の揺れ動きとか、傷つきとか、くたびれとか、そういうものを出し合って、教師同士がお互いに理解し支え合うというか、そういう関係がまだ教師たちも必要だと認知していないし、社会的にも余り認知されていませんけれども、今の教師たちには本当に必要になっていると僕は思っています。

 それは、例えば職階とか、制度上の指導何とかとか、評価とか、そういうふうなものと結びついた関係ではなくて、経験の差はあっても、今議員がおっしゃったとおりであって、議員には、例えば主幹議員とか指導議員とかそういうものはないわけです。経験の差はあって、お互いに助け合うということはあるわけだけれども。議員に職階がないのと同じように、おっしゃったことをお返しすれば、教員の世界は、経験の差はあっても、それで学び合うということは当然ですけれども、今の非常に難しい中で、教員自身が傷つき、悩み、困ることがある。それを責められずに率直に出して相談し合える関係をつくっていくということが、現代の教師の専門性を維持し発展させていく上で非常に重要なことだというふうに思っています。その意味で、職管理、評価、そういうものと結びついた職階の導入というものは、そういう自然な関係が教師の中で発展していくことを妨げる、その危険性の方が大きいというふうに申し上げたわけです。

やまぎわ委員 実は、議員にはいろいろなポストがあって、それに基づいていろいろ手当等とかも変わってきますので、そこは横並びではないんですね。そこだけ誤解のないように申し上げておきますが。

 最後になりますけれども、米浦公述人にお伺いしたいんですけれども、この三法は廃案にするべきだというお話、率直な御意見だと思うんですね。一方、私は、法律というものを考えるときに、法律の制度そのものよりも、それをどうやって運用していくかというところに本当に大きなウエートが置かれなきゃいけないんだろうなと思うんですね。

 現状がよろしいという話を伺いましたけれども、例えば国会に多くの子供たちが国会見学に来る、後で、やまぎわ先生、国会を案内してくれてありがとうというようなお礼状をいただくんですね。その中に、かなりの割で、今国会では憲法九条を変えて日本を戦争をする国にしようという話をしていると習いました、そういうことは絶対やめてくださいというような記述を書いてくるんですよ。

 それで、私は何が言いたいかというと、いろいろなものを評価していくという話をしたときに、何を評価基準にするかわかりませんけれども、少なくてもこういったことを子供たちが書いてくるというのは、イデオロギー的に中立な物事の教え方をしているとは私には現状では思えない。ですから、現状のままでは私はいけないと思うんですね。

 じゃ、これを廃案にしてということであるならば、どうやってこれを中立なものに戻す方法があるのかということを率直な御意見として最後にお聞きしたいと思います。

米浦公述人 率直に申し上げますけれども、私たちは、教育と運動というものは明確に区別されなければいけないし、そういうふうにしていると思います。

 したがいまして、私たち全日本教職員組合が、組合の立場として、現行憲法が掲げている九条を改正することには反対だ、そういう考え方を持っていることは明らかであります。しかし、先ほど申し上げましたように、そのことと教育とは区別して私たちはきちっと対応しているつもりであります。つまり、子供たちに、日本国憲法の成立の成り立ちとか、それがどういうような特徴を持っているのかとか、そういった問題について事実をきちんと教えていくということと、それを変えた方がいいというふうに思うのか、変えない方がいいというふうに思うのかは、その子供自身がみずからの頭で考えて、これは主権者として、成長して一人の主権者となったときに、みずからの判断が正しくできるようになっていただければいいことであって、私たちは決して子供たちにこういうような考え方を教え込むというようなことはしていないつもりであります。

 以上です。

やまぎわ委員 時間となりましたので、質問を終わりたいと思います。ありがとうございました。

保利委員長 次に、大口善徳君。

大口委員 公明党の大口善徳でございます。

 きょうは、五人の公述人の先生方、大変貴重な御意見を賜りまして、ありがとうございます。

 きょうは、時間も短いものですから、特に私どもが問題にしておるところについて、全員にお伺いできないかもしれませんが、お伺いしたいと思います。

 一つは、今回、教育委員会の責任の体制の明確化ということが地教行法で規定をされたわけでございます。教育委員会というのは、政治的中立性をしっかり確保する、そしてまた教育行政における安定性や継続性を確保するという点において私は存在意義はある、こういうふうに思っております。そして、地方分権という観点、非常に大事でありますので、今回も四十九条、五十条で是正要求、指示につきまして、今度は自治事務、あくまで地方自治法の国が関与できる枠内でやっているということで、地方分権についても配慮されている制度だ、こういうふうに考えております。

 ただ、知事さんの中には、教育委員会につきまして、選択制といいますか、首長さんが政治的責任を負う、そして、今の有権者は教育問題に対して非常に関心が高い、ですから住民に選ばれた首長が本来やるべきであるということも考えられるんじゃないか、それで選択制にするということも考えていいのではないか、こういう御意見も地方の公聴会でありました。

 この教育委員会について、今回の法改正によって、選択制というような議論に対してどう思われるのか。そして、教育委員会の責任を今回明確にしたわけでありますけれども、その場合に、きちっと役割分担を決めたということと、それから、学識経験者の知見を活用して活動の状況の点検、評価を行って、これを発表するということですね。教育委員会の自己評価といいますか、こういうものが導入されたわけでございます。これが機能するようにするにはどうしたらいいのか。この点について、木村公述人にお伺いしたいと思います。

    〔委員長退席、小坂委員長代理着席〕

木村公述人 御承知だと思いますが、教育委員会は、もともとはアメリカで発足した制度でございます。

 私もアメリカへ参りましてかなりあちこちの教育委員会を見せていただきましたが、まさにあれがアメリカのデモクラシーの象徴であるというぐらいに私は思っております。完全に政治から独立し、しかも、住民の意見を聞いて、そしてしかるべき教育ポリシーをつくっていくという制度になっております。

 ちょっと余談でありますけれども、例えば、教育委員会は一般の人が傍聴できますように、私の見た幾つかの教育委員会では夕方五時からやる、そうしてひどい場合には朝四時、五時までやると、徹底した民主主義を貫いております。そこに教育委員会の精神があるのであって、そういう意味でいうと、若干、我が国は教育委員会が十分成長しなかったということは申し上げられるかと思います。

 さはさりながら、私は選択制というものには非常に危険性が伴うというふうに思っております。そういう意味でいうと、現在の制度を、今議員がおっしゃった安定性、継続性、政治からの独立ということをやはり徹底して追求していくのが、民主主義を標榜する日本のやり方だというふうに思います。

 それから、私も、先ほど申し上げましたように、東京都の教育委員会の委員長をしておりますが、確かに、本来ですと教育委員会は議会からチェックをされるはずなんですけれども、今の状態でいきますと、そのチェックのされ方は極めて薄いということは申し上げてよろしいかと思います。

 そういうことでいうと、どういうメカニズムにするか私まだ考えておりませんけれども、教育委員会のアクティビティーに対して何らかの評価をするということはやはり必要ではないかというふうに考えております。

大口委員 次に、この教育委員会につきましては、穂坂公述人も具体的な提案をされております。教育委員会廃止論というような論文も出ておったんですが。きょう先生からお伺いして、そうじゃないということがわかったわけでございますけれども。例えば県費の教職員というものを廃止しよう、そういうお考えも、私も非常に同意するようなところがあるわけでございますけれども。

 そういうことを踏まえた上で、私は、やはり現場に、市教育委員会あるいは学校の現場にもっと権限を移譲すべきである、そして、子供たちに一番近いところに権限を移譲して、またお金も移譲していくことが教育の活性化につながるんだ、こう思っておるんですが、この点、いかがでございましょうか。

穂坂公述人 おっしゃるとおりだと思います。やはり現場の役割分担をしっかり決めていただいて、現場が自己責任をしっかり持てる、そういう体制がいいというふうに思っています。

 さらに、教育委員会のそれぞれの機能も、今お話がありましたように、確かに政治的中立性は担保しなくちゃいけないと思うんですね。ですから、私がもっと現場の自主性を担保してほしいと言うのは、決して何でもやってもいいという気持ちじゃないんです。

 例えば、指導助言なんていう言葉も、私は逆に言えばおかしいと思っているんです。なぜなら、国がやるべき仕事、これが例えばちっとも地方がやっていない、現場がやっていないとすれば、それは是正命令をするのは当たり前で。ですから、お金はやはり国にしっかり持ってもらう。さっき言ったような安定性とか継続性とか、教育水準を一定担保するとかというのは、それぞれがやはり役割分担の中でしっかりやるべきもので、だから、そこのところを明確にしないで、小手先と言えば大変失礼なんですが、ちょこちょこ変えても、私はいかがなものかなと。今言ったように、そういうものを踏まえた上で、現場の裁量権、現場の自主権、そういうものをしっかり担保してもらった方がありがたい、こう思っております。

大口委員 次に、田中公述人や米浦公述人から、副校長それから主幹教諭、指導教諭、こういう職階制といいますか、こういうものを導入することに反対だ、こういう御意見でございました。

 今まではなべぶたであったわけですね。校長、教頭、そしてあとは同じ教諭、こういう状況でありました。しかしながら、今学校には本当にいろいろな問題が殺到しているわけでして、そして第一線の教諭に大変な負担があるわけですね。そういう点ではやはり、例えば今給食費の取り立てまでやっておられる、やらざるを得ない、こういうような状況もあるし、また本当にいろいろな問題のある親がいらっしゃる、本当に長時間にわたっていろいろ対応しなきゃいけないとか、さまざまな対応もしなきゃいけない。

 そして、だんだん、今ベテランの先生がこれからたくさん退職するようになってきますよね。そうなってきますと、やはり若い先生がこれからかなり入ってこられる。それに対する指導教諭、スーパーティーチャーのような方がちゃんと先輩としてのしっかりとした立場で指導するということも大事じゃないかな、こう思っておるわけです。

 副校長や主幹制度を東京都でいち早く導入されたということでございますので、木村公述人に、その施行された結果こういう成果があったというようなことがありましたら、お伺いしたいと思います。

