平成28年11月24日(木)(第3回)

◎会議に付した案件

日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件(立憲主義、憲法改正の限界、違憲立法審査の在り方について)

自由討議を行った。

◎自由討議

●各会派の代表者からの意見表明の概要

上川 陽子君(自民)

  • 憲法によって国家権力に何らかの制限を加えるという「立憲主義」は市民革命以前から存在したが、市民革命を経て、「国家(公)」に対して「個人(私)」の存在を積極的に評価するものとして再構築された。そこでは、個人が人間らしい平和な社会生活を送ることができるよう、多様な価値観を互いに尊重する社会を目指して、「権力分立によって基本的人権を保障する」構造を憲法に規定することが主張された。日本国憲法も、このような「近代立憲主義」を重要な要素としている。
  • 「近代立憲主義」はさらに変容を遂げ、行き過ぎた自由主義による貧富の差の拡大を背景として、社会的・経済的弱者の自由と生存を確保するために社会権の考え方が取り入れられるなど、「法の支配」の実現による人権保障が追求され、裁判所に違憲立法審査権が付与されるといった時代や国家観の変化に対応した変容も認められる。
  • 自民党は、「近代立憲主義」に基づき、多様な価値観を拠り所に個人が人間らしく生きる社会の構築に努力してきた。個人の拠り所となる価値観は、個人が生まれながらに有するのではなく、共同体の中で育まれ、成長過程で培われるものであるが、憲法論議に際しては、我が国の歴史的・文化的背景の下、個人が共同体の中で他者とのつながりを大切にし、他者への寛容の精神を持って人間らしく生活してきたという事実にも目を向ける必要がある。日本国民が数ある選択肢の中から選び取ってきた「国のかたち」について、環境変化に応じた「あるべき姿」を模索しながら、その拠り所となる憲法を議論することが重要である。
  • 憲法審査会においては、憲法と社会の実際とのずれについて、様々な角度から議論すべきだが、その際、「立憲主義に反する」という抽象的な言葉のみで議論が閉ざされてはならない。立憲主義の究極目的が個人の権利・自由の保障にあることを認識した上で、@立憲主義の概念が社会権の考え方を取り入れるなど変容していることや、A諸外国には国家の歴史的・文化的背景を前提とした規定を憲法に設けている例があることを無視すべきではない。例えば、フランス憲法には、必ずしも「国家権力を縛る」ものではないが、「建国の理念」を高らかに謳う規定があり、これは、単なる過半数によって容易に変更できないようにしたものと理解されている。
  • 「国のかたち」は、憲法典と憲法附属法規や基本法などの総体から成る「生きた憲法」として現れる。我が国は、「条文の抽象度が高く、条文数が少ない」という現行憲法の「特色」を生かしながら、憲法改正ではなく、法律改正などを通じて時代の変化に向き合ってきた。しかし、制定後70年を経て、その「特色」について「規律密度が低く、権力を統制する力が弱い」との指摘がなされている。例えば、「地方自治」の章において、自治体の「組織及び運営に関する事項」を全て法律に委任している点等である。規律密度が低い分野について、国民の権利保障を究極の目標とする立憲主義の観点から、憲法改正の要否を含め、それを補うにはどうしたらよいかという発想で、今後、議論をすべきである。
  • 現代においては、人権は「法律からも」保障されなければならないと考えられるようになった。その典型例が裁判所による「違憲立法審査権」の行使であるが、これが機能不全に陥っているといった指摘や、これを行使する最高裁判事の任命手続に対する民主的統制が諸外国に比べ弱いといった指摘がなされている。これらについては、裁判所に違憲立法審査権が委ねられた趣旨や、三権分立の理念の下で政治的権力から独立し、個別具体的な事件の解決を通じて国民の人権保障を図っている司法の役割等を踏まえた慎重な議論が必要である。
  • 「国のかたち」が端的に表れている現行憲法の「基本原理」、すなわち基本的人権の尊重・国民主権・平和主義の変更は、憲法改正の限界を超える。憲法審査会においても、あくまでも、現行憲法の基本原理を堅持するとの共通の認識の下で、憲法が我が国の民主主義国家・平和主義国家としての礎を築く上で果たしてきた役割をしっかりと踏まえ、国民目線で建設的な憲法改正論議を進めていくことが肝要である。    

枝野 幸男君(民進)

  • 公の権力は、主権者たる国民が憲法によって定めた手続に基づく場合に限り、かつ、憲法で定めた範囲に限って正統性を有する。初期の近代立憲主義は王権の存在を前提にそれを制約するにとどまる考え方であったが、国民主権の下では憲法に定められた範囲でしか公権力の行使が認められず、立憲主義の意義が飛躍的に拡大している。
  • 自民党の憲法改正草案は、立憲主義に反し、憲法を統治の道具であるかのごとく考えていると受け取られても仕方がない内容である。統治権の正統性の根拠である憲法を統治の道具として扱い、憲法で国民を拘束しようとするのは矛盾である。
  • 憲法議論は、公権力行使の手続や限界について、主権者たる国民が統治者をどう制御するかという観点からなされなければならない。国家・国民をどう統治するかという問題や、その統治権を通じて日本という国家と社会の未来をどう描くかという問題は、憲法に規定された手続と憲法によって預けられた権限の範囲内で、それぞれが主張し実現を図るものである。
  • 立憲主義を無視・軽視する声は、保守を自称する側に目立つ。保守主義は、フランス革命の急進過激な変革に対するアンチテーゼとして生まれた、歴史と伝統を重視し急激な変化を否定する考え方である。その背景には「人間は不完全な存在である」という謙虚な人間観がある。
  • 政治論における保守主義は、法の世界では立憲主義となる。保守主義の謙虚な人間観に基づけば、民主制の下でも社会や人間は間違えることはあるが、その場合に社会全体が一気に間違った方向に進まぬよう、経験知の結集である憲法により歯止めをかけ、より慎重な手続を求めるということが、保守思想に基づく近代立憲主義の意義である。立憲主義を重視しない保守はまがい物であり、「押し付け憲法論」や憲法典の全面改正・新憲法の制定を唱える者は保守と対極にある。
  • 歴史と伝統を重視するなら、70年にわたって日本国憲法の下で歴史を積み重ね、主権者国民の間に憲法が定着しているという歴史も当然直視すべきである。急進過激な変革を否定する保守の立場と、新憲法の制定という革命にも匹敵するような憲法典の全面改定案を唱えることは本来両立し難い。
  • 11月17日の中谷幹事の発言や今の上川幹事の発言では、立憲主義や現行憲法の三大原則を守る旨の発言があったが、他方で自民党は立憲主義を踏まえず、三大原則を大きく変更する内容の憲法全面改定草案を発表している。その草案は棚上げされたようだが、撤回はされてはいない。中谷幹事などの発言との整合性はどうなるのか。議論が進まないから二枚舌を使っているのか。あるいは同草案は立憲主義を踏まえたものと認識しているのか。そうだとすれば、立憲主義についての認識が180度違うと言わざるを得ず、建設的議論は困難である。草案をこれからどのように扱うのかを含め、これらの点の説明と、それが安倍総裁を含む自民党の総意と受け止めてよいのかどうか、認識を示してほしい。また、集団的自衛権の解釈を一方的に変更した安保法制について、立憲主義や保守思想との関係を明確に説明していただきたい。
  • 以下、今後の議論に向けた私見を述べる。議院内閣制の下で、議会による不信任を受けていない行政府が議会を解散することを認めれば、多数派である行政府による恣意的な選挙が可能になり、議会に対する行政府の優位性を強めるだけで、権力分立原則や議会・有権者による行政に対するチェック機能の観点からも望ましくない。こうした認識が主流になり、ドイツや英国では解散権が制約された。「7条解散」を禁止し、内閣不信任の場合に限定することが立憲主義の深化の観点から合理的だと思う。私も党内でこの論点について議論を進めるので、各党派でも議論していただきたい。
  • 皇室典範は「憲法に密接に関連する基本法制」そのものであり、その調査は憲法審査会の任務である。天皇の譲位について、有識者の閉ざされた議論が先行するのは、国民の統合の象徴である天皇の地位に照らしても妥当でない。国会において速やかに議論する責任があり、それを担うのは憲法審査会しかない。

斉藤 鉄夫君(公明)

