衆議院

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第9号 平成25年5月16日(木曜日)

会議録本文へ
平成二十五年五月十六日(木曜日)

    午前九時四分開議

 出席委員

   会長 保利 耕輔君

   幹事 伊藤 達也君 幹事 岸  信夫君

   幹事 中谷  元君 幹事 葉梨 康弘君

   幹事 平沢 勝栄君 幹事 船田  元君

   幹事 武正 公一君 幹事 馬場 伸幸君

   幹事 斉藤 鉄夫君

      泉原 保二君    上杉 光弘君

      衛藤征士郎君    大串 正樹君

      大塚  拓君    小松  裕君

      河野 太郎君    鈴木 馨祐君

      高木 宏壽君    高鳥 修一君

      土屋 品子君    土屋 正忠君

      土井  亨君    徳田  毅君

      西川 京子君    西村 明宏君

      橋本  岳君    馳   浩君

      鳩山 邦夫君    松本 洋平君

      武藤 容治君    務台 俊介君

      保岡 興治君    山下 貴司君

      山本ともひろ君    大島  敦君

      篠原  孝君    辻元 清美君

      三日月大造君    山口  壯君

      伊東 信久君    坂本祐之輔君

      新原 秀人君    西野 弘一君

      三木 圭恵君    大口 善徳君

      浜地 雅一君    小池 政就君

      畠中 光成君    笠井  亮君

      鈴木 克昌君

    …………………………………

   衆議院法制局法制企画調整部長           橘  幸信君

   衆議院憲法審査会事務局長 窪田 勝弘君

    ―――――――――――――

委員の異動

五月十六日

 辞任         補欠選任

  馳   浩君     小松  裕君

  原田 憲治君     橋本  岳君

  山下 貴司君     大串 正樹君

  山本ともひろ君    務台 俊介君

  古川 元久君     辻元 清美君

同日

 辞任         補欠選任

  大串 正樹君     山下 貴司君

  小松  裕君     馳   浩君

  橋本  岳君     原田 憲治君

  務台 俊介君     山本ともひろ君

  辻元 清美君     古川 元久君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件(日本国憲法の各条章のうち、第十章、第十一章及び前文の論点)


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     ――――◇―――――

保利会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件、特に日本国憲法の各条章のうち、第十章、第十一章及び前文の論点について調査を進めます。

 本日の議事について申し上げます。

 まず、衆議院法制局当局から説明を聴取し、その後、各委員からの自由討議を行うことといたします。

 衆議院法制局当局から説明を聴取いたします。衆議院法制局法制企画調整部長橘幸信君。

橘法制局参事 衆議院法制局の橘でございます。

 本日は、第十章最高法規、第十一章補則そして前文につきまして、その主要論点の御報告をさせていただきたいと存じます。よろしくお願い申し上げます。

 それでは、早速、第九十七条の御報告に入ってまいりたいと存じます。

 第九十七条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるとか、「過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」といったように、基本的人権の由来、本質を述べた大変に格調の高い条文でございます。

 しかし、他方、第十一条後段をお読みいただきますと、そこでも「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と定められていて、かなり重複した内容になっていることにすぐにお気づきになられるはずでございます。

 このようなことから、第九十七条及び第十一条後段の関係については、その制定の経過がどのようなものであったのかが大変に気になるところですが、これについては、日本国憲法制定の際に内閣法制局の第一部長及び法制次長として関与された佐藤達夫先生の御著書が、次のように説明しておられます。衆憲資八十五号の四ページに、九十七条成立の由来として参考掲載しておきましたので、あわせて御参照いただければと存じます。

 これによりますと、GHQから示された草案では、この部分の規定は、当初、「此ノ憲法ニ依リ日本国ノ人民ニ保障セラルル基本的人権ハ人類ノ自由タラントスル積年ノ闘争ノ結果ナリ時ト経験ノ坩堝ノ中ニ於テ永続性ニ対スル厳酷ナル試錬ニ克ク耐ヘタルモノニシテ」云々というものであった。これに対して日本側は、さすがに「積年ノ闘争ノ結果」だとか「時ト経験ノ坩堝」だとかいう表現は、およそ我が国の法文の体をなさないとして、その表現を修正した上で、現在の第十一条に後段として、その趣旨である人権の永久不可侵性という部分だけを規定することにしたというのであります。

 ところが、総司令部、GHQ側は、実は、あれはチーフであるホイットニー民政局長のお筆先になる得意の文章であるので、削るのはぐあいが悪い、何とか尻尾の方、第十章あたりでいいから残してくれないかということで、これを第十章の冒頭に規定することにしたのだが、その際、逆に、第十一条後段を削りそびれて、こちらも残ってしまったというのでございます。

 このような立法過程や、第十一条後段との重複に鑑みて、第九十七条は削除すべきとするのが、論点表のAの欄の御主張でございます。

 しかし、このようにしてでき上がった第九十七条自体の意義について、佐藤達夫先生御自身が、「この第九十七条の説明としては、当時から、基本的人権の確立こそは、この憲法の核心をなすものであり、したがって、その貴重なゆえんを強調したこの条文は、まさに実質的な意味での最高法規性につながる、ということで一貫してきた。」「もはやこの条文は、それこそ「時と経験の坩堝」のなかで、第十章にりっぱに溶けこんでいるといってよさそうである。」とも述べられています。

 そして、このような佐藤達夫先生の評価を前提にして、実定憲法の憲法解釈論として唱えられているのが、第九十六条から第九十九条までの四つの条文の関係に関する次のような説明です。衆憲資八十五号の二ページ目に簡単なポンチ絵を掲げておきましたので、御参照いただければと存じます。

 このポンチ絵が端的に示していますように、日本国憲法が最高法規であるという九十八条の意味は、それに先立つ二つの条項の意味を理解して初めてその意味を真に理解できるとして、まず、第九十六条において、この憲法が硬性憲法であるということ、換言すれば、この憲法の形式的、手続的最高法規性を定めていること。次に、第九十七条において、なぜゆえにこの憲法が最高法規であるのかというと、それは永久不可侵な基本的人権の保障を目的としたものであるという、憲法の実質的最高法規性を定めているということ。そして、このように、憲法が最高法規であることについての形式、実質の両側面に関する規定を受ける形で、第九十八条において高らかにその最高法規性を宣言する、そのような見事なまでの論理的構造をとっているのだという説明でございます。

 そして、この憲法の最高法規性を保障する憲法保障制度の一環として、最後に第九十九条を設けて、権力に携わる公務員全般に対する憲法尊重擁護義務を規定しているというわけでございます。

 冒頭申し上げました制定経緯に照らせば、当初から意図してこのような条文構造になったわけではないのですが、でき上がった実定憲法の解釈論として主張されているものであり、これがCの欄の御主張につながっているものと存じます。

 次に、第九十八条に関する論点ですが、ここでは専ら憲法と条約の関係について議論されてまいりました。

 すなわち、憲法九十八条一項では、この憲法に反する法律などは無効となる旨述べておりますが、そこに条約は掲げられておりませんし、他方、同条第二項においては、条約の誠実遵守義務が規定されています。

 また、最高裁の違憲立法審査権を規定する第八十一条におきましても、その憲法適合性の対象となる法令の中に条約が掲げられていないことなどから、条約と憲法とのいずれが優位するのかが問題とされてきたところでございます。

 これについては、一般に、国民主権の原理や、憲法はその改正に両院での三分の二の発議や国民投票が要求されているのに対し、条約は単に国会の過半数の賛成でその締結が承認されることなどに鑑みて、憲法が優位するとの説が通説とされています。

 なお、憲法優位説をとりながらも、確立された国際法規などについてはそのような条約が優先するという、いわゆる条件つき憲法優位説が説かれることもありますが、そのような確立された国際法規に日本国憲法が反すると見るべき余地はないことから、結果として憲法優位説と変わりはないとも説かれているようでございます。

 以上のことを背景として、A1は、明文でもってそのような曖昧な条約の位置づけを明らかにするべきであるとする立場であり、Cは、現行の解釈のままで差し支えないとする立場です。

 なお、以上の論点とは別の論点として、A2に掲げた見解がございます。これは、一般に、条約を締結した場合に、それを国内において実施するために国内法の整備が必要となることが少なくないことから、このような条約の国内実施法整備の義務を憲法に明記するべきとの御主張です。

 次に、第九十九条の憲法尊重擁護義務ですが、これに関して特に議論されてきたのは、憲法尊重擁護義務の対象として国民を明記することの是非でございます。

 現行の九十九条は、憲法尊重擁護義務の対象として、天皇または摂政のほか、内閣総理大臣を含む国務大臣、国会議員、裁判官といったように、行政、立法、司法の代表的な職を掲げた上で、その他の公務員を含めて、この憲法を尊重し擁護する義務を負うものとしております。

 そして、ここに一般の国民が掲げられていないことをどう理解するべきかについては、一般に、近代的、立憲的意味の憲法は、それを設けることによって国家権力を制限し、国民の自由を確保しようとするものであり、そうである以上、憲法の尊重擁護は、本質的に、国家の権力機構を構成し、憲法を直接、間接に運用する任務に当たる公務員に対して国民の側から課される性質のものであるとして、国民みずからに対しては、例えば第十二条のように、この憲法が国民に保障する自由及び権利を国民の不断の努力によって保持するべきことを定めるにとどめているなどと説明されているところでございます。

 しかし、このような議論を背景としつつも、国家の基本法である憲法を国民が守らなくてもいいということにはならないという観点から、やはり国民にも憲法の尊重擁護義務を課すべきではないかとするのがAの欄の見解です。

 他方、現行の解釈のままでよいとするのがCの欄の見解です。

 次は、補則という章名がつけられた第十一章ですが、ここには四カ条が規定されております。

 冒頭の第百条は、施行期日及び施行のための準備に関する規定であり、第百一条から第百三条までは、最初の参議院議員の任期に関する特例や公務員の任期に関する経過措置に関する規定であります。

 これらの規定は、先生方が日々制定されておられます通常の法律でいえば附則のような規定でありまして、いずれも、施行後の今日においては、もはや実質的な意味を持たない規定となっているものでございます。

 引き続いて、前文に関する主要論点について御報告いたします。

 まず、前文の法的意義が問題となりますが、これを平易に述べたものとして、衆憲資八十六号の第一ページの冒頭にも掲載しておりますが、日本国憲法施行直後の昭和二十二年八月に、当時の文部省が新制中学校一年生用の社会科教科書として作成、発行した「あたらしい憲法のはなし」の解説がございます。

 そこでは、「前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。この前文というものは、二つのはたらきをするのです。」と述べた上で、「その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。」として、まず、前文が憲法の各条文の解釈指針として機能することについて指摘するとともに、続けて、「もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。」と述べて、前文に記された憲法の基本原理が憲法改正の限界を画することについても言及しています。

 次に、著名な憲法学者であった芦部信喜先生によりますと、前文を有する憲法は少なくないが、その内容は国によって大きく異なるとして、一つ、憲法制定の由来を述べるものや、二つ、その趣旨、目的をうたうものもあれば、他方では、三つ、憲法の基本原則や理想を宣言するものもあるとして、大ざっぱな類型化を試みておられます。また、形式も、短いものから長いものまでまちまちで、その法的性質も一様ではない旨も述べられています。

 衆憲資八十六号十五ページ以下には、御参考までに幾つかの諸外国の憲法前文を掲載しておきましたが、例えば中華人民共和国憲法やイラン・イスラム共和国憲法のように、かなり長文のものもございます。他方、アメリカやドイツ、イタリア、スペインなどのように、かなりシンプルなものもあり、まさに各国それぞれといったところです。

 そして、再び芦部信喜先生によりますと、我が日本国憲法の前文は、上記の分類の第三類型の典型的なもの、すなわち憲法の基本原則や理想を宣言したものとされております。

 以上のことを前提にして、論点表に基づいて前文に関する主要論点を御報告すれば、大きく二つの論点からこれまで国会では御議論がなされてきたように存じます。一つは前文の内容に関する御議論、もう一つはその文章、表現ぶりに関する御議論であります。それぞれについて、現行の前文について、ある程度加筆修正する必要があるとするのがAの欄の御主張であり、現行のままでよいとするのがCの欄の御主張です。

 それでは、以下、加筆修正するべきであるとする御主張の具体的な内容について、ごく簡潔に御紹介してまいります。

 まず、現行の前文は四つの段落から成り立っています。衆憲資八十六号の二ページにこの前文の各段落の内容とその要旨を掲載してございますが、これからもわかりますように、現行の前文は、民定憲法、国民主権の憲法であることや、徹底した平和主義、国際協調主義を採用するものであることについてはかなりの字数を割いて詳細に述べているところですが、これに比較して、基本的人権尊重の原理に関する記述が薄いこともわかります。このようなことに鑑みて、もう少しバランスよく、基本的人権尊重の原理についても言及するべきとの御主張がまずございます。

 次に、現行の前文は、どこの国の憲法の前文かわからない、無国籍憲法のようなものになっている、もっと我が国固有の価値としての歴史、伝統、文化などを明記するべきとして、例えば天皇制や和の精神などを掲げる御主張がございます。もちろん、これに対しては、人類普遍の原理としての基本原理はどの立憲主義国家においても共通のものであり、無国籍という批判は当たらないとの反論もございます。

 また、それ以外の内容についても、憲法の本則への規定追加などと関連して、地球環境の保全、生命倫理や人間の尊厳、安全保障や国際協力、地方分権など、論点表に掲げました幾つかの事項を追加するべきとの御主張もございます。

 最後に、もう一つの御議論はその表現ぶりについてでありますが、現在の前文の文章は余りに翻訳調であることから、もっとわかりやすい美しい日本語で、かつシンプルに書くべきであるとする御主張がございます。これに対しては、現在の前文は、大変に格調高いものであり、国民の間にも定着しており、改正の必要は一切ないとの御主張もなされているところでございます。

 かなり駆け足になってしまいましたが、以上で第十章、第十一章そして前文に関する御報告を終わります。ありがとうございました。

保利会長 以上で衆議院法制局当局からの説明聴取は終わりました。

    ―――――――――――――

保利会長 これより自由討議に入ります。

 この自由討議につきましては、幹事会の協議に基づき、まず、各会派を代表する委員が順次発言を行い、その後、各委員が自由に発言を行うことといたします。

 発言の中には、事実確認等のため、衆議院法制局当局に対する質問を含んでも結構です。

 それでは、まず、各会派を代表する委員の発言に入ります。

 発言時間は七分以内とし、その経過については、終了時間一分前及び終了時にブザーを鳴らしてお知らせします。

 発言は自席から着席のままで結構であります。

 発言の申し出がありますので、順次これを許します。保岡興治君。

保岡委員 自由民主党の保岡興治です。

 第十章最高法規及び前文につきまして、我が党を代表して意見表明いたします。

 まず、基本的人権の由来特質の論点について申し上げます。

 現行憲法九十七条は基本的人権の不可侵性について定めるもので、現行憲法の三大原理の一つである基本的人権の尊重の理念があらわされております。一方で、第三章国民の権利及び義務の冒頭にある十一条後段でも基本的人権の不可侵性を定めており、これは先ほどの話のとおり、九十七条と内容が重複していると考えます。

 現行憲法の制定過程を見ると、九十七条のもととなった総司令部案十条が、GHQ、ホイットニー民政局長のじきじきの起草によることから、政府案起草者がその削除にちゅうちょしたのが原因であることが明らかになっています。

 我が党は、基本的人権の尊重の理念は憲法上の重要な要素と考えますが、同趣旨の規定を重複して設ける必要はないと考えます。こうしたことから、我が党の憲法改正草案では、現行憲法九十七条を削除することとしました。

 以上、論点表ではAの立場です。

 次に、憲法尊重擁護義務の論点について申し上げます。

 現行憲法九十九条は、国家権力を行使する側である公務員に対して憲法尊重擁護義務を定めており、国民はその対象とされておりません。しかし、憲法制定権者である国民も憲法を尊重するのは、当然のことと言えるのではないでしょうか。

