衆議院

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第4号 平成27年6月11日(木曜日)

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平成二十七年六月十一日(木曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   会長 保岡 興治君

   幹事 後藤田正純君 幹事 河野 太郎君

   幹事 根本  匠君 幹事 平沢 勝栄君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 武正 公一君 幹事 井上 英孝君

   幹事 北側 一雄君

      赤枝 恒雄君    安藤  裕君

      池田 佳隆君    江崎 鐵磨君

      衛藤征士郎君    大野敬太郎君

      鬼木  誠君    木原  稔君

      小島 敏文君    高村 正彦君

      白須賀貴樹君    鈴木 憲和君

      鈴木 隼人君    高木 宏壽君

      土屋 正忠君    寺田  稔君

      野田  毅君    牧原 秀樹君

      松本 文明君    宮崎 謙介君

      宮崎 政久君    宮路 拓馬君

      武藤 貴也君    務台 俊介君

      村井 英樹君    山下 貴司君

      山田 賢司君    山本 有二君

      若宮 健嗣君    枝野 幸男君

      大島  敦君    鈴木 克昌君

      辻元 清美君    中川 正春君

      長妻  昭君    鷲尾英一郎君

      小沢 鋭仁君    馬場 伸幸君

      吉村 洋文君    國重  徹君

      斉藤 鉄夫君    浜地 雅一君

      赤嶺 政賢君    田村 貴昭君

      園田 博之君

    …………………………………

   衆議院憲法審査会事務局長 阿部 優子君

    ―――――――――――――

委員の異動

六月十一日

 辞任         補欠選任

  佐藤ゆかり君     宮路 拓馬君

  棚橋 泰文君     大野敬太郎君

  松本 文明君     高村 正彦君

  宮崎 謙介君     白須賀貴樹君

  山下 貴司君     鬼木  誠君

  古本伸一郎君     枝野 幸男君

  大平 喜信君     田村 貴昭君

同日

 辞任         補欠選任

  大野敬太郎君     鈴木 憲和君

  鬼木  誠君     山下 貴司君

  高村 正彦君     松本 文明君

  白須賀貴樹君     宮崎 謙介君

  宮路 拓馬君     鈴木 隼人君

  枝野 幸男君     古本伸一郎君

  田村 貴昭君     大平 喜信君

同日

 辞任         補欠選任

  鈴木 憲和君     棚橋 泰文君

  鈴木 隼人君     佐藤ゆかり君

    ―――――――――――――

六月八日

 憲法九条を生かす外交に関する請願(赤嶺政賢君紹介)(第一五八三号)

 日本国憲法を守り生かすことに関する請願(藤野保史君紹介)(第一五八四号)

 政府に集団的自衛権の行使容認の閣議決定を撤回させることに関する請願(大平喜信君紹介)(第一七二九号)

は本憲法審査会に付託された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件(憲法保障をめぐる諸問題(「立憲主義、改正の限界及び制定経緯」並びに「違憲立法審査の在り方」))


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     ――――◇―――――

保岡会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件、特に憲法保障をめぐる諸問題(「立憲主義、改正の限界及び制定経緯」並びに「違憲立法審査の在り方」)について調査を進めます。

 これより自由討議に入ります。

 この自由討議につきましては、幹事会の協議に基づき、まず、各会派を代表する委員が順次発言を行い、その後、各委員が自由に発言を行うことといたします。

 それでは、まず、各会派を代表する委員の発言に入ります。

 発言時間は十分以内とします。

 発言は自席から着席のままで結構です。

 発言の申し出がありますので、順次これを許します。高村正彦君。

高村委員 現在国会で審議をしている平和安全法制の中に、集団的自衛権の行使容認というものがありますが、これについて、憲法違反である、立憲主義に反するという主張があります。これに対して、昭和三十四年のいわゆる砂川判決で示された法理を踏まえながら、私の考え方を申し述べたいと思います。

 憲法の番人である最高裁判所が下した判決こそ、我々がよって立つべき法理であります。言いかえれば、この法理を超えた解釈はできないということであります。

 砂川判決は、憲法前文の平和的生存権を引いた上で、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」と言っております。しかも、必要な自衛の措置のうち、個別的自衛権、集団的自衛権の区別をしておりません。ここが大きなポイントであります。個別的自衛権の行使は認められるが集団的自衛権の行使は認められないなどということは言っていないわけであります。

 当時の最高裁判事は集団的自衛権という概念が念頭になかったと主張する方もいます。しかし、判決の中で、国連憲章は個別的自衛権と集団的自衛権を各国に与えていると明確に述べていますので、この主張ははっきり誤りであります。

 そして、その上で、砂川判決は、我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものについては、一見極めて明白に違憲無効でない限り、内閣及び国会の判断に従う、こうはっきり言っているわけであります。

 安全保障について、実際に、どのような方針のもと、どのような政策をとり、それを具体化していくかは、内閣と国会の責任で取り進めていくものなのであります。

 確かに、昭和四十七年の政府見解、そしてその後の政府見解などでは、その時々の安全保障環境に当てはめて、集団的自衛権の行使は必要な自衛の措置に入らない、これを行使することはできないとしています。しかし、安全保障環境が大きく変化している中で、必要な自衛の措置に当たるものにどういうものがあるかについては、国民の命と平和な暮らしを預かる政府、国会として不断に検討していく必要があります。

 例えば、朝鮮半島で有事があったとします。我が国に対する武力攻撃は発生していないものの、我が国のために活動する米軍艦艇が攻撃されることはあり得ます。

 現行法では、我が国に対する攻撃がない限り、すぐ近くで攻撃を受けている米艦を助けることはできません。このような場合に、我が国として何もできないままでいいはずがありません。

 他国に対する武力攻撃を契機とするものであっても、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態は生じ得るのです。国民の命、平和な暮らしを守り抜くためには、このような事態に対応できるようにしなければなりません。

 果たして、憲法解釈の変更は全く許されないのでしょうか。今まで政府が集団的自衛権はだめと言ってきたのだからだめだと言う方がいます。しかし、私が今挙げたような例が日本の国の存立を全うするために必要最小限度でないと思っているのか、あるいは、必要最小限度であったとしても、集団的自衛権と名前がついていればだめだとおっしゃっているのか、私にはわかりません。

 少なくとも、憲法の番人である最高裁判所は、憲法九条にもかかわらず、必要な自衛の措置はとり得ると言っています。何が必要かは時代によって変化していくのは当然であります。実際の政策は、憲法の番人たる最高裁判所の判決で示した法理のもと、内閣と国会に委ねられているわけですから、過去の安全保障環境を前提にした当てはめ部分にまで過度に縛られる必要はないわけであります。

 何も、政府が必要なプロセスを踏まないで暴走しているわけではありません。閣議決定によって内閣で意思を統一して、国会に法案を提出して十分に審議する、そして法律ができれば、それに従って政策を実行する、これはプロセスとして最も正当かつ真っ当なものであります。したがって、立憲主義に反するという批判は全く的を射ないものであります。このことを否定することこそ、まさに立憲主義の否定であり、三権分立の否定にほかなりません。

 ところで、先日の憲法審査会における参考人の三名の憲法学者のうち、一人として砂川判決に言及した方はいらっしゃいませんでした。したがって、砂川判決の法理を否定しているのか、この法理の枠外にあると言っているのか、判然としません。

 憲法調査会の場でおのおのの考えを自由に述べていただくことは結構なことであります。私たちとしても、自分たちと異なる意見を持つ方々も尊重します。その一方で、私たちは、憲法を遵守する義務があり、憲法の番人である最高裁判決で示された法理に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、自衛のための必要な措置が何であるかについて考え抜く責務があります。これを行うのは、憲法学者でなく、我々のような政治家なのです。

 一九五四年に自衛隊をつくったときにも、ほとんどの憲法学者は憲法違反だと主張していました。憲法学者は、どうしても憲法九条の条文そのものにこだわることがあると思いますが、先達は、憲法選定権者である日本国民が、侵略されて座して死を待つというようなことをみずから憲法に決めるはずがないという大きな常識に基づいて、自衛隊をつくったのであります。

 憲法学者の言うとおりにしていたら、今も自衛隊はありません、日米安全保障条約もありません。そして、先達の大きな常識のおかげで、自衛隊や日米安全保障条約が抑止力として働いて、平和と安全を維持してきたのであります。

 三名の参考人が主張されたように、昨年七月の閣議決定と、それに基づく平和安全法制の整備は違憲であるとの意見があります。

 しかし、先般の閣議決定における憲法解釈は、我が国を取り巻く安全保障環境の大きな変化を踏まえて、砂川判決の法理のもとに、かつ、これまでの憲法解釈との論理的整合性と法的安定性に十分留意して、昭和四十七年見解などの従来の政府見解における憲法九条の解釈の基本的な論理、法理の枠内で、合理的な当てはめの帰結を導いたのであります。

 これまで、その時々の安全保障環境に基づき当てはめを行った結果、集団的自衛権は十把一からげに、認められません、必要な自衛の措置に当たりませんとしてきたものを、集団的自衛権の行使にもいろいろあって、必要な自衛の措置に当たらないものもあれば、一部当たるものもあると言っているだけであります。

 武力の行使は、国際法上、集団的自衛権の行使に該当するもののうち、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られます。これは、基本的論理を維持した上で、それぞれの安全保障環境のもとでの当てはめの違いだけであります。

 したがって、合理的な解釈の限界を超えるような便宜的、意図的憲法解釈の変更ではなく、違憲であるという批判は全く当たらないということを改めて強調したいと思います。

 憲法の番人は、最高裁判所であって、憲法学者ではありません。もしそれを否定する人がいるとしたら、そんな人はいないと思いますが、憲法八十一条に反し、立憲主義をないがしろにするものであることを申し添えたいと思います。

 終わります。

保岡会長 次に、枝野幸男君。

枝野委員 まず、本題に先立ち、国会運営が著しく不正常になっていることを指摘し、特に、厚生労働委員会の審議について強く抗議します。

 厚生労働委員会は、昨日、我が党などの要求を無視し、委員長職権で派遣法の審議を強行しました。年金記録漏えいという、国民的にも関心が高く、迅速な対応が求められているテーマについて、厚生労働省等に、対応に多々問題が指摘されている以上、法案審議に優先して審議を進める必要があることは論をまちません。

 ところが、一方、きょうは、定例日でないにもかかわらず、今度は年金漏えい問題の審議だと称して、これまた委員長職権で強引に委員会開催を決定しました。

 言うまでもなく、定例日は、国会運営を効率的、効果的に進めるための基本的ルールであり、全会派一致の場合ならともかく、委員長職権で定例日以外に強行するという暴挙は許されるものではありません。定例日以外の例外的審議を強行するくらいなら、なぜ、昨日、法案審議を強行したのか。まさに御都合主義のきわみであります。

 民主政治は、中身と同様、手続の正当性が求められます。各会派で建設的な議論をするための手続的正当性に関し、最低限の前提が一方的に無視され、国会は不正常な状況であることをまずは申し上げておきたいと思います。

 その上で、せっかくの機会ですので、本題について申し上げます。

 言うまでもなく、四日の本審査会にお招きした三人の参考人の先生方、いずれも憲法学界を代表する先生方でありますが、その皆さんがそろって、現在審議中の安保法制について憲法違反であると述べられたことは、それ自体重大なことです。

 これを軽視したり無視したりしようという声が出ていることは、それだけでも、国会における参考人質疑そのものを軽視するもので、国会議員みずからがおっしゃることは、天に唾するものです。

 中でも、長谷部先生については、自民党の推薦に基づいて参考人としてお招きしました。安保法制についての意見は結果的に自民党と異なっているとしても、お招きしたテーマである憲法保障をめぐる諸問題、つまり立憲主義などについては、意見を伺うにふさわしい専門家であると自民党の皆さんも判断されたわけです。

 そして、定着した解釈の変更という安保法制の問題点とは、お招きしたテーマの中心である立憲主義との関係で、憲法適合性が問われているものです。

 立憲主義について自民党の皆さんも傾聴に値すると判断された先生から、立憲主義違反との指摘を受けたということは、誰よりも自民党自身が重く受けとめるべきであります。

 また、長谷部先生は、一部マスコミから、先生には大変失礼ながら、自民党の御用学者という表現がなされたことすらあります。特定秘密保護法の審議に際して、自民党推薦の参考人として特定秘密保護法に賛成の意見を述べられたことなどが、こうした失礼な表現が一部でなされた背景であります。

 つまり、長谷部先生は、自民党の皆さんと異なる特別なイデオロギーや政治性を持っておられるわけではありません。憲法学の専門的、客観的見地から正しいと判断されれば、自民党の進める政策を支持することを含め、中立厳正に意見を述べられてきた方であり、自民党寄りとの誹謗があっても、学者としての信念に基づき、筋を通されてきた先生であるということであります。

 小林先生については、自民党の皆さんこそよく御存じでしょう。憲法九条について、早くから改正の必要性を強調しておられました。失礼ながら、私は、ある時期に小林先生の詳細な御意見を学ぶまで、自民党寄りの偏った学者さんではないかとの偏見を持っていたくらいです。その小林先生が、今回の安保法制を違憲だと明言されているのです。

 要するに、単にたまたまお招きした三人の先生方がそろって違憲とおっしゃったのではなく、中立的で、むしろ自民党の考え方に近いとすら受けとめられている方が少なくとも二名も含まれている中で、一致して憲法違反との指摘を受けたということであります。

 その上で、四日の審査会の後に一部から出ている、その重みを無視しようとする具体的な意見に対し、二点ほど指摘をしたいと思います。

 まさに専門家中の専門家である参考人の先生方御自身がさまざまな場面で反論しておられるので、浅学非才の私が申し上げるのは僣越かもしれませんが、しかし、同様に専門家でない同僚議員の中からさまざまな意見が示されている中では、それに対する反論を明確に議事録に残すという役割もあります。そこで、先生方のこの間の御発言などをできるだけ参考にしながら、二点ほど申し上げたいと思います。

 一つは、自衛隊発足の当時から、憲法学者の間では自衛隊違憲論が多数であり、最高裁はその学者の意見を採用してこなかったとの指摘です。また、現状においても、憲法学者の間では自衛隊違憲論が多いとして、自分たちとは基本的な立場が異なるという発言もあります。

 しかし、そもそも自衛隊発足時の違憲論は、日本国憲法が制定され、九条についての解釈が確立する前の、いわば白地での議論でありました。これに対し、今回の参考人の御意見は、いずれも、これまでに積み重ねられ、定着している政府の憲法解釈を前提として、集団的自衛権の容認などが憲法違反であると論理的に指摘をするものです。つまり、参考人の御意見は、自衛隊合憲論を前提としており、その限りで、私たちとも自民党とも基本的な立場は一致しています。

 そして、白地の状況では、批判自体が確立していませんから、条文の文言に基づき、どのような規範を導くのかということが問われます。このような場合には、法論理の問題だけにとどまらず、一定の価値判断が含まれ、政治性を帯びることも避けられません。すなわち、条文とそごを生じない限り、新たな規範の定立に向けた政治判断、価値判断が加わることは、この時点ではあり得ることです。当時の公権力が、法論理の専門家である学者の意見を参考にしながらも、政治的価値判断を踏まえ、当時の多数意見とは異なる結論を導いたことにも一定の正当性があります。

 これに対して、今回の参考人の指摘は、既に確立した解釈、つまり一定の規範を前提に、論理的整合性がとれないことを専門的に指摘するものです。論理的整合性は、政治性を帯びる問題ではなく、純粋法論理の問題ですから、政治家が政治的に判断できることでなく、専門家に委ねるべき問題です。論理の問題と、一定の価値判断、政治判断が含まれる問題との峻別もできないのでは、法を語る資格はありません。