  • 立憲主義とは、主権者たる国民がその意思に基づき、憲法において、国家権力の行使の在り方について定め、これにより国民の基本的人権を保障するという近代憲法の基本となる考えと理解している。すなわち、国民の基本的人権の保障のため、主権者である国民が権力を名宛人として、権力の行使の原則を定めたのが憲法である。
  • 日本国憲法は、人間の尊厳に価値の根源を置き、全ての人が生まれながらに有する基本的人権を保障すると規定している。基本的人権を保障するため、国民主権の下、権力分立を定め、権力の濫用から国民の自由、人権を守る統治機構を規定している。さらに、戦争を放棄し、国民を守る平和主義を宣言している。すなわち、まず基本的人権の尊重があり、それから国民主権、恒久平和主義という原理が導き出され、日本国憲法の三原則となっている。日本国憲法は、権力から国民の人権を保障しようとする立憲主義憲法であり、三原則は立憲主義と不可分一体である。立憲主義は、日本国憲法の本質として維持していかなければならない。
  • 立憲主義の根幹である基本的人権の中身は、人類史の中で歴史的な議論、闘争の積み重ねがあり変容してきた。すなわち、フランス人権宣言に見られる権力分立により権力を制限するという「権力からの自由」という考え方を基礎に、時代の変遷の中で生存権や社会保障などの社会権を保障する「権力による自由」、また、参政権の拡大を実現する力となった「権力への自由」なども含まれるようになった。
  • 自由や基本的人権の意味が時代と共に豊かになり、拡大されてきた。現在、激動の世界の大きな変化の中にあって、憲法が保障すべき基本的人権の中身についても常にどうあるべきか、拡充していくべきではないか考え続ける必要がある。
  • 例えば、化石燃料の急激な消費は人類生存の根幹を脅かす地球環境問題として我々の前に立ちはだかっているが、健康で豊かに生きたいという基本的人権は、我々の子孫のものでもある。今を生きる我々は、将来を生きる人たちにより良い環境を残さなければならず、それが将来世代の基本的人権の基礎となる。立憲主義を考えるとき、新しい基本的人権の保障も考える必要があるのではないか。
  • 憲法にはもう一つ大きな役割がある。国家の理念、別の言葉で言えば、「目標」を掲げることである。もちろん、国民的議論を十分行って大部分の国民の納得するものでなければならないが、例えば、国際協調主義のもと平和国家・文化国家を目指す、地球環境保全のために世界のリーダーになるなど、世界の平和と文化、環境のため、日本が貢献したいという意思を明確にすることも憲法の役割であっていいのではないか。
  • 憲法改正の限界について、96条に改正手続が定められていることから、改正そのものは否定されないが、憲法の最高法規性を定めた97条は基本的人権の保障は変えてはならないと明確に宣言している。また、新憲法と現行憲法の同一性・一体性が疑われるような改正は限界を超えると考えるのが自然である。すなわち、基本的人権の尊重と、国民主権と恒久平和主義の三原則を損なうような変更は、憲法改正の限界を超える、と我が党は考える。
  • 違憲立法審査について、我が党には、司法消極主義、司法積極主義両方の意見があるというのが正直なところである。ただし、具体的な事件から離れて抽象的審査を行うことになる憲法裁判所の設置は、実質的に裁判所の政治化を招き、ひいては社会の混乱と分断を助長するのではないかとの多くの懸念の声がある。個別具体的な案件について個別に違憲審査を行う現在の制度が妥当ではないか、と私は考える。
  • その上で、裁判所が憲法判断に消極的過ぎるとの批判もある。例えば最高裁判所に憲法部を設置する案や最高裁と高等裁判所の間に特別高等裁判所を設けて最高裁の違憲審査機能と上告審機能を切り離すなどの改革案が提案されている。裁判官やスタッフの増員が必要だが、検討に値する。
  • 今後の審査会では、時の政局から一歩離れて、冷静に議論を積み重ねることが大切だ。

大平 喜信君(共産)

  • 安保法制ほど立憲主義を踏みにじったものはない。安倍政権は、これまで歴代内閣によって9条の下で集団的自衛権の行使は認められないとされてきた憲法解釈を、一内閣の閣議決定によって容認へと変更し、安保法制を強行し、立憲主義に反するとの批判を浴びた。
  • しかし、こうした批判に対し安倍首相は、「立憲主義とは、主権者たる国民がその意思に基づき、憲法において国家権力の在り方について定め、これにより国民の基本的人権を保障する考えだ」と述べ、「国家権力を縛るという考え方は、かつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方である」と述べた。ここには権力を拘束し、制限するという立憲主義の最も基本的な問題を殊更曖昧にしようとする意図を感じざるを得ない。
  • 昨年6月4日、長谷部参考人は「立憲主義の意味の一つは、何らかの形で権力を制限することである」と述べ、小林参考人も「立憲主義というのは、権力者の恣意ではなく、法に従って権力が行使されるべきであるという政治原則である」と述べた。憲法の拘束の下で政治を行うべき安倍政権が、憲法を乗り越える恣意的な解釈によって集団的自衛権の行使を認めたことこそ、立憲主義に反するものである。
  • そもそも9条は、「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を定めており、海外での武力行使を到底認めていない。しかし、日本政府は、アメリカからの再軍備の圧力に従って、警察予備隊を創設した。政府は、警察上の組織であり、戦力ではないから9条に違反しないと説明した。その後、日米安保の下での軍備増強のため、保安隊を自衛隊に改組するに当たり、「自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」として、9条で認められる自衛権行使の範囲は、「他に方法がなく、急迫不正の侵害があって、それを排除するために必要最小限度の措置である」という答弁をした。
  • これまで政府は、自衛隊の海外派兵が問題となるたびに、集団的自衛権は認められないと繰り返してきた。こうした長年の議論で積み重ねられてきたのが、政府の憲法解釈である。これを一内閣の判断によって覆したのが、安倍政権である。
  • 憲法学者、法制局長官、最高裁判所長官、そして分野を超えた学者、研究者が閣議決定と安保法制を立憲主義違反だと指摘し、多くの市民が立憲主義を守れと国会を包囲し、安保法制の廃止を求める署名は1,580万筆を超えている。
  • この立憲主義の当然の原則を、集団的自衛権の行使容認の閣議決定の前には自民党議員も認めていた。例えば、過去の憲法調査会で高村議員や中谷幹事は、日本国憲法の下で集団的自衛権は行使できない、解釈で変えるべきではないと明確に述べている。それが今では、これまでずっと認められないとされたものを一内閣の解釈で変更していいのだと言われる。これこそ立憲主義に反する姿勢ではないか。私たちは安保法制を廃止し、閣議決定を撤回するたたかいを国民とともに進めていく。戦争をするための憲法改正ではなく、9条を生かした平和外交を行うことこそ、大切である。

足立 康史君(維新)

