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昭和二十八年七月二十八日提出
質問第三九号

 産業教育振興法に関する質問主意書

右の質問主意書を提出する。

  昭和二十八年七月二十八日

提出者  長野長廣

          衆議院議長 堤 康次(注) 殿




産業教育振興法に関する質問主意書


 第十回国会において成立した産業教育振興法は、わが国の経済的再建の基礎が、学校教育における産業教育の振興にあることを目的として制定せられたものであるが、その施行後三年目であるのにその実効が充分でないように思われる。
 この法律の制定に努力した一人として、その施策について深い関心を持つものであるが、次の諸項に関し、当局の所見を承りたい。

一 学校教育の全般的問題と産業教育との関連について。
 イ 勤労尊重精神の涵養について。
   元来わが国民性の中には、いわゆる東洋的封建制の弊風ともいうべき勤労者軽視の傾向がある。一応は勤労そのものは尚ぶべきものであることを観念上では知しつしていても、実際には、自らは勤労者たることを避け、知識的な、あるいは支配者的な地位や職業におもむく傾向が依然として強い。これが学校教育上普通科偏重となつて職業科は二次的課程のように取り扱われている。この点に関し、小、中学校及び高等学校普通科、特に一生のコースを決定する中学校において、人生観、社会観に関連して正しい職業観を養成すること、及び自己の性能に適する職業を発見して早く方針を決定し得るように、現行の教育内容について工夫することが望ましいと思うものであるが、当局の意向を伺いたい。
 ロ 高等学校の普通科に産業教育課程を強化する件。
   高等学校普通科卒業者の現況を見るに、その約三割ぐらいまでが上級学校に進学するにとどまり、じ余の七割は職業についている。しかも進学のための予備校的性格を帯びつつある修学課程を経て卒業するので、職業的には無準備状態で社会に出る。
   中学校時代に職業上の適性を見出すことに遅れた者を救うためにも、右の欠陥を補うためにも、高等学校普通科について、職業課程を強化する必要があると思うが、当局の見解を伺いたい。

