平成27年6月11日(木)(第4回)

◎会議に付した案件

日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件(憲法保障をめぐる諸問題(「立憲主義、改正の限界及び制定経緯」並びに「違憲立法審査の在り方」))

自由討議を行った。

◎自由討議

●各会派の代表者からの意見表明の概要

高村 正彦君(自民)

  • 最高裁判所が下した判決こそ、我々がよって立つべき法理であり、この法理を超えた解釈はできない。
  • 砂川判決は、個別的自衛権の行使は認められるが集団的自衛権の行使は認められないとは言っていない。当時の最高裁判事は集団的自衛権という概念が念頭になかったとの主張もあるが、同判決の中で国連憲章は個別的自衛権と集団的自衛権を各国に与えていると明確に述べているので、この主張は誤りである。
  • また、同判決は、我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものについては、一見極めて明白に違憲無効でない限り、内閣及び国会の判断に従うとしている。安全保障について、どのような方針のもと、どのような政策をとり、それを具体化していくかは、内閣と国会の責任で取り進めていくものである。
  • 確かに、47年見解及びその後の政府見解などでは、その時々の安全保障環境に当てはめて集団的自衛権は「必要な自衛の措置」に入らず行使できないとしているが、安全保障環境が大きく変化している中で、「必要な自衛の措置」とは何かについて、政府、国会が不断に検討していく必要がある。
  • 現行法では、朝鮮半島有事で我が国のために活動する米艦が攻撃されていても、我が国に対する攻撃がない限り、この米艦を助けることはできない。このままでいいはずはない。
  • 最高裁は、9条の規定にもかかわらず、「必要な自衛の措置」はとり得るとしており、何が必要な措置かは時代によって変化していく。実際の政策は、最高裁の判決で示した法理のもと、内閣と国会に委ねられているのであり、過去の安全保障環境を前提にした当てはめ部分にまで過度に縛られる必要はない。
  • 政府は、必要なプロセスを踏まずに暴走しているわけではない。閣議決定によって内閣で意思を統一し、国会に法案を提出して、十分に審議する、そして法律に従って政策を実行するというのがプロセスとして最も正当かつ真っ当なものである。したがって、立憲主義に反するという批判は全く的を射ない。
  • 前回の審査会において3名の参考人は、砂川判決に言及していなかった。したがって、砂川判決の法理を否定しているのか、この法理の枠外にあると言っているのか、判然としない。憲法学者と違い、政治家である我々には憲法遵守義務があり、最高裁で示された法理に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために「必要な自衛の措置」について考え抜く責務がある。
  • 昭和29年の自衛隊創設時も、ほとんどの憲法学者は自衛隊は憲法違反だと主張していた。憲法学者の言うとおりにしていたら、今も自衛隊はなく、日米安全保障条約もない。先達の政治家の大きな常識のおかげで、自衛隊や日米安全保障条約が抑止力として働いて、平和と安全を維持してきた。
  • 平和安全法制は違憲との意見があるが、先般の閣議決定における憲法解釈は、我が国を取り巻く安全保障環境の大きな変化を踏まえて、砂川判決の法理のもとに、かつ、これまでの憲法解釈との論理的整合性と法的安定性に十分留意して、47年見解などの従来の政府見解における9条の解釈の基本的な論理、法理の枠内で、合理的な当てはめの帰結を導いたものである。すなわち、これまで、集団的自衛権は十把ひとからげに認められないとしてきたものを、集団的自衛権にもいろいろあって、その一部は必要な自衛の措置に当たるものもあると言っているだけである。
  • (9条の下で許容される)武力の行使は、国際法上、集団的自衛権の行使に該当するもののうち、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られる。基本的論理は維持されており、それぞれの安全保障環境の下で当てはめた帰結が異なるだけである。したがって、合理的な解釈の限界を超えるような便宜的、意図的な憲法解釈の変更ではなく、違憲であるという批判は全く当たらないということを改めて強調したい。
  • 憲法の番人は、憲法学者ではなく最高裁であって、それを否定する人がいれば81条に反し、立憲主義をないがしろにするものであることを付言しておく。

枝野 幸男君(民主)

  • 国会運営が著しく不正常になっていること、特に厚生労働委員会の審議について強く抗議する。
  • 前回の審査会の参考人はいずれも憲法学界を代表する学者である。その参考人が揃って安保法制について憲法違反であると述べたことは、重大なことである。これを軽視したり無視したりしようとする声が出ていることは国会における参考人質疑そのものを軽視するものであり、国会議員自らがそのような発言することは天に唾するものである。
  • 長谷部教授は、自民党の推薦に基づく参考人として招致した。安保法制に対する意見は結果的に自民党と異なっていたとしても、招致したテーマである憲法保障をめぐる諸問題、つまり立憲主義等に関しては意見を聴取するにふさわしい専門家であると自民党も判断したということだ。そして、定着した憲法解釈の変更という安保法制の問題点は、招致したテーマの中心である立憲主義との関係で憲法適合性が問われているものである。立憲主義について自民党も傾聴に値すると判断した参考人から、立憲主義違反との指摘を受けたということは、自民党自身が重く受けとめるべきである。
  • 長谷部教授は、一部マスコミから、自民党の御用学者と表現されたことがある。特定秘密保護法の審査に際し、自民党推薦の参考人として同法に賛成の意見を述べたことなどが、こうした失礼な表現の背景にある。つまり、同教授は、自民党と異なる特別なイデオロギーや政治性を持っている方ではなく、憲法学の専門的、客観的見地から正しいと判断されれば、自民党の進める政策を支持することを含め、中立厳正に意見を述べてきた方であり、自民党寄りとの誹謗があっても学者としての信念に基づき、筋を通してきた方である。
  • 小林教授は、9条について早くから改正の必要性を強調していた。その小林教授が今回の安保法制を違憲だと明言している。
  • 要するに、たまたま招致した3人の参考人が違憲と発言したわけではなく、中立的で、むしろ自民党の考え方に近いとすら受けとめられている方が少なくとも2名も含まれている中で、一致して憲法違反との指摘を受けたのである。
  • 自衛隊発足当時から憲法学者の間では自衛隊違憲論が多数であり、最高裁はそれらの学者の意見を採用してこなかったとの指摘がある。また、現状においても憲法学者の間では自衛隊違憲論が多いとして、自分たちとは基本的な立場が異なるという発言もある。しかし、そもそも自衛隊発足時の違憲論は、日本国憲法が制定されて9条についての解釈が確立する前のいわば白地での議論であった。これに対し、今回の参考人の意見は、いずれもこれまでに積み重ねられ定着している政府の憲法解釈を前提として、集団的自衛権の行使容認などが憲法違反であると論理的に指摘をしている。つまり、参考人の意見は自衛隊合憲論を前提としており、その限りで私たちとも自民党とも基本的な立場は一致している。
  • 憲法解釈が白地の状況では、条文の文言に基づき、どのような規範を導くのかということが問われる。このような場合には、法論理の問題だけにとどまらず、一定の価値判断が含まれ、政治性を帯びることも避けられない。すなわち、条文と齟齬を生じない限り、新たな規範の定立に向けた政治判断、価値判断が加わることは、この時点ではあり得ることである。当時の公権力が、法論理の専門家である学者の意見を参考にしながらも、政治的価値判断を踏まえ、当時の多数意見とは異なる結論を導いたことにも一定の正当性がある。これに対し、今回の参考人の指摘は、既に確立した解釈、つまり一定の規範を前提に、論理的整合性がとれないことを専門的に指摘するものである。論理的整合性は、政治性を帯びる問題ではなく、純粋法論理の問題であり、政治家が政治的に判断できることでなく、専門家に委ねるべき問題である。論理の問題と一定の価値判断、政治判断が含まれる問題との峻別もできないのでは法を語る資格はない。
  • 集団的自衛権の行使容認の論拠として砂川判決を引っ張り出し、かつ、憲法判断をするのは学者でなく最高裁であるとの主張がある。言うまでもなく、砂川判決で論点になっていたのは個別的自衛権行使の合憲性であり、集団的自衛権行使の可否は全く問題となっていない。そこで示された論理はあくまでも個別的自衛権行使の可否に関するものであり、その論理の一部をもって集団的自衛権行使が可能であると導くのは、判例の捉え方に関する法解釈学の基本に反するものである。
  • 政府が示すように、砂川判決の論理から集団的自衛権行使容認を導き得るのなら、砂川判決の後も政府が一貫して集団的自衛権行使は憲法上許されないとしてきたことをどう説明するのか。最高裁判決では容認されていた集団的自衛権行使を、内閣の判断でできないとしてきたのか。
  • 政府は、集団的自衛権行使の一部を容認することが最近の安全保障環境の変化によって自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要になったと発言しているが、つじつまは合わない。仮に最近の環境変化で集団的自衛権行使の一部容認の必要性が生じたのだとしても、これまでも法論理上は集団的自衛権の行使は可能であったはずである。これまでの間の説明も、砂川判決に基づき、集団的自衛権の行使は法理論上は合憲であるがその必要がないので行わないと言ってこなければおかしかったはずである。
  • 砂川判決という自衛権に関連する唯一の最高裁判例は、集団的自衛権行使を容認したものでは全くない。しかも、その判決がありながら集団的自衛権行使はできないという政府見解が積み重ねられたという事実を踏まえれば、砂川判決は、集団的自衛権行使容認が憲法違反であるということの補足理由にはなっても、行使容認には到底結びつかない。
  • 全く論理性のない批判が参考人に対してなされているが、戦前の失敗の分かれ道の一つとなった天皇機関説排撃運動について指摘したい。すなわち、昭和10年、明治憲法において通説であった天皇機関説に対し、国会内外での排撃運動が燃え盛り、美濃部達吉東京帝大教授の著書『憲法撮要』が頒布禁止処分になり、憲法という観点からは道を誤るきっかけの一つとなった。
  • 私は、明治憲法が悪い憲法であったとは思っていない。明治憲法は、当時の世界の状況の中では、昭和初期までの適切な運用が続いていれば、相当程度評価できる憲法であった。ところが、天皇機関説批判で、専門家でもない人たちが政治的思惑や感情論で憲法解釈の通説を排撃し、解釈を恣意的にゆがめ、その結果、その後の統帥権独立の拡大解釈などへとつながり、国を滅ぼす一歩手前まで進んだのである。今回の騒動も、当時と同様に専門家の論理と学識を政治家などが一方的に無視し、論理になっていない論理をごり押ししようとするものであり、同じ過ちにならないことを危惧するものである。
  • 安倍総理は、海外において法の支配を強調しているが、国内において法の支配とは、法に基づかない権力行使を行わないということにほかならない。そして憲法は、権力が守らなければならない基本中の基本となる法である。その解釈を、専門家の指摘も無視して一方的に都合よく変更するという姿勢は、法の支配とは対極そのものである。
  • 国際社会において法の支配を軽視し、力による現状変更を進めるロシアや中国を強く非難するのは当然であるが、その本人は、国内ではロシアや中国と同じように法の支配を無視しているということを指摘せざるを得ない。まさに同じ穴のムジナであるということを申し上げる。