  • 本日のテーマである「立憲主義」は、幹事会において、民進党の強い求めに応じる形で決定されたものであるが、一昨年来の安保法制に対する「立憲主義にもとる」といったレッテル貼りが繰り返されることを強く懸念する。実際、前回の憲法審査会において、民進党の武正幹事は、安保法制を「立憲主義にもとる」として、憲法解釈変更の閣議決定や安保法制の白紙撤回を求めたし、本日も、枝野委員から、安保法制と立憲主義の関係について疑問を投げかける発言があった。
  • また、武正幹事は、集団的自衛権の行使を認めれば、現行憲法の基本理念である平和主義が揺らぐと断じ、あたかも、集団的自衛権の行使を容認するのであれば、憲法改正論議に参加できないかのような主張をした。そもそも「近代立憲主義」とは、多様な価値観の共存という大目的のために、権力の分立によって権力を制限するという考え方である。これに対し、「徹底した平和主義」という現行憲法の基本理念は、いわば近代立憲主義の例外として、まさに特定の価値観を憲法に規定し、それを固定化する試みであると言える。特定の価値観、すなわち、集団的自衛権の行使は容認しないという独自の価値観を表明しても、それはその党の主張に過ぎないのであって、憲法改正論議の入口で自由闊達な議論を遮るのであれば、それこそ、多様な価値観の共存という近代立憲主義の大目的に反するものであり、立憲主義の破壊と断じざるを得ない。
  • 安保法制の制定過程が明らかにしたのは、違憲審査制度の機能不全である。司法消極主義の下、最高裁がいわゆる「統治行為論」を採ってきたため、憲法の最終解釈者としての最高裁の役割が十分に発揮されない状況が続いてきた。2005年の憲法調査会の報告書でも、「現在の付随的違憲審査制の下では、最高裁に憲法の番人としての積極的な役割を期待できることはできない」といった議論が行われ、「憲法裁判所を設置すべきであるとする意見が多く述べられた」と記されている。内閣法制局の9条解釈についても、安保国会を通じて、時の政権の影響を受け、野党の追及をかわすために糊塗されてきたに過ぎないことが、白日の下にさらされた。
  • 我が党は安保法案の対案を提出したが、政府案との比較検討が十分には深まらなかった。しかし、だからと言って安保法制を戦争法呼ばわりし、政府与党を「立憲主義にもとる」と批判しても何も生まれない。最高裁が統治行為論を採る限り、内閣の憲法解釈と国会の多数派が成立せしめた法律に対抗する術はないからである。そこで、我が党は、次になすべきこととして、機能不全を起こしている違憲審査制度の見直し、すなわち「憲法裁判所の創設」を提案したのである。
  • 憲法改正を考えるに当たっては、大きく三つの検討事項がある。第一は、「権力を縛るための規定」であるが、これの説明は省く。第二は、政権を越えて固定化すべき「基本政策」である。我が党が提案している三つの憲法改正原案のうち、「教育無償化」と「統治機構改革」は、まさに、これからの少子高齢化を乗り越えて、国をさらに発展・繁栄させていくため基本政策として提案している。第三は、「国家としての基本理念や価値観の表明」である。自民党の憲法改正草案はこの点で批判されており、我が党としても、国民の多くの賛成を得て憲法に規定し得る内容であるとは考えていない。
  • 前回、私は次のことを質問したが、民進党からの回答はなかった。まず、民主党の憲法提言の取扱いである。武正幹事は「議論の土台である」と発言したが、それが回答であれば、自民党が「議論のベースである」としているのと全く同じであり、民進党が自民党を批判する理由はなくなるのではないか。次に、細野委員の「今後、考え方をまとめていく」との発言であるが、野田幹事長は、「改正案は出さない」としているのではないのか。また、山尾委員は憲法裁判所に言及したが、これは個人の意見なのか、党の意見なのか。以上、本日の自由討議で回答をもらえればと思う。

照屋 寛徳君(社民)

  • 立憲デモクラシーの会の設立趣旨書において「一時の民意に支持された為政者が暴走し、個人の尊厳や自由をないがしろにすることのないようにするよう、さまざまな歯止めを組み込んでいるのが立憲デモクラシーである。それは、民衆の支持の名の下で独裁や圧政が行われたという失敗の経験を経て人間が獲得した政治の基本原理である」と謳われており、そのとおりである。
  • 立憲主義とは、憲法によって権力を制限し、憲法を権力者に遵守させ、国家の統治を憲法に基づき行うという原理である。安倍総理は2014年2月3日の衆議院予算委員会において「憲法は国家権力を縛るものだという考え方は、かつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であり、今の時代には絶対的なものではない」との持論を展開している。その底流には、憲法は国家権力を縛るものではなく国民を縛るものであり、国民に義務を課すものであるとの自民党憲法改正草案の理念と思想がある。安倍総理の言動に立憲主義の危機と国家の危機を強く感じる。
  • 憲法改正の限界について、衆参両院で改憲勢力が3分の2以上の議席を占めているのだから、96条が定める改正手続に従えばいかなる内容の改正も許されるのかといえば、断じて否である。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の三大原則や9条の改正、憲法の同一性を損ねる改正などは許されないとする限界説こそが正しい。
  • ドイツやフランスでは改正の限界を憲法に定めている。憲法改正の限界説に立脚すると、自民党憲法改正草案に見るような憲法前文の全面的書き換え、9条1項の改正及び2項を削除した上での新条項による国防軍創設、審判所という名の軍法会議の設置のための改正などは認められない。13条の「個人の尊重」から抽象的な「人の尊重」への変更、「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」の概念による人権制限などは、憲法改正の限界を超えた憲法破壊、憲法クーデターそのものである。自民党憲法改正草案による97条の全面的削除は、立憲主義の破壊であり日本国憲法の三大原則の破壊であって、憲法改正の限界を超えるものである。しかも、自民党憲法改正草案には、国防義務、領土・資源保全義務、家族助け合い義務、緊急事態指示服従義務、憲法尊重義務などを国民に課しており、到底承服できない。
  • 違憲立法審査権の在り方について、81条が裁判所による付随的違憲審査制であるとの通説、判例は理解する。一方で、三権分立が三権一体と化しているのが現実であり、統治行為論や第三者行為論の採用などによって国民の権利救済を忘れた違憲審査の在り方や、時の政治におもねる安易な司法判断の回避には大いに問題があり、最高裁判所は憲法の番人であることを忘れてはならない。

●委員からの発言の概要(発言順)

中谷 元君(自民)

  • 自民党の憲法改正草案は、立憲主義の考え方を否定するものではなく、憲法の三大原則に変更を加えるものでもない。
  • 自民党草案は、我が国の社会や憲法を取り巻く状況が変化し、実際にズレが生じていることから改正を提案したのであり、憲法の三大原則は堅持すると明言している。  
  • 「平和安全法制は立憲主義に反する」との意見があったが、個別の立法政策の是非については所管の委員会で審査すべきで、憲法審査会で議論すべきものではない。ただ、本日のテーマである「立憲主義」との関係から意見を述べれば、平和安全法制の定める限定的な自衛の措置は、9条とともに、前文の平和的生存権並びに13条の生命、自由及び幸福追求の権利を規定する日本国憲法の構造に照らし、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対応するためにやむを得ない措置であり、現行憲法の枠内のものである。  
  • 集団的自衛権行使の一部容認は、自衛のための必要最小限度の措置に限られており、極めて限定的なものである。これは法律の中で新三要件として明確に示されて歯止めとなっており、従来の昭和47年の政府見解の基本的論理の枠内である。
  • 平和安全法制を立憲主義に反すると批判される方は、「立憲主義違反」と称して、現政権の活動を批判しているだけで、「立憲主義」の本来の意味を超えて、単なる政権の好き嫌いといった意味で使っているのではないか。

辻元 清美君(民進)

  • 立憲主義に関する認識が市民の間にこれほど広がったときは、かつてない。昨年の安保法制のことは避けて通ることはできない。「立憲主義を守れ」との声が、なぜ全国に広がったのかを真摯に受け止めるのが憲法審査会の役割である。それは、一つの政策に関する賛否ではなく、社会を規定する最高規範である立憲主義そのものが根底から覆されたのではないか、との危機感を市民が共有したことによるのである。「民主主義を守れ」「立憲主義を守れ」との声が出てくるのは、開発独裁国家においてであり、我が国におけるこのような動きを真剣に受け止めるべきである。
  • このような声が出た理由は3点ある。一つ目は、安保法制に関し、集団的自衛権の一部容認の合憲性を昭和47年見解を基に主張していることについて、同見解を真逆に解釈したのではないかと指摘された。これは、憲法改正の限界を超えるのではないか。内閣法制局長官経験者、防衛省元幹部職員、最高裁長官経験者からも反対意見が示されている。違憲立法を進める政党に憲法改正を論じる資格があるのか、との指摘を受け止めるべきである。
  • 二つ目は、現行憲法99条は国会議員等公務員の憲法尊重擁護義務を規定するが、自民党憲法改正草案102条は国民に憲法尊重義務を負わせている。国民が権力者に守らせる規範が憲法であるが、国民に憲法尊重義務を負わせる発想は、立憲主義の本質から外れるのではないか。国民に憲法尊重義務を負わせている国は、中国やロシアなどである。
  • 三つ目は、安倍総理による憲法に関する発言が健全な憲法論議を阻害してきたことである。安倍総理は憲法審査会で議論するべき旨の発言をしており、安倍総理を憲法審査会に招き、発言の真意を説明してもらうことが健全な憲法論議を進める大きなステップとなる。幹事会で協議してもらいたい。
  • 健全な憲法論議を進めるに当たり、立憲主義という土台の考え方が異なる政党があれば、新たな阻害要件となり得る。立憲主義に関する足立委員の認識は、維新の会の認識である旨の発言がなされたが、小沢委員も含め御党の認識なのか伺いたい。

