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平成二十四年一月二十四日提出
質問第一号

陵墓の治定変更と公開に関する質問主意書

提出者  吉井英勝




陵墓の治定変更と公開に関する質問主意書


 古墳の中には、現在の学術的到達点に立って被葬者が誰であるか明確な証拠がないにもかかわらず、古代皇室の埋葬地やその可能性があるといわれる地、すなわち陵墓あるいは陵墓参考地(以下、この質問主意書において陵墓等と略)という名の皇室用財産になっているものが数多くある。また、それが我が国にとどまらず、広く古代アジアの歴史や文化、経済や交易、外交や交流等を考える上で重要な資料になっていることを、これまでに提出してきた質問主意書の中で指摘してきた。
 その上で、陵墓等として扱われていることが古墳の学術目的の調査に対して非常に大きな壁となり、史実等の解明の支障となっている問題点や、ユネスコ世界遺産への登録を目指そうという文化財でありながら、国民に対して公開する要求にさえ背を向けている問題を質してきた。これに対し答弁書では、陵墓等は「皇室において祭祀が継続して行われ、静安と尊厳の保持が最も重要」で、学術目的であっても墳丘に上って表面から観察することすら「厳に慎むべきこと」であり、そのようなことは認められないという硬直的な見解を重ねてきた。
 さらに、古事記、日本書紀、延喜式等の古記録の記述、口碑伝承を拠り所に十七世紀末から二十世紀前半に行われた陵墓等の治定方法の問題点を指摘し、考古学に限らず現代のあらゆる学術的成果を採り入れて陵墓等の治定を見直すことを求めてきた。これに対し、我が国では古墳の被葬者名を記したものは何ら出土しない状況であるのに、「陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」(内閣衆質一七一第六一一号他)という見解を示し続けている。
 よって、次のとおり質問する。なお、元号は使わず西暦で答えられたい。

(一) 宮内庁の説明によれば、古事記、日本書紀の記述が史実と認識しているかどうかについて、それが史実か否かは、歴史学者の間でも諸説あるとのことであった。二〇〇九年六月二十九日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第六一一号)でも、「宮内庁としては、古代の皇室の歴史については、歴史学者の間でも諸説あるものと承知」という歴史学者を主体にした見解が示されている。宮内庁書陵部は古代史の研究職職員を配置しているにもかかわらず、陵墓等の治定の根拠に使っている古事記や日本書紀の記述が史実か否かについて、「歴史学者の間でも諸説あるもの」と、宮内庁として明確に答えることができないのはなぜか。また、陵墓等に葬られているという古代の皇室の起源についても、「歴史学者の間でも諸説あるもの」としか答えることができないのはなぜか。
(二) 古代の皇族や皇室関係者が埋葬されている陵墓等を、国有財産法に基づいて国費を充て管理するためには、前提として陵墓等の治定の根拠にもなっている古事記や日本書紀の記述が史実か否か、古代の皇室がいつから始まっているかを明確にしなければならないのではないか。
(三) 二〇一〇年八月四日提出の質問主意書で、古代高塚式の陵墓等として管理している古墳の名称や考古学上の名称を問うた。これに対する答弁書(内閣衆質一七五第三八号)において、考古学上の名称が「不詳」となっているものがあるが、これは当該陵墓等が考古学上の古墳には該当しないということなのか。
(四) 二〇一〇年十一月十八日提出の質問主意書で、古代高塚式の陵墓等として管理している古墳のうち、延喜式に祭祀の対象として記載されているものについて問うた。これに対する答弁書(内閣衆質一七六第一七七号)で、合計六十四の陵墓が列挙された。このうち左記の四十五の陵(括弧内は答弁書(内閣衆質一七五第三八号)での表記)について、延喜式に記載された当時のものと現在の宮内庁が管理しているものとが同じであると確定的に明らかにできるものはどれか。