 二つ目は、集団的自衛権容認の論拠として砂川事件最高裁判決を引っ張り出し、かつ、憲法判断をするのは学者でなく最高裁だとの主張がなされていることです。

 言うまでもなく、砂川判決で論点になっていたのは個別的自衛権行使の合憲性であり、集団的自衛権行使の可否はこの裁判では全く問題となっていません。そこで示された論理はあくまでも個別的自衛権行使の可否に関するものであり、その論理の一部をつまみ食いして集団的自衛権行使が可能であると導くのは、判例の捉え方に関する法解釈学のイロハのイ、基本に反するものであります。

 また、政府が示すように、砂川判決の論理から集団的自衛権行使容認を導き得るのなら、砂川判決の後も、政府が一貫して集団的自衛権行使を憲法上許されないとしてきたことをどう説明するのでしょうか。最高裁判決では容認されていた集団的自衛権行使を、内閣の判断で、できないとしてきたのでしょうか。

 政府は、最近の安全保障環境の変化によって、集団的自衛権行使の一部容認が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要になったのだと言っていますが、つじつまは合いません。仮に最近の環境変化で必要性が生じたのだとしても、法論理上は可能であったはずであり、この間の説明も、砂川判決に基づき、集団的自衛権行使も法理論上は合憲であるが、その必要がないので行使しない、こう言ってこなければおかしかったはずであります。

 要するに、砂川判決という唯一の自衛権に関連する最高裁判例は、集団的自衛権行使を容認したものでは全くなく、しかも、その判決がありながら集団的自衛権行使はできないという政府見解が積み重ねられたという事実を踏まえれば、砂川判決は、集団的自衛権行使容認が憲法違反であるということの補足理由にはなっても、行使容認には到底結びつきません。

 このほかにも、全く論理性のない批判が参考人の皆さんに対してなされていますが、私の観点から、別途、戦前の失敗の分かれ道の一つとなった天皇機関説排撃運動について指摘をしておきたいと思います。

 昭和十年、明治憲法において通説であった天皇機関説に対し、国会内外での排撃運動が燃え盛り、美濃部達吉東京帝大教授の著書「憲法撮要」が頒布禁止処分になるなどしました。そしてこの事件が、憲法という観点からは、道を誤るきっかけの一つとなりました。

 私は、一部で言われているように、明治憲法が悪い憲法であったとは思っていません。あの当時の世界の状況の中では、昭和初期までの適切な運用が続いていれば、相当程度評価できる憲法であったと思います。

 ところが、天皇機関説批判で、専門家でもない人たちが政治的思惑や感情論で憲法解釈の通説を排撃し、解釈を恣意的にゆがめ、その結果、その後の統帥権独立の拡大解釈などへとつながって、国を滅ぼす一歩手前まで進めたのであります。

 今回の騒動も、あのときと同じように、専門家の論理と学識を政治家などが一方的に無視し、論理になっていない論理をごり押ししようとするものであり、同じ過ちにならないことを危惧するものであります。

 安倍総理は、海外において法の支配を強調しておられます。

 国内において、法の支配とは、法に基づかない権力行使を行わないということにほかなりません。そして憲法は、権力が守らなければならない基本中の基本となる法です。その解釈を、専門家の指摘も無視して一方的に都合よく変更するという姿勢は、法の支配とは対極そのものです。

 国際社会において法の支配を軽視し、力による現状変更を進めるロシアや中国を強く非難するのは当然です。しかし、その御本人は、国内ではロシアや中国と同じように法の支配を無視しているということを指摘せざるを得ません。まさに同じ穴のムジナであるということを申し上げ、意見陳述といたします。

保岡会長 次に、井上英孝君。

井上(英)委員 維新の党を代表いたしまして発言させていただきます。維新の党の井上英孝でございます。

 先週の参考人質疑は大変興味深く、我々の議論にとって多くの示唆を与えてくれるものでありました。改めて参考人の先生方に感謝を申し上げるとともに、参考人質疑の内容も踏まえつつ、維新の党を代表して、本日のテーマに関する我が党の考え方をお伝えしたいと思います。

 まず、現行憲法の制定過程に関しては、GHQの影響下でつくられたという事実は当然承知をしております。しかし、我が党内の議論においては、戦後七十年がたとうとする現在、こうした押しつけ憲法論というような制定経緯に関する議論を行っていても生産性がないのではないかという意見があります。

 維新の党は、効率的で自律分散型の、時代に合った統治機構というのを確立する統治機構改革を憲法改正によって実現することを党の基本政策として掲げております。

 日本は今、経済のグローバル化と大競争時代の荒波の中で、新陳代謝がおくれ、国力が停滞あるいは弱体化し、国民は多くの不安を抱えております。我が国がこの閉塞感から脱却し、国民の安全、生活の豊かさ、伝統的な価値や文化などの国益を守り、かつ国の将来を切り開いていくためには、統治機構改革によりこの国の形を変えるという必要があると我々は考えております。

 したがって、私たちは、制定経緯における事実は事実として重く受けとめた上で、今なすべきことは、統治機構改革によりこの国の形を変えるべく、憲法改正に向かって進んでいくことであろうというふうに考えております。

 立憲主義と関連して、先週の参考人質疑では、三人の参考人の先生方全員から、現在審議中の安保法制は違憲であるという発言がございました。

 維新の党は、限定的集団的自衛権と言われるものの中に、実質的に個別的自衛権と言って差し支えないものが含まれていると考えております。

 すなわち、自衛権は、自国に対する武力攻撃が発生したか否かで個別的、集団的で区別されてきたため、その区分に従い、日本政府は、個別的自衛権の行使のみを合憲と解釈してまいりました。

 一方、瞬時の対応を必要とする弾道ミサイルへの対処に関しては、しかるべき根拠があって、我が国に飛来する蓋然性が相当に高いと判断される場合には、我が国が武力攻撃を受けていない状況下であっても、自衛権を発動して迎撃することが許されるとしてまいりました。

 したがって、仮に我が国が武力攻撃を受けていない状況下で、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性が相当に高く、国民が深刻な犠牲をこうむることになる場合には、自国と密接な関係にある他国に対する攻撃を我が国の武力行使によって排除することは、従来の憲法解釈の範囲内として許容されるものと考えているところであります。

 しかしながら、現在審議が行われている政府提出の安保法制につきましては、例えば、存立危機事態の想定事例として政府が挙げているホルムズ海峡における機雷除去について、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性が相当に高いとは言えないのではないかということ、また、重要影響事態における後方支援のうち、弾薬の提供や戦闘行為のために発進準備中の航空機への燃料補給などについては、武力行使の一体化と解される可能性があり、これらの点などについて憲法上疑義なしとはしないと考えるものであります。

 維新の党は、今般の安保法制への対応をいまだ決めておりませんが、これまでの政府の説明について疑問も残る中で、さらに十分な説明が必要であるというふうに考えておりますし、また、今審査会におきましてもこのような議論が続けられているということで、何らかの決着をつけるべきではないかというふうに思いますし、ぜひとも提案をさせていただきたいというふうに思います。

 また、憲法八十一条で、憲法の最終的な有権解釈権は最高裁判所に与えられております。しかしながら、これはよく指摘をされるところですが、最高裁判所は、付随的違憲審査制をとっている関係で、具体的な訴訟がなければ違憲審査を行うことができないなどの制約もあり、現在、違憲審査制度において積極的な役割を果たせているとは言えません。そうであるために、今回のように、一内閣の恣意的な憲法解釈の変更により、これまで通用していた憲法解釈が覆されて、法的な安定性が損なわれることになるのです。裁判所の持つ憲法解釈の権限はきちんと行使されるべきだと考えております。

 このため、維新の党は、抽象的な憲法解釈の権限を有する憲法裁判所の設置を主張しております。

 一方で、憲法裁判所という現行の裁判所制度と全く異なる制度を導入するためには憲法改正が必要であり、相当程度の検討の時間が必要になると考えられます。そこで、同時に、現行の憲法八十一条を活用して、違憲立法審査制度を活性化させるということも一案ではないかと考えております。

 この点に関連し、先日の憲法審査会では、笹田参考人から、特別高裁の制度及びカナダの照会制度が紹介をされました。特別高裁の制度は、最高裁の上告審としての負担を軽減し、違憲審査により集中できるような環境を整えるものであり、照会制度は、政府が最高裁判所に法律などの憲法解釈に関する勧告的意見を求めるということでありました。

 これらは、いずれも憲法改正を必要とせず、現行憲法を前提としながら、法律により現行の違憲審査制の改善を図ろうというもので、検討に値するものであるというふうに考えます。

 最後に、立憲主義に関連し、九十六条の憲法改正手続について申し上げます。

 憲法保障の観点からは、硬性憲法であることが重要であると言われます。しかしながら、我が国の憲法改正手続は、これまでにこの憲法審査会でも再三議論になったように、衆参各院総員の三分の二の賛成に加えて国民投票を必要とするという、諸外国と比べても最も厳しい部類に属する、硬性の中でも硬性な憲法と言えると思います。その結果として、我が国は、現行憲法制定後七十年近く、一度の憲法改正も経験しておらず、国民が憲法についてみずから判断するという機会を一度も持つことができませんでした。

 こうした観点から、維新の党は、憲法改正の発議要件を緩和するということを提言しています。

 先週の参考人質疑では、過去に九十六条改正は裏口入学であるとの発言を行っていた小林参考人に対し、この点について問うたところ、裏口入学とは、九十六条の改正自体を指していたのではなく、あまたある憲法改正事項のうち、まず九十六条から改正しようという政治的な姿勢を批判しようとして発言したものであり、九十六条改正自体は選択肢の一つであるとのお話も伺ったところでございます。

 いずれにいたしましても、このような憲法保障をめぐる諸問題を初めとする憲法改正に向けた議論の深掘りを進め、国民の皆様に直接判断していただく機会を早急に整えていくべきであると考えております。

 以上でございます。

保岡会長 次に、北側一雄君。

北側委員 公明党の北側一雄でございます。

 我が国の防衛は、主として、自衛隊と日米安保条約に基づく米軍との二つの実力組織によって確保しようとしております。そもそも自衛隊や日米安保条約は憲法違反の疑いがあるという立場の方は別として、このこと自体を否定する人は少ないと思います。

 まずは、具体事例を通して意見を述べたいと思います。

 日米安保条約に基づき、日本防衛のため日本近海の公海上で警戒監視活動をする米艦船への武力攻撃があった場合、自衛隊はこれを排除できるのか。日本にはまだ武力攻撃がないという前提です。これまでも国会で何度も論議されていますが、これに対する対処がどこまでできるのか、必ずしも明らかではありません。

 以下の三つの立場が考えられます。

 第一に、個別的自衛権で対処できず、米艦船への武力攻撃を排除できないという立場です。

 しかし、この考え方で果たして日米防衛協力体制を維持できるのでしょうか。特に、弾道ミサイルや核の開発が進み、軍事技術も飛躍的に高度化するなど、我が国をめぐる安全保障環境が厳しさを増しています。この国と国民を守るためには、平和外交努力とともに、日米防衛協力体制の信頼性、実効性を強化し、抑止力を向上させて、紛争を未然に防止していくこと以外の現実的な選択肢はないと思います。そのためには、少なくともこの事例のような、日本防衛のために活動している米艦船への攻撃を排除できるとしておかないといけないと考えます。

 第二に、個別的自衛権で対処できるという立場です。

 例えば、我が国領海内で行動している米艦船に対する武力攻撃ならば、我が国に対する武力攻撃の着手と評価できるでしょうが、公海上で活動している米艦船への攻撃の場合、我が国に対する武力攻撃の着手と言えるのでしょうか。これは、一般的には疑問と言わざるを得ません。先日の小林参考人の意見は、ホルムズ海峡での機雷掃海の事例まで挙げて個別的自衛権で対処できると言われているようですが、武力攻撃の着手概念を余りに広く解釈されており、国際法上は到底認められない主張と言わざるを得ません。

 第三に、個別的自衛権での対処は困難な場合が多く、国際法上は、集団的自衛権を根拠として米艦船への攻撃を排除すべきとの立場です。

 この立場の最大の課題は、憲法九条との関係です。国連憲章五十一条に定めるフルサイズの集団的自衛権の行使を憲法九条が許容しているとは、とても考えられません。

 憲法九条のもとで自衛の措置はどこまで許されるのか、その限界はどこにあるのか、昨年七月一日の閣議決定に至るまで、与党協議での最大の論点はここにありました。憲法九条一項には、戦争の放棄がうたわれています。二項には、戦力を保持しないと規定しています。この九条のもとで自衛の措置はどこまで許されるのか。

 一九五四年に自衛隊が創設され、一九六〇年に日米安保条約が改定されました。先ほど高村副総裁から紹介があった砂川判決は、この時期の最高裁判決になります。一九五九年です。砂川判決では、憲法前文に記された平和的生存権を確認した上で、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」と述べています。憲法九条と自衛権の問題について触れた唯一の最高裁判決です。

 憲法九条のもとで許容される自衛の措置について、その後、最高裁で判断されることはありませんでした。また、日本の憲法学界でも、自衛隊や日米安保条約がそもそも違憲かどうかという議論はあっても、我が国の安全保障環境を踏まえつつ、憲法九条と自衛の措置の限界について突き詰めた議論がなされたということを、残念ながら私は知りません。

 憲法九条のもとで自衛の措置はどこまで許されるのか。この論議をどこでしてきたかといえば、安保法制が論議になるたびに、専らここ国会の場で、政府との間で論議が積み重ねられてきました。九条と自衛権という重いテーマについて、まさしく国会論議の中で政府見解が形成されてきたわけであります。

 数ある政府見解の中で最も論理的に、詳細に論じているのが、一九七二年の「集団的自衛権と憲法との関係」という内閣法制局の見解です。皆様のお手元にございます資料一でございます。その後の政府見解は、全てこれを踏襲していると言えます。

 この資料一の第三段落のところで、憲法九条、前文の平和的生存権、そして十三条の生命、自由及び幸福追求権に触れた上で、「わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」と、先ほどの砂川判決と全く同様のことを言っております。

 そして、「しかしながら、」という接続詞をあえて使った上で、「だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と見解を述べています。

 今私が引用した部分が、憲法九条のもとで許される自衛の措置についての法理、規範に当たるところで、まさしく政府見解の根幹、基本的な論理に当たるところだと私どもは考えています。

 憲法九条のもとでも自衛の措置が許される根拠やその目的は、憲法十三条にあります。十三条の生命、自由及び幸福追求の権利との文言の淵源はアメリカ独立宣言にありますが、日本国憲法の十四条から四十条に規定される基本的人権を包括的に規定したものです。要するに、国民の基本的人権が外国の武力攻撃によって根底から覆される急迫不正の事態には、その権利を守るために自衛の措置をとることが憲法上許されるということです。

 一九七二年見解では、法理、規範に当たる根幹部分の後に、「そうだとすれば、」と言った上で、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と結論づけていますが、これは、先ほどの法理、規範を当てはめた部分です。

 現在の安全保障環境から見れば、いまだ我が国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、他国に対する武力攻撃があり、これによって国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態があり得るとの認識を私どもは共有いたしました。こうした認識のもとで新三要件を提案し、昨年七月の閣議決定に盛り込まれ、今般の安全保障法制の法案にも明記をしているところでございます。

 資料二に、新三要件について添付をさせていただきました。赤字のところが新たに盛り込まれた部分でございます。この新三要件の意味についての答弁が資料三です。

 第一要件の、国民の権利が根底から覆される明白な危険があるとはということにつきまして、これは国会答弁で、「他国に対する武力攻撃が発生した場合において、そのままでは、すなわち、その状況のもと、国家としてのまさに究極の手段である武力を用いた対処をしなければ、国民に、我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況であるということをいう」このように答弁をしております。そしてまた、その判断の基準について、(2)のところで五つの要素を挙げているわけでございます。

