論文優秀者(柴崎 敦史)

憲法調査会に望むもの

中央大学学生
柴崎 敦史

 現行憲法は、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という三本の柱によって、戦後日本の復興と発展を支える、非常に大きな役割を担ってきた。

 現行憲法が制定され半世紀が経過したが、一方で、冷戦の終結・地球規模での環境破壊の進展・情報社会化・少子高齢化などに伴い、現行憲法制定時には想像もできなかった問題が顕在化してきている。

 しかしながら、世界で十五番目に古く、またその中でも最も改正が困難な硬性憲法である現行憲法は、この間、一文言も改正されてこなかったのである。

 たしかに、柔軟な憲法解釈により、社会の変化に対応することも、英知であろう。しかし九条や八九条など、既に解釈の限界に達していると思われる問題に加え、福祉や環境、また危機管理の問題など、国民の生活に密接に関わるにもかかわらず憲法に明文規定が欠けている、若しくは充分な規定がなく、現実への対応に困難が生じている問題も多い。

 また、国の根幹にかかわる憲法が、解釈次第でいかようにも変えられうるというのは、国民にとってわかりづらく、また外国に対しても不信を招来するものといえるだろう。

 加えて現行憲法は、外国の占領下に、その指導の下、非常に急がれて制定されたものなので、それが「押し付け」なのかの問題は別にしても、日本の文化にそぐわない面や、日本語として、日本人に馴染みにくい文言・形式があることは否定できないと思われる。この点も、国民にとって現行憲法が遠く感じられる原因の一つなのではないだろうか。

 憲法調査会には、日本の憲法が、二十一世紀の日本の基本法として有効に機能しうる時代に則したものとして、また日本の文化に合い日本人に真に馴染むものとなるよう、憲法改正も視野に入れながら、議論していただきたい。

 では、日本人に真に馴染む来世紀の日本の基本法として、どのような憲法が望まれるのであろうか。私はここで特に、基本的人権と公共の福祉の関係について述べたい。

 現行憲法は個人の尊重という理念のもと、基本的人権と法の下の平等を定める。この理念は崇高であり西欧型近代市民社会の発展に不可欠なものであったことは否定できない。現行憲法は近代民主制の制度を広く取り込んだ理想的憲法であったと言えるだろう。

 しかし近代が終わり現代となった今、日本社会においては、権利・自由の面が一人歩きしており、自由をはき違えた、まさに放逸無慙というべき状態がある。また「法の下の平等」が、機会の平等ではなく結果の平等を意味してしまっており、健全な競争が阻害され歪んだ社会になってしまっていることも否めない。規律と公共心が失われた二十一世紀の日本は、内部崩壊のおそれすらあるだろう。

 ここで思い出されるのは、小渕恵三前総理が教育改革国民会議で推奨された「自由と規律」という本である。自由主義・民主主義の先進国英国の教育において、自由の前提である規律と公共心がいかに大切であるかが指摘されているが、これは日本の教育のありかただけでなく日本の社会のありかた、憲法のありかたをも示唆するものではないだろうか。

 すなわち、憲法も、ただ単に個人の尊重を最高価値として謳うに留まるのではなく、一つの国の中で異なる価値観を持った人間が社会生活を営んでいく規範、すなわち「共生の規範」として再構成されるべきなのである。

 これに対しては、伝統的憲法観、すなわち個人の尊重こそが最高の理念であるという考えから、背理だとの批判がなされるだろう。

 しかし、高度情報化に伴う社会構造の激変や経済成長による過度の繁栄は、従来の憲法観だけでは捉えきれない複雑な社会を産み出した。このような現代社会で国民一人一人が円滑・健全に暮らしていけるためにも、これからの憲法は、公と私の役割分担を定めるものであるべきであり、従来の権利付与中心の憲法観は変えられてしかるべきなのである。

 そこで、現行憲法の古典的人権の列挙と公共の福祉という曖昧な規定を改正し、環境権・プライバシー権など新しい人権の規定とその制約原理を具体化する。そして権利・自由の濫用を戒め社会正義を実現するため、各人権に内在する制約として「公共心」の精神を入れ、公と私の役割分担を明確にしつつ、法の下の平等は、機会の平等であって結果の平等ではなく、また法の下の平等といっても、長幼の序など、日本の文化にいきづく秩序があることを、例えば前文に、明文をもって組み入れる憲法改正を提案したい。

 二十一世紀に日本が繁栄し続けるため、現行憲法の良い面は継承しつつも、日本の「来し方行く末」や日本のめざすべき姿を描きだす憲法に改正すべき時が来たのではないだろうか。

 憲法改正は、国会の発議により制定権者である国民が決するものである。国会は発議を躊躇しないでいただきたい。