 神武天皇陵(四条ミサンザイ古墳)、綏靖天皇陵(四条塚山古墳)、安寧天皇陵、懿徳天皇陵、孝昭天皇陵、孝安天皇陵、孝霊天皇陵、孝元天皇陵(中山塚一号墳、二号墳及び三号墳)、開化天皇陵(念仏寺山古墳)、崇神天皇陵(行燈山古墳)、垂仁天皇陵(宝来山古墳)、景行天皇陵(渋谷向山古墳)、成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)、仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)、仁徳天皇陵(大仙古墳)、履中天皇陵(石津丘古墳)、反正天皇陵(田出井山古墳)、允恭天皇陵(市野山古墳)、安康天皇陵、雄略天皇陵(高鷲丸山古墳)、清寧天皇陵(白髪山古墳)、顕宗天皇陵、仁賢天皇陵(野中ボケ山古墳)、継体天皇陵(太田茶臼山古墳)、安閑天皇陵(高屋築山古墳)、宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)、欽明天皇陵(平田梅山古墳)、敏達天皇陵(太子西山古墳)、用明天皇陵(春日向山古墳)、推古天皇陵(山田高塚古墳)、舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳)、斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)、天智天皇陵(御廟野古墳)、天武天皇・持統天皇陵(野口王墓古墳)、文武天皇陵(栗原塚穴古墳)、聖武天皇陵(法蓮北畑古墳)、称徳天皇陵(佐紀高塚古墳)、光仁天皇陵(田原塚ノ本古墳)、平城天皇陵(市庭古墳)、仲哀天皇皇后神功皇后陵(五社神古墳)、仁徳天皇皇后磐之媛陵(ヒシアゲ古墳)、継体天皇皇后手白香皇女陵(西殿塚古墳)、安閑天皇皇后春日山田皇女陵(高屋八幡山古墳)
(五) 被葬者名が明らかにならなければ、陵墓等の治定の変更はしないことを意味すると考えられる「陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」という考え方は、いつ誰が決めたものか。
(六) 我が国の古墳からは、被葬者名を特定できるものが出土した実例はないと考えられる。二〇一〇年十月一日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七六第一号)で明らかにされているとおり、百二十一件の古代高塚式陵墓等からも被葬者名を特定できる陵誌銘等は出土していない。陵墓等の治定の根拠には「陵誌銘等」の被葬者を特定できる確実な資料を使っていないのではないか。
(七) 多くの研究者の間では今後も古墳から被葬者名を特定できるものは、まず出土しないと考えられているが、「陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」とは、陵墓等の治定を変更することはありえないということを意味しているのか。また、古墳から被葬者名を特定できるものが出土しないことが事実上前提にあるこのような見解は、撤回すべきではないか。
(八) 陵墓等の治定について「陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」とは、一つでも現在の治定の変更を行うと、他の多くの陵墓等について被葬者を再検討しなければならない状況になることを危惧しているからではないのか。
(九) 陵墓参考地については、被葬者名はもちろん、被葬者が皇室関係者かどうかを確実に特定するものが出土していないにもかかわらず、「文献等から皇室関係者が埋葬されていると考えられるものについては、陵墓参考地としている」(内閣衆質一七一第六一一号)、「陵墓参考地の治定に当たっては、副葬品のみならず、墳丘の規模や地元の口碑伝承等についても調査の上、総合的に判断されたもの」(内閣衆質一七四第五八五号)という見解を示している。文献や口碑伝承だけに基づき、当該古墳に皇室関係者が埋葬されていると陵墓参考地と定める方法は絶対に確実なものなのか。また、陵墓等の治定に使った文献や口碑伝承は史実なのか。
(十) 二〇一〇年六月十四日提出の質問主意書で、皇室関係者が埋葬されているとし、陵墓参考地として管理している奈良県広陵町の新木山古墳と新山古墳を実例にあげ、該当する皇室関係者とは具体的に誰かを問うたが、答弁書(内閣衆質一七四第五八五号)では、どちらも「被葬者については、現在考証中」という見解が示された。戦後の発掘調査によって、巨大な墳丘を持ち銅鏡や玉類、武器、装飾品等の大量の副葬品が確認された古墳は数多くあるが、陵墓参考地となったものは一例もない。これらの古墳が陵墓参考地にならなかった理由は何なのか。
