衆議院

メインへスキップ



第1号 平成21年4月21日(火曜日)

会議録本文へ
本小委員会は平成二十一年三月四日(水曜日)委員会において、設置することに決した。

三月四日

 本小委員は委員長の指名で、次のとおり選任された。

      井上 信治君    上川 陽子君

      鴨下 一郎君    川条 志嘉君

      後藤 茂之君    清水鴻一郎君

      西川 京子君    林   潤君

      福岡 資麿君    三ッ林隆志君

      郡  和子君    園田 康博君

      藤村  修君    山井 和則君

      桝屋 敬悟君    高橋千鶴子君

      阿部 知子君    糸川 正晃君

三月四日

 三ッ林隆志君が委員長の指名で、小委員長に選任された。

平成二十一年四月二十一日(火曜日)

    午前九時開議

 出席小委員

   小委員長 三ッ林隆志君

      井上 信治君    上川 陽子君

      鴨下 一郎君    川条 志嘉君

      後藤 茂之君    清水鴻一郎君

      西川 京子君    林   潤君

      福岡 資麿君    逢坂 誠二君

      郡  和子君    園田 康博君

      藤村  修君    山井 和則君

      桝屋 敬悟君    高橋千鶴子君

      阿部 知子君

    …………………………………

   議員           山内 康一君

   議員           冨岡  勉君

   議員           金田 誠一君

   議員           阿部 知子君

   参考人

   (日本医科大学付属病院副院長)

   (日本医科大学大学院教授(侵襲生体管理学))   横田 裕行君

   参考人

   (日本弁護士連合会人権擁護委員会特別委嘱委員)  光石 忠敬君

   参考人

   (元国立小児病院小児医療研究センター名誉センター長)           雨宮  浩君

   参考人

   (大阪医科大学小児科学教室准教授)        田中 英高君

   参考人

   (青山法務事務所所長)

   (海外渡航による心臓移植経験者)         青山 茂利君

   参考人

   (財団法人日本宗教連盟幹事)           斎藤 謙次君

   厚生労働委員会専門員   榊原 志俊君

    ―――――――――――――

四月七日

 小委員林潤君三月十一日委員辞任につき、その補欠として林潤君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員井上信治君及び園田康博君三月十八日委員辞任につき、その補欠として井上信治君及び園田康博君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員山井和則君同日小委員辞任につき、その補欠として岡本充功君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員岡本充功君同日小委員辞任につき、その補欠として山井和則君が委員長の指名で小委員に選任された。

同月二十一日

 小委員林潤君及び園田康博君同月八日委員辞任につき、その補欠として林潤君及び園田康博君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員井上信治君同月十五日委員辞任につき、その補欠として井上信治君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員川条志嘉君、阿部知子君及び糸川正晃君同月十七日委員辞任につき、その補欠として川条志嘉君、阿部知子君及び糸川正晃君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員郡和子君同日委員辞任につき、その補欠として逢坂誠二君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員逢坂誠二君同日委員辞任につき、その補欠として郡和子君が委員長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案(中山太郎君外五名提出、第百六十四回国会衆法第一四号)

 臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案(石井啓一君外一名提出、第百六十四回国会衆法第一五号)

 臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案(金田誠一君外二名提出、第百六十八回国会衆法第一八号)


このページのトップに戻る

     ――――◇―――――

三ッ林小委員長 これより厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会を開会いたします。

 第百六十四回国会、中山太郎君外五名提出、臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案、第百六十四回国会、石井啓一君外一名提出、臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案及び第百六十八回国会、金田誠一君外二名提出、臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案の各案を一括して議題といたします。

 本日は、各案審査のため、参考人として、日本医科大学付属病院副院長・日本医科大学大学院教授(侵襲生体管理学)横田裕行君、日本弁護士連合会人権擁護委員会特別委嘱委員光石忠敬君、元国立小児病院小児医療研究センター名誉センター長雨宮浩君、大阪医科大学小児科学教室准教授田中英高君、青山法務事務所所長・海外渡航による心臓移植経験者青山茂利君、財団法人日本宗教連盟幹事斎藤謙次君、以上六名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず本小委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に、参考人の方々から御意見をそれぞれ十五分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際は小委員長の許可を受けることになっております。また、参考人は小委員に対して質疑することができないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 それでは、まず横田参考人にお願いいたします。

横田参考人 日本医科大学の横田と申します。本日はよろしくお願いします。

 資料の確認をさせていただきます。A4のとじたものと、あとA4の一枚があります。逐一、お話ししていきたいと思います。

 私が本日ここにお招きいただいた大きな理由としては、救急医療の現場あるいは脳神経外科の現場では、脳死の判定というのはどのようになされて、どのような問題があるかということを多分お話しするという使命だと思います。ということで、十五分以内でお話ししていきたいと思います。

 まず、私の資料の一ページの下の部分、これは平成十八年二月二十一日に、日本救急医学会、これは私どもが加盟しています、救急医約一万余名の先生方が参加している学会でありますけれども、見解の提言としてこの三つを、脳死の判定とその判定後の対応ということで公表しております。

 その一番目としては、脳死は人の死であって、それは社会的、倫理的問題とは無関係に、純粋な医学的な問題、すなわち、脳死の診断というのは科学的になされるものだということであります。ただし、二番目に書いてあるのは、脳死の診断をした後の対応に関しては、やはり患者さんの家族や患者さんの生前の意思を参考にして対応すべきだというふうなことが書かれてあります。それから三番目としては、学会としては臓器移植を妥当な医療と認識している、そういうことが書かれています。

 ということでありまして、二ページ目をめくっていただくわけですけれども、脳死の判定、我々が判定をする本当の意味というのは、これは臓器提供の有無とは全く関係のないものであって、先ほどお話ししたように、この患者さんが救命できるのかできないのかを診断する行為であります。脳死の判定をして、もしそれで脳死と診断された場合には、これは絶対的予後不良の診断ということでありますので、その旨を家族にお伝えするわけです。その中で、もし患者さんの生前意思及び家族の方々が臓器提供の意向をお持ちだった場合に臓器提供というふうなことがなされるわけで、我々が脳死の判定をする目的は臓器提供のためではないということをお話ししたいと思います。

 実際の脳死の判定の場面を二ページの下に書いてありますけれども、一般的には、経験のある医者が二名以上で行うというのが脳死の判定であります。

 しばしば問題になっていくのが、三ページ目の上の部分の、脳死の判定に網羅されています各種脳幹反射の位置づけであります。

 ここに七つの脳幹反射、左の一番上に「瞳孔の散大と固定」と書いてありますが、これは正確ではありませんので、毛様脊髄反射ということに直していただきたいのです。七つの脳幹反射をしていく中で、例えば、もともと目が御不自由な方、たくさんおられると思います。それから、大きなけがによって鼓膜の損傷を合併してしまったような患者さん、これも大勢おられます。そういった患者さんに関しては、我々、脳死の判定をしようと思っても、残念ながらこの七つの脳幹反射をすることができないので、脳死の判定をすることが現時点ではできません。

 では、ほかの方法がないのかということでありますけれども、次に、先ほど確認していただいた一枚の資料がありますでしょうか。これは、日本では一九七四年の日本脳波学会の脳死判定基準以来、脳死の概念は全脳死の立場をとっているわけでありますけれども、日本の脳死の考え方というのは、不可逆的全脳機能の停止、喪失というふうにも表現されることがあると思いますが、そういうふうな立場で一貫しております。

 この「不可逆的全脳機能の停止」という大きな楕円形がありますけれども、この楕円形の大きさは、別に数の大きさをあらわしたものではなくて、その考え方をあらわしたものと理解していただきたいと思います。その不可逆的全脳機能の停止、すなわち脳死のそういった集合体の一部に厚生省の判定基準を満たす集団がある、それを我々は脳死というふうに診断しているわけですけれども、残念ながら、先ほどお話ししたように、目の損傷だとか鼓膜の損傷で脳死の判定をできない患者さんが中にはおられます。

 そういった場合に、では、脳死の判定は現時点の医学ではできないのかという問題ですけれども、その中に「脳血流停止」というのがあります。この脳血流に関して言うと、ほぼ厚生省脳死判定基準の中に含まれるわけですけれども、一部、厚生省の判定基準で判定できないような患者さんも、脳血流停止のこの部分ですね、厚生省基準で判定できない脳死のところがある、すなわち、もし厚生省の判定基準で脳死の判定ができないような患者さんがおられたとしたら、その補完的、補助的な検査として脳血流というのを位置づけることは可能だろうということであります。

 ちなみに、三ページの下の表が各国の脳死判定基準であります。ちょっと字が小さくて見づらいんですが、例えばカナダでは、各種脳幹反応ができないときには脳血流の検査をする、こういった位置づけがされていまして、脳血流の検査というのはこういう位置づけだと思います。実際の脳血流の検査は、四ページ、五ページに書いてあります。

 ということで、繰り返し申し上げますけれども、脳死の判定に脳血流の検査を必須項目とする必要はないと私は思います。ただ、現時点の判定基準でどうしても判定ができないような場合には、補完的な、補助的な検査として脳血流の検査を位置づけることは、各国の状況から見ても妥当なことではないかというふうに考えます。

 それから六ページの部分ですけれども、これは、平成十八年に救急施設あるいは脳神経外科施設にアンケート調査をした結果でありまして、それによりますと、アンケートを回収した対象施設から年間約千六百一例の脳死の患者さんが出た。意思表示カードを一〇%所持しているということになりますと、単純な計算をしますと、年間百六十例ぐらいの患者様から臓器の提供をいただけるということにはなるんですが、実際、今の数は御承知のとおりであります。

 では、その原因は何かという部分の一端が、次の七ページにあるのではないかと思います。それは、いろいろな問題点の中で、提供施設の負担というのがやはり無視できない。何らかの支援、人的な支援があれば提供できるというふうにお答えいただいた施設が非常に多かったというのも、この七ページの上段のグラフで御理解いただけると思います。これから臓器提供が可能な施設を拡大するという議論のときに、やはりこういった支援のシステムというのはどうしても必要になってくるのではないかと思います。

 ちなみに、七ページの下段の部分ですが、これは、平成十五年から十七年、私が主任研究を務めさせていただきました厚労省の研究班ですけれども、当時で、実は、法的脳死判定、臓器提供の場合には日常の診療に非常に支障を来したという答えが返っています。脳死下の臓器提供というのは、提供施設に負担が全くないということは今後もあり得ないと思うんですが、日常の診療に支障を来すほどの負担というのはやはり考えなくてはいけないと思います。

 ということでありまして、我々は、次の八ページに見られるような、全国の脳外科施設、救急施設を集めて、少しでも脳死の判定に習熟していただこう、あるいはその手続に習熟していただこうといういろいろなセミナーを開催しております。

 最後の九ページの部分ですが、私どもの要望です。

 これから法律が変わって提供の数がふえていく、非常にいいことだと思うんです。ただ、今のシステムのままふえてしまうと、この移植医療というのは社会に信頼の厚い医療でありまして、せっかくの信頼を裏切ってはいけないという部分で、やはり数だけふえていくと、今の手続あるいは支援システムでは提供施設は破綻してしまう。あるいは現時点でのネットワークの人員、非常に今ネットワークの評価が高いことが私の昨年度の研究班でも明らかになっていますけれども、この信頼を継続していくためには、やはり数がふえていくということを前提にネットワークの体制もさらに強化していただきたい、そういうふうに思います。

 最後に、繰り返させていただきますけれども、医療不信が叫ばれる中で、移植医療に関しては社会に信頼の非常に厚い部分であります。この信頼を裏切らぬためにも、いい法律、いい施行細則あるいはガイドラインをつくっていただきたいと心から念じる次第であります。

 どうもありがとうございました。(拍手)

三ッ林小委員長 ありがとうございました。

 次に、光石参考人にお願いいたします。

光石参考人 光石忠敬です。

 平成十八年に一度参考人として意見を述べさせていただきましたが、近ごろ、A、B、C案に、またさらに第四案のようなものが検討されているということですけれども、いずれもどうやら中心は改正A案のようでありますので、それに対する、その根本的な問題について述べたいと思います。きょうは呼んでいただいて、どうもありがとうございました。

 改正A案への動きというものは、結局、脳死臓器移植がふえない、子供の脳死移植ができない、そして臓器の提供を受けるレシピエント患者のための国際移植学会による昨年五月のイスタンブール宣言と、これを追認するWHO総会の本年五月のガイドライン見直し、こういったことで海外への渡航移植ができなくなる移植ツーリズム禁止、そういう外圧に対して改正推進議員連盟などが呼応しているんだろう、こういうふうに思われます。

 そこで、日弁連の意見を基本にしつつ、この近年の動きに基づく改正A案の誤解している点、それから無視している点を根本的な問題点として申し上げたいと思います。

 現行の臓器移植法を多くの患者さんに役立つ法律にしていきたい、こう述べる国会議員は改正A案を支持しているようです。

 レシピエント患者の臓器不足というのは世界じゅうの現実です。脳死を人の死として、本人の意思が不明でも家族の承諾のみで臓器摘出できるアメリカでも、やはり臓器不足のために生体移植がふえている、そして今世紀になって、脳死の患者を含む死体腎移植よりも生体腎移植が多くなっている、こういうことも事実であります。

 一人のドナー患者さんの臓器で多くのレシピエント患者さんの期待が可能になりますから、多くの患者さん云々というふうに述べた議員さんの頭の中には、最大多数の最大幸福という功利主義のスローガンが浮かんでいるように私は思います。

 もともと倫理学説としての功利主義を唱えたベンサムは、最大多数という言葉を削除したんですね。要するに、個人や少数者が犠牲になることを排除したんです。すなわち、個人の犠牲を伴う幸福の極大化は排除しなくてはいけない。

 ところが、日本に来たこの功利主義は、一般的に最大多数の最大幸福と理解されていて、昔、ナチス・ドイツでホロコーストの人体実験を行った医師や科学者たちが、ニュルンベルクの裁判で、みずからの行為を正当化するためにいろいろな弁護をしたんですけれども、その一番根本の弁護が、多数の利益のために少数の利益を犠牲にするのは理にかなっている、こういうことでした。

 多くのレシピエント患者さんの利益のために少数のドナー患者が犠牲になる、無視されるのはやむを得ないという考え方は、どうやらここから出発しているように思います。多数者は、少数者に同情はするけれども、少数者が自己主張して旗印を上げ出すと、少数者の排除、無視に取りかかる、これが真相ではないでしょうか。要するに、レシピエント患者とドナー患者の双方を、人間の尊厳を有する平等の存在と位置づけなければなりません。

 新聞、テレビなどのメディアは、レシピエント患者やその家族の姿を報道するのみで、ドナー患者やその家族の姿はほとんど報道しないですね。報道は難しいんでしょうけれども、その結果、市民の関心は主としてレシピエント患者や家族の苦しみに向けられてしまうんですね。

 ドナー患者とレシピエント患者の医療現場はそれぞれ違っていますから、臓器移植はレシピエント患者の臨床上の利益を目的としていますので、レシピエント患者を目の前にする移植医さんたちはレシピエント患者のことを考え、ドナー患者の症状は背景に退いてしまう。ですから厚生労働省も、中学生向けのパンフレットに、レシピエントのみ患者と表現して、ドナーは本人と言って、患者とは言っていないんですね。

 こうしてほうっておきますと、ドナー患者は、多くのレシピエント患者など、他者ないしは社会の単なる道具に格下げされてしまうんです。

 現行の臓器移植法は、今、法律に決まっているんですけれども、「死体」として「(脳死した者の身体を含む。)」それから、「脳死した者の身体」とは、「脳幹を含む全脳の機能が」云々、こういう条文があります。この条文に関してこの小委員会は、脳死の定義であるとか、あるいは人間の死の定義であるとか、あるいは脳死は人間の死かどうかの基本的検討を、特に子供について、してこなかったのじゃないでしょうか。

 死の判定というものは臓器移植と絡めるものではないということをWHOのノエル参考人が語ったけれども、日本においては、脳死とは何か、人間の死とは何か、脳死は人間の死かの問題と臓器移植を切り離すことはできないと思います。

 医学、医療の世界で、脳外科医の七〇%は脳死の概念に懐疑的だと言われていますけれども、移植学会や小児科学会を除いて、他の多くの分野の学会の医師がかかわって議論されることが少ないんじゃないでしょうか。ほとんどないように思います。

 例えば、脳神経外科の片山教授が、意識がないということと意識が不明であることとをイコールにしていること、つまり意識を反応性と評価してしまっていること、これは植物状態についても脳死についても、反応性がないことを根拠に意識がないとしていることを批判しております。つまり、今、脳死判定基準のグラスゴー・コーマ・スケールなんかを見ますと、反応性スケールなんですね。しかし、これはおかしいんじゃないか。反応性ではあらわせない意識というものがあるのに、何か今の臓器移植法に基づく脳死の判定基準は、無反応であるということが無意識である、こういうふうに科学的に間違った考え方になってしまっている。こういったことは、当然、小委員会でも検討すべき科学的課題の一つだろうと思います。