木村公述人 その前に、私、十年ほど前まで四年間、東京工業大学の学長をしておりました。実は、大学もなべぶたなんですね。学長だけが一人ぽつんとなべの持ち手のようになっておりまして、あとは全部横並び。もちろん学部長とか評議員はいるんですが、結局マネジメントは一人でやらなきゃいけないという、非常に裸の王様になってしまうんです。

 もうこれは大変な苦痛、苦労でありまして、パブリックマネーを使う、国立大学ですからほとんどパブリックマネーでマネージされているんですけれども、正直申し上げて、そういう体制というのは、はっきり申し上げて非常に税金の無駄遣いをしている。マネジメントの効率化が全然できていないということで、大学はその後、副学長等をたくさん導入するようになりまして、非常に効率的になりつつありますけれども、同じことがやはり公立学校についても言えるんですね。校長が一人で悩むということ。

 東京都で、これは東京都の場合はまだ法律的なサポートがありませんから、ただ東京都としてこういうことをやってみようということでやったんですが、私もかなりの数の校長先生とお話ししますと、やはり非常に楽になったと言う方が多いですね。自分一人で悩んでいたのが、必ずしも校長と副校長がうまくいっているということはないんですけれども、伺ってみますと、副校長がいることによって非常に相談しやすくなった。それで、その結果、視野が広がって、先生方にも意見を聞いてもらえるようになったということを随分聞きます。

 そういうことでいうと、東京都が全面的に成功している、つまり法律的なバックグラウンドがありませんから、東京都だけでやっているということで、全面的に成功しているとは申し上げませんけれども、そういうマネジメントという観点からはかなり楽になったのではないかと思うんです。

 ちょっと話が長くなって申しわけないんですが、マネジメントというのは非常に大切だと思うんですね。つまり、先ほど申し上げましたように、公立学校というのはパブリックマネーで運営されているわけですから、これはできるだけ効率的にせざるを得ない。そうなると、いろいろ批判はありますけれども、マネジメントの効率化を図るというのは絶対に必要だ、そういうことからいうと、この新しい職の設置というのは、非常に私は将来に向けて有効であるというふうに考えております。

大口委員 次に、学校の評価についてお伺いしたいと思いますが、今、学校は自己評価ということで、教職員の方々が目標を立てて、そして、それに対してどう達成したかという等々の自己評価を、これはもうほとんどの小中学校でやっている。それで、公表もそこそこなされている。また、学校関係者評価、これも今実施をしているところがかなりふえてきておるわけですね。ところが、PTAのアンケートによりますと、保護者の方は、そういう自己評価、関係者評価というもの、いわゆる外部評価がなされていることはほとんどお知りになっていない、八割弱の人は知らないという状況である、そんな状況でございます。そして、今回義務づけがされたわけですけれども、それとともに第三者評価という議論もあって、今一部試行もされている、こういう状況でございます。

 私は、やはり学校みずからがきちっと点検をする、また保護者、地域の方々に入っていただいて関係者でもって評価をするというようなことは非常に大事なことだ、こう考えております。第三者評価については時期尚早だという意見もございますけれども、この学校の評価のあり方について、山極公述人にお伺いしたいと思います。

山極公述人 ありがとうございました。

 今、委員のお話にありましたように、学校評価というのが教育水準の向上や学校運営の質の向上等に役立てるという意味では全く同じ意見であります。

 先ほど申しましたように、学校評価は学校設置基準以降、それ以前も教育課程評価とか、そういったことは盛んにやっていたんですけれども、本格的には、それ以降各学校でやられるようになったわけであります。私も時々学校評価で講演へ行きまして、あしたも実は千葉県の小中高等学校の新任教頭に対して、学校評価について二時間しゃべらなきゃいけないんですけれども。

 一生懸命やっている、これはもちろんいいんですけれども、学校評価、いわゆる目的、プラン・ドゥー・チェック・アクションありますけれども、そういう目的からすべて学校の先生がつくっているんです、内輪で。そうすると、保護者から見て、本当はこういうことを調べてもらいたいんだというのが必ずしも出てこないんです、学校だってやはりみっともないものはしたくないもので。

 例えば学力テストをやった場合に、自分の学校の学力テストの結果はどうだったのか、ほかの地域に比べて何がよくて何が悪かったのか。あるいは、高等学校なんかに行って遅刻の多い生徒がいた場合、遅刻の人数はどのぐらい実際にいるのかとか。あるいは、今学校は絶対評価というのをやっていますね。あれもいわゆる教科別に五段階で、要するに、五が何人、こうなっていますと、親は、この判定基準がどういう意図でやっているのかというかなり疑義があるんですね。そういう場合に、自分の学校は教科別に五は何人ぐらいいるのか、四は何人ぐらいいるのかとか、そういうエビデンス、これがほとんど隠されているんです。そして、プラン・ドゥー・チェックなんというのを学校でつくっている。ですから、サイクルが、非常にレベルの低いプランをつくってサイクルを回していますから、くるくるくるくる、はい回っているんですね。それが教育の水準の向上や教育全体の向上につながっていかないんです。

 そういう意味では、やはり大事なのは、事前に事実、もちろん子供のプライバシーなんて公表したらとんでもないですけれども、学校の実態をまず情報開示していく、そしてそのためには、うちはこういう目的で、こういうやり方で、こういう形できちっと評価していく、そして結果はきちっと評価する、こういったものをもっとしていかなきゃいけない。

 四月に、各学校はPTAの全員を集めて、校長先生は学校の目標や教育活動を説明します、ほとんどの学校は。しかし、では三月、学年末に、そのうちのどれとどれが達成したのか、どれが達成しなかったのか、達成しない場合にはどこに原因があったのか、では来年にどうつなげるかなんというのを最後の学年末に言っている学校なんてほとんどありません。四月に言って終わりです。これでは、結果責任ということは問われないんですね。これからの教育評価というのは、そういう意味で、自分に厳しくしていくということ、それによって上げるということですね。

 第三者評価、もちろん大事です。イギリスは、第三者評価、OFSTEDなんていう視学官制度で第三者評価をやって始まったんですけれども、今は、やはり学校評価というか点検評価、これが基本だ、そしてそっちの方に少しずつ移っています。ですから、日本も自己点検をしっかり、そして外部評価を入れていく、その上で第三者評価というようなものについて検討も進めていく、そういうことがいいのではないか、こう思っております。

 以上です。

大口委員 今、学校評価につきまして非常に詳しいお話をいただきまして、ありがとうございます。

 今回の改正の中で、私どもは、やはり教師は、もちろん学力だけではなくて人間性、こういうものが本当に大事ではないかな、こう思っておりまして、穂坂公述人もそういうお話をされておりまして、やはり採用の問題があります。そういうことも私どもは以前も議論をさせていただいたわけであります。それから、やはり教師が子供たちと向き合う時間をいかに確保するか、こういうことも大事だと思います。

 そういう点で、やはり教育を充実させるためには投資をしっかり行っていかなきゃいけない、金と人、これをきちっとやっていかなきゃいけないということもこの委員会の審議でいろいろとお伺いさせていただきました。先生方の思いをまた胸にして頑張ってまいりたいと思います。

 きょうは本当にありがとうございました。

小坂委員長代理 次に、牧義夫君。

牧委員 民主党の牧義夫と申します。

 本日は、公述人の皆様方におかれては、本当にお忙しい中、お出ましをいただいて、それぞれの立場から有意義な御意見をお聞かせいただいたことに私からも感謝を申し上げ、また、皆様方の御意見をしっかりと踏まえて今後の議論を進めていきたいとお誓いを申し上げたいと思います。

 先ほど自民党の議員の質問の冒頭で、日本の国というのはいろいろな考え方を自由に述べられるいい国だなという発言がございましたけれども、私は、別の観点から見ていたんです。与党推薦の枠でおいでいただいた公述人のお二人と、お話を伺っていて、恐らく国家観ですとか歴史観ですとか、そういった部分については私どもほとんど変わらないんだろうなと思いながらお話を伺わせていただいておりました。

 ただ、この国の教育の現状を少しでもいい方に持っていくためにはどうしたらいいのかという方法論においてやはり違うんじゃないかなということだと思います。与党の筆頭もうなずいておられますけれども、多分そういうことだと思います。米浦公述人と私どもというのは多分イデオロギー的にもかなり違うと思いますけれども、方法論的には、むしろ学校現場をよくするためには米浦さんのお話を聞いていた方がまだ実効性があるんじゃないかなという感触も、私、得たわけでございます。

 そんな観点から、まず、教員免許の更新制が根本的な教員の資質向上に本当に資すると考えるのかどうなのか。先ほどは、山極公述人のお話には、教員に対する信頼の確立、こういった観点のお話もございましたけれども、本当に資質の向上に資するのか、そしてまた、これが教員に対する信頼の確立につながる一つの制度論なのか、そこら辺のところをまずお一人ずつ、そうなのかそうじゃないのかということ、そしてその理由を簡単に一言ずつ添えてお話をいただければありがたいと思います。

木村公述人 私、もともとは大学の工学の研究者でありました。東京工業大学に三十三年おりましたが、振り返ってみますと、やはり途中でマンネリ化してしまうんですね。これはもう事実であります。幸い私の場合には、そのたびに外国へ行くことができましたから、そこで新しい知見を得て、アイデアを得て、それで研究を展開していったということですが、やはり人間、例えば三十年とか三十五年、一つの同じ職をやる上では、どこかで非常に大きなリフレッシュの必要があろう、それが私は教員免許の更新制として出てきているのではないかと思います。

 もちろん、見方によっては十年研修だけでいいではないかという話もあります。しかしながら、先生方にもっともっと今よりも自信を持っていただくためには、ここでまた、僕は新しい免許を得たぞというその刺激、そういうことがやはり職場においても活気を促す大きなきっかけになるのではないかということで、私は、大変価値のあるアクションではないかというふうに思っております。

山極公述人 先ほどお話ししましたように、もちろん学校の先生の資質向上は、日ごろの自己研さんあるいは研修、そういったところで一生懸命やっていますし、今現在もやっているかと思うんですね。しかし同時に、やはり教員免許状というものが、今までは、一たん取得すれば永久に使える。今、考えてみれば自動車だって免許を時々更新しますし、食べ物だって賞味期限というのがあるんですね。なぜ人間を教える人にそういう賞味期限がないのか、ちょっと言い方はよくないんですけれども。