(十一) 研究者の間でも、古墳から被葬者名を特定できる遺物が将来にわたっても出土する可能性はないに等しいと考えられている。「被葬者については、現在考証中」として陵墓参考地のままにしているのは、当該古墳とその出土品を皇室用財産として宮内庁の管理下に置いておくためではないのか。
 また、「考証中」とは、被葬者名を特定するための資料や情報を集めているということなのか。
(十二) 大阪府高槻市に所在する今城塚古墳は国の史跡に指定され、発掘調査の成果を基に史跡公園として整備され、歴史の学習や憩いの場として広く市民に公開され活用されている。今城塚古墳が国の史跡に指定された日、史跡に指定された具体的理由を示されたい。また、史跡の範囲は墳丘だけなのか。墳丘以外の内濠・外濠・外堤といった古墳と一体の部分も含んでいるのか明らかにされたい。
(十三) 今城塚古墳は、日本書紀に記された地名や発掘調査によって出土した埴輪等から考えて、六世紀前半から半ばの継体天皇が埋葬された古墳ではないかという学説が有力になっている。一方、宮内庁は、大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を「継体天皇陵」として管理している。この理由は、十八世紀前半にここが継体天皇陵に治定されたことによると思うが、太田茶臼山古墳が継体天皇陵であるという治定は、誰が、いつ何を根拠に行ったものなのか時系列に詳らかにされたい。
(十四) 古墳が築かれた時期の前後関係を知る方法として、出土する埴輪の形態や作り方の違いを利用することが多い。太田茶臼山古墳と今城塚古墳から出土した埴輪の時期について、茨木市教育委員会と高槻市教育委員会からそれぞれ何世紀のどれ位のものと聞いており、太田茶臼山古墳と今城塚古墳は、出土する埴輪等から考えてその築造時期はどちらが古いと考えられているか。
(十五) 太田茶臼山古墳と今城塚古墳に立てられていた埴輪を製作した窯跡群(新池遺跡)が、高槻市教育委員会によって調査されている。この窯跡群も国の史跡であるが、史跡に指定された日、史跡に指定された具体的理由を示されたい。
(十六) 新池遺跡の埴輪窯跡に残る焼土の考古地磁気測定によって、太田茶臼山古墳の埴輪は四五〇年±一〇年に焼かれ、今城塚古墳の埴輪は五二〇年±四十年に焼かれたという結果が出ている。これは太田茶臼山古墳の築造時期は五世紀半ば、今城塚古墳の築造時期は六世紀前半から半ばという古墳の実年代を知る有力な資料と考えられるが、太田茶臼山古墳を「継体天皇陵」とすると、継体天皇が没したといわれる五百三十年前後(六世紀前半)と約八十年の乖離が生じる。
 二〇一〇年十月一日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七六第一号)において、「今後とも考古学を始めとする学術的成果には留意していく所存」という見解を示しているが、太田茶臼山古墳から出土した埴輪の時期や太田茶臼山古墳の築造の時期が、右に示したように継体天皇の時期と合わないことについてどのような認識を持ち、どのように「留意」しているのか明らかにされたい。
(十七) 今城塚古墳の埋葬主体部は一五九六年に発生した大地震(伏見地震)によって激しく破壊され全容が不明であるが、残っていた巨大な石積み(石室基盤工)や石棺から「大王」級の古墳と考えてもおかしくないものである。延喜式の中で旧地名「島上郡」に所在することが記述されていること、古墳の築造時期が継体天皇の年代と合致することもあわせて今城塚古墳に継体天皇が埋葬されていると考える方が適切ではないのか。
 また、旧地名「島下郡」に所在し、継体天皇の年代とも乖離がある太田茶臼山古墳を継体天皇陵に当てている現在の治定は再検討し、見直すべきではないか。
(十八) 二〇一〇年十一月十八日と同年十一月三十日に提出の質問主意書において、奈良県明日香村に所在する牽牛子塚古墳と、牽牛子塚古墳の直下で二〇一〇年に見つかった越塚御門古墳が、七世紀半ばの斉明天皇とその孫娘に当たる大田皇女を葬った古墳ではないかという学説があることを取り上げ、斉明天皇が葬られ皇室によって祭祀が行われている「越智崗上陵」の治定の正否を検証し直すことを重ねて求めた。これに対する二つの答弁書(内閣衆質一七六第一七七号、同第二一七号)とも「斉明天皇の治定を見直さなければならないとは考えていない」というものであった。現時点においても、斉明天皇「越智崗上陵」と大田皇女「越智崗上墓」の治定の正否の検証や、その検討も考えていないのか。