遠山 清彦君(公明)

  • 9条は一見して一切の武力行使を禁じているかのようにも見えるが、憲法を始めとする法の解釈とは、その全体構造の中での整合的な解釈が求められるものである。
  • いわゆる「47年見解」では、9条の下での武力行使の可否とその限界について、一般論の提示に当たる「基本的な論理」と、これの具体的な状況への「当てはめ」を截然と整理しながら、見事な定式化を行っている。すなわち、「基本的な論理」では、前文の平和的生存権や13条の幸福追求権の趣旨を踏まえ、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」ような極限的な場合における必要最小限度の武力行使を容認し、「当てはめ」の部分で、当時考えられていた他国防衛を目的とする集団的自衛権を念頭に、いわゆる「フルセットの集団的自衛権」を否定している。
  • その後、厳しさを増してきた我が国を巡る安全保障環境等に鑑みて、未だ我が国に対する武力攻撃に至っていない状況であっても、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が発生し得るとの認識に至った。つまり、「47年見解」の「基本的な論理」を維持した上で、それを現在の安全保障環境に当てはめた結果として、極めて限定的な事態に対応するための「自国防衛を目的とする集団的自衛権」の行使が容認されたのである。
  • 平和安全法制について、「立憲主義に反する」という批判をしばしば耳にする。そもそも、国民の権利・自由を守るという近代立憲主義の本質からすれば、国民の生命・自由・幸福追求の権利をいかに守るかという観点から制定された平和安全法制は、立憲主義違反どころか、まさに立憲主義を具現化したものと評価されるべきと考える。

赤嶺 政賢君(共産)

  • 立憲主義について米国との関係を3点指摘したい。
  • 第一に日本の再軍備の問題である。1948年1月のロイヤル米陸軍長官の演説を契機に、米国防総省が日本の限定的再軍備計画をまとめたことが再軍備の出発点である。その計画にあるように、日本の再軍備、自衛隊は、米軍への従属の下に作られたものであった。1951年のサンフランシスコ平和条約調印の際、沖縄を切り離した上で日米安保条約を国民に秘密裏に締結したが、米軍の駐留を認める安保条約を合憲とした砂川最高裁判決は、駐日米大使が当時の最高裁長官に直接面会して圧力をかけたのが歴史の事実である。9条に反する再軍備と自衛隊、日米安保条約は、米国の圧力の下に作られたことを忘れてはならない。
  • 次に、自衛隊の海外派兵の動きも米国の要求に基づいていることを指摘したい。1991年の湾岸戦争の際、米国の要求に従い、日本が閣議決定による政府声明のみでペルシャ湾の機雷除去のために自衛隊を出動させて以来、米国の自衛隊派遣の圧力が強まった。2001年の同時多発テロを契機とした米国のアフガニスタン報復戦争では、テロ特措法を作って海上自衛隊の補給艦と護衛艦を派遣した。2003年には、イラク特措法を作ってイラク戦争でイラク本土に自衛隊を出動させた。その際、航空自衛隊の輸送部隊は米軍の武装兵士や弾薬を運び、米軍の戦争を直接支援し、後に名古屋高裁から憲法違反と断罪された。
  • 第三に、今回の安保法制は、日米新ガイドラインの実行法として作られたものである。安保法制の核心は、地球上のどこであれ、どのような戦争であれ、自衛隊が出動して米軍を支援するところにある。そのため、集団的自衛権の行使容認を始め、米軍支援のさまざまな内容が決められた。特に重大なのは、日米一体となって共同対処に当たる同盟調整メカニズムを設置したことである。これは、日米統合司令部に他ならず、その下で日米軍事一体化と基地の再編強化が進められている。こうした動きは、アジア・太平洋地域に米軍兵力を重点的に配備し、同盟国の役割拡大を求める米国の軍事戦略に沿ったものにほかならない。
  • 以上3点と前回指摘した沖縄に憲法がないという問題が示しているのは、日本国憲法を超える日米安保体制の存在であり、このことを根本的に問い直すべきである。

古屋 圭司君(自民)

  • 昨年11月にテロが発生したフランスでは、法律で定めている緊急事態宣言の内容を憲法に明記しようとする動きがある。これは、法律の規定だけでなく、憲法上にも根拠を与え、憲法的正当性を確保するためと言われており、立憲主義の観点からは、日本においても参考になる取組と思われる。
  • 日本でも、自衛隊法における緊急事態下の治安出動や、土地利用、物資収用等のための緊急措置、災害救助法における医療従事命令、災害対策基本法における緊急事態の布告等、知事がその権限を有するものを含め、緊急事態に対処するための法律上の規定が複数存在する。
  • しかし、東日本大震災の際には、知事による緊急措置は一切発令されていない。これは、職業選択の自由や居住の自由、財産権等の憲法の諸規定に抵触する可能性を否定できないという懸念が背景にあったためと考えている。
  • そこで、立憲主義を守る観点から、現行法の緊急事態の規定を憲法に盛り込むことを提案したい。法律上の規定のみではなく、憲法上の根拠を与え、憲法的整合性を確保するという考え方である。その際、緊急事態の始期と終期を明記することも立憲主義を守ることになる。
  • 平成26年11月の憲法審査会では、共産党を除く各党が共通して緊急事態対処の必要性に言及しており、具体的な議論を進めていきたい。

小沢 鋭仁君(維新)

  • 憲法に則して法律制度、あるいは政治が行われていくことという立憲主義に係る一番基本的な最小限の認識は、各党で共有できると思う。
  • 昨年は安保法制の合憲性が大きな議論になった。我々はそうした議論を延々と続けていくのではなく、制度の中できちんと決着をつける場所を作ることが必要だという考えに基づいて「憲法裁判所の設置」を掲げ、先の参議院選挙でも公約として戦ってきた。憲法審査会においても、憲法裁判所の設置が必要なのかどうか、制度論をしっかりと議論したい。
  • 安保法制について、日本維新の会は、限定的集団的自衛権は合憲であり、今日の国際情勢の下では不可欠であるということを、政府の閣議決定に先駆けて提示した。ただし、政府案における存立危機事態概念や重要影響事態の後方支援の在り方等に関しては、行き過ぎがあり、歯止めをかけなければいけないという認識の下、武力攻撃危機事態というコンセプトを基に、我が国を守るために行動している同盟国と共同行動をとることができる対案を提出した。
  • この対案には、政府案を違憲だと言った憲法学者からも合憲であるとの認識を頂いた。こうした建設的な議論が、昨年、もっとされるべきであった。
  • 辻元幹事から、我が党の立憲主義の考え方について質問があったが、足立委員は、まず、近代立憲主義は多様な価値観の共存という目的のために、権力分立によって権力を制限するという考え方である、という内容を意見として述べ、さらに、現代的立憲主義の考え方として、三種類の考え方、すなわち、今述べた考え方のほか、基本的な法制と理念・価値観の表明という三つの考え方を述べた。最後の価値観の表明に関しての党の考え方は決めておらず、議論のあるところではあるが、この三つの考え方は決しておかしいものではないと思う。

平沢 勝栄君(自民)