井上 英孝君(維新)

  • 先週の参考人質疑は大変興味深く、我々の議論にとって多くの示唆を与えてくれた。
  • 現行憲法の制定過程に関して、GHQの影響下で作られたという事実は当然承知している。しかし、我が党内の議論では、戦後70年が経とうとする現在、押しつけ憲法論のような制定経緯に関する議論を行っても生産性がないとの意見がある。
  • 我が党は、効率的で自律分散型の、時代に合った統治機構を確立する統治機構改革を憲法改正によって実現することを党の基本政策に掲げている。
  • 日本は今、経済のグローバル化と大競争時代の中で、新陳代謝が遅れ、国力が停滞あるいは弱体化し、国民は多くの不安を抱えている。我が国がこの閉塞感から脱却し、国民の安全、生活の豊かさ、伝統的な価値や文化などの国益を守り、かつ国の将来を切り拓いていくためには、統治機構改革によりこの国の形を変える必要がある。
  • 私たちは、制定経緯における事実は事実として重く受け止め、統治機構改革によりこの国の形を変えるべく、憲法改正に向かって進んでいく。
  • 立憲主義と関連して、前回の参考人質疑で3人全員から現在審議中の安保法制は違憲との発言があった。我が党は、限定的集団的自衛権の中に、実質的に個別的自衛権といって差し支えないものが含まれていると考える。すなわち、自衛権は、自国に対する武力攻撃が発生したか否かで個別的、集団的を区別したため、日本政府は、個別的自衛権の行使のみを合憲と解釈してきた。一方、瞬時の対応を必要とする弾道ミサイルへの対処に関しては、しかるべき根拠があって、我が国に飛来する蓋然性が相当に高いと判断される場合には、我が国が武力攻撃を受けていない状況下であっても、自衛権を発動して迎撃することが許されるとしてきた。したがって、仮に我が国が武力攻撃を受けていない状況下で、我が国に戦火が及ぶ蓋然性が相当に高く、国民が深刻な犠牲を被ることになる場合には、自国と密接な関係にある他国に対する攻撃を我が国の武力行使によって排除することは、従来の憲法解釈の範囲内として許容されると考える。
  • しかしながら、現在審議が行われている政府提出の安保法制は、例えば存立危機事態の想定事例として政府が挙げているホルムズ海峡における機雷除去について、我が国に戦火が及ぶ蓋然性が相当に高いとはいえないのではないか、また、重要影響事態における後方支援のうち、弾薬の提供や戦闘行為のために発進準備中の航空機への燃料補給などについては、武力行使の一体化と解される可能性があり、これらの点について憲法上疑義なしとはしない。
  • 我が党は、安保法制への対応をまだ決めていないが、これまでの政府の説明に疑問が残る中、さらに十分な説明が必要である。また、審査会においてもこのような議論が続けられている中、何らかの決着をつけるべきであり、是非とも提案をさせていただきたい。
  • 憲法81条で憲法の最終的な有権解釈権は最高裁に与えられている。しかし、最高裁は付随的違憲審査制をとっており、具体的な訴訟がなければ違憲審査を行うことができないなどの制約もあって、現在、違憲審査制度において積極的な役割を果たせているとはいえない。そのために、今回のような一内閣の恣意的な憲法解釈の変更により、これまで運用してきた憲法解釈が覆されて法的安定性が損なわれることになる。裁判所の持つ憲法解釈の権限は、きちんと行使されるべきである。
  • 我が党は、抽象的な憲法解釈の権限を有する憲法裁判所の設置を主張している。しかし、現行の裁判所制度と全く異なる制度を導入するためには憲法改正が必要であり、相当程度の検討時間が必要になる。そこで、同時に現行81条を活用して、違憲立法審査制度を活性化させることも一案である。
  • 前回の審査会で笹田参考人から、「特別高裁の制度」及びカナダの「照会制度」が紹介された。特別高裁の制度は、最高裁の上告審としての負担を軽減し、違憲審査に集中できる環境を整えるものであり、照会制度は政府が最高裁に法律などの憲法解釈に関する勧告的意見を求めるものである。これらは、いずれも憲法改正を必要とせず、法律により現行の違憲審査制の改善を図るものであり、検討に値する。
  • 立憲主義に関連し、憲法96条の改正手続について述べる。憲法保障の観点からは硬性憲法であることが重要といわれる。しかし、我が国の憲法改正手続は、これまで憲法審査会でも再三議論になったように、衆参各院の3分の2の賛成に加えて国民投票を必要とするという、諸外国と比べても最も厳しい部類に属する、硬性の中でも硬性な憲法である。その結果として、我が国は現行憲法制定後70年近く、憲法改正を一度も経験しておらず、国民が憲法について自ら判断する機会を一度も持つことができなかった。このため、我が党は、憲法改正の発議要件を緩和することを提言している。
  • 前回の参考人質疑で、過去に96条改正は「裏口入学」であるとの発言を行っていた小林参考人に対し、この点を問うたところ、「裏口入学」とは、96条の改正自体を指していたのではなく、あまたある憲法改正事項のうち、まず96条から改正しようという政治的な姿勢を批判しようとして発言したものであり、96条改正自体は選択肢の一つであるとの意見であった。
  • 憲法保障をめぐる諸問題をはじめとする憲法改正に向けた議論の深堀りを進め、国民が直接判断できる機会を早急に整えていくべきである。

北側 一雄君(公明)