(十九) 現在の斉明天皇陵と大田皇女墓を陵墓としての治定を解き、牽牛子塚古墳を斉明天皇陵、越塚御門古墳を大田皇女墓にそれぞれ変更することができない記述が古事記・日本書紀・延喜式等の記述にあれば、その内容を詳らかにされたい。完全に否定する記述でなければ、治定の正否の検証を行うべきではないのか。
(二十) 二〇一〇年十一月三十日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七六第二一七号)において、現在の天武天皇・持統天皇陵(野口王墓古墳)は、一八八一年二月十五日に治定替えされるまで、別の被葬者を対象にして祭祀が行われていたことが明らかにされている。この別の被葬者とは誰なのか答えられたい。
(二十一) かつて天武天皇と持統天皇とは別の被葬者を対象にして祭祀が行われていたことを、宮内庁は祭祀の主体である皇室、皇族に伝えているか。伝えていないとすれば、その理由は何か。また、先にあげた現在の継体天皇陵、現在の斉明天皇陵と大田皇女墓について、別の被葬者が埋葬されている学説があることを宮内庁は皇室、皇族に対し伝えているか。
(二十二) 来年度(二〇一二年度)に宮内庁は、ユネスコ世界遺産登録をめざそうとしている百舌鳥古墳群中の大阪府堺市所在の土師ニサンザイ古墳(宮内庁によれば東百舌鳥陵墓参考地)を工事に伴う事前調査の対象として予定している。工事の目的と工事内容を明らかにされたい。また、この事前調査は土師ニサンザイ古墳のどの部分を、どのような方法で行う予定か。
(二十三) 土師ニサンザイ古墳は、同じ百舌鳥古墳群の大山古墳や上石津ミサンザイ古墳(石津丘古墳)に次ぐ規模を持つ巨大前方後円墳である。土師ニサンザイ古墳は一九〇九年十月二十一日、墳丘部分が陵墓参考地とされ、立ち入りや学術目的の調査が拒まれている。周濠部分は陵墓参考地の範囲ではなく、堺市の所有地となっており、堺市からは来年度に周濠部分の発掘調査を行う予定であると聞いている。同じ堺市所在の百舌鳥御廟山古墳(陵墓参考地)では、二〇〇八年に宮内庁管理部分の墳丘部は宮内庁によって、また、宮内庁管理外に当たる周濠部分は堺市によって、時期や調査区(トレンチ)の設定場所等を合わせて発掘調査が行われた。百舌鳥御廟山古墳で行ったような宮内庁と堺市による調査を、土師ニサンザイ古墳の調査においても行う予定はあるか。
(二十四) 二〇〇八年の百舌鳥御廟山古墳の調査では、宮内庁管理部分の調査区に堺市の調査担当者は入らずに作業を進めたのか。また、堺市の調査区に宮内庁の調査担当者は入らずに作業を進めたのか。
(二十五) この百舌鳥御廟山古墳の調査は「同時」調査と呼ばれているが、共同調査ではなく、同時調査と呼ぶのはなぜなのか。同じ古墳の中で宮内庁と堺市とが調査区を墳丘斜面に沿う形で同一線上に並ぶように設定し、調査中はもちろん調査後の作業においても情報を共有し意見の交換も行いながら、文字どおり共同で進めた調査ではないのか。
(二十六) 宮内庁と堺市が同時に行った百舌鳥御廟山古墳の調査結果は、宮内庁部分は書陵部紀要において、堺市部分は堺市教育委員会の発掘調査報告書においてそれぞれ公表されている。書陵部紀要には、宮内庁と堺市双方の調査区から出土した埴輪片が接合し一体の埴輪になって埴輪の形状を正確に復元することが可能となったこと等、考古学的な調査成果を高められた調査の意義の一例が報告されている。
 ところが、墳丘部と周濠部に設定された調査区(トレンチ)は、堺市部分と宮内庁部分とが場所を合わせ、調査区を同一線上に並ぶように合わせて設定したにもかかわらず、調査区配置を示した図はそれぞれの報告書でそれぞれの部分だけが、しかも異なる縮尺で掲載されている。そのため同じ古墳を双方が同時に調査したにもかかわらず、墳丘部と周濠部とが一枚の図上で一体となった状態での調査区配置状況が分からない。調査成果を公表した資料としては学術的にきわめて不十分で、いわば「使い勝手が悪い」報告書となっている。調査に当たって宮内庁と堺市が結んだ協定書においては「本調査の効率と成果を上げるために、調査区の設定に当たっては甲乙が協議するもの」とある(甲は宮内庁、乙は堺市)が、古墳の築造を考える上で設定した調査区等の全容が一目で分からない現在の公表方法では、協定書にうたわれた調査の「成果」の公表は不十分なものではないのか。