 やはり人間というのは、さっき木村公述人が言ったように、定期的にリフレッシュしていく、新しい知識や技能を刷新していく。なぜならば、昔と違って、今は学校を取り巻くいろいろな課題というのはもう山積している。そういう先生方に、十年に一回ではありますけれども、やはりそういったリフレッシュのための知識の刷新の講習を受けてもらう、そしてまた再び十年間に立ち向かってもらう。

 免許を更新するというと、何か非常に、萎縮するだとか教員のなり手がないって。僕は学校の先生をそんなにばかにするべきじゃないと思うんですね。先生というのはもっともっと自信を持っています。それから、一生懸命子供たちのためにやろうといって頑張っている先生がほとんどです。実際にそういったところで、ああ、いい話を聞いたなと。

 例えば、大学でいろいろな教育学の授業があります、発達心理学だとかなんとかと。確かに、まだ実践もしていないときに幾ら聞いても余りぴんとこないんですね。しかし、現場の中で子供と実践して、そして一人一人の子供の個性だ何だ、そういうことで悩みながら、十年に一遍大学で発達心理学なんというのは、これは教職大学院とも関係しますけれども、そういったところで勉強して、ああ、これはこうだったのかと、すなわち、実践に裏づけられた理論、そういったこともこの講習の中には含まれていると思うんですね。

 そういう意味で、もっともっと前向きに考えていただければ、こういうふうに思っております。

 以上です。

穂坂公述人 私は、本来、分限制度がしっかりしていれば、それで対応できると思っているんです。でも、分限制度が適正に機能していないとすれば、継続をそのままほうっておくというわけにいかないでしょうという意見です。

 ですから、そういうことをやる前に、もっと基本的に、先生方はどういう形で市町村に派遣をされているのか、採用の仕方はどうなのか、昇級の仕方はどうなのか、その辺からきちっとしないと、肝心のもとの方をそのままにしておいて、おしりの方だけ、先生方は余り努力しないからこの辺で何かしなくちゃいけないなと。私は、分限制度がきちっと機能しないのもその辺に原因があるのではないか、こう思っています。

 それからもう一つは、やはり学校の先生に適用するとなると、これはいろいろな関係職種の方々、関係の方々にもそういうものがこれから波及していくと思うんですね。取ったら取りっ放しというのは結構ありますからね。時代が変わっていく。ですから、その辺もやはり今度は整合性も考えていかなければいけないのではないか、こんなふうに思っています。

田中公述人 教員の仕事が本来創造的で、先ほど申しましたように、子供理解や、発展していく学問や文化の中身を習い直すとか、そういうことを含んで、常に研修をしながらしか続けられない仕事であるということはもうはっきりしているというふうに思います。

 私自身も、現職の教員で大学院に来られたり研究生として来られた方とこれまで十数年、何人もつき合ってきました。その方は、やはり現場で行き詰まったり問題意識を持ったりして学ばれるので、ちょっと普通の学生が学ぶのとは違った、意味ある学びをされて、自分の教育実践力を高めて現場に戻っていかれるということが多いわけです。

 したがって、子供の非常に複雑な人間的成長を支えるという教師の仕事の本質からいって、教師については自主的な研修が保障されるべきである。今いろいろ意見が出ていたようなことは教師の研修制度の充実という形で本来考えていくべきことであって、それを、場合によっては教師という身分が剥奪されるというようなこととセットとして考えるということに今回の大きな問題があるということであります。

 教師の仕事が自主的なことで、それに対して研修が必要で、少なくとも十年に一回ぐらい大学に行ってしっかり勉強し直すというふうなことが重要だということは言うまでもないことじゃないでしょうか。ただ、現実は、自治体が今財政難の中で、これまで送ってきた現職の院生や研究生の数をも削減せざるを得ないというふうなことになってもいる、そういう現実があるわけですね。

 ですから、僕は基本的に、研修制度の充実ということでこの問題のとらえ方はすっきりすべきであって、いろいろな懸念は身分の剥奪みたいなのと結びついて出てきているということが問題であって、そこが問題になっているということを御理解いただきたいと思います。

米浦公述人 私は、免許更新制を導入することによって、教員の資質向上とかあるいは教育的力量の向上が見られるということはないと思います。

 民主党さんの方で提言されております教員養成修士課程ということ、この考え方は一つの見識として検討に値するだろうというふうに思っておりますけれども、そういう教員養成のあり方、それから採用のあり方、その後、採用された後の研修制度、ここの辺の問題がもっと改善充実される必要があるんじゃないかというふうに考えております。

 採用された後の研修制度の問題でいえば、初任者研修制度、それから、十年次の研修、二十年次の研修が法定の研修としてあるわけですけれども、これらの研修はいずれもいわば教師を子供から引き離すような形で行われていて、私は、教師の教育的力量の向上にとって欠かすことのできないものは、子供、生徒とのかかわりの中で教員はやはり成長していくということが最大のポイントですから、そこの部分をきちっと保障して豊かにしていくということと、それから横並びと申しますか、同僚の教員相互に、相互批判を含めて相互に学び合う、ここのところがもっともっと大切にされなければいけないのではないか。そういう意味で、現行の研修制度は見直されないといけないだろうというふうに思います。

 それから、私、陳述の中で述べましたけれども、この免許更新制度と一体的にいわゆる指導不適切教員の問題が出ているわけですけれども、これについては厳密に吟味されなければいけないだろうと私は思いますし、もし不適格だというふうに文字どおり言える場合は、現行の地公法上の分限措置で十分に対応できるだろうというふうに考えるわけであります。

 以上です。

牧委員 ありがとうございました。

 次に、地教行法についてお伺いをしたいと思うんですけれども、とりわけ木村公述人、中央教育審議会においてもその中枢にあって、こういったことも議論をされてきたと思いますけれども、とりわけ今回、四十九条、五十条、国の関与が一層強まる、是正の要求あるいは是正の指示ということで、この辺のところがこれまでの地方公聴会やらこの国会における参考人質疑でもしばしば議題になってまいりました。

 そういう中で、実は昨日も参考人質疑を行ってこの辺についての御意見を伺ったんですけれども、例えば、きのう京都の教育長さんのお話で、どういったときにこういったことが発動されるのか、どういうことが想定されますかという質問に対して、これは想定外のことが起こった場合にだというようなお話が返ってきたわけでございますけれども、そういうことが起こらないように我々地方教育行政も頑張らなきゃいけないんだ、そういうお話でございました。

 私は、本当にそれでいいのかなとそのとき思ったわけでございまして、文科省から何か言われないために頑張るというのは、地方の教育行政の本来あるべき姿だとは私は思わないんですけれども、木村公述人はどのようにお考えでしょうか。本当の責任ある教育行政というのはどうなんだということをお聞かせいただきたいと思います。

木村公述人 私、先ほどから何度か申し上げておりますが、東京都の教育委員会の委員長をしておりますが、東京都の教育委員会は、私に言わせますと、むしろ国を超えて、かなりの部分を先取りしております。特別支援教育でありますとか、それから先ほどの副校長もそうでありますけれども。そういう意味で言いますと、これはそれぞれの教育委員会がやろうと思えばできるんですね。それを今までやってこなかったということだと思います。ですから、自画自賛になるかもしれませんが、東京都の教育委員会ほど活性化していれば、今度のような議論は出てこなかったのではないかというふうに私は思います。

 しかしながら、日本全体を見るとなかなかそうもいっていないということで、こういうふうな地教行法の改正をせざるを得なかったのではないかというのが私の感想であります。

 それから、先ほどちょっとお触れになりました是正勧告とか指導とかいう件でありますけれども、これは議員、もう先刻御承知だと思いますけれども、非常に限定された形になっておりまして、生命、はっきり申し上げましていじめですね、いじめが起きたような場合に適切にそれぞれの教育委員会が措置をできなかった場合にのみそういう権利を行使するということ。それから、教育の権利が奪われる、はっきり申し上げて未履修の問題、そういうふうな問題が起きた場合に、これはちょっと弱くなっておりますが是正の要求をするということで、私は極めて妥当なことではないかというふうに思います。

 ちなみに、私、中央教育審議会で提案いたしましたのは、ちょっと現在のこれと形が違っておりまして、例えば未履修の問題が起きたというふうな場合に、文部科学大臣が確かに起きたなということを認定されたら、第三者委員会みたいなのをつくって、そこで御議論をいただいて、そして、白黒をつけて、それを文部科学大臣に上げて、そこで文部科学大臣が処置をされるのはよろしかろう。

 なぜそういうことを言うかといいますと、未履修の問題の背後には受験の問題があることは確かなんですね。しかしながら、それが全然今度出てこないわけです、このままの状態ですと。ただ、今申し上げたのは、第三者委員会のようなメカニズムをつくれば、そこで、なぜこういうことが起きたかということが議論されて、やはり大学の受験が問題なんだなということで、それが国民の目に明らかになる。そういうシステムを私は提案をしたんですが、残念ながら、そこまではまいりませんでした。

牧委員 私が質問をさせていただいたのは、果たしてそれが問題の本質的な解決になるのかどうなのか、そこら辺の議論をさせていただきたかったということで御理解をいただきたいと思います。

 今のお答えは、特異なケースも含めてのお話で、必ずしも私の質問に、私が意図するところにお答えいただいたとは思えないんですけれども、その意味で、もう一回、今度、穂坂公述人にお聞かせいただきたいと思います。

 私どもは、教育を取り巻くさまざまな問題の、これが問題のすべてだ、元凶だというものは特定はできないと思いますけれども、多々あるのは、やはり責任の最終的な所在がはっきりしない仕組み、ここにあるんじゃないかなと。そういった意味で、私どもは、だれかが責任をとれば問題が解決すると言っているわけじゃなくて、やはり責任の所在をまずはっきりさせておくことが必要だという観点から、現場主権、そして教育行政、教育予算を執行する首長のところに権限及び責任を負わせるべきだ、そういうことをはっきり主張してまいりましたけれども、大臣の一般質疑における答弁は、首長にやらせると特定のイズムに縛られる危険性がある、そういうお話でしたけれども、そこら辺のところを穂坂公述人はどのようにお考えなんでしょうか。