  • 我が国の防衛は、主に自衛隊と日米安保条約に基づく米軍との二つの実力組織によって確保されているが、日米安保条約に基づいて我が国を防衛するために公海上で警戒監視活動をする米艦に対して武力攻撃があった場合に、我が国への武力攻撃がない前提で、これへの対処がどこまで可能であるかは明らかでない。
  • これについては、@個別的自衛権では対処できず、米艦への武力攻撃を排除できない、A個別的自衛権で対処できる、B個別的自衛権での対処は困難な場合が多く、国際法上は、集団的自衛権を根拠として米艦への攻撃を排除すべき、との三つの立場が考えられる。@では日米防衛協力体制を維持できるのか、Aは、我が国領海内ではなく、公海上で活動する米艦船への攻撃が我が国に対する武力攻撃の着手と評価できるか、一般的には疑問を抱かざるを得ないし、Bは、国連憲章51条に定めるフルサイズの集団的自衛権の行使を9条が許容しているとは、とても考えられない。
  • 9条の下で許容される自衛の措置の限界はどこであるか、これが昨年7月1日の閣議決定に至る与党協議の最大の論点であった。
  • 高村委員が指摘した砂川判決は、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」と述べており、9条と自衛権の問題について触れた唯一の最高裁判決であるが、その後、最高裁は、この問題を判断することなく、また、憲法学界においても、9条と「自衛の措置」の限界について突き詰めた議論がなされたとは承知していない。この問題は、専ら、国会と政府の間で議論が重ねられ、政府見解が形成されてきたのである。
  • 数ある政府見解のうち、この問題について最も論理的かつ詳細に論じているのが、47年見解である。47年見解は、その第三段落で「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない」と、砂川判決と同様のことを述べた後、「しかしながら、」との接続詞を用いた上で、「だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである」と述べている。この部分が、9条の下で許容される「自衛の措置」についての法理・規範に当たると考える。
  • 47年見解は、この法理・規範の後に、「そうだとすれば、」とした上で、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と結論付けている。この部分が、法理・規範を当てはめた部分である。これについては、現在の安保環境からすれば、未だ我が国に対する武力攻撃に至っていなくとも他国に対する武力攻撃があり、これによって国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態があり得るとの認識を私どもは共有した。私どもはこの認識の下で新3要件を提案し、昨年7月1日の閣議決定に盛り込まれ、今般の安保法制にも明記されている。
  • 新3要件の意味については、@第一要件の「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」は、「武力を用いた対処をしなければ、国民に、我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況であるということ」をいうとの国会答弁がなされ、その判断要素として五つの要素が挙げられた。A第二要件については、「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものではないということを明らかにしている」との国会答弁が、B第三要件については、「我が国の存立を全うし、国民を守るため」とある第二要件を前提とした、我が国を防衛するための必要最小限度ということ」であると国会答弁が、それぞれなされている。
  • このように、新3要件は、従来の政府見解の基本的論理を維持し、かつ、それを現在の安保環境に当てはめて導き出したものであり、また、その意味については、総理と内閣法制局長官がこの1年にわたって先の答弁を繰り返しており、長谷部参考人の「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」「新3要件の意味が不明確」との批判は、全く当たらない。
  • 私どもは、冒頭に述べた米艦防護の事例は、この新3要件に該当する可能性が高いと考えている。また、個別的自衛権の行使であっても、「着手」の意味は一義的に明らかではなく、長く国会で議論されているのである。
  • 我々国政に携わる者は、現下の安保環境をどう認識するか、その上で、国と国民を守るため、どのような安保法制整備が必要か、その際に憲法との適合性をどう図るかといった議論をまずしなければならない。今後の建設的な議論を期待する。

赤嶺 政賢君(共産)

  • 前回の憲法審査会で、参考人全員が、現在平和安全特別委員会で審議中の安保法案は憲法違反であり、昨年7月の閣議決定で憲法解釈を変更したことは立憲主義に反すると指摘したことは極めて重要である。先日、長谷部参考人などは、@集団的自衛権の行使は憲法違反であり、従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかず、法的な安定性を大きく揺るがすものである、新たに許容される武力行使の範囲も不明確である、A後方支援については、外国の武力行使との一体化そのものである、B閣議決定から法案提出に至るまで、政府の憲法解釈の変更は立憲主義にもとる、C日米安保条約は、日米が一緒になって世界の警察をするという話ではない。条約本体が変わっていないのにガイドラインにより広げることは筋違いであり、安保条約の取り決めからも逸脱している、との指摘をした。
  • 参考人の意見に対する6月9日の政府の見解は、閣議決定以降繰り返してきた説明の書き写しであり、全く反論になっていない。政府の見解は、集団的自衛権の行使容認について、我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けていることを唯一の根拠として、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、海外で武力行使ができるというものであるが、「明白な危険」の判断基準は何もなく、政府の一方的判断でできるものとして、参考人の指摘に対する反論になっていない。
  • 日本国憲法は侵略戦争への反省に立って、9条で戦争の放棄、戦力不保持、交戦権の否認を規定し、徹底して非軍事、平和主義をとっており、海外で戦争するようなことは決して認められないものとしている。ところがアメリカの再軍備要求に基づき、自衛隊が創設され、9条に矛盾する日米同盟の現実が作られてきた。歴代政府は、自衛隊は日本防衛のための必要最小限度の実力組織であるから合憲であり、海外派兵はできない、集団的自衛権の行使はできないとしてきた。それが1972年(昭和47年)見解であり、国会で歴代政権が積み重ねてきた答弁でもある。したがって、今回の戦争法案のように、我が国が攻撃されてもいないのに日本が武力行使できるというような解釈は、どこからも導き出せない。しかも重大なことは、存立危機事態において、日本を攻撃していない国に対して日本が武力行使を行うこととなれば、その国との間に新たに武力抗争を発生させることとなる。これはまさに9条1項で禁止された、国際紛争を解決する手段として武力を行使することにほかならない。また、集団的自衛権行使を認めて、まさに他国防衛となる海外派兵を可能とし、他国防衛のための軍事的実力を持つことが9条2項に反することも明らかである。全ての参考人が違憲としたのは当然である。
  • 憲法学者の厳しい指摘を受け、安倍総理は、今回の法案は砂川判決と軌を一にするものとして、憲法違反ではないと強弁した。砂川判決は、駐留米軍が9条2項の戦力に当たるかが問題となったものだが、10日の平和安全特別委員会では、内閣法制局長官は、同判決が集団的自衛権について触れておらず、また政府の引用する部分が先例として拘束性を持つものではない傍論部分であることを認めた。しかも砂川判決は、最高裁が統治行為論により憲法判断を避けたものである。その背景には、日本の裁判所と政府に対するアメリカからの圧力があり、司法の独立も国家主権も損なわれた状態で出された対米従属の判決だったことが、アメリカ政府の文書等で判明している。このような判決を根拠に、最高裁も集団的自衛権を認めているかのような主張が、立憲主義にもとると参考人から指摘されるのは当然である。
  • 安倍総理は、日米安保と自衛隊が戦後の平和を守ってきたと主張する。しかし実際は、日米安保によって日本は、アメリカの起こしたベトナム戦争では出撃基地となり、イラク戦争では海外の米軍支援を行い、偽りの口実で国際法にも違反するアメリカの戦争に加担してきた。安保条約をも超える新ガイドラインの下で、平時からの日米一体化を進め、辺野古への新基地の建設をはじめとする基地強化を進めようとしている。今必要なのは9条の根本に立ち返ることである。9条を事実上なきものとする戦争法案によるアメリカの戦争を支援する国家づくりは許されない。明確に憲法違反であるこの法案は廃案にすべきである。

園田 博之君(次世代)

  • 立憲主義は、専断的な権力を制限し広く国民の権利を保障する思想である。国家の任務は、個人の権利、自由の保障である一方、その任務を果たすためには強大な権力を持つ国家から個人を守らなければならず、国民の権利を保障することが立憲主義の目的である。その背景には、様々な価値観、世界観を抱く人々の公平な共存を図るという考え方がある。
  • 昨年7月の閣議決定は、法整備のための方針を決定したにすぎず、具体的な国民の権利義務にかかわる事項は、法律により定められるので、最終的には国会審議のレベルで立憲主義の手続的な側面が担保される。
  • 我々は、日本維新の会時代の昨年4月、集団的自衛権について「他国に対する攻撃が、同時に我が国の平和安全に重大な影響を与える事態である場合に、自国及び自国民防衛という目的のための必要最小限度の実力行使を認めることも日本国憲法の許容するところである」という、いわば政府の閣議決定を先取りする内容の見解をまとめている。政府案は、自民党と公明党との協議の結果、我々の見解より抑制的な形になったものと推察しているが、現在審議中の安保法制については高く評価している。
  • 前回の審査会で参考人が平和安全法制について違憲と発言した理由は、@従来の政府見解の基本的な論理の枠内におさまっていない、A武力行使の許容基準が不明確で法的安定性を揺るがす、ということであった。
  • しかし、9条と13条とを整合的に解釈すると自衛権行使が認められるのは当然であること、現在の国際情勢、安全保障環境下では我が国に直接の攻撃がなくても、密接な関係にある国に対する攻撃が我が国の平和及び安全に重大な影響を与える場合に自国及び国民防衛のための集団的自衛権を認めることは、国民の生命・安全を守るために必須であることから、これは憲法に違反せず、従来の政府見解とも整合すると考える。また、我が党の見解は、被攻撃国からの支援要請に関する詳細な要件や内閣の判断と国会承認などの厳格な六重の要件を設けており、法的安定性を害するものではない。
  • 我が党の見解では、内閣による憲法解釈変更に対する裁判所による統制について、政治から独立した裁判所による統制の充実強化を強調しているが、これは、笹田参考人の憲法保障のためにはクールに判断する部門が必要という意見に応えるものである。
  • 我が党の見解では、通常の司法審査とは異なる形で、抽象的な合憲性審査を行う機関としての憲法裁判所の設置、あるいは最高裁判所憲法部を提言している。この提言について、憲法審査会での積極的な検討を期待する。その際、憲法裁判所の裁判官には従来の司法裁判所とは全く異なる能力が求められることを踏まえた制度設計が必要である。

●委員からの発言の概要(発言順)