 昨年の内閣府の世論調査によりますと、脳死と判定されたら臓器提供したいと思うかという問いに対して、「どちらかといえば提供したい」は四三・五%、しかし、意思表示カードを持っている人は六・六%なんですね。それから、「どちらともいえない」とか「どちらかといえば提供したくない」、「提供したくない」というのが五二・九%、意思表示カードなどを持っていない人が九一・六%もいる。このギャップをどう理解したらいいかということを考えますと、一般論としては望ましいと思うけれども、みずからについてはどうも慎重なのではないか。この世論調査では、臓器移植に関する情報を得ていない人が八二・九%もいるということは、この慎重さの根拠の一つかもしれないと私は思います。

 これは皮肉なことに、脳死状態について、内閣府の世論調査も間違っているんですね。ここには「脳全体の機能が停止し元には戻らない」というようなことを定義として言っているんです。これは間違っているんですね。今どうなっているかといいますと、脳全体の機能じゃなくて、全脳の機能といって、これは要するに主たる機能、神経統合機能だけがなくなりゃいい、そういうふうになってしまっている。だから、例えば間脳とか、なかんずく視床下部の機能なんかは無視できるということで、全脳と脳全体とは違うことを内閣府は気がついていないように思います。

 厚労省はパンフレットに、脳死は一律に人間の死であるという趣旨の、そういう誤った説明をしています。やはり三徴候死というのが人間の死であるということが社会通念ですから、脳死を人間の死とする科学的、論理的根拠があるかどうかは十分に検討しなくちゃいけない、社会的合意をその上で得なければいけない、これが私の考えです。

 現行法は、自己決定の思想を非常にてこにしております。改正A案というのは、これも前に申し上げましたように、何人の何の決定もない状況に至るまで自己決定と言っているんですよ。これは要するに、本人が何の決定もしていなくても自己決定だと言っているんです。それは要するに、死後に臓器を提供する意思は現実に表示していなくても、人間はそういう自己決定している存在なんだというような、そういう理想的人間観に立っている。しかし、法律をつくる以上は、平均的な人間像に基づいてつくらなくちゃいけないんじゃないでしょうか。結局、自己決定法理の誤用ですから、A案は現行法の改正の限界を超えています。A案は改正案とは到底言えないですね。

 いろいろな意思決定や意思表示ができない子供とか、さまざまな病気のために意思決定や意思表示ができない人とか、どうすべきか悩んでいる人とか、関心がなくて情報を正確に理解していない人なんかは、改正A案が言う拒絶の意思表示はできません。だから、この改正A案を自己決定ということで根拠づけることは不可能なんです。これを自己決定によって正当化しようというなら、改正A案は人間の尊厳を侵すものというふうに結論しなくてはいけません。

 小児科学会会員の半数は、子供の脳死診断が医学的に可能かどうかわからないというふうに回答しています。前も申し上げましたが、脳死状態というふうに診断されてから一カ月以上生存した長期脳死の子供は多くいますし、また、慢性脳死で二十年以上も生存した方がおるというような報告もあります。

 現行法は、脳死の判定から数日で、社会通念である三徴候死につながるということを前提にしています。厚生労働省のパンフレットにも、「数日間心臓を動かし続けることができる」というような表現になっています。

 だから、子供について、現行法を自己決定の法理で根拠づけることはできないわけです。

 移植ツーリズム、渡航移植の批判についての根拠ということをちょっと考えますと、自国の貧しく弱い立場の個人が搾取されることを防止するんだ、そして、金銭的利益を出すために、自国内で使われるべき臓器が海外に売られる状況を防止するんだ、その考え方は理解できますね。

 これまで海外へ出かける日本人の中には、日本人のレシピエント候補患者、家族と、その出かける海外のレシピエント候補患者や家族との膨大な経済的格差という現実に上乗りしてきた面があるんじゃないでしょうか。渡航移植が批判されるから、そういう理由で現行法をA案に改正したいというのは、これまでの正しかった渡航移植ができなくなる、そういう誤った考え方に立っていると言わざるを得ません。その上、これまでの渡航移植におけるそういった経済的格差の問題がどうであったかは、日本では余り議論されておりません。

 そこで、あと改正B案というのもあります。十五歳から十二歳に引き下げるという案ですけれども、これはやはり、成人ですら、大人ですら、情報が極めて乏しく誤解の多い内容について、子供のサインを得て責任を生じさせて、臓器摘出を認める方向で子供の意思表明権を発動させるというのは法の趣旨に反しますね。そして、子供本人にとって非治療的介入に、親の代諾、同意の代行というんですか、代諾を許容する根拠もないんです。

 内閣府の意識調査によりますと、十五歳未満の者からも臓器提供できるようにするべきだが六九%あるんですけれども、医療従事者アンケートでは、提供できるようにというのが三二・五%、現状は仕方がないというのが四〇・四%となっている点、これは注目すべきだと思います。

 日弁連の意見は、今回出ております改正C案の基本になっていると思います。改正C案というのは、脳死の定義の適正化とか、あるいは脳死判定を開始することができる要件の明記、そういうことのほかに、日本で一番大事な、ないしは世界でも一番多い生体からの臓器の摘出及び臓器の移植、そういったことについても規定しています。それから、臓器の摘出、移植に関する検証というものも非常に大事だということ。それから、子供の臓器の摘出及び移植に関する、これは言ってみれば第二の脳死臨調のようなものをつくって検討するべきなんだ、そういうことも含まれています。

 改正C案は、日弁連の臓器の移植に関する法律の見直しに関する意見書、これは今お手元にあります。それから、そのお手元の終わりの方に、QアンドAという非常に短いものもつけ加えておりますので、ぜひそれを参考にしていただきたいと思います。

 どうもありがとうございました。(拍手)

三ッ林小委員長 ありがとうございました。

 次に、雨宮参考人にお願いいたします。

雨宮参考人 雨宮でございます。

 私は移植学会の会員でもございまして、したがいまして、本日は、移植医という立場から私の意見を述べさせていただこうかと存じます。

 本日の資料といたしまして、この二つをお手元にお届けしてあると思います。私の話はこちらの一枚刷りの方で進めさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 (1)の我が国の臓器移植法、ここに文字で書いてある部分でございますが、臓器移植に関する法令のさわりをまとめたものでございます。

 一番下の段に、WHO推奨の、本人意思が不明なときには家族の同意で提供できるとする基準、これがグローバルスタンダードだといたしますと、我が国の基準は極めて厳しい条件となっていると言えます。

 しかし、私どもは、この法律を厳格に守るために、提供の承諾はすべて移植コーディネーターという第三者機関にゆだねております。そして、移植医は全くこれには関係しないということにしてきております。また、脳死判定も、移植に関係のない複数の専門家によって、しかも臓器移植法施行規則に定められましたところの脳死判定基準に従って、さらに指定された病院内だけでこれを施行するということを遵守してまいったところであります。

 さらに、脳死下臓器の提供につきましては、その全過程につきまして脳死下での臓器提供事例に係る検証会議によりまして、各事例ごとの厳正な検証が行われております。いずれも適正に実施された、こういうふうに判定をいただいていると伺っております。私どもの脳死下臓器提供は、極めて厳格に、法律にのっとって行われているということを申し上げられるかと存じます。

 (2)の脳死下からの臓器提供件数でございますが、この(2)以下は日本臓器移植ネットワークのデータをちょうだいしたものでございます。

 (2)につきましては、年を追うごとに脳死下ドナーの数が増加している様子を示しております。このことは、脳死下における臓器提供に対する国民の理解が進んできている証拠であるというふうに考えております。

 しかしながら、年間最高で十三例という数でございまして、これは、ネットワークに登録されている待機の患者さんが、心臓移植を必要とする人ですと百人以上、また肝疾患では二百人以上もいらっしゃるということを考えますと、脳死下での臓器提供を広げるという法律上の工夫も極めて必要でないか、こんなふうに考えております。

 (3)の脳死下臓器移植と生着状況でございますが、このデータは、本年三月までに八十一例の脳死ドナーからの臓器提供を受けた患者さんたちの現況でございます。

 この黄色いバーが生存されているところでありますけれども、一見して、かなり高い成功率であるということをおわかりいただけるかと思います。

 ここにデータは載せませんでしたけれども、移植五年後の生着生存率、いわゆる成功率はどの程度かと申しますと、心臓移植で九二・八%、肝臓移植で七二・六%、腎臓移植は生存率で八七・五%、生着率で七九・六%。かなり良好な成績だと思います。これは欧米の成績と比べても決して見劣りのするものではございません。

 (4)の人口百万人当たりの年間心臓提供者数でございますが、これは、心臓提供というものは脳死下でのみ可能でございます。したがって、脳死ドナー数の動向と平行しているというふうに考えられます。我が国は、百万人当たり〇・〇五人という極めて低い水準にあります。

 臓器提供の意思決定の方法として、生前に提供拒否を表明しておかない限り自動的に提供承諾とする、いわゆるオプティングアウト、この方式の数カ国がございますけれども、それ以外は、ここに載っているデータは、現在グローバルスタンダードと言われております家族の承諾で提供の意思決定をしている、こういった国々であります。

 最新の情報によりますと、お隣の韓国、人口が日本の約三分の一ぐらいだと思いますが、昨年、百五十例を超える脳死ドナーの提供があったそうでありまして、百例に近い心臓移植が行われたそうであります。

 我が国は、まずこのA案のようにグローバルスタンダードを取り入れた、家族による提供意思決定方式を採用する必要があろう、こういうふうに考えておるところでございます。

 (5)の本邦における移植登録患者の転帰でございますが、臓器移植法が施行されましてから、ほぼ十二年がたちます。そして、今までに八十一件の脳死ドナーからの臓器提供がありまして、そこの表の青い欄でございますが、心臓が六十五、肺臓移植が五十九、肝臓移植六十三、腎臓移植、これは心停止後の腎臓提供も含めてでございますが、二千三百三十八例、膵臓移植が五十九、小腸移植が四例行われております。

 しかし、この十二年間に移植された数としてはやはり少ない。この間に、移植を待ち望んでおられたにもかかわらず、多くの患者さんが亡くなっているのでございます。その表の中のグレーに彩ってあります死亡の欄をごらんいただきたいのですが、心臓では移植を受けられた方の約二倍、肺では約三倍、肝臓で約五倍の方々が移植を待ち望みながら亡くなられております。

 また、現在も移植に望みをかけて待機している患者さんがおられますが、現状、年間最高十三例ということでございますと、それらの方々もこれから四年もしくは五年待たないと移植を受けられない、単純計算でございますが、そういうことになろうかと思います。

 しかも、この数値はネットワークに登録された方々だけでありまして、例えば国内での移植の可能性の全くない小児の心臓病の子供たちは、ここには登録されておりません。そればかりではなくて、国内の心臓移植適応患者数は年間二百二十八から六百七十人と推定されておりますが、移植の機会の少ないことから登録もしない患者さんが数多くおられる、これもまた現実でございます。

 心移植の適応患者の一年生存率が五〇%と言われております。年間の適応患者数を四百人としましても、この十二年間に約五千人の方が死亡したことになりますし、年間二千二百人いると言われる肝臓移植適応患者につきましても全く同様なことが言えると思います。

 私どもは、提供数の増加を期待できるA案の一日も早い成立と施行をお願いする次第でございます。

 (6)の海外渡航心移植の推移、計百三十三例の最新のデータでございます。

 前の表から、ネットワークに登録待機中に海外渡航移植をした患者さんが三十六名いることになっておりますが、そのほかの九十七名は直接に外国へ移植に出たことになります。その半数以上が十七歳以下の子供たちになります。

 子供たちの中でも体格が割と大きい子がいる、そういう子は成人からの心提供を受けることができますが、多くは発育が悪いものですから、どうしても小さい臓器の提供を必要といたします。その結果、現状では外国に頼らざるを得ないということになります。そして、今回のイスタンブール宣言、さらにWHOの指針の改定等によりまして、小児の渡航移植がますます困難になることは明らかであろうと思います。

 小児にとっても心移植が受けられるような、公平な移植法がぜひとも必要でございます。小児という観点からも、A案の実現を心から期待しているところでございます。

 (7)イスタンブール宣言、国際移植学会でございますが、これはその内容をまとめたものでございます。

 昨年の十月に本委員会で、WHOのルーク・ノエルさんが来られましてお話をされたということでございますが、結局、その根底には各国のドナー不足が深刻化してきたことがございました。そして、その結果、いわゆる臓器移植の自給自足を推進して各国でやってくれ、こういうことが出てきたと思われます。

 しかし、この四月十四日、そこの憲政記念館で開催されました、「日本人が日本人を救える国に」と題しました臓器移植法改正促進大会でも明らかになったことでございますが、臓器移植に関する世界の状況が大きく変化して、国外への渡航臓器移植が極めて困難になるということが予想されてきたわけであります。成人もそのとおりでございますが、特に小児につきましては、そうなりますと日本国内でも日本国外でも移植ができないということになるわけであります。

 もちろん、医は仁術なりという精神は世界共通のものであると存じますので、各国に対して臓器の完全鎖国をしろ、こういう命令が出たとは思いませんけれども、しかし、我が国においても、小児から成人に至るすべての年齢層において公平に移植を受けることができる、そしてさらに、少しでも多くの移植ができるような法改正をお願いしないとならない、こう考えているところであります。何とぞ、A案の精神を十分に生かしていただきたいと存じます。

 (8)は内閣府の意識調査でございまして、そのデータでございます。

 脳死下で臓器提供したいと考える人が年ごとにふえ、黄色いバーがだんだん右に広がってきています。それで、赤い、したくないという人のバーが少しずつ減っているということで、これは社会の理解が着実に定着してきている、こういうふうに思っているところでございます。

 それから(9)は、内閣府の意識調査の中の、脳死臓器提供に本人の意思表示のない場合にどうするか、家族の判断にゆだねてよろしいかというアンケートでございます。

 この黄色いバーでございますが、家族の判断に任せるとした方が年ごとにふえまして、今回は五四・三%になっております。いわゆるオプティングアウトでよろしいとする人も七・三%あります。両者を合わせますと実に六一・六%の人が、本人の意思表示がなくても臓器提供はできると考えているのではないでしょうか。これは、まさにA案の摘出の要件の根本になっていると考えております。

 (10)は、十五歳未満の者からの臓器提供についてのアンケートでございます。

 平成十二年以来、六〇%から七〇%の方が小児臓器提供ができるようにすべきであると考えておいでです。しかも、二〇%の人は、できないのはやむを得ないとはしておりますけれども、これは法律も含めて小児臓器提供の環境が整えば、恐らく提供に賛同いただける人々であろうと私は考えております。したがって、小児臓器の提供ができるような法整備ができますと、それは国民の八割以上の人々の意思を酌んだ法律ということになるのではないでしょうか。

 (11)のグラフは、意思表示カードの所持状況でございます。

 日本臓器移植ネットワークを初め関係機関の大変な努力にもかかわらず、平成十二年以来、ドナーカードを記入した人というのは三%ぐらいしかいない。全くふえておりません。しかも、常時携帯している人は一・六%となっております。

 私は、このドナーカードというのは普及活動にはもう絶対欠かせない、こう思いますが、しかし、臓器提供という実用性の面から考えますとどうしても限界があり、現在その限界に達してきている、こういうふうに考えております。

 ドナーカードを持っている人は三%ぐらいしかいません。それに対して、脳死で臓器提供をしてもいいという人が四三・五%もいたわけであります。したがって、提供してよいと考えながらドナーカードを持っていらっしゃらない方、そういう方からの臓器提供が可能になりますと、当然、臓器提供数は上昇する、こう私どもは考えております。まずは意思表示カードにあることを尊重する、そして意思表示カードがなくても、家族に同意の判断をゆだねることを認める、こういう制度がどうしても不可欠であろうと考えております。この観点からも、A案というのはぜひ必要なものだと思います。

 最後に、私は、現在の日本の臓器移植、なかんずく脳死臓器移植の原点は脳死臨調の議論にあったと考えております。

 平成四年の一月二十二日に出されました答申の中に、移植機会の公平性の確保について一ページを割いた論述があります。その中で、すべての前提条件として「医療を受ける権利はあまねく公平に与えられねばならない」としておりまして、当然、小児の臓器移植適応者も移植の機会が公平に与えられねばならないわけでございます。また、「単にわが国国内にとどまらず、国際的な視野で考えなければならない。日本人が一方的に外国に赴いて移植の機会を得るだけでは、国際的にも不公平感を与えかねない。」と指摘しております。

 また、「臓器提供の承諾」の項では、「臓器提供についての本人の承諾がドナーカード等の文書でなされていない場合においても、近親者が諸般の事情から本人の提供の意思を認めているときには臓器提供を認めてよいものと考える。」さらに一歩踏み込みまして、「本人の臓器提供についての意思が不明な場合であっても、近親者が提供を承諾する場合には、臓器提供を認めるべきであるという意見もあった。」と明記しております。

