衆議院議事部所蔵
憲法改正に伴い、議院法に代わる国会法が衆議院議院法規調査委員会によって検討された。GHQは作成された草案に対して、米国議会の制度を参考に、公聴会制度の導入等多くの修正を指示した。特に、行政部門に対応した所管事項を持つ常任委員会を法律に明記し、審議方式を委員会中心としたことは、これまでの本会議中心主義からの大転換となった。憲政記念館所蔵
GHQは、群小政党の乱立を抑え、政党の民主化と腐敗防止を図るため政党法の制定を指示した。衆議院に政党法及び選挙法に関する特別委員会が設置され、法案起草小委員会において要綱が作成された。しかし、過度に厳格な政党要件や政党組織の法定化について批判が続出した。戦前から政党政治家として知られる国務相斎藤隆夫も、有害な法律であると厳しく非難した。岡山県立記録資料館所蔵
憲法改正作業に関する近衛文麿の行き過ぎた行動が明らかになると、幣原喜重郎内閣では、憲法改正は内閣で行うべきであると批判する意見が挙がった。当初、首相幣原は、憲法改正に消極的であったが、近衛への批判から、内閣への憲法問題調査委員会設置と、国務相松本烝治を中心とした憲法調査の開始が閣議で了承された。幣原内閣の書記官次田大三郎は、この閣議の様子を日記に記していた。衆議院議事部所蔵
枢密院本会議可決後の6月20日、政府は、大日本帝国憲法の改正という手続きを取り、勅語をもって帝国憲法改正案を第90回帝国議会に提出した。25日、衆議院本会議に上程されると、首相吉田茂の提案理由説明に続いて、4日間にわたる質疑応答が行われた。この本会議では憲法改正の理由と国体の変更について議論が集中し、憲法担当大臣の金森徳次郎が答弁に当たった。江橋崇氏所蔵
11月3日、天皇陛下御臨席のもと、貴族院議場において、日本国憲法公布記念式典が挙行された。当日、式典参列者には銀杯が、議会職員には木杯が配られた。憲政記念館所蔵
日本国憲法公布後、総選挙のため高知を訪れた吉田と金森は、吉田が定宿にしていた城西館で寄せ書きを残した。色紙に書かれただるま図は、金森の画である。重光家所蔵
憲政記念館保管
憲政記念館所蔵
6月27日、シベリア抑留者の帰還事業が再開し、舞鶴に入港した引揚船からは労働歌がこだまして、迎える人々を驚かせた。元陸相宇垣一成は日記に「蘇聯ノ共産思想ノ注キ込ミ方モ余程行渡リ来タ様デアル、而カモ国内ニアル同主義者モ之レカ誘惑ニ努力シテ居ル傾向モアルカラ此等引揚者ノ取扱及良導ニ就テハ政府モ社会モ格段ナル注意ヲ払フコトノ必要ヲ痛切ニ感スル矣」と記している。憲政記念館所蔵
外務省外交史料館所蔵
講和会議出席のため、吉田に発給された戦後第1号の公用旅券である。外務省外交史料館所蔵
吉田が講和会議へ携行したものである。調印式での署名の際には使用されなかった。外務省外交史料館所蔵
9月7日、吉田は、日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾する旨の演説を行った。演説は急遽、日本語で行うこととなり、書記官らが手分けをして墨書したものをつなぎ合わせた。その原稿を見た外国人記者は「トイレットペーパー」と評した。外務省所蔵
講和会議は最終日の8日に調印式が行われた。講和会議参加52ヵ国中、ソ連・チェコスロバキア・ポーランドを除く49ヵ国が対日平和条約に調印した。日本は6名全ての全権が署名した。重光家所蔵
憲政記念館保管
憲政記念館所蔵
かねてより保守合同実現をめざしていた三木武吉は、緒方竹虎、大野伴睦らとの会談を隠密裏に開始させた。民主・自由両党間で公式機関が設置され、協議が進められたが総裁問題で難航した。9月、新党政策委員会は来年度予算は新党の手で編成するとし、これを両党幹事長に申し入れた。これに応じた両党幹事長も、年内合同の実現を強調した。憲政記念館所蔵
社会党統一を受け、保守合同の動きは一気に加速を強めた。総裁問題で両党が持論を譲らなかったため、総裁代行委員制を設けて、後の適当な時期に総裁公選を実施することで反対論を抑えて決着した。11月15日、日本民主党と自由党が合同し、自由民主党が誕生した。憲政記念館所蔵
憲政記念館所蔵
戦後初の総選挙では大選挙区制限連記制が採用された。立候補者は2770名、うち女性候補者は79名であった。憲政記念館所蔵
初の女性議員の1人となった松谷天光光のポスターである。その名前から男性と間違われる恐れがあったため、特別に「女性」の表記が認められた。憲政記念館所蔵
身に着けるものは全部自分で選んだといわれる。憲政記念館所蔵
1947年3月、第一次吉田内閣は、衆議院を解散した。4月、衆参それぞれの選挙を経て新憲法施行後の5月20日、第一回国会が召集された。ここに帝国議会から国会へと論戦の舞台は移された。これは6月23日、天皇陛下御臨席のもと行われた開会式の様子を描いたものである。憲政記念館所蔵
戦前、弁護士から社会民衆党結成に参加、代議士として活躍し、戦後、日本社会党委員長となった片山哲は、1947年5月23日、国会で首班指名を受けた。同党の議席数は過半数に及ばず民主党・国民協同党との3党連立内閣となった。片山内閣は、新憲法下における民主化の徹底と当面の経済危機突破に取り組んだが、党内対立のため翌年2月、総辞職した。憲政記念館所蔵
憲政記念館所蔵