衆議院

メインへスキップ



答弁本文情報

経過へ | 質問本文(HTML)へ | 質問本文(PDF)へ | 答弁本文(PDF)へ
平成二十二年十一月二十六日受領
答弁第一七七号

  内閣衆質一七六第一七七号
  平成二十二年十一月二十六日
内閣総理大臣 菅 直人

       衆議院議長 横路孝弘 殿

衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する再質問に対し、別紙答弁書を送付する。





衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する再質問に対する答弁書



(一)について

 宮内庁としては、牽牛子塚古墳については、現在も明日香村教育委員会が調査を行っているところと承知している。
 また、斉明天皇陵の治定については、先の答弁書(平成二十二年十月十二日内閣衆質一七六第一号)(四)についてでお答えしたとおりである。

(二)及び(三)について

 「日本書紀」には、天智天皇称制六年二月二十七日に斉明天皇と間人皇女が小市岡上陵に合葬され、大田皇女がその陵前に埋葬されたことについての記述があり、「続日本紀」には、文武天皇三年十月二十日に衣縫王らを派遣して陵を修造させたこと及び天平十四年五月十日にその墳丘が崩壊し鈴鹿王らに修補させたことについての記述がある。また、「延喜式」には、斉明天皇陵は越智崗上陵とあり、大和国高市郡に所在する旨の記述がある。これらの記述や現地踏査等により、江戸時代の文久年間に、斉明天皇陵及び大田皇女墓が現在地に治定されたものである。
 また、大田皇女越智崗上墓については、奈良県教育委員会からは、文化財保護法(昭和二十五年法律第二百十四号)第九十三条第一項に規定する周知の埋蔵文化財包蔵地とはしていないと聞いている。

(四)及び(五)について

 宮内庁としては、陵墓の調査考証の一環として学術論文等を収集しており、それらに記載された説については承知しているが、お尋ねにお答えすることは、様々な誤解を生じさせるおそれがあることから差し控えたい。

(六)について

 皇室においては、陵墓等に葬られている祖先を追慕するため、祭祀を行っていると承知している。

(七)について

 陵墓関係事務を宮内省(当時)において取り扱うようになった明治十一年以降、治定替え又は治定解除を行った陵墓等の名称、考古学上の名称(古代高塚式の陵墓等に限る。)並びに治定替え又は治定解除の別及びその時期については、次のとおりである。なお、これらの陵墓等の治定替え又は治定解除の理由は、「古事記」、「日本書紀」、「延喜式」等の古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づくものである。
 崇峻天皇倉梯岡陵 千八百八十九年七月十六日に現在地に治定替え
 天武天皇・持統天皇桧隈大内陵 野口王墓古墳 千八百八十一年二月十五日に現在地に治定替え
 文武天皇桧隈安古岡上陵 栗原塚穴古墳 千八百八十一年二月十五日に現在地に治定替え
 後一條天皇菩提樹院陵 千八百八十九年七月二十日に現在地に治定替え
 旧仁賢天皇皇后春日大娘皇女陵 千八百七十九年二月八日に治定解除
 光仁天皇夫人新笠大枝陵 不詳 千八百八十年十二月に現在地に治定替え
 桓武天皇皇后乙牟漏高畠陵 伝高畠陵古墳 千八百七十九年十月十三日に現在地に治定替え
 天智天皇皇子妃贈皇太后橡姫吉隠陵 不詳 千八百七十九年二月八日に現在地に治定替え
 垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命宇度墓 淡輪ニサンザイ古墳 千八百八十年十二月二十八日に現在地に治定替え
 景行天皇皇子日本武尊能褒野墓 能褒野王塚古墳 千八百七十九年十月三十一日に現在地に治定替え
 後嵯峨天皇皇子顕日王墓 千九百三年八月に現在地に治定替え
 後村上天皇皇末孫河野宮墓 千九百十二年一月九日に現在地に治定替え
 旧後亀山天皇皇曾孫尊秀王墓 千九百十二年一月九日に治定解除
 旧性源院墓 千八百八十一年二月二十四日に治定解除
 景行天皇皇子日本武尊能褒野墓附属物(白鳥陵) 軽里大塚古墳 千八百八十年十二月二十八日に現在地に治定替え
 後嵯峨天皇皇子顕日王分骨塔 千九百三年八月に本墓から分骨塔に治定替え
 旧小橡陵墓伝説地 千九百十二年一月九日に治定解除
 旧伏見町陵墓伝説地 千九百十七年九月十一日に治定解除
 旧矢作陵墓参考地 千九百四十一年四月十八日に治定解除
 旧下嵯峨陵墓参考地 千九百四十四年二月五日に治定解除
 旧相馬陵墓参考地 千九百四十四年二月五日に治定解除
 旧河根陵墓参考地 千九百四十四年二月五日に治定解除
 旧鵺塚陵墓参考地 千九百五十五年八月十七日に治定解除
 旧秘塚陵墓参考地 千九百五十五年八月十七日に治定解除
 また、個々の陵墓等における祭祀の対象は、当該陵墓等の被葬者である。

