衆議院

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平成二十一年六月二十九日提出
質問第六一一号

陵墓に指定された古墳の実態に関する質問主意書

提出者  吉井英勝




陵墓に指定された古墳の実態に関する質問主意書


 三世紀後半から六世紀末にかけ、日本各地で数多くの古墳が築かれた。古墳は、古代国家の成立と発展過程、古代文化の様相や東アジアにおける外交の実態などを解明する上で重要な資料であると同時に、国民共有の貴重な文化遺産でもある。しかしながら、巨大古墳の多くが宮内庁によって陵墓(陵墓参考地を含む、以下同じ)に指定され、皇室の先祖の安寧と静謐、静安と尊厳を守るという理由から学術目的であっても自由な立入りや現地の調査ができない状況にある。
 よって、次のとおり質問する。

(一) 学術的に重要と考えられる古墳が陵墓として宮内庁に管理され、自由な学術調査の対象になっていない現状は、わが国のみならず東アジアの古代史解明のための障害となっているのではないか。
(二) 学術調査のため、陵墓に指定された古墳(以下、陵墓と略)に考古学的な手法によってトレンチを設定し墳丘の規模や築造の方法などを調査することは、皇室の安寧と静謐、静安と尊厳をそこなうことになるのか。
(三) 陵墓は皇室用財産として宮内庁が管理しているが、皇室はいつ、何世紀から始まっているものと考えているのか。
(四) 奈良県桜井市にある箸墓古墳は、初期ヤマト政権が成立した時期の最大級の前方後円墳で、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかとも考えられ国民から強い関心を集めている。宮内庁によれば、箸墓古墳にはヤマトトトヒモモソヒメが葬られていることになっている。ヤマトトトヒモモソヒメは現在の皇室の先祖なのか。そうであれば、その根拠を明示されたい。
(五) 宮内庁によれば、ヤマトトトヒモモソヒメは考霊天皇の娘であるといわれている。考霊天皇は何世紀に存在した人物なのか。
(六) 宮内庁によれば、ヤマトトトヒモモソヒメの「ご命日」に当たる毎年九月一日に箸墓古墳の祭祀が行われている。ヤマトトトヒモモソヒメが亡くなったのはいつで、それはどのようにして明らかになったのか。箸墓古墳の祭祀は、誰が、どこで、どのように行っているのか。
 また、箸墓古墳以外の陵墓でも祭祀が行われているが、誰が、いつ、どこで、どのように行っているのか。
(七) 陵墓の祭祀に要する経費は、皇室費予算の内廷費・宮廷費・皇族費のうち、どこから支出しているのか。また、過去十年間の陵墓の祭祀に要した年度別支出額はいくらか明らかにされたい。
(八) 宮内庁は「陵墓の立入りの取扱方針」を定め、その中で墳丘第一段上面テラスまでに限って陵墓への立入りを認めている。宮内庁の陵墓調査官であれば「陵墓の立入りの取扱方針」によらず、それより上段の墳頂部にものぼることが可能なのか。
(九) 宮内庁が陵墓として管理している古墳は、かつては自由に出入りができたものである。たとえば、一九二六年、帝室林野庁が作成した箸墓古墳の測量図には、墳丘くびれ部を斜めに走る線が表現されている。これは通路を表したもので、かつて地元の人たちに利用されていた生活用道路ではないのか。
 また、現在の箸墓古墳の墳丘の周りには結界状の垣根が設けられているが、これはいつ、誰が、何の目的で設置したものか。
(十) 二〇〇八年、宮内庁と堺市は陵墓参考地・百舌鳥御廟山古墳の発掘調査を行った。調査現場は一般にも公開されたが、宮内庁の管理領域である陵墓参考地の部分に一般見学者を入れなかったのはなぜか。
(十一) 宮内庁は、この時の調査は宮内庁と堺市による「共同」調査ではなく、「同時」調査であると説明している。しかし、実際には調査のために設定したトレンチでは、宮内庁と堺市双方の調査員や作業員が、陵墓参考地の部分でも情報を交換しながら共同で調査を進めたのではないのか。トレンチの土層観察や実測は、共通の認識のもと共同で作業しなければ行うことができなかったのではないか。あわせて、双方のトレンチ配置の関係を分かり易く示されたい。