 イスタンブール宣言が波及した国外渡航の問題もさることでございますが、脳死臨調の答申に述べられましたこの精神を実現するということ、これが今日求められているのではないでしょうか。このような観点からも、A案は、最も現実に即し、しかも脳死臨調の理念に即した内容を持った案と考えております。

 以上、御清聴ありがとうございました。(拍手)

三ッ林小委員長 ありがとうございました。

 次に、田中参考人にお願いいたします。

田中参考人 大阪医科大学の田中英高でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

 お手元の資料、ちょっと確認お願いしたいのですが、小児科専門医から見た小児脳死臓器移植云々、パワーポイントのようなもの、これが一つ。それから、小児の長期脳死自験例五例という田辺の論文ですね、これが一つ。それから、脳死小児から被虐待児を排除するという、これが一つあります。

 全部で三つですが、今から、小児科専門医から見たというこのパワーポイントのような図、資料に従ってお話しさせていただきます。

 私は、日本小児学会の専門医であり、倫理委員会の会員でございますが、実際、現場で働いている小児科医でございます。難しいことはわかりません。ただ、小児科の現場ではこうなのだということをお話しして、御理解いただけたらと考えております。

 二番のところを見てください。

 ことしの二月に、小児科学会は移植推進の方向に進むという報道がなされたかと思いますけれども、三日前に日本小児科学会の総会がございまして、そちらではこのようなコンセンサスに落ちついております。「臓器移植を必要とする子どもが移植を受けられずに亡くなることは心情的に耐えられないが、現時点では脳死臓器移植推進に賛成か、反対かの結論は出せない。これまでの日本小児科学会が提起した三つの問題を含めて、再度、会員全体の意見を集約し、速やかに検討する。そのための委員会が作られることが確認された。」

 翌日の十九日、倫理委員会がございました。私も委員でございますが、子供の人権を守るという立場からこの委員会は動いております。

 そちらでは、脳死臓器移植に関する議題が検討され、以下のようなコンセンサスがほぼ得られております。これは非公式でありますが、公開してもよろしいということでございます。「二〇〇五年四月で提言した見解は現時点でも」生きており、今後、解決に向けたアクションが必要である。「小児脳死判定基準(二〇〇〇年)を用いて脳死と判定しても、一〇〇%の症例で脳機能が戻らない、とは医学的には断言できない。意見表明できない子どもにとっては人権が損なわれる恐れがあるので、」二〇〇五年、二〇〇六年、両方の「見解以上の脳死臓器移植適応拡大には危惧の念を表す。したがってA案には賛成できない。」ということでございます。

 三番に行きますが、これは小児科学会が二〇〇五年と二〇〇六年に出した臓器移植に関する見解であります。この中で、もし基盤整備がなされたらB案でいきましょうということでございますが、ただ、親族への優先項目については問題があると言っております。

 この基盤整備三つ、何かと言いますと、一つは被虐待児からの臓器摘出防止に関する基盤整備、二番は小児の脳死の判定基準の検証並びに再検討、三番は小児の意見表明権の確保に関する基盤整備であります。これを一つずつ、今からお話ししたいと思います。

 四番を見てください。QアンドAにしてあります。

 Qの一、被虐待児の紛れ込みを防げるか。これは、約一割の小児科医にしか適正に行えないというのが今の小児科医の考えであります。それは、二〇〇七年の日本小児科学会の調査、これは回答が四千百八十七人でしたが、そこにデータがございます。小児ドナー候補者が被虐待児であるか診断が適正に行えるか、これは、はいと答えたのは一二・三%であります。

 なぜ行えないのか。理由は簡単です。親が隠ぺいするからです。虐待した親が自分の犯行を隠ぺいするからです。これは、二〇〇四年の日本小児科学会の調査で明らかになっております。この調査では、過去五年間に身体的虐待を受けた症例が千四百五十二例ありましたが、この中で脳死や重度障害を残した者は百二十九例です。その中で、虐待だと診断が確定するまでに要した日数が七日以上、一週間以上要したものは一割以上の十九例あります。さらに、二カ月以上、六十日以上要したのは九例もあるわけですね。これほど見つかりにくいということです。そちらの表の右の方に破線で丸く囲んでありますが、実際にそれぐらいの症例が、大変見つかりにくかったということです。

 なぜ見抜けないのかということなんです。これは、いまだに警察も虐待を見抜くのは大変難しいと言っております。

 今から十五年前の話です。私自身の経験でございますが、五歳の女の子がアレルギー性紫斑病という病名で入院してまいりました。これは足の方に小さなあざができるものでありますが、アレルギー性紫斑病という病名がつきまして、それで治りましたので退院いたしました。そのときに、ちょっと心配だねと言っているドクターもいたんです。親の言動がちょっと心配だと言っていたんですけれども、みんなで協議した結果、大丈夫ではないかと。今から十五年前ですから、通報する義務とかその辺の法律はまだなかった時代です。でも、私たちは非常に心配しておりましたが帰しまして、非常に残念でした。一週間後、そのお子さんは虐待で死亡いたしました。

 これは私の非常につらい経験であります。法律の中に文言を盛り込んだといっても、そう簡単に済む問題ではございません。失礼いたしました、ちょっと興奮いたしました。申しわけございません。

 五番目に参ります。

 これは二つ目の問題であります脳死判定の問題でございますが、新生児を含む小児の脳死診断は医学的に可能と思うかという質問に対して、小児科医の約七割は、不可能か、わからないと回答しております。これは、小児科医は今の脳死判定基準は不安なんです、みんな。不安なんですよ、大丈夫なのかと不安なんです。これについては後でちょっとお話しいたします。

 三つ目の問題、子供の意思表明権ですが、子供の意思表示なく、親の了解のみで臓器提供できるかという質問に対しては、十二歳から十五歳の子供では、それでも構わないと答えたのは一七%。やはり八割ぐらいの人は、子供の意思表示を重視してくださいと小児科医は考えています。六歳未満の子供は親の承諾だけでいいというのは五五%、半分ですね。ただ、六歳未満がドナーとなるのは不適当と答えているのは三分の一います。

 さて、二つ目の問題、子供の脳死の判定がこれでいいのかどうかということですが、六番目を見てください。

 小児脳死判定による診断は、結論的に言いますと、一〇〇%完全とは言い切れない。先ほども申しましたが、そのとおりです。我が国の小児脳死例の百二十一例の検討結果から、このように結論できます。この論文は、先ほど言いました小児の長期脳死自験例五例の中に詳しくありますので、後で御参考ください。

 結論的に言いますと、一九八三年から二〇〇五年、これは二〇〇六年の間違いですが、二十三年間の医学文献を医学中央雑誌より検索し、三十七文献を解析しました。脳死体の実態、脳死判定後に脳機能が回復する例があるのか、検討いたしました。その結果、脳死症例は全部で百二十一例ありました。この脳死というのは、ほとんど臨床的脳死であります。その下に書いてありますように、無呼吸テストはたった九%しかしていません。

 要するに、何でこんなに無呼吸テストを小児科医はしないんでしょう。皆様方、無呼吸テストというのは何分間息をとめるか御存じでしょうか。一分ですか、二分ですか。違います。前のマニュアルでは十分間です。十分間呼吸をとめるんです。皆様方のお子様あるいはお孫様がすやすや寝ているときに、十分も呼吸をとめられますか、そのような検査を受けられますか。だから小児科医は無呼吸テストができないんです。普通です、それが。済みません、またちょっと興奮しました。

 続きですが、下の方に脳死判定後の脳機能の回復例というのが、わずかですがそこに書いております。

 七番目、ここに脳死判定後に脳機能が回復した例がございます。

 これは三つありますが、一番目、十一歳、この子は、無呼吸テストは一回だけしかしておりませんが、その後、自発呼吸がわずかながら出ております。脳死診断後、約一年以上生存しておると聞いております。これは実際に報告があったものです。

 二番目の三カ月の乳児ですが、これはかなり厳しい診断基準で、判定で、二回無呼吸テストをきちんとやりましたが、脳の血流が戻った、あるいは聴覚脳幹反応という脳波がわずかに回復したということが報告されております。意識は戻っておりません。自発呼吸も戻っておりません。

 この表にあります十一歳を少し詳しく見ていくのが次の八でございます。

 無呼吸テストから三百三日目に自発呼吸が再開した十一歳の男子ですが、真ん中ほどに、第十七日目、無呼吸テストで脳死を確認しております。これは、無呼吸テストを十分間やっております。ただ、一回しか無呼吸テストをやっておりませんので、二〇〇〇年の脳死診断基準ではございません。ただ、この症例でも、第八十病日に刺激により反応性の脳波があった、三百三日、不規則ながら自発呼吸が出現したということでございます。

 九番目のところに参ります。これはまた別の報告でありますが、脳の一部が生き続け、身長は八センチ伸びた十一カ月の男児例でございます。

 この子の場合には、無呼吸テストは何回もやっておりますが、第百三十九日目に、大泉門といいます、ここの頭皮からどろっとしたものが出てきたんです。それは、脳が腐って出てきたんですね。脳が溶けて、頭の皮膚から流れてきました。しかしながら、この子は、第二百五十三日目に身長をはかってみたら伸びていたんです。入院時より八センチも伸びていた。脳死した期間に八センチ身長が伸びたということです。それで、この十一カ月の間の成長ホルモンをはかってみたら、実際に出ている。成長ホルモンというのは脳下垂体から出ているわけで、脳の機能が一部生きているということです。

 脳死になってもこのようなケースがまれにでもあるということを一般国民も知っているんでしょうか。このようなことを広く国民に知っていただいて、脳死の臓器移植の議論を進めていただきたいと切に思うわけであります。

 十番、これをまとめております。我が国の脳死例百二十一例から見た脳死診断の限界性ということであります。

 小児では、脳死状態から心臓死まで、長期間生存することがまれではありません。脳機能、脳血流や自発呼吸が一時的にでも回復した例が、まあ、まれであります。これは何%かわかりません。きょうのデータでは三%でしたが、もっと少ないかもしれません。ただ、小児の脳神経細胞は、抵抗力があり、代償機能が強く、まだ未知な部分が大変多うございます。二〇〇〇年に出された六歳未満の子供に対する脳死判定基準は、それを満たした十一例をもとに作成されています。この十一例の調査のみで脳死判定の正当性を導くのは科学的でなく、危険ではないかと考えております。小児の脳死診断には限界があるという事実を国民に広くわかっていただくということが重要だと思っております。

 なお、この調査の詳細は、今さっき言いました田辺の論文にございますが、この論文でもう一つ重要な論点がございます。それは、表二の中にございます。表二を見ていただいたらよろしいかと思いますが、突然に脳死になった、保護者というのは自分の子供の脳死状態とか死であるということを受け入れられないんですよ。だから、もっと治療してくれと言うんです、もっと長生きしてほしいと言うんです。そして実際、自分の子供が死ぬだろう、だめだろうと思うまでに大変長い期間がかかります。ですから、そのところをよくよく皆様方に御理解いただいて、死に行く子供さんの、グリーフケアといいますが、その辺のことも十分議論していただけたらありがたく思っております。

 最後の方ですね、十一番に参ります。

 これは、脳死判定基準をおつくりになった武下先生が二〇〇五年に発表された学術報告でございます。武下先生は、もはや脳死は人の死の根拠すら崩壊したとおっしゃっています。

 それはなぜかといいますと、これは有名な話ですが、脳死は人の死となる根拠は、線を引っ張っておりますところの統合有機体説、つまり、脳は体の全部の臓器を統合している場所であるから、脳死になればもう体の臓器があちこちばらばらに動き出すので一週間ぐらいで亡くなってしまう、これが統合有機体説であります。ところが、きょうもお示ししましたように、脳死になっても何年も生き続ける子がいるわけです。つまり、この統合有機体説は説得力が乏しくなった。これは武下先生もおっしゃっておられます。

 最後になります。先ほどもお話がありましたように、国民は、臓器移植に対する必要性というのは非常に皆さんよく理解しておられます。ただ、脳死の基本的な知識というのは国民の方はほとんど持っておられないわけなんです。先ほどのパンフレットでも全部書いてありません。ここに書いております、十項目ありますが、せめてこれぐらいの基本的知識は皆様方に持っていただけたらと思っております。ペケと書いているのは間違いです、マルは正しいんですが、この程度は皆さんに知っていただけたらと思っております。

 本日は、子供の人権を守るという立場から三つのお話をしました。一つは被虐待児の紛れ込みの問題、二番目は脳死判定の検証、三番目は子供の意見表明権であります。

 日本小児科学会は、これらの問題がクリアできたらBというふうに言っておりますが、私は個人的に、現場で働く小児科医といたしましては、A、B、Cどれでもなく、何が正しいのかもう一度きちんと検証していただきたいと思います。そうでないと、小児科医は大変不安でございます。

 本日は、どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)

三ッ林小委員長 ありがとうございました。

 次に、青山参考人にお願いいたします。

青山参考人 御紹介いただきました青山です。

 ただいまから、私のつたない経験を通して、我が国で移植を待機するということが一体どのようなことであるのかについてお話をさせていただきます。

 ただ、私の立場としては、決して議論の方向を云々するつもりはもちろんなくて、ただ、我が国で移植を待った患者の一事例を御紹介させていただいて、それを何らかの参考にしていただければと思います。まず、その立場を確認いたします。

 私は、今から十年ほど前の一九九九年の九月に、会社の会議中に突然息が苦しくなりまして、近くの大学病院で緊急の検査を受けました。その日の夕方に家族が呼ばれて、病名は突発性の拡張型心筋症、余命は約三年、ただし移植をすれば助かる可能性がありますという宣告を受けました。四十六歳の誕生日を迎える十日前でした。

 こうして、私の四年半に及ぶ闘病生活が唐突に始まりました。

 それでも、最初のころは余り切迫感もなくて、これも運命かなとか、そのうち何とかなるだろうと結構気軽に構えておりました。しかし、その後、いろいろインターネット等で、現行法制下で脳死から移植に至る過程をつぶさに調べたところ、その現実に愕然としまして、自分の置かれた事の重大さに気がついたわけです。もちろん、海外で移植をするという選択肢があることも存じておりましたけれども、しかし、普通のサラリーマンが海外渡航をするということは、自分の命のために家族の将来を犠牲にすることにほかなりませんので、そんなことは少なくとも私は決してできませんでした。ですから、選択として、日本でドナーをひたすら待つ、それで時間切れになってその日が来れば、潔く家族に別れを告げて死のうと思っておりました。そう覚悟を決めて、家族にもしっかりそれを伝えました。

 その日から、二人の子供たちにはいつまでも力強い父親でいたい、妻に対しては頼りがいのある夫でいたい、両親と同居しておりましたので、苦労をかけた両親なので、最後まで優しい息子でいよう、それを最後まで演じ切ろうと覚悟しました。そんな入院中の私にとって最もつらかったのは、やはり、子供はまだ二人とも中学生でしたので、家族が日常生活で進学のことで悩んだり学校でいじめられた云々という話があって、そういう話を聞くにつけ、彼らのそばに寄り添えないことが本当につらかったです。とにかく病室でひたすら祈ることしかできることはありませんでした。この悔しさとか歯がゆさは想像を絶するものがあります。本当に家族のもとに帰りたい、もうなえそうになる気力を必死で、それこそ必死で支える日々が続きました。

 現行法制下で日本で助かる可能性はもちろんございます。事実、私が入院していた病院でも、笑顔で退院していった入院仲間も知っております。ですから、頑張れば自分にだってその日がいつか来るぞと一生懸命思おうとするのですが、やはりだめかなという気持ちがわいてきます。そんなとき、可能性がゼロではないということは、ある意味幸せなことなのかもしれませんけれども、それを希望というにはやはり現実は余りにも絶望的で残酷でありました。その絶望的な希望といいますか、そういう状況に置かれるということは、絶体絶命よりもひょっとしたらつらいというような気がしました。いっそのこと、もうおまえは一〇〇%死ぬと言ってもらえればもっと楽じゃないかとよく思ったものです。

 そのような毎日が延々と続いたわけですが、いろいろ考える中で、先ほど言ったように、ポーズだけでも毅然として生き抜くために、幾つか解決しなければならない問題がありました。

 一つは、今言ったように、自分の気持ちをコントロールしていかに家族に格好をつけるかという大問題なわけですけれども、結構いろいろ悩みましたけれども、意外と出た答えはシンプルでして、それは、生きようと思うからつらいんだから、まず生きることをあきらめる、もうおれは死ぬということを自分に説得しました。それから、その日まで生きることの理由づけに、とにかく死ぬまで生きようと覚悟しました。言葉にすると非常に当たり前のことですけれども、とにかく死ぬまで生きようというこの言葉は、私にとっては非常に心の支えになりました。