 我が党の憲法改正草案では、憲法の規定に敬意を払い、その実現に努力する旨の意味を持たせた訓示規定として、「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」との規定を新たに設けることといたしました。

 なお、公務員については、国民としての憲法尊重義務に加え、憲法擁護義務、すなわち、憲法の規定が守られない事態に対して積極的に対抗する義務を負うこととしております。論点表ではAの立場です。

 次に、前文について申し上げます。

 我が党の憲法改正草案では、前文を全面的に改めており、論点表ではAの立場です。

 私は、新しい憲法は、日本国憲法の三つの基本的原理を人類普遍の価値として発展させつつも、我が国のこれまでの歴史、伝統、文化に根差した固有の価値を踏まえたものであるべきだと考えています。これは、すなわち、人の和を大切にし、相互に助け合い、平和を愛し、命を慈しむとともに、美しい国土を含めた自然との共生を大事にする国民性、一言で言えば国柄ともいうべきものであります。しかし、現行憲法の前文には、そうした点が全くあらわれておりません。

 また、前文は、いわば憲法の顔としてその基本原理を簡潔に述べるべきものですが、現行憲法の前文には、憲法の三大原則のうち、主権在民と平和主義はありますが、基本的人権の尊重についての直接の記述はありません。個人の尊厳を究極、最高の価値とする基本的人権の尊重の原理は、みんなの幸せを実現しようとする憲法の根本的価値であり、前文にその具体的な記述がないことは疑問であると言わざるを得ません。

 加えて、特に問題なのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という部分です。これは、ユートピア的発想による自衛権の放棄にほかなりません。

 こうした点を踏まえ、我が党の憲法改正草案では、現行憲法の前文を全面的に書きかえることとしました。

 次に、我が党の憲法改正案の前文の内容について申し上げます。

 第一段落では、我が国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇をいただく国家であることを明らかにし、主権在民のもと、三権分立に基づいて統治されることをうたいました。

 第二段落では、戦後の歴史に触れた上で、平和主義のもと、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄のために貢献することをうたいました。

 第三段落では、日本国民は、国と郷土をみずから守り、家族や社会が助け合って国家を形成するという自助、共助の精神をうたいました。その中で、基本的人権を尊重することを求めました。和の精神は、日本の国柄、日本の薫りをあらわす重要な要素であり、聖徳太子以来の我が国の特性でもあります。改正草案では、ここに「和を尊び」という文言を入れました。

 第四段落では、人権保障の根幹である自由を掲げるとともに、自由には規律を伴うことを明らかにした上で、美しい国土と自然環境を守り、教育と科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させることをうたいました。

 第五段落では、伝統ある我が国を末永く子孫に継承することをうたい、新憲法を制定することを宣言しました。

 最後に、前文の文章表現について申し上げます。

 現行憲法の前文は全くの翻訳調でつづられており、日本語として違和感があります。我が党の憲法改正草案では、日本語らしく、わかりやすいものとし、短い文章で表現しました。現行憲法の前文は約六百四十字ですが、我が党の草案の前文は約三百四十字としました。論点表ではAの立場になります。

 以上、私からの意見表明といたします。ありがとうございました。

保利会長 次に、三日月大造君。

三日月委員 民主党の三日月大造です。

 第十章最高法規、前文につきまして、民主党を代表し意見表明いたします。

 まず、九十七条、基本的人権の由来特質の論点について申し上げます。

 九十七条は、この憲法が保障する基本的人権が、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と規定しています。

 基本的人権の確立こそ憲法の核心をなすものです。人間の権利、自由を国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心に憲法は構成されています。だからこそ憲法は最高法規なのであります。

 第十章最高法規の冒頭にある九十七条は、そうした実質的な最高法規性につながる意味を持つものであり、この規定が置かれている意味は非常に大きいものであります。この九十七条について、十一条後段と内容が重複していることから削除すべきとの御意見もございますが、九十七条は、このように重要な意味が含まれている条文であり、これを削除することは適切ではないと考えます。したがって、九十七条は現行のままでよく、論点表ではCの立場です。

 次に、国内法秩序における条約の位置づけの論点について申し上げます。

 条約について、憲法九十八条二項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」と定めています。

 私どもは、二〇〇五年の憲法提言で、人権に関する記述の中に国際人権保障の確立という項目を立てています。そこでは、国際基準に見合った人権保障体制を確立する必要があるという観点から、「憲法の最高法規及び条約に関する項に、国際条約の尊重・遵守義務に加えて、それに対応する「適切な国内措置」を講ずる義務を明確にする。」と記しています。

 今日、人権の実現と保障は国際社会の共通の利益と認識されており、日本における人権保障もまた、憲法とともに、国際人権規範によって支えられています。国連憲章は、人権と基本的自由を尊重するよう助長することを国際連合の目的として掲げており、日本における人権保障も、国際規範の発展とともに展開されています。国際条約に対応する国内措置を迅速にとることを通じて、条約を批准しないまま放置することなく、国際基準に見合った人権保障体制を確立する必要があると考えます。論点表ではA2の立場です。

 次に、憲法尊重擁護義務の論点について申し上げます。

 憲法は、国家権力を制限して、国民の権利、自由を守るものです。近代立憲主義の考え方です。そこから考えますと、憲法の規定やその精神を忠実に守るという憲法尊重擁護義務は、本来的には統治権力を持つ公務員が負うべきものであって、主権者国民ではないと考えます。

 以上から、国民の憲法尊重擁護義務を憲法に明記すべきではないと考えています。論点表ではCの立場です。

 次に、前文について申し上げます。

 我が党が二〇〇五年に発表いたしました憲法提言では、その冒頭で、「未来志向の憲法を構想する」という項目を掲げ、憲法についての考え方を述べています。

 そこでは、「私たちは、日本国憲法の根本規範に基づいて築き上げてきたものに誇りを持ち、それを堅持しつつ、さらにそれらを強化・発展させるために求められるのは何かという出発点に立って議論を進めている。」とした上で、新しい憲法が目指す五つの基本目標を掲げています。

 すなわち、自立と共生を基礎とする国民が、みずから参画し責任を負う新たな国民主権社会を構築すること。世界人権宣言及び国際人権規約を初めとする普遍的な人権保障を確立し、あわせて、環境権、知る権利、生命倫理などの新しい権利を確立すること。日本からの世界に対するメッセージとしての環境国家への道を示すとともに、国際社会と協働する平和創造国家日本を再構築すること。活気に満ち主体性に満ちた国の統治機構の確立と、民の自立力、共同の力に基礎を置いた分権国家を創出すること。日本の伝統と文化の尊重とその可能性を追求し、あわせて個人、家族、コミュニティー、地方自治体、国家、国際社会の適切な関係の樹立、すなわち重層的な共同体的価値意識の形成を促進すること。

 以上の五つであります。

 前文について議論、検討する際には、憲法の精神をどのようなものとするか、憲法が目指す基本目標はどのようなものとするかといった大局に立って検討すべきものではないかと考えます。

 前文に関する意見の中には、憲法に我が国の歴史、伝統、文化を盛り込むべきという意見も見られます。そのこと自体に私は反対するものではありません。

 ただ、憲法に盛り込むべき歴史、伝統、文化とは、具体的に何でありましょうか。それは国民全体が共有できるものでありましょうか。憲法に歴史、伝統、文化を盛り込んだ場合、特定の人々や集団の特定の歴史観や価値観を国民に押しつけることにならないでしょうか。憲法は思想書でも聖書でもありません。我が国の歴史、伝統、文化を盛り込むものとして、それが国民全体に受け入れられるものかどうか、慎重な議論が必要ではないかと考えます。

 以上で、私からの意見表明とさせていただきます。

保利会長 次に、伊東信久君。

伊東(信)委員 日本維新の会の伊東信久です。

 日本国憲法第十章最高法規及び前文に関して、我が党を代表して意見を述べさせていただきます。

 日本維新の会では、党の憲法調査会にて各章について議論を重ねてきていますが、第十章については以下のような議論をしています。

 第十章最高法規について、我が国の先人たちの多年の努力の結果我々は現在の基本的人権を保障されていることを踏まえ、九十七条については、いわゆる天賦人権説ではなく、英米法の信託説に基づいて、国民が政府に信託し、政府はその信託を受けて国民の人権を保障するという趣旨を明確にする方向で適切な表現を検討したいと思います。

 九十八条については、国内法秩序における条約の位置づけに関連して、憲法が条約に優位することを憲法上明確にすべきだと考えます。すなわち、論点表ではAの1の立場にあります。

 九十九条については、基本的には現行のままでよいと思います。すなわち、論点表ではCの立場に近いわけでありますが、改憲条項がある以上、国会議員が憲法改正について議論し発案することは合憲である、こういった趣旨を明確にする必要があると思います。

 次に、前文についてですが、そもそも現行憲法は、占領軍によって英文で起草され、その英文を日本語に翻訳したという歴史的経緯もあり、美しい日本語とはとても言えない状況です。その上で、前文を改正するかどうかの議論に関しては、余り長くないシンプルなものに改めるべきと考えます。

 しかしながら一方で、今月の十三日に開催された九十六条の議連にてジャーナリストの桜井よしこさんもおっしゃっておりましたが、憲法改正をする際には、前文も全面的に書きかえ、源氏物語など世界最古の文学を有する日本の文化と伝統を踏まえた表現とするように検討すべきだという意見も出ました。

 また、他国に自国の生存を委ねる趣旨を改め、国家の自立を目指す趣旨に基本骨格を改正すべきだと思います。

 具体的な内容についてですが、前文には、憲法の基本三原則、つまり、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の趣旨を明記する方向で検討したいと思います。

 その際、党の憲法調査会では、次のような内容を盛り込む方向で検討したいと思います。

 第一に、国民主権と代表民主制、将来の国民への責任についてです。

 ここでは、政治権力は国民に由来し、国民は代表者を通じてこれを行使することや、代表者は国民からの信託を真摯に受けとめ、現在及び将来の国民に対する責任を自覚しつつ国政を行わなければならないことなどが想定されます。

 第二に、伝統及び基本的人権、自由と民主主義の尊重です。

 国民統合の象徴である天皇陛下を元首として明記するとともに、我が国の歴史と文化に誇りを抱き、よき伝統を保守しながら、基本的人権、法の支配、自由と民主主義を尊重し、多様な価値観を認める体制を堅持することをうたいたいと思います。

 第三に、平和主義と国家の自立です。

 恒久の平和を念願して、侵略戦争を否認するとともに、自立した国家として、法の支配、自由主義、民主主義等の価値観を共有する諸国と連携し、自国及び国際社会の平和の実現に努める趣旨をうたうべきだと思います。

 これ以外にも、環境、教育、地方分権など重要な論点は多数ありますが、これらの論点については、基本的には憲法本文や法律事項で対応する方向で検討したいと思います。

 以上、第十章及び前文に関する党内の議論の方向性について報告いたします。

保利会長 次に、大口善徳君。

大口委員 公明党の大口善徳でございます。

 第十章最高法規及び前文について、公明党を代表して意見を表明いたします。

 まず、第十章の最高法規の論点のうち、基本的人権の由来特質の論点について申し上げます。

 九十七条は、「この憲法が」「保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、」「過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と規定しています。

 基本的人権については、十一条において「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とされ、十二条において「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」とされています。

 そのような基本的人権について、改めて第十章最高法規の章の冒頭にある九十七条でその本質を規定することにより、憲法の実質的な最高法規性を支える規定となっております。そのような意義を強調するのが学説上も通説となっています。

 九十七条の規定は十一条後段と内容が重複しており不要であるとの指摘がありますが、九十七条には今述べましたような積極的な意義が含まれているものと思いますので、現行の規定のままでよいと考えます。論点表ではCの立場であります。

 次に、国内法秩序における条約の位置づけの論点について申し上げます。

 条約と憲法の関係については、あくまで国の最高法規である憲法の方が条約より優位するとの見解に立つべきであると考えますが、それは既に憲法上明らかでありますので、九十八条については現行規定のままでよいと考えております。論点表ではCの立場であります。

 次に、憲法尊重擁護義務の論点について申し上げます。

 国民の権利を保障し、その保障のために統治権力を制限するという近代立憲主義の観点からすれば、憲法尊重擁護義務の名宛て人は、本来、統治権力の主体、統治権力を持つ者であって、この九十九条にありますように、天皇または立法、行政、司法の代表的な者、公務員であって、主権者国民ではありません。国民の憲法尊重擁護義務を憲法に明記することについては、我が党としては否定的でございます。論点表ではCの立場であります。

 次に、前文の論点について申し上げます。

 日本国憲法の前文は、平和主義などの理念を高らかにうたっているものであります。また、核のない世界の実現に向けて国際社会の懸命な努力が続けられている中、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とした前文にうたわれている平和的生存権の思想は、唯一の被爆国としての使命をあらわしているものであり、改めてその意義を評価すべきであります。

 そのような前文に加えるべき項目があるとするならば、例えば憲法の骨格をなす三原則の一つである基本的人権の尊重が前文に明確に書かれていないことから、これを加えるといったことが考えられるのではないかと思いますし、そのような見解も党内にあったところでございます。

 党内には、この人類普遍の原理とともに、日本人としてのアイデンティティーを共有できる記述が前文に必要だとの議論もあります。しかし、これは価値判断が伴いますので、人によって考え方や意見が異なるものであり、果たして日本人全体で共有できるか否か、この点に留意して議論を行う必要があると考えます。

 二十一世紀の国際社会は、相互協力関係の構築が一段と求められています。そのような点で、国際社会で名誉ある地位を占めたいとの前文の記述が、人道復興支援などのいわゆる国際貢献の根拠とされてきました。しかし、これでは不十分であることから、国際貢献の明確化を求める指摘が党内にもあります。この点につきましては、憲法前文あるいは憲法の本文に書き加えることや、法律で規定することといった選択肢が考えられます。

 最後に、私の個人的な見解を申し上げます。

 人類普遍の原理とともに、人間の安全保障、地球環境、生命倫理といった人類普遍の原理に準ずるような価値については前文にうたわれてよいのではないか、加憲するにふさわしいものではないかと考えます。

 特に、人間の安全保障の理念については、約二十年前に提起され、紛争と貧困にあえぐ人々に対する支援の理念として大きな影響を与えてきたものであります。

 昨年九月に国連総会で、人間の安全保障に関する国連総会決議が採択されました。この決議は、我が国も提案国の一つとなっているものでございます。この決議で、人間の安全保障について、自由と尊厳のうちに生存し、貧困と絶望から免れて生きる権利、恐怖からの自由と欠乏からの自由を享受する権利を人々が有することなどが共通理解とされたところであります。

 こうした人間の安全保障の理念については、前文にうたうことが十分考えられると思います。

 以上、私の意見表明とさせていただきます。

保利会長 次に、小池政就君。

小池(政)委員 みんなの党の小池政就です。

 みんなの党は、まず、憲法第十章及び第十一章につきましては、現行のとおりとすべきと考えます。

 第九十七条については、その作成経緯と、内容的に第十一条後段と重複することから、削除すべきとの意見はありますが、第十章に位置することから、第十一条と違った意義、すなわち憲法の実質的な最高法規としての意義を有するものと評価されています。

 また、第九十九条の憲法尊重擁護義務については、国民の憲法尊重擁護義務は倫理的責務にとどまるものであり、法的義務としてあえて憲法に規定するまでもないとしています。

 次に、前文については、現在党内で検討中ではありますが、これまでの制定の経緯や内容から改める必要があるという意見も存在いたしますので、紹介させていただきます。

 現在の憲法の前文は、GHQによる憲法改正の経緯が色濃く残ったものであります。GHQ草案の前文について外務省が訳し、本則部分との字句の統一等を図り、平仮名、口語訳に変えられたという経緯からも、その表現や内容の不自然さが残ります。そして、そこには日本の歴史や伝統に基づいた独自性は見当たりません。

