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平成二十二年十一月三十日提出
質問第二一七号

陵墓の治定と祭祀に関する第三回質問主意書

提出者  吉井英勝




陵墓の治定と祭祀に関する第三回質問主意書


 十一月十八日に提出した再質問主意書(以下、再質問主意書と略)で、現在、宮内庁が斉明天皇陵としている車木ケンノウ古墳の問題と、本当の斉明天皇陵ではないかという考えが強い牽牛子塚古墳の調査での新たな知見とを取り上げ、改めて宮内庁による陵墓治定の正否の検証を求めた。これに対する答弁書(内閣衆質一七六第一七七号)は「斉明天皇陵の治定を見直さなければならないとは考えてはいない」と、引き続いてこれまでどおりの見解を示した。
 よって、次のとおり質問する。

(一) 明日香村教育委員会による牽牛子塚古墳の調査は現時点でまだ終了していないと思うが、牽牛子塚古墳の横口式石槨の下方でこのほど検出されたという別の横口式石槨について、宮内庁書陵部陵墓課の職員は現地を確認しているのか否か。新たに検出された石槨について実見したり、聞き及んだりしていないのか。
(二) 再質問主意書に対する答弁書において、「現地踏査等により」「斉明天皇陵及び大田皇女墓が現在地に治定された」とあるが、現地踏査等とは、いつ(西暦による)、誰が、どういう方法で、何を調べたものか。具体的内容を示されたい。また、その内容は何に記録されているのか。
(三) 陵誌銘等の被葬者を確実に特定できる資料の出土がないのに、日本書紀等の記録や幕末の現地踏査だけで、なぜ斉明天皇を葬った場所と大田皇女を葬った場所とを特定することができたのか。
(四) 再質問主意書において、車木ケンノウ古墳に斉明天皇が埋葬されていると確実に肯定できる根拠を示すよう求めたが、答弁書では、日本書紀における斉明天皇の間人皇女との合葬等の記録、続日本紀における斉明天皇陵の修造等の記録、延喜式における斉明天皇陵の名称と所在する地名の記録を示しているだけで、車木ケンノウ古墳が斉明天皇陵であるという確実な根拠は示されなかった。牽牛子塚古墳が本当の斉明天皇陵ではないかという考えがさらに強まっている状況で、車木ケンノウ古墳に斉明天皇が葬られているという確実な根拠を示せない以上、車木ケンノウ古墳が本当に斉明天皇陵であるのかどうか、治定の正否を検証し直すべきなのではないか。
(五) 再質問主意書に対する答弁書に「富郷陵墓参考地は、「延喜式」に記載されている山背大兄王平群郡北岡墓の可能性があるものと考えている」とある。本年八月四日に提出した質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七五第三八号)では、富郷陵墓参考地の被葬者名については「不詳」となっている。再質問主意書に対する答弁書では、被葬者は「山背大兄王」の可能性がある旨が述べられているが、どちらが正しいのか。
(六) 富郷陵墓参考地とは奈良県斑鳩町の岡原古墳のことである。陵誌銘等の被葬者を特定できる確実な資料が出土していない古墳であるにもかかわらず被葬者を特定して陵墓にしている一方で、岡原古墳(富郷陵墓参考地)を被葬者が山背大兄王という可能性があっても陵墓に治定できないのはなぜなのか。
(七) 山背大兄王が没したのは何年のことか。西暦で答えられたい。
(八) 宮内庁が富郷陵墓参考地として管理している岡原古墳の築造時期は、何世紀頃のものと考えられているか。また、山背大兄王の没年との年代上の乖離はどのくらいあるか。文化庁の見解を問う。
(九) 再質問主意書に対する答弁書において、陵墓や陵墓参考地の「治定替え」や「治定解除」の実例が示された。治定替えが行われた陵墓のうち、天武天皇・持統天皇陵(天武持統合葬陵)、文武天皇陵、桓武天皇皇后陵、五十瓊敷入彦命墓、日本武尊墓は現在の場所に治定替えが行われるまで、それぞれどこを当該被葬者の陵墓(埋葬場所)として扱っていたのか。陵墓(埋葬場所)の名称、考古学上の名称、所在地、被葬者名、治定替え前の治定日(西暦による)を明らかにされたい。
(十) 宮内庁は「治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」(二〇〇九年六月二十九日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第六一一号))という見解を示し、現在の斉明天皇陵の治定の検証を拒む理由にもしている。再質問主意書に対する答弁書で示された治定替え、治定解除が行われた陵墓や陵墓参考地では、陵誌銘等が出土していないと考えられるが、それにもかかわらず陵墓や陵墓参考地の治定替えや治定解除が可能だったのはなぜか。