二 信念の啓培と産業教育について。
 イ 訓練訓育の強化について。
   ひとり産業教育に限らず、戦後全般的傾向として、教育の中心的作業ともいうべき訓育面が著しく閑却せられ、そのために徳性の向上が遅々として進まず、これが青少年の犯罪の増加となつて現れ、放縦、無責任、薄志弱行等の傾向を生じつつあるものと思われる。私はこの原因を次のように思うものである。
   戦後、民主主義、自由主義、社会主義等等の思想の波に圧倒せられその帰趨するところに混迷をきたしたのであるが、特に民主主義、自由主義あるいは基本的人権の尊重等の考え方が強い影響をきたし、これが教育手段として児童生徒の自主的自発的活動を原則とする方法となり、戦前のような強圧的詰込み的、一定の型に入れようとするような方法とは全く逆転した。ここに教育方法上の反動的な変革からくる退歩現象が現れるに至つたのではないかと思う。
   すなわち西欧の個人主義を基調とする民主主義や社会主義や自由、人権尊重等の思想は、個人の義務心、責任感を裏付けとして発達した思想であるから、健康な性格を持つているのであるが、わが国では東洋的な聖賢の道、先人の教えに随順するということが教学の基本となつて永年の伝統を維持してきた。しかるに敗戦の衝撃によることと、占領政策とによつて、根底から日本的なものが否定せられ、一挙に西欧的な行き方に移行することとなつたために核心のない形がいにおちて終つた。すなわち責任感を伴わない個人主義となつたために自由の最も堕落した放縦となつたのである。
   私は、日本文化の精粋は、本来の日本人の自然的環境の影響による明朗な民族性を基盤とし、儒仏思想を消化してでき上つた道徳上の修練主義にあつたと思う。すなわち「道」という人生の完成を、絶対的な自己否定の工夫修練によつて達成しようとする、一技一能もすべて道徳実現の手段方法とし、究極的には天人合一の境地に入ることを目的とした。「道」という一定の形式を手段として一意専心その内容を心身に具現するため努力精進し神人合一境に到達するのが人生の意義を全くするものとした。特殊を通して普遍に入ることに努力した。従つて「学問」ということを「道を知ること」と心得た。学問は聖者の道と心得、如何なる職業も道を離れては人生の意義にそむくものとされた。
   政治の目的も修身を根本とし、徳治主義をもつて一貫したのである。ここに絶対的な立場で内面的な自己を省察しその到らざるを憂え、欲望を否定して精神的な自由を求めながら、他人の欲望はこれを肯定して愛の内容とし、これを誠とし慈悲とした。
   この伝統につちかわれきたつた日本文化は、人生観の貴重な内容をもつものであつて、敗戦の原因が、この文化にあるものではなく、一に経済や政治的な、いわゆる力関係の相対的な事情に基くものである限り、この文化は敗戦によつて根本から棄却しさるべきものではないと思うのである。
   これに対して西洋思想の根幹は個人の現実的な欲望を肯定する立場から、他人の欲望も肯定しようとするために、相対的な人間生活を、権利義務の法律的関係をもつて規正しようとするものである。民主主義も自由主義、社会主義、功利主義等等みな政治的、法律的な思想であり、相対的な人間生活を如何に、どこに線を引くかという方法的論義である。人間の欲望の対象である経済、物質観が基礎である。これを東洋思想に対比するとき、著しく物質観に基くものといえよう。従つて個々人の精神生活内容を主とするものではないから、直接他人に累を及ぼさない限り自由なものとされる。戦後、急激にこの西欧思想に移行したために、教育の民主化ということが、教育方法の上に取上げられたために、児童生徒の精神生活内容について、外部から強制することは、一種の人権侵害であると考えられるに至り、児童の欲しないところをしいてはならぬ、という風潮となつた。このことは果して教育方法の進歩といえるであろうか。私は多大の疑問をもつものである。というのは、人間の内面生活の改造なくして真の人生の完成はあり得ない。すなわち自己自身を知ることによつて、自己の改造あり人格の向上もあり、自覚反省こそ人格育成の根本的方法でなければならぬ。人間社会から犯罪や悪を駆逐するには相対関係を規正する法律にあるのではなく、人の心の中にある。
   しかして現実には相対的な社会関係の中に生きるものであるから、政治、法律と離れ得るものではないが、一面には絶対なもの、永遠なものと直接する人の一生であり、空前絶後の人生であるから、内面生活上の絶対性を閑却しては帰すうするところのない、単なる物欲の奴隷たるに過ぎぬ一生となる。政治、法律といえども一度決定したことはこれを守るという責任感を前提とする。人心の道徳こそ一切の根底である。