 また、内容としても、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、」でありますとか、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、」などの文言が示すように、我が国が置かれた状況に対しても理想主義的観点が強過ぎるのではという印象が残ります。

 それでは、憲法前文をどのような内容に改めるか、これも検討中でありますが、議論を紹介させていただきます。

 例えば、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という三原則を含めるべきという意見です。我が国の憲法の前文は憲法の基本原則、理想を宣言するものであり、さらに、そもそも前文には、本則の手引きとして、また将来の改正時にも引き継がれる考えを示すという二つの働きがあります。とすれば、憲法の前文には時代を超えた憲法の基本的な原則を盛り込むべきであり、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という三原則は、現行憲法の三大原理の一つであり、時代を超えた普遍的な価値観を含むことから、盛り込むべきとしています。

 また、日本の歴史、伝統、文化、価値観に基づいた国家の性質を示すという意見もあります。現在の憲法前文には、我が国独自の日本の歴史、伝統、文化、価値観はあらわれていません。世界に誇れる悠久な歴史と固有の魅力ある文化や共生の理念等を有している点を示すことによって、国民及び将来の国民が誇りと愛着を感じるような内容に改めるべきでもあります。

 そして、改める際には、二点を留意する必要があると考えております。

 一つは、憲法前文が決して本則のお飾りのようなものでなく、時として憲法の本則の条項にも近い政治的効力を発揮し得るという点です。これは過去の事実からも確認されます。

 例えば、小泉純一郎元首相は、平成十三年九月十一日に起きました国際的なテロ行動への我が国の対応として、憲法前文の基本理念を前面に打ち出した説明を行っています。

 平成十三年十月五日の衆議院予算委員会において、小泉元首相はこう述べています。「今、状況を考えて、憲法を改正するような状況じゃないですよ。その中でいろいろ知恵を出して、憲法の前文と憲法九条の間のすき間、あいまいな点があるところを、どうやって国会議員の皆さんの知恵をかりながら日本ができることをやろうかということを考えている。」

 また、同様に、小泉元首相は、平成十五年十二月九日、イラクへの自衛隊派遣の基本計画を閣議決定したことを受けての記者会見において、憲法前文を読み上げ、「まさに日本国として、日本国民として、この憲法の理念に沿った活動が国際社会から求められているんだと私は思っております。」と述べています。

 このように、我が国の憲法前文が単なる建前としてではなく、一定の政治的効力をも持ち得る点を踏まえる必要があると考えます。

 二つ目は、憲法前文には、時代の変化にかかわらず、一定の普遍性を備えなければならないという点です。

 これは、将来の憲法改正の手続が基本的には逐条ごとであるということから、そのどの段階でも本則及び全体との統一性がとれる内容がふさわしいとの考えからでもあります。そうでなければ、時代の変化、本則の改正に合わせて前文を書き直す必要が生まれ、基本理念たる前文の過度な改正は、国内外に不要な懸念をもたらす可能性もあります。

 以上、一部検討中ではありますが、みんなの党の憲法第十章、第十一章及び前文に対する考え方となります。

保利会長 次に、笠井亮君。

笠井委員 日本共産党の笠井亮です。

 まず、第十章が最高法規としている意味について述べます。

 冒頭の九十七条で、基本的人権の永久不可侵性を宣言したことは、最高法規としての日本国憲法の本質が人権保障にこそあることを明確に示すものです。もとは第三章にあった条項を憲法の制定過程で第十章の冒頭に置いたのもそのためです。

 この九十七条では、基本的人権が人類の多年にわたる自由獲得の成果であり、過去幾多の試練に耐えてきたことに言及して、その歴史的由来も明らかにしています。ここにこそ、第十章の核心があると考えます。この九十七条を全文削除する改憲は、憲法の本質を丸ごと取り払い、憲法を憲法でなくしてしまうものにほかなりません。

 この憲法の最高法規性を確保するために、続く九十八条一項で国の最高法規であることを宣言し、九十九条で公務員の憲法尊重擁護義務を、前回検証した九十六条、違憲審査制を規定した八十一条などとともに定めているのです。これらが一体となって、時の権力が制定した法律や違憲性のある権力行使によって憲法がゆがめられないようにしているのであります。

 次に、九十九条の憲法尊重擁護義務についてです。

 九十九条は、公務に携わる人の全てが、最高法規である憲法を遵守して、その内容を実現することを求めています。同時に、憲法違反の行為を予防し、憲法を守るために積極的に努力する義務を主権者である国民に対して負うことも定めているのです。憲法尊重擁護義務の対象に国民が含まれないのは、主権者国民が憲法によって国家権力を縛るという近代立憲主義の考えから、当然のことであります。

 この規定には、国務大臣や国会議員などが特別に明示されており、仮に改憲の立場に立つ政治家であっても、行政や立法に携わるときには憲法尊重擁護義務が重く課せられています。当審査会で述べてきたような、九条による日本と世界の平和への貢献、二十五条による社会保障の拡充、二十七条、二十八条による労働のルールづくりなどに努力することを義務づけているのであります。歴代政権がこれらの義務を十分果たしてこなかったことこそ、厳しく問われなければなりません。

 そればかりか今度は、時の権力みずからが改憲を主導しようとしていることは重大であります。安倍総理自身が、九十六条改定など改憲を促進する発言を繰り返し、改憲を目指す議員連盟に総理や閣僚が加入し重要なポストにつき続けています。

 しかし、改憲の発議権は国会にあるのであって、内閣にはありません。内閣の構成員である総理、国務大臣は、九十九条で憲法尊重擁護義務を負い続けているわけで、一議員としてなどという使い分けは通用しません。かつて、憲法を侮辱する発言で閣僚辞任に追い込まれたり、改憲を目指す集会に出席した閣僚が九十九条違反に問われたりしたことが再三ありましたが、こうした歴史を想起すべきです。

 今日の混乱あるいは退廃を導いた一つの大きな原因が現行憲法とか、憲法を破棄すべきなどの発言を国会議員が行うことも、憲法尊重擁護義務に反すると言わなければなりません。国民に憲法尊重擁護義務を課すような改憲を唱えることも、憲法を国家権力を縛るものから国民を縛るものに変えようとするものであり、主権者国民はこれを断じて許しません。

 最後に、憲法前文について述べます。

 前文では、日本国憲法制定の趣旨とともに、国民主権原理と民主主義、基本的人権の尊重、恒久平和主義と国際協調主義など、日本国憲法が立脚する基本原理が述べられています。特に、前文において、日本国憲法が、日本が起こした侵略戦争の反省の上に制定されたことを明確に述べたことに重要な意義があると考えます。

 すなわち、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」と述べ、日本が再び侵略国家にならないことを世界に公約するとともに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と宣言したのであります。九条の戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認の規定はその具体化にほかなりません。

 ところが、戦後長きにわたって歴代政権は日本の侵略について認めてこず、ようやく、村山談話において、過去の侵略と植民地支配を国策の誤りとして認めたのであります。

 しかるに、安倍総理が村山談話の見直しに言及し、侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていないとするなど、時代を逆行させる動きが強まっていることは看過できません。このことに対して、靖国参拝や日本軍慰安婦問題とともに、アジア諸国から時代錯誤の発言との厳しい批判、さらに米国からも懸念の声が広がっているのは当然であります。

 その上、憲法前文から侵略戦争への反省と不戦の誓いを削除し、全く異なるものに変えようとする動きに至っては、日本の戦後の出発点をみずから否定するだけでなく、アジアや世界の中で日本の孤立を招き、国際社会で生きていく道を失うことになりかねません。

 文字どおり、前文の精神に立った政治へと転換してこそ、国際社会において名誉ある地位を占めることができるということを強く指摘し、意見表明とします。

保利会長 次に、鈴木克昌君。

鈴木(克)委員 生活の党の鈴木克昌です。

 憲法第十章最高法規及び前文について意見表明をいたします。

 生活の党では、九十六条先行改正論のような政治的背景からの議論ではなく、将来の日本の国家像をしっかりと思い描いた上で、党内で冷静に、理性的に憲法論議を行っております。

 そして、この論議をもとに党として「憲法についての考え方」をまとめ、去る九日にこれを発表いたしました。この「憲法についての考え方」では、一、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、国際協調という憲法の四大原則は、現在においても守るべき普遍的価値であり、引き続き堅持すること。二、国民主権から発する諸原理の安易な改正を認めないという憲法の趣旨から、現行の改正手続規定は、堅持すること。そして三つ目として、憲法の基本理念、原理を堅持した上で、時代の要請を踏まえ、国連の平和活動、国会、内閣、司法、国と地方、緊急事態の関係で一部見直し、加憲すること。以上の三点を基本的な考え方としています。

 それでは、まず、第十章最高法規の論点のうち、基本的人権の由来特質の論点について申し上げます。

 九十七条に、憲法が保障する基本的人権について、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである旨が規定されています。

 我々は、先ほど申し上げましたように、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、国際協調という憲法の四大原則を引き続き堅持すべきと考えており、基本的人権の永久不可侵を定める九十七条についても、現行の規定は堅持されるべきと考えます。

 一方で、九十七条については、その内容が十一条の規定と重複しており、第十章の最高法規の章に規定されているのは場違いであるとの批判や、九十七条の制定経緯に鑑みてこれを不要とする批判も耳にします。

 しかし、立憲主義の観点からすれば、基本的人権の尊重こそは憲法の中核を形成する原理であります。また、憲法の最高法規性の観点からすれば、憲法が最高法規とされるのは、硬性憲法であるという形式的な根拠に加え、その内容が国民の権利をあらゆる国家権力から不可侵のものとして保障する規範を中心に構成されていること、これが実質的な根拠となるのであります。

 このような点を踏まえると、基本的人権が永久不可侵であると宣言する九十七条が、最高法規について定める第十章の冒頭に存在することは、積極的な意義を見出すことができるのでありまして、これを削除すべきではないと考えております。論点表ではCの立場であります。

 次に、憲法尊重擁護義務の論点について申し上げます。

 九十九条は、国家権力を行使する側である公務員に対する憲法尊重擁護義務を定めております。国家権力を縛って国民の権利を保障するという立憲主義の観点からすれば、国民がその対象とされていないのは当然であります。また、国民に憲法尊重擁護義務が課されていない現状で、何らの支障も生じておりません。論点表ではCの立場です。

 憲法尊重擁護義務が課されている側にいる内閣総理大臣から、憲法を改正すべきとの発言が、特に、九十六条を先行して改正すべきとの発言が、声高に、執拗になされています。現行憲法の改正手続に沿った憲法改正の主張とはいえ、そのような現状に対して、私は、多大な疑問を感じているところであります。

 続きまして、前文について申し上げます。

 憲法の前文は、国を形づくる基本原則や根本理念を明らかにしたものであるのが望ましい姿ではないかと考えております。

 冒頭にも申し上げましたように、日本国憲法の理念、基本原則とは、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、国際協調、この四つであります。この四つの理念については、これを否定するような改正は、憲法九十六条の改正手続によっても到底認められるものではありません。今後とも堅持していくべきものであることを、「憲法についての考え方」の中でも明確にしたところであります。

 四つの理念の中でも、特に、国際協調の原則に関連して申し上げます。

 我が党は、党の基本政策で、国連憲章や日本国憲法前文の精神にのっとった安全保障基本法を制定し、国連平和維持活動への参加を進めることを定めております。また、今般発表した「憲法についての考え方」においても、国連の平和維持活動に自衛隊が参加する根拠となる規定を設けるとともに、国連の平和維持活動への参加に際しては、実力行使を含むあらゆる手段を通じて、世界平和のために積極的に貢献する旨を規定することを明記しました。

 国際社会の平和の重要性がますます増していく中で、国際平和のために我が国が積極的に貢献していくという観点については、憲法の前文にも具体的に記すことを検討してもよいのではないかと考えています。

 日本国憲法前文の改正を議論する際には、以上述べたような考え方を念頭に置いた上で、改正の是非や盛り込むべき内容について検討を行っていくべきではないかと考えております。

 以上で私からの意見表明といたします。

保利会長 これにて各会派を代表する委員の発言は終了いたしました。

    ―――――――――――――

保利会長 次に、委員各位による自由討議に入ります。

 この際、委員各位に申し上げます。

 本日の審査会におきましては、論点を、第一に、第十章及び第十一章に関する論点、第二に、前文及びその他の論点の二つに分類いたします。

 各委員におかれましては、おおむねこの二つの論点の分類ごとに意見表明をしていただきますよう、御協力をお願いいたします。

 なお、この二つの論点の分類はあくまでも目安でありますので、各委員の発言がその他の論点に及ぶことは結構であります。

 発言を希望される委員は、お手元にあるネームプレートをお立ていただき、会長の指名を受けた後、発言してください。発言が終わりましたら、ネームプレートは戻していただくようにお願いいたします。

 発言は自席から着席のままで結構であります。また、発言の際には、所属会派及び氏名をお述べいただきますようお願いいたします。

 なお、幹事会の協議によりまして、一回当たりの発言時間は五分以内といたしたく存じます。委員各位の御協力をお願いいたします。

 発言時間の経過につきましては、終了時間一分前及び終了時にブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、第十章及び第十一章に関する論点について発言を希望される委員は、ネームプレートをお立てください。

鳩山委員 主として前文についてお話をしたいと思います。

 ここに座っておりますと、憲法の基本三原則ということがしばしば耳にされる。平和主義も国民主権も基本的人権の尊重も大変大切なことで、それに異議があるわけではありませんが、先ほど冒頭に保岡先生が、自民党の改正草案に関連してと思いますが、和とか共生あるいは自然との共生という考え方を、美しい国土とか環境問題も含めて御発言をされた。それは全く正しいと思います。

 先ほど鈴木克昌先生が、憲法の四大原則ということで、それに加えて国際協調というものをおっしゃいました。これも当たり前のことと思いますが、私は、今までの三原則に加えて、まさにそれは何と表現したらいいのかわかりませんが、和とか共生とか自然との共生という形を日本国憲法では四番目の大原則として訴えるべきではないか、そういうふうに考えます。

 これは極論になるかと思いますが、ある高名な惑星物理学の先生の講演を聞いたときに、地球環境問題というのは、結局、地球の容量を超えて人類が物質を消費する、それだけじゃなくて、人口が五十年で倍々計算のようなふえ方をしている、そうなると、地球の容量を超えて人類がふえて物を消費するということになってくると、エネルギー不足の前に食料不足もやってくる可能性が強い。そういうときに、いわゆる自由主義あるいは基本的権利ということだけで調整がつくのか。それは人類にとって悲惨な結果になる可能性があるということを厳しく指摘されて、一番必要なのは、まさにその調整であり、共生であり、場合によっては自然と共生できる範囲で人類が暮らしていくことだということを述べておられました。

 そういった意味で、日本の国柄ということも言われますけれども、前文に書くべき国柄というのも、まさにその和とか共生とか自然との共生という考え方ではないかと思いまして、この日本の国柄が世界に広がったときに初めて、世界の環境問題、地球環境問題の解決の糸口が見つかるというふうにおっしゃっておられる環境学者もいらっしゃるわけでございます。

 ぜひ、前文には、三原則に加えて、和とか共生という四原則を日本国憲法は打ち出すんだということでお願いをしたいと思います。

保利会長 ただいまは、前文は後から話をするということになっておりまして、十章及び十一章、つまり、最高法規のことと補則のところについての御意見を中心にお話をいただきたい、こういうふうに言っておりますので、それを踏まえて御発言をいただくようにお願いをいたします。

辻元委員 辻元清美です。

 まず最初に、九十九条について意見を申し上げたいと思います。

 私は、近代立憲主義の主流は、やはり憲法は権力者を縛る最高規範であるというものであり、国民に憲法を尊重させる義務というものは入れるべきではない、この主流からの離脱を意味すると考えます。

 国際的に見ましても、国民に憲法を尊重、守らせるという義務を入れているのは、旧共産圏に多く見られ、我が国が今まで価値を共有してきたと言われるアメリカやヨーロッパの主たる国々、そして韓国などアジアの国々でも、憲法は権力者を縛るという規範をある意味徹底していくというような方向でございます。