 第二要件につきまして、国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとはということにつきましても、「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものではないということを明らかにしているものと考えております。」このような答弁がございます。自国防衛に限られる、他国防衛を目的とするものではないということを明確にしているわけでございます。

 第三要件の、必要最小限度の実力行使についても、「必要最小限度とは、我が国の存立を全うし、国民を守るためとあります第二要件を前提とした、我が国を防衛するための必要最小限度ということである」と答弁をしているところでございます。

 冒頭の事例で、日米安保条約に基づき、日本防衛のため日本近海の公海上で警戒監視活動をする米艦船への武力攻撃があった場合、自衛隊はこれを排除できるのかとの問いに対して、私どもは、この新三要件に該当する可能性が高いと考えております。

 以上から、先日の長谷部参考人の意見の中で、従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかないなどとの批判がありましたが、これは全く当たらないと言わざるを得ません。

 先ほど述べましたように、新三要件は、従来の政府見解の基本的な論理を維持し、かつ、それを現在の安全保障環境に当てはめて導き出されたものです。

 また、新三要件の意味について不明確との批判がありましたが、新三要件のそれぞれの意味については、総理、内閣法制局長官が、この一年間、一貫してさきのような答弁を繰り返しており、不明確だとは考えておりません。

 また、個別的自衛権の行使であれば意味が明確との意見もありましたが、個別的自衛権でも、我が国に対する武力攻撃の着手とは何かについて決して一義的に明らかというわけでなく、長く国会で議論のあることは御承知のとおりです。

 私たち国政に携わる者は、まず、現下の安全保障環境をどう認識するのか、その上で、国と国民を守るため、どのような安保法制を整備する必要があるのか、憲法との適合性をどう図るのか、こうした論議をしなければならないと考えます。

 今後の建設的な議論を期待して、私の意見といたします。

 以上です。

保岡会長 次に、赤嶺政賢君。

赤嶺委員 日本共産党の赤嶺政賢です。

 早速、意見表明に入らせていただきます。

 先日の憲法審査会の参考人質疑で、意見陳述した参考人全員が、現在特別委員会で審議中の安保法制について憲法違反だと発言し、昨年七月一日の閣議決定で憲法解釈を変更したことを立憲主義に反すると指摘したことは、極めて重要です。

 先日、長谷部教授らが指摘されたのは、主に次の四点でした。

 一点目は、集団的自衛権の行使が許されるというその点について、憲法違反である、従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかず、法的な安定性を大きく揺るがすものである、どこまでの武力の行使が新たに許容されることになったのか、はっきりしていないと述べたことです。集団的自衛権の行使は憲法違反であり、これまでの政府見解からも説明がつかない、範囲も不明確で、法的安定性を揺るがすという指摘です。

 二点目は、後方支援について、外国の軍隊の武力行使との一体化そのものという指摘です。

 三点目は、昨年七月一日の閣議決定からこの法案に至るまでの政府の憲法解釈変更を、立憲主義に対してももとるところがあると指摘したことです。

 そして四点目は、日米安保条約は、アメリカと日本が一緒になって世界の警察をやるという話ではなかった、本体が変わっていないのにガイドラインで世界警察に広げてしまうというのは全くの筋違いだ、安保条約の取り決めからも逸脱しているという指摘です。

 このような参考人の指摘に対して、政府は九日、反論の見解を発表しましたが、その内容は、閣議決定以降繰り返してきた説明をそのまま書き写したものであり、全く反論になっていません。政府の反論見解は、集団的自衛権行使の容認について、我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けていることを唯一の根拠として、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に海外で武力行使ができるというものです。

 しかし、明白な危険の判断基準は何もなく、政府の一方的判断でできるとしているもので、参考人の指摘に対する反論にも説明にもなっていません。

 そもそも日本国憲法は、侵略戦争への反省の上に立って、九条で、戦争の放棄、戦力不保持、交戦権の否認を規定し、徹底して非軍事、平和主義をとっており、海外で戦争するようなことなどは決して認められないものとしています。ところが、アメリカの再軍備要求に基づき自衛隊が創設され、九条に矛盾する日米軍事同盟の現実がつくられてきました。このもとで、歴代政府は、自衛隊は日本防衛のための必要最小限度の実力組織であるから合憲だと言い、海外派兵はできない、集団的自衛権の行使はできないとしてきたのであります。それが、一九七二年の政府解釈であり、国会審議で歴代総理が積み重ねてきた答弁です。

 したがって、今回の戦争法案のように、我が国が攻撃されてもいないのに日本が武力を行使できるなどというような解釈は、どこからも導き出せません。

 しかも、重大なことは、存立危機事態で、日本を攻撃していない国に対して日本から武力行使を行うということになれば、その国との間で武力抗争状態を新たに発生させることになります。これはまさに、憲法九条一項で禁止された、国際紛争を解決する手段として武力を行使することにほかなりません。また、集団的自衛権を認めて、まさに他国防衛となる海外派兵を可能とし、他国防衛のための軍事的実力を持つことが、憲法九条二項に反することも明らかです。全ての参考人が違憲だと指摘したのは当然であります。

 憲法学者の厳しい指摘を受けて、総理は、今回の法案は、砂川事件をめぐる最高裁判決と軌を一にするものとして、憲法違反ではないと強弁しました。

 政府が集団的自衛権容認の根拠として引用する砂川判決は、駐留米軍が憲法九条二項の戦力に当たるかが問題となったもので、昨日の特別委員会で横畠法制局長官も、集団的自衛権について触れていないと認め、また、政府の引用する部分が、先例として拘束性を持つものではない、まさに傍論部分であることを認めざるを得なかったものです。

 しかも、砂川判決は、最高裁が統治行為論をとって憲法判断を避けたものです。その背景には、裁判所と日本政府に対するアメリカからの圧力があり、司法の独立も国家主権も損なわれた状態で出された対米従属の判決だったことが、アメリカ政府が解禁した文書等で判明しています。

 このような判決を根拠に最高裁も集団的自衛権を認めているかのように言う、憲法学者による違憲との指摘にも耳をかさない、こんなやり方が立憲主義にもとると参考人から指摘されるのは当然であります。

 また、安倍総理は日米安保と自衛隊が戦後の平和を守ってきたと言いますが、実際は、日米安保によって日本は、アメリカの起こしたベトナム戦争などの出撃基地となり、イラク戦争では海外での米軍支援を行い、偽りの口実で国際法にも違反するアメリカの戦争に加担してきたのであります。安保条約をも踏み越える新ガイドラインのもとで、平時からの日米一体化を進め、辺野古への新基地建設を初めとする基地強化を進めようとしているのであります。

 今必要なことは、憲法九条の根本に立ち返ることです。憲法九条を事実上なきものとする戦争法案をつくり、アメリカの戦争を支援する国家づくりを進めるなど、到底許されるものではありません。憲法違反の明確なこの法案は廃案にすべきであります。

 以上です。

保岡会長 次に、園田博之君。

園田委員 次世代の党の園田博之です。

 我が党の方針に基づいて意見を述べさせていただきたいと思います。

 まず、立憲主義の定義についてでございますが、立憲主義とは、専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという思想とされております。その思想は、国家の任務を個人の権利、自由の保障にあると考えますが、その任務を果たすために強大な権力を保持する国家自体からも権利と自由を守らなければならないとの立場をとり、国民の権利を保障することが立憲主義の目的だと考えております。その背景にあるのは、価値観、世界観の多元性を前提とし、さまざまな価値観、世界観を抱く人々の公平な共存を図るという考えであります。

 ところで、立憲主義と憲法との関係で意見を申し上げたいと思います。

 手続的な側面からいいますと、現在の集団的自衛権の議論に関して申し上げるわけですが、国会における長年の議論によって確立した憲法解釈を一内閣限りの閣議決定によって変更することは、権力を制限するという立憲主義に反するとの批判があります。これに対しては、当該閣議決定は法整備のための方針を決定したにすぎず、具体的な国民の権利義務にかかわる事項については法律によって定めなければならない。このため、最終的には、現在行われているように、国会審議のレベルで立憲主義の手続的な側面が担保されるのではないかというふうに考えております。

 集団的自衛権について、我が党は、日本維新の会時代の平成二十六年でございますが、政府の閣議決定に先立って、集団的自衛権に対する見解を発表しております。この見解は、現在の国際情勢、安全保障法制のもとにおいては、個別的自衛権のみならず、他国に対する攻撃が同時に我が国の平和、安全に重大な影響を与える事態である場合に、自国及び自国民防衛という目的のための必要最小限度の武力行使を認めることも日本国憲法の許容するところであるという、いわば政府の閣議決定を先取りする決定をしております。

 我が党の案が、我が国の平和及び安全に重大な影響を与える事態である場合に集団的自衛権を限定容認するのに対して、政府案は、国民の権利が根底から覆されるような事態と、我が党の案よりもさらに限定する形になっております。これは、先週の審査会で私が申し上げましたように、自民党と公明党で議論した結果、かなり抑制的な形になったものと推察しております。

 そういう意味では、必ずしも我が党の案どおりではございませんが、現在国会で議論されている法制度につきましては、高く評価しているところであります。

 ところで、先週の審査会において、三人の憲法学者から、閣議決定及び審査中の平和安全法制について違憲という意見が述べられたところであります。政府が違憲ということであれば我が党の案も違憲ということになってしまいかねますので、この場において反論しておきたいと思います。

 参考人の意見は、大きく言って、一つ、集団的自衛権行使容認は従来の政府見解の基本的な論理の枠内におさまっていない、二つ、武力行使について、どこまで許されてどこから許されないかという基準が不明確であり法的安定性を揺るがすという二点から、違憲と述べられたように思います。

 しかし、我が党の案は、一つは、一言に日本国憲法の解釈といっても、一見全ての武力行使を禁止しているともとれる九条と、政府に国民を守る責務があることを前提とする十三条を整合的に解釈する必要があり、そのことからすると、外部からの急迫不正な侵害などによって国民の生命、財産が危機にさらされる場合に自衛権行使が認められることは当然であること。現在の国際情勢、安全保障環境のもとでは、我が国に対する直接の急迫不正の侵害がなくても、我が国と密接な関係にある国に対する攻撃が同時に我が国の平和及び安全に重大な影響を与える事態である場合に、あくまでも自国及び国民防衛のための集団的自衛権を認めることは、国民の生命、安全を守るために必須であり、憲法に反するものではないし、これは従来の政府見解とも整合性があると考えております。

 また、法的安定性につきましても、我が党の案は、被攻撃国からの支援要請に関する詳細な要件設定や内閣の判断と国会承認など、厳格な六重の要件を設けており、法的な安定性を害するものではないと考えております。

 ところで、我が党の集団的自衛権に関する見解には、内閣による憲法解釈の変更に対する裁判所による統制が必要として、政治部門に属さない、裁判所による統制の充実強化を図る必要が強調されております。これは、先日の笹田参考人の、憲法保障のためにはクールに考える部門、場所が必要という意見に応えるものと言えると考えております。

 このような考えに立って、我が党は、昨年四月に既に、通常の司法審査とは異なる形で、裁判所による抽象的な合憲性審査を行う機関として、憲法改正によって欧州各国のような憲法裁判所を設けることや、憲法改正をしなくても認められる余地のあるものとして、最高裁判所に憲法部を設置することを検討することを提言しております。この点におきましては、笹田参考人の問題意識を共有するものであり、今後、当審査会において積極的な検討をお願いしたいと思っております。

 ただ、その際には、現在の我が国の裁判所は、司法権の担い手としての機能を十分に発揮できるように裁判官の育成を初めとする機構設計がなされているところ、笹田参考人の言うクールに考える部門、場所には、従来の司法裁判所とは全く異なった能力が求められると考えられ、その点を踏まえた制度設計が必要であることに留意すべきであろうと考えております。

 以上で終わります。

保岡会長 これにて各会派を代表する委員の発言は終了いたしました。

    ―――――――――――――

保岡会長 次に、委員各位による自由討議に入ります。

 発言を希望される委員は、お手元にあるネームプレートをお立ていただき、会長の指名を受けた後、御発言ください。発言が終わりましたら、ネームプレートは戻していただくようにお願いいたします。

 発言は自席から着席のままで結構です。また、発言の際には、所属会派及び氏名をお述べいただくようお願いいたします。

 なお、幹事会の協議によりまして、一回当たりの発言時間は五分以内といたしたく存じます。委員各位の御協力をお願い申し上げます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前及び終了時にブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、発言を希望される委員は、ネームプレートをお立てください。

 発言の御希望が多いようでございますが、時間に限りがございますので、御希望の方全員に御発言をいただくことは難しいと思われますが、あらかじめ御了承ください。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 去る六月四日のこの憲法審査会、憲法保障をめぐる議論ということで、三人の参考人の方からお話を伺い、また質疑も行われました。

 もちろん、立憲主義ということが一つのテーマでございましたので、昨年七月の閣議決定のあり方、あるいは現在審議されております平和安全法制関係が議論されるということは、これは予想できることではございましたけれども、一方で、会長が、今回の審査会運営の基本方針ということで述べられました言葉に、政局にとらわれずに憲法に関する議論を深化していくべきである、こういうお話をされました。そういう状況からいたしますと、若干ずれているような感じが否めません。もう一度、私たちは、憲法審査会の運営のあり方あるいはルールというものを再確認し、落ちついた環境のもとで憲法改正に関する議論が深化されますように、各党が努力をしなければいけないということを最初に申し上げたいと思います。

 次に、立憲主義についてでございます。

 長谷部参考人は、憲法の示すもの、あるいは憲法の内容としては、一つは普遍的価値、民主主義であるとか基本的人権であるとかそういう普遍的な価値とともに、普遍的価値の範囲内において固有な理念、例えば天皇制などを認めるべきである、このような御発言をされました。憲法は、権力を縛りつけるためのものだけではなくて、我が国固有の理念を一定の範囲で書いていくということも容認したものと私は受けとめております。

 次に、制定過程についての議論もございました。

 小林参考人は、押しつけ憲法論について、この歴史的な事実はあらがえないけれども、そのことだけを言うのでは生産的ではない、やはり現在は定着をしている、そういう現状から憲法を議論することが適切であると。このことについては共感を持った次第でございます。

 違憲立法審査について、笹田参考人は、我が国のような司法裁判所型においては、具体的裁判の最終審という部分が非常に大きく、抽象的なテーマにおける憲法判断はほとんど不可能に近い、こういう現状認識を示されました。そして、今後においては、具体的裁判を扱う特別高等裁判所を設置し、最高裁を抽象的規範統制のできるいわゆる憲法裁判所にするか、あるいは、カナダで行っている、政府が最高裁に勧告的意見を求めるいわゆるレファレンスという制度を導入することも検討したらどうかという、大変興味深い御意見を頂戴いたしました。

 最後に、昨年七月の閣議決定、そして、それをもとにした現在の平和安全法制について一言申し上げたいと思います。

 この閣議決定、そして現在の平和安全法制につきましては、切れ目のない安全保障体制を確立し、抑止力を強化するということであります。矛を磨くのではなくて盾を強くする、すなわち、現行憲法が認めている中での専守防衛、この範囲をいささかも踏み外すものではない、このように理解をしているわけでございます。