(十一) 学術的調査によっても、古墳の被葬者名を特定できることは非常にまれである。宮内庁が被葬者を「特定」し、陵墓や陵墓参考地として管理している古墳であっても、被葬者を確実に特定できるものは何一つ確認されていない。それにも関わらず、被葬者を「特定」して皇室用財産として管理し、学術的調査や文化財としての活用を拒否するのは、歴史の正確な解釈や扱いを歪めるものになると考えないのか。
(十二) 日本経済新聞(本年十一月二十七日付)等においても、宮内庁による治定とは別人が埋葬されているのではないかという議論や、陵墓の公開を求める声が強まっていることが指摘されている。被葬者を確実に特定できる物的資料等の根拠がなく陵墓や陵墓参考地にしている古墳は、陵墓や陵墓参考地の治定を解除するとともに国有財産法上の皇室用財産から除外して、文化財保護法の下で国民共有の文化遺産として活用すべきではないか。宮内庁という一官庁の判断ではなく、政府としての検討を求める。
(十三) 再質問主意書において、@宮内庁が陵墓または陵墓参考地に治定していない古墳の中で、その被葬者が皇室の先祖であると考える学説、A宮内庁の治定による陵墓や陵墓参考地の被葬者とは別の被葬者が埋葬されていると考える学説のそれぞれについて、宮内庁がどの程度把握しているか質した。これに対する答弁書は「お尋ねにお答えすることは、様々な誤解を生じさせるおそれがあることから差し控えたい」というものであった。「様々な誤解を生じさせる」とは、どのようなことを意味しているのか。「様々な誤解」とは、具体的にどういう内容か例示されたい。
(十四) 右の@Aに関し、誤解を生じさせることのないよう留意して、宮内庁が「承知している」という学説について明らかにされたい。
(十五) 陵墓関係事務を宮内省(当時)が取り扱うようになる一八七八年よりも前は、どこが陵墓関係の事務を取り扱っていたのか。
(十六) 再質問主意書に対する答弁書において、祭祀の対象は陵墓や陵墓参考地の被葬者であることが示されたが、陵墓の治定替えが行われるまでは、現在の被葬者とは別の被葬者を対象にして祭祀が行われていたのか。
(十七) 治定替え、または治定解除が行われた後、治定が替えられたものや治定が解除されたものは、被葬者に対する祭祀は行われなくなったのか。
(十八) 再質問主意書に対する答弁書において、行燈山古墳が景行天皇陵としての扱いを受けている時から現在の崇神天皇陵に治定されるまでの間の祭祀の状況、また渋谷向山古墳が崇神天皇陵としての扱いを受けている時から現在の景行天皇陵に治定されるまでの間の祭祀の状況について、どちらも「承知していない」と答えている。幕末の文久年間に現在の治定が行われるまで、二つの古墳において中世以降は皇室による祭祀が行われていたかどうかは分からないということか。
(十九) 再質問主意書に対する答弁書で、宮内庁が「古代高塚式の陵墓等」と呼ぶ百二十一の古墳について、延喜式記載の祭祀の対象に該当するものは六十四の陵墓であることが示された。延喜式に記載がない残り五十七の陵墓では、延喜式が編纂された平安時代半ばには、すでに祭祀が行われていなかったということではないのか。
(二十) 再質問主意書に対する答弁書で、陵墓や陵墓参考地に設置されている鳥居について「埋葬区域と拝礼場所との境界、拝礼場所と参道との境界等に設置されている」と述べているが、「境界」に鳥居を使うのはなぜか。
(二十一) 再質問主意書において神武天皇の没年を質したが、答弁書では「「日本書紀」には、神武天皇は神武天皇七十六年に崩御したと記述されている」とある。「日本書紀の神武天皇七十六年」とは西暦何年で、日本の時代区分に従うとそれは何時代に相当するか。また、神武天皇が即位したのは何歳の時で、それは西暦何年で、何時代に相当するか。
(二十二) 宮内庁書陵部発行の「陵墓要覧」によれば、二〇一六年四月三日、神武天皇没後二千六百年の「式年祭」が執行されることになっている。宮内庁は、二〇一六年は神武天皇が没して二千六百年の年に当たると理解しているのか。
(二十三) 陵墓要覧には西暦と並べて「皇紀」による年が記されている。宮内庁職員は、現在でも神武天皇が即位したといわれている年を最初の年とする歴史観、あるいは年代観に立脚して職務を遂行しているのか。
(二十四) 再質問主意書に対する答弁書では、「「日本書紀」には神武天皇陵の築造年次に関する記述は認められない」とあるが、神武天皇陵が現在の地に治定された幕末の文久年間から後、神武天皇陵および周辺の改修・改造や整備の記録があるのではないか。記録物の名称と記録の内容を明らかにされたい。