 安倍総理は、よく、法の支配、基本的人権、民主主義の価値を共有する国々とともにとおっしゃいますけれども、ここに国民に憲法を守らせるというようなことを入れるということは、近代立憲主義の主流からの離脱であり、国際的な孤立も招くのではないかという懸念までしております。笑っている人がいますけれども、真剣にお考えになった方がいいと思いますよ。

 そして、九十九条と国民主権と憲法改正の関係について申し上げたいと思います。

 憲法改正というのは、そもそも、国民から、この部分を変えてもらわないと権利を大幅に侵害されるとか、この部分を変えてもらわないと自分たちの生活に支障を来すという国民の多数の声が上がって初めて、立法府で、そうであるならば、その点についての憲法改正をすべきかどうかというのを議論するというのが憲法改正の筋です。これは国民主権との関係において、そうだと思います。

 かつ、国民投票法を私もこの場でかなり議論いたしましたが、我が国が想定している憲法改正の手続は、条文ごと、一つの、この点を変えましょうということであり、丸ごと、こっちの憲法とこっちの憲法をかえてしまえということは、法律上も予定されておりません。

 そうしますと、各政党が、各政党といっても自由民主党だけですけれども、憲法草案をおつくりになるのは結構ですが、これが正しい憲法で、国民にこれをのめというようなことを、九十九条の、憲法を遵守しなければいけない側から提示するというのは、非常に異例のことではないかと思います。

 各国の調査の結果、憲法改正を多々行っている国々もございますけれども、ここの部分を変えましょうというように、ちょっとずつ変えているわけです。

 ですから、ここは、立憲主義と国民主権と、私たちは憲法を擁護して、守って、それを実現していくという役割を踏まえた上で憲法改正の議論をしないと、例えば憲法九十六条の改正についても、一部の人たちがえらいはやし立てて、それも憲法を最も守らなきゃいけない総理大臣までもが、本会議場で、特定の条項について、九十六条についての改正を、平気で推進することをおっしゃる。しかし、国民の側はほぼ拒否しているんじゃないですか。どの世論調査でも、憲法九十六条を変えるより、これは変えるのはちょっと危ないなと。

 それはなぜかといえば、国民の側からここを変えてくれということを受けて、私たちはそれなら変えようという、国民主権と立憲主義の基本、そして九十九条の関係をごちゃまぜにしている。また、この九十九条の意味を、国会議員みずからが、そして為政者がよく理解していない結果、そんな形で憲法改正の提案をしていくということは、立憲主義の危機であり、私たち国会議員として姿勢が問われる事態であるのではないかというふうに私は思っています。これはかなり真剣に考えていただいた方がいい論点ではないかな。

 憲法改正、反対、それは自由なんです、論じるのは。しかし、私たちの立場は一体どこにあるのかということをもう一度改めて考え直すべきであるし、かつ、今の国民投票法では、そんな丸ごと、これが私たちは正しい憲法だということを国民に提示するというような憲法改正というのは想定もされていないし、各国、そういう形で憲法を改正しようとするような国はない。

 そして、それに国民に対する憲法尊重義務を入れているというような事態を諸外国から見たとき、日本は一体どこに行こうとしているのかというように思われるのではないかと思いますので、九十九条をまずきっちり私たちが理解し、遵守するということが必要ではないかと指摘したいと思います。

 以上です。

高鳥委員 自由民主党の高鳥修一でございます。

 まず、第九十九条の憲法尊重擁護の義務について。これは、九十六条改正のときに私の考えは申し上げましたので、簡潔に申し上げますが、我が党が主張している憲法改正というのは、憲法は改正をするということが当然の前提として九十六条があるわけでありますから、憲法を破棄するということを言っているわけではございません。憲法の規定にのっとって行う正当な手続による改正であるということを申し上げます。

 それからもう一点、平成二十二年五月十八日から施行されました国民投票法、これは憲法改正国民投票法でありますが、この中の規定におきまして、憲法改正原案は内容において関連する事項ごとに区分して個別に発議するものとされておりまして、九十六条を先行的に議論することには問題がないと考えます。

 次に、九十八条、国内法秩序における条約の位置づけについて申し上げます。

 「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」とされておりますが、これは憲法のみならず、条約と国内法の関係を憲法上明確にした方がよいのではないかと私は考えます。

 一つの例を挙げれば、食品表示法案について今国会で審議をされておりますが、一方で、TPPの交渉が進行中であります。TPPにおいて、原材料や原産地、添加物、遺伝子組み換え等の表示がどのようになるのかという問題がございます。それによって国内法とのそごを生じた場合どうなるのか。憲法、条約、国内法の位置づけを明確にした方がよいと考えますが、この点について衆議院法制局の見解を求めたいと思います。

 そしてもう一点、九十八条の最高法規性について申し上げます。

 憲法が国の最高法規であることは論をまちません。また、第九十四条において、地方公共団体は、法律の範囲内で条例を制定することができるとされております。地方自治体が定める条例はあくまで法律の範囲内で制定できるものであって、その内容が法律と矛盾、抵触を生ずる場合には、法律が優先するものと解されます。

 ところで、私が住む上越市の自治基本条例の第十章には、この条例の最高規範性ということが書いてございます。市が定めた、憲法以外の条例に最高規範性という文言が入っていること自体に不思議な感じを受けております。この条例は市における自治についての最高規範であること、そして、「市議会及び市長等は、他の条例、規則等の制定、改正及び廃止並びに法令の解釈及び運用に当たっては、この条例の趣旨を尊重し、この条例との整合を図らなければならない。」とされております。

 法令というのは、一般に、国会が制定をする法律と、行政機関が制定をする命令をあわせて呼ぶ法律用語、法用語と解されております。国会が制定をする法規範の解釈及び運用に当たり、市が定めた条例の趣旨を尊重し、この条例との整合を図らなければならないというのは、順番が逆ではないでしょうか。

 これは厳密に言えば、憲法の定める条例制定権を逸脱した規定ではないかと思うのですが、この点について衆議院法制局の見解を求めたいと思います。

 以上、二点について答弁をお願いいたします。

    〔会長退席、武正会長代理着席〕

橘法制局参事 高鳥先生、二問御質問を頂戴いたしました。ありがとうございます。

 ただ、冒頭お断りしておかなければなりませんのは、先般も申し上げさせていただいたところでございますが、私ども衆議院法制局は、有権的な解釈権を憲法その他の法令について行う組織とされてはおりません。あくまでも、先生方の御議論あるいは立案の際にその素材となるべき法制的な材料を御提供申し上げるということでございますので、これから申し上げさせていただくことも、先生の憲法解釈の御参考となる素材を御提供するだけであるということでお許しをいただきたいと思います。

 さて、その上で、一つは、条約を実施するための国内法の整備に関する御質問であったかと存じます。

 冒頭、釈迦に説法であるとは存じますが、先生の御質問の前提には、条約の国内法的効力に関する考え方といった大変重要な憲法上の論点が横たわっているかと存じます。冒頭の論点表に関する御説明の際にはそこまで言及できませんでしたので、若干お時間を頂戴して、敷衍して御説明させていただきたいと存じます。

 すなわち、条約は本来的には国家間の約束という国際法上の法形式でございます。そのままでは国内法的な効力を持つものではないとする二元的な考え方が一般的なようでございます。

 まさしく、本日御議論の憲法九十八条二項、この規定によりまして、国際法上の法形式である条約がそのまま我が国の国内法に受容されるという一般的受容方式が採用されているというふうに理解されておりまして、この九十八条二項は、その意味でも大変重要な条文になっているというふうに理解されています。この九十八条二項のもとで、条約は我が国の国内法としての効力を有するのだというふうな論理操作がまず一点ございます。

 しかし、ここからが先生の御質問と関連するところでございますが、条約に国内法的な効力があるからといって、それが我が国の国民その他、我が国に居住する人々に対して我が国の法律と同様に直ちに適用されるかという、いわゆる国内適用可能性はまた別意の問題であるというふうに考えられております。

 すなわち、その条約の内容が、我が国の法律と同様に個人の権利義務を規律するのに十分に具体的な内容のものであるかどうか、かつ、そのような直接適用可能性について条約当事国において否定されていないといった、客観、主観、両要素をクリアしたような特殊な条約、いわゆるセルフエクスキューティングな条約とか自動執行的な条約というのだそうでありますけれども、このような条約については確かに、特別の立法措置を講ずることなしにそのまま国内法として適用されることがあり得る。

 ただ、多くの条約は必ずしもそのようなものではなくて、国家間の約束として、あくまでも当該条約に基づいた国内法的な措置をとるべきことを各国政府に求めるものであるというのが一般的なようであります。いわゆるノンセルフエクスキューティングな条約でございまして、これを実施する場合には国内法を整備する必要があるということになります。

 我が国のこのような条約締結の実務におきましては、外務省の職員の論文などを拝見させていただきますと、あくまでも国内法の整備を行ってから、先生方に国内法の法律の制定をしていただいてから条約の締結、批准を行うという手続が一般的であるようでありますから、先生御指摘のような、TPPを含めた条約と国内法制度とのそごを来すことのないように、まず国内法整備がきちんとなされるのだという手続をとられるのではないかと拝察いたします。

 そして、このことを明確化するべきだという先生の御指摘は、まさしく本日の論点表のAの立場と通じるところがあるのではないかと拝察いたします。

 もう一つは、また大変難しい、条例との関係に関する御質問でございました。

 先生御指摘のとおり、憲法九十四条には、「法律の範囲内で条例を制定することができる。」地方自治法十四条一項には、法令に違反しない限りにおいて条例を制定することができるというふうに書いてあるわけですから、条例の制定権は、あくまでも国の法令の枠内においてのみできるんだということは、憲法、我が国の法令上は自明のことでございます。

 このようなことを前提に、ただいま御教示いただきました情報を前提に一般論として申し述べさせていただくならば、当該条例における最高法規性というのは、当該自治体の他の条例との関係でのものにすぎないのではないか。

 もう少し生意気を言わせていただきますと、法形式的には同じ条例でございますから、その最高法規性という文言自体も、法的に他の条例よりも優越するというのではなくて、あくまでも、そのような訓示的、宣言的な意味にとどまる、そういう意味での最高法規性と考えられているのではないのかというふうに思います。

 また、そのような自治基本条例のもとにおける法令解釈に当たって、この条例との整合を図るべきとの条項につきましても、先生御指摘のように、単に法令といった場合には、まさしく国の法令を意味するというのが一般的であると思います。法律や政令や省令を意味するものと思われますから。

 したがいまして、今御教示いただきました条例の当該条項につきましても、そのような国の法令の趣旨、目的に反しない範囲内で、当然に地方自治体は国の法令においてもそれを執行する責任と権限を有するわけですから、そのような自治体の執行権限の範囲内で、解釈の余地があるような国の法令について、その国の法令がそのような解釈を許している、許容している範囲内に限って、自治基本条例と整合的な解釈を行いなさいという留意事項を定めたものというような意味なのではないのかと。

 このように解釈することによって初めて、先生御懸念の、御指摘の条例と我が国の憲法及び国の法令、地方自治法を初めとする国の法令との整合性が担保されるように存じます。

 以上です。

船田委員 自民党の船田でございます。

 第十章の最高法規についての意見を申し上げます。

 既に論点は幾つか出ておりますが、まず、九十七条の基本的人権の由来特質の条項についてでありますが、さまざま御指摘いただいておりますように、第十一条後段と重複をするというものであります。

 しかしながら、この最高法規の中で再度これを登場させているということで、学説的には、憲法の実質的な最高法規性を規定したものであって、これは性格的に十一条とは別である、こういった説もありますけれども、やはり、その趣旨ということからしますと、どうしても私は重複が避けられないと思っております。

 また、先ほど橘部長から報告がありましたように、その成立過程のエピソードなどを考えますと、やはり、九十七条というのはできれば削除して、そして、十一条、十二条で読み取ることと、できれば、憲法前文において基本的人権の尊重というのが欠けておりますので、憲法前文においてこれをきちんと書くということで補強することは可能であり、またそうすべきであるというふうに思っております。

 それから、九十八条の憲法と条約の関係ですが、これは憲法解釈上、憲法が条約に優位する、優先するということは明らかでございますので、特に変更する必要はないというふうに思っております。

 ただ、憲法が優位でありますが、条約は尊重されなければいけない、こういう二項めがございますので、その解釈において若干揺らぎが生じているということは否めないことと思います。

 とりわけ、条約に対しての国内法の整備をどうするかということについての規定が明確にございませんので、このあたりは、やはり、条約に対応する国内措置、とりわけ法律の改正等、これを講ずるということを義務という形で明記しておく必要があるのではないかというふうに私は思っております。

 九十九条の憲法尊重擁護義務でありますが、我が国の憲法は、もちろん、言うまでもなく、近代立憲主義に基づくものであります。したがって、国会議員も含めた公務員が憲法を尊重し擁護するということは当然書いてあるわけでありまして、これを尊重する必要があると思っていますが、私の考えているもう一つの憲法の役割としては、国家としての目標の設定、あるいは国民の行為規範というものを一定程度明記するということも、やはり憲法の一つの役割である、このように思っております。

 そういう観点からすると、国民の皆さんが憲法を尊重しようということについて、これを記載するということは、私は必要なことであるというふうに思っております。ただ、これを書いたからといって、国民が新たな義務を負うということではないということは付言をしてもよろしいと思っております。

 なお、先ほどの辻元委員の御発言に対する私の考えを申し上げます。

 憲法改正について、国会議員が明確に、あるいは政党として、どんどんどんどん改正のアイデアを出すということがいかがなものかという御発言の趣旨でございましたが、私は、国会議員というのは、国民から負託を受け、国民の代表として、この国会という場で議論をしております。ですから、国民の憲法に対する意見というものを酌み取りつつ、国会議員がこのような場で大いに議論をするということは大事でありますし、また、その国会議員のまとまりである政党が憲法改正に関する具体的な提案をするということは、当然の役割であり、権利であると思っておりますので、この点は意見を異にしていると思っております。

 また、我が党、自由民主党が昨年四月に発表いたしました憲法草案におきまして、これが全て正しいのであって、これをのめということを私たちは言っているつもりでは決してございません。一つの考え方として、あるいは自民党という政党として考えられる理想的な憲法の原案を申し上げているわけでありまして、決して国民の皆様にこれをのんでほしいということを言っているわけではありませんで、各政党の皆さんと協議をして、そしてあるべき憲法改正の原案を出していくという基本方針に全く変わりはございませんので、御承知おきを願いたいと思います。

 以上です。

    〔武正会長代理退席、会長着席〕

橋本(岳)委員 自由民主党の橋本岳でございます。

 第十章九十九条について、二点申し上げます。

 まず一点、私ども自由民主党の草案において、この九十九条について、「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」という項目を追加することを御提案しております。

 そのことにつきまして、るる御議論あるところでございますけれども、一点、御注目をいただきたいのが、きょう、もう一つのテーマになっております前文の一番最後の段落において、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」という、「日本国民」が主語になって、「誓ふ。」という文言が入っているという点でございます。

 日本国憲法は政府のあり方を規定するものだという説があるということは承知をしております。が、同時に、国民としての宣言という面があるということもこの条項は示しているものと私は考えております。

 したがいまして、その宣言をする国民が憲法を尊重することを規定するということを妨げるものではないと私は思っておりますし、船田先生初め皆さんから御説明があったとおり、自民党としては、その考え方に基づいてこの条文の追加を御提案しているということでございます。

 二点目でございます。

 これは船田先生の発言と重なってしまいましたが、私ども国会議員、当然、憲法を尊重し、擁護しなければなりません。同時に、国民の皆様方の負託に基づき、選挙の場合において、憲法についてこう思うということを国民の皆様方に御説明をした上で、御信任をいただいて、ここにいるものであります。その意味で、国民の皆様方のいろいろな声の代表として皆様ここにおられるわけでございますから、その中で憲法の議論を行うということが、非難をされるということには当たらないものと考えております。

