論文優秀者(龍 理恵子)

憲法調査会に望むもの

佐賀県商工会連合会職員
龍 理恵子

 「憲法が間違っているのなら、改正すべきだよ。」と言う友人に、私は「『間違っている』ということはない。改正しなければならない時があるとすれば、戦後五十年以上の社会変化の中で『そぐわない』部分が出て来て、大きな歪みが生じた場合だと思うよ。」と答えた。「間違っている」と「そぐわない」では大きな差があり、「憲法」を論じる上でこの二つの言葉のいずれを選択するかは慎重にならざるを得ない。

 現在の「日本国憲法」は一九四五年七月二六日の「ポツダム宣言」後、連合軍最高司令部のマッカーサー元帥により、旧憲法「大日本帝国憲法」の改革が指示され政府の責任に於て、憲法改正を為したものである。

 この事が一般的にクローズアップされる事が多い為、「日本国憲法」は、敗戦の結果に由る国際的情勢からのみ改正された憲法だというイメージが非常に強い。私自身も大学で法律を学ばなければその歴史的背景や目的について詳細を知ることはなかったであろう。

 憲法に触れるスタートラインである「前文」は四節から成り、第一に憲法制定者の表示、第二にこの憲法制定の動機と目的の表示、第三に新憲法の根本原理、第四に「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」という誓約の宣言がある。この「前文」は、憲法法典の本文ではない為法規としての拘束力はないが、憲法成立の正当性が公証せられ、その解釈が指導せられ、適用の誤りなきことが期せられ、更に将来前文の趣旨に反する憲法の改正を為すこと能わざるものとするものであると、考えることができる。

 法源には「成文法」「不文法」があり「憲法」は、その中でも最高法規として最優先されるものである。私が憲法を論じる場合に一番に望むことは、その前に憲法以外の一般法(民法、刑法など)や特別法(商法、少年法など)の存在を忘れてはならないという事である。そもそも、法とはどういうものであるか、目的は何なのかということは我が国の場合は憲法前文の中に明記されていると言っても過言ではないだろう。大まかに言えば、社会的理念の実現のために、国家に於ける人々の社会的生活を規律する規範である法は、法的安定性の確保と正義の為に守るべきものと言えるだろう。そのような「法」そのものの根底である憲法の枝葉である、憲法以外の一般法等は、憲法とは比較にならない程改正が容易であり、そういう意味では柔軟性を持っているとも言える。憲法に反しない限りの柔軟性を持つ法律等が存在することで、憲法の精神が細部にまで生かされることになるからである。

 最後に「憲法調査会」が「憲法改正調査会」ではない事から私はその調査を綿密にお願いしたいと思う。現憲法の成立の歴史的な背景等については、参議院の憲法調査会に於ても既に議論がなされている。しかし、実情と法律の整合性、共有性の状態がいかなる状況にあるのかをもっと調査していただきたい。経験的知識や事実だけを認識するのではなく、それが、いかに実践されているのか、いないのかを調査していただきたい。

 その中で、憲法以外の一般法等だけではどうにもならない事柄があるとすれば、それが国民の信義には全く応えないものであれば、改正の議論も妥当だと考える。しかし、ここで重要な事は、「信義」である。約束事(ここでは「法」と考える)を守らずに権利を主張するのは論外である。国民が持つ権利を存在せしむる為の法を守っているにもかかわらず、国民がその権力を行使できない場合は、先に述べたように憲法前文の趣旨に反しない改正は、国民の承認を得ればあり得ると考える。

 つまり、「憲法は間違っている」ではなく、「そぐわない点はあるのか」という視点を持って調査、議論をしていただきたい。

 法を学ぶにあたり、その心構えとして教えられた事がある。それは、ローマ神話の正義の女神「ユスティティア」である。正義の女神は目隠しをして、左手に秤、右手に剣を持って立っている。女神は法廷を象徴しており、正義は法や裁判の目指すべき理想である。目隠しは、愛憎や私的関係からの絶縁を意味し、秤は公平を、剣は判決の実力による貫徹を表すものと言われている。この憲法調査会に於ても、時折この女神を振り返り正義を確立できる会として運営していただきたいと思う。