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答弁本文情報

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平成二十四年二月三日受領
答弁第一号

  内閣衆質一八〇第一号
  平成二十四年二月三日
内閣総理大臣 野田佳彦

       衆議院議長 横路孝弘 殿

衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定変更と公開に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。





衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定変更と公開に関する質問に対する答弁書



(一)について

 古代の皇室の歴史等に関する「古事記」、「日本書紀」等の記述は多岐にわたり、その解釈についても諸説あると承知しており、これらの記述が史実か否かを一概にお答えすることは困難であるため、御指摘の答弁書(平成二十一年七月六日内閣衆質一七一第六一一号)(三)及び(五)についてのとおりお答えしたものである。

(二)について

 陵墓及び陵墓参考地(以下「陵墓等」という。)は、国有財産法(昭和二十三年法律第七十三号)第三条第二項第三号に規定する皇室用財産に該当するものであるため、関係法令の定めるところにより、宮内庁が管理しているものである。

(三)について

 お尋ねの「考古学上の古墳」の意味するところが必ずしも明らかではないが、御指摘の陵墓等については、文化財保護法(昭和二十五年法律第二百十四号)第九十五条が規定する措置の一環として地方公共団体が作成した遺跡台帳に、考古学上の名称が記載されていなかったため、御指摘の答弁書(平成二十二年八月二十日内閣衆質一七五第三八号)(五)についてにおいては、「不詳」とお答えしたものである。

(四)について

 お尋ねの趣旨が必ずしも明らかではないが、御指摘の四十五陵は、「延喜式」に加え、「日本書紀」、「古事記」等の古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づき治定されたものである。

(五)、(七)及び(八)について

 陵墓等の治定替え又は治定解除については、確実な資料が必要であると考えており、御指摘の答弁書(平成二十一年七月六日内閣衆質一七一第六一一号)(十三)についてにおいては、この事理を述べているものである。

(六)について

 お尋ねについては、先の答弁書(平成二十二年八月二十日内閣衆質一七五第三八号)(四)についてで述べたとおりである。

(九)及び(十)について

 陵墓参考地の治定の根拠とされた古記録や口碑伝承の内容が史実であるかを一概にお答えすることは困難であるが、陵墓参考地の治定に当たっては、古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づき、総合的に判断されたものと考えている。

(十一)について

 宮内庁においては、学術論文等を収集するとともに、陵墓等の管理を通して得られる知見を踏まえ、現在も陵墓参考地の考証を行っているところである。

(十二)について

 お尋ねの「今城塚古墳」については、墳丘の長さ約二百メートルの大型の前方後円墳であり、周濠等の跡も良好に認められ、学術上重要と認められたことから、昭和三十三年(千九百五十八年)二月十八日に史跡に指定した。史跡指定範囲は、墳丘、内濠、内堤、外濠及び外堤の一部である。

(十三)について

 継体天皇三嶋藍野陵は、江戸時代の享保年間(千七百十六年から千七百三十六年までの期間をいう。)までに現在地に治定されたものであるが、当時の考証記録は残っていない。明治に至り、宮内省が、古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づき、再考証を行い、現在地が適当としている。

(十四)について

 お尋ねの「太田茶臼山古墳」から出土した埴輪が製作された時期及び同古墳の築造時期については、茨木市教育委員会から五世紀中頃から後半であると考えられると聞いており、「今城塚古墳」から出土した埴輪が製作された時期及び同古墳の築造時期については、高槻市教育委員会から六世紀前半であると考えられると聞いている。

(十五)について

 御指摘の「窯跡群」については、「今城塚古墳」等に置かれた埴輪が製作されていたと考えられる大規模な工房の跡であり、当時の埴輪製作の実態が具体的に捉えられる点で学術上重要と認められたことから、平成三年(千九百九十一年)七月二十日に史跡に指定した。

(十六)から(十八)までについて

 継体天皇三嶋藍野陵、斉明天皇越智崗上陵及び大田皇女越智崗上墓については、「古事記」、「日本書紀」、「延喜式」等の古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づき、治定されたものである。発掘調査等の成果に基づく諸説については承知しているが、宮内庁としては、治定を覆すに足る確実な資料を得るには至っていないと考えている。なお、今後とも様々な調査に基づく学術的成果には留意していく所存である。