船田 元君(自民)

  • 前回の審査会のテーマの一つは「立憲主義」であったので、平和安全法制等の議論があることは想定内である。しかし、憲法審査会は「政局にとらわれずに憲法の議論を深化させる」ことを運営方針の一つにしており、そこから若干ずれている感じは否めない。審査会として、運営の在り方、ルールを再確認し、冷静な環境下で憲法論議が深化するように、各党が努力しなければならない。
  • 立憲主義について、長谷部参考人は、憲法の内容として、普遍的価値(民主主義、基本的人権等)とともに固有の理念(天皇制等)を認めるべきであると述べた。つまり、憲法は、権力を縛り付けるためだけのものではなく、我が国固有の理念を一定の範囲で書いていくことも容認したものと受け止めている。
  • 制定過程について、押しつけ憲法論のみをもって議論するのは生産的ではなく、現状から憲法を議論すべきだとの小林参考人の意見には共感する。
  • 違憲立法審査について、笹田参考人からは、我が国のような司法審査型では、抽象的な憲法判断はほとんど不可能に近いため、@具体的裁判を扱う特別高等裁判所を設置し、最高裁は抽象的規範統制のできるいわゆる憲法裁判所とする、Aカナダで採用されている、政府が最高裁に勧告的意見を求める制度を導入する、といった大変興味深い提案を頂いた。
  • 昨年7月1日の閣議決定の在り方及び平和安全法制は、切れ目のない安全保障体制を確立し抑止力を強化するものであり、現行憲法で認められる専守防衛の範囲をいささかも超えるものではない。

長妻 昭君(民主)

  • 憲法の解釈はどこまで許されるのかについて、いい議論ができていると思う。
  • 高村委員が指摘した砂川判決を読んでも、法的効力のある部分として、我が国が集団的自衛権の行使を認めているという記述はない。北側委員に、判決のどの部分に集団的自衛権行使容認の記述があるのか具体的にお尋ねしたい。
  • 前回の審査会で与党が参考人として推薦した長谷部教授も、新聞記事で砂川判決に触れ、「素直に読めば個別的自衛権の話だ。判決で集団的自衛権の行使が基礎づけられるという学者は私が知る限りいない」と発言している。また、別の新聞記事においても、「砂川判決から憲法上集団的自衛権が行使できるとする結論は無理がある。判決で認められるなら今までの政府見解に反映されたはずだが、そうなってはいない」と発言している。
  • 平和安全特別委員会の10日の共産党議員の質疑において、内閣法制局長官も、集団的自衛権について、砂川判決で触れられているわけではないと明確に答弁している。
  • 高村委員から、憲法学者は自衛隊も違憲であるとしている旨の発言があったが、長谷部教授は私が文献等を読む限り自衛隊を違憲とは発言していない。また、高村委員から、すぐ近くで攻撃を受けている米艦船に何もできなくていいのかとの発言もあったが、これは非常に誤解を受ける発言だと思う。我が国には周辺事態法があり、あるいは「着手」という概念もある。「着手」については、平成15年5月16日に秋山内閣法制局長官が「我が国を防衛するために出動して公海上にある米国の軍艦に対する攻撃が、状況によっては我が国に対する武力攻撃の端緒、着手と判断されることはあり得る」と答弁している。
  • 今回容認しようとしている集団的自衛権は、限定的とされているが、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態」から守るための行使ということであれば、限りなく個別的自衛権の着手と重なると考える。この点については、個別的自衛権の拡大解釈ととられかねず、国際法上許されないという話もあったが、米国やイギリスをはじめ、個別的自衛権を我が国よりも幅広く考えている国もある。海外にある米国大使館に対する攻撃をもって、個別的自衛権を行使可能と考える国もある。
  • 47年見解は、まず第二段落で、我が国は集団的自衛権を行使し得ないとの結論を述べている。その理由付けとして、第三段落が1〜3ブロックに分かれている。政府は、結論の下にある理由付けから話を始め、第三段落の1・2ブロックは基本的規範で変更せず、これに基づいて3ブロック目が導き出されると発言していた。しかし、この規範であるところの「外国の武力攻撃」という文言が、当時は我が国に対する武力攻撃であったが、今度はこれが密接に関係する他国も含まれるということを私の質疑において内閣法制局長官も認めており、規範の部分も変更されている。これは到底許される憲法解釈ではないのではないか。

古屋 圭司君(自民)

  • 先週のG7首脳宣言、アキノ・フィリピン大統領の本会議演説は、昨今の安全保障環境の大きな変化を象徴している。また、北朝鮮の核開発及びミサイル配備は大きな日本の脅威である。
  • 安全保障環境の大きな変化に切れ目なく対応するために、極めて厳しい新3要件の下、現行憲法の枠内において限定的に必要最小限度の範囲で集団的自衛権を認めようとするのが、現在審議中の平和安全法制である。これは、政府が日本国民の安全・生命を守る責務を遂行するためのものである。
  • 前回の審査会で、長谷部参考人は従来の政府見解では集団的自衛権の行使は説明がつかない旨の主張をしたが、憲法の条文の枠内で政府見解が変更されたことは過去にも例があり、憲法の条文の枠内で限定的に必要最小限度で集団的自衛権を認めるのであれば憲法違反に当たらないのではないか。
  • 国連憲章及びサンフランシスコ講和条約は、我が国に無条件で集団的自衛権を認めている。他方、9条は集団的自衛権の保持も行使も禁止していないため、我が国が主権国家に認められた集団的自衛権を保持し行使し得ると解釈するのが自然で、行使に当たっては9条2項の制約を受ける。
  • 国内法の正当防衛権に照らして考えれば、集団的自衛権と個別的自衛権は、不即不離の関係にあり、切り離して考えることは不自然である。
  • 憲法解釈には有権解釈と私的解釈がある。前者は最高裁判決、国会での議論の蓄積・決議及び政府見解があるが、81条から最高裁判決が最も重要な意味を持つ。後者は憲法学者など学識経験者によるものであり、それに耳を傾けることは大切であるが、国家機関に対する拘束力を持つのは有権解釈である。したがって、憲法学者が違憲と発言したから廃案にせよという論理は成り立たない。
  • @「自衛権」を認めた砂川判決が、駐留米軍と旧安保条約の合憲性を問うたものであること、A集団的自衛権と個別的自衛権とが不即不離の関係にあること、を考慮すると、同判決は両者を併せて「自衛権」として認めていると理解できる。
  • 砂川判決が「集団的」という文言を用いていないことから集団的自衛権を認めたものではないとする主張は、同判決は「個別的」という文言も用いていないため、判決の「自衛権」が何を意味するのか、という疑問だけが残る奇妙な結論になる。

吉村 洋文君(維新)

  • 審査会では、我が党も含めて少数政党にも平等に発言の機会が与えられている。その趣旨は平穏な環境の下で憲法論議を行うことにあると考えるが、本日の審査会は、今般の安保法制に係る法案が違憲であるとの先週の各参考人の発言を受け、マスコミの報道も続く中で開催されており、かつ、議論の中心がその点に据えられつつあることに懸念を覚える。特別委員会が設置されているのだから、集団的自衛権行使を含む法案の是非に関する議論はそちらで行われるべきであり、審査会は憲法の在り方を論議する場であるべきだ。
  • 我が党は憲法裁判所の設置を主張しているが、前回の参考人の意見を聴き、その必要性を強く感じている。最終的な違憲審査権は最高裁にあるが、その権限は十分に機能していない。その機能を高めなければ、今回の安保法制に係る騒動と同様のことが今後も続くことになってしまう。笹田参考人が指摘していたように最高裁は上告事件の処理に忙殺されており、実質的には憲法判断を行えない状態にあるので、上告理由を憲法判断に関する事項に限定するなどして最高裁の違憲審査機能を高めるべきであり、さらに、憲法裁判所を設置すべきであると考える。

辻元 清美君(民主)

  • 今、国民から政府が便宜的、意図的に憲法解釈をしようとしているのではないかという声が上がっている。その根拠として砂川判決及び47年見解を持ってくることは、便宜的、意図的ではないのか。砂川判決について、半世紀以上にわたる集団的自衛権を巡る議論で、高村委員のような読み方が前提にされた形跡は一切ない。もしそうであれば、政府は、最高裁が合憲と言っている集団的自衛権を違憲であると強弁し続けてきたことになる。
  • 周辺事態法制定当時の議論では、集団的自衛権の行使は部分的にも全体的にも認められないため、武力行使と一体化しないところに自衛隊を派遣するとするのが政府答弁であった。砂川判決が集団的自衛権の行使を認めるということであれば、なぜ当時外務大臣であった高村委員はそのような論を展開しなかったのか。安保法制整備の理由として持ってきた論であると言わざるを得ない。
  • 47年見解について、これを基本的論理と当てはめという理解の仕方に変えたのは横畠現内閣法制局長官だということである。しかし、宮崎元内閣法制局長官は、47年見解は個別的自衛権の行使が現行9条のもとでも許されることを述べ、同じ基準の裏返しとして集団的自衛権は認められないと決めたものであり、見解の部分部分を継ぎはぎし、同見解で示された基準は必要最小限度の自衛の措置かどうかであって集団的自衛権がそれに該当するかどうかは事実の当てはめの結果にすぎないなどと強弁するのは、こじつけ以外の何物でもないと主張している。にもかかわらず、今この時期に47年見解を持ち出し法律にまさしく憲法を合わせようとする現政権の姿勢は、立憲主義にもとるものであり、国民の信頼を失おうとしている。
  • 改憲派であった中曽根元総理は、憲法の解釈論は政策論や願望で行えば、総理大臣がかわるごとに憲法の解釈が変わるという危険性があると言っている。現政権は、今後安全保障環境が変化すれば、また当てはめで憲法解釈が変わりうるとしているが、憲法違反の基準がころころ変わるというようなことを審査会は許すべきではない。