 二つ目は、こうやって生きることをあきらめたとはいっても、当然、万が一を願う気持ちも消えたわけではありませんので、移植の日を願ってはおりました。しかし、そのときを、その日を願うということはだれかの死を待っているんじゃないかということを、どうしてもある意味では否定しがたい事実を何とか自分の中で理屈をつけないと余りにも自分が情けなくて、それで考え抜いた末に私の出した結論はこうであります。ある人は本当に避けがたい運命によって不幸にも医学的な脳死になられる、ここまでで第一幕が終了します。そこで第二幕が開いて、ドナーカードの存在であるとか御家族の承諾であるとかそれから法的な脳死判定だとか、いろいろな経緯を経て臓器提供が決定されます。その段階になって初めて我々は登場するんだ、だから、我々が願っているのは決して第一幕ではなくて第二幕以降なのだ、第一幕に我々の存在の有無は全く関係がないのだ、そう思い込むことにしました。

 この辺までは何とか整理がつきましたけれども、もう一つ問題が出てきました。

 最初は名古屋の大学病院に入院したんですが、一年半ほどたって、移植を待機するために大阪吹田市の国立循環器病センター八階西病棟に転院しました。その八階西病棟は心臓移植を待つ患者のみの病棟でして、約二十名の患者が、ほとんど全員が補助人工心臓、補助心をつけて待っておられました。それぞれが個室で、基本的には外部の機械につながれておりますので、その機械のコードの長さは約三メートルぐらいでしたか、その半径三メートルの範囲が一応自由に動ける世界でした。その長さですと、辛うじて病室のドアの外までは出られまして、それで、お互い出て、両隣の患者とは会話をすることができました。それから、検査に行ったり、たまにドクター等に連れられて軽くナースセンターを一周するぐらいの散歩がありまして、そんなようなときに、みんな、何人かの患者とだんだん知り合っていくわけです、何せ年単位の期間ですので。そうこうするうちに、徐々に周囲の様子がわかるようになっていきます。何人かの方の血液型も知るところとなります。

 そんな中、八階西病棟で、少なくても待機順位が私より上である、私と同じO型の患者が二名みえました。ある日、ふと、彼らのうちの一人か、いや、できたら二人とも、突然何らかの事情でここからいなくなってくれたらと思いました。その思いは、それ以降、否定しても否定しても頭から離れなくなりました。あのときのまさに悪魔のささやきがまだ残っています。何かこぶし大のちょっとずしっと重たいものがずっとみぞおちのあたりを、まだここにあります。

 発病後三年経過した二〇〇二年の十二月にドナーが久しぶりに出まして、その方の血液型がO型だったんですが、私にそのときの待機の連絡はありません。御存じかもしれませんが、ドナーが出て、待機順位一番の方が当然移植の準備をするわけですが、大体二番目、三番目まではアクシデントに備えて待機の準備がかかるそうなんですが、私にはありませんでした。ということは、その時点で少なくても私はO型の四番目以降だということがわかりました。三年たった時点で四番目以降です。あのころは年に三例とか四例とかそんな状況でしたので、これから年に最低一例のO型のドナーが出てくださったとして、さらに三年を待つ計算になります。それまで私の体力がもつはずは絶対にありません。

 その翌年に入ってすぐに、私に埋め込まれた補助人工心臓のポンプの音がちょっと、かりかり、かりかりと異音がするようになりました。私が装着した補助人工心臓というのは埋め込み型の補助人工心臓でして、ハートメートというアメリカ製なんですが、治験でそれを入れておりまして、ポンプが腹の中に入っておりました。そのポンプが、埋め込んで一年経過して耐用年数に近づいたということなんでしょうか、そして、四月を過ぎるころにはその音ががりがりという音に変わっていきました。その音は、まさにXデーへのカウントダウンの音でした。いよいよそのときが来たと思いました。それで、本当に長かったなと感傷的になったわけです。僕は、発病以来、自慢にならないかもしれませんが泣いたことはありませんけれども、このときだけはさすがにちょっと涙が出ました。あれほど死ぬ覚悟をしたつもりでしたけれども、そんな程度の覚悟だったということです。

 そして、その年の六月でしたけれども、一階のレントゲン室に、レントゲンを撮るために看護師さんの押す車いすに乗って八階ホールのエレベーターホールでエレベーターを待っていたんですけれども、そのとき、斜め後ろの方からお元気ですかという声があって、振り向いたら、ほんの半年ぐらい前まで私の二つ隣の病室にいた一人の若者だったのです。何か最近見かけないなと思っていたんですけれども、彼はしっかりと自分の足で立って、補助人工心臓のコードはどこにもありませんでした。彼は、募金によってアメリカに渡って心臓移植をして、その帰国後の検査のために八階西病棟に帰ってきたところだったのです。彼が本当にまぶしく、大きく見えました。

 その日の夜はほとんど一睡もしないで朝を迎えて、家族が起床する時間を待ちかねて病室から自宅に電話をしました。そして、たまたま電話口に出た母に、許してもらえるのなら渡航移植の可能性を探るだけ探らせてほしいと伝えました。母は、おまえがそう言い出すのをみんなずっと待っていた、そう言ってくれました。こうして、これまで必死で演じ続けたやせ我慢に私は終止符を打ってしまいました。発病後千三百五十四日目のことです。

 それからいろいろなことがあって、本当に奇跡的な幸運があって、その年の九月三十日に関空を飛び立ちました。そして、翌年の二月十二日に懐かしの我が家に再び戻ることができました。発病から千五百九十八日目、こうして私の闘病は終わりました。

 話は以上です。何のことはない体験談を聞いていただいてありがとうございました。終わります。(拍手)

三ッ林小委員長 ありがとうございました。

 次に、斎藤参考人にお願いいたします。

斎藤参考人 日本宗教連盟の幹事を務めております斎藤と申します。

 本日は、日本宗教連盟及び宗教界の意見を申し上げる機会をいただきまして、まことにありがとうございます。

 日本宗教連盟は、昭和二十一年に結成された連合会でございます。宗教団体相互の連絡、宗教文化の発展、これを大きな目的としてございます。現在、教派神道連合会、全日本仏教会、日本キリスト教連合会、神社本庁、新日本宗教団体連合会、五つの協賛団体によって構成をされております。

 私たちは、脳死臓器移植問題は、個々人の死生観に深くかかわる大変重要な問題であること、そして、人間の生と死に対する考え方に大きな影響をもたらす問題であると受けとめさせていただいております。平成九年五月以来、ちょうど臓器移植法案が参議院で審議をされているときであったかと存じますが、そのとき以来、意見書、声明書を発表し、国会での慎重なる審議を訴えてまいりました。

 私たちは、四月の十七日、意見書をまとめ、衆参全国会議員にお届けいたしましたので、本日は、お手元にございます日本宗教連盟の意見書、これをもとに意見を申し上げさせていただきたいと存じます。A4一枚の意見書でございますので、ごらんをいただければと存じます。

 これから五点ほど意見を申し上げ、その後に、最後に宗教界の意見、見解を御紹介申し上げたいと存じます。

 第一は、脳死臓器移植にかかわる問題は、医療技術の問題に矮小化してはならないということでございます。

 私たちは、臓器移植法の改正は、医療技術、医療現場の状況だけではなく、宗教、文化、法律、倫理などを総合して検討すべきであると考えております。特に、次の世代を担う子供たちを含め、日本人の死生観の形成に及ぼす影響が大きいことから、社会のさまざまな分野の意見を酌み取り、社会的合意を得た後で改正を図られるよう、お願いを申し上げたいと存じます。

 第二に、脳死は人の死ではない、脳死をもって人の死としてはならないということでございます。

 臓器移植法が施行されて約十二年がたとうとしておりますが、脳死状態でありましても、心臓が動き、温かい血液が循環している人間の体を人間の死としてしまうことに、今も多くの国民が疑問と不安を感じております。脳死と判定されましても、汗も涙も流します。妊娠をしておられる女性の場合には、出産をしたことも報告されています。

 日本人は、長い間受け継がれてきた文化の中で、死の三徴候、すなわち、心臓が停止し、呼吸がとまり、瞳孔が拡散したときをもって死を受容してきたわけでございます。臓器移植法では、脳死は脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至った状態、このように規定をされておりますが、心臓が鼓動を続け、呼吸をしている人間の体を、どうしても日本人は人間の死として受容することができないのだと思います。

 具体例を申し上げますと、昨年の六月三日、本小委員会で参考人として出席されました中村暁美さんは、二歳八カ月で脳死と診断されたお嬢さんがその後一年九カ月生き続けられたことを御紹介されました。そして、最終的に、抱き寄せた自分の腕の中で我が子の唇の色が変わり、顔から赤みが失われ、体がだんだんと冷たくなっていく、これを感じて初めて、我が子が死んでいったということを実感されたということを述べておられます。

 年を追うごとに、医学界のみならず、科学者、法律家の中からも、脳死は人の死ではないとする見解が次々と出されております。こうした中で脳死を一律に人の死とみなす改正案は、将来に禍根を残すものと危惧をする次第でございます。

 第三は、本人の書面による意思表示は臓器移植にとって絶対の条件であるということでございます。

 A案では、本人意思が不明であるときは家族の承諾で臓器提供を可能としておりますが、ここには大きな問題が潜んでおります。平成十八年十月、愛媛県宇和島市で生体移植によって臓器が売買されるという事件が起きましたが、これは臓器提供の書面による意思表示がなかったことが大きな原因とされております。将来にわたりこうした問題を二度と起こさないためにも、本人の書面による意思表示は臓器移植を進める上で欠くことのできない絶対条件であると考えております。

 宗教界での例を申し上げます。

 例えば、キリスト教の中では、脳死状態における臓器の提供を愛の行為として位置づけてまいります。これは、本人がみずからの意思で進んで提供を表明しているときに、崇高な愛の行為となってまいります。しかし、その逆に、本人が提供の意思を表示していないときに、脳死を人の死とみなしまして臓器提供が実行されるならば、そこには愛の要素は消えうせてしまいます。そうした行為は、社会の中から広い意味での人間愛をも失わせていくことにつながるものと危惧をする次第でございます。

 十二年前を思い起こしていただきたいと存じます。臓器移植法の参議院での審議の最終過程におきまして、国内には脳死を人の死とすることに反対する多くの国民がいることを重く受けとめ、本人が臓器の提供の意思表示をしている場合に限り脳死体とすることで、移植への道を開いたという経緯がございます。こうした移植法の成立過程を振り返りますときに、本人の書面による意思表示を廃止することは、臓器移植法の改正ではなく、全く新しい法律を制定することになり、反対を表明せざるを得ません。

 第四は、脳死臓器移植は普遍的医療にはなり得ないではないかということでございます。

 私たちは、医学や科学の進歩を否定するものではございません。しかし、医療技術の発達がもたらした脳死臓器移植という治療法は、生きている他者の重要臓器の摘出を前提としている限り、普遍的医療にはなりがたいものではないか、あくまでも緊急避難的な治療法と言わざるを得ないのではないかと考えております。

 四月四日、長野県安曇野市の県立こども病院は、これまで心臓移植でしか救うことのできなかった一歳以下の乳児の拡張型心筋症に対してペースメーカー治療を五例実施し、四例で成功したことを発表いたしました。まさに、医学の進歩が、これまでできなかったことを可能とした例でございます。

 近年の再生医療の進歩はまことに目覚ましいものがありますが、それだけに、脳死の定義、判定基準をより厳密なものとしていかなければならないと考える次第でございます。また、同様に、臓器移植に対する疑問を取り除いていくためにも、移植の必要性、適正性についての検証機関の設置も必要になってくるものと考える次第でございます。

 年々、救急医療の進歩が明らかになってきておりますが、これは、総体的に、脳死状態になる人の減少を意味しております。こうした状況の中で拙速に人の命にかかわる法律の改正を図ることは、将来に禍根を残すものと言わざるを得ないと考えております。

 第五に、こうしたことを踏まえまして、日本宗教連盟は、第二次脳死臨調の設置が必要であるということでございます。

 改正案のうち、A案は、臓器提供の年齢制限を設けないこと、また、B案は、現行の十五歳以上を十二歳以上に引き下げる内容となっております。

 しかし、社会的に弱い立場にあり、脳死臓器移植に十分な理解を持ち得ない子供の臓器提供と移植は、大人とは別のルールが必要ではないでしょうか。また、親が子供の命にかかわる意思をどこまで代弁することができるかなど、検討すべき多くの問題を抱えております。

 現在でも、脳死状態での子供の蘇生力については十分に解明をされておりません。さらには、虐待を受けた子供から臓器移植を行わないなど、検討されなければならない多くの問題が残されているのが現状でございます。

 こうした現状の中で、日本宗教連盟は、第二次脳死臨調を早急に設置し、多くの専門家による総合的な検討に加え、広範な社会的な議論と意見集約の必要性を訴えたいと存じます。

 これまで日本宗教連盟の見解を申し上げてまいりましたが、最後に、宗教界からの幾つかの見解を御紹介申し上げたいと存じます。

 神道、仏教、キリスト教、新宗教などそれぞれの教団に附置される研究所によって構成される教団付置研究所懇話会というものがございますが、ここでの見解を御紹介申し上げたいと存じます。お手元の資料の中に、一枚の資料としてこの見解を御紹介させていただいております。

 例えば、浄土宗では、人の臓器を資源とみなすことに懸念を表明しております。

 曹洞宗では、日本人にとって、遺体が傷つけられるということについての懸念を表明しております。

 真宗大谷派では、人間の生と死ということについての意見を表明しております。

 また、大本では、平成十二年の十月でございますが、脳死は人の死でないとする八十七万人の街頭署名を集め、厚生大臣に提出をしております。そして、小児脳死を含めた第二次脳死臨調の立ち上げを訴えております。

 このほか、日宗連には参加していない団体の中にも、研究論文の中で意見をまとめているところもございます。例えば、脳死における臓器移植において前提となるのは患者本人の自発的、自由な意思である、したがって、本人が生前に脳死を人の死と認め、脳死における臓器提供の意思を持っていたことが確認できない場合には、たとえ家族にその意向があっても、現段階では直ちに臓器提供に踏み切ることは慎重でなければならない、このような見解を出しております。

 世界では宗教の対立が叫ばれますが、我が日本では諸宗教が協力をして、対話を重ねながら社会の問題と取り組んでおります。日本宗教連盟もその一つでございます。また、先ほど御紹介を申し上げました教団付置研究所懇話会、その活動も一つでございます。

 この臓器移植法の改正は、一歳の乳児から百歳のお年寄りまで、すべての日本人に及ぶ問題でございます。いろいろな問題もございますが、過半数で決するのではなく、社会的合意が成立するまで検討を重ねられますよう強く要望し、意見陳述を終わらせていただきます。

 ありがとうございました。(拍手)

三ッ林小委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の方々の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

三ッ林小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。福岡資麿君。

福岡小委員 自由民主党の福岡資麿と申します。

 きょうは、各参考人の方々、大変参考になる、また説得力のある御意見の数々をちょうだいいたしましたこと、まず冒頭、心から御礼を申し上げさせていただきたいというふうに思います。

 御承知のとおり、一九九七年に制定しましたこの臓器移植法でございまして、三年後の見直し規定があったにもかかわらず今日まで至ってきたわけでありますが、今回の議論、状況が一つ大きく変わったのは、今国会で一つ大きな結論を得るような流れが出てきたというのは、今までとは状況が一つ違うんだというふうに思っておりますし、また、これまでのA案、B案、C案に加えて、別の案が俎上に上がってきたというような状況も生まれてきたわけでございますから、そういったことも含めて、各参考人の方々に御意見をお聞きしたいというふうに思っております。

 まず、横田先生にお伺いをさせていただきたいと思います。

 今回、A案とC案の折衷案みたいなものも出てきたわけでありますが、もともとC案でも脳死判定の厳格化というようなことが述べられています中で、要は、従来の測定に加えて、きょう先生が示されている脳血流の停止、こういったものを検査項目として加えてはいかがかというような意見が出てきているというふうに承知をしております。

 先生のお話を聞いていましたら、補完的な位置づけ、要は、先生おっしゃったみたいに、目の不自由な方とか鼓膜に損傷のある方とか、そういった方々に対してのみ行えばいいのかというようなニュアンスであったというふうに思いますけれども、今、一律全員に対してもそういった検査をした方がいいんじゃないかという声があることも確かでございます。

 そういった中で、先生のこの図でいえば、これまでの判定でも不可逆的な全脳機能の停止という意味ではすべて網羅できていると。ですから、これまでの検査が行える人に対しては、それを行えば十分に足るものなのかどうか、また、今回そういった脳血流停止を想定されている方はどういった方を想定されていらっしゃるのか、お答えをいただければと思います。