 以上でございます。

土屋(正)委員 法制局に二点ほどお尋ねをしたいと思います。

 まず、我が国のように、主権が制限された状態で憲法が制定された国、これが世界じゅうにあと何カ国ぐらいあるか、御教授願います。

 それから、二点目の質問は、最高法規性についてでありますが、資料にイラン・イスラム共和国の資料がついていて、ありがとうございます。

 今、キリスト教国、それに次いで大きいのはイスラム教国になるわけでありますが、恐らく、イランと同様な、憲法上、神を規定したいわゆるイスラム共和国というのはたくさんあるんだろうと思います。これはあと幾つぐらいあるのか、教えていただきたいと思います。

 と申しますのは、イスラム教国においては、法律のほかに律法があるわけであります。そして、宗教上の指導者であるラビが政治上の指導者になる、同時に、宗教裁判所がある、こういう法体系になっていると私は理解をいたしております。

 これは、かつてキリスト教国であった、一一〇〇年代にあった、いわゆるカノッサの屈辱の、聖俗は、聖なる権力と俗なる権力が分かれるかどうかということの分岐点のところがあるわけでありますので、法制局には、イスラム共和国は何カ国くらいあって、その法律の中で神が規定されているところがどのくらいあるか、御教授をお願いいたしたいと思います。

 次に、意見を二点ほど申し上げます。

 これは、先ほどもありましたが、辻元委員の中にありました、安倍総理が改憲に触れるのは憲法擁護義務に違反するということをおっしゃいました。甚だ奇異な意見だろうと私は思います。

 当然ながら、我が国は議院内閣制でありますから、総理大臣は、総理大臣であると同時に、いわゆる政権政党の最高責任者であります。でありますから、総理大臣が総理大臣としての職務権限、行政権を行使する際に、そのような憲法違反をしてはならない、こういう規定であって、本来、政党人、政治家として、これらの意見について開陳をすることは当然のことであります。

 これに関連して申し上げますれば、そもそも言論の自由があって、国会では、国権の最高機関として何者も縛られず、法と良心と信念に従って質疑が行われるべきであって、当然のことながら、その過程の中で行われることは合憲であり、当然だ、このように考えております。

 辻元議員がそのような懸念を出す背景には、社会主義国が念頭にあるのではないかと思います。社会主義国は、旧USSR、ソ連邦の憲法の中にも、共産党が最高の指導者であるという旨の規定があります。このような国においては、党が決めると、これは結果として国民がこれに従うということになるわけであります。こういう発想、これは社会帝国主義とか呼ばれているわけでございますが、こういう社会帝国主義的な発想をすると、自民党が決めたことは国民が強制されるのではないか、このようなことになるんだろうと思います。

 私どもとしては、自由民主主義でありますから、そのようには考えていないことを改めて申し上げます。

 結びに、意見としてもう一点。

 憲法尊重義務の中に天皇が規定をされております、現憲法では。果たしてそういうことであるのかどうか。もちろん、天皇陛下は憲法を尊重される立場でありますが、単なる自然人ではありません。戸籍もなければ選挙権もないわけであります。いわゆる一国民としての権利が制限された憲法上の存在の方でありますから、それを、憲法遵守義務をあえて課す必要があるのかどうかという点については甚だ疑問であります。

 以上であります。

橘法制局参事 土屋先生、失礼いたします。

 決して答えができるわけではないんですが、御質問でございますので、応答だけ、御無礼にならない範囲内でさせてください。

 主権制限のもとで制定されたような憲法があったか、それは幾つかという御質問でございますが、申しわけございません、寡聞にして存じ上げないと言うしかございません。

 多くの国の憲法が、新しい憲法として制定される際には、革命であったり敗戦であったり、そういう大きな出来事を背景として制定されることは決して少なくないものと承知しておりますけれども、それが、我が国のような占領下、特に間接統治のもとでの占領下において制定されたかと。同じような敗戦国家であるドイツにおいては、ドイツなりの状況のもとで新しいボン基本法が制定されたわけでございますけれども、それらの憲法制定経緯はやはりそれぞれだというふうにしか私は理解できておりません。

 一問目については、本当に先生に改めて御教示いただくしかないということでございまして、今後一生懸命勉強させていただきますので、お許しください。

 あと、二点目も、イラン憲法以外に神に言及した憲法はあるか、幾つあるかということでございます。

 手元の本当に簡単な資料集を見ましても、イラン以外にも、例えば、インドネシア憲法の前文には全知全能の神の恵沢とか、クウェートなどでは恵み深く慈悲深いアラーの名においてとか、バハレーン憲法では神の御名においてといった書き出しのものは今散見いたしておりますが、これが幾つあるかについては、済みません、手元に資料がないのでお許しください。(土屋(正)委員「では、ぜひ調べてください」と呼ぶ)

保利会長 では、大変重要なところですから、法制局においてお調べをいただいて、後で御報告をいただくようにお願いいたします。

武正委員 民主党の武正でございます。

 まず、九十八条につきましては、我が党はA2の立場と三日月委員の方から申し上げました。

 これの論拠となりますのは、これは二〇〇九年の国会図書館の調べでありますが、未締結、未批准の条約が三百六ございます。うち、二百七十九条約は戦後制定をされた条約でございます。そのうち一番多いのはILO関連の条約で九十八条約、うち、戦後、八十七条約が締結をされております。

 こういった労働関係、そして特にまた人権関係の条約などの未批准が多いということが、我が党がこうしたことを挙げる背景の一つにございます。条約の批准、そして締結、これを進めるべし、あわせて国内法の整備ということでございます。

 ただ、やはりそのときに憲法七十三条との関係が出てまいります。すなわち、外交関係あるいは条約締結権は内閣の専権事項とされている点でございます。

 過日も、国際組織犯罪条約、これはいわゆる共謀罪ということで、その後、国内法の整備については国会で大変議論があり、いまだこの法律は通っていないというふうに承知をしておりますが、組織犯罪防止条約の審議の過程では、私も外務委員会に所属をしておりましたが、余り議論がされずに条約のそうした承認がされてしまいました。その後、国内法の整備の中で、国会で大きな論争になったわけでございます。

 法務省の方では、六百十九件、共謀罪を設けるべしということが提起をされておりますが、既に国内法では、予備罪三十一件、準備罪六件、共謀罪十三件、その他八件ということで、五十八件が未遂前に処罰可能とされているようなこともあったり、あるいは、審議の中で、アメリカがこの国際組織犯罪条約五条について留保をしていたということもわかりまして、それは州内で行われている行為まで立法措置はしないという留保でありまして、こういった留保をなぜ外務省が署名段階でかけられなかったのかということも問われたわけでございます。

 七十三条では、条約締結の事前ないし事後に国会の承認ということも言われておりますので、国会での条約の承認のあり方というものが改めて問われるところであります。外務委員会あるいは議院運営委員会などでも逐条審議の必要性、これも既に言われているところでありまして、そうした場合には、外務委員会に小委員会を設けて副大臣出席のもと行うというのも一つであろうというようなことも提起をされた経緯がございます。

 こういったことで、この九十八条につきましては、条約の遵守義務、そしてまた条約に対応する国内措置を講ずる義務を明記すべきであるといったことを申し述べたいと思いますが、その前提としての条約の批准に当たっての国会の関与、これをまえでまえでで、前広に行っていくことや、しっかりとそれについては政府が情報提供を行う、情報共有を行うということが条件というふうに考えております。

 先ほど国内適用可能性について橘さんの方からも触れられましたけれども、国内法整備が先であるという外務省の見解は果たしてどうなのかということは、この国際組織犯罪防止条約をとっても言えるのではないかというふうに私は思います。

 また、先ほど、辻元さんは今いないものですから、私の方からちょっとお話をしたいと思いますけれども、やはり総理大臣が国会で発言をされたり答弁をされているのは、内閣の長として、行政府の長としてでございます。私どもが再三、予算委員会などで、自民党の総裁として自民党の考え方についてただしても、時には答えられますが、大体のときには、いや、それは政党の決めたことですから答えませんとか、それは政党の方で、党の方で協議をしておりますというような形で総理あるいは大臣は言われることがかなり多いことは委員も御承知だというふうに思っております。

 そういった意味では、行政府の長が、そしてまた憲法遵守義務もある長が、憲法改正を、しかも具体的な条文に触れたのは安倍総理が初めてであるといったことは、立法府において、発議権を有する我々国会としては、やはりそれは看過できないといった趣旨で発言をしたんだというふうに思います。

 以上でございます。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫です。

 九十七条、基本的人権の由来特質の項についての公明党の意見は、先ほど大口委員が申し述べたとおりでございます。これに関して、私の個人的見解を申し述べさせていただきます。

 よく基本原理、三原則、国民主権、基本的人権の尊重そして恒久平和主義、こういうふうに語られるわけですが、私個人としては、この三原則の基礎にある一大原理というのは基本的人権の尊重ではないかと思います。

 国民主権というのは、基本的人権の主体者である国民が国家の主人である、また国民主権という権利そのものも基本的人権のうちの一つに考えられるかもしれない。また、基本的人権を最大に破壊するものが戦争であって、その基本的人権を守る意味でも戦争を放棄する。こういうことを考えれば、順番は、基本的人権の尊重、国民主権、恒久平和主義、こういう順番で語られるのが筋ではないかなと常々思っております。

 そのことだけ意見表明をさせていただきます。

上杉委員 私は、まず法制局に質問いたします。

 まず一点は、敗戦国のドイツについての憲法改正の実態、実情でありますが、これはすぐ説明せよといってもできるものじゃありませんから、次の会議ででも資料で出していただくとありがたいと思うんですけれども。

 同じ敗戦国としてドイツと日本に、アメリカは教育基本法の改正とともに憲法改正というのを強く求めたわけですね。ところが、ドイツは、ジャーマン精神を守るために改正はできないといって拒否しているわけですが、終戦後、ドイツは、私の間違いでなければ、二十七本ぐらいの憲法改正をしておると思うんです。そうした、敗戦国でありながら憲法改正をちゃんとしておるという内容を資料としていただければありがたい。後でお答えいただければありがたい。

 それから二つ目は、船田さんや土屋さんからそれぞれ辻元発言に対する指摘がありましたけれども、私も同じように。自民党だけが草案をつくって、それを全部のめというのは問題だという指摘がありましたが、我々は、そんな気持ちで草案をつくり、のめなどと言っているつもりはさらさらない。

 これは、やはり憲法は常に時代に適応した基本法でなければならないわけでありまして、六十六年にもわたって改正が一回もなされていないことの方が問題でありまして、憲法を改正するためには避けて通れない草案の問題があるわけでありますから、自民党は、そのような意味で、憲法改正について議論していくために、議論を前に進めるために草案をつくっておるわけでありますから、そのような理解というのはどうも納得できない。

 それから、安倍総理が憲法改正についての発言があるのは憲法違反だという指摘がありました。とんでもない憲法解釈の問題だと私は思うわけでございまして、その点もあわせて指摘をしておきたいと思うわけでございます。

 我が国は主権国家でありまして、憲法について議論をし、改正すべきは改正して、時代に沿った適正な基本法である憲法にすることは、当然、国権として、決議機関の、議会としての責務だと私は思っております。憲法改正を含めた憲法問題について、護憲という一点だけでやっておることこそ、私は、政党活動の問題であることを指摘しておきたいと思います。

笠井委員 日本共産党の笠井亮です。

 幾つか議論に関連して発言したいと思います。

 先ほど、船田幹事の方から、九十七条について、十一条と重複という話がありましたけれども、九十七条で最高法規性の中にうたったことを、重複しているということで削ることの意味は重大だというふうに私は思います。

 それで、九十七条が最高法規の章に置かれたことの重要な意義については先ほど冒頭述べたとおりなんですけれども、重複しているという主張というのは、憲法の最高法規性の根拠がどこにあるかの理解にかかわる問題であって、そのことを理由に削除するというのは、やはり憲法を憲法でなくしてしまうということになるんじゃないか。

 さらに、前文にないということで基本的人権の話が言われましたけれども、前文は日本国憲法全体が立脚する基本原理を明らかにしているというのは先ほども発言で述べたとおりですが、基本的人権の尊重についても、「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、」というくだりに人権保障が憲法の基本原理であることが示されているということを私は強く言いたいと思います。

 なお、あと、九十九条の問題で、先ほど来、辻元委員とのあれでやりとりがあって、武正委員も発言されたりしていますが、私も、発言したことにかかわるので述べたいと思うんですけれども、改憲の発議権というのは、先ほども言ったとおり、国会にあるのであって、内閣にはないわけですよね。

 それで、内閣の構成員である総理、国務大臣が、国会の答弁でも、総理自身が総理大臣として答弁した中で改憲の問題を言う。まさに、そういう意味では、九十九条で憲法尊重擁護義務を負い続けているそうした総理、閣僚が、一議員ということで使い分けというのは通用しないというのは明確だと思います。

 私もさっき申し上げましたけれども、これは改めて個々に述べることはしませんが、かつて、そういう発言をして、憲法を侮辱したりして閣僚辞任に追い込まれたりとか、あるいは、改憲を目指す集会に出席した、法務大臣だったと思いますけれども、そういう方が九十九条違反に問われたことがあったりした。それから、この場で、憲法調査特別委員会の時代ですが、二〇〇七年、いわゆる改憲手続法の議論のさなかですが、あのときに、年明け冒頭に、当時、第一次安倍内閣、安倍総理自身が、私の内閣で改憲するんだということを宣言して、そしてかなりここでも議論になりました。そういう結果として参議院選挙で厳しい審判を受けたんだということも肝に銘じる必要があるというふうに思います。

 それから、これは私に言われたことではありませんが、土屋委員の方から、社会主義とか旧ソ連、共産党を想起するという話があったので、あえて一言申し上げたいと思うんですが、私どもは、日本共産党は、旧ソ連のああしたあり方については、社会主義と無縁であるということを厳しく批判しているということでありまして、全く違うものであるということは申し上げたい。我々としては、自由と民主主義の宣言をいち早く掲げておりますし、それこそ国民主権の立場で、憲法の諸原則を大事にする立場を一貫して貫いているということについては改めて申し上げておきたいと思います。

 以上です。

中谷(元)委員 総理大臣や国会議員、大臣などの内閣、また公務員が憲法改正について意見を述べるべきではないという意見がありましたけれども、憲法九十六条に憲法改正の規定があるわけでありまして、これの規定に従えば、内閣総理大臣であろうが、最高裁判所長官であろうが、公務員であろうが、国民として、憲法のあり方や改正の賛否、意見を表明するのは自由であると考えます。

 したがって、言論や思想の自由もありますけれども、改正についての発言の自由も憲法で保障された権利でありますので、そういった改正の意見を発表するということは当然許されるべきであると考えます。

 また、九十九条に、天皇または摂政も、国務大臣や国会議員と同様に、憲法を尊重し擁護する義務を負うとされておりますが、天皇は、第一章で、日本国の象徴であり、地位は、国民の総意に基づいていると規定されており、また、国事行為には、全て内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う、また、国政に関する権能を有しないと明記をされております。

 このような立場に置かれているということは国民承知の事実でありますので、あえて憲法尊重擁護義務の対象に含める必要はないと思います。

 また、摂政も、第五条によりまして、皇室典範の定めるところによりまして、国政に関する権能を有しない、また、内閣の助言と承認を必要とするとされておりますので、同様に取り扱うべきだと考えます。

 以上です。

保利会長 この後は前文の問題に入りますので、今札を立てておられる土屋さんでこの問題は締めくくりたいと思います。

土屋(正)委員 先ほど法制局にお願いを申し上げましたが、また委員長からの御丁寧な御示唆もあったわけでありますが、極めて重大なことでございますので、ぜひ、この二つのことをこの委員会としてもお調べいただきますように御指示をお願いいたしたいと存じます。

