衆議院

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平成二十二年六月三日提出
質問第五三五号

宮内庁に管理されている古墳の祭祀と調査に関する質問主意書

提出者  吉井英勝




宮内庁に管理されている古墳の祭祀と調査に関する質問主意書


 宮内庁によって皇室の祖先の墓とされ、陵墓(陵墓参考地含む、以下同じ)として管理されている古墳(以下、陵墓と略)について、宮内庁は「陵墓の保全工事に伴う調査の際の見学の実施や調査結果の公表等に努めている」というが、一般市民による見学は全く不可能である。たとえ研究者であっても限定的かつ、ごく少人数の立ち入りが「許可」されているにすぎず、その範囲も墳丘裾の管理用巡回路までにとどまり、墳丘全体の詳細な形状や規模等を外形的にも把握、確認することすら不可能である。この実態は、わが国のみならず東アジア全体の歴史や外交の様相等の解明にとっての妨げとなっている。宮内庁によれば、陵墓は皇室によって祭祀が継続して行われている「生きた墓」で、「静安と尊厳の保持が最も重要」であり、発掘や立ち入りは「厳に慎むべきこと」であるという。
 よって、次のとおり質問する。

(一) 陵墓については「現に皇室において祭祀が継続して行われ、静安と尊厳の保持が最も重要である」という政府見解はいつ作られたものか。また、「生きた墓」とは、いかなる概念か。具体的に説明されたい。
(二) 陵墓には宮内庁が立ち入り等を禁じる意思を示した看板が置かれている。この立ち入り等を禁じる看板はいつから置かれているのか。
(三) 陵墓は国有財産法上、皇室用財産として宮内庁が管理しているものと思うが、学術目的での自由な立ち入りまでも禁止する法的根拠はどこにあるのか。自由に陵墓に立ち入ったり墳丘に上ったりすることは、法的に禁止されているのか。
 宮内庁が陵墓の管理上、研究者をはじめ国民が陵墓に立ち入ることすら禁じる権原はどこにあるのか。
(四) 陵墓の調査は、宮内庁職員によるものであれば静安と尊厳が保持され、それ以外の研究者によるものであれば静安と尊厳が保持されないのか。そうであれば、その理由を詳細に答えられたい。
(五) 昨年、私が提出した質問主意書(二〇〇九年六月二十九日提出の質問第六一一号)において、皇室の起源と実在が不確かな皇室の祖先について見解を求めた。これに対し「宮内庁としては、古代の皇室の歴史については、歴史学者の間でも諸説あるものと承知している」と答え、明確な見解を示すことができなかった。起源や存在について、政府自身の見解を答えることができない者が葬られているのなら、その埋葬地である古墳や出土品を宮内庁が管理することは不適当ではないか。
 また、政府の見解として起源や存在を明らかにできない人物が埋葬されているという土地に対し、祭祀や管理の費用を国費から支出する根拠は何か。
(六) 陵墓においては皇室によって、宮内庁が被葬者と定めた者の没後百年ごとに式年祭等の祭祀が行われているが、これは皇室祭祀令に基づくものなのか。皇室祭祀令は日本国憲法施行日の前日に廃止されている。皇室祭祀令でなければ式年祭等の祭祀は何に基づいて行われているのか。明確に示されたい。
(七) 陵墓における祭祀は、皇室の私的な行為とされている。皇室の私的な行為の対象としている陵墓の管理に国費を充て、それに国家公務員である宮内庁職員が携わることは、政教分離の原則を明確に定めた憲法といかなる関係にあるのか。陵墓の管理に要する費用として毎年、何にいくら支出しているのか。直近十年間について、総額と内訳明細を明らかにされたい。
(八) 本年二月十三日、大阪府堺市の田出井山古墳で「反正天皇の千六百年式年祭」が行われた。また、四月一日には、大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳で「応神天皇の千七百年式年祭」が行われた。この式年祭の主催者は誰か。
(九) 質問主意書(二〇〇九年七月九日提出の質問第六五七号)で、皇室による陵墓の祭祀の起源について質問したが、「宮内庁としては、陵墓における祭祀は、皇室の伝統に基づくものとして古くから行われているものと承知している」という見解を示した。反正天皇の式年祭も応神天皇の式年祭も、何年から皇室の伝統に基づいて行われてきたのか。これまでの式年祭の経緯を詳細に示されたい。
(十) 今年の二月十三日が反正天皇の千六百年の式年祭の日、また四月一日が応神天皇の千七百年の式年祭の日に当たると定めた根拠は何で、誰が定めたのか。