穂坂公述人 私は、首長が全部の教育行政に、間接、直接を問わず、責任というか、指揮権を持つというのは反対なんですよ。

 私は、総括的な責任は絶対あると思うんです。全部予算を握り、教育委員の指名権を持っているわけですから。ただ、そこのところの、一番肝心なところを抜きにしておいて、そして教育委員会をもっと強化させなくちゃいけないからこうするああするというのはよくない。もっと、教育委員会が機能しないのはなぜなんだろう、どうしてだろう、そこからきちんとやるべきで、もちろんそこに、今度は、では、首長の立場はどうなんだろうと。

 アメリカの場合には、教育費が独立しちゃっていますから、これは非常に簡単なわけですね。簡単といいますか、わかりやすいわけです。ところが、日本の場合には、そこのところが、教育委員会は独立はしていても、大事なことのお金、それから、委員の指名は全部持っていますから、その矛盾はやはりあるんですね。

 ですから、一番大事なことは、住民がわかりやすいようにする。例えば、私が住民から、市長、責任があるんですかと。志木なんかでも二十億から三十億ぐらい使ったんですね、住民税から出たもの、もちろん交付税も含まれてですが。これは市町村も結構お金を出しているんです。出している責任者が、あなた無責任じゃないのとよく言われたものです。

 ですから、私は、そういう今の抱えている教育委員会のいろいろな意味でのねじれ現象みたいなものをしっかりして、そして、では、どう強化をすべきか、そういうふうにいった方が法としてはいいのではないか。

 ちょっと長くなりますが、大体、基本法の理念が変わるぐらいですから、いい悪いは別ですよ、理念がもう変わるべき時代だというのに、補完する制度の根幹は、そっちは正しいんだというのはおかしいのかな、私はこう思っています。

    〔小坂委員長代理退席、委員長着席〕

牧委員 ありがとうございました。

 質問を終わります。

保利委員長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。

 教育三法案につきまして、きょうは本当に短い時間でございましたけれども、それぞれのお立場から率直な御意見をお述べいただきまして、お聞かせいただきました。心からお礼を申し上げます。

 幾つかの論点、重ならないように私も質問したいなと思っているんですけれども、最初に穂坂公述人に伺いたいと思います。

 志木市は、全国に先駆けて二十五人学級を実施されたということで有名なんですけれども、国の編制基準は四十人という中で、地方自治体でそれと違った基準にするということについては簡単なことではなかっただろうというふうに思うわけですね。率直なところ、文科省との間でどんなやりとりがあったのか、どのようにしてこの実現に至ったのか、お聞かせいただきたいということが一点。

 それから、冒頭陳述の中で、指導助言の実態は、実はそれ自身に問題があるということをおっしゃったと思うんです。上意下達が慣習化しているということですが、これの実態につきまして、具体的にどういう事例として起きているのか、この指導助言ということが地方教育行政の自主性をどのように阻害をしていることになっているのかという点についてお聞かせいただきたいと思います。

穂坂公述人 一点目の二十五人学級、同時に、私どもはホームスタディー制度もしたんです。二十五人学級は健常者で、心の傷を持っている方々に適用するのがホームスタディー制度。どっちも初めてでしたから、随分、学校否定論者ですかとか、やはり守らないのはよくないとかとよく言われる。

 まず、一点目の二十五人学級は、そんなに文部省から直接的にはありません。ただ、私は、さっき言ったように県議会が長かったし、議長なんかもやっていましたし、ある意味ではツーツーでした。最初は、いいですかと言ったら、だめでした。そうですね、半年以上すったもんだしました。最後は、もういいと。たまたま教育長が私の県庁に入った同期でしたから、あなたには悪いけれどももうこれ以上は話し合いをやめて、私どもは、だめだと言ってもやります、だからどういうペナルティーがあるのかはっきり示してほしい、私どももそのペナルティーは甘んじて受ける、例えば市長がだめになるんだったら、私は別段やっている必要もないのでそれまで覚悟を決めてやるからと言って、ようやく、それでは志木だけではなくて全体的に埼玉県がそういう形で動くことでいいかと言うから、それは全く結構ですと。やはり単独で一つ一つやるというのは教育の機会均等を壊すというのがいっぱいあって、それが大義名分です。

 ただ、文部省から直接言われたことはありません。むしろ陰の方に、自民党の方、国会議員とかそういう方じゃありませんが、若手からは、頑張った方がいい、そういう余りにも一律的護送船団方式はいかがなものかという、案外、支援というかそういうことはいただきましたね。直接的にはありません。ただ、県は、やはりかなりいろいろなことがあったのではないかと思っています。

 それから、二つ目なんですが、さっきの指導助言なんですが、これは、言った方は普通に、命令じゃありませんよと言うと思うんです。ところが、言われた方はとり方が違うんですよ。これは、どっちが悪いという意味ではなくて、むしろ、今の教育長の体制が、御承知のように、市町村のは都道府県が認可をし、承認し、都道府県の教育長は国がというのがありましたね。そういう流れがずっと来ていますから、消え去ってないんですよ。ですから、やはり上級官庁に対しては猛烈に気を使うんですよ。これは体質だと言ってもいいし悪慣習だと言ってもいいですね。それが定着していますから、片方では気がつかないけれども、現場の実態なんです。

 どこに出てくるかというと、例えば、総合学習なんかがありましたね。あのとき、わざわざ文科省はひな形までつくらなければ、下が受動的機能に特化しちゃって、言われたことをやればいい、怖いなという感じですから、どうやっていいかわからない、ひな形を示してくれませんかまでなっちゃった。大体、総合学習を考えるのに、言われたひな形でやるんじゃ何の効果もないと当時笑ったことがあるんですが。

 ですから、これは、上ではそうでもないんだけれども、受け取り方が違う。体質化している、慣習化している。私は、むしろそっちの方に原因があるのではないか。

 特に、さっき言ったように、その現象論で、今出ているのはマニュアル化です。言われたことがどうもやはり気になるからマニュアルにしてくれ、そうしたらわかりやすい。ですからそうかとマニュアルにする。子供じゃありませんが、やはりマニュアル同士の一つの伝達、報告、指導というのは、私は、教育にはなじまないのではないか、こう思っています。

石井(郁)委員 田中公述人に伺いたいと思います。

 今の教師たちが何に困っているか、何を求めているか、特に子供との関係で悩みが深いということを実例も挙げてお話しいただいたと思うんですが、そういう、今の子供たちが抱える、田中公述人の言葉によれば緊張や不安やおそれ、いら立ちというようなことを、やはりなかなか大人たちが受けとめ切れてないんじゃないかというような話は、私は、当委員会の審議の中では、大変新鮮に実はきょう受けとめたところです。

 きのう、またまた、会津若松で高校三年生の悲惨な事件が起きておりますけれども、あの事件そのものはそれとしての解明が要ると思いますけれども、やはり、子供たちのいろいろなサインがだんだん極端な形でしか発せられなくなっているんじゃないかと私は思っているんですね。日本の教育の一つのあらわれ、競争や管理がやはり強まっているということを私はこの問題の背景として感じざるを得ないんですけれども。

 子供たちが、ありのままに自分を受けとめてくれる大人、あるいは学校、地域、社会全体が、ありのままに自分の苦しいことを苦しいと言っていいんだよというふうにやはりなってないんじゃないかと私は思うんですけれども、その辺の問題につきまして、先ほどちょっと、公述人として時間の関係で割愛されましたけれども、危機的状況の深さというところをもう少し、今子供をめぐってどういう問題になっているのかということをお話しいただけたらと思うんですが。

田中公述人 先ほど省略した部分ですが、教育基本改正法案の論議や教育三法案の論議が国会でされているこの一年の間にも、本当に日本の人々が心配するような子供の事件とか親子の関係の問題が顕在化してきたというふうに思います。例えば、秋田の能代での、近隣の小学生を殺してしまって、それをきっかけに自分の娘もあやめていた若い母親がいたというふうなことが露呈しました。あるいは奈良では、両親が医者の家で、お父さんにひどくしごかれた息子が家を焼いてしまって、母親や兄弟を死に至らしめてしまった、そういう出来事がありました。

 そういうのは全く象徴的なことですが、僕は今、子供の不安定の背後に、教育の問題だけではなくて、今の日本の社会の危機というか、そういう問題があるというふうに思っています。

 例えば、競争、自己責任を強調してきた新自由主義的な諸施策がもう四分の一世紀にわたって推進されてきた。あるいは雇用の不安定化、あるいは福祉、医療、教育などの商品化が進行し、格差も増大してきた。その中で、いわば勝ち組の子供も負け組の子供も、生きて成長していくプロセスで非常に複雑な傷を負うというか、そういう問題が発生してきているんじゃないでしょうか。精神医学の領域では、そういう心的外傷を負った場合に、非常に複雑な依存性と攻撃性を自分や他人に向ける、そういうことが明らかになっています。

 ですから、僕は、ぜひこれからの論議でもお願いしたいことは、子供の不安定の原因を教育問題だけに帰するのではなくて、社会のこの不安定、人間と人間とを切り裂いていく社会、そういう社会にしてきた日本の諸施策、そういうものをぜひ国会の場で、このこととあわせて論議していただければというふうに思っております。

 それともう一つは、これは先ほど資料としてお送りしたプリントなんですけれども、これは、全国公立学校教頭会の「学校運営」という機関誌に求められて書いたものですが、今お話ししたような、非常に子供が不安定を示すという動きを教師がどう受けとめたらいいか、それがすごく大きな問題になっているという中で、先ほど言いましたように、子供の、一人一人の置かれた内面や生育史を理解して、その子供を全体に支える教育実践を自分の頭で考えたい、そういう教育計画を校長の求めに応じて出したら、これは数値目標が出ていないからだめだというふうに返されるというか、そういう問題が出てきているわけです。

 先ほど穂坂公述人が言われたように、自治体と政府の間でのマニュアル化という問題だけじゃなくて、政府が教育目標を示し、それの達成の競争を地域や学校や教師に課すということが、実は、非常に形式的な目標達成の計画を教師に書かせて、目の前の子供を見て、自分でその子にふさわしい教育計画をつくる、あるいは同僚と相談してつくるということがむしろ妨げられてきている、そういう現実が広がってきているというふうに僕は思っています。