(十二) 堺市の大山古墳や羽曳野市の誉田御廟山古墳などでは、帝室林野庁作成の測量図でも過去の巨大地震の痕跡が認められると考えられている。これを詳細に調査・観察することは、都市防災の見地からも重要なものではないか。大山古墳と誉田御廟山古墳の精密な墳丘測量図を改めて作成するとともに、墳丘崩落状況などの調査を行うべきではないのか。
(十三) 大阪府茨木市の太田茶臼山古墳は宮内庁によって、継体天皇陵とされている。ところが出土する円筒埴輪によると太田茶臼山古墳の時期は五世紀半ばであり、継体天皇が存在した六世紀前半と合致しない。実際に継体天皇が葬られているのは、大阪府高槻市の今城塚古墳であるという考えが有力である。
 奈良県天理市の西殿塚古墳は、宮内庁によって継体天皇の妃である手白香皇女の墓とされている。しかし、円筒埴輪の起源と考えられる特殊器台や特殊壺からみて、三世紀後半〜四世紀初めの古墳と考えられている。六世紀の継体天皇の時期に存命していた人物が、過去にさかのぼって葬られていることになる。
 奈良県奈良市の市庭古墳は、宮内庁によって平安時代の平城天皇陵とされている。しかし、市庭古墳は奈良国立文化財研究所による平城宮調査の結果、八世紀初めの平城宮造営によって前方部を削平された五世紀代の巨大古墳であったことが明らかにされている。平安時代・九世紀初めの天皇が時間をさかのぼる五世紀の古墳に葬られ、八世紀初めの平城宮の工事によって破壊されていることになる。
 太田茶臼山古墳、西殿塚古墳、市庭古墳の被葬者は誰であるのか判明しているのか。
 また、考古学的にみて明らかに時代が正しくない陵墓について宮内庁はどういう見解をもっているのか。宮内庁の比定が考古学的見地から誤っている古墳は、宮内庁の管理から外して文化庁に移管すべきではないか。
(十四) 宮内庁が陵墓として管理している古墳は何基あるのか。そのうち、考古学的に被葬者が明らかになっているものがあれば示されたい。
 また、被葬者を特定できない古墳をなぜ陵墓にすることができるのか、その根拠を示されたい。
(十五) 被葬者が特定できない古墳から出土した遺物を宮内庁が所蔵している根拠はどこにあるのか。
 また、考古学の研究者が宮内庁所蔵の出土遺物を学術目的のため自由に観察し、実測などを行うことができる状況にあるのか。国民共有の財産である文化財としての出土遺物を宮内庁が所蔵することにより、歴史的資料、学術的資料としての活用に制約がかかっているのではないか。所有権を文化庁や出土した古墳のある地元に移管するのが適当ではないか。
(十六) 日本最大の前方後円墳で、宮内庁によって仁徳陵とされている大山古墳の築造時期は何世紀と考えられ、被葬者は明らかになっているのか。
(十七) 一八七二年、大山古墳の前方部から竪穴式石室に入った長持形石棺が現れ、甲冑、刀、ガラス容器などが出土したといわれる。この時に石室や石棺の学術的調査は行われたのか。学術的な再調査を行う必要があるのではないか。
 また、甲冑やガラス容器などの遺物は現在、誰が所蔵しているのか。
(十八) アメリカのボストン美術館には、大山古墳から出土したと伝えられる細線式獣帯鏡、三環鈴、馬鐸、環頭太刀が所蔵されている。これら所蔵品の時期と出土状況、ボストン美術館が入手するに至った経緯を詳細に示されたい。
 また、宮内庁が「大山古墳は仁徳天皇が葬られた古墳」と考えるのなら、ボストン美術館所蔵のこれらの考古遺物は、皇室用財産に該当しないのか。宮内庁は、ボストン美術館に対し返還を要求したことはあるか。
(十九) 大阪府藤井寺市の津堂城山古墳は、四世紀後半、河内地域に初めて築かれた巨大前方後円墳と考えられている。この古墳は後円部の一部だけが、藤井寺陵墓参考地という名前で宮内庁が管理している。墳丘全体が陵墓参考地でなく、今のような区域に設定された経緯を明らかにされたい。