   民主主義は、一個人の心の内面生活に立ち入ることを否定しているが、社会の改善は政治の改善であり、政治の改善は人間の改善に基き、人間の改善は人の心そのものの改善にまたねばならぬ限り、民主主義といえども教育による人間の改造によつてその発達を予想し期待しなければならぬ。ここに民主主義と自由主義の矛盾がある。この矛盾のまま教育における自由主義自発主義を重視し過ぎるときは、おのずから児童生徒の「わがまま」「放縦」を許さなければならず、教育の本質的な作用であるべき改善が期待され得ない。従つて知識技能において進歩面はあつても、人間性の進歩はなく、人間の堕落となる。しかも人間は一個の絶対者であつて、親が聖人でも子は犯罪者であることもある。道徳はその人一代限りのものであり、道徳論は理論にとどまるので、これを実現するのは、その人の一代にとどまる努力以外にない。怠ればすたれるものである。物質的外界的なものは進歩してとどまらない。
   如上の見地から、私は日本の今日の教育について、あえて「訓育」というが、程度問題であり、児童の能力相応の程度において、強制面が必要であることを強調したい。しつけにしても、礼儀作法にしても、練習によつてわが物となすには、「かくなければならぬ」という至上命令に従つて努力せねばならぬ。
   強制といつても児童の理性に訴えるときは、すなわち自覚を促がせば強制ではない。同時に激励と賞揚と批評によつてその促進を図れば理想向上心の強い青少年は、強制といえども理想実現の暁には喜びをもつてさらに努力すべきことを用意する。
   単なる私の一家見にすぎぬとはいえ、私は戦前における教育方法を全面的に否定し、児童の自発活動のみに重点を置き過ぎる教育は、人としての心の内面作用を閑却するため、わが国精神文化を忘却し、民族の堕落をきたし、たとえ物質文明の進歩をきたすといえども、道徳文化、すなわち真の意味の文化を失うことを深く危ぐするものである。
   今般文部当局が道義高揚を文教振興の第一に掲げられたことはむしろ遅きに過ぎるほどであるが、学校教育全般を風靡している「自発的活動」一点張りのごとき方法については深く検討する必要があると思うので私見を添えた次第であるが、この点に関して、あるいは必ずしも心配することはないかどうか簡単に当局の意向を伺いたい。
 ロ 信念の啓培と産業教育について。
   教育は一にその人にまつものであることはいうまでもないが、その人の信念こそ教育作用の根源である。信念を持たずに教壇に立つ教師は単なる知能労働者に過ぎない。特に職業教育に従事する教員は、技術と理論とを持つ上に、生徒の技術修習の努力心を常に鼓舞しなければならないので、確固たる信念がないときは、生徒を動かす力が弱い。
   職業の修習には努力心が一段と強くなければ、仕事に飽きやすい。特に勤労量の多い農、水産、工業等にあつては労働の苦痛を克服し、生産の喜びと技術向上の満足感を味わうに至らしめなければならないのであるが、勤労の苦しみを苦しみと思わぬ心の状態は、不屈不撓の精神力によるものであり、この精神力は気はくである。気はくは信念あるいは信仰に基く。この点について教師にまつことは理想であるからその対策は第一であり、別項で伺うつもりであるが、教科書あるいは参考書等の手段をもつてこの点を激励、指導する対策が必要であると思う。
   たとえば農業ならば、生々化育して余すところのない大自然の大愛ともいうべき無限の法則と神秘性を知らしめ、この無限に生育生産する自然と融和一致して働きかけ、無限の豊庫をひらく喜びをもつて勤労を楽しむことは、自然と人生に関する信仰的信念に基くことである。特に国土狭少なわが国ではいかなる不毛の地、津津浦浦といえども開発して美田と化し、郷土をよりよく住みよい地として開発することは農村青年の至上の喜びであり使命でなければならない。
   この点に関する当局の具体策を示されたい。
 ハ 科学心の養成について。
   科学する精神の態度は、その根本信念として、深い人生愛、社会愛に根拠せしめなければならない。単なる物欲、あるいは政治経済的イデオロギーに出発するときは、心の目が外界にだけ向つて、道徳性を没却する危険があり、社会をひ益するのでなく、かえつて社会に禍害を及ぼすこととなる。結局は正しい人格に基くことであつて、すなわち科学を正善と一致させる方向に努力をするのでなければ、科学的法則が人生をそこなうこともある。
   真理法則はただ単に真理たるにとどまるので善でも悪でもない。人がこれを用うるに当つて、心のあり方によつて善にも悪にも使い得る。
   薬物の法理は人を生かしもし、殺しもする。弁護士必ずしも人を救わない。一方を害し一方を益せしめる。水は人畜を害しもするがこれがなければ人畜の生命は保てない。真理の大海に分け入つて人生を建設するのが科学者の仕事である。
   時とともに科学は発達してとどまらないが、これを利用する人間性は、人の内面性の問題であるため時の古今にかかわらないので、物質文明は進歩しても人の道徳性の進歩がない限り、悪はますます巧妙となり複雑を加える。物質的な福利増進があつても、精神的な幸福は得られない。
   純真な青年をして、この重要な分岐点を誤らしめないように指導する必要があると思う。このことは単なる常識にとどまることと思われるが、特にこのことに思いを至さないときは、科学の進歩がかえつて社会の禍害の因となる。
   この点についての当局の努力点を伺いたい。