 それは、教師が悪くて広がってきているよりも、この間、国家が教育の目標を示し、そして全国的な競争を組織するというように進めてきた教育改革の実態がそういうものを僕は招いてきたというふうに考えていますし、今回の三法もむしろそういうものを加速するのではないかというふうに心配をしております。

石井(郁)委員 田中参考人にもう一点伺いたいと思うんですが、今の話に関連いたしまして、先ほど世界の教育改革の動向ということも触れられましたので、今、日本がとっている、そういう管理目標を学校現場に押しつけるというか実践させるというようなやり方、そして競争が非常に強まっていくというようなやり方、これが本当に世界から見て、世界ではこういう方向をとっているところが、一体どこがどのようにあるのかというような問題として、もう少し補足をしていただければと思いますが。

田中公述人 安倍首相が、美しい国、日本ですか、あの本で、イギリスのサッチャー政権のことをモデルにされていますが、まさにサッチャー政権は、国家が教育の目標を示し、全国的なテストを行いというふうなことをとってきたんじゃないでしょうか。しかし、今、そういう矛盾が露呈してきていて、それをどういうふうに是正するかということが大きな問題になってきていて、いろいろな対応が行われている。そのときに、日本の教育改革がなぜ競争と管理の方へ進むのか、これはやはり発達した資本主義国の政府としての見識を問われることだというふうに僕は思っています。

 それから、私自身がこの間調査してきたフィンランドでは、九〇年代に、特に国家の規制を緩めて、そして自治体と学校教職員の、教育内容を創造して、つくるという権限を飛躍的に拡大して、そして学校を、すべての生徒の必要に応ずるということと、発達した情報を摂取し自分の見解をつくっていくためのラーニングセンターにするというか、そのための教師の養成を大学院を含めてやる、そういうふうに教育改革の大きな方向を積み上げてきたと思います。その結果が、PISAのテストのいいのが、それだけでいいとは思いませんけれども、日本の政府も一つの刺激としているフィンランドの好成績につながっているというふうに思います。

 そのフィンランドの方向などは、今の提案されている、政府・与党が提案している教育改革の方向とは正反対であるというふうに僕は見ています。

石井(郁)委員 米浦参考人に伺いたいと思います。

 今、学校の評価、自己評価という形でかなり各学校が取り組んでいるというふうに思いますが、今度の学校教育法の改正の中で、文部科学大臣が定めるところで教育活動、学校運営について評価を行っていく、そして点検もしていくというような項目が書かれております。この問題について御見解を伺いたいと思います。

米浦公述人 文科省が評価基準をつくり、それに基づいて学校を評価する、こういうやり方では、教育現場は混乱することはあっても、学校の教育力を高めるとか、学校をよくするということになるというふうには私にはとても思えません。

 教育という営みは、すぐれて、指導に当たる教師と、それから子供との直接的なかかわり合いの中で行われます。そういう意味では、その学校の教職員と、もちろん子供たち、そして子供たちの保護者、これがいわばその学校の当事者ということになるんですけれども、本当にその学校がどういう課題を抱えていて、どういうことに力を尽くさなければいけないのかということが一番よくわかっているんですね。

 私、つい最近まで埼玉県で仕事をしておりました。埼玉県では、学校自己評価システムというのが導入されて、実施されて三年目になるんですけれども、そのシステムの中に学校評価懇話会という、先生方、子供、それから地域の代表、PTA、保護者、こういう方々で学校評価についての双方向的な議論をするわけですけれども、その中に生徒が参加をして、非常に積極的に、学校をどういうふうにつくっていくかということで大きな役割を果たしているということがあるんです。

 そういう、子供を含めて、教師と子供と保護者、もうちょっと広げて言うと、地域の住民の方々も含めて、その学校の当面する課題、これを明らかにして、それでこういうふうに頑張っていこうじゃないか、こういうやり方をやることで初めて学校はやはり自分たちの問題としてそういう問題に取り組めますので、いい結果をもたらすことができるんではないか、こういうふうに考えております。

石井(郁)委員 評価の問題も、いろいろ考えがあると思いますけれども、本当に、その地域の学校、その学校をみんなでつくっていくという立場で、私は、そのみんなの中に生徒も含めて考える、そういう実践が行われているということはやはり日本の教育のすばらしい発展の一つを示しているというふうに考えているところでございますけれども、今後も議論していきたいというふうに思っております。

 木村公述人に伺わせていただきます。

 木村公述人は中教審に長いことかかわっておられましたし、そういう意味では、教育改革の問題にずっと携わってこられたというふうに思っておりますけれども、いまだに、いじめ問題、非行、学力問題等々、言われているテーマはずっと変わらないんですよね。これは、先日、ある参考人が、四半世紀も続けてきた改革の中でどうなっているのか、教育の安定性、学校の日常性が揺るがされている、教職員の多忙化、教育のゆがみを促進することになっていないかというようなことを指摘されて、はっとさせられてもいたんです。

 今、こうして教育再生ということが安倍内閣のもとで言われているわけですけれども、今の教育がだめだ、教育に問題があると。しかし、もう四半世紀も教育改革というふうに政府は掲げてきたということを考えますと、その中心にいた木村公述人としまして、今の事態をどのようにお考えになっていらっしゃるのか、伺わせていただきたいと思います。

木村公述人 お答えいたします。

 ちょっと言い過ぎかもしれませんが、教育再生会議という名前が出ましたときに、私はかなり抵抗感を持ちました。といいますのは、日本の高等教育は確かにちょっと問題があると自認しておりますけれども、初中教育が本当にそんなに世界的なアベレージで見て悪いのかということについては非常に疑問を持っております。

 私、これで十一年目になりますが、御承知かと思いますが、フルブライト・メモリアル・ファンドという、これは橋本元総理がおつくりになった、クリントン大統領と約束をして、年十億出して、アメリカの先生を毎年六百人呼ぶという大プロジェクトをやっております。ほとんどの方が御存じないのが非常に残念でありますけれども、ことしで六千六百人参ります。二百人ずつに分けて三回来られるんですが、その方たちに、私、一番最初に一時間半お話し申し上げて、大議論をいたします。

 その方たちは、三週間日本にいていただいて、各地へ散って、ホームステイをして、各学校で教えて帰ってきて、最後にフェアウエルパーティーをやってお帰りになる。ほとんどのアメリカの教員が、日本の教育はすばらしい、とにかく自分たちの国は学ぶことが多過ぎるということを言って帰られます。証拠が私の机の中に入っておりまして、もう、恐らく二、三百の、もっと、七、八百通の手紙が入っております。事細かにどういう点がすばらしいかということを述べている方もいらっしゃいます。

 そういうことからすると、私は、ここのところ、教育改革の論議は余りにもネガティブな面から出過ぎているというふうに思います。

 一つは学力問題でありますけれども、私自身は、それほど日本の子供たちの学力が下がったとは思っていない。私は、先ほど申し上げましたように、東京工業大学におりまして三十三年間教えましたけれども、私が大学四年のときと今の大学生の四年の連中の能力がどうかといった場合には、私は、自分の方が進んでおるとは絶対言えません。それはもう、とにかく、英語の能力、それからいろいろなものを分析する能力、プレゼンテーション能力、そういうものは、私の四年生のときよりはるかに今の学生の方がすぐれております。そういうことでいうと、くどいようですけれども、余りにもネガティブな面から出るべきではない。

 それから、初中教育について言いますと、学力問題、ほとんど新聞も報道してくれませんが、平成六、七年、それから十三年、十五年とやりました。十五年にV字回復しているんですよ。それをだれもテークノートしない。それで依然として、学力が下がった、下がった。その一番の根拠は、例のPISAの、読解力の八位が十四位になったということ。これは、問題をちゃんと見ていただいてから発言していただきたい。日本の子供たちが一番不得意な問題なんですよ、あれは。

 ですから、そういうことも割り引くと、私は決して、もちろん全然下がっていないとは申しません、確かに学習に対する、学ぶことに対するモチベーションが下がっていますから、これはもうある程度下がっていることは認めざるを得ない。ですが、それほど、言われるほどではないというふうに思います。

 それから、いじめでありますけれども、これは確かにゆゆしき問題でありますけれども、少なくとも統計的には、字面を見ますと、いじめはずっと減ってきております。先生方、保護者のいろいろな努力によって下がってきております。

 それと、私は、いじめについては、多少英国の事情も知っていますけれども、やはり日本の社会の陰湿さみたいなものがあそこへ出ている。

 例えば、ちょっと話を飛ばしますけれども、先ほど先生の問題が出ましたけれども、日本で今、初中教育について一番問題なのは、保護者が先生の悪口を言い過ぎることなんです。ティーチャーバッシングが多過ぎるんです。そういうことをアメリカの先生に、こういう聞き方をします。あなたの国では担任の先生の悪口を保護者が言うかというと、ほとんどの人がノーなんです。隣のクラスの先生の悪口は言うそうですけれども、担任の先生の悪口は言わない。どうしてだと言うと、それは同志じゃないか、こう言う。やはり、そういう感覚が日本にはない。とにかく人の悪口を言う。

 例えば、この間も申し上げたんですけれども、若い社員が、夜、酒を飲むと必ず言うのはボスの悪口。英国で経験がありましたけれども、英国は、悪口は言いますけれども、だけれども彼はこういういいところがあるよと必ず出てくるんですね。やはり、そういう社会にしないといけない。余りにもネガティブな側面から出過ぎているということで、それほど私は心配する状況にはなっていないんじゃないかということで、教育再生という言葉に余り賛成をいたしません。

石井(郁)委員 少し時間が超過いたしましたが、本当に貴重な御意見をいただきました。これからの審議に大いに生かしていきたいというふうに考えております。

 本日は、ありがとうございました。(拍手)

保利委員長 次に、日森文尋君。

日森委員 社民党の日森文尋でございます。

 きょうは、大変長時間、お疲れさまでございますが、もうしばらくでございますので、ぜひよろしくお話をいただきたいと思います。

 最初に、ちょっと小さな話になるんですが、今度の法律改正で、教育課程の問題をめぐって、現行法でいうと、教科に関する事項は文部科学大臣が決めていくんだということになっているんですが、改正法は、教育課程に関する事項は文部科学大臣というふうに、「課程」が入っているんですね。