(八)について

 お尋ねの「崇神天皇陵」及び「景行天皇陵」については、江戸時代の国学者谷森善臣が「延喜式」の記載に基づき考証した結果を踏まえ、文久年間に現在地に治定されたものと承知している。
 なお、谷森善臣は、陵墓等の考証に関する成果について「文久山陵考」を著しており、これは「勤王文庫第参編」に収録されている。

(九)について

 崇神天皇山辺道勾岡上陵及び景行天皇山辺道上陵が現在地に治定される以前のこれらの陵の状況については、承知していない。

(十)について

 宮内庁としては、陵墓等には、多くの国民が拝礼等に訪れていると承知している。

(十一)及び(十二)について

 陵墓等における祭祀については、先の答弁書(平成二十二年八月二十日内閣衆質一七五第三八号)(一)について及び先の答弁書(平成二十二年十月十二日内閣衆質一七六第一号)(七)についてでお答えしたとおりである。

(十三)について

 富郷陵墓参考地は、「延喜式」に記載されている山背大兄王平群郡北岡墓の可能性があるものと考えている。

(十四)について

 宮内庁が管理している百二十一の古代高塚式の陵墓等のうち、「延喜式」に祭祀の対象となる陵墓として記載されているものは、神武天皇畝傍山東北陵、綏靖天皇桃花鳥田丘上陵、安寧天皇畝傍山西南御陰井上陵、懿徳天皇畝傍山南繊沙渓上陵、孝昭天皇掖上博多山上陵、孝安天皇玉手丘上陵、孝霊天皇片丘馬坂陵、孝元天皇剣池嶋上陵、開化天皇春日率川坂上陵、崇神天皇山辺道勾岡上陵、垂仁天皇菅原伏見東陵、景行天皇山辺道上陵、成務天皇狭城盾列池後陵、仲哀天皇恵我長野西陵、応神天皇恵我藻伏崗陵、仁徳天皇百舌鳥耳原中陵、履中天皇百舌鳥耳原南陵、反正天皇百舌鳥耳原北陵、允恭天皇恵我長野北陵、安康天皇菅原伏見西陵、雄略天皇丹比高鷲原陵、清寧天皇河内坂門原陵、顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵、仁賢天皇埴生坂本陵、継体天皇三嶋藍野陵、安閑天皇古市高屋丘陵、宣化天皇身狭桃花鳥坂上陵、欽明天皇桧隈坂合陵、敏達天皇河内磯長中尾陵、用明天皇河内磯長原陵、推古天皇磯長山田陵、舒明天皇押坂内陵、孝徳天皇大阪磯長陵、斉明天皇越智崗上陵、天智天皇山科陵、天武天皇・持統天皇桧隈大内陵、文武天皇桧隈安古岡上陵、聖武天皇佐保山南陵、称徳天皇高野陵、光仁天皇田原東陵、平城天皇楊梅陵、仲哀天皇皇后神功皇后狭城盾列池上陵、仁徳天皇皇后磐之媛命平城坂上陵、継体天皇皇后手白香皇女衾田陵、安閑天皇皇后春日山田皇女古市高屋陵、聖武天皇皇后光明子佐保山東陵、光仁天皇皇后井上内親王宇智陵、光仁天皇夫人新笠大枝陵、桓武天皇皇后乙牟漏高畠陵、桓武天皇夫人旅子宇波多陵、天津日高彦火火出見尊高屋山上陵、履中天皇皇孫女飯豊天皇埴口丘陵、天智天皇皇子追尊天皇春日宮天皇田原西陵、天智天皇皇子妃贈皇太后橡姫吉隠陵、天武天皇皇子追尊天皇岡宮天皇真弓丘陵、彦五瀬命竈山墓、垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命宇度墓、景行天皇皇子日本武尊能褒野墓、応神天皇皇太子菟道稚郎子尊宇治墓、欽明天皇皇女大伴皇女押坂内墓、敏達天皇皇孫妃吉備姫王桧隈墓、用明天皇皇子聖徳太子磯長墓、桓武天皇皇子伊豫親王巨幡墓及び桓武天皇皇子仲野親王高畠墓の計六十四である。これらの陵墓等の考古学上の名称、所在地及び治定時期については、先の答弁書(平成二十二年八月二十日内閣衆質一七五第三八号)(五)についてでお答えしたとおりである。

(十五)について

 御指摘の「中世以降、戦乱等の混乱により、一時祭祀が途絶えた陵墓等がある」とは、中世以降の戦乱等の混乱によりもたらされた様々な要因により祭祀が途絶えた可能性が高く、また、祭祀が行われていたことが記述された古記録が少ないため治定以前に祭祀が継続して行われていたことを確認できない陵墓等があるという趣旨を、端的にお答えしたものであり、お尋ねにお答えすることは困難である。

(十六)について

 鳥居は、陵墓等において、埋葬区域と拝礼場所との境界、拝礼場所と参道との境界等に設置されている。

(十七)について

 「日本書紀」には、神武天皇は神武天皇七十六年に崩御したと記述されているが、神武天皇陵の築造年次に関する記述は認められない。



経過へ | 質問本文(HTML)へ | 質問本文(PDF)へ | 答弁本文(PDF)へ
衆議院
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-7-1
電話(代表)03-3581-5111
案内図

Copyright © Shugiin All Rights Reserved.