平沢 勝栄君(自民)

  • 前回の審査会で3人の参考人が招致され、集団的自衛権行使の一部容認は従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかず違憲である、と主張した。
  • 従来の政府解釈の「基本的な論理」は次のとおりである。第一に、9条は国民の生命、自由及び幸福追求の権利を定めた13条と併せて整合的に解釈すると、自国の平和及び安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置は禁止されていないこと、第二に、自衛権発動としての武力行使も無制限ではなく、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に限って必要最小限度の範囲内で認められること、である。
  • 昭和47年に、政府は集団的自衛権と憲法との関係に関する政府見解を出したが、その中で当時の安全保障環境をこの「基本的な論理」に当てはめ、その結果いわゆる他国防衛のための集団的自衛権行使は認められないとしてきた。当時は、急迫不正の侵害に該当する場合は我が国が直接武力攻撃を受けた場合しか考えられなかったからである。
  • しかし、日本を取り巻く国際情勢はこの40年間に大きく変わった。今回はこの変化した現在の安全保障環境を「基本的な論理」に当てはめ、他国に対する武力攻撃であったとしても我が国の国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される急迫不正の事態に該当する場合があり得る、との結論に至った。
  • 以上のように、今回の憲法解釈の変更は47年見解の「基本的な論理」を一切変えていないため、従来の憲法解釈の基本的な論理との整合性は保たれており、法的安定性を損なうものではない。
  • 3人の参考人が安保法案を違憲としたことは、参考意見として謙虚に傾聴する。しかし、今回の安保法制を合憲と考えている学者も大勢いる。例えば日本大学の百地章先生、駒澤大学の西修先生、日本大学の小林宏晨先生、中央大学の長尾一紘先生、日本大学の青山武憲先生、防衛大学の松浦一夫先生、近畿大学の石田榮仁郎先生、麗澤大学の八木秀次先生、日本大学の池田実先生、東裕先生などの方々は、名前を出すことについて御了解を頂いた先生方であるが、合憲だと思うが名前を出すことは差し控えてほしいという方も大勢いる。
  • 憲法学者の意見には耳を傾けなければならないが、あらゆる法律の憲法適合性の最終判断を行うのは、学者ではなく最高裁である。

國重 徹君(公明)

  • 昨年7月1日の閣議決定によっても、他国の防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使は認められない。新3要件は47年見解の基本的な論理を維持している。
  • 47年見解の根幹部分は、第三段落の第二文で示されている「外国の武力攻撃によって…権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態」に限って自衛の措置が認められていることである。この基本的論理を変えるのであれば、憲法を改正するしかない。
  • 47年見解では、この基本的論理を当時の日本の安全保障環境に当てはめ、「いわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」という結論を出している。
  • 昭和47年から40年以上経ち、我が国を取り巻く安全保障環境は大きく変化している。憲法解釈の基本的論理を維持しつつ、自衛の限界を突き詰めた結果が新3要件であり、従来の憲法解釈の枠内であることは明らかである。
  • 47年見解の第三段落「いわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」という部分が当てはめであることは、文言の違いによっても裏付けられる。すなわち、「同じ事柄は同じ文言で表現しなければならない」という近代法の大原則があるが、第三段落第二文では「急迫、不正の事態」、第三文では「急迫、不正の侵害」と異なる文言を用いており、第二文と第三文には基本的論理と当てはめという分水嶺があると見ることが合理的である。また、第二文の「事態」という文言は第三文の「侵害」という文言よりも意味が広いので、第二文の基本的論理には個別的自衛権以外のものも含まれると考えられる。これは第二文に「わが国に対する」という文言がないこととも整合性がある。
  • 47年見解の基本的論理は、新3要件にしっかりと維持され、従来の憲法解釈との論理的整合性があるということを再度強調したい。

池田 佳隆君(自民)

  • 国家は、独立国家として自国民、領土、領空及び領海を守る固有の自衛権を有している。砂川判決も、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが国がその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」としている。
  • 個別的か集団的かにかかわらず、最高裁は「日本国憲法は自衛のための行為を否定していない」と解釈している。これが違憲審査権を唯一持っている司法裁判所の判断である。
  • 時の政府は、自国民の安全と生存を守るため、当時の世界状況に鑑み、砂川判決に示された憲法解釈を遵守しつつ、9条により否定されている覇権的侵略行為に及ばない範囲で、当時の安全保障環境に見合う、自衛のための必然的かつ極めて抑制的な政府見解を提示してきた。
  • 昨年の閣議決定以前の自衛権に関する政府見解は昭和47年に示されたものである。当時は超大国同士による東西冷戦の最中で、同盟国である米国が絶大な軍事力を保有していたために集団的自衛権の行使を政府見解で認める必要はなかった。それから40数年経ち、東西冷戦構造は崩壊し、国際社会を取巻く安全保障環境は大きく変化し、世界中の出来事が即時に我が国の安全や経済に影響する時代となった。こうした安全保障環境の劇的な変化に鑑みれば、自国が攻撃された場合の個別的自衛権の行使のみで我が国の平和と国民の安全を保持することができないことは、明らかである。
  • 安全保障の要諦は紛争を未然に防ぐことにある。同盟国や友好国との関係をより深め、不測の事態へ万全の備えをすることは、高度に国際化し国家間の結びつきが国際平和に大きく影響する現代において必要不可欠と考える
  • 今ある危機に対峙し、国民の安全と我が国の平和を現実的に守ることが政治家の矜持であり、政治の使命である。
  • 今回の政府見解は、今そこにある危機に対応し、我が国の平和と安全を保持するための日本国憲法の枠内での必然的な憲法解釈であると理解している。
  • 今回政府が世界的にも例を見ない厳しい武力行使への縛りである新3要件を設けたことは、自国の防衛を目的としていない自衛権を日本国憲法が示す理念は許容していないとの政府見解を明らかにしたものであり、かつ、覇権的侵略戦争は絶対に許さないとの従来と変わらない強い覚悟と誓いの表れである。
  • 「二度と戦争をしてはならない、したくない」これは、日本人誰もが持つ信念である。この度の政府見解に基づき平和安全法制を整備することは、その信念を確固たるものとし、我が国の平和と安全を担保する最善策である。

宮崎 政久君(自民)

  • 47年見解は、@9条の下でも自国の平和と安全を維持するための自衛の措置は禁じられていない、A自衛の措置は無限定ではなく、他国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処する場合に必要最小限度でとどまる、という二段階で構成されている。これを受け、これまでは武力行使が許容されるのは我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られる、という当てはめを導いていた。
  • しかし、時代とともに安全保障環境が変化して、他国への武力攻撃であっても、我が国の存立が脅かされることが想定されるようになり、その時に国民を守れないということは認められない。そこで、9条の制約下で従来の見解を踏襲した上で、認められる自衛の措置を導いたものが、昨年7月の閣議決定と今回の平和安全法制である。
  • 47年見解で対象とされていたのは、専ら他国防衛を前提としたフルスペックの集団的自衛権であるのに対し、昨年7月の閣議決定と現在議論されている平和安全法制は、フルスペックは必要最小限度を超えると判断し、あくまでも国民を守るための自衛の措置とし、規範を同一にするために新3要件を示している。
  • 新3要件の第一要件は、砂川事件判決、47年見解と軌を一にしている。昨年7月の閣議決定における新しい安全保障環境の変化の当てはめが、従来の政府見解と整合していない旨の批判がある。しかし、砂川事件判決では、「わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達成するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して、適当と認められるものを選ぶことができる」旨述べられており、9条の下での日米安全保障条約の締結を禁じるものではないことを導いているが、まさに国のありようとして至極当然のことである。
  • 私たちが行っていることは、平成の世でいかなる事態にも国民の命と暮らしを守るための備えを持つことである。新3要件には、従来の政府見解、憲法体系と整合させ、歯止めを定立するということが含意されており、これを共有すべきである。
  • 平和安全法制は、9条の制約及び専守防衛を変更しないまま、法制上の措置を行い、平素の備えをすることで日米安保体制の実効性を高め、日米同盟による抑止力を向上させるものである。その結果、地域の安全保障環境が安定すれば、在日米軍の担いが減少し、結果として沖縄の基地負担が減少し、その整理・縮小が可能となる前提をつくることができる。基地負担の軽減は、立場を問わず沖縄県民の総意であり、政治の使命でもある。