  • 昨年7月の憲法学者アンケートでは、回答者の6割以上が自衛隊は憲法違反あるいは憲法違反の疑いがあるとした。こうした憲法学者は、自衛隊だけではなく日米安保条約、PKO、そして平和安全法制も違憲とすることは当然と考える。
  • 多くの学者は、そのもたらす結果や影響と全く関係なく憲法を語っている。しかし、政治家は現実を見なければいけない。日本を取り巻く安全保障情勢は大きく変わっている。現憲法は、自衛隊が全く存在しないときにできたものである。  
  • 国民主権、基本的人権の尊重、平和主義は絶対に変えるべきではない。しかし、国際情勢が大きく変わっている中で変えるべきところは変え、加えた方がいい項目は加えるということは必然である。そこで、私たちは平成24年に憲法改正草案を出した。あくまで議論のたたき台、土台として出したものでファイナルなものではない。
  • 9条については、1項の平和主義を変えるつもりは全くない。しかし、自衛隊の存在を憲法に明記して、自衛隊は何ができ何ができないかを書き込んでいくことは立憲主義にかなっている。  
  • 21条の表現の自由などの規定については、草案で「公益及び公の秩序を害する目的」のときには認められないとしたが、表現の自由の侵害だと厳しい批判を受けた。一方で、私が立法に関わったヘイトスピーチ解消法に対しては、なぜ罰則を設けないのかといった批判を、表現の自由は絶対だと言う方たちから多く頂いた。全くのダブルスタンダードであり理解に苦しむ。  
  • 世論調査から明らかなとおり、国民は、各党が憲法草案を出してそれを基に議論することを期待している。我々の草案を批判する前にまず自分たちの草案を出してほしい。  
  • 世論調査を見ると、国民の多くが改憲に賛成している。問題は、どこをどのように変えるかである。現行憲法には明らかな文言の間違いがある。裁判官の報酬の減額を禁ずる規定のように誰が考えてもおかしいと思う規定もある。私たちは、国民の声に謙虚に耳を傾け、この審査会の場で憲法改正項目の具体的議論に入っていくべきである。

中川 正春君(民進)

  • 本論に入る前に、審査会に臨む立場の確認をし、同じ土台に立って議論するという信頼感が必要という観点から指摘したい。
  • 私たちの憲法議論は、まず現行憲法を肯定し、その上で時代の変遷に合った改正をしていくものであることを確認したい。制定経緯はいろいろあっても、憲法の基本理念を国づくりの理想とし、戦後70年をこの憲法の下で生きてきた日本国民の生きざまに誇りを持つということが基本であると考える。  
  • 自民党の設立時の綱領は「自主憲法」を前提としており、今も基本的な考え方は貫いている。自民党草案には戦前に回帰するような復古主義的な条文が含まれていることもあり、各方面から懸念の対象となっている。現行憲法を否定する形で、草案が「自主憲法」として提出されるのではないかという懸念を払しょくできない。  
  • 「各政党から草案を出した方が良い」という議論には反対である。憲法改正発議へのプロセスについて、この場で確認すべきである。憲法改正条項は分野別に作るというのが前提となっているが、その作成の場は審査会であって、各党が一緒にコンセンサスをまとめ、この審査会から改正草案が出てくると理解している。会長には基本的な審査会のプロセスについて確認していただきたい。  
  • 違憲立法審査権に関し、安保法制については最終的には司法が積極的に判断すべきである。最高裁の中身を改革しなければ、積極的な司法決着はつけられないという議論に対してコミットしていくべきである。また、憲法裁判所の導入の是非についても議論は進めていくべきである。同時に、カナダで活用されている「参照意見制度」を導入し、法律改正により、憲法判断が裁判所によりなされることを可能にするような議論も是非していただきたい。

船田 元君(自民)

  • 立憲主義は、為政者が憲法に従って政治を行うべきことであり、国民を権力の横暴から守るためのものである。しかし、最近のマスコミや一部の野党による立憲主義イコール護憲との誤った定義の横行について危惧する。時代の変化や国民の権利の増進につなげるために、改正すべき点があれば、政府の意思ではなく国民の意思としてルールに従い改正し、改正された憲法には国民皆が従う態度こそ、立憲主義の趣旨に沿うものである。立憲主義を護憲にすり替えることで、憲法をより良いものにしようとする国民の主権行使の機会を奪ってはいけない。  
  • 憲法改正の限界については、憲法改正権は制定権力を超えることができないとの学説を採用するべきである。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義は、憲法制定権力を持つ国民の総意であり、憲法改正権が侵してはならない。  
  • 違憲立法審査権は、司法裁判所による付随的違憲審査と憲法裁判所による抽象的違憲審査に大別される。我が国は従来から付随的違憲審査制を採用しているが、最高裁の違憲審査機能が十分に発揮されていない。  
  • 今後、国際状況の変化、少子高齢、人口減少など急激な変化に対応するため、迅速な憲法判断、憲法保障の仕組みを作る必要がある。抽象的違憲審査制に移行するため、憲法裁判所あるいは最高裁への憲法部の設置が検討課題となる。  
  • 憲法裁判所の設置に当たっては、原告適格、裁判官の資質や任命方法等解決すべき問題が多く、また、憲法裁判所の判断が政治的・国民的に受け入れられるために、憲法裁判所が国民から絶対の信頼を持つことが欠かせない要素である。これらを踏まえ、今後の憲法改正論議において前向きに扱うべきである。

奥野 総一郎君(民進)

  • 憲法改正の限界について、中谷幹事は、自民党の憲法改正草案は憲法の三大原則を守っていると言ったが、逐条で一条一条全てが三大原則を逸脱していないとはっきり言えるのか伺いたい。  
  • 一例として、21条の表現の自由について、自民党草案では、新たに第2項を設け、「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という制約を加えている。  
  • 日本国憲法は、基本的人権のうち、いわゆる経済的自由については公共の福祉による制約を認め、精神的自由については、13条で一般的な公共の福祉の制限はあるが、個別の規定には制約を設けていない。これは、精神の自由を尊重するアメリカの「ダブル・スタンダード理論」が反映されたもので、日本国憲法の基本原理中の基本原理であり、これに修正を加えることは、日本国憲法の改正の限界を超えていると思う。これは世界の常識であり、フランス人権宣言は今も生きているし、ドイツも改正してはならない事項を基本法の中に書いている。そういった常識を踏まえながら、精神的自由には制限を加えないということをしっかり守るべきである。  
  • 表現の自由に制限を加えることは、民主主義の基礎である報道の自由を制限することにつながり、改正の限界を超える重要な問題だと思う。
  • 自民党草案の21条改正は、改正の限界を超えているのか、いないのかを明確に答えていただきたい。さらに、21条をもとに報道の自由への制限が認められるのか、制限される場合があると考えるのかについても答えていただきたい。
  • 憲法裁判所、抽象的違憲立法審査権の話が出ているが、憲法判断を明確にする点で一考に値すると思うが、人事を中立にしないと、むしろ政府の判断にお墨付きを与える、合憲判決ばかり出すような裁判所になりかねない。その点に注意して議論を進めるべきである。

中谷 元君(自民)

  • 自民党憲法改正草案は、21条2項で、集会・結社及び言論、出版その他一切の表現の自由について、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動及びそれを目的とした結社を禁止する規定を設けた。オウム真理教に対して破防法を適用できなかったことの反省を踏まえ、公益や公の秩序を害する活動やそれを目的とした結社を認めないこととしたのである。
  • 内心の自由はどこまでも自由であるが、それを社会的に表現する段階になれば、一定の制限を受けるのは当然である。21条2項は、他の箇所の「公益や公の秩序に反する」という表現と異なり、「公益や公の秩序を害することを目的とした」という表現を用いて、表現の自由の制限を厳しく限定している。かつ、禁止する対象を「活動」と「結社」に限っている。「活動」は、公益や公の秩序を害する直接的な行動を意味し、これが禁じられることは極めて当然である。また、そういう活動をすることを目的とした「結社」を禁じることも、同様に当然である。したがって、この規定をもって、公益や公の秩序を害する直接的な行動及びそれを目的とした結社以外の表現の自由が制限されるわけではない。  
  • いずれにしても、どのような活動や結社が制限されるかについては、具体的な法律によって規定されるものであり、憲法の規定から直接制限されるものでない。  
  • 自民党草案における国民の憲法尊重義務は、憲法の制定者たる国民も憲法を尊重すべきというのは当然であることから規定した。国民は遵守義務で良いのではないかという意見もあったが、憲法も法であり、遵守するのは当然のことであって、憲法に規定を置く以上、一歩進めて尊重義務を規定したものである。なお、その内容は、憲法の規定に敬意を払い、その実現に努力するということで、あくまでも訓示規定である。  
  • 公務員については、草案102条2項で憲法尊重義務を定めている。なお、天皇及び摂政については、現行憲法99条では憲法尊重擁護義務規定の主体とされているが、草案では政治的権能を有しない天皇及び摂政に憲法擁護義務を課すことはできないと考え、規定しなかった。

武正 公一君(民進)