横田参考人 御質問にお答えさせていただきます。

 今、福岡先生がおっしゃったとおりでございます。例えば、今使われている基準、旧厚生省基準と言わせていただきますが、これが例えば不可逆的全脳機能の停止を逸脱した症例がもしあるとすれば、それはさらに詳しい検査、適切な検査を加えなくてはいけないと思いますけれども、先ほど私がお示ししたような、不可逆的な脳死の患者さんの集合体の中に厚生省の判定基準はすべて含まれるということの理解で正しいと思いますので、ここであえて脳血流の検査を加える必要はない。

 あるとすれば、今お話のあったように、厚生省の判定基準で判定できないような患者さん、例えば、けがで目を損傷した患者さん、あるいは鼓膜が損傷した患者さん、あるいは各種病気で目や耳が御不自由な方々に対しても判定できるということに、その脳血流の位置づけはあるんだと思います。

 ここできちっと整理しておかなくてはいけないのは、脳死であっても起こる現象というのは実はいろいろあります。先ほどあったように、身長が伸びるだとか、あるいは手足が動くとか、一見何か脳の機能が停止していないような現象が起こることがありますけれども、それもすべて科学的に証明されているわけでありますので、ここで整理しておかなくてはいけないのは、脳死であっても起こる現象と、脳死でないものが実は脳死として報告されているというのが、ちょっと混乱を招く原因になっているんだと思います。

 以上です。

福岡小委員 大変貴重な御意見をありがとうございました。

 ちょっと時間の都合もありますので、次に光石参考人の方にお伺いをさせていただきたいというふうに思います。

 これまで日弁連さん、もしくは光石先生御自身は、一律に脳死は人の死とすることに対して反対だというような姿勢を示されてきたというふうに承知しています。そして、これまで、本人の意思表示があること、そして家族がそれを拒まないことを条件に、そういう場合のみ脳死を人の死とするという、ある意味玉虫色の解決というのは、死に対しての社会的コンセンサスがいまだ成り立っていない状況下においては一つのあり方なんだろうというようなお考えだったというふうに思っております。

 今回、WHOの流れ等も受けて、子供をどうするのかという観点が一つ出てきたときに、要は、本人の意思表示が不明で家族がその意思表示をした場合、オーケーを出した場合について、そういった場合をまた脳死は人の死という部分に加えようというような見解も出てきたわけでありますけれども、その考えについてどのようなお考えをお持ちかということについてお聞かせをいただきたいと思います。

光石参考人 子供については、先ほども申し上げたんですが、いわゆる脳死状態という状態から三徴候死に至るまで相当長い、長期脳死とか慢性脳死とかということが報告されておりますし、そもそも子供について脳死の判定は非常に難しいと専門家がおっしゃっているんですね。

 現行法ができた当時、脳死になってから数日して三徴候死に至る、そういう前提で、自己決定という思想でもって法律にしたんですね。だから、今自己決定という法律の根拠を変えるのでしたら、これは改正とは言えない。もうそれは全く別の根拠で新しい法律をつくるというのなら、またそれは、先ほどから何度も出ているように、やはり脳死臨調の第二次のものをつくらないと、結局今の法律を改正するということでそういうことは到底できない。

 だから、子供についていろいろなわからないということが非常にふえているときに、それを親が代諾してやっていいなんというのは、子供にとって治療になるのなら、これは親が病院に行きますと代諾でやります、それはそのとおりなんですけれども、子供にとって利益にならない、そういうことについて一体何で親が代諾できるのか。親にそんな権限はないだろうと私は思っています。

 そういったことも含めて、これから大いに検討をしなくちゃいけない、こういうふうに思います。

福岡小委員 議論を尽くさなければいけないというような御意見だったというふうに承知いたします。

 続きまして、雨宮参考人の方にお伺いをさせていただきます。

 先ほどいろいろお伺いをさせていただきまして、私も個人的には、やはり日本における移植の機会をもっとふやしていくべきだろうというような認識は持っておりますけれども、そういった中で、先生はこれまでのA案ということによって立ってお話をされたわけですが、きょうの議論でも死に対しての死生観というものについてはいろいろな考え方がある中で、今回そういったA案とC案の部分の折衷案みたいな話というのも出てきたわけでございますが、そういった案に対して先生御自身がどのような見解をお持ちでいらっしゃるかということについてお聞かせをいただければというふうに思います。

雨宮参考人 雨宮でございます。

 いずれにしましても、断ることができます。ですから、脳死判定を受けたくないというふうに御家族が考えればこれは断ることができる。これはA案も多分C案も同じなんだろうと思います。

 そういうことですから、いろいろな死生観があるというふうなお話でございますけれども、御自分たちの死生観にのっとった判断をすればよろしい。その中で、提供の方向に動いていく、あるいは脳死の判定を受けるというふうにお考えの方はそちらに進んでいただく、こういうことだろうと思います。

福岡小委員 ありがとうございました。一通りお聞きした後、また時間があれば、ほかの参考人の方にもう一度重複してお聞かせをいただきたいと思いますが、次に、田中参考人の方にお伺いをさせていただきたいと思います。

 アンケートでも、先ほどおっしゃいましたように、小児科学会の会員の方々でも、新生児を含めたお子さんに対しての脳死判定ができるかということについては、やはり非常に難しいと考えていらっしゃる方が非常に多くを占めるというようなお話もございました。私、医学的にそんなに専門家ではありませんが、ぜひそのあたりをわかりやすくお聞かせいただきたいのは、やはり大人に比べて小児の場合は、先ほどの慢性脳死みたいに、長期間たっても状態がそんなに変わらない方もいらっしゃるというようなことも承知しておりますが、そういった場合、大人と違って小児の判定の難しさ、そういったものはどういったところにあるのかということについて少しお聞かせをいただきたいと思います。

田中参考人 田中でございます。ありがとうございます。

 少しはっきりさせておきたいのは、脳死の判定ができるかできないかというと、これはできます。小児科医は、脳死の判定というテクニカルなことはできるわけです。ただ、それが、本当に脳の機能がこの後ずっと戻らないのかどうかということですね。それを、脳が完全に一〇〇%死んでしまったのかという診断はする自信がないということでございます。

 といいますのは、日常の臨床現場で、実際に、きょうお示ししました以外に、皆さん、小児科医は、出してはおりませんけれども、子供が長いこと生きている間に脳波が少し出たとか、そのようなことを、私もそういうことがあったよというふうな経験を持っているわけですね。だから、皆さん肌で、これはなかなか一概に脳が完全に死んだとは言えないなと。脳死判定はできるんですけれども、その後ずっと何カ月か見ていくと、また少し脳機能が戻るんじゃないかというふうな考え方を持って、肌で感じているというのが実情でございます。

福岡小委員 済みません、そこでもう一つ田中参考人の方にお伺いしたいんですが、先ほど横田参考人の方からは、要は、今の厚生労働省の基準でやれば必ず網羅できるというような御見解もあったと思うんですが、きょうのプレゼンテーションの中でも、本当にまれなケースですけれども、無呼吸テストも含めた脳死判定を行っても、そうではないケースもあるというようなお考えを示されたというふうに思っております。であれば、では、今のこの脳死判定基準で不十分だと思われているのかどうか、そういった部分についてのお考えを少しお聞かせいただきたい。

田中参考人 ありがとうございます。

 これはおととい、十九日の倫理委員会でそのコメントが出ておりますけれども、一〇〇%の症例で、この診断基準で一〇〇%診断できるとは言えないというのが今の小児の倫理委員会の見解でございます。よろしいでしょうか。

福岡小委員 ありがとうございました。

 次に、青山参考人の方にお伺いをさせていただきたいというふうに思います。

 本当にいろいろな心理的葛藤についてお話をいただきまして、私も大変心を打たれる部分があったわけでございますが、参考人も当初二年間ほどは日本で移植の道を探られて、海外で成功された方を目の当たりにして、さらなる葛藤があって海外移植を決断されたというようなお話がありましたが、やはり当初日本で道を探ろうというふうにお考えになった、そういったことについて、いきなり海外ではなくて、まず日本であくまでも道を求め続けられた理由であったりとか、もしくはほかの方々とコミニュケーションもあったというお話でしたけれども、日本で待っていらっしゃる患者さんの心理的状況といいますか、非常に提供機会は少ないんだけれども、その中で望みをつないでいく、そういった部分の心理的状況について少しお聞かせをいただきたいと思います。

青山参考人 お答えします。

 待とうと思った理由は二つあって、一つは、一九九九年にできたばかりでしたので、法が定着したらこれからどんどんふえていってくれるだろう、それに期待したことが一つでございます。

 それから、海外渡航のことは、これはちょっと触れたと思いますが、何せお金がかかりますし、募金という手ももちろんございますが、私のような社会的な人間がそういうことをやってしまって、不特定多数の方にとにかくお願いしたとすると、戻ってきた後、やはり家族を含めて非常に肩身の狭い思いをさせますので、その選択肢もありませんでした。

 済みません、それからもう一点、何でございましたか。

福岡小委員 日本でケースが少ない中でずっと待ち続けていらっしゃる患者さんのその思いとか葛藤について。

青山参考人 失礼しました。

 やはりこれも、先ほど触れた一つの言葉、私の言葉だからちょっとわかりにくいかもしれませんが、絶望的な希望の中におる、それに尽きると思います。

福岡小委員 斎藤参考人にお聞かせをいただきたいと思います。

 宗教連盟さんは、あくまでも本人の書面による意思表示というのはもう絶対条件だ、そこは外せないんだというようなお話でございました。小児の部分、子供さんの部分については今後慎重な議論をしていくべきだというようなことであろうというふうに思っておりますが、今後のあり方として、お子さんへの臓器提供、そういった部分を国内で模索していくということについてどのようにお考えになられているかということについてお聞かせをいただきたいと思います。

斎藤参考人 ただいまお尋ねの点でございますけれども、先ほど申し上げましたとおり、また本日の各参考人からの意見陳述の中にもございましたとおり、子供の脳死判定、また子供の脳死状態での移植、これはまだまだ解明されていないところが大変多くあるということでございます。こうしたことから、まず、内閣総理大臣のもとに第二次の脳死臨調を早急に設置して、ここで専門的な議論、検討を進める、これが第一歩かと考えております。

 以上でございます。

福岡小委員 ありがとうございます。

 もう時間も余りありませんので、最後にもう一回、横田参考人の方にお伺いをさせていただきたいというふうに思いますけれども、先ほどの脳血流の判定というのをもし仮に皆さんに行おうじゃないかという話になったとするということを仮定した場合に、先ほど田中参考人の方からは無呼吸テストがいかに負荷をかけるかというようなお話もありましたが、それを課すことによってどれぐらい負荷がかかるものなのか、それによって提供機会の喪失がどれぐらいあるものかどうか、そういった部分についての医学的立場からの御見解をお聞きしたいと思います。

横田参考人 脳血流の測定というのは、患者さんのベッドサイドでできるものではないと思います。経頭蓋骨ドップラーという装置がありますが、これは極めて信頼性の面では疑問がありますので、やはり血管撮影や、先ほどお示ししましたSPECT、あるいはその他の検査ということになりますと、これは集中治療室から検査室に移動しなくてはならないという前提があります。そうしますと、もともと脳死の判定をしようとする患者さんは非常に不安定な状態でありますので、よく無呼吸テストの侵襲性が問題になりますけれども、その搬送という面ではより侵襲をかけてしまうということで、これはやはり、必要があればやりますけれども、必須にすべきではないというふうに思います。

 以上です。

福岡小委員 まだまだお聞きしたいこともございますが、時間も参りましたので、私からの質疑は以上で終わらせていただきたいと思います。

 ありがとうございました。

三ッ林小委員長 次に、桝屋敬悟君。

桝屋小委員 公明党の桝屋敬悟でございます。

 きょうは、六名の参考人の方々に貴重な御意見をいただきました。私からも感謝を申し上げたいと思います。

 順次お尋ねをしてまいりたいと思います。

 最初に横田参考人にお伺いをしたいと思いますが、先日、小委員会で視察させていただきまして、本当にありがとうございました。御協力に感謝申し上げたいと思います。

 あの場でも感じたわけでありますけれども、平成九年に始まった臓器移植法案以降、いわゆる脳死、先生のお話では、まさに絶対的な予後不良の診断、いわゆる救命という観点からそういう診断が救急救命の医療現場で行われるということもあるということなんでしょうが、そのあたり、救急救命の医療現場における脳死判定の実態、先生のところは特別の医療機関かもしれませんが、全国の救急医療の現場、先生の情報もあるでしょうが、その辺の状況ももう少しお話をいただきたい。

 それから、もう一点だけ。これからこの臓器移植がどう動くかということもありますが、救急救命の現場で、先生おっしゃった臓器移植を考えたときの支援システムで、今ないもので、絶対に拡充しなきゃならぬというものは何なのか、お答えをいただきたいと思います。

横田参考人 確かに、平成十八年の救急医学会の見解にありますように、脳死の状態である患者さんに関しては判定するべきである、そういうスタンスを我々の学会はとっていますけれども、施設によっては、判定したくても、残念ながら人的な問題で判定できないという施設がやはりあるということは、先ほどお話ししたとおりであります。

 後半の御質問の件ですけれども、今、実は、法的脳死判定及び臓器摘出まで平均で四十五時間かかります。その間、実は、提供施設、特に主治医はつきっきりになるんですね。それはなぜかと申しますと、判定に関しては、そこの勤務している医師でなくてはならないということがあります。救急医療機関というのは、御承知のように今非常に人手が切迫しておりまして、そういう中での判定というのは正直負担がある。ですから、私、ぜひお願いしたいのは、判定支援チームというのを、何かシステムでサポートしていただけると、もっともっと円滑に臓器提供に協力できるのではないかというふうに感じています。

 以上です。

桝屋小委員 ありがとうございます。判定支援チーム、先日も現場で御提言もいただきましたので、我々もぜひ考えたいと思っております。

 それから、次に光石参考人にお伺いしたいのであります。

 日弁連の御意見、前から伺っておりまして、きょうお話しする機会ができてよかったのでありますが、先ほどのお話もありましたように、ドナーとレシピエントの現場が違うということと、それからやはり価値観ですね。レシピエントの医療現場というのはやはり命を第一に考えるということでありますから、ドナーの医療現場と相当違う価値観がある。場合によってはドナーの医療現場が後ろに追いやられてしまうという懸念をお示しいただいたわけでありますが、そこは非常に重要な視点だと思っております。

 ただ、だからといって、日弁連の皆さんも、現行法も含めて、善意の発意として自身の臓器を提供したいという自由なる意思、これを否定するお立場ではもちろんないだろうというふうに思っているんですが、確認をさせていただきたいなと。

 同時に、これを平成九年以来我が国で進めてまいりましたが、なかなか国民の中に浸透しない。ドナーの確保ということについては、これを公、パブリックでしっかりPRをし、国民の皆さんの理解を得るという活動をすべきだろうと私は個人的に思っているんですが、そうした取り組みに対して、日弁連としては、それは当然しっかりやってくださいというお立場なのか、御意見があるのか、そこも含めてぜひ御意見をお伺いしたいと思います。

光石参考人 どうもありがとうございます。

 やはり、提供する善意の発意というものについては、本人がはっきりとした意思を表明しているとか、しかも、脳死というのはどういう状態だとか、それが人間の死に至るのか、人間の死というのは一体どういう定義なのかとか、さっきから申し上げているように、その根本的なところをちゃんとわかっている方がやるのであれば、それはやむを得ないかなと。一律に脳死が人間の死だとは私ども日弁連も考えておりませんので。

 結局、今、先ほどから申し上げているように、内閣府の調査においても、それから各新聞の定義においても、定義がみんな違っています。定義が違っている、脳死の定義とか。さっき言いましたように、脳全体なのか、全脳なのかとか、みんな違っています。それから、人間の死というのも、もう治療ができなくなったら死ぬというような人もいるんですよ。だけれども、それはちゃんと脳死臨調が一応決めていますね。だから、そういったことをはっきりとわかった上でならば、まあ、ごく数日で三徴候死に至るんだから、それは一つの自己決定という考え方で、法的にもいいんだろうと。

 ただ、先ほどから出ているような子供の問題とか、そういうのになりますと、自己決定という一つの法的な根拠というのはもうそこに届かない。それは新しい法律というふうにせざるを得ないんだろうと思います。もし新しい法律をつくるというのであれば、それは、もう一回また脳死臨調をやって、今言ったようなことが本当にそうなのかということをまず科学的に、そして論理的に、そして、一人一人の市民の文化観とか宗教観とかいろいろなことを前提にした上でやるんだと。そうでない限りは困るので。

 ドナーの確保をもっとやるべきだというのも、気持ちとしては、レシピエントになる方の方が多いから、そういう意味では、なるべくドナーを確保したいんだというのはわかりますけれども、そのドナーの患者の方の医療状態といいますか、その辺のところをよく検討した上でないと、ただただドナーを確保するというような考え方でいくというのはやはりちょっと違うんじゃないか、間違っているんじゃないか、そういうふうに思います。

