論文優秀者(財前 謙)

憲法調査会に望むこと

吉祥女子中学・高等学校教諭
財前 謙

 衆参両院は今年一月憲法調査会を設置し、本格的に憲法について議論することとなった。四月十五日の読売新聞には、この三月に実施した同社の「憲法に関する全国世論調査」の集計結果が示されている。これによると、憲法改正支持は過去最高の六十パーセントに達し、国際貢献をはじめとする現実問題への対応が国民の側から求められていることをはっきりと読み取ることができる。またこの調査では、従来からその議論の中心となってきた第九条「戦争放棄・自衛隊の問題」に加えて、環境権やプライバシー権など戦後の日本社会では考えるにもおよばなかった新しい権利に対して国民が強い関心を抱いており、第九条の議論とともに二十一世紀百年の未来を見据えた憲法の有り様が期待されている。

 私が読売新聞の同調査の集計で最も興味を持ったのは、憲法調査会の姿勢に対する意見のデーターである。国民は憲法調査会に対して、「憲法改正を前提にしてほしい意見」、「現行憲法の維持を前提にしてほしい意見」、及び「前提を一切設けないでほしい意見」とがそれぞれ三十パーセントで三分されているのに対して、憲法調査会委員へのアンケート調査では、「憲法改正を前提に議論する」が四十五パーセントで、「現行憲法の維持を前提に議論する」の九パーセントを大きく引き離している。これは委員各氏の所属する政党の考え方や立場の違いと議席勢力の数に関連するものと思われるが、憲法調査会委員各氏には所属政党の方針や選挙への影響抜きに議員個人の良識と考えに立った今後の議論を期待したい。これまでの議論(例えば自衛隊は合憲か違憲かの論戦)のように、二者が対立し、どこまでも二本のレールの上を走り続けていくような国会を国民はけっして望んでいない。はじめから結論ありで対立する意見のみがぶつかり合うだけならば、これは低級な民主主義と言わざるをえない。個人の持論や政党の主張はそれとして、それを超えるだけの想像力と柔軟性をしっかり持ってほしいと思う。いわば求めるべきは議員一人ひとりの知性とその高さである。

 私は知性の一つの典型として江戸末期に越後に生きた禅僧・良寛をよく考える。その良寛は「料理人の料理と書家の書」を最も嫌ったと言われている。「料理人の料理と書家の書」とは一体どういうことであろうか。人は何かを身につけマスターしていく時に、まず基本的なことから入っていき、次第に専門的な内容を深めてゆくことを常道とする。良寛とてその基本を学ぶことを否定するはずはないだろうが、学んでゆくうちに自分そのものを忘れてしまうことの危険性を彼は知っていたのだ。自分が学んできた道だけしか見えなくなってしまい、その道に精通すればするほど自己の正当性を信じて疑わない愚かさを人は持っている。良寛が嫌ったのは型に嵌ってしまうことであり、彼はその型から抜け出して己の世界を構築し表現できた人物である。これまでの己を超えることは実に難しい。

 話をふり出しに戻したい。憲法調査会の委員へのアンケートには党の主張が色濃く出た結果が示されている。委員各氏には今改めてその持論や主張がどこから来てどのように自己の中に根づいたものなのかを顧みてほしいと思う。これが本当に顧みられたときに、これから始まる憲法論議は本物となるであろうし、この大切な問題を安心してお任せできるものと期待する。

 私が憲法調査会に望むのは憲法に対する学識や主張以前にあるべき個人の柔軟性であり、他の意見にもしっかり耳を傾けることのできる謙虚さと平衡感覚であり、これこそ知性と呼ぶべきものである。そこに私は真の政治家の姿を見たいと思うし、具体的な中身の議論はそれからでもけっして遅くないと考えている。