 今後とも、建設的な議論が憲法審査会で闘わされることを心から期待いたしております。

 以上です。

長妻委員 会長、発言の機会をいただいて、どうもありがとうございます。

 非常にいい議論ができていると思います。つまり、憲法は、この解釈、どこまで許されるのかというような議論だと思います。

 その中で、高村先生が退席されてもう帰ってこられないというのは大変残念でございますが、高村先生がおっしゃった砂川判決についてであります。

 私がこの判決文をどこをどう読んでも、この砂川判決の中に、法的効力のある部分として、我が国が集団的自衛権の行使を認める、そういうような記述というのがどこにも書いていないわけでございまして、北側先生はおられるので、北側先生に、一体どこの部分に、我が国が集団的自衛権の行使容認、これはしていいよというのが砂川判決の法的拘束力のあるどの部分に書いてあるのかということを、具体的に何行目にあるのかというのをお尋ねしたいところでもございます。

 そして、長谷部先生でございますが、長谷部先生は、新聞記事を見ますと、この砂川判決に関しても触れておられます。こういうふうにおっしゃっております。素直に読めば個別的自衛権の話だ、判決で集団的自衛権の行使が基礎づけられるという学者は私が知る限りはいないというふうにもおっしゃっておられます。別の新聞でも、長谷部教授は、砂川判決から憲法上、集団的自衛権が行使できるとする結論は無理がある、判決で認められるなら今までの政府見解に反映されたはずだが、そうなっていないともおっしゃっておられます。与党が推薦した教授でも、こういうふうにおっしゃっておられるわけであります。

 そして、昨日、法制局長官に共産党の委員が尋ねたところ、法制局長官も、集団的自衛権について砂川判決では触れているわけではございませんと明確に答弁がなされたわけでございます。

 そしてもう一点、高村先生から、憲法学者は自衛隊も否定しているんだというようなお話がございましたが、与党推薦の長谷部教授は、私が文献等を見る限り、自衛隊を違憲とおっしゃってはおられません。

 そしてもう一つ、高村先生から、すぐ近くで攻撃を受けている米艦船、これを何もできない、これでいいのかというお話がございました。私は、これは非常に誤解を受ける発言だと思います。何もできないわけではなくて、我が国には、周辺事態法という法律もございます、あるいは着手という概念もございます。

 先ほど北側先生から若干触れていただきましたが、着手といいますのは、例えば、平成十五年五月十六日、秋山法制局長官答弁がございます。日本を防護する米艦船についてでございますが、「我が国を防衛するために出動して公海上にある米国の軍艦に対する攻撃が、状況によっては、」「我が国に対する武力攻撃の端緒といいますか、着手といいますか、そういう状況として判断されることがあり得る」、こういうふうにもおっしゃっておられるわけでありまして、今回の集団的自衛権、限定的とおっしゃっております、守るべき利益は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態、これを守るための行使ということであれば、限りなくというか、個別的自衛権の着手と重なるというふうに私は考えるのであります。

 それは国際法上許されない、個別的自衛権の拡大解釈ととられかねないというお話もございましたが、これはもう御存じのように、アメリカ、イギリス初め、個別的自衛権は我が国よりもさらに幅広く考えている国もございます。海外にあるアメリカ大使館に対する攻撃をもって、米国の個別的自衛権というふうに考える国もあるわけであります。

 そして、最後に、四十七年見解をおっしゃられました。この四十七年見解を全て読みますと、第二段落目、まずしょっぱなのところに結論があって、我が国は集団的自衛権を行使し得ない、それについては次のような考え方に基づくものであるということで、第三段落目が一ブロック、二ブロック、三ブロックと分かれております。

 政府は、すぐ、結論の下にある理由づけのところからお話を始めるわけでありますし、第三段落目の一ブロック、二ブロックは基本的規範で、これは変えないんだ、これに基づいて三ブロック目が導き出されるとおっしゃいましたが、しかし、私も質疑をいたしまして法制局長官も認めましたが、この規範であるところの「外国の武力攻撃」という文言が、当時は我が国に対する武力攻撃であったものが、今度は、密接に関係する他国も含まれるということで、規範の部分も変えているわけでございまして、これは到底許される憲法解釈ではないのではないか、説得力が非常にないのではないかということを憲法学者の方も心配していると私は考えております。

 以上です。

保岡会長 御質問も発言の中にありましたけれども、回りながら、まとめていただくような形で、少し先に発言を進めさせていただきます。

古屋(圭)委員 自民党の古屋圭司でございます。

 先週に開催されたG7エルマウ・サミットの首脳宣言に、次のような文言が記されました。国際法の諸原則に基づく、ルールを基礎とした海洋における秩序を維持すること。具体的には、東シナ海、南シナ海での緊張の懸念。威嚇、強制または武力の行使及び大規模な埋め立てを含む現状の変更を試みるいかなる一方的行動にも強く反対する。

 ここで大規模な埋め立て云々は明らかに中国を指していることは、疑いの余地もありません。フィリピンのアキノ大統領も、国会にて同様の主張をしています。昨今における世界の安全保障環境の劇的変化をサミット首脳宣言でもこのように明記されたことは、大きな時代の変化を象徴しています。

 また、北朝鮮による核開発と日本を射程にしたミサイル配備も大きな脅威であります。

 このように安全保障環境の大きな変化に切れ目なく対応するために、極めて厳しい新三条件のもと、集団的自衛権の行使を現行憲法上の枠内で限定的に必要最低限の範囲で認めようというのが、現在審議中の平和安全法制です。政府は、日本国民の安全と生命を守り抜く責務があります。あくまでもその責務を遂行するための法制であります。

 過日の憲法審査会で、出席した三名の参考人が、集団的自衛権の行使は憲法違反であると述べています。長谷部参考人は、従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつきませんと述べています。しかし、憲法の条文の枠内で政府見解が変更されたことは、これまでも幾つかの例があります。すなわち、憲法の条文の枠内であれば憲法違反に当たらないという考えもあると思います。

 そこで、国際法と憲法に照らして、我が国の集団的自衛権行使は許されないのか、また九条は集団的自衛権の行使を禁止しているかについて述べます。

 国連憲章及びサンフランシスコ講和条約は、我が国に対して無条件で集団的自衛権を認めています。

 他方、九条は、集団的自衛権について保持も行使も禁止していません。すなわち、主権国家に認められた固有の権利である集団的自衛権を我が国が保持し行使し得るというのが自然です。行使に当たって何らかの制限は、九条二項の戦力の不保持や交戦権の否認に伴うものであります。

 もちろん、集団的自衛権と個別的自衛権の関係はさまざまな解釈があります。国内法の正当防衛権と比較すれば、両者は不即不離の関係にあり、切り離して考えること自体が不自然ではないでしょうか。

 さて、憲法解釈には、有権解釈と私的解釈があります。有権解釈は、最高裁判決、国会での議論の積み重ね、国会決議、政府見解がそれに当てはまるでしょう。最も重要な意味を持つのは最高裁判決であることは、憲法八十一条が、憲法解釈についての最終判断を有するのは最高裁と記されているからであります。これに対して、憲法学者等の学識経験者によってなされるのが私的解釈です。憲法学者の意見に耳を傾けることは大切ですが、国家機関を拘束するのはあくまでも有権解釈です。したがって、憲法学者が違反と言っているから平和安全法は廃案にせよというような論理はおかしいのではないでしょうか。

 憲法九条については、高村委員が指摘の、最高裁の判決が存在をしています。この砂川事件は、九条は主権国家として持つ固有の自衛権は何ら否定していない、我が国が存立を全うするために必要な措置をとることは国家固有の権能の行使として当然としています。

 判決は、自衛権としか述べられておらず、集団的自衛権については言及していないと指摘する人もいます。しかし、問題とされたのは、米駐留軍と旧安保条約の合憲性なので、集団的自衛権を射程に入れての判断であって、判決の言う自衛権の中には、集団的、個別的問わず、さきにも述べたように、不即不離、不可分一体のものと考えれば、一括して自衛権と呼んでも不自然ではないと考えます。

 同判決が集団的自衛権の名称を用いていないことを根拠に集団的自衛権について言及したものではないということであれば、個別的自衛権も言及をしていないので、一体この判決の自衛権は何なのかという奇妙なことになってしまうのではないでしょうか。

 以上、私の意見陳述といたします。

吉村委員 維新の党の吉村です。

 発言の機会をいただきまして、ありがとうございます。

 まず、今回のこの憲法審査会自体が、少数、我が党も含めてですけれども、少数な政党にも平等に発言の機会を与えていただいているということの趣旨は、平穏な環境の中で日本国憲法をどう考えるかということを検討する、まさにそういった会議の場であろうというふうに思っております。

 その中で、六月四日、この憲法審査会で三名の憲法学者の方が憲法違反だと言うことがあって、その中で、マスコミ、メディアも集団的自衛権に関して憲法違反であるかのようなそういった報道も続けられて、そしてまたこの憲法審査会においてもそういった議論が中心になりつつあることについて懸念を抱いております。

 当然、集団的自衛権に関するものあるいは現在の安保法制については特別委員会が設置されているわけでございますから、そこでしっかり議論すべきことであって、この場においては、憲法のあり方についてどうするかということを議論する場にすべきでないのかな、これは会長の議事整理権になるのかもわかりませんけれども、私はそのように思います。

 加えまして、憲法審査会の六月四日の三名の憲法学者の方の意見をお聞きし、そしてそれが与える影響力を今考えたときに、我が党として憲法裁判所の設置を強く主張しておりますけれども、一層やはりその必要性があるというような認識に至っております。

 政府としては法制局を中心に憲法解釈をしていくということになりますが、これは行政の解釈。それに対して、先週の憲法審査会での学者の意見、これもあくまでも学者の意見でございます。その中で、本来、憲法においては、憲法の最終判断権、適合するかどうかの最終判断権というのは最高裁にあるという中で、最高裁の違憲立法審査権が全く機能していない状態が今の現状だろうというふうに思っています。ですので、これを機能させるような仕組みに変えていかないと、今回と同じようなことがまた続くんだろうというふうに思います。

 現実において最高裁がどういった状況になっているのかということについてなんですが、笹田参考人からもございましたが、憲法裁判所、憲法に関する最終判断権を持ちながら、実質はほとんどそれができていない、忙殺されているということがありました。

 ちょっと数字において調べてみたんですけれども、民事の上告事件、これは平成二十二年で、ほかの年でも大概同じなんですけれども、上告された事件が合計で千八百五十九件、その中で、いわゆる門前払い、上告理由に付する、審査するまでもないというのに該当するのが千八百三十五件、九八・七%がそもそも上告に値しないというような事件として却下されているということですね。

 上告受理制度という制度がございまして、これは、憲法解釈にかかわらず、判例違反とか法令解釈に関する事項について判断できる、そういった上告受理の申し立てというものもあるんですけれども、これについても、総数で二千二百四十七件中、いわゆる門前払いになっているのが九六・四%、二千百六十六件あるわけですね。

 刑事についても、同じように、千六百八十一件ある中で、いわゆる上告棄却決定、中身に及んでいないというような件数が九九・四%あるということです。

 上告理由についても、上告事件については憲法違反がまず一つ大きな上告理由にはなっているんですけれども、それ以外の、判決の理由不備であったり手続違反というのも上告の申し立て事項にできるということになっています。

 つまり、最高裁自身は、はっきり言って憲法解釈をしない、別のところで動いているのがほとんどという意味で、上告受理の申し立て制度ももうなくす、あるいは上告事件についても憲法判断に限るというようなことにして、憲法の最終的な判断権の最高裁という位置づけをもう少ししっかりして、そして憲法裁判所というのを設置すべきである、そのように思っております。

 以上です。

保岡会長 先ほど船田委員や、今、吉村さんから御発言のあった今後の審査会の運営については、私も、審査会冒頭で所感で申し上げたとおり、調査会以来の長い伝統がありますので、とにかく、政局からできるだけ離れたところで、個別の法案の対立を持ち込まないで冷静に憲法の本質を論議する、こういう方針は、今後、幹事会でもよく御相談をしながら、適切に対応させていただきたいと存じます。

辻元委員 辻元清美です。

 本審査会では、国民投票法の改正案につきましても昨年議論をされました。参議院の審査会では、このような附帯決議がついております。仮に政府において、憲法解釈を便宜的、意図的に変更するようなことをするとすれば、政府の解釈ひいては憲法規範そのものに対する国民の信頼が損なわれる、そんなことがないようにと。これは昨年です。

 やはり今、国民から上がっている声は、政府がどうも便宜的、意図的に憲法解釈をしようとしているのではないかという点だと思います。そして、その根拠が二つ、きょう出されました。一つは、砂川判決を持ってくること、これは便宜的、意図的ではないのか。もう一つは、一九七二年、昭和四十七年のいわゆる見解を強引に持ってきているのではないか。この二点だと思います。

 一点目の砂川判決です。

 高村委員がおっしゃるように、砂川事件最高裁判決の読み方が到底受け入れられないなと思うのは、その後の半世紀以上にわたる集団的自衛権をめぐる議論で、高村委員のような読み方が前提にされている形跡が一切ないということなんです。もしも高村委員のような読み方が前提となっているのであれば、日本政府は、最高裁判所が合憲と言っている集団的自衛権を違憲であると強弁し続けてきたことになってしまうと思います。

 周辺事態法の議論が十七、八年前にありまして、高村さんは外務大臣でした。このとき、イラク特措法もそうですが、武力行使との一体化の議論は、集団的自衛権の行使を部分的であろうが全体であろうが一切認められないので、武力行使の一体化はだめだ、だから、武力行使と一体化しないところに自衛隊を出すんだと、高村氏みずから、私との質疑でもやりとりをしてまいりました。

 高村外務大臣の口から、砂川判決が集団的自衛権の行使を認めているんだということであれば、なぜそのときに高村さんはおっしゃらなかったのか。北側幹事もその議論に参加をされていたと私は記憶しておりますが、北側幹事からも、砂川判決で認めておられるじゃないかというような論拠は誰一人言ってこなかった。

 それで、今、便宜的、意図的に、今の安保法制に何とか理由を見つけなきゃいけないということで持ってきたと言わざるを得ないと思います。高村さん、外務大臣のとき、なぜあなたは砂川判決が集団的自衛権を認めているという論を展開しなかったのか、私は聞いてみたいところです。

 二点目の四十七年見解におきましては、昨日の私と横畠内閣法制局長官とのやりとりで、誰が四十七年見解を基本的論理と当てはめという理解の仕方に変えたのかと言ったら、私でございますと。横畠長官が編み出した論理なんです。

 といいますのも、少し前の、例えば宮崎元内閣法制局長官はこうおっしゃっています。一九七二年政府説明書、これは政府見解です、個別的自衛権の行使が現行憲法第九条のもとでも許されることを述べたものであって、同じ基準の裏返しとして、集団的自衛権は認められないということを決めているんだ、その部分部分を継ぎはぎし、同説明書で示された基準は、必要最小限度の自衛の措置かどうかであり、集団的自衛権がそれに当たるかどうかは事実の当てはめの結果にすぎないなどと強弁するのは、こじつけ以外の何物でもない、今の長官の四、五代前の法制局長官がこういう主張をなさっているわけです。

 にもかかわらず、私が考えた論理でございますと横畠長官が言って、今この時期に持ち出してきている。これは、安倍政権で進めようとしている、法律にまさしく憲法を合わせようとしている、立憲主義にもとる姿勢だからこそ、便宜的、意図的で、国民の信頼を今失おうとしているのではないかと私は思います。

 最後に、かつて改憲派の総理大臣であった中曽根総理がこうおっしゃっています。憲法の解釈論は政策論や願望でやるべきではないと思います、もし政策論や願望でやれば、総理大臣がかわるごとに憲法の解釈が変わるという危険性も出てまいりますと。

 私はきのう、横畠長官や中谷大臣に聞きました。当てはめであるとするならば、安全保障環境が変わり、そうしたら、またこの当てはめで憲法解釈が変わるのか。そのとおりでございますと。