  • @近代立憲主義とは、権力を制限し、個人の自由、権利を守るものである、A日本国憲法の三原則は憲法改正の限界である、との認識が衆・参憲法審査会で共有されることが、憲法改正の発議の前提となるのではないか。三原則の中で特に基本的人権については、97条で由来と特質に触れられている。  
  • 権力分立が求められる中で、最高裁の統治行為論はいかがなものかということもあり、違憲立法審査権については、民進党は先の参議院選挙の政策集で「政治・行政に恣意的な憲法解釈をさせないために、憲法裁判所の設置検討など、違憲立法審査機能の拡充を図る」と党の考えを明確に述べている。  
  • 憲法解釈変更の閣議決定と安保法の白紙撤回は、民進党の姿勢を前回述べたところである。また、2005年の「憲法提言」について、土台であると前回も確認した。  
  • 立憲主義、改正の限界という点で、2012年自民党憲法草案に大変危惧を覚える。自民党草案の位置付けについて、改めて見解を述べていただきたい。なお、参議院の自民党筆頭幹事からは、「平成24年憲法改正草案をそのまま当審査会に提案するつもりはない」と明言があった。先ほどの「各党、案を出すべき」との平沢幹事の発言と齟齬があり、整理して議論を積み上げていく必要がある。
  • なお、自民党、公明党の意見表明の中で国家の歴史的、文化的な考え方や目標を掲げることもいいのではないかとの発言があったが、欧米各国の憲法を見ても、そういったことを憲法に書くべきではない。  
  • 昭和47年見解の当てはめについては、無理があるのではないかと思うし、また、平沢幹事から小林節先生への言及があったが、それならば参考人質疑も必要ではないか。

土屋 正忠君(自民)

  • 辻元幹事から、自民党憲法改正草案は国民に義務を課しているが、憲法は国民に義務を課すものではない旨の発言があった。世界各国で義務を記載している憲法はどのくらいあるのか、調査を会長にお願いしたい。現憲法でも勤労、教育、納税の三大義務がある。ヨーロッパの各国の中には徴兵の義務を設けているところもある。中国、ロシアも含めて調査をお願いしたい。  
  • 権力の濫用から基本的人権を守るという憲法観だけでは国民に保障された基本的人権は守られない。国家権力が機能不全に陥ると途方もない悲劇が起こる。シリアをはじめ、枚挙にいとまがない。現実には、基本的人権は、国家の機能が十分発揮され、法の支配が確立され、秩序が保たれているということの下に、保障されている。  
  • 成文化された基本的人権があるだけでは、普遍的なものとして保障されない。基本的人権と権力との緊張関係、置かれた歴史的状況、その国の成り立ちによって初めて立憲主義が求める基本的人権の保障があり得る。

辻元 清美君(民進)

  • 土屋委員からの指摘に答える。私の指摘は、自民党憲法改正草案102条の「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」という義務規定への疑問である。各国憲法における国民の憲法尊重義務に関する規定は、審査会で既に議論されており、義務がある国はインド、中華人民共和国、ブータン、イタリア、ロシア連邦であると報告が行われていることから、私はこの調査結果に基づいて発言した。

星野 剛士君(自民)

  • 現行憲法に国家主権の規定はない。国家の三要素は、「領土」、「国民」及び「統治機構」の三つであり、国家の独立を守ることは、この三要素を守るということである。他国の侵略から自衛権を行使し国の独立を守るのが軍隊であり、警察権を行使し、国民の生命、財産及び公の秩序を守るのが警察である。このことは、世界共通であり、多くの国の憲法にも明記されている。しかし、憲法制定時、日本が独立していなかったという事実から、現行憲法には国家の独立に必要な規定が盛り込まれていない。
  • 現行憲法の施行年は、日本に主権がなかった連合国占領下の1947年であり、国家主権の規定が盛り込まれていないという事実は重く受け止めなければならないのではないか。また、9条2項には、当時の連合国の意思が色濃く反映されていると感じざるを得ない。  
  • 日本が独立したのは1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効時であるが、本来この時期以降、速やかに憲法を改正し、国家主権を憲法に明記すべきであった。  
  • 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、その後、マッカーサーが警察予備隊の創設及び海上保安庁の増員を指令したことは、米国の対日政策の大幅な変更があったということである。その後、警察予備隊は、保安隊、自衛隊となった。こうした事実を顧みて、憲法論議が深まることを期待している。

岸本 周平君(民進)

  • 「立憲主義は、為政者の権力を縛るものである」との基本的認識は当審査会で共有できていると思うが、「近代立憲主義」のもう一つの意味、すなわち、「相対立する世界観や歴史観が存在する場合において、国が国民にその考え方を押し付けないこと」が重要なのである。自民党憲法改正草案には一定の価値観を押し付ける部分があるため、我々はこの観点から「立憲主義に反する」と主張しているのであって、護憲主義との意味で立憲主義の文言を使用しているわけではない。

太田 昭宏君(公明)

  • 立憲主義とは、「国民の基本的人権の保障のために、主権者たる国民が、名宛人である国の権力の行使について制限を与え、縛り、原則を定めること」が基本であるが、国家と国民の関係性についても論じてもらいたい。  
  • 現行憲法の中で極めて重要なのは13条の「個人」の尊重であり、そこから、平和主義や主権在民が描かれるという構成になっている。よって、13条の「個人」とは一体何であるかという人間観、人間哲学をしっかり論議すべきである。  
  • 教育学者の梶田叡一先生が、「我の世界」と「我々の世界」の両面を磨くことが大事だと指摘しており、全く同感である。東洋の思想において、人間とは「じんかん」と読む。人間(にんげん)の生命自体の充実・開花と同時に、人と人との間という人間(じんかん)をどう充実させていくかということがあって初めての人間観なのであり、「我の世界」をもっと掘り下げて磨いていくことが大事である。  
  • ヨーロッパではどちらかというと人間中心主義的な人間関係だったと思うが、東洋思想における「我々の世界」や「人間(じんかん)」の中には、自然や動植物も含めた人間観が包摂されている。環境権については、13条の「生命」の中にどのようなものを組み込んで、この権利をどのように表現するかを模索する時期に来ていると思う。  
  • 教育基本法改正の際に、ナショナリズムではなくパトリオティズムという国家観を表現しなければならないと強く主張した。「愛国心論争」の結果、これは「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という条文になった。ケネディの「自分が国のために何をなせるかを問え」という有名な演説があるが、この場合の「国」という概念も、パトリオティズムを表現したものである。  
  • 以上、立憲主義の肝は13条にあり、そして13条の肝は個人の尊厳、「人間(じんかん)」の尊重であることを主張したい。

枝野 幸男君(民進)

  • 自民党憲法改正草案は、24条を始め、いろいろと新しく人権制約に向け条項が加えられているところが立憲主義に反する。いくら基本的人権の尊重をお題目で唱えても、法律をもってしても侵してはならない人権が憲法でどのように保障されているかが問われているのである。  
  • ぜひ共有してもらいたいことは、現行憲法の基本的人権においては、表現の自由も絶対ではないということである。経済的自由権は、公共の福祉の名の下に幅広い制約が認められ、表現の自由などの精神的自由権は、他人の人権を侵してはならないという調整原理としての公共の福祉の下に制約を受ける。  
  • これは、最高裁の確定判決である。従来から定着した最高裁判例の文言を引用し、制約について確認的に規定するのならばともかく、それを超えた制約規定を設けることは、従来の人権の衝突による人権制約を超えた制約を意図している案、つまり、基本的人権を守るという立憲主義の精神に反する案だと指摘されることはやむを得ない。  
  • 安保法制と立憲主義の関係についての中谷幹事や遠山委員の話は、まっさらな状態での解釈としてならば十分成り立つものであり、昭和47年見解についての見方も、当時のまっさらな状態における見解とすれば成り立つと考える。9条も、まっさらな状態で解釈すれば、自衛隊違憲論、個別的自衛権違憲論も成り立ち、集団的自衛権も読み取ることが可能である。  
  • 事柄の本質は、憲法によって縛られている権力の側が、長年に渡って積み重ねてきた解釈について、その根幹を動かすことだ。47年見解以降も、何の留保もなく集団的自衛権は違憲であると中谷幹事も高村議員も繰り返してきた。権力の側が、自分達を縛っているルールの解釈、40年に渡って積み重ねてきた解釈を、一方的に覆すことは立憲主義に反する。それゆえに憲法違反なのである。それを正当化する説明が中谷幹事や遠山委員の話では全く示されていない。  
  • 違憲立法審査の強化は党のコンセンサスである。しかし、憲法裁判所や抽象的違憲審査制度を導入する場合には、司法の政治化というリスクを相当考慮しないと危ない。  
  • 現在の司法消極主義や具体的違憲審査制がこのままでいいとは思っていない。一定の強化の方向に進むべきであるが、その場合、政治性を帯びることなく、憲法問題をジャッジする裁判官をどのように選ぶのか、国民の信頼を得られる機関を作れるか、ということを相当慎重に検討しなければならない。

