論文優秀者(猪瀬 哲男)

憲法調査会に望むもの

無職
猪瀬 哲男

 この稿は特に「護憲」の立場から書かれる。

 憲法調査会は、現在、憲法の制定経緯について調査を行っている、と言う。いわゆる米国による「押し付け」論を問題とし、日本が独自に制定する憲法を持ちたい、押し付けられた部分を削除したい、との信念から制定経緯を調べている。この考え方は極めておかしいと思う。つまり条文の是か否かを論じようとしていないからだ。

 元々現日本国憲法は、敗戦という膨大な犠牲を払って、米国から与えられたものだ。同時に「帝国主義」「軍国主義」を捨てて米国から「民主主義」が与えられた。

 戦後米国から与えられた民主主義思想は有り難く受け入れるが、同時に与えられた憲法は受け入れ難い、との思考には大きな矛盾がある。何故ならば、憲法には民主主義的本質がふんだんに盛り込まれているからだ。換言すれば、憲法の否定は、民主主義思想の否定に繋がる。

 戦後五十余年を経て、民主社会も形態的に大きな変化が見られる。では、形態が変われば思想も変えるのか。民主的思想にも問題がないとは言わない。けれども今の社会の現状を見て、すぐにも民主主義をやめる、とは誰も発想しないだろう。

 民主憲法に於いてしかり。憲法が示す理念と社会の現状は、あまりにも乖離し過ぎている。これは日本国民自らが、理念から乖離する社会の形成を望んだ訳ではなく、多くの場合、五十余年の歳月をかけながら、多くの国会議員達がなして来たことだ。第九条に武力は保持しないと書かれていながら、自衛権のどうのこうのと屁理屈を付けて軍備を備えてしまったのが良い例だ。これは憲法に問題があるのではなく、運用する側の人間に問題がある。憲法は改正すべし、と唱える人間の側に問題がある。第九条が示す「平和主義」のどこに疑問があるのか。それ程戦争がしたいのか。そのくせ、第九条を書き直して自衛隊の海外派兵を目論むやからは、決して最前線には出ない。自分は絶対安全の域にいる。第九条の書き直しを主張する者は、イザと言う時敵弾飛び交う最前線に立つ覚悟と責任を持つべきなのだ。

 衆参両議員は、乖離し過ぎている現実社会を、憲法の理念に近づける努力をすべきである。「平和主義」だけではない。「国旗・国歌法」などは明らかに憲法の定める「国民主権」に反している。国会の政府側の発言で、「君」は象徴天皇である、とする考え方は、国民が主権者である日本の憲法の精神に反する。憲法の精神に反する法律はすべて無効だとする原則から言えば、「国旗・国歌法」は無効な法律である。常に法治国日本は、憲法の精神が最優先する。

 第三番目の柱である「人権」についても同様のことが言える。例え犯罪人といえどもその人権は擁護される。

 「平和主義」「国民主権」「人権」の三本柱のどこに疑念があるのか。どこに瑕疵があるのか。成立過程を云々する前に、条文内容のどこに不都合があるのか、その検討がなされない憲法調査会の活動は無意味である。

 英文の翻訳が稚拙だとか、日本文としての美しさに欠ける、など言われている。それはそれでいいではないか。憲法が規定する精神さえ読み取れれば、些細なことには目をつぶろう。この憲法が示す精神の素晴らしさを、しっかりと読み取ろう。

 スタートから「改憲」を目論む憲法調査会に「護憲」を唱えても、全く無駄かも知れない。只、私の護憲論が新聞の投書欄に掲載された時、わざわざ電話番号を調べてまで多くの人々から反響があった。今、その声に励まされて護憲を主張し続けている。

 制定の過程で、多分米国は大きなミスを犯しただろう。「軍備放棄」の項目を入れて、発布の後に気が付いた。「米ソ対立の時代、日本をソ聯の盾に役立てぬ手はない」と。あわてて吉田首相(当時)を呼び、急ぎ警察予備隊を発足させる。その後自衛隊に進化させるのは米国の意向通りである。

 例え米国の思惑違いであろうと、一度手に入れた「平和主義」は絶対に手放すべきではない。

 憲法調査会は、制定経緯などの枝葉の問題に目を向けるべきではない。「平和主義」と「国民主権」と「人権」の三本柱のどこに瑕疵があるのか。この基本的精神のどこに間違いがあるのか。その点をしっかり見据えるべきである。