武正 公一君(民主)

  • 憲法審査会には憲法調査会から続く15年の歴史があり、この間、与野党の丁寧な議論が積み重ねられてきた。しかし、第一次安倍政権下では、総理が憲法改正を声高に唱える中で憲法改正国民投票法が強行採決され、第二次安倍政権下では、同じく総理が96条改正を主張したことにより、審査会は影響を受けてきた。
  • 今般、国会として立憲主義などをしっかりと受けとめるとの趣旨から参考人質疑・自由討議を行うこととなったが、並行して昨年7月1日の一内閣による恣意的な憲法解釈の変更に基づく安保法制に係る法案が提出・審議されており、審査会としてもその影響を受けざるを得ない状況だ。
  • 長谷部・小林両参考人が述べたように、立憲主義は、国家権力から国民の権利を守る根本原理であり、硬性憲法であって然るべきであることを指摘したい。
  • 制定経緯については、押しつけであるとの指摘はあるところだが、同時に、制定後70年の間に憲法が果たしてきた役割も踏まえるべきである、との指摘も参考人からなされた。
  • 改正限界については、国民主権が指摘される。先ほど、高村委員が、憲法解釈について政府・国会が担うべき役割に触れていたが、昨年7月1日の閣議決定に至る過程及びその後の過程における国会論議の在り方は不十分なものであり、いかがなものかと思う。
  • 集団的自衛権の行使容認については、47年見解を基に立論することに無理がある。さらに、安倍総理は記者会見でその根拠として砂川判決を持ち出したが、閣議決定に至る与党協議の過程では、同判決は集団的自衛権を視野に入れていないとの慎重姿勢が崩されなかったとも指摘されている。今になって砂川判決に根拠を求めるのは、いかがなものか。
  • 昨年来政府が示してきた15類型、ホルムズ海峡での機雷掃海や邦人避難民が乗った米艦の防護について、個別的自衛権での対処が可能とする小林参考人の意見は傾聴に値するし、日本近海での米艦防護については周辺事態法等での対処も可能であろう。こういった観点も踏まえ、国会で丁寧に議論を行うべきであり、安全保障環境の変化に伴う法制整備と謳う一方で、機雷除去に関する法案は政府から提出されていないことを付言しておく。

田村 貴昭君(共産)

  • 前回の審査会における小林参考人の安保法制案が露骨な戦争参加法案であるとの意見は、そのとおりである。日本と密接な関係にある米国に対する攻撃が発生し、日本が攻撃を受けていないにもかかわらず、時の政府による一方的な判断により自衛隊が海外に出ていって武力行使ができるという安保法制は、明確に憲法に違反するものであり、断じて反対する。
  • 各参考人の意見は、安保法制のそもそも論を国会と国民に提起したものとして大変意義があった。政府は、新聞社説等における安保法制の憲法との整合性に対する疑義を国民の声として受けとめるべきである。
  • 6月9日の政府の見解について、長谷部教授は、従来の政府見解の基本的枠組みでは説明がつかず、法的安定性が損なわれていると述べており、憲法学者も国民も納得させる論拠がないことが明らかになった。
  • 前回の審査会では、与野党の合意を得て人選した参考人から意見を聴取したのであり、それを官房長官等の政権与党の中心が一顧だにしないような発言をすることは、審査会をないがしろにしている。
  • 安保関連法案に反対し、廃案を求める憲法研究者の声明には、自衛隊等に合憲との立場をとってきた研究者も参加し、賛同者が217人に達した。憲法学者の圧倒的多数が安保法制を違憲だとしている。国会が憲法違反の法律を認めていいのか。私は、立法府の一員として憲法の規範に違反する法律をつくりたくない。
  • 昨年の閣議決定から、若者の関心がこの問題に向けられ、地元でもリアルな声を聞く。憲法違反の安保法制案が提出され、論議すること自体、立憲主義から許されない。憲法違反であり、かつ、民意に反する安保法制案は、速やかに撤回すべきである。
  • 現実の政治と国民生活が憲法の保障する権利に追いついていない現状から、憲法の実践とそのための議論が求められている。国会が憲法改正の歩みを進める論議を行うのではなく、今こそ、憲法の理念・条項に国民の暮らしを合致させることが何よりも大事である。

寺田 稔君(自民)

  • 集団的自衛権を明文規定で容認した国連憲章を留保条件を付すことなく批准した時点において、憲法より上位にある国際法の法理として、我が国に集団的自衛権は付与されたと考える。
  • 現行憲法の草創期、創成期において、当時の内閣法制局は、その公権解釈として米軍の駐留をもって集団的自衛権の行使、すなわち急迫不正の侵略に対し自衛の権利を日米共同で行使することが集団的自衛権の行使であるとして、それを許容していた。様々な情勢の変化の中で必要最小限の自衛権として許容される範囲は変化するが、我々はこの法理を認識する必要がある。
  • 武力行使の一体化論について、様々な論者が従来の戦闘地域・非戦闘地域の線引きをなくすことは武力行使との一体化を招き、憲法違反であるとの立論を行っている。しかし、憲法上何が「一体化」であるかという憲法論のレベルと、それを更に絞った形でどこまでの活動を法律上認めるかという立法論のレベルとは、峻別されるべきである。
  • 「非戦闘地域」とは、憲法論でなく立法論のレベルの話であり、これを変えれば直ちに違憲とするものではない。憲法論のレベルでいえば、いわゆる大森4要素による総合考慮という考え方を政府・与党は維持している。これによると、「現に戦闘行為を行っている現場」ではない場所で実施するという考え方は、「一体化」しないと考えられる合憲的な活動範囲として許容されるものである。
  • 平和安全法制のうち自衛隊法の一部改正案では、防衛出動の対象となる事態として「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国が攻撃を受けたのと同様、我が国自体の存立が脅かされ国民の生命、自由及び幸福追求権が根底から覆される明白な危険がある事態」を追加している。もしこのような場合に自衛権の行使を否定することは、13条で保障する幸福追求権や25条で保障する生存権などの国民の基本的諸権利が侵害されることになり、かえって憲法違反となる。
  • また、周辺事態法の一部改正案は、重要影響事態に際して、適切かつ迅速に後方支援活動あるいは捜索救助活動などを行うために必要な措置を実施するものであり、我が国の平和と安全の確保のために必要不可欠である。
  • さらに、事態対処法制の一部改正案は、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによって我が国の存立が脅かされ国民の生命、自由及び幸福追求権が覆される明白な危険がある事態であるところの存立危機事態への対処について基本となる事項を定めるものであり、これが憲法に合致することは論を俟たない。

大島 敦君(民主)

  • 昨年7月1日の閣議決定で、質的に日本のあり方は変わってくるとの印象を持った。
  • 砂川判決についても、これまで、集団的自衛権を前提とした議論はなかったと記憶をしている。
  • 47年見解について、第三段落の第三文の「そうだとすれば、」以下が当てはめであるので、安全保障環境が変化すればそこは上書きできるとの意見があった。しかし、第三段落の第一文だけ考えれば、広義の意味での集団的自衛権も認められるかもしれない。したがって、素直に「そうだとすれば、」以下を読むのが適切だと考える。
  • これまでの9条の解釈は、歴代の政府が丁寧に積み上げており、安定した解釈であった。その延長上でできる範囲を、我が国の地理的な周辺において、より現実的に整備をしていくべきだ。
  • 今回の議論では、9条1項、2項に、第3項として新3要件が加わったように見える。この第3項をどう法案にするかについて、憲法解釈をめぐる議論がなかなか定まっていない。これが、平和安全特別委員会の議論が定まらない原因ではないか。
  • 民主党の部会において防衛省から、我が国が武力攻撃の一環としてサイバー攻撃を受けた場合に、新3要件を満たすのであれば、我が国として武力攻撃を行い得るという説明があった。昨年の7月1日をもって憲法解釈が質的に変わり、これは解釈の限界を超えていると考える。

小沢 鋭仁君(維新)