 これは、解釈をめぐってさまざま論議があるんですが、基本的には、大枠については文科大臣が決めるけれども、しかし、細々したカリキュラムについては学校に編成権があるんだ、学校現場でそれぞれ議論して決めていこうじゃないかというのが大方の解釈だったと思うんですよ。ところが、今度はあえて教育課程に関する事項まで文科大臣だというふうに決めてきたその背景に、うさん臭いと言うと怒られちゃいますが、どうも国の関与を強めていこうという意図があるのではないかという思いがしているんです。

 これについて、木村先生、それから田中公述人と米浦公述人、御意見がございましたら、お話を伺いたいと思います。

木村公述人 うさん臭さは私はなかったと思っておりますが。

 私の解釈はこうであります。

 やはり教育課程というのは一つのフレームワークなんですね。今まで、どちらかというと、旧文部省、文部科学省のやってきたのは、例えば教科の専門部会をつくって、そこで議論したことを上げてきて、トータルでまとめるということをやっていたんですが、そうではなくて、初めにフレームワークを決めよう。例えば読解力が大切なのか、それから、いろいろな、理数に関する理解力が大切だというふうなことをまず大前提に置いて、それでフレームワークを決めて、その後で教科について議論しよう、こういう考えで今やっております。

 そういうことですから、決してうさん臭いということではなくて、まずフレームワークを決めようということから教育課程という言葉に変えたんだと私は解釈をいたしております。

米浦公述人 日森委員が御指摘になった点は私どもも非常に大切な問題だ、重大な問題だというふうに考えております。

 教育課程の、編成する権限と申しますか、それはやはり学校現場に私は置くべきだろう、子供の、生徒の実情をよく踏まえて、教育的な状況も踏まえて、それで学校現場で教育課程を編成していくということが大切だろうというように思います。

 これを、あえて教育課程について文科大臣ということにしていくということは、これは、教育内容に行政権力が、あるいは国家が介入していく、そういう道を開いていくことになっていくのではないかと大変危惧しております。

 以上です。

田中公述人 最初に、国家が教育の目標を設定して、そして教育を管理していくシステムの構築に道を開く危惧を持っているというふうに僕は言いましたが、その一つが、今おっしゃったように、教育課程を文部大臣がというそのくだりは、そういう方に解釈されて、実際運用されていく危険性をはらんだ記述だというふうに僕も判断しております。

日森委員 ありがとうございました。

 それと関連するかどうかは別なんですが、副校長制を初めとした、いわば学校現場にある種のヒエラルキーをきちんと確立しようということになっていて、それは公述人の方の御意見の中でも、突発事態などに対して緊急に対応できるような体制を確保しなきゃいかぬのだという意見も当然あると思います。

 しかし、これは、これまでの学校運営のいわば総括だと思うんですが、私どもは、結局、学校現場、私の姉も大阪でずっと英語の教師をやって、定年退職をしたんですが、ラインよりもいわばスタッフ、それぞれの教師が共働といいますか、協力し合い、支え合い、話し合って、そして現場で結論を出していくという格好で学校運営が成り立ってきたのではないかという気がするんですよ。

 しかし、実際問題、今、先ほど田中公述人のお話にもございましたけれども、教師の仕事は物すごくふえていて、子供と接する時間よりもはるかに、雑務と言うと怒られちゃうけれども、別の仕事が多くて、対応し切れない。十時間、十一時間学校現場にいるというのが当たり前の状況があって、実は、本当にこれまで学校運営を支えてきた、そういう、スタッフで、共働で、ともに働きながら学校現場を支えてきたということが崩されているんじゃないかという思いがしているんですよ。

 そういう意味からいうと、そこの総括をきちんとしないで、副校長であるとかという、ヒエラルキーを貫徹させて、いわば統制管理という側面が当然あるわけで、これで現場を何とかしようというのはある意味ではやや違うのではないかという思いがあるんですが、これについて、特に二十五人学級をやってきた穂坂公述人、それから田中公述人、米浦公述人にそれぞれ簡潔に御意見を伺いたいと思います。

穂坂公述人 教育現場が猛烈に忙しいというのはもう事実です。私も親族に小学校の校長先生から一般教諭から中学校の教諭から全部いますが、大学教員も全部合わせて、一番小中学校の先生が忙しい、こう言って間違いないと思うんです。

 ただ、だれもいなくて自由にどうぞというのもおかしな話で、やはり一つの組織である以上、きちっとした統制をしなくちゃいけないというのはあると思います。マネジメントは絶対必要だ。

 ただ、そのことと今の忙しさとやはりきちんとしないと、片方は目をつぶって片方だけというのも、これはよくないんじゃないかと思います。

田中公述人 これは、本当に世論の大多数もそこにあると思いますが、基本的に、学級規模を減らすというか、そのために教員をふやすというか配置するということを国として本気に取り組まないといけないんじゃないでしょうか。そのことを抜きにして、さまざまな管理的な職種を教員の中に置いていくと、本当に今の学校現場は、子供に向き合って対応する教員が、全体的に教員が減らされる中でなお減っていく、そういう問題が構造的に起こっているというふうに思います。

 ついでに言っておきますと、数量化した教育目標を書類として教育委員会に上げなければならないとか、そういうような今の教育改革の目標管理というか、そういうものが現場に浸透していって、今までになかった形式的な書類づくりに教員たちが新たに追われるようになっている、そういう問題もあります。

米浦公述人 副校長とか主幹教諭とか指導教諭をそういうふうに、いわゆる中間管理職を置いて、ふやしていくということで、だれがそういうことをやってよかったというふうに思うのかというところをやはり見ていく必要があると思うんですね。私は、それが校長にとってよかったというんじゃ、やはりうまくないと思うんですよ。それはやはり、そこの学校に学んでいる子供たちにとってよかった、子供たちの健やかな成長発達を願っている保護者にとって本当によかった、そういうやり方をしないといけないと思うんです。

 その意味で、最大の問題は、やはり今も指摘がありましたけれども、学級規模の縮小、三十人学級の実現、それから教員の増員、こういうことでやっていかなければいけないだろうと思うんです。

 学校は、今でも校長はおりますし、教頭もおりますし、それから、先生方がみんなそれぞれの役割を担い合って、校務分掌と言っておりますけれども、そういう校務分掌で、主任の先生もみんなで選んで、それで協力して集団的に力を合わせていろいろな問題に取り組んでいこうということでやっているわけですから、そういった一つ一つの学校の実情に合わせた、そういう協力と協同の体制を教育行政はむしろ支援したり応援するということがとても大切なんじゃないかというふうに考えております。

 以上です。

日森委員 ありがとうございました。

 続いて、教員免許の問題、それぞれ先輩の議員さんもお触れになりましたが、やはり気になっています。

 一つは、現行の研修制度もあるわけですね。これが穂坂公述人は不十分だということを添付文書でもおっしゃっていました。それぞれが今のままでは不十分ではないかという意見があると思うんですが。問題は、今の不十分さをどう補強していくかという議論ではなくて、一気に教員免許の更新制というところに踏み込んでしまったということに大変大きな問題があるのではないかと私は思っているんです。

 例えば、現行の研修制度の中でも、一%に満たなかったと思いますが、〇・数%は、括弧つきになりますが、問題教師というのがやはりありまして、この方々についてはそれぞれ、適切かどうか、十分であるかどうかは別にして、再研修があるとか、あるいはちょっと問題の大きい教師はもう任用しないとかということが行われているわけですね。そういう意味では、不十分だけれども、しかしそれなりの機能を果たしてきた。

 大多数の教師は、しっかりと子供と向き合ってやっていこうという意欲に燃えているわけですよ。にもかかわらず、免許更新というところに踏み込んでいってしまったということで大変疑義を感じているというか、私の方はちょっと不満があるんですが、今の研修制度、どこが問題で、どう改善していけば実は教師のリニューアルが可能になっていくのか、なぜ踏み込まなきゃいけなかったのかということについて、それぞれ公述人の方から簡単に御意見を伺いたいと思います。

木村公述人 先ほど私の主張は述べさせていただきました。一つだけ指摘し忘れたことがありますので、それを指摘させていただきたいと思います。

 先ほど申し上げましたように、やはり今、日本の公教育における大問題は教師不信です、教師不信。もう既に十年研修をやっておりますけれども、依然として教師に対する信頼感が増さない。そういうことからいっても、十年で更新をするということによって、やはり保護者あるいはほかのステークホルダーの信頼もかなり増すんではないかということ。

 それから、もちろん研修制度自体は立派な制度でありますけれども、どうしても緊張感という面では欠けるところがあるということで、こういう新しい制度をつくって、先ほど申し上げましたが、リフレッシュする、本人にもリフレッシュしていただいて、また、免許を更新すれば、あっ、あの先生は免許を更新したんだなということを世の中がわかるようにする、そういうメリットが非常に大きいんではないかと私は思います。

山極公述人 今度の教員の免許更新制は教員の免許状に係る問題でありまして、先ほど言いましたように、やはり時代も変わっておりますし、教育を取り巻く課題も山積している、教師が常に資質能力を更新していかなきゃいけない。では、免許状はどうあったらいいか。免許状の性格というのは、一定水準以上を保持する、公証する、公にする、そういう性格を持っている。であれば、その免許状そのものも、先生方がその時々で教員として必要な、最小限必要な資質能力をやはりそこで身につけてもらう、そういう面での更新制です。

 ですから、そういう最小限必要な資質能力を身につけた教員がその上に立って研修をしていく、個人個人の特性等に応じて研修をしていく、これはもう絶対必要なことなんですね。そこのところをきちっと分けていただいて、研修か更新か、そういう問題ではないんだということです。よろしくお願いします。

穂坂公述人 先ほどもちょっと触れたんですが、一つは、私は県の立場と市町村の両方経験しました。

 県は一括採用して市町村に派遣しますよね。すると、県は自分の事業ではないんですね、自治事務じゃないんです。自治事務は市町村なんです。すると、もちろん理念的には義務教育は大事だなと思っていても、より自分のところの自治事務に傾斜するのは当たり前ですよね。ですから、一定の決められたことはやりますが、あとは市町村にとなります。