 また、前記協定書には「本調査に係る記録については、(中略)互いに使用することができるものとする。」とある。百舌鳥御廟山古墳(宮内庁によれば百舌鳥陵墓参考地)の調査結果について、学術研究上の観点からも墳丘部分(宮内庁調査分)と周濠部分(堺市調査分)に分けずに、一枚の図上で双方の調査区配置が一目で分かり、かつ連続した土層等の図を今後改めて作成し公表すべきではないか。できない理由があれば示されたい。
(二十七) 来年度予定の土師ニサンザイ古墳の調査結果は、宮内庁調査部分は書陵部紀要において、堺市調査部分は堺市教育委員会の発掘調査報告書において、それぞれその調査結果が公表されると考えられるが、右に指摘したように同じ古墳を対象とした調査であるから、各々の調査結果に加えて一枚の図上で各々の調査区設定図状況等が一目で分かるような公表の方法を考えるべきではないか。
(二十八) 百舌鳥御廟山古墳の調査の際、調査現場は一般市民にも公開された。陵墓参考地にされて立ち入ることが拒まれている巨大前方後円墳を間近に見られたという評価もある一方、公開範囲は堺市の調査部分だけで、宮内庁部分は一般見学者に公開しなかったという問題もある。このことを質した二〇〇九年七月九日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第六五七号)では、「陵墓や陵墓参考地の静安と尊厳を保持する観点から、これを一般公開していない」と答えている。研究者に対しては、期間と人数を少数に限定して宮内庁管理部分の調査現場を公開しているが、広く国民一般に公開すると「静安と尊厳の保持の観点」から何らかの支障があるのか。その理由とあわせて示されたい。
(二十九) 陵墓等の保全工事に伴う調査を、研究者や学会を対象にした限定的に公開する時以外に、墳丘等の掘削を伴わなくとも研究者が学術目的で自由に陵墓等に入り規模や築造の方法等を調査することが、なぜ被葬者の「静安と尊厳の保持」を損なうことになるのか。その理由を分かりやすく答えられたい。
(三十) 日本の研究者が、エジプトや韓国等の「王墓」の発掘調査に参加することを政府は認めながら、日本の古代の「大王」やそれに近い墳墓と考えられる陵墓等の調査を認めないのはなぜか。
(三十一) 宮内庁は、陵墓等に治定している古墳の調査を行う場合、「我が国にとって歴史上または学術上価値が高いと評価されるものは文化財保護法上の文化財に相当する」という理由から、文化財保護法等の規定に従った諸手続きを行っているという。陵墓等として管理されている古墳も文化財である以上、この手続きは当然である。文化財保護法にもあるとおり、文化財は「貴重な国民的財産」である。それは国民に公開すべきものであり、公開することでその価値は高まるものと考えられる。土師ニサンザイ古墳も文化財の一つであり、来年度予定の調査で調査現場を公開する際には、宮内庁の調査部分も一般市民に公開すべきと考えるが、これまで同様に被葬者の「静安と尊厳の保持」を理由にして公開しないつもりなのか。文化財としての価値を考慮して公開を行うべきではないか。
(三十二) 奈良市所在の佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)や宝来山古墳(垂仁天皇陵)は、かつて盗掘を受けたことが知られている。二〇一〇年六月十四日提出の質問主意書で、かつて盗掘が行われ、副葬品が持ち出されたことが明らかな陵墓等であれば、学術的観点から調査を行っても差し支えないのではないかと問うた。これに対する答弁書(内閣衆質一七四第五八五号)では、「御指摘のような事情を踏まえたとしても」と前置きして、それを認めなかった。前記の古墳以外に、古文書や行政記録文書の記述、あるいは管理の際に、埋葬主体部の盗掘、破壊、開口等を確認している古代高塚式陵墓と呼ぶ古墳はないのか。該当する陵墓等の名称・考古学上の名称・所在地・盗掘等の年を示されたい。
(三十三) 先にあげた土師ニサンザイ古墳は、現在地表から目視することができる周濠の外側に外濠と外堤(以下、外濠等と略)を持つことが調査によって判明している。外濠等に当たる部分は、かなりの範囲が区画整理事業等により市街化が進んでいるが、外濠等の保存・保護の状況はどうなっているか。二〇一〇年六月十四日提出の質問主意書で、地表から見えない古墳の周濠の保存・保護について質した。これに対する答弁書(内閣衆質一七四第五八五号)では、「文化財保護の観点から地方公共団体により適切な措置が採られるものと考えている」となっているが、実際に土師ニサンザイ古墳の外濠等の部分は「文化財保護の観点から地方公共団体により適切な措置」が採られているかどうか、その認識と理由とを示されたい。