 以上です。

桝屋小委員 ありがとうございました。

 続いて、雨宮参考人にお伺いしたいと思います。

 先ほどの御説明で今日までの移植の状況を御報告いただいたわけでありますが、先ほど同僚委員が話しましたように、期せずして、何とかこの国会でできないかという大きな動きが今出てきております。私は、今の光石参考人の御意見を聞きまして、やはりまだこの国会で判断をするのは早いという厳しい警鐘かなと思ったりもしたんですが、まさに二つの医療現場、ドナー、レシピエントの医療現場の立場の違い、あるいは定義そのものもまだまだ定着はしていない、明確でないという中で、雨宮参考人としては、先ほどのような御意見、とりわけ、ドナーの立場を大事にされる、人権として大事にしなきゃいかぬという御意見に対して、移植医療の現場からどのように発言をされるのか、それから、この国会で一つの方向性を出すことを期待しておられるのかどうか、お伺いしたいと思います。

雨宮参考人 移植の医療は、これはドナーがない限り絶対に成り立ちません。したがいまして、私個人の意見でございますけれども、移植をした後の成績よりも、その前のドナーに関する考え方の方をより大事にしなくてはいけない、そう思っております。

 そういう意味で、私は、まずは、ドナーになるかもしれない、我々、私も含めた一般の市民が、脳死というもので臓器を提供することにどういうことを考えているかというその意識、この調査が物すごく大事であろう、こう考えておるわけです。まずは、提供しようという気持ちが、ない人は提供しないわけですから、ある人のその気持ちを生かす、そこにまず第一歩があって、さらに、医学的に十分な確証を得たそれが脳死である、こう理解しております。

 例えば、先ほども出しましたけれども、本人の意思がない場合でも家族が提供のことを決めてよろしいかどうかというアンケートで、何と六一・六%と書いてありますから、随分多くの市民の方々が、家族が決めていいんじゃないかとおっしゃっている。これは大変大きなことであろうと思います。

 それで、同時に、そういう方々が実際に、残念ながら交通事故だ何だということになって非常に重篤になる、それで、医療現場でこれは脳死ではないかといったようなときに、まず大前提となるのは、最大限の医療を尽くす、しかも、もうそれ以上のことはできないということが大前提になるということで我々は安心しているわけであります。そのことは、たしか、現在の脳死の判定をする規則の一番前に、大前提として、最大限の努力をした結果、脳死と認めざるを得ないような状態になったときに初めてその判定をするんだというふうに書いてございますので、我々は、それが非常に大事なことである、こんなふうに考えております。

 そういうことになりますと、さっきも申しましたように、ドナーカードを書いている人というのは非常に少ない。これは、一生懸命、臓器移植ネットワークその他、努力したんですけれども、三%前後という数字がずっと続いていてなかなかふえません。それで、最近はどこへ行ってもドナーカードというものが置いてありません。昔はよく郵便局にしても何にしてもあったんですけれども、今はございませんので、なかなかこれは皆さんのところまで届くということがないんじゃないか、こう思います。これが、さんざん努力した結果がまだそんなのであるということが一つあります。

 それから、今国会でどうだろうかということでございますが、十二年間、現在の体制で我々一生懸命やらせていただきまして、例えば、一ドナーが出現いたしますと、今平均五・五人の患者さんに移植をするというところまで努力をしてまいりました。これは、世界は大体四人ぐらいだと言われていますから、かなり一生懸命工夫をした結果だろうと思っております。それにしても、やはり年間十三例というのがこのところの記録でございますので、どうしても足りない。

 私どもとしましては、なるべく早く移植をしてあげたいということがございまして、ぜひ今国会で改正を進めていただきたい、こんなふうに物すごく期待をしている、こういうことでございます。

 以上でございます。

桝屋小委員 ありがとうございます。

 きょうは、いろいろな参考人の御意見を伺うわけで、今の雨宮参考人の思いを受けとめたいと思うんですが、こちらもなかなか複雑な心境でございます。

 続きまして、田中参考人にお伺いしたいと思うんですが、先ほどの子供に対する思いは十分聞かせていただきました。ということで、B案ということも我が党内も議論したんですが、今の田中参考人の御意見では、B案とてももっと慎重であるべきだ、こういう御意見かと思いました。

 一つ、きょういただいたこのパワーポイントの資料の中で、私が思っている以上に、虐待、この実態というのが本当に大きな要素なんだなということを感じさせていただきました。それがなかなか小児の医療の現場で実態がわからないという御説明もいただいたわけであります。警察においてもなかなか判断は難しいということなんですが、ここは、どうなんでしょうか、百二十九例中の状況もお話をいただきましたが、こんなことでいいのかなと。

 やはり虐待については、きちっと判断をされて、二度とそういうことが起きないように対応される、そういう体制をつくらなきゃいかぬと思うんですが、小児医療の現場では何かもう少しやらなきゃならぬことがあるのではないかと感じるんですが、もしありましたらお答えいただきたいと思います。

田中参考人 田中でございます。どうも御質問ありがとうございます。

 おっしゃるとおりでして、今現場の方では、各病院でも虐待を発見するような委員会をつくろうとか、あるいは学生の授業で虐待の授業をやり始めておりますので、それぞれの医学生が医師になりました時点でも、かなり虐待が難しい問題でわかりにくいという認識を持つようになりました。各病院でも取り組み始めてはおるんですけれども、二〇〇五年に、小児科学会の方が脳死小児から被虐待児を排除する提言をして、国と議員さんたちにもお願いしますと言ってはあるんですけれども、実際、そこにどれだけ人を投入してやっていただいたかというところは、いささか我々も不安に思っているところです。

 そういう点では、これからも、一部そのように、スキャンチームといいまして、被虐待児を見つけようという取り組みはなされていますけれども、まだまだ地方あるいは大きな病院でも十分にできていないとかというのが実情であります。小児科医というのはもう疲弊しておりますのは皆さんよく御存じのとおりですから、これに加えてまたそういうふうなことをやるといったら、実際、非常に大変なわけです。

 ですから、その点もぜひ基盤整備づくりをお願いしたいと思っております。

桝屋小委員 脳死臓器移植に対する子供の取り扱いについては、今先生おっしゃった部分をクリアできないと、とてもとても国民の理解が得られないだろうと我々も思っているわけであります。

 それで、青山参考人にお伺いしたいんですが、きょうは大変重たいお話を伺ったので、重ねてお伺いする勇気がこちらにありません。本当に、人の死を待つというこの脳死臓器移植、この中でいかに葛藤されてきたのか、重たく我々も受けとめたいと思っております。

 最後に、斎藤参考人に伺いたいと思うんですが、我が国の宗教界の皆さん方の御意見は伺わせていただきました。今までも聞かせていただいていたわけでありますが、キリスト教の皆さんも含めて多くの宗教界の皆さんが、やはり我が国においては、脳死は人の死というそのことすら簡単には受け入れられない、こういうお話であります。アメリカあたりは随分進んでいるわけでありますが、諸外国における宗教界、キリスト教の皆さん方の脳死臓器移植に対する考え方というのはどういうふうになっているのか、もし御存じであればお教えいただきたいなと思っております。お願いいたします。

斎藤参考人 斎藤でございます。

 本日は、正確な資料、データを持ち合わせておりませんので、正確にお答えできないことでございます。お許しをいただきたいと存じます。

 ただ、先ほど申し上げましたとおり、キリスト教の中でも、みずからの意思で臓器を提供したい、そして、それを愛の行為として位置づけておるわけでございますので、これは諸外国の例でもございます。

 もう一方で、申し上げたいのは、先般、日本人の葬送の作法、これをテーマにした映画がアカデミー賞を受賞いたしました。日本人が長い間はぐくんでまいりました死への尊厳、生への畏敬、あるいはグリーフワーク、こういうものに海外からも注目が集まっているということも言えるのではないかと存じます。

 詳しいデータについてはまた調べまして、後日お届けをいたしたいと存じます。お許しをいただきたいと存じます。

桝屋小委員 きょうは、六人の参考人、本当にありがとうございました。改めてお礼を申し上げます。以上で終わります。

三ッ林小委員長 次に、園田康博君。

園田(康)小委員 民主党の園田康博でございます。

 きょうは、参考人の皆様方にそれぞれのお立場から意見を御開陳いただきまして、本当にありがとうございます。まだまだ私どもも議論をしていない論点が多々あるなというところが、まず率直な感想でございます。

 同時にまた、とりわけ、きょうは、青山参考人におかれましては、海外での移植に際するさまざまな葛藤、あるいは家族の方も含めて、本当に心労が多々あったかなという形を私は受けとめさせていただいたわけであります。今後とも、そういったところを勇気を持ってお話しいただいた経験、そういったものをさらにまたさまざまなところで、大変苦しいとは存じますけれども、いろいろな場面でお聞かせをいただければ、本当にこの臓器移植に対する考え方、あるいは実際に御体験された、御経験をされたその苦しさの中から、またさらに次につながる大きな、何か問題も含めてつながっていくものではないのかなという気がいたしております。

 私も、きょうはいろいろな論点がございますので、これ以上御質問という形はできませんけれども、きょうは本当にありがとうございましたということを、まず冒頭、感謝の念を述べさせていただきたいと思っております。

 そこで、まず、脳死の定義というところでございます。

 先ほど光石参考人からは、脳死の定義そのものがまだ完全な形で確定というか、まだ不明確な部分があるのではないのか、もう一度きちっと議論をしていく必要があるのではないかという御意見をいただいたところでございまして、私も、現行法における脳死の定義というものと、それから、さまざま今、国会の中で出ている案の定義、この違いというものが、その中で医学的な部分からもまだしっくりきていないところがございまして、ちょっとその点を、まず最初に横田参考人と、それから再度光石参考人からお伺いをしたいと思っております。

 それは、先ほど、全脳と脳全体、この違いをまだ完全な形で理解していないのではないかという御指摘をいただいたわけでありますけれども、間脳であるとか視床下部の部分が含むか含まないかというところが、それが脳死そのものに対するどのような違いが出てくるのかということ、それがまず第一点。それから、停止という概念と喪失という概念、機能の喪失ということをあらわした場合にこれがどのような違いが出てくるのかというところをお聞かせいただきたいと思います。

横田参考人 お答えさせていただきます。

 先ほど来、間脳下垂体系の内分泌学的なお話があったかと思うんですが、あそこの論文といいますか、田中参考人の資料に、脳の一部である下垂体というふうな文言があったかと思うんですが、実は、医学的に正確に申しますと、特にTSHとかLHとかと書いてありますけれども、先ほどの下垂体のホルモンの部分は脳ではありませんので、そういったホルモンが出るのは、私もちょうど二十年前、同じような研究をしていて確認をしております。ということで、追加させていただきます。

 脳死の概念というのは、細胞が死滅するということではなくて、機能死という立場をとっています。すなわち、脳の、頭蓋内の一部の細胞に関して言えば、それは下垂体もそうだと思うんですが、確かに、生存している証拠が見つかることがあります。ところが、それが機能しているかといいますと、さまざまな検査、実は私も研究の一環でやったことがあるんですが、機能としてはしていないということが証明されています。

 ということで、今の脳の不可逆的な機能の停止ということは妥当な定義だというふうに考えています。

 それから、不可逆的な機能停止が私の理解では喪失というふうに理解しています。

 以上です。

光石参考人 どうもありがとうございます。

 脳死が全脳か脳全体かということについては、これは当初は医学界でも脳全体という考え方でちゃんと定義していたんですね。ところが、いろいろな例が出てきて、脳全体といいますと、要するに、この頭、ここにある頭蓋骨の中全部、そういうものの機能、本当は機能よりも前に質的に、機能とか構造面で脳がどうなったかということを本当はやっていたんですけれども、それがいつの間にか機能だけでいいということになってしまったんです。

 では、機能のときに、さっきから言っていますように、全脳にしてしまったのは、やはりかなり重要な部分は本当に不可逆的にだめになっているかどうかはもう見ない、そういうことになりますと、視床下部が仮にもしそのまま動いているとしますと、人間の死の定義に当たらないんですよ。それは、何度も申し上げますけれども、要するに、人間の死というものが、有機的統合性というものがなくなったら人間が死ぬんだと。だけれども、その有機的統合性の一つの要素として、ホメオスターシスという、体温とか血圧なんかの体内環境の維持、これが、実際やってみますと、脳死を判定してから後四日たっても四割の割合で視床下部の神経細胞が生きていた、そういうことも報告されていて、そうなってきますともう有機的統合性が喪失したとは言えない、そういうふうになってしまっているんです。

 だから、そういう意味では、人間の死の定義からいっても、今の脳全体というふうに本当はしなくちゃいけないのを、法律は全脳と言っていますから、非常に限った部分でいいと。

 そして、停止と喪失のことですけれども、喪失といったら、もうそれ以上絶対もとに戻ることがないにもかかわらず、先ほど子供のケースでも幾つか報告がありましたけれども、停止というと、あ、停止、そこでとまったというふうにして、それでもう脳死が判断されてしまうということがあるわけですけれども、それがやはり間違う。そういうことが間違ったらどういうことになるのかということをやはり議論しなくちゃいけないというふうに思います。やはり喪失が本当の定義としては正しいんだろうと思います。

 以上です。

園田(康)小委員 ありがとうございます。

 そういった意味では、先ほど斎藤参考人から、脳死の方からの出産の事例もあるというお話でございましたけれども、私もちょっとその事例は存じ上げなかったんですが、もしそのことについて何かもう少し詳しいお話があればお聞かせをいただきたいんです。

 また、その参考事例について、雨宮参考人、もし御存じであればお聞かせをいただければなと思っているんですが。

斎藤参考人 斎藤でございます。

 ただいまの脳死状態の女性の方で出産をされたという事例でございますけれども、実は、これはある勉強会の中で教えていただいた事例でございます。具体的なことについては、大分以前のことでございますので、ちょっと覚えておりませんで申しわけございません。

雨宮参考人 雨宮でございます。

 先ほどお配りしました「脳死臓器提供Q&A」というのがございまして、それの十二ページ目にやや詳しくそのことが書いてございます。

 結局、出産と申しますと、普通自然分娩を考えるんですが、この症例はすべてそこまではいかない、ですから、カイザー出産というんですか、そういうことでやっている。それからまた、やはりどうしても胎児の発育が余りよくなかったということが書かれております。

 しかしながら、血流があって、子宮にも栄養が行っているわけなので、ある程度の胎児の発育というのは当然考えられることだと思います。

 一番最後の欄ですが、「臓器移植法制定前に、新聞やテレビで国内外の「脳死患者」が自然分娩をしたという報道がありました」、これは、我々から見ますと、我々が使っている法的な脳死判定といったような厳格なものをしていない症例であったのではないかというふうに考えております。

 以上です。

園田(康)小委員 ありがとうございます。

 そこで、これは横田参考人と雨宮参考人にちょっとお伺いをしたいんですが、先ほど、その判定を行う際にいわゆる人的支援が必要だというお話をいただきまして、また、先ほどの御意見では、判定の支援チームをつくってほしいというお話をいただいたわけであります。

 それともう一つ、例えば、一次判定という言い方が適切かどうか私ではちょっとわかりませんけれども、まず判定をして、もう一つ別のチームがそこで判定をするというような、そういう判定方法の意義というのが、我が国でとることができるかどうか。人的な体制を整えればという話だろうと思うんですけれども、そういうことが、より厳格なと言ったら申しわけございませんけれども、慎重な判定をする際に、主治医とは別のチームがそういったところで判定を行うという形、この形式、これについてはどのようにお考えか、お聞かせをいただきたいと思います。

横田参考人 通常我々がやっています移植にかかわらない脳死判定というのは、これは実は私どもの時間管理の中で可能なわけですけれども、臓器提供が前提の脳死判定になりますと、すべてタイムスケジュールが決まってくるわけです。そういう中で、なかなかその時間に人的資源を割くことが困難な場合があるというのが一つと、やはり、まだまだ全国で八十一例ということで、多くの施設は初めて経験する法的な脳死判定ということで、いろいろな約束事に関して、どうしても調査をしたりする時間が非常にかかってしまうということで、経験のある医師の応援あるいはチームの応援というのが日常診療に影響を与えないという意味でも重要なことではないかというふうに思っています。

 以上です。

雨宮参考人 雨宮でございます。

 我々としましては、脳死の判定が全く正確であるということがどうしても大事だと思っております。私の長い経験の中でも、かつて、ナショナルチームをつくって脳死判定だけをやってはどうかというような話もあったように記憶しております。

 ただ、移植学会が主導してそういうものをこしらえたのでは、やはり社会のコンセンサスは得られないと思いますので、そういうところとは別の立場でのそういうシステムづくりというのが必要かな、こう思います。