 今度は、市町村の方では、やろうという気持ちはあるんですが、やはり、やって、少ない住民税、市民税を使ってやって、すぐその先生が期限が来て行っちゃう。そのときに、もっと、それだけの余裕があるんなら違うところにやってもらってもいいんじゃないかと。ですから、埼玉県でも例えば戸田なんかがやっていますが、やはり裕福なところがやるんですね。私は、これは必然的に出てくると思うんですよ。

 ですから、こういうところを、なぜそうなるのかをまず直すということが私は必要だと思っているんです。

 大多数の先生方というのは、ほとんど研修、もちろん自己研修で、結構行っていますよね、自腹を切って。だから、そういう人はいいんですよ。そうじゃない一握りの方をどうするか。ただ、一握りの方をどうするかという形で今度のようないろいろな改正があると、何か、例えば十年たったときに単に先生方が試験に受かればいいのか。そういう、ある意味では、先生の御意見とは違うかもわかりませんが、やはり教師というのは神聖化された部分がなければ、私は、頭がいいからとか成績がよかったからといって、そんな尊敬されるものじゃないと思うんですね、子供たちはもっと敏感ですから。

 ですから、そういう意味では、今度そういう運用をうまくしないと大変おかしなことになるんではないか、こう思っています。

田中公述人 先ほど申し上げましたように、教師に自主的な研修が非常に必要であるということと、それを励ますような援助の仕組みをつくっていかなきゃいけないということと、なぜ更新制とがセットにならなきゃいけないのかということについては、僕は、最初に言いましたように、大きな疑問を持っていますし、納得できる説明がされているようには思えません。

 もう一つ、十年研修などで既にやられているわけですが、その研修が極めて形式的で、悪い意味での実務的で、今までやられているものはですよ。おおむね、それをやったからといって教師の力量が飛躍的に伸びるとかそういうものではない。もし十年研修を、更新制と結びつけないで、教師をリフレッシュさせるためにやるというのであれば、今までの十年研修のあり方は大幅に変えられないといけないというふうに思います。

 さらに、もう一つだけ言わせてもらいますと、医学の分野でエビデンス・ベースド・メディシンというのがありますが、それは、本当に数量化した目標を掲げて、この薬を与えればどれぐらい血圧が下がったかとか、そういうことをはっきりさせていくようなことが必要だというふうに言われていますね。

 それは、ある部分そうだと思いますが、教育の世界の場合、例えば三年生で平仮名を読めない子がいたら、その子をどうドリルして平仮名を読めるようにするかというだけでは済まないわけで、三年生になるまで平仮名を読めないできたその子がどんなに不便な思いをしてきたかとか、周りの人からいじめられたりして傷ついてきたか、それを全体的にどういうふうに受けとめて、安心させて、自尊心を回復させていくか。その全体的なプログラムの中で、読み書き算、平仮名の読み書きをどう回復していくか、そういう教育実践を構想しないといけないわけですね。その専門性とか計画性というのは極めて複雑で高度なものだというふうに思います。

 数量化されるのは一部分ですから、僕は、例えば十年研修とか、不断の研修の中で、個々の能力をどうドリルするかというような技法の訓練ということだけではなくて、今言ったように、子供を全体的に理解して、その子供が人間として必要とする実践を全体的に構想する能力をそのときにふさわしく教師が鍛え直していくというか、そういう研修ですから、そうなると、相当内容が、それにふさわしく高度で、しかも実践的なものでなければならないということになるんじゃないでしょうか。

 そういう研修の中身をどういうふうにしていくかというふうなことを考えていくことが非常に大きな課題になっているんじゃないかと思います。

米浦公述人 私は、教員の特性ということで挙げるとしたならば、専門性、それから協同性、そして自主性、ここの点、この三つを挙げたいと思うんですけれども、このこととかかわって、現行の研修のありようというのは大変問題があるのではないか。

 それで、身分を不安定にするような形での免許更新制は決して教員の教育的力量を高めることにはつながらないということは既に申し上げたとおりであります。それで、私は、教育的力量を高める上で決定的に重要なのは、子供とのかかわりをやはりたくさん持ってもらうということだと思うんですね。

 そういう意味で、私が今大変問題だと思っているのは、全国的に、例えば初任者研修とかあるいは十年研修などと学校行事がぶつかった場合、修学旅行とか林間学校とか、これはもうほとんど研修の方に出席することを優先して、学校行事に参加させない。私は、こういうやり方は絶対に、さっきの教員の特性ともかかわって、教員の教育的力量を高めることにはつながらないというふうに思うんですね。

 それから、学校職場で教職員相互に、自由に相互批判をしながら学び合って教育的力量を高めていく、これが、やはり今非常に忙しいとか多忙化とか、先ほどの話じゃありませんけれども、雑務がふえるとかという状況の中で、できなくされているということ。

 それから、もう一つ挙げさせてもらいたいのは、いわゆる自主研修といって、長期休業中、夏休みとか学校が休業中に、先生方が自由に、自主的に、自分の専門性を高めるために大いに研修するということが今むしろ制約をされてきている。自由にそういうところへ出かけていってはいかぬとか、自分の研究をどこそこに出かけていってやるということはだめ、学校にずっと何時から何時までいないとだめなんだというような形で、そういうことになってきている。

 そういうことはやはりあるべき姿ではなくて、教員の自発性、自主性を踏まえたそういう自主的な研修を行政はうんと奨励、激励するということが今とても大切なんじゃないか。そういうふうに改善していかないと、教師の教育的な力量が高まるというふうにはなっていかないだろうというふうに思います。

 以上です。

日森委員 どうもありがとうございました。

保利委員長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党の糸川正晃でございます。

 本日は、公述人の皆様方におかれましては、大変貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございます。私も、二十分の持ち時間の中で質問させていただきます。私が最後の質疑者でございますので、どうぞ忌憚のない御意見を賜れればと思います。

 まずは、穂坂公述人にお尋ねをさせていただきたいと思います。

 私は、昨日のこの委員会の参考人の質疑におきまして、京都市の教育長さんに、これらの今回の改正案においてどの点が足りないのかというような質問をいたしました。そういたしましたら、裏づけになる教育予算の充実、この必要性について意見をいただきました。地方公聴会においてもこのような意見が多数出されたというふうに聞いております。

 教育の地方分権の必要性と、必要な財政上の措置、これは国が責任を持って行うべきである、このような意見の、両論というんでしょうか、こういうものがあるわけではございますが、一方において、教員の給与については、昨年度より国庫負担率というものが二分の一から三分の一に引き下げられたわけでございます。また、行政改革推進法では教員の数が削減される方針である、こういうようなことも盛り込まれておるわけでございます。

 まず、穂坂公述人には、市長としての経験から、教育に必要な予算の確保方策についてどのようなお考えをお持ちなのかお伺いしたいのと、特に予算面での国の関与のあり方について御意見を賜りたいというふうに思います。

穂坂公述人 教育予算は大変厳しい、もっとやはりふやさなくちゃいけないというふうに現場は思います。

 例えば、志木市でも、できるだけ学校の自主性を尊重しようということで、二十五人程度学級、うちは程度なんですが、きちっと決めないで、大体二十から二十九人を一クラス、そういうことを初めてやったんですが、そのときの財源は、うちでもお金がないものだから、物すごく苦労しました。要するに、全部の事業をスクラップ・アンド・ビルドしたり、あるいはもう一度市民の目から見直してもらったり、そしてそのことによって、市民が教育にそのぐらいかけてもいいじゃないかというコンセンサスをもらった上でやったんですね。すごく大変でした。

 同時に、学校に、どうぞ自由に使ってくださいと、やはり決められたことで予算を使うというのは校長の権限がどうしても行使できなくなるということで、小学校は幾らとか中学校は幾らとか、自由に使えるお金でやりました。ところが、どこも同じで、全部臨時の先生方を雇っちゃうんですよ、小学校も中学校も。ですから、その実態を見ても、よほどやはり現場の先生方、事務方も含めて、足らないんだなというのをもう実感しています。

 ですから、ぜひ、実態面でそういうのがあらわれているんですから、今度のそれぞれの法改正がどうなるかは別として、もっと、義務教育をしっかりしたものにするんだったら、いろいろな制度をいじるのはいいんですが、予算もやはりきちっとやるべきだな、こう思っております。特に、義務教育費の国庫負担はしっかり国がやるべきだと思っているんです。

 ただ、京都は、私も何度もあの方とはお会いしていますが、政令指定都市でしょう、ですから全く派遣制度なんかないんですよ。しかも、都道府県と近く権限を政令指定都市は持っていますので、教育については結構自由にできるんですね。

 ところが、市町村になってきますと、さっき言った、例えば県がこうしなさいよとささやかに言われても、しっかり守らないとまずいんです。なぜかというと、先生方を全部、派遣会社ですから、しかも上級官庁でしょう、志木市が余り文句を言うと、どうもおたくは生意気だからと言って、それぞれの、全県下から、こっちの南部なら南部の方の人のちょっとというのをみんな集められたら、志木市の義務教育自体がおかしくなっちゃう。ですから、教育長なんかも物すごいそれを心配するんですね。市長、県にはできるだけそういうことをしないようにしてほしい、実態で子供がかわいそうだと。しなくてもおどかされるんですよ。

 ですから、そういう意味ではやはり京都とは断然違う、このこともやはり理解をして、その他の基礎的自治体を見てもらった方がいいのではないか、こう思います。

    〔委員長退席、中山(成)委員長代理着席〕

糸川委員 ありがとうございます。

 では、木村公述人、山極公述人、米浦公述人に、今のに関連をしておりますけれども、現場教員の意見を代弁する立場から、予算における国の責任のあり方及び予算とリンクした国の教育への責任の果たし方について、三人の公述人の皆様から御所見をお伺いしたいと思います。

木村公述人 日本が世界一の債権国になっているという状況で、私も、経産省の委員会に出ておりますので、それはつぶさに知っております。その中で、なかなか発言しにくいんですけれども、やはり教育には絶対に金をかけるべきであると私は確信をいたしております。それも、国の責任でやるというべきであろうと思います。