 憲法違反の基準がころころ変わるというようなことを、本審査会は許すべきではないと思います。

 以上です。

平沢委員 自民党の平沢勝栄でございます。

 先週のこの憲法審査会に三人の先生方が来られまして、現在審議中の安保法制につきまして、集団的自衛権行使の一部容認は、従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかず、違憲としたわけでございます。

 従来の政府解釈の基本的論理というのは、次のとおりでございます。

 まず第一に、憲法第九条は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を定めた憲法十三条とあわせまして整合的に解釈しますと、自国の平和及び安全を維持しその存立を全うするための必要な自衛の措置は禁止されていないということでございます。

 第二に、自衛権発動としての武力行使も無制限のものではなく、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に限って、必要最小限の範囲内で認められるとしていることでございます。

 昭和四十七年に、政府は、集団的自衛権と憲法との関係に関する政府見解を出しましたが、その中で、当時の安全保障環境をこの基本的論理に当てはめ、その結果、いわゆる集団的自衛権、つまり他国防衛のための集団的自衛権行使は認められないとしてきました。この当時は、急迫不正の侵害に該当するのは、我が国が直接武力攻撃を受けた場合しか考えられなかったからであります。

 しかし、日本を取り巻く国際情勢は、この四十年間の間に大きく変わりました。今回は、この間の安全保障環境の変化を踏まえまして、現在の安全保障環境を基本的論理に当てはめてみた結果、他国に対する武力攻撃であったとしても、我が国の国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に該当する場合があり得るとの結論に至ったわけでございます。

 以上、見ましたように、今回の憲法解釈の変更は、昭和四十七年見解の基本的な論理は一切変えていませんので、従来の憲法解釈の基本的な論理との整合性は保たれており、法的安定性を損なうものでは全くないと考えております。

 三人の参考人の先生方が安保法案を違憲としたことにつきまして、私たちは、参考意見として謙虚に傾聴する必要があると思います。しかし、同時に、今回提出された安保法制につきましては、合憲と考えておられる学者が大勢おられることも事実です。

 いないと言われる方もおられますので、名前を言わせていただきますと、例えば、日本大学の百地章先生、駒沢大学の西修先生、日本大学の小林宏晨先生、中央大学の長尾一紘先生、日本大学の青山武憲先生、防衛大学の松浦一夫先生、近畿大学の石田栄仁郎先生、麗澤大学の八木秀次先生、日本大学の池田実先生、東裕先生などなどでございます。これらはいずれも、名前を出すことについて御了解をいただいた先生方でございますけれども、そのほかにも、合憲と思いますけれども名前を出すことは差し控えさせてほしいと言われる方も大勢おられました。これは、憲法学界の独特の空気を反映しているのではないかと思いました。

 いずれにしましても、私たちは憲法学者の意見に耳を傾けなければなりませんが、先ほど来出ていますように、最終判断は、学者ではなく、最高裁が行うわけでございます。

 もし学者の意見に従って戦後の行政、政治が行われていたら、日本はとんでもないことになっていたことは間違いありません。その一番いい例が、先ほど来出ています自衛隊でございます。

 自衛隊について、多くの憲法学者は最近まで違憲と言っていましたけれども、私たちの先輩は、そこを解釈で見事に乗り切って、今日に至っているわけでございます。もし自衛隊がなかったら、今日、日本は、国際的な信用、地位を大きく失って、急激な変化に全く対応できなかったことは間違いありません。

 拉致事件でも、北朝鮮の不審船を見つけては追跡し、そのままUターンして引き返すことを長年日本は繰り返してきたわけでございます。その間に多くの同胞が拉致されました。諸国民の公正と信義に信頼して、日本の安全と生存を守ると憲法学者は言ってきましたが、それが間違いであったことは明らかとなりました。

 ちなみに、多くの憲法学者は、北朝鮮が拉致などするわけがないと言っていた方もおられるわけでございます。

 憲法があって国があるわけでなく、国があって憲法があるわけでございます。私たちは、憲法栄えて国滅ぶの愚を犯してはなりません。憲法を取り巻く社会情勢は大きく変わっています。憲法の基本的原理は維持しつつも、その範囲内で解釈を柔軟に変更していくことは当然のことと考えます。

 以上、私の意見表明とさせていただきます。

國重委員 公明党の國重徹でございます。

 まず、冒頭申し上げたいのは、昨年七月一日の閣議決定によっても、他国の防衛それ自体を目的とするいわゆる集団的自衛権の行使は認められない、武力の行使が認められているのは、あくまで自国防衛、自国民防衛に限られているということでございます。

 その上で、先ほど北側幹事、平沢幹事からもありましたが、昨年の閣議決定で示された新三要件は、一九七二年、昭和四十七年の政府見解の基本的論理を維持したものであること、このことを私からも再度強調したいと思います。

 昭和四十七年の政府見解の基本的論理の根幹部分は何かといいますと、それは、第三段落の第二文で示されている、外国の武力攻撃によって国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に限って自衛の措置が認められるということでございます。

 この基本的論理を変えるというのであれば、それは憲法を改正する以外にありません。昭和四十七年見解では、この基本的論理を「そうだとすれば、」という接続詞で受けて、当てはめによる結論を示しております。

 具体的には、武力の行使が許されるのは、我が国に対する武力攻撃があった場合、つまり個別的自衛権に限られるとし、いわゆる集団的自衛権の行使は認められないとしております。これは、当時の日本を取り巻く安全保障環境に先ほどの基本的論理を当てはめた結論でございます。

 ただ、昭和四十七年から四十年以上がたち、我が国を取り巻く安全保障環境が大きく変化し、厳しさを増している。そういった中で、憲法解釈の基本的論理を維持しながら、国民を守るための自衛の措置はどこまで認められるのか、その限界はどこにあるのか、このことを突き詰めて検討した結果が、昨年七月の閣議決定の新三要件です。

 そして、この新三要件においても、他国の防衛それ自体を目的とするいわゆる集団的自衛権、丸ごとの集団的自衛権の行使は認められておりません。

 新三要件のもと自衛の措置が許されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合、または我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合のみ、要は、自国防衛、自国民防衛に限られるということでございます。

 このように、昭和四十七年の基本的論理である根幹部分をしっかりと維持した上で新三要件を定めておりますので、これは従来の憲法解釈の基本的論理の枠内であることは明らかであると考えます。

 なお、昭和四十七年政府見解の第三段落第三文の、武力の行使が許されるのは個別的自衛権に限られ、いわゆる集団的自衛権の行使は認められないという部分が当てはめであって、基本的論理でないということは、「そうだとすれば、」という接続詞が使われているということのほか、文言の違いによっても裏づけられると考えます。すなわち、立法する上での大原則、近代法の大原則として、国民の予測可能性を担保するために、同じ事柄は必ず同じ文言で表現しなければならない、違う文言を使うということはその意味内容が異なるという原則がございます。これは、政府見解を示す場合においても同様と考えられます。

 昭和四十七年政府見解を見ますと、基本的論理とされる第三段落第二文の「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」と、「そうだとすれば、」の接続詞で続く当てはめ部分とされる第三文の「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」を見ると、「急迫、不正の事態」と「急迫、不正の侵害」で異なる文言が用いられている。このようにあえて異なる文言を用いているということは、第二文と第三文の間に、基本的論理と当てはめの分水嶺があると捉えるのが合理的でございます。

 しかも、事態という文言は侵害を包含する概念であると考えますので、この第三段落第二文の基本的論理で示す「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」というのは、第三文の当てはめで言う「わが国に対する急迫、不正の侵害」、すなわち個別的自衛権の場面以外のものを含んでいると考えます。そう解釈することが、第二文の「外国の武力攻撃によつて」の後に、我が国に対するという文言を入れずに、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」としたこととも合致します。

 以上のように、昭和四十七年見解の第三段落の第二文までが基本的論理であって、末尾の第三文は当てはめです。そして、この昭和四十七年政府見解の基本的論理は、昨年の閣議決定の新三要件にしっかりと維持されている、従来の憲法解釈との論理的整合性はある、このことを再度強調して、私の発言とさせていただきます。

池田(佳)委員 御指名ありがとうございます。自民党の池田佳隆でございます。

 かつて日本青年会議所において二度にわたり憲法草案を起草してきた私といたしましては、この憲法審査会の場では改憲の必要性について意見を述べるのが筋だと思いますが、前回の憲法学者のお話に大変違和感を覚えたことから、今回は、昨年七月の閣議決定、政府見解の合憲性と、今審議中の平和安全法制の必要性について、自説を述べさせていただきたいと思います。

 そもそも国家は、独立国として、自国民と領土、領海、領空を守るべき固有の自衛権を有しております。

 先ほどから出ております昭和三十四年の砂川事件最高裁判決でも、我が国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されておらず、我が国がその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならないと示されております。また、個別的、集団的とにかかわらず、最高裁は、日本国憲法は自衛のための行為を否定していないと解釈をしています。これが、違憲審査権を唯一持っている司法裁判所での判決であります。

 時の政府は、自国民の安全と生存を守るため、そのとき、その瞬間の世界の状況に鑑み、砂川事件最高裁判決に示された憲法解釈を遵守しつつ、九条によって否定されている覇権的侵略行為に及ばない範囲で、当時の安全保障環境に見合う、あくまでも自衛のための必然的かつ極めて抑制的な政府見解を提示してきたと考えます。

 昨年の閣議決定以前の自衛権に関する政府見解は、四十年以上前の昭和四十七年になされたものでありました。当時は、超大国同士による東西冷戦のさなか、同盟国である米国が絶大な軍事力を保有していたがゆえに、あえて集団的自衛権の行使を政府見解で認める必要はなかったと言えるでしょう。

 それから四十数年、東西冷戦構造は崩壊し、新興国の台頭、大量破壊兵器の拡散、国際テロの横行など、国際社会を取り巻く安全保障環境は大きく変化し、世界じゅうの出来事が即時に我が国の安全や経済に影響する時代となってまいりました。

 こうした安全保障環境の劇的な変化に鑑みれば、自国が攻撃された場合の個別的自衛権の行使のみで我が国の平和と国民の安全を保持することができないことは明らかであります。

 安全保障の要諦は、紛争を未然に防ぐことにあります。同盟国や友好国との関係をより深め、あってはならない不測の事態へ万全の備えをすることは、高度に国際化し、国家間の結びつきが国際平和に大きく影響する現代においては必要不可欠なものと考えます。今ある危機に対峙し、国民の安全と我が国の平和を現実的に守る、それが政治家の矜持であり、政治の使命であると私は信じております。

 今回の政府見解は、まさに今そこにある危機に対応し、我が国の平和と安全を保持するための日本国憲法の枠内での必然的な憲法解釈である、そのように理解をしております。

 今回、政府が世界的にも類を見ない厳しい武力行使への縛りである新三要件を設けたことは、自国の防衛を目的としない一般的な集団的自衛権を日本国憲法が示す理念が許容していないとの政府見解を明らかにしたものだと考えております。また、覇権的侵略戦争は絶対に許さないとの従来と変わらぬ強い覚悟と誓いのあらわれであると考えております。

 二度と戦争はしてはならない、したくない、これが私たち日本人誰もが持つ信念であります。このたびの政府見解に基づき平和安全法制を整備することは、その信念を確固たるものとし、我が国の平和と安全を担保する最善策であると私は考えております。

 以上です。

宮崎(政)委員 自由民主党の宮崎政久です。発言の機会をいただき、ありがとうございます。

 私は、集団的自衛権の一部行使容認、特に新三要件のもとで限定容認される武力行使が、従来の政府見解と整合している、憲法に違反するものではないという旨の意見を申し上げます。

 既にるる御説明がございましたが、これまでの政府見解、四十七年見解は二段階で構成をされております。戦争放棄の憲法九条のもとでも、自国の平和と安全を維持するための自衛の措置は禁じられていない。二つ目は、自衛の措置は無限定ではない、他国の武力攻撃によって国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆るという急迫不正の事態に対処する場合に、必要最小限度でとどまるんだという制限があるわけであります。そして、この二段階の規範部分を受けて、これまでは、武力の行使が許容されるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると、当てはめを導いておりました。

 しかしながら、時代とともに安全保障環境が変化をして、他国に対する武力攻撃であっても我が国の存立を脅かすこともあるのではないか、そのときに国民を守れないということは認められない、座して死を待つわけにはいかない。そこで、憲法九条の制約のもとで、従来の見解を踏襲した上で認められる自衛の措置を導いたのが、昨年七月の閣議決定でありますし、また、今回の平和安全法案であります。

 ここでのポイントは、昭和四十七年の見解で対象とされていたのは、いわゆる集団的自衛権、専ら他国防衛となるものを前提としたいわゆるフルスペックの集団的自衛権であるのに対して、昨年七月の閣議決定、そして現在検討されている平和安全法制においては、フルスペックは必要最小限度を超えると判断をして、あくまでも国民を守るための自衛の措置として、つまり、規範を同一にするために新三要件を立てているということであります。

 ですから、この新三要件の第一要件は、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること、砂川判決そして昭和四十七年見解と軌を一にした、一貫の流れにあるものをまず第一要件と示しているわけであります。

 そして、今、きょうの審査会でも、昨年七月の政府見解において、時代の変遷、安全保障環境の変化により当てはめを新たに示したことをもって、従来の政府見解と整合していないという批判が繰り返されております。

 しかしながら、これは砂川事件の最高裁判決の次のようなくだりにも傾聴するべきだと思います。つまり、最高裁判決では次のように述べています。「わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができる」。この最高裁判決は、この後に、憲法第九条のもとであったとしても、日米安全保障条約を締結することを何ら禁じるものではないということを導いております。

 我が国の平和と安全を守るために何が必要であるかは、我が国が置かれている安全保障環境との対応でしか決めることができません。それは、時とともに移ろい行くものであります。「国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができる」、これはまさに国のありようとして至極当然のことであります。

 私たちが今やっているのは、この平成の世にあって、いかなる事態になっても国民の命と暮らしを守る、そのための備えを持つために、従来の政府見解、そして九条を初めとする憲法体系と整合させ、すなわち、歯どめをしっかりと定立させた上で、みんな守るんだ、これが新三要件の定立されている含意である、このことをまず共有するべきであると私は考えております。

 そして、最後に、私は沖縄県の選出でありますので、沖縄の視点を交えて一言申し上げたいと思います。

 この平和安全法制は、憲法九条の制約と専守防衛を変えないで、法制上の措置を行って平素の備えをすることで、日米関係の上では、日米安全保障体制の実効性を高めて、日米同盟による抑止の力を向上させることになるわけであります。その結果、地域の安全保障環境も安定することになれば、在日米軍の担いが減少して、結果として沖縄の基地に係る負担が減少して、基地の整理縮小を進めることができる、そういう前提をつくることができるわけであります。

 基地負担の軽減というのは、立場のいかんを問わず、沖縄県民の総意なんです。そして、基地負担と県民の不満を少しでも解消することは、政治の使命であり、私の使命でもあります。

 私の地元には、普天間飛行場も、嘉手納基地も、キャンプ・キンザーもあります。広大な基地という現実を目の前にしているからこそ、現実はどう動くのか、現実をどう動かすのかということを考えています。沖縄の基地負担を現実的に軽減することも、この平和安全法制の機能であり効果となることも指摘をして、私の意見とします。

 ありがとうございました。

武正委員 民主党の武正公一でございます。

 本憲法審査会は、十五年の歴史を有し、与野党の丁寧な議論を積み重ねてまいりました。ただ、第一次安倍内閣のときに、総理が憲法改正を声高に唱える中で国民投票法が強行的採決という形をとり、いわゆる三つの宿題についても、昨年、ようやく憲法改正国民投票法の施行ということを迎えております。また、その間、第二次安倍政権でも、同じく総理が九十六条改正などをまた持ち出し、この審査会もそうした影響を審議の中で受けたということがございます。