 また、土師ニサンザイ古墳の外濠等の範囲は明確につかまれているのか、文化財保護の観点から範囲を明確につかみ、史跡に指定して保護すべき必要があるのではないか。あるいはその価値はないという認識か。理由とともに示されたい。
(三十四) 土師ニサンザイ古墳の外濠等の範囲と想定される部分を含む既往の発掘調査件数は、宮内庁管理部分とそれ以外の部分でそれぞれ合計何件にのぼるか。また、宮内庁管理部分外での遺構の検出件数、そのうち現状保存されている件数は何件か示されたい。また、調査による記録を残すことなく破壊された箇所はないか、あわせて明らかにされたい。
(三十五) 土師ニサンザイ古墳に限らず百舌鳥古墳群の中には、宅地造成や土砂採取によって破壊され消滅した古墳が少なくない。文化財保護法が施行されて以降、百舌鳥古墳群において明らかに破壊されたことがわかっている古墳は何基あると把握、または聞き及んでいるか。また、宅地造成等による古墳の破壊・消滅は「文化財保護の観点から適切な措置」が採られた結果なのか。
(三十六) 二〇〇九年六月二十九日と同年七月九日提出の質問主意書で、大阪府羽曳野市に所在する誉田御廟山古墳(宮内庁は応神天皇陵として管理)の外濠と外濠の一部が「応神天皇陵古墳外濠外堤」という名称で国の史跡に指定されていることを取り上げた。この古墳の被葬者は学術的に不明であり、応神天皇が葬られていることが明確にならない限り、史跡の名称は学術的成果を踏まえ「誉田御廟山古墳外濠外堤」へと変更するよう重ねて求めた。これに対する答弁書(内閣衆質一七一第六一一号、内閣衆質一七一第六五七号)では「地域で親しまれている名称など、当該史跡を最も適切に指すものを名称としており、文化庁としては、御指摘の史跡の名称を変更する必要はない」と同じ見解を示した。
 二〇一〇年六月三日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七四第五三五号)では、「御指摘の「誉田御廟山古墳」の被葬者については、学術的には確定していないものと承知」とある。被葬者が「学術的には確定していない」古墳を「応神天皇陵古墳」という名称のままで史跡に指定しておくのは、あたかも応神天皇が葬られている古墳であることが確定しているかのような誤解を与えかねない。あくまでも「当該史跡を最も適切に指すもの」は「誉田御廟山古墳」であり、史跡の名称を「応神天皇陵古墳外濠外堤」から「誉田御廟山古墳外濠外堤」へと変更すべきではないか。改めて求める。
 また、「応神天皇陵古墳外濠外堤」のままでは、国自身が歴史そのもの、あるいは歴史の解釈をゆがめることにつながるのではないか。そのような懸念は一切ないという考えか、明らかにされたい。
(三十七) 二〇〇九年七月九日提出の質問主意書で、奈良県桜井市所在の箸墓古墳の測量図に示されている後円部の等高線とほぼ直角に交わる破線と、墳丘くびれ部を斜めに横切る破線とがそれぞれ何を表現したものかを質したが、これに対する答弁書(内閣衆質一七一第六五七号)では「測量図作成当時、具体的にどのような形態であったかについては、承知していない」と示された。指摘した箇所は現在どのような形態、状況を呈しているのか明らかにされたい。
 また、二〇〇九年六月二十九日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第六一一号)で「宮内庁の陵墓調査官は、陵墓の管理上、必要に応じて墳頂部へも立ち入ることがある」と示されているが、箸墓古墳の墳頂部に立ち入る際には、上述した等高線とほぼ直角に交わる破線を通路として使っているのか。
(三十八) 二〇〇九年七月九日提出の質問主意書で、大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(藤井寺陵墓参考地)から出土し、現在宮内庁が保管している約十三リットル(二〇〇九年六月二十九日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第六一一号)による)の水銀朱について、放射線分析や質量分析等の科学分析を含めた調査を行い、一般に公開することを求めた。これに対する答弁書(内閣衆質一七一第六五七号)で、「分析実績のある機関から申請があり、学術上の観点から必要不可欠であると認められれば、実施方法などを考慮し、検討することもあり得る」と示されたが、研究者個人による申請は認めないのか。また、これまでに分析の申請はあったか。あれば申請者名を示されたい。