(十九)について

 斉明天皇越智崗上陵及び大田皇女越智崗上墓に関する「日本書紀」等の古記録の記述の解釈については、諸説あり、お尋ねのような「記述」の「内容を詳らかに」することは困難である。

(二十)について

 お尋ねの「被葬者」は、文武天皇である。

(二十一)について

 宮内庁としては、御指摘の事柄は広く知られているものであり、皇室の方々のお耳にも達しているものと拝察している。

(二十二)について

 東百舌鳥陵墓参考地の工事は、墳丘裾部が濠水により浸食を受けていることから、その進行を防止するため、墳丘裾部の保護を行うものである。また、事前調査は、工事予定部分である墳丘裾部等に、複数のトレンチを設置して行う予定である。

(二十三)及び(二十七)について

 宮内庁においては、堺市教育委員会が、東百舌鳥陵墓参考地周辺の埋蔵文化財調査を検討中であることから、百舌鳥陵墓参考地と同様に同時調査を行うことについて、同市と協議を開始したところである。

(二十四)について

 御指摘のとおりである。

(二十五)について

 宮内庁は、平成二十年(二千八年)に百舌鳥陵墓参考地において保全整備工事に伴う事前調査を行い、堺市教育委員会は、宮内庁の調査と同時に同陵墓参考地周辺の埋蔵文化財調査を行った。これらの調査においては、調査前に宮内庁と堺市との間で締結した協定に基づいて情報の共有や意見の交換を行ったが、調査の実施主体及び目的が異なるものであったため、同時調査と呼称した。

(二十六)について

 平成二十三年(二千十一年)三月三十一日に堺市教育委員会が発行した「百舌鳥古墳群の調査五御廟山古墳(GBY−六)発掘調査報告書」には、宮内庁及び堺市教育委員会の調査成果の全体が、双方の調査区の配置等が記載された図面も含め、総合的に掲載されている。

(二十八)から(三十一)までについて

 宮内庁としては、陵墓等については、現に皇室において祭祀が継続して行われ、皇室と国民の追慕尊崇の対象となっているので、静安と尊厳の保持が最も重要と考えている。このため、陵墓等の管理に必要な場合を除き、陵墓等への立入りについては、厳に慎むべきであると考えているが、学術研究上の観点からの必要不可欠な立入りの要請に対しては、陵墓等の本義に支障がない限りにおいて、これを許可しているものである。

(三十二)について

 お尋ねの趣旨が必ずしも明らかでないため、一概にお答えすることは困難であるが、例えば、古記録において「山陵」が「撥」かれたとの記述が見られる陵墓等について、その陵墓等の名称、考古学上の名称、所在地、「撥」かれた年の例は、次のとおりである。
 磯長山田陵 山田高塚古墳 大阪府南河内郡太子町 康平三年(千六十年)
 狹城盾列池後陵 佐紀石塚山古墳 奈良県奈良市 康平六年(千六十三年)

(三十三)について

 御指摘の「外濠等」については、大阪府教育委員会からは、周知の埋蔵文化財包蔵地(文化財保護法第九十三条第一項に規定する周知の埋蔵文化財包蔵地をいう。以下同じ。)としていると聞いており、文化財保護の観点から地方公共団体により適切な措置が採られているものと考えている。
 また、御指摘の「外濠等」の範囲については、発掘調査が実施されていない部分もあり、明確にはなっていないと承知している。同法に基づく史跡への指定については、大阪府教育委員会や堺市教育委員会の発掘調査の結果を踏まえて、土地所有者等の財産権に配慮しつつ、検討すべきものと考える。