 今般、立憲主義、制定の経緯あるいは改正の限界、そしてまた違憲立法審査というテーマを決めて、参考人質疑、そしてきょう自由討議に至っております。これは、立憲主義といったことを国会としてしっかりと受けとめていきたい、そういった思いからであります。

 ただ、やはり、同時並行で安保法制が審議に付され、しかもそれが、昨年七月一日、憲法解釈を一内閣が恣意的に変更したことにより、法案が十一本提出をされるという、同時並行に行われている中で、憲法審査会がどうしてもこの安保法制の議論の影響を受けないわけにはいかないわけでございます。

 そうした中、私は、まず立憲主義については、先週の参考人からも出されるように、国家権力から国民の権利を守る根本原理であり、当然そこは硬性憲法であってしかるべきということを、長谷部参考人、小林参考人が述べたことをまず指摘させていただきたいと思います。

 加えてまた、経緯については、押しつけというような指摘も当然あるけれども、七十年間の、日本国憲法がこの国において果たした役割といったものをしっかりと踏まえるといったことも同時に出されたところでございます。

 改正の限界といったことで申し述べれば、やはり国民主権といったことが指摘をされるというふうに思っております。国民主権については、先ほど、この安保法制について高村委員からもございました。最終的な有権解釈権は最高裁にある、しかしながら、そうした統治行為論などもある中で、こうした憲法解釈について担うべき政府そして国会の役割ということに付言がありました。

 そうであれば、昨年七月一日の憲法解釈変更の閣議決定に至る過程がいかに国会で議論に付されたのか、あるいはその後も付されたかというと、国会ではほとんど議論がなかったわけであります。こうした点は、やはりいかがなものかと言わざるを得ないのでございます。

 そうした意味では、やはり今回の四十七年政府見解をもとにした立論というのは無理があると言わざるを得ませんし、そうしたことが先週憲法学者から指摘があった中で、安倍総理はサミット後の記者会見で、今度は砂川判決をその根拠に持ち出してまいりました。砂川判決については、昨年、与党内の協議では、砂川判決は集団的自衛権を視野に入れていないなどとした慎重な姿勢が崩されなかったという指摘がある中で、四十七年見解が持ち出された中で、また今度は砂川事件判決にその根拠を戻すといったものもいかがなものかと言わざるを得ません。

 また、昨年来政府が示してきた十五類型、そして特に最近使われるホルムズ海峡での機雷掃海、そしてまた日本近海での米艦による日本人を送ること、これについては、小林参考人が個別的自衛権での解釈が可能であると言ったことも傾聴に値するというふうに思いますが、先ほど来、日本近海での米艦防護という話が出てまいりましたが、それについては、周辺事態法などでの対応も可能であろうかと思います。

 こうした点も踏まえまして、この議論についてはやはり丁寧な議論を行っていくというのが基本であり、国会での議論というのは丁寧に行っていくべきであろうかというふうに思っております。

 安全保障環境の変化ということであれば、今国会への法案に、機雷除去に関する法改正は出されていないといったことも付言をさせていただきたいと思います。

 以上です。

田村(貴)委員 日本共産党の田村貴昭です。

 四日の本審査会において、三人の憲法学者が安保法制案を違憲としました。後に議事録を読ませていただきましたけれども、小林節教授が、仲間の国を助けるために海外に戦争に行くのは集団的自衛権で、憲法九条違反とし、安保法制案が露骨な戦争参加法案であるときっぱり述べられました。まさにそのとおりだと思います。

 日本国憲法は、国際紛争を解決する手段として、武力の行使も、武力による威嚇も禁じています。日本と密接な関係にある米国に対する攻撃が発生した場合に、日本が攻撃を受けていないにもかかわらず、時の政府が一方的に判断し、自衛隊が海外に出ていって武力行使ができるという安保法制が許されるはずがありません。明確に憲法に違反するものであります。日本が殺し、殺される道に入るものとして、断じて反対します。

 そして、三人の先生方の判断と意見は、安保法制のそもそも論を国会と国民に提起したものとして大変意義があり、重要な参考人質疑であったと私は受けとめております。

 マスコミからも安保法制に疑問の声が続出していますが、私の地元の西日本新聞七日付社説は、「「憲法違反」の指摘は重い」とし、「安保法制の大前提である憲法との整合性にあらためて疑義が持ち上がった。」「一度取り下げて、憲法論議からやり直すのが本筋ではないか。」と結びました。これが多数の国民の声ではありませんか。政府はしっかり受けとめるべきであります。

 一昨日政府から出された「新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について」と題する見解についても、長谷部恭男教授は新聞紙上で、従来の政府見解の基本的枠組みでは説明がつかず、法的安定性が損なわれている、これ以上説得できる論理が全くないと思ったと厳しく述べられています。もはや、憲法学者も国民も納得させる論拠はないということがはっきりしたのであります。

 菅官房長官は、違憲でないと言う学者もたくさんいるとし、自民党総務会長は、参考意見で大ごとに取り上げる必要はないと述べられました。私はこれに驚きました。四日の審査会は、自民党の推薦も含めて、与野党の合意を得て人選した参考人に、審査会は謝意を表し、意見を聴取したのであります。それを政権与党の中心が一顧だにしないような態度は、本審査会がないがしろにされているのではありませんか。これはゆゆしき事態です。

 また、昨日撤回されましたが、中谷防衛大臣の、現在の憲法をいかにこの法案に適応させていけばいいのかとの答弁も、論拠がないあらわれであり、立憲主義を否定したことを露呈した発言でありました。

 「安保関連法案に反対し、そのすみやかな廃案を求める憲法研究者の声明」の賛同者は、呼びかけ人を含めて二百十七人に達しています。重要なのは、自衛隊のあり方、これまでの海外派兵等について合憲との立場をとっておられた方も、今度ばかりはだめだと名前を出しているところにあります。憲法学者の圧倒的多数が違憲だとしていることを強く申し上げておきます。

 国会が憲法違反の法律を認めていいのでしょうか。憲法を最も遵守しなければならない国会議員が、時の政権の意向で憲法を踏みにじっていいのでしょうか。私は、立法府の一員として、憲法の規範に違反する法律をつくりたくありません。

 集団的自衛権の行使容認の閣議決定から、とりわけ若者の関心がこの問題に向けられています。委員の皆さんも地元で感じられておられるのではないでしょうか。

 私の地元でも、こんなリアルな声を聞きました。自衛隊員の希望者が少なくなると、次は徴兵制ではないですか、安保法制に反対ですと話す大学生。父親が自衛隊員の女子高校生は、お父さんは他国の人を殺すために自衛隊員になったのではないと言っている、戦争でお父さんを殺さないでと。若い自衛隊員が集団的自衛権反対の請願署名に署名されたこともありました、日本が攻撃を受けていないのに武力を行使するのはおかしい、自分は不正義の戦争で命を落としたくないと。もっともな声ではありませんか。自分や家族は戦地に送られるのであるのか、未来を生きる青年にこんな心配な思いをさせている政治でいいわけはありません。

 憲法違反の安保法制が提出され、論議すること自体、立憲主義から許されません。憲法違反、民意に反する安保法制案は速やかに撤回すべきであると強く要求いたします。

 今求められているのは、憲法の実践と、そのための議論であります。例えば障害者自立支援法の違憲訴訟など、現実の政治と国民生活が憲法の保障する権利に追いついていないことは多々あり、憲法に照らしてどうなのかという議論、訴訟がそのたびに起こっています。憲法を暮らしに生かせ、国会は国民の声に耳を傾けるべきであります。国会が憲法改正の歩みを進める論議を行うのではなく、今こそ、憲法の理念、条項に国民の暮らしを合致させることが何よりも大事であります。そうした議論が大いに行われることを希望して、意見表明を終えます。

寺田(稔)委員 自民党の寺田でございます。

 まずもって、我が国が集団的自衛権を権利として保有をしていること、これは国際法理上、当然の理であります。国際法理上は、集団的自衛権を明文の規定で容認をした国連憲章を我が国は何ら留保条件を付すことなく批准をした時点において、憲法より上位法であるところの国際法の法理として、法的にも集団的自衛権は付与されたと考えられます。

 現に、昭和二十年代、現行憲法の草創期、そしてまたその後の創成期において、当時の内閣法制局は、その公権解釈として、米軍の駐留でもってして、これは集団的自衛権の行使である、すなわち、この米軍の駐留でもって、急迫不正の侵略に対し自衛の権利を日米共同で行使することは集団的自衛権の行使であり、そのことを許容いたしておりました。

 さまざまな情勢の変化の中で、許容される必要最小限の自衛権の範囲は変わってまいりますが、我々は、まずもってこの法理を認識する必要があろうかと思います。

 次に、武力行使との一体化論であります。

 さまざまな論者から、例えば従来の戦闘地域、非戦闘地域の線引きをなくすことが武力行使との一体化を招き、憲法違反であるとの立論もなされておりますが、憲法上何が一体化であるかという憲法論のレベルと、それをさらに絞った形で、どこまでの活動を法律上認めるかという立法論のレベルは峻別をして考えるべきであります。非戦闘地域というのは、憲法論ではなく、憲法上一体化しないとされる限界の、さらにその手前で線を引くという立法論のレベルであり、これを変えれば直ちに違憲とするものではないわけであります。

 憲法論のレベルでいえば、かつて大森法制局長官が示した、いわゆる大森四要素によります総合考慮という考え方を現在の政府・与党も維持しております。この四要素の考慮によりますと、現に戦闘行為を行っている現場でない場所で実施をするとの考え方は、一体化しないと考えられる合憲的な活動範囲として許容されるものであります。

 次に、今回提出をされた平和安全法制でありますが、その中身を見てまいりますと、自衛隊法の一部改正、これは防衛出動の対象となる事態といたしまして、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生をし、これにより我が国が攻撃を受けたのと同様、我が国自体の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求権が根底から覆される明白な危険がある事態を追加しておりますが、もしこういったときに自衛権の行使を否定すれば、憲法十三条で保障しております幸福追求権あるいは憲法二十五条で保障しております生存権等々、国民の基本的諸権利が侵害をされることとなり、憲法違反となるわけであります。

 次に、周辺事態法についてであります。これは、我が国の平和と安全に重要な影響を与える事態であります重要影響事態に際して、適切かつ迅速に後方支援活動あるいは捜索救助活動などを行うために必要な措置を実施するものであり、我が国の平和と安全の確保のために必要不可欠な法案であります。

 次に、武力攻撃事態における我が国の平和並びに国民の安全の確保に関する法律及びその他の事態対処法制の一部改正法についてでありますが、これは、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生をし、これによって我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求権が覆される明白な危険がある事態でありますところの存立危機事態への対処について基本となる事項を定めるものであり、これが憲法に合致をすることは論をまたないものであります。

 以上でございます。

大島(敦)委員 昨年の七月一日の閣議決定を読んだ際に、質的に日本のあり方は変わってくるのかなという印象を持ちました。

 砂川判決についても、これまで、集団的自衛権を前提としながらの議論はなかったと記憶をしております。

 四十七年の政府見解の論理の構成についても指摘がございました。第三段落をどう読むかということ。一番最後の「そうだとすれば、」以下が当てはめであるので、安全保障環境が変化すればそこは上書きできるということだったと思うんですけれども、この第三段落の第一、第二のパラグラフ、第一だけとれば、これは、強弁すれば、広義の意味での集団的自衛権も認められるかもしれない。ですから、やはりあの四十七年見解は素直に私は読むのがいいと思っています。素直に読んで、「そうだとすれば、」以下を読むのが私は適切だと考えております。

 今回の憲法解釈の限界なんですけれども、国会の議論を聞いていると、これまでの憲法九条の解釈は、歴代の政府が丁寧に積み上げてきて、安定した解釈だったと思います。その延長上でできる範囲をしっかり我が国の周辺、これは地理的な周辺において、より現実的に整備をしていくべきだと考えております。

 今回の新三要件は、今の議論を聞いていると、立憲主義、要は、憲法の一項、二項について、第三項めが新三要件として加わったというふうに私は見えます。この三項めについて、憲法解釈をめぐって、それを具体的に法案に落とすということ、ここが、今の議論がなかなか定まっていない、特別委員会の議論が定まっていないところに帰結していくのかなと考えております。

 きょうの私どもの民主党の部会に対して防衛省から、自衛隊は政府としてのサイバー攻撃や宇宙における脅威への対応の一環としてどのような行動を実施するのか、その要件についてはどのように規定されるのかという問いに対して、一般論として申し上げれば、仮に我が国が武力攻撃の一環としてサイバー攻撃を受けた場合に、新三要件を満たすのであれば、我が国として武力攻撃を行い得るというのがありまして、質的に変わったと思っています。質的に、昨年の七月一日をもってこの憲法解釈が変わったと思っていまして、これは解釈の限界を超えているかと私は考えております。

 以上です。

小沢(鋭)委員 維新の党の小沢鋭仁です。

 二点、申し上げたいと思います。

 我が党の立場は先ほど井上幹事の方から申し上げましたが、その後、議論を聞かせていただいておりますと、例えば、今回の安保法制に関して、砂川判決の話を、自民党の皆さんはそれをもってよしとする、それに対してまた野党の皆さんからは、それはそういう読み方ではない、こういう議論が分かれるわけですね。

 安保に関する判例というのはこれが唯一の案件でありますので、そういった話のときに、一体、国の仕組みとしてどうやって決めていくのかということを考えるのが我々立法府の役目ではないか、こういうことを強く、改めて感じます。

 維新の党は、御案内のとおり、憲法裁判所を設置すべきだということを各種選挙でずっと一貫して言ってまいりました。それには時間がかかるので、その間は八十一条を有効活用していわゆる司法の関与をしっかりやるべきだ、こういう話を主張してまいりました。

 先ほどの高村委員の発言でも、最高裁が有権解釈の最後のとりでだ、こういう言い方もしているわけで、ただ、これは現実論として、いわゆる訴訟主義ですからできないじゃないですか、今の日本の制度では。だから、ではそこをどう考えるのかということを、知恵を絞るのがこの審査会の役割じゃないんですか。まさに国会議員として我々は不作為をしている、不作為そのものだということを本当に情けなく思います。

 ですから、井上幹事からも提案を申し上げましたが、ぜひ会長、こういった話を進めていただきたい。どうやってそういういわゆる違憲立法審査のあり方、そういう制度論を進めていくのかという議論をしっかりとぜひ進めていただきたいという点を改めて申し上げておきたいと思います。

 二番目は、安保法制に関してでありますけれども、先ほど来の意見の中で、いわゆる集団的自衛権の行使の問題に焦点が当てられております。

 私はさきの参考人質疑の中でも申し上げましたが、私にとっては、憲法は自衛と国際協調、この二つが大変重要だ、こう思っておりまして、そういった意味では、後方支援の話が完全に自衛からもはみ出ているし、国連を中心とした議決のもとにおけるPKOを初めとするそういった案件からもはみ出している。

 この後方支援の話こそが、ある意味では質的にがらっと変わって、地球の裏側まで行って、これまた日米安保の中では米軍、極東、こういう地理的制約がありましたけれども、それも全部取っ払って、法理論上は、地球の裏側まで行って他国の紛争に加担するという話になっているわけですよ。

 これは、いわゆる法の支配という話のときに、その場合は、安倍総理の法の支配といったときは、少なくともこういった案件では国際法を考えるんでしょう。国際法上は、いわゆる後方支援、特に弾薬の提供だとか発進準備中の飛行機に給油をするだとか、そんな話は武力行使以外何物でもない、こういう話は国際法上明らかじゃないですか。