根本 匠君(自民)

  • 立憲主義の一つの考え方として、次のようなものがあると思う。@他の法形式と区別して制定される成文法(憲法)があること、Aその成文法が、政府の正統性の唯一の法的根拠であること、Bその成文法は、個人の自律的存在性を尊重する趣旨に立つ基本的人権を保障し、権力の濫用を防止するための統治構造(権力の分立ないし抑制・均衡)を定めていること、Cその成文法は、他の法形式に対し優位し、その優位性を確保するため、独立の機関(司法裁判所など)が違憲審査権を持つこと。立憲主義とは、このような憲法を土台として国を運営する方法をとることという考え方である。  
  • したがって、基本的人権の尊重、権力の分立・均衡、憲法の最高法規性、独立機関への違憲審査権の付与が維持されていなければ、その国が憲法を持っているとは言えない。  
  • 憲法を改正する場合には、立憲主義の精神に沿ったものである必要がある。例えば、個人の権利・自由の保障や民主主義を否定する改正は許されない。 ・ 
  • 一方で、基本的人権の尊重という基本原則が維持される限り、個々の人権規定について多少の改正を加えることは認められる。国民主権については、憲法改正の国民投票を廃止する改正は許されないとしても、憲法改正の発議要件を一切変更してはならないと考えるかどうかは、議論のあるところである。平和主義については、戦力不保持を定める9条2項の改正は一切不可能とまで解する必然性があるか、議論の余地がある。  
  • 古屋幹事から、緊急事態について、立憲主義の観点からの提起があった。私はこういう議論もあると思う。今後、憲法改正を議論するに当たっては、立憲主義や改正の限界の考え方をよく踏まえる必要がある。その上で、現在我が国が置かれている状況を考慮して、憲法に今日的な視点を取り入れていくことも忘れてはならない。当審査会においては、そうした観点から具体的な改正案が十分に検討されることを期待する。  
  • 平和安全法制が立憲主義に反するとの批判は当たらない。
  • 個別具体的なテーマになるほど議論が深まり、闊達になるので、今後の審査会において、テーマを具体的に絞って議論していくことが必要である。

山尾 志桜里君(民進)

  • 前回の憲法審査会で、憲法の規律密度に関して複数の委員から言及があったが、規律密度の低さは改憲の必要性に直結しないと考える。憲法には、普遍的な価値を次世代に引き継ぐ役割があり、規律密度の低さは、この役割を果たすために一定程度維持すべき知恵である。  
  • 人権規定は規律密度が相対的に低いが、それを埋める役割を膨大な判例の蓄積が担い、憲法の安定性と時代の変化に伴う可変性を両立させてきた。新しい人権規定を議論するには、その判例蓄積を正確に把握分析した上で、いかなるエッセンスを明文化すれば保障の実効性を高めることになるのか、精緻な作業と丁寧な検討が必要である。  
  • 統治の規定は比較的規律密度は高い。しかし、昨秋には総議員の4分の1を超える議員が53条に基づき臨時国会の召集を要求したにもかかわらず、内閣は憲法上の義務に違反して召集をしなかった。53条のような規律密度の高い憲法規範でも、これを容易に踏みにじる内閣が存在する。  
  • 規律密度が低いから、より精緻にするとの意見があるが、規律密度が高い規範も容易に踏みにじる政権を構成する政権与党が、規律密度を高めるため憲法改正しようと論陣を張ることの滑稽さを感じてもらいたい。  
  • 前回の憲法審査会で、バリューフリー、価値観から離れて変えていくという意見があったが、憲法議論の前提として、党派を超えて価値を共有し続けることが大切である。その価値の中核は、個人の尊厳、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義であり、そのことを憲法審査会で確認し続けることは尊いことである。  
  • 天皇の皇位継承に関し、憲法審査会で速やかに落ち着いた議論をスタートすべきだ。いわゆる生前退位の議論には、2条との関係で特措法が許容されるか否かという大きな論点がある。政局に左右されず、党派を越えて落ち着いた議論をするこの場がふさわしい。  
  • 憲法裁判所についての民進党の見解は、先日武正幹事が発言したとおりである。憲法裁判所の議論には、人事の手続、構成、効果をどう考えるのか、国民の信頼をいかに醸成できるかという極めて困難な課題があるが、この課題を解決せざるを得ないほど、現政権が成立させていく閣法にリーガルマインドのブレーキがかかっていない現状を憂いている。

上川 陽子君(自民)

  • 山尾委員から規律密度の議論について滑稽であるとの表現があったが、条文の抽象度が高く条文数が少ないことは日本国憲法の特色の一つであり、この間、憲法典そのものの改正ではなく、法改正や判例の蓄積の中で可変的、柔軟な対応をしてきたこの憲法の大きな位置付けについては評価をしている。
  • しかし、憲法制定70年を経て、この規律密度の低さという視点から憲法の問題や憲法全体の総合的な体系を見直していく、あるいは問題提起をするということを否定することは、それ自体が滑稽ではないか。謙虚にこの日本国憲法の特色を見定め、70年間果たしてきた役割を十分に検証しながら、しっかり議論していく姿勢が大事である。  
  • 枝野委員と山尾委員から皇室典範について発言があったが、憲法審査会の権限の一つである「憲法に密接に関連する基本法制」についての調査は、あくまでも憲法改正の是非を含めた憲法論議に必要な範囲で行われることが前提であり、個別の立法政策の是非という観点から行うことを予定していない。
  • 生前退位に関わる問題を憲法論として議論するには、それに必要な皇室制度、天皇の行為の立法事実に関する資料が必要だが、皇室制度を考えるに当たっての基礎的な事実を把握しているのは内閣である。その内閣で現在、皇室制度について精力的に検討が行われており、論点整理が行われていくものと考えている。現時点で生前退位を憲法審査会で取り上げることは適当ではなく、今後の検討課題として、内閣の論点整理を待ってから、取り上げるべきか否かについて検討をするのが適当である。

細野 豪志君(民進)

  • 東日本大震災は、災害救助法、自衛隊法、災害対策基本法や原子力災害対策特別措置法を含め、既存の法律がフル稼働した場面であった。私が経験した中で言えば、これらの法律がフル稼働することにより法的な制約を感じたことはなかった。しかし、「知事の権限は規定されているが、政府の権限は規定されていない」ということがあるのなら、それは法律の改正により行うべきである。  
  • 自民党草案の98条及び99条は、政府が、白紙委任により、法律を超えて法律に類する規定を制定できることになっているが、立憲主義の考え方及び我が国の在り方として好ましいものではない。むしろ、あらゆる事態において、立憲主義の観点から国会が機能するようにしておくことを考えるべきである。国権の最高機関であり、全国民を代表するのは国会であるという観点から、国政選挙の延期並びに国会の定足数について検討すべきである。  
  • 東日本大震災時、被災地域で地方選挙を延期したが、法律事項なので可能であった。国会議員の任期は憲法に規定されており、国政選挙は延期できない。国会議員の任期が迫り、選挙になっていたならば、相当の混乱が予想された。大いに議論をすべきである。ただし、国会議員の選挙の延期を内閣が判断するのはふさわしくなく、国会自身がその必要性を判断すべきである。  
  • 定足数について、現行憲法では本会議において3分の1以上の出席がなければ議決できない。例えば多くの議員が住んでいる赤坂宿舎が被災し、多くの議員が命を落とすことも想定しなければならず、定足数要件を満たせない場合には法律が一本も通らないということも起こり得る。いかなる事態においても議会が動く状況を作っておくことを考えなければならない。  
  • 自民党草案の緊急事態に対しての考え方と私の考えには相当開きがあるが、国民を守るための前向きな改正の議論ができるなら、それ自体否定すべきではない。

古屋 圭司君(自民)