(三十四)について

 大阪府教育委員会が土師ニサンザイ古墳として周知の埋蔵文化財包蔵地としている範囲において、文化財保護法に規定する届出をした上で行われた調査件数は、宮内庁管理部分は一件、宮内庁管理部分以外は、調査を実施した大阪府教育委員会及び堺市教育委員会から七十四件と聞いており、合計七十五件である。また、お尋ねの「検出件数」は四十五件で、そのうち現状保存されたものは二十八件であり、現状保存されていないものについては、いずれも遺跡の記録を作成していると聞いている。また、同法の規定する届出をせずに行われた調査及び同法施行前に行われた調査については、網羅的に把握していないと聞いている。

(三十五)について

 お尋ねの「明らかに破壊された」の意味するところが必ずしも明らかではないが、堺市教育委員会によれば、百舌鳥古墳群において墳丘が消滅している古墳については、文化財保護法の施行前に消滅したものも含め、六十一基を把握していると聞いている。このうち、同法施行後に墳丘が消滅したと考えられるものは少なくとも九基を把握していると聞いており、この九基については、開発行為に伴う事前の調査によって遺跡の記録が保存されており、周知の埋蔵文化財包蔵地として地方公共団体により適切な措置が採られているものと考えている。

(三十六)について

 お尋ねの史跡の名称については、先の答弁書(平成二十一年七月六日内閣衆質一七一第六一一号)(二十七)についてでお答えしたとおりであり、現在の名称が適切であると考えている。

(三十七)について

 お尋ねの「後円部の等高線とほぼ直角に交わる破線」の箇所は、現在、周囲と判別できない状態であり、「墳丘くびれ部を斜めに横切る破線」の箇所は、現在、切り通し状となっている。「等高線とほぼ直角に交わる破線」の箇所を通路として利用することはない。

(三十八)について

 お尋ねの「研究者個人による申請」については、分析体制等の観点から想定していない。また、これまでに「分析の申請」はない。

(三十九)について

 お尋ねの「科学分析」については、宮内庁として、現時点では、必要ないと考えているが、先の答弁書(平成二十一年七月十七日内閣衆質一七一第六五七号)(二十八)についてでお答えしたとおり、分析実績のある機関から申請があり、学術上の観点から必要不可欠であると認められれば、実施方法などを考慮し、検討することもあり得ると考えている。

(四十)について

 宮内庁においては、学術研究上の要請に応えるため、宮内庁内での展示、博物館等への貸出し等に努めており、実績のある博物館等から申請があり、学術上等の観点から必要であると認められれば、検討したいと考えている。

(四十一)について

 お尋ねについては、陵墓等の治定以降、管理用敷地の編入等による異動が多数あり、調査に膨大な作業を要するため、その全てをお答えすることは困難であるが、最近の事例としては、平成二十二年(二千十年)四月二十七日付けで菟道稚郎子尊宇治墓の参道入口部分の一部を用途廃止したところである。

(四十二)について

 当時の政府が制札を設置した目的については、直接の記録がないため不明であるが、陵墓の静安と尊厳を守るため設置されたものと考えている。また、太政官達以前の陵墓の管理状況の詳細については明確ではない。

(四十三)について

 現在、宮内庁が設置している外構柵は、陵墓等の静安と尊厳を保持しつつ、良好な状態で管理することを目的としたものである。また、お尋ねの「外構柵」が最初に設置された正確な時期及び目的、最初の古代高塚式の陵墓等がどれであるかについては不明である。

(四十四)について

 陵墓等に鳥居が設けられるようになった時期は不明であるが、宮内庁としては、平安時代の公卿の日記に天智天皇山科陵、桓武天皇柏原陵等に鳥居があったことが記されていることから、それらの鳥居が平安時代には建てられていたと考えており、それ以降の古記録等においても鳥居に関する記述が見られることから、皇室においては、伝統的に陵墓等に鳥居を設置しているものと承知している。

(四十五)について

 宮内庁としては、「日本書紀」の記述に基づけば、平成二十八年(二千十六年)は、神武天皇が崩御してから二千六百年に当たることになると承知しているが、お尋ねについては、諸説あるものと承知している。

(四十六)について

 「日本書紀」は神武天皇の即位について、「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮是歳為天皇元年」と記述しており、この「辛酉年春正月庚辰朔」は、暦学上、紀元前六百六十年二月十一日に当たると解されている。



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