(三十九) この水銀朱は宮内省諸陵寮(当時)が大阪府から送付を受けた時の新聞紙に包まれ、宮内庁書陵部収蔵庫内で木箱に収められたままになっている。陵墓参考地の出土物として宮内庁が管理している資料について、宮内庁が科学分析を行わないのはなぜか、理由とともに示されたい。また、産地を明らかにして当時の交流や交易の手がかりとする目的等で分析実績のある機関や研究者に対し、調査の依頼や照会を行い、学術研究において活用させるべきではないか。その資料的価値はないという考えか。
(四十) 宮内庁が管理するこの津堂城山古墳出土の水銀朱について、博物館等から展示や研究のための借用の申請や申し出があれば、貸し出しを行うか。
(四十一) 二〇一〇年八月四日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七五第三八号)において、古墳が陵墓等に治定された年や時期が明らかにされたが、現在の陵墓等の範囲が確定したのはいつか。治定と同時なのか。古代高塚式陵墓等として管理している古墳それぞれについて明らかにされたい。
(四十二) 二〇一〇年六月三日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七四第五三五号)において、一八七三年十一月二日の太政官達以降、「みだりに域内に立ち入らぬこと」等を書いた制札といわれる看板が掲示されるようになったことが明らかにされた。それまでは陵墓等には自由に立ち入ることができたと思うが、当時の政府が制札を立て立ち入りを禁じるようになったのは何のためか。また、太政官達により制札を掲示することが命じられるまでは、陵墓等の静安と尊厳は保持されていなかったのか。
(四十三) 古代高塚式陵墓等として管理されている古墳の多くでその周囲に「外構柵」が設置され、物理的に陵墓等への立ち入りが困難な状況になっている。外構柵は水を湛えた周濠を持つものは転落防止の効果もあると考えられるが、周濠のないものも含めて国民に対して陵墓等はあたかも「神聖で侵入してはならない」という視覚的効果を与えている。外構柵を設置するようになったのはいつからで、その目的は何か。また、最初に外構柵を設けた古代高塚式の陵墓等は何か。考古学上の名称とあわせて示されたい。
(四十四) 二〇一〇年十月一日提出の質問主意書、同年十一月十八日提出の質問主意書、同年十一月三十日提出の質問主意書で、陵墓等に設けられている鳥居の設置目的と設置起源について質した。答弁書(内閣衆質一七六第一号、内閣衆質一七六第一七七号、内閣衆質一七六第二一七号)で、「埋葬区域と拝礼場所との境界、拝礼場所と参道との境界等」を示すために設置され、「最初に鳥居が設置された正確な時期は不明」、「皇室においては、伝統的に陵墓等に鳥居を設置しているものと承知」と示された。「伝統的」である根拠を明示されたい。また、「伝統的に」とは、具体的にいつから始まったものなのか。古代、中世、近世のいつから始まり今に至っているのか。幕末あるいは元号が明治となった以降からではないのか。
(四十五) 二〇一〇年十一月三十日提出の質問主意書で、宮内庁書陵部発行の「陵墓要覧」によると二〇一六年四月三日に神武天皇没後二千六百年の「式年祭」が執行されることをあげ、二〇一六年が神武天皇没後二千六百年の年に当たると理解しているかどうか質した。これに対する答弁書(内閣衆質一七六第二一七号)で、「宮内庁としては、「日本書紀」の記述に基づけば、二千十六年は、神武天皇が崩御してから二千六百年に当たることになると承知」とある。二〇一六年から二千六百年前とは紀元前六世紀であるが、神武天皇が没したのは日本の縄文時代という理解でよいか。また、歴史学において神武天皇は実在しなかった架空の人物とされているが、神武天皇は実在した人物という認識か否か。
(四十六) 同じ質問主意書で、神武天皇が没したという日本書紀の記述「日本書紀の神武天皇七十六年」の西暦年と時代名、また、神武天皇の即位時の年齢とその西暦年、時代名を問うた。答弁書では五十二歳で即位したことが示された。日本書紀によれば神武天皇は二月十一日に即位したといわれるが、その年は日本書紀によれば何年で、それは西暦何年に相当するのか。

 右質問する。



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