(二十) 津堂城山古墳の被葬者は誰なのか明らかになっているのか。明らかでないのならば、竪穴式石室や石棺から出土した遺物を宮内庁が所蔵しているのはなぜか。宮内庁が所蔵するに至った経緯を含めて明らかにされたい。
(二十一) 津堂城山古墳の長持形石棺について、本年六月二十四日の衆議院内閣委員会で文化庁の高杉文化財部長は「長さ三・五メートル、幅一・五メートル、高さ二・一メートル」という数値を示したが、これは誰が、いつ実測したものか。
(二十二) 津堂城山古墳の長持形石棺について、高杉文化財部長は「史跡を構成する文化財の一つ」と答えている。津堂城山古墳の竪穴式石室は一九一二年に開口され、埋め戻されたものである。文化財であるにもかかわらず、陵墓参考地として国民の目に触れさせないのは不適当ではないか。
 また、実際に竪穴式石室と長持形石棺を調査・観察できない現状は、学術研究の発展にとっても障害となっているのではないか。
(二十三) 津堂城山古墳の石棺の表面には朱が塗られ、石室も全面が朱塗りされていたといわれるが、正確な状況は判明しているのか。また、石棺からは大量の朱が出土しているといわれるが、大量の朱を副葬した目的は何であると考えられるか。
(二十四) 宮内庁が所蔵している大量の朱の量は正確にどれだけあり、どういう状況で保管されているのか。朱の科学分析を含めて調査結果を公に発表しているのか。
(二十五) 近年の調査によって津堂城山古墳には外濠・外堤が存在し、そのおおよその範囲も明らかになっている。それは、かねてから指摘されていた墳丘の外側の広大な周庭帯とよばれる領域と一致する。古墳とは、墳丘だけでなく築造時に造られた外側の周濠や堤までを含めてその範囲と考えるべきものであるが、津堂城山古墳の史跡指定範囲は墳丘と内濠の部分だけである。史跡の範囲を決定した根拠、経緯を明確に示されたい。
(二十六) 津堂城山古墳の史跡の範囲は、内堤・外濠・外堤が除外されており、考古学的調査の知見が反映されていないものである。ただちに範囲を確定して古墳全体を追加指定すべきではないか。それとも史跡から除外されている部分は文化財として価値がない、重要でないという認識なのか。
(二十七) 六月二十四日の内閣委員会で、誉田御廟山古墳の被葬者について高杉文化財部長は「学術的には確定していない」と答え、同古墳の外濠と外堤の発掘調査において「被葬者が判明する成果は得られていない」とも答えている。誉田御廟山古墳の外濠と外堤は「応神天皇陵古墳外濠外堤」という名称で国指定史跡に指定されているが、被葬者が不明である以上、史跡の名称は考古学的調査の成果を正しくふまえ「誉田御廟山古墳外濠外堤」と変更すべきではないか。
(二十八) 陵墓にされている古墳の中には墳丘だけが陵墓にされ、周りの周濠が陵墓の指定から外れているものがある。周濠部分も陵墓の対象にしているものと、周濠を陵墓の対象から外しているものがあるわけだが、こういう違いがあるのはなぜか。
 あわせて、周濠を陵墓の対象から外している古墳の実例について、考古学上の名称・陵墓の名称・所在地を分かり易く示されたい。
(二十九) 調査の結果、これまで周濠がないと思われていた陵墓で、周濠の存在が確認されたり、周濠の外側でさらに周濠が検出され内濠と外濠の存在が確認されたりする事例が増えている。その結果、墳丘と内濠部分は原状に近い状態で保護されてきたが、地表下に埋まり存在が分からなかった外濠部分が開発によって破壊されている事例も増えている。文化庁も認めているとおり、周濠は墳丘と一体のものであり、周濠と墳丘とが一緒になって古墳である。地表から見えない周濠の部分も保護するために、その範囲を確定する調査を積極的に行うことが必要と考えるがどうか。
 あわせて、巨大古墳が集中する奈良県の大和古墳群と佐紀古墳群、大阪府の百舌鳥・古市古墳群の陵墓のうち、@周濠がないと思われていた古墳で周濠の存在が確認されたもの、A新たに外濠の存在が確認されたものについて、考古学上の名称・陵墓の名称・所在地を分かり易く示されたい。

 右質問する。



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