 ちなみに、私、先ほども申し上げましたように英国の事情をかなり知っておりますが、ブレア政権の間に、子供一人当たりに対する教育費が実に一・五倍にふえております。高等教育に関する費用もここのところ二〇%から三〇%、まあ授業料を取るようになりましたけれども、二〇%から三〇%ふえております。私は絶えず日本とイギリスというものを比較しておりましたが、一時は、私が最初に行きましたのは七一年ですから、英国が非常に経済不調だったときに、ああ少し日本も追いついたなと思ったんですが、事教育に関してはますます差が開いているというふうに思います。彼我の差はもう大変なものになりつつあるというふうに考えております。

 そういうことで、ぜひ国の責任で教育に対する財政措置を講じていただきたい。恐らく、このままいきますと、正直申し上げてこれはえらいことになると思うのが私の印象でございます。

 ちなみに、明治の初めに、高等教育機関、昔の、札幌農学校の前身の開拓使仮学校でありますとか、東大の前身の工部大学校、それから一橋の前身の商法講習所、こういうところへ五百人のお雇い外国人教師を呼んだわけですね、先生がいないと。そのうち三百五十人が英国から来ましたが、そのほとんどに、当時の伊藤博文首相よりも高い給料を払っているわけです。それをやっただけに物すごい一流の人が来た。クラークさんもその一人でありますし、エアトンとか、それからヘンリー・ダイアーとか、本当にすばらしい仕事をした人を呼ぶことができている。

 やはりこれを範にして、私は、正直申し上げて、今、日本がここにあるのは、この状態にあるのは、そのときの教育投資にほかならないと思っています。その後、サブスタンシャルな教育投資はしていないんじゃないかとすら思っておりますので、教育投資については絶対に国の責任でやるべきだと確信いたしております。(拍手)

    〔中山(成)委員長代理退席、委員長着席〕

山極公述人 今の公述人と同じで、国の関与はけしからぬとかいろいろとありますけれども、実は、国の教育、義務教育は特にそうですけれども、やはり、予算面にしても何にしてももっと国が、遠慮し過ぎると思うんです、僕は個人的に。

 例えば、私は木村さんと同じ理数系の者ですけれども、今何とか先生方が頑張っていますので、OECDの学力テストなんかも、結構、三位ぐらいに入っていますけれども、実際に、理科の実験施設、あれは日本では理振法という法律でもってやっていますが、あれはどんどん減って、今や風前のともしびで、財務省は、あれはもう早くやめろというような感じにあるわけです。

 しかし、戦後あれができて、そして、多くの先生方があの理振法の機材を使って、どれだけ多くの子供たちを、科学が好き、何も科学者になるだけがすべてじゃありませんけれども、そういう方面に向かっていったか。それで、どれだけの経済の大きな発展に寄与したか。それが、今になって理振法の予算すらどんどん減らされて、今もうなくなりつつある。ましてや、中高等学校においても、あるいはICT関連の予算にしても、非常に、むしろインドとか中国の方がはるかに今充実している段階。

 そういうふうにして見ると、何も理科だけじゃありませんけれども、そういう面でもっともっとやはり国がぜひ頑張っていただきたい、こう思います。

 それから、何もお金さえあれば教育はすべてうまくいくということじゃもちろんありません。そのために今度の三法というのは、教員の質の回復、あるいは教育制度の責任とか学校教育内容の充実、そういった総合戦略の中でやはりこれからの日本の教育をさらに発展させていくべく、ぜひこの三法を通過させていただきたい、こういうふうに思っております。

 以上です。

米浦公述人 OECD、先進三十カ国の対GNP比が、教育費、びりから二番目、こういう統計も出ております。

 私は、国はもっと思い切って、これだけの経済力のある国なんですからお金を出していかなければいけないのではないか、そして、教育の目的を達成するための条件整備、確立に貢献する必要があるんじゃないか、こういうふうに考えております。

糸川委員 ありがとうございます。

 各公述人の皆様方は、予算は国が責任を持つべきだという意見で一致しておるわけでございます。この委員会、元大臣がそろっておりますので、その辺をしっかりと聞いていただいて、また今後の委員会の参考にさせていただきたいと思います。

 時間も余りなくなってまいりましたので、全員の方にお尋ねをしたいと思います。

 昨年の未履修問題におきまして、知事部局が所管いたします私立学校においてはより多くの未履修の実例があったわけでございます。この未履修問題は、学習指導要領に基づいて授業が行われなかったこと、また、それをチェックできなかったところに原因があるわけでございます。

 教育の地方分権を今後進めていったときに、子供たちの学ぶ権利の保障、それから、最低限の知識を身につけられるようにするためのナショナルミニマム、これを確保するためにどのような方策が有効である、どのような方策をとるべきだというふうに各公述人の皆様方はお考えでしょうか。

木村公述人 先ほど申し述べさせていただきましたように、未履修の問題の裏には、大学受験という非常に厳しい状況、日本の国民が全員興味を示すような状況があります。

 そういうことでいうと、この未履修の問題を今後ともなくしていくというのは私は非常に難しいのではないかというふうに思います。形を変えてまた出るのではないかというふうに思っております。東京都では、前からそういうことをある程度予想しておりまして、かなり詳しく調べるシステムをつくっております。私立学校についてどうなっているかということはちょっと私存じませんので申し上げられませんけれども、少なくとも公立学校については今後とも徹底的に調べていく。

 もちろん受験というものがありますけれども、しかしルールはルールですから、きちんとやっていかなきゃいけない。と同時に、先ほど話題になりました、教育課程の編成の方法もやはり少し工夫する必要があるのではないか。つまり、幅を持たせて、がちがちにしないということも考えるべきではないかというふうに思っております。

 それから、私立学校については、今度、若干、地教行法が変わりまして、私立学校についての措置も変わりましたので、それが効果を発揮してくれればいいなと私は個人的に思っております。

山極公述人 未履修の問題については、その前提として、やはり、国民が選んだこの国会で決めた法律、あるいはそれに基づく政令とか省令、そういった法律を私立であろうと基本的には守る、この精神がなければいけない。私立だから、建学の精神、何をやってもいい、こうはいかない。やはり、一種の公教育の一翼を担っている、これがまず前提にあると思うんですね。

 それから、やはり、結局、特に進学校なんかは、どうしても受験に対応した教育をやる、そのために、必要なものをやらない。例えば、世界史というのが一番出ていましたけれども、小坂先生御熱心にやっておりますICTなんというのも余りやっていない。

 そういう高等学校の姿勢、それは、たとえ進学が多い高等学校であっても、その学校でやるべきは、大学準備教育をしっかりやっていないからなんです。大学準備教育というのは、大学に入ってどういう資質能力が本当に必要なのか、であれば、高等学校でその基礎として何が必要なのか、この理念がなさ過ぎるんですね。であれば、たとえ理系であろうと、やはり世界史とかICTなんというのはしっかり基礎としてやっておかなきゃいけない、こうなるわけです。現実は、大学準備教育ではなくて大学入試準備教育に陥っているということなんです。

 そういう考え方、それは結局、きょう朝からやっています教育基本法の理念、学校教育法、学習指導要領、教育課程、先生、学校活動、こういう一つの理念、ミッション、そういったものが現場に伝わり、そして何のために教育をするのか、どういう人間形成をするのか、そういったことをしっかりとしていく。そういう面では、今度の改正教育基本法、学校教育法等々今回の三法案、まさに非常に実りあるものではないか、こういうふうに思っております。

 以上です。

穂坂公述人 未履修の問題もそうでありますが、同じだと思うんです。先ほど申し上げましたように、国のやるべき責務、都道府県あるいは市町村、みんな分かれているわけなんですよ。

 例えば、今の未履修の問題は、明らかに大学の入試科目にあるわけですよね。理想論で幾ら声高に言ったって、普通の子供、お父さん、お母さんにすれば、どうしたって、やはり進学という現実がある以上、やむを得ないんですね。ですから、その辺、国が、国の関与すべき問題と、地方なら地方に、実施主体に任せる問題と、やはりきちんと分けるべきだと思うんです。大学入試の科目については、都道府県だって市町村だって、物は何も言えないんですよ。ですから、物が言えないということは、やはり国がしっかり関与して、しっかりするべきだと思うんです。

 ですから、そういう点では、この未履修の問題は、都道府県の教育委員会がおかしいんじゃないかというのと同時に、やはり国のやるべき仕事を、そこのところを落としていたな、そういうふうに見ることがいいのではないか、お互いの責任があるのではないか、こう思っています。

田中公述人 この国際化し情報化した非常に変化の激しい時代の中で、今の日本の子供たちがどの程度共通の教養を小中高の間に獲得すべきなのか、その合意が、余り政治とか行政によって直接左右される仕方でなくて国民の合意が形成されるというか、そういう仕組みがつくられるということがこの問題では非常に大事なことであって、例えば、文部省と別に、中央教育課程委員会とかそういうものがつくられて、そして、それぞれの学問の分野の人々や教育の専門家や実践家の知恵がそこに結集してくるというか、そういう点での合意をつくり直していくというか、そういうことが根本的に問われている問題だというふうに僕は見ています。

米浦公述人 未履修の問題については、背景として、受験競争の過熱化、そういう競争の教育の問題、過熱化があるだろうと思います。これがやはり是正されなければいけないだろうということをまず申し上げたいというふうに思います。

 それで、いわゆる学習指導要領を大綱的な基準として押さえた上で、それぞれの学校に教育課程の編成をする上での自主性を保障していくということが大切なのではないかというふうに思います。

 国としては、私学についても三十人学級を援助、保障するということを含めて、私学での教育を充実させるために、私学助成などを含めてもっと、公教育を担っているわけですから、ここに対する取り組みをそういう意味で強化されていかなければいけないのではないかというふうに思います。

糸川委員 ありがとうございました。

 時間が参りましたので質問を終わりますが、きょうは、特に予算のことにつきましては、与野党問わず、今後議論をしっかりとしてまいりたいと思います。ありがとうございました。終わります。

保利委員長 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、公述人各位に一言御礼を申し上げます。

 公述人の皆様には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

 これにて公聴会は終了いたしました。

 午後一時から委員会を開会することとし、公聴会は、これにて散会いたします。

    午後零時十三分散会


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