三 産業教員の養成の件。
 イ 大学における産業教員養成施設の不充分のため、いまだこの種の教員が充実せられない状態にあるように思うが、産業科担当教員を充実しなければ最もその進展を妨げる原因となることは改めて指摘するまでもない。その需給関係を調査して全国所要の大学に設置することを急がれる必要があると思うが、その具体的措置について伺いたい。
 ロ 奨学制度の設置について。
   日本育英会の貸費制度を、産業科担任教師養成施設に拡充し、義務教育教員養成の制度にならつて、卒業後一定の義務年限にわたつて勤務した者については、その貸費を免除することとし、優秀な者を吸収する方策を講ずることは適切な措置ではないかと思うのであるが、当局の所見如何。

四 産業科担当教師の待遇に関する特別措置について。
  「産業教育振興法第三条の三」をもつて、産業教育に従事する教員の資格、定員及び待遇については、特別の措置が講ぜられなければならないことになつているが、この条項に関し、この法の実施三年になるのに、ほとんど見るべき具体的措置が講ぜられていないのはすこぶる遺憾に堪えない。
  この条の実現には人事院と折渉する必要があるわけであるが、もし交渉せられたならば、如何なる障害があるものか、もし何等の手段も講ぜられておらないとすればその理由について知らされたい。学校当事者は、この条の実現を深く期待している。

五 産業教育の高等学校及び中学校の施設及び設備について。
 イ 産業の高等学校においては、施設及び設備が中心的なものであるが、その施設及び設備を充実するに当つては、最も進歩したものを用意しなければならないと思う。一般民間のものより遅れている旧式のものでは一応の操作は修習されても、実社会に出て間に合わないものとなる。この点如何なる実情になつているかを承りたい。
 ロ 高等学校の基礎教育は中学校であるから、中学校における施設及び設備を充実する必要のあることはもちろんである。
   高等学校に併行して基礎教育上の施設及び設備の充実を図られたいと思うが、その現状及び今後の計画に関して知らされたい。

六 産業教育予算について。
  人を養成する投資は最良の投資であり、特に産業人養成のための投資は、数年後において数倍あるいは予期以上の成果を挙げることは、すでにこれを米国の例に見ることができる。米国はおよそ三十年前このことに着目し、連邦政府において一局を設け、熱心に施策を講じ、他の要因も幸したとはいえ、今日の盛況の一大要因であつたことは明りようである。予算多事であるほど、産業教育面の充実を急ぐ必要があると思う。昭和二十八年度は約九億円であるが、来年度においては少くとも二十五億円を下つてはならないものと思うが概略の予定、あるいは決意について承りたい。
  出来得れば中学校に対する予算について、学校数が多いので、特に考慮せられたい。

七 産業教育内容に関する国、学校及び民間の連絡機関の設置について。
  学校における教科内容は、急速に進歩する各般の状況と常に連絡調整する必要がある。さもなければ学校における教育内容や技術が社会と遊離し、あるいはう遠となる虞れがなしとしない。
  あるいは職業種別によつて生徒の需給に不均衡を生ずることもありうるので、これらの要件を満たすため、産業教育調査連絡の機関のようなものを設置する必要があると思うが如何。

八 産業教育課の充実について。
  産業教育振興法の実施を撤底し充実するため、現在の文部省中等初等教育局の産業教育課を拡充し、その指導及び連絡又は教科書編修等々特殊事情が多いのにかんがみこれが万全を期せられたいと思うのであるが、当局の意向を示されたい。

 右質問する。





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