 そういった他国の紛争に何で日本が加担をするんですか。それも、世界じゅうへ行って加担をするんですか。それが安倍総理の言う積極的平和主義というものですか。

 これは、やはり与党の皆さんももうちょっと頭をクールにして考えてもらって、幾ら何でもやり過ぎだと。自衛と国際協調。国連の名のもとにおいていわゆる自衛隊が世界じゅうに行って僕はPKOをやるのは賛成ですよ。それは賛成だけれども、いわゆる重要影響事態なるものの話によって、これは重要影響事態だ、こういって世界じゅうに行って後方支援をする、こんな話はぜひともやめてもらいたい。

 与党の皆さんもよくよく考えていただきたい、そのことを申し上げて、終わります。ありがとうございます。

務台委員 船田先生、吉村先生も発言されましたが、私は、憲法審査会の議論は、冷静な環境のもとで、中長期的視野で大局的に行われるものと考えておりまして、別委員会で現に行われている法案審議についてこの場で結びつけた議論を行うことについては、謙抑的でなければならなかったと考えております。

 特に、平和安全法制について審査会の場で、憲法適合性を問い、その場で直ちに結論を求め、返答するというのは、余りにも乱暴ではなかったかというふうに思います。発言の内容の重大性に鑑みれば、質問、答弁ともより慎重な配慮があり得たと思っております。

 今回の参考人、当然のことながら、安保、国防、外交の専門家ではございません。私としては、憲法学者の皆様にも、現実問題として、激変する国際環境を適切に評価し、これを適切な形で憲法解釈に反映していただく努力に貢献していただきたかったというふうに考えております。

 三名の参考人の御意見に従い、仮に今回の法整備を諦め、憲法下で許されるぎりぎりの範囲の対応を怠ったことにより生じ得るリスクに責任を負うのは、憲法学者ではなく、内閣と国会であるということを忘れてはならないと思います。その視点から、リスクの結果責任を負う立場で、安全保障環境の変化という現実の状況に応じ、我々は憲法解釈の適正化に取り組んできたということではないか、かように考えております。

 さて、その中で、極めて各論にわたりますが、先日の審査会で参考人が指摘した論点に、武力行使との一体化論がございました。

 長谷部参考人は、非戦闘地域の枠組みを現に戦闘行為を行っている現場ではない場所に変更すると武力行使の一体化となり、憲法九条により許されないと指摘されました。

 しかし、寺田委員の指摘にもありましたが、非戦闘地域という概念は、憲法論そのものではなく、憲法上一体化しないとされる限界のさらに手前で線を引くという立法論のレベルの論点であり、どうしてこの概念を変更すると直ちに憲法違反ということになるのか、私には理解できなかったところでございます。

 さらに、憲法論のレベルでいえば、いわゆる大森四要件による総合考慮という考え方を維持された上で新しい線引きがなされていることを踏まえると、憲法適合性は維持されていると考えております。

 さらに、自衛隊の活用が円滑かつ安全に実施できる区域、つまり実施区域の指定についても、国会の答弁により、部隊等が現実に活動を行う期間において戦闘行為がないと見込まれる場所を指定するとの具体的な考え方が示されており、参考人の皆様が、今回の線引きの変更により一体化すると言うのは、いささか論理の飛躍があると考えております。

 今回の一刀両断のような参考人の意見開陳は、現実の世界の安全保障環境の激変、平和安全法制の構築に当たって政府と政治の精緻な議論の積み重ねを踏まえないものであり、国民の安全、安心をより強固にするという政治の真摯な努力に一定の意を払う考え方が望まれるところであったというふうに思われます。

 ところで、私はこの二月に、ドイツのベルリン・フンボルト大学法学部のヴァルトホフ教授から、ドイツの憲法の運用についての講義を聞く機会がございました。

 その際、私から、ドイツの基本法は占領が解かれてからの制定であったけれども、当時占領軍からドイツにおいても早期の改正の要求はないかというふうに質問したところ、先生は、ドイツでも圧力はあったけれども、ドイツとしてははねつけたという御回答がございました。

 国の基本法を定めるに当たり、我々、主権が制限された中でどういう議論を行ってきたか、そういう経緯も改めてこの場で議論すべきではないかと思います。

 以上です。

浜地委員 公明党の浜地雅一でございます。

 まず、先ほど我々の北側幹事の方から、公海上での米艦の防護についての必要性のお話がございまして、一部委員の方から、周辺事態で対応できるということでございますが、これは間違いです。周辺事態は後方支援しかできませんので、米艦等を防護することはできないということを、まず冒頭、はっきりと言っておきます。(発言する者あり)

 かつ、今言われておりますので、個別的自衛権の着手ということが曖昧であるので、今回、しっかりと集団的自衛権の一部ということで整理をしております。着手という概念も非常に評価を含む概念であるということをまず冒頭、申し上げたいと思います。

 前回、長谷部参考人は、今回、論理の枠内では説明できないというだけの理由でございました。ですので、私は、時間がなかったのもあるんですが、できれば、なぜ論理の枠内から外れるのかという説明を本来は聞くべきであって、理由を申し上げられなかった点で、結論だけ申し上げられたという点については非常に残念と思っております。

 唯一、後方支援の武力行使との一体化については理由を述べられました。長谷部参考人は、従前の戦闘地域、非戦闘地域の枠組みを用いた、いわばバッファーを置いた、余裕を持ったところでこれまで明確な線を引いていたんですが、その範囲で自衛隊の活動をとどめておくものが、今回はできなくなったということで、武力行使の一体化が極めて高いという御発言をされました。

 この趣旨は、後方支援の非戦闘地域、皆様御存じのとおり、非戦闘地域には二つの要素がございます。現に戦闘行為が行われていないということ、かつ、二番目が、活動の期間を通じて戦闘行為が行われると認められない地域であることという二つの要素がございます。この二番目のところの要素を今回取って、現に戦闘行為が行われている現場以外では一体化しないというふうに判断をしましたので、一体化するというような結論を言われたわけでございますが、これについては大いに疑問がございます。

 先ほど自民党の委員からもお話がございましたが、大森四要素という平成九年の長官答弁、この四つの要素というのは、地理的要素、そして日本が行う支援の活動の内容、三つ目が、いわゆる武力行使の任に当たる者との密接性、要は、外国の部隊に指示を受けて日本自体が組み込まれるかどうかという要素でございます。そして四つ目が、実際に支援をする相手方がどんな活動をしているかということを総合考慮するというものでございますが、これについては、活動するたびに一々判断するのでは実際的でないので、非戦闘地域という概念を用いて類型化しているというのがこれまでの政府の説明でございました。

 しかし、きのう、実は、この二つの要素、現に戦闘行為が行われていないというところ、そしてもう一つの、活動の期間を通じて戦闘行為が行われると認められない地域というこの二つの要素の関係性について、私は平和安全特別委員会の委員でございますので、我が党の同僚議員が法制局長官に質問をいたしましたところ、まず一番目の、現に戦闘行為が行われていないという要素が、純粋な武力行使との一体化を避けるための憲法上の概念です、二番目の、活動の期間を通じて戦闘行為が行われないと認められる地域という、今回取ったところは、自衛隊員の安全確保の観点を兼ねる意味で定められた概念で、主としてこれは安全性の確保のためです、いわゆる立法論の世界だというお話がございました。つまり、後半のものは憲法上の一体化の回避のための純粋な要素ではないということなんですね。

 そうなると、長谷部参考人は、二つともこれは憲法上の要請だというふうにとられています。ですから、二番目の要素であります、活動の期間を通じて戦闘行為が行われないと認められる地域を取るということが、一体化に近づく、バッファーがなくなるというんですが、これ自体が前提の間違いでございます。

 なぜこういうことが起きるかというと、やはり、この安保法制というのは非常に複雑にできておりまして、よく条文を読み込みながら、また現状の安全保障の環境を熟知しながら行わないと読み違うんだなというのを感じました。

 なお、安全性の部分については、先ほどもお話ししましたとおり、要は、これを分けまして、自衛隊の活動の区域は自衛隊が安全かつ円滑に活動できる場所を指定するという新しい規定をつくっておりますので、安全性についても、考慮していないということではないわけでございますが、ここがどうしても混同しているということでございます。

 小林参考人については、後方支援は言葉遊びだと言われましたので、それだったら、以前からこれは違憲だったということでございますので、今回の安保法制の改正によってより違憲性が高まるという意見ではないということでございます。

 以上でございます。

鈴木(克)委員 鈴木克昌でございます。

 まず、本題に入る前に、私は、この憲法審査会の置かれておる立場とか意義について少しお話をしたいと思います。

 先ほど会長は、私はこのように聞いたんですが、極力政局とは関係のない憲法の議論というのを進めていきたいということでありました。私も実は、国会へ出て、最初からこの憲法調査会、そして憲法審査会に所属させていただいておりまして、少数政党に対する配慮とか、発言の公平な機会とか、本当にすばらしい委員会だというふうに思っております。

 それで、まず、この審査会は、日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行う、こういうことであると思います。

 一部の議員の方で、一方で特別委員会があるのに何でここでやるんだというようなお話がありましたので、非常に私は違和感を持っておりまして、むしろここが本家本元なんだよというふうに私は言いたいわけであります。

 いずれにしましても、先ほど参考人云々の話がありましたけれども、私はこのように捉えていまして、憲法審査会の参考人はあくまでも幹事会の決定で呼ばれておるわけですよね。したがって、どの政党から推薦があったとかなかったとかということはもう超越して、本当に、会長を中心に幹事の皆さんが今回の場合は三人の参考人をお決めになったわけですから、私はやはり、その参考人の御意見というのはある意味で尊重をしていかなければいけないんじゃないかなというふうに思っております。

 それではもう少し申し上げますと、今回の参考人質疑の直接のテーマというのは立憲主義などであったわけですけれども、現下のように、安保法制が国会で一大論点となって、昨年の七月の閣議決定が立憲主義との関係で議論を呼んでいる現況に鑑みれば、立憲主義や憲法保障と関連するテーマとして安保法制に議論が及ぶ、参考人の意見がそういうふうになったというのは、無理もないというか、当然の流れだというふうに私は理解をいたしておるわけであります。

 そこで、何が言いたいかというと、もし、一方で特別委員会があるからこの委員会で余りこの議論を進めるべきではないということであるならば、私は、そうではなくて、むしろここは、粛々と、きちっと、その設立の目的によって進められていくべきだなというふうに思っております。

 先ほど高村先生がお出になって御意見を言われました。もちろん、どなたが出ても、時間の制限の中であれば、ルールの中であれば、全く問題ないです、何をおっしゃるのもいいんですけれども、しかし、流れを見ておると、高村さんが出られたということは、あくまでも、やはり安保法制の一番の中心人物であったわけですから、その方が御意見を述べられたということは、もうこの会はやはりそういう流れでいっておるのは何ら問題ないのではないのかなというふうに感じて伺っておりましたので、冒頭、このことだけちょっと申し上げていきたいと思います。

 もう時間がなくなってしまったんですが、安保法制について参考人が述べられた違憲論の根拠というのは大きく分けて二つだった、私はこのように理解をしております。

 一つは、集団的自衛権の行使を容認した憲法解釈の変更に関する問題であって、従来の憲法解釈との理論的整合性が失われ、そして、法的安定性を害する新三要件で認められる武力行使の限界が不明確というところが、やはり私は第一の視点だったというふうに思います。

 第二は、武力行使との一体化に関するもので、戦闘地域、非戦闘地域の枠組みをなくして、いわゆる前線に近い場所で兵たん活動をすることが外国の武力行使と一体化をするという指摘、この二つだと私は思っています。

 時間が参りましたので、このことについて、私はこれからぜひ機会を使って発言させていただきたいな、このように思っております。

 そして最後に、園田先生がおっしゃいましたけれども、いわゆる抽象的違憲審査をやる機関といいますか、それをつくるべきだというのは、私も全くそのとおりだというふうに思います。いきなり今憲法裁判所をつくるというのは憲法の関係でできないんですけれども、許される範囲の中で、やはりこういう議論をきちっと第三者といいますか司法の立場で判断できる機関を持つ必要性を私は感じております。

 以上です。

保岡会長 鈴木委員の前半の御発言については、先ほど申し上げたとおり、今後、幹事会でよく相談をしながら、適切に運営していきたいと思います。

山下委員 自民党の山下貴司です。

 私は憲法担当の司法試験委員をやっておりましたが、自衛権をめぐる憲法解釈は学説と現実が最も乖離している分野の一つと言え、自衛隊についてすら違憲の疑いがあるとする学説がむしろ支配的でした。しかし、学説は結論ではなく、その論理を検討する必要があります。

 日本の憲法学説をリードした宮沢俊義、芦部信喜教授を初め、我が国の憲法学者の通説は、憲法九条について、一項で放棄されている戦争、武力の行使の意義や、二項で保持が禁止された戦力や交戦権の範囲を極めて厳格に解釈し、自衛隊の存在は違憲であるとする学説が通説、現在の自衛隊は九条二項の戦力に該当するなどとしていました。

 先日の長谷部教授も、現在の自衛隊は憲法によって保持が禁止された戦力に当たる、国家に固有の自衛権があるという議論はさほど説得力があるものではないとする一方で、多様な価値観や立場の公平な共存を目指す憲法の基本理念という、文理を離れた曖昧な理由で自衛権を認めるという苦しい解釈をしておられます。

 しかし、そもそも、日本の憲法学界で支配的な解釈の出発点が、従来の政府の解釈とも違い、憲法制定時に、侵略戦争以外の目的であれば戦力を持てると解釈して文民条項の挿入を求めた極東委員会の解釈とも違う、一つの解釈にすぎないのです。

 立法府を担う私たちとしては、学説を含め、多様な意見に耳を傾けなければならないものの、憲法の定める三権分立から、まず前提とすべきは、違憲立法審査権を有する司法府の判断です。それが、最高裁大法廷が全員一致で、個別的と集団的とを区別せずに、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を認めた砂川事件最高裁判決です。そして、同判決の補足意見において、東大法学部長を務め、ICJ判事も務められた田中耕太郎最高裁長官は、一国の防衛も個別的に、すなわちその国のみの立場から考察すべきでない、他国の防衛に協力することは自国を守るゆえんであると判決理由を補足しています。

 これに対し、先日、長谷部教授は、集団的自衛権をめぐる解釈について、従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつきませんし、法的な安定性を大きく揺るがすものであることを理由に、違憲と述べました。

 しかし、長谷部教授の言う従来の政府見解の基本的な論理とは、御自身の論文によれば、日本を防衛するための必要最小限度の実力の保持とその行使を禁ずるものではないということですが、砂川事件判決を敷衍してこの論理を示した四十七年政府提出資料の基本的な論理の枠は、自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民の権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるというものであり、これは昨年の閣議決定においても変更はありません。

 ただ、従来は、この論理の当てはめの段階で、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限定していましたが、昨年の閣議決定では、昨今の国際情勢の不安定化を踏まえ、我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態は、我が国に対するのみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合であっても生じ得ることから、政府解釈の論理の根幹を変えずに、当てはめにおいて、現状に即して限定的に変更したものです。

 また、長谷部教授の、法的安定性を大きく揺るがすゆえに違憲との指摘は、同教授が別の論文で指摘するように、政府解釈の一貫性、論理性を支えてきたのは内閣法制局との認識があると思われますが、実は、内閣法制局は、約八十名の法令担当職員のうち、法曹資格を有するのはわずか数名にすぎず、政府答弁を行った歴代十八名の法制局長官のうち、司法試験に合格した者は、横畠長官を含めわずか七名という行政機関です。

