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怒濤の幕末維新

−攘夷・開国から民撰議院設立建白書提出へ−特別展



特別展ポスター

1853年(嘉永6)、ペリーの開国要求により幕藩体制は崩壊し、尊王攘夷運動が展開されました。薩長連合と幕府は激しく争い、ついに、明治新政府が誕生しました。新政府は開国富国の方針の下、五箇条の御誓文の公布や廃藩置県など国家構築を進めます。 岩倉使節団の帰国後、いわゆる征韓論争に敗れて下野した板垣退助らは、1874年(明治7)、藩閥官僚の専断を批判し、天下の公論に基づく政治を要求して民撰議院設立建白書を左院へ提出しました。これらを関係資料によって紹介いたします。


開催日時:平成20年11月6日(木)から11月28日(金)まで
開館時間:9:30〜17:00(入館は16:30まで)
場所:憲政記念館(東京都千代田区永田町1-1-1)
(東京メトロ:丸ノ内線・千代田線「国会議事堂前駅」2番出口
        半蔵門線・有楽町線・南北線「永田町駅」2番出口)
入館料:無料

主な展示品

-アヘン戦争から桜田門外の変まで-

1.島津斉彬書状 島津久光宛 安政元年4月29日

玉里島津家所蔵
鹿児島県歴史資料センター黎明館保管

1854年(安政元)3月、ついに日米和親条約が調印された。永世不朽の和親、下田・箱館開港、漂流民救済、必需品供給、最恵国待遇供与、領事官駐在容認などが約定された。島津は国元の弟島津久光に条約締結後の状況について、下田の異人はわがままで最早皇国の御威光もなく残念千万であり、これまでの油断のせいでこのような有様になったなどと書き送っている。


2.幕府大奥御台所付老女生嶋密書 安政5年2月27日

福井市春嶽公記念文庫
福井市立郷土歴史博物館所蔵

島津は将軍の正室として養女篤姫を嫁がせ、大奥を動かす策を実行した。しかし、大奥では慶喜の実父斉昭が嫌悪されていたため慶喜の評判も悪かった。これは、御台所付の老女生嶋が薩摩藩邸に送った密書で、大奥の内情を知らせ、大奥から慶喜を継嗣に推すことは厳しい旨を書き送っている。


3.掘田正睦書状(案) 安政5年3月25日

財団法人日産厚生会佐倉厚生園所蔵
佐倉市保管

老中堀田正睦は、朝廷からアメリカとの通商条約調印の了解を得るため京都に赴きその説得に当たっていた。当初楽観視していたが、朝廷は予想以上に攘夷の考えが強く、ついに勅許保留の勅諚が下された。堀田は、江戸の幕閣に条約勅許不首尾を伝えた書状の中で、公家たちが未だに万国の形勢を理解せず討論の甲斐もないと嘆いている。


4.大獄関係者処罰案【重要文化財】

彦根城博物館所蔵

幕府はついに密勅関係者の逮捕に踏み切った。いわゆる安政の大獄である。処罰は公家、大名から諸藩士らに及び、捕えられた者の中には福井藩士橋本左内や儒者頼三樹三郎らがいた。これは、処罰を評議していた時の文書で、刑罰部分に付箋が貼られ、罰の軽重を検討している様子が分かる。


国開かれて−海をわたったサムライたち−

1.『フランク・レスリー絵入り新聞』 1864年6月2日刊

印刷博物館所蔵

この遣米使節団はわが国で最初にアメリカへ派遣された使節であったことから、一行はアメリカにおいて熱烈な歓迎を受け、現地での行動が絵入り新聞で大きく取り上げられた。ホワイトハウスでブキャナン大統領と謁見した遣米使節一行の記事等が掲載された。


2.小栗忠順使用の望遠鏡

東善寺所蔵

小栗は、帰国後は外国奉行に任じられ、その後も幕府の財政や軍事の要職を歴任したが、非業の最期を遂げた。この望遠鏡は、フランス公使ロッシュから贈られたものといわれ小栗が日常愛用していたものである。


3.塩飽(しわく)水夫のアメリカ土産 グラス・インクスタンド・シガレットケース・果物皿

史跡塩飽勤番所顕彰保存会所蔵

瀬戸内海の塩飽諸島は中世以降の水軍の根拠地であった。幕末には幕府の海防政策に沿って長崎海軍伝習所にも水夫を送った。咸臨丸の水夫の大半は塩飽の水夫が占めていた。


4.遊清五録 高杉晋作 文久2年

個人所蔵

高杉晋作は、松下村塾で吉田松陰に学び、久坂玄瑞と並んで塾の双璧と称された。1862年(文久2)、24歳で藩命により上海に渡航した。約2ヵ月間の滞在で植民地化した清を目の当たりにし、近代的な軍隊の必要性を実感した。帰国後、奇兵隊を創設した。