 今のお話の中で、笠井先生から、総理大臣が言及することについてはけしからぬ、こういう御質問がありました。また、武正先生からも同様の御指摘がありました。

 これについて申し上げたいと存じますが、憲法九十九条には、公務員の憲法尊重擁護義務は国会議員にも課せられているわけでありますから、もし笠井先生のようなお立場をとるとすると、こういうことを議論していること自体、憲法審査会で議論していること自体が憲法九十九条に違反している、こういうことになるわけであります。

 また、武正先生からのお話がありましたが、同様の趣旨がありましたが、そういう論点に立てば、政治論議、行政執行権以外の政治的な見解を総理大臣に聞くこと自体も、これは答弁できないということになるわけであります。国権の最高機関である国会の権能を極めて矮小化した議論だと私は思っております。そのことを申し上げておきます。

保利会長 それでは、第一の論点、十章、十一章については、これで一応とめさせていただきます。

 次に、前文及びその他の論点について御発言を希望される委員は、ネームプレートをお立てください。

高木(宏)委員 自民党の高木宏壽です。

 前文についてでありますが、私は全面的に書きかえるべきと考えております。

 憲法をつくる際に何が重要か。民主主義あるいは国民主権といった世界共通の理念とともに、無国籍の憲法ではありませんので、その国の独自性をうたうということが極めて重要ではないかと考えております。

 現行の憲法の前文に織り込まれております代表制民主主義、平和主義、国民主権といった趣旨には何ら反対するものではありませんけれども、御承知のように、この前文は、アメリカ合衆国憲法、リンカーンのゲティスバーグにおける演説、マッカーサー三原則、テヘラン宣言、大西洋憲章、アメリカ独立宣言を基礎とした総司令部案、これが確定案となっており、この前文に盛り込まれている精神は、したがって完全に欧米風のもので、日本の土着性に由来するもの、あるいは日本的精神といったものがほとんど欠如しております。

 以上から、この前文、三つ問題点があると思います。

 一つは、今申し上げましたように、原作者がアメリカ人であったということから、日本国民の顔が全く見えてこないということであります。現行憲法は、いわゆる世界に共通する理念のみが記されております。日本国憲法であるからには、日本国の国柄、伝統、文化といったものにも当然言及していなければならないと考えます。

 二点目としては、その文体であります。

 これも先ほど来各党の御意見がありましたけれども、総司令部案が基調となっておりますから、翻訳調となっております。また、一つ一つの文章も長くて、力強さに欠けているという問題点を持っております。

 そして、三点目はその内容であります。

 人間相互の関係を支配する崇高な理想、あるいは、政治道徳の法則は普遍的なものといった、極めて抽象的な表現が多用されております。前文も当然憲法の一部でありますから、具体的に解釈可能なものでなければならないと考えます。

 また、よく問題になっております、日本国民の安全と生存を保持するために、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する、果たしてこれだけで足りるのか、他力本願に陥っていないかという点であります。平和を破壊する勢力に対してどう対処するのか、主権国家としての自助努力というものをしっかりと書き込んでおく必要があるのではないかと考えます。

 いずれにしても、前文にどのような内容を盛り込むべきか、しっかりと議論をしておくことが必要であります。国民主権、平和主義、基本的人権の尊重といった世界標準としての基本理念というものに加えて、国籍不明の憲法になってしまわないように、日本国民としてのアイデンティティー、日本国民とは何なのか、その国柄、伝統、文化などを通じて健全な愛国心を涵養するような内容が記載され、日本国民が誇りを持てるような内容と文体につくり直さなければいけないと考えております。

 以上でございます。

西川(京)委員 自由民主党の西川京子でございます。

 この前文に関して、私も全面的に書きかえてほしいという思いでおります。

 まず、基本的に、先ほど土屋委員がおっしゃいましたように、占領下でつくられた憲法、いわば日本人に主権のないときに外国人の手によってつくられた憲法が、果たして日本の国の憲法と言えるのかというそもそも論からやはり入るべきだろうと私は思います。

 特に、戦勝国が敗戦国の憲法をつくるという行為は、これは国際法上明らかに違反しているわけですから、国際法上違反の中での与えられた憲法、これは明らかにやはり、少し穏便に言いますと改正ですが、本来は破棄すべきものだろうと私は思っております。

 そういう中でのこの前文の書きぶり、これは、今、前の先生もおっしゃったように、明らかに日本人の手で書かれた日本文ではないということですから、日本人の手による、日本文に照らした書きぶりに変えてほしい、そのことが一番大きな申し上げたい点です。

 そして、いわば占領国の大きなもくろみであった、日本人の精神性をだめにするということが最大目的であったわけですから、その中で日本の伝統とか文化、歴史を否定する、これが一つの大きな眼目の中での憲法ですから、やはりこれを取り戻す。今、安倍内閣は、日本を取り戻す、これが一番の、最大の目的ですので、日本の伝統、皇室をいただく二千年の歴史のある日本の国柄を明確に出す必要があると思います。

 その中で、日本の伝統と文化、このことをしっかりと伝えていく精神、そしてそれは、次の世代の子孫にも伝えていくという明確な意思とともに、実は、先祖から、その長い年月を生きてきた日本人の祖先の人たちの思いも込めた、そういう縦のつながりを連想できるような書きぶりにすべきだろうと私は思います。

 そういう中で、特に、前文とはちょっとあれですが、憲法の十条から四十条まで、国民の権利と義務にも問題の書きぶりがありますが、この三十条の中で、義務に関してはたった三条しか書いていない。それも、あとの二条、教育と勤労は権利と義務と両方を書き込む中で、義務としては納税の義務しか書いていないわけです。

 私たちは、あのケネディも言ったように、この国から何をしてもらうかではなく、この国に何ができるかを考えよう、いわば前向きな国民としての意思、それは明らかに、するべきこととしてもらうべきことを明確に平等な量で書くべき、前文にも、ぜひ国に対するそういう思いを書き込んでいただきたい、そんな思いでおります。

 そして、先ほど鳩山先生もおっしゃいました和の精神。自然の全てに神を感じるような、日本人は決して無宗教な国民ではありません。ある意味では世界で一番宗教心の深い国民だと思います。そういう自然のあらゆるものに神秘性、神を感じるような書きぶり、それがこれからの地球、自然環境を救う一番の肝だと思いますので、そういう自然観とか和の精神、それをぜひ書き込んでいただきたいと思います。

 以上です。

橋本(岳)委員 発言をお許しいただきましてありがとうございます。

 前文について、二点申し上げたいと思います。

 まず一点ですけれども、ちょっと余り議論のないところなので、一つ御指摘をしたいと思っております。

 書きぶりになるかとも思うのですけれども、小池先生が最初に意見発表したときに、この前文が日本外交の指針として引用されることがあったのだということをお話しになりました。そのような性質があるんだろうと私も思っています。

 そのときに、今の憲法では、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」という、人から見て、周りから見て日本はどうあるべきかという規定の仕方をしております。一方で、例えば私ども自民党の案では、「世界の平和と繁栄に貢献する。」という主体的な表現の仕方をしております。

 こちらは、そのどちらがいいのかというのは議論があるべきであろうと思いますけれども、どのような目標を掲げるか、その内容は今るる御議論があったと思いますけれども、掲げるときにどうした書き方をするのかということも一つ論点としてあり得べきではないかということを私は問題提起を申し上げたいと思っております。それが一点です。

 それと、二つ目。これは先ほど九十九条のところで申し上げたこととかかわりますけれども、日本国民は誓うという、これは今の前文で主体的な宣言であるということを表現しております。

 このところについて、先ほどのところと関係してまいりますけれども、変えないというのであれば変えないでいいんですけれども、変えるという話になるときにはぜひそこを残したまま検討されるべきであろう、先ほどのところとセットで考えるべきであろうということは、重ねてになりますが、申し上げさせていただきたいと思います。

 以上です。

船田委員 自民党の船田でございます。

 憲法の前文につきましてはさまざまな論点がありますが、前文に書き込むものとしての要素をまず、考えていることを申し上げたいと思います。

 一つは、やはり憲法全体を俯瞰する、これは手引きと言ってもいいかもしれませんが、憲法全体を俯瞰するものを書くということ。

 それから二つ目には、憲法改正の限界を書くということだと思います。

 限界、私が考えておりますのは、やはり憲法の三大原理である国民主権、平和主義、基本的人権の尊重であると思います。とりわけ基本的人権の尊重ということが、これまでも指摘をされておりますように、前文では欠けている部分でありますので、しっかりと書く。先ほどの九十七条との関連でも、ここはしっかりと書いておくべきであると思っております。

 そして、三つ目の前文の役割としては、国の目標あるいは国民の行為規範に類するものについてもやはり書くべきであるし、また、無国籍と言われがちな憲法前文の欠点を克服するために、国籍をきちんと、日本国の憲法であるということがはっきりわかるような記述にするべきであるというふうに思っております。

 具体的には、日本国固有の歴史、文化、あるいは豊かな自然環境を守るということ、そして国を守るということにはいろいろな御意見がございますが、私は、やはり自分たちの国は自分たちで守るんだということをきちんと宣言することは大事なことであるというふうに思っております。

 なお、平和主義に関しまして、憲法の現行の前文を見渡してみますと、二つの文章があります。

 一つは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という文言がございますが、これは確かに名文ではございますけれども、我が国の平和を他国に譲る、委ねる、非常に他力本願と言ってもいいような平和主義でございます。消極的平和主義と言ってもいいと思います。ですから、これは私は憲法改正のときには採用すべきではないと思っております。

 もう一方、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」これは私は、名文でもありますし、我々の憲法が目指すべき方向性であると思います。

 いわゆる積極的な国際貢献、あるいは国連が行う平和維持活動への積極的な参加ということでありまして、先ほどみんなの党の小池委員から、小泉元総理がここを強調されたということで紹介をいただきましたが、この精神や、あるいは先ほど生活の党の鈴木委員からもお話をいただきました生活の党としての基本原則の一つという点に合致するものでありまして、我が党としても、私個人としても、この文章というのはできれば残していきたいな、このように考えております。

 以上です。

中谷(元)委員 現行憲法の前文は、今の日本人、どれくらいの人が暗記をして言えるんでしょうか。私も何度も何度もトライをしておりますが、読みにくい、なじみにくい。そして、中学生や小学生にとっても難解で、恐らく学校の先生にとってもどう教えていいのやら、その真意も非常に伝わりにくいものでございます。

 改めてこの中身を吟味してみますと、まさに継ぎはぎ、ぱくりの連続で、国の背骨、国民の意思というものが感じられません。

 例えば、「われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」これは、アメリカ憲法の「われらとわれらの子孫のために自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のために、この憲法を制定し、確定する。」というところから来ています。

 そして、同じ段落で、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」これは、アメリカのリンカーン大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」、これのぱくりであります。

 第二段落は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」これは、マッカーサー・ノートの「日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。」というものそのものであります。

 また、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」これは、テヘラン宣言の中の、我らは、専従と隷属、圧迫と偏狭を除去しようと努めている、大小全ての国家の協力と積極的な参加を得ようと努めているという文章に酷似しています。

 また、その後、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」これは、大西洋憲章の中の「すべての国のすべての人類が恐怖及び欠乏から解放されて、その生命を全うすることを保証するような平和が確立されることを希望する。」という内容であります。

 そして、最後の締めくくりにおいて、今の憲法では、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」これは、アメリカの独立宣言に「われらは、相互にわれらの生命、財産及びわれらの神聖な名誉にかけ、神の摂理の保護に強く信頼して、この宣言を擁護することを誓う。」と。

 まさにこういったところから引用されたものでありまして、あれから六十六年たちましたが、いまだにこの真意が国民に理解をされていないし、国民になじんだものになっていないと考えます。

 したがいまして、主権国家として、日本人がみずからの意思でこの前文をどう考えるのか、どう判断するのか。やはり、この憲法をどう考えるかということを考えれば、この前文がどうあるべきかということがいろいろな意見として出てくるわけでありまして、そういった意見をまとめて、そして文章を掲げて、そしてみずからの国に誇りを持って、自分の国にふさわしい憲法であることを一度国民投票によって確認する。原文のままならそれでもよろしいんだけれども、もう少し現代風にわかりやすく、そしてその要点を書いた文章を提示する。そういったことで、国民の投票によって前文を決定することも必要ではないかなというふうに考えます。

 以上です。

笠井委員 幾つか述べたいと思うんです。

 今もしきりに前文をつくり直すという話があったんですが、その中で、この憲法がどういう中でできたか。占領下でという話だけがされるんですけれども、やはり一番のポイントというのは、日本が侵略戦争をやって、植民地支配をやって、それが断罪された、そしてポツダム宣言を受諾して、東京裁判の判決も受諾するという状況があるわけですから、そういう全体的な状況の中でこの憲法ができたということをしっかり踏まえないと、あの戦争でどうしたかという問題がなしに占領下でやったからけしからぬみたいな話だけしていると、全然話にならないと私は思うんです、あの経過も踏まえていないと。

 今るる、何かぱくり、ぱくりという話がありましたが、そうした戦前の反省があって、そして日本がそういう道を再びとらないということが国際社会からもあって、そういう中で、とにかく人類の到達である普遍的な原理を盛り込んだという、むしろ積極的なものが憲法だ。それは、外国からだけのものじゃなくて、戦前にもやはり進歩的な伝統があって、そういうものも反映して、そしてそれが結局、国会で議論されて、審議されて、自民党の先輩たちもそれに賛成をしてつくってきた憲法だということだと思うので、なじんでいないじゃないかと言いますけれども、なじんでいます。

 先ほど橘部長が冒頭で紹介した「あたらしい憲法のはなし」、憲法ができたとき、むしろ文部省が先頭になって副読本をつくって、そういうこともやってきたわけですが、いつの間にかそれをやめちゃったのは自民党政府じゃないですか。憲法を知らせてこなかったわけですよ。そういう問題をしっかりと振り返る必要があるというふうに思います。

 その上で、平和を愛する諸国民の公正と信義に立ってという話で、この規定をユートピア的な発想というような話がきょうもありましたけれども、私は、そうやって切り捨てようとする憲法の基本原理こそ、人類があの二度の大戦を経て確立した普遍原理だと思うんですよ。現に国連憲章は、加盟国が寛容を実行し、かつ善良な隣人として互いに平和に生活できるように決意する。国際紛争の解決を、平和的手段によって、かつ正義及び国際法の原則に従って実現することを目的にしているわけで、日本国憲法の前文は、まさにその実現に通じるものだということが言えると思います。

 さらに、平和的生存権ということも明記しているわけで、やはり、戦争が人命、自由に対する最大の脅威であって、平和の確立を国民の人権の保障の条件としたわけで、九条に反する政治を変えるために国民の運動のよりどころにもなって、一九七三年でいえば長沼ナイキ訴訟の一審判決とか、二〇〇八年の自衛隊イラク派兵訴訟の名古屋高裁判決がありますけれども、平和的生存権の具体的権利性を認めたというのは非常に重要だというふうに思います。

 それから最後に、前半の討議の中で、最後の発言と言われて名指しでやられるのは非常に私も遺憾なんですけれども、土屋委員の方からありましたので一言だけ言いますが、九十九条の話で、やはり憲法というのは主権在民、国民が主人公で、国民が権力を縛るという本質があるということで、そこのところはまず原則、基本があって、そしてやはり、発議権というのは内閣じゃなくて国会にあるわけなので、個々の国会議員が改憲に必要な限りで憲法に関する意見を述べるのは当然でありますけれども、しかし、時の内閣自身が首相を先頭にしてやるということについては、これは問題だということは、国民の中でも相当今あります。

 例えば、今回の、安倍首相自身が九十六条改正を目指す議員連盟の顧問に名を連ねていることに対しても、国民の中から、これについては重大な憲法違反の疑いがあるということで、昨日も、そうした顧問の辞職を要請するというような運動もあるというのを私、承知しております。