 必ずしも法律家の資格を持たない行政官がつくり出した解釈に、どこまで事実上の拘束力を認めるのか、まさに立法府の見識が問われると思います。

 そもそも、内閣による政府解釈の変更の是非については、MSA協定の国会審議において、吉田内閣の自衛権に関する解釈の変更について問われた緒方竹虎副総理が、内閣の閣議によって公式に決めれば、前と解釈が違っても差し支えないと答弁し、続いて答弁に立った佐藤達夫内閣法制局長官、これは憲法制定に携わった方ですが、内閣内閣において正しいと信ずるとてその憲法解釈を打ち出すことは理論上は当然としています。

 私は、憲法条項の許す範囲内で、国民の負託を受けた議会に立脚した内閣が、直面する諸課題に対応するため憲法解釈の変更を行うことは、むしろ立憲主義にかなうものであると考えております。

 私たち自民党は、自衛隊、日米安保、PKO等に関し、時には、憲法学者、野党の皆様の激しい批判を乗り越えて、厳しい政治決断をしてきましたが、それが正しかったことは戦後の歴史が証明しています。平和安全法制についても同様に、堂々と正当性を訴えてまいりたいと思います。

 以上です。

中川(正)委員 憲法審査権をテーマとして、安保法制を議論していきたいと思います。

 政府がどのように取り繕っても、安保法制の合憲性は今揺らいでおります。

 歴史的に、いわゆる集団的自衛権の行使は憲法上許されないとしたのは、一九七二年の政府見解であります。しかし、安倍政権は、政府の武力行使の新三要件のもとに、同盟国とみなされる軍が他国から攻撃され、それが我が国の存立基盤を根底から覆すような脅威に結びつく場合は自衛隊の武力行使を可能にするとしています。日本が直接攻撃されていなくても、同盟国がやられれば、それをきっかけに自衛隊も武力行使をするということであります。

 これは、たとえ限定的であっても集団的自衛権の容認であって、これまでそれを認めないとしてきた憲法解釈の根本的な転換であります。

 さらに、同盟国への後方支援を地球規模に広げながら、武力との一体化のリスクが高まるということについて、その限界を明示しないままに、自衛隊が海外に派遣できるということが明らかになってきました。これも、日本は武力行使を前提とした自衛隊の海外派遣はやらないとしてきたこれまでの憲法の規範を超えるということであります。

 前回の審査会で三人の憲法学者全員が、安保法制は憲法違反だと判断しているということを表明いたしました。他の憲法学者も、そのほとんどが今回の解釈の変更を違憲だと表明していると報道をされております。

 私も、今回政府から出た一連の安保法制は憲法に違反していると考えていますが、このまま解釈変更によってなし崩し的に中身が変わっていくということは、憲法自体が空洞化していくということでありまして、これ以上、こうした状況を私たちは許していくべきでないというふうに考えております。

 安倍総理や内閣法制局は法案の合憲性を説明することに躍起となっていますが、しかし、法律を起案した当事者が、自分たちのつくったものをこれはすばらしいものだと言い募っても、自画自賛であります。合憲だと言っても、それは説得力を持たないのです。

 一方で、野党の私たちや憲法学者など多くの専門家が安保法制は憲法違反だということを指摘しているわけでありますが、一般の世論や憲法学者の皆さんの発言には法律の後ろ盾がありません。だから、最終的には具体的な結果を出すことが難しい、その限界があります。

 このままだと、両方が言いっ放しで、たとえ法律が成立しても、国民の信頼を得た上での運用ということにはならないのです。大切なこの法案が国民の信頼を得られないということ、ここに問題があるのです。

 本来、違憲立法審査権は最高裁判所にあります。しかし、私は、日本の最高裁判所は、特に安全保障関連の法律に関して憲法審査を怠ってきたというふうに思っています。裁判所がはっきりとした見解を出せば、憲法は解釈で中身を変えていくのではなくて、憲法そのものの改憲論議で、国民とともに、自衛隊の運用の範囲をここまでだということで明文化することができたというふうに思うのです。時代の動きとともに真っ当な憲法論議が常に必要であるということ、これを改めて私たちは自覚しなければならないと思います。

 しかし、最高裁判所の憲法審査に対する不作為にもそれなりの言いわけがあるということ、これは皆さんも御存じのところです。

 前回の参考人質疑でも憲法学者から説明されたように、日本の憲法審査制度は司法裁判所型だということであります。憲法裁判所が法律の合憲性を直接審査する仕組みなのに対して、司法裁判所型というのは、個々の事件、事象を法律によって裁く場合にのみ、該当する法律の合憲性を間接的に審査する制度ということになっております。このことから、違憲立法審査権の発動は限定的なものとなってしまってきたということだと思っております。

 こうした状況を今の憲法下でどうしたら克服できるのかということ。

 先日の参考人質疑の中で、笹田参考人より照会制度の提案がありました。日本と同じ司法裁判所型のカナダでは、法的拘束力はないが、最高裁が違憲かどうかの意見表明をすることが有効に機能しているということが指摘をされました。このことをベースに、具体的に、私は、以下のことを提案したいというふうに思います。

 まず第一、憲法審査会で決議をして、問題になっている安保法制の合憲性について、最高裁の意見を求めるということ。

 そして、もし最高裁がこれに応えることが消極的である場合には、照会制度を法制化するということであります。国会または政府が必要なときには、当該の法律について最高裁に合憲性の判断を求めることができ、また、最高裁はこれに応えてその意見を公にしなければならない、こういう内容の法律をつくって、この法律に基づいて、現在の安保法制の合憲性の是非につき最高裁に照会をするということ、これが、今の法制下の中で、今の憲法下の中で可能だということであります。

 このことについて、この審査会でぜひテーマとして取り扱っていただいて、私たちの、最終的な違憲立法審査権について最高裁に委ねる、そこで判断をしっかり出していくということ、この原点に戻っていきたいと思います。

 以上、私の思いを表明させていただきました。

保岡会長 今の中川委員の御提言は、幹事会で相談をします。

根本(匠)委員 私も、簡潔に私の考え方を述べさせていただきたいと思いました。

 今回の審査会はさまざまな議論があった。特に、平和安全法制についての中心的な議論がなされました。私は、冷静に聞いていて、長年この議論に参画してこられた高村委員あるいは北側委員の御意見が極めて本質をついていて、論理的、合理的、説得的だったと思います。

 簡単に私も申し上げたいと思いますが、今回の平和安全法制については、歴代政権が維持してきた憲法解釈を一内閣の判断により変更するものであり、立憲主義にもとるのではないかという批判が一部にあるようであります。

 しかしながら、今回の平和安全法制は、平成二十六年七月一日の閣議決定に基づき整備するもので、この閣議決定は、これまでの憲法九条をめぐる議論と整合する、合理的な解釈の範囲内のものであると考えています。したがって、この閣議決定は、憲法改正によらなければできないことを解釈の変更で行うという意味でのいわゆる解釈改憲には当たらないものであり、立憲主義に反するものではありません。

 憲法八十一条には、最高裁だけが最終的に憲法解釈ができると規定しています。その最高裁が憲法九条の解釈を示したのは、もう既に指摘がありました砂川判決であります。

 その中で、日本が主権国家である以上、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために自衛権の行使ができるとしています。最高裁の言う自衛権に、個別的自衛権か集団的自衛権かの区別はありません。まさに、ここが私もポイントだと思います。

 複雑化する世界情勢の中で、他国が攻撃された場合であっても、日本の存立を根底から覆すような場合がある、そういう場合に集団的自衛権を行使する、これは憲法に違反するものではないと思います。

 一方で、最高裁は、我が国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有する事柄が憲法に合致するかどうかを判断するのは、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所ではなく内閣と国会であるとも言っております。

 かつて、ほとんどの憲法学者は自衛隊が違憲だと言っておりました。今でもそう言っておられる憲法学者もおられます。憲法九条の二項に陸海軍その他の戦力はこれを保持しないと書いてあるから憲法違反だと言っておりました。

 安倍内閣と我が党は、長年この問題を議論し、日本の平和と安全を守るために、憲法の許す範囲で限定的に集団的自衛権を行使することが必要だと考え、十分に議論を重ねた上で、平和安全法制を国会に提出しました。まさに手続的に、今、国会で議論がなされている。我が国の平和と安全を守ることが国会の責任だと考えます。

 最後に、憲法審査会の運営について一言言っておきたいと思います。

 この憲法審査会は、日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議または国民投票に関する法律案等を審査する機関であります。

 本日は、各党の論客の皆様に御参加をいただいて、安保法制に関し幅広い意見がなされましたが、この審査会は特定の法案についてを審査する場ではないと私は思います。安保法制を議論する場としては特別委員会を別途設けて、そして今議論されているわけですから、国会の基本的仕組みとしては、この特別委員会でしっかりと議論をしていただくのが私は筋だと思います。

 今回の件を通じて憲法問題に関心が高まったことは事実でありますが、当審査会としては、船田委員あるいは委員長の先ほどの御発言にもありました、やはり基本を踏まえて、落ちついた環境で憲法の論議を深化させていくべきだと私は考えます。

保岡会長 次に、長妻昭君、発言を願いますが、簡潔にお願いいたします。

長妻委員 一分ぐらいでいたします。

 先ほどちょっと私が抗議を申し上げましたのは、私の発言を正確に引用しないで反論をされたわけでございますから、抗議をいたしたわけでございます。

 私が申し上げましたのは、高村先生が、米艦船に対する攻撃があっても我が国として何もできないままでいいはずがありません、そういうふうに断言されたので、これを見ている国民の皆さんが誤解されるとよくないので、周辺事態法もあります、おっしゃるように、後方支援、わかっております、そして、我が国に対する武力攻撃の着手という概念もあります。

 ところが、今公明党の方がおっしゃったのは、着手は曖昧だというふうにおっしゃいましたけれども、個別的自衛権の。でも、私に言わせたらば、今回の集団的自衛権、限定された集団的自衛権の方がさらに曖昧だと思うわけでありまして、集団的自衛権、限定されたものの守るべき利益は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態、そういう事態になったときに、これはその要件が第一要件になるわけでございますが、それの方がよほど曖昧だということも申し上げ、そして、かつ、集団的自衛権、限定的といえ、これだけ違憲という意見も出ているわけでありますので、どちらが曖昧かというのはおのずからわかるのではないかという反論をいたします。

 ありがとうございます。

北側委員 私や高村さんの意見に対する御意見もございましたので、簡単に私の方から申し述べます。

 まず、砂川判決をどういうふうに位置づけるかという話がきょうも議論になっておりました。日本の憲法九条には、自衛の措置がどこまで認められるのかということについて書いておりません。九条のもとで許される自衛の措置、これについて、一番最初に最高裁判決、この砂川判決が一九五九年に判示があったわけでございます。先ほど来話が出ておりますが、そこで言っておりますのは、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうる」、こう言っているわけでございます。

 一九五九年でございますので、国連憲章は一九四五年、国連憲章五十一条の、個別的自衛権または集団的自衛権という言葉が明確に書いてあるわけでございますが、当然、それをわかった上で、個別的自衛権とも言わず、集団的自衛権とも言わず、今のように表現をしているわけでございます。そういう意味で、それをよくわかった上でこのような表現をとっているというのは、いわば、集団的自衛権、個別的自衛権、そういう観念ではなくて、また、集団的自衛権と言われている、そういう観念を排除しているものではないというふうには少なくとも言えるんだろうと。集団的自衛権というものを排除しているというふうに言えるものではないというふうに思います。

 ただ、砂川判決で言っているのはこの部分だけでございます、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置」、これをさらに、憲法九条のもとでどこまで自衛の措置ができるのか、その限界というものを当然検討する必要があるわけでございまして、そこは、砂川判決は、内閣であり政府であり、また国会に委ねたというふうに私は思います。

 その後、政府見解がるるあるわけでございますけれども、昭和四十七年の見解についてもいろいろ御議論がございました。私が提出しました資料の一をちょっとごらんになっていただきたいと思います。この資料の一の昭和四十七年見解には、集団的自衛権という言葉は四回出てまいります。まず第一行目に「いわゆる集団的自衛権、」と言っております。また、第一段落の最後の方で「右の集団的自衛権」と言っています。第二段落で、先ほど長妻委員からお話がありましたように、「いわゆる集団的自衛権」と言っています。そして、一番最後のところに「いわゆる集団的自衛権」。集団的自衛権という言葉の前に、「いわゆる」というのが三回、そして「右の」というのが一回出てくるわけですね。全てこのような形容がついているわけでございます。

 まず、一番最初に出てくる「いわゆる集団的自衛権、」というのは、集団的自衛権のまさしくこの政府見解での定義をしているところでございます。この定義は何かといえば、国際連合憲章五十一条のいわゆる集団的自衛権、他国防衛を目的とした集団的自衛権も含む、フルサイズの集団的自衛権について、いわゆる集団的自衛権というふうに定義づけをしているわけでございます。

 以下出てくる、あと三回の集団的自衛権も、「右の」とか「いわゆる」と言っているわけでございまして、同じフルサイズの集団的自衛権についてこの政府見解は述べているというふうに私は考えております。

 そういう意味で、先ほど長妻委員がおっしゃった第二段落の「いわゆる集団的自衛権」というのも、まさしくそういうフルサイズの集団的自衛権については、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであって許されないとの立場に立っている、こういうふうに私は読めるのではないかというふうに考えているわけでございます。

 いずれにいたしましても、先ほど来私が申し上げましたように、この政府見解の根幹部分、基本的な論理の部分というのは、要するに、憲法十三条との関係で、国民の基本的人権が根底から覆されるようなそうした明白な危険がある場合に、この場合には他国に対する武力攻撃を排除することが許容される、ここの部分がまさしく一番の根幹の部分だというふうに考えております。

 それから、個別的自衛権の問題で、私が提起いたしました米艦防護の問題。日本防衛のために日本の近海で、公海上で日本防衛のために活動している米艦に対して武力攻撃があった場合に日本の自衛隊がこれを排除できるのか、こういう問題提起に対して、個別的自衛権で対処できるじゃないかというのが、幾つか御意見がございました。

 過去もこの議論は相当国会でされているんですね。先ほど長妻委員がおっしゃったように、答弁を見ますと、状況によってはとか、個別具体の事例によればとか、こういう表現になっているんです。では一体、その状況とはどんな状況なのか、個別具体的な事情とはどういう場合なのか、ここが非常に不明確なまま、今日まで来てしまっているわけなんですね。

 我が国領海内での米艦であれば、それは我が国に対する武力攻撃の着手と言えるでしょう。また、一旦我が国に対する武力攻撃があって、その後、米艦が公海上にいて、その米艦に対する攻撃であれば、確かに個別的自衛権と言えるでしょう。ただ、どこまで個別的自衛権で着手と言えるかということについて、極めて曖昧なんですね。はっきりしていないんです。いざ現実にそういうことが起こったときに、やはり、そこの武力攻撃を、我が国防衛のために警戒監視活動をしている米艦船に対して、そこに武力攻撃があった場合に……

保岡会長 時間が超過しているので、結論を。

北側委員 それを排除できなかったら、日米防衛協力体制はもう瓦解をしてしまうわけでございまして、私はそこを明確にする必要があるというふうに思って考えております。

 いずれにいたしましても、我が国をめぐる安全保障環境をどう認識しているのか、この国と国民を守るためには安全保障上の必要性はどこにあるのか、あるのかないのか、こうした議論をしっかりとやっていかねばならない、そのように思います。

 以上です。

保岡会長 まだ御発言の御希望もあるようでございますけれども、予定の時間を過ぎておりますので、本日の自由討議はこれにて終了させていただきます。

 いろいろ御苦労さまでございます。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午前十一時五十二分散会


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