園田(康)小委員 ありがとうございます。

 そうしますと、田中参考人にお伺いをしたいと思っておりますが、さまざまな基盤整備を行う必要があるし、また、先ほどは、被虐待児からの摘出防止に関する基盤整備、あるいは小児の脳死の判定基準の検証並びに再検討、そして、小児の意見表明権の確保に関する基盤整備という形で御意見をちょうだいしているわけでございますけれども、この基盤整備の中で、こういう判定の際の、いわゆる今お話をいただいたナショナルチームといいますか専門家チーム、それによる判定というものをこの小児の判定の中で盛り込むべきなのかどうか、あるいは、盛り込んだ際にはどういった点に気をつけなければいけないのか、もし御意見があればお聞かせをいただきたいと思います。

田中参考人 田中でございます。どうもありがとうございます。

 まず、脳死の判定をするのかどうかというのは、家族の意向というのがございますので、まず最初にそれを重要視いたします。と同時に、主治医でない方が外部から来て脳死判定をされるということに対しても、御家族の方の同意がどうなのか、まずそれが一番大前提かと思います。

 ただ、現場で働く小児科医といたしましては、外部から来られるということは、人的な支援として非常にありがたい反面、コミュニケーションがうまくいくんだろうかという不安は大変懸念しております。ただでさえこのような終末期の患者さんというのは、特に脳死になったお子さんというのは大変ケアが多くなってまいりますし、時間的にかなり込み入ってまいります。そのようなところで、余裕を持って適切なコミュニケーションが、円滑なコミュニケーションがとれるのかというところは極めて疑問に感じております。

 といいますのも、恐らくは、脳死判定チームになりましたら、先ほど最初の参考人がお話になりましたように、脳死というのは全脳死であって、下垂体であるものは脳じゃないというふうなことでございましたけれども、そのようなことですらコンセンサスがなかなか得られない。私も、二年ぐらい前まで、全脳死というのは全部死んでいるんだと思っていました。そのような印象を国民も持っております。さらに、この三ページでございますが、「全脳死」と書いてあるところに、あたかも下垂体も含んで全部ダメージを受けているような記載ですね。

 ですから、私は、別に下垂体が脳に含まれなくてもいいんです、脳死の判定が不正確かもしれなくてもいいんです、ただそれを、国民に広くその事実を伝えていただきたい。国民は知りません。とにかく国民にすべて知っていただく、これが基本条件だと思っております。

 以上でございます。

園田(康)小委員 ありがとうございます。

 そして、最後になりますけれども、再度田中参考人にお伺いをしたいと思います。

 小児学会の中では長期脳死例というものが御報告をされているというふうに、以前のこの小委員会での参考人の開陳からもあったわけでございますけれども、これが今の超重症心身障害児の中にも含まれているという事例があるやに伺っておるわけでございますが、そういった事例が我が国でどのぐらいの割合で、あるいは、それがどのぐらいの発生率というか発現率があるのかということ、そしてまた、その事例に対する解明的な何か手だてというものを打つ可能性があるかどうか。

 では、これは、田中参考人、雨宮参考人からも、もしあればお聞かせをいただきたいと思います。

雨宮参考人 先ほどのパンフレットでございますが、これの十一ページ目にその辺のことが書いてございますが、これはやはり専門家は横田参考人でいらっしゃるので、もし横田先生にお答えいただくということでよろしければ、お願いしたいと思います。

園田(康)小委員 では、横田参考人にお願いしたいと思います。

横田参考人 私、すべての事例を論文等で調べたことはないんですけれども、脳死の判定というのは、勘違いがよくあるのは、判定項目、六項目あるんですが、そのうちの一部を満たして脳死ということが実はかなり多い、あるいはそれが論文になっている。過去の長期生存例あるいは自発呼吸が出てきたというふうな報告をよく読んでみますと、すべて判定基準を満たしていないというのがほとんどだと思います。例えばこの資料の、先ほど田中参考人から御提示いただいた八枚目のスライドにしても、実は一回の判定しかしていないということで、これは脳死の診断をしてはいけない患者さんなんですね。

 ですから、そういったのがまじっているというので、逆に、先ほど田中参考人がおっしゃったように、一般の方々に不安や誤解を与えているのではないかというふうに思っています。

 以上です。

園田(康)小委員 ありがとうございました。

 これで終わります。

三ッ林小委員長 次に、高橋千鶴子君。

高橋小委員 日本共産党の高橋千鶴子です。

 本日は、六人の参考人の皆さん、本当にありがとうございました。

 九七年の公布以来改正されなかった臓器移植法が、今般、何か急速に改正を決めるのだというような動きが出ているという報道がされております。

 私どもは、九七年、脳死は人の死であるという国民的合意がまだされていないという立場で反対をいたしました。また、党議拘束を外すという問題についても、一つの政党の中でさえ意見が分かれる段階で、そのときいるメンバーの数で法律にするということ自体がどうなのか、そういう立場をとりました。

 その後、関係者の御努力によって、現行法の中でも貴重な実績が積み上げてこられたこと、また、世論の変化も一定見られているということも当然考慮しなければならないと思っております。

 きょうは、そうした意味で、先入観をなるべく持たずにお話を聞かせていただきました。いずれも非常に重要な、貴重な、そして共感の持てる御意見だったと思うんです。だからこそ、こうした場をもっと広く重ねていく必要があるのではないか、そのことを改めて感じたということを最初にお話ししたいと思います。

 最初に、横田参考人にお伺いしたいと思います。

 先日、私も委員会の視察で現場を見せていただきました。大変な御苦労を現場ではされているということで、本当に敬意を表したいと思います。

 先生がおっしゃっている脳死判定と臓器提供というのは分けて考えるべきだという御意見は、非常に貴重なものかなと思っております。また一方、生身の、心臓が動いている方たちが、この人は医学的には脳死なんだよと言われたときに、やはり割り切れない思いをさせていただきました。

 そこで、横田参考人自身が、厚生労働科学研究の臓器移植の社会的基盤整備に関する研究で、ドナー家族への心理的な問題に対して分担研究をされております。こうしたことが余り広く表に出ていないこともありますので、ぜひ御紹介いただければと思います。

横田参考人 お答えさせていただきます。

 救急の場面というのは、朝、元気で送り出した家族が、突然病院から重症ですということの電話がかかってきまして、実際病院に行ってみると、もう意識がありません。次の日、脳死の判定の結果を時に我々は言わざるを得ない場面があるわけですけれども、その際、我々はどこに注意して、言葉遣いあるいは話す環境等、どういうところに注意しながら家族に話すべきなのか、あるいは話すタイミングでさえ非常に難しいことが言われています。

 そういったことを、実は、これも学内の倫理委員会の許可を得まして、脳死の判定をした家族に実際会いに行かせていただきまして、調査させていただきました。その結果が、今御紹介のあった報告書であります。これによりますと、家族が脳死を受け入れるには、やはりある程度の時間が必要だ。これは家族の年齢や社会的背景によってさまざまですけれども、やはり一定の時間は必要であろうということが結論でありました。

 以上です。

高橋小委員 その先もさまざまあったと思うんですが、時間の関係で、そうした御報告だったと思います。

 ある程度の時間が必要である、そしてまた、その時間を惜しむわけにはいかないのではないかということをあえて私自身も思っているところであります。

 ただ、同時に、先般の視察のときも御紹介があったのですけれども、きょういただいた資料の六ページ目に紹介をされているように、救急医療、脳神経外科施設へのアンケートの中で、やはり脳死判定に非常に時間がかかって、また、医師が複数とられて日常業務に支障を来すということもアンケートの中で浮かび上がっていると思うんですね。その点をもう少し、どういうふうな支障なのか、実際には、外来の受け入れとの関係、救急の受け入れとの関係などが紹介されたと思いますが、ぜひお話しいただきたいと思います。

横田参考人 先ほどお話ししましたように、法的脳死判定を行って臓器提供を行いますと、約四十五時間かかります。これは丸々二日、場合によっては三日、時には四日というふうな時間がどうしてもかかってしまう。そういう中で、救急医療施設では何らかの業務、日常業務、いわゆる一般診療に影響を与えているというのがこの七ページの報告書であります。

 その中で、実際、救急患者さんの受け入れをできなかったというところまでの影響を指摘した施設がここに書いてあります。六施設ですから、当時まだ少なかったんですが、たしか二十五分の六ぐらいだったと思うんです。ただ、これはやはりシステムとして解決しなくてはいけない、脳死下臓器提供が日常の医療になるには、やはりここの部分は解決しなくてはいけないところではないかというふうに感じた次第であります。

 以上です。

高橋小委員 やはり、別の救急の方たちを受け入れられない事情が少なくてもあったということは、非常に衝撃を受けたわけであります。

 そもそも、今、救急医療そのものが非常に基盤整備がおくれている。やはり先生のいらっしゃる日本医科大学のような設備があるところはまだまだ少ない、人的体制も全体としてはまだまだ少ないという中で、そういう救急医療そのものをやはりうんと充実させていくということがまず大前提としてあるのだろうということを非常に感じたところであります。その基盤整備という点では頑張っていきたいと思っております。

 次に、光石参考人と雨宮参考人に同じ質問をさせていただきたいと思うんです。

 ドナーカードを常時所持している方が一・六%にすぎないのだと。私は、ドナーカードを持っているだけではなく、常時持っている方というのは、やはりそれなりの強い意思、むしろ提供したいのだという強い意思を持っているということなのかなと思うんです。

 でも、逆に言えば、持っていない人は多いけれども、五四・三%が家族の判断にゆだねると世論調査では言っているのだから、拒否していない限りよいのではないかということは言えないのであろうと思うんです。というのは、将来、自分自身が臓器提供する意思を持っているということでカードを書いたとしても、今ではないという気持ちというのは絶えずあると思うんですね。それは、ある意味、拒否と言えるのではないか。だけれども、拒否カードを持つことで強く意思を示すということもまた非常に勇気が要ることではないか、このように思うわけであります。

 ですから、やはり、拒否しなければ、家族が同意すればいいのではないかということではなかなか割り切れるものではないというふうに考えますけれども、ぜひお二人に伺いたいと思います。

光石参考人 僕も、今おっしゃった考え方、そのとおりだと思います。やはり、拒否するということ自体も結構大変だ。

 ただ、先ほどの、ドナーカードを持っている人が非常に少なくて、持っていない人が多いということの意味をどう考えたらいいかという意味では、それは先ほど私が申し上げましたように、一般的にはそれはそれでいいかな、しかし、いざ自分の問題ないし自分の家族の問題になってきたらやはりもっともっと慎重にいろいろと知りたい、多分それが多くの方々じゃないかな。

 そうしますと、先ほどから申し上げるように、定義とか、それからそういった問題について全然、脳死と言ったら脳が死んでいるというふうにみんな思ってしまいます。しかし、そうではないんですよ。もっと前の状態で判定をするということになっていますから。しかし、そういうことがわからないでいろいろなメディア等で世論調査されても、それは本当は違っていますね。そういうことをもっと大事にしたいと思っております。

 以上です。

雨宮参考人 今、ポケットにいわゆるドナーカードなるものを私持っておるんですが、実は、ちょっと前なんですが、財布を調べたら入っていないんですね。私は、移植学会のメンバーでもありますし、このことに関しては非常に積極的な人間の一人だと思っておりますが、どうしてそのとき持っていなかったかなと思ってみましたら、最近、物すごくカードが多いんですね。あちこち入れている間に、いわゆるドナーカードというものをひょっとこっちに置いたままになってしまう。それで、持って歩いていないということがあります。こういう社会情勢ですから、そういうことはたくさんあるんじゃないか、私はそういうような理解をしております。

 それから、先ほども述べましたけれども、かつては、この法律ができたときには、いろいろなところに、書き込めるようなドナーカードが置いてあったわけです。今はそんなものは全然置いていないですね。そうなってくると、先ほどの内閣府の意識調査で、脳死になったときに臓器提供の意思がありますか、こういう質問があるんですね。これですと四三・五%の人がありますとおっしゃっているんですが、実際にはカードを書くチャンスがほとんどないということで、やはり、思っておられることと書くということ、そこのところにいろいろな条件で差が出てしまう。だから、慎重に考えた上で書いていないというのとは違う条件もたくさん入っているんじゃないか、私は自分のことを考えますとこんなふうに考えておるというのが実情です。

 ですから、私が述べましたように、ドナーカードを実際に書いている人というのは三%ぐらいだと言っていますけれども、四三・五%の人が上げてもいいよと考えていらっしゃる。だったら、ドナーカードというのは、やはり普及活動のためには物すごく必要なんですけれども、臓器提供といったような場面ではその実用性は余り考えられないというようなことなのではないかな、こんなふうに実は思っているわけであります。そこで、A案、A案とさっきから申し上げている、こういうふうな状況でございます。

高橋小委員 ポケットに持っていなかったという今のお話を聞いて、多分両方にとられるのではないか。意思は持っているけれども見落とすときもあるんだよということと、そのときはぱっと書いたけれども突き詰めて考えたことがなかったとか、さまざまなことがやはりあるんだろうと。そういう点では、まだまだ確かに情報が足りないし、世論調査のあり方自体も、一つで決められるようなものではなく、十分に情報提供した上での調査をしていくということがやはり必要なのではないかなと改めて感じました。

 そこで、次に、田中参考人に伺いたいと思うんです。

 先ほどお話があったように、小児脳死判定基準を用いて脳死と判定しても、一〇〇%の症例で脳機能が戻らないとは医学的に断言できない、こうした考え方、それから、被虐待であるか否かを適正に行えるという答えは一二・三%しかなかったということ、そして、虐待であることを判断するまでに非常に長い時間を要するということの御報告があったと思うんですね。そうすると、虐待の要素というものを排除できない以上は、親の判断で提供するという状況はやはりあり得ないのではないかなということを改めて先生のお話を聞いて感じたところであります。

 三つの基盤整備ということをお話しされておりますけれども、多分、今、もともと不足している小児科医が飛躍的にふえるというだけで、それは基盤整備ができたとは言えない、もっと社会的な条件というものがさまざまあるのではないかということを感じますけれども、その点いかがかということ。あわせて、小児科学会の中でまだコンセンサスが得られていない。今回焦点になっているのはやはり小児の問題ですので、そのこと自体が重要で、時期尚早ではないかということを率直に思っておるんですけれども、その点、伺いたいと思います。

田中参考人 田中でございます。

 先生の御意見に全く賛同でございます。問題が山積みでございます。この問題が山積みだということも、国民は知っておりません。ですから、まだまだ山積みであるということをまず一般国民にお示しくださることが国民の代表である皆様方のお仕事ではないかと私自身は強く感じているわけです。

 それから、虐待の話に少し触れさせていただきますが、虐待を脳死の小児から見つけて除外するということに話の焦点がどうしても絞られぎみになってしまうんですけれども、日本小児科学会としては、虐待自体の数を減らさないといけない、被虐待児自体の数を減らさないといけないということが重要になってくるわけです。

 実は、私はスウェーデンに十何年前に行ったわけなんですけれども、スウェーデンではほとんど虐待がありません。実際はあるんですけれども、ほとんど虐待がありません。なぜかというと、非常に虐待に対しては厳しい考え方を持っております。

 私は家族連れで参りました。子供と一緒に家内もお店に入ったら、子供は幼稚園ぐらいでしたから、お店のものを全部引っ張り出して、があっとお店の中をめちゃめちゃにしたんです、珍しかったものですから。そうすると、全く関係ない普通の御婦人がだだだっと来て、家内にすごく文句を言っているんです。ぐわっと怒っているんですね。うちの家内は子供のおしりをぺちゃんとたたいたんですよ。そのことに対して、スウェーデンの普通の御婦人が、絶対たたくな、この国ではたたいてはいけないと。うちの家内は、しつけじゃないかと言ったんです。この国は、たたいたら刑務所だと。だから、スウェーデンでは子供をどんなことがあっても絶対たたけないんです。口で言うだけです。

 なぜそこまで厳しいのかといいますと、スウェーデンというのは、皆様方御存じかと思いますが、キリスト教を国教としているわけですね。つまり、国の宗教として認めているんです。つまり、人間も含めて、子供たちは神の子なんです、その神の子を虐待するとかお互いにいじめ合うなんということは許せないという発想なんですね。

 きょうは斎藤参考人も来られていますが、日本でももう少しこのような宗教的な精神の啓培ということをしっかりやっていただきたいと思います。日本の公教育でも宗教的啓培ということは保障されているわけですが、現実には公教育からは宗教はもうなくなっています。このようなことを変えない限りは、日本でも虐待の数はなかなか減らないのではないかと思います。

 どうもありがとうございました。

高橋小委員 ありがとうございました。

 やはり、虐待そのものを減らしていくということは何をおいても取り組んでいきたいというふうに思っております。

 青山参考人には、本当にきょうは貴重なお話を伺いまして、ありがとうございました。

 人の死を待つのではないかとか、あるいは、自分の順番を待つということに対する気持ちの整理というか、どう向き合うかということは、やはりなかなか割り切れるものではないし、非常に苦しいものであるということを率直にお話ししてくださって、私たちもそういうお話を聞くことができたということ自体よかったと思いますし、感謝を申し上げたいと思います。あえて質問ということではなく、そうしたことでお礼を申し上げたいと思います。