-公武合体・尊皇攘夷から倒幕へ-

1.国是七条草稿 横井小楠 文久2年

横井和子氏所蔵
横井小楠記念館保管

1862年(文久2)5月、朝廷は島津久光の建言により、勅使大原重徳を江戸へ派遣し、幕政人事についての朝旨を伝えた。幕府はこれに従い、徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職に任命した。春嶽は、彼の政治顧問横井小楠の「国是七条」を基礎に幕政改革を行った。横井は、参勤交代緩和・海運振興等のほか、「外藩譜代に限らず賢を撰びて政官と為せ」「大いに言路を開き天下とともに公共の政を為せ」という公議政体思想を打ち出し、幕府独裁から雄藩連合体制への移行を構想していた。


2.生麦事件賠償金受取証書 1863年2月16日

玉里島津家所蔵
鹿児島県歴史資料センター黎明館保管

1862年8月、横浜郊外の生麦村で薩摩藩兵がイギリス人を殺傷する事件が起こり、幕府は折衝を試みたが解決せず、翌年7月薩英戦争へと発展した。イギリス艦隊の破壊力に圧倒された薩摩藩から和平の気運が高まった。薩摩藩は幕府の用意した賠償金を支払い、犯人逮捕の場合、処罰する旨を誓約して事件を解決した。以後、薩摩藩は親英・開国路線へと方針転換した。


3.浪士文久報国記事 元知元年6月6日

個人所蔵

1863年、京都守護職松平容保(会津藩主)の預かりとなった浪士組は新選組と名を改め、将軍の警護や京都の過激派浪士等を取り締まった。1864年(元治元)5月、新選組が捕縛した商人から中川宮ら要人襲撃計画が発覚し、6月5日、長州藩定宿池田屋において尊攘派志士の大捕物に及んだ。これは、新選組幹部永倉新八による手記で、激闘の実歴談が記されている。


4.大久保利通書状 西郷隆盛宛 慶応元年9月23日

個人所蔵

第一次長州征伐において長州藩は、征長総督府の意向を受けて禁門の変を指揮した家老を処罰し、謝罪した。しかし、幕府はこれらの処分に満足せず、一会桑(一橋・会津・桑名の在京幕府勢力)の要請を受け、朝廷は再征の勅命を発し、第二次長州征伐へ始動した。諸藩合議による長州藩処分をめざしていた大久保利通は、謝罪した者を討つような非義で、万人が承服できない勅命には従えないと西郷隆盛に書き送った。この書状の写しは坂本竜馬により長州藩へも届けられ、薩摩藩が事実上朝廷・幕府を見限ったことを伝え、薩長同盟締結へと舵がきられた。


5.討幕の密勅 慶応3年10月14日【重要文化財】

山口県毛利博物館所蔵

1867年(慶応3)10月、武力討幕を期する薩長二藩に対し、討幕の密勅が手交され、また会津・桑名征討の密勅も下された。これは長州藩に対して出されたものである。


-戊辰戦争-

1.錦絵「子供芝居忠臣蔵四段目」

玉川大学教育博物館所蔵

戊辰戦争当時、政治情勢や世相を諷刺した絵画が多数出版され、好奇心の強い庶民に争って買い求められた。題材は歌舞伎や文学作品、過去の著名な絵、子ども遊び等になぞらえて表現され、衣服の模様に家紋や名産品などを描き、対象を特定できるように工夫されていた。この錦絵は、江戸城明渡し前後を子供芝居などに見立てて諷刺している。


2.錦絵「東台大戦争図」 芳虎・孟斎画

円通寺所蔵

降伏に不満な旧幕臣らは、江戸の内外で新政府軍と戦う構えを見せた。その中、彰義隊は、江戸市中の警備と謹慎中の慶喜を警護する目的で上野に屯集した。勝は新政府軍との交渉を有利に進めるため、戦闘を回避しようとしたが叶わず、1868年5月、彰義隊は、大村益次郎らが指揮する新政府軍の総攻撃を受けて潰走した。


3.黒門から採取された銃弾

円通寺所蔵

上野戦争後、彰義隊士の遺骸を葬ることは許されず、円通寺住職らが願い出て、ようやく荼毘に付された。これを機縁に、1907年(明治40)、政府から下された寛永寺の黒門が円通寺に移築された。門には夥しい弾痕が見られ、激戦地であったことを物語っている。


4.弾痕のある鰐口

寛永寺所蔵

鰐口とは仏殿や拝殿の前面の軒に吊るす大きな鈴である。


5.箱館戦争図

市立函館博物館所蔵

五稜郭陥落直前の戦いを描いたものである。


6.松平太郎・榎本武揚書状 高松凌雲・小野権之丞宛 明治2年5月14日

市立函館博物館所蔵

新政府軍側の降伏勧告に対し榎本らは、このまま蝦夷地を拝領の上、北部の国境警備にあたるように勅許を得たい旨を認めた。また、榎本がオランダ留学中に入手した万国海律全書を「皇国無二の書に候へば兵火に付し烏有と相成候段痛惜致候」として新政府側に贈呈したことが書き記されている。


-明治新政府の誕生から議会開設要求まで-

1.「大坂遷都建白書」大久保利通

大阪府立中之島図書館所蔵

新政府の中心は、薩長両藩をはじめとする討幕派の下級藩士層だったが、宮廷勢力、公議政体派の力も根強かった。維新政権樹立に中心的な役割を果たした大久保は、宮廷勢力を天皇から切り離し、天皇親政を実現するため、1868年(明治元)1月23日、大坂遷都を建言した。結果的には公家の反発により実現せず、天皇の大坂行幸に変えられた。