 かつて、改憲議連に総理大臣が入って、批判を受けて顧問の職を辞任されるという話もあったと思うんです。総理大臣とすれば、みずからの主張、主義とは峻別して日本国憲法を尊重して、そしてそういう立場に立って公職を遂行するというのが大事だというふうな声が上がっていますけれども、私はある意味それは当然だと思います。

 以上です。

西川(京)委員 笠井委員に反論したいと思います。

 これは憲法議論の場所ですから、余りこの前の戦争の解釈論をするつもりはありませんが、明らかに間違っていらっしゃるので、一言申し上げたいと思います。

 侵略戦争と決めつけられたのは、東京裁判においてのみです。それ以前に侵略戦争という概念はありません。侵略戦争と決めつけた東京裁判は、まさにマッカーサーの意向そのものです。そのマッカーサーそのものが、昭和二十八年、アメリカの外交軍事委員会で、あの戦争は日本にとって安全保障のための戦争だったとはっきり証言しています。

 ですから、今、侵略戦争と決めつけた前提条件でこの憲法を規定するのは明らかに間違いであって、侵略という定義自体も、今、学説ではしっかりしていません。それだったら、今まで世界の歴史はずっと侵略戦争の歴史ですよね。そういう中で、日本だけがそうやって決めつけられてきたことがまさに東京裁判史観であって、東京裁判史観に侵されているのが笠井先生じゃないんですか。

 以上です。

高鳥委員 前文について申し上げます。

 現在の日本国憲法前文に一番足りないのは、日本であると思います。人類普遍の原理をあらわしたのはよいのですが、主語である「日本国民」の「日本」を取って単なる国民としても、どこの国でも通用するようなものではないでしょうか。それだけ、我が国が歩んできた歴史や伝統、文化に対する表現がないと思います。我が国の国柄をもっと書き込むべきではないかと思います。

 具体的には、先ほど保岡委員もおっしゃいましたが、聖徳太子の十七条の憲法に見られる和をとうとぶ精神、四方に海を擁し、緑豊かな自然を有する美しい国土、天皇を権威の象徴として連綿とつないできた世界に類を見ないほど長い伝統を有する国家であること、礼節を重んじ、多様な思想や文化を認め、独自の文化に昇華させ、また、勤勉な国民性により豊かな社会を築き上げてきたことなどであります。

 また、生命の尊厳、生命倫理、障害の有無にかかわらず平等であることなども盛り込むべきだと思います。

 もう一点、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とございます。平和を愛する諸国民とは、一体どこの誰のことでしょうか。

 少なくとも、我が国の周辺には、毎年二桁の勢いで軍備を増強し、尖閣列島はもとより沖縄県の帰属問題まで主張し始めた国があり、実際に我が国の領土、領海に対する侵犯を強めております。また、拉致、核、ミサイル問題で我が国に脅威を与えている国がございます。他国の善意を信頼して命を預けるというのは、既に理想を通り越した幻想であります。これほど現実と乖離をし、日本人の自主独立の精神を放棄した文言は、やはり改めるべきであろうと私は思います。

 以上です。

辻元委員 前文について申し上げたいんですが、その前に、先ほどの自席を離れているときに、九十九条についての私の発言に反論が出たということで、ちょっと補足をさせていただきたいと思います。

 先ほどから、総理大臣が改憲について言及することや、改憲の議連に名を連ねることや、そして、公党が憲法改正についての丸ごとの草案を出すことについても俎上に上っておりますけれども、政治ののりというのがあると思います。

 今まで、例えば中曽根元総理は改憲論者でいらっしゃいました。しかし、総理大臣に就任されたときに、総理の立場において改憲の旗振りはなさらないという姿勢を貫かれました。これは御立派だと思います。そういう意味において、私は今、三権分立とか、私たち政治家として、自分の立場はどういうものであるのかということを踏まえた上で憲法議論を進めないと、そこの認識が曖昧なままに総理大臣が本会議場でおっしゃるということなどを指摘したわけです。

 それから、自由民主党の前文も拝見し、憲法改正草案というのも自由民主党だけがお出しになっています。これは、公党としてお出しになるのはいいわけですが、ここで議論を積み重ねてきたことは、ずっと申し上げておりますように、この点が不備があるのであればそこを議論して変えていこうということを、憲法調査会、そして憲法調査特別委員会、ずっと議論をしてきた経過もありますので、そこで、憲法論議はそのルールであり、その今までの立法府での積み重ねの上での審査会であると考えておりますので、あえて申し上げたわけです。

 そして、前文についてですが、普遍的な価値を憲法に体現していくべきなのか、それとも、道徳とか伝統や文化という、ある意味主観が入るものまで憲法に書き込むのかというのは、一般的な議論としてもよくなされるものです。

 私は、憲法というのは普遍的価値を基本に置くべきものである、例えば家族を守ろうとか、道徳的または規範みたいなものについては別のところに委ねる、憲法というのは何人が見ても普遍的価値であるというもので構成されるべきだと思っておりますので、前文についても同じ考え方で、我が国の固有の伝統というのは一体何なのか、誰が判断するのかとなりますので、普遍的価値の現在の前文に対して何かつけ加える、または変更する必要はないと思っております。

 特に今、グローバル時代に入っています。このグローバル化の時代で、どこの国も、一民族一政治形態、一民族一国家形態ではない時代に入っています。隣の韓国なども今移民の議論がされておりますけれども、物すごく多国籍にこれから踏み出していく時代の中で、やはり、一民族一政治形態でないけれども、皆でどういうように共存していくかという基本的な権利の保障が憲法である、さらにその時代は加速されるのではないかと私は考えております。

 その意味において、私は、今の前文がまだまだそれにたえ得るのではないかと考えておりますので、これにあえて何か価値を伴うものを入れていくということには反対です。

 以上です。

笠井委員 西川委員から私に御指名がありましたので、また発言したいんですが、私も西川委員の発言に今どきということで非常に驚きまして、ぜひその発言をアジア諸国に行って、あるいは国連の場でしていただきたい。どういうふうな反響があるかをよく体験していただきたいと思います。そして、全く間違っているという言葉は、そのままお返ししたいというふうに思います。

 日本の過去の戦争について言うと、侵略の定義を持ち出すまでもなく、明確な侵略戦争であることは国際的に確定しております。何より、日本が受諾したポツダム宣言が「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」と第六項で言っているわけで、国連憲章も五十三条で、日本、ドイツ、イタリアがとった政策を侵略政策と規定をして、その再現に備え、侵略を防止するというふうにしているわけです。

 それから、安倍総理が最近式典まで強行して祝ったサンフランシスコ条約ですけれども、ここでは、太平洋戦争が侵略戦争であったことを認定した東京裁判、極東国際軍事裁判の判決を受諾しているわけでありまして、もしそういうことで日本の侵略戦争を否定するということになると、これらの戦後国際政治の秩序を丸ごと否定することになる、重大なことになるというふうに思います。

 それから、侵略の定義について言えば、これはでは定まっていないのかといえば、一九七四年十二月の国連総会で採択された総会決議三三一四がありますけれども、明確に言っています。第一条では、侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対するまたは国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であると明確に定義しているわけで、この決議に基づいて侵略犯罪を定義した国際刑事裁判所のローマ規程、これの改正決議が二〇一〇年六月に全会一致で採択をされております。

 二度にわたる世界大戦とその後の国際紛争の経験から導き出された定義というのは国際的にあるということでありまして、むしろ、そういうことだったら、では、ドイツのヒトラーがやった戦争について、これを侵略戦争と考えるのか、それから、自民党政権は、イラクのクウェート侵略、ソ連のアフガニスタン侵略、これを侵略というふうに言いましたけれども、定義が定まっていないんだったら、何に基づいてこれらについて侵略と定めたのか、このことを正面から聞きたいと思います。

 以上です。

大塚(拓)委員 自民党の大塚でございます。

 ちょっと侵略の定義について御回答する立場にはないので、そこではないんですけれども、まず、辻元委員が離席中にいろいろ議論になった九十九条について少しだけ触れて、前文の話をさせていただきたいと思います。

 九十九条で尊重擁護する義務というものは、私は、行政においてはこれは行政執行、国会議員においては立法という、その期待される職責を担う上で憲法を尊重しなければならない、そういう意味であると解釈しております。

 そして、それにそごが起きることがあるわけでございます。実際の世の中で起きていることと憲法を踏まえた立法、行政執行といったことにそごが起き、実際の政策執行であり国民生活に不都合が生じることがあることを想定して、改憲の条文が準備をされているものというふうに考えております。

 当然、立法であり行政執行をする際に初めてこうしたそごが起きていることに気づくわけでございますから、こうしたことについて国民に広く知らしめていくことは、国会議員であり、あるいは行政に携わる者しかできないことであろうというふうに思うわけでございます。

 ちなみに、九十六条において、前回も申し上げましたけれども、改正要件を緩和するんだというようなお話をされる方が多いわけでございますけれども、自民党が提案をさせていただいているのは、改正の要件を緩和することではなく、発議の要件を緩和することであるということを改めて申し上げておきたいと思っております。決めるのは、国民投票によって国民が決める、そこの要件について緩和することは一切提案をしていない。国民に対して、このような問題があるということを提示する、その機会をふやそうというのが提案であろうというふうに思います。

 そして、前文のお話になりますけれども、私は、憲法の前文というものは、日本国民、大人も子供も、最も親しみ、そしてなじみのある日本語の文章であるべきだというふうに思っているところでございます。ところが、現状の憲法の前文がそのようなことになっていないということは広く指摘をされているところでございます。

 まず、これは占領軍主導でつくられたということにも原因があるかもしれませんけれども、日本人としての顔が見えない前文になっている。そしてもう一つは、極めて欧米言語、特に法律、条約に使われる用語の直訳であることが明らかな文章になっているということでございます。

 例えば「この憲法を確定する。」でありますとか、「詔勅を排除する。」あるいは「権利を有することを確認する。」非常に法律、条約的な用語の直訳であることは、欧米の言語を学んだことのある者であれば一見して明らかであるというふうに思うわけでございます。この文章が国民にとってなじみやすいものであるはずがない、ましてや子供にとって親しみの持てるものでもないと考えるわけでございます。

 また、日本人としての顔が見えないということでございますけれども、大体、日本人で海外に行かれた方は気づくことでございますけれども、海外に行ったときに、はたと気づくことが多いわけでございます。日本の文化や国柄を諸外国の、海外の人々に伝えなければいけないけれども、私たち自身がそのことをよく理解していないのではないかと海外に行って初めて気づく、このことは海外に行かれた方が多く共有する経験だと思います。

 海外に出て初めて、ほかの国の方々に自分の国のことを伝えるために、一生懸命茶の湯を勉強してみたり、日本の文化、伝統の勉強を始めるということはよくあることでございます。あるいは、クール・ジャパンというような日本の価値について、外国の方に先に価値を発見していただいて、その後日本人が気づくということも多々あるわけでございます。

 私は、日本の文化、伝統というものは、全て自然に精神が宿るとして自然と共生していく、あるいは他者の気持ちを自分の気持ちとして捉えることのできる、これは世界に誇るべき価値を持っている文化であり、伝統であるというふうに思っております。このことを憲法の前文に明らかにしていく、そして、日本人として、我々はこういう価値観を有し、ルーツを持っているんだ、このことを広く大人も子供も認識していくということが極めて、これからの日本にとっても重要であるし、世界の皆様に対しても、日本人が新たな貢献の方法を示していくということにおいても重要であるというふうに考えております。

 こうしたことを実現するためにも、憲法の前文を、しっかり、日本人自身の手によって、自分たちのルーツを見詰め直していく作業の中で改定をするべきであるというふうに考えております。

 以上です。

土屋(正)委員 前文に関連して、また、その他の議論に関連して意見を申し上げます。

 笠井議員から、いろいろ憲法第九十九条に関することがありましたが、重ねて申し上げますが、国会議員も、この第九十九条には憲法擁護の義務があると書いてあるわけですから、国会で憲法議論ができないとすれば、それは相当おかしな議論だろうと思っております。

 また、アメリカが占領国の中心だったわけでありますが、これがつくった憲法を相当擁護しているわけでありますが、私など長い間政治の中で若いころから生きてきた者からすると、かつて共産党の皆さんは、アメリカ帝国主義に対して相当反発をしておられた。それから、武装中立とか、核にもよい核と悪い核があるなどという発言をされておられましたね。とても変わったなと率直に言って思っている次第でございます。

 それから、辻元議員がおっしゃった、前文では普遍的価値だけを書くべきで、各国の価値を伴うものを書くべきでないとの御意見でございますが、これは辻元議員がいらっしゃらなかったときに同様の議論をいたしております。

 そのとき、法制局にお願いしたのは、イスラム共和国のように、イスラムの理論をはっきりと明示している国々があるわけであります。これらの国々は、まさに辻元議員がおっしゃったことと逆な、固有の価値を憲法に書き込んでいるわけであります。そのほか、今回の資料で出されましたものの中には、スイスの中にも神、ドイツの中にも神という言葉が出てまいりますし、オーストラリアに至っては、「畏れ多くも全能の神の」、こういう固有の価値観が入っているわけであります。さらに、中国の前文によると、孫文、マルクス・レーニン、毛沢東思想、トウショウヘイ理論、これほど明快な価値観の入った憲法はないわけであります。

 こういったことに対して、それはとんでもないと辻元議員がおっしゃるなら、それはそれとして、御意見として承りますが、かつてUSSRの憲法の中にも同様な記述がございました。私も、いろいろな憲法があるものだなと若いころ思ったところでございます。こういうものに対して、普遍的価値だけを記載するということはいかがなものか、このように考えております。

 なお、前文の中に出ておりましたことについては、中谷先生から、具体の根拠となるべき文書がありますねということでるる説明がありました。まさにそのとおりであります。

 さらにつけ加えて申し上げますれば、一九四三年、当時のルーズベルト大統領が四つの自由ということを一般教書演説で行いました。この中には、信教の自由、言論と表現の自由と並んで、この前文にあります恐怖からの自由、欠乏からの自由、これを四つの自由と規定をしたわけであります。まさにルーズベルトさんからいただいた憲法だという感じが率直にいたします。

 もちろん、普遍的な価値観についてこれからも堅持するということは、自民党も同様な立場でありますし、私もそれは大事にしなきゃならないだろうと思います。しかし、全世界の中においては、恐怖にさいなまれる人もいっぱいいます。そういう国もあるじゃないですか。どことは言わないけれども、この間、核実験して東京を火の海にするなんて言った国なんか、恐怖と欠乏にさいなまれているんじゃないですか。私は、こういうことを現実の問題として見なければならない、このように考えているわけであります。

 そして、大事なことは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」となるわけでありますが、同時に、今まで日本の自衛隊が戦場で一人も死んでいなかったということを強調する方がいます。ありがたいことです。しかし、同時に、これは米軍の後ろ盾があったればこその平和ではないでしょうか。

 だから、逆に言えば、前文は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、同時にまた、米軍の力によって我らの安全と生存を保持しようと決意したというのが、戦後の歴史の実態ではないでしょうか。これでいいのかということが、我々が問われていることではなかろうかと思います。

 オバマは、二〇〇九年十二月十日のノーベル平和賞受賞記念演説の中で、私は二つの戦争の最中にある国の軍事最高司令官であると。ガンジーとキングの名前を挙げて、ガンジーやキングは非暴力を主張したけれども、このガンジーやキングだけではヒトラーの進撃はとめられなかった、こういうことを言って、核の持つ正当性、軍事力の持つ正当性について触れているわけであります。まさに責任ある国家の指導者というのは、こういうことをいうんだろうと思います。

 私たちは、平和が永続することを期待しますが、しかしまた、自国の独立と平和、自国民の安全、こういったことに対してきちっと責任を持つ時代が来たのではないでしょうか。

 この憲法ができたときは、核を持っていたのはアメリカだけであります。ミサイルを持っていたところもどこにもないわけであります。今や、核を持つ国は世界で八カ国、九カ国と言われております。また、ミサイルは、あの近くの国でさえ持っているわけであります。