(二十五) 本年十月一日に提出した質問主意書で、宮内庁が神武天皇陵と治定している「四条ミサンザイ古墳」について、古墳であるかどうかの見解を文化庁に質した。これに対する答弁書(内閣衆質一七六第一号)では、「「四条ミサンザイ古墳」としては周知の埋蔵文化財包蔵地としておらず、その種類区分等は把握していない」と示された。これは「古墳」という文字は使っているものの、古代の埋葬遺跡とは確認されていないということを意味するのか。
(二十六) 再質問主意書において、宮内庁により陵墓や陵墓参考地として管理されている古墳が「国民の追慕尊崇の対象となっている」ことの根拠の明示を求めた。これに対する答弁書は「宮内庁としては、陵墓等には、多くの国民が拝礼等に訪れていると承知している」ことを、その根拠としているが、この中でいう「拝礼等」の「等」は何を意味するのか。
(二十七) 奈良県広陵町の新木山古墳(宮内庁によれば「三吉陵墓参考地」)の発掘調査現場が、本年十一月十二日に関係学会や報道関係者に公開された。広陵町教育委員会は新木山古墳の周濠に当たる部分を同時に調査していると思うが、宮内庁は広陵町教育委員会による調査知見を参考にしながら調査を進めたのかどうか、明らかにされたい。また、宮内庁は調査に際し、広陵町教育委員会との間で何らかの協定を締結したのか。
(二十八) 宮内庁による新木山古墳の調査に際し、宮内庁は調査に従事する作業員の確保のため「三吉陵墓参考地整備工事予定区域の事前調査事業」という件名で一般競争入札を行い、東海アナース株式会社が落札した。入札仕様書の項目の「その他」欄に「調査に従事する作業員は身元の確かな者に限ること」とあるが、作業員を「身元の確かな者」と限定しているのはなぜか。調査場所が陵墓参考地という皇室用財産だからなのか。
(二十九) 本年十月六日、世界遺産条約関係省庁連絡会議は、大山古墳(宮内庁によれば「仁徳天皇陵」)や誉田御廟山古墳(同「応神天皇陵」)等の巨大古墳群から構成される「百舌鳥・古市古墳群」を、世界遺産暫定一覧表に記載することを了承した。これは大阪府等の関係自治体が文化庁に提案し、検討した文化審議会から「基本的な条件に関する課題が存在」し、「課題について一定の見通しが示された段階で、世界遺産暫定一覧表に記載することが必要である」との判断が下されており、もともと暫定一覧表には記載されていなかったものが、このたび了承されるに至ったものである。文化審議会が示していた「課題」とは何だったのか。すべて明らかにされたい。
(三十) 文化審議会が示していた課題について、すべて解決し問題はなくなったのか。また、どのような議論や検討を行い、関係省庁連絡会議は了承に至ったのか。議論・検討の過程を課題ごとに詳述されたい。
(三十一) 百舌鳥・古市古墳群には、大山古墳や誉田御廟山古墳以外にも宮内庁が陵墓や陵墓参考地として管理する古墳が多数存在する。宮内庁は「陵墓や陵墓参考地は現に皇室により祭祀が継続して行われ、静安と尊厳の保持が最も重要」という理由で、立ち入りや学術的調査でさえ頑迷に拒んでいる。しかし、実際に世界遺産に登録されるまでには、ユネスコからの諮問を受けて審査を行う国際記念物遺跡会議(イコモス)による現地審査を経る必要がある。イコモスによる専門的観点からの現地審査に当たり、陵墓に治定されている古墳も対象に公開し、審査を受けることは当然と考えられるが、どう対応するのか。
(三十二) 古墳の被葬者は学術的にも不明であるにもかかわらず、大阪府等の関係自治体が提出した「世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書」は、大山古墳を仁徳陵古墳、誉田御廟山古墳を応神陵古墳、石津丘古墳(ミサンザイ古墳)を履中陵古墳などと表記している。あたかも当該古墳の被葬者が皇室の祖先で、しかも名前まで判明しているかのごとき記述である。これは宮内庁による陵墓の治定に沿ったものだが、戦前までに宮内省(当時)が行った陵墓の治定は科学的根拠に基づかないもので学術的には全く不正確であり、世界に対し大きな誤解を与えることとなる。政府はユネスコやイコモスに対し、百舌鳥・古市古墳群を構成する古墳の被葬者が、宮内庁による陵墓の治定どおり皇室の祖先で、しかも名前も判明した人物が埋葬されているものと説明し、世界遺産登録をめざすのか。また、世界遺産としての評価結果を得ようと考えるのならば、政府は宮内庁による陵墓の治定を抜本的に見直さなければならないのではないか、あわせて質問する。

 右質問する。



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