 最後に、斎藤参考人にお話を伺いたいんですけれども、やはり、宗教、宗派の違いを超えて一貫した意見を述べておられるということには、まず敬意を表したいと思います。

 宗教者の立場から見ると、この臓器移植ということそれ自体が、やはりあれこれではなく反対なんだよということでもあるんだろうけれども、しかし、そういうことよりも、もっともっと議論を深めていくという立場であるというふうに受け取ってよろしいかと思うんですけれども、その点を伺いたいと思います。

斎藤参考人 ありがとうございます。

 ただいまの点でございますが、宗教界は脳死臓器移植をすべてだめだというふうに申し上げていることではございません。みずからの意思を表明して臓器を提供したい、こういう方々もいらっしゃいます。これは現在の法律でも認められているわけでございますので、これについては宗教界の中でも了解をいただいております。

 しかしながら、先ほど申し上げましたとおり、本人の書面による意思表明、これは臓器移植を進める上ではぜひとも欠くことができないということを、宗教界の多くの意見として持っておるわけでございます。

 それと、繰り返すようでございますが、果たして脳死をもって人の死としていいのかどうか。

 宗教者は、いわゆる死に臨む人たちへ最後のグリーフワーク、これも大きな務めとしております。また、宗教者は、申し上げれば、提供を待つ人の苦しみもお聞きをいたします。一方では、提供を期待されている、そういう無言の中にある患者さん方の苦しみもお聞きをいたします。こういう中で、人々の苦しみを受けとめ、それをどのようにしてそれぞれの生に転じていくか、こういう務めをしているということを御理解いただければと存じます。

高橋小委員 終わります。きょうは本当にありがとうございました。

三ッ林小委員長 次に、阿部知子君。

阿部(知)小委員 社会民主党の阿部知子です。

 本日は、参考人の皆様には貴重な御意見をありがとうございます。

 脳死臓器移植論議と申しますが、国会の中では審議でございますが、冒頭、これについて私は一言、皆様にも御紹介申し上げたいと思います。

 きょうは、この小委員会室にあふれるばかりのメディアの皆さんも来られて、何かあたかも、A案、B案、C案、プラスもう一案あるかのように報道が先走っておられると思いますが、実際にはこれまでの小委員会の運営の中で、参考人から御意見を伺って、法案そのものについてはまだ審議もいたしておりません。

 そういう段階でD案まであるみたいな報道がされると、非常につんのめったまま、大事なポイントをきちんと押さえることなく、人の生存にかかわる重要な事態がかっさらわれていくというのかしら、死は一人一人の国民の中にあるものだと私は思いますから、その点を十分踏まえないと禍根を残すと思いますので、これは委員長初め、きょう出席の理事の皆さんもきっとそうお思いでしょうけれども、やはり国会の審議とかスタンスというものは十分慎重に、問題点をまず国民に明らかにする、そのために参考人にもお越しいただいているというふうに認識をして、質問をさせていただきます。

 お話しの順番にお聞きをしたいと思いますが、まず、横田参考人には、日ごろの日本医科大学の救急の取り組み、私も非常に敬意を表します。せんだっても拝見させていただきましたが、日夜も分かたずお仕事をされている姿に、今日本の救急医療は、ただでも人的な資源も乏しいですし、たらい回し事案もありますし、国民の不安のもとですので、やはりまず政治が、この脳死論議の前提もそうなのですが、もう少し医療がきちんと行き渡っておれば全然違う様相を呈すと私は思うのであります。

 そうした点から、まず、いただきましたレジュメの中で、冒頭、日本救急医学会の平成十八年二月二十一日の御見解の中で、見解の提言1「脳死は人の死であり……医学的な事象である。」

 脳死は人の死か否か。人というのは、そもそも文化的、社会的、倫理的、歴史的、宗教的存在でありまして、私は、ここは表現としては、脳死は人の死であるというふうに言われない方が、先生たちの言わんとすることがかえって伝わるのではないか。果たして、なぜここで脳死は人の死とおっしゃったのか。

 きょういろいろな方の御意見を先生もお聞き及びと思います。私は、救急医学会だけが突出して、こういうふうに脳死は人の死だと、もしこの言葉だけが躍ると、そこで治療を受けている患者さんたちも不安になるということがあるので、まずこの意味をお聞かせください。

横田参考人 これには経緯がございまして、脳死臨調の提言を受けて、記憶が定かではありません、平成六年だったかと思うんですが、これに先立ちまして救急医学会の理事会見解というのがありました。そこにも、当時、脳死臨調の見解を受けて、脳死は人の死であるというふうなことを実は理事会の見解として公表しました。今回はこれを、今度は理事会ではなくて会員の総意として公表しようということであります。

 確かに、会員個々の考え方は多少ぶれがあるのかもしれませんけれども、これは正式な会員総会を開催しまして、こういった見解の提言を公表するに至りました。

 経緯は以上であります。

阿部(知)小委員 私がとやかく申すも失礼ですが、やはり医師が死を決めるというものではないんだと。もちろん医学的に私たちは、先生が二面にお示しくださいましたように、例えばこの脳死の判定をなさって、絶対的予後不良の診断は私どもはできると思うんです。そこを、脳死は人の死だと、もし医師だけが決めるという体制にいたしますことは、例えば、東京大学でがんの治療に熱心な中川先生という方が、この絶対的予後不良、がんなどでもありますが、それを患者さんに告げたとき、八割の患者さんはまだ治療を望み、医師の方は、それでも続けるというのは二割であったと。

 これは、命の当事者と私ども医療を施す側には、これだけ一生懸命やっている医者でも、私自身もそう思いますから、やはりそこに差があるという前提の中で医療行為を語っていかないと、すれ違いが起こって、結局は、いい死のみとりができなくなるんじゃないかと私は思うんです。

 二枚目のパワーポイントのところで、例えば先生がここにお示しいただいた脳死判定も、無呼吸テストまでも含めて、これは何も移植を前提としないで救急医学会はやるんだというお話ですから、無呼吸テストまでも医師たちの判断でなさる、そういう意味なんでしょうか。

 そうであれば、これは先ほど田中先生もおっしゃいましたが、私ども小児科医が大変ちゅうちょするのは、脳死判定で無呼吸テストをやると、血圧が下がって、その後、その無呼吸テストに反応してくださった方でも本当に状態が悪くなるんですね。だから本当にやりたくない、できればやりたくない、よっぽどぎりぎりのところで、移植とかが控えていればより確実性を高めるためにありますが、ここで先生が示された日常の脳死判定でも無呼吸テストをやられるのか。

 それは患者さんに言わずにというと変ですけれども、まずここでは、先生方のこのおまとめだと、脳死判定はまず医師がやります、そこから後は御家族にというふうになっていますが、その点はいかがでしょう。

横田参考人 まず脳死の診断ですけれども、これは我々医師の診断の行為といいますか、我々は患者さんの病態を診断しなくてはいけないというふうに思っています。例えば、患者さんが呼吸が苦しくて来られたときに、あなたは肺炎ですよと言うように脳死を診断しなくてはいけないというふうに思っています。ただ、その肺炎ですよと言われた患者さんが、自分は肺炎ではないんだというふうな意思は自由だと思うんです。

 ただ、我々は医学に携わる者として、患者さんの病態は正確に判断しなくてはいけない、それを患者さん本人あるいは家族に伝えなくてはいけないという使命は持っている、そういう認識であります。脳死の判定に関しても同じような立場をとっています。

 脳死の判定というのは、よくこれは間違えるんですけれども、やはり無呼吸テストも含んだ正式な脳死の判定というふうに考えていただいて結構です。もちろん、無呼吸テストで患者さんの状態が悪くなるような場合というのは、それは当初から脳死の判定をすることはないということを申し上げておきたいと思います。

 以上です。

阿部(知)小委員 診断行為としての脳死の判定、それは私もあり得ると思うんです。ただ、それを人の死というふうに言うときにもう一つクッションがあるし、それから、今先生は状態を悪くすることはないとおっしゃいましたが、無呼吸テスト、やってみなければこれがなかなかわかりません。この方は反応されるかどうか、まあ多分ないんだろうと思って、酸素の濃度を上げて十分間待つけれども、その中でやはり、先ほど申しました血圧が低下する事例もあります。

 ここは私は、そもそも脳死判定が慎重に行われねばならない理由は、ある程度の負荷、さっき先生は、血流検査をその場所から移してやるのでそれも負荷であると。私もそう思います。患者さんに治療以外の負荷を与えるということにおいて、私は、そこで医師の説明責任がたとえ診断のためであってもあるべきではないか、これは私の見解であります。

 引き続いてというか、先生ばかり伺って恐縮ですが、先ほど田中先生がお示しくださいました子供の、実は計三回、脳死判定、無呼吸テストをされて、その後、恐らく視床下部の働きが、機能があると思うんですが、成長ホルモンも低値だけれども分泌していて、プロラクチン等々も出ていたという事例が田中先生のパワーポイントの九で示されております。

 この事案は、少なくとも数回にわたる無呼吸テストの後に、機能が停止したと思われていた視床下部でも、恐らくこれは回復か、そのとき一たん停止で再スタートした事例というふうに、私はこの脳死判定が間違っていたからじゃないんだと思うんです。こういう事案もあるし、血流テストだって、ノンフィリング、ないと思っても再開するし、そういうことがあるからこそ、やはり患者さんへの説明等々も極めて慎重でなきゃいけないし、判定基準が難しいというのが小児科医の実感なのですが、先生はこの事案はどんなふうにごらんになったんでしょうか。先ほどちょっとおっしゃったかもしれない。済みません。

横田参考人 この九ページに関してお話ししたいと思います。

 まず、脳下垂体という言葉が使われていますけれども、先ほどお話ししたことで、今は脳という言葉は取って、下垂体というふうに呼んでいます。下垂体は脳ではない、そういう位置づけであります。

 それから、ここに書いてありますTSH、ACTH、プロラクチン、LH、FSHというのは、下垂体は実は二つの部分に分かれていまして、前の部分を前葉といいますけれども、この下垂体の前葉の部分から出るホルモンであります。実は、後葉は脳の一部なんですけれども、前葉は脳の一部ではなくて、のどの奥から脳の方に迷入した組織なんですね。ですからここは血流も違いますし、こういったホルモンが分泌されるのは、これはよく言われていることなんです。

 ですから、多分この患者さんは脳死だと思います。でも、やはりこういった病態というのはあり得るんだというのが脳死なんですね。脳死の患者さんでも髪の毛やつめが伸びるのは、これは日常経験します。同じように、時間がたつ小児の場合には身長が伸びるということも当然あり得るというふうに思います。

 以上です。

阿部(知)小委員 正確に教えていただいてありがとうございます。私もそうだと思います。

 私ども小児科医がよく経験しますのは、脳死、まあ無呼吸テストはやらない場合が多いですが、しかし、そういう状態でもその後五年、十年と、それは私たちは慢性脳死と呼んでおりますが、遷延性でもいいんです、身長も伸びられるし、第二次性徴も出てくる。しかし、国民にはそうした事態があるということは伝えられておりません。とりわけ十二年前の脳死論議では、脳死になったら二日で亡くなる、あるいは脳は溶けてどろどろ。極端に言えば、耳から脳の一部が出てくるような症例でもこういうことは起こると私は思いますし、田中先生もきっと御経験だと思うんです。私は、そうであれば、死を受け入れる国民の側に、成長することもあると。

 私どもがこういうことを表立って考えるようになったのは、アラン・シューモンというUCLAの神経学者が長期の脳死生存例を発表されたときからですが、彼がフォローした方は二十年という歳月を、恐らく脳死判定が不十分だっただけでなくても成長され、存在されたわけですね。そうすると、それをどう受けとめていくかということは、やはり人の死であるか否かをもう一回国民に返さねばならないだろうというふうに私自身は考えるものであります。

 引き続いて、光石先生にお伺いいたします。

 私は、C案の提案者、きょうは金田先生も来ていただいていますが、この金田案、もともとは十二年前の脳死の論議のときに、中山案対金田案として出ていて、脳死は人の死であるかどうかは、そこはあえて断定せず、脳死せる者の身体からの臓器の摘出を可能にしようという骨格を持った案でございました。

 しかし、そのときに触れられなかった点が、生体、人間の体というのは全部、骨や皮膚やさまざまなものも含めて、実はリユース、リサイクル可能な一つの部品であると。そうなると、そうした人体臓器や人体組織について、これを物として扱わないために何らかの歯どめをしなきゃいけない。そこで、このC案では、すべての臓器のみならず組織に至るまで本人同意を前提とするという骨格をとりました。これは、白菊会等々の御遺体の献体でも、私ども医学生のとき解剖に使わせていただきましたが、それも全部、まず御本人の意思で献体していただく。それは、人間もしょせん物かもしれません。しかし、そこに一つの社会的あるいは人間的つながりを保持するための知恵で、本人の自己決定ということを置きました。

 さて、光石先生には、そうしたC案全体の評価を私はちょっとお伺いしたい。私どもは、これはそういう意味で、これから人間の組織が使える時代になったから、より重要なポイントである。ほとんどメディアには触れられることがありませんが、やはり本人の自己決定ということを尊重し、拡充する方向に医療現場を向けていかなきゃいけないという強い意思を持った提案でございますので、先生の御意見を賜りたいと思います。

光石参考人 今先生がおっしゃったとおりで、それ以上申し上げることがないくらい、まさに自己決定ということを非常に中心に置いて、つまり、現行法を改正するとすると、現行法にはないいろいろな臓器以外の組織とか、それから生体移植というのが実は日本は一番中心になっているわけですから、それについても、何かお金をもらってやるようなことがどうなのかとか、そういったこともありますから、そういったものをきちんと法制化する。それから脳死ということについても、やはりその定義とか、そもそも患者さんがどういう状態になったらそういう判定をすることが可能なのかどうか、そういう要件もちゃんと法定化する。それからまた子供のことについては、大きな問題になってきていますから、これをやはり一回、第二脳死臨調でこれからちゃんとやろう。

 そういったことを決めておりますので、このC案というものがやはり、自己決定を中心にした一番いい改正案だろうと私は思っております。

阿部(知)小委員 続いて、雨宮先生にお伺いいたします。

 私は先生をいつも遠くから眺めておりまして、長年日本の移植の推進に向けて御尽力をいただき、私とは多少立場は違いますが、先生の長年のお取り組みに敬意を表するものです。

 そういう先生のお立場であればこそ、実は、きょうはお願いがございます。きょうの御論議をいろいろ伺いましても、実は医学界の中ですら、この脳死の長期生存例も含めてまだまだ論議がある。しかし、移植学会がお配りになったこの臓器移植QアンドAを拝見いたしますと、内容的に、私はちょっと乱暴なのではないかと思うわけです。

 例えば三ページのこの絵、すごくシェーマティックにかいてあって、ここがだめ、機能がないというところをブルーにされていて、これは専ら植物状態との差を示すためによく使われる図ですが、しかし、これを機能というふうに理解する方が果たしてどのくらい、国民の受け取り方ですね、こうかかれると、この全部の細胞が死滅しているような印象を受けるわけですね。ここには機能というふうに書いてございますが、そうすると先ほどの視床の問題、成長する問題等々が、ここではちょっと抜け落ちるように思います。

 また同じように、勝手な指摘で恐縮ですが、アラン・シューモンを取り上げたところも、やはり私はもう少し丁寧に、綿密に、アメリカでの論議も紹介すべきではないかなと思うのであります。人の死とするかどうかということと医学的な論争というのは、やはりちょっと分けて考えていかないと。

 ここではそういうことが大変に、これも恐縮ですが、例えば九ページで、「日本小児科学会別所文雄会長(当時)もお話されています。」となっていますが、「脳死と判定され回復した事例はありません。」と。この回復ということと、先ほどのようにその状態で成長することがあるということはやはりちょっと違うけれども、これだけ断定されるといかがか。

 あるいは帝王切開で分娩されるということも、国民には分娩なんですね。しかし、ここは帝王切開しないととなっていて、それでしか生まれないと。

 私は、本当に先生たちの役割は高く評価した上で、だからこそ、国民にこの実態を広く知らしめるために、他の学会とも共同して、今あるこうした問題点をまず医学界が率先して煮詰めるべきではないかと思いますが、いかがでしょうか。

雨宮参考人 御意見、大変ありがとうございます。

 私どもとしましては、やはり臓器提供、臓器移植というものを推進する立場にございますので、先生の御意見を十分に活用させていただきまして、ボリューム2をぜひ発行させていただきたい、こんなふうに思っております。

 ありがとうございました。

阿部(知)小委員 済みません、他の三方も本当に聞きたいのですけれども、時間が許しません。

 ありがとうございました。

三ッ林小委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。

 参考人の方々には、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。小委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時十三分散会


このページのトップに戻る
衆議院
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-7-1
電話(代表)03-3581-5111
案内図

Copyright © Shugiin All Rights Reserved.