論文優秀者(武田 晃二)

憲法調査会に望むもの

岩手大学教育学部教授
武田 晃二

 日本国憲法第二十六条第二項は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」と定めている。私はこの条文に用いられている「普通教育」という概念が戦後今日にいたるまであまりにも軽視されもしくは歪められてきたのではないかという感想を抱いている。戦後教育の歴史をふまえつつ、この概念の憲法上の意味をより明確にすることは混迷する現代日本の教育問題を改革するうえでも重要なことであると考える。憲法調査会での全面的な検討を期待したい。以下、普通教育についての私見を述べてみたい。

 「普通教育」という概念は十八世紀後半の西欧に生まれたとされている。ルソーは当時の〈市民をつくる〉教育に対比させて〈人間をつくる〉教育、すなわち普通教育の重要性を主張した。その後のいわゆる「市民社会」の体制化とともにその思想は歴史の舞台から後退を余儀無くされていった。

 わが国においては、明治前期に「普通教育」という言葉が広く用いられたが、明治二十年前後から、すなわち大日本帝国憲法・教育勅語体制への移行のなかで「普通教育」から「国民教育」への転換がおこなわれ、「国民の育成」一辺倒の教育体制がその後の国家体制を支えることとなった。

 戦後、日本国憲法制定の過程で、すべての国民が子ども達に受けさせる義務を負うとされる教育を、同条第一項にいう広義の「教育」と区別して、どういう言葉で表現するかが論議となった。制定議会の小委員会にまで持ち込まれあれこれ議論したすえに「普通教育」という言葉に落ち着いたのであった。「普通教育」という言葉に込められた論者の思惑は一様ではなかったが、ともかく日本国憲法に「普通教育」という言葉が採用されたこと自体は歴史的意義を有すると言えよう。

 教育基本法ではどうか。前文では「人間の育成」という言葉が、そして第一条には「国民の育成」という言葉が用いられている。両者の配置が制定当時どこまで自覚されていたかは別として、条文にみるかぎり「人間の育成」の上に「国民の育成」を位置づけており、これはそのまま「普通教育」の理念につながるものと言える。

 学校教育法は小学校・中学校および高等学校の教育目的を「初等普通教育」・「中等普通教育」・「高等普通教育及び専門教育」としており、しかもそれぞれの教育目標を具体的に定めている。

 このように、戦後の教育法制は「普通教育」をその基本的な概念として位置づけている。

 ところが、一九五〇年以降の政治転換のもとで、政府筋からは戦後の教育改革の方向が「普通教育偏重」だとされ、職業教育・道徳教育の強化や学校体系の複線化政策などを基調とするその「是正」政策がすすめられていった。

 他方、教育学研究の側でも、教育権は主権者である国民にあるとか国民すべてにひとしく教育を受ける権利が保障されるという面を強調する見地から、戦前とは異なる民主的な「国民教育」論を確立する必要があるという主張が展開された。こうして政治的にも学術的にも「普通教育」という言葉へのこだわりは忘れ去られていくことになった。

 一九八五年の臨時教育審議会は「個性重視の原則」を教育改革の基本原則としたが、これは「普通教育」に決定的な打撃を与えるものとなった。ここで言う個性重視とは個性一般の重視ということではなく、普遍よりも個性を重視するということである。それは教育基本法前文に謳っている「普遍的にして個性豊かな文化」という理念の否定を意図するものであった。また、臨時教育審議会答申には「国民の育成」は強調されるものの「人間の育成」という言葉は用いられていない。

 「普通教育」という概念はあくまでも「人間の育成」の上に「国民の育成」を図ることをめざすものである。別な言い方をすれば、りっぱな主権者の育成は「普通教育」の充実のもとではじめて可能となるのである。そのような関係が現実社会の中で実現することによってはじめて主権は国民に存するという憲法理念は「人類普遍の原理」としての実質を獲得することができるのではなかろうか。