(十一) 二つの式年祭には参列者として、複数の公職者が参加している。二つの式年祭に参列した公職者の氏名と所属等をすべて明らかにされたい。また、皇室の私的な祭祀に公職者が参列することについて、政教分離の原則を定めた憲法との関係をどのように考えているのか。
(十二) 二つの式年祭の内容、手順はどのようなものであったか。また、参列者に対し、男性には「モーニングコート(ベストは黒)・紋付羽織袴」を、女性には「ロングドレス(ローブモンタント)、ディドレス(絹又は絹風のワンピース、アンサンブル等)・白襟紋付(色留袖、訪問着)」等の服装を求めている根拠は何か。
(十三) 宮内庁による陵墓の治定の誤りについて、先の二つの質問主意書と本年二月二十五日の衆議院予算委員会第一分科会の質疑で質した。分科会質疑の中で平野博文官房長官は「では間違っているのかどうか。ここは、少なくとも宮内庁において書陵部長がしっかりとスタッフを抱えてそのことについてきちっとされているというふうに私は信じているところでございます」と答弁しているが、この官房長官の信頼、信用は正しいのか。
 宮内庁書陵部陵墓課には考古学を専攻した陵墓調査官をはじめ研究職職員が配置されているが、これら研究職職員は、
  @ 五世紀半ばに築造されたと考えられる大阪府茨木市の太田茶臼山古墳に、六世紀前半に没したといわれる継体天皇が葬られていること
  A 三世紀後半から四世紀初めに築造されたと考えられる奈良県天理市の西殿塚古墳に、六世紀の継体天皇の妃が葬られていること
  B 五世紀前半に築造されたと考えられる奈良県奈良市の市庭古墳に、九世紀の初頭に没した平城天皇が葬られていること
これらについて、どのように調査・研究をしているのか、明らかにされたい。
(十四) 最古級の前方後円墳と考えられている箸墓古墳(奈良県桜井市)には、宮内庁によると、ヤマトトトヒモモソヒメが葬られているという。また、ヤマトトトヒモモソヒメは孝霊天皇の娘であるという。ヤマトトトヒモモソヒメと孝霊天皇はいつ存在した人物かを、先の質問主意書(質問第六一一号)で問うたが、その答は「『日本書紀』等によれば、倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇の皇女とされているものと承知している」「宮内庁としては、古代の皇室の歴史については、歴史学者の間でも諸説あるものと承知している」というものであった。
 近年の研究成果から、箸墓古墳の築造時期は三世紀を下ることはないと考えられている。ヤマトトトヒモモソヒメが孝霊天皇の娘であるなら、孝霊天皇の墓地の時期は、箸墓古墳よりも古いかほぼ同時期であるはずである。宮内庁によって孝霊天皇が葬られているとされている「片丘馬坂陵」(奈良県北葛城郡王寺町)はいつ築かれたのか。またそれは箸墓古墳より古い時代、弥生時代の墓地なのか。箸墓古墳と同じ時期の古墳なのか。学説でなく、宮内庁の見解を明確に答えられたい。あわせて、孝霊天皇片丘馬坂陵の配置を分かりやすく明示されたい。
(十五) 宮内庁による陵墓の治定は幕末から二十世紀初頭までの間に、「万世一系の天皇」をうたった帝国憲法下の「皇統」を視覚化するために行われた。現在の宮内庁は、被葬者の治定の正否についての検証を行っているのか。宮内庁には、かつての陵墓治定の正否についての検証を禁じている内規や規程等があるのか。また、宮内庁には、陵墓の治定について、研究成果に基づいてこれを改めることを禁じる内規や規程等があるのか。
(十六) 本年二月二十五日の衆議院予算委員会第一分科会の質疑において、「陵墓の立入りの取扱方針」の中で、書陵部長が立ち入りを許可する者の対象に国会議員が含まれない問題を取り上げ、国会で国有財産法上の皇室用財産を質疑する国会議員が陵墓の立ち入りの許可対象外となっている事態を是正するよう求めた。答弁に立った平野官房長官は「学術的観点から、今先生御指摘のところについての範囲がどこまでなのか、国会議員といっても、専門家の方もおられるわけでしょうし、そういう観点からどうあるべきかということについては研究してみたい、このように私は思います」と発言した。研究の結果、国会議員は立ち入りの対象に含まれるようになったか。
(十七) 大阪府の誉田御廟山古墳の外濠と外堤の一部は「応神天皇陵古墳外濠外堤」という名称で国指定の史跡に指定されているが、この古墳の被葬者は誰なのか、確実に判明しているのか。文化庁の見解を問う。判明しているとすれば、いつ判明したのか。