 こういう問題をどうするかということに真正面から取り組まないと、現実の国会議員として何をやっているのか、私は、そういう批判が来ることを恐れます。

鈴木(克)委員 私からも、もう一度、憲法尊重義務について、擁護義務について少し言及しておきたいと思うんですが、九十九条は、先ほども申し上げましたように、国家権力を行使する側である公務員に対して擁護義務を定めておるわけですよね。なぜ国民がその対象になっていないかというところに非常に意味があるわけであります。

 私は何が申し上げたいかというと、先ほど来もお話が出ていましたけれども、総理がみずから、声高にという言い方が当たっているかどうかわかりませんが、九十六条を先行して改正すべきだと言う、このことについて私はどうにも違和感を持っておりまして、総理という立場になれば、やはりそういう発言は絶対に控えるべきだというふうに私は考えております。

 例えば、ここにも首長経験者や議会の経験者がたくさんお見えになると思うんですが、地方自治の中には、三分の二というのはいっぱいあるんですよね。基本的には、議会の三分の二の議決で承認をするとか執行するというのは結構あるんです。今私が思い起こすだけでも、八項目か九項目あるんですよ。

 だから、それほど、物事、重大なことを決めるときには、三分の二というのは現実にあるんですね。だから、それにもかかわらず、一番大事な憲法を二分の一にするというこの発想が、私は、まず一遍、地方議会の、そういった地方自治から全部見直していくのが先じゃないのかなというふうに思っております。

 繰り返しになりますが、いずれにしても、そういう観点からいっても、総理が九十六条の改正を率先をして言っていくというのは、やはりこれはやめるべきであるし、まして、先ほどお話がありましたように、憲法改正の議連の役員に名を連ねておるなんというようなことは論外だと私は思っております。

 最後に、国会議員が憲法議論をしてはならないかという話がありますけれども、そんなことは全くありません。国会議員は、やはり堂々と憲法の話をすればいいわけであります。問題は、手続とか、そして、どういう憲法を国民に示すかというところが一番大事なことだと私は思っております。

 以上です。

辻元委員 先ほど、私の発言について何名かの方から御意見がございましたので、意見を申し上げたいと思います。

 先ほど土屋委員が、前文等に価値や伝統などが入っている国々があるということで御紹介いただいたことは、私も承知しております、中国もイスラム諸国も。これは、大分早くに調査室等に依頼をいたしまして、他の国の前文も比較参照した上での発言です。

 先ほど、冒頭に私は、九十九条との絡みで、憲法は権力者を縛る最高規範であり、国民に尊重させるというのは、近代立憲主義の主流の国ではそうなっていないんじゃないか、あえて主流ということを申し上げたんです。

 そして、冒頭申し上げたときに、法の支配と基本的人権、民主主義という、安倍総理がよくお使いになる言葉で表現されるような、日本国と価値を戦後ともにしてきたような国々では、普遍的価値を中心に憲法を構成しているのではないかと。中国やロシアという旧共産圏は、国民への尊重義務を課すとともに、かなりその国の国柄をお入れになっている、そちらの方に日本を変えていきたいのかということを問うたわけであって、私は、現状がいいのではないかと思っております。

 それから、先ほど、法律をつくる際に憲法とのそごがあれば、それを国民に知らせ、問うという話もありました。

 第一義的に、私の理解では、憲法というのは人権を擁護するものであるから、例えば、被災地の皆さんは憲法二十五条に照らし合わせて最低限の生活ができているのかどうかということを、憲法二十五条の実現ということで最低限の保障をする法律をつくったり、それから、生活や人権を守っていくというのが国会議員の仕事だと思っております。

 しかし、その中でもそごが出てくるところもあるでしょう。特に九条のことがよく言われますけれども、その際どうするのか。

 三分の二を二分の一に緩和という話ですが、立法府がそごがあるからそれを提示しやすくするというのは、憲法によって縛られている権力者の側からの発言だと思うんです。

 なぜ三分の二になっているかといえば、国民は権力を疑う。要するに、権力は時として暴走するときがあるから、その暴走を食いとめるために憲法というたがをあらかじめはめている。ですから、このたがというのを変えるときにはそれ相当のハードルを課しますよというのが、国民主権の、立憲主義の考え方の憲法改正についての認識だと私は思っております。

 ですから、国民の側から見たときに、権力の暴走を食いとめる歯どめとして憲法があり、そして、ハードルの高さとして三分の二を提示していると思いますので、それを、憲法の範囲で、国民への規範として、国民が守らなければならない法律を憲法の中でつくるという、二分の一よりも高いハードルを課しているというのは、私は、これは何も変える必要はないと思っております。

 こっちであったそごを国民に知らしめるというのではなく、むしろ、私たちがのりを越えないための規範であるというところに立脚して九十六条の問題も議論されるべきであると私は考えておりますので、三分の二を二分の一に変えるということには賛同しかねる。

 そして、さらには、それを立法府ではなく行政府の人たちが言う。先ほどからまた問題になっておりますけれども、歴代の大臣は、改憲絡みの議連などからは、今まで、自民党の方、御辞退なさっている方はたくさんいらっしゃるんですよ。私は、それは政権党としての矜持がしっかり政治の中にあったと思います。ですから、そこに立脚点を戻していただきたいということも申し上げて、発言を終わります。

中谷(元)委員 自由民主党は議員連盟の活動は自由でありますので、これは、国会議員として、政党として活動しているということで、そういう制限、制約は設けておりません。

 また、総理は、のりがあるから安易に憲法改正を語ってはいけないというのはどうなのかな、世界じゅうに、どこにそのような言論の統制をした国があるのでしょうかと思います。つまり、国会での議論も、また議員同士の討論も、やはり言論の自由に基づいてやるべきでもありますし、憲法に現に改正するという規定がある以上、これは改正をしてもいいという憲法でありますので、その憲法の改正について発言することも、またその必要性を述べることも、これは内閣の一員としても私は自由だと思います。

 また、自民党は憲法改正草案を出したのは非常におかしいんじゃないかという意見もありましたが、我々がこの改正草案を出したのは国民に対してであります。国会に対してではございません。また、草案でございます。草案というのは、文章、規約の下書き、ドラフト、原案でありまして、これは国民にもさまざまな考え方がありますので、自民党はこれを国会に提案するまでの間は、各政党とも話し合いをしますし、国民の皆さんとも議論をいたします。

 ここの取りまとめをするまでには、本当に、五十回以上議論をし、討論をし、いろいろと深く考えました。そして、発表するときは勇気が要りました。覚悟もしております。やはり憲法改正をしなければならない、そういう思いで発表いたしました。

 御意見の中に、憲法改正を望んでいる国民はどれくらいいるの、いないんじゃないかという発言もありましたが、これはもう過半数、いや、六割近くが憲法を改正すべきだという意見を持っております。場所とか内容についてはまだ一つにまとまっていませんけれども、しかし、おかしいところはおかしいわけでございます。

 辻元委員とも憲法九条においてもいろいろ議論はしておりますけれども、もう解釈に次ぐ解釈を重ねて、憲法の持っている本来の文章の意味、価値、これがかなり低下をいたしております。もうここらで、誰もが素直に読んで、こういう基本に基づいて自衛隊を運用していこう、はたまた、それを国防軍と呼ぶべきだというのは、シビリアンコントロールの関係もしっかり規定をし、そして軍事審判所という、軍がきちんとルールに従うような規約も組んでやっていく。

 これはほかの国でも当たり前のことで、この軍事というものをコントロールし、規約をしておりますので、この辺でもう、いいかげんな、曖昧な議論を重ねて国民の不信、また憲法に関する尊厳を低下させるよりも、しっかりと、誰が読んでも納得できるような文章にすべきではないか。

 ドイツは五十八回、憲法改正をしております。それこそ、再軍備の改正、そしてNATO圏域へ軍を出すときの改正並びに緊急事態への法改正、これもきちんと国民の手続を踏んでおりますので、やはり、立法府にある者としては憲法改正を発議するということは当然のことであるし、憲法改正は必要なことではないかというふうに思っております。

 以上です。

保利会長 予定の時間がもう来ておりますが、今ネームプレートをお立てになられている方がお三方ありますので、その方々の御発言で一応締めたいと存じますので、御了承いただきたいと思います。

大塚(拓)委員 辻元委員から、憲法改正を提示しやすくするのは権力者の発言であって、国民は権力の暴走を食いとめるために憲法を有しているんだというような御趣旨の発言がございました。あと、また鈴木委員からは、三分の二というのは、地方自治でもよくあることで、守るべきではないか、こういう御発言もあったわけでございます。

 繰り返しになる部分がありますけれども、重ねて強調しておきたいことは、自民党の九十六条の改正案においても、国民が権力の暴走を食いとめるといった意味でのハードルは全く変わらない、国民投票による二分の一というハードルが全く変わらないものだということは強調しておきたい。そして、これは、国民がみずから選択をする権利というものを守る、そしてその権利を発揮する機会をふやす、そういうものである、国民の選択権をふやすものだということを改めて指摘しておきたいというふうに思っております。

 ちなみに、立憲主義と言うときに、今、民主主義国家で民主的に選ばれた内閣総理大臣、そうしたもとで、権力のもとで私たちは国を営んでいる。そういうときに、この発議権を封じ過ぎる、国民の選択権を封じ過ぎるということは、これは国民そのものの権利を封じることでもあり、そして国民を信用しないということにもつながる。権力が暴走することを抑えるんだということは、これは国民の二分の一のハードルということが信用できないと言っていることに私は等しいというふうに思っております。

 それから、中谷委員からありましたように、もう実態と条文が合わなくて、解釈に解釈を重ねている、こういう状況の中で、条文と実態の乖離というものが大きく進んでしまっている、このことこそが、私は、立憲主義を危うくするものではないか、このように思うわけでございます。

 今、この発議と改正要件の関係を国会議員自身がなかなかはっきり峻別して理解できていないという状況のもとでは、やはりマスコミを通じて国民の皆様に正しく理解が広まっていないというのもむべなるかなと思うところでございますけれども、改正の要件は国民の国民投票による二分の一というハードルでこれは全く変わらないということを重ねて強調しておきたいというふうに思います。

笠井委員 日本共産党の笠井亮です。手短にやります。

 一つは、国会議員が議員連盟に入ることは自由じゃないかという話がありましたが、例えば、今度の問題でも、九十六条の改憲をしようという改憲議連の会長をなさっている方は国家公安委員長、こういう形でニュースでも報道でも出されるわけですよね。やはり、時の政権の側、権力の側がそういうことをやっていると国民に映るというのが実際なんです。

 言論の自由の一般の問題じゃなくて、どういう公職についているか、そして、それが憲法から見てどういう尊重擁護義務があるかということを、しっかりやはり踏まえて言動をすべきだということを私は強く言いたいと思います。

 それから、国会で憲法が議論できないというようなこと、そんなことじゃなくて、しているんですよね。憲法というのは、何も改憲をするかどうかだけが議論じゃないわけです。

 そもそも、憲法がどういうことを言っていて、それに基づいて国会議員の日々の活動、法案をつくったり、いろいろなことをやるわけですが、憲法に照らして、この審査会だけじゃなくて、各委員会や本会議でも、憲法とのかかわりで、現実、法律制定の問題というのが実際議論できる場は幾らでもあるわけで、それをしっかりやるということは、それは何も誰も妨げていなくて、むしろそれが足らないぐらいだと私は思います。

 国民の側からそういう国会に対して不信の声があるとすれば、むしろそのことをやっていないじゃないかという声があるわけで、六割以上が憲法改正に賛成というような話が出たりしておりますけれども、では、どこをどう変えるかとなれば、九条はどうか、九十六条はどうかといったら、そんなふうにならないわけですよね、多くがそう言っているというわけじゃない。むしろしっかり守っていくという話になっているわけで、今、政治の現実の方が憲法から乖離しているということを、国会に身を置く者としてはやはり深く自覚しながら仕事をするというのが大事だと思っております。

 それから、最後に、この後また土屋委員が発言して私にまた言うと、私も言い返すという話になると思うので、先ほどおっしゃったことだけについて言いますと、私も真剣にこの問題を議論しているんだけれども、何か、そんな感想を持ちましたみたいな形で、共産党に対する攻撃というか、根拠ない話をされる。

 つまり、おっしゃりたかったのは、いろいろなことがあって、一々反論しませんが、アメリカ帝国主義に反発した日本共産党がその押しつけ憲法を擁護するのはおかしいと言うけれども、全然関係ない話ですよ、そんなのは。そんなことは誰も言っていないわけです。

 日本国憲法というのは、むしろその中身としては、戦争を踏まえて、先駆的な中身がある。我々も、あのときにいろいろ議論しました。しかし、議論して決めた以上、本当にこれを守っていこうということで一貫してやってきたので、どんな国であっても侵略や覇権は許さないということもやってきましたし、何かそういう形で議論をやられるというのは非常に遺憾だし、そういうやり方は慎んでいただきたいというのは率直に思います。

 以上です。

土屋(正)委員 今の笠井先生のお話は、法制局に、占領下で憲法を制定した国は幾つぐらいありますかという問いかけをしておりますので、それが出たらまたお互いに議論をしてみたいと思います。

 それから、辻元先生がおっしゃった、私が言っているのは、国会で憲法論議をするなと言っているんじゃないんです。どんどん憲法論議をしてもいい。だから、私も手を挙げてこの会に来ました。どんどんすべきだと思います。国家の根本にかかわることですから、大いにやるべきだと思います。それをやらなければ国会議員じゃないと私は思います。

 ただ、私が申し上げているのは、たびたび指摘がされた、いわゆる行政職にある者が憲法論議をするのはどうか、これが論議になっているわけでありますから、行政職といっても、一般行政職と違って、日本国は議院内閣制を憲法によってとっているわけであります。だから、国会で選ばれた国会議員が内閣を構成するのが原則ですから、もちろん民間の方も来れるわけですけれども、しかし、そういうことが法の立て方になっているわけですから、政治職であり、しかも選挙で選ばれた政党の代表が総理大臣を務めて憲法論議を制限する理由はどこにもないでしょうということを申し上げているわけであります。

 それから、国民の声が大きくないとかという議論がありますけれども、それはわかりません。いろいろな世論調査によって異なるでしょう。しかし、それはあくまでも世論調査であって、発議はどこがするのかというと、国会がやるわけであります。現行の日本国憲法においても、国民は、正当に選挙された代表者を通じて行動し、前文の冒頭でこうなっているわけであります。

 ですから、国民の声が多いのか少ないのか、これは、国民の代弁者である国会がまずどのような決議をするか、あるいは発議できないかもしれない、あるいは発議するかもしれない、それに基づいて、国民投票によって国民の意思を聞く、こういうことになるんだろうと思います。

 それから、長らく地方自治の責任者をやっておられた鈴木先生、私も敬意を持って御指導いただいていますが、確かに、地方自治では三分の二の規定が幾つかございます。ただ、御承知のとおり、鈴木先生に今さらこういうことを言っても失礼かとも存じますが、地方自治は大統領制で、首長の権限が相当強いわけであります。鈴木市長のときはどうだったか、私わかりませんが、客観的に見て相当強いと言われております。直接選挙で選ばれる、こういうことを前提にして制度が成り立っております。

 さらに、三分の二といっても、割かしとりやすいんですね。だって、十万人サイズの市議会というのは、せいぜい二十人から多くて三十五、六人です。だから逆に、三分の二というのは比較的とりやすいわけであります。ですから、憲法とはまた違うと思います。

 さらに、一旦否決された案件を再議に付するというような制度もあるわけですから、これをもって憲法の議論にはならないんじゃないかと思います。住民が直接投票するのはいわゆるリコールぐらいでありますから、そういう意味では、憲法の規定と少し違うのではないかと思います。

 どうぞまたいろいろ御指導のほどを。

保利会長 それでは、まだまだ御発言があろうかとは思います。しかし、きょうは本会議も予定されておりますので、きょうはここまでにさせていただきたいと思います。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時九分散会


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