2.戊辰日記 明治元年7月22日

松平宗紀氏所蔵
福井県立図書館所蔵

維新以降、議事機関として三職制において「上ノ議事所・下ノ議事所」、政体書において議政官が設けられた。旧福井藩主で議定に任ぜられていた松平春嶽は上書案の中でこれらの運営について「一新以来議事ト称スルノ事アレトモ、虚名ニシテ實行ナク」と議事が実体をともなっていないことを批判し、庶民層までが建議できる途を開くため目安箱設置の必要などを説いた。


3.廃藩御発表の次第案 明治4年7月 重要文化財】

岩倉公旧蹟保存会所蔵

岩倉の尽力により、西郷隆盛が政府に加わり、薩摩・長州・土佐の3藩兵力が親兵となり、政情は安定するかにみえたが、制度取調会議の破綻等政府内は混迷した。中堅官僚層より廃藩論が起こり、西郷が合意して、1871年7月14日、廃藩置県が断行された。これにより、近代的中央集権国家が成立し、太政官は正院・左院・右院の三権分立体制をとることになった。この次第案は、岩倉の手によるもので、廃藩置県の手順とそれに伴う官制改革案について記したものである。


4.西郷隆盛辞職願並びに許可状 明治6年10月23、24日

鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵

対朝鮮外交問題を解決するため、西郷は自身の使節派遣を主張し、閣議で決定したが、1873年9月、帰国した岩倉はこれに反対し、大久保を参議に任じ、反対派の勢力を結束させた。10月15日の閣議では西郷の派遣が再び決定されたが、太政大臣代理となった岩倉は内治優先を主張し、上奏を拒否した。西郷は「胸痛之煩有之」として全ての官位の辞表を提出し、翌日、参議と近衛都督の辞職が認められた。西郷とともに板垣退助、副島、後藤、江藤が参議を辞職、政府は分裂した。いわゆる明治六年の政変である。


-岩倉使節団-

1.万里風信【重要文化財】

岩倉公旧蹟保存会所蔵

岩倉が諸国歴訪中家族に送った書状をまとめたものである。


2.岩倉使節団歓迎晩餐会メニュー 1872年8月2日

横浜開港資料館所蔵

ボストンで開催された使節団晩餐会のメニュー。


3.ティファニー煙草盆

内海勝彦氏所蔵

随行した神奈川県大参事内海忠勝がニューヨークにあるティファニー社で購入した土産品。


-時代と人と-

1.「サスケハナ号」(模型)

観音崎自然博物館所蔵

1853年(嘉永6)6月サスケハナ号は、アメリカ東インド艦隊の旗艦として浦賀沖に現れた。


2.絵画「米国使節の肖像」

横浜市中央図書館所蔵

ペリーと艦隊参謀長アダムスや通訳ウィリアムズら高級士官たちを描いたものである。

3.ハリス サーベル

麻布山善福寺所蔵

このサーベルは、ハリスの遺品として公使館があった善福寺に伝えられている。


4.吉田松陰書

幕末と明治の博物館所蔵

長州藩の山鹿流兵学師範の吉田は、各地を遊学し著名人士と交わり、佐久間のもとで砲術と蘭学を学んだ。ペリーの再来航時密航を企てて失敗、萩の野山獄へ投じられた。1858年幕命で江戸送りとなり処刑された。


5.和宮懐剣拵

文化学園服飾博物館所蔵




6.伝徳川慶喜陣羽織

寛永寺所蔵

これは、フランス皇帝ナポレオンV世から慶喜に贈られた陣羽織である。


7.東征軍旗

憲政記念館所蔵

1868年(明治元)、新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)が始まり、1月7日、新政府は慶喜追討令を発した。


-維れ新たなり-

1.時刻表

品川区品川歴史館所蔵

1872年(明治5)5月6日、品川・横浜(現桜木町)間に日本初の鉄道が仮開業した。1日に6往復しており、所要時間は40分であった。


2.国立銀行紙幣(旧券)1円券 明治6年発行

お札と切手の博物館所蔵




3.国立銀行紙幣(新券)1円券 明治10年発行

お札と切手の博物館所蔵

旧券はアメリカの印刷会社で委託製造されていたが、全券種同寸法、同彩色で識別が困難だったため、増刷を機に新様式に改められたのが新券である。


4.双六「小学尋常科高等科修業寿語録」国貞画 明治24年

東京学芸大学附属図書館所蔵

教育勅語発布頃の小学校生活を描いた双六である。


5.牛乳ブリキ缶

トモヱ乳業博物館所蔵

千葉の農夫前田留吉は、オランダ人の屠殺場経営者に牛の飼育法を学び、1866年(慶応2)、横浜に牧場を開き、牛乳搾乳所を開業した。明治初期、牛乳売捌所ができてブリキ缶による配達販売が行われるなど、次第に庶民の間に浸透していった。



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