  • 今回の安保法制に関し、与党は砂川判決を持ち出して合憲と主張し、野党は同判決の読み方はそういう読み方ではないと意見が分かれている。安保の判例はこれが唯一の案件であるので、そういう場合に国の仕組みとしてどうやって決めていくのかを考えるのが立法府の役目であると改めて感じる。
  • 我が党は憲法裁判所の設置を一貫して主張してきたが、その実現には時間がかかるので、その間は憲法81条を有効活用し、司法の関与をしっかりとやるべきだと主張してきた。高村委員は最高裁が有権解釈の最後の砦と発言しているが、現実論として、訴訟主義なので日本の制度では抽象的な違憲審査はできない。そこをどう考えるのか知恵を絞るのが審査会の役割だ。国会議員として我々は不作為をしていることを情けなく思っている。会長には違憲立法審査のあり方等の制度論をしっかりと進めていただきたい。
  • 安保法制に関し、集団的自衛権の行使に焦点が当てられているが、私は、憲法は自衛と国際協調の二つが重要だと思っており、そういう意味では後方支援は自衛からも、国連の議決で行われるPKO等からもはみ出している。この後方支援の話が質的に変わり、理論上は地球の裏側まで行って他国の紛争に加担するという話になっている。国際法上は、後方支援、特に弾薬の提供、発進準備中の航空機への給油などの行為は、武力行使以外の何物でもないというのは明らかである。他国の紛争になぜ日本が、しかも世界中で加担するという話になるのか。それが安倍総理の言う積極的平和主義なのか。国連の名の下に自衛隊が世界中に行ってPKO活動を行うことは賛成だが、重要影響事態だといって、世界中に行って後方支援を行うのはやめてほしい。

務台 俊介君(自民)

  • 審査会の議論は冷静な環境の下、中長期的視野で大局的になされるべきである。別の委員会で審議されている法案について、この場で議論することには謙抑的でなければならない。
  • 審査会の参考人に平和安全法制の憲法適合性について直ちに結論を求めることは、乱暴ではないか。その影響を考えれば、質問・答弁ともに慎重な配慮をすべきだった。
  • 前回の審査会の参考人は憲法学者であり安保・国防・外交の専門家ではなかったが、現実問題に起因する国際環境を適切に評価し、憲法解釈に適切に反映する努力に貢献してもらいたかった。
  • 仮に今回の法整備を断念し、現行憲法下で許容されるぎりぎりの範囲の対応を怠った場合、それにより生じるリスクの結果責任を負うのは、憲法学者ではなく内閣及び国会である。そのため我々は、現実の安全保障環境の変化に対応すべく憲法解釈の適正化に取り組んできた。
  • 長谷部参考人は、「非戦闘地域」の枠組みを「戦闘行為が行われている現場以外」に変更すると、武力行使の一体化となり9条に違反する、と指摘した。しかし、非戦闘地域という概念は憲法論でなく憲法の手前で線引きする立法論レベルの議論であって、この概念の変更は直ちに憲法違反とはならない。大森4要件による総合考慮の考え方を維持した上で、新しい線引きをしたことを踏まえれば、憲法適合性は維持されている。
  • 自衛隊活動の実施区域について、国会答弁により「部隊等が現実に活動を行う期間において戦闘行為がないと見込まれる場所を指定する」との具体的な考え方が示されているため、参考人が述べた武力行使の一体化論の批判には論理の飛躍を感じる。
  • 参考人の一刀両断的な意見開陳は、現実の安全保障環境の激変及び政府と政治による精緻な議論の積み重ねを踏まえないものであり、政治の真摯な努力に一定の意を払う考え方が望まれる。
  • ドイツの憲法学者によると、占領解除後に制定されたドイツ基本法において、占領軍による改正の圧力はあったが、ドイツはこれをはねつけたとのことである。審査会では、現行憲法制定過程において、主権が制限された中でどのような議論を行ったか等の経緯について、改めて議論すべきである。

浜地 雅一君(公明)

  • @北側委員が発言した公海上での米艦防護について、一部委員から、周辺事態法で対応可能との意見が述べられたが、同法で可能なのは後方支援であって、防護はできないこと、A個別的自衛権における「着手」概念は様々な評価を含むものであるので、今回、これを集団的自衛権の一部としてしっかりと整理したことを指摘しておく。
  • 解釈変更について、長谷部参考人は「論理の枠内では説明できない」と結論を述べるにとどまり、その理由を聞けなかったのは残念だ。他方、武力行使との一体化については、バッファーを設けて明確な線を引き、その範囲内での活動に留めるという従来の「非戦闘地域」の枠組みを採らないことを理由に、一体化の恐れが極めて高いとしていた。「非戦闘地域」には@現に戦闘行為が行われていない、A活動期間を通じて戦闘行為が行われると認められないとの2要素があり、今回、Aの要素を取り@の要素のみとしたため、一体化するのだとしているようだが、これには疑問がある。
  • 長谷部参考人は、この2要素をいずれも憲法上の要請と受け取っている。これに対し、内閣法制局長官は、@の要素は、一体化を避けるための純粋な憲法上の概念であり、Aは、自衛隊員の安全確保を兼ねる概念であって、立法論であると昨日の平和安全特別委員会で答弁しており、Aの要素を取ると一体化に近づくという認識は前提が間違っている。なお、安全性の確保については、自衛隊員が安全かつ円滑に活動できる場所を指定するとの新たな規定を設けてあり、考慮されている。安保法制は複雑で、現状を熟知しなければ条文を読み違える。
  • 小林参考人は後方支援を「言葉遊び」としており、そうであれば、従来から違憲であったことになるので、今回の安保法制によって違憲性が高まるというものではない。

鈴木 克昌君(民主)

  • 憲法調査会から所属している者として、審査会は、少数政党に対する配慮、発言の公平な機会の確保に関して、大変優れた組織だと思っている。
  • 前回の審査会における参考人の発言云々という議論もあったが、幹事会の決定に基づいて招致した参考人の意見は、尊重すべきである。
  • 前回の審査会のテーマは「立憲主義など」であるが、昨年の閣議決定から今国会での安保法制が一大論点となっている現下において、立憲主義や憲法保障と関連して安保法制に議論が及ぶことは無理からぬことである。
  • 安保法制に関する議論について、一部の委員から特別委員会で発言すべきではないか、との発言があったが、私は、むしろ審査会で行うべきだと思う。
  • 参考人が安保法制を違憲とした根拠は、@集団的自衛権の行使容認は、従来の憲法解釈との論理的整合性が失われ、新3要件で認められる武力行使の限界が不透明であり、法的安定性を害する、A戦闘地域、非戦闘地域の枠組みをなくして兵たん活動をすることは、外国の武力行使と一体化する、というものであったと理解する。
  • 園田委員の発言と同じく、抽象的違憲審査を行う機関、すなわち安保法制の議論について司法の立場で判断できる機関を有するべきだと思う。

山下 貴司君(自民)

  • 自衛権を巡る憲法解釈は学説と現実が最も乖離している分野の一つであり、自衛隊についてすら違憲の疑いがあるとする学説がむしろ支配的であった。しかし学説は、結論ではなくその論理を検討する必要がある。日本の憲法学説をリードしてきた宮沢俊義、芦部信喜教授をはじめ、我が国の憲法学者の通説は、9条について、「1項で放棄されている戦争、武力の行使の意義」や「2項で保持が禁止された戦力や交戦権の範囲」を極めて厳格に解釈し、現在の自衛隊は、9条2項の戦力に該当するなどとしていた。先日の長谷部参考人も、現在の自衛隊は憲法によって保持が禁止された戦力にあたる、国家に固有の自衛権があるという議論はさほど説得力があるものではないとする一方で、多様な価値観や立場の公平な共存を目指す憲法の基本理念という文理を離れた曖昧な理由で自衛権を認めるという苦しい解釈をしている。
  • しかし、そもそも日本の憲法学界で支配的な解釈の出発点が、従来の政府の解釈とも違い、憲法制定時に侵略戦争以外の目的であれば戦力を持てると解釈して文民条項の挿入を求めた極東委員会の解釈とも違う、一つの解釈に過ぎない。立法府を担う私たちとしては、学説を含め、多様な意見に耳を傾けなければならないものの、憲法の定める三権分立からまず前提とすべきは、違憲立法審査権を有する司法府の判断である。それが、最高裁大法廷が全員一致で個別的と集団的とを区別せずに、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置を認めた砂川判決である。同判決の補足意見において、東大法学部長を務めICJ判事も務めた田中耕太郎最高裁長官は、一国の防衛も個別的にすなわちその国のみの立場から考察するべきではなく、他国の防衛に協力することは自国を守る所以であると判決理由を補足している。
  • これに対し、先日長谷部参考人は、集団的自衛権を巡る解釈について従来の政府見解の基本的論理の枠内では説明がつかず、法的安定性を大きく揺るがすものであるとの理由で違憲と述べた。しかし、長谷部参考人のいう従来の政府見解の基本的論理とは、同参考人の論文によれば、日本を防衛するための必要最小限度の実力の保持とその行使を禁止するものではない、とのことであるが、砂川判決を敷衍してこの論理を示した47年見解の基本的な論理の枠は、自衛の措置はあくまで外国の武力攻撃によって国民の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処し、国民の権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるというものであり、これは昨年の閣議決定においても変更はない。ただ、従来はこの論理の当てはめの段階で、急迫不正の事態について我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限定していたが、昨年の閣議決定では昨今の国際情勢の不安定化を踏まえ、我が国の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される急迫不正の事態は、我が国に対するのみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合であっても生じ得ることから政府解釈の論理の根幹を変えずに、当てはめにおいて現状に即して限定的に変更したものである。
  • また、長谷部参考人の法的安定性を大きく揺るがすゆえに違憲との指摘は、同参考人が論文で指摘するように、政府解釈の一貫性、論理性を支えてきたのは内閣法制局であるとの認識があると思われるが、実は、内閣法制局は約80名の法令担当職員のうち法曹資格を有するのはわずか数名にすぎず、政府答弁を行った歴代18名の長官のうち、司法試験に合格した者は横畠長官を含めわずか7名という行政機関である。必ずしも法律家の資格を有しない行政官が作り出した解釈にどこまで事実上の拘束力を認めるのか、まさに立法府の見識が問われる。
  • そもそも内閣による政府解釈の変更の是非については、MSA協定の国会審議において、吉田内閣の自衛権に関する解釈の変更について問われた緒方副総理が、閣議によって公式に決めれば、前と解釈が違っても差し支えないと答弁し、続いて答弁に立った佐藤内閣法制局長官は、内閣において正しいと信ずる憲法解釈を打ち出すことは理論上は当然であるとしている。
  • 憲法条項の許す範囲内で、国民の負託を受けた議会に立脚した内閣が、直面する諸課題に対応するため憲法解釈の変更を行うことは、むしろ立憲主義にかなうものであると考える。我が党は、自衛隊、日米安保、PKO等に関し、時には憲法学者、野党の皆様の激しい批判を乗り越えて、厳しい政治判断をしてきたが、それが正しかったことは戦後の歴史が証明している。平和安全法制についても同様に、堂々と正当性を訴えていきたい。