(十八) 二回の質問主意書(質問第六一一号、質問第六五七号)で、誉田御廟山古墳の被葬者が明らかでない以上、正しい歴史認識を広めるためにも史跡の名称を「誉田御廟山古墳外濠外堤」へと変更するよう求めたが、答弁書では「地域で親しまれている名称など、当該史跡を最も適切に指すものを名称としており、名称を変更する必要はないと考える」との旨の見解を示した。誉田御廟山古墳は宮内庁が応神天皇陵として管理していることから、文化庁は史跡の名称を変更することができないのか。
 一般的に、史跡の名称を変更する必要が生じるのはどういう場合か。
(十九) 「応神天皇陵古墳外濠外堤」という名前で史跡に指定されている範囲は、誉田御廟山古墳の一部にすぎず、史跡指定地範囲外にもこの古墳の外濠や外堤が埋没した状態で広がっていると思うが、なぜ外濠と外堤全域を史跡に指定することができないのか。史跡に指定しないのは、外濠や外堤が存在しないからなのか。
(二十) 仮に誉田御廟山古墳の外濠と外堤の範囲が明確でないのならば、範囲を明確にする必要があるのではないか。範囲を明確化せず史跡に指定しなくても、原状のままでの保存と保護は十分になされているのか。
 また、誉田御廟山古墳全域における既往の発掘調査件数と遺構検出の件数、そのうち原状保存されている件数は何件か。あわせて、調査箇所、遺構検出箇所、そのうち原状保存箇所の配置を分かりやすく明示されたい。
(二十一) 奈良県広陵町と河合町にまたがる馬見古墳群を構成する古墳の一つに全長約二〇〇メートルの前方後円墳・新木山古墳(宮内庁によれば三吉陵墓参考地)がある。今年度、この墳丘は宮内庁によって調査されると聞いているが、調査目的は何で、どのような調査を行うのか。
(二十二) 新木山古墳の被葬者は誰なのか。また、それは、いつどのような調査で判明したのか。被葬者が没したのはいつのことか。古墳の築造時期は、考古学的見地からいつ頃と考えられているのか。
(二十三) 二〇〇八年、大阪府堺市の百舌鳥御廟山古墳において、宮内庁と堺市教育委員会によって「同時」調査が行われた。この古墳は墳丘部分のみが陵墓参考地として宮内庁に管理されている。堺市教育委員会による発掘調査部分は、一般市民にも公開された。しかし、宮内庁による調査部分は、「静安と尊厳の保持の観点」を盾にして宮内庁が公開しなかった。それでも「同時」調査の公開であったため、「これまでは周濠の外から眺めるだけで、隔絶した閉鎖空間に置かれていた陵墓の発掘現場を市民も間近に見学できたことは画期的な出来事だった」と評価する専門家の意見もある。
 新木山古墳は百舌鳥御廟山古墳と同様に、墳丘部分だけが宮内庁の管理部分で、周濠や外堤部分は民有地である。新木山古墳の調査も、堺市の百舌鳥御廟山古墳の調査と同様に、宮内庁と地元教育委員会によって同時に調査を行い、調査結果を市民に公開すべきでないか。
(二十四) 馬見古墳群には、宮内庁によって陵墓参考地として管理されている前方後方墳・新山古墳がある。新山古墳の被葬者は誰なのか。また、それは、いつどのような調査で判明したのか。被葬者が没したのはいつのことか。古墳の築造時期は考古学的見地から、いつ頃と考えられているのか。
(二十五) 新山古墳からは一八八五年、後方部の竪穴式石室から勾玉や管玉等とともに直弧文鏡等の大量の銅鏡が出土しており、これら出土品は現在宮内庁が所蔵している。古墳から大量の銅鏡等の副葬品が発見されれば、その古墳は皇室関係者の墓地となり、宮内庁が管理するのか。
(二十六) 陵墓の副葬品に関し、一九七二年四月二十六日の参議院予算委員会第一分科会で、瓜生順良宮内庁次長は「副葬品とかいうのは、御葬る御遺体と一体となっておりますものについては、これは皇室のものであるというふうに考えております」と答弁している。このことは「陵墓の被葬者の副葬品は皇室の私有財産である」と解釈してよいか。
(二十七) 宮内庁が陵墓として管理している古墳から出土した銅鏡をはじめとする副葬品は、宮内庁が宮廷費を充て管理していると思うが、副葬品は皇室の私有財産であるという解釈のもとで、皇室の私的経費に充てる内廷費でなく、国有物品として宮廷費を充て管理しているのはなぜか。
(二十八) 静岡県沼津市では昨年、辻畑古墳の発掘調査が行われた。調査の結果、三世紀末までには築造された前方後方墳で、東日本では最古級のものと考えられることが判明した。辻畑古墳は、宮内庁が陵墓として管理している箸墓古墳ともほぼ同じ時期のものである。しかし、この辻畑古墳は市道建設に伴って破壊される可能性があると聞いている。古墳の築造時期等、学術的観点からの重要性を鑑みれば現状保存すべきものと考えるが、辻畑古墳は現状保存されないのか。保存されないとすれば、その理由はなぜか。

 右質問する。



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