論文優秀者(辻 学)

憲法調査会に望むもの

専門学校生
辻   学

 法律とは一つの行為規範であり、すぐれて道徳的なものである。そして道徳とは、民族の歴史的な経験や智恵の積み重ねから育まれるものである。例えば刑法に端的に示されるように、ある国家では犯罪とされる行為が、別の国家ではそうではない場合がある。また、わが国刑法の尊属殺重加罰規定のように、時代の変遷により道徳観が変化し、削除された規定もある。このような法律と道徳の不可分性から考えると、憲法は国家の基本法であり、国の指針を示すものであるがゆえに、国家の基本的な道徳観、国民の基本的な行為規範について述べたものだと言えるだろう。

 なかでも前文には、憲法の基本原則が述ベられており、前文の示す基本原則が憲法の各条項や下位の法規範に具体化されている。従って、憲法前文は、「憲法における憲法」的な存在であり、日本国が最重要視している基本道徳が示されたものと言えるだろう。

 かかる観点から私が憲法について疑問に感じるのは、果たして前文が現在の日本に適合した基本道徳・行為規範たり得ているかという点である。日本国憲法の原型をGHQが起草したのは事実であるから、前文に示された道徳観が、果たして日本人の歴史的な智恵の蓄積から生じたものであり、民族の心情・価値観に適合したものであるかには疑問がある。

 また、先の大戦への反省が色濃く示された内容、旧かなづかいなど、制定後五十年以上を経過し、世代交代が進みつつある今日から見ると、違和感を感じざるを得ない点がある。

 ここで従来の憲法論議を見ると、前文の改正は憲法の根本原則に手を加えることになるので許されないという論調が多かったように思う。しかし、いかに先進的な法規範であれ、制定当時の道徳観・行為規範が、いつまでもそのまま通用するものではない。極端な例ではあるが、『ハムラビ法典』は、今日では「目には目を、歯には歯を」の残虐な復讐刑の典型として知られている。しかし、当時においては復讐の範囲は際限なく拡大していくものであり、一族同士の殺し合いにまで発展するケースも多かった。従って『ハムラビ法典』は、復讐を等価値な範囲に制限したことで、極めて先進的な法規範であった。それが、時代の変遷により、残虐な刑罰を定めたものと思われるようになったのである。

 このように、いかなる先進的な理念を示した法規範であれ、時代の変化に対応する努力を怠れば、いつかは陳腐化する。確かに、日本国憲法の基本原則である、「基本的人権の尊重」、「国民主権」、「平和主義」は今後も遵守していくべきであるが、時代の変化に応じた新たな理念を付加し、新時代たる二千年期や二十一世紀に向けた国家の基本道徳・行為規範として世界に誇り得るものとなるように、前文を考え直してゆくことも必要ではないか。

 例えば、二十世紀の経済発展至上主義や物質至上主義への反省から、二十一世紀に向けて環境の保全や自然との共生が重視されるようになった。従来の憲法解釈では、「環境権」などの憲法制定当時には想定されていなかった「新しい人権」は、包括的な人権規定である第十三条の「幸福追求権」により保障される。しかし、環境権の概念は文明の根幹に関わるものであり、前文において定立される方が、よりふさわしいのではないか。

 また、戦後社会の反省からすれば、個人と国家との関係や、権利と義務との関係などについても、きちんと述べられるべきであろうし、民族のアイデンティティーという観点に立てば、日本的・アジア的な価値観についても触れられるべきであろう。

 私がこの小文で、あえて前文に限って話を進めてきたのは、いわゆる「護憲派」に配慮して、例えば第八十九条と私学助成の関係など、取り組みやすい論点から着手しようという動きがあるからだ。かかる方針のもとでは、前文や第九条など憲法の根幹に関わる問題は、いつまでも触れられずに終わるだろう。

 ここで「護憲派」とされる政党や政治家の言動について、私が疑問に思うのは、憲法について考えることが、即改憲につながるとして、憲法に関する議論一切を否定する傾向が見られることだ。しかし、憲法は国家のあり方について定めた基本法である。政党や政治家であるかぎり、より良き国のあり方について考えるのは義務であり、そのなかには憲法について考えることも当然に含まれる。

 従って、憲法に関する議論を否定する政治家や、憲法についての姿勢を基本政策や綱領に定めていない政党は、国のあり方の根幹について考えるという重大な義務を果たしていないと言えるのではないか。

 「憲法調査会」に対しては、新たに前文で新時代の新たな国家の指針たる理念を打ち出すくらいの方針で議論に臨んでいただきたい。繰り返しになるが、前文こそ憲法の根本原則を述べたものであり、その理念が各条項や下位の法規範に具体化されるからである。