中川 正春君(民主)

  • 政府がどう繕っても安保法制の合憲性は揺らいでいる。47年見解では集団的自衛権行使は憲法上許されないとされていたが、安倍政権は限定的とはいえ集団的自衛権行使を容認し、憲法解釈の根本的な転換を図っている。
  • さらに、後方支援活動を地球規模に広げ、武力行使との一体化のリスクの限界を明示しないまま自衛隊を海外に派遣することは、武力行使を前提とした海外派遣を禁止してきたこれまでの憲法の規範を超えるものである。
  • 前回の審査会において、3名の参考人全員が、安保法制は憲法違反と判断していると表明した。他の憲法学者もそのほとんどが今回の解釈変更を違憲と表明していると報道されている。このまま解釈変更によってなし崩し的に憲法の中身が変わっていくと、憲法自体が空洞化していくのではないか。
  • 安倍総理や内閣法制局は法案の合憲性を説明することに躍起となっているが、起案した当事者が合憲だと言っても、説得力を持たない。一方、野党や一般の世論、憲法学者の発言には法律の後ろ盾がないので、最終的には具体的な結果を出すことが難しい。このままでは両方が言いっ放しで、たとえ法案が成立しても、国民の信頼を得た上での運用とはならない。
  • 日本の最高裁は、特に安全保障関連の法律に関して憲法審査を怠ってきたが、それは日本の違憲審査制度が司法裁判所型であるためだ。これは、個々の事件、事象を法律によって裁く場合にのみ、該当する法律の合憲性を間接的に審査する制度であるために、違憲立法審査権の発動が限定的なものとなってしまった。
  • こうした状況を、現行憲法下でどうしたら克服できるかについては、前回の笹田参考人から説明のあったカナダの照会制度が参考になる。照会制度を踏まえて提案するのは以下の方法である。@審査会で決議をして、安保法制の合憲性について、最高裁の意見を求める。A最高裁がこれに応えることに消極的である場合には、照会制度を法制化する。つまり、国会又は政府が必要なときには、当該法律について最高裁に合憲性の判断を求めることができ、また、最高裁はこれに応えてその意見を公にしなければならない旨の法律をつくる。その法律に基づいて、現在の安保法制の合憲性の是非につき最高裁に照会をする。これは現行憲法下でも可能である。この制度については、ぜひ審査会でもテーマとして取り上げてほしい。

根本 匠君(自民)

  • 平和安全法制の議論を聞いていて、高村委員・北側委員の議論が本質を突いており、論理的・合理的・説得的であったと思う。
  • 今回の平和安全法制については、歴代政権が維持してきた憲法解釈を一内閣の判断で変更するものであり立憲主義にもとるのではないか、という批判が一部にあるようだ。しかし、平和安全法制は昨年7月1日の閣議決定に基づき整備するものであり、この閣議決定はこれまでの9条をめぐる議論と整合する合理的な解釈の範囲内のものである。したがって、この閣議決定は、憲法改正によらなければできないことを解釈変更で行う意味での、いわゆる解釈改憲には当たらず、立憲主義に反するものではない。
  • 憲法81条は、最高裁だけが最終的な憲法解釈ができると規定している。その最高裁が9条の解釈を示したのが、砂川判決である。その中で、日本が主権国家である以上、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために自衛権を行使できるとしている。最高裁の言う自衛権に個別的か集団的かの区別はない。
  • 複雑化する世界情勢の中では、他国が攻撃された場合であっても日本の存立を根底から覆すような場合がある。そういう場合に集団的自衛権を行使することは、憲法に反するものではない。
  • 一方で最高裁は、我が国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有する事柄が憲法に合致するかどうかを判断するのは、一見極めて明白に違憲・無効であると認められない限り、裁判所ではなく、内閣と国会であるとしている。
  • かつてほとんどの憲法学者は、9条2項の規定から自衛隊は憲法違反であるとしていた。今でもそういう憲法学者がいる。
  • 安倍内閣と我が党は、長年この問題を議論し、日本の平和と安全を守るために憲法の許す範囲で限定的に集団的自衛権を行使することが必要であると考え、十分に議論を重ねた上で、平和安全法制を国会に提出し、今まさに国会で議論されている。我が国の平和と安全を守る責任は国会にある。
  • 憲法審査会は、日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議、国民投票に関する法律案等を審査する機関である。本日は安保法制に関し幅広い議論が行われたが、この審査会は特定の法案について審査する場ではない。安保法制の議論は、特別委員会が別途設置され、現にそこで議論されているのだから、国会の仕組みとしては、この特別委員会で審議するのが筋である。
  • 今回の件を通じ憲法問題に関し関心が高まったことは事実であるが、憲法審査会としては、田委員及び保岡会長の発言にもあったとおり、落ち着いた環境で憲法の論議を深化させていくべきである。

長妻 昭君(民主)

  • 高村委員は、「米艦船に対する攻撃があっても、我が国として何もできないままでいいはずがない」と断言したが、これは国民に対して誤解を与えかねないので、周辺事態法や「我が国に対する武力攻撃の着手」の概念もあると発言した。
  • 公明党の委員からは、個別的自衛権の「着手」の概念は曖昧である旨の発言があったが、今回の「限定された集団的自衛権」では、国民の生命・自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態になったときに第一要件に該当するとしている方がよほど曖昧だと考える。かつ、これだけ違憲という意見も出ており、どちらが曖昧かは自ずと分かるのではないか。

北側 一雄君(公明)

  • 砂川判決は昭和34年の判決であり、国連憲章は昭和20年に発効している。よって、砂川判決では、国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」との言葉を理解した上で、「個別的自衛権」「集団的自衛権」との言葉を使わずに「必要な自衛のための措置をとりうる」との表現を用いていることになるが、これは「集団的自衛権」というものを排除しているのではないと考える。
  • 砂川判決は、9条の下で許容される「自衛の措置」の範囲には触れておらず、その限界については内閣と国会の判断に委ねたと考える。
  • 47年見解には「集団的自衛権」との言葉が4か所に出てくるが、初出の箇所では「いわゆる集団的自衛権」との表現になっており、国連憲章51条の他国防衛を目的とした「フルサイズの集団的自衛権」として定義付けをしている。その後に続く3か所は、いずれも「いわゆる」又は「右の」集団的自衛権との表現であるから、47年見解の「集団的自衛権」は「フルサイズの集団的自衛権」を意味している。長妻委員が指摘する「第二段落の集団的自衛権」もこの意味であるから、47年見解は、フルサイズの集団的自衛権については憲法が許容する自衛の措置の限界を超えて許されないとしているのだ。
  • 私が提起した公海上の米艦防護について、個別的自衛権での対処が可能との意見が述べられている。過去の国会論議では、長妻委員が指摘するように「状況によっては」「個別具体の事例によっては」可能であるという形で答弁がなされ、その状況や個別具体的事情については不明確なまま今日に至っている。我が国を防衛するために活動している米艦への攻撃を排除できなかったとしたら、日米防衛協力体制は瓦解してしまう。どこまでであれば個別的自衛権における「着手」と言えるかは極めて曖昧であり、この点を明確にする必要があるのである。
  • いずれにせよ、我が国を巡る安全保障環境をどのように認識するかや、我が国と国民を守るための安保法制整備の必要性の有無といった点について、しっかりと議論をしなければならない。