  • 細野委員からの指摘について、東日本大震災の際に現行法制が稼働しなかったのは、憲法に明確に規定された職業の自由、居住の自由や財産権に違反する可能性があるとの懸念があったためである。立憲主義の視点に基づけば、憲法に裏打ちをしておく必要がある。  
  • 衆参両院議員の任期延長の考え方については賛同する。

枝野 幸男君(民進)

  • 憲法審査会の設置根拠である国会法11章の2は、船田委員や保岡委員と一緒に作ってきたものだが、私どもの理解は上川幹事の理解とは異なる。そもそも、実質的意味の憲法と日本国憲法という憲法典にはずれがあるのであり、実質的意味の憲法だが憲法典以外に規定されているものもあれば、憲法典の中に実質的には憲法ではないものも含まれている。憲法審査会としては、実質的意味の憲法であれば憲法典以外の部分も当然議論しなければならないのであって、皇室典範における皇位継承問題はまさに実質的意味の憲法であるから、ここで議論しないというのはあり得ない。  
  • また、「政府が論点整理をしている」という話だが、そうであれば整理を待って議論してもよいが、政府はいきなり法案を提出するつもりなのではないか。皇室典範の改正は、国会が、議員立法で全会一致により行うべきである。  
  • 古屋幹事から、憲法上の疑義があるから災害救助法等の規定が使われなかったとの発言があったが、どこにそのような指摘があるのか。野党や多くの憲法学者から憲法違反と指摘されたものについて「合憲」と言っていながら、指摘がほとんどないものについて「憲法違反の疑義がある」と言うのは便宜主義である。

山下 貴司君(自民)

  • 国民が憲法を制定し、憲法で定められた権利、自由の保障の下、三権分立の権限の中で各機関が立法、法執行、法解釈を行い、憲法論についても国民の代表からなる国会において議論し、必要があれば国民投票をもって憲法を改正する。これが、立憲主義であり、国民が憲法制定権力たる所以である。それに照らせば、憲法上授権されていない権利や権限について憲法上の拘束力を認めることは、むしろ立憲主義に反するのではないか。  
  • 内閣における憲法解釈を、一内閣で変更するのは立憲主義に反するという指摘があるが、最高裁による憲法判断とは異なり、行政権による憲法解釈については、法的拘束力を認める憲法上の根拠がない。比較法の観点からも、憲法上の根拠なしに行政権による憲法解釈に拘束力を認めている国はない。  
  • この点について、昭和29年に、緒方竹虎副総理は、「新しい内閣が閣議を以って決めればその意見が前と違っていても差支えない」旨を、佐藤達夫法制局長官は、「人間には進歩があり、その進歩によって解釈が段々と進化を遂げていくことは否定できない事実である」旨を答弁した。これは、法的安定性を無視するという議論ではなく、法的安定性は重要であるが、法的拘束力とは違うということである。  
  • 従来の憲法の文言の枠内で、従来の法的論理の根幹を変更せず、根幹から導かれる副次的な論理や当てはめを変更することは、必ずしも法的安定性を害するものではない。集団的自衛権の解釈変更については、我が国を防衛するため、限定的な集団的自衛権を昨今の国際情勢に即して解釈変更するものであり、最高裁の砂川事件判決に反するものではない。昭和47年資料が示した「基本的な論理」を踏まえつつ、安全保障環境の変容を踏まえて「当てはめ」を変更したに過ぎず、これまでの解釈との論理的整合性と法的安定性は保たれている。  
  • なお、「積み重ね論議」というものがあるが、内閣法制局の解釈を行政府として可能な限り尊重することは必要であるが、必ずしも法曹資格を持たない官僚の答弁に、憲法上の法的拘束力を認めるのは、かえって立憲主義にふさわしくない。
  • 集団的自衛権を認めるための憲法改正又は憲法解釈の変更の必要性については、2012年のアンケートで、現在の民進党所属の衆議院議員の約4割が賛成又はどちらかと言えば賛成としており、野田幹事長も、岡田前代表も、過去に同趣旨のことを言っている。それらは決して立憲主義をないがしろにしたものではないと信じる。

山田 賢司君(自民)

  • 憲法無効論はとらないことを前提に話したい。
  • 大日本帝国憲法の改正の限界を超えた改正を行ったのが日本国憲法である。改正の限界を超えた日本国憲法への改正を行った帝国議会の議決行為は立憲主義に反しないのか。さらには、日本国憲法制定後も、GHQによる人権制限が行われていたが、日本国憲法はGHQを縛ることはできなかった。  
  • 主権を守ることがいかに大事か。日本国憲法は、制定後もGHQから日本国民の人権を守れなかった。だからこそ、他国を侵略してはならないのと同時に、二度と他国に侵略・占領されてはならないことを肝に銘ずべき。だからこそ、自衛権が存在する。日本の主権を守ることが、ひいては一番重要な日本国民の人権を守ることにつながる  
  • 自衛権は無制限ではなく制限をかけるべきと考えるのであれば、立憲主義の観点から、憲法に明記すべきである。

足立 康史君(維新)

  • このような議論は「勉強」にはなるものの、既に憲法調査会時代に議論が尽くされた上で報告書がまとめられている。憲法審査会になってからもこのような「勉強」が続けられているが、我々は、先の参院選の結果も踏まえれば、そろそろ本格的な憲法改正原案の審査のフェーズに入らなければ、国民から負託を受けている国会議員の責任を果たすことができないという危惧を抱いている。特に、民進党には、憲法改正についての見解を是非まとめてもらいたい。  
  • 前回の憲法審査会で、細野委員が「党としての考え方をまとめていくべき」と発言したので、武正幹事に確認したい。民進党は将来、党としての憲法改正の考え方をまとめるつもりはあるのか。

安藤 裕君(自民)

  • 自民党の憲法改正草案についていろいろな意見が出ているが、自民党は立党したときから自主憲法の制定を党是としてきた。
  • 保守主義についても意見があったが、保守主義は理想主義を否定し、経験知に基づく立場である。私たちは保守主義者であるから、この保守主義の原点をどこに置くかが問題となる。戦後70年間の積み重ねに対して価値観を置くのか、それとも日本の千年以上にわたる歴史の積み重ねに対して価値観を置くのか、ここに一番大きな差があるように感じた

宮崎 政久君(自民)

  • 「立憲主義」を持ち出して、現行憲法は一文字たりとも改正できないという考え方は、歴史を学んでおらず、思考停止している。また、「立憲主義」を無用なレッテル貼りや、議論に入ることをいたずらに引き延ばすようなことに使うべきではない。  
  • 近代立憲主義は歴史的に形成されてきた概念である。1215年のマグナカルタに代表される「王も神と法の下にある」と言われた時代は、国王の権力に対して封建領主がその権利を守るために国王に王権制限を認めさせていった。その後、都市の市民の力が強くなっていく過程で、普遍的な市民の権利が主張され、王権を制限する法の中身が市民の権利を守るものに実質的に変化していった。イギリスであれば、1628年の権利請願やその後の権利章典で近代立憲主義として確立された。  
  • 近代立憲主義は、国家と国民を二項対立で捉えることが前提として考えられているが、自民党の憲法改正草案もこれらの考えを否定しているものではない。国家と国民の間に緊張関係をはらみながら、憲法に何を規定すべきか、また、目指すべき国家像、伝統や歴史や将来像を示すことを提案した議論をしている。  
  • さらに、立憲主義には現代的な変容もある。立憲主義を根拠に憲法を改正してはいけないというのは、立憲主義の歴史的経過に学んでいない思考停止としか言いようがなく、そのような議論は成立しない。  
  • 自民党草案102条の国民の憲法尊重義務、12条及び21条2項の「公益及び公の秩序」について指摘があったが、こうした新たな規定を定めることや、平和主義を堅持したうえで自衛隊を憲法に明記することは、時代の進展に応じた日本人の英知と経験知の結集として示されているものと考えている。

武正 公一君(民進)

  • 立憲主義等については、まだ議論を深めていく必要がある。
  • 先程の足立委員の指摘のとおり、各党の見解が示されなかったり、明確でなかったり、あるいは、委員間の発言が異なるということがあるので、民進党は役員会を中心に総会を含め精力的に党としての議論を深めていきたいと思っているが、